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素朴な疑問

1939デルトロ:2005/02/09(水) 21:09:48
吉祥仙人さん。
そんな、謝らないでください。
私はリハビリのつもりで書いてるつもりですから。
今まで自分の目に映っていた風景を、違う視点で見てみたく
なっただけですから。
今まで目に映っていて信じていたはずの海が、
突然本当はこれ川だったんだよっていわれてびっくりしてるんです。
じゃ、海って何だろうって、
ようやく考えようとしているだけですから

1940デルトロ:2005/02/09(水) 21:51:43
独歩さんいらっしゃいますか?
またくだらない質問していいですか?

日蓮正宗の教義が破綻しているというのは、
宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?
どこまでが確信犯だとお考えでしょう?
そしてまた、戸田城聖は?
厳密な回答を求めているわけではないので、なんとなくこの辺ぐらい
までかなあたりで結構ですので教えてください。

日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。
ただ、なぜ日顕上人は教義の破綻をわかっているのに、
最大のスポンサーである学会を手放してしまったんでしょう?
俗ないいかたですが、それならば多少の冷遇はあっても
損して得とれと考えるのは私のような俗の考えかたでしょうか。
私も宗門は贅沢しすぎたの感はありますが、一時の怒りの感情で
金の卵を産む鵞鳥の腹を割くようには思えないのです。
52年路線があっても実質上、学会はびくともしませんでした。
破門したら宗門に流れてくるなどと楽観した見方はしていないでしょう。
ましてや決別すれば、過去の例から見て、どれだけ誹謗中傷されるかも、
予想がついたはずです。
圧倒的財力を捨てて、圧倒的に誹謗を受け、経済的にも疲弊する茨の道を
選んだ。ここがどうも腑に落ちないのです。
そうまでして学会を許せなかった原因はなんだとお考えでしょう?

1941吉祥仙人:2005/02/09(水) 22:18:58
 でしゃばってすいませんが

 人間の一番強い感情、憎悪だと思います。

1942愚鈍凡夫:2005/02/09(水) 22:36:14

横レス失礼します。
創価学会の場合、牧口さんの「価値論」、戸田さんの「生命論」、この出発点から石山教学とは水と油だったのではないでしょうか。
しかし、創価学会のおかげて石山が経済的に潤ったのは事実ですから、戦中の神札問題同様、妥協できる点は極力妥協してきたというのが石山のスタンスではなかったでしょうか。
ただ、石山と創価学会は、池田さんが「創価学会」と「日蓮正宗」の上に、双方を統括する組織を作ろうと企てた頃から、実質的に距離を置くようになっていたと思います。
石山教学については、他山の相伝書・口伝書に展開される不可解な理論を自宗の教学に取り込んで、辻褄合わせをした時から教義破綻をしていたのだと思います。
それでも、江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって、「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

1943吉祥仙人:2005/02/09(水) 23:14:01
 デルトロさんへ

 でしゃばって、答えのヒントにもならないことを書き込んですいませんでした。
 
 犀角独歩さんがまだいらっしゃらないようなので、愚鈍凡夫さんの書き込みを
ふまえて少々。
 なぜ憎悪もしくは怒りの感情を持ったか。創価学会では阿部管長個人の性格に
収れんさせることが通説となっています。私もその部分が多いと思います。
 しかし、(また島田教授の影響ですが)愚鈍凡夫さんの指摘する前半の点も
根源的にあるかなと思います。「創価学会と日蓮正宗の上に・・・」については
異論があるのですが。
 教義の破綻については、まだ勉強不足で納得していませんが、また反論も
出来ませんが、愚鈍凡夫さんの言う「辻褄合わせ」は、理論の発展として容認
出来るのではないかと思います。法華経を釈尊の直説ではないとして、文献上
学者に認められる(字がでない・・)アゴン経のみが正しいとする某師の説など
愚の骨頂と思います。

1944犀角独歩:2005/02/09(水) 23:28:08

1940 デルトロさん、ちょっと、考えてからお返事を差し上げます。
(いまから、ようやくと夕飯なものですから)すみません。

1945無徳:2005/02/10(木) 00:01:23
犀角独歩さん、先日は有意義なオフ会に参加させていただき誠にありがとうご
ざいました。
sunyaさんやワラシナさん等々懐かしい方々と再会が出来たことを心から感謝
申し上げます。特にsunyaさんとは大変同感でき、また、示唆に富む語らいが
出来とても楽しく過ごさせていただきました。

愚鈍凡夫さん、

>江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって
>「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

とのことですが、<矛盾に満ちた不可思議な理論>この辺を少し解り易く解説
していただければ幸いです。決して急ぎませんですからお時間の許される範囲
でお答え願えればと存じます。

1946犀角独歩:2005/02/10(木) 00:36:05

無徳さん、せっかく、島田師の講演を聴いていただいたのに、そのことはあまり参考にならず、酒宴で歓談のほうが良かったのですか(笑)
では、企画者としては、失敗と判断しなければなりませんね。酒のうえの雑談は、別にいつでも出来ますからね(笑)

1947犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:21

1940 デルトロさん:

> 日蓮正宗の教義が破綻
> 宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
> 上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?

石山では、少なくとも能化以上はわかっているでしょう。先にも記しましたが、彫刻本尊の偽作ネタを安永師にレクチャーしたのは、かの有名な故老であると言いますから。

学会は、本部首脳クラス以上、もちろん、池田さんは掌握しているでしょう。

正信会は、どうでしょうか。あそこはそれぞれの信念大系(石山教義を出ませんが)の寄せ集まりですから。一部、まじめに古文書を研究している人々には敬意を表しますが、何度も記してきたことですが、彫刻(所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われるもの)と、お肉(所謂「御肉牙」と言われるもの)に、ちゃんとした見解を述べなければオカルト教団の範疇を出ることはないというのがわたしの意見です。まじめな研究者という看板を立てるのであれば、まず、彫刻とお肉を信者に信じさせた過去の懺悔し、自己批判してから始めろと言いたいわけです。まさk石山に返り咲こうなどというケチな損得勘定がないのであれば、自分自身の根本を質せというのが言いたいことです。もっとも数年前、有職にあった正信会僧侶に会ったとき「二箇相承、あれは偽物です」と言っていました。ですから、そのような見解はしっかりと文書化して発表してしかるべきです。ついでに彫刻本尊、御肉牙についても公式見解を発表すべきでしょう。
まあ、そんなことを信じている上層部がいるわけはないでしょう。信じている信者に話を合わせているだけ?、ならば、あまりにも信者を馬鹿にした話であるとわたしは思います。


> どこまでが確信犯だとお考えでしょう?

確信犯は阿部さん、途中で知って愕然とし、方向転換を余儀なくされたのが池田さんではないのかというのが、現時点におけるわたしの見解です。正信会については、知りません。繰り返しますが、古文書研究では敬意を表しますが、彫刻本尊・御肉牙・唯授一人などということに対して、いまだちゃんとした見解を示さないとは何事だと、わたしは信仰面から、信者指導の在り方に正信会僧には疑問を抱いています。

> 戸田城聖は?

ここの掲示板では、最低「さん」付けが原則です。
ですから、わたしは戸田さんとします。
この人は、牧歌的というか、案外、そのまんま、信じていたのかもしれません。
ただ、その知識は、石山、日蓮門下(特に戦前の国柱会の影響)の範囲で、それ以上の仏教的な知識に目を向けていなかったのは残念です。(100年間に崩壊した)明治開闢頃の仏教常識のなかから石山優位を考えただけというのはいかにも惜しかったと思うばかりです。

1948犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:44

―1947からつづく― 

> 日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。

たいへんに優れた比喩でした。

> なぜ日顕上人…最大のスポンサーである学会を手放してしまった

もっと、自分のところに着くと誤算したのではないでしょうか。
学会の半分ぐらいは自分たちに着くと「とらぬ狸の皮算用」をしたのだとわたしは思っています。

> 経済的にも疲弊する茨の道

これは石山が捏造した美談でしょう。
本当か嘘か知りませんが、富士宮筋の金融通に言わせれば、石山は1兆円持っているそうですよ。

奉仕供養という登山の際に阿部さんに直接する献金は、個人の収入になっているのではないでしょうか。奉安堂の建立でもずいぶんと儲かったという話も伝わります。これは未確認事項です。しかし、学会破門後、六万塔、客殿、奉安殿等々、後からあとから、多造塔寺の限りを尽くしましたが、必ず、ゼネコンその他のバックマージンは阿部さん個人の懐に転がり込んだのではないでしょうか。これが昔だったら、創価学会というクッションが入ったので思うままにならなかった。いまは、直参だからやりたい放題ではないのか?と、わたしは見ています。
阿部さんは、登座してどれほど、金を掴んだ、まあ、人が聞けば腰を抜かすような額ではないでしょうか。それによって、石山歴代の阿部家世襲制を不動のものにしたという分析もあるぐらいです。この前の石山の坊さんの会合で、(石山内でしか通用しない言い方ながら)高僧が、信彰さんをヨイショした話を聞いて、わたしは吐き気を催しました。いずれにしても(後世の創作であるにせよ)『大集経』の「多造塔寺堅固」の次に来るのは、「白法穏没」と相場は決まっています。

まして、阿部さんは、教学部長時代に既に彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本にした構成の偽物であることは知っていたのでしょう。知ったうえで、登座し、池田さんを法華講総講頭に返り咲かせ、さらに破門し、創価学会も破門した。そのなかの彫刻が偽者であると知りながら、正本堂を壊したうえで、奉安堂を「再建」したのでしょう。「神をも恐れぬ」ならぬ「仏をも恐れぬ所業である」と、わたしは弾劾するものです。

> 学会を許せなかった原因

先に引用したハッサン師は

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」(P188)
「自分が組織の中で上昇して(略)私はますます憑かれた人間になっていった。権力がほとんど中毒になっていて、選択するときには、道徳的に正しいことより、自分の権力を守り増大させることを基準としはじめていた」(P299)

という指摘は、阿部さんにも当て嵌まると思えます。そして、何より

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」(P183)

というカルト全般に亘る批判を換言すれば、

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

と読み直すとき、まったくその批判に当てられると、わたしは考えています。

各教団の美談は、鵜呑みにすると、酷い目に遭います。真実を見つめる勇気は、時には苦悶を伴いますが、しかし、真実に至る道程であれば、痛くして痛からずです。

1949犀角独歩:2005/02/10(木) 01:22:02

最後の言い換えが尽くされていませんでした。
繰り返します。

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、仏と御書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

