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「α」についてはここで語ってください
1
:
法の受験人
:2003/05/21(水) 00:37
ぼーんさんが述べられてる「α」なる理論。
これに対しては批判も多いので、
こちらでまとめて話しませんか?
49
:
<未入力>
:2003/06/02(月) 18:52
ところで…
法の受験人さんは、スレの立て逃げですか?
50
:
<未入力>
:2003/06/02(月) 21:05
忙しくて来れないのでは?
そのうちお見えになるでしょう。
51
:
49
:2003/06/02(月) 21:17
>>50
そうであることを願っています。
52
:
ぼーん
:2003/07/28(月) 13:02
愛国心スレより引越し。
101 名前:ぼーん 投稿日:2003/07/26(土) 01:50
>>61
番長さん
隣のスレには復帰しましたが、こちらはまだ放置したままでした。すいません。
ごく簡単に。
I氏の信念にしたがってぼーんを批判することは無意味です。
ぼーんの信念にしたがってI氏を批判することが無意味なのと同じように。で、
> たとえばぼーんはん以外の者にⅠ氏が差別的な扱いを受けたとすると、Ⅰ氏は自らの論理・自分>他人
> に従い、差別者に対して差別はもとより平等な扱いをも拒否し、敬意を表するように求めることが出来ま
> す。それは自らの論理に合致しているからです。
> さらに、ぼーんはんがⅠ氏と自分を対等と見做しまたそう扱っても、Ⅰ氏はぼーんはんを不当だと訴える
> 資格を持ちます。これもⅠ氏の内的論理から由来します。
は、上記の「批判が無意味なケース」に当たります。
> もちろんぼーんはんも自らのαに従い、Ⅰ氏の不当性を非難することは可能ですが、Ⅰ氏の資格云々には言及できません。
はむしろ逆で、僕が自らの信念にしたがって相手を批判することはやはり無意味です。
他方、I氏が、ぼーんの信念を共有しないが、しかしそれに基づいてぼーんを批判することには意味はあります。
ありますが、ここではむしろ、「I氏には批判する資格がない」と、資格を云々することはできると思います。
ぼーんは、少なくともI氏の選択したルール上、否定されていない振る舞いをしているだけですから。
> 最後に一番の不具合は、Ⅰ氏がぼーんはんを如何に差別的に扱ったとしても、彼は自らの信条に
> 矛盾しないでしょうが、その逆は明らかにぼーんはんのαに抵触してしまう。何故ならαは自分と全
> ての他人が対等だとゆう理念なのですから。
それを批判することはできます。
で、その批判を僕が聞かなければならないのは、批判者がαを肯定しており、僕とその批判者との間で
αが共有されているときだけです。
もし、その批判者がαを共有していないならば、僕はその批判を「聞いても聞かなくてもいい」とまでしか
いえないはずです。「あなた矛盾してるんじゃないの?」と聞かれたら、「そうですね。で、何か文句ある?」
と僕は言い返したとして、そのα否定者に言えることは既に残ってないでしょう。
I氏が何もいえない、という意味では、僕自身がαに抵触していたとしても、大した問題ではありません。
# 別の意味では大した問題になりえますが。
53
:
○○番長
:2003/07/29(火) 00:16
>>52
ぼーんさんへ
ここでぼーんさんの言う『無意味』がよく分りません。相手に何かを要求する『資格』に的を絞れば、自らの信条にその要求が合致するかどうかは一つのポイントであります。他には、何らかの共通の規範や基準に適っていることも重要でしょう。
自分>他人と考える者・Ⅰ氏が、Ⅰ氏の優越性を認めない全ての人間に抗議する資格があるのではないでしょうか?少なくとも自らの信条には矛盾していません。もちろんこちら側がそれを受諾する必要性・必然性は全くありませんが。
そしてαを当為として認める者は、理念として自他の優劣を否定するがゆえに、自分>他人と考え行動することは許されません。自らの信条に反してしまうからです。掲げた理念と実際の行動との整合性は、たとえ如何なる立場の者であっても常に問われ続けることでしょう。
ひとまず上記のような『理念と行動の整合性』だけから考えれば、Ⅰ氏の『資格』は揺ぎ無いものと考えます。もちろんαを受持する人たちが、他者にαを遵守するよう呼びかける資格もです。能書きと行動の矛盾する人間が軽侮され、失笑を買うのは古今東西普遍的であります。
ただこれは言葉の遊び、スコラ哲学みたいな面があり、僕自身感覚的にそのおかしさを自覚しています。何故かと問うまでもなく、理念と行動の整合性だけを問題にしてしまえば、結局ふっかけた方が有利になってしまう。厚顔無恥な原理を掲げた方が勝ちだと。しかしこれは明らかにおかしい。僕だけではなくぼーんさんも、恐らくは他の大多数の人たちもそう感じることでしょう。
54
:
○○番長
:2003/07/29(火) 01:17
>>53
続き
理念と行動の整合性だけでは、他者へ何かを要求する資格を得られない。僕らはそう考えてきたし、これからもそうでありましょう。僕らの思考・感情の基礎には、自他を対等と見做せという格率があります。そしてそれを無みする者には、対等の資格を付与しないでも良いという報復の感情も。宗教を奉じる人たちはどうか分りませんが、この格率と報復の感情は、先に書いた『理念と行動の整合性』を問う姿勢とともに、かなり普遍的ではないでしょうか?
あくまで私見ですが、ぼーんさんの提唱するαは、不犯の理念というよりも、こうした掟に類するものと推察します。掟は論理ではありませんから、αを否定する者に対等の扱いをする必要はありませんし、そのことの矛盾を突かれても『それがどうした!?』と言い返すことが可能です。それなら僕にも合点がいくんですよ。
ただ、理念としてしまうと綻びが出てくる。無条件な当為としてしまうと人間は身動きが取れない。それはそうです。掟でさえ守るのは至難の業ですが、理念にまで高めてしまえば、それを掲げた瞬間から人はαに反せざるを得ません。十字架を背負うことになる。誰もに守ることの出来ないルールは、もはやルールではありません。少なくとも社会を律する規範にはなりえないし、まして野望と悪意の渦巻く国際社会に対しては蟷螂の斧であります。
では掟として提唱すればことは解決するのか?と云えば、僕にはそう思えないのです。掟なら今でも数多くある。『神を信じるもの全てに云々』『この地に生まれたもの全てに云々』『国家に忠誠を誓うもの全てに云々』と、条件付α或いはαもどきなら枚挙に暇がないほどです。ここに新たな掟としてのα(理念・無条件的当為としてのαとは既に別物ですが)を掲げるのは、屋上屋を架す振る舞い以外の何ものでもないというのが、僕の考えであります。
批判・反論をこそ歓迎いたします。
おやすみなさい。
55
:
ぼーん
:2003/07/29(火) 10:33
>>53-54
「無意味」というのは、その主張を聞くべき理由がどこにもない、という意味です。
私たちがあるルールに基づいた要求を聞く「べき」と言えるためには、そのルールが両者に共有されていなければなりません。
I氏がI氏の理念にしたがって相手の行為を批判したり要求したりすることは、その理念を相手が共有していなければ、無意味な要求に過ぎません。
I氏が相手の理念にしたがって相手の行為を批判したり要求したりすることは、有意味ではありますが、それに答える義務は相手にはありません。
あくまでも、こたえてもこたえなくてもいいものでしかありません。
それと、「理念と行動の一貫性」は、今考えている論点ではほとんど重要ではありません。
相手に対して要求する力を持つ理念とは、共有されている理念によってのみ可能なのであり、
一方がその理念を拒否している場合、その理念に基づいた要求をすることは無意味なのです。
> ただ、理念としてしまうと綻びが出てくる。無条件な当為としてしまうと人間は身動きが取れない。
> それはそうです。掟でさえ守るのは至難の業ですが、理念にまで高めてしまえば、
> それを掲げた瞬間から人はαに反せざるを得ません。十字架を背負うことになる。
> 誰もに守ることの出来ないルールは、もはやルールではありません。
> 少なくとも社会を律する規範にはなりえないし、まして野望と悪意の渦巻く国際社会に対しては蟷螂の斧であります。
身動きが取れない、かどうかは、後で検討したいと思います。
私たちは身動きを事実として「とる」んです。
原則やルールは、その身動きを評価したりするためのものでしかありません。
「殺人は罪である」というルールは、私たちが殺人行為をするときにそれを評価するだけです。
そういうルールがあろうとも、私たちは殺人をしなければならない状況においては、殺人をします。
しかし、そうではあっても、「殺人は罪である」というルールをルールとして確認しておくことには意味があります。
しばしば人が守れないから「殺人は罪である」というルールはルールとして機能していない、と言うことはできません。
私たちが、そのルールを守れるかどうかということと、それがルールとして機能しているかどうか、ということは、
ひとまず別の話であります。「守れるかどうか」が無駄な話だといいたいわけではありません。それはそれで
重要な話です。僕が言いたいのは、それらは別の話であり、それぞれが別の意味で重要なのだということです。
その上で、「殺人は罪である」というルールがなく、殺人行為が吹き荒れているような状況Aと、
「殺人は罪である」というルールがあるが殺人行為が吹き荒れているような状況Bがあるとします。
殺人行為をなくしていく、平和にしていくにあたって、Bの方がずっとチャンスが多い。
これはAでとりえる手段はBでも使えるが、他方、Bで使える手段はAでは使えないことがあり、
それゆえBの方が平和を達成するにあたっての手段が多くある、ということから証明できます。
「殺人は罪である」をαに入れ替えても同様です。
守ることができるかどうかということと、それをルールとすべきかどうか、ということは、基本的には関係ない話です。
で、理念を掟と言い換えることに何か意味があるとは思えません。
そもそも掟にしても「無条件な当為」のはずです。
56
:
○○番長
:2003/07/30(水) 00:26
>>55
ぼーんさんへ
僕の文章は冗長に過ぎますね。後から見てそう思います。
以下簡潔にお答えします。
>私たちがあるルールに基づいた要求を聞く「べき」と言えるためには、そのルールが両者に共有されていなければなりません。
有効な批判を展開する為には、まず両者共有のルールがいるというわけですね。ルールを共有できない相手への批判は無意味であると。
確かに人殺しを善とする連中と僕らの間に、お互いを『矯め合う議論』の成立するはずもありません。殺人は悪だといくら訴えても、相手はそれを良い事と考えているのですから。相手を殲滅するか、第三者的な権力の介入を待つしかないでしょう。僕らの身の安全を確保したいなら。
第三者的機関があるなら良いけれども、それがない場合、仮初にも平和を維持するには、相手が凶悪ではないか、こちらが圧倒的な力を保持するしかありませんね。残念ながら人間はこれまで多くの屍を築いてきた経歴がありますから、少なくとも前者、凶悪な生き物ではないという淡い期待は持てません。自分を内省してもそうです。結局武力や暴力で身を守るに如くはないということになってしまいます。
57
:
○○番長
:2003/07/30(水) 01:05
>>56
続き
>それと、「理念と行動の一貫性」は、今考えている論点ではほとんど重要ではありません。
>相手に対して要求する力を持つ理念とは、共有されている理念によってのみ可能なのであり、
>一方がその理念を拒否している場合、その理念に基づいた要求をすることは無意味なのです。
先に書いたこととも重なりますが、αによって平和を齎すには、まずαを受け入れる
相手のいることが前提となります。そして多くの人はαの受容が可能であろうとする
根拠は、皮膚の色や国籍・宗教の別を問わず、αにしたがって生きているからという
ことになりますね。
ただ僕の理解では循環論法に思えてきます。もしαに従って多くの人が生きているなら
とっくの昔に平和を達成しているでしょう。
『理念』と『掟』の用法が完全に自己流で、説明不足でした。
理念=無条件の当為
掟=条件付の当為
くらいに考えて頂ければ宜しいかと。
『理念』は宗教的な、とりわけキリスト教的な当為を下敷きにしています。
『姦淫する莫れ』『汝の如く隣を愛せよ』など。
『掟』は共同体限定的なルールのイメージです。法律もそうですね。
ある条件を前提にした当為です。国籍、宗教、身分、治安維持など。
これは読み飛ばして頂いて結構です。
閑話休題。
ぼーんさんは言うかも知れない。今世界が平和でないのは、αが受け入れられていないからではなく、認めたαと実際の行動に矛盾を来しているだけなのだと。
そして、αを共有している故にお互いの批判・理解は可能で、その矛盾を突くことによってα違反者を矯正していけば、平和は達成されるではないかと。
うーん、どうでしょうね。αを認めたと宣してはいても、内心はどうか分らない。色々言い訳は可能です。理窟と膏薬はどこにでも付きますからね。
となれば、αを認めたかどうかより、その行動で相手の信条を測るしかないのでは?また他人の理念や信条そのものは僕らに害悪を及ぼしませんが、行動は僕らを脅かし得る。
αを認める認めないで悶着するよりは、相手の行動を評価するほうが確実ですし、掲げたお題目の如何よりは、過去の行動を基準に相手の出方を予測する方が実際的でありましょう。
58
:
武蔵
:2003/07/30(水) 03:22
>>56
横レスすみません。
>結局武力や暴力で身を守るに如くはないということになってしまいます。
アメリカ的思想がこれですね。
「身を守るための銃」規制は、自由を侵すものであるという発想です。
それによってアメリカは身を守れているのでしょうか?
数字は忘れましたが、アメリカの死亡率で一番高いのが、銃による殺人ではなかったですか?
世界中でダントツに多かったはずです。
身を守る必要は、私もあると思います。むざむざ殺されていいわけはない。
だけど、武力や暴力が横行することによって、数字的には明らかに殺される率が高いとすれば
他の方法を考える方がいいように思いませんか?
