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素朴な疑問
1533
:
犀角独歩
:2004/07/14(水) 18:07
晃司さん、書いているうちに去ってしまったようなので、まあ、まとめと言うか、書いたので取り敢えず投稿します。
>> 1519に「異体同心の戦いを誓い合う場」と書いておりませんでしたか
> 富士門ネットより引用
なるほど。これはわたしの勘違いでした。撤回し、謹んでお詫び申し上げます。
> 無条件の愛…私の場合ですと勤行唱題…お願い事をしないで行う行為
慈悲といわず、愛というわけですか。
「無条件の愛」というのは神が人に対する恩寵のようなイメージが先立ちますね。寧ろ、そちらのほうが一般的ではないでしょうか。誤解を生みと思います。もし「無条件の慈悲」の一念を獲得するために勤行・唱題をしている、お願い事をしないというのであれば、わたしはこの限りにおいては賛同します。
ただし、わたしが晃司さんのHPをオカルトと記した理由は
『我即宇宙の実践』というところで
> 宇宙とは意識を意味し、人は宇宙と意識で繋がっている
> 宇宙にはなんでも具わっていてそのうち必要なものを引き出せば良い
> 間脳を開いて宇宙意識と境智冥合
などという文言が見えるからです。
宇宙が意識であるとは一体全体何のことであるか皆目見当も付きませんが、宇宙に必要なものが具わっているというのは神秘主義で言うアカシック・レコードの転用と思えます。また、宇宙意識という神秘的なものがあるいうこと自体、神秘主義的であると思えます。
このような西洋神秘主義を境智冥合という教学と混合することは、快く思えません。それはたしかに文証も理証もあるわけがないでしょうが、それによって得た幸福感は「かなり危ないものではないのか」というのが正直な印象です。ただ、これは悪口ではなく、ある種の危機感です。これはもはや富士門流信仰という範疇ではありません。
このような方向性は、ある面、創価学会教学の到達点であって、しかし、それに危惧を訴える声は既に昭和50年前後には既に挙がっていました。石田次男さんがその急先鋒でした。
また、誰であったか忘れましたが、創価学会を「笑うファシズム」と酷評した人がいました。彼らの笑い声、まして、彼らの言う絶対幸福という体験は、それをなぜ外部者は気味の悪いものとしてとらえるのか、この点をわたしは考えてみたいと思っています。
以上の危機感が、本日の頻繁な投稿の原動力となりました。
晃司さんには、ここ二日間の皆さんの投稿を単なる批判と取らず、思慮の糧とされることを祈るばかりです。
1534
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/15(木) 13:29
『種種御振舞御書』について疑問に思っていたことを、識者の方々にお尋ねします。
この御書は建治2(1276)年3月55歳御作となっていますので、龍ノ口の法難
の4年半後に書かれた御書であると言うことになります。正筆は現存せず、写本だけ
が残っており、内容が極めて神秘的であり誇大表現があるために偽作であるという説
もありますが、私は御真筆があったものの考えて書いていきます。
文永8年9月12日は現在の太陽暦に直しますと1271年12月24日になります。
私が極めて不思議だと思うのは日蓮大聖人が正に首を斬られようとした時に現れた光物
体と、日蓮大聖人が月天を諫めた後に梅の木の枝に掛かった明星のような大星のことで
す。「いかに・やくそくをば・たがえへらるるぞと申せし時、江の島の方より月のごと
く・ひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへ・ひかりわたる、十二日
の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月夜のやうにて人人の面もみなみゆ」
御書914頁。天文シュミレーションで調べたところこの夜の月の出は鎌倉では午後8
時35分月の位相は68%、月齢は20となります。「あけぐれ」には「昧爽」という
ルビがふられています。「昧爽」は「昧旦」のことであり未明の意味です。「さては十
二日の夜・武蔵の守殿のあづかりにて夜半に及び頸を切らんがために鎌倉をいでしに」
御書912頁とありますので、既に光物体が出たのは9月13日になった後と思われま
す。太陽暦10月25日の御前1時には月齢20の月は南東に掛かっていました。しか
し月齢20では人の顔を見る程の光度はありません。南東には雲が掛かっていたのかも
知れません。ここで興味深いことがあるのですが、太陽暦10月20日から22日まで
はオリオン流星群があり、21日に極大を迎えるということです。オリオン座は南東(
辰巳)の方に掛かり北東(戌亥)の方に流星を放つのです。1時間辺り25個の流星が
あるのです。しかしこの日は25日であり、オリオン座流星群の日とは3日もずれてい
ます。また流星では人の顔を見ることはできませんしまたオリオン座流星群はペルセウス
座流星群のような大流星雨を降らせることはできません。またこの光物体は複数ではなく
単一の物であり、はっきりと縁取られていたものです。人の顔が見えるくらい明るい流星
ならば、6500万年前に恐竜を全滅させた程の大隕石でなければなりません。しかしそ
のような隕石が鎌倉時代に落ちたと言う記録は日本にも外国にもありません。海に落ちた
としても大津波が来るはずです。御書914頁の光物体は流星ではない別の何かであると
私は思います。それも人を恐怖のどん底に落とすような何かであると思います。御書91
5頁の「天より明星の如くなる大星下りて前の木の枝に・かかりてありしかば・もののふ
ども皆縁よりとびをり或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ」も流星ではないと思
います。流星ならば木に激突するなずであり、木の枝に掛かるなどどいうことはありませ
ん。これも隕石ではない人を恐怖のどん底に突き落とすような別の何かだったと思います。
私は私なりの結論を持っていますが、それはここの掲示板に書き込むことは差し控えさせ
て頂きます。識者の方の冷静なご判断と御返事をお待ちしております。
1535
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/15(木) 13:33
>文永8年9月12日は現在の太陽暦に直しますと1271年12月24日になります。
失礼しました。12月24日ではなく10月24日でした。訂正します。
1536
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/15(木) 13:41
「天より明星の如くなる大星下りて前の木の枝に・かかりてありしかば」は「天より
明星の如くなる大星下りて前の梅の木の枝に・かかりてありしかば」です。
また「御前1時」は「午前1時」です。御書の引用を誤りまして大変失礼しました。
1537
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/15(木) 16:39
『種種御振舞御書』の文永8年9月13日は現在の太陽暦では1271年10月
25日に当たります。私はこの『種種御振舞御書』を真書と考えていますが、1
00%と真書とは考えてはいません。文永8年9月13日の月の出は太陽暦に直
し更に正確な天文シュミレーションにかけると、午後9時28分になります。日
蓮大聖人が月天を責めた時にはその日の月齢は21、月の位相は62%です。あ
の当時の人達が午後9時以降に起きていたのか不思議です。1271年10月2
5日の夜に月が南東に昇るのは翌日の、文永8年9月14日の午前2時頃です。
9月13日には遅い時間でもまだ東の地平線近くにしか月は昇って来ていません。
日蓮大聖人が月天を諫めた時間が真夜中近くならば合点がいくのですが、なかな
かそうもいきません。また御書915頁には「やがて即ち天かきくもりて大風吹
き来たりて江の島のなるとて空のひびく事・大なるつづみを打つがごとし。夜明
れば十四日の卯の時に十郎入道と申すもの来たりて云く」とあります。卯の時と
は午前6時と7時に当たります。50歳に近い年齢で睡眠時間5時間以下と言う
のでは大変だと思います。また旧暦9月13日は新暦10月25日に当たり、急
に雷雲が近付くような季節ではありません。むしろ初冬に近いと言えましょう。
この『種種御振舞御書』が後世の偽作かどうかは別のスレで議論するとして、こ
の内容について深く識者の方々に御意見を伺いたいと思っています。
1538
:
みかん
:2004/07/16(金) 03:42
>晃司さん
すでに撤退されたので見ていらっしゃらないかもしれませんが、
>えっと水の販売はしていません
>水はプラシーボ効果を引用するために記載しています
>現実にアトピー性皮膚炎が治りました
意味がよくわからないのですが、あなたは
「活性水素水」に特別な効果があるという立場なんですか?
それとも単にプラシーボ効果であって、水道水でもミネラルウォーターでも
井戸水でも、効果があると思って飲めばプラシーボ効果(偽薬効果)
があるという立場なんですか?
1539
:
犀角独歩
:2004/07/16(金) 10:03
平和創価さん:
1534〜7のご投稿、たいへんに興味深く拝読しました。
『種種御振舞御書』は、れんさんをはじめ、皆さんが既にご紹介なさっておられるように、後世の成立であり、複数の書を併せたものであるというのがいちおうの信頼できる見解であろうと存じます。ただ、そのなかに実際に蓮師、本弟子六人方などが話し記したこともあるとは想像できます。該当の「光物」については、道師『三師御伝土代』にその記述が見られるわけで、もし、この書が同師のものであれば、かなり上古の伝説ということになります。今回のご投稿は、しかし、書の真贋を問うのではなく、記述の信憑性から、光物が何であったのか、お考えになっておられるのですね。
「九月十三日の夜なれば月大いにはれてあり」
という同書の記述は、天文シミュレーションと一致しないわけなのですね。
光物について、たしか創価学会出版の池田さんの対談集で、エンリケ彗星でしたか、彗星説を挙げていた記憶がありますが、この信憑性は如何ばかりでしょうか。
ご指摘されている隕石説ですが、これについて、わたしの体験を一言。
もう30年も昔のことなのですが、夜空を眺めていると、眩いばかりの光体が地平線にほぼ平行に、波打つように走り抜けていったのです。空の雲も、黄色にも、朱色に明るく照らされました。その大きさは一円玉ほどもあったように見えました。わたしは一瞬、UFOかと思ったのですが、冷静に考え直し、隕石であろうと結論付けました。その隕石は大気圏への入角の関係で地上に落ちず、また宇宙へはじき飛ばされたのではないのかと想像しました。地球引力に寄せられた隕石にそんなことが起きるのかどうかは別として、わたしは実際にこのような自然現象を目の当たりにした経験があります。
あと、この光物は、蓮師を救おうとした人が上げた花火であったとか、種々説はあったようですが、梅の木に掛かった‘星’とともに、これが蓮師の一念心によって起こった超常現象か否か、また、偶然であっても、それを蓮師が宗教的な体験と捉えたのか、あるいは『種種御振舞御書』の記述がまったくの創作物語なのか…、まずは平和創価さんが試みられているような科学的なアプローチ、また、同書への科学的な文献研究などによって、その実否を問うていくほかないと思えます。
あまり、参考になるレスともなっていませんが、実に興味深いアプローチでしたので、惹かれた投稿させていただいた次第です。
1540
:
シェスタ
:2004/07/16(金) 10:31
平和創価さんへ
陰暦の13日で月齢が21というのは、ありえません。なぜなら、月齢で日にちを
数えるのを陰暦と呼ぶからです。日付が13なら月齢も13です。
誤差があったとしても1日〜2日程度でしょう。
ソフトはステラナビゲータですか?