1950デルトロ:2005/02/10(木) 01:58:38
独歩さんありがとうございます。
そうですね。戸田さんと、訂正させていただきます。

ところでハッサン氏の本なんですが、手に入りそうです。
ぜひ研究してみたいと思います。
もうひとつだけいいですか?
今私は、リアリティのある言葉を欲しがっているのかもしれません。

重複している質問なのかもしれませんがあえて問います。
これは個人的な問題かもしれません。
ノーコメントでも結構です。

独歩さんは、
曼荼羅を、書写することは可能ですか?
書写してみたい衝動にかられたことはありませんか?
しないのならば、なぜなのでしょうか?
必要ないといえばそれまでですが、
よかったらその理由も教えてください。

1951犀角独歩:2005/02/10(木) 06:51:33

デルトロさん:

> 曼荼羅を、書写することは可能

わたし個人が、ですか。
細かい書き方でわからないところがありますね。
また、御筆漫荼羅はネットで拝見できますし、特にその必要性は感じません。
もう少し具体的に申し上げれば、字像漫荼羅が本尊であると考えておりませんので、その意味で必要性は感じません。
ただし、石山が言うように「法主の権能」であるとは、まるで思いません。

わたしは石山の彫刻「本尊」の鑑別をしたわけですが、その課程で、蓮師の運筆をなぞりました。ですから、人に説明する場合は、黒板や、ホワイトボードに書いてみせることはあります。それはしかし、運筆を示す文字であって、「本尊」と言えるものではありません。
また、元来、仏法には「本尊」と呼称すべきものはないので、それ故、わたしは「本尊」観から捌く蓮師の教説を鵜呑みにするものではありません。

以下、たびたび紹介したところですが、精神科医・高橋紳吾師は本尊、神仏、ペットなどを「補助自我」として説明しています。わたしはこの分析に敬意を表しています。

―― 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。

【補助自我】自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。――(『超能力と霊能者』岩波書店 P215)


以下、参考までに

『Nichiren Shonin Gohonzon Shu O'Mandalas by St. Nichiren』
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

他でも紹介しましたが
『いま大曼荼羅の世界を考える』
http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm


わたしのサイトは
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1952デルトロ:2005/02/10(木) 07:24:12
独歩さん、
いつも真摯なお答え、本当にありがとうございます。
皆さんも含め、心よりお礼を申し上げます。

教義上に暗いのを理由に、
愚問ばかりぶつけて本当に申し訳ありませんでした。
さぞ、御面倒をおかけしたと思います。
管理人さんも、暖かく見守っていただき、
感謝しています。

私の個人的な感想を述べさせていただきますと、
大聖人様の仏法は、凡夫にとって、
いかに「難信難解」であるかと、あらためて思い知らされました。
教義上、破折をされれば、塵にもならない私の存在ですが、
やはり、違った意味の確信が出てきました。

独歩さん、散々相手をさせられて馬鹿を見たなんて決して思わないでください。
独歩さんのリアリティのある言葉、少年時代のお話、
また、私が自身の経験を語るにおいて、私は何度も涙を流しました。
こんなことは、初めてでした。
お叱りを受けるのは重々承知ですが、独歩さんとは、根っこの部分で
深いつながりを感じるのです。
苦しんだ人間にしか理解できない、いや苦しんだ人間だからこその、
深い慈愛を感じます。

格好つけたくないんです。知ったかぶりもしたくないし、
人に頭を下げられない人間も、つまらないプライドで意地を張る人間も、
頭ですべてを測ろうとする人間も、親切な顔して他人の足をひっかけて喜ぶ人間も、
みんな嫌いなんです。
もし私がこの日蓮正宗の信仰で利益があったのならば、
他人を受け入れる勇気を
持たせていただいたことだと思っています。

1953デルトロ:2005/02/10(木) 07:32:26
否定のための否定、肯定のための肯定。
合理化のための合理化。
これはきっと、すべて愚かなことなのでしょう。
すべてが理屈で片付けられるのであれば、
仏法など、まったく無意味な存在になってしまいます。

独歩さん、あなたのようなかたとお話ができただけでも、
本当にありがたいことだと思っています。充分すぎるほど有意義な時間を
いただきました。
本当にあなたは慈悲の深いおかたです。
私も今すぐにすべての結論を出すわけにはいかないでしょう。
しかし、もう一度、今まで以上に、かつ目し、真摯に向き合い、
考えぬいていこうと思っています。
愚かなことだと笑われてしまうかもしれませんが、
やはり「疑」からではなく、「信」から入っていこうと思います。
悩み、考え、苦しみぬいて、自分の人生にけじめをつけていくことが、
私の信仰の道であると覚悟を決めています。
本当にすべての人に心から感謝します。みなさんには、最後までご迷惑かけて
言葉もありません。
ありがとうございました。

独歩さん、多忙のかただとは思いますが、お体だけは大切にしてください
本当にあなたには感謝以外の言葉がみつかりません。
本当に、本当にありがとうございました。

1964デルトロ:2005/02/11(金) 08:17:43
こんにちは独歩さん。デルトロです。
気持ちの整理がついてきました。なんか元気です。食欲やっと出てきました。
先日は本当に申し訳なかったです。
きっと謝っても許してはもらえないでしょうね。
私が結果的に放り出したことがよかったのか悪かったのかは別にして、
独歩さんの気分を害したのは事実だと思います。
それは本当に深くお詫びしたいです。
ただ私にとって独歩さんの存在が最高の治療になったことも事実なんです。
なんかね、私は独歩さんに卒業証書もらった気分でいるんですよ。
短期留学で。
もっというとね、独歩さんていうお医者さんから、
「もうおまえは退院していいから出てけ」
って、愛情もって追い出された気すらしてるんです。あの病院から。
別に掲示板が病んでいるってわけじゃないですよ。そんなつもりはないですから。誤解のないよう
管理人さん、怒んないでくださいね。

1965デルトロ:2005/02/11(金) 08:18:15
私がここで一番読み違えたなあと思うのは、書いたことかもしれないけど、信仰に疲れ傷ついた人のための
セラピーであることが重要だと思っていたわけです。というよりも前提かな。
けどやっぱ「日蓮ごっこ」であったり「御書ごっこ」の範疇からまったく脱却してなかったんですよねえ。
揶揄してるわけじゃないんです。ただ本当はみんな傷ついてここに流れてきたクセに、未だカッコイイ自分
しか目に入ってないんですよ。「教義に詳しいカッコイイ俺」みたいな全国の教義番長が集まってて
みんなで喧嘩してるわけですよ。だからちょっと目があえば喧嘩になるし、私はそこに嘘を感じたわけです。
「うそつけよ。本当はつらいことがあったんだから不良になったんだろ。いいじゃねえか
不良が泣いたって。傷があんだろ。おまえにも」っていっても不良たちは認めないんですよ。
「俺は喧嘩が強いんだ」の一点張り。譲らない。だからそんな連中がいかに小さいかってことを
示すためにも、独歩さんていう大番長がいたんだと思います。何人かかってきても全員投げ倒す。
圧倒的存在感、みんなの憧れ。

1966デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:08
でもね、その認識はちょっと甘いかなって、思ったんですよ。
独歩さんて大番長なんてそんな小さな存在じゃなくて実はみんなの父親だったんですよ。
わかりますか?でも、それならば、番長と父親の違いは何だと思います?
ヒント出しすぎたかなあ。
それはね、リアリティなんですよ。誠実さって言葉に置き換えてもいいかなあ。嘘がないんですよ。
傷を隠さないで戦ってるんですよ。みんなね、傷を隠して戦いたがるんですよ。
だからみんな防御に回ってしまう。文章力、分析力、読解力、知識量、その他どの点でも秀でているのは
間違いないんですけど、その根源にあるのは、苦悩と傷、そしてそれを隠さない勇気。
それにおいて独歩に勝る人間はちょっと見あたらない気がします。
くだらない揚げ足取りまでももきっちり潰していく。独歩さんの歩いた跡って本当に
キレイに掃除されてるから、見ていても爽快感があるんですよ。
だからこそ最初独歩さんに近づくのは怖いなとも思っていたわけで、証拠出せ、文証見せろって言葉が
頻繁に飛び変わっている合戦の中で、丸腰どころか、行水から上がってきたばかりの丸裸の幼児の私が
場違いを覚悟でビビリながら初投稿しました。私も精神的に相当切羽詰ってたのでしょうね。
苦しんでいました。誰か私を解放してくれって。
考えようによっては自殺願望で、殺されたいって気持ちもあったかもしれません。

1967デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:45
私がした質問や他の文章に他意はないです。その時思ったことを配列も考えずにバラバラに
つらねただけ、ただ今にして思えば、完全に勘違いしてたなって思います。
あらためて訂正します。前面訂正です。
ただその時考えていたことが反映されていたのは間違いないでしょうね。
身も蓋もない質問ばっかりでしたけど、それをいっちゃあおしまいよ、なんて質問に、
独歩さんがちゃんと誠実に答えをくれ、そして的確だったのは本当に目からウロコが落ちました。
と、同時に、自分の中に新たな矛盾も生まれてくるのも事実でした。
マインドコントロールからの開放が新しいマインドコントロールを産む。
そんなひっかかりも同時に感じました。ま、これこそが呪縛の消えていない証拠といって
しまえばそうかもしれないけど、それならもっと反発心が源泉になっていてもいいのになって。
それとはまた違った違和感があったわけです。不思議だなと。この疑問はなんだろうと。
合理化しようと思えば大抵のことの合理化は可能な気がするんです。
いいわけを作ろうと思えばいくらでも作れるってことですかねえ。
その時それを自分に求めたのも事実ですね。なんかうまい理屈づけはできないかな。
それができれば問題解決した気になれるのにって。

1968デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:20
独歩さんは本当にすべてにおいて誠実に答えてくれました。それは間違いのない事実です。
その感謝の気持ちに偽りはないです。けれども、
学会を切ってスポンサーがいなくても、宗門は一兆円あるからいいんだ。
疲弊は作られた美談である。っていうのはやっぱり失礼ながらもそうかあ?って感じましたねえ。
正直いって。独歩さん流だと、じゃあその通帳を提示してみろってことになっちゃうし、
ま、別にそんなもんみたくないんですけどね。52年問題で学会はびくともしなかったのに、
破門したらそれこそスポンサーいなくなって大変じゃないですかって質問にも
宗門の読み違えだって、ちょっとこれはさすがに怪しくないですか?この解釈。
ちょっと無理かなあって。強引すぎませんか?52年で失敗してんのに、いくら認識が
甘いとはいえ、ワザワザ損することばっかりやるかなあって。

