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本尊と曼荼羅
247
:
犀角独歩
:2005/05/07(土) 16:54:30
論攷の順番が逆になりましたが、仰るところは「百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亙る」という、いよいよ三世間に踏み込んでいく段ですね。
また、ここでは仏像開眼は真言師ではなく、法華天台でなければならないという主張が籠められているわけですね。
> ここで言う『本尊』とは、信仰の対象であり、木像、或いは画像の仏像を言う…
「未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか…地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」
という本門の本尊ですね。
> 『蓮師は摩訶止観等を明鏡として、本尊を観心したのでしょう』という表現からは、このような物理的存在としての『本尊』の姿は覗われません。『如来滅後五五百歳始観心本尊』とは、何らかの物理的存在で、しかも、一念三千の観心を成就する為の明鏡としての役割を果たす存在を指すのだと思います。
これは一部はあって居ますが一部は違っていると思うのです。
観心本尊とは、文字どおりなのであって、心で観る本尊でしょう。
しかし、それが仏像の形で出現するとも言うわけです。
けれど、「一念三千の観心を成就する為の明鏡」は、もはや、必要ではなく、「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたもう」と結論されるからです。つまり、こちらは事行の南無妙法蓮華経であろうと存じます。
> 字像曼荼羅なのか、一尊四士の仏像なのか
という択一ではなく、字像漫荼羅としての事行の南無妙法蓮華経、一尊四士として本門の本尊ということであると思います。
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