殺人者は、「社会的な自殺者」でもありますね。自分の人生を捨てるという意味で。
自分の人生を捨てたくなる瞬間と言うのも誰にでも一度や二度はあるとは思いませんか?
人生を失うことが分かってあえて殺人を犯すという時(人)が武器を持つから恐いのではありませんか?
誰もが持たなくするという方向のほうが、身を守るにはいい方向のような気がしますが・・・いかがでしょう?
(軍縮を訴え、第9条を輸出する方向)
59
:
ぼーん
:2003/07/30(水) 10:59
>>56-57
先に1つ確認してから話を先に進めたいと思います。
ブッシュやフセインですら正義を口にします。
その内容は、限定つきαなどではなく、れっきとしたαです。
ブッシュが武力行使をする理由は、「α破りをしているから」です。
今、まさに番長さんが書かれているような難しい状況の中で考えてみるに、
αを限定つきでしか認めないような人たちとか、内心否定している人たちであっても、
「私はαを否定する人である」と明示するのを避ける傾向がある。
僕はそう考えているのですが、そういう傾向性の存在には同意できますか?
60
:
ぼーん
:2003/07/30(水) 11:06
>>57
> 先に書いたこととも重なりますが、αによって平和を齎すには、まずαを受け入れる
> 相手のいることが前提となります。そして多くの人はαの受容が可能であろうとする
> 根拠は、皮膚の色や国籍・宗教の別を問わず、αにしたがって生きているからという
> ことになりますね。
> ただ僕の理解では循環論法に思えてきます。もしαに従って多くの人が生きているなら
> とっくの昔に平和を達成しているでしょう。
現状の認識が違うのが原因だと思います。
>>59
を参照してもらうと、相違点がハッキリすると思います。
私たちは、皆、態度としてはαにコミットしていますよ、という態度をとるのです。
いかに行動が矛盾していようとも、口ではなんとでも言うのです。
そこに、逆説的ですが、可能性もあると思っています。
口ではなんとでもいう、というのは、実は違います。
彼らは、何をしようとも、「αにコミットしています」と言わざるを得ないんです。
「αにコミットしていない」と正直に言うことはできないんです。
現実に平和が達成されないのは、
人々がαと矛盾した行動を政府に許している、あるいはそれに気づいていないから、
というのが僕の現状認識です。
現状に置いて、「αが否定されている」とは、考えていません。
非常に弱いですが、誰であれ、αにコミットせざるを得ないのでコミットしているわけです。
61
:
○○番長
:2003/08/02(土) 00:09
武蔵さんこんばんわ。
>数字は忘れましたが、アメリカの死亡率で一番高いのが、
>銃による殺人ではなかったですか?(
>>56
)
検索をかけるとこんなページが引っかかってきました。
http://idsc.nih.go.jp/iasr/18/213/fr2137.html
1996年CDCのデータですが、死亡率のトップはHIV感染症のようです(26%)。
殺人は第2位(11%)ですね。トップではないにせよ、ここまで殺人が横行しているのは、
確かに異常な事態やと思います。
>身を守る必要は、私もあると思います。むざむざ殺されていいわけはない。
>だけど、武力や暴力が横行することによって、数字的には明らかに殺される率が
>高いとすれば、他の方法を考える方がいいように思いませんか?
銃器の普及と殺人事件の多発に関しては、色んな見方があります。
銃器の普及が殺人を促進しているとゆうのも一つの考えですが、
貧困や社会制度、信頼関係など、様々な要因が殺人を蔓延させているとも言えます。
特に貧困層の問題は深刻であります。米国民の1/4が無保険者ですからね。
必ずしも銃器の普及が殺人による死亡率を上げているとは言えません。
>誰もが持たなくするという方向のほうが、身を守るにはいい方向のような
>気がしますが・・・いかがでしょう?(軍縮を訴え、第9条を輸出する方向)
軍縮が合意に至るのは、平和志向が高まったからではなく、単に経費の問題で
あります。その証左に、相手を殲滅しうるだけの軍備はみな手元に残しています。
核軍縮なんてのはその典型例ですね。残念ながら僕らにとっては福音ではありません。
軍備の全廃される日が来れば良いと僕も思います。ただ、核兵器を廃絶すれば通常兵器を
多く持った者が猛威を振るうでしょうし、通常兵器を無くせば銃砲を、銃砲を禁止すれば
刀器を、刀器ならば棍棒・・・とゆう風に、およそ人間のいる限り、争いは無くなる
ことはないでしょう。
また、一度出来てしまった兵器、呼び出してしまった悪魔は、いまさら無かったことに
することが出来ません。仮に100のうち99カ国が武器を捨てても、たった1カ国が
禁を破ることにより恒久の平和は崩壊します。不心得者がいる限り、すべての武器を
楽器に(by喜納昌吉)変える事は出来ない相談です。
可能性の高低を問わないならば、恒久平和を確立する方法として唯一僕が認めうるのは、
すべての人間がαを共有することだと考えています。意外でしょうが(笑
>
62
:
○○番長
:2003/08/02(土) 00:37
>>59
ぼーんさんへ
返事が遅れてすみません。
>ブッシュやフセインですら正義を口にします。
>その内容は、限定つきαなどではなく、れっきとしたαです。
掲げた正義のために戦争をするのは、既にαに反していませんか?人を殺めることが
他者を否定するものであるなら、戦争はその最たるものです。
ただお互いの正義そのものは、確かにαに抵触しないと考えます。お互いとも、
お前らは低級民族だから今から殺しに行ってやる、とは言ってませんもんね。
>αを限定つきでしか認めないような人たちとか、内心否定している人たちであっても、
>「私はαを否定する人である」と明示するのを避ける傾向がある。
>僕はそう考えているのですが、そういう傾向性の存在には同意できますか?
それには同意します。たとえいかなる悪事を行うに際しても、人間は正義を掲げずには
居れない生き物です。ちょっと逆説を弄せば、正義は必要悪とも言えましょう。
63
:
○○番長
:2003/08/02(土) 01:42
続きです。
>私たちは、皆、態度としてはαにコミットしていますよ、という態度をとるのです。
>いかに行動が矛盾していようとも、口ではなんとでも言うのです。
>そこに、逆説的ですが、可能性もあると思っています(
>>60
)
そうですね。ポアしてやるのも相手に功徳を積ませるため、とゆうオウムの理窟も、
確かにαに反していません。いかに行動がαに矛盾していようともです。
それにも同意します。ただそれでは結局何も事態は変わらない。
汚れた壁を黒いペンキで塗りつぶすが如く、善も悪も、正義も不正も、
等し並に扱う思考停止の源があると危惧します。
>現実に平和が達成されないのは、人々がαと矛盾した行動を政府に許している、
>あるいはそれに気づいていないから、というのが僕の現状認識です。
>現状に置いて、「αが否定されている」とは、考えていません。
>非常に弱いですが、誰であれ、αにコミットせざるを得ないので
>コミットしているわけです(
>>60
)
そう誰であれαを当為として認めざるを得ない、たとえ行動が矛盾していたとしても。
ぼーんさんとは逆に、それこそが正にαの致命的弱点やと考えてるんですよ。
αに矛盾している政府を糾弾するといっても、糾弾される側、する側双方とも
α肯定者ですから、認めた理念の差で互いの立場の正邪は決められない。
何をもって糾弾する側の正当性を、またされる側の不当性を決めるかといえば、
その行動でもって判断する他はありません。
しかし、理念と行動の矛盾は、理念が崇高であればある程大きくなりますから、
αに合致して行動できる国家や組織、個人はありえません。みんなαの前では
罪人であります。
αを当為として認めた瞬間から、人はみな背教者にならざるを得ません。
αとの矛盾の程度で行動の良否を決める方法も確かにあります。ホロコーストと
怨恨からの殺人は同じではありません。盗みと戦争犯罪は同一視できない。
そう考えれば、αからの距離で互いの正当性を決められるように見えます。
しかしそこが大きな問題です。その正当性を巡って争いが起きるでしょう。
αと行動との距離、それを測る規矩について醜い諍いが繰り広げられるに違いない。
それはそうです。自己の正当性を保証するものはαしかないのですから。
αを完全に遵守可能な人物・組織があれば問題は起こらないのですが、
悲しいことに、人間が人間である限り、それは為す能ざることです。
客観的に正しい判定者が居ないとすれば、自分に不利となる『αのガイドライン』を、
いったい誰が受け入れるでしょうか?
現実世界にαを持ち込むことは、思考停止か、互いを殲滅しあう無限の闘争
以外の何ものをも齎さないのでは?と僕は考えます。
64
:
武蔵
:2003/08/02(土) 02:59
>>61
>貧困や社会制度、信頼関係など、様々な要因が殺人を蔓延させているとも言えます。
特に貧困層の問題は深刻であります。米国民の1/4が無保険者ですからね。
必ずしも銃器の普及が殺人による死亡率を上げているとは言えません。
貧富の差の上に、銃器保持が重なっているとしたら
その両方をなくしていく必要がありますね。
アメリカほどの富裕国の富裕者が身を守るために銃器を手放せない――そのままでいいですか?
アメリカの農業の85パーセントは販売額が10万ドル以下の小規模な家族農場なのだそうです。
しかし残りの15パーセントが販売額の80パーセントを占めている。
100人村の話ではないけれど・・・・こんな社会がまともとは思わない。
>また、一度出来てしまった兵器、呼び出してしまった悪魔は、いまさら無かったことに
することが出来ません。仮に100のうち99カ国が武器を捨てても、たった1カ国が
禁を破ることにより恒久の平和は崩壊します。不心得者がいる限り、すべての武器を
楽器に(by喜納昌吉)変える事は出来ない相談です。
私はそうは思いません。
今や孤立してはやっていけない世界です。
石油分限者のイラクでさえ、経済制裁で医薬その他大変な苦しみをえていました。
北朝鮮の貧困は、孤立のせいもあります。ロシアからの肥料すら手に入らなくなり
農村が疲弊した。
貿易がなければやっていけません。
一国からでもはじめられます。
コスタリカに見習いましょう。
65
:
ぼーん
:2003/08/02(土) 08:34
>>63
> そうですね。ポアしてやるのも相手に功徳を積ませるため、とゆうオウムの理窟も、
> 確かにαに反していません。いかに行動がαに矛盾していようともです。
> それにも同意します。ただそれでは結局何も事態は変わらない。
αを掲げているからこそ、「行動がαと矛盾していること」を問うことができるのです。
また、それで「結局何も事態が変わらない」とは言い切れません。
相当ゆっくりとしか変わりませんが、ゆっくりとは変わってきました。
今も世界中で多くのα違反がありますが、α違反をとがめ、それを軽減する動きも進んできて、
そのおかげで今の不十分ながら少しはαが実現できている状況にまできています。
そのような流れの中にいる、という認識は決して無茶なものではありません。
また、そのような流れをさらに推し進める、という方向性も、決して無茶な認識ではありません。
ですから、「結局何も事態が変わらない」という主張には、根拠がないと僕は考えます。
> そう誰であれαを当為として認めざるを得ない、たとえ行動が矛盾していたとしても。
> ぼーんさんとは逆に、それこそが正にαの致命的弱点やと考えてるんですよ。
これは論理的に言っておかしいです。
行動はともかく、「αを認めざるを得ない」ということは、もっとも悪い状況においても「無力だ」
とまでしか言えず、このことが積極的に悪いことになることはありえません。
番長さんは「αの導入が思考停止をもたらす」といいますが、その根拠はまったくありません。
思考停止は思考停止それ自体として、αの助けなど借りずにそこに存立可能です。
人が、たとえば世界の悲惨を最初には無視し、それを指摘され気づいてからは、
その悲惨に立ち向かう人を賞賛するようになるのと一緒です。「自分が何もしない」
ことの言い訳として、最初には「無知」を使い、それが使えなくなってからは「何かす
る人を特別と位置づけること」を用いるわけです。こうやって思考停止は生き延びま
す。
生き延びますが、そうやってαを導入したり、問題を指摘することが無意味なわけで
はありません。そこで、さらに「特別と位置づけることによる自己の責任の隠蔽」について
知らされたら、そこから先でさらに思考停止を維持する理屈を考え出すのはのはもっと難
しくなりますから。イタチゴッコですけど、イタチは確実に追い詰められてはいきますから、
大事なのは根気ですね。
つまり、αが積極的に問題を引き起こすことはありえない。という立場を僕は取ります。
> 何をもって糾弾する側の正当性を、またされる側の不当性を決めるかといえば、
> その行動でもって判断する他はありません。
いいえ、その行動は関係ありません。
たとえば、殺人犯が政治家の脱税を告発した場合と、そういった大きな罪を取り立てて犯していない
人が同じ罪を告発した場合で、そこに差が生じるとは思われません。(これは実定法において、という
だけでなく、法が法として成り立つために、そこに差が生じるわけにはいかない、というより強い意味で
主張できます。)
66
:
武蔵
:2003/08/02(土) 11:03
>>61
>>64
に追加。
こういうのを見つけました。
http://kyoto.cool.ne.jp/kyoto/3112/china/inter/inter028.htm
アメリカのキャンパスでは銃による被害があちこちで発生し、殺人事件が跡を絶たない。アメリカでは十校につき一校の割合で少なくとも毎年一回は重大な刑事事件が発生しており、さらに銃にからんだ殺人や暴力事件がますます増える傾向にある。九七年と九八年の二年間で、アメリカでは合計四十八人が校内暴力で死んだ。昨年四月にコロラド州のコロンバイン・ハイスクールの二人の生徒が銃と手製の爆弾で十三人の教師と学生を殺害し、二十五人に傷を負わせて、アメリカ史上最も悲惨な銃による校内殺人事件となった。統計によると、アメリカの青少年十万人につき毎年平均して十五人が銃によって命を落とし、十五歳以下の子供が銃による殺人事件に不意に巻き込まれる割合はその他の二十五の先進国における合計の十五倍も多い。
67
:
武蔵
:2003/08/02(土) 11:59
>>66
に追加。
「α」が大切なのは確かとしても、自分が一番大事と言うのも確かなことでしょう。
理念と利己のギャップの上で、社会に生きる限り、理念の上に立たざるをえない。
そして、自分が大事だからこそ人も大事なんだという理念の上に立って生活してはいても
時に自分の理性を超える恐怖や憎しみに駆られることがあるかも知れません。
手元に銃があれば、オノレの人生を捨ててでも銃をぶっ放す。
銃社会の悲劇がこれではないでしょうか?