1969デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:54
私の感覚だと一兆円じゃ満足できないんじゃないかなって、だって学会なんかはその何倍も
持ってるわけでしょう?私なら足を舐めてでも学会と離れませんよ。
腑に落ちないなあって思ってたのにますます腑に落ちなくなってきたわけです。
あれれれれって。なんか独歩さんらしくない切れ味の悪さを感じたわけです。
正直ちょっと残念だったわけです。いつものようにスパッと一刀両断が見たかったんで。
で、私は思ったわけですよ。いつも明快な回答をくれるはずの独歩さんがどうして?
教義が破綻しているのが学会宗門共通認識の確信犯なのであれば、ようは最初から
全部がウソならば、誹謗されてお金ももらえない道をワザワザ選ぶなんて、偏った見方しても
苦しいですよ。独歩さんがそんな考え方するのはちょっと意外でした。
その時ちょっと誰かの人生と重なるなあって、ぼんやり思ったんです。

1970デルトロ:2005/02/11(金) 08:27:42
正直私の中で混乱が生じまして、ヨシと、ここまできたら自分にとっての最大のタブーで
あった質問をしてみよう!と思って曼荼羅書写の質問をしたんですよ。
私は曼荼羅をズタズタに二度裂いて二度発狂したという強迫観念があるわけで、
それはでも独歩さんが思い込みだってやさしく慰めてくれたのは本当に嬉しかったんです。
ひとつ開放できたのかもしれないって。
だから不遜に扱うどころか書写なんかしたらどれだけ恐ろしい目に、って恐怖も常に
付きまとっているんです。と、同時に独歩さんの答えによっては自分の治療が終了するとも
思ったわけです。長い呪縛から開放される瞬間だと思って、私はずっと待ち続けたんです。
なんかわかんないですけど仏壇の前に座りたくなりまして、独歩さんを待ったんです。
ウソかと思われるかもですけど、何日かかってもいいから仏壇の前で独歩さんを待とうって。
真剣なんですよ。
必死でお題目を唱えました。ほぼ一晩中です。なんかどんどん涙が溢れてきて、
何かわかんないけど、
なんか違う。なんか違うんじゃないかって。
独歩さんの言葉に、正直すがりたかったんでしょうね。

1971デルトロ:2005/02/11(金) 08:28:27
告白すると、独歩さんの答えいかんでは、本気で書写をしようと、私は考えていました。
それが呪縛からの開放。そしてマインドコントロールからの開放。その完成こそがこれなんだと。
学会の本尊を拝んでおかしくなった人、リアルに見たことあるんです。強信の人でした。
本当なら、証拠として具体的に名まえ挙げてあげたいぐらいなんですけど。
当時は仲よかったんです。いつも私怒られてましたね。自分は回復したって自信があったから、
お見舞いに行ったんです。閉鎖病棟に見舞いにくる人って圧倒的すくないんですよ。
彼を見てびっくりしたんですよ。あまりにひどくて。私もこんなだったの?
その時自分の姿も重なって、こんな言葉あるのかわかんないんですけど、もらい狂いしそうに
なったんです。恐怖でした。その人はまだ病院に入っていますが、でも独歩さんの答えいかんでは、
救ってあげられるんじゃないかって、本気で思っていました。自分が最も恐ろしいとされる行為
を遂行できるならば、完治は無理でも、回復を早くすることは可能なんじゃないかって。

1972デルトロ:2005/02/11(金) 08:29:24
ずっと必死で唱題し、けど唱題していくうちに、
段々自分の意識が変化していくのがわかっていったんです。
ああなんて恐ろしいことをしようとしていたのだろうと。自分は仏法を頭で測っていたと、
つじつまあわせばかりを考えていた。なんと愚かな考えを。
呪縛じゃないんだ。この信心をずっと保っていこう。これこそが開放なんだって。
たくさんの人が見る場所に、なんて恐ろしいことを書いてしまったんだろうと、
心からの懺悔の唱題がはじまったんです。泣いてました。泣きながらの唱題なんて
何年ぶりなんだか。
そんな時、独歩さんからの返信をいただいたんです。そして独歩さんのその文章を読んで、
確信が湧いたというわけです。すぐに返事をかきました。
きっとぐちゃぐちゃの文だったと思うので自分でも恥ずかしくて再読できません。

1973デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:11
独歩さんからいただいた書写に関する文章は、
失礼ですが今まで以上に切れ味が悪く。
言い訳をみつけているような気がしました。
ごめんなさい、正直、前半までしか読んでいないです。
でも必死で熟読したのは本当です。
逃げている!
必死で逃げる理由を探している!
それが私の印象です。
でもね、だからこそ独歩さんが以前よりずっとずっと好きに
なったんです。この人は私の仏様だったんだって。私を救ってくれた人だって、
涙が止まらなかったんですよ。その時頭に浮かんだ言葉が
「難信難解」だったんです。おかしいなあと思ったんですよ。
こんなに有名な言葉が、ここの掲示板のどこにも見あたらないなんて。
今ね、私は泣きながらキーボード打っています。涙が止まらないんですよ。

1974デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:53
独歩さん、どうか、私に、罵倒でもなんでもいいです。
言葉をください。
お願いします。
私はあなたによって救われた人間なんです。
これは、思い込みなんでしょうか?
それとも、大聖人様の仏法の偉大さなんでしょうか?

1975愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 08:53:38

真実探求者さん、犀角独歩さん、過分なお言葉、有り難うございます。 (*^_^*)
これからも精進して参ります。
昨日は、最後の投稿を終えた後、キーボードを打つ気力が萎えてしまって、ロムってました。

昔、「六巻抄」を読んだ時、その訳の分からない処が凄いと、思い込んでいました。
日寛師の教学は、小生のような浅学の者には理解できないほど凄いんだと思い込んでいました。しかし、その教学がこじつけと言葉遊びに満ちていることに気付き初めた時、日寛教学が正宗教学の最高峰と位置づけた石山・創価学会に愛想が尽きました。
今回、「六巻抄」に対する想いを文章にする機会を与えて下さった皆さんに感謝します。
m(_ _)m

1976愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 10:26:04

小生は、日顕師が創価学会を切ったのは、下世話な言い方ですが、食べていく自信があったからだと思いますよ。
大石寺から学会色を払拭した事で、世間に、学会との実質的な決別を宣言したのだと思います。細かいことを言えば、それこそ印刷漫荼羅の返品の山を、後ろめたい気持ちで燃やさなくても済むわけですからね。もっとも、原稿さえあれば漫荼羅は山ほど作れますから、こちらが思うほど後ろめたさはないのかも知れませんが。
それに、創価学会からコンクリート打ちっ放しの、見るからに安っぽい寺院擬きをプレゼントされて、恩着せがましい皮肉を言われなくても済みます。地方の学会施設と比べたら、結構笑えますよ。
あとは、「際だった怪力の持ち主である日興上人様が、奥深い身延の山中から"戒壇之大御本尊"様をお一人で担ぎ、令法久住のために大石ヶ原までお運び下さった」と言い張るしかないでしょう。

1977デルトロ:2005/02/11(金) 11:37:38
こんちは〜なんかすっかり元気になりました〜
私の思い込みをもうひとつだけ書き込みますね〜

私はあの時、リアリティのある言葉が欲しかったんですよ。
しっかりそう書いてありますよね〜
今、再び自分を分析してみると、あの時私が一番欲しかった言葉は
「是非やるべきだ!今までのすべての呪縛から逃れるために
曼荼羅を書写するべきだ!それを持ってすべての呪縛から解放されるんだ」
という強い信念の言葉だったんですよ。
それが私の恐怖の根源なんですから。
字がわかんないとか、そういうことではないんですよ。
同時に、独歩さんの解放でもあるんじゃないかと思ったわけです。
だから、書写したい衝動にかられたことはありますか?
とも質問したんです。
でもその答えがなかったのも、残念な気持ちになったひとつなんです。
もしも、完全にノーコメントであれば、私は書写もしたしさらに
破っていますよ。自分ですべてを確かめるためにね。
もう一度発狂するのか、その過程をすべてみつめながら地獄に落ちよう
と、決心したんです。こんな恐ろしい選択って、どれだけ
恐怖をともなうかわかりますか?
けど独歩さんの答えはそうではなかった。
言い訳にしか聞こえないわけです。
少なくとも私には。
私のいいたいことは結局それなんです。

1978デルトロ:2005/02/11(金) 11:44:48
私はねえ、一度カッターでズタズタにして発狂してるんですよ。
それでもウソかなと思って、表装の済んだ御本尊をもう一度
ズタズタにしたんです。狂って当然でしょう。
そして一生を台無しにしかけているんですよ。
二元論なんですよ。正か邪か。やるのかやらないのか

1979デルトロ:2005/02/11(金) 11:51:08
こんなこと書いててまともにキーボードが打てていると
思いますか?私はねえ、今自分に悪鬼が入ってきてるのが
よくわかるんですよ。怖くて怖くて、震えてるんですよ。
当たり前ですよねえ、夕べしっかり罪障消滅を祈っていたのに、
涙を流して祈っていたのに、こんな恐ろしいことを考えているんですから。
愚鈍凡夫だかなんだかしらないけど、消えていただけませんかねえ。

1980デルトロ:2005/02/11(金) 12:15:20
ごめんなさいね愚鈍凡夫さん。返事は一切いらないですよ。
今は迷惑なだけだから。
私ねえ、こんな短い文章すら何度も打ち直しているんですよ。
きっと恐怖の意味を、芯から知っているんでしょうね。

でもねえ、こんな恐ろしいことから救ってくれたのが、
独歩さんなんですよ。
独歩さんはこじつけの言い訳しかしなかった。
だから、私は懺悔の唱題を必死で祈ることができた。
だから、助けられたし恩人だといっているわけです。
私の堕地獄を救ってくれた。仏様なんですよ。
わかりますか?愚鈍凡夫さん。返事はいらないですよ〜。
後でいくらでも聞きますから。
私を救ってくれた、独歩さんに感謝がしたいんです。
それについてどう思われるのか、どうお考えなのか、
デルトロには聞く義務があるでしょうと、
ようはそういうことなんです。カンタンでしょ?

