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素朴な疑問
2039
:
デルトロ
:2005/02/13(日) 05:19:30
自分なりの分析です。
フラッシュバックです。前の時の感情が
ひょっこりと顔を出して、
歪んだ形で一気に噴出したんでしょう。
その時ポストに教会のパンフ類がたくさん入っていたけど、
あえてそれに因果はみつけません
2041
:
吉祥仙人
:2005/02/13(日) 09:24:21
デルトロさんへ 外野から失礼します。
私の経験から言っても
2036での空即是進化さんの判断は適切と思います。
アエテ言えば、
デルトロさんの状態は
おそらくこの掲示板に参加されている
多くの方が
すでに過去に経験されている
状態だと思います。
自分を危険視することなく
「だれにでもあることだ」
くらいに
冷静にお考えいください。
2042
:
吉祥仙人
:2005/02/13(日) 09:32:27
失礼
冷静にお考え下さい
2043
:
愚鈍凡夫
:2005/02/13(日) 18:49:54
>>2031
:大勇者さん、どうも。
特に幼子に対する精神的・身体的ストレスは、取り返しのつかないことになりますから、恐ろしいですね。
今の時代でもそうですが、脳の知識がなかった昔は、どれだけの多くの悲劇が世間の陰で繰り広げられていたかと思うと、やりきれない気分になります。
2044
:
犀角独歩
:2005/02/14(月) 00:24:50
そういえば、デルトロさん、本日はお目見えではありませんでしたね。
元気にしていますか。
わたしは、ここ何日か熱が下がらず、そろそろ、ダウンです。
もう、寝てしまいますが、勘弁してください。
2045
:
デルトロ
:2005/02/14(月) 05:43:12
こんにちは
ようやくまともになってきました。
以前のを読んでみると完全に増上慢のかたまりですね。いかに謗法与同が恐ろしいものか、
よくわかりました。狂っていますね、完全。
みなさんの激しい憎悪を突き刺さるほど激しく体中で感じます。私流の言葉でいえばもらい狂いしそうになったというのが本音です。
あの後再び、必死何とかその合理性を必死で考えたのがフラッシュバックでした。
馬鹿ですよね、自分で「難信難解」と感じておきながら、また必死で自分の合理化ばかり探していたんですから。
あの自分も今の自分も、ちょっと前の自分も全部すべて同じ自分です。否定はまったくできません。
その時の自分の生命状態を表しているのは事実なので自分の中に色んな生命状態が共存しているのがよくわかりました。
どんな罵倒も憎悪も受けなければいけないとは思います。やはり自分の言葉なのであるから。
ツギハギはお前の主観といわれてみればまったくそのとおりなのかもしれません。
しかしツギハギはいたるところにあるのです。その正体は2000前後あたりに私の投稿にあります。
もしこの私の問いかけに、心の底から「おれは違う。おれの「疑」はそんなところから始まっていない」というならば、
それも正解なのかもしれません。しかし違和感を大切にしてください。マインドコントロールからの解放でのプロセスならば、
もっと反発心があってもいいはずだとどこかにかきました。そうではなく、違和感から生じた疑問なのです。
自分をなんとか納得させたい。その理由を必死で探す。そこにすべての「真」を見ることが、正しいことには思えないのです。
人間には誰にでも仏の生命があるといいます。そしてその正体がマインドコントールによるものだというならば、
その人にとってはそれがきっと正解なのでしょう。
私の今までのこの経緯を、すべて合理的にいくらでも説明できるというのは、おそらくきっとそうなのでしょう。
ハッサン氏の本は読みました。ここの掲示板でもいくつか引用されています。ほとんどが納得できる内容でした。
しかし「人間には仏の生命がある」という箇所がなかったのが残念です。仏の生命とはやっぱりフィクションなんでしょうか?
もし本当にそれがフィクションなのであれば、御本尊様に仏が宿っていないのであれば、やはり写経をしても破っても、
何も問題のないことになってしまいます。もしもそれがマインドコントロールによるものならば、自身を解放するために、
それを積極的にやるべきではないでしょうか?私には恐ろしくてそんなことはできません。
しかしもしこれがマインドコントロールによるものだと主張されるかたは、ぜひともやってみるべきでしょう。
完全に、自分はそのマインドコントロールからは醒めたという自信がある人はそうしてください。
しかし、私のように、全身に恐ろしいほどの震えが起き、恐怖に駆られるのであれば、やはりやるべきではなく、
そして、すぐに心からの懺悔の唱題をしてください。きっと何かを感じるはずです。
そして、私のように、再び謗法与同して、悪鬼を呼ぶこむようなこと愚は絶対に犯さないでください。
2046
:
大勇者
:2005/02/14(月) 09:28:51
素朴な疑問です。
人間には誰にでも生命があるといいます。
仏界があるといいます。「法」があるといいます。
私が疑問なのは「生命」でも「仏界」でもありません。
「ある」です。
「有」とは何か?「生存」とは?「存在」「実在」etc・・・
J.ゴンダも十二縁起を訳するに「有、在」を非常に難しい概念だと書いています。
いったい「ある」とはどういうことなのでしょう?
我々は「幻術の中の人が幻を見る」なのか・・・
2047
:
真実 探求者
:2005/02/14(月) 21:03:18
、、御免ください、、。 貴重に値します、、御疑問、、かと、、存じます、、。
2048
:
通りすがり
:2005/02/14(月) 21:07:47
ピュアな質問です。こちらの皆様は、いわゆる題目の力。仏の生命といったものを難しい事を抜きにして、
どこまで信じていらっしゃいますか?
私は、あればいいなあ、位の気持ちです。
また、それにかわるものが存在すると思いますか?見つける事は出来ると思いますか?
私は存在するとは思いますが、私の力では永遠に見つける事は出来ないと思ってます。
難しい事は苦手なので信じているかいないかレベルで皆様のお気持ちをお聞かせ下さい。
2049
:
問答迷人
:2005/02/14(月) 23:36:40
通りすがりさん
>いわゆる題目の力。仏の生命といったものを難しい事を抜きにして、どこまで信じていらっしゃいますか?
僕は、仏の生命は良く判りません。しかし、曼荼羅、題目の五字なら、凄まじい力があると信じていますね。実際に苦境に陥ったとき、必死で曼荼羅・妙法五字にお願いして、苦境を脱した事が何度もあります。
2050
:
大勇者
:2005/02/15(火) 00:44:33
通りすがりさん
私は「生命」に対しては半信半疑です・・・自身の実感としては。
他を見て、「分断、分裂の痛み」といいますか、失って初めて感ずるものなのでしようか?