1541
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/16(金) 18:54
>>1539
犀角独歩さん
貴重な御意見有難う御座います。日蓮大聖人の事跡と御書を科学的に検証することの
重要性を感じました。
>>1540
シェスタさん
現在旧暦と言われている月齢と日付がほぼ一致するのは天保暦です。日蓮大聖人が御
使用になった暦は貞観4年(862)から貞享2年(1685)まで使用された宣明
暦です。日本で使用された暦は元嘉暦(692〜697)、儀鳳暦(697〜764)、
大衍暦(764〜858)、五記暦(858〜862)、宣明暦(862〜1685)、
貞享暦(1685〜1755)、宝暦暦(1755〜1798)、寛政暦(1798〜
1844)、天保暦(1844〜1873)の9種類です。鎌倉時代の宣明暦は日付と
月齢と日付が全く一致していません。ナギピーソフトの「こよみちゃん」を使って文永
8年9月13日をグレゴリオ暦の1271年10月25日を弾き出しました。また天文
シュミレーションは「ディスタントサンズ2」です。これは非常に正確なソフトで、推
古天皇36年3月2日(628年4月10日)の皆既日食を正確にシュミレーションし
ました。1271年10月の朔は5日でありますから、それを1とすると25日は21
に当たります。月齢は天保暦から1を引きますから20でしたね。失礼しました。でも
あの文永8年9月13日(1271年10月25日)の午後9時28分にかなり右半分
が欠けた位相(光る部分)62%の月が昇って来たのですよ。ここで私は思ったのです
が、日蓮大聖人はどのようにして当時の暦を知っていたのかということです。鎌倉時代
にカレンダーなどがあったのでしょうか。日蓮大聖人は絶対に日付を間違えなかったと
言えるのでしょうか。4年半も前の日付を正確に覚えていたと言えるのでしょうか。ま
た素朴な疑問がわいてきました。鎌倉時代の人はどのように暦を知ったのでしょうか。
現代のように新聞やテレビがある訳ではないのですからね。
まあシャスタさん「窓の杜」というサイトから「こよみちゃん」をダウンロードしてみて
下さい。ナギピーソフトでシェア料金500円で完全な「こよみちゃん」を開くことがで
きますよ。また天文シュミレーションの「ディスタントサンズ2」は驚く程正確ですよ。
まだ販売されているかも知れません。そんなに高くはありませんので、是非トライしてみ
て下さい。
1542
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/16(金) 19:33
>>1540
「シェスタ」さん
「こよみちゃん」はここからダウンロードできます。シェア料金500円だけで延暦
年間の旧暦から明治5年までの旧暦を現代のグレゴリオ暦に直すことができます。
↓
http://www.nagi-p.com/
1543
:
シェスタ
:2004/07/16(金) 19:48
平和創価さんへ
10月25日というのはグレゴリオ暦です。 1271年はユリウス暦ですか
ら、7日ほどマイナスしなければなりません。こよみちゃんでも、10月18
日と出力されます。
ディスタントサンズ2というソフトはよく知りませんが、ほとんどの天文ソフ
トは、1582年以前はユリウス暦とみなして計算しますから、日付もユリ
ウス暦で入力してやらなければなりません。
【1271年早見表】
宣明暦 9月13日
ユリウス暦 10月18日
グレゴリオ暦 10月25日
ですから、10月25日ではなく10月18日です。結果、依智の星下りの奇
瑞のあった日の、鎌倉の月の出は午後4時となります。もちろん、25日で入
力すると月の出は午後9時半頃で、貴殿と同じ結果になります。
つまり、あなたは9月13日を調べているのではなく、実は、9月20日を
調べているのです。これだと、月齢が21になるのも納得できます。
1544
:
雖念
:2004/07/16(金) 20:04
>平和創価さん(1541)
平和創価さんはじめまして、雖念と申します。
種々御振舞御書の「光物」に関しては、当スレッドの855-875で議論されましたので、ご参照いただくとよいかと存じます。
私自身は、874に投稿しましたように、「光物」の正体は球雷と考えるべきではないかと存じますが、太陽暦の10月25日にこうした現象が見られるのかどうかが疑問です。
もっとも、北陸では冬に雷がなりますので、気象条件次第でありえない話でもないと思っています。
1545
:
愚鈍凡夫
:2004/07/16(金) 21:30
横レス失礼します。小生が普段使っているソフトで調べてみたのですが、シェスタさんと同じ答えでした。
1271(文永8:辛未)年9月13日(旧暦)
1271年10月18日(ユリウス暦)
1271年10月25日(グレゴリオ暦) 甲戌 先負 五黄 十三夜
小生が使用しているソフトはフリーソフトですが、使い勝手がよく、歴史年表を作る際に重宝しています。
旧暦表示付きカレンダー【Calend Mate】
http://homepage1.nifty.com/OkaLab/Program/CalendMate.html
参考資料
旧暦の仕組み
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm
1546
:
愚鈍凡夫
:2004/07/16(金) 22:12
>>1539
:
で犀角独歩さんが
> 光物について、たしか創価学会出版の池田さんの対談集で、エンリケ彗星でしたか、彗星説を挙げていた記憶がありますが、この信憑性は如何ばかりでしょうか。
と、仰ってるのは下記のことだと思います。
随筆 新・人間革命:黎明の竜の口
http://www.mahoroba.ne.jp/~felix/SGI/Marathon/tatsunokuchi.html
1547
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/16(金) 23:17
>>1543
シェスタさん
貴重な御意見有難う御座います。「ディスタントサンズ2」で調べました所、
1582年10月5日から10月14日は無効な日となっており、やはりシェ
スタさんがおっしゃる通りでした。文永8年9月13日はユリウス暦の10月
18日であり、月の出は16時2分であり、月の位相は89%で満月に近い光
度を持っていました。まだ午後8時でも南東の空に明るく輝いていました。そ
うなると『種種御振舞御書』の「九月十三日の夜なれば月大いに晴れてありし
に夜中に大庭に立ち出でて月に向かひ奉りて」と言う記載は真実であるという
ことになります。まことにまことに感銘致しました。私の不勉強を痛感した次
第であります。そうなるとこの御書が犀角独歩さんがおっしゃっていたように
後世の偽書であるとしても、実際に龍ノ口の法難に立ち会った人の記憶を忠実
に表している部分がかなりある御書であると言うことが言えます。愚鈍凡夫さ
んの御意見も正しかったのでした。
さて雖念さんの光物体が球雷であるとの御意見も可能性はあると思います。こ
れは球電とも呼ばれる現象であり、昔東京の麻布の民家で起きたということを
本で読んだことがあります。10月17日に龍ノ口に現れた南東から北東に光
り渡った光物体と、18日の夜に梅の枝に掛かった大星も球電である可能性が
あります。球電現象は雷雨の前後に起きるものです。大星が梅の枝に掛かった
後に「やがて即ち天かきくもりて大風吹き来たりて江の島のなるとて・空の響
く事・大なるつづみを打つがごとし」と御書にありますが、これは雷雲が近付
いて来たことを表しています。球雷であるという雖念さんの考えは御書の叙述
と科学的な根拠と一致しており、これまたこの御書が実際に起きた事を忠実に
表したものであることを裏付けることであると思います。皆様の真剣な探求心
にはまことに頭が下がる思いです。
1548
:
犀角独歩
:2004/07/17(土) 02:17
こうして、皆さんの議論で少しずついろいろなことが見えてくるのは、楽しいものです。
わたしは、このような場で前言を覆すことは何ら恥じることではないと思います。
皆さんのご賢察を拝しながら、真実に近づきたいと思うばかりです。
1549
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/17(土) 16:46
>>1545
愚鈍凡夫さん
貴重な御意見有難う御座いました。さて私は紹介されたサイトのソフトをダウン
ロードしたのですが、さっぱり開くことができませんでした。「ディスタントサ
ンズ2」には月の位相は表示されても月齢が表示されないと言う欠点があります。
まあ月の位相の%に29.53を掛ければ大体の月齢は出てきますが。「旧暦表示付
きカレンダー【Calend Mate】」はどのようにして開いたのかお教え頂ければ幸
いと思います。私は昨夜から悪戦苦闘しながら、とうとう今まで開けない始末で
す。ダウンロードとインストゥールは終わったのですが、開くことが全くできま
せん。「こよみちゃん」でも月齢は表示されません。前に月齢表示のソフトはあ
ったのですが、パソコンが古くなったため一緒に捨ててしまいました。御書の科
学的な考証の目的があったならば捨てなかったものをと悔やんでいます。
1550
:
愚鈍凡夫
:2004/07/17(土) 19:19
>>1549
:創価平和さん、ご苦労様です。 m(_ _)m
無事にインストールが済んでいれば、「C:\Program Files」のフォルダに「Calend Mate」というフォルダが新たにできていると思います。その中の「CalendMate.exe」のショートカットをデスクトップにでも作成して下さい。なお、ショートカットの作成には、「ショートカット工房」が便利です。
Calend Mate(Windows95/98/Me/パーソナル)
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/personal/se289934.html
ショートカット工房(Windows95/98/Me/ユーティリティ)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se158270.html
もし、VB6のランタイムがインストールされていなければ、下記のアドレスのランタイムライブラリから「Visual Basic 6.0」をダウンロードして下さい(VB6であればどれでも結構です)。
解凍したdllすべてを「C:\Windows\system」フォルダにコピーして下さい。これで準備OKです。
Common Archivers Library
http://www.madobe.net/archiver/index.html
1551
:
愚鈍凡夫
:2004/07/17(土) 19:47
訂正
名前を間違えました(ギャグではありません)。 (^▽^;)
創価平和さんではなく、平和創価さんです。ごめんなさい。 m(_ _;)m ゴメン!!
1552
:
雖念
:2004/07/17(土) 20:04
光の柱
通信手段が発達した現在では、「火球」が現れれば、目撃情報が寄せられ、天文台が直ちにコメントを出し、こうして新聞に紹介されますが、私たちは視覚的に確認できないと、もうひとつ安心できません。
http://www.sankei.co.jp/news/040716/sha152.htm
また、現在では写真やビデオが発達したため、「奇跡」も「怪奇」も姿を消しつつありますが、以下の光の柱なども、昔の人がみたら「神の降臨」「神のみしるし」としか表現のしようがないと思いませんか?
http://www.hokkaido-np.co.jp/Php/kiji.php3?&d=20040717&j=0047&k=200407177299
1553
:
愚鈍凡夫
:2004/07/17(土) 21:27
もし、「Calend Mate」が文字化けするようでしたら、VB6のランタイムを下記のものにアップグレードして下さい。
Visual Basic 6.0 Service Pack 6 Runtime Set(Windows95/98/Me/ユーティリティ)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/util/se152941.html
1554
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/17(土) 23:43
>>1553
愚鈍凡夫 さん
アドバイス有難う御座います。パソコンの操作を練習して開けるようにしていきます。
>>1552
雖念さん
これは大変なことですね。犀角独歩さんも30年前に隕石が地上に落下する反動で地球
圏外に弾き飛ばされた現象を見たということをおっしゃっていましたが、雖念さんが15
52で紹介された現象は単なる球雷とか隕石ではないと思います。私が21歳の時に大學
の正門で見た丸い光りの塊は三つの正三角形の形をとって夜空にもの凄いスピードで急
上昇していきました。忘れもしない、とある年の9月30日の夜でした。またこれはそ
の前年の9月4日の夕方でしたが、私が田園の農道でトランペットを吹いていたところ、
オレンジ色の光る物体が私から20メートルぐらいの至近距離まで近付いて来たことが
ありました。私は驚いて自転車に乗り猛スピードで逃げたところ、そのオレンジ色の光
物体は白い大星に変わって西の空に急上昇して消えていきました。インドでムノチュア
(引っ掻く物)というオレンジ色の光物体物が現れて死者や怪我人が出たと言うことが
以前民放の番組で報道されましたが、私が見た光物体と同じような物でした。私が見た
光物体は直径が20センチぐらいでガラスの中に火を灯したような物でした。これは球
雷とか球電やプラズマのような物ではなく、無線で操縦されている物体であると思いま
す。私は20歳前後の時に残像を持つ光物体を夜によく見ました。頭は白い光球であり、
尾を残像に長く持つのです。飛行機は残像など絶対に持ちません。UFOかどうかは分
かりませんが、このような現象は絶対に捨て置くことはできない現象であると思います。
雖念さんは島崎藤村の『夜明け前』という長編小説をお読みになったことがありますか?