教義に不明点があるだのなんだの、いいんですよ。
ようは信じられない。それにこじつけして納得してるだけでしょ?
信じられない理由を探してるんでしょ?
それこそ不信という名のマインドコントロールじゃないですか。
謗法の人間は地獄にいけば、いいんですよ。
少なくとも私はどんな所だか知っていますよ。
地獄というのがどれほど苦しく、どれだけ恐ろしい所かね。
ま、教義はサッパリですが…

1981犀角独歩:2005/02/11(金) 19:32:46

デルトロさん:

わたしの曼陀羅に関する書写の答えが歯切れが悪ければ悪い、納得がいかなければ納得がいかない、それでいいのですよ。

わたしは漫荼羅を図示したことがないかと言えば、それはありますよ。何度も何度も図示しました。鑑別をするというのはそういうことです。ただし、わたしは漫荼羅を本尊と今は考えていないわけですから、それは本尊なりえない。それ以前に、天台の段階ですら、本尊という概念はないわけですから、それは必要としない、こう書いたわけです。ですから、図として漫荼羅は幾度も書いたことはありますが、それは本尊とはなり得ない。たぶん、この言い回しは、ここでわたしと議論してきた方であれば、直ちに納得していただけるでしょう。これは、たとえば、写真でまとめた『御本尊集』は結局のところ、写真であって本尊ではないのと一緒です。正確に言えば御本尊‘写真’集です。まったく、この言葉のとおりです。白か黒か、そんな考えはわたしにはないわけです。ないことは書けないわけです。

あと、漫荼羅本尊を破って、地獄に堕ちるとか、「狂う」とか、そんなことはありません。
ただ、そのように心理プログラムを自己暗示にしろ、他からにせよ、操作されていれば、そのようになるでしょう。それを説明するために、ハッサン師の言葉を引いたわけです。

それから、あなたは、わたしに救われたのではないですよ。
あなたを救ったのは、あなた自身です。もし、そこにわたしが介在しているとすれば、それはあなたの己心の独歩という象徴(シンボル)です。それはしかし、わたし自身ではない、
あなた自身のあなた自身を救おうとする自己再生能力です。その影にわたしは映したのにすぎません。狂うも治るも己自身でしょう。

なお、印刷本尊をカッターでずたずたに切った、業者が試し刷りの本尊を大量に廃棄する、石山、(たぶん学会も?)回収した印刷本尊を焼却処分する、廃棄するという意味ではまるで一緒です。もう一つ加えれば、わたしが何度も図示し、また、プリントアウトした漫荼羅写真に、時には線を引き、時に細分化し、最終的には廃棄するのも同じでしょう。

ただ、あなたはカッターでずたずたにして狂うという心理操作に従ったけれど、業者にしても、わたしにしても、もとより、それを本尊と思っていないわけですから、そのような心理プログラムが作動することはなかった、ただ、その差です。

ですから、他で「信仰」といスレッドが立とうとしていますが、少なくとも複写された漫荼羅写真・図、また、自分で図したものをどうするかということは、まるで、わたしにとっては信仰とは関係ないわけです。それをあなたは信仰の範疇で考えているようですが、結果論的には信仰ではなく、心理効果の域を出ていないと、わたしには思えました。

しかし、あなたが、疑いでななく、「信」からやり直すというのであれば、それは個人の選択です。わたしがとやかく言うことではありません。お礼も言われ、一区切りもしました。それ以上、屋上奥を重ねるように言葉を重ねることは、「押しつけになる」と判断し、敢えてロムしなかったわけです。さらに言えば、わたしのような人間にお礼など述べる必要はありません。先に記したとおり、あなたは、あなたのなかのシンボライズされた独歩というイメージ、もっと言えば、そのイメージを生み出したあなた自身の再生能力によって救われたからです。

それが証拠に、あなたは、わたしに自分の納得のいくこと場を書いてほしいという欲求を、その後、露わにしたでしょう。つまり、それはそのような意味なのですよ。もっと、自分を信じてあげなさい。そして、いたわってあげることです。

わたしはかつて極度の神経症を患ったとき、日記に「行きながら地獄に堕ちた。こんな苦しいのであれば、死んで無に帰するほうがよほどましだ」と血涙を流す思いで、何度も記しました。
だからこそ、こんな出鱈目な中世以降の石山義は断じて弾劾しなければならないと思ったのです。

しかし、確かに、わたしと同じ道を歩んでいるところがあります。
だからこそ、言いますが、あなたはいつしかこの信仰を必要としなくなる日が来るでしょう。なぜならば、わたしの同じレールの上を進んでいるからです。

1982犀角独歩:2005/02/11(金) 19:42:53

急いで(急がなくてもしょっちゅうですが)打ち間違えました。

誤)納得のいくこと場
正)納得のいく言葉

誤)行きながら地獄に堕ちた
正)生きながら地獄に堕ちた

1983愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 20:09:24

漫荼羅と言えば、宮沢賢治が病院のベッドで、有名な「雨ニモマケズ」の詩の隣のページに佐渡始顕漫荼羅を模して書いていたんじゃなかったでしょうか。ふと、宮沢賢治を検索していて、こんなHPを見つけました(蓮祖漫荼羅とは直接関係ありませんが)。
**************************************************
マンダラ(Mandara)は、サンスクリット語で円の意味がある。漢字では曼陀羅と表記される。仏教では、これを「輪円具足」「道場」「壇」などと訳し、当初は円形の修行のための檀のことであったが、次第に悟りの世界を象徴するものとの解釈がなされるようになり、その結果「本質」といった訳も付されるようになっていった。マンダラについて、ユング心理学ではこのように説明される。

「マンダラは・・・方向喪失・パニック・混乱した心の状態・の後すぐによく現れる。つまり、マンダラは混乱を秩序へと移すという目的を持っているのである。ただしこの意図は患者には意識されていない。いずれにせよそれは秩序・平衡・全体性を表現している。したがって患者はよくこの種の絵を描くと気持ちがよくなって気が静まると強調する。マンダラによって表現されるのはたいていヌミノースなイメージや考え、あるいはーその代わりをなすー哲学的理念である。」(CGユング「個性化とマンダラ」林道義訳みすず書房)
真言密教の「両界曼荼羅」を誰しも一度や二度見たことは人もいるだろう。チベット密教では、法会がある時、精緻な美しさを誇る「砂曼陀羅」というものを、僧侶たちが、手分けをして数ヶ月の時間をかけて、色とりどりの砂粒をもって描き、信者の前に披露をする。マンダラは、完全性と調和の象徴であり、悟りの心を表しているのである。

ユングは、ある時、自分の所に来た患者(クライアント)たちが、不思議に共通したマンダラ的な絵を描くことに着目して、これが人間の心の無意識領域に誰しもが持っているイメージであるかもしれないとして、マンダラの研究に着手したのであった。
いくつもの患者たちの絵を研究し、ユングは患者(クライアント)たちの絵の特徴を次のようにまとめた。
 1 円ないし球、または卵の形。
 2 円の形は花(バラ、水蓮・・・)
 3 中心は大洋・星・十字形によって表現され、たいていは四本、八本ないし十二本の光線を放っている。
 4 円、球、十字形はしばしば回転しているもの(卍)として描かれる。
 5 円は中心を取り巻く蛇によって、円状に(ウロボロス)または渦巻き状に(オルフェウスの卵)描かれる。
 6 四角と円の組み合わせ。すなわち四角の中の円、またはその反対。
 7 四角または円形の城・町・中庭(聖域)。
 8 眼(瞳孔や虹彩)
 9 四角の(および4の倍数の)形姿のほかに、きわめて稀ではあるが、三角や五画形姿が現れる。それは以下にように「歪んだ」全体像と考えられる。」(ユング前掲書)

どうだろう。単に「マンダラ」と「銀河」の形状の近似だけではなく、ユングが上げた患者(クライアント)たちの絵の特徴を、何気なく読むと賢治の「銀河鉄道の夜」と符合する言葉が次々と見つかる。例えば、「四」という言葉が、マンダラにとってはキーワードのようだが、賢治が推敲した回数は、四回である。また十字形であるが、銀河鉄道の旅は、北十字と言われる白鳥座から南十字の方向への旅である。卍という意味も、実に良く銀河の形状を表しているように思える。このように考えると「銀河鉄道の夜」という作品が、マンダラ的な世界を見事に形成していることが分かる。
**************************************************

ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」と宮沢賢治
http://www.st.rim.or.jp/~success/jhon$kenji_ye.html

1984犀角独歩:2005/02/11(金) 20:29:19

愚鈍凡夫さん、そのとおりです。

で、ここ何日かで諄くわたしが紹介した以下のサイトでも、そのことが触れられています。

『いま大曼荼羅の世界を考える』
 http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm

1985犀角独歩:2005/02/11(金) 21:18:15

なんだか、昨日から8度より熱が下がらないのですよ。
でも、今日は、どうしても、本日開催された『エホバの証人と児童虐待の問題』、ウイリアム・ボーエン師の話を聞きたくて、のこのこ出掛けていきました。「2時間ぐらいかな」と思っていたら午前・午後2部構成で、午前10時開講で、終了した午後4時でした。で、なおさら、熱が出て、どうも書いている文章に接そうと、品がありません。さらに主語がありません。お詫びします。

で、1984に愚鈍凡夫さんに、「そのとおり」と言ったのは宮沢賢治と漫荼羅の関係のことで(賢治は漫荼羅を、たぶん、本尊として書いたのでしょう)、ジョン・レノンとのことではありません。

熱があるところに寒空出掛け、昼休みを挟んだとはいえ6時間の講演、這うように帰って来て、止めればいいのに、掲示板を空けたら、駄文長文を投稿してしまい、さらに、完全にダウンです。と言うわけで、本日は失礼します。

1986犀角独歩:2005/02/11(金) 21:22:22

また、打ち間違い、失礼。
接そうは、「節操」、「空けたら」は「開けたら」です。

(この前のオフ会で、掲示板で、皆まで間違い・訂正が多くなったのは、独歩あなたが悪いのだという批判が飛び出しました。そこまで悪人することはないだろうと思ったのでした。人の打ち間違いまでせきにんはとれませぬ。余談ですが)

1987デルトロ:2005/02/11(金) 21:36:05
ありがとうございます。独歩さん。
やっとお声が聞けてよかった。実は独歩さんに質問したいことが
どんどん溢れ出てきてくるんですよ。
恐ろしいほど明確にね。
クリアになってきているんです。
笑いだしたいくらいですよ

ごめんなさい。

でももうそれはいいんです。
充分です。私はあなたにお礼がいいたかっただけなんです。
不信というマインドコントロールの恐ろしさを、
充分理解させていただいたのですから(皮肉とか揶揄だなんて
思わないでくださいね)

きっと私は無慈悲な人間なんでしょうね。
もっとも残酷な人間かもしれません。

独歩さん、あなたのような慈悲深い方は初めてです。
見解の相違はあろうとも、私はあなたに仏種を見せていただきました。
なんかね、独歩さんとはもう何年ものおつきあいをさせて
いただいている気分になるんです。独歩さんと私がどのような縁に
あるのかはわかりませんが、宿縁を感じました。
「難信難解」
わたしは何もわかりませんが、このお言葉にはちょっとだけ
触れさせていただけたような気がします。

私は、何を選択しようとも、今よりも深く苦しむだろうな
と思っていました。そしてそれは仕方がないと。
罪業であろうとなかろうと。呪縛であろうがなかろうが。
やはり宿命からは逃れられない。

けれども、今は、とても澄み切ったような
平穏な気持ちでいられるのです。
それはあなたという縁がなければ、決して感じられなかったのだとも
思っています。
ようやく、退院できそうです。
あなたのような優秀なドクターに、救われる人たちが、ひとりでも
多くいるよう心から願っています。

1988愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 21:49:51

犀角独歩さん、大切なお体、ご自愛下さい。
風邪は栄養と休息が一番の薬のようですね。小生は大分良くなりました。
では、お休みなさ〜い。いい夢を。
お(ノ ̄0 ̄)ノや(o ̄・ ̄)oす(。_ _)。みzzz..