「題目に力」があるとは信じられません。体験が無いからかも知れません・・・
ここでいう「力」とは「エネルギー」や「梵、チャクラ」などはですが・・・
ですが、名(題目)の認識や理解することによって「力」を発見する事は有得るのではないかと信じています。
2051
:
パンナコッタ
:2005/02/15(火) 13:23:00
みなさん、パンナコッタでございます。以後よろしくお願いします。
>いわゆる題目の力 >生命 ・・が、ある
こうゆうのは確かな答えが出ない問いですね。曖昧模糊としてああじゃない、こうじゃない
と、何千年も議論し尽くしたことでしょう。賢人や聖人なんて呼ばれる人だって確かな答え
は出ていないし、出せないでしょう。
これは最初から答えのでない問いだから、出ないのは当たり前です。数学の公理かな。
解けたら定理でしょ。
だから、通りすがりさんのように真面目に苦悩している人には「アンタ、一寸違うけど」と
思われるかもしれませんが、私みたいなガサツな人間から見ると底なし沼にダイブしている
ように見えちゃうんですよ。やらなくていいことまで無理に責任背負い込んじゃって自分を
すり減らしている。 そんなのやめましょうよ。無意味、無駄。
あっ、かなり脱線しちゃいましたね。通りすがりさんに因縁つけている訳じゃないですから
ね。私の愚痴だと思って聞き流してください。すいません。
ちゃんと答えるとすると、
題目の力→信じていれば、力は発揮されると思うことが出来る。
信じていれば、力が発揮されないと思うことが出来る。
信じていなければ、別にどうだっていいこと。
こんなところでしょうか。
2052
:
パンナコッタ
:2005/02/15(火) 22:30:30
>2051 ああ、エラそうに。済みませんでした。以後こういうカキコは自重しますんで
勘弁してください。唯、自分は実証不可能な物に答えを求めて苦悩しているように見えた
ものですから。
宗教の法則
【法則2】 宗教の中心は空洞である。
神や仏がたとえ存在しないとしても、宗教という装置は成立する。
重要なのは、神や仏が存在すると、人々に信じさせることである。
結局、富士系の信仰はこれにドンビシャとあてはまると自分で思っているからです。
2053
:
犀角独歩
:2005/02/15(火) 22:59:26
パンナコッタさん、何も自重する必要はないでしょう。
わたしが、よく引用する高橋紳吾師にお会いしたとき、師の著『きつねつきの科学』に関連して質問したことがあります。
「どんな人が、狐憑きになるんでしょうか」
「狐憑きを信じている人がなりますね」
「信じていない人はどうでしょうか」
「信じていない人はなりません」
簡単明瞭、かつ信仰者にとって、衝撃的な答えであると、わたしは思ったものです。
2054
:
パンナコッタ
:2005/02/16(水) 00:31:06
>2053 アハハ、ありがとうございます。一寸余計なことでツッコミ過ぎたかと思いましたんで。
では、別の疑問を提示しますんで、よろしくおねがいします。
北山本門寺の「根源」って何なんでしょう。唯、単に図々しいだけの名称なのかな。村山浅間神社という
所の額に古代文字と称される変な字体で富士根本館と書いてあるのですが、単に似てるだけなんでしょうか。
一寸前に「宮下文書」なる怪しい文献がありましたが、偽書の過程が石山教学と似ている気がしたので。
それを最大限に生かしたのが富士山本門寺であり、爆笑した思い出があったんですが。
2055
:
犀角独歩
:2005/02/16(水) 00:43:20
本門寺根源、わたしはあまり気になりませんでしたね。
それより、北山の偽造文書をパクって、自分のところが未来、本門寺になるという石山のほうが顰蹙ものだと思いますね。
2056
:
通りすがり
:2005/02/16(水) 01:51:44
問答様、大勇者様率直なご回答有難うございました。
パンナコッタ様、犀角独歩様、そういった解説ではなく、出来ればそれぞれご自身がどこまで信じていらっしゃるのか?を教えてくださればよろしかったので、よろしくお願いします。
私の場合はどうかと突っ込まれますと既に書かせて頂きましたが、「あればいいなあ」位の気持ちです。
ついでに白状すると逆に、イケナい事をしたい時は「なければいいのになあ」と思ったりします。
2057
:
犀角独歩
:2005/02/16(水) 02:04:00
通りすがりさん(「さん」付けでお願いします)
えーと、唱題の、ということですね。
わたしも唱題による、体験はあります。しかし、禅、瞑想、その他でもさらに強烈な経験はあります。まあ、唱題以外も試してみないと、唱題がいちばん(○○はいちばんとは他との比較ですから)というのは、なかなかその比較は難しいでしょうね。ということで、唱題がいちばんというのは、わたしのなかで、そうは言い切れないという思いがあります。(わたしは大の羅什嫌いですから、妙法蓮華経という訳は、実は嫌いです。しかし、生まれて、半世紀、このお題目に馴染んでいるので、呪文?と言っては変ですが、この唱題がもちろん、嫌いではないと言ういっけん矛盾したところはあります)
こんな比較を学問的な立場から研究されたのは影山教俊師でしたね。
いろいろやってみて、みんないい、みんな効果があったと言ったのはいちりんさんでした。
「唱題がいちばん」というのであれば、お念仏、参禅も、その他いろいろやってみて、それから出せる結論であろうかと存じます。
2058
:
パンナコッタ
:2005/02/16(水) 12:44:05
「宮下文書」なんていうヘンテコな古史古伝なんて持ち出したのは中央政府に対する嫉妬、
ルサンチマンが富士の一帯にあり、せっせと偽書作りに励んでいたグループは直接ではないにしろ
石山系に関わりがあったのではないかなと思ったんです。
2059
:
祝8郎
:2005/02/16(水) 16:48:06
横レス失礼します。
「宮下文書」読んでみて、おもしろいことはおもしろいですよね。
かつてオウムが真剣に「研究」していたこともありますね。
いわゆる「古史古伝」については、以下の本が参考になると思います。
藤原明『日本の偽書』文春新書、平十六年五月刊行
同書では「宮下文書」については直接論及されていませんが、「古史古伝」
全般の出現メカニズムについて考察されています。
「上記」「竹内文書」「東日流外三郡誌」「秀真伝」「先代旧事本紀」
「先代旧事本紀大成経」などについて書かれています。
「宮下文書」と石山とはほとんど関連はないと思います。
むしろ関連がありそうなのは田中智学のほうではないでしょうか。
「師子王全集」や日記にはなにか見つかるかもしれませんね。
2060
:
大勇者
:2005/02/16(水) 20:16:42
ところで今日は生誕日ということでよろしいでしょうか?
2061
:
犀角独歩
:2005/02/16(水) 23:43:11
> 2060
金正日の、というのは北朝鮮の正式見解で、
蓮師の、というときは、先のれんさん、名無し@富士門流のご紹介のとおり、時師記すところの門下唯一の伝承。
もっとも、2月15日釈尊入滅の日とされるわけですから、ここに仮託した伝承と見るほうが至当な気が、わたしはします。
2062
:
パンナコッタ
:2005/02/16(水) 23:54:54
どっかの寺で祖師像(でしたっけ?)から発見された発見された、文書ありましたよね。
あれは、どうなんでしょうか?
