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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

656パンナコッタ:2005/12/24(土) 20:15:20
略字に関しては、やはり集成で確認しないとダメですね。

参考に法華行者値難事の比較、
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
法花経が、確認出来ますね。

657とんび:2005/12/24(土) 22:34:44
パンナコッタさん、こんばんは。

早速のご指摘、ありがとうございます。よくわかりました。
大石寺版に収録されていて、C−9クラスの御書がいくつかみられます。

658とんび:2005/12/24(土) 22:53:40
犀角独歩さん、こんばんは。

注法華経を、日蓮大聖人御書辞典(創価学会版平成6年9.25、35刷)にて調べました。
これも所蔵していました。御書要文集などは、手放してしまいましたが。

 法華経十巻の余白に、蓮師が、論師・人師の経釈の要文を入れたもの・・・玉沢の妙法華寺にある。
とありますが、このことを指すのでしょうか。
 皆さんに、とっては初歩的な質問だと思われますが..。

 信頼できる学者..まだ存じているわけではないですが、ここで皆さんが引用したり、披露している
○○師とか言われる人で、かつ皆さんが一定の評価をしている人は、その信頼できる学者・参考にする
ことのできる意見として持ち出すことができるのでは..と思います。

659パンナコッタ:2005/12/25(日) 00:30:01
顕正居士さんのご指摘を踏まえれば、現代人のある種の悩ましいバイアスも、
きちんと認識していかなければいけませんね。 ご教示ありがとうございます。


とんびさん、注法華経は、
 http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/bunka/myohokkeji/myouhokkejibunka.htm
 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_tyu.htm

660犀角独歩:2005/12/30(金) 13:17:58

○パンナコッタさん

御礼が遅くなりました。
有り難うございます。

○顕正居士さん

有り難うございます。

661犀角独歩:2006/03/04(土) 12:09:03

彰往考来さん

資料のご送付有り難うございました。

都守師の論文『「法華主要抄」の草案について』(『大崎学報』第154号P73)から読み出しました。

覚え書き一部を、先ほど、少しブログに載せたのですが、それとは別に、以下の点、「どちらだろうか」と思案しています。

『法華主要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現したというとします。

ところが草案とされる『以一察万抄』では、ここに「此災日蓮見之」とあります。しかし、この日蓮自身が見たという記述は、同抄のみで『主要抄』にも、『法華主要抄』にもありません。

どうなのでしょうか、日蓮本人は見たのでしょうか、また、見たのであれば、『主要抄』『法華主要抄』では、この記述をどうして削ったのでしょうか。

お考えをお聞かせいただければ幸甚です。

662犀角独歩:2006/03/04(土) 12:10:59

【661の訂正】

誤)法華主要抄 主要抄
正)法華取要抄 取要抄

663犀角独歩:2006/03/05(日) 11:21:53

彰往考来さん
れんさん
その他諸賢

彰往考来さんが、種々資料を送ってくださり、そのなかに山口範道氏『日蓮正宗史の研究』のうち『書写の難しさ』(P69)が含まれておりました。
再読して、「ひどい内容だ」と思ったのですが、この点は、ブログで記そうと思っております。

ちょっと出先で、いま手許に石山の御書全集がないので、確認できないのですが、『開目抄』の古写本に、日興書写本というのは、この全集では含まれていないのでしょうか。山口氏はこれを含めていません。

もう一点。山口にいわせると日奧本(聖滅320年)に「秘シテ」とあるので、石山の文底秘沈の伝承が正しかったことが証明されたのだそうですが、山口氏がもっとも古いと数える日存本(聖滅135年)にはこの記載がない、それにも拘わらず、「大石寺の伝承が肯定される」(P72)という氏は、いったい何を言っているのか理解に苦しみます。(余談ですが、小松邦彰師は先の遺文講義で、古写本に「秘シテ」とないので、『平成新修日蓮聖人遺文集』の編纂に当たり、これを不載とした述べていました。わたしはもっともなご賢察であると思いました)

それはともかくとして、この点、日興本では、どのようになっているのでしょうか。「秘シテ」の文字があるのでしょうか。また、「しふし(主師)父母」はどうなっているのでしょうか。

この点に就き、ご教示いただければ幸甚です。

664犀角独歩:2006/03/05(日) 12:04:29

【663の訂正】

誤)山口氏がもっとも古いと数える日存本
正)山口氏が2番目に古いと数える日存本

665れん:2006/03/05(日) 16:15:45
犀角独歩さん
開目抄写本についてですが、開目抄については、残念ながら日興による完本の写本は現存しません。
私は正本・影本等ともに未見ですが、北山本門寺に伝蔵される日興筆「開目抄要文」の内容は開目抄に引用されるインド・中国の古典籍や仏典の抜書であったと記憶しております。ですので、実見しても、たぶん文底秘沈の文としうし父母の文の該当箇所にはあたれない可能性があります。参考にならずにすみません。

666パンナコッタ:2006/03/05(日) 19:34:22
開目抄要文に”如常不軽品”は、無かったみたいですが、該当部分はないんでしょうかねぇ。
 http://home.att.ne.jp/blue/houmon/yamagami/yamagami.htm

直接関係はありませんけど、間接的な参考として、
 下野阿闍梨聞書 
【一、仰ニ云ク、西山方ノ僧大寶律師来ツテ問テ云ク、日尊門徒也。
開目抄ニ云ク、一念三千ノ法門ハ本門寿量品ノ文底ニ秘シテシツメタリ 云云】
 開目抄上愚記本
【文に「二十の大事」とは、異本に「二箇の大事」と云云。末師皆「二十の大事」を
以て正と為す云云。今謂く「二十の大事」とは恐らくは文に便しからざる故に
「二箇の大事」を以て応に正と為すべきなり】
【故に、「但法華経の本門・寿量品の文の底」というなり。「但法華経」の一句は即ち二意を含む。
一には一経三段、権実相対の第二なり。二には迹門三段、即ち権迹相対の第三なり。応に順逆を以て
この二意を知るべし。「本門・寿量品」とは本門の三段、本迹相対の第四なり。「文底秘沈」は即ち
文底に三段、種脱相対の第五なり。豈浅きより深きに至る次第、差わざるに非ずや。
一、文底秘沈(文の底にしづめたり)文】
 開目抄下愚記本
【一、したしき父母なり文。 異本に云く「しうし父母なり」等云云。
今謂く、異本最も然るべきなり】

勿論、日寛の言う異本が日興要文ではないのですけど、末師達が正とした物は日存・平賀本系であり、
秘シテは、既に書き込まれているのが、うかがい知れますね。

667犀角独歩:2006/03/05(日) 19:47:24

れんさん

有り難うございました。


パンナコッタさん

> 日存・平賀本系であり、秘シテは、既に書き込まれている

山口さんは、日存には「秘シテ」がなく、日奧本にあるとしていますが、この記述は間違いで、日存本に、既に「秘シテ」があった、山口さんの記述は間違っているということでしょうか。

668犀角独歩:2006/03/05(日) 20:11:23

二箇の大事か、二十の大事かは、先の小松師の遺文講義で話題になりました。
遠乾対照本では「二十」で、真蹟が二十であったことは、ほぼ間違いなさそうです。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50408762.html

669パンナコッタ:2006/03/05(日) 22:09:57
独歩さん、
あー、すみません。
そう言う意味ではなくて、下野阿闍梨聞書が書かれた時期には、という意味です。

遠乾対照本といえば、庵谷教授が「日蓮上人における摂受と折伏について」で、
【要言本は百部摺本の模刻本でございまして、奥書に「身延山秘蔵以御真筆御書一字一点無相違令再校合者也」
とあります。そこに「常不軽品ノゴトシ」とあります。
 百部摺本は日蓮聖人の御真蹟を更に校合して印刷したものであるということが分かります。ところがその
百部摺本の中には「常不軽品ノゴトシ」とあります。発願をしたのは日乾・日遠両師です。そうしますと、
本満寺本の中には「ない」と書いておきながら、百部摺本の方には、更に御真蹟と照合して「ある」のは
どういうことでしょうか。そういう問題が残ります。】

これ又、悩ましい指摘をしていますね。

670犀角独歩:2006/03/06(月) 00:04:21

パンナコッタさん、有り難うございます。了解しました。

671犀角独歩:2006/03/06(月) 00:44:44

まあ、しかし、不軽菩薩を折伏としか見えない感覚というのは、どういったものでしょうか。
折り伏せるのがそんなに好きなら、では、やってもらいましょうかと言いたくなりますね。
教学上のことでがたがた言っていないで、創価学会を折り伏せてみたらどうかと、進言することにしましょうか。
さて、創価学会は受けて立つか、折り伏せられるのは、どちらとなるか、興味深いところです。
これは何も立正・創価に限りません。顕本でも、どこでも、折伏を言うのであれば、実際にやってみればよいのです。

672独学徒:2006/03/06(月) 01:06:37

犀角独歩さん、諸兄の皆さん、今晩は。

法華宗興隆学林より発行(昭和51年6月13日)された、「日隆聖人分科 主要御書 全」には、「凡例」の最後に以下のように出ています。


一、御書本文は、昭和定本、縮刷、類纂の三本に依り厳密に校合を行ったが観心本尊抄の如く御真蹟の現存するものは其写真等を照合して誤りなきを期した。又開目抄の如き、御本書が既に逸失して居るものについては大本山本興寺宝蔵に現存する宗門第七祖日存上人が応永二十三年(西一四一六祖滅一三五)七月十七日の日付ある御写本によりその相違ある個所を一々上欄に記載して参考に資した。


そして、話題に上がっています箇所につきましては、上欄は以下の通りとなっています。


法華経の本門寿量品の文の底にしづめたりは、法華経本門寿量品ノ文ノ底に秘してしづめ給ひたり(「法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」は日存本では「法華経本門寿量品ノ文ノ底に秘してしづめ給ひたり」となっているの意)

諸人にしたし父母也は、主師父母也(「諸人にしたし父母也」は日存本では「主師父母也」となっているの意)


したがいまして、法華宗興隆学林発行「日隆聖人分科 主要御書 全」によりますと、二番目に古い開目抄写本である、日存本では、「秘して」が入っており、「したし」は「主師」と書かれていることになります。

また弘経寺日健の「御書抄」巻之五「開目抄」(西暦1669年 寛文9年祖滅後 388年)「(文)夫法華経ノ宝塔品ヲ至日蓮ハ日本國ノ諸人ノ主師父母也」と有りますので、日奥・日乾からそれほど離れていない時代に、「したし」部分を「主師」とした写本が、富士系以外のところでも使用されていた可能性があると思われます。(「御書抄」は私が所持していますのは、大正2年2月5日発行の日蓮宗全書出版会編です。)