私は22歳頃にこの小説の「光物体が飛んで人々が大騒ぎした」という下りを読んでぞっ
としたことがあります。正に『種種御振舞御書』の光物体であると思いました。私は流星
を見たことがありますが、あの21歳の時に見た光物体は極めてゆっくり飛んでいました
し、三つの光点が急上昇したのは隕石や球電ではないと思います。また20歳の時に見た
光物体は私の所にゆっくり降りてきて、私が逃げた後に西の空に急上昇して消えました。
やはりあの文永8年9月12日の光物体はあれだと私は思います。このような史実や現代
の光球の出現を荒唐無稽なことであると考えて無視していることは極めて不真面目なこと
であると思います。昔の伝説を全てお伽噺と考えて科学的考察をしようとしない現代科学
者の姿勢は極めて不真面目であると思いますし、自己の地位の保身や経済的な利潤の維持
を優先して真実を解明しようとしない科学者達には私はいらだちさえ感じます。『竹取物
語』に似た記述は外国にも有りますし、縄文時代後期の遮光器型土偶に似た土人形は同時
代のイラン近くの中東からも出土しています。縄文時代後期の縄文土器や土版にもあの遮
光器型土偶の大きい目が描かれているのです。時期が一致していることに空恐ろしささえ
私は感じます。人は多数者の意見に押されて自分の意見を潰すという悪い性質があります。
日蓮大聖人は多数者の意見に対抗して自身の確信を貫き通されました。あの龍ノ口の法難
の光物体は彗星ではないと思います。彗星は夜明け前や日没時に見られ長時間見られる物
です。あの光物体は短時間現れ人の顔さえ見られるくらい明るい物でした。近未来にこの
ことが解明されるであろうと私は思っています。
1555
:
愚鈍凡夫
:2004/07/18(日) 02:30
横レス失礼します。下記のような現象があるそうです(この現象の目撃者は以外に多いのではないですか。小生もその一人です)。
**************************************************
夕方西の空に見られる飛行現象について
2000年10月22日に北海道において隕石の落下のように見られる飛行物体が目撃されて以来、同様の目撃情報が当サイトの掲示板に報告されることが多くなりました。
10月22日の現象については飛行機の可能性がもっとも高いと考えていますが、飛行機の所属等については結論が出ていないようです。
いずれにしても、晴れた日の夕方西の空に(明け方の東の空にも見える)火を噴きながら落下していくように見える飛行物体は、99%飛行機であるといって過言ではありません。
特徴は、「30秒〜数分にわたって見える」「先端に黒い部分がある」「先端が短時間光る」「途中で方向を変える」などです。
(中略)
夕方飛行物体を目撃した場合には以上の点に注意し、それでも不明の場合にはご連絡ください。
隕石の落下の場合は、飛行時間が30秒以下の場合がほとんどで、直線的に飛行します。
http://www3.cnet.ne.jp/c-shimo/Dscf0025.jpg
「日本火球ネットワーク」ホームページより
**************************************************
Japan Fireball Network
http://www3.cnet.ne.jp/c-shimo/
1556
:
シェスタ
:2004/07/18(日) 11:24
平和創価さんへ
> 日蓮大聖人はどのようにして当時の暦を知っていたのかということです。鎌倉時代
> にカレンダーなどがあったのでしょうか。
鎌倉時代にもカレンダーはありました。もともと手書きの暦が配布されていましたが、
鎌倉時代末期からは、印刷された暦にかわっていきました。国立国会図書館のHPで、
当時の暦を画像で閲覧できます。
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_index_01.html
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/pic02_2_lar.html
なぜ、暦が配布されていたかといいますと、農作業に必要だったからです。
お百姓さんが種をまいたり、稲を刈り取るのには、どうしても暦が必要だった
のです。また、陰暦ですから、漁業にも使用されました。
あと、宣明暦は世界でも優秀な暦のひとつで、現代の暦とくらべても、そんなに
遜色はありません。以下はそのパラメータです。833年に2日という誤差です。
宣明暦の1年 365.2446日
現 代の1年 365.2422日
あと、1日の変わり目は、現在は午前0時ですが。鎌倉時代は午前3時でした。
これらに関しては、以下の書籍に、かなり詳しく書かれてあります。
日本・中国・朝鮮 古代の時刻制度
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639012802/qid=1090109417/250-6693226-9158619
アマゾンでは品切れになってますね。大きな図書館にいけば、読めるかもしれません。
こちらは、天文関係のフリーソフトがダウンロードできます。
http://www.vector.co.jp/vpac/filearea/win95/edu/science/space/index.html
1557
:
シェスタ
:2004/07/18(日) 11:44
こちらで、天文関係のフリーソフトがダウンロードできます。
http://www.vector.co.jp/vpack/filearea/win95/edu/science/space/index.html
URLに記述ミスがありました。訂正します。
1558
:
愚鈍凡夫
:2004/07/18(日) 14:06
暦の先進国中国では、皇帝は「天子」とも呼ばれ、「天帝」から、この世のすべての支配を委託されたただ一人の人物であるという位置づけで、この皇帝に諸国の王が随順の証として、皇帝が支配する時間を受け入れる。という意味があったようです。つまり皇帝のみ発行を許されている「暦」を頂くという意味ですね。従って、古来より日本にも中国から暦は送られてきたようです(臣下の証だったようですね)。
日本が自前で暦を作れるようになってからは、中国の例に習ったのか、天皇以外に暦の発行は許されませんでした。そういう意味では、暦は権威の象徴であったようですね。
旧暦の仕組み7
http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar7.htm
1559
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/18(日) 16:35
>>1558
愚鈍凡夫さん
「旧暦表示付きカレンダー【Calend Mate】」を先程開くことができました。この
ソフトはフリーソフトでありながら極めて正確でありかつこよみちゃんよりも古い
時代から計算できる優れたソフトですね。月の位相%に29.5を掛けて私は月齢
を算出していたのですが、文永8年9月13日の夜の月齢が「ディスタントサンズ
2」の%に29.53を掛けた結果とこのソフトの月齢がほぼ一致しました。いや
もう凄いソフトですね。暦に関する知識といい、愚鈍凡夫さんの博学には脱帽しま
す。さすがに犀角独歩さんと鎬を削っているだけのことはあると思いました。また
私の不勉強を痛感した次第です。
>>1557
シェスタさん
天文シュミレーションのご紹介有難う御座います。優れたソフトはシェア料金が掛
かっても使用していきたいと思います。私が使用している「ディスタントサンズ2」
は非常に優れたソフトですのでシェスタさんも一度お試しになってはいかがかと思い
ます。
1560
:
愚鈍凡夫
:2004/07/18(日) 17:06
平和創価さん、「Calend Mate」が使えるようになって良かったですね。
パチパチパチ o(^ー^)o☆o(^ー^)oパチパチ
> さすがに犀角独歩さんと鎬を削っているだけのことはあると思いました。
あまりにも犀角独歩さんに失礼ですから、ジョークということで。 (@Д@; アセアセ・・・
あ〜オソロシィ・・・・・・。 (O.O;)(o。o;)
余談ですが、緯度経度ならここで簡単に調べられますよ(○○市○○区のように指定)。
SEARCH(日本緯度経度検索)
http://www.interq.or.jp/mars/tozai/data/search.html
1561
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/18(日) 20:16
愚鈍凡夫さん、シェスタさん、貴重な御意見有難う御座いました。
さて私は今日16時にメールを送信した時に後の部分を削除しました。それは極めて
日蓮大聖人の門下として不謹慎なことであると思いカットしたのですが、このことは
2ちゃんねるでこの3月から外部の人達と議論して来たことなので犀角独歩さんにも
お聞きしたいと思います。私はあの議論の後の2ヶ月後に発病し、病院通いになった
次第です。今は快復していますが万全ではありません。その議論とは言うも恐ろしい
日蓮大聖人の死因です。今日16時にそのことを付け加えたのですが、恐ろしくなり
削除して送信しました。しかし、このことを科学的な分析をしないで置くことは我々
にとってマイナスであると思い、敢えて投稿します。
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、シェスタさん、雖念さん。
日蓮大聖人は60歳で亡くなられました。(年齢は全て満年齢です)弟子の日興上人
は87歳、同じ弟子の大聖人より1歳年上の日昭は102歳まで生きていることを考
えますと大聖人は何かの病気で亡くなられたと思います。大聖人は建治3年の暮れか
ら下痢が始まり、翌年の6月には最悪の状態になられました。一度快癒されたのです
が弘安4年の12月にはかなり酷い状態になられております。翌年弘安5年10月1
3日に亡くなられるのですが、日蓮大聖人の死因は一体何なのでしょうか?外部の人
は「大腸癌」という説を日蓮研究者の学説から引き出しています。私はそれに反論し
たのですが、その書き込みが私自身に対する呵責となって体調を崩させたのではない
かと思います。大聖人の激しい下痢と痩せ病は肝臓病と関係があると私は思い、外部
の人にメールを送り続けたのですが、私の身体がおかしくなってしまいました。私は
日蓮大聖人の死因は大聖人が食物が少ない所にお酒を好まれたたの肝硬変ではないか
と思います。佐渡流罪はそれに拍車をかけるものだったと思います。肝硬変になると
激しい下痢が続くことがあるのです。また栄養障害に酒が加わると肝臓を壊します。
私はそのようなことを考えて外部の人達に「日蓮大聖人癌死」説を否定したのですが、
私の書き込みが気になり、私自身が呵責に苛まれるようになりました。
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、シェスタさん、雖念さん。アドバイスを頂ければ幸いです。
あとシェスタさん。やはりあなたのソフトの「ステラナビゲータV2」の方がいいと言う
ことが分かりました。
1562
:
雖念
:2004/07/18(日) 21:35
平和創価さん:
> 大聖人は建治3年(1277)の暮れから下痢が始まり、翌年(1278)の6月には最悪の状態になられました。一度快癒されたのですが弘安4年(1281)の12月にはかなり酷い状態になられております。
(西暦表示を併用いたしました。)
大腸がんの特徴は、血便や便秘だとあります。下痢とは反対に、お通じがわるくなるのですね。
******************************* 引用開始 ********************
(自覚症状は)血便です。貧血を起こすこともあります。出血している場所によって表れ方も異なり、結腸の場合は便が黒っぽくなります。S状結腸や直腸など出口に近いと、便秘など便通異常を起こします。最後におなかがはっておならも出ないような腹痛に至りますが、この段階では、すでにがんは進行しています。五十代以上で過去にないような血便や便通異常のある場合はぜひ検査を受けてください。
http://www.hokuriku.chunichi.co.jp/00/ken/20040220/ftu_____ken_____000.shtml
******************************* 引用終了 ********************
平和創価さんは、肝臓病原因説を考えていらっしゃいますが、以下の記事は肝臓病原因説とは言えないでしょうか?
******************************* 引用開始 ********************
晩年の日蓮聖人の病の原因
A:1993年10月28日の『宗門新報』に興味深い記事がありましたので、ここにその要旨を紹介します。本紙において、日蓮聖人の身延期の病は、山梨地方病ではないかとの報告がなされました。入梅時の甲府盆地では道草に日本住血吸虫という病原虫がいて、その病原虫は宮入貝という貝を中間宿主にして成長し、水辺などで人体に伝染します。日蓮聖人は5月17日に山梨にきて、約1ケ月も山梨地方を巡られております。丁度、入梅の時期に甲府盆地の湿地帯を進まれたのです。この病気は初めは下痢から始まり、やがて肝臓を痛めます。供奉の日興上人などは鰍沢の生まれで抵抗力があったのか、あるいは日蓮聖人のように常に身延に常住していなかったので、発病が軽かったものと思われます。この山梨地方病は昭和になるまで、その原因がわからず、昭和になってその病原と処置方法がわかり、排水工事などをやって患者数が激減したといわれております。
http://www.asahi-net.or.jp/~IA8D-TKMR/contents4.html
******************************* 引用終了 ********************
1563
:
愚鈍凡夫
:2004/07/18(日) 22:25
雖念さん、水を差すようでごめんなさい。日本住血吸虫症は癌になりやすいそうです。
**************************************************
日本住血吸虫症
日本住血吸虫症は戦前は日本にも流行していましたが、駆除政策がおこなわれ現在、新たな感染者の発生はありません。しかし、以前に日本住血吸虫症に感染し治癒したご老人(陳旧性日本住血吸虫症)の方は多くいます。
陳旧性日本住血吸虫症の方は肝硬変、肝臓ガン、胆道ガンになりやすいことがわかっているのですが、また大腸ガンにもなりやすいといわれています。これは日本住血吸虫症の卵が肝臓や大腸粘膜内にいつまでも残るためのようです。
「大腸.com」より
**************************************************
創価学会2代会長の戸田さんは肝硬変による心不全で亡くなったようですが、蓮祖の死因は何でしょうね。「衰病(おとろえやまい)」「下痢(くだりはら)」「やせやまい」から連想するのは、やはり大腸癌でしょうか。ただ確かなことは、いかなる病であったにせよ、1282(弘安5)年10月13日に入滅されたということですよね。その時、総てをやり遂げたといったような人生に満足した死だったのでしょうか。
「答えて云く一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、二には本門の戒壇、三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、」(「報恩抄」 学会版P328)
「問うて云く如来滅後二千余年竜樹天親天台伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや、答えて云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(「法華取要抄」 学会版P336)
とありますが、
個人的に、この「三つの秘法」の論理的完成を成さずに死んでいくことは断腸の思いではなかったかと想像します。せめて、あと10年の寿命があったなら、今に伝わる日蓮仏教も違ったものになっていたかもしれないと思います。
参考資料
あの頃のこと第20回
http://the49.hp.infoseek.co.jp/emyo_t/em1406a2.htm
日本住血吸虫症と大腸がん、大腸癌、直腸癌、大腸検査、大腸ポリープ、血便、総合サイト
http://daichou.com/japonica.htm
波木井殿御報「常陸の湯」について
http://homepage1.nifty.com/kakurai/hitatinoyu/oosakigakuhou.htm
1564
:
シェスタ
:2004/07/19(月) 07:14
平和創価さんへ
本題とは関係ないですが。
> 「ステラナビゲータV2」の方がいいと言うことが分かりました。
えーと、現在はV6ですね。
http://www.astroarts.co.jp/products/stlnav6/tryout/index-j.shtml
以下のページも、お気に入りに加えておけば、何かの時に役に立つと思います。
暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/
一般天文・気象情報リンク集
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8y-ktu/link.htm
1565
:
犀角独歩
:2004/07/19(月) 12:50
最近の皆さんの投稿は面白いですね。
つい読む耽って、そのあと、言語かも出来ない思いを楽しんでいます。
蓮師の死については、死因は雖念のご呈示も参考にしながら、死因は決し切れませんが、概ね1563に愚鈍凡夫さんが記されたように戒壇義不成就で病死されたのだとわたしも考えています。
わたし自身は蓮師を本仏と考えるわけではありませんから、別段60歳で亡くなろうが、病死であろうが、それをそのまま受け止めるばかりです。
事実と相違する肥大した想像の産物より、蓮師その人の実像のほうが遙かに胸を打ちます。
関連するかどうか。シャキャムニの涅槃を記す現代語訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)の記述を思い出しながら、平和創価さんの投稿を拝読していました。
「さて、尊師が鍛冶工チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた」(P110)
この食事がシャキャムニに死をもたらしたと言います。
シャキャムニもこうして、こうして激烈な血便の末、死に至りました。どこか蓮師の死と相通じるものを感じます。
それはさておいて、シャキャムニを死に至らしめた食事を供養したチュンダを気遣い、アーナンダ(阿難)に伝言したと言います。ほぼ記せば、シャキャムニの生涯にとって「二つのすぐれた食事」があったと言います。一つは悟りを生じるときに受けたスジャータの乳粥、そして、もう一つはチュンダの死に至らしめた料理であった…。
チュンダへ非難を防ぎ、そして、チュンダを思うこの件をわたしはこよなく愛します。
わたしは60歳で夭折したからどうとか、あるいは志半ばで倒れたからダメだなどという気は毛頭ありません。死は一定(いちじょう)で、生まれたものはやがて、病み、老い死んでいく、そのありのままを受け容れ、心を乱さぬことを教えたのがシャキャムニの教説であると思い、また、だからこそ、その教説を仰ぎます。
蓮師餓死に臨み、身延を出で、池上に向かうに興師に代筆させた『波木井殿御報』(弘安5年9月19日)
畏(かしこ)み申し候。みち(道)のほど(程)べち(別)事候はで、いけがみ(池上)までつきて候。みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。さては、やがてかへ(帰)りまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば、不ぢゃう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつか(扱)うて候み(身)を、九年まで御きえ(帰依)候ひぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(身延沢)にせさせ候べく候。又くりかげ(栗鹿毛)の御馬はあまりをもしろ(面白)くをぼへ候程に、いつまでもうし(失)なふまじく候。ひたち(常陸)のゆ(湯)へひか(引)せ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほか(他)いたはしくをぼへば、ゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら(藻原)殿のもとにあづけを(置)きたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候ひては、をぼつか(覚束)なくをぼへ候。まかりか(帰)へり候はんまで、此のとねり(舎人)をつけ(付)をき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。
九月十九日
日蓮
進上 波木井殿 御侍
所らう(労)のあひだ、はんぎゃう(判形)をくは(加)へず
候事、恐れ入って候。
この時、蓮師は衰弱の極みに達し、二度と身延に戻ることは出来ないと覚悟されていたと拝察します。その上での、心遣いの文面は、「ご本仏だから、少病少悩、すべてをやり遂げて…」とあとから自分たちの教学から潤色変造された蓮師より、わたしは遙かに有り難く尊い存在と思います。
平和創価さん、わたしは脱会後、極度の神経障害を克服した経験があります。そのきっかけとなった‘気付き’は以下の一説でした。
「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した。
あるメンバーは)もしグループをやめようものなら自己破壊を起こすのだと条件づけられていた。そして実際やめてみると、まさにそのことが起こりはじめたのだった ―― 救出カウンセリングに出会うまでは」(『マインド・コントロールの恐怖』P306)
1566
:
雖念
:2004/07/19(月) 14:18
愚鈍凡夫さん:>1562(その1)
蓮祖の死因に関して定説がないということは、「診断」に必要な情報の量や質が限られているということかと思います。当時の医療レベルは、「医心方」「金匱要略」「傷寒論」程度かと思いますが、証を重視し、症候論的には舌診や脈診を重視したもので、現代医学のそれとは、大きな違いがあるのではないでしょうか?