2063
:
パンナコッタ
:2005/02/16(水) 23:57:01
>2062 かぶっちゃった。すんません。
2064
:
大勇者
:2005/02/17(木) 12:02:20
>2月15日釈尊入滅の日
!そうか それで後出し(伝承)なんですね。(反省
犀角独歩さん。パンナコッタさん。勉強なりました。有難う御座います。
2065
:
通りすがり
:2005/02/18(金) 11:58:32
犀角独歩さん。レス有難うございます。別に比較はいいですよ。題目の力、仏界の命、を信じているのか否か。どの程度信じていらっしゃるのか?だけで。
私は何度も書かせて頂きましたが、あればいいなあ。悪い事したい時はなければいいのになあ。という感じです。
2066
:
犀角独歩
:2005/02/19(土) 05:07:11
通りすがりさん:
> 題目の力、仏界の命
題目の力、あるんじゃないでしょうか。
(もっとも、これを現代的に分析して、健康・精神に有効な有酸素運動と言ったのは富士宮のN師でしたが)
「仏界の命」という語法は、わたしにはわかりません。
命は、使命、もしくは寿命するところでしょう。
仏界は心に具すか否か、大問題ですね。
疑うなと仰ったのは蓮師です。さて、信じてみるかどうか。
2067
:
彰往考来
:2005/02/19(土) 09:34:30
>2062
池上本門寺の祖師像から発見された造立銘には生誕日はなく入滅日のみです。もし造立銘に生誕日があったなら、現存する史料としては最古のもので蓮祖在世当時の情報と考えてよいでしょうから当スレッドのような議論は発生しないでしょう。
「現存する最も古い木彫祖師像は著名な池上本門寺像である。大正十四年に稲田海素らが胎内納入品と造立銘を発見し、ただちに旧国宝となった。その納入品であるが、あろうことか日蓮の舎利容器(骨蔵器)だったのである。青銅製経筒形の容器には日蓮の入滅日と大別当日朗・大施主池上宗仲・清原氏女の名が刻まれていた。造立銘によると、七回忌を前にした正応元年(一二八八)六月八日、六老僧の日持と侍従公日浄を大願主に、日行・日妙が結縁して、供養を遂げたことが分かる。」
<三山進編『図説 日本の仏教 第四巻 鎌倉仏教』昭和63年、新潮社、224頁>
2068
:
れん
:2005/02/19(土) 19:44:46
蓮師の誕生日の文献上の初見は蓮師に仮託されて制作された「法華本門宗要抄」で「貞応元年壬午二月十六日午ノ刻二生ル」とあります。この書には「我弟子中若申請本門寺之戒壇之勅欲建戒壇須築富士山」とあり富士戒壇論も見えます。興師の弟子代師は延文五年(一三六0)六月三十日付の「法華宗要集事」で本書を偽書と断定してます。代師の記述により一三六0年には本書が成立していたことが分かります。本書の出自については、代師は「自下野国出之」と述べており、三宝寺本「録外御書」の本書写本奥書に「抑此御書者真間花蔵坊小浜長源寺日源於下野国富士門流石田法華堂以御自筆正本書写之。日源示日中如斯」とあり、この石田法華堂は現在不明ですが、京都要法寺日辰師「祖師伝」に「同国(下野国)有里名石田。師(日尊師)於石田立寺」とあり、日尊師建立の寺です。このことから考えると法華本門宗要抄は延文五年(一三六0)までに下野国の日尊門流によって作成されたものと判断され、本書に記された蓮師の生誕日も、当時の尊門の伝承を反映したものと見るべきでしょうね。
2069
:
犀角独歩
:2005/02/19(土) 23:44:21
れんさん、ご教示有り難うございます。
そうでしたね。既にご提示くださっておりました。
どうも『御伝土代』が門下最古の伝記という固定観念が抜けません。
2月16日誕生説が1360年までに成立しているも驚きながら、さらに富士事壇説が、それも要山系で、この時点で成立していることにも、驚きます。
2070
:
パンナコッタ
:2005/02/21(月) 23:22:01
>2067 彰往考来さん、ありがとうございます。
自分のいっていたのは、小湊誕生寺の「お腹文」といわれているやつでした。
願文の日付は、貞治2年(1363)8月29日。蓮祖の生誕は貞応元年小湊でとあります。
れんさんの指摘をふまえると、滅後80年には貞応元年説がかなり広まっていたと見られますが。
2071
:
十級
:2005/02/27(日) 15:03:09
はじめまして、初めて書き込みさせていただきます。
質問の前に少しだけ自己紹介をさせてください。僕は学会員で、学会のカテゴリーで言えば活動家の男子部ということになります。僕が学会または日蓮正宗で習ってきたことに初めて疑問をもったのは、幾年か前のことでした。それは、霊山浄土という語句を検索していた時に、この語句が娑婆即寂光の意義をもって使われている御書には、真蹟が存在しないことに気づいた時でした。
さて、非常に初歩的な疑問なのですが、御書を読んでいると、諸天の加護、また神の守りという言葉にあたります。大聖人の檀那等は、祈りが叶うというのは、自力で成し遂げるという意味で捉えていたのでしょうか。それとも諸天の加護によって成し遂げる、もしくは諸天に叶えてもらう、という捉え方をしていたのでしょうか。どなたか、ご教示いただければ幸いです。
2072
:
犀角独歩
:2005/02/28(月) 09:23:10
十級さん、はじめまして。
> 娑婆即寂光
というより、蓮師の霊山浄土観は、晩年の変遷ながら、娑婆即寂光という成句化される思想を蓮師は持っていたのでしょうか。釈尊の娑婆の一仏、法華は此土有遠深厚という認識ではないでしょうか。寿量品から言えば、「常住此説法」が至極であろうと窺えます。
> 檀那等…自力で成し遂げる…諸天に叶えてもらう
両方ではないでしょうか。二者択一をすることではないと思います。
2073
:
退転学会員
:2005/03/01(火) 01:49:21
現証ってあると思いますか?大聖人はなんと言ってますか?罰や功徳ってあると思いますか?皆様の考えをお聞かせ下さい。
私は無いと思いたいです。日蓮仏法いや、仏法や、宗教そのものの善悪の報いすら存在しないでほしいと思う事すらあります。何故なら私は悪人だからです。でも、心の底でそれらを信じているから悪人になりきれないのです。勘違いしないで頂きたいのは、犯罪者になりたいわけではないのです。罰さえなければ思いのままに人生を生きたいです。倫理的にどうかはともかく。
2074
:
顕正居士
:2005/03/01(火) 03:35:38
>罰や功徳ってあると思いますか?
あると思っている人にはあるが、無いと思っている人にはありません。
「我心自空罪福無主 我が心おのづから空なれば罪福も主無し」(観普賢経)
2075
:
パンナコッタ
:2005/03/01(火) 23:29:27
罰ってのは、ウンコだ!
by 戸田二代会長
2076
:
愚鈍凡夫
:2005/03/01(火) 23:36:41
功徳ってのは妄想だ!!
by 隣の酔っぱらいのオッサン
「おまいら、書き込む板間違っとらへんか」(by 管理人)
2077
:
パンナコッタ
:2005/03/01(火) 23:49:20
〉2075
「罰ってのは当たるもんじゃない、出るものだ。ウンコに当たるっていうか? そうは言わないだろう。
自分自身から出て来るものだ。」と、佐渡御書の講義の後の質問会で発言していましたよ。(^o^)
あまりにも功徳=ご利益が身に染み付いちゃって、ちょっとでも良くないことが起きると『罰』と考えて
しまっていますね。そのことで悩んでいる退転学会員さん、そんなことで苦悩してはいけません。
2078
:
愚鈍凡夫
:2005/03/02(水) 00:17:47
「罰がなんやちゅうねん。わしら善良な貧乏人に罰を食らわす神さんや仏さんなんか、いらんちゅうねん。わしら、食べていけたらそれでええねん。それだけを神さんや仏さんに祈ってるねん。生きてることが嬉しい、それが信心とちゃうのん」(by 近所の酔っぱらいのオッサン)
聖教新聞にもない、優れた生活指導でした。 (^◇^;)
2079
:
パンナコッタ
:2005/03/02(水) 15:13:06
管理人さん、ごめんなさい <(_ _)>
戸田さんの発言は、昭和31年2月21日 大阪中之島中央公会堂での実際の発言です。
輪廻転生思想のもとでの発言なので正しいかどうかは別として、『罰』に畏怖している人
に対して元気づける名調子だと思ったのですが。
ちょっと前に、独歩さんが狐ツキの話を載せていましたね。 信じていない人は狐ツキにならない、と。
普賢経に載っていましたか。 顕正居士さん、勉強になりました。
この信仰が元気・勇気付けをするものから変化して、退転学会員さんの中では癌細胞化してしまってますね。
これは早く、切除なりの治療が必要と思われますよ。
2080
:
犀角独歩
:2005/03/03(木) 01:48:45
2079 パンナコッタさん
> 戸田さんの発言は、昭和31年2月21日
これは何に載っているものでしょうか。