以上、なにかの参考になれば幸です。

673独学徒:2006/03/06(月) 01:32:17

犀角独歩さん、上記に追加させていただきます。

672の投稿にて、日存本が二番目に古い写本としましたが、最古の写本である「精進院日道」本は、下巻欠となっています。
したがいまして、「秘して」や「したし」は、開目抄下巻に収録される部分ですので、開目抄下巻の最古の写本は「日存」本という事になりますので、山口師の以下の文書は「日存」本をさしていると思われます。


何れにせよ現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていたということは何かすっきりとしたような、有難いような思いがするのである。(日蓮正宗史の基礎的研究P732行目〜3行目)


つまり、山口師は「秘して」を「秘沈」と解釈しているようですが、「日存」本に「秘して」と「主師」が有った事を認識はされていたものと思われます。

674独学徒:2006/03/06(月) 01:34:14

すみません、訂正です。

誤(日蓮正宗史の基礎的研究P732行目〜3行目)
正(日蓮正宗史の基礎的研究P73 2行目〜3行目)

675独学徒:2006/03/06(月) 01:45:49

すみません、「秘して」は上巻でした。
「したし」の方だけ下巻でした。

676彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/06(月) 07:56:03

>661 犀角独歩さん
>『法華主要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現した

本件はちょっと文献を調べてみます。最終的には白旗をあげるかもしれませんが。

677犀角独歩:2006/03/06(月) 11:26:35

672 独学徒さん

お久しぶりです。
ご説明、有り難うございました。
山口さんの該当文を挙げます。

「日奧本は「寿量品ノ文ノ底ニ秘シテシツメタリ」となっており、日存本と日言本では共に「文ノ底ニシツメ給ヘリ」で、日遊本、日乾本は「文ノ底に沈メタリ」となっていて、「秘して」の語はない…その「秘して」の文が日奧本に正しく書写されていることによって大石寺の伝承は肯定されたことになる」(P72)

つまり、日存本になく、日奧本にあるというのです。
そして、そのうえで

「現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていた」(P73)

というのが、山口さんの記述です。この記述からは、『開目抄』全文書者としては最古の本を恰も日奧本の如くに扱った文章になっているというのが、わたしの指摘です。

いま手許に資料がないために確認できませんが、独学徒さんが仰るとおり、「秘シテ」は、日存本にあったのでしょう。そのことから、小松師は、「文底秘沈」という考えは、日寛、もしくは石山の独自のものではなく、古来より言われていたことを、恰も石山秘伝のように日寛が語った点を指摘されていました。

いずれにしても、山口さんの文章は上記の通りですので、わたしは「ひどい内容だ」と記したのです。


676 彰往考来さん

ご賢察、期待しております。

678独学徒:2006/03/06(月) 11:50:29

犀角独歩さん、今日は。

山口師の論文は、仰せの通りですね。
「日蓮正宗史の基礎的研究」から、犀角独歩さんご指摘の箇所を確認しました。

山口師は、何を勘違いしたのでしょうか。
山口師が見た、最古の写本とはなんのことなのでしょう。

「何れにせよ現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていたということは何かすっきりとしたような、有難いような思いがするのである。」

良くわかりませんね。
犀角独歩さんのご批判通りですね。

679彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/07(火) 07:53:05

>661 犀角独歩さん

>都守師の論文『「法華取要抄」の草案について』(『大崎学報』第154号P73)・・・『法華取要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現したという・・・草案とされる『以一察万抄』・・・「此災日蓮見之」・・・『取要抄』にも、『法華取要抄』にもありません。・・・日蓮本人は見たのでしょうか、また、見たのであれば、『取要抄』『法華取要抄』では、この記述をどうして削ったのでしょうか

天文学者の斉藤国治氏(元東京大学東京天文台教授)は『星の古記録』(1997年3刷(1982年1刷)、岩波書店(岩波新書)、112頁)に「法華取要抄」の天文記事について以下の解説をしています。(漢数字を数字に改めました)
****************************************
日蓮は幕府の召に応じて評定所に出頭して、従来の主張を説いたが、そのときの問答をまとめた「法華取要鈔」という手記に、つぎのような星の古記録が挿入されている。

しかるを佐渡の国の土民口々に言う。今年(文永11年)正月23日の申の時に、西方に2つの日出現す。或いはいう3つの日出現すなどと。2月5日には東方に明星2つ並び出る。その中間は3寸ばかりなどうんぬん。

日蓮はこの天変を申しのべて、天の気色は重大な国難の近きことを示すものだと訴えた。かれはつづけて、

この大難は日本国先代にも未だこれ有らざるか。(中略)日と日と競い出づるは四天下一同の争論なり。明星の並び出づるは太子と太子との争論なり。かくの如く国土乱れてのち、上行等の聖人出現するなり。

と断定している。
右の文章にある2日(じつ)または3日(じつ)の同時出現は「幻日」という気象現象と説明される。一方、2月5日(3月14日)暁方の東天に明星が二つ並んで出たという記事は古天文学の検証の対象になる。
計算の結果、3月11日の早暁に、金星(このとき光度マイナス3.7等)と木星(光度マイナス1.7等)とが、太陽の西37度のへんで黄径合となり、金星が木星の北0.3度にまで接近していたとわかった。これは記事の「三寸」ともピタリと合う。記事の日付はユリウス暦3月14日に当たるが、これでは黄径合の時期を過ぎていて、金星が木星の東へ3度ほど離れてしまう。日付に誤記があるらしい。
いずれにせよ日蓮に関わる星の記事はそれぞれ事実の裏付けがあるように見える。
****************************************
さて、ご質問ですが、私は「佐渡の国の土民口々に言う」とあることから「幻日」と考えられる気象現象を蓮祖は見られておらず、金星と木星が並んで見えた現象のほうは「その中間は3寸ばかり」と具体的な記述であることから、見られたと考えます。つまり2つの気象現象のうち蓮祖は片方のみごらんになったので、草案に「此災日蓮見之」と記述したものの正本では削除されたのではないかと考えます。

by 彰往考来

680彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/07(火) 09:05:53

>679

「幻日」については下記HPなど参照ください。

http://www.sapporo-jma.go.jp/ah/asahika/data/topics/mamemame/genjitu.html

http://www.mukaitaki.com/photograph/gokinjyo/text/genjitsu011.html

彰往考来

681犀角独歩:2006/03/07(火) 11:34:44

独学徒さん

共通認識に立てて成果がありました。


彰往考来さん

興味深い資料のご紹介有り難うございました。

『立正安国論』を‘勘文’ということにつき、これは陰陽師が為政者に上申する文書を指す成句であるという指摘を、かつて紹介したことがありました。
「日と日と競い出づるは四天下一同の争論なり。明星の並び出づるは太子と太子との争論」というのは、日蓮のオリジナル考えと言うより、当時の占いでいうところを採用したのでしょうか。しかし、「かくの如く国土乱れてのち、上行等の聖人出現」という点は、オリジナルな発想と感じます。

682彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/07(火) 16:55:20
>679 誤記訂正

誤:太陽の西37度
正:太陽の西0.7度

683犀角独歩:2006/03/09(木) 12:34:51

彰往考来さん
他 諸賢

『大崎学報』第128号所蔵『「開目抄」「撰時抄」「報恩抄」の分巻をめぐって』を拝読したのですが、このなかで高木師は『富士一跡門徒存知事』を応永29年(1416)、すなわち、日蓮示寂後140年としていました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/takagi_nenpyo.html
(上記、ジャンプしない場合は、アドレスバーにコピペしてください)

ところが、石山御書全集を見ると、延慶2年(1309)、示寂後27年後の日付を謳っています。
ここら辺の事情を記した資料をどこかで読んだ記憶があるのですが、失念しました。

応永年間といえば、『開目抄』書写3本(道・存・出)が出そろった直後のことで興味が惹かれます。

存知事の成立特定に関して、ご承知のところがございましたら、ご教示ください。

684顕正居士:2006/03/09(木) 13:38:53
犀角独歩さん。

富士年表の応永29(1422)年に「12.27 日算富士一跡門徒存知事を写す」とあります。
これは富要集の底本である永正18年の日誉写本に
「御本応永廿九年極月廿七日に書写せしめ畢んぬ 筆者日算六十八歳」とあるからです。
すなわち「門徒存知事」が文献として成立した確実な年は応永29年である意味でしょう。

富士年表の延慶2(1309)年に「日興の命により寂仙房日澄富士一跡門徒存知事を草す」
とあるのは、括弧内に「聖535・日淳全集」と注され、堀米日淳師の説によったものでしょう。
「草す」というのは、「門徒存知事」には「寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す」とあり、
現行の「門徒存知事」が日澄作であることはあり得ないからです。

685犀角独歩:2006/03/10(金) 01:20:53

顕正居士さん

ご教示、有り難うございました。
この延慶の草案と、応永の成本と、如何ばかりの相違があるのか、興味が惹かれました。

686犀角独歩:2006/03/12(日) 00:36:29

> 665 れんさん

カメレス、失礼。
彰往考来さんから頂戴した資料を読んでいましたら、日興の開目抄要文を、宮崎師は日堯師(不詳)のものであると判断しているようでした。

http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50447281.html

687れん:2006/03/12(日) 02:48:55
犀角独歩さん
>686
たしかに日興「開目抄要文」の公開されている冒頭と末尾の写真を見ますと、末尾に「日堯」の署名があり、一見すると、宮崎師のご判断の如く開目抄要文が日堯師なる人物の手になる書のように見えますが、「日堯」は異筆ですので、日堯師の行実は不明ながら、日堯の署名は後世のものと判断されます。

688彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:12:52

>683 犀角独歩さん

富士一跡門徒存知事の成立年について

高木豊師は「富士一跡門徒存知事」の成立について、『大崎学報128号』(昭和51年)の「『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』の分巻をめぐって」で「日算による応永29年(1422)の写本のあったことが知られるから、少なくとも応永当時」(49頁)、「富士門流における応永段階の伝承をしめすものとして考える」(50頁)と間接的表現ながら、「富士一跡門徒存知事」が応永年間の成立であると推定されているようです。応永29年は大石寺は第9世日有師の時代です。しかしながら、これは少々強引な結論ではないかと考えますので検証してみます。
『日蓮宗宗學全書第2巻興尊全集興門集』(昭和43年第2版(初版昭和34年)、山喜房佛書林)に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(128頁)には、

****************************************
【奥 書】
御本 應永廿九年極月廿七日令書寫畢
            筆者 日 算 六十八歳
【原 本】 重須本門寺大夫公日譽の寫本に校合せる堀慈琳氏寫本
【對校本】
一 要法寺智傳志師の寫本
一 富士大石寺所藏古寫本
***************************************