1989犀角独歩:2005/02/11(金) 21:51:18

デルトロさん、まだ寝ていませんでしたので、レスします。

> 質問…溢れ出て

いいですよ。どんどん、質問してください。
わたしも時間に限りがありますが、わかる限り、できる限り答えます。
もちろん、わからないことは答えられません。当たり前ですが。

不信ですか。わたしは唯一つ信じていることがありますよ。いま、こうして考えている自分は少なくとも存在しているということです。デカルトの後追いじゃありませんが。しかし、近代はここからはじまったんでしょうね。

1990犀角独歩:2005/02/11(金) 21:57:25

愚鈍凡夫さん、お見舞い有り難うございます。
栄養のことは考えていませんでした。なるほど。
ま、ともかく、寝ます。お休みなさい。
愚鈍凡夫さんもお大事に。

1991彰往考来:2005/02/12(土) 08:03:59

> 1983 愚鈍凡夫さん、

> 宮沢賢治が・・・「雨ニモマケズ」の詩の隣のページに佐渡始顕漫荼羅を模して書いていたんじゃなかったでしょうか

件の漫荼羅は佐渡始顕漫荼羅ではないと思います。

「雨ニモマケズ手帳」の第59頁に

「 ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフ
モノニ
ワタシハ
ナリタイ」

とあり、次の第60頁に曼荼羅の書写があります。もちろん原文は縦書きです。

「  南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寶如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩」

これを見る限り、国柱会本尊のいわゆる“佐渡始顕漫荼羅”とも身延曾存の“佐渡始顕漫荼羅”とも異なります。立正安国会の『御本尊集』の第2番のような佐渡期初期とも異なります。しいてあげるなら第17番(松戸 本土寺蔵)が近いですが、愛染・不動の有無の差があります。

なお、宮沢賢治自身が所持していた漫荼羅は国柱会本尊の写しです。文永8年7月8日の日付けがありますが、弘安式であり明らかに偽筆です。かつてあった弘安期の漫荼羅を基に写した(作成した)ものと思われます。

by 彰往考来

<参考資料>
小倉豊文『「雨ニモマケズ手帳」新考』昭和53年、東京創元社

1992犀角独歩:2005/02/12(土) 10:56:49

先に紹介した桐谷師は、宮沢賢治の5種のマンダラを紹介して、以下のように結論づけていますね。

*** 以下転載 ***

マンダラ1(手帳4頁)

 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ2(手帳60頁)

  南無無邉行菩薩
  南無浄行菩薩
 南無多寶如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無釈迦牟尼佛
  南無浄行菩薩
  南無上行菩薩

マンダラ3(149・150頁)
 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
 南無安立行菩薩

マンダラ4(153・154頁)
  大毘沙門天王
 南無浄行菩薩
 南無浄行菩薩
南 無 妙 法 蓮 華 経
 南無無辺行菩薩
 南無安立行菩薩
  大持國天王

マンダラ5(155・156頁)
 南無妙法蓮華経
 南無上行菩薩
 南無浄行菩薩
 南無無辺行菩薩
南 無 安 立 行 菩 薩
    安立行

…一点一点の相貌が異なる宗祖のおまんだらのバリエーションなのです。具体的には、宗祖のおまんだらの中には例の見られない、宮沢がその精神を受けとって書いた、彼自身のマンダラなのです。実際、宮沢は終生国柱会の会員でしたから、そのとき病床の彼の枕元には田中智学師が臨写したという宗祖のおまんだらが掛かっていましたが、けっしてそれを写したというものではありません。
 彼のマンダラは、いわば宗祖のおまんだらの形式でいえば、その中心部分を抜粋したごく簡略形ですが、五点のマンダラの内容や配列において、一点も同じものがないのです。そのとき私は感じました。宮沢は、手帳に自ら描くマンダラを通して、何か彼の重大な意志を伝えようといると。ここには、宮沢が伝統的なマンダラに対する理解にとどまらず、すでに彼の境地が宗祖のおまんだらに通じ、さらに独自のマンダラ世界を開くに至ったことを証明するに充分なものがあると、感じました。

http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm

*** 転載おわり ***


わたしは個人的に、賢治図示マンダラの特徴は「安立行菩薩」にあり、と思います。
国柱会、そして、未曾有の戦時下にあった肉も食わない平和主義者と映じる賢治が祈った平和楽土への思いが「安立」に籠もっているように感じます。もちろん、これはわたしの勝手な感想ですが。

1993デルトロ:2005/02/12(土) 14:12:41
みなさんこんにちは 本当にここの掲示板は紳士的で素晴らしいですね。
私も信仰とは何か、という壮大なるテーマを自分の中に抱え込み、
ネットで検索し、流民のように渡り歩いていました。
しかしどこも論争罵倒が主流で、げんなりとした気分になるだけで、
ますます気が滅入るだけでした。
縁あってこの掲示板に参加させていただき、独歩さんをはじめ皆さんから
の意見をじっくりと拝聴する中で、ようやく自分の中で結論をみつけることが
できました。これは本当にありがたいことで、みなさんには、
いくら感謝しても足りないぐらいだと思います。

「日蓮ごっこ」「御書ごっこ」などと揶揄したような表現を
使ってしまいましたが、あらためてお詫びしたいと思います。
見解の相違、捉え方の違いはあれど、みなさんが真摯な気持ちで法を求めている。
その気持ちを私は信じておりますし、その尊さには頭が下がる思いです。

1994デルトロ:2005/02/12(土) 14:13:23
この掲示板に辿りつくまでにはずいぶんと回り道をしてきました。
今私が感じることは、以前の自分の投稿をすべて読み返してみて、
本当につまらないことで苦しんでいたんだなあと、たった何日か前のこと
なのに、とても懐かしむような気持ちにされます。
この掲示板にたどり着いたのは、他の掲示板などの日蓮正宗への
非難であったり教義の否定からによるものからのリンクでした。
でもね、当時のことを考えると、笑ってしまうんですよ。
だってね、当時他の掲示板で論争していたことは、ほとんどが独歩さんたちの
意見を咀嚼もしないまま持ち出して、いかにも自説だと大きな顔を
している人たちばっかりなんですよ。
「どうだ?俺の意見に反論できるのか」とでもいいたげにね。
本当に恥ずかしいことをしていると、本人たちには自覚があるんでしょうかねえ。
ここの文章を安易に持ち出して、他人を見下すためだけに利用している。
ここに私は根源的な本末転倒を感じます。
と、同時に、

1995デルトロ:2005/02/12(土) 14:14:03
「これは楽しいだろうなあ、仏法を利用して、自分がいかにエライかということ
だけを強調してる。大言壮語を吐けるんだから。気持ちイイし、クセにもなるだろうなあ」
とも思って笑ってしまいました。
そして日本最大の宗教団体のトップに君臨する人間にも大きく重なりましたね。
吐き気すらしました。まったくなんてリアリティのない言葉だなと。
そんな人間もここに出入りしているということは、皆さんの頭にもどこかとめて
おいたほうがいいかもしれません。ここのHNをそのまま使っている人もいるようなので、
もしこの文を読んでぎくりとした人間がいれば、
自分のしていることがどういうことなのか、
本当によく考えたほうがいいと思いますよ。
人間としてどれだけ恥ずかしいことをしているのか、
そしてどれだけ恐ろしいことをしているのか、
自覚されたほうがいいですよ。

1996デルトロ:2005/02/12(土) 14:14:39
私はリアリティを信じます。言葉を換えれば誠実さです。
(おかしいなあ、皆さんに宛てた文章なのにどうも独歩さんへのラブレターに
なってしまう)
誠実とはなんでしょうか。私は慈悲ではないかと思っています。
そして真実をみつめる勇気だとも思っています。なにものにも囚われない真実。
それは一体何でしょうか?
私はこの掲示板を通して、それを教えていただいたと、思っています。

マインドコントロールとは一体なんでしょうか?
突き詰めていけば、自己暗示だと思っています。
「疑」に囚われる。それは凡夫として当然のことでしょう。
みなさん共通のスタートはここだと思います。
「本当だろうか?それを信じていいものなのだろうか?」
信じるものは救われる。
この言葉は私の実感としてはまったくのウソです。
でたらめといってもいいでしょう。
それこそまったくの無根拠です。
盲信して裏切られた時の恐怖は、計り知れないものがあります。
そしてその恐怖が「疑」を生んでいるのも間違いない事実なのです。
そしてその裏返しにあるのが「盲信」です。
「信じるしかない、信じるしかないんだ」
間違っていないと信じたい。その恐怖に囚われるのです。

1997デルトロ:2005/02/12(土) 14:15:27
しかしもう一度よく考えてください。
「疑」を補足するために、その疑を安心させるために、
新しい「疑」を持ち出してはいませんか?
観念的なものを否定するのが科学的検証だとは思っていませんか?
論議して、結論を出そうとしているのはみんなで「疑」を共有して、自分を
納得させようとしていることではありませんか?
みんなで「疑」のための「疑」を持ちあい、自分の「疑」を強化させ、
正当化させようとはしていませんか。
どこかの見聞を持ち出して、自分の不安を取り除こうとはしていませんか?

では「信」とは一体なんでしょう?「盲信」との違いは?

私は「確信」であると思っています。しかし盲信と一体何が違うのだ?

生命です。
自身に仏界が湧現するのです。

それが「信」を生み、「確信」へと変わっていくのです。

1998デルトロ:2005/02/12(土) 14:16:02
曼荼羅信仰など無用?それも結構でしょう。
しかしあえて問います。
あなたは真剣に、それこそ必死に血涙を流すがごとく
御本尊様に読経唱題したことが、ありますか?
そこから湧現してくる「生命の歓喜」を実感したことがありますか?

