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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない
48
:
銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>
:2004/05/24(月) 03:57
>>29-33
モーリスさん
>御書や経文に功徳を謳っているのはわかりますが
>勤行や唱題を上回る功徳があるとでも言うのですか?
上回るということは言っておりません。
「末法に入て今日連が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」
(三大秘法禀承事 1022頁)
「我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、
力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」
(諸法実相抄 1361頁)
このように御書に明確ですから、どちらが欠けてもいけない、
ということを私は言っているのです。
>また、折伏で仏界が起きないことはあなた自身が認めていることです。
>それとも前言を翻して勤行・唱題を一切しなくても折伏で仏界が涌現する
>というご意見でしょうか?
唱題せずに折伏だけをしてもダメです、とは言いましたが、
折伏で仏界が起きない、ということを私は認めてはいません。
それを認めていたら、あなたとこうして話をする必要がそもそもないでしょう。
>その責任は一般信者にメシを食わせてもらっている僧侶や教団の役職員が
>負うべきであって一般信者が負うべきものではありません。
そのような差別を大聖人がされていないことは先に示したとおりです。
>本人の発心のみで見返りも求めず真心で仏法を知らせたいときだけやればいいのです。
「見返り」とはそもそもいったいなんのことですか?
功徳とは積功累徳、もしくは功能福徳の略ですが、見返りという意味は全くありません。
功徳にしろ、宿命転換にしろ、全ては自身の生命に求められるものあります。
自分以外の何者かから貰うものであれば、見返りという言葉も当てはまるでしょうが
そういうものは仏法には本来、全く関係のないことです。
あなたは自行のみでも功徳があるということを仰いますが、もし功徳を「見返り」
という風に解釈しているのであればそれは全くの間違いであると指摘しておきます。
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