また、自覚症状があったとしても、それを口にされたかどうか、また記録されたかどうかという問題もあるかと思います。
寄生虫疾患が最初に頭に浮かぶのは、ほんの数十年前までは日本でも感染症や寄生虫疾患が大きな問題であったからです。
私が子供のころ、(ほんの数十年まえです)小学校の児童会で、「川の水を飲まないようにしましょう」と、いう議題について話し合ったことがあります。山間僻地では、上水道の設備がなく、一部の家庭では、井戸水や煮沸した川の水を飲用していた時代でした。
蓮祖の時代も同様に、井戸水は、貴重な飲料水で、洗濯や野菜洗いには川の水を用いていたと考えられますから、甲斐の風土病である日本住血吸虫症に感染していた可能性はあると思います。しかし、この疾患の場合肝障害による腹水が特徴的とされ、(画像あり)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/1781/china/sj.html
また、咳や喘息様の発作、けいれんや視力障害をともなうこともあるとされていますが、
このような症状があれば、記録に残らないとは考えにくいので、凡夫さんのおっしゃるように、やはり住血吸虫症とは少しちがうような気がします。
では、いったいなんでしょうか?調べてみると、慢性の下痢をきたす、疾患だけでもずいぶんありますね。炎症性腸疾患、腸結核、大腸アメーバ、寄生虫、クラミジア、大腸がん、胃がん、膵がん、慢性膵炎、甲状腺の病気、副甲状腺の病気、腎臓の病気、糖尿病など、たくさんあるようです。(凡夫さんに教えていただいた、daichou.comの中にありました)
http://www.daichou.com/geri.htm
「波木井殿御報「常陸の湯」について」から、病気に関する部分を編年体で抜粋してみました。1273年からやせ病が起きたとすると、1282年で入滅されるまで10年の歳月を経ていますが、がんにかかって10年生存できるかどうか?
また、発病を1277年としても6年の生存ということになりますが、がんで(現在の医療水準で考えた場合)治療らしい治療もせずに、6年間生存できることは普通によくあることなのかどうか? そんなことが、問題になるような気がします。
1567
:
雖念
:2004/07/19(月) 14:19
愚鈍凡夫さん(その2)
******************************* 一部抜粋して引用 *****************
1273年(文永10年)ごろからやせ病起こる
1274年(文永11年)身延に入山なさる
1277年(建治3年)発病し下痢を病まれた
1278年(建治4年)正月から不調となり療養の巧もなくて11月・12月ごろは食欲がなく衰弱の一途をたどった。
1279年 ずっと病臥をつづけられていたように見受けられる
1281年(弘安4年) 5月の末、聖人は重態におちいられ、のちに少しく恢復された
1282年(弘安5年)10月15日門下某に口授して常忍への手紙の代筆をさせられ、終わりには聖人みずから筆をとって花押を加えられている
1282年 (弘安5年)9月、身延をたち、道中つつがなく武蔵国千束郷池上に安着された聖人は波木井の南部実長に池上到着の旨を報ぜられたが、疲労が甚だしくしてみずから筆をとることができず、日興に口実代筆させられた。
10月8日、本弟子6人を選定して滅後の法灯とし、10月13日、61才をもって入滅された。
******************************* 引用終了 ********************
1568
:
雖念
:2004/07/19(月) 14:29
犀角独歩さん:(> 1565)
まことに、おっしゃるとおり死因云々よりも病に望んでの蓮祖のお姿にこそ、心うたれるものがあります。長年の病苦を乗り越え、越し方を恬然とみて、その中で供養に感謝し、弟子たちを励まし続けたお姿がしのばれます。
「みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候ひけるを、きうだち(公達)にす(守)護せられまいらせ候ひて、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。」
独歩さんが引用されたこの一節と同様に、入滅の前年に記されたこの一節も、心に残っています。
「ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かんかうをはたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るににたり」
上野殿母尼御前御返事 【C0・弘安四年一二月八日・南条時光母尼】
1569
:
愚鈍凡夫
:2004/07/19(月) 16:36
雖念さん、いつもながらの丁寧なレス、有り難うございます。 m(__)m
ああっ、忘れてました。
>>1565
:で犀角独歩さんが紹介されている「現代語訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)」のダイジェスト版が下記のHPで読めます(少々長いです)。興味のある方はどうぞ。
ブッダ最後の旅 1『大パリニッバーナ経』等より
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan01.html
#01
1570
:
愚鈍凡夫
:2004/07/19(月) 20:14
あれれっ、ずれてる。 (‥ゞポリポリ
ブッダ最後の旅 1『大パリニッバーナ経』等より
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan01.html
1571
:
菱村正敏
:2004/07/19(月) 21:59
日蓮は60まで生きたのですから、当時では大往生でしょう。また死因は、
生まれ落ちたからでしょう。
1572
:
犀角独歩
:2004/07/20(火) 11:35
― 2、3日の逗留のつもりが、病気悪化して出立できなくなり、10月13日辰の刻(午前8時前後)、旅の空で世を去ったのである。…日蓮はまだ61歳であった。
「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病もさわりもあるべからず」
と豪語した彼(日蓮)も、その題目を唱えて、わが身に奇跡は起らなかった。 ―(森山諭著『創価学会の間違いをただす』日本イエスキリスト教団東京協会出版部発行 P27)
実に不快な記述です。御書の引用は好い加減で、真跡を遺さない『経王殿御返事』「南無妙法蓮華経は師子吼(く)の如し。いかなる病さは(障)りをなすべきや」を言うのでしょうし、斯く言うこの教団が仰ぐイエスも、信仰者以外から見れば、若くして磔刑に遭い、死期に臨んで神に恨みを言ったではないかと言い返したくもなりますが、まあ、それは置きます。『立正安国論』に法華経による国家祈祷を提唱し、また、個人に充てては「病息消滅・不老不死」を言い、しかし、その当人が病にあって死せば、このような言われようになるものかも知れません。これが現実です。これは他宗から見た一般的な見方であるとは思います。
わたしは、雖念さん、また愚鈍凡夫さんが、その死因について考えるような率直な思惟に賛同します。何故ならば、事実を知りたいからです。建長5年より三十星霜を経る蓮師、末期(まつご)に何とも人間味溢れる心境と名文を遺した落涙を禁じ得ません。
1573
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:44
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その1
1222(貞応 1)年
5月 4日 地震あり。(吾妻鏡26)
7月23日 未刻地震あり。(吾妻鏡26)
8月 2日 彗星戌方に見ゆ。軸星大きく半月の如し白色、光芒赤い。1丈7尺余。
13日 今暁に百日泰山府君御祭を始める。(吾妻鏡26)
10月 5日 申刻地震あり。(吾妻鏡26)
11月 1日 子刻大地震。4日酉刻にも地震あり。(吾妻鏡26)
1223(貞応 2)年
2月 1日 地震あり。(吾妻鏡26)
5月12日 地震あり。(吾妻鏡26)
10月26日 地震あり。(吾妻鏡26)
1224(元仁 1)年
2月 3日 申刻地震あり。(吾妻鏡26)
4月25日 子刻地震あり。(吾妻鏡26)
5月 8日 寅刻大地震あり。卯刻に余震。(百錬抄13)
6月 1日 子刻地震あり。(吾妻鏡26)
9月17日 卯刻祈祷を行う。(吾妻鏡26)
11月 9日 亥刻地震あり。(吾妻鏡26)
1225(嘉録 1)年
1月15日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
3月11日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
5月17日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
10月11日 地震あり。(吾妻鏡脱漏)
1226(嘉録 2)年
3月29日 辰刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
4月27日 未刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
6月26日 申刻地震、28日にかけて地震続く。(吾妻鏡脱漏)
7月 1日 亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
7月17日 暑熱。未刻小地震あり。30日にも地震2回。(明月記)
8月 7日 亥刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
10月 6日 子刻地震あり。(吾妻鏡脱漏)
12月24日 鳴動の後大地震。建造物破損は少ない。25、28日にも鳴動余震。(明月記)
1227(安貞 1)年
1月14日 午刻地震、15日2回地震。(吾妻鏡脱漏)
2月 3日 大風、さらに鳴動し地震。18日夜半地震。(明月記)
3月 7日 戌刻大地震。門扉築地倒壊多数、地割れ生ず。15日余震。24日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
4月13日 戌刻、26日亥刻地震。29日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
5月11日 未刻地震。(吾妻鏡脱漏)
8月13日 祈祷行われる。(吾妻鏡脱漏)
9月 3日 丑刻大地震。9日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
11月 6日 酉刻大地震。15日、16日、24日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
12月 1日 戊刻地震。13日祈祷。(吾妻鏡脱漏)
12月10日 天変により改元。(一代要記85)
1574
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:45
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その2
1228(安貞 2)年
4月 7日 地震あり。(吾妻鏡27)
5月15日 地震あり。(吾妻鏡27)
9月 8日 地震あり。(吾妻鏡27)
12月 6日 地震あり。(吾妻鏡27)
1229(寛喜 1)年
2月 5日 申刻地震。17日戊刻大地震。(吾妻鏡27)
3月 5日 天災飢饉により改元。(一代要記85)
3月 8日 寅刻地震。28日酉刻地震。(吾妻鏡27)
6月14日 未刻地震。26日未刻地震あり。(吾妻鏡27)
8月12日 酉刻地震あり。(明月記)
9月20日 地震あり。(吾妻鏡27)
10月25日 未刻地震あり。(吾妻鏡27)
11月30日 子刻地震あり。(吾妻鏡27)
12月19日 亥刻地震。21日、26日祈祷。(吾妻鏡27)
1230(寛喜 2)年
閏1月13日 地震、19日暁地震。22日にも地震あり、大慈寺の後山崩れる。(明月記)(吾妻鏡27)
2月20日 丑刻地震あり。(吾妻鏡27)
7月29日 早旦小地震あり。(明月記)
11月 8日 大進僧都観基、御所に参内して云う。去月16日夜半陸奥国芝田郡に石が雨のように振る。
内ひとつは、将軍家に進呈する。大きさ柚子の如く、細長い。(吾妻鏡27)(当代記※)
1231(寛喜 3)年
4月15日 未刻地震。27日申刻にも地震あり。(吾妻鏡28)
5月 7日 地震あり。(吾妻鏡28)
7月15日 日出頃地震あり。室宿の火神動くという。(明月記)
8月 8日 冬の如く寒し。(本朝年代記22)
11月 6日 地震あり。(立川寺年代記)
1232(貞永 1)年
1月 2日 大地震。(立川寺年代記)
9月18日 地震あり。(吾妻鏡28)
閏9月 8日 彗星東方に出現。2丈余。(百錬抄13)
10月 4日 後堀河天皇、彗星の変により四条天皇に譲位。(百錬抄13)
1233(天福 1)年
この年、地震により改元。(古事類苑)
2月 8日 小地震。(明月記)
9月27日 夜半に地震あり。(明月記)
1234(文暦 1)年
2月 8日 大地震。(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
9月16日 暁月前大地震。(明月記)
11月 5日 天変地震により文暦に改元。(一代要記86)
12月28日 霧島山噴火、霊泉「天の井」涸れる。(震災予防調査会報告86)
1575
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:46
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その3
1235(嘉禎 1)年
3月 1日 京で地震。星宿龍神動くという。14日にも地震。(明月記)
3月13日 小地震の後、16日大地震あり。(吾妻鏡30)
4月13日 地震、28日、29日、30日にも地震あり。(吾妻鏡30)
5月 1日 地震、3日から5日にかけてと7日にも地震あり。(吾妻鏡30)
5月 8日 天変地妖のため祈祷・徳政を行う。(吾妻鏡30)
閏6月22日 地震あり。(吾妻鏡30)
9月 1日 大地震。文治以後最大という。(帝王編年記24)
9月19日 改元。地震頻発のためか。(一代要記86)
9月29日 地震あり。(吾妻鏡30)
10月20日 地震あり。(明月記)(歴代皇紀 4)
1236(嘉禎 2)年
2月28日 地震あり。(吾妻鏡31)
4月 1日 地震あり。(吾妻鏡31)
6月11日 地震。22日と27日にも地震あり。(吾妻鏡31)
1237(嘉禎 3)年
2月 1日 大地震。(皇年代私記)
3月11日 大地震。(歴代皇紀 4)
4月 7日 酉刻地震あり。(吾妻鏡31)
6月 1日 卯刻大地震。元暦以後最大という。(百錬抄14)
8月 4日 辰刻大地震あり。(吾妻鏡31)
9月11日 地震。23日から24日にかけても地震あり。(吾妻鏡31)
1238(暦仁 1)年
11月23日 天変により改元。(百錬抄14)
11月29日 地震あり。(吾妻鏡32)
12月 9日 地震あり。(吾妻鏡32)
12月26日 阿蘇山噴火。黒煙昇り、大小の石が降る。(阿蘇郡誌)
1239(延応 1)年
1月 2日 戌刻、彗星申方に出現。芒気3尺、辰巳を指す。色白赤。前年末から見えたとも云う。(吾妻鏡33)
1月 4日 彗星の芒気4尺。色赤弱くなる。7日歳星の傍らに出現。
芒気は艮方を指し5尺。軸星は大きく太白に似る。(吾妻鏡33)
1月 8日 天変御祈祷護摩を行う。9、10日天候不順で目撃されず。11日戌刻、彗星辟一星を犯す。(吾妻鏡33)
1月15日 評定始、彗星について論じる。17日鶴岡宮で僧100人に仁王百講を行わせ、将軍も参す。
祈祷筥根本地護摩(圓親法印)、伊豆山本地護摩(賢長法印)を行う。
1月18日 彗星奎近に出現。変異祈祷。20日祈祷と護摩を行う。17日より20日にかけて光芒盛ん。(吾妻鏡33)
