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本尊と曼荼羅

187犀角独歩:2005/05/06(金) 21:57:59

問答名人さん、いちおう、ここまでをまとめて、重ねて質問させてください。

まず、その前に管見を記します。
妙法蓮華経と南無妙法蓮華経は、本尊抄で探れば、自然譲与と付属の相違がありました。わたしは、この相違を仏側と菩薩側で使い分けているように思います。つまり、仏側からすれば、妙法蓮華経ですが、拝受する菩薩側からすれば‘南無’妙法蓮華経となるという意味です。
仏はたしかに妙法蓮華経を付属したのですが、それを受けた菩薩は南無妙法蓮華経と拝受した違いです。自行の南無妙法蓮華経は菩薩側、しかし本門の本尊は仏側です。故に常に蓮師はこれを分けて論じていると思います。菩薩は遺された妙法蓮華経を、南無妙法蓮華経と弘通するのではないでしょうか。ここに本尊と題目の‘たて分け’がありませんか。
ここで質問ですが、問答さんは、妙法蓮華経と南無妙法蓮華経の相違を同お考えになっておられるのでしょうか。

次に漫荼羅勧請の諸損ですが、これを問答さんは、本門釈尊所具の九界であるとされました。では、ここでお尋ねしますが、たとえば、我が家の達師書写漫荼羅を見ると、妙法蓮華経のみならず、釈迦・多宝・四菩薩に留まらず、普賢、文殊、舎利弗、迦葉には南無が冠せられます。しかし、他の諸尊には南無は冠せられません。もし、一切が仏界所具の九界であれば、総帰命(すべてに南無が冠せられる)、もしくは中央題目以外は南無は不用となってしかるべきであると、わたしには思えるのです。このことから、漫荼羅に勧請される諸尊は仏界所具の九界ではなく、法華説法を凝した経典中の衆生であると考えるほうが至当であると思いますが、この点は如何でしょうか。

もう一点。漫荼羅を仏像に置き換えるという問題ですが、わたしもかつては、本日、議論されたように考えていました。しかし、いまは考えを改めています。仏像として造られるときは、一尊四師となる。わたしはこのように考えます。それをもっとも端的に継承したのが興師であったとも思います。この点は如何でしょうか。

以上、三点、お考えをお聞かせください。


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