とあり、原本は重須日譽本を堀慈琳(堀日亨)師が写した写本で、奥書に応永29年の写本であることが読み取れます。これ以外に要法寺本と大石寺本の写本があるようです。ただあくまで応永29(1422)年との記載は写本成立年にすぎず、これをもってして「富士一跡門徒存知事」について「富士門流における応永段階の伝承をしめす」とは云いきれないでしょう。文献上、「富士一跡門徒存知事」が応永29(1422)年までさかのぼって確認できるという程度でしかありません。
さて、上記で堀師が校合した「重須本門寺大夫公日譽の寫本」とはどういう素性でしょうか。堀日亨編『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年第3刷(初版昭和49年、創価学会)に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(59頁)には、

****************************************
御本応永廿九年極月廿七日に書写せしめ畢ぬ 筆者日算六十八歳
永正十八年六月四日に之を書き畢ぬ、この抄は九州日向の国日知屋の定善寺より相伝す、同じく細島妙谷寺に堪忍の境節、北向の御堂の部屋にて之を書写し畢ぬ。駿河国重須本門寺衆大夫公日誉在判。

編者曰く大石寺蔵日誉写本に依つて之を写し他の数本を以て校訂を加ふ。
****************************************

とあります。

689彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:13:59

>688 の続きです。

ここで、応永29(1422)年の日算写本を重須(北山)本門寺の日誉が日向定善寺の末寺である細島妙谷寺で写したのが永正18(1521)年であることが解ります。そして「大石寺蔵日誉写本」と堀師が述べているようにこの日誉写本が富士大石寺蔵なのです。恐らく『日蓮宗宗學全書第2巻興尊全集興門集』(以下、『日宗全書2巻』と略します)でいう「重須本門寺大夫公日譽の寫本」が「大石寺蔵日誉写本」でしょう。つまり『日宗全書2巻』の底本は「大石寺蔵日誉写本」に校合した堀師の写本であって、「大石寺蔵日誉写本」ではないということです。但し、『日宗全書2巻』でいう「對校本」の「富士大石寺所藏古寫本」とは「大石寺蔵日誉写本」のことであると推定します。少々まわりくどいですが、『日宗全書2巻』では「大石寺蔵日誉写本」を底本にしたとは諸般の事情で書けなかったのでしょう。

興風談所の『日興上人全集』(平成8年、興風談所)目次11頁によれば、「古写本所在」は「日誉筆 富士 大石寺」です。この『日興上人全集』の凡例に「「富士一跡門徒存知事」は日誉写本(東京大学史料編纂所蔵影写本)を底本として改めて解読した」とあります。つまり『日興上人全集』では東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本を翻刻したということです。『日興上人全集』の<<頭注>>では□誉=日誉筆「富士一跡門徒存知事」としていますので、東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本は富士大石寺蔵の日誉本を影写したものと考えられます。
『日興上人全集』に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(314頁)には、

****************************************
「御本 応永二十九年極月二十七日令書写畢。  筆者日算六十八才」
「 永正十八年六月四日書之畢。
此抄ハ九州日向国日知屋従定善寺作相伝也。同細島妙谷寺堪忍之境節、北向之御堂之遍屋ニテ書写之畢。
駿河国重須本門寺□内 大夫公日誉 花押」
「明暦二丙申閏卯月十三日 前大石寺 日精 花押」
****************************************

とあります。(引用者注:レ点と一二点は省略しました。)ここで注目すべきは日精師の明暦2(1656)年の書き込みの存在で、これにより寛文2(1662)年に成立した日精師の『富士門家中見聞上』(『富士宗学要集 第5巻 宗史部』昭和53年、創価学会、157,165頁)に引用されている「富士一跡門徒存知事」の記載は日誉本(大石寺蔵)によったものと判断できます。『富士門家中見聞上』には「富士一跡門徒存知事」の「日興集むる所の証文の事」の箇所を引用した後、「述作の時代未だ分明ならず旧記にも載せず御自筆は紛失して残る所纔なり」(158頁)と記しています。さらに日精師は「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」を引用し4番目の後に、「私に云く是より巳下御自筆今当山(引用者注:大石寺)に在るなり」(167頁)と記しています。これは日精師の時代には「富士一跡門徒存知事」の御自筆(興師筆?)の「追加八箇条」断簡が纔(わずか)に残っていたという記載なのです。これに関連した記載が日蓮正宗56世の日淳師による「日亨上人御講「富士一跡門徒存知事」聞書」(『日淳上人全集下巻』(昭和57年改訂分冊(初版:昭和35年)、日蓮正宗仏書刊行会、1510頁)にあり、ここには「この門徒存知事の原本は今日のところでは何処にも見当らない。唯最後の追加八箇条の半巳下の文だけは本山の御宝蔵に日精上人時代までは保存されてあつたそうである」とあります。

690彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:14:49

>689 の続きです。

このことなどから高橋粛道師が『日興上人御述作拝考Ⅰ』(昭和58年、仏書刊行会、138頁)で日淳師の説をまとめているように、石山(富士大石寺)では、
 本文−日澄作―延慶二年成立
 追加文−日興上人作−延慶三年成立
としているものと思われます。(本文−日澄作―延慶二年成立の論考はここでは略します)
なお、本文を日澄師作とする石山(富士大石寺)の説について石山の高橋粛道師は、「もしかしたら日澄師にはごく簡単な草案のようなものがあったかも知れないが、追加条を除いた全文を日澄師のものとするには無理があるようである。(中略)日澄師には草案としての『五人所破抄』のもとになったひな形か、或は数条の未刊の『門徒存知事』のようなものがあったか、どちらとも断定こそ出来ないが、かりに日澄師の未完本があったとしても現在見られるような『門徒存知事』の完成本は澄師によるものではない。それでは誰人によって成されたかと言えば日興上人を措いて他にはいないのではなかろうか。どう考えても追加条を除いた『門徒存知事』を日澄師が作成したとすることには説得力がないように思われる。当時にあってこれを記せるのは日興上人が最適であると思う」(「『富士一跡門徒存知事』の著者と成立の考察−新しい視野にたって−」(『道心 第17号』平成11年、道心編集室、70頁))と本文の日澄作説を否定しています。
私は『富士年表』(昭和56年、富士学林)の延慶2(1309)年に「日興の命により寂仙房日澄富士一跡門徒存知事を草す(聖535・日淳全集)」(66頁)とある日澄師の草本とされる内容は追加文のない「富士一跡門徒存知事」であって、興師による追加文を併せて「富士一跡門徒存知事」成本の内容であると考えますので高橋粛道師の説には同意できません。なお、「聖535」は『日蓮正宗聖典』((昭和53年再販(初版:昭和27年)、聖典刊行会、535頁)のことで「富士一跡門徒存知事」の箇所です。また日淳師の説は「富士一跡門徒存知事の文について」(『日淳上人全集下巻』1187頁)に記載されています。

さて、高木氏をはじめとする日蓮宗の「富士一跡門徒存知事」は後世のものとする説と石山(富士大石寺)の草本が延慶二年成立とする説のどちらが正しいのでしょうか? 村上重良氏が『創価学会=公明党』(1967年、青木書店、66頁)で「室町時代注記、大石寺の復興に74年の生涯を賭けた日有は、北山本門寺日浄と対抗して興門における大石寺の地位確立に心血を注いだ。大石寺の正統性を示す文書、曼荼羅等のいわば物的証拠がいっせいに登場するのも、日有の時代である」とされる一環なのでしょうか。「富士一跡門徒存知事」の原本が失われている以上確定できませんが、私は「追加八箇条」の箇所は延慶三年頃に成立した可能性はあると思います。日精師の『富士門家中見聞上』は宗史などでは誤りが多いのですが日精師当時の自山(大石寺)分の記載はかなり正確であるからです。ただ仮に「追加八箇条」が興師筆(但し嘗存)であったとしても、これに附属させる形で後世の者が「富士一跡門徒存知事」として偽書を作成することもできるわけで、どちらが正しいのか私には判断がつきません。もう少し内容を精査して著者などを考証する必要があります。

by 彰往考来

691彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:21:31

>689の表記注

①『日興上人全集』の<<頭注>>では□誉の箇所 □誉:原文では□の中に誉を記して日誉本の略を表しています。
②駿河国重須本門寺□内の箇所 □内:原文では□の中に内を記し欠字の推定を示しています。

692彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:26:27

>690 誤記訂正

誤:室町時代注記
正:室町時代中期

693犀角独歩:2006/03/12(日) 09:53:48

687 れんさん

すると、宮崎師は、その「日堯」の書名を見て、文全体をその人物のものであると勘違いしたということでしょうか。
鑑定でも名高い宮崎師が、北山本門寺当地で、現物を手に取りながら、間違えて、さらに『大崎学報』にまで書き留めてしまったということでしょうか。

694れん:2006/03/12(日) 10:27:22
犀角独歩さん
宮崎師の蓮師真筆等の筆跡鑑定は確かなものと拝察しますが、興師のものについてはどうでしょうか?
ただ、宮崎師の鑑定云々とかの以前に、今のところ開目抄要文そのものの本格的かつ専門的な書誌学的な考察は遂げられていませんから、それを立正大学か興風談所あたりの研究者さんに、ぜひお願いしたいですね。そうすれば、北山蔵の開目抄要文の底本となった開目抄の形態と、乾師本から伺われる真蹟の形態との比較対照の研究とその価値が確実なものとなると考えます。

695犀角独歩:2006/03/12(日) 10:32:24

彰往考来さん

詳細なご教示有り難うございます。
『富士一跡門徒存知事』については、執行海秀師も論攷されており、これをわたしのサイトでアップしていました。

日興の著作と真偽論
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_004.html

初期の興門教学に於ける本尊意識の展開
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html

以下、『五人所破抄』も含めて、やや抜粋します。

*** 転載はじめ ***

『五人所破抄』についても古来よりその筆者については疑義があり、従って日代の作とする説もあったが、近代になって日順の草案とされるに至った。しかし、最近宮崎英修著の『五人所破抄の作者について』の論文において、本書真書の年号と日順の追記があって、本書を日代作と推定している。…)もっとも日代筆の直筆が北山に現存するというので、日代作というのが至当のようであるが、わたしは日順の草案を日代が清書したものではないかと思う。(本書は「六人立義草案」とも呼ばれた)

 次に『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。
…『富士一跡門徒存知之事』では日興の集録したものと伝えているが、日順の『日順阿闍梨血脈』では

「貴命ニ応ジテ数帖自宗所依ノ肝要ヲ抽ツ、所以本迹要文上中下三巻、十宗立破各一帖十巻、内外所論上下二巻、倭漢次第己上二巻、且ツ之ヲ類聚シ試ニ興師献ズ」といって、日興の弟子、日澄が要文を集めてこれを日興に献じたと伝えている。

*** 転載おわり ***

以上、執行師の論攷は、直接の研究であるというより、引用ですが、

『五人所破抄』―――――日順作(日代清書)―北山
『富士一跡門徒存知事』―日澄――――――――石山

となりますか。

わたしは個人的に、これらが日興の言説、それを受けた代・澄・順といった弟子がまとめたという興門初期の成立という点には、疑問を持っています。(草案があったことを否定するわけではもちろんありません)

