[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
折伏・選挙・新聞等で仏界は涌現しない
88
:
銀舌居士 </b><font color=#FF0000>(ozoLVp46)</font><b>
:2004/06/08(火) 20:48
>>83
悟空さん
私は前提条件が等しくなければ議論は成立しないということを
言っているのです。具体的に言えば仏法では信・行・学と言いますが、
行に関することはおろか、信の対象が共通していない事が問題だということです。
ともあれ、私の言っている事に対して一貫性がないと
ご批判のようですので試しにご説明しましよう。
まず、4からいきますが、これは初信の功徳についてですが、
初信というのは読んで字の如く、初めて「信」ずるということなのです。
自行化他は「行」ですから本来ここで挙げられるべきことではないと考えます。
次に3ですが、これは不当な仮定です。
>唱題をしていく中で、御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、
>素直に実践されていくことになるならば、それをもって
>唱題で仏界が開くという確たる現証とみなすことができるでしょう。
現証というのは即ち功徳です。
「御本仏のこれらの御文を疑いなく信じ、素直に実践されていくことになる」
これ自体も唱題の功徳だと私は言っているのです。
働きに徳性が備わっていると仏法では考えますので、
例えば、「親切をする」という条件を満たして「親切」という徳がゲットできる、
などということではないのです。
親切という行為そのものの中に親切という徳は備わっている、と考えるのが仏法です。
仏界が涌現されているなら当然、仏の徳性がその振る舞いの中に備わっているものと
考えられます。もちろん御本仏の書かれたことは信じて当然でしょう。
ともあれ2と3についての関係をご説明しました。要は矛盾するものでないということです。
1〜5までも同じようなことが言えるだろうし、2と3が逆になる、つまり折伏するから
一生懸命唱題あげるようになる、ということもありえます。
考えていただければわかると思うのですが、自分の功徳しか考えていない人を
仏と言えるかどうかということです。自分の功徳しか考えていなくても唱題していれば
他人の成仏も考えられるようになるのが煩悩即菩提のこの信心の素晴らしさかとは
思いますが、それも信が根本にあってものです。
一切衆生に仏性があることが法華経には説かれてあり、
一切衆生=自他共の仏性に対する信は基本的なことです。
ですから折伏、これは他者の仏性を礼拝することとも言えますので、
功徳が否定されるわけがないのです。
そして、一切衆生=自他共の仏性に対する信があれば、
自行化他という行になっていくのは当然と言えるでしょう。
これを否定することは仏法を、他者の仏性を否定し、信じないことにも通じますので、
私はモーリスさんとお話をしているのです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板