1月26日 戌刻彗星王艮第五星を犯す。光芒薄くなる。27日将軍上洛を思召すが、窮民慰撫のために延引。(吾妻鏡33)
2月 6日 夜になって彗星出現。14日に天文道等終夜彗星観測。彗変内天に入るという。(吾妻鏡33)
2月 7日 天変が相次ぐため、改元。(一代要記86)
4月16日 大地震。(吾妻鏡33)
8月17日 加賀白山噴火し、白山権現焼亡。(百錬抄14)(本朝年代記 2)
11月12日 大地震。(吾妻鏡33)
1576
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:48
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その4
1240(仁治 1)年
1月13日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
2月22日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
4月18日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
8月21日 地震あり。(吾妻鏡33)(平戸記)
この年、阿蘇山噴火。池水45丈逆上する。(震災予防調査会報告86)
1241(仁治 2)年
1月14日 戊刻地震あり。(吾妻鏡34)
2月 7日 巳刻大地震。建暦年中の地震の如き。和田義盛謀反の前兆といわれるようになる。余震続く。(吾妻鏡34)
3月 6日 辰刻地震あり。15日にも地震あり。(吾妻鏡34)
4月 3日 鎌倉で地震。大津波で由比浜大鳥居内拝殿が流出。船十余艘が破損。(吾妻鏡34)
7月 4日 地震。(吾妻鏡34)
10月13日 亥刻地震。(吾妻鏡34)
1242(仁治 3)年
2月 地震あり。(皇年代略記)
6月 8日 寒気冬の如し。(平戸記 9)
1243(寛元 1)年
5月23日 大地震。(吾妻鏡35)
1244(寛元 2)年
1月 5日 大地震。(如是院年代記)
7月 2日 地震あり。(百錬抄15)(歴代皇紀 4)(皇年代略記)
9月11日 地震あり。(吾妻鏡36)
1245(寛元 3)年
1月18日 地震。20日にも地震あり。(吾妻鏡36)
2月 1日 地震あり。(平戸記14)
3月 1日 申・子両刻に地震。9日にも地震。(吾妻鏡36)(百錬抄15)
3月 1日 寅刻彗星室壁の間に現れる。長さ2尺。京からも使者が来て同様の事を伝える。
11日と16日に祈祷。天地災変祭を行う。19日にも祈祷。七座泰山府君祭を行う。(吾妻鏡36)
5月 この月地震多発。(百錬抄15)(平戸記16)
6月 8日 地震あり。(平戸記16)
7月19日 雹が降る。(平戸記17)
7月26日 丑刻大地震。家屋多く破損。27日記録もあり。(百錬抄15)(平戸記16)(興福寺略年代記)
8月11日 地震あり。(百錬抄15)
11月 大地震。(立川寺年代記)
12月13日 地震。20日、21日にも地震。(吾妻鏡36)(立川寺年代記)
1246(寛元 4)年
1月 2日 地震あり。(立川寺年代記)
1月 5日 地震あり。(葉黄記)
1月 6日 大地震。(百錬抄15)
4月 2日 地震3回あり。(百錬抄15)
4月 7日 霜、霰が降る。(百錬抄15)(葉黄記)
4月12日 気象異変により、二社に奉幣する。(百錬抄15)(葉黄記)
5月 7日 地震。24日にも地震あり。(吾妻鏡37)
7月 2日 地震。5日にも地震あり。(吾妻鏡37)
11月 地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)
12月 地震あり。(百錬抄15)(吾妻鏡37)
1577
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:48
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その5
1247(宝治 1)年
3月13日 地震あり。(百錬抄16)
6月 5日 鎌倉と常陸に雪が降る(あるいは翌年か)。(本朝年代記26)
6月 9日 地震あり。(編年記25)
6月10日 地震、19日にも地震あり。(百錬抄16)
10月28日 大地震。(吾妻鏡38)
11月26日 大地震。(吾妻鏡38)
1250(建長 2)年
5月 涼気のため、人多く綿を着る。(岡屋関白記 3)
7月18日 大地震あり。余震数十回。(吾妻鏡40)
1251(建長 3)年
1月19日 2回地震あり。(百錬抄16)
6月26日 氷雨が降り、冷気冬の如し。(吾妻鏡41)
7月18日 鎌倉に雪が降る。26日、翌8月3日にも雪。(本朝年代記)
9月17日 地震あり。(岡屋関白記 2)
10月23日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡41)
1252(建長 4)年
5月 7日 鎌倉で地震あり。(吾妻鏡42)
7月23日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡42)
1253(建長 5)年
2月25日 午刻地震あり。(吾妻鏡43)
4月 3日 申刻雷雨、地震あり。(吾妻鏡43)
6月 3日 大地震あり。10日にも大地震があり、余震2回。(武家年代記下)(吾妻鏡43)
9月16日 地震あり。17日とも言う。(百錬抄16)
1254(建長 6)年
2月19日 地震あり。(百錬抄17)
閏5月11日 地震。19日にも地震あり。(歴代皇紀 4)
12月12日 地震あり。(歴代皇紀 4)
1255(建長 7)年
12月12日 地震あり。6年とも言われる。(皇年代略記)
1257(正嘉 1)年
2月23日 大地震あり。社、舎、堂倒壊。火災により焼死者あり。地割れで涌水あり。(和漢合運指掌図)(本朝年代記 2)
5月18日 子刻大地震あり。(吾妻鏡47)
8月23日 戌刻大地震あり。神社仏閣破損多数。山崩れ、家屋倒壊、地割れ涌水あり。
中下馬橋辺の地面が割れ青い炎が上がる。祈祷を行う。(吾妻鏡47)(本朝地震記)(24日説:如是院年代記)
9月 4日 地震あり。先月の地震の余震か。(吾妻鏡47)
11月 8日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡47)
1578
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:49
日蓮の時代と天変地異(1222〜1286) その6
1258(正嘉 2)年
4月22日 地震あり。(吾妻鏡48)
6月24日 寒気、冬の如し。(吾妻鏡48)(暦仁以来年代記)
12月16日 地震あり。(吾妻鏡48)
1259(正元 1)年
3月12日 地震あり。(一代要記88)
1260(文応 1)年
3月25日 地震あり。(吾妻鏡49)
8月 5日 地震あり。(吾妻鏡49)
1263(弘長 3)年
6月16日 冷気秋天の如し。諸人綿衣を纏う。(吾妻鏡51)
1265(文永 2)年
1月15日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
3月 9日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
10月15日 阿蘇山噴火する。(阿蘇郡誌)
12月14日 今暁彗星東方に見ゆ。国継、晴平、晴成彗星勘文を献ず。16日将軍変異を問う。
18日彗星2尺余。27日夕彗星西方室宿に見ゆ。2尺色白。(吾妻鏡52)
1266(文永 3)年
1月 1日 西方に彗星見ゆ。(吾妻鏡52)
2月 1日 泥、雨のように降る。(本朝年代記 1)
6月24日 鎌倉で地震。(吾妻鏡52)
1268(文永 5)年
5月 4日 翌日にかけて地震。(吉続記)(本朝年代記 2)(編年記26)
1269(文永 6)年
7月 阿蘇山御池煙を発す。(阿蘇郡誌)
11月16日 吉二宮3回振動する。(一代要記89)
1270(文永 7)年
11月15日 阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
1272(文永 9)年
3月10日 阿蘇山噴火。砂礫四方に散り、池水湧出す。(阿蘇郡誌)
11月 1日 阿蘇山噴火し、火石降下する。(震災予防調査会報告86)
1273(文永10)年
7月 下旬、阿蘇山噴火。(阿蘇郡誌)
この年、夏より地震数回。(増鏡10)
1274(文永11)年
この年、阿蘇山噴火し、寶池が涸れ、田野が荒廃する。(阿蘇郡誌)
1281(弘安 4)年
7月30日 九州地方北部で暴風雨。日本遠征中のモンゴル軍は、被害を出して退却。
閏7月 阿蘇山噴火し、寶池鳴動。火石が降る。(阿蘇郡誌)
1579
:
愚鈍凡夫
:2004/07/20(火) 19:53
クソ長いレスになりましたが、ご参考までに。 m(_ _)m
資料は下記のHPから抜粋しました。
天変地異年表中世
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm
1580
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 17:07
>>1579
愚鈍凡夫さん
貴重な御資料の紹介有難う御座います。さて私は『立正安国論』の「日月薄蝕の難」
に注目しまして、先日シェスタさんから紹介された天文ソフトから日食の日時を調べ
ましたところ、立宗宣言の1253年までのたった10年間に関東地方に4回も食8
0%を越える日食があったことが分かりました。特に1249年5月14日、11時
43分の日食は現在の東京の位置でで98%欠けていますから皆既日食であったと言
ってもいいでしょう。また立宗宣言の前年の1252年3月12日、7時1分の日食
も92%欠けていますからこれも皆既日食と言っていいと思います。なお20世紀に
は関東地方で見られる80%を越える日食は1918年6月9日、1943年2月5
日の日食の2回しかありません。奇しくも1963年の今日7月21日の皆既日食は
根室でしか見られず、東京では最大87%まで欠けた午前4時9分にはまだ太陽も月
も昇っては来ていませんでした。太陽は4時41分、月は4時42分に昇り、もう日
食は終わりにさしかかっていました。13世紀には関東地方では80%を越える日食
は10回もありました。また日蓮大聖人が立宗宣言をされる前15年間には1237
年12月19日14時10分、88%食の日食を合わせると5回も日食が起きていま
す。大聖人はこのような現象を末法の事実と受けとめられ、立宗宣言をされたのかと
思います。この15年間の関東地方の日食の回数は極めて多かったようです。愚鈍凡
夫さんが紹介された『天変地異年表中世』とシェスタさんが紹介された「金井式天文
シュミレーション」を対比されて日蓮大聖人の思考の推移を科学的に考察されてはど
うかと思います。私がぶつかったのはその日の安房小湊の気象です。気象庁には19
81年からの東京の天候の記録はあるとのことですが、それ以前まして鎌倉時代のこ
とは古文書で調べるしか方法がないとのことでした。でも例え曇りの日であっても、
80%以上太陽が欠けたならばその異変には人は気付く筈だと思います。相当濃い雲
が掛かっていたとか、雷雨であったとか、そのような時には気付かないこともありま
しょうが、1237年12月19日、1243年3月22日、1245年7月25日、
1249年5月14日、1252年3月12日という日を考えますと、1245年と
1249年以外は雷雨であった可能性は極めて低いと思います。大聖人の末法の法華
経の行者としての確信はこのような自然現象との関係から強められたのではないかと
思います。
1581
:
犀角独歩
:2004/07/21(水) 17:16
> 1580
横レス失礼します。
ご指摘の点、実に興味深く拝読しました。
これが事実であれば、仰るとおり、蓮師は「日月薄蝕の難」を実際のことと、危機感を持ってご覧になったことは想像に難くありません。
実に重要なご指摘であろうかと存じます。
1582
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 17:48
1252年3月12日(ユリウス暦)は建長4年2月1日に当たります。日蓮大聖人
の御生誕の日は承久4年2月16日、ユリウス暦1222年3月30日、グレゴリオ
暦4月6日です。大聖人はこの建長4年2月1日の丁度30年前に誕生されています。
大聖人はこの日の朝の日食を御覧になったのではないかと思います。自分が産まれた
丁度30年後の2月の1日に日食が起こったことが、立宗宣言の引き金になったのか
と思います。皆さんどう思われますか?あくまで科学的に冷静に日蓮大聖人と私達の
宗教を考えていきたいと思います。
1583
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 18:18
>>1581
犀角独歩さん
御返事有難う御座います。シェスタさんから紹介されなければこのようなことは、
全く分からないままであったのですが、建長4年2月1日1252年3月12日
(ユリウス暦)、の日食の最大食の時間は午前7時1分でした。日蓮大聖人はそ
の翌年の建長5年4月28日、1253年5月26日(ユリウス暦)の朝に太陽
に向かって南無妙法連華経と唱えらたそうです。それが事実ならば前年の朝の日
食を想定されて世の中を不幸から救わなければいけないと思われていたのかも知
れません。大聖人が何故朝に太陽に向かって南無妙法連華経と唱えられたかとい
う素朴な疑問も科学的に解明されていく時代が来るのではないかと思います。
1584
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 18:30
>>1581
犀角独歩さん
ここから私はダウンロードしました。
↓
http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se049708.html
1585
:
犀角独歩
:2004/07/21(水) 18:42
平和創価さん:
1582、3もまた実に目を惹かれたご指摘でした。
一つ質問させてください。
蓮師は、建長6年6月25日に保田妙本寺に遺る不動・愛染感見記を認めています。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/124.html
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/125.html
***
生身愛染明王拝見
正月一日日蝕之時 {梵字にて記入あり}
{画}
大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏
{下段}
生身不動明王拝見
十五日より十七日に至る {梵字にて記入あり}
{画}
大日如来より日蓮に至る二十三代嫡々相承
建長六年六月二十五日
日蓮授新仏
***
ここに「正月一日日蝕之時」とあるのですが、文脈からすれば、建長6年(1254)の正月1日だと思うのですが、このときに日食はあったのでしょうか。
1586
:
愚鈍凡夫
:2004/07/21(水) 21:16
平和創価さん、レス有り難うございます。
平和創価さんのレスの中の日付を旧暦に直すと下記のようになるかと思うのですが、
ユリウス暦------旧 暦
1237年12月19日→嘉禎3年12月1日
1243年3月22日→寛元元年(仁治4)3月1日
1245年7月25日→寛元3年7月1日
1249年5月14日→建長元年4月1日
1252年3月12日→建長4年2月1日
なかなか暗示的で面白いですね(日食は新月の日に起きるわけですから当然ですが)。
京の貴族なんかは日記を記すのを生業にしていた者たちもいたわけですから(天文学者としての陰陽師もいたわけです)、何らかの形で記録に残っていると思うのですが、鎌倉時代の日食に関する資料が乏しいのはどういうわけでしょうか。不吉であるから、権力によって削除されたのでしょうか。
