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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない

25銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/16(日) 00:35
信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり
法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも
法華経の敵をだにもせめざれば得道ありがたし、
たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども
君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還つてとがに行はれんが如し
異体同心事 1464頁

戸田先生はこう仰っています。
「折伏は、素直に、どんどんしなさい。それから人を憎んではならない。
喧嘩口論はいけない。
真面目に、優しく教えればよい。その教える精神ができればよいのです。
それで反対すれば、反対した本人がだめになる。
優しく教えるという気持ちです。恋愛みたいなものです」
「折伏というものは苦しんでやるものではない。楽しくやらなければなりません」

あなた方は折伏を誤解されていると思います。
上のように戸田先生が言われている通りにすればいいのです。

法華経法師品にはこう説かれています。
成就大願。愍衆生故。生此人間。
「大願を成就して、衆生をあわれむが故に、此の人間に生ずるなり」と。
妙楽大師はこれを「願兼於業」と呼びました。
本来は善処に生まれるところを、願って悪世に生まれて法華経を弘通する、と。

戸田先生はこれに関してこう仰っています。
「はじめから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、
われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」

そして池田先生はこう仰っています。
「自分の苦しみを「業」ととらえるだけでは後ろ向きになる。
それを、あえて「使命のために引き受けた悩みなのだ」
「これを信心で克服することを自分が誓願したのだ」と、とらえるのです。
願兼於業は、この「一念の転換」を教えている。宿命を使命に変えるのです。
自分の立てた誓願ゆえの悩みであるならば、絶対に乗り越えられないはずがない。」

法華経を受持し、自行化他に励むとはこのようなことであると思います。

ところで、心の傷と仰いますが、私はそのようなことは存じ上げておりませんでした。
もしも心的外傷があるならば、ネット上で何年もこのようなことをしていらっしゃるのは
かえって精神的によくないのではないでしょうか?むしろ危険であるような気がします。
私が言うのもなんですが、宗教に変に囚われすぎるのはよくないはずです。
癒しが目的ならば、何らかの別の手段をとることをお勧め致します。


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