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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない
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銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>
:2004/05/15(土) 13:56
自行化他が基本であり、折伏に功徳があるということは
御書や経文を通してご理解していただけたと思います。
大聖人の仏法を信じる者として、大聖人の御正意を知っているなら我見を交えずに
率直に伝えることが信仰者としての最低限の責任ではないかと考えます。
もちろん現代的な解釈や臨機応変の対応は当然必要であると考えておりますが、
自身の力及ばずとも言い切るべき時は言い切るのが大事であると思います。
各各師子王の心を取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、
師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし
我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、
設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず。
彼のあつわらの愚癡の者どもいゐはげましてをどす事なかれ、
彼等にはただ一えんにおもい切れよからんは不思議わるからんは一定とをもへ
ひだるしとをもわば餓鬼道ををしへよ、さむしといわば八かん地獄ををしへよ、
をそろししといわばたかにあへるきじねこにあえるねずみを他人とをもう事なかれ
(聖人御難事 1190-1191頁)
一番肝心なことはこの熱原の農民に対しての激励を拝してもわかるように、
退転の道をふさぐということなのです。
また、折伏はさせられるものではなく、自分で決意してするものです。
折伏は相手の方に対する慈悲心からするものであり、また自分のためでもあります。
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、
譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし
(食物三徳御書 1598頁)
相手が信心を始めて成長していく姿を見ること、また感謝の言葉をいただいた時など
単に仏縁の手助けしただけの身としては過分な言葉ではあるけれども、
最高に嬉しいことであります。
「我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき」です。
功徳は頂くものでもありけれど、積んでいくものでもあると思います。
ともあれ折伏はこのようなものであり、本部職員のためにするものではありません。
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