もし、イラクのような「悪の枢軸」国があると言う現実は同じでも、
アメリカが軍備を持っていなかったとしたら、
予算計上からはじめて戦争に至るまでの経緯の上で、今回のような戦争を仕掛けたかどうかは分かりません。
賞味期限つきの武器が既にあったからという見方もできるでしょう。
イラク問題も、もう少し別の解決を見たような気がします。
時間はかかっても、もっと抜本的な解決を。
施政者はすべて「α」を主張しているかも知れませんが
イラクや北朝鮮の国民の大部分は、自国が「α」に立脚していると思ってはいないかも知れません。
だけどアメリカの国民の大部分は、自国こそ「α」の実践先進国だと信じているのではないでしょうか?
しかし、他国の人間を殺すという究極の「α」破りを、最も多く実践しているのがアメリカであるのは確かなことです。
世界の富を独り占めして、アフリカをはじめとする多くの飢餓の国を生み出す国際秩序を力ずくでつくりあげている。
国内的には、一握りの富裕者と多くの貧民を生み出す政治システムで成り立っている。
そんな「α」破りの国アメリカの国民が、自国こそ「α」の実践先進国だと信じているとしたら?
それを訴えることが一番大切なことのように思います。
そして、わが日本はアメリカに、こういう点は学んではいけないと思います。
68
:
2chの匿名希望
:2003/08/02(土) 18:23
>>61
別のスレを汚し終わったと思ったら、またこっちで...(笑
すまんね。(笑
ただ、○○番長さんの引用した「米国の死亡率」の数字に、あまりに合点がいかなかったもんでね。
だって、HIVが死亡率全体の26%って、全体の死因の1/4でないかい!
殺人(11%)と併せると、全体の1/3以上?
癌とか心臓病とかもあるのに、ちょっとオカシイな、と思って引用元を見ると、
まぎらわしい書き方だね。これらの数字が「死亡全体に占める割合」なのか「低下率」なのか、よくわからん。
これなら○○番長さんが
>>61
のように思っても仕方がないね。
それで事実はどうなのかと検索したら、運良くトップでこの引用元と凄くよく似た記事を見つけたよ。
http://www.hhs.gov/news/press/1997pres/970911a.html
これは、日本なら旧厚生省にあたる Department of Health and Human Services(訳語不明、すまんね)に属するCDC (Centers for Disease Control and Prevention)とゆう所が出したニュースリリース。(番長さんの引用元の記事もCDCの発表の翻訳だね。)
これによると、「引用元」の数字は全て「低下率」で、死亡全体に占める割合ではなかった。
前年(1995)に比べて、HIVは26%の低下、殺人は11%の低下という意味。
順位とは全く関係なかったどころか、HIVと殺人はこの年の死亡率低下のトップ2ということで、特にHIVについては「努力の成果であり朗報」だと言ってる。ということは、「解釈」は逆方向になるかもね。
ちなみにHIVについては、このリリースによると、25才〜44才の年齢層においては1995年には死因の第1位だったが、96年には2位になっている。
その後HIVの死亡率はずーっと低下して、ロイターによると、97年には5位になった模様(全年令層では96年に8位から97年には14位)。
http://www.aegis.com/news/re/1998/RE981006.html
69
:
2chの匿名希望
:2003/08/02(土) 18:41
>>61
んで、「殺人」はどうなのかとゆうと、
CDCに、これまた属するNCHS (National Center for Health Statistics)とゆう、統計を専門にやっているらしいところがあった。
http://www.cdc.gov/nchs/products/pubs/pubd/nvsr/49/49-13.htm
#49_11
ここの最新の統計(1999年、PDFにてダウンロード可)の中の「死因ベスト15」によると、
殺人は14位(死亡全体の0.7%)でした。ただし殺人は銃によるものだけではない。
(ちなみに、1位は心臓病、5位は事故、11位は自殺、あとは病気)
それから、銃(firearm)による死亡人数(殺人、自殺、事故、法的介入を含む)は、
1998年 30,625人
1999年 28,874人
2000年 28,663人
比較対象として、
1999年 死亡第1位 心臓病 725,192人
1999年 死亡第14位 殺人 16,889人
とゆうことでした。なんか、銃による死亡はだんだん減ってるみたいね。ただ、サンプルが3年しかないから何とも言えんけどね。
とゆうことで、
>>58
武蔵さん、アメリカの死亡率で一番高いのは「心臓病」でした。
他の国と比べると、アメリカは多分高いだろうけどね。またヒマがあれば調べてみるよ。
しかし
>>66
の引用見ると、アメリカってヒドイねェ。最悪の国に思えるねェ、これ読むと。(笑
そんじゃあ、またまたスレ汚しひとえにスマソ。(笑
70
:
2chの匿名希望
:2003/08/03(日) 09:49
>>66
追加
この記事って、よく見ると中国国務院の新聞弁公室ってとこが発表したレポオトみたいだね。
そら、中国から見たらアメリカは酷い国になるわなァ。(笑
んで、このサイトは、ある中国人が作った中国に関する情報サイトだね。
こういうのを武蔵さんは情報源にして、アメリカについてもここの情報を信じちゃっている訳ね。
やっぱ、中国マンセーって言われても、仕方がないね。(笑
71
:
武蔵
:2003/08/03(日) 10:14
>>70
>やっぱ、中国マンセーって言われても、仕方がないね。(笑
ここまでは感心しながら読んでいたんですが、このひとことで馬脚を表しましたね。
中国語で「マンセ―」というのかどうかも知らないんですが・・・・
たまたま検索に引っかかったのが、あれだったわけで、言われるまで中国の国務院ってことも考えなかったですがね。
他にもいっぱいありますしね。
http://www.atikurin.com/save21/gun1.htm
主要国の年間銃犯罪による犠牲者( 人 ) アメリカ 40,000
英国 22
カナダ 68
日本 87
いずれも1993年のデータです。
このHPの素性も知りませんが・・・・
72
:
武蔵
:2003/08/03(日) 10:30
http://www.geocities.com/kubozemi11/yamazaki.htm
http://osaka.yomiuri.co.jp/int/int0508.htm
http://rio.andrew.ac.jp/~96e1260/zyuuhozi.htm
http://osaka.yomiuri.co.jp/int/int0517.htm
http://www.kokugai.com/zakki_gun.htm
銃に関するHPはたくさんありますが
私が主張しているのは、
力の論理で動く世界でありたくない。
武器や武力に支配される世界の流れを変えていこうということですからね。
アメリカの国も国民も大好きですよ。
しかし
5パーセントの富裕階層が国の富みの60パーセントを所有するような方向にしてはならないとそういう点について否定しているだけです。
(数字はええかげんです)
73
:
イカフライ
:2003/08/03(日) 11:07
松本人志の「遺書」の中で
「毎年、銃で何万人も死ぬ国の人間に、煙草吸うな、とか、いわれとうない」
なあんて事、書いてあったなあ(立ち読みだったんで、記憶曖昧(^^ゞ)
とりあえず毎年何万人も銃で死んでるのは、ホントみたいね。
74
:
2chの匿名希望
:2003/08/03(日) 15:03
>>71-72
おぉぉ、武蔵くん!
君もやればできるんだね!
君がこんなにソースだしてきたのは珍しいことぢゃないかい?(笑
しかし俺のレスからたった40分で、これだけ検索して、しかもちゃんと中身を吟味したのかい?(笑
こういうところにソースを出す時は、一応中身もちゃんと吟味しないと。
俺にやられたように、軽くつっこまれるよ。(W
マンセーは中国語か、なんて、そんな些細な所で揚げ足とったって、ムナシイだけだよ(笑
まず
>>66
の記事を読んだ時、君はなんとも感じなかったのかな?
あの記事は、世界中の様々な新聞記事を引用して、さも客観的であるかのように書かれているが、
あれだけ「アメリカの人権」に対して否定的なことばかりを並べるというのは、
ある一定の目的があって書かれているとは考えなかったのかな?
そういう場合は、記事自体の信憑性や、書かれた目的をまず疑ってかかるのが、
君の好きな「公平」な態度じゃないのかな?
しかし、君にしては上出来だよ、今回は。
この調子で頑張ってくれたまえ。(笑
75
:
<未入力>
:2003/08/03(日) 15:09
>>71-72
>私が主張しているのは、
>力の論理で動く世界でありたくない。
>武器や武力に支配される世界の流れを変えていこうということですからね。
君の論点は分かっているよ。
だったら、どうして行けばよいと思うのだい?
それから「力」で動かなければ、「何」で動くべきだと思うのだい?
君は意志表明はよくやるんだが、それについての「具体策」とか「政策」とかは、
殆ど聞いたことがないんだがね。
ぼーんさんは、一生懸命考えてるでしょ?
具体的には、どうやって行けばいいと思ってるの?聞かせてよ。
非武装? コスタリカ? 9条の輸出?
(懐疑派の人達も、アキレてんのかもな。もう誰もつっこまなくなったな… ←これは独り言)
これは現実的じゃないと思うよ〜ん。(笑
>(数字はええかげんです)
ほら、だから。
こういうええかげんな数字を臆面もなく出すことが、問題ぢゃないのかい、と言っているのだよ。
もっと言ってることに責任を持たないと。
だから、大神氏にもつきまとわれるのだよ。(笑
76
:
2chの匿名希望
:2003/08/03(日) 16:07
おっと、
>>75
は俺でした。
>>73
アメリカでの銃による死亡者数が、「世界の非武装化」のための根拠になるかどうかはおいといて、
アメリカにおける銃問題は深刻だし、まっちゃんの言葉は蓋し名言でありましょう。(笑
煙草は吸わない、ビタミン剤は飲みまくる、エキササイズを欠かさない、脂肪を含む食べ物は一切食べない…
といった、極端なまでの健康フェチなくせに、
銃を所有し、麻薬をやる… とゆう矛盾を抱えたアメリカ人は多い模様。
しかし、アメリカは大変広くて、人種のるつぼであります。
東海岸、中西部、中南部、西海岸…文化はぜんぜん違うそうです。
また国民も、出身国の文化を受け継いでいるので、
何系(アイルランド系、ユダヤ系、中国系等)かによっても、文化はぜんぜん違うらしい。
アメリカを一元的に語るのは、なかなか難しいと思われます。
よって66のやふな、一元的な記事には??????なのであります。
ところで、いつになってもスレ汚しを終われないのであります。(苦笑
77
:
2Ch反戦スレ@199</b><font color=#FF0000>(/.5KaZXM)</font><b>
:2003/08/03(日) 17:43
武蔵氏へ
>中国語で「マンセ―」というのかどうかも知らないんですが・・・・
「マンセー」とは朝鮮語で「万歳」の意味です。
78
:
武蔵
:2003/08/04(月) 01:59
>>74
>しかし俺のレスからたった40分で、これだけ検索して、しかもちゃんと中身を吟味したのかい?(笑
こういうところにソースを出す時は、一応中身もちゃんと吟味しないと。
俺にやられたように、軽くつっこまれるよ。(W
出かける直前だったが
以前に検索したときに出てきていたのを、転写しただけだからね。
読みはしたが、吟味というほどのことはしていないよ。
人に突っ込まれることに、予防線を張ろうとも思っていないよ。
突っ込まれることが恥だとも思っていない。
ここは掲示板なのだから、いろんなことが起こるだろうし
それで学べたらいいじゃあないか。
>あれだけ「アメリカの人権」に対して否定的なことばかりを並べるというのは、
日頃私自身が思っていることでもあったから、別に疑ってみもしなかったが・・・
79
:
武蔵
:2003/08/04(月) 02:13
>>75
>非武装? コスタリカ? 9条の輸出?
(懐疑派の人達も、アキレてんのかもな。もう誰もつっこまなくなったな… ←これは独り言)
これは現実的じゃないと思うよ〜ん。(笑
わたし自身がまず実践していることだからね。
我が家は戸締りや防犯ベルはきちんとつけているが
武器は金属バット一本持っていない。
その代わり隣近所とは、常に親密な付き合いをしている。
「具体策」とか「政策」とかは―――あらゆるスレで常に述べている。
あなたは現実的でないというが、私は最も現実的だと思っている。
「北朝鮮は、今、一切の武力を廃止し、軍隊を人民救援隊として、農業牧畜等の食糧生産を始めとする活動部隊に改変し、それを世界に表明する」
その方が生き延びられる」 と・・・・客観的な立場ではそう考えられる。
だったら、日本を客観的に見ても、非武装で9条を輸出して信頼を得ることによって、絶対不可侵の国にしていくことができるといえる。
80
:
cathoderay
:2003/08/04(月) 02:15
>> 武蔵さんへ(一応つっこんでおきましょう)
コ ス タ リ カ っ て
ニ カ ラ グ ア に 侵 攻 さ れ ま せ ん で し た っ け ?
日本を侵攻を受けやすいような国家にしようということですか?賛成しかねますねぇ
コスタリカは安全保障条約とほぼ軍隊に近い国境警備隊を所持していたと記憶しているのですが
記憶違いでしょうか? 日米安保条約のようなものももっているし
有事法制、徴兵制度もあると記憶していますが・・・
いえいえ、見習っていただいていいのですよ。(笑)
しかしながらコスタリカが平和を希求して、達成した非武装中立の楽園 などというのは
大間違いですよ。
81
:
cathoderay
:2003/08/04(月) 02:19
中立どころか 1から10までアメリカ依存・・・ という気がしますがね
おっと日本そっくりではないですか
見習うとかいわなくてももう十分そx(略
82
:
武蔵
:2003/08/04(月) 03:11
>>80
よくご存知ですね。
どのくらいの期間滞在なさったのでしょうか?