日本で一番古い日食の記録は247年3月24日(西暦)の日食ですよね(魏志倭人伝)。シュミレーションでは九州地方では完璧な皆既日食だったとか(邪馬台国九州説の傍証)。これが俗に言う、天照大神の天石戸伝説になるわけですよね。
歴史に残らなかったのは何故だと思いますか。
1587
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 21:43
>>1585
犀角独歩さん
御返事有難う御座います。天文シュミレーションのいかなる方法をもっても日食は
出ませんでした。そうなると文献は虚偽となりますか。難しい問題になりましたね。
1588
:
犀角独歩
:2004/07/21(水) 21:54
1587 平和創価さん:
やはりそうですか。わたしなりにも皆さんがご教示くださったソフトを使って調べてみたのですが、どうもこの日蝕の記事は証憑性がないと思いました。
1589
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/21(水) 21:56
>>1586
愚鈍凡夫さん
これは部分日食でしたよ。皆既に至る前に日没していますよ。247年3月24日
をシュミレーションしましたが。私は「ディスタントサンズ2」と「星空博士」
で見ましたが。ステラナビゲータV6ではできすか?私は「バーナード星」を体験
版で検索したのですが出てきませんでした。まあお互いに切磋琢磨していきましょう。
1590
:
愚鈍凡夫
:2004/07/21(水) 23:55
平和創価さん、247年3月24日(3月1日)の日食は中国で観察された記録を輸入したものですよね(「魏志倭人伝」中国での日食観測は夕方ではなく昼間であった)。面白いことに明くる年(248年)9月にも日食があったんですよね。これは記録に残っています。247年は実際には日没時、248年は夜明け頃(中国では日食が終わったあとに夜明けとなったため、中国側には日食の記録がない)。面白い対比ですね。卑弥呼はこの日食が原因で殺害されたのではないかという説があるそうです。
> 九州地方では完璧な皆既日食だったとか
済みません。
「すなわち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。故、くにの内常闇にして、昼夜の相代も知らず。」
このことと、邪馬台国九州説が頭にあったものですから。
西暦247年3月24日と248年9月5日に皆既日食があったことが今日では産能大学教授安本美典氏らによって天文学的に証明されているそうです(完璧な皆既日食ではないようですが)。
ところで、鎌倉時代の日食の記録が見つかりませんね。 ( ̄〜 ̄;) ウーン
1591
:
空き缶
:2004/07/22(木) 01:15
横レスです。
話題からそれますが、「不動愛染感見記」は以前、某掲示板にて日蓮宗の御僧侶が疑義を表明されていました。
その御僧侶曰く、「日蓮」と名乗り始めて間もない頃の著作であるにもかかわらず、晩年近くの筆跡と照合し真筆判定されていることを理由とされていました。
あわせまして、曼荼羅本尊の場合と同じく、年月日の「年」と「月日」の間に「干支」が入っていない事は、大きな疑問でもあります。
1592
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 01:33
空き缶さん、ちょっと、お久しぶりです。
どなたの説か知りませんが、なかなか説得性がありますね。
わたしはこの書で、いちばん疑問に思うのは「日蓮授新仏」の5文字です。
ここで言う「新仏」とは相承を受けた新しい弟子を言うのだと思います。故に日蓮が大日如来より23代目の相承を受けたものと解されてきました。
しかし、「日蓮授新仏」とは単純に漢文の訓読すれば「日蓮は新仏を授けた」とまったく逆の意味にしかなっていないません。つまり、この書は日蓮が誰がしかに新仏を授けた証であっても‘授けられた’証にはなっていません。
こんなはじめの一歩で躓いているように思えます。
1593
:
シェスタ
:2004/07/22(木) 08:33
平和創価さんへ
仏法でいうところの三災七難に、通常の日蝕・月蝕が入っているのかどうかは
知りませんが、それよりも、蝕でない日に起こる蝕を、仏法では重要視してい
るのではと推察しています。以下は、その文証です。
●唱法華題目抄
「此の時日月度を失ひ、時節もたがひて、夏はさむく冬はあたたかに、秋は悪風吹き
赤き日月出で、望朔にあらずして日月蝕し、或は二つ三つ等の日出来せん。大火大風
彗星等をこり、飢饉疫病等あらんと見えたり。」
●安国論愚記
薄蝕恒無く文。
『従義に云く「体現じて光なきを薄と為し、正虧けて体を損ずるを蝕と為す」と云云。
晦朔の日蝕、望日の月蝕はこれ恒なり。臨時の食あり、これ恒なきなり。』
とあるように、新月や満月の日に日蝕・月蝕が起こるのは常の事だが、望朔以外の日に、
蝕が起こっている不思議をあげられ、これらは三災七難の「薄蝕恒無く」に該当すると
言われています。
1594
:
愚鈍凡夫
:2004/07/22(木) 10:04
鎌倉時代の日蝕の記録(「吾妻鏡」より)
建久9年(1198)1月1日 日蝕(明月記)
建保2年(1214)9月1日 壬成 晴 巳午兩時日蝕正見五分
貞應2年(1223)9月1日 庚子 今曉甚雨及日中翎 天未二尅日蝕正現三分蝕
寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず
建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す
平和創価さん、下記は「吾妻鏡」の記録です。
嘉禎3年(1237)12月1日 戊寅 雨降る 日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。
寛元元年(1243)3月2日(1日の記録なし) 戊寅 天晴 亥の刻若君の御祈り。御所に於いて七座の泰山府君祭を行わる。定昌・泰貞・晴賢・宣賢等の朝臣、国継・廣資・以平これを奉仕す。秋田城の介・甲斐の前司・能登の守・周防の前司等これを沙汰す。今日京都の使者到着す。改元の詔書を持参す。去る月二十六日仁治四年を改め寛元元年と為す。
寛元3年(1245)7月1日 癸巳 天霽 日蝕現ず
建長元年(1249)4月1日 記録なし
建長4年(1252)2月1日 乙卯 天晴 巳の一点日三分正現す
「吾妻鏡」の記録を信用すれば、蓮祖が日蝕を見た可能性は寛元3年(1245)7月1日と建長4年(1252)2月1日ではないでしょうか。小生は、『天文シュミレーション」系のソフトは持っていませんので、「ステラナビゲーター」の精度は分かりませんが、天文ファンの間では定番ソフトのようです。また、複数のソフトでシュミレーションする方が多いようですね。
それは、実際の月が楕円軌道で、29.3〜29.8ぐらいの誤差があり、1日が厳密には新月でなかったり、15日が必ずしも満月でなかったりするからだと思います。
犀角独歩さん、
建長6年(1254)1月1日、鎌倉は朝から雪で、午前10時頃に晴れてきたようですね。
「一日、乙亥(いつがい)。今日[土宛]邗(相州御沙汰)。土御門宰相中将上御簾。」とあり、例年通りのセレモニーが恙なく行われたみたいですから、日蝕はなかったようですよ。
参考資料
吾妻鏡目次
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
1595
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 10:12
空き缶さん、先の不動・愛染感見記のことなのですが、わたしは、この書の筆跡で言えば、「日蓮」の二文字に注目します。「日」字もそうですが、特に「蓮」の之繞の書き方は後期の蓮師の筆とはまったく違っています。その意味で、この書を晩年の蓮師の筆で筆跡鑑定したというのは少し頷けません。
また、干支が記されていないことからの疑義を挙げられていましたが、建長5年(1253)12月9日『富木殿御返事』から、正元元年(1259)7月17日『武蔵殿御消息』では日付ばかりで年すら記されていません。建長6年の段階で干支が記されないことは鑑定の基準にならない気がしますが、この点はどうでしょうか。
この書の全体的な印象はしかし、消息文、勘文というより、何か証文のような体裁に見えるわけです。先にも記しましたが、「日蓮授新仏」(日蓮は新仏を授ける)という最後の件からしても、そのように思えます。わたしは、これら相承・伝授証文の原本を見たことがありませんので断定的に申し上げるわけではないのですが、高座説法から1年余を経た年月の入る同書は、たとえば、蓮師が弟子に与えた允可文などの類であった可能性はないのでしょうか。もちろん、この書が真筆であればの話ですが。どうでしょうか。
1596
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 10:30
愚鈍凡夫さん:
> 建長6年(1254)1月1日…日蝕はなかった
有り難うございます。
こうなると愛染感見記が真筆であれば、記される日蝕は「薄蝕恒無」こととなるのでしょうか(笑)
まあ、この可能性も低いでしょうね。
『富士年表』では
建長 6 甲寅 後深草 北条時頼 御歳 33歳
1.1-1.15 生身の愛染・不動を感見模写
と模写としています。ここで石山が「模写」というのは愛染・不動を絵に描いたことをいうのでしょうね。文面からすれば、「日形」(日蝕)に愛染を感見、「月形」に不動を感見となるわけですか。後者は「十五日より十七日に至る」とありますが、これは特に月蝕である必要はないのでしょうか。シンメトリーが悪い気がします。
この書の真偽、日蝕の有無はさておいて、いずれにしても愛染感見に日蝕が必要な条件であったというバックグラウンドはあったのであろうと想像できます。まあ、この辺当たりまでしか真実には近づけないでしょうか。
1597
:
空き缶
:2004/07/22(木) 11:30
犀角独歩さん、こんにちは。
蓮祖後年の著作と比較して云々は、以下よりの転載です。
******************************************
「日蓮宗的学説攷究」未定稿 大川善男
【不動・愛染感見記】
『真蹟集成』によると、この遺文は次の如く、 (図絵・略)
と二紙から成っている。
しかるに、『定本遺文』(第一巻十六頁)外部欄外には、愛染明王拝見記を「七行」、不動明王拝見記を「八行」と注記している。だが、右の通り(図絵)原本は愛染は十行、不動は十一行に記されている。また『定本遺文』は「日虫虫」を「日蝕」と活字化している。そして『定本遺文』を証本として、「二つの感見記のうち、愛染明王のそれには、日蝕中の太陽のなかに感見した愛染明王の姿の図絵が、不動明王のそれには、満月中に感見した明王の姿の図絵が、それぞれ描かれている。」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)と説いている。しかし「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味の正しい漢字であって、「日虫虫」とは「日が明るい」という意味であって「昼日中」のことである。従って「日虫虫」を「日蝕」と理解して「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と説いた論考は正しくない。
いわゆる、この感見記の年記は建長六年であるが、この年(1254)日蝕ではない。建長年中に日蝕があったのは、同元年五月十四日(旧暦六月六日)同七年三月一日(旧暦四月八日)の二回である。ならば日蓮が誕生した貞応元年(1222)から建長六年(1254)の間の日蝕を調べると、貞応二年(1223)九月二十六日、延応元年(1239)十二月十九日、寛元元年(1243)三月二十二日、同三年(1245)七月二十五日、建長元年(1249)五月十四日の五回の日蝕(※国立三鷹天文台調べ)があったが、正月一日に日蝕があったことは無く、「日蓮が正月一日の日蝕時に愛染明王を感見した」というのは単なる虚妄に過ぎない。また、「この感見記は日蓮の現存真蹟中最古のものであるが、後年の筆跡からしても、確かに日蓮の真蹟としてもよいものである」(高木豊著「二人の日蓮−改稿・『大崎学報』135号1982)という説もある。だが、若き頃の筆跡を後年の筆跡と比べて真偽を判定するのは正しい方法だろうか。要は、この御書にはいろいろな疑問があっても、これが重要文化財に指定されているために、現在では何ら疑われることなく日蓮の御書として扱われている。しかし、重要文化財に指定されているといえども、重要文化財に指定されたものの中にも実際には偽書はある。故に、重要文化財に指定されているからといっても完全なものばかりではない。
例えば、重要文化財に指定されていた「永仁の壺」が、現在陶芸家で先頃亡くなった加藤唐九郎氏の作品であった如くものもある。いわゆる、指定品の中にはそうしたものが実際にあり、それは文化財が完全に科学的検査を経て真物と解って指定されたものばかりではなく、真偽委員の眼力のみで真物と判定・答申された指定品もある。そういう指定品の中に偽物があり、文化財に指定された日蓮聖人の御書は、凡そ一部の権威による眼力で真蹟と判定されたもので、科学的に鑑定されたものは一点も無い。
従って、いくら重要文化財に指定されていると雖も、該『不動・愛染感見記』も完全に日蓮聖人の真蹟と断定できるものでなく、偽書の疑いが全く無いわけではない。
******************************************
尚、日蝕に関してもほぼ皆様と同様の疑問をもたれていたようです。
―転載開始―
「不動・愛染感見記」について。
開宗後に、大日如来よりの相承云々とあるのは、どうも腑に落ちませんね。
講習時の配付資料を見ると、たしかに「日虫虫」のようです。
「虫虫」は「蝕」の異体ではなく、「アキラカ」とか「オオシ」という意味であるなら、大川義男博士の指摘のように「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいですね。
国立三鷹天文台調べでは、建長六年正月一日は日蝕でなとの事からも「日蝕の太陽の中に愛染明王を感見した」と云う従来の説明はおかしいと云う事になりますね。
「不動・愛染感見記」はどうもすっきりしないですね。
―転載終り―
1598
:
愚鈍凡夫
:2004/07/22(木) 11:51
日蝕の中に「愛染明王」を感見し、満月の中に「不動明王」を感見したということですよね。
絵の中に「カラス」と「ウサギ」がそれぞれ描かれているのが、何となく、わざとらしい感じがするのですが、まぁ・・・・・知識による刷り込みと、神秘体験の合作なんでしょうか・・・・・。
日蓮という人物のイマジネーションの豊かさの成せる技なんでしょうか・・・・・ね。
要伝寺HP_日蓮画廊
http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents35.html
1599
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 11:54
空き缶さん、資料のご呈示有り難うございました。
記されているところ、納得がいきました。筆者の真摯な姿勢と文章に感銘を受けました。それを引用された空き缶さんにも敬意を表します。
たいへんに参考になりました。深く御礼申し上げます。
日[虫*虫] は、日「あきらか」であれば、煌々とした日輪のなかに愛染を見、また煌々とした満月に不動を見たということですか。
なるほど。納得できました。1596の「日蝕・バックグラウンド」発言は撤回させていただくものです。
1600
:
愚鈍凡夫
:2004/07/22(木) 12:18
空き缶さん引用の下記の表記は総てユリウス暦ではないでしょうか(かっこ内は旧暦)。
貞応二年(1223)九月二十六日(9月1日)
延応元年(1239)十二月十九日(11月23日)?