わたしの手元に『戸田城聖先生 講演集 下』(発行:創価学会/昭和36年10月12日初版)がありますが、該当の講演は載っていません。
前後を示せば昭和31年2月19日大阪・堺支部決起大会/大阪市中之島中央公会堂、同28日本部幹部会/豊島公会堂となっています。
2081
:
犀角独歩
:2005/03/03(木) 02:00:28
まあ、余談ですが、先に示した戸田指導の内、
2月19日には「私は創価学会の会長でありますけれども、よく私のことを『仏さまだ』『生き仏さま』『神さま』『教主さまだ』とか言うが、いつ私がそんな片輪(ママ)になったという」(P186)
同28日には「今の猊下は10年間、猊下になられてから一度も丑寅勤行をおこたられたことのない、すっかり仏さまになっておられる方であります」(P191)
「何が不思議だ不思議だといっても、御肉牙ほど不思議なものはない。日蓮正宗は、日蓮正宗、日蓮正宗といばる理由が、いっぺんでわかります。今から700年前に抜いた歯の肉が盛り上がってきて、お歯を包んでいるということは、どういうことです。こんな不思議なことは、世界じゅうのどこにもない」(P192)
などという文章が載っています。
2082
:
単己
:2005/03/03(木) 06:08:54
パンナコッタさん、犀角独歩さん。
戸田さんの講演会を録音したレコードがあります。そのレコードを何枚か、20年位前にテープにダビングさせてもらったものですが、その時に書き込んだ見出しに「昭和31年2月21日(火曜日)大阪中之島中央公会堂「一般講義」とあります。
この時の発言だと思われますが、今テープを再生できる機器がありません。思い出したこの機会に、テープデッキを友人にでも借りてMP3ファイルにでもして保存しようと思います。
2083
:
犀角独歩
:2005/03/03(木) 08:26:38
単己さん:
そうすると、わたしのもっている指導集は抜粋であったということですね。もしくは、御書講義を別収録したと言うことだったのですね。
有り難うございました。
2084
:
パンナコッタ
:2005/03/03(木) 13:45:44
単己さん、ありがとうございます。まったくそのとおりです。
レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」のNO、18 からの引用です。
背面の説明文によると、昭和31年2月7日(火)午後6時半から、1時間15分の前半と
昭和31年2月21日(火)午後6時半から、1時間の後半の講演となっています。
日付は 昭和36年6月 刊行とあります。
MP3ファイルに、いいですね。ウチもプレーヤーがないので音の悪いテープでしか、たまに聞けないので。
内容的には、「曼陀羅の主題が末広がりなのは?」とか「本因妙抄とは?」とか「万年救護と一閻浮提の違い」
等、興味深い質問が多々あり、それに答えています。(正しいかどうかは別として)
ウチには22枚ほどレコードがありますので聞きたい人がいれば、考えてもいいですよ。
2085
:
管理者
:2005/03/03(木) 14:19:23
単己さん
>思い出したこの機会に、テープデッキを友人にでも借りてMP3ファイルにでもして保存しようと思います。
パンナコッタさん
>ウチには22枚ほどレコードがありますので聞きたい人がいれば、考えてもいいですよ。
是非お願いしたいと思います。聞きたい人は沢山いると思います。また、非常に貴重な歴史的レコードであることは間違い有りません。労作業ですが、宜しくお願い致します。
もし、著作権の問題がクリヤー出来るなら、当掲示板にリンクを張って、誰でも聞けるように出来ると良いですね。或いは、リンク集は容量が大分余裕が有りますので、そこに資料としてアップする事も出来ると思います。
2086
:
犀角独歩
:2005/03/03(木) 20:11:30
2085 管理者さん、これは時期尚早です。
著作権問題をクリアしていません。
2087
:
管理者
:2005/03/03(木) 21:10:44
>著作権問題をクリアしていません。
アッそうですね。死亡から50年だから、2008年4月2日以降なら良い訳ですよね。あと3年少しはダメな訳ですね・・・残念。了解しました。当面、諦めます。お騒がせしました(汗)
2088
:
犀角独歩
:2005/03/03(木) 22:14:25
2087 管理者さん、けれど、別段、個人的な授受、また、原典を明示した引用はまったく著作権に抵触しません。個人的であれば、なにも問題はないかと存じます。
2089
:
管理者
:2005/03/03(木) 22:47:30
犀角独歩さん
版権についてお聞きします。
著作権は著者が死亡してから50年の期間、その権利を保護するとなっています。同様、レコードの版権は同じく50年間となっていますが、これは最初に発売されたときから起算するのでしょうか。又、創価学会版の御書全集であれば、幾つも版を重ねていますが、版権50年の起算はどの時点になるのでしょうか。
2090
:
パンナコッタ
:2005/03/03(木) 22:53:01
確かにネット上で公開するとなると、著作権絡みの問題がありますね。レコードの製作は
ビクター音産で版権が残っているかもしれませんし、単純に信者が布教目的の為に使った
としても問題が出るかもしれませんね。
しかし、あくまで個人としてなら、聞きたい人に聞かせるのは問題はないのですから。
管理者さんが、かなりノリ気だったので巧い方法があれば協力は惜しみません。しかし、個人の
貸し借りをやった場合、数が多くなったりすると、とても対応は出来なくなるので何か良い提案
はないでしょうか?
2091
:
単己
:2005/03/03(木) 22:53:04
>2083 犀角独歩さん。さっそくテープデッキを借りて確認してみました。
佐渡御書の『又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云』というところで戸田さんが、「よく罰が当たると言う事をよく言いいますがね、あれは止めてもらいたいですね。罰なんか当たるもんじゃないですから。ウンコは出るもんで…」と話が続きます。
会場が沸いて調子付いたのか何度も連発しています。(笑)この時も、コップ酒ちびちびヤリながら話していたんですかね。
著作権のことですが、例えば『レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」』からと原典明示であればネットに置いてもいいのでしょうか?それとも原典明示の上、個人的授受ということでしょうか?
>2084 パンナコッタさん。
>レコード集「創価学会々長 戸田城聖先生の教え」のNO、18 からの引用です。
そうそう、確かにそういう題だったなと思い出しました。それで、もしかしてと思ったらやっぱり出てました。Yahoo!オークション 。22枚なんですね。これで全部なんでしょうか。自分が以前ダビングしたレコードは18枚分みたいです。それでも、いい加減に放って置いたのでちゃんと再生出来るか不安です。
>2085 管理者さん
パンナコッタさんの話が出て、テープをMP3にしておけばあとあと保存できるし、必要な人が資料として役立てることもできるかなと思いました。あと、3年はダメなんですね。テープは劣化していくので出来るだけ早めにデジタルデータに変換しておきます。
2092
:
パンナコッタ
:2005/03/03(木) 23:27:19
単己さん、「ウチにあるのが22枚」というだけで数枚抜け落ちているのもあるようです。
他に池田会長就任時のソノシートとか、正本堂落慶記念の音声記録ソノシートなんてのもあります。
実際に戸田さんの講義を聴いた母の話を聞くと、「御書は全然見てないの。それで頭をふーらふーらと、
動かして原文拝読を聞いているの」とのことなので、御書講義などは何杯かひっかけてやっていたのでしょう。
だから正宗寺院の落成法要のあいさつなどは聞いていても、ちっとも面白くありません。(^。^)
やはり御書講義をすっ飛ばしてやる質問会に、戸田さんの真骨頂があると聞いていて思われます。
2093
:
犀角独歩
:2005/03/04(金) 11:37:41
2089 管理者さん:
> 版権
わたしは、最初の発刊からと認識していました。
学会の御書全集なんかの場合、しかし、微妙ですね。
平成初頭の例の分断劇の折、石山は御書全集が学会版権である理由で使用を取りやめた経緯がありましたね。けれど、この版権も当然、初版から起算になろうかと思います。ただし、途中で、改訂・増補などの変更があったときは、今度はそちらはそこからの起算となるのではないでしょうか。
2094
:
犀角独歩
:2005/03/04(金) 11:47:45
2091 単己さん
> 罰なんか当たるもんじゃないですから。ウンコは出るもんで…
ご確認、有り難うございます。
まあ、豪放磊落というかなんというか、思わず笑うほかない話だと。
> 著作権…原典明示であればネットに置いてもいいのでしょうか?