血脈?なんて非科学的な。御本尊などすべて同じだよ。
本当にそうでしょうか?
ではなぜ、生命の歓喜のある御本尊と、悪鬼に囚われるがごとく
生命を萎ませ、精神を蝕む本尊があるのでしょう?
これは私の実感です。リアルに目で見た実感なのです。

「疑」を持つな。これにはリアリティがありません。
我々は凡夫です。仏ではないのです。「疑」を持つなというのは
不可能でしょう。しかし「疑」に囚われ新しい「疑」を生むことは、
そして点であったはずの「疑」を線にしていこうというのは。
まったくの本末転等愚かな行為といえるでしょう。

1999デルトロ:2005/02/12(土) 14:16:36
もう一度、あえて問います。
あなたの「疑」は、本当は何を欲していますか?
よくよく考えてください。
どこへ向かおうとしている「疑」なのでしょう?
否定ではないんですか?
否定強化のための「疑」ではないんでしょうか?
真実の教えとは「疑」から入っていくような、
知識や理論で説明できる。そんなくだらないものなのでしょうか?

2000デルトロ:2005/02/12(土) 14:17:09
「生命の歓喜」?そんなのよく知ってるよ。学会じゃ、しょっちゅうだよ。
本当にそうでしょうか?それこそ集団心理の
マインドコントロールではないんでしょうか?
選挙で勝ったから、有名人がたくさんいるから、体験発表を聞いて、
歓喜したような気分に踊らされているだけなんじゃないでしょうか?
学会は勤行を短くした。私はこれをいいことだと思っています。
悪鬼に触れる時間が短くなったからです。
もしもあなたが学会員で、私が日蓮正宗の御本尊様にしたように、
本気で学会本尊に読経唱題したら、どういうことになるのかは、
私はよく知っているつもりです。あえて書きません。
ぜひお試しを。
よかったら、結果報告をみなさんに披露してあげてください。
ま、結果報告ができるような状態でいられるのであればの話ですがね。
ただし本気でやってくださいよ。死にものぐるいな気持ちで
真剣に唱題してください。おざなりな気持ちが混じるような
唱題では、大事な学会本尊の不敬にあたりますからねえ。

2001デルトロ:2005/02/12(土) 14:17:41
最後に独歩さん、あなたへのメッセージです。

やはりこれだけは書いておかなければいけませんね。
私はリアリティのある言葉を自分にも他人にも求めていました。
そして率直な感想も書かせていただきました。
それはあなたのリアリティを信じていたからであり、
リアリティのキャッチボールをしたかったからなのです。
「疑」は疑うことばかりではありません。
素直に疑問をもつことも、とても重要なのです。私の感性を褒めてくれる
方が何人かいらっしゃったようですが、逆にいえば、正法を保つがゆえの
疑問なのです。その難しさでもあり「難信難解」なのだと思っています。

2002デルトロ:2005/02/12(土) 14:18:13
ルール違反なのかもしれませんが、ここまでおつきあいさせて
いただいた以上、最後まで率直な意見を書きます。
私が独歩さんの答えに対して、
日蓮正宗に関する独歩さんの答えを、素直な感想と称して逆説的に正宗を
擁護しようとしているように思われたのならば、それはまったくの誤解です。
それによって日蓮正宗が正しいなどとはいうつもりもないし、
ましてや逆にたくさんの人の反感を買うだけでしょう。
しかし、あれは代表的なものを挙げただけです。
独歩さん、あなたほど頭のいい方ですから、自分の理論が至るところで
破綻しているのを、本当はご存知なのでしょう。私はよく知っています。
挙げればキリがないほどです。そしてその綻びを繕うために、違う布を
持ってきて、いまやツギハギ状態になってしまったその姿を。
私にはそれが見えてしまいました。補足のための補足です。

2003デルトロ:2005/02/12(土) 14:18:45
しかしそれを私が、いちいち指摘し、反論による反論などの展開が行われるのは
私が望んでいることではないのです。それは独歩さんも同じだと思います。
まさにこれほど無意味なことはない。
ただ、あなたほど頭のいいかたが、できるだけフラットに考えよう、
謙虚にみつめていこうとしているその姿は、筆舌に尽くしがたいほど困難であり、
苦しみを伴うとは思っています。そこに私のあなたへの心からの尊敬があるのです。
驕慢な人間になるのはとても楽で簡単なことです。俺に教えを乞え、といって
みんなを伏させることは、独歩さんほどの方ならいとも簡単でしょう。
しかし独歩さんはそんな低次元なものには目もくれず、
真実の教えを追究していこうとする、その真摯な姿に、私は感動したのです。
そして、だからこそ、独歩さんの意見を無断で盗用し、
驕慢に耽っている人間が許せないのです。

2004デルトロ:2005/02/12(土) 14:22:33
独歩さん、あなたは謙虚であり聡明であり、そしてなによりも慈悲深い。
もう一度、原点に立ち返って自分の信仰を見つめなおしてみませんか?
あなたのしていることは、仏界という最も歓喜溢れる境涯から、
離れることをしているのですよ。
私はあなたを信じています。
あなたには素晴らしい仏の生命が宿っているのです。
たとえどんなに時間がかかっても、正法に戻ってくると信じています。
私はこれから毎日、あなたのことだけを祈らせていただきたいと思っています。
独歩さん、私とあなたがお会いすることはないかもしれません。
しかし深い宿縁を感じます。そして、あなたと出会えたことを誇りに思い、
そして、私の信仰の新たな糧としていきます。

本当に、本当にありがとうございました。

2005愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 14:56:55

>>1991:彰往考来さん、レス有り難うございました。
>>1992:犀角独歩さん、レス有り難うございました。

宮沢賢治が病床で、中尊を挟んで左右に釈迦多宝の二仏、四菩薩を配して書いた心境は如何ばかりだったんでしょうか。無の存在を指向するよな詩を謳いながら、その隣のページに漫荼羅を書いたのは、その実、神仏に縋りたいという気持ちだったんでしょうか。
彼が、もし救われたいと願って書いたものであったとしたら、それは、「死」への恐怖から救われたかったのでしょうか。それとも、「死」そのものから救われたかったのでしょうか。
ふと、そんなことを考えてしまいました。

尚、国柱会=佐渡始顕漫荼羅という固定観念に縛られていました。済みませんでした。
m(_ _)m

2006犀角独歩:2005/02/12(土) 15:49:20

残念ですね、デルトロさん。
あなたの目からご覧になると

> 仏界という最も歓喜溢れる境涯から、
> 離れることをしている

とか認識できませんか。
それぐらいにしかわたしのことが理解できませんか。

また、あなたから見ると、わたしは「疑」の状態にあると思えますか。
信疑、信じることと疑うこと、つまり、これは二極論ですよ。
信都議の間に「答え保留」という広大な領域があります。ここで行われていることは、信疑という二極論から離れた事実証拠の積み重ねによる仮定と真実の追究です。しかし、真義に極論にとらわれると、ここが損なわれしまうのです。それが信疑二極論の欠陥です。

これはけっして、あなたは卑下して申し上げるわけでもなく、いまだ漫荼羅本尊義にとらわれている人を見下して申し上げることでもありません。この単純且つ簡単な大石寺周辺教義で説明されることが絶対でも最上でもなく、その上に無限の境界が広がっているのです。
いみじくもあなたが仰ったように、自ら「蓋」を作ることにより、その上に広がる無限の世界を見ずに終わっていることは、あまりにも勿体ないと、わたしは記してきたのです。
その蓋は、日蓮絶対論、漫荼羅・彫刻本尊絶対論、そこから波及する戒壇を作れば国土が安泰になるなどというお伽噺ではなく、事実として、人類の大脳進化の、さらに永遠の未来に向けた可能性の世界です。

まずは信疑二極論を捨てること、その中間に広がる「答え保留」領域の与えるイデアに捨て去らないこと、些少のものを絶対であるとして限界をもうけてしまわないことによって、心の領域は過去の自己認識の数倍、否、数百倍にも拡充すると言うことに耳を傾けてみてください。
しかし、そこはパンドラの箱です。怖い人は引き返すのも善いでしょう。

最後に、わたしの迷妄を救い・覚醒を促してくれた尊敬する西田公昭師が記した、わたしが座右の銘とする言葉を、あなたに贈り、あなたとの議論を終わりとします。

―― 何か集団のメンバーになっていても、もし何か矛盾する事実に突き当たったら、徹底的に疑ってみることが大切である。もし、個人が疑うことに対して、何か罪的な否定的意識を教えこまれているとしたら、それは科学的思考を一切否定していることと知るべきだ ――

―― たとえどんなに強い確信であっても、それは個人的な経験や推論によって何となく感じているリアリティ感覚によって支えられているにすぎない。そのことをさして、個人的リアリティという ――

(『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店)


この突きつけられた科学の目を、無視することでしか成り立たない議論の一切をわたしは拒否してきたということです。

2007犀角独歩:2005/02/12(土) 15:50:30

打ち間違え、これだけは訂正しておきます。

誤)信都議の間に
正)信と疑の間に

2008犀角独歩:2005/02/12(土) 16:22:55

2005 愚鈍凡夫さん:

> …宮沢賢治…「死」そのものから救われたかった…

わたしは、賢治を、そのころの詩を読むと、その逆ではなかったのかと思えるんですね。
臨死体験によって、彼は彼自身のマンダラを感得したのではないのかということです。
つまり、病床で、臨死体験が信仰と相俟って、仏陀の世界、日蓮の世界、法華経の世界を観、それを書き留めたのではなかったのかと思えます。

彼は死を恐れていたとは思えなかったし、そこから救われたいとも思っていなかったように、わたしには映じます。彼はある面、死によって、彼が掴みたかった法華経世界を知ることが出来たのではないでしょうか。言葉遊びではありませんが、彼は死によって救われたように、わたしは思える面があります。いや、これは感覚的な感想ですが。

2009デルトロ:2005/02/12(土) 17:08:09
ありがとうございます独歩さん。
あなたは本当に冷静でとてもクールなかたですね。
ただ、私の想像していた独歩さんの返信と実際の返信が、
笑ってしまうぐらい似通っているんですよ。
なんか微笑ましく感じられました。
なんかやっぱり独歩さんらしいなあって。

結局私は解放を選んだんです。
いやそれはちょっと違うなあ。
独歩さんが解放へと導いてくれたってほうが
正確ですね。

私の一番の苦悩だったのは
何を選択しても呪縛からは逃れられない。この不安だったんです。
(もちろん二元論じゃないですよ、グレイゾーンも含めての話です)
呪縛から逃れることが新しい呪縛を生む。呪縛の連鎖だってね。
恐怖を背負ってました。独歩さんも、潜在的には
きっとそうなんじゃないかなあ。
そしてそれはやっぱり真実なわけです。
本尊変えても苦悩しても、議論やっても気分転換にカラオケやっても、
常に自分の心の中の苦悩と葛藤は消滅するわけじゃないですもんね。
でもそんなの当たり前の話でしょ。
だって宿業なんですから。自分の肉体を切り離すことができないのと
一緒で、宿業からは逃れられないんですよ。

2010デルトロ:2005/02/12(土) 17:08:44
へえ、そうなんだあ。
じゃ、どうすればその悪い連鎖を立ちきれるの?
苦しみから逃れられるの?

