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本尊と曼荼羅

1管理者:2002/04/04(木) 07:30

いちりんさんより、スレッドテーマの御提案がありました。立ち上げます。幅広い議論が展開される事を期待致します。提案文は以下の通り。


30 名前: いちりん 投稿日: 2002/04/04(木) 02:20

本尊と曼荼羅って、とてもおもしろいテーマですよね。

こちらのスレッドは、「本門戒壇の大御本尊様の偽作説について」ということですが、
できれば、「本尊と曼荼羅」というテーマで、論じていったらいいなあと思います。
管理人さん、いかがでしょうか。

真宗の本尊とか、密教の本尊とか、天台の本尊観とか、あるいは釈迦在世のときの本尊とか、いろいろとおもしろいと思います。たとえば、天台の四種三昧の修行などみますと、修行によって本尊が変わりますよね。

そういうところから、本門の本尊をとらえかえしていくと、本質的なものがみえてくるかなあと思ってもみたり。

153犀角独歩:2005/05/05(木) 16:05:58

152 愚鈍凡夫さん、引き続き、資料手放しですが。

漫荼羅の大きさって、普通で考えれば、やはり懸ける場所に比例すると思えますね。
漫荼羅というのは、結局、「壇」ということですが、儀式法要を行う場所に懸ける用途があったことは予想されますね。
あとは懐中用。折り畳んだ跡が残っている漫荼羅があるわけですから、懐中(御護)は用途としてあったんでしょうね。これはしかし、大きい必要はないでしょうね。

かつて顕正居士さんがご指摘下さった宝珠曼荼羅(中央宝珠/脇士・不動愛染)に蓮師は着想を得ていると思います。虚空蔵菩薩とも関係が見いだせますね。これは法華経世界から離れるわけですが、真言との折衷はもはや疑いの余地はないと思えます。となれば、これは祈祷、壇、呪符ということになるんでしょうか。

だいたい、法華経からは、漫荼羅はおろか、本尊すら、教義として見いだせないわけですね。さらに天照八幡という神道の側面。法華、真言、神道、この三つの要素が織り混ざって漫荼羅は図案化されているわけですね。十界漫荼羅、妙法曼荼羅といえば、実に舌っ足らずな呼称と言うことになるのでしょう。

故に本尊抄の該当文は寿量本仏を説明になっても、漫荼羅図案の説明としては3分の1しか述べていないことになります。

154犀角独歩:2005/05/05(木) 16:23:50

―153からつづく―

宝珠という側面から少し書き足せば、蓮師は虚空蔵求聞持法で生身の虚空蔵菩薩を感見し、智慧の宝珠を受け取った、「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」ということですが、この宝珠を、わたしは単なる智慧と考えていたのです。ところが三学無縁さんは、「この珠こそ、本尊抄に言う珠だ」と言ってのけた。すなわち「仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」という珠です。

ここからはわたしの類推ですが、すなわち、この珠が表す智慧と一念三千であり、それを妙法蓮華経の五字で裏んだ。仏は大慈悲を起こして智慧の宝珠として、虚空蔵菩薩に託して日蓮に与えた。この珠を守護するのは、その後、感見する不動・愛染でした。すなわち、頚に懸けてもらった「末代幼稚」とは蓮師その人を指すのではないのか。その一連の脈絡を自身の信仰系譜の継承として漫荼羅に書き表し、弟子と允可した者に与えたのが蓮師の漫荼羅であったのではないのか。ここには弘通すべき付属の法がなんであるのか、しっかりと大書されています。すなわち「南無妙法蓮華経」です。

以上はわたしが想像する漫荼羅図示に至る道程ですが、さて、どうでしょうか。

155犀角独歩:2005/05/05(木) 21:44:11

問答さん、ちょっと、お考えをお聞かせください。

漫荼羅が本尊だとします。この場合、どこまでが本尊となるのでしょうか。
鬼子母神、竜王なども含めて図されているすべてでしょうか。讃文、日付、授与者はどうでしょうか。それとも南無妙法蓮華経でしょうか。妙法蓮華経でしょうか。釈迦・多宝はどうでしょうか。四菩薩はどうでしょうか。また、この諸尊は経典に登場する仏菩薩でしょうか。それとも、釈迦己心の九界ということでしょうか。
通常、漫荼羅を本尊とする場合、この本尊とはどこまでを指すのでしょうか。

例を『是日尼御書』とします。ここで「又御本尊一ふくかきてまいらせ候」とあります。もしこの「本尊」が四大天王、不動・愛染、十界諸尊の一切を書かれていたとすると、その全部が本尊となりますか。それともあくまで五字に限るのでしょうか。

というか、漫荼羅本尊信仰をされてきた段階で、問答さんは、以上の点、どのように納得されて考えてお出ででしたか。

156愚鈍凡夫:2005/05/06(金) 04:55:25

皆さんおはようございます。
犀角独歩さん、どうもです。

> 仏は大慈悲を起こして智慧の宝珠として、虚空蔵菩薩に託して日蓮に与えた。

この場合の仏とは大日如来ですか。
虚空蔵菩薩にしたら、「うちの大将を裏切って、釈迦に寝返りやがって。この恩知らず」ってとこでしょうか。 (^▽^;)

157問答迷人:2005/05/06(金) 06:33:08

>漫荼羅が本尊だとします。この場合、どこまでが本尊となるのでしょうか。

本尊は「本門教主釈尊」。これは動かない。その大前提に立って、「漫荼羅が本尊だとします」と、漫荼羅が「本門教主釈尊」を表している、という意味になりますね。

蓮師は字像曼陀羅を「大曼陀羅」と呼びますから、字像曼陀羅は「諸尊の形像を文字で描いた」ということなのだと思います。

以上を総合して、中央の「南無妙法蓮華経」が「本門教主釈尊」を文字で表したものではないかと考えてきました。さらに、字像曼陀羅は、南無妙法蓮華経を中心として、諸尊、十界の衆生が描かれていますから、その全体が「本門教主釈尊の仏像」という意味を持っていると考えます。その意味からは曼陀羅全体が「本尊」とも言えると思います。これが「御本尊一ふくかきてまいらせ」の意味だと思います。そして、その曼陀羅が「本尊」たる所以を限定的に捉えれば、「南無妙法蓮華経」が「本尊」なのだと思います。

158問答迷人:2005/05/06(金) 06:40:35

>また、この諸尊は経典に登場する仏菩薩でしょうか。それとも、釈迦己心の九界ということでしょうか。
 
この区別は良く分かりません。そのようにたて分けて考えたことがありません。

>通常、漫荼羅を本尊とする場合、この本尊とはどこまでを指すのでしょうか。

漫荼羅全体を指すと思います。

159犀角独歩:2005/05/06(金) 08:49:53

> 156

さすが、愚鈍凡夫さん、好いところに目を付けてくださいました。
大日如来は、実は日蓮漫荼羅を読む解く一つの鍵ですね。ところが「真言亡国だから、大日如来はダメ」という固定観念が富士方にはあります。これはしかし、本当でしょうか。

『法華取要抄』に「華厳経の十方臺上の・盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の左右の脇士也」と記します。つまり、法華経ではその名前が出てきていないが宝塔涌出、多宝如来がお出ましになると、その脇士は大日如来なんだというわけです。

また、『報恩抄』には「月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にす(居)へ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此れ即ち法華経の行者なり」とも言うわけですね。