その理由は五一相対思想で、どうも上代では、このような異轍が闡明であったとするのは、事実に反するように思えるからです。
日宗全で『申状』を拾い読みすると、五老方でも日蓮聖人の弟子と名乗っている文章は散見できます。ところが、上述二書ではその点がまるで考慮されていません。また、日朗、日頂、また日円との日興の交流は、五一相対、身延離山のドラマとは別にその事実があったようで、上述二書の内容は、孤立化したあとの富士方の様子が窺えます。
また、彰往考来さんも引用されていましたが、浄有二師の争いというのは、その根拠を見ません。これは『重須日浄記』を引用する『宝冊』、『大石寺誑惑顕本書』といった中世以降の引用からの類推であって、日浄本の真偽がまるで考慮されていないわけです。つまり、作られたドラマであるとわたしは考えます。(板マンダラ日有造立説もこの一環にあります)

以上のことから、上記2抄の成立は、日興からはかなりあとのことになるようになるのではないのかと思えるわけです。その意味において、日蓮寂140年、日興寂90年をいう高木説には一定の説得性を感じます。

696独学徒:2006/03/12(日) 10:52:23

諸兄の皆様、こんにちは。

話題に上がっています、「日堯」について詳細は不明ですが、富士門関連の僧侶では1560年前後の保田妙本寺の住侶に、「日堯」という僧侶がいたようです。

保田「日堯」は、「日順雑集」「日眼御談」そして「日本図」と興尊の安国論問答と一筆で書かれた、「高麗百済賊来事」などの写本を残しており、北山を含め冨士諸山と通用があったことが知れます。
その意味では、伝興尊抜書「開目抄」に何らかの関係をもった可能性があるかも知れないと思いました。

保田「日堯」に関しましては、興風談所の坂井法曄師が「金沢文庫研究」311にて紹介されています。
http://fujikyougaku.blog22.fc2.com/blog-entry-2.html

697犀角独歩:2006/03/12(日) 10:58:55

れんさん

宮崎師の鑑定と書きましたが、師は書誌学的立場で考証されているのだと思います。
書誌史からいえば、興師本とする説が先行し、宮崎論文で昭和26年に、これを覆したと見ることになりませんか。

となれば、それを日興筆とする研究がここ60年間にあってしかるべきですが、興風談所が、どう言っているのか寡聞にして知りません。ご承知のところがあれば、ご教示ください。

わたしは宮崎説を墨守しようというのではなく、現代の書誌学からする『開目抄要文』の位置は日堯本となっている、しかし、富士門流では、この点を考慮せず、60年も古い書誌学の立場から抜け出ていないではないかと、指摘したということです。

698犀角独歩:2006/03/12(日) 12:11:47

独学徒さん

「日堯」のこと、参考になりました。
有り難うございます。

699犀角独歩:2006/03/12(日) 14:31:10

重ねて、彰往考来さん

> 『門徒存知事』…日興上人を措いて他にはいない…当時にあってこれを記せるのは日興上人が最適

という高橋さんの論法は、またぞろ何でも日興落着思考ですね。
このような短絡は、その他の富士門下の古文書研究でもしばしば散見できますね。仰るとおり、わたしもまったく同意できません。
正本があるあると言って、真筆説を強行することと何ら変わりません。

未決御書の真偽を考えるのに、「あれだけの文章は日蓮大聖人でなければ書けるはずがない」といった短絡と何ら変わることがない信仰心情に囚われた感情論を出ないものであると考えます。

700顕正居士:2006/03/12(日) 17:52:12
「五人所破抄」は三位日順の文章に見えます。そうであれば日興の晩年には五一異見の思想
が成立していた。ならば内容が多く重なる「門徒存知事」も同じ頃に出来可能性があります。
しかしこの五一異見が実に疑問である。身延離山は日向対他の五老の不和である。これとは
別の時期、別の内容ではある。だが五一異見なるものが史実に確認できない。日持は行方が
不明、日頂は日興に与同、日朗も日興と盟約の伝説がある。「門徒存知事」のほうにある叡山
戒壇踏不は「六人立義草案」には浜(日昭)門徒といい、「大石記」には西山門徒だという。
祖書尊重に実績があったのは中山門徒であろう。五一異見という史実は見当たらないのだ。
それでも「五人所破抄」は日順の文章に見える。実に不可解、不思議です。

「門徒存知事」は日澄誹謗があるから、日澄作でないのは当然だが、日興や日順の作であると
も考えられない。北山と対立するようになってからの大石寺か、保田などで出来たのではないか
とおもう。「門徒存知事」が伝承されていたという日向門徒は今も日蓮正宗であるが日郷門徒の
分流ですね。

701犀角独歩:2006/03/12(日) 18:16:52

顕正居士さん

700の仰せの点、わたしもそのような意図で記しました。
補完いただいた形になりました。
有り難うございます。

702れん:2006/03/12(日) 20:35:56
犀角独歩さん
独歩さんが697で述べられておられる点は、重々承知しております。ご指摘ご教示かたじけなく存じます。
さて、開目抄要文はその末尾の写真と日興上人全集の日興書写御書一覧の注記によりますと、「正和六年二月二十六日於御影堂」とあり、日堯筆としても、その日付を信用すれば日興在世の鎌倉末期の正和六年の成立であって、この推定が的を得たものであるならば、開目抄要文の日堯は696にて独学徒さんが指摘された保田日堯ではなく、日興弟子分の日堯(事績不明)の可能性があり、日堯が底本としたのは日興書写あるいは所持の開目抄写本の可能性が出て来るので、鎌倉末期の成立と推定される開目抄要文と乾師の真蹟対照本の比較対照は決して無価値ではないと存じます。以上ご参考まで。

703犀角独歩:2006/03/12(日) 21:59:36

702 れんさん

このご指摘はたいへんに興味深いですね。

> 開目抄要文と乾師の真蹟対照本の比較対照は決して無価値ではない

そう思います。
ところで、このような試みは行われていないのでしょうか。
この要文には、文底秘沈、大願、常不軽品、しうし父母といった箇所は抜き書きされているのでしょうか。

704独学徒:2006/03/13(月) 00:59:48

犀角独歩さん、れんさん今晩は。

金沢文庫研究311号P24掲載の「日堯」の自署花押と、「日蓮大聖人御書十大部講義第二巻 開目抄 上」(創価学会版)の巻頭に掲載された、興尊筆「開目抄要文」の末尾の「日堯」の字を見比べてみました。
金沢文庫研究の方は、かなり小さい写真で、完全な照合とはいえませんが、「堯」の字の最終画のはね方など良く似ています。

本文の照合も可能な限りしてみたいと思いますが、おそらくれんさんご教示の通り、原本は興尊の御筆による「開目抄要文」であったと思いますが、現在出回っている伝興尊筆「開目抄要文」は、興尊開目抄要文の保田日堯写本である可能性はあると思います。
保田の貫首にもなっていない「日堯」が、他山の霊宝ともいえる興尊御筆の開目抄要文に自署を書き入れることは、確かに考えずらいです。

705れん:2006/03/13(月) 07:14:15
犀角独歩さん
開目抄要文は、開目抄に引用されている内外典の文を抜き書きしたもので、本文はほとんど引用されてないようですので、文底…としうし父母?には当たれないようです。常不軽品…については興風十四号所収の山上師寄稿文に「身延山に曽存した『開目抄』には、日乾の対校本によれば「常不軽品のごとし」の語が無かったようである。それは北山本門寺蔵、日興本『開目抄要文』の当該部分にも「不軽品のごとし」の文が無く、それを裏付けている」とあり、開目抄要文の当該部分には“常不軽品のことし”はないとの指摘があるので、開目抄要文の底本は身延曽存の真蹟の転写本の可能性があります(山上師は身延曽存の真蹟を草案、“常不軽品…”は日蓮自身の再治の際に書き入れられたものとしておりますが、故山口範道師の“日蓮正宗史の基礎的研究”の記述によれば、身延曽存の開目抄真蹟は、開目抄を送られた四条金吾が晩年に隠棲した現在の山梨内船寺に伝来したものを、のちに身延山に納めたものとのことで、これが事実ならば、以一察万抄や取要抄などの例とはことなり、身延曽存の開目抄を草案と断定するのはちと無理があると考えます)。独学徒さん
704におけるご指摘ご教示有難うございます。ただ私が不審に思うのは、現存の開目抄要文が、保田系の日堯師による写本ならば、奥書にたとえば「本云、正和六年…。天文〇年〇月〇日、以日興上人御自筆本書写畢、筆者日堯」云々とあるべきと思いますが、現存の開目抄要文は「正和六年…日堯」とのみあり不自然の感があります。日堯の署名が後世のものでなければ、開目抄要文の日堯は正和当時の人と推定したほうが自然と思われます。
現開目抄要文は日興本、日堯本の二説が提出されていますので、日興真筆と保田日堯真筆との照合し、どちらの人物の筆か、あるいは正和年間生存の日堯筆かはっきりさせたほうが、開目抄要文の文献的価値が安定すると思います。

706犀角独歩:2006/03/13(月) 09:51:59

れんさん

有り難うございます。

記すまでもありませんが、宮崎師は、

「『開目抄要文』は北山本門寺で拝見した所によると表に「開山御筆」とあり本書の要文を集めたものであるが抄者は日堯(不詳)と云はれる人で興師の自筆ではなかつかたが鎌倉末期の興門の古い讃仰資料であることは問題のないところである」(『大崎学報第98号27頁)

「編集者:鈴木一成/発行人:望月歓厚」、さらに記述に当たっては、本門寺住職、さらに単独で調査参詣したとは考えづらく、この記述を覆すことは、わたしは困難を感じます。
> 現存の開目抄要文は「正和六年…日堯」とのみあり

という点に、わたしは同意で、興師本であれば、安直に自著のみ施すなどということはしないであろうと考えます。その意味から、日堯本という説は自然です。ただ、そうなると表紙の「日興御筆」とはなんぞやということになります。「日興が要文化した文章」ほどの意味とすることは出来ますが、変な語法ですね。

山上さんのあとから書き込みという説は納得できませんね。そもそも、あの文脈からすれば、「常不軽品の如し」は不相応ですし、今成説を採れば、日蓮は「不軽」「不軽品」を採用し、“常”の字を省くことに特徴があるわけですから。
富士系の論攷の特徴は、先に挙げた「日興落着」で、それを自説にご都合のよい珍妙な憶測で短絡的に結論づけるものだという印象を懐きます。

いずれにしても、興風談所の古文書研究は高く評価しますが、本尊研究をやるのに、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽は言わない態度で、冷笑を蒙っている自画像は、しっかりと認識し、反省すべきでしょう。信仰の上から信じているんだそうですが、そんなことを言い出せば、古文書研究など不毛な話だからです。