さあねえ、どうすればいいんだろうねえ?
悩み続けるしかないよねえ。だって逃れられないんだからねえ。

そうだねえ、そうするしかないよねえ。

これが正解なんじゃないですか?一般論は。

けれども今、私は、自分でも信じられないくらいの
開放感を感じているんですよ。これが実感です。
叫びだしたいくらい健康になっちゃいました。
最高です。って言葉がぴったりかなあ。
ようしレッツゴー!みたいな気分です

2011デルトロ:2005/02/12(土) 17:10:10
私のレスは本当にこれが最後になってしまいます。
ヒトコトだけ申し上げましょう。
独歩さん、あなたが私を救ったという表現が違うとお思いなら、
ヒントをもらったという言葉に置き換えましょう。
私もたくさんヒントは残したつもりです。
違うと仰るなら違うやりかたを探してください。

私はこれからあなたのことを、真剣に御本尊様に祈っていきます。報恩感謝です。
私があなたを祈るということは、仏法上あなたがこれからどんなことに
なってゆくのかは、充分御理解されているでしょう。

さあさあ、私みたいな幼稚園児と遊んでないで、もっと議論に花を咲かせてください!
実のある有意義な討論を、バンバンと展開してください!
レッツトーク!!

2012愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 17:25:28

犀角独歩さん、どうも。
小生は、「臨死体験」と聞くと、自分が経験していない所為でもありますが、脳の酸欠による連続した「バースト現象」の為せる技だと考えてしまうんですよ(想像力のない奴)。
当然A10神経も、この連鎖的バースト現象の影響を受ますから、ドーパミンの大量放出によって、宗教で言うところの「悟達」といわれる状態に達するんじゃないかと思ってしまうんですね。
でも、たとえ大脳生理学的にそうであったとしても、凛として人生の最期を迎え入れられるというのは、素晴らしいことだと思います。
宮沢賢治の場合も、諦めではなく、成すべき事は終えたという意味で、死を受け入れたと信じたい一面もあります。

2013大勇者:2005/02/12(土) 17:41:18
愚鈍凡夫さん どうもです。
臨死体験についてこのサイトが面白かったので紹介します(ちょとオカルトっぽいけど)
http://www.fitweb.or.jp/~entity/shinrei/rinshitaiken.html

2014愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 18:02:51

大勇者さん、どうもです。

むむっ、ちょっと怖いかも・・・・。 ( ̄Д ̄;;
ではこちらはどうですか。 (^O^)

「脳とトラウマ・神経伝達物質」
http://trauma.or.tv/1nou/index.html

2015犀角独歩:2005/02/12(土) 18:24:34

2012 愚鈍凡夫さん:

賢治にとって、臨死体験は、既に死の範疇だったという気がします。
ドーパミンの大量放出その他の分析はその通りだと思いますし、そのような機能も、死も、人間という種が、そのように進化したことを示すのでしょうね。

しかし、この問題は雖念さんの弁舌の冴える話題であると思いますが、脳内代謝、このキーワードは、やはり悟りとかその他の仏道修行に由来する思念・情動、心身変化と大きく拘わっているのでしょうね。もっと研究されてしかるべきです。

わたしの恩人であるとある日蓮宗僧侶の方に、「石山の人間は唱題の仕方を知らない」と、こう切り出されたことがありました。どういうことかというと、躁状態を作り出すような形しか知らない、彼岸へ行きっぱなしにするやり方だというのです。つまり、唱題中の、非日常から、日常へ。修行という特異状態から日常へ、復路が用意されていないやり方だと。
これは、たぶん、脳内代謝とも関連すると思います。覚醒はあっても鎮静の方法が欠如しているという分析です。

わたしは、この分析は当たっていると思います。
わたしは小学校6年から朝夕勤行1時間唱題、1年1度御書読了を欠かすことのない青春を過ごしたんですね。いわゆる信仰体験とか、神秘体験なんか、そんなことから山のようにあったわけです。ところが26歳の時に、鋭敏に研ぎ澄まされた絶頂にガラスがパリンと割れるように壊れました。石山義と学会義の狭間で苦悶が続いたことも、その原因でしたが、詰まるところ、往路(覚醒)の修行は知っていても、復路(沈静)の修行を知らなかったわけです。覚醒剤中毒者が何日も寝ないで躁状態が続くけれど、ある日ぼろぼろになってしまうような感じです。

あるカルト脱会支援者と話していたとき、「カルトメンバーは活動し続けているときは、すごく元気に見える。けれど、心身疲労感が麻痺しているだけで、ある時、壊れてしまう。壊れたとき、はじめて、どれだけ疲労していたかがわかる」というようなことを話してくれたことがあったんですね。まったく、その通りだと思ったわけです。

仏法というのは、元来、熱狂的な状態になることを目的にするよりも、禅定、瞑想という要素が強いわけです。ところが石山系は逆です。どうすれば元気が出るか、120パーセント力が出るかに気が向いています。瞑想ばかりでもなく、熱狂ばかりでもなく、その往復で、日常に返す構造がない教義・修行が結局のところ、人を壊してしまうでしょうね。

わたしは法華講に入る頃は、勤行は方便も長行、唱題後、安国論、申状捧読までするような勤行をしていました。長いときは1日3時間も4時間も仏壇の前に座っていました。神経障害を完治したいという思いは強くありました。それなりに得るものは勿論ありましたが、引き替えに浮き世の楽しみはすべて放擲していました。
わたしの母は、学会時代、1日4時間の唱題を欠かしたことがありませんでした。けれど、その間、極度の神経障害が治ることがありませんでした。わたしは、こんなときに、ハッサン師の

「過度の(長時間の)瞑想や唱えごとの技法を毎日使うように教え込まれた人々は、心理的にも生理的にも、マインド・コントロールの中毒になりやすい。このような精神の蒸留作用は、脳の化学物質の強烈な放出をうながし、それは分裂した意識状態をひきおこすだけではなく、不法な薬物が作りだすのと似た『昂揚』感をひきおこす。これらの技法を数年にわたって用いた元メンバーの何人かは、激しい頭痛、不随筋の痙攣、記憶力・集中力・決断力のような認識能力の減退などを含め、広範囲にわたる有害な副作用が残ると報告されている」

「 唱えごと(布告) メンバーに対して過度の瞑想や唱えごとや『布告』(超スピードで祈りを唱えること)や異言を要求するグループに長いこと入っていた人々については、そのカルトをやめてから少なくとも、一年間は、その人の意志でないことが起きると予想しておく方がいい。私がかかわったなかで、こんな訴えをした人々がおおぜいいる−−ふつうの会話をしている最中に、突然、ある言葉の途中で、ふと気がつくと、カルト時代に長年やっていた心を麻痺させるテクニック、つまりある言葉を無意識に唱えるというテクニックを使っていたというのである」

という一節を読んだ愕然としたわけです。自分も、母も神経障害を直したいが故に夢中になって拝んでいたわけですが、それが逆効果であったことがわかったからです。しかし、それは、わたし(たち)のやり方が悪かったわけで、その失敗を、上述の体験を語ってもいないのに指摘された、先に記した僧侶の一言に、それ故、直ちに納得したわけです。この点は、適宜な唱題法でもちろん、解消される面もありますが、もう一面、ご指摘のような脳内代謝問題として考えることは、必要であると思うわけです。

2016愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 19:41:21

生きていく中で、心の静寂が如何に大切か。
そのことを考えた時、日本の優れた文化には、静寂を味わうという行為が含まれていたと思います。もともと、遺伝子として受け継いでいるのかも知れませんが、静寂の時を時間の無駄遣いと感じてしまう現代感覚の方が勝るのかも知れません。
心の休養を、弱さと感じてしまう感性に問題があるのでしょうね。
宗教は、ある意味では心の保険的役割を担っていると思うのですが、人を馬車馬のように駆り立てる新宗教の成立と共に、その機能を失ってしまったのでしょうか。

2017犀角独歩:2005/02/12(土) 20:19:32

ここのところの議論で気付いたんですが、精神状態を説明するのに「躁鬱」ということが言われるわけですね。
それで熱狂的な状態、まあ、これはたしかに躁状態と言えようかと思うのです。
では禅定が鬱状態かといえば、これは全く違いますね。中間に位置すると言うより、質が違います。

2016の愚鈍凡夫さんのお考えには賛同します。
仏法世界のニュートラル状態というのは禅定で、武士道なんかでは平常心というところでしょうか。こういった心を安定するタイミングから、動的状況に、時には熱狂も、熱烈もあるわけですね。しかし、明王、蓮師漫荼羅にもある「不動」というのは、いわば熱狂、活動の、根元的な構えですね、身体はどんなに動的であっても、心は不動である…。

なんかこういうことを考えると、「カルト」と言われるような有様は、元来、原始仏教集団にはなかった。そのような熱狂的、恣意的操作の躁状態に、集団に陥らせるような在り方は、たしかに異常なことなのだろうと。

2018デルトロ:2005/02/12(土) 22:10:29
みなさんこんにちは〜
おそらく私の顔など見るのもイヤでしょうね。
ようく解ってますよ〜知っています。
隠したってお見通しですよお。

私はねえ、不思議なんですよ。
デルトロのやつ、さんざ勝手なことほざきやがって逃げやがった。
汚い奴だ。ぐらいの感想欲しかったのに寂しいなあ。ぐっすん。
それともシカトしてやれってことですかねえ。ぐっすん。
宗教かぶれの、マインドコントローラーがッ!
ぐらいの罵倒が欲しかったなあ。ぐっすん。

いやいや、皆さんがそんな品性の低い人間ではないなんて、
ようく理解しているつもりですよ。

わたしはずるい人間なんでしょうね。
それは何故か。ツギハギだらけなんて勝手にいっておいて
そのツギハギを指摘してないじゃないか!証拠出せ!
文証見せろ!文献出せ!この立派な意見の、どこがツギハギなんだ!
ってね。いわれても仕方ないですよね〜。
ようくわかってます。

2019デルトロ:2005/02/12(土) 22:11:22
私はねえ、残念なんですよ独歩さん。みんなで実りのある議論して
くれてんのかなあと思ったら、どんどんツギハギが増えているんですから。
私が独歩さんの最後の投稿を失礼ながら笑ってしまったのは、
私がツギハギを指摘したのにまたツギハギで返してきたから
なんですよ。
「そんなわけない」
あなたはきっとそう仰るでしょう。

全部否定してみせましょうか?
どこにそのツギハギがあって、どこが綻んでいるのか。
そのツギハギの縫い目をね。気になりませんか?
「興味ない」いやいやそれはウソでしょう。

よかったらお教えしますよ。
私って意地悪ですか?それとも個人的なメールのほうが、
いいのかな?