日蓮花押は大日如来の種子を図案化したものであるというのは、山川師の説でしたね。
ここで漫荼羅を奉懸の作法を考えます。南面に懸けますね。つまり、北が奥で手前が南です。奥(北)に釈迦・多宝=教主釈尊は北の上座…多宝仏の上座に教主釈尊居、そして、手前(南)=大日如来…宝塔の中の南の下座に居、です。その南の下座を漫荼羅で見ると「日蓮花押」の位置と合致します。そこで山川説の花押=大日如来。さらに言えば、『不動愛染感見記』の「大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承」という文を併せ考えると、どうなるか。どうなるでしょうか。

160犀角独歩:2005/05/06(金) 09:10:10

問答さん、もう少しお付き合いください。

> 釈迦己心の九界

これは『本尊抄』の「…我等が己心の声聞界…我等が己心の釈尊…我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属」といいます。

最後、地涌千界の菩薩は我等(日蓮)の己心の釈尊の、その釈尊のさらに己心の菩薩であると言います。いわば、人界所具の仏界の、その仏界所具の菩薩であるというのが、蓮師の示すところですから、以上のように記しました。

しかし、もし、これが仏界所具の九界でなければ、漫荼羅を拝む人は、妙法蓮華経のみならず、他の諸尊も拝むことになります。実際のところ、他派一般の日蓮門下にはそんな感覚があるようで、だからこそ、所謂、別勧請があるのだと思います。

問答さんは、この「たて分け」はないと仰いましたが、そうなると「南無妙法蓮華経」以外の所尊も拝んでいる心地でしょうか。

162問答迷人:2005/05/06(金) 09:38:12

>これが仏界所具の九界でなければ、漫荼羅を拝む人は、妙法蓮華経のみならず、他の諸尊も拝むことになります

あっ、そうですね。それは違います。157に於いて『諸尊、十界の衆生が描かれていますから、その全体が「本門教主釈尊の仏像」』と記した通りです。本尊抄の文に沿えば、『釈迦己心の九界』ということになります。

163犀角独歩:2005/05/06(金) 09:45:12

> 161

やはり、この心地でいらっしゃいますよね。

もう1点。少し視点を変えます。
寛師説では蓮師漫荼羅本尊(取り分け彫刻本尊なのですが、これは取り敢えず置いて)は「三大秘法惣在」であると、こうなります。
問答さんが仰ってこられたことは、要は漫荼羅(五字題目)=釈尊ということなのですが、こうなると、漫荼羅本尊を拝むことは、久遠釈尊(石山でいえば、本地・自受用/垂迹・上行/再誕・日蓮)を拝むことに異ならないのでしょうか。

164問答迷人:2005/05/06(金) 09:59:14

>久遠釈尊を拝むことに異ならないのでしょうか。

そうなりますね。そう考えています。

165犀角独歩:2005/05/06(金) 10:14:43

> 164

漫荼羅は三大秘法惣在で、題目のみならず、本尊(釈尊=日蓮)の意義がある。
では、逆はどうでしょうか。「漫荼羅の図の如く」の仏像は、では、三大秘法惣在足り得るとお考えになりますか。

167問答迷人:2005/05/06(金) 10:44:56

>「漫荼羅の図の如く」の仏像

文字通り、それは大曼荼羅そのものなのだと思います。木像、金像等を問わず、その仏像群が大曼荼羅を構成する訳ですから、同じく三大秘法惣在足り得ると思います。

168犀角独歩:2005/05/06(金) 11:03:52

> 167

この仏像による漫荼羅図を実現した場合、その中央には宝塔、その中には妙法蓮華経の五字、そして、並座の二仏が入り、(下座に『報恩抄』の如くであれば大日如来もあり)四菩薩が脇士として置かれることになります。(現行の荘厳では二仏は塔の外となっています。これは間違いであるというのが、わたしの一つの主張ですが、これは置きます)

このような奉安ではしかし、付属の法であれば「南無妙法蓮華経の五字」でなけれならないはずですが、宝塔の中は妙法蓮華経の五字となります。ここに南無妙法蓮華経(漫荼羅)、妙法蓮華経(仏像)の差異が生じますが、これを同じものであるとする整合性は、どのように取れるとお考えになりますか。

もう一点。この仏像奉安では、中央は妙法蓮華経ですが、問答さんは、この妙法蓮華経を拝むことと、漫荼羅の南無妙法蓮華経を拝むことは同じ異義に当たるとお考えになりますか。また、あまた並ぶ仏像を妙法蓮華経に具わる十界と拝しながらも、やはり、拝むのは中央題目ばかりとなりますか。この点は、どのようにお考えになりますか。

169犀角独歩:2005/05/06(金) 11:05:13

【168の訂正】

誤)同じ異義に当たる
正)同じ意義に当たる

170問答迷人:2005/05/06(金) 12:04:50

>南無妙法蓮華経(漫荼羅)、妙法蓮華経(仏像)の差異が生じますが、これを同じものであるとする整合性

観心本尊抄に説かれるのは妙法蓮華経五字ですが、曼荼羅としての仏像群の場合は、字像曼荼羅の如く南無を冠して、南無妙法蓮華経となると思います。

>あまた並ぶ仏像を妙法蓮華経に具わる十界と拝しながらも、やはり、拝むのは中央題目ばかりとなりますか。

そう思います。例えば、釈迦三尊を拝する場合、やはり、脇士の二尊には目が行かず、中尊の釈尊を拝んでいると思います。仏像群の場合も同様で有ろうかと思います。

171犀角独歩:2005/05/06(金) 12:19:50

> 観心本尊抄に説かれるのは妙法蓮華経五字ですが、曼荼羅としての仏像群の場合は、字像曼荼羅の如く南無を冠して、南無妙法蓮華経となる


しかし、こうなると本尊抄の文と相違してしまいませんか。

172犀角独歩:2005/05/06(金) 12:21:46

これから、でかけますので、戻りましたら、また続けさせていただきますが、もう一点。

漫荼羅の図の如く、仏像に置き換えることを蓮師は、考えていらっしゃったと思われますか。

173問答迷人:2005/05/06(金) 12:27:16

170の補足です。

曼荼羅は、字像曼荼羅であろうと、仏像群曼荼羅であろうと、いずれも、本門の題目「南無妙法蓮華経」の意義と、本門の本尊「本門教主釈尊」の意義と、本門の戒壇「曼荼羅(壇)」の意義と、この三つの意義を合わせ持つと思っています。

174問答迷人:2005/05/06(金) 12:32:58

そうですね。しかし、蓮師の字像曼荼羅は、中央南無妙法蓮華経であり、諸尊も南無が冠されており、この点、本尊抄と相違しています。観心本尊と、その表現形式としての曼荼羅では、蓮師のお考えでは、表現において相違があるのだと思います。

175問答迷人:2005/05/06(金) 12:41:57

>172

国教化された暁には、壮大な伽藍形式の寺院が必須であろうと思います。その時に、安置すべき本尊が字像曼荼羅に限る、というお考えは無かったと思います。もし、字像曼荼羅に限るのであれば、それこそ、その為に、蓮師自らが、巨大な板曼荼羅を作って、未来に備えられたことでしょう。

また、本門の本尊の表現形式が字像曼荼羅に限るのであれば、何処かに、それらしき表現が見られてしかるべきだと思います。そのような遺文が見当たらない以上、字像曼荼羅に限る、というお考えは無かったと思います。また、大曼荼羅とは仰っても、種子曼荼羅とは仰って無いので、仏像曼荼羅は視野に入れておられたと思います。

176藤川一郎:2005/05/06(金) 12:59:58
>>175
私は仏像曼陀羅派では無いのですが、もし仏像曼陀羅(立体曼陀羅とでも呼びましょうか?)
だったとして、
問題は仏像等の配置方法ですね。
十羅刹女、八大竜王などは文字で書くと簡単ですが「十体の羅刹女」「八体の竜王」等をバランス良く置けるのかどうかですね?