なお、『富士一跡門徒存知事』の記述を信頼すれば、日興所持本は二転写本であることが知られますが、誰の本を写したのでしょうか。

いずれにしても、中世の写本は、いまの著作を意識した転載、あるいはコピペとは違って自身の修学、信仰から、これを写すわけで、仮名を漢字、片仮名に改め、時には、自分の意志で本文を書き換え、さらに添削までするものであるわけですから、実に厄介ですね。

707犀角独歩:2006/03/13(月) 10:49:03

独学徒さん

> …「日堯」の自署花押…開目抄…末尾の「日堯」の字

是非とも、このような画像はブログにアップして比較して見せてください。
資料の共用は、議論を深めます。
それぞれ、自分で収集すればよいのでしょうが、なかなかそれも困難なところがあります。怠慢は免じていただくことと併せ、お願い申し上げておきます。

708独学徒:2006/03/13(月) 13:50:17

犀角独歩さん、

①開目抄要文末尾の「日堯」自署
②保田日堯筆「雑録」巻末の「日堯」の自署花押
③双方を並べて比較してみた画像

以上3点をメールにてお送りしました。
ご覧いただきまして、ご意見などお聞かせ戴けますと幸です。

特に③はかなり精度の悪い画像となってしまいました。
画像処理はペイント以外にソフトがなく、撮影に使用するデジカメも今時のものと違い、解像度の低いもののため、とてもHP上にアップ出来るようなできではありません。

もし犀角独歩さんの方で、①②を使って、もっと見やすい画像処理が出来るのであれば、是非お力をお借りしたいと存じます。

709独学徒:2006/03/13(月) 15:42:22

犀角独歩さん、れんさん、

色々調べて見ますと、開目抄要文巻末の「日堯」自署は、北山二十五世の「日堯」である可能性が大ですね。
要文本文は日興筆、巻末の自署のみ「日堯」筆というところでしょうか。
北山の貫首であれば、北山の霊宝に自署を書き入れることは可能だと思います。

私の軽率な投稿で、議論が横道にそれてしまいました。
申し訳ありませんでした。

710犀角独歩:2006/03/13(月) 22:33:40

独学徒さん

> 北山の貫首であれば、北山の霊宝に自署を書き入れることは可能

可能かもしれませんが、宝物に名ばかりを記すことがあるのでしょうか。花押をなすはずではありませんか。

なお、別に横道にそれていません。自由に話し合うことは結構なことであると思います。

711独学徒:2006/03/13(月) 23:57:24

犀角独歩さん、今晩は。

「日堯」に関しては、正確な資料を所持できておらず、正直迷う一方なのですが、昭和44年に角川書店から出ました「妙本寺本 曽我物語」の巻頭に、北山の「曽我物語」の写本の写真掲載されています。それによりますと「日堯」は同写本にも著名しているようで、それによれば花押をなさない癖があるように感じられます。
通常、写本は花押あれば「日堯花押」と書くところだと思いますが、角川文庫「妙本寺本 曽我物語」巻頭写真は、「日堯 識」と書かれています。
この「識」とは何を意味するのか分かりません。
もし北山二十五世の「日堯」が、花押をなさない方であると考えれば、花押をなしている保田日堯とは別人であろうと思われます。
(既に犀角独歩さん・彰往考来さんからは、画像をご覧戴き、筆跡から別人と思われる旨のご意見を戴いています。)

そうしますと一番可能性が高いのが、北山二十五世の「日堯」ですので、①日興筆開目抄要文に「日堯」が署名のみした。②現在日興筆と伝わる開目抄要文は、日興開目抄要文を「日堯」が書写したもの。のどちらかの可能性が高いと思われます。
「日堯」の寂年は1827年ですので、それから約40年後に明治維新となるときを考えますと、②の場合ですとそれほど近代近くに書かれたものを、日興筆と見誤るものかどうかという疑問があります。

その意味で、709の投稿では一往①の立場で投稿いたしました。

しかし実質は、本投稿の冒頭に記しました通り、「正直迷う一方」というところです。

712犀角独歩:2006/03/14(火) 00:30:43

独学徒さん

> 「識」とは何を意味するのか分かりません

これは「しるす」と読みます。
つまり、日堯識(しる)すとなります。
しかし、この記述の仕方は、そんなに古いものでしたでしょうか。やや、疑問が残ります。

713藤川一郎:2006/03/14(火) 14:05:22
そういえば、最近「小野寺直識」の書籍がありましたね。

714独学徒:2006/03/17(金) 10:28:35

犀角独歩さん、

>712のご教示、ありがとうございました。

「日堯」に関しては、進展無く、歩留まり状態です。

715彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:16:11

>「素朴な疑問」2708 鳳凰さんへ、こちらへ移ります。
不動・愛染感見記に対する少々私の所見を述べさせていただきます。
>>不動・愛染感見記
>これはやはり偽書の可能性が高いと思っております。
>大聖人の日付に対する厳格・正確さは、既にご存知の通りであり、「正月一日」の日蝕の存在証明をしない限り、記述内容が正しい物であるとの結論は早々できない

そうでしょうか?蓮祖の御真筆御本尊は月の記載はあっても日の記載は空欄の場合が多いので私は必ずしも蓮祖が日付に厳格であったとは思っていませんが、もし厳格だと主張されるのであれば挙証していただきたいと思います。蓮祖の日付はエンジニア(私は理系の学校を卒業した現職の技術屋です)の眼から見れば、実験計画やレポート、報文などと比べかなりのラフさを感じます。もちろん時代背景も違いますが、同時代でも『吾妻鏡』などはきちんと日付の記載があるわけで、それらと比べても差はあるでしょう。まず、蓮祖が日付にそれほど厳格でなかったことを「立正安国論」の執筆動機に関する御書を通じて例示してみましょう。
御書には、
(a)「安国論御勘由来」(係年:文永5年太歳戊辰4月5日):「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、(中略)文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ」(堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』昭和47年67刷(初版昭和27年)、創価学会、33〜35頁)
(b)「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)
(c)「強仁状御返事」(係年:建治元年12月):「仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり」(『日蓮大聖人御書全集』184頁)
(d)「滝泉寺申状」(係年:弘安2年10月):「去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執着し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す」(『日蓮大聖人御書全集』850頁)
(e)「中興入道消息」(係年:弘安2年11月):「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに」(『日蓮大聖人御書全集』1334頁)
とあります。
いうまでもなく「立正安国論」は文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏されました。その執筆動機として上記(a)〜(e)の御書では正嘉元(1257)年8月23日の大地震と文永元(1264)年7月5日の彗星が挙げられています。上記の御書のうち(a)〜(d)は御真筆のある御書((a):中山法華経寺蔵、(b):中山法華経寺蔵、(c):京都妙顕寺蔵、(d):中山法華経寺蔵)であり記載内容に間違いはないでしょう。問題は(e)で、(e)は御真筆や直弟子の写本などが存在しない録内御書です。

716彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:16:46

715の続きです。

ここで文永元(1264)年の彗星は時系列からいって合わないのです。「立正安国論」を提出した後に発生した天変地夭が執筆動機になるはずがありません。正嘉元(1257)年8月23日の大地震は『吾妻鏡』に記載があり、史実として裏付けられます。『吾妻鏡』の巻第47に、「(正嘉元年八月)廿三 乙巳 晴る。戌の尅、大地震。音あり。藭社佛閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ。中下馬橋の邊、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々。」(貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡 第5巻』1989年7刷(初版1977年)、新人物往来社、302頁)とあり、相当大きい地震であったことが覗えます。『吾妻鏡』は文永元年の記事全てを欠いていますので、『吾妻鏡』から文永元(1264)年7月5日の彗星を確認することはできませんので従来の管見に入った日蓮関係の書籍ではこの彗星については史実かどうか触れられていません。今般、鎌倉時代の文献を種々調べたところ『北条九代記』に文永元(1264)年7月5日の彗星について記載がありました。これは今まで管見に入った日蓮関連資料の中にはないものです。『北条九代記』には、「(文永元年)七月五日寅刻彗星寅方ニ見、芒氣丈餘。此ノ間旬月ニ及ブ半天ニ及ビ未曾有ノ例之(也歟)」(『続群書類従 第29輯上』昭和56年訂正3版、続群書類従完成会、422頁)とあります。
正嘉元年の大地震が史実と確認できますので、文永元年7月5日に彗星が出現したのも史実でしょう。斉藤国治氏の『古天文学の道』(50頁)によれば、貞応元(1222)年にハレー彗星が出現しているので、文永元(1264)年の彗星は周期76年のハレー彗星ではないことだけは確かです。
(e)の「中興入道消息」では、「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」とあります。「立正安国論」の北条時頼への上奏は文応元(1260)年なので、「文永元(1264)年の大長星の時」より前であり、時系列的に合わない表現ですので「中興入道消息」を後世の創作とする理由になり得るのですが、実はそうとは言いきれません。類似表現が御真筆のある「安国論御勘由来」にあり、「立正安国論」執筆理由にあげられています。「安国論御勘由来」の係年は文永5年ですが、この時点ですでにこのような表現があるので弘安2年の「中興入道消息」に同様の表現があっても不思議ではありません。また中山法華経寺蔵の「立正安国論」の係年は文永5年なので文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏された版とは異なり、後日蓮祖自ら書写されたもののようです。そのため、「安国論御勘由来」にも「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で」という表現があるものとも拝されます。とはいえ、あくまで「立正安国論」は文応元(1260)年に上奏されたのですから、文永元年7月5日の彗星は執筆理由にはなり得ません。
時系列として見るなら「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)とあるのが誤解のない表現でしょう。
 さて(a)〜(e)の御書で大地震と彗星の書き方を経時的にみてみましょう。文永期には日付がきちんと書かれていましたが、建治元年には「正嘉・文永二箇年の大地震と大長星」と日付はなくなり、弘安期では「去る正嘉以来の大彗星大地動等」、「去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」となっていて、時代とともに記載内容が曖昧になっているのが解ります。

717彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:17:43

716の続きです。

 次は、蓮祖が日付を誤記されたと考えられる事例をあげます。
すでに、「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」のスレッド679に蓮祖が明星(金星)が2つ並んでいるのを見たという「法華取要抄」の天変地夭記事を記載しました。天文学者の斉藤国治氏(元東京大学東京天文台教授)は『星の古記録』(1997年3刷(1982年1刷)、岩波書店(岩波新書)、112頁)に「計算の結果、3月11日の早暁に、金星(このとき光度マイナス3.7等)と木星(光度マイナス1.7等)とが、太陽の西0.7度のへんで黄径合となり、金星が木星の北0.3度にまで接近していたとわかった」と記しています。
記事の日付はユリウス暦3月14日に当たりますが、「法華取要抄」では2月5日(ユリウス暦では3月11日)となっていて計算結果と3日のズレがあるので、斉藤氏は「日付に誤記があるらしい」としています。つまりこれは記憶による記述であったことが強く示唆され、記憶なるが故に誤記が生じているものと推察します。
 蓮祖の時代に使用されていた暦は宣明暦でこの暦では日蝕は必ず朔日に発生します。愛染感見記に在る「日■(■:[虫*虫])」を「日蝕」とするなら「一日(ついたち)」との日付記載は当時の常識として間違いようがないのです。逆に月は記憶によるものであるなら、誤記が発生しても不思議はないということになります。
 続けて日付ではありませんが、御本尊の「仏滅度後二千二百二十余年」の御賛文です。ご真筆の御本尊に誤記があります。第45番本尊は、首題の「蓮」字の辵(しんにょう)の点を欠き、且つ「二千二百余年」と「二十」が脱落しています。第46番本尊も「二千二百余年」と「二十」が脱落しています。また第104番本尊では「仏滅度後二千二百二百三十余年」と「二百」が重複記載されているのです。
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以上の挙証から蓮祖が必ずしも日付などの記載に厳格であったとは言えないことを理解できるのではないかと思います。
愛染感見記が日蝕を現しているとするなら、蓮祖が日蝕をごらんになった可能性はあるのでしょうか。渡邊敏夫氏の『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(1994年復刻版、雄山閣、309頁)によれば、蓮祖が建長5年までに皆既日蝕をごらんになった可能性があるのは下記2回でしょう。
寛元3(1245)年7月1日(ユリウス暦7月25日):聖壽24歳
建長元(1249)年4月1日(ユリウス暦5月14日):聖壽28歳
そして『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』406頁の中心食帯図によれば、この2つの日蝕は和歌山県を通っているのです。和歌山県には高野山があります。「妙法比丘尼御返事」に「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉、京、叡山、園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」(『日蓮大聖人御書全集』1407頁)とあり、また「破良観等御書」に「幼少の富木より学文に心をかけし上・虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしよりこの願を立つ(中略)その後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して」(『日蓮大聖人御書全集』1292頁)とあることから蓮祖が高野山にて修行されていたことが覗えるのです。但し、「妙法比丘尼御返事」は御真蹟のない録内御書、「破良観等御書」にいたっては御真蹟のない延山録外ですから、内容の信憑性については注意が必要です。ここでは蓮祖が高野山にて皆既日蝕をごらんになった可能性があると指摘するのに止どめます。

718彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:18:24

717の続きです。

 北林氏の『日蓮大聖人と最蓮房』(2005年改訂版、平安出版。以下『北林本』と略します)においてなぜ「身」字の比較結果程度で愛染感見記と不動感見記とを偽筆と判断しているのか不可思議なのです。確かに愛染感見記と不動感見記では書き方が異なります。しかしながらこれを以ってして偽筆と判断すれば素人とのそしりを免れないでしょう。かく言う私も素人ですが、私は逆に偽筆ではない証左とみます。
 愛染感見記と不動感見記は建長5年6月25日付けで対になっていますから、もし偽筆とするなら両方とも偽筆との判断なのでしょうが「偽作には何より信用させることが第一で、それには特殊な形式や、崩れた筆法は用いられ得ない」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻(初版:昭和43年、大成出版社、209頁)ということを弁えないといけません。つまり今回のようにわざわざ筆跡を変えるのは偽作において禁じ手なのです。偽作において筆跡を変えたならそれこそ素人にさえ見破られてしまうからです。偽作者はそんなヘマはしません。とは言ってもこれだけでは詭弁ととられかねませんから、筆跡鑑定の初級講座を開講しましょう。まず、愛染感見記と不動感見記の筆跡の差からこの2つが蓮祖筆であろうということを説明してみます。愛染感見記と不動感見記の「大日」の字体に注目します。北林氏に言われるまでもなく、「大日」は愛染感見記と不動感見記で書き方が異なります。
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愛染感見記で「大日」は「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっています。また「大」字の第一画と第二画も繋がっていて第二画は流れるように筆が運ばれています。それに対して不動感見記では第一画は左下で止められて、第一画と第二画は繋がっておらず、第三画は右下で止められています。もちろん「大」字と「日」字は別々です。見た目では全く異なります。誰かさんが「偽筆だ!」と思い込んで吼えているのが聞こえてきそうです。

しかし、この「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている書き方と、「大」字と「日」字が別々の書き方、の両方とも蓮祖筆の特徴なのです。例えば、『御本尊集』の第99番本尊(弘安3年9月)の「大日天玉」は、「大」字と「日」字は別々ですし、第100番本尊(弘安3年11月)の「大日天玉」は、「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている形です。この特徴を理解するなら愛染感見記と不動感見記の筆跡の差はそれぞれが蓮祖筆であるために発生していると理解でき、筆跡に差があるから偽筆との判断は早計であることが解ります。松本佐一郎氏は警視庁鑑識課町田技師の指導のもと、画間比率法を使って蓮祖の御本尊の筆跡鑑定を実施しています。松本氏は「(日蓮)聖人の筆跡は大体に於て大きく、丸味があり、起筆も終筆も力強いものがある。これは強い外向性と実行力の所有者であり、小事に拘泥しない大まかな性格(学問がなければズボラになり、学問が有れば大局と要点はちゃんとつかむが、こまかい事に頓着しない)(『富士門徒の沿革と教義』216頁)と性格分析されています。そのためか蓮祖御本尊では第99番本尊(弘安3年9月)のような起筆も終筆も力強い「大」字と「日」字が多いのも特徴です。警視庁鑑識課町田技師の筆跡鑑定についての解説が町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』(昭和35年、日本評論新社)に記載されていますので、ここから少し参考となることを拾っておきましょう。

719彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:18:57

718の続きです。

「筆跡鑑定を行なう場合、二○歳代の者の筆跡を検査する対照資料としては、同時期の筆跡、少なくとも一年以内の筆跡を対照資料としなければならない。三○歳を過ぎた者やさらに高年齢の者の場合においても、同時期の筆跡を対照資料にすることが望ましいが、二○歳代の時ほどは変化がないから、二、三年前の筆跡でも対照資料とすることができる」(12頁)
これは蓮祖の場合にも当て嵌(はま)ります。御本尊の「経」字の字体変化などに顕著です。
「書体については、出来るだけ同書体に限ること。鑑定資料が楷書体であるのに、対照資料が行書体または草書体であっては鑑定が困難になる」(13頁)
今回の愛染感見記と不動感見記は書き方が異なるのでこのケースにあたるでしょう。書き方が異なる以上、比較しても意味はありません。
また「筆跡で恒常性があると認められるのは、文字の絶対の大きさではなく、字画相互間の大きさの比率、すなわち相関数値である」(13頁)とのロカールの言葉を引用し、「「大」という字を例にしてこの事を説明すると、「大」という字は書くときどきによって大きくも書くし小さくも書く。また、右肩上りの角度で書くときもあるし、肩下り(引用者注:原文この箇所に「右」字はありません)に書く場合もあるが、それらの「大」字を注意して観察すれば「大」を構成している三本の字画線の長さの比、第一画の横線に対する第二画の斜線の長さの比、第二画の斜線に対する第三画の斜線の長さの比、これらは何時も一定であって、角度や全体の大きさが変わっていても、そこまでは変わっていない」(14頁)
と説明しています。なお今回の愛染感見記と不動感見記では書き方が異なるので字画線相互間の長さの比は一致しません。
近年、北林本のように真蹟写真の画像処理をして字体を比較し、議論している論文をたまに見かけます。ただ似ている似ていないだけでは鑑定できないことを論文筆者が理解しているか疑問ではあります。少なくとも「似ているから同一人物」というロジックならまだしも、「似ていないから別人」というのは早計です。その場合はもっと別の観点からのアプローチが必要でしょう。まして北林本のように早とちりして偽作と決めつめるのは極めて危険です。
蓮祖の「大」字の書き方に2通りあるというのは、いわば約束事です。中島誠之助氏によれば「そうした約束事を知らないとコロリと騙されることになるわけです。ですから、約束事をきちんと踏まえておくことは、真贋を見分けるための最低条件といえるのです。けれども、大事なことは、約束事がすべてではない、ということ。約束事にかなっているから本物だ、ということにはなりません。約束事というのは勉強している人は知っているわけですから、それを守った作り方はいくらでもできます。ですから、約束事は、真贋を見分ける際のモノサシのひとつと考えておくべきでしょう。それよりも重要なのは、「腹に入らない」(引用者注:骨董業界では贋物に対してこのような表現を使います)という一種のインスピレーションです。形が悪い、なんとなく迫力がない、こうしたことを感じとれる感受性のほうが大切です。まず最初にあるべきものは直観であって、約束事はその直観を補うもの、と考えていただければと思います」(中島誠之助『骨董の真贋』1996年、二見書房、30頁)ということなのです。もちろんこの直観は、長年にわたった経験と磨かれた研鑚があってはじめて得られるものであることはいうまでもありません。私を含め素人判断でそう簡単にできるものではないのです。

720彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/28(火) 07:19:47

719の続きです。

骨董の世界では偽物を本物と判断するより本物を偽物と判断するほうの罪が重いとされます。今回の愛染感見記と不動感見記のケースでも、蓮祖のご真筆である可能性がある(私はホンモノと思っています)わけでそれを偽作と判断するのであれば、それは慎重になされるべきです。愛染感見記と不動感見記は山中喜八氏の『御本尊集』に入集しています。これは山中氏がご真筆と判断していることを意味します。山中喜八氏の『御本尊集』は極めて厳密であり、ここに入集している御本尊についてご真蹟ではないと判断するのはなかなかできるものではありません。
では、愛染感見記と不動感見記でなぜ書き方が異なるのでしょうか。「大日」における「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている書き方は第112〜116番本尊にもみられます。特に第112〜115番本尊は弘安4年10月の御図顕で、「随集御本尊写真によれば弘安四年十月以後の御筆蹟は急に乱れ、十二月に入って立ち直ってゐる。これは御病気の為」(『富士門徒の沿革と教義』271頁)とあるように御病気中の図顕で、松本氏は「丸型のほうが書き易いとみえて、乱筆の四鋪(引用者注:第112〜115番本尊)は皆弓形か曲がり尾」(『富士門徒の沿革と教義』219頁)と指摘しています。つまり力を入れない書き方をされているのです。このことから、愛染感見記と不動感見記ではまず、不動感見記が書かれ次に愛染感見記が書かれたのですが、愛染感見記の際には疲れが見られ力を入れない書き方をされたためと考えれば納得することはできます。