または、どんな資料で調べなさったのでしょうか?
わたしも一度ぜひじっくり訪れたいと思っていますが、まだチャンスがありません。
ニカラグアに侵攻されて、独立を失っていた期間は、富国強兵敗戦である日本の5年より長かったのでしょうか?
軍隊がないのに徴兵制度?
これらのことを確かめたいので、ソースをお教えください。
83
:
親切な2chの匿名希望
:2003/08/04(月) 03:52
コスタリカのソース
http://hunbook.hp.infoseek.co.jp/column/costarica.htm
http://www.costarica.co.jp/
84
:
2chno
:2003/08/04(月) 04:01
>わたし自身がまず実践していることだからね。
>我が家は戸締りや防犯ベルはきちんとつけているが
>武器は金属バット一本持っていない。
>その代わり隣近所とは、常に親密な付き合いをしている。
だって、君が自衛しなくたって、警察が守ってくれるじゃん!
国際社会にそんなもんあるの?
85
:
2chの匿名希望
:2003/08/04(月) 04:02
>>85
おっとコレも失礼。
キーを押し間違えて、名前が中途半端でカキコされてしまった。
86
:
武蔵
:2003/08/04(月) 10:46
>>83
ご親切に有難うございます。
日本外務省の
2.軍事力 (1)防衛・国内治安予算19,813百万コロン(99年予算)(約78百万ドル)
(2)兵役 なし
(3)兵力 1948年憲法により常設軍を禁止。治安維持のための国家警備隊及び地方警備隊あり。(約8,000人)
これ、参考になりますね。
約8000人の国家警備隊及び地方警備隊がいるんですね。
346万人に対する人口比で、多いのか少ないのかも、分かりませんが
外国侵略の心配はなさそうに思います・・・・
「軍隊を捨てた 自然保護の先進国 年金生活者の楽園」という
公式HPのキャッチフレーズをアタマから信じることもできないとは思っていましたが
今も実地に行って学んで来たい要素がたくさんある国家経営であるとは思います。
87
:
武蔵
:2003/08/04(月) 10:57
>>84
>だって、君が自衛しなくたって、警察が守ってくれるじゃん!
国際社会にそんなもんあるの?
国連軍と言うのが、公平な警察の働きをしているとも思えない現在
国際社会にそんなもんあるとは思いません。
しかし国際関係においては、個人のように、
警察が居なければ無法者がならず者のままでやってはいけないですし
またやっていけない国際システムを作っていかねばならないでしょう。
医療を中心にした救援隊をつくるなど、国際的に日本の力を無視できない
重要な国にしていく必要もあると思っています。
いずれにせよ困難な道だとは思いますが、不可能な道だとは思いません。
むしろ軍備強化によって近隣国の不安を増したり、イラクまで派兵して
国際的なテロの対象国になるよりは、
近道だと思います。
88
:
○○番長
:2003/08/04(月) 11:12
>>68
2chの匿名希望殿
深謝深謝。全く僕の不注意でしたわ。
一応医療関係者の端くれでありながら、このような初歩的ミスを犯すとは…。
笑いものにしてやって下さい(欝
おかしい所があったら、ドンドン叩いてやって下さい。
89
:
大神
:2003/08/04(月) 22:43
>>コスタリカ
346万の8000人。日本の自衛隊と同じ人口での比率になるな。
90
:
武蔵
:2003/08/04(月) 23:05
>>89
単語的には「国家警備隊及び地方警備隊」というのは、警察官(鉄道や海上保安官)のようなニュアンスを感じますが、
コスタリカではそれが自衛隊に当り、日本と同じくその他に警察官もいるのでしょうか?
91
:
○○番長
:2003/08/05(火) 00:03
>>65
ぼーんさんへ
腐れソースをぶち上げた所で、誠に心苦しいのですがお返事を(欝
>αを掲げているからこそ、「行動がαと矛盾していること」を
>問うことができるのです。
>それで「結局何も事態が変わらない」とは言い切れません。
>「結局何も事態が変わらない」という主張には、根拠がないと僕は考えます。
結局みんなαを当為として認めるでしょう。いやそれを大っぴらに否定して事を成す
国家や組織、個人は居ないと僕も考えます。その点僕とぼーんさんの認識に違いはない。
αを否定してはいない訳です、誰もが。古代や中世ならいざ知らず、
少なくとも現代においてはそう云う看板は降せないのでしょう。
でも看板は看板です。看板を掲げて得になるなら幾らでも掲げるでしょう。
おそらくαを掲げるコストは無いのですから。政治屋が色んな団体の理事や
顧問になるように(笑
どうして僕が何も変わらないと書いたかと云えば、α認知後にできることが
殆ど残っていないからなんです。α肯定・否定での色分けは出来ない。皆が
認めているから。色分けが出来ない、認知に関して差別化出来ないという点
において、思考停止やと書いた訳です。
αと行動との矛盾点を突いて、戦争などのα違反行為を是正させると考えて
おられるようですが、何がどのくらいαに反しているかの基準、
即ちガイドラインがない以上、それも相当難しい。と云うのは、お互いが
αに基づいて行動していると主張するからです。現状をみれば想像に難くない。
どんな悪行にも必ずαの旗印が揚げられることでしょう。
曰く自由と平和を齎す為。曰く抑圧を撥ね退ける為。曰く搾取を無くす為と。
先にも書きましたが、理窟と膏薬は何処にでも付きますから。
92
:
○○番長
:2003/08/05(火) 00:29
>>91
続き
>これは論理的に言っておかしいです。
>行動はともかく、「αを認めざるを得ない」ということは、
>もっとも悪い状況においても「無力だ」とまでしか言えず、
>このことが積極的に悪いことになることはありえません。
ここで仰っている『論理的』と云う意味が僕にはよく呑み込めませんが、
ここでα認知が積極的に悪い結果を齎すかどうかを考えてみましょう。
もしも先に書いたαのガイドライン(ホロコーストと戦争犯罪、
衝動的殺人との差異を測る基準みたいなもの)なしに、αとの矛盾を
突いてしまうと、三者とも同じ罪科になってしまう。これは感覚的にも、
道義的にも、また現行法との兼ね合いからいってもおかしい。
巨大悪を相対的に庇う形になる点で非倫理的ですし、三者の区別を
しない点で思考停止でもあります。
全員ではないにせよ、多くの人間がα認知した後、やはりガイドラインは
必要不可欠、というより正にそれこそが大問題やないのかと僕は考えます。
ガイドライン・ぼーん試案が既にあるのなら、是非お聞かせ頂きたく思います。
またどこかに書いておられるなら、お手を煩わせることなく、スレタイとレス番を
教えていただければ結構です。
93
:
○○番長
:2003/08/05(火) 01:20
>>92
続き
α違反の矛盾を効率よく、かつみんなが納得のいく形で突く為にも、
ガイドラインは必須ですね。α認知の有無に僕が余り大きな意義を
見出せないのは、偽りのα認知を人間はし勝ちだと云うこと以上に、
この基準がよく分らないからでもあります。
α否定者に対しては武力をもって従わせれば済むことです。なんと
言ってもα認知者・肯定者は圧倒的多数ですから、もはや相手の認否は
問題になりません。僕は決してそう考えませんが、ぼーんさんにとっては、
α否定者を強引に従わせようとも、相手に非難される謂れはないとの
ことですから。
ガイドラインの必要性は同意頂けるでしょうか?行列の割り込みと
ホロコーストが同じ罪科でないのは明らかですから、あえて言挙げ
するまでもないと思いますが・・・。
ではそのガイドラインはあるのか?それともこれから作り上げるもの
なのか?恐らくぼーんさんは後者の立場ですね。
ここでまた争いが起こりましょう。誰も自分の不利なように基準を決めたくは
ないでしょうし。αを掲げたもの同士、汚物を投げあうような非難中傷合戦。
見るに耐えませんね。あんたらエエ加減にせなあかんよと言われても、α否定者は
ダマットレ!!!と一喝。α認知が引き起こすもう一つの問題、人間の我欲を放置
したままでのガイドライン作成は、結局争いを止められないことです。
一見α認知に直接関わりは無いようですが、αを一度戴いてしまったが最後、
お互いのエゴ調整に取引や交換は不可能になること、互いの立場を正当化する
ものはαしか無くなることを鑑みれば、α認知のしからしむる所と言えます。
94
:
○○番長
:2003/08/05(火) 02:02
>>93
続き
>たとえば、殺人犯が政治家の脱税を告発した場合と、
>そういった大きな罪を取り立てて犯していない人が
>同じ罪を告発した場合で、そこに差が生じるとは思われません(
>>65
)
立場を問わず告発出来る為にこそ、僕がしつこく言い立てるガイドラインが
必要やないんですか?微罪を大罪と同一視しないため、また違反は違反として
裁くために、何らかの基準が要ります。
しかしその基準を巡って争いが起こりうる。もし人間の我欲を放置したまま
であれば。α認知では何も変わらないと書いたのは、この点にも当てはまります。
今も行われている利権争いが、そのままαガイドライン作成権の争いに
棚上げされるだけだからです。α肯定者同士で揉め、α否定者の意見には
耳を貸す義務は無いとするα理論に、一体どれほどの価値、有用性があるのか
僕には疑問です。
ここまでの僕の疑問点を纏めますと・・・
①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。
②αに基づいて秩序を構築するには、実際の運用法、
ガイドラインが必要不可欠であるものの、それが無い。
③ガイドライン作成で大きく揉める。少なくとも人間の我欲を
放置したままならば。
今のところこんなもんです。
95
:
大神
:2003/08/05(火) 19:46
>>コスタリカ
http://www1.ocn.ne.jp/~mourima/sindou.html
警察とは違うな。海上保安と自衛隊を合体させたようなものだな。
軍隊の保持も禁止していない。
96
:
大神
:2003/08/05(火) 20:29
>>95
ちなみにこの軍隊の保持を禁止していないは、12条に書いている通り
緊急時に国会の承認で軍隊編制が出来るの意味。
97
:
武蔵
:2003/08/05(火) 21:48
>>95
>>96
すごい検索力ですね。
これは有り難いです。
コスタリカへ行っても、これだけのことをつかめるとは思いません。
一通りは読みましたが、お気に入りに入れ、行くチャンスがあればプリントアウトして持っていきます。
これを読んで、関心は増しました。
>緊急時に国会の承認で軍隊編制が出来るの意味。
他国軍が上陸して来たような場合は当然だとも思います。
他国へ攻め込むことはなさそうでもありますね。
何はともあれ、このリンク有難うございました。
98
:
イカフライ
:2003/08/06(水) 06:55
>>95
このサイト、見てみました。ジックリ読んではいませんが、長野の弁護士さんの個人ホ−ムペ−ジですね。
反戦系の記事も多いし、ゆっくり読むと、参考になりそうです。
99
:
ぼーん
:2003/08/06(水) 10:45
>>94
> ①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
> 否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
> 誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。
これが現状ですね。
だからこそ、αを掲げることのコストを適切に引き上げるために、
「行為とαの整合性」をどんどん問題化していく、という方向がありえるわけです。
> ②αに基づいて秩序を構築するには、実際の運用法、
> ガイドラインが必要不可欠であるものの、それが無い。
ガイドラインは、完全なものがあるわけではありませんが、まったくてがかりがないわけでもない。
たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。
そう意見が分かれる問いとも思いません。
> ③ガイドライン作成で大きく揉める。少なくとも人間の我欲を
> 放置したままならば。
②での説明との関連で言うならば、「私のおやつへの権利」よりも
「誰かの生存に必要な食料への権利」を上位におく事は、私にとって「損」でありえます。
しかし、私たちは、自分たちの欲望をαとの関連付けにおいて正当化するという立場に立つならば、
個人的には損になるとしても認めざるを得ない事柄が少なからず存在します。
ですから、揉めますけども、いくつかのことについては、そう意見の分かれない基本的前提を作ることは可能です。
少なくとも、先の2つの権利について、より生存の基礎たる権利の方を上位におくことについて、
番長さんは否定なさらないと思いますがどうですか?
番長さんは、上記2つの権利について、どちらを上に置きますか?
番長さん自身が責任を持って選ぶ選択として、どちらを上に置くことを選びますか?
もし、より生存に基礎的な権利を上に置くならば、そしてそういう人が十分に多いならば、
そういう規範を実効的なものにしていくことは、少なくとも民主的な社会においては可能です。
民主的な社会において可能なら、国際社会で力を持っている国の多くが民主的な国家ですから、
国際社会においてもまったく不可能な話ではないわけです。もちろん、そう簡単な道筋だとは言いませんけどね。
100
:
イカフライ
:2003/08/06(水) 11:12
>たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
>別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
>どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。
>そう意見が分かれる問いとも思いません。
殆どの人は、後者を優先させるべき、確かに言うでしょう。
けれど、殆どの人は実際には、誰かの生存に関る食料より自分の楽しみのおやつを優先させてしまうのではないでしょうか?
101
:
大神
:2003/08/06(水) 13:11
>>97
>コスタリカ
喜んでもらって何より
102
:
ぼーん
:2003/08/07(木) 11:43
>>100
> 殆どの人は、後者を優先させるべき、確かに言うでしょう。
> けれど、殆どの人は実際には、誰かの生存に関る食料より自分の楽しみのおやつを優先させてしまうのではないでしょうか?