178問答迷人:2005/05/06(金) 13:18:08

>バランス良く置けるのかどうかですね

そうですね。だけど、仏像群に合わせて伽藍を作れば良いので、さほどの困難は無いのでは?

別の、少し狭い場所だと、十羅刹女は皐諦女で代表させるとか、色々と手法は考えられますね、字像曼荼羅に於いても、省略或いは拡張、と見られる表現の多寡が見られますから。

179顕正居士:2005/05/06(金) 13:54:03
ところで本尊問答鈔以外に法華経の題目が本尊であると述べる確実な遺文があるか?

これがあります。文永10年の顕仏未来記で真蹟曽存の書です。

此人守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめん歟。
(此人得守護之力以本門本尊妙法蓮華経五字令広宣流布閻浮提歟)

この文だけをとれば「本門の本尊と妙法蓮華経の五字」とも読めますが、続く文が

例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し
一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も
其の意是れ同じ。

であります。また下の文には「彼二十四字與此五字」と與の字があります。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049185&VOL_NUM=00000&KOMA=503&ITYPE=0

180問答迷人:2005/05/06(金) 14:44:23

顕正居士さん

了解です。威音王仏との対比の仕方からは、確かに『本門の本尊』である『妙法蓮華経の五字』としか読めませんね。ご教示有難うございました。

181愚鈍凡夫:2005/05/06(金) 16:43:14

横レス失礼します。
しらぬまにレスがドンドン進んでる。 (;^_^A アセアセ…

「顕仏未来記」のこの文は、「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ。」というのですから、法の流布を述べられているのではないでしょうか。

182問答迷人:2005/05/06(金) 17:20:00

>法の流布を述べられているのではないでしょうか。

この文は文字通り、『妙法蓮華経の五字』の流布について述べていると思います。法の流布に限る、というのは、どういう根拠でしょうか。

183愚鈍凡夫:2005/05/06(金) 17:58:46

あっ、問答迷人さんどうもです。
でも「彼の二十四字」は本尊とは関係ないですよね。その「二十四字」と「此の五字」と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ。というのですから、やはり法ではありませんか。

184問答迷人:2005/05/06(金) 18:43:53

愚鈍凡夫さん

妙法五字が法だ、と言うことになれば、そこから逆算して、『「本門の本尊」と「妙法蓮華経の五字」と読むべきである』というご意見ですね。

うーん。難しいですね。僕は、逆に、例えの文に、五字と別に本尊の広宣流布を述べていないから、『五字=本門の本尊』と思ったのですが・・・。

185犀角独歩:2005/05/06(金) 21:29:25

いま戻りました。で、まだ全体に目を通していないのですが、24文字の法華経についてだけ、先に述べますが、このようなことは、逆説的に問うてみることが、解を得る方法だと思います。

どういうことかというと、では「二十四文字の法華経は本尊か」という問いです。これは違うと思います。もし常不軽菩薩に本尊があるとすれば、それは威音王仏ではないでしょうか。

186犀角独歩:2005/05/06(金) 21:36:05

185はちょっと言葉足らずでした。少し書き足します。
いちおう、漢字ということが前提なのが、漢訳仏典の世界ですが、言いたいことは、妙法蓮華経の五字であれば、南無を冠して七文字ですが、二十四文字ですと、二十六文字になります。こんな「中尊」(この言葉には異論がありますが)が形状から、無理があると思えます。

187犀角独歩:2005/05/06(金) 21:57:59

問答名人さん、いちおう、ここまでをまとめて、重ねて質問させてください。

まず、その前に管見を記します。
妙法蓮華経と南無妙法蓮華経は、本尊抄で探れば、自然譲与と付属の相違がありました。わたしは、この相違を仏側と菩薩側で使い分けているように思います。つまり、仏側からすれば、妙法蓮華経ですが、拝受する菩薩側からすれば‘南無’妙法蓮華経となるという意味です。
仏はたしかに妙法蓮華経を付属したのですが、それを受けた菩薩は南無妙法蓮華経と拝受した違いです。自行の南無妙法蓮華経は菩薩側、しかし本門の本尊は仏側です。故に常に蓮師はこれを分けて論じていると思います。菩薩は遺された妙法蓮華経を、南無妙法蓮華経と弘通するのではないでしょうか。ここに本尊と題目の‘たて分け’がありませんか。
ここで質問ですが、問答さんは、妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の相違を同お考えになっておられるのでしょうか。

次に漫荼羅勧請の諸損ですが、これを問答さんは、本門釈尊所具の九界であるとされました。では、ここでお尋ねしますが、たとえば、我が家の達師書写漫荼羅を見ると、妙法蓮華経のみならず、釈迦・多宝・四菩薩に留まらず、普賢、文殊、舎利弗、迦葉には南無が冠せられます。しかし、他の諸尊には南無は冠せられません。もし、一切が仏界所具の九界であれば、総帰命(すべてに南無が冠せられる)、もしくは中央題目以外は南無は不用となってしかるべきであると、わたしには思えるのです。このことから、漫荼羅に勧請される諸尊は仏界所具の九界ではなく、法華説法を凝した経典中の衆生であると考えるほうが至当であると思いますが、この点は如何でしょうか。

もう一点。漫荼羅を仏像に置き換えるという問題ですが、わたしもかつては、本日、議論されたように考えていました。しかし、いまは考えを改めています。仏像として造られるときは、一尊四師となる。わたしはこのように考えます。それをもっとも端的に継承したのが興師であったとも思います。この点は如何でしょうか。

以上、三点、お考えをお聞かせください。

188犀角独歩:2005/05/06(金) 22:00:07

【187の訂正】

誤)同お考え
正)どう、お考え

誤)漫荼羅勧請の諸損
正)漫荼羅勧請の諸尊

189問答迷人:2005/05/06(金) 22:35:30

>妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の相違

これは明らかに別だと捉えています。まず「南無妙法蓮華経」ですが、これはあくまでも「お題目」であり、唱題の音声が基本だと思っています。南無妙法蓮華経は、蓮師の口唱が基本にあるからです。「妙法蓮華経」は神力品の久遠釈尊よりの結要付属が基本だと思っています。この付属の法、妙法蓮華経への帰命を口唱という形で行うのが「本門の題目」だと思います。

>漫荼羅に勧請される諸尊は仏界所具の九界ではなく、法華説法を凝した経典中の衆生であると考えるほうが至当

四聖に南無が冠せられるのは、仏教における普通のあり方であり、不自然は無いでしょう。それに対して仏界所具の六道は、いくら仏界所具と言えども六道である以上、南無を冠すべき理由が無いからだと思います。南無を冠していなくても、釈尊の己心の六道なのだと思います。