以上、種々例を挙げて説明いたしました。これらのことから私は愛染感見記と不動感見記をご真筆と考えています。愛染感見記と不動感見記は日蓮関係の学者では、山中喜八氏、稲田海素氏、宮崎英修氏、中尾堯氏、堀日亨氏などそうそうたる人たちがご真筆と判断されています。この方々は「約束事」をご理解されていたが故のご判断でしょう。筆跡鑑定や真贋を議論したいのであれば、少なくとも下記の書籍程度は勉強すべきですし、何よりもホンモノに接し(写真集だけではダメですよ。美術館の絵でもよいのでホンモノを見るべきです)自分自身の感性を高める必要があります。

<参考資料>
①松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』昭和54年復刻(初版:昭和43年)、大成出版社
②町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』昭和35年、日本評論新社
③瀬木慎一『真贋の世界』1977年、新潮社
④張珩ほか『書画鑑定のてびき』1985年、二玄社
⑤中島誠之助『鑑定の鉄人』1995年、二見書房
⑥中島誠之助『骨董の真贋』1996年、二見書房
⑦三杉隆敏『真贋ものがたり』1996年、岩波書店(岩波新書)
⑧中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社
⑨魚住和晃『現代筆跡學序論』平成13(2001)年、文芸春秋(文春新書)
⑩大宮知信『お騒がせ贋作事件簿』2002年、草思社
⑪増田孝『書の真贋を推理する』2004年、東京堂出版
⑫佐藤進一『花押を読む』2000年、平凡社

蓮祖のご真筆の真贋を議論するのであれば、特に①と②は必読でしょう。最後に自分自身への自戒を込めて一言。ヘタな素人判断は慎むべきです。

by 彰往考来

※今週は海外出張予定のため、ご質問などにお答えするのが遅れます。ご了承ください。

721鳳凰:2006/03/28(火) 11:41:56
>彰往考来さん、

種々ご教示ありがとうございます。大変勉強になりました。
私も再度勉強をし、質問があればレスさせて頂きます。
ご多忙中にも関わらず、ご親切、かつ、ご丁寧にありがとうございました。

722彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/31(金) 07:38:19

>721鳳凰さん

無事日本へ帰ってきましたので、ご質問があればどうぞ。

彰往考来

723きゃからばあ:2006/03/31(金) 09:53:00

彰往考来さん、おかえりなさい。
そしてご無沙汰しています。

ところで、『愛染感見記』と『不動感見記』ですが、なぜ図画を必要としたのでしょうか?
たしかに図画等にすれば、わかりやすいのですが、それならば他の御遺文にあってもいいような気がします。
単純な疑問でスミマセンが、ご意見をお聞かせください。

724ニセ本尊:2006/04/02(日) 09:16:16
板本尊伝説【昭和】
1.1945年(昭和20年)6月17日未明、大石寺の大書院から出火、またたくまに大坊と客殿を焼き尽くし時の法主(62世日恭)は焼死した。
御隠尊猊下(61世日隆)は、戦争から板本尊を守るため、以前住職を務めていた東京の某寺院の法華講員を呼び寄せた。
当時は、アメリカ軍が富士山を目指して上陸してくるという噂も飛び交っていたこともあり、一方、東京の下町は3月の大空襲以降は、
もう目立った目標物もなく、かえって安全と思われた。終戦間際という大変な時期に、車で来いというのだ。なぜ車か?
それは重さ200kgはあろうかという板本尊を密かに運び出し、某寺院の境内に埋めて守るという計画だった。
宗務院の重役の中でも、極一部の者しか知らないこの計画は、秘密裏に実行されおよそ1年間、秘密は保たれた。

725ニセ本尊:2006/04/02(日) 09:19:12
板本尊伝説【昭和】
2.日蓮正宗では、9世日有の時代に、板本尊を大石寺から別の場所に移して守ったという伝統があり、
計画そのものは何の障害も無く実行された。
当時、創価教育学会は壊滅し、何の役にも立たず、戸田城聖にも知らされない話だった。
それから約半年後、次期法主(63世日満)が決定すると、ふたたび秘密裏に板本尊を本山に戻すことになった。
しかし、ここで思わぬ事態が勃発する。某寺院の境内に埋めて置いた板本尊(楠の半丸太)の下部が、
なんと腐ってしまって3分の1以上が脱落してしまったのだ。
昭和21年のことである。戦争のため物資が乏しい中、なんとか油紙で包んで大事に土に埋めて置いたのだが、
埋めた場所が隅田川の近くであり、水分を多く含んだ土壌だったために、わずか半年という短い期間で
腐ってしまったのだ。

726ニセ本尊:2006/04/02(日) 09:20:26
板本尊伝説【昭和】
3.上野の赤沢朝陽の社長は大変な苦労して、およそ半年の歳月を掛けて板本尊の復元を行った。
彼は一級の技術を持つ本物の佛師だった。復元に当たっては、当時法道院にあった日禅授与本尊、
および明治44年に出版された日蓮聖人という本に掲載された戒壇の大御本尊の写真が使用された。
この写真は第二次大戦中にお守りとして、多くの法華講員が所持していた。こうして昭和21年に
復元された戒壇の大御本尊は、もちろん750年前の板本尊と呼ぶことは出来ない。

727彰往考来(しょうおうこうらい):2006/04/02(日) 14:35:52

>723きゃからばあさん

お久しぶりです。
>『愛染感見記』と『不動感見記』ですが、なぜ図画を必要としたのでしょうか?たしかに図画等にすれば、わかりやすいのですが、それならば他の御遺文にあってもいい

かなり難しいお問い合わせですね。結論からいうと私にはよく解らないということなのですが、あえて愚論を述べるなら、絵は解りやすい反面、真実を伝え難いため多用されなかったのではないでしょうか。例えば「富士一跡門徒存知事」に
「一、聖人御影像の事
或は五人といい、或は在家といい、絵像木像に図し奉る事在在所書其の数を知らず、而(しか)し面面各各不同なり。爰(ここ)に日興が云わく、先ず影像を図する所詮は後代には知らしめんがためなり、是につけ非につけ有りのままに移す(引用者注:原文には「写す」ではなく「移す」とあります)べきなり。 (中略) 但彼の面面の図する像一も相似(せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり。相似の分なれど自余の像よりもすこし面影あり。而る間後輩彼此の是非を弁ぜんがために裏に不似の書付之れを置く)(高橋粛道『日興上人御述作考Ⅰ』昭和58年、仏書刊行会、206頁)とあります。大訳すれば、あちこちに日蓮聖人の画像がたくさんあるがそれぞれ同じではない。日興が言うには、そもそも画像を画くのは後世に残すためであるから、良きにつけ悪しきにつけありのままを写すべきである。たくさんある画像は全く似ていないが、其の中で日順のものは他のものよりまだ面影がある。ただ後世のものが間違うといけないので似ていないとの但し書きを裏につけておく、といった意味でしょうか。ここに画像で伝えるということの困難さが滲み出ていまして興味深いところです。

直接関係ないですが、蓮祖の絵として伝えられるものに写本「三教旨帰抄」(中山法華経寺蔵)の巻末に描かれた馬の絵があります。此の絵は『図録 日蓮聖人の世界』(平成13年、日蓮聖人の世界実行委員会、47頁)に記載されています。但し、山中喜八氏は「三教旨帰抄」について「聖教殿格護の日蓮聖人御真蹟」で
「○ 三教旨■抄(■:[白*反])
一帖五七丁 縦一九・七センチ 横一六・一センチ
聖祖少年時の御筆写という伝承が存するが、これを「授決円多羅義集唐決」や「五輪九字秘釈」の親写本と照合するに、聖筆とは拝し難く、その用紙・筆風等から観察すれば、むしろ聖祖よりも古い時代に書写された本のようである。但し首尾に書入れてある絵画は後代のものと思われる」(『山中喜八選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』平成5年、雄山閣出版、137頁)と指摘されていることから、この絵が蓮祖筆である可能性は低いと思われます。

728きゃからばあ:2006/04/03(月) 11:26:05

彰往考来さん、貴重なご意見ありがとうございました。
たしかこの『愛染感見記』と『不動感見記』は日興が与えられたと記憶しています。
日蓮聖人は文面の「大日如来からの相承」と図画の「愛染・不動の姿」のどちらをメインにしたかったのか興味が沸きます。
そしてまたその目的は…、と考えると複雑な気持ちにもなります。
さらに疑問がでましたら、またお尋ねしますのでよろしくお願いします。

729天蓋真鏡:2007/01/07(日) 19:38:45
「日蓮の判形が無い漫荼羅は用いては為らない」と言うのは、日蓮が書いた形式・文字数以外の漫荼羅は製作しては為らない。と考えては活けませんでしょうか。例え修行の道具である漫荼羅と言えどもです。シャカの心意、智豈頁の理論、最澄の学識を継承する本尊の雑乱を防ぐ一語に聞こえませんか。

730犀角独歩:2007/01/08(月) 10:10:43

729 天蓋真鏡さん

> 「日蓮の判形が無い漫荼羅は用いては為らない」

ではなく、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」です。
では、この日蓮の判を持つとは、どういうことかと言えば、これはまさに漫荼羅授与をもってなしたことであろうというのが、わたしの考えです。
ですから、漫荼羅は弟子としての允可証の意味したのだろうと考えます。

731天蓋真鏡:2007/01/08(月) 13:38:36
新年早々すみません。 ●と言う事は、漫荼羅受持は日蓮の教えには必須と言う事ですよね。天台密教から法華一乗へ移行する為に描かれた図示が漫荼羅であると私は見ます(漫荼羅が法華経の理想を表現しているとは断言しません)●漫荼羅は最悪の事態(末法濁世の世)を想定して製作されたマニュアルに当りませんか。漫荼羅正意論は信心学問修行全部を見たら問題です。漫荼羅は身口意を統一する唱題に必要不可欠であるから図示されたのではありませんか。 日蓮が祈り願い唱えたのは『法華一乗』で一人ひとりが仏国土を現出する事で、自分が「生粋の法華経の行者」と表現したいのは此れだと所感します。

732れん:2007/01/24(水) 21:26:11
蓮師の開目抄に「一念三千の法門…寿量品の文底」云々とあります。石山では九世日有師は「興上は如来秘密神通之力の文底」と言い、二十六世日寛師は「我本行菩薩道」の文底と言います。
しかし、富士門祖の日興師の直弟子で重須談所の学頭にもなった三位日順師は「問云一念三千ノ法門本門寿量ノ文底ニ沈メタリト云々、然者何ノ文ヲ指耶、答云経云如来如実知見三界之相○非如非異不如三界見於三界○云々」と示します。
また、日目師の直弟子の日郷師の高弟日叡師が郷師よりの相伝法門を記録したその著、類集記に「御書ニ一念三千法門ハ寿量品ノ文底ニ沈タリト云々。経云。或説己身或説他身○乃至如来。如実知見三界之相。無有生死若退若出。亦無在世及滅度後(ママ)。非実非虚非如非異。不如三界見於三界。如斯之事。如来明見無有錯謬云ヘリ」と、広略の差はありますが三位日順師と同じ箇所を挙げます。
してみると、初期の日興門流における寿量品の文底”の“文”とは日順師・日叡師が挙げられた箇所であり、両師の師弟関係からすると、それが本来の興・目両師の義であった可能性もあります。となると、石山有師・寛師の挙げられた“文”は後付けの義である可能性はほぼ100%でしょうね。
又、私が挙げた日順・日叡両師の開目抄の引用文ではいずれも身延曽存の御真蹟と同じく「文底ニ沈メタリ」であり、これが初期日興門流における開目抄の当該部分の伝承であり、逆説的に見ると、文底秘沈の成句は初期興門には存在しなかった証になります。故に文底秘沈の成句もまた、石山の後付け教学であり、秘の字は室町以後の石山の私加であると言うのが事実であると愚考します。