文章の抜粋などであれば、仰るような形で、かつ原文の儘であれば、侵害に当たらないと思います。
ただし、音楽、録音となると、ちょっと、判断は分かれると思います。
けれど、現時点でも、たとえば、池田さんとか、阿部さんのスピーチは部分的にネットにアップされているわけで、これを著作権侵害の側面から裁判沙汰にした例は、あまり聞いたことがありません。
安全な方法は、テープ起こしした文を出典明示でアップということになるのではないでしょうか。
少し前ですが、戸田さん、浅井さん、松本被告の録音を聞き比べる会に参加しましたが、これはなかなか面白いものでした。
たしかに文にしてしまうと、話口調が伝わらないわけで、仰るようなアップは、個人的にはたしかに聞いてみたい・設置してほしいという思いはありますが。いろいろハードルは高いようにも思います。
2095
:
犀角独歩
:2005/03/04(金) 14:35:03
2093の自己レスです。
ちょっと、ぼっとして、おかしなことを書きました。
版権という言葉が皆さんのご投稿で著作権などを含む広い意味で使われていたので、流れに沿って書いてしまいましたが、出版権、著作権については、ちゃんと分類して考えたほうがよいのでしょうね。
2096
:
祝8郎
:2005/03/05(土) 01:46:41
著作権については、著作者つまり作者の死後、50年を保護期間として、遺族など著作権継承者に著作権があるとされます。著作権は財産権ですので、保護期間中に著作権継承者が死亡しても、他の遺族がいる場合にはそちらに著作権は継承されることになります。
ただし数年前に改正された著作権法では、保護期間が75年に延長されたと思います。これは改正施行後の著作物に適用されることになったと思います。
版権つまり出版権ですが、これは著作者と出版社の間で契約書を交わし法的拘束力が発生しますが、契約書を交わさず口頭によるものや、印税および部数ていどのとりきめを口頭でするていどの場合も少なくありません。
書面による契約書が無い場合、一般的に版権は著作物の最終発行年月日から五年から十年の間に増刷がなされないと自然消滅したものと考えられます。
著作者もしくは著作権継承者が他の出版社から再版したいと考えたときには、著作者はいちおう出版社に対してその旨伝えたほうが後々面倒なことにならないでしょう。
2097
:
おしえてクン
:2005/03/07(月) 06:21:21
「天台本覚思想について」のスレで、どなたが書いていていた、御義口伝の
以下の文、どう言う意味なんでしょう、できたら現代語訳で、どなたか
説明してもらえませんか?
「六老僧の所望に依って老期たりと雖も、日蓮が本意の一端護義せしめ畢んぬ。
是併ら私に最要文を集めて読誦せしむる所なり。然る間法華諸要の文書き付け
畢んぬ。此の意は或は文を陰して義を取り、或は義を隠して文を取り
或は文義共に顕はし、或は文義共に隠して講談するなり。
委しくは註法華経を拝見すべし。然りと雖も文義甚深の間
愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや。」
2098
:
顕正居士
:2005/03/07(月) 09:42:40
「此意 或陰文取義 或陰義取文 或文義共顕 或文義共陰 講談也」
の意味ですか。文は法華経、義は法華文句と法華文句記でしょう。或いは両方引用し、或いは片方
引用し、或いは両方引用せず講談したという意味です。
2099
:
新発意
:2005/03/07(月) 11:39:45
横レス失礼します。
おしえてクンさんの疑問が解決してからお願いします。
法華経の訓を読んでいての疑問に思った事について質問させていただきます。
自我偈の最初の偈文の「自我得仏来」の訓読が「我仏を得てより来」となっております。”自”の文字が訓読では消えるのはなぜでしょうか。「自ら我仏を得てより来」とか「我自ずから仏を得てより来」とはならないのでしょうか。
いくつかの法華経の訓読を見てみましたが、全て”自”が省かれておりました。本覚門、始覚門の読み方にこだわっての事ではありません。正しい訓読をおしえてください。
2100
:
犀角独歩
:2005/03/07(月) 11:56:54
> 2097
顕正居士さんのご教示とは、やや違う側面から。
> 六老僧の所望…
この文章はまったく嘘です。
同書の末文には「弘安元年戌寅正月一日」とありますが、「六老僧」の決定は弘安5年9月のことであって、弘安元年段階で決まっていませんでした。また、その時点では「六老僧」と言わず、「本弟子六人」と記される、この二重の科から、この文は証憑に堪えません。
> 委しくは註法華経を拝見すべし。然りと雖も文義甚深の間愚昧に及ぶべからざるなり。広宣流布の要法、豈此の註法華経に過ぎんや
御義口伝は『就註法華経口伝』、すなわち「『註法華経』に就(つ)いての口伝」であって、不勉強な者にはその意味を理解することはできないといい、重要な点は、広宣流布の要法は『註法華経』であるという点です。御義口伝<註法華経という関係であるということです。
石山系の御書全集などで御義口伝ばかりを載せて、註法華経を省くというのは、まったくその原意に悖る行為と言うことになるでしょう。
2101
:
犀角独歩
:2005/03/07(月) 12:02:29
> 2099
この質問は基本的な漢文の基礎を欠いたことに拠ります。
> 「我仏を得てより来」
とは、「我、仏を得て自(よ)り来」ということで、自は文頭に来る場合の多くは、「ヨり」と読みます。それを「自ら」と現代語から即断するところに誤りがあります。
2102
:
顕正居士
:2005/03/07(月) 13:14:19
『注法華経』とは?
『注法華経』とは日蓮が所持の法華経の余白に法華文句などの経文を書き込んだものです。現存し
写真版が発行されています。書き込み部分をテキストに編集したのが下記です。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_tyu.htm
例の六老の跋文は御義口伝が注法華経を下敷きにした講義であったように述べています。しかし
御義口伝における法華文句の引用は注法華経のと全く違います。そして16世紀半ばの天台の学匠
尊舜の『法華文句略大綱私見聞』の引用とほぼ同じです。したがって『法華文句略大綱私見聞』を
下敷きに日蓮法華的アレンジを施したのが御義口伝であり、成立は16世紀終わりと推定できます。
六老の跋文を書いた人は注法華経を見ておらず、御義口伝がその講義だと思い込んだのでしょう。
したがって跋文は御義口伝が成立した後に付加されたものと断定できます。
2103
:
パンナコッタ
:2005/03/07(月) 13:23:17
横レス失礼します。
弘安元年戌寅正月一日 という日付があると思いでしょうか? 弘安の改元は
2月29日。 都合の悪いことに『弘安改元ノ事』〈真筆あり〉なんてのが
残っていたりしていて、日付が書いてあり「疫病の故か」と、蓮祖は申しております。
2104
:
パンナコッタ
:2005/03/07(月) 13:31:40
御義が出たのでついでに質問。
執行海秀師が指摘していた、徐氏の科註法華経からの引用とはどの辺のことでしょうか?
2105
:
犀角独歩
:2005/03/07(月) 13:38:08
2102 顕正居士さん:
正確な補完を下さり、まことに有り難うございました。
2103 パンナコッタさん:
弘安改元事 「弘安元年[太歳戌寅]、建治四年二月二十九日改元。疫病の故か」
ああ、たしかに。なるほど。
2106
:
顕正居士
:2005/03/07(月) 14:22:10
>徐氏の科註
「宝塔品下廿箇大事」の第十です。「科註四云〜」とあります。
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049035&VOL_NUM=00001&KOMA=49&ITYPE=0
2107
:
パンナコッタ
:2005/03/07(月) 14:57:52
〉2106 顕正居士さん、ありがとうございました。
2108
:
パンナコッタ
:2005/03/07(月) 15:11:13
〉2106 学会版の御書では、『補註の四に云く・・』となっていたので、
気が付かなかった。 顕正居士さん、本当にありがとうございました。
2109
:
おしえてクン
:2005/03/08(火) 21:49:42
顕正居士さん、 犀角独歩さん遅ればせながらありがとうございます。
それで、御書ですが、御書のなかには、なんとか御返事とか、蓮祖の
手紙が、御書になっていますが、手紙って、その人あてだけであって
手紙の文中が、全ての万民に通用するって皆さん思いますか?