>一尊四士

曼荼羅を仏像に置き換える、ということですが、同じことの繰り返しになりますが、「大曼荼羅」という表現を蓮師がされている以上、字像曼荼羅は直ちに仏像群曼荼羅に置き換えられると思っています。一尊四師は、あくまでも、釈迦一体仏に拘る信徒に対する、経過的措置なのだろうと思います。

192犀角独歩:2005/05/07(土) 00:04:36

重要な点に入ってきました。

> 「南無妙法蓮華経」…音声…「本門の題目」

妙法蓮華経は久遠釈尊で、南無妙法蓮華経は音声題目という別という意味と言うことでしょうか。では漫荼羅中央に大書される南無妙法蓮華経はどちらでしょうか。

> 「妙法蓮華経」…結要付属

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏、猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したもう」

妙法蓮華経は自然譲与ですが、付属は南無妙法蓮華経というのが蓮師の主張であると思えますが、これは違いますでしょうか。

> …仏界所具の六道……南無を冠すべき理由が無い

ここは仰る意味がよくわかりません。たとえば、第16大本尊は総帰命の形になっていますが、では、これは南無を冠するべき理由がないのに蓮師は冠したと言うことでしょうか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/016.html

> …一尊四師は…釈迦一体仏に拘る信徒に対する、経過的措置

これはどのような証拠から仰ることでしょうか。

本尊抄では、まず「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但、八品に限る」と言います。つまり、漫荼羅図の如き本尊は八年八品に限るということになりませんでしょうか。そして、「正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を‘脇士’と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て‘脇士’と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」と言いますが、ここで問題にしているのは‘’で括ったように脇士です。そして、「地涌千界出現…本門の釈尊の脇士…一閻浮提第一の本尊…月支・震旦、未だ此の本尊有さず…伝教大師…本門の四菩薩を顕さず」といい、本門釈尊と四菩薩像の関係を述べます。以上の脈絡からするとき、本尊抄で蓮師が言う寿量の仏=本門釈尊像は四菩薩像によって定まると思えますが、如何でしょうか。

以上のことから、漫荼羅(図されるところ)、末法出現の寿量仏像(一尊四士)と相違していると思うのですが、如何でしょうか。

なお、釈尊一体像に拘る人の筆頭を挙げれば、それは蓮師その人であったでしょう。何せ、死んだのちまで、自らの傍らに置けと命じた程ですから。ただ、この‘本尊’が本門本尊仏像たり得なかったのは、あえて蓮師が四菩薩像を副えなかったからである。つまり、将来、造立される本門本尊・寿量仏像と持仏を明確に分けていらっしゃったのであろうと考えるものです。

193通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 00:34:55
論議進展を興味深く拝見しております。
参考になればと思い、要文をいくつか示します。
「此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり分布して妄りに人に授与す可からず」(妙法蓮華経法師品)
「在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には、皆七宝の塔を起て極めて高広厳飾ならしむべし。復舎利を安ずることを須いず。所以は何ん。此の中には已に如来の全身います」(妙法蓮華経法師品)
「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(妙法蓮華経如来神力品)
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)
「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(法華取要抄)
「彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ」(顕仏未来記)
「妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与へ給へり、此の法門は漢土に始るのみならず月氏の論師までも明し給はぬ事なり」(兄弟抄)

194愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 01:09:40

むむっ、進展が早い。 (;^_^A アセアセ…
通りすがりの凡夫さんが提示されている法華経の法師品・神力品の文は法華経が仏の悟達を説いた教典であると主張しているところですね。
それに対し、観心本尊抄・法華取要抄・顕仏未来記・兄弟抄は法華経の主題に法華経の悟達が集約されているとの、蓮祖独自の持論を展開されているところですよね。
何れの文も、「妙法蓮華經」が本尊であるとは言っていません。

195愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 01:12:11

訂正
誤⇒法華経の悟達
正⇒法華経に説かれる仏の悟達

です、悪しからず。 m(_ _)m

196通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 01:13:18
>>194
本尊であるとはいっておりません。思考の参考のためにということです。
特に法華経に仏像崇拝ありやという点ですね。

197愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 01:19:31

もし、蓮祖漫荼羅が本尊であるなら、観心本尊抄の論旨から言って、明確にそう述べられたのではないでしょうか。述べられていないのは、漫荼羅が本尊ではないとの逆説的な論証になるのではないでしょうか。

198通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 01:29:51
>>194
曼陀羅が蔵だとしたらどうですか。
蓮師は、彼の二十四字と此の五字とは同じである。
また法華経についても広略を捨てて肝要を好むといわれ暗に同じであるといわれていると思います。
悟りの体は三世の諸仏証得の一切種智であり、それを衆生に授けるのに、様々な形態をとったのでしょう。蓮師の場合は、曼陀羅であるだけで、曼陀羅そのものにはこだわりがなかったとも考えられますね。
だとすれば、曼陀羅への言及がなくても不思議ではありません。

199犀角独歩:2005/05/07(土) 01:51:32

「若し人仏の為の故に 諸の形像を建立し
 刻彫して衆相を成せる 皆已に仏道を成じき
 或は七宝を以て成し 鍮鉐赤白銅
 白鑞及び鉛錫 鉄木及与泥
 或は膠漆布を以て 厳飾して仏像を作れる
 是の如き諸人等 皆已に仏道を成じき
 綵画して仏像の 百福荘厳の相を作すこと
 自らも作し若しは人をしてもせる 皆已に仏道を成じき
 乃至童子の戯に 若しは艸木及び筆
 或は指の爪甲を以て 画いて仏像を作せる
 是の如き諸人等 漸漸に功徳を積み
 大悲心を具足して 皆已に仏道を成じて
 但諸の菩薩を化し 無量の衆を度脱しき」(方便品)

200犀角独歩:2005/05/07(土) 01:54:34

むしろ、法華経にないのは、本尊、曼陀羅に冠する記述です。

201通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 01:56:48
>>199 犀角独歩さん

過去仏のところですね。それを拝されてどう思われましたか。
結局、蓮師の法門は観心の法門であると私は思いました。

202愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 02:00:11

> また法華経についても広略を捨てて肝要を好むといわれ暗に同じであるといわれていると思います。

広略要は功徳を積む上に置いてはその効果が同じであっても、広=略=要ということではないでしょう。

> 曼陀羅そのものにはこだわりがなかったとも考えられますね。

仰ってる意味が計りかねますが、蓮祖は漫荼羅を重要視していなかったという意味ですか。
だから、敢えて漫荼羅に言及しなかったと。

203通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:00:12
>>200

基本的に法華経は、宝塔に経巻を配置して崇拝するという信仰形態だと思います。
あとは、見仏思想ですね。

204通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:07:22
>>202 愚鈍凡夫さん

もちろん同じではないです。授かる側の機根が違います。
蔵の中身は同じでも、蔵の形態が違うということです。
曼陀羅の相貌が異なるのは、そのためだと思います。

205犀角独歩:2005/05/07(土) 02:07:27

> 203

では、199に引用した仏像に冠する記述はどうでしょうか。
自分の主張に都合の悪いところはとばし読みですか(笑)

206愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 02:12:44

通りすがりの凡夫さん、

> 蔵の中身は同じでも、蔵の形態が違うということです。

これは逆ではありませんか。漫荼羅の相貌が異なると言うことは、曼陀羅という蔵の形は同じでも、中の宝物の形が違うと言うことではないですか。

207犀角独歩:2005/05/07(土) 02:17:24

愚鈍凡夫さん、蔵だなんだという議論はナンセンスですよ。

第一、そんなこと、蓮師の確実な資料からは言えないことです。
それに漫荼羅に定型なしは、漫荼羅を研究した人であれば、誰しも至る結論じゃないですか。蓮師の考えでもないことで、議論をしてもどんどん見当はずれになるだけです。
おやめになったほうがよろしい。

208通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:18:06
>>205 犀角独歩さん

いえいえ、よみとばしではないですよ。
時に応じた修行法があるということだと思います。
「いわゆる雪山童子と申せし人は身を鬼にまかせて八字をならへり、薬王菩薩と申せし人は臂をやいて法華経に奉る、我が朝にも聖徳太子と申せし人は手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る、比れ等は賢人聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候
ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり、観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へばただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをわぐにて候ぞ」

209犀角独歩:2005/05/07(土) 02:20:26

自分で言った言葉は、何でしたか。
「法華経に仏像崇拝ありや」

そこで、方便品にあると示したら、今度は時に応じた修行法と来ましたか。
では、末法今時、法華経典、時に応じた修行でしたか(笑)

210通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:27:51
>>209 犀角独歩さん

方便品の文は、すでに過去仏の因果をあかしたものです。

>末法今時、法華経典、時に応じた修行
だれもそのようなことをいってはいないと思いますが、いかがですか。

211愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 02:29:19

犀角独歩さん、どうも。
お付き合いしないと、失礼かと思いまして。
通りすがりの凡夫さん、「本尊」について議論していたのであって、「修行」について議論していたのではなかったですか。

212犀角独歩:2005/05/07(土) 02:30:40

> 208

『事理供養御書』の

「たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへ(飢)たるよ(世)に、これはなしては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫の為には理くやう。止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」

というのであって、蓮師の法門が観心法門であることを述べるところではなく檀波羅蜜法門を陳べる段です。切り文して原意を変えるのはやめましょう。

213愚鈍凡夫:2005/05/07(土) 02:30:58

訂正
誤⇒修行」について議論していたのではなかったですか。

正⇒修行」について議論していたのではなかったのではないですか。

悪しからず。 m(_ _)m

214犀角独歩:2005/05/07(土) 02:33:45

> 210

ほお、では、その過去仏の因果とは?

215犀角独歩:2005/05/07(土) 02:40:17

さて、これ以上、愚にもつかないやり取りをしても時間の無駄ですからやめにします。
ところで、通りすがりの凡夫さん、あなたは、もう去ったのではなかったのですか。
それに、ここは「本尊と曼荼羅」スレです。違うことを書いて荒らすのはやめてください。

216通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:41:16
>>212,214 犀角独歩さん

結局心ざしですね。
過去仏が時に応じたさまざまな善根により、仏道を成じたわけです。
ですが、その悟りの体は同じであるということでしょう、

217犀角独歩:2005/05/07(土) 02:44:14

懲りない人ですね。
ですから、「過去仏」とは何ですか。

218通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:45:03
>>215 犀角独歩さん

まあ、そうですね。その点は謝ります。
荒らしとされるのは心外ですが、結果としてはスレ違いになってしまいました。

219通りすがりの凡夫:2005/05/07(土) 02:50:17
>>217 犀角独歩さん

方便品に説かれる過去の諸仏です。

220犀角独歩:2005/05/07(土) 03:08:39

> 219

そうすると、該当の部分は過去仏が種々の修行のうち、仏像を作ったことで仏道を乗じたことを記したところである、けれど、修行は時に従ってしなければいけないから、蓮師は観心法門で、志で、だから、仏像は要らないと、そう言うわけですか。

面倒なので、該当の偈が何を説いたのかは説明しませんが、上述があなたの考えであるわけですか。まあ、以上の‘答合わせ’は敢えてしませんが、ただ、一点、蓮師は随身仏を所持していたわけですから、あなたの言う時に外れた修行をしていたことになるわけですね。驚きました。

221問答迷人:2005/05/07(土) 06:35:07

>192
漫荼羅中央に大書される南無妙法蓮華経はどちらでしょうか。

両意を具えるのだと思います。ヒゲ文字でしたためられる事は音声題目を表現したものであろうと考えています。また、南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経に帰命」ですから、久遠本仏の意義を具えると思います。


>妙法蓮華経は自然譲与ですが、付属は南無妙法蓮華経というのが蓮師の主張であると思えますが、これは違いますでしょうか。

自然譲与とは、どういう意味でしょうか。付属があって、付属の人が取り次がなくては、譲与は成立しないと思います。二つを分けて論じる意味がよく分かりません。

>第16大本尊は総帰命の形

南無を冠するべき列集のみを書かれているのではないのでしょうか。

続きは後ほど書き込みます。

222問答迷人:2005/05/07(土) 07:46:25

>192
本門釈尊像は四菩薩像によって定まる

なるほど。確かにそのように読めますね。脇士の四菩薩によって本門の教主釈尊像が定まると。

>漫荼羅(図されるところ)、末法出現の寿量仏像(一尊四士)と相違していると

字像曼荼羅には、初期の曼荼羅の幾つかの例外を除けば、四菩薩が描かれていますから、曼荼羅が本門教主釈尊を表している事は動かないと思います。問題は、蓮師が仏像群曼荼羅を考えておられたかどうか、ということですね。これについては、どこまでも推測の域を出ませんが、字像曼荼羅が仏像群曼荼羅の設計図としての役割を担っていないとは言い切れないと思います。仏像群曼荼羅のエッセンスが一尊四師ではないかと思いますが。

223犀角独歩:2005/05/07(土) 09:06:26

問答名人さん:

> 南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経に帰命」ですから、久遠本仏の意義を具える

どのような証拠から、そのように仰せになるのでしょうか。
南無は帰命する側のことです。

> 自然譲与とは、どういう意味でしょうか。付属があって、付属の人が取り次がなくては、譲与は成立しないと思います。二つを分けて論じる意味がよく分かりません。

これは先に挙げたとおり、蓮師が書き分けていますので、それに従ったことです。


>> 第16大本尊は総帰命の形
> 南無を冠するべき列集のみを書かれている

これは、わたしの質問を誤解なさっていると思います。
四聖にのみ、南無を冠するのに対して、一切に南無を冠する違いです。
たとえば、第16大本尊では天照八幡には南無が感せられますが、第93大漫荼羅では冠せられません。この相違は、どうして起きるのかという質問です。

> 曼荼羅が本門教主釈尊を表している事は動かない

そうでしょうか。では、漫荼羅が本門教主釈尊を表す証拠は何でしょうか。

> 字像曼荼羅が仏像群曼荼羅の設計図としての役割を担っていないとは言い切れない

咲きに引用したとおり「其本尊為体」以下の文言は八年八品を表していますが、一尊四士は久遠本仏と、滅後末法弘通の菩薩を表しています。前者は、インド応誕時の釈尊の様ですが、一尊四士は末法、地涌菩薩の弘通を示すと考えられますから、その意義は違うのではないでしょうか。そのことをこんこんと記しているのが本尊抄であるという意味で、先に脇士に就いて記したわけです。