させているでしょうね。
しかし、まずは、後者を優先させるべきであるが、私たちはそれを優先させていない、という現状認識から出発しなければなりません。
問題の解決のためには、まずは問題の認知です。
そこまでは同意できますか?
同意できるならその先の話ができますが。
103
:
イカフライ
:2003/08/08(金) 14:56
>>102
あの、今更って言われるかもしれないけれど。
aの思想、ここでは自分の今日の楽しみのおやつより生存に関る他者の食料を優先させる、というのは、別に目新しい考えでも珍しい考えでもなくて、すご-く当たり前な
社 会 の 基 本
なわけなんだよね。
てのは、ちなみにa否定の世界を考えてみよう。
欲しい物があれば、誰かから奪う、文句言われればぶん殴る、気に入らないヤツはぶっ殺す、ヤリタクなったら強姦する。
それって修羅の世界だよね。
強者だけが生き残る、って言い方も出来るかもしれん。ところが、この強者ってのも、実は一様じゃないんだ。
原始の社会では、腕力に秀でた者が強者だろう、けれど、ひ弱なのび太もジャイアンの給食にこっそり毒薬を入れれば勝てる。
繰り返すけれど、奪い合い殺し合いの世界だよ。
それこそ、殺しあったあげくに滅びちゃわないかな。
でね、
>後者を優先させるべきであるが、私たちはそれを優先させていない、という現状認識から出発しなければなりません。
は、何故か?
ひとつはル−ルが完璧ではないってことだよね。
ル−ルってのはさ、気に入らないから殺す、とか、欲しいから盗む、という事をすれば、まあ、大体の国では警察に捕まって罰せられるよね、基本的に。
勿論、大半の人は、それがいけないことだ、と思ってはいる、でも、反面ばれなきゃいい、と思うのも事実だし、それどころか、んなこと、悪いなんてヘとも感じないやつもいる。
もうひとつは、後者を優先させるべき、と思いつつ、それを優先できないか?という理由、まあ、心のというか、人間のあり方の問題と言うか。
それが、我欲ってやつじゃないか、と思うんだ。
これも何度もいって、進歩なくて悪いけれど、私は利己こそ人間の本能で、利他はあとつけの道徳だ、とは思わない。
利己も利他も、おなじように備わった人間の本能じゃないか、と思う。
というのは、我欲が無ければ、人は死んでしまう。飢えたトラの子の前に自分の身を投げ出すのは、宗教講話としては良いけれど、実際そんなことやってばかりいたら、これも人類滅びちゃいそうだね。
社会のル−ルっていろいろあるけれど、基本は共存することだよね。
それには、みんなが自分の事だけじゃだめ、だよね。
でも、反面、人間は我欲から逃れられない、この矛盾をどうするのか、って事かな、私に考えられるのは。
まあ、みんなと仲良くするのは不可能だけど、喧嘩しないで済む方法を作り出していく、というか。
104
:
三毛猫ナナ
:2003/08/08(金) 17:00
>>102
問題を認知させる必要性はイカフライさんも
私も認めています、相違点はその方法です。
貴方がそれを万能であると思われるならマル
クスの言う疎外に陥っていると言わざるを得
ません、貴方は社会法則を甘く見すぎなので
す。
イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
を良く理解されています。
私達が正しいとする思想の結末はどの様になるか
は未知数ですし、将来もしかしたら私達の理解も
承認も越えた所にある方法で世界平和が成される
かも知れません。
先の見えない未来の他者の為にも、私達の信じる
思想も認めない思想も全てを置いておくべきなのです。
私達が成すべきは存在否定ではなく存在肯定によって
全ての者に未来を切り開くことなのです。
105
:
三毛猫ナナ
:2003/08/08(金) 17:16
貴方の主張は皆がアルファを認め行為に移せば
平和が成されるとするものですが、私はそれが
全てだとは思えないのです。
人は利己的で世は無情です。
その様な社会法則を変え、皆にアルファを守ら
せ続けるには共産主義的な暴力を振るい続けな
ければ無理だと推測します。
貴方の情熱は評価します、でもそれを現実に変
える為の判断力も大切なのです。
現実に負け判断力に驕るのでは話になりません
が、両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す
為に必要ではないでしょうか?
106
:
イカフライ
:2003/08/08(金) 20:23
>>104
>イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
を良く理解されています。
あはは、どうも(^^ゞ
ぼ-んさんもね、理解していないことは無いと思うのだ、あれだけ頭のよいひとだからね。
ただ、ぼ-んさんの意見を聞いていると、それが理念と義務とで解決できる、といわれているように思える。
それは、どうなのかなあ、と思うわけですよ。
義務、というのは、罰則またはご褒美がなければ成立たない事がおおいんじゃないだろうか?
107
:
イカフライ
:2003/08/08(金) 20:28
人間が一番動くのは、「せねばならない」ではなくて、「したい」ではないのかな、と思う。
特に、能動的・積極的に動くのは。
義務だけで動くのは、仕方なく、ではないだろうか?
つまらない仕事だったら、それしか仕事がなくて食えないなら、まあ、仕方ないからやるけれど、最低限しかやらない、その最低限ですら、
「給料が貰える」からと「無断欠勤するとクビだから」がなければ、やらない。
でも、好きな仕事は一生懸命やるよね、仕事でなくても、趣味でもなんでも好きなことって、採算を度外視しても情熱を傾ける。
そんなもんじゃないのかなあ。
108
:
ぼーん
:2003/08/09(土) 11:35
>>104
> 貴方がそれを万能であると思われるならマル
> クスの言う疎外に陥っていると言わざるを得
> ません、貴方は社会法則を甘く見すぎなのです。
僕の主張は、むしろ甘く見ているのはあなた方の方だ、
というものです。
> イカフライさんはその点、人の多様性、混沌
> を良く理解されています。
しかし、その多様性の中でどのように振舞うことが効果的か、
については、僕が批判したいくつかの点についてすら、
不十分な考慮しかしていないことは明らかだと思います。
> 私達が正しいとする思想の結末はどの様になるか
> は未知数ですし、将来もしかしたら私達の理解も
> 承認も越えた所にある方法で世界平和が成される
> かも知れません。
> 先の見えない未来の他者の為にも、私達の信じる
> 思想も認めない思想も全てを置いておくべきなのです。
> 私達が成すべきは存在否定ではなく存在肯定によって
> 全ての者に未来を切り開くことなのです。
もし、そのような道が見つかるとすれば、それは徹底的な相互批判を通じてでしょう。
僕がある思想を存在否定しているとすれば、それは現時点において説明できている範囲において、
不十分であるかまたは矛盾がある、という意味で否定しているだけです。
その人が、それでも将来にわたって考察を続けて不十分さや矛盾を解消したいのだ、と述べるならば、
それを否定するつもりはありません。
否定しているのは、今、現時点で批判に答えられない、という暫定的な総括をも拒む態度です。
>>105
> 貴方の主張は皆がアルファを認め行為に移せば
> 平和が成されるとするものですが、私はそれが
> 全てだとは思えないのです。
これはまた随分と単純化されたものです。
> 人は利己的で世は無情です。
> その様な社会法則を変え、皆にアルファを守ら
> せ続けるには共産主義的な暴力を振るい続けな
> ければ無理だと推測します。
何をもって「共産主義的暴力」と述べているのか分かりません。
前の「叩き出す」のときのように、物理的暴力以外のものをさして「暴力」と呼んでいるのであれば、
それは比喩以上の意味を持ちません。言説による批判を暴力と呼ぶならば、それは単に議論の
否定に過ぎません。
> 人は利己的で世は無情です。
この、極めて重要であるけれども、それだけを言うならばあまりにも単純すぎる人間観・世界観は、
もはやそれ自体元凶である、と僕は考えています。
人間の利己性は、もっとも強力で、社会を考える上でもっとも重要な側面ではありますが、
考慮すべき唯一の側面ではありません。
> 貴方の情熱は評価します、でもそれを現実に変
> える為の判断力も大切なのです。
> 現実に負け判断力に驕るのでは話になりません
> が、両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す
> 為に必要ではないでしょうか?
「情熱は評価します」という婉曲な侮辱を僕が喜んで受け取るとでも思っているのでしょうか?
これが、「相手を見てやり方を変える」ということの一例であるのならば、随分となめられたもんだなぁ、と思います。
あなたに情熱以外のものが見えていないのは、あなたがそこに情熱以外のものを読み取れていないからです。
両者を根気よく持ち続けることと、根気よく原則的に現実に抗すること、どちらが必要なのか、それがまさに今議論されていたことです。
「両者を根気良く持ち続ける事が目的を成す為に必要ではないでしょうか?」とおっしゃるなら、そのことの必要性を説明してください。
> イカフライさんはその点、人の多様性、混沌を良く理解されています。
というのもそうですね。多様性や混沌があるからこそ、そこに多様で混沌とした方法を用いてはならない、という可能性もあります。
多様性や混沌があるから必ず方法も多様で混沌であるとは限らないのです。
また、方法が多様であるとしても、どのレベルで多様なのかは一意ではありません。
それこそがまさに議論になっているはずだったのですが、そこは都合よく無視して、こうして結論めいたことをさりげなくおっしゃる。
ズルイな、と思います。
109
:
ぼーん
:2003/08/09(土) 11:44
>>107
僕の知る範囲での運動を見る限り、「したい」からやってる運動は、まさに「自分のためにやってるだけ」
になりがちであり、その運動が当事者にどんな影響を与えているか、まったく反省のない運動になることも
しばしばです。
介護の現場で腐るほど見てきました。
「やらなきゃ生きられない」障害当事者は、「したい」からやってる支援者が逃げないために徹底的に気を遣い、
どんどん消耗していく。そんなことが、ホントに驚くほど頻繁に起こってます。(これは僕の周囲だけの話ではなく、
一般的な話です。支援者と障害当事者の関係は障害学関連の研究会でも何度かテーマにされてますし、
ボランティアに対する怨嗟をつづった詩なども、ネット上で読んだことがあります。)
そんなんでもやらないよりはマシだったりしますけどね。
まったく外出の不可能な生活よりは、支援者に気を遣いながらでも外出の可能な生活の方がマシといえば
マシで、だから不満があっても当事者は運動から離れないことは多いですけどね。(怒って離れる人ももちろん
います。)
また、イカさんがここで言う「義務」は、全然違うものをごっちゃにしています。
他者から義務として引き受けさせられるものと、
私自身の人間としての一貫性を保とうとしたら義務になってしまうものを自ら引き受けていくのとでは、
全然意味が違います。
110
:
ぼーん
:2003/08/09(土) 11:45
>>109
注釈。
「たのしくやる」ってのと、「たのしいからやる」ってのは、全然違う話ですよ。ってこと。
111
:
イカフライ
:2003/08/09(土) 19:25
>>109
>他者から義務として引き受けさせられるものと、
>自身の人間としての一貫性を保とうとしたら義務になってしまうものを自ら引き受けていくのとでは、
>然意味が違います。
これが、前者が「したくちゃいけないから」やる、であって、後者は「したいから、楽しいから」やる、の差じゃないかなあ。
勿論、後者でも、それプラス義務がないと、難しいけれど。
昔ね、ある同人誌をやってた時、締め切りを設定するかどうか、でもめたことがあるんだ。
で、ある人が、
「同人誌は自由な創作の場であり、イマジメ−ションが湧いたときに作品を作るものだから、締めきりは設定するべきではない」
と言って、私が
「だからこそ、締め切りを設定しないと、いつまでも作品は集まらない」
と反論したんだけれどね。
一番いいのは、それが好きであり、しかもせねばならない、という責任があることだよね。
やりたくもないのに仕方なくやる仕事ではプラスアルファは生じない、けれど、その仕事が好きでやりがいを感じたら、その給料以上に人は頑張るからね。
112
:
イカフライ
:2003/08/09(土) 19:41
ところで、感覚的な意見で悪いけれど。
>>105
の三毛猫ナナ さんのレスを読んで、なんか、じ-んときちゃった。
なんでかなあ、とか考えたんだけれど、ナナさんの苦悩、っていうのかなあ、そういうの感じちゃって。
別にかばってくれてるから、ということではないよ。
世界が残酷なのは、当たり前だ。
その残酷な世界で、我々はなにを成すべきか。
世界の残酷さに目をつぶって、理想論の天国だけにしがみつくのも、残酷な世界に負けて「仕方ない」とうそぶくのも、世界に負けるのは、同じ事なんだよね。
けれど、その残酷な世界を直視しながら、なおを理想を持ちつづける事って、すごく苦しい。
それに、なんかじ-んと来た、みたいな。
113
:
○○番長
:2003/08/09(土) 22:15
こんばんわ〜。返答をほっぽらかしてレスしてしまいます(謝
なるほど、納得がいきました。
ぼーんさん=介護職orボラ=青い芝の会=α
のラインで考えれば、何か一本の線でつながるように思えます。
何や、類似業者やないですか、ぼーんさん。まあ僕は高齢者や中途障害者、貧困者に接する機会が多いんですが、その点は違うかもね。CPとか筋ジスの人らでしょうか?ぼーんさんのお付き合いのある方たちといえば。
関係ないレスですんません
114
:
○○番長
:2003/08/09(土) 23:31
ぼーんさんへ
>> ①αの認否に大きな意義は無い。α認知派・肯定派は多数なので
>> 否定者を圧殺するのは容易いから。またローコストなら
>> 誰でも気軽にαの御旗を掲げるであろうから。
>これが現状ですね。
>だからこそ、αを掲げることのコストを適切に引き上げるために、
>「行為とαの整合性」をどんどん問題化していく、という方向が
>ありえるわけです(
>>99
)
ありえると云うより、整合性を問題にする、その追求を現実の力たらしめる以外に
αによる秩序構築・平和確立はありえませんね。となると、やはりガイドラインと
それを遵守させる力の双方が一番問題になるわけです。ガイドラインについては
また縷縷述べるとして、それを守らせる実行力は、武力が根幹になると僕は
考えているのですが、ぼーんさんは如何お考えでしょうや?