2110
:
犀角独歩
:2005/03/09(水) 09:49:41
2109 おしえてクンさん:
この問題意識は、わたしは馴染めます。かつて、同様のことを考えていましたし、いまもってそのスタンスは変わりません。
わたしの場合、この疑問は蓮師の御筆漫荼羅に向いていました。授与者を特定して、1舗ずつ図示した個人宛の漫荼羅が他の人の信仰対象足り得るのかという疑問です。たぶん、この疑問は興師も懐いたのであろうと想像しています。その根拠は興師自身が、蓮師滅後、御筆漫荼羅に意義を書き足しているからです。
消息文が「全ての万民に通用」するか・否かという二者択一で考えることではないように思います。つまり、通用するところもあれば、通用しないこともあるというのが、わたしなりの結論です。
2111
:
おしえてクン
:2005/03/09(水) 22:14:57
犀角独歩 さん今晩は、通用するところもあれば、しないところもある
そうですよね、その人の置かれた状況で、書かれてるんですから
話は変わりますが、創価学会、宗門と完全分離するのに、三沢抄を
持ち出してくるんじゃないかと思います、あれには、新しい法が現れる
って書いてあるんですよね、本尊はやはり、最初に書かれた、佐渡始顕本尊
が、日蓮上人の本位じゃないかと思うのですが、日興上人が正当なら、なんで
佐渡始顕本尊を持っていかなかったか疑問です。
2112
:
顕正居士
:2005/03/10(木) 01:16:26
日蓮の文章の大半は特定の檀越に宛てた書簡ですから、遺文から日蓮の思想を読み取る場合、
五大部などの「著述」といえるものを基本とし、一二の書簡のみに見える表現については慎重に
考慮する必要があります。「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし」(上野殿御返事)の
類いです。法華経は滅後末法のための経典であるというのが日蓮の思想ですから、ここは特殊
な文脈であらわれた表現でしょう。法華経に拠るならば女人は西方往生を頼むべきだろうか、と
いう質問に切れたのであろうと以前に此処に書きました。末法に入ったならば西方往生について
は法華経にどう書いてあろうが、ということです。
*「若如來滅後後五百歳中。若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即往安樂世界阿彌陀佛
大菩薩眾圍繞住處。生蓮華中寶座之上」(薬王菩薩本事品)。法華経は女人往生の経典とされる。
2113
:
犀角独歩
:2005/03/10(木) 14:38:07
2111 おしえてクンさん:
> 三沢抄…新しい法が現れる
とは、以下の文を指すのでしょうか。
―― 法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。此国の国主我代をもたもつ(持)べくば、真言師等にも召合せ給はんずらむ。爾時まことの大事をば申べし。弟子等にもなひなひ(内内)申ならば、ひらう(披露)してかれら(彼等)しり(知)なんず。さらばよもあわ(合)じとをもひて各各にも申ざりしなり。而に去る文永八年九月十二日の夜、たつ(龍)の口にて頸をはね(刎)られんとせし時よりのち(後)ふびんなり、我につきたりし者どもに、まこと(真)の事をいわ(言)ざりけるとをも(思)て、さど(佐渡)の国より弟子どもに内内申す法門あり。此は仏より後迦葉、阿難、龍樹、天親、天台、妙楽、伝教、義真等の大論師、大人師は、知てしかも御心の中に秘せさせ給し。口より外には出し給はず。其故は仏制して云く「我滅後末法に入らずば此の大法いうべからず」とありしゆへなり。――
> 佐渡始顕本尊が、日蓮上人の本位
そのようにお考えですか。
わたしはこの点は意見を異にします。蓮師図示の中で、「本位」、もしくは「最高」のいって、漫荼羅に序列があるとは考えておりません。
2114
:
顕正居士
:2005/03/10(木) 18:26:11
妙法曼荼羅についてはわたしも独歩さんと同様に考えます。曼荼羅の様相がみな違うということは
要するに決まった形はない意味です。「再治」、「未再治」という分類をして弘安年間の曼荼羅の方
が完成しているとした学者もおられます。しかし高祖一代弘教の「正宗分」とみなされる『本尊抄』を
述作した後に妙法曼荼羅を図顕されたのですから、文永年間のは未完成というのは変でしょう。
けれども宗派ごとに「宗定本尊」は決める必要があるから、「始顕」とか「臨滅度時」とか納得し易い
のを選ぶわけです。印刷術が発達し、当代の上人があらわしたのより日蓮聖人真蹟の写真版の方
が有難いという人も増えるでしょうし。佐渡始顕を採用したのは智学居士ですがこちらは身延山に
あったのとは違うとおもいます。写しではなく実物を佐渡で入手したが、智応居士が偽筆と断定した。
身延山にあったのも昔は佐渡にあったのではないでしょうか。
特別な曼荼羅という発想は富士派以外には余りないでしょう。多くの宗派では曼荼羅でも一尊四士
でもよいのですし。富士派は分張の由来から諸山の抗争が活発であり、かつ曼荼羅主義であり、又
事戒壇の思想があるのではやくから宗定曼荼羅の必要が生じたのでしょう。曼荼羅と一尊四士とは
現実には檀徒の仏間の御本尊、寺院本堂の御本尊という次元の異なりがありますから曼荼羅主義
だと寺院は板曼荼羅に傾きます。板である以上、日蓮聖人の真蹟曼荼羅そのものではありません。
しかし一尊四士でよいなら板曼荼羅でもよいでしょう。題経寺の板曼荼羅の流行りはじめは寛永から
で堅樹日寛師が活躍したのと近い頃です。でも曼荼羅主義の板曼荼羅は考えると少し変な気もする
ので、有名になると「高祖自刻」の伝説がいわれる、もっと有名になるといささか事が面倒になります。
板曼荼羅に真も偽もないはずなのだが、「高祖自刻」というのが疑といえば疑、たわいない伝説だし、
多くの宗派にあることで済まず、分派抗争は鬱陶しい、「旧信徒」には大変迷惑なことでありましょう。
2115
:
犀角独歩
:2005/03/10(木) 23:20:37
> 2114
当掲示板に投稿をはじめて、わたしに「同様」の考えというお言葉を頂戴したのは、たぶん、はじめてのことです。
喜びとして、日記につけさせていただきます。
2116
:
ファリオン
:2005/04/03(日) 05:07:25
前から疑問に思っていたので、質問致します。
創価学会で「財務」と言えば、世間で言う「寄付」に該当するものです。
なぜか、創価学会関係のサイト・掲示板では、当たり前の様に「財務=寄付」として、定着しています。
通常なら「財政上の事務」と言う意味ですが、何故、創価学会では寄付(或いは喜捨・布施)に対して、隠語同様に使っているのでしょうか。
ご存知の通り、隠語は特定集団内のみに通用する言葉であり、大抵は部外者から内容を秘匿するために用います。
いつ頃から使い出したのか、また、その経緯などをお教え頂ければと存じます。
2117
:
犀角独歩
:2005/04/03(日) 11:46:52
> 2116
財務ですか。この起源はかなり初期まで遡れるのではないでしょうか。
戸田さんの時代のことです。(戦前にあったかどうかは知りません)
当時、一定の収入があり、生活が安定している人に限り、「財務部員」となることを許すというものでした。財務部員になると「鶴丸バッジ」が授与されました。(いま顕正会会員が付けているのは、そのバッジを模倣したものでしょう)
たしか、バッジにはランクがあり、金、銀、銅の3種ではなかったでしょうか。このランクはしかし、財務の納入額の差であったか、本部幹部その他の役職を含む上下差であったかは記憶が定かではありません。どなたか補完してくだされば、有り難く存じます。
昭和28年入会の町工場を営む父は、いつもは油まみれの作業着で働いているのに、学会、本山に向かうとき、ダークスーツをびしっと着込み、胸に鈍く光鶴丸バッジを付けて出掛けていったものでした。
正直な思い出を記すと、このバッジは学会員のステータスのようなもので、いわば憧れの対象でした。「いつか、あのバッジを付けられるようになりたい」、幼心にそんなことを思っていたのを覚えています。ところが、自分が長じるころには廃止になり、それなのに、「せっかく建てた」正本堂に反対するビラを寺の門前なんかで配る「連中」が、自分たちの専売特許のように、胸に付けていたことを、腹立たしく思ったものでした。
さらに余計なことを記せば、わたしが中学校のころ、「高等部長」になると「部長バッジ」というものがあり、これまた、憧れの対象。朝晩の勤行を欠かさず、1日1時間の唱題をし、会合も皆勤で、教学試験にも合格して、「いざ、部長に」という高校2年。高等部長は中心グループ長と名称が変更になり、バッジも廃止。「残念!」という思い出があります。
