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本尊と曼荼羅

223犀角独歩:2005/05/07(土) 09:06:26

問答名人さん:

> 南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経に帰命」ですから、久遠本仏の意義を具える

どのような証拠から、そのように仰せになるのでしょうか。
南無は帰命する側のことです。

> 自然譲与とは、どういう意味でしょうか。付属があって、付属の人が取り次がなくては、譲与は成立しないと思います。二つを分けて論じる意味がよく分かりません。

これは先に挙げたとおり、蓮師が書き分けていますので、それに従ったことです。


>> 第16大本尊は総帰命の形
> 南無を冠するべき列集のみを書かれている

これは、わたしの質問を誤解なさっていると思います。
四聖にのみ、南無を冠するのに対して、一切に南無を冠する違いです。
たとえば、第16大本尊では天照八幡には南無が感せられますが、第93大漫荼羅では冠せられません。この相違は、どうして起きるのかという質問です。

> 曼荼羅が本門教主釈尊を表している事は動かない

そうでしょうか。では、漫荼羅が本門教主釈尊を表す証拠は何でしょうか。

> 字像曼荼羅が仏像群曼荼羅の設計図としての役割を担っていないとは言い切れない

咲きに引用したとおり「其本尊為体」以下の文言は八年八品を表していますが、一尊四士は久遠本仏と、滅後末法弘通の菩薩を表しています。前者は、インド応誕時の釈尊の様ですが、一尊四士は末法、地涌菩薩の弘通を示すと考えられますから、その意義は違うのではないでしょうか。そのことをこんこんと記しているのが本尊抄であるという意味で、先に脇士に就いて記したわけです。

其本尊為体は在世(正法)の様であるのに対して、一尊四士は久末を表す奉安の相違がありませんか。

> 仏像群曼荼羅のエッセンスが一尊四師

以上のことから、わたしはこのお考えは違っていると思います。

久遠釈尊=妙法蓮華経、漫荼羅図=仏像奉安ということは、実際上、不可能であると思います。理由は至って簡単で、中央と並座、両方に釈尊を置くことになってしまうからです。つまり、漫荼羅が示すところと、仏像奉安では、その意義が違っているのであろうと思うわけです。漫荼羅は付属の南無妙法蓮華経(事行の南○経)を表すのに対して、仏像奉安は久遠釈尊(本門の本尊)と弘通の菩薩を表す違いです。これを本尊抄に

「事行の南無妙法蓮華経の五字、竝びに本門の本尊」

と分けて言うのではないでしょうか。この二つがイコールであるという証拠は何も見当たりません。しかし、それはわたしの見落としでしょうか。何か証文がありますでしょうか。


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