其本尊為体は在世(正法)の様であるのに対して、一尊四士は久末を表す奉安の相違がありませんか。

> 仏像群曼荼羅のエッセンスが一尊四師

以上のことから、わたしはこのお考えは違っていると思います。

久遠釈尊=妙法蓮華経、漫荼羅図=仏像奉安ということは、実際上、不可能であると思います。理由は至って簡単で、中央と並座、両方に釈尊を置くことになってしまうからです。つまり、漫荼羅が示すところと、仏像奉安では、その意義が違っているのであろうと思うわけです。漫荼羅は付属の南無妙法蓮華経(事行の南○経)を表すのに対して、仏像奉安は久遠釈尊(本門の本尊)と弘通の菩薩を表す違いです。これを本尊抄に

「事行の南無妙法蓮華経の五字、竝びに本門の本尊」

と分けて言うのではないでしょうか。この二つがイコールであるという証拠は何も見当たりません。しかし、それはわたしの見落としでしょうか。何か証文がありますでしょうか。

224問答迷人:2005/05/07(土) 11:25:02

>これは先に挙げたとおり、蓮師が書き分けていますので、それに従ったことです。

それでは以下の遺文はどうお考えでしょうか。これらを見る限り、『妙法蓮華経の五字』が自然譲与とは、いえないと思いますが、如何でしょう。

観心本尊抄『地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう也。』『此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもうなり。』

法華取要抄『日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也。』

新尼御前御返事『上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、』

高橋入道殿御返事『大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして、多宝仏・十方の諸仏の御前にして、釈迦如来七宝の塔中にして、妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給ふ』

225問答迷人:2005/05/07(土) 12:04:28

>192
妙法蓮華経は久遠釈尊で、南無妙法蓮華経は音声題目という別という意味と言うことでしょうか。では漫荼羅中央に大書される南無妙法蓮華経はどちらでしょうか。

この点、舌足らずだったようなので、補足します。

字像曼荼羅に於いては、南無妙法蓮華経と唱える本門の題目の意義と、帰命すべき対象としての本門の本尊の意義との両意を具える表現として、漫荼羅中央に南無妙法蓮華経と大書されるのだと思います。

226問答迷人:2005/05/07(土) 12:13:10

>この相違は、どうして起きるのかという質問です。

あっ、了解です。この点については、よく分かりません。前言撤回します。

ご質問ですが、十界の列衆の内、四悪道に対して南無を冠した例はざっと見ましたが、無い様に思いますが、如何でしょうか。ご存知でしたらご教示ください。

227問答迷人:2005/05/07(土) 12:19:21

>漫荼羅が本門教主釈尊を表す証拠は何

曼荼羅には、本尊抄に述べられる「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。」が表現されているからです。

228問答迷人:2005/05/07(土) 12:23:48

>其本尊為体は在世(正法)の様であるのに対して、一尊四士は久末を表す奉安の相違がありませんか。

もしそうだとすれば、弟子檀那に対して、字像曼荼羅を多数授与し、方や、一尊四師像は一体も残されなかった理由が分かりません。在世の為の本尊の姿を、末法の衆生に授与する目的が何かあるのでしょうか。

229犀角独歩:2005/05/07(土) 12:25:58

問答さん、妙法蓮華経自然譲与は、本尊抄の

「一念三千の仏種に非ざれば有情の成仏・木画二像之本尊は有名無実也。
 問て曰く 上の大難、未だ其の会通を聞かず、如何。
 答て曰く 無量義経に云く_雖未得修行。六波羅蜜。六波羅蜜。自然在前〔未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す〕等云云。法華経に云く_欲聞具足道〔具足の道を聞かんと欲す〕等云云。涅槃経に云く_薩者名具足〔薩とは具足のに名く〕等云云。龍樹菩薩の云く ̄薩者六也〔薩とは六なり〕等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く ̄沙者訳云六。胡法以六為具足義也〔沙とは訳して六と云う。胡の法には六を以て具足の義と為す也〕。吉蔵の疏に云く ̄〔沙飜為具足〔沙とは飜して具足と為す〕。天台大師の云く ̄薩者梵語。此妙飜〔薩とは梵語。此れには妙と飜す〕等云云。
 私に会通を加えば本文を黷すが如し。爾りと雖も、文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば‘自然’に彼の因果の功徳を‘譲’り‘与’えたもう」

という蓮師の言葉です。
一念三千の仏種…有情の成仏…木画二像之本尊…六波羅密自然在前、薩…妙…具足に就き、蓮師が加えた会通です。
ここでは、蓮師は自身上行の立場を採っているわけではなく、しかし、寿量仏像出現を天台の難信難解から一念三千仏種を論じているのではないでしょうか。
正法から像法における一念三千は以上によって充てる。実際のところ、四菩薩の出現無くして、妙法蓮華経の五字は日本まで伝わってきました。
それはつまり、『南条兵衛七郎殿御書』に

「弥勒菩薩の云く ̄東方有小国 唯有大機〔東方に小国有り。唯大機のみ有り〕等云云。此の論の文の如きは、閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機ある歟。肇公の記に云く ̄茲典有縁東北小国〔茲の典は東北の小国に有縁なり〕等云云。法華経は東北の国に縁ありとかかれたり。安然和尚の云く ̄我日本国皆信大乗〔我が日本国皆大乗を信ず〕等云云。慧心の一乗要決に云く ̄日本一州円機純一等云云。釈迦如来・弥勒菩薩・須利耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心先徳等の心ならば、日本国は純に法華経の機也」

という如くです。

しかし、十神力付属は結要付属ですから、これは地涌菩薩に限ります。この前者の妙法蓮華経と、後者の妙法蓮華経は明らかに違います。つまり、その後、記される妙法蓮華経は南無妙法蓮華経の五字であって、そればかりは付属の法であるということでしょう。
ここに自然譲与と付属の相違があると思いますが、如何でしょうか。

では、引き続き、漫荼羅諸尊の南無の有無、久遠釈尊=妙法蓮華経の名証をお待ちいたします。

230問答迷人:2005/05/07(土) 12:29:08

>中央と並座、両方に釈尊を置くことになってしまうからです。

本尊抄の『塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩』の配置だと、そうはならないとおもいますが。

231犀角独歩:2005/05/07(土) 12:34:20

> 230

ええ、ですから、漫荼羅として表せば、もちろん、そうはなりません。妙法蓮華経は釈尊となっていませんから。

しかし、妙法蓮華経=釈尊であれば、中央の妙法蓮華経は釈尊でなければならなくなります。そうなれば、釈尊は二体顕れることになるという意味です。

232問答迷人:2005/05/07(土) 12:40:56

>その後、記される妙法蓮華経は南無妙法蓮華経の五字であって

蓮師は、『妙法蓮華経の五字』と『南無妙法蓮華経の五字」との二通りの表現をされますが、その表現の違いだけでは、その意味内容は判別出来ないように思います。南無が有るか無いか、という事ではなく、付属かそうでないかは、文脈で捉えるべきではないかと思いますが、如何でしょうか。

233犀角独歩:2005/05/07(土) 12:44:13

> 232

これはもちろん、そのとおりでしょう。しかし、厳密な表現として、蓮師はその2つを使い分けた例を遺文から挙げたと言うことです。

234問答迷人:2005/05/07(土) 12:44:55
>231
そうなれば、釈尊は二体顕れることになるという意味です。

だからこそ、本尊抄の文は「妙法蓮華経」と表現されていると思います。仏像群曼荼羅では、それを踏襲して、五輪塔を中央に立てる、という推論は独歩さんが、かつて述べられたことでした。