…、こうして書いてみると、わたし(と家族)は、典型的な創価学会員であったことを、改めて自己認識します(自嘲)
しかし、そうですね。「財務」は隠語というか、公然とした特殊用語。なるほどというご指摘ですね。
しかしながら、財務は「財政に関する事務」なのに寄付そのものを指す理由は、拠出する各人は、その事務に直説携わるのと同じという精神からではなかったのかと想像されます。
いずれにしても、当初の財務と、正本堂以降のそれとは天地雲泥の差があります。
少なくとも、戸田さんは財務を出せば、功徳・御利益があるとは言わなかったからです。
2118
:
ファリオン
:2005/04/03(日) 18:33:31
犀角独歩さん
有難う御座います。よく解りました。
元々は本来の使い方であったのが、そこに携わる人たちの代名詞になった訳ですね。
そして、ステータスでもあるのだから、言葉としても特別な意味を帯びる。納得です。
>正本堂以降のそれとは天地雲泥の差
本当はこんな見方は間違いかもしれませんが、池田氏が、宗教法人を隠れ蓑に金を漁っていると、勘繰りたくなります。
それにしても、独歩さんの体験談を読んで、当時の学会に違和感を感じました。
どこか「信仰」からずれていて、何かの会社のように思えます。
現在でも、何かを競わせて学会員を煽っているような指導があるそうで、上層部が変わらない限り、世間で言うカルト的な部分はなくならないのでしょうね、
2119
:
犀角独歩
:2005/04/03(日) 18:51:51
2118 ファリオンさん:
> 体験談を読んで、当時の学会に違和感
それはそうでしょう、書いている本人がご感想そのものの感を懐くわけですから(笑)
こんな分析をする学者がいるかどうか知りませんが、戦後復興の歩調に載って発展した創価学会はまた、その高度成長社会の‘時代の子’であり、それは近代史の「現世利益」を書き換えたものであったのでしょう。
「創価学会組織で成功する人間は、どんな会社営業でもこなせるようになるよ」とは、学会時代に先輩から言われた言葉です。要は、「拡張営業」のノウハウの多くはダブっており、そのモチベーションをつけるやり方は、自己啓発セミナーなどとダブっていると言うことでしょうね。
では、それが宗教といえるか? という問いかけが成り立つわけですが、それが戦後日本型宗教の典型であり、その宗教団体が政府与党にまで食い込んだと言うことは、結局のところ、多数決の論理から言えば、戦後日本人が最も支持した宗教形態であったということになりますか。しかし、こんな政治評論家が言うような得票=民意という考えは「糞食らえ」というのが、わたしの気分です。
2120
:
パンナコッタ
:2005/04/03(日) 19:13:21
〉横レス失礼します。
学会の場合、会館付を『任務』と言い、おそらく「作務」からの引用と思われます。
つまり教団に奉仕することも、布施する事も「つとめ」として捉えさせようとの
考えからだと思われます。
2121
:
ファリオン
:2005/04/03(日) 21:05:41
>>2119
犀角独歩さん
>書いている本人が──
失礼しました。言わずもがな、ですね。
>「拡張営業」のノウハウ
そうですね。だから、似たような団体がぞろぞろ出て来る訳ですね。
とどのつまりが、宗教の皮を被った集金団体……
以前、ちょっとだけ「アムウェイ」の集会に顔を出したことが有りますが、新興宗教そのものでした。
まるっきり違う世界だったので、引きまくっていました。他人を勧誘しなくて良かったと、今更ながら思っています。
求心力の有る人がいると、僅かな切っ掛けで盲信してしまうのは、日本人の特性なのでは、と思っています。
だからこそ、芳しくない噂が有ってもその集団に入ってしまうのでしょうね。
自分の中にも、そういった部分が有ると思うと、ぞっとします。
>>2120
パンナコッタさん
「任務」は友人の学会員から聞いたことが有ります。
その時は聞き流していましたが、今考えると、得体の知れない違和感を感じます。
2122
:
犀角独歩
:2005/04/03(日) 22:02:18
パンナコッタさん、ちょっと、おひさしぶり。
先だっては、有り難うございました。
「任務」。そうですね、、これまた、言われてみれば、不思議な言葉ですね。
そうやって次々と考えていくと、あそこの役割名というのも、一般社会からすれば、違和感がありますね。今はどんな呼び名か知りませんが、牙城会、錦城会(字、忘れました。合ってますか)、会館を守る会、白蓮グループとか、信一会、水滸会…。ご学友グループ…、これは違いますか(笑)
わたしが特に嫌いな‘特殊用語’は「新聞啓蒙」です。
2123
:
吉祥仙人
:2005/04/04(月) 05:13:25
犀角独歩さんへ
私の理解では、「財務部員」以外から総本山整備のために募られたのが
「特別財務」。
そして今や、普通の家庭が参加する。年1回の「財務」
ということではないでしょうか。
「財務」という言葉が今も使われているのは、犀角独歩さんの時代の人達が、
「福運を積んで、『いつかはクラウン』にも乗って、『いつかは財務部員』」という
「伝統」かもしれません。
「新聞啓蒙」も役所が「啓蒙」から「啓発」に改めたのに習って「新聞啓発活動」に
改めるべきではあるでしょう。
2124
:
犀角独歩
:2005/04/04(月) 09:19:02
> 2123
これは吉祥仙人さんの個人的な勘違いでしょう。
「総本山整備」ということですから、これは離間以前の話ですね。
学会席、35年のわたしのほうが正確に記述できます。
「財務」という言葉は、あくまで学会運営に当てる資金調達を指す言葉です。
これに対して、石山・坊さんに拠出するものは「供養」と言い分けていました。
では、財務と特別財務の差ですが、前者は毎年決まって行う恒例のもの、後者は特別に新しい会館を建てるとかなんとかという名目で前者とは別にさらに徴収するものを言ったわけです。
なお、「供養」語は「正宗寺院・僧侶(まあ、彼らの口上では「御本尊様」に限って使う)」語であるのに、それを学会(殊に池田さん)が受けられると言ったのが『仏教史観を語る』という講演で、これが大問題になって、第一次紛争の火種になっていったわけです。
仏教史観を語る
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/shikan.htm
石山の反論と学会の答え
http://nonakashin.hp.infoseek.co.jp/kuyou.htm
今では、離間したわけですから、当然、学会内部の認識としては、財務=供養ということが、公然と正当化されているのでしょう。
しかし、戸田さん以降、財務と供養を厳格に分けるところに信仰を見た人々にとって、これは隔世の感があることを「歴史」として知っていただきたいと思います。
2125
:
犀角独歩
:2005/04/04(月) 09:59:22
> 「新聞啓蒙」も役所が「啓蒙」から「啓発」
たしかに、最近の役所は「啓発」と言い換えています。しかし、だから、学会が、同じように言い換えればよいと言うことではないでしょう。
「啓蒙」は啓蒙思想、主義を転用したものでしょう。
けいもう-しそう―さう 【啓蒙思想】
18世紀フランスを中心としてヨーロッパ全域に広がった革新的思想。キリスト教会などの伝統的権威から解放された理性の使用を公衆に促し、人類の普遍的進歩を図った。フランスではデカルト的体系への批判を伴った。フランスのボルテール・百科全書派、イギリスのロック・ヒュームが代表。啓蒙主義。(三省堂提供「大辞林 第二版」)
しかし、新聞の販売というのは、宗教法人に許される33の収益事業の一つです。
となれば、一般の新聞社が使用する「拡販」というのがいちばん適当な言葉ではないでしょうか。
2126
:
ファリオン
:2005/04/04(月) 18:38:01
皆さん、いろいろとご教示下さり、有難う御座います。
これで、単なる勘繰りを一つ改めることが出来ました。
聖教新聞──学会側と世間とで、位置付けが曖昧になっているから、話がこじれるのではないでしょうか。
機関紙であるなら、趣旨や主張を外部に伝えるのも役割の一つだと思うのですが、実際は学会員に対する内容のみです。
一方、世間では機関紙とは思っていないようで、他の新聞と同じ扱いですから、理解するどころか反発を起こしています。
何とも、不幸なことだと思います。
2127
:
理
:2005/04/05(火) 05:16:59
はじめまして。
気になったんですが、チョンガーさん、独歩さん、犀角独歩さんは
もしかして同一人物ですか?