>ガイドラインは、完全なものがあるわけではありませんが、まったくてがかりが
>ないわけでもない。
>たとえば、私の今日のたのしみのおやつを獲得する権利と、
>別の誰かの生存に関わる最低限度の食料を獲得する権利と、
>どちらがより根源的・基本的権利と言えるか。
>そう意見が分かれる問いとも思いません(
>>99
)
普通に考えれば、最低限度の食料>おやつに違いありません。
それで大揉めすることはないでしょう。権利の比較だけならば。
ただ実際問題として、目の前にいない人々の苦悩、たとえそれが飢餓線上の
人達のものであったとしても、その苦しみをどこまで人間が共有できるか
僕には相当疑問です。同苦同悲の境地に至る者は僅かでありましょう。
行為とαとの整合性を突くといっても、完全に守らせることはもちろん、
不完全にでも遵守させることすら、多大の努力を要するでしょう。
幼児教育から学校教育、α御用学者(?)養成、政府広報、マスコミなど
あらゆる媒体を駆使して、α遵守を呼びかける必要があります。こと食というのは
人間の本能に関わる事、生半な教育・宣伝では如何ともし難い面があります。
ときには罰も必要です。1日の必要カロリーは、活動性の高くない人で大体
30〜35kCal/体重(㎏)くらいですが、実行するしないに関わらず、
余剰分を飢えた人々に分け与えるように要請するでしょう、理念αは。
また衣食住など全てにわたってαが介入するようになれば、あまりに窮屈な
世界になってしまう。それは大げさだと思うかもしれませんが、理念とは
そういうものです。無条件の当為とはこういうものです。
簡単なこと、おやつと必要食料についてすらこの呈でありますから、もっと
難しい問題、ホロコーストと戦争犯罪の比較、胎児の医療的利用(パーキンソン病
患者団体は積極的とききます)、売春合法化問題など、微妙な課題に関しては、
殆ど白紙なのではありませんか?まあこれらは何をもってこようと百家争鳴と
なるのでしょうが…。
115
:
○○番長
:2003/08/10(日) 00:22
>>114
続き
>少なくとも、先の2つの権利について、より生存の基礎たる権利の方を
上位におくことについて、番長さんは否定なさらないと思いますがどうですか?
番長さんは、上記2つの権利(注:必要食料とおやつ獲得権)について、
どちらを上に置きますか?番長さん自身が責任を持って選ぶ選択として、
どちらを上に置くことを選びますか?
(
>>99
)
自信を持って前者と答えるでしょう。僕はかなりの大食漢ではありますが、
病人の布団を剥ぐ真似はせんと思います。
ただ近視眼的かつ刹那的な僕の行動を鑑みれば、その回答を世界にいる全ての人に
適用するのか?と聞かれれば、かなり怪しいものになるとも思います。僕の関心は
自分を中心にした同心円状になっているからです。僕だけではないでしょう。
およそ人であるなら、みなそういう風に行動しているのやと、経験上そう考えます。
それは公正概念+情だ、みたいなことをぼーんさんは書いてたように記憶しますが、
確かにひとつの解釈ではあります。
ただそうやって人間の内面を幾つかの構成要素に分けて考えると、公正概念と情だけ
では少々荒い解釈であります。ひとつはその比重について。もうひとつはその
要素数についてです。
公正概念と情の比重が9:1くらいならいい。でも5:5、3:7、1:9ならどう
なのか?1:9であるなら、公正概念という内面の事実は、人間にとって
瑣末なものでありましょう。そして公正概念を拡大させるのは人間の生理に反する
ことと言ってもよくなる。
次に構成要素数についてですが、公正概念と情の二つだけが人間の内面を占めている
訳ではありません。ここで『情』を肉親の情・近しい人の誼としますと、
この『情』の他に、信仰心や道徳感情、習慣、先入見、生理的反射、個人的嗜好など
多彩なものが人間の内面にはあります。よしαが万人に共通のスキーマであると
しても、それは比重の面からも、また数の上からも、一部分でありましょう。
人間の一部分を肥大させ、それを現実変革の足場にする考えは、
いささか楽観的過ぎるように写ります。
人間的な事実を元にしか、社会や国家を考えられない僕にとっては。
116
:
武蔵
:2003/08/10(日) 00:51
>>115
突然割り込みすみません。
>ただ近視眼的かつ刹那的な僕の行動を鑑みれば、その回答を世界にいる全ての人に
適用するのか?と聞かれれば、かなり怪しいものになるとも思います。僕の関心は
自分を中心にした同心円状になっているからです。
こういう感覚はほとんどの人が共有していると思います。
目の前に餓死しかけている人がいる時に、これ見よがしにおやつを頬張る人・・・余り考えられません。
しかし、世界中の飢餓がなくなるまでおやつを食べない人も少ないでしょうし、
個人的にそれを実行しても、余り意味はないでしょう。
ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革しく展望があったとしたら?
そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが・・・・
117
:
イカフライ
:2003/08/10(日) 01:23
>>116
>ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革しく展望があったとしたら?
そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが・・・・
その展望を探しているのではないでしょうか?
私、他スレにもいろいろごちゃごちゃ書いているので、意見が重複してしまうかもしれないのですが。
食糧問題でいえば、世界の供給料だけを見れば、現在の世界人口を養える量は足りている、あとは配分の問題だ。
じゃあ、少なくとも生存ギリギリの量だけは、配給できるようにすればいい。
あら、簡単じゃない、と思うけれど、じゃあ、具体的にはどうやって配給するの?
となると、ちょ-難しいですよね。
日本の国を考えてみれば、完璧とはいえないまでも、例えば生活保護などのように最低限の福祉はシステムとして存在している。
それでも、その保護からこぼれる人もいるとしても、極論として物乞いするなり、食物屋のゴミ箱を漁れば、飢えない程度のものは満たせる。
じゃあ、これを世界に当てはめてみる、そうなると、国家を超えた組織とシステムが必要ではないか?
と思える。
そして、そのシステムを、というか、どんなシステムでも、それを守らせるには、強制力と大多数のコンセンサスの両方が必要なのだ。
と、あまりにも漠然とした答えになってしまう。
武蔵さんの考える展望って、どんな像なんでしょうか?
118
:
武蔵
:2003/08/10(日) 02:06
>>117
< 展望 >
飢餓の原因がいろいろあるでしょうから、その原因にメスをいれて個々の対応が必要ですし、
ひと言で言える問題ではないと思いますが、
あえてひと言で言ってみると、「教育」だと思います。
国際的なプロジェクトで、学校つくりと就学援助をすること。
その地に合った産業開発と職業訓練も必要かと思います。
医療頭脳の輸出などは日本がぜひ行ないたいと思います。
(国際的な名誉ある地位が得られます)
国境なき医師団なんかは、国や国連が強力に支援すべきだと思っています。
まあ、こんなことは粗末な頭からひねり出す一例ですので
個々の国についての知識を寄せ合って、研究する組織がまず必要でしょうか?
歩くにの企業をもうけさせるための支援ではなく、あくまで必要とする国の実情にそって考えるシステムが大事だと・・・
119
:
武蔵
:2003/08/10(日) 02:17
変換ミス
歩くにの企業→ある国の企業
120
:
○○番長
:2003/08/10(日) 02:51
武蔵さん、こんばんは。
>こういう感覚はほとんどの人が共有していると思います。
>目の前に餓死しかけている人がいる時に、これ見よがしにおやつを頬張る人・・・
>余り考えられません。
>しかし、世界中の飢餓がなくなるまでおやつを食べない人も少ないでしょうし、
>個人的にそれを実行しても、余り意味はないでしょう(
>>116
)
古今東西、人間って同じですわ。当たり前ですよね。
もちろん例外もあるんでしょうけど、例外をもって人間の
本質ということにはならないと思います。
僕の出発点はいつも人間として当たり前の感覚からなんです。
難しい理窟はよく分らないもんで(汗
>ただ、そういう世界の矛盾を知って、その構造的矛盾を根こそぎ変革していく
>展望があったとしたら?
>そんな方向性で世の動きを見つめて考えていきたいと思うんですが…(
>>116
)
根こそぎ変革しうる方法論として、ぼーんさんはαを提唱している訳なんですよね。
正確に言えば、世界に遍く存在する人間否定や争いを根絶出来なくとも、今よりは
ましになるだろうと考えておられるんやと思います。一足飛びには達成できないが、
道筋さえ明らかになれば、あとは一歩一歩着実に進んでいけば良いと。
概ね武蔵さんもそうお考えなんでしょう。
それは大変すばらしいことです。本当の意味で反対する人間はおらんのや
ないですか?非現実的だとか、理想主義だとか言う者はいても、そういう反論は
理想状態を暗黙のうちに認めた話の立て方ですから。
そういう意味では同一線上にいるんですね、反戦平和派も懐疑派も。
ただ僕がいつも中心に据えるのは、鳥瞰視的な理想状態の実現よりも、今すぐに
実現可能な幸福とは?或いは不幸に耐える術とは何か?という問題意識なんです。
戦禍に巻き込まれても、強制収容所に送られても、差別に晒されても、必ず
幸福になれる道があるはずだし、実際人間にはそれが可能でした。
被差別部落民やハンセン氏病患者の境遇が悲惨でなかった筈はないのやけれど、
彼らに実際接して、僕なりに色々調べ愚考を重ねてみた結果、僕みたいな
もんでも彼らのように生きられるんやないかと思い至ったんです。
もしか僕の問題意識、幸福論は、不幸に耐えるだけの思考なのかも知れませんが、
それを基礎に置かないあらゆる理想や正義なんてものを、僕は重用する気に
なれないんですよ。
平和構築とは何の関係もないですけど(笑
まあ読み飛ばして下さい。
121
:
○○番長
:2003/08/10(日) 02:57
>>120
訂正…。
×もしか僕の問題意識、幸福論は…
○もしかしたら僕の問題意識、幸福論は…
122
:
武蔵
:2003/08/10(日) 03:18
>>120
>僕の出発点はいつも人間として当たり前の感覚からなんです。
難しい理窟はよく分らないもんで(汗
おお!!一緒ですよ。
私も人間として当たり前の感覚からしか考えられまへんわ(大阪弁バージョンでいきまひょか)
しかし、当たり前がみんなそれぞれやさかいにね。ちょっと厄介です。
まあ、私はいつも「みんなちがってみんないい」と、かねこみすずでいきたんんですが・・・
これが実は、わたしの「α」です。
「人間否定や争いを根絶出来なくとも、今よりはましに」していきたいと。
後半は、心の持ちようということですね?
どんな不幸に見える境遇の中にも幸福はあると。
それは、全ての人自身に課せられた課題であって、
他人である我々個人や社会としては、不幸な境遇というのを、最大限に取り除いていく義務があるように思うんですが。。。。
ハンセン氏病回復患者の置かれていた「不要な隔離」から解放されるのに
あれほどの年月が必要だったということは、我々大いに反省して
2度とそのような罪を犯さないように、そういう理不尽なメにあっている人の声に
耳を済ませていかなアカンと思うんですわ。
123
:
ぼーん
:2003/08/10(日) 08:00
>>114
> また縷縷述べるとして、それを守らせる実行力は、武力が根幹になると僕は
> 考えているのですが、ぼーんさんは如何お考えでしょうや?
そういう事態はありえるし、実際にもありそうですよね。
ただし、武力は用い方次第ですよね。
今回のイラク攻撃のような用い方であればα破壊的に作用しますが、
国連決議を取り、査察団委員長の意見をきちんと尊重し、
攻撃理由の証拠はきちんと(事後的にでも)吟味する、
等々のルールにきちんとのっとって武力行使が行われるなら、
かなりのケースで(最終的な武力行使を否定しないまでも)
武力行使を行わなくても成果を挙げることは可能だと思います。
> 普通に考えれば、最低限度の食料>おやつに違いありません。
> それで大揉めすることはないでしょう。権利の比較だけならば。
> ただ実際問題として、目の前にいない人々の苦悩、たとえそれが飢餓線上の
> 人達のものであったとしても、その苦しみをどこまで人間が共有できるか
> 僕には相当疑問です。同苦同悲の境地に至る者は僅かでありましょう
そうですね。
だからこそ、この面でのメディアの役割は重大です。
マスメディアの役割がそうだし、デモや様々な学習イベントなどの意義もこういう点にあります。
私たちは、その事実をしっかりとかみ締めるように考えるならば、やはりそれなりに痛みを感じてしまうもののようですから。
私たちは、他者の痛みが自分の痛みとならないように様々な装置を私たちの周囲にめぐらせています。
その「装置」のありようについては、
http://www.lifestudies.org/jp/mutsu.htm
森岡正博『無痛文明論』がとても参考になります。
これら「無痛化装置」にいかに抵抗するか、が1つのテーマとなるでしょう。
> 実行するしないに関わらず、
> 余剰分を飢えた人々に分け与えるように要請するでしょう、理念αは。
> また衣食住など全てにわたってαが介入するようになれば、あまりに窮屈な
> 世界になってしまう。それは大げさだと思うかもしれませんが、理念とは
> そういうものです。無条件の当為とはこういうものです。
そのとおりです。その窮屈さを、まずは実感することです。
そして、窮屈ながら、私たちはそこまで徹底して自分の物を手放すことができない、
ということに気づくはずです。まさに自己矛盾。
この自己矛盾がエネルギーになります。
そこから先の道の1つは、「我欲を捨て、より多くの物を手放すように自分を変える」
ことでもあるでしょうが、それだけではないし、それよりももっと重要な道があるように思います。
「生存ギリギリ以上のものをすべて他者に譲渡せよ」という命令を私たちが受け取らざるを得ないのは、
責任ある人々がすべては動き出してはいないからです。
すべての人が動くならば、私一人の譲渡すべきものは、「そこまでは」多くないはずです。
そして、αの恩恵をこうむろうとするすべての人に、同じ義務があるはずです。
だとすれば、「他者にも義務の履行を求めること」がなすべきこと、できることの1つになるでしょう。
# それでも結構な量にはなると思いますが。
124
:
ぼーん
:2003/08/10(日) 08:00
今のところ僕はこう考えています。
「1 最低限、すべての人が僕と同等の譲渡をするならば、実際に問題が解決の方向へ動くだろう、
という、応分の負担は確実に負う。」
「2 すべての人が1を果たせば問題は解決の方向へ向かうはずだが、すべての人がそうしている
わけではないので、今、現実を変えるために、1以上のことを可能な限り行う。」
「3 1、2を行うとしても、実際の不正義が変化していない限り、私自身の免罪は行わない。不正の
上で生きられているという事実を認識し、それについて言い訳しない(だから、僕は、たとえば9.11
のような事件によって命を落とすとき、あるいは大事な人を奪われるとき、実行犯を非難する資格は
ないし、非難しないでしょう。)」
「4 1、2、3について、周囲に粘り強く説いていくことを行う。」
いくつか書き漏らしがあるかもしれませんが、これが基本的な姿勢です。
ちょっと時間がないので、このへんで。続きについては、またレスします。
以下は、簡単に。
あと、「基本的権利を尊重するという原則があるのに、私のもっと瑣末な権利を優先してしまう」現象については、
やはり、その現実を指摘し続けることが大事だと思います。
私たちは、こっそりとおやつを食べることはできても、飢えた人々の目の前で、
飢えた人々を足元に転がしたままでそれを食べるのは、相当に気分の悪いものです。
まずは、そこでおやつを完全に放棄はできなくても、半分にするぐらいのことからはじめてはどうか、とは思います。
つまり、先の1ですね。その上で、なすべきこととしての2、3、4について行っていく。
すべての余剰を譲渡するのに比べれば、それはできんことではない、って気はしませんか?