愚鈍凡夫さん、そんなにあせって無理に長文投稿しなくてもだいじょぶですよ。
私の投稿が、気にいらないなら見なきゃいいだけですよ。
なんでそんなに人目につかないように必死なんですか?
私の文章なんて、ぜえんぶ削除しちゃえばいいんですよ。
お気に召さないのであれば。
でもそんなことしませんよねえ。負けを認めることになりますもんね。
あれおかしいな。勝ちとか負けとか、二元論だぞ?
そんな捉え方、ナンセンスだって、怒られちゃいますね。独歩さん?

2020犀角独歩:2005/02/12(土) 22:29:38

デルトロさん、そんなに御自身を卑下することはないですよ。
実に興味深い存在です。どうぞ、罵倒でも何でもお続けください。
ゆっくりと観察させていただきます。
あなたは、いま、そうしたいんでしょう。
この掲示板の規則に抵触しない限り、それはご自由です。どうぞ。
ただ、わたしはあなたのその姿にかつての自分を観ています。
ああ、わたしもこうだったな。そうしているときの慟哭、辛さはかつて経験したことでした。
だから、あなたが焚き付けても、あまり、腹も立ちません。

あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

あなたはどう思っているかわかりませんが、管理人さんも、愚鈍凡夫さんも、そして、わたしもあなたを観ています。しかし、それは決して怒りの感情ではないですよ。それが、他の掲示板と、ここの違いです。

まあ、ともかく、規則に抵触すれば、それなりの管理を余儀なくされます。
もう一度、深呼吸をして、ご覧なさい。

2021愚鈍凡夫:2005/02/12(土) 22:36:45

デルトロさん、お話しさせて頂くのは初めてですよね。あなたのレスに小生への問いかけがあるので、お話しさせて頂きます。

> 愚鈍凡夫さん、そんなにあせって無理に長文投稿しなくてもだいじょぶですよ。

小生の読解力のなさが原因かも知れませんが、あなたの仰る意味が分かりません。
小生は、別に無理などしていませんよ。思ったことを思った通りに投稿しているだけです。
ただ、投稿した以上、自分の文章に責任を負わなければならないと思っていますけどね。
それと、「あせって」という意味が分かりません。説明して頂けないでしょうか。

あなたの表現が気になるんですが、自分だけが苦しんでいると思わない方がいいですよ。
人それぞれ、口にできない苦労があるものです。犀角独歩さんだって、お話しされているのは、苦労のほんの一端だと思いますよ。
小生だって、今生きているのが不思議なぐらいです。これは、生きなければならない何かがあるんだと思っています。要するに、死を迎えるにはまだ早いと言うことです。

2022デルトロ:2005/02/12(土) 22:47:36
おやおや、面白いことを仰いますねえ独歩さん。
罵倒だなんて、とんでもない。あなたは私の恩人なんですよ。

>あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

ごめんなさいね。
止めてくれなんて、お願いしているんじゃないですよ。
深呼吸?
いやいや、それが必要なのはあなたでしょう。
いいじゃないですか。怖いなら怖いって告白したって。

あなたはねえ、完全なる邪なんですよ。
だから怖いんです。だからもがくし苦しむんですよ。
そしてたくさんの人を迷わせた。
恐ろしい罪業を積んでいるんです。ね?そうでしょ?
まずそれを認めてくださいよ。
じゃないと教えてあげられないなあ。

ところでまず上の書き込みなんですが、
これを具体的に証明してください。

もちろん、あなたの言葉でね。
文献とかいらないですよ〜
長文読むのキライなんです。ごめんなさいね

2023デルトロ:2005/02/12(土) 22:51:02
ごめんなさいね愚鈍凡夫さん。
あなたはねえ、おっとやめとこう。
罵倒はルールに抵触しますもんねえ。

ちょっとしばらく黙ってていただけませんかねえ。
私と独歩さんとの問題なんですから

2024犀角独歩:2005/02/12(土) 23:02:52

わたしは、何も怖くありませんよ。

2025犀角独歩:2005/02/12(土) 23:04:16

で、何を証明しろと。

2026デルトロ:2005/02/12(土) 23:10:29
怖くない?
そうですか私の勘違いだったようですねえ。
謝りますよ。ごめんなさい。
質問がわかりにくかったようですねえ。

>あなたがいまやっていること、それが自罰行為ですよ。
その連鎖を止めない限り、あなたの喜怒哀楽のじぇとコースターは止まることはありません。
でも、誰も停められませんよ。停めるのは、あなた自身です。

つまり私がこの状態になっているって、どうしていえるんですか
ってことですよ。あなたの思い込みかもしれないじゃないですか。
嬉しいなあ、独歩さんに質問されるなんて、
初めてですねえ。

2027犀角独歩:2005/02/12(土) 23:14:24

そうですか。では、わたしの思いこみですか?

2028デルトロ:2005/02/12(土) 23:24:34

いえいえ、わかりませんよ。
私はあなたではないのですからね。
別に禅問答みたいなことがしたいわけじゃないんです。

独歩さん、あなたにとって私は最高の研究材料なのでしょうね。
マインドコントロールに蝕まれたはずの人間がどうなっていくのか。

本音でお話してください。
私をどう思われますか?

2029犀角独歩:2005/02/12(土) 23:31:40

「研究材料」? はて、わたしはそのようなことを書きましたか?
観察する、そう記したまでです。

あなたを、どう思うか?、いまの段階ではわかりません。

2030デルトロ:2005/02/12(土) 23:53:40
独歩さん、禅問答がしたいわけじゃないんです。
ごめんなさい。揚げ足を取ったりとか、そういうことではないんですよ。
もしそう取られたなら謝ります。
あなたに対して失礼な物言いは重々承知です。
怒っていないと仰るかもしれませんが、似た感情はきっと
あるでしょう。
互いの心を閉ざしたまま会話をしても仕方がないと
私は考えているんです。そして今はシャットアウトさせてしまった。
もちろん私の責任です。当然です。
私が修羅の命を持っているからです。そしてその命が
あなたに感応してあなたは怒ってしまった。
そうではありませんか?
それが恐ろしい修羅の命なんです。

2031大勇者:2005/02/13(日) 00:03:24
>2014 愚鈍凡夫さん。
紹介有難う御座います。

ストレス怖いですね。でもそのサイトネームがもっと怖かったりして(笑
私はプレッシャーやストレスを感じると煙草の本数が異常に増えます。

ストレスによって初代糖尿病になって子供に遺伝すると聞いた事あります・・・
ストレスは遺伝子をも壊すのでしょうね。人生できれば中道で生きたいものです。

2032デルトロ:2005/02/13(日) 00:08:57
どうやらお話する気がすっかり
なくなってしまったようですねえ
独歩さん。ちょっと前置きが長すぎたようですねえ。
また修羅の命がムクムクと湧いてきましたよ。

2033犀角独歩:2005/02/13(日) 00:09:35

デルトロさん、わたしは、本当に少しも怒っていないんですよ。
修羅の命というけれど、別段、修羅とも思わないわけです。

「そうか、そういうふうに書いてくるんだ」と観察している。ただ、それだけなんです。

2034デルトロ:2005/02/13(日) 00:11:06
ツギハギの話はもうよろしいんですか?
独歩さん。

2035犀角独歩:2005/02/13(日) 00:15:47

「ツギハギ」というのは、あなたの感じるところで、わたしのなかではぜんぜん、つぎはぎではないわけです。ただ、それぞれの脈絡が見極められなければ、端から見れば、ツギハギと見えるわけだと理解はしました。

また、話をする気がなくなるとかなんとか、以前に、これで最後の投稿と、区切ったのはあなたのほうです。それを忘れましたか。

まあ、その後に、まだ書きたかった。そんな気持ちになることもあるでしょう。
それはそれで別段、あるがままです。

しかし、なんですか、あなたは、わたしに囃し立てて、怒らせたいわけですか。
わたしの修羅の本性の扉を開けたいわけですか。
知って記しているのかどうか知りませんが、わたしのかつてのあだ名は、まさに「阿修羅」ですよ。あなた、それを知っての焚き付けですか。

2036空即是進化:2005/02/13(日) 00:30:42
デルトロさん
 もらった薬を飲んで早く寝なさい。
 議論は明日でもできます。

2037犀角独歩:2005/02/13(日) 00:35:08

もう、終わりですか、デルトロさん。
では、わたしは、もう寝ます。

デルトロさん、あなた、わたし一人につかっかってきていますが、わたしは、いまや、阿部さんやら、「戒壇本尊」「日蓮本仏信奉者」のみならず、正信会も含めてつっかっかっているんですよ。あなたの修羅など、わたしから見れば、可愛いもんですよ。

何十万、いな何百万の信仰対象を暴いたわたしがどこに立っているのか、あなたは、わたしが書いたものを読んだ訳ではないのでしょうかね。いまの心境からすれば、いちいち、怒った、修羅になった、腹が立ったなどと言っていられません。まあ、あなたを見ていると、かつての自分を見ているようで、他愛なくも、可愛いと思うということです。

ある意味、歴史を捻った実感を掴んだわたしは、しかし、それでも、あなたのような個人を忘れてはいけないと言う思いはあります。話しかけたければ話しかけてください。徹底的につきあいます。ただし、他の方々を巻き込みのは、お互いやめましょう。あなたの言うとおり、二人の範疇で納めましょう。ただ、それでも、場を借りているわたしは、管理人さんには、申し訳なく思います。ですから、どうか、当板のルールだけは最低限守ってください

では、おやすみなさい。

2038デルトロ:2005/02/13(日) 00:51:37
まさかですよ独歩さん。私も阿修羅の塊みたいなですから。
ほら怒ってるじゃないですか。
しかし私がストレスでやられたみたいなこと書いてありますけど、
あんまりイイ気分ではないですね、
もちろん自分の責任なんですけどね。

独歩さん、話が核心に中々迫っていかないんで
ちゃんとお話しますね。
明日でもいいですか?一晩おきましょう。
ゆっくり考えてみませんか。
それでももし、あなたのお考えが変わらないのならば、
私はお話する義務がありますから、お話しましょう


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