235問答迷人:2005/05/07(土) 12:50:19

>233
蓮師はその2つを使い分けた例

なぜ、この二つを使い分ける必要があるのでしょうか。妙法蓮華経が久遠本仏を表し、南無妙法蓮華経が久遠本仏への信仰実践を表す、そういうことた゜と僕は考えています。

236犀角独歩:2005/05/07(土) 13:02:09

> 234

そのとおりです。ですから、その点をわたしは考えを改めたと記したのです。
その理由は、先に縷々記したとおりですが、「其本尊為体」では、末法の本尊足り得ないからです。なぜならば、これは妙法蓮華経を地涌菩薩に付属した様の描写ですから、ここで示される釈尊は、久成を表明したところで、印度応誕の釈尊です。

五百塵点成道、そして、地涌菩薩を初めて発心させた時点の釈尊には‘弟子は、地涌以外にない’わけです。つまり、仏・久遠釈尊と弟子・地涌菩薩のみです。これを像に表せば、どうなるでしょうか。つまり、一尊四士以外に有り得ません。

つまり、その後、近成の弟子・衆生を安置する奉安では、久遠釈尊、初発心・地涌菩薩、また、末法の仏菩薩を表現できません。違いますでしょうか。わたしが考えを改めた理由はここにあります。

ですから、漫荼羅図のように仏像を作ることが出来ても、それは末法の用とはなり得ないということです。仏菩薩の様は唯、久遠釈尊と四菩薩に限ります。つまり一尊四士です。

ではしかし、漫荼羅は、その用となり得ないことが書いてあることになるのか、という疑問が生じますが、ここから、では、漫荼羅とは何かという問いがはじまるわけです。

237問答迷人:2005/05/07(土) 13:27:37

>236
仏菩薩の様は唯、久遠釈尊と四菩薩に限ります。つまり一尊四士です。

観心本尊抄は末法に於いて始める、或いは始まる観心本尊について述べられたものです。もし、一尊四士がその本尊抄で説かれる『如来滅後五五百歳始観心本尊』だとして、その旨を結論として明記した明文が有りますでしょうか。

238犀角独歩:2005/05/07(土) 13:38:15

192に記したところです。しかし、もちろん「一尊四士」という後代の呼称がここで使われているわけではありません。

本尊抄では、まず「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但、八品に限る」と言います。つまり、漫荼羅図の如き本尊は八年八品に限る…
「正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を‘脇士’と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て‘脇士’と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」と言いますが、ここで問題にしているのは‘’で括ったように脇士…
…「地涌千界出現…本門の釈尊の脇士…一閻浮提第一の本尊…月支・震旦、未だ此の本尊有さず…伝教大師…本門の四菩薩を顕さず」といい、本門釈尊と四菩薩像の関係を述べます。以上の脈絡からするとき、本尊抄で蓮師が言う寿量の仏=本門釈尊像は四菩薩像によって定まる…

239問答迷人:2005/05/07(土) 14:13:37

如来滅後五五百歳始観心本尊について、蓮師は本文の中で次のように述べています。

先ず、観心について『観心とは我が己心を観じて十法界を見る。是れを観心と云う也。』

さらに、引き続いて『譬ば他人の六根を見ると雖も 未だ自面の六根を見ず自具の六根を知らず。明鏡に向う之時 始て自具の六根を見るが如し。設い諸経之中に所々に六道竝びに四聖を載すと雖も 法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば 自具の十界百界千如一念三千を知らざる也。』と述べられる訳です。ここで、『法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡』によって一念三千の観心を成就することを述べられるわけで、一念三千の観心を成就するための『本尊』を述べられる前段とされています。

そして、本尊抄の結論の所では、『天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう。』と述べられ、一念三千の観心が妙法蓮華経の五字を受持することによって成就されることを述べられる訳です。

この文脈からすれば、妙法五字を受持することを以って、一念三千の観心を成就することを本尊抄において説かれており、一尊四士の仏像では、妙法蓮華経の五字は何処に行ってしまったのか、と訝るばかりです。もし、妙法蓮華経の五字が、本尊の事ではなくて、唱題の五字の事だとすれば、この抄は「如来滅後五五百歳始唱法華題目抄」とすべき、という事になると思いますが。

240問答迷人:2005/05/07(土) 14:18:08

訂正です。

× もし、妙法蓮華経の五字が、本尊の事ではなくて、唱題の五字の事だとすれば、

○ もし、妙法蓮華経の五字が、本尊ではなく、一尊四士に向かって唱える唱題の五字の事だとすれば

241犀角独歩:2005/05/07(土) 14:30:23

> 239

唱題の五字というのは問答さんの主張であって、蓮師の主張ではありませんでしょう。蓮師は本尊抄では事行の南無妙法蓮華経といい、のちには本門の題目と言います。
本門の本尊が本門の題目であれば、これを別に陳べる必要はありません。
反詰すれば、では、本門の本尊が本物題目であると蓮師はどこに記しているのでしょうか。

たいへん、僭越ながら、申し上げますが、これは一念三千の基本的な思想構造を理解されていないことから来る誤解ではないでしょうか。

要は寿量品で三妙合論が説かれることは仏界(本果)、菩薩界(本因)を表記であり、娑婆世界説法教化は三世間における(本国土)は仏界所具の菩薩界、仏界の本国土を表す訳ですから、寿量本仏本尊と、地涌菩薩が顕れない限り、一念三千は成就しません。つまり、それを

「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也。経に云く_我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数〔我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり〕等云云。我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属也。例せば太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内の大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し也。上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩也。妙楽大師云く 当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界〔当に知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍ねし〕等云云。[p0711-0712]
 夫れ始め寂滅道場華蔵世界より沙羅林に終るまで五十余年之間、華厳・密厳・三変・四見等之三土四土は、皆、成劫之上の無常上の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養・浄瑠璃・密厳等也。能変の教主涅槃に入れば、所変の諸仏随って滅尽す。土も又以て是の如し。今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。仏、既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化、以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足三種の世間也」

と記されるわけです。つまり、三妙合論して、久遠本仏(仏界)が顕れなければ一念三千は成就しないことと、本門の題目は混同できません。この釈尊の因行果徳の二法による一念三千の珠を裏み、上行所伝されるところが、妙法蓮華経ですから、この二義は分けて立つのでしょう。本門釈尊は本尊であり、題目は付属の法の違いです。

242犀角独歩:2005/05/07(土) 14:31:42

> 241

誤)本門の本尊が本物題目
正)本門の本尊が本門の題目

243問答迷人:2005/05/07(土) 14:49:52

重ねてご質問します。

本尊抄には『法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば 自具の十界百界千如一念三千を知らざる也』とあります。

それでは蓮師はここに述べられる「摩訶止観等の明鏡」として何を立てられたのでしょうか。それが観心本尊ではないのでしょうか。

244犀角独歩:2005/05/07(土) 14:52:02

> 一尊四士の仏像では、妙法蓮華経の五字は何処に行ってしまったのか、と訝るばかりです

ですから、ここに仏像造立と漫荼羅図示は、別に存することになるのではないでしょうか。

> 妙法蓮華経の五字…本尊の事ではなくて、唱題の五字の事…「如来滅後五五百歳始唱法華題目抄」

ええ、そのとおりでしょう。ところが、そうはなっていません。一連の問答さんの主張に従えば、以上のような抄名となってしかるべきです。しかし、実際は蓮師自ら「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」とされました。つまり、題目本尊を論じたのではなく、釈尊本尊を論じた抄であるということでしょう。