125
:
武蔵
:2003/08/12(火) 08:56
>>124
>私たちは、こっそりとおやつを食べることはできても、飢えた人々の目の前で、
飢えた人々を足元に転がしたままでそれを食べるのは、相当に気分の悪いものです。
まずは、そこでおやつを完全に放棄はできなくても、半分にするぐらいのことからはじめてはどうか、とは思います。
つまり、先の1ですね。その上で、なすべきこととしての2、3、4について行っていく。
すべての余剰を譲渡するのに比べれば、それはできんことではない、って気はしませんか?
目の前では出来ないことが、隠れてこっそりなら出来てしまうし
現実には目の前にはいないんですよね。
ホームレスは目の前にいる(ガード下のダンボールハウスや公園の青テントハウスを見たことない人いるのかな?)
のだけれど、心の中で切り捨ててしまっている(つまり見えない)
まず、目の前にいる(見える)状態を作るべきであると思います。
126
:
イカフライ
:2003/08/12(火) 09:16
>>120
>ただ僕がいつも中心に据えるのは、鳥瞰視的な理想状態の実現よりも、今すぐに
>実現可能な幸福とは?或いは不幸に耐える術とは何か?という問題意識なんです。
>戦禍に巻き込まれても、強制収容所に送られても、差別に晒されても、必ず
>幸福になれる道があるはずだし、実際人間にはそれが可能でした。
>被差別部落民やハンセン氏病患者の境遇が悲惨でなかった筈はないのやけれど、
>彼らに実際接して、僕なりに色々調べ愚考を重ねてみた結果、僕みたいな
>もんでも彼らのように生きられるんやないかと思い至ったんです。
>もしか僕の問題意識、幸福論は、不幸に耐えるだけの思考なのかも知れませんが、
>それを基礎に置かないあらゆる理想や正義なんてものを、僕は重用する気に
>なれないんですよ。
悲惨な状況で、尚且つ、幸福を持ちつづけるということは、なにか?心のあり様、ではあるけれど、それは
「宗教」
かな、とか思うんだ。
人間って、幸せな時は人にも優しいし、気持ちも前向きだよね。不幸だと、ひねくれたりひがんだり、人を自分と同じ所まで貶めようとしたりする。
それほどの極限状況でなくて、それこそ日常的なレベルでもそういうことってあったりする。
中島みゆきの「幸福論」って歌でも唄われてるように、さ。
クリスチャンの人がね、辛い事や悲しい事に直面したとき、それを神が自分に与えたもうた試練だと思って、感謝して受けとめる、というんだよね。
例えば、マザ−・テレサとかがあれだけの活動が出来たのは、その強い信仰があったからなんじゃないかな?
世界はあまりにも悲惨で、人間はあまりにも無力だ、その中でなにかを成し得ようとするとする時、その心の支えになるのは、人の世の表層的な現実を超えたものが、人の心を支えるのではないか?
なんて思うのですが。
ただ、これは反面、結局、現実にはどうにも解決できない事をごまかす手段に過ぎない、という皮肉な見方も出来るんだよね。
実際、「神が与えた試練だと思って感謝して受ける」というのが、自発的な信仰からでたもんならまだいいけれど、他者の悩みや苦しみに対してこれいっちゃたら
「なめとるんか、ワレ」
じゃないっすか? なんの解決にもならんし、それ以前に、不誠実だよね。
それなら、私にはあなたの悩み苦しみに関してなにもできません、ゴメンナサイ、って言えよ、せめて。
いるかいないかも解らない神様に責任転嫁するなよ。
ワシは、中学生の時、一時期教会に通っていた事があって、まあ、そこで出会ったクリスチャンやら、あと学校の宗教教育(そ-ゆ学校だったんで)やらで、あまりいいもんに出会わなかったもんで。
まだ、社会主義の方が、具体性、現実性があるんじゃないか、なんて思いもしてさ。
実際、昔はキリスト教に失望して社会主義者になった人とがいるんじゃないかな、ほら「なにがわたしをそうさせたか」とか書いた女性もそうだったよね。
ところが、ワシが小学校6年生の時、あの連合赤軍のリンチ事件が起こっている。当時の新左翼だけを社会主義というつもりはないが、あれは、ショックなのだ、今でも尾を引いてるくらい。
社会主義革命、っていうのも、そう考えると、本当に世の改革にはならんのじゃないか?
なんぞと悩んだりして。
かくしてワシはノンポリになったのでした。
と、まあ、自分のことばかり言ってもなんだけれど。
127
:
聞いた話から@捨てハン
:2003/08/12(火) 14:40
>>125
ホームレスに関してですが、少しだけ書きます。
スレと話が外れますが、
ホームレスになる人も色々で、ある程度まとまったお金を持っていながらもすむ所の確保をせず、お金は紙袋に入れて持ち歩いている人がいたそうです。
どうしてかは聞きませんでしたが、何らかの理由があってホームレスになった事は確かです。
戸籍を売ってしまって身元無し、何も束縛が無い自由はあっても、住むところを確保できない状態になっているとか・・・。
都会ではガード下や公園や駅の雨風しのげたり、水道やトイレが近くにある場所に住んでいます。食べ物も、レストランの裏口のポリバケツに捨ててある残飯を漁れるから、どこのレストランの何が旨いか、結構、詳しいらしいです。
銭湯に行く人もいるようです。まったく無職というより、日雇い労働をして、僅かながら収入が有る人もいますし。
ホームレスになっても生きて行こうと思ったら生きていける環境があり、日本はまだまだ平和で豊かなんですね。
もっとも、最近はホームレスの強制立ち退きを行っているようだが。
ただ、多くの人が、飯を殆ど食べずに酒に費やしているので、体を壊して、時々行き倒れになって病院に運ばれているけど、でも、病院も殆どが点滴を射って応急処置をして帰すようです。そりゃ、商売ですから、お金を払ってもらえなければ最後まで治療はしないのでしょう。どうしょうも無い重症な場合は、役所の福祉課が治療費を提供しているようです。
そんで、精神科の病院にもアル中で入院するらしいです。同じく治療費は福祉課から出しているらしいです。普通の病院なら強制退院させされるが、精神科に入院すると、なかなか退院したがらないらしいです。住むところがあって、飯も出るし、言うこと無いのでしょう。それと同様で、刑務所に入って出所したら、又、わざと何かしでかして入りたがるらしいです。
以上、裏話でした。(勿論、ホームレスの全員とは言いません。中には、そんな人がいるという話です。)
決して、現実から目を逸らしてはいません。
128
:
武蔵
:2003/08/12(火) 15:18
>>127
そうですね。ホームレスはひとことでは語れません。
少々ずれても大してずれていないということで、このまま少々・・・・
その多様性のあるホームレスについて、
自立の意志のある人たちに対して、行政が自立支援をすべきであるということは
大方のコンセンサスが得られていると思います。
自立できるまでの公共住宅支給、就労支援や生活費の支給または貸し付けなど。
これすら実行されていないのですが、行政に実行させるべく頑張っている人たちが居ます。
我々も、支援活動くらいはしていかねばと思います。
しかしあなたの言われる精神科入院や刑務所収容すら求める部分―自立放棄してしまった人たちをどうしていくのか、これが問題ですね。
☆☆だからといって放置は出来ない。
☆☆「収容」ではなく生きる意欲を回復するべく、個々の取り組みが必要になってくる。
言うは易く、行いは難し の典型ですね。
行政まかせにも出来ないけれど、取り組んでいる人たちへの行政のバックアップだけは絶対に必要だと思います。
こういうことも、せめて支援活動くらいはやっていきたいと思います。
129
:
イカフライ
:2003/08/14(木) 09:00
>>124
について、考えていたのだけれど。
ぼ-んさんがどれだけ負担を負っているかは、解らないけれど、多分、かなりの負担を負っているのだろうとは、推測します。
誰もが、そのような負担を負えれば全ては、とまでは言わないにせよ、かなり問題は解決するとは思うんだ。
けれど、全ての人が自由意志で負担を負う、事は無いのよね。
飢えた人を足元に転がしておやつを食べるのは、大概の人にとって気分のよくないもんだけど、自分のおやつを食べたいのも人間だから、いろんな言い訳を作る。
そこで、それをわけるように解いて行く(これが4だと思うけど)ことは大切だと思うし、また、個人で出来るのはこのレベルだと思うんだよね。
でも、それは結局最終的には個々の自由意志になってしまうのだ。
そうなると、みんなが意志に関らず分けられるシステムってものが必要になってくるよね。
例えば、ホ−ムレスの話が出てるけど、ホ−ムレスが重病になったら、福祉のお金で治療を受ける事が出来る、この治療費は税金から出ているわけです。
なかには、ホ−ムレスなんて落伍者なんだから勝ってに死ね、なんであんなヤツラに金ださなきゃいねえんだ、と思う人もいるでしょう、けれど、そういう人も、ホ−ムレスの治療費は税金と言う形で分担しているわけです。
そういうシステムは、先進国では、まあ、国によって差もあるし、日本において完璧とは言えないまでも、かなり出来ている部分はあると思うんだよね。
それを世界レベルでどう構築していくか、ではないだろうか?
まあ、そこまで話をひろげてしまうと、個々のパンピ−には実行が難しいんだろうけれど。
130
:
武蔵
:2003/08/14(木) 11:24
>>129
マリーアントワネットが直接残虐行為をしなかったからといっても、彼女は自国民の苦しみに対して責任がありました。
そして
今の世界は資本が富を産む(金が金を呼ぶ)システムになっていますね。
そういう意味では、先進国でその恩恵を被っている人たち全てに責任があると思います。
そのシステムを強化するのではなく緩和する必要もあると思います。
決して貧乏人が足引張りをしているわけではなく、底上げすることで全体がより上がるんだってことです。
とりあえずはそのシステムを理解して先進国や資本家は、責任を負う自覚が必要だと思います。
国内的にも世界的にも・・・・
131
:
イカフライ
:2003/08/15(金) 17:37
>>130
>今の世界は資本が富を産む(金が金を呼ぶ)システムになっていますね。
そういう意味では、先進国でその恩恵を被っている人たち全てに責任があると思います。
そのシステムを強化するのではなく緩和する必要もあると思います。
決して貧乏人が足引張りをしているわけではなく、底上げすることで全体がより上がるんだってことです。
それをどうやって構築していくのか?
一瞬、考えられるのは、共産主義ですね。貧しい民衆が革命によって政府を倒し、王侯貴族が独占していた富を再分配する。
けれど、その後は?
フランス革命も、内ゲバと粛清の嵐で、幕を閉じました(まあ、あれは共産主義革命ではありませんが)
ソ連を始めとした社会主義国家は、経済破綻しました。
中国は、市場経済を導入し、資本主義国家以上の貧富の格差が現れ始めています。
けれど、では、資本主義の一人勝ちなのか?
本家本元アメリカでも、武蔵さんがいわれるような資本を持つ者に富が集まる、いわば富の一極集中が問題になっている。
三毛猫ナナさんが、2ちゃんねるで、「第3の道」と言われていましたのが、興味あります。
お時間があれば、お話して頂きたいので、ナナさんをお待ちしていますが。
132
:
イカフライ
:2003/08/15(金) 17:45
>>131
勿論、ナナさんだけではないですよ。
今の社会の問題の大きな原因に貧困がある。戦争だって、貧困が大きな理由になっていることは多くないでしょうか?
