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折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない

22銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>:2004/05/15(土) 14:06
また、私は唱題行のみで仏界が開かないとは言ってはいません。
初心の功徳についてはあなたの言うとおりでしょう。
しかし、大聖人はこうも仰せです。

月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
(聖人御難事1190頁)

浅を去って深きに就くのは丈夫の心なり
(撰時抄 271頁)

受くるはやすく持つはかたし、さる間成仏は持つにあり
(四条金吾殿御返事 1136頁)

いつまでも初心の時のままの状態であったり、発心が真実でない状態は
大聖人は勧められておりません。
またそのようにして進まず結局退転すれば、善根を断つことになるわけですから、
仏界が開かなかったも同然ということになるでしょう。

南岳大師の四安楽行に云く
「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず
乃至其の人命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、
此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして
観念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は
諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文なり

(聖愚問答抄 494、496-497頁)

いずれ必ず悪道に落ちる者が、今仮に仏界を開いているからと
言って何になるというのでしょう。

仏法は自他宗異ると雖も翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり、
謗法に成り伏して悪道に堕つ可くば文殊の智慧富楼那の弁説一分も無益なり
(真言見聞 143頁)

以上の御文を拝すればわかるように、仏法は現当二世なのです。


また、日寛上人のを引かれておりますが、
日寛上人の時代には折伏は幕府によって禁じられていたはずです。
日寛上人の言葉にはそうした時代背景が込められていることは十分に気をつけるべきかと思います。
その上でしかし、日寛上人は次のようにも仰っています。

常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。
口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。
(如説修行抄筆記)

さきの日寛上人の言葉を信じるならば、当然これも信じるべきです。


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