245犀角独歩:2005/05/07(土) 15:05:53

やや錯綜しました。243に戻り、お応えします。

> 本尊抄には『法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば 自具の十界百界千如一念三千を知らざる也』とあります。


ここで読み止めては、文字どおり自具(人界所具)で留まり肝心の仏界所具の九界が顕れません。すなわち、

> 法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば 自具の十界百界千如一念三千を知らざる也。
 問て曰く 法華経は何れの文ぞ。天台の釈は如何。
 答て曰く 法華経第一方便品に云く_欲令衆生。開仏知見〔衆生をして仏知見を開かしめんと欲す〕等云云。是れは九界所具の仏界也。
寿量品に云く_如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。〔是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり〕等云云。此経文は仏界所具の九界也。

> …「摩訶止観等の明鏡」として何を立てられた…観心本尊

いや、そうではなく、蓮師は摩訶止観等を明鏡として、本尊を観心したのでしょう。先の文に「観心とは我が己心を観じて十法界」とあります。この十法界の最極は仏界です。ところが

「仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ、疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云く_欲令衆生。開仏知見〔衆生をして仏知見を開かしめんと欲す〕。涅槃経に云く_学大乗者雖有肉眼名為仏眼〔大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す〕等云云。末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。
 問て曰く 十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること、信を取り難き者也。今時、之を信ぜずば必ず一闡提と成らん。願わくは大慈悲を起こして之を信ぜしめ、阿鼻の苦を救護したまえ」

という大問題と蓮師は止観を通じて立ち向かうわけです。そこで、蓮師があの極寒の佐渡、流人という境涯で、衣食乏しきなかで感得したのが、久遠釈尊という仏界であったわけでしょう。仏界を見ぬ限り一念三千は成就せず、それは阿鼻の苦であるという切羽詰まった肉迫であったのでしょう。

246問答迷人:2005/05/07(土) 15:58:25

本尊抄の本文には次のような文があります。

『草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。』

ここで言う『本尊』とは、信仰の対象であり、木像、或いは画像の仏像を言うと思われます。注目すべきは、「本尊に恃み奉ること」という表現です。ここに於いて、本尊とは、『木像或いは画像で、恃み奉るべき対象』という事でしょう。別な言い方をすれば、偶像と取れるような物理的存在をさしていると思います。

『蓮師は摩訶止観等を明鏡として、本尊を観心したのでしょう』という表現からは、このような物理的存在としての『本尊』の姿は覗われません。『如来滅後五五百歳始観心本尊』とは、何らかの物理的存在で、しかも、一念三千の観心を成就する為の明鏡としての役割を果たす存在を指すのだと思います。

それが、字像曼荼羅なのか、一尊四士の仏像なのか、という事では有りませんか。

247犀角独歩:2005/05/07(土) 16:54:30

論攷の順番が逆になりましたが、仰るところは「百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亙る」という、いよいよ三世間に踏み込んでいく段ですね。
また、ここでは仏像開眼は真言師ではなく、法華天台でなければならないという主張が籠められているわけですね。

> ここで言う『本尊』とは、信仰の対象であり、木像、或いは画像の仏像を言う…

「未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか…地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」

という本門の本尊ですね。

> 『蓮師は摩訶止観等を明鏡として、本尊を観心したのでしょう』という表現からは、このような物理的存在としての『本尊』の姿は覗われません。『如来滅後五五百歳始観心本尊』とは、何らかの物理的存在で、しかも、一念三千の観心を成就する為の明鏡としての役割を果たす存在を指すのだと思います。

これは一部はあって居ますが一部は違っていると思うのです。
観心本尊とは、文字どおりなのであって、心で観る本尊でしょう。
しかし、それが仏像の形で出現するとも言うわけです。
けれど、「一念三千の観心を成就する為の明鏡」は、もはや、必要ではなく、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」と結論されるからです。つまり、こちらは事行の南無妙法蓮華経であろうと存じます。

> 字像曼荼羅なのか、一尊四士の仏像なのか

という択一ではなく、字像漫荼羅としての事行の南無妙法蓮華経、一尊四士として本門の本尊ということであると思います。

248問答迷人:2005/05/07(土) 17:22:43

>字像漫荼羅としての事行の南無妙法蓮華経

字像曼荼羅は本門の題目であると。これは、驚嘆に値する、革命的な、大いなる説だと思います。了解です。永年の謎が解けそうな気がしてきました。

249犀角独歩:2005/05/07(土) 18:15:51

> 248

問答名人さん、たいへん嬉しく存じます。

本尊抄に

「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう」

この五字はしかし、問答さんがお示しのとおり、上行所伝付属です。
では、この「授与」の二文字ですが、具体的には、どのように授与されるのでしょうか。すなわち、これがまさに漫荼羅の形で授与されるということではないでしょうか。
実際のところ、漫荼羅には「授与」の文字を以て弟子・檀那に下されていったわけです。さらにこの漫荼羅図は実に懇切丁寧です。この妙法蓮華経が、どのような形で所伝されたかを図案を以て説明されています。「南無妙法蓮華経」と大書され、それが多宝塔内の妙法蓮華経であり、釈迦・多宝は並座し、これを示し、付属弘通の四菩薩は釈尊の脇士として、その法が付属されたことを示します。その儀式が行われたのは在世八年八品に限ることは図示を見れば即座に理解できます。こうして八年八品において、四菩薩に付属された妙法蓮華経は、今度は、具体的に、その弟子檀那に、日蓮花押の認めを以て授与されるところが漫荼羅ではないのかと、わたしは考えるわけです。これはまた、末法法華経の行者の所持の法、事行の法が何であるかを明示された証文でもあるでしょう。
ですから、漫荼羅は事行の南無妙法蓮華経の授与書ではないのか、となれば、これは、本門本尊の性質とは役割を異にしていると、わたしは考えるわけです。
蓮師の漫荼羅図示、授与には以上のような思いが隠っていると思うのです。

また、「此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」といい、四菩薩は在俗の王と僧の二者として顕れることを陳べます。

もし、蓮師が上行最誕の自覚があったとすれば、僧として「正法弘持」の姿を示し、より具体的には、その法を漫荼羅と図示して授与することを意図したと思えます。
一方、在俗の王と出現する四菩薩は愚王を誡責して、そこで寿量本仏の仏像と、それを安置する堂宇を建て一国広宣流布の姿を示すという、違う役割を担うという二面性を蓮師は、考え、述作されていったのが本尊抄ではないのかと、蓮師の意図を、わたしは読みました。

251問答迷人:2005/05/07(土) 19:32:56

蓮師は三つの秘法について

『本門の題目』の流布を果たした。
『本門の本尊』については、広宣流布の時を待って、骨格のみ示した。
『本門の戒壇』については、名目を挙げるのみに留めた。

こういう理解で宜しいでしょうか。あと問題は、この理解が真蹟遺文と矛盾しないか、ですね。

252犀角独歩:2005/05/07(土) 20:42:18

問答さん、251の整理、わたしもそのように考えております。
また、真跡から窺えるところも、このようであると思います。


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