寛元元年(1243)三月二十二日(3月1日)
同三年(1245)七月二十五日(7月1日)
建長元年(1249)五月十四日(4月1日)
「あ〜、ややこし」 (-。-;)
1601
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 12:57
愚鈍凡夫さん:
> 吾妻鏡…蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立
というのは、日蝕の時分に愛染に係る仏像を造立したという意味でしょうか。
そうなると、日蝕と愛染は関係があることになりますか?
1602
:
空き缶
:2004/07/22(木) 13:21
愚鈍凡夫さんこんにちは。
>ユリウス暦・・・けっこうはまってしまいましたね。
1603
:
愚鈍凡夫
:2004/07/22(木) 13:58
犀角独歩さん、
何故、愛染金剛如法佛(五指量:二寸五分)のミニチュア(白檀製守本尊)を造立したのでしょうね(この日は日蝕はなかった)。
これは想像ですが、「金剛薩た=大日如來=金剛愛染菩薩」ですから、火炎の日輪で日蝕の邪気を払うという意味合いではないでしょうか。
1604
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 14:31
愚鈍凡夫さん、度々済みません。
> この日は日蝕はなかった
「雨降る 日蝕正現せず」というのは、、晴れていれば日蝕が見られたのに雨が降ったので見られなかったというのが『吾妻鏡』の記述ですよね。
それとは別に愚鈍凡夫さんは、天文シミュレーションソフトなどから、この日は日蝕が見られた日ではないと、こう仰っているのでしょうか。となると、「蝕時」というのは、何を意味するのでしょうか。
> 火炎の日輪で日蝕の邪気を払う
と来ますか。これはまるでわたしは逆に読みました、日蝕という神秘的な時分を選んで造立したと。
ぜんぜん違っているかも知れませんが、要するに日蝕を選んで仏像を造立(法要?)をしようと思ったけれど、雨が降ってそれが見られなかった。けど、法要はした程の意味かと思いました。
それで、その前提に日蝕=愛染というバックグラウンドがあるのではないのか。けれど、『愛染感見記』では日[虫*虫]=日があきらかで、日蝕ではなく煌々と輝く日輪に愛染が映じたというまるで逆のバックグラウンドがあるのであろうかと、愚鈍凡夫さんと空き缶さんのご投稿を交互に拝読しながら思っていたという次第です。
暦のことも併せて、ほんとになんだかややこしくなってきました。
1605
:
愚鈍凡夫
:2004/07/22(木) 15:39
「ああ〜、ややこしなってきた」 イヤイヤ"o(><o)(o><)o"イヤイヤ
平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったそうですね。
この時代の天文学者もこの日に日蝕が起こると予想したのではありませんか。従って、「蝕時分に」とは、「日蝕が起こると予想された時間」にという意味ではないですか。
12月2日 己卯 昨日蝕御祈り勤行の僧三人、今日御所に召され、各々銀劔一腰を賜う。伊勢の守定員これを奉行す。
12月10日 丁亥 日月蝕及び天変重疉の御祈りの為、御所に於いて属星御祭を行わるべし。将軍家祭庭に出御有るべきに依って、今日晴賢これを奉仕せんが為参籠す。右大将家・右府将軍等の御時の例に任せ、重軽服の人々参入すべからざるの由仰せらると。
と、「吾妻鏡」にありますから、日蝕月蝕は凶相のようですね。
なお、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕があったかどうかの資料は「吾妻鏡」以外に見つかりませんでした。
1606
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 15:54
愚鈍凡夫さん、有り難うございました。
> 日蝕月蝕は凶相
なるほど。これはポイントになりますね。
暦から日蝕月食が予想できたとしても、それを凶相(天変)と見、その時に悪いことが起きるので祈祷を、というのがまあ思惑の流れだったのでしょうね。
平和創価さん、
> 平和創価さんのシュミレーションでは、嘉禎3年(1237)12月1日に日蝕
と愚鈍凡夫さんは仰っているのですが、これは何に基づくものでしたか。
慣れない日付が飛び交い、混乱しています。既に記されていると思いますが再掲いただければ有り難く存じます。もし、この日に日蝕を『吾妻鏡』の記述者が予測していたとすれば、この暦を当時は使用していたことになるでしょうか。
1607
:
空き缶
:2004/07/22(木) 16:49
犀角独歩さん、愚鈍凡夫さん、お疲れ様です。皆様の卓越した、広範な知識には敬服致します。
私は数字はめっぽう苦手なので、早々おいとまさせていただきます。(逃げ!)
1608
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/22(木) 18:47
>>1606
犀角独歩さん
嘉禎3年12月1日(宣明暦、862年〜1684年使用)はユリウス暦では1237年
12月19日に当たります。私はユリウス暦を基にした天文ソフトの「ディスタントサン
ズ2」と現在の「ステラナビゲータV6」の原型である「星空博士」という2つのソフト
を使って嘉禎3年12月1日、1237年12月19日(ユリウス暦)で調べたところ両
方のソフトで日食を再現することがでかました。天津小湊は東経140度10分、北緯3
5度10分辺りに位置しています。この位置に合わせてシュミレーションして日食が再現
され、かつシェスタさんから紹介されたサイトから「金井式いろいろ天文シュミレーショ
ン」をダウンロードして日食を調べたところ、天津小湊で同日の14時11分に89%の
大きい日食を確認することができました。これらのソフトは極めて正確なソフトであり、
推古天皇36年3月2日、628年4月10日の皆既日食(近畿地方が中心)を正確に再
現しています。推古天皇36年3月2日の日食という記述は『日本書紀』に記載されてい
ます。これをユリウス暦になおすと628年4月10日になります。また平凡社の百科事
典の「日食」の所にも同様のことが記載されています。愚鈍凡夫さんが引用された『吾妻
鏡』の日食の記載は真実を記録したものと思います。
1609
:
平和創価 </b><font color=#FF0000>(FLtwjPuI)</font><b>
:2004/07/22(木) 19:03
>犀角独歩さん
『日本書紀』を引用します。「日本古典文学大系68『日本書紀下』」岩波書店。212頁。
日本書紀巻第二十二、推古天皇の章「三十六年の春二月の戊寅の朔甲辰に、天皇、臥病したま
ふ。三月の丁未の朔、戊申(二日)に日、蝕え盡尽きたること有り。壬子に、天皇、痛みたま
ふこと甚しくて、諱むべからず(死を避けることができない)。」これは「日、蝕え盡尽きた
ること有り」という表現から皆既日食であったと思います。またこの時代から既に日食は不吉
なことが起きる前兆と考えられていたことが推察されます。
1610
:
犀角独歩
:2004/07/22(木) 19:07
平和創価さん、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。
1611
:
信濃町探検団
:2004/07/22(木) 21:32
御秘符について、詳しく教えてください
日顕上人のときもやっていたのですか?
1612
:
シェスタ
:2004/07/23(金) 08:58
平和創価さんが使用されているソフトは以下です。一応 URL を貼っておきます。
tenmon
http://www.vector.co.jp/soft/dl/win95/edu/se049708.html
ザ 暦 イン 日本書紀 (こちらも紹介しておきます)
http://www.vector.co.jp/soft/win95/personal/se049621.html?g
1613
:
シェスタ
:2004/07/23(金) 09:25
日食・月食検索の件ですが、オンラインでもかまわないのなら、先に紹介した
暦のページでもできます
暦のページ
http://koyomi.vis.ne.jp/
左側のフレームにある、日食シュミレート・月食シュミレートで行ないます。
観測位置も入力可能です。ただ、ちょっとコツがいります。
推古天皇36年3月2日(628年4月10日)の皆既日食を例にとります。
まず、西暦に628を入力します。次に前年ボタンを押します。そして、再度、
次年ボタンを押して、元にもどしてください。こうしないと、年度を認識しな
いようです。
次に、候補にあがっている4月10日のボタンを押します。すると、シミュレ
ーションが始まります。
1614
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 10:11
信濃町探検団さん、はじめまして。
わたし自身、興味を懐いてきたテーマなので、知る限りでお答えします。他の方の補完をお願いしておきます。
たぶん、御秘符というのは、蓮師以前から秘儀であろうと思いますが、中世では、蓮師の真筆文字を切り取り、それを呑むことが行われたとのことです。これも御秘符の変形であったろうと思えます。また、近年では「戒壇之大御本尊」への年一度の法要・御煤払で拭いた紙を御秘符にすると言われてきました。(煤払法要は湿らせた紙で彫刻漫荼羅の表面を拭き清める法要です)しかし、実際、石山が下ろす御秘符は樹脂に塗られた粉を水で溶き、服用するもので、これは朱色で煤とは思えません。それが何であるかは、もちろん、公開されていません。
なお、昭和50年前後のことであったと思いますが、創価学会では、この御秘符とは別に「御符」というものを本部・会館から下ろされたことがありました。たぶん知る人は少ないでしょう。この御符は学会本部安置「慈折広宣流布大願成就」の‘板本尊’の煤払で使った和紙を小さく切ったものであったと記憶しています。これは石山秘儀を模倣、侵害するものとして当時、秘密裏に中断されたものでした。記録にも、歴史にも残らないので、証拠を挙げろと言われてもいまは不可能ですが、当時、わたしの知り合いの学会本部職員が、小さく切り分ける前の大きな和紙をわたしに示し、「具合が悪いのならば、御符を上げるよ」と言われたことがあり、その存在を知ったものでした。
以上、中世から近代の変形した御秘符の有様です。
興門における、その起こりは以下の朗師が興師に送った消息にその原型を見ることが出来ようかと思います。
『伯耆公御房消息』
「御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。
兼ねて又此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひとゝせ(一年)御所労御大事にならせ給ひ候て、やがて死なせ給ひて候ひし時、此の経文をあそばし候て、浄水をもってまいらせさせ給ひて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給ひて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こゝろざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰(とらうたつ)の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給ひ候て、このきやうもんをはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。
二月廿五日 日朗花押
謹上 はわき公御房」(弘安5年(1282)2月25日)
この秘儀は文面から見る限り、蓮師からの相伝と考えられます。
蓮師自体、御母堂・妙蓮尼を祈り寿命を延べたことを記されています。
『可延定業御書』
「日蓮悲母(はは)をいの(祈)りて候ひしかば、現身(げんしん)に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をの(延)べたり」(文永12年(1275)2月7日54歳)
薬王品は「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の経文を存する故に特に以上のような秘儀を生んでいったのであろうと考えられます。
しかし、法華全編の読誦を禁止した石山にあって、薬王品を取り沙汰して秘儀とすることは出来ない事情が中世以降の変形を生じさせた理由であろうと思えます。また、「本門戒壇之大御本尊」造立後は、その権威昂揚から、先に記した如き煤払の清拭紙を充てる方法も考案されたのでしょう。しかし、近年に至っては衛生上の都合から、たとえ法要の清拭紙とはいえ、その使用は憚られ、現形式に変更されたのではないのかと想像します。
なお、現在、顕師が御秘符を下しているかどうか、それはしているでしょう。しかし、その在り方はまた変更されているかも知れません。
藤川さんその他の方々に補完しいていただければと思います。
1615
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 10:34
1614補足
ここで記した石山「御秘符」は、わたしが中学2年の時、骨折した折、学会を通じて、石山末寺から下付された経験談を元に記しました。いまから、35年も前、達師時代のことですから、いまは変わっているかも知れません。
1616
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 11:04
1614訂正
誤)「病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」
正)「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」
1617
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 12:21
丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm
1618
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 12:23
済みません、投稿ミスです。 (;^_^A アセアセ…
横レス失礼します。
秘符の正体は、案外「鏡面朱砂(きょうめんしゅしゃ)」ではないでしょうか。
これは、水銀の話題の時に出てきた「辰砂(HgS)」と同じものです。漢方薬でも使われているものですから、少量なら問題ないのではないですか。護符の赤い文字の正体は鏡面朱砂のようですよ。なお、真言宗の飲む秘符は、和紙に食用油で溶いた鏡面朱砂で書くようです。
漢方相談専門の方術堂漢薬局です
http://members.jcom.home.ne.jp/houjutu/ht_zukan/shinsya.html
丹土
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/hani.htm
1620
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 12:45
打ち間違えました。
管理人さん、ご面倒ですが、1619の削除をお願い申し上げます。
> 1618
面白い。さすが愚鈍凡夫さん。
説得性があるご指摘ですね。
以下のような類推は可ですか?