2128
:
問答迷人
:2005/04/05(火) 06:25:24
理さん
>チョンガーさん、独歩さん、犀角独歩さんはもしかして同一人物ですか?
チョンガーさんは札幌の人、犀角独歩さんは東京の人、全くの別人です。犀角独歩さんは、当初『独歩』のハンドルで書かれてました。
参考までにチョンガーさんのサイトはここです。
http://shunpo.ld.infoseek.co.jp/chuui.htm
2129
:
宝浄
:2005/04/05(火) 13:50:23
ここは多重HNを禁止しているわけじゃないから「だれがだれ」みたいな犯人探しあてっこはやめようよ。
よけいですが(犀角)独歩さんのHPは以下。執行海秀論文なんかが消えてしまったのは残念。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/
2130
:
犀角独歩
:2005/04/05(火) 17:36:19
わたしはチョンガーさんではありません。同氏のHPが「独立独歩」であることをわたしは知らず、いまのペンネームで参加してしまい、本日に至っております。いまさらながらですが、チョンガーさんには、陳謝申し上げるものです。
なお、わたしも宝浄さん…どこかで聞いたことのある名前です…のご意見に賛成です。また、執行海秀師資料に関しては、近く再アップする予定です。また、HPアドレスも変更になっています。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/
2131
:
犀角独歩
:2005/04/07(木) 04:22:57
自己レスになってしまいますが、池田さん講演『仏教史観を語る』、誰が原稿を書いたのか知りませんが、よい出来でした。ここら辺に現役さんからの、何のレスもないのは寂しいですね(笑)
2132
:
えばら
:2005/04/07(木) 20:11:03
独歩さんと西川さんは同一人物ですか。
2133
:
犀角独歩
:2005/04/07(木) 23:51:14
> 2132
再三なので、申し上げます。
わたしはこの手の質問には今後、応じません。今回を最後とします。
西川さんは女性、わたしは男。西川さんと電話その他で話されたこちらの常連さんは多くいます。その常連さんで、わたしと実際にお会いしている人もいらっしゃります。
つまり、別人です。
西川さんはネット書店の店長で、わたしはそこの書き手という関係です。
こんなことまで、書かなくてもよいのですが…、ついでに書けば、わたしの携帯はボーダーフォンで掲示板の閲覧・投稿が困難です。
そんなことから、掲示板の内容を送信してもらい、そのレスを返信して、代理で投稿していただくことはあります。
しかし、これはわたしの文章です。以上です。
2134
:
犀角独歩
:2005/04/08(金) 10:22:26
藤川さん、おはようございます。
ちょっと、レクチャーしていただきたいのです。
本日、明け方から、小笠原慈聞著『法華経の玄理一念三千の法門』を読みました。このなかで「本尊機関説」(P97)なる造語が出てきて興味深かったのです。しかし、これは置いて、この機関説と言えば、想起されるのは「天皇機関説」となりますが、この辺と石山の近代教学というのは、どんな具合に理解されることになるのでしょうか。ご賢察をお伺いしたいのですが、よろしくお願いいたします。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/18322301.html
2135
:
藤川一郎
:2005/04/08(金) 12:02:20
本尊機関説?もとい天皇機関説ですか?
この小笠原師の「本尊機関説」の内容に興味が湧きますが、それはさておき・・・
立憲君主制の元での、天皇機関説というのはかなり正論に近かったようです。
昭和天皇は天皇機関説を最も支持されたようです。
しかしながら、昭和天皇が天皇機関説支持を表明されなかったのは、「機関」である御身が不用意に発言してはならないからという、ジレンマの中にいたためのようです。つまり天皇機関説支持を表明することが天皇機関説に反するという御考えからだそうです。
さて、この天皇機関説を美濃部達吉氏が発表したのは、1912年(大正元年)の『憲法講話』に遡るのですが、その当時は、天皇主権説の上杉慎吉氏との間に論争が生じただけであり、未だ社会的な批判にはなっておりません。
これが社会的に問題になるのは、1935年(昭和10年)まで待たねばなりません。
昭和10年といえば226事件の前年ですが、既に満州事変の勃発した後であります。
つまり国策として天皇機関説が非難されたのであり、真摯な学者の論争にはなっておりません。
さて、大正元年に発表された天皇機関説と吉野作造氏の民本主義等が相まって、当宗における、日柱上人追落し事件(大正14年)に影響があったことはあると思われますが正確には分かりません。しかしながらもともと、民主主義や機関説等という考え自体が絶対のものではありませんし、それをもって理論的武装をするのは、下克上的発想とも考えられます。
そんな中、反日柱上人の御僧侶に対し、唯受一人の日柱上人に味方したのが、東京の在家信徒たちですが、この方たちすら、御法主利用の心が全くなかったかは疑問です。
当時の文書を読んでも、御法主の衣を利用して自分らの正義を主張した観が無いとは言い切れません。
現今の創価学会が、御法主を権威主義と非難しますが、その権威を隠れ蓑に利用していたのは外ならぬ創価学会だったのです。権威を持ち上げるだけ持ち上げておいて、それを利用価値が無くなったから捨て去っただけです。はしごの上に人を乗せて於いて、はしごを外したようなものです。
2136
:
藤川一郎
:2005/04/08(金) 12:03:31
さて、戻りまして天皇機関説について私論を申し上げますと、やはり余り正論とは言えないようです。そもそも天皇陛下の地位を法で定めることに無理があるのです。
そもそも天皇という地位は法で定められたものではありません。大日本国憲法前の大宝律令ですら、実は全く明示されておりません。
天皇という地位が有史以来初めて名文されるのは「禁中並びに公家諸法度」なのであります。しかも家臣である徳川家が主君である天子(天皇)を法で縛るという、明らかなる下克上法なのです。天皇という御地位を歴史的連続性から法で定めることは元来無理なのです。戦前の憲法を「天皇主権の欽定憲法」等と評しますが、その中で天皇の地位を定めている時点で、既に天皇を縛るものであるのです。戦後の象徴天皇制ですら、その上に乗っかっているものに過ぎません。昭和天皇が天皇機関説を支持されたのは、その帝王学の教育の賜に過ぎません。幼き日より「立憲君主」の御教育を受けられていたから、憲法を越える天皇など夢のまた夢だったようです。
最後に隆慶一郎の小説「影武者徳川家康」に面白い下りがありました。
道々の者(天皇以外主を持たない階層)出身の主人公大御所家康の影武者、世羅田二郎三郎元信に、現将軍として秀忠が「禁中並びに公家諸法度」の裁可を願ってくる場面です。
その時の主人公の言葉がまさに日本の天皇観を語っているので面白いで、最後に記しておきます。
「そのほう、気は確かか?そのほうは知らんのだ!古来より天子を縛る法が定められたことは無いのだぞ!法とて全て天子より出ずるのだ。法と天子は同格だ。このような下克上の法度が認められる分けなかろう!」
結局歴史は、この法を定めてしまうわけですから、「禁中並びに公家諸法度」「大日本帝国国憲法」「日本国憲法」は全て、不連続の連続の範疇にあると捉えても間違いは無いでしょう。
ちなみに、この中に出てくる「道々の者」等の末裔が今の被差別部落の方たちなのですが、その方々が根本理念を忘れて「天皇制打破」を言うのは間違っているという考えが、水平社の中でも持ち上がっており、「灘本・師岡論争」として話題になっております。
2137
:
犀角独歩
:2005/04/08(金) 14:32:14
藤川さん、長文のご教示有り難うございました。
参考になりました。
> 法と天子は同格だ
うーむ。これはまさに「人法一箇」。「戒壇の大御本尊と御法主上人猊下は不二の尊体」と、脈絡を同じにしているように見えます。
> 下克上法
やや脱線しますが、天皇も民衆も法の下に平等というのは、憲法の読み違えでしょうね。
2138
:
問答迷人
:2005/04/08(金) 14:43:30
確か現憲法では、基本的人権は天皇には認められていないのでは有りませんでしたか?
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