733犀角独歩:2007/01/25(木) 08:00:12

732のれんさんのご賢察は明解であり、参考になりました。
賛同します。

734再挑戦者:2007/02/01(木) 20:38:43
 横からゴメンします、、。
 「、、むむっ、、」、、と 、、グサリ と 響きました次第です、、。
 いわゆる、モンテイ 文底 という のは、どちらにとっても好都合な一件、、のようですが、、。
 我々にとては、決して、悪用だけは、、ゴメンしたいです、、ネ、、。

735獄在佛傾:2007/03/06(火) 19:45:56
 、、、まったく、です。
  余計な、、手出し、ながら、、、どうも、、日蓮さんは、今、の、、今、、の時代、にこそ、、生誕して、、欲しかった、、ナ、、!!
 鎌倉時代では、、早、過ぎた、!!!、、、ネネ、、!!
 今の、、IT 時代こそ、日蓮の時代、、???  でしょう、、!!!
 今後に、、ご期待、、?? しましょうか、、?! 。

736パンナコッタ:2007/04/27(金) 23:25:24
大白蓮華5月号の、名誉会長名義の巻頭言に
"日蓮大聖人の御一代の化導は「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わる" 
 とありますがその後、
"それは、立正安国論に認められた「国」の文字の大半に 「クニ」ーつまり「□」に「民」が入った文字が
用いられていることである。「民衆」こそが根本であり眼目なのだ" 
 と、またこのネタを引っ張り出していますね。

確かに、文永六年の中山本に頻出する"国"の字72の内、実に56(77.78%)が、くにがまえに民です。
しかし、本國寺蔵の広本ではめっきり少なくなりますし(7/93 7.5%)、玉澤蔵日興写本はすべて
"國"ですし、果たしてそのような意図した意味があるのでしょうか。
        国  國  □民  計
   中山本  12   4   56   72 (日通書写二十四紙・1含む)
  本國寺本  47  39   7   93  
 
両書において、同じ文で同じ字を使っている物は、 
 □民6  国7  國0

□民の6つの内訳は
 金光明経に云く其の国土に於いて
 既に捨離し已りなば其の国当に
 所謂人衆疾疫の難・他国侵逼の難
 一切の国主星
 国滅び人滅せば仏を誰か崇むべき
 又云く 如来昔国王と為りて

あまり意味合いにおいては、民衆を意図したとは言えない文面ばかりですね。

737パンナコッタ:2007/04/27(金) 23:26:22
続き

確かに中山本で言う限りにおいては大半であると言えましょうが、"始まりから終わりまで"と
豪語しているのですから、正しい認識とは言えないでしょう。
更に、"蓮祖は時代が下ったら、民衆を疎かにした"という意味合いも出てきてしまいます。
尤も、広本の存在自体信者は知らないですし(御書全集の存知の事・建治の広本の記述はありますが)
この限りにおいては"まちがった事"ではない故に、活用し続けるのでしょうね。

蓮祖をダシに使った、巧妙な信者の操り方の一片と云うところですね。

738犀角独歩:2007/04/28(土) 02:04:29

パンナコッタさんのご見識に、わたしも賛成します。
第一、『立正安国論』という日蓮自ら示した書名の‘くに’の字は「国」になっています。
もし、民衆を意図したものであるというのであれば題名にこそ[囗@民](国構えに民)の字を使ったのではないでしょうか。単なる思いこみから、文全体の意味を決めてかかっているのにすぎないと言えるでしょうね。

739パンナコッタ:2007/04/28(土) 12:13:24
独歩さんのご指摘のとおり、タイトルは紛れもなく"国"ですね。

興味のある方は、以下をどうぞ。
 http://www.hokekyoji.com/index-new2.htm
 http://www.artmemory.co.jp/honkokuji/original/picture/008.html

740大縫 薫:2007/04/29(日) 19:47:20
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h51668345
御直筆の断片なのでしょうか?

741独学徒:2007/04/30(月) 00:28:39

大縫さん、こんばんは。

>740

『日蓮・花押』が胡散臭いですね。
御書システムで検索すると、最終行の「南無妙法蓮華経」と「二月十一日」の両方に該当する遺文は無いようです。

742しゅんかん:2007/04/30(月) 11:37:25
慶長16年(1611)
日量とは誤りで、京都本満寺の一如日重でしょうか。

743独学徒:2007/04/30(月) 11:57:15

しゅんかんさん、

>742

花押の形からして、一如日重で間違いないと思います。

744大縫 薫:2007/04/30(月) 17:09:21
後世の模写としか思えないのですが?

745しゅんかん:2007/04/30(月) 21:29:33
独学徒さん、ありがとうございます。

746犀角独歩:2007/06/17(日) 10:12:35

諸賢

北山から、二箇相承、三秘抄の真筆が出たという噂を聞きましたが、実否をご承知でしたら、ご教示ください。

747れん:2007/06/17(日) 10:26:08
犀角独歩さん
北山から二箇相承と三秘抄の真筆が出た…
15日の小松先生の御遺文講義に出ましたが、そのような話題は出ませんでしたので、その実否は存じ上げません。私はむしろ、一字さんからご教示戴いた「中尾先生が立正安国論広本は弟子による写本」という発表があったという話の方がむしろ驚きです。北山の方に関しては、両抄の発見は事実であっても、案外花押ついた写本の可能性もあり、真筆云々は早計で勇み足である場合もあるのではないでしょうか。花押有りでも、偽作されたものの“原本”の可能性もありますから、注意するにこしたことはないと存じます。

748犀角独歩:2007/06/17(日) 11:41:20

れんさん

早速のご教示有り難うございます。
小松師の勉強会ならば、上杉師も当然ご参加であったのでしょうね。
そうですか、お話が出ませんでしたか。

もちろん、わたしは、この三書に真筆などあるはずもないと思っていますが、このような噂を訊くと、どんな次第なのかという興味は頭をもたげます。

また、何かご見聞の由ございましたら、お伝えいただければ有り難く存じます。

中尾師の広本への見解は、以下のものですね。
資料として、だいぶ前からHPに置いてあります。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/nakao_001.html

言われるところはわからないでもないのですが、しかし、ご承知の如く、『富士一跡門徒存知事』には以下のようにあります。

「一、立正安国論一巻。
 此に両本有り、一本は文応元年の御作、是最明寺殿と要を取って法光寺殿へ奏上の本なり。一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添へたまふ、而して別の旨趣無し、只建治の広本と云ふ。」

ここでいう「広本」がイコール現存の弘安建治交本であるかどうかは、もちろん、研究の余地はあるのでしょうが、少なくとも門徒存知事が成立した頃には、既に同論2本が存在していたことは間違いないことになります。
この点を中尾師は、まるで論究されていない点で、わたしは不満があります。

『平成新修日蓮聖人遺文集』にも載る「広本」を、わたしは真蹟であるという研究を支持します。改めてみると、この遺文集に中尾師は携わっていなかったのに、少なからず驚きました。

749犀角独歩:2007/06/17(日) 14:38:41

読み直したら、れんさんがご紹介くださった中尾師の話は、わたしがアップしているものの、発展系だったんですね。

これは具体的には何という論文でしょうか。重ねてご教示いただけませんでしょうか。

750れん:2007/06/17(日) 16:22:16
犀角独歩さん
小松先生の御遺文講義は、現在「観心本尊抄」ですので、講義も其の後の質問会での議論も結構目から鱗ということが多いです。
存知事における“広本”がズバリ現存の本圀寺本を指すのか、犀角独歩さんの仰るとおり研究の余地があると思います。もしかしたら、本弟子六人クラスにはテキストとして蓮師より広本と同内容の安国論が授与され、他師授与の分は戦乱等で失われたが朗師授与の分が偶々本圀寺に伝わったなんてこともあると存じます。真蹟集成に載る写真を見る限り、蓮師の御筆として疑義は感じませんが、もし蓮師の御筆でない場合は、彼の京都にある三沢抄の真蹟模写本の如き性質のものかもしれないとは思います。
この広本の件は一字三礼さんから戴いたメールから知りました次第です。一字さんによりますと「立正安国論をいかに読むか」の最終日の最後に中尾先生から発表があったそうです。
三秘抄も二箇相承もある種の同根的なものを感じるので、作成された場所を考えれば、妙師以降の重須であろうと思います。重須建師本の二箇相承も花押がありますから、もし、発見されたという噂が事実ならば、発見されたのは偽作された三書の作成された原初本かその第二転あたりではないかと考えている次第です。取り急ぎですが、ご参考までに。

751犀角独歩:2007/06/17(日) 16:30:36

れんさん

重ねてご教示、有り難うございました。
広本に関しては、ちょっとした新展開というところでしょうか。

最近は山籠もりで、都心に出ることも少なくその手の情報収集と、」とんと疎くなりました。何か情報がございましたら、ぜひご教授ください。

752一字三礼:2007/06/17(日) 17:45:53
犀角独歩さん
ご無沙汰しております。
「立正安国論」(広本)の件で、お騒がせしてしまいました。

東京都西部強化センター主催、「『立正安国論』をいかに読むか」という連続講座(全三回)がありました。
私は母を伴い、第二回目と最終日の講義を聴講させていただきました。
しかし、三回目の講座は、午前10時30分から午後6時30分までの長丁場だったものですから、母の疲労を考えて途中で退出してしまったのです。
その最終日の最後の講師が中尾先生で、その講義で「(広本)書写説」の最新バージョンが発表されたそうです。
私は宗学にも疎いので、その「(広本)書写説」とはどのようなものか、を博識のれんさまにご教示願ったしだいです。

そういった訳でして、私には詳しいことはわかりません。でも、連続講座の主催者の方にお願いして、中尾先生のレジュメなり資料なりがあればいただくことも可能かと存じます。
もしも何らかのものが手に入った時には、独歩さんにご連絡いたします。

753犀角独歩:2007/06/17(日) 18:52:48

一字三礼さん

たいへんにご無沙汰いたしております。
ご教示感謝申し上げます。


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