丹生に関わった空海が水銀採取で利用したものを、さらに秘符として使用し、それが真言宗で定着。のちに天台宗が密教化でこれを採用。
しかし蓮師は秘符とはしていないようです。
となれば、石山の御秘符は蓮師が行った薬王品灰服用ではなく、ずばり空海真言のそれが原型ということになりますか。これはなかなかのご指摘と思えました。
虚空蔵求聞持法で用いられたのも水銀と言うより、こちらのほうなのでしょうか。しかし朱色が意味するところは、こんなところであったとは、改めて感嘆しました。
1621
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 13:07
犀角独歩さん、どうもです。
「辰砂」が不老長寿の薬(仙薬)として古い文献に出ていますから、空海は中国でそれを見て、魅了されたのではないでしょうか。
ただ、他宗では公然と中身を公表していることを、我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂はいただけないですね。ばれてることを秘密にするな!! (`(エ)´)ノ彡☆ プンプン!!。
なお、護符を焼いてその灰を飲むという秘符もかなり古くからあったようですよ。
1622
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 13:36
愚鈍凡夫さん:
> 護符を焼いて…古くからあった
そうですか。蓮師もそれに拠ったわけですね。
愚鈍凡夫さんへのレスから少しずれてしまいますが、『伯耆公御房消息』、石山御書では「日朗代筆」となっているのですが、「聖人の御乳母」とあり、この聖人は日蓮聖人、つまり、朗師が弟子の立場から尊号で記しているわけですから、この書を代筆とするのには異議を唱えたくなります。この修法は、この書を朗師が興師に以て教えたものと拝するべきだと思えます。
もちろん、その朗師は蓮師から伝えられたのであろうと思います。
では、蓮師は、となると、愚鈍凡夫さんのご指摘からして、台家からそれを倣い、修していたことになるのでしょうか。
> 我が宗だけは違うといいたげな姑息な商魂
まったくですね。同感です。
しかし、愚鈍凡夫さんは博学ですね。興味の幅広さにはいつも舌を巻いています。
また雖念さん、創価平和さん、シェスタさん、空き缶さんをはじめ、最近ではあまり登場なさらないれんさん、顕正居士さん、その他、諸々の方々の博学振りには頭が下がります。この歳になって、日々「目から鱗が落ちる」投稿の数々に、それこそ、脳を活性化させていただいております。
あ、そうそう。みかんさんも、あまり資料呈示はなさらないのですが、隠れた博学者。突っ込みばかりではなく、資料その他のご教示を期待致しております。
…愚鈍凡夫さんへのレスのつもりが脱線しました。耄碌したと思われるでしょうか(笑)
1623
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 19:53
犀角独歩さん、からかわないで下さい。 (¨;)
「明日寅卯辰の刻にしやうじがわ(精進河)の水とりよせさせ給い候て、このきやうもん(経文)をはい(灰)にやきて、水一合に入れまいらせ候てまいらせさせ給ふべく候」(伯耆公御房消息)
燃やした護符の灰を飲むと、除霊・病気平癒の効果があるとされていますから、このことに習ったんでしょうね。昔から護符・秘符というのは宗派に関係なく行われていたんでしょうか。
それにしても「藥王品」というのが、いかにも蓮祖らしいですね。
1624
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 20:53
「我滅度後。後五百歳中。廣宣流布。於閻浮提。無令斷絶。惡魔魔民。諸天龍夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝當以神通之力。守護是經。處以者何。此經則爲。閻浮提人。病之良藥。若人有病。得聞是經。病即消滅。不老不死。(我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。所以は何ん、此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病あらんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん)」(妙法蓮華經藥王菩薩本事品第二十三)
この文證なんかものすごく効きそうですよね。
1625
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 21:43
愚鈍凡夫さん:
『伯耆公御房消息』「此の経文は廿八字、法華経の七の巻薬王品の文」というのが1624ご引用の内、「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経 病即消滅 不老不死」の28字ということなのでしょうね。
1626
:
愚鈍凡夫
:2004/07/23(金) 22:40
犀角独歩さん、
あっ、気づかなかった。 (^^ゞ
ところで、なんですね。創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符を(お前ら!手、洗ったんだろうな!!)、有り難く飲んでいる学会員を想像すると・・・・・。切ないモノがありますね。 (..;)
1627
:
犀角独歩
:2004/07/23(金) 22:54
愚鈍凡夫さん:
> 創価学会の本部職員がせっせせっせと内職で作った護秘符
「御秘符」と「御符」と言い分けていた当たり、ふっと寒い風が吹きますね。たしか、このあとには塔婆供養の代用で『慧光照無量』と書かれた紙に先祖の名前を書かせた学会版先祖供養とかいろいろ始めたわけです。たしか森田さんか誰かが、石山塔婆板が薄っぺらいとケチをつけていたと思いますが、学会版のほうは紙っぺら。こちらのほうがもっと薄かったわけです。
以下の色紙はその頃のものでした。(これも代筆でしたっけ?)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/ekoshomuryo.gif
高尾墓園の合同慰霊祭で、坊さんを呼ばず、池田さんが‘導師’をやってしまったのもこの頃。池田本仏をまことしやかに口コミで広げながら、板漫荼羅の彫刻を始め、着々と典礼準備をしていた一環に御符もあったということなのでしょうね。
その時代をリアルタイムで生きたわたしは、旧奉安殿供養はしなかったものの、そのあと、正本堂に至る石山建造物・多造塔寺堅固に付き合わされた挙げ句、さらに会館乱立まで目が覚めませんでした。しかし、直感的に御符だけはやめておいたものでしたよ(笑)
1628
:
愚鈍凡夫
:2004/07/24(土) 00:05
話題がそれますが、
最近、下記のHPの記述を読んで、信仰をしていて統合失調症(精神分裂症)に罹患したら、何に救いを求めればいいんだ。それに、これは「転重軽受」じゃないだろうと憤りを感じました。
**************************************************
【考察】
祈祷性精神障害は一般に熱烈に信仰する宗派に多発する精神疾患の一つである。熱烈に信仰し、そして急性精神病状態を起こし、医療保護入院になる者、不安障害レベルに留まっている者、多数の患者が存在する。彼らは決してこのために信仰を捨てるという行為は行わない。彼らは病気が信仰を熱烈に行った故であることを理解している。そして殉教的精神で祈祷性精神障害を起こしたことを誇りに思っている。その信仰の一途さは熱烈である。病棟内でその信仰を他患に熱心に勧める、またお祈りも他患から苦情が出るほど熱心に行うことが多い。彼らとの対話と筆者自身の文献検索から彼らの殉教的姿勢を理解しようと努め、以下に文献と考察を記す。
(中略)
通院の祈祷性精神障害患者の中には様々な宗派の患者が存在する。精神病患者というお人好しの集団の中でも彼らは更にお人好しである。その心の純粋さは“神"に例えられるほどの者も存在する。また高潔な人格の患者が多い。
しかし逆に、中には、自らを“神"と称し、横暴極まりない患者も存在する。彼らは病識は少なく、服薬のコンプライアンスは不良であり、通院は途絶えがちである。
少なくとも外来の祈祷性精神障害の患者は高い知能を保っていることが多い。高学歴の者も多い。真面目である故、妥協せず、極めて熱心に信仰し、そして祈祷性精神障害に罹患したと考えられる患者が多い。
ある患者は次のように述解する。
『「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」ーーこのように今世で正法を信じ実践したために私はこのような病気になったのかもしれません。いえ、そのためになったのだと思います。しかし私は(現世に軽く受くる)ことができているのです。
「善男子、過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに是の諸々の罪報・或いは軽易せられ」のように(現世の軽報を受けて地獄に堕ちず)今世で過去世の罪を軽く受けることができています。これを私は喜びとしています。
(中略)
「横(よこしま)に死横(しおう)に罹(かか)り呵責(かしゃく)・罵辱(めにく)・鞭杖(べんじょう)・閉繋(へいけい)・飢餓・困苦(こんく)・是くの如き等(とう)の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」【涅槃経】1)
「この信仰を真面目に実践しても、今世に於いて、横死すること、罵られ辱められたりすること、杖や鞭で打たれること、牢獄に入れられること、飢餓・貧乏の苦しみを受けることなどがある。しかしこれは現世に於いて、過去世また現世の罪を軽く受けているのであり、これにより死後、地獄に堕ちることを免れることができるのである。」
死横つまり横死とは交通事故死や建設現場での事故死などを指します。死横つまり横死により過去世の罪障が消滅してゆくのです。
「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」
この御文のように(護法の功徳力に由り)信仰を始めて過去世の罪障が湧き出てくる人がよく存在します。私もその一人でしょう。罪障が湧き出て信仰を辞めて行く人はよく存在します。彼らはこの御文を受け入れない人たちです。』
この患者は入院30年を越す。S会が日本全国に爆発的に発展していた頃に統合失調症に罹患した患者である。疎通性は良く、人格崩壊も全く存在しない。S会の新聞を購読しており、それを他患に読ませたりしている。病棟内で最も信頼が厚く、誰からも慕われている。
「宗教と精神医学」より
**************************************************
「及び余の種々の人間の苦報、現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由る故なり」
この一節が、あまりにも悲しく響きます。
宗教と精神医学
http://homepage2.nifty.com/mmm23232/29705.html
1629
:
犀角独歩
:2004/07/24(土) 07:06
> 1628
本当に、実に悲しすぎる話です。
1630
:
シェスタ
:2004/07/24(土) 08:40
そういえば去年、国立天文台の谷川清隆氏らが再計算して、「日本書紀」の
皆既日食の記述の正確性をつきとめた記事を思いだしました。 従来の計算で
は92%しか欠けないとされていた日食が、実は、皆既日食だった事が証明さ
れたのです。
日本書紀の皆既日食記述は正確
http://ch.kitaguni.tv/u/600/0000003252.html
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku216.htm
ほかには、立正安国論に「二三四五の日出で」とあるのは、幻日の事ですね。
これは、太陽が物理的に複数出現するわけではなく、光の屈折作用から、
太陽が複数出現したように見えるというものです。
Googleで「幻日」で検索すると、たくさんの写真を見ることが出来ます。
http://www.google.co.jp/search?num=50&hl=ja&lr=lang_ja&ie=sjis&oe=sjis&q=
����
1631
:
愚鈍凡夫
:2004/07/24(土) 08:43
犀角独歩さん、どうも。
この話を読んだとき、脈絡はないのですが、第2代会長の戸田さんのことを考えてしまいました。
日本軍が敗色濃厚となったとき、戸田さんは投獄されました。
創価学会員は「小説 人間革命」の影響もあって、熱原の三烈士にも劣らぬ殉教精神溢れる行為であると思っています。しかし、果たしてそうでしょうか。今の時代なら100歩譲って、それに近い行為かもしれません。でも、あの時代、戸田さんと同じ年代の日本人男性はどうしていたでしょうか。
ほとんどの人が戦場という生き地獄を彷徨していました。明日をも知れぬ運命に恐れおののいていました。しかるに戸田さんは、当時としては最も安全な場所にいたのではないでしょうか。
少なくとも、ニューギニアやフィリピンの日本軍兵士たちのように、生きんがために人肉喰までしなければならない環境にはいませんでした。
あの時代を考えたとき、とても殉教的精神と呼べるモノではないでしょう。
同世代の男性たちからすれば、「自分たちが死地を彷徨っていたとき、自分一人、温々と牢獄なんて天国にいやがって。」と思うのが自然な感情じゃないでしょうか。
歴史上の人物は、その置かれる時代背景を考えて評価しなければ判断を誤る典型的な例だと思います。
1632
:
犀角独歩
:2004/07/24(土) 10:02
愚鈍凡夫さん、ご紹介のところを読み、悲しいと思ったのは自分史を想起したからです、わたしは所謂昭和52年度路線前後、「池田先生と創価学会のために命を捨てる」と10年間考え続けたあと、極度の神経障害を煩いました。その時の心象風景があまりにも、記述されていた内容と酷似していたからでした。
何度も引用してきた高橋師『宗教病理と犯罪』のなかで
「わが国の戦後史で、政治と宗教の関連は創価学会を抜きには語れません。小田晋先生は、1960年代の同教団信者であった病者が、独特の教条主義“正法と三障四魔の闘争”を契機に犯罪へ至った鑑定例を取り上げています。教義のもつ反対集団への敵意が反社会行動として放散される場合があること、および同宗派の有するヒエラルキー構造が組織と個人の葛藤を招き危機犯罪の副次的原因となりうることを指摘しました」
と紹介する事例とも強く関係性を示していると思えます。
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