自覚を促す事は大切です、けれど、それは所詮、自由意志に過ぎないのです。
例えば、ホ−ムレスを心から気の毒に思っている貧しい人のなけなしの寄付より、ホ−ムレスなんて目障りだから河に投げ込んじゃえばいいのに、と思っているお金持ちの税金の方が、結果的にホ−ムレスに貢献している場合がある。
これが、システムだと思うのです。
かといって、私は理念や理想は否定しません。
ある種、ホ−ムレスなんてゴミ、位に思っている人間にその負担を負わせるシステムを作ろうとするのは、やはり意志だから。
133
:
イカフライ
:2003/08/15(金) 17:46
>>132
>勿論、ナナさんだけではないですよ。
→勿論、ナナさんにだけお聞きしてるのではないですよ。
134
:
ぼーん
:2003/08/16(土) 11:08
>>132
戦争の原因が貧困であることは、むしろ少ないんじゃないかと思います。
最近戦争を起こしている国、参加している国は、アメリカ、イギリス、といった面々。
かなりさかのぼるとイラクのクウェート侵攻とかありますけど。
あれも、「貧困が原因」というものとは違う。貧困国は、実際には戦争する元気もない。
内戦やテロの原因にはなりえますけどね。
しかし、内戦とても、貧困は第一義的な原因だといいがたい。
たとえば、シエラレオネの内戦にしたって、内戦状態を放置した方が安くダイヤモンドを買い付けることができるし、
だからこそ、介入しようともしない。利害関心から先進国の介入がないことを知っているから、
ゲリラも恐怖政治をしけるわけです。先進国は黙認し、現地のゲリラが現地住民の搾取を直接行う。
構図としては、先進国による現地住民搾取をゲリラが「代行している」と言ってもいい。
資本の論理で物事は進んでいきますが、そこに責任を負うべき人が誰なのかが徹底して曖昧にできるシステムがあります。
私たちはダイヤモンドを購入するとき、それがシエラレオネで奴隷労働に従事させられている人が掘ったものであり、
そのために「安く」買うことができている、というようなことを想像しないで済むわけです。だから「永遠の輝き」なんて簡単に言える。
ここでも内戦の原因は、貧困でもあるわけなんですが、その貧困のそのまた原因がある、と言える。
それは、資本主義的な利害関心です。
資本主義的な利害関心は、私たちの発展の原動力でもありますが、そこには倫理の枷ははめられておりません。
奴隷労働から得る利益も、新しい技術開発から得る利益も、同じように利益をもたらします。
枷のはめられていない資本主義的な利害関心にとっては、どちらの利益でもかまわないわけです。
私たちの考えるべきは、資本主義的な利害関心に倫理の枷をはめること。
その方法は、やはり1つには、資本主義的な世界、経済の動きが、どのような現象を引き起こしているかを明らかにすること。
そこで引き起こされている現象を倫理的に評価すること。こうした作業がなされることが必要条件でしょう。
135
:
ぼーん
:2003/08/16(土) 11:22
>>129
部分レスで申し訳ないですが。
> 例えば、ホ−ムレスの話が出てるけど、ホ−ムレスが重病になったら、福祉のお金で治療を受ける事が出来る、この治療費は税金から出ているわけです。
> なかには、ホ−ムレスなんて落伍者なんだから勝ってに死ね、なんであんなヤツラに金ださなきゃいねえんだ、と思う人もいるでしょう、
> けれど、そういう人も、ホ−ムレスの治療費は税金と言う形で分担しているわけです。
これはそう簡単にはいえません。
私たちは、たまたま今あるような経済システムを持っており、
その経済システムを通じた分配によれば、たまたま今あるような所得がそれぞれの手元に届けられる。
それは、いちいち「たまたまそうなっているだけ」という性質のものです。
税金を払うという行為は、一般には「私のものを拠出する」という風に意識されていると思いますが、
ここでの「私のもの」という概念の中身は検討の必要があります。
「今の社会のルールに基づいてたまたま私のものとして仮に割り当てられたもの」という意味以上の意味は
付与しようがないと思います。私有の根拠を問うていくと、これまた証明できない前提にたどりつきます。
一般には、ロックの言うような「私の身体を用いて生み出したもの、最初に摂取した無主物」は私のもの、
といったものが私的所有の根拠とされてますが、この根拠自体には、根拠はありません。
だから、「別に、その人の身体を用いて生み出したものの、半分だけがその人のもの」といっても、間違いではない。
全部その人のものにするか、半分だけにするか、あるいはもっと別な決め方か、そうした諸々の物の「分け方」については、
どれが正しい、という証明はできません。だから、ある人が、「これは元々俺の物だから」と言うとき、そのことの究極的な根拠はありません。
そのことはまず確認しておく必要があります。
さらに、現代のような複雑な経済社会においては、「何が私の身体を用いて生み出したものか」は割りと
はっきり分かるとしても、「そのうちどれくらいが私のものか」ということを決めることは非常に困難なのです。
たとえば、1つの会社がある製品を生み出して商売しているときに、その営業担当、広報担当、開発担当、
生産ラインの労働者、一人一人は、いったいどれだけの取り分を権利として主張できるのか?
これを考えると、私たちの所得の決まり方というのも、規範的な意味においては、「どんぶり勘定」でしかありません。
# もちろん、実際の取り分は、それぞれの労働者の労働市場における希少価値によってある程度決まっている。とはいえます。
しかし、「市場においてどのように取り分が決まるか」という記述的命題から、「どのように分配されるべきか」という規範的命題を
引き出すことはできません。
「なんであんな奴らに「俺の」金をださなきゃけねえんだ」と言うならば、
「それは、もともとそんな根拠なんてないからだよ」と、とりあえず言えば言えます。
それだけで話は終わらないですけどね。まずは出発点として確認しておくべきことではあります。
136
:
三毛猫ナナ
:2003/08/17(日) 00:24
ぽーんさんが御指摘されている通り問題の大きな原因は分配
システムにあるのではないかと推測できます。
資本主義では問題があるのは明白ですが、共産主義では更に
問題があるのは過去の実例からみても明らかでしょう。
この辺の事を踏まえ今後どの様な社会システムを構築していく
かが大きな課題になるのではないかと私は考えています。
(私の言う第三の道とは社会学者ギテンズやマンハイムの言葉で
すが、これは乱暴に言えば社会民主主義ですが、問題も多く課
題も山積みなのです)
私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
況を改善する事の方が現実的だと思っております。
(これはあくまで感想です)
137
:
武蔵
:2003/08/17(日) 17:06
>>131
>一瞬、考えられるのは、共産主義ですね。貧しい民衆が革命によって政府を倒し、王侯貴族が独占していた富を再分配する。
全く違うんです。
大きい意味では再分配という範疇に入るかとは思いますが、
富める者から税金的に富を取り上げ、それを貧者に分配すると言うような再分配のことを言っていません。
>>118
をもう一度読んで下さい。
緊急的には、食物援助も必要と思いますが、
本気で取り組むべきは「教育援助」。
農業・牧畜その他、その国にとって一番ヒットした産業を
彼ら自身の手で開発する力をつけていくための支援に先進国が取り組むこと。
そのようにして底上げをすることは、先進国にとってもプラスになるんです。
138
:
イカフライ
:2003/08/19(火) 10:51
>>137
武蔵さんが、共産主義革命を標榜している、といってるわけではないです.誤解なきようお願いします。
>>136
>私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
況を改善する事の方が現実的だと思っております。
私が言うシステム、というのもこれです。
ここでずっと命題になっているαの思想がありますね。2ちゃんねるでも用いた例えですが(何故か、これだけ頭の良いナナさんの説明でずっと解らなかったヤスツさんが、わしのたとえで解ってくれてたようです)
「毎日3食食べてるイカフライさんのおやつの肉まんと、今まさに飢えて死なんとしてるナナさんへの肉まん、どちらを優先させるべきか?」
この場合、イカフライさんならずとも、足元に飢え死にするナナさんを見下ろしての肉まんは、あまり美味しくないでしょう。
また、それを眺めている人々の殆どは、そのイカフライさんの行為を是認はしないでしょう。
これが、αの原点だと思ってるんですが、ぼ-んさん、これで良いですか?
ところが、長い間食べていなかったイカフライさんがやっとこありついた肉まんだったら、今まさに飢えて死なんとしてるナナさんが目の前にいても、自分で食べてしまうと思います。
それどころか、同じような状況でやっとこ肉まんにありついたぼ-んさんの肉まんを奪って食べてしまうかもしれない。
そこで、ぼ-んさんが餓死しても、ワシが生き残りたい、きりぎりの状況では、弱肉強食の生存本能だけが突出してしまう。
やがて、毎日食べられる生活を手に入れたイカフライさんは、見殺しにしたぼ-んさんのことを、気に病むかもしれません。
けれど、生きる為に仕方なかった、と、それは考えるしかないでしょうし、また、そういう状況でその行為を行った人間は、責めるべきではありません。
そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。
これは、平和にも言えていると思うのです。
139
:
ぼーん
:2003/08/19(火) 12:22
>>136
> 私としては余剰を厳しく搾取するのではなく、資本主義で
> 見られる様な個人の努力では如何ともできない不公正な状
> 況を改善する事の方が現実的だと思っております。
> (これはあくまで感想です)
常識的で穏当な提案ですが、この手の議論を見てて思うのですが、「匙加減」以上のものを
あまり感じません。この手の案を言う人はみな「現実的だ」というのですが、他の案に比べて
現状との距離が近い、という以上の根拠を聞いたことはないです。
# 政治において、一定の事実が変更できないとか、ある流れが抗しがたいとかと信じるの
は、普通、その事実を変更したくないとか、その流れに抵抗することに利益をもっていな
いことの反映である。(E.H.カー)
資本主義的分配・市場的分配を出発点にし、「どこまで不平等を緩和できるか」という問いの立て方。
まず共産主義的・平等的分配を出発点にし、「生産のインセンティブをもたらすために、どこまで不平等を
容認するか」という問いの立て方。
どちらの問いの立て方でもいいはずです。
では、どちらの問いの立て方がいいのか。
どちらの問いの立て方が「現実的」か。それは議論すべき論点でしょう。
140
:
武蔵
:2003/08/19(火) 12:22
>>138
>武蔵さんが、共産主義革命を標榜している、といってるわけではないです.誤解なきようお願いします。
そりゃあどうも。
>そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。
しかし既に日本の大部分の人間は毎日安心して食べられる状況にあるわけです。
決して肉マンを飢えている人に与えても自分が他の肉まんを食べられない状況ではありません。
そこで我々はどうしているのかどうしなければならないのかという問題です。
私は世界の底辺部分にいる人たちの底上げのために、先進国としてするべきことがある。
その第一は教育ではないかと提案したのですが・・・・
もう既にNGOなどを中心に行なわれてはいますが、民間は何しろ資金が乏しい。
自国政府を動かさねばならない。
メールや手紙を各議員に送ることも大事だし、マニフエストの中に織り込ませていく活動もしなければならない。
どう思いますか?
141
:
武蔵
:2003/08/19(火) 12:34
>>139
書き込みボタンを押しても、えらい時間がかかるなあと思ったら、ぶつかっていたんですね(^^ゞ
>資本主義的分配・市場的分配を出発点にし、「どこまで不平等を緩和できるか」という問いの立て方。
まず共産主義的・平等的分配を出発点にし、「生産のインセンティブをもたらすために、どこまで不平等を
容認するか」という問いの立て方。
どちらの問いの立て方でもいいはずです。
確かにそうなのですが、共産主義アレルギー蔓延する中で、後者を出発点にするのは
あまりにも抵抗がきつすぎる気がします。
私なら前者を取ります。
私は毛語録にも学ぶべきものが多くあると思っています。
紅衛兵のやって来たことは、毛沢東の理想に反することも多いです。
人間社会の生きる姿勢として、取り入れるべきものは取り入れるべきであると思います。
142
:
武蔵
:2003/08/19(火) 13:15
>>138
>そうなると、みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築、ということが課題になってきますよね。
それは誰も(懐疑派の方も)異論はないんです、何度も繰り返されています。
具体的には何をなすべきで、何をなさっているかという話に移りましょう。
143
:
ぼーん
:2003/08/19(火) 14:21
>>141
私的所有権は、単なる既得権として主張されているわけではないのです。
その既得権は、正当に守られるべき権利であるとして主張されています。
そして、「正当に守られるべき権利である」という神話が、神話として意識されずに強力に浸透していること。
これが現行の私的所有権の枠組みの強さです。
だから、これを問題化し、そこに論争点を立てる必要があるのです。神話的強さを解体するために。
その際、抵抗の強さはメリットですらあります。
強い抵抗の中で論争が続けば、それこそが人をひきつけるメディアとなります。
論理的にいって、私的所有権思想の無根拠性は明らかです。
これは私的所有権思想の擁護者の間ですら一致した見解と言えるでしょう。
強い抵抗と論争は、私的所有権思想の神話性の解体のための必要条件です。
神話性が剥奪されても、現行の私的所有権制度の下で既得権を持つ人たちに対しては有効ではないでしょう。
彼らは、倫理的に、理性的に考えるよりも、馬鹿になってでも自分たちの既得権を守ることにやっきになりますから。
しかし、私的所有権制度から利益を得ているわけではない人すら、この神話を信じ込んでいる。
そのことが、私的所有権制度の基礎を確固たるものにしているという現状があるわけです。
だから、そうした論争は実際には私的所有権制度から利益を得ていない人たちを、
私的所有権制度に対する反対者として政治的に組織するための論理を提供することになるわけです。
これが最大の利益です。
共産主義革命が一応実現したのは、それがブルジョア階級を理性的に説得したからではありません。
共産主義思想が、ブルジョア的枠組みの中で損をしている人々を政治的勢力として組織化する論理を与えたからです。
最終的な政治的帰結は、組織化されたあとの両勢力の力関係によって決まっていくでしょう。
(共産主義革命が起こらなかった国においてすら、社会保障の拡充がなされていったのは、
潜在的な革命の可能性があったからこそ、とする史観がありますね。それも同じです。)
問題の根っこは分配問題にあり、分配問題の根っこは私的所有権思想を巡る問題に突き当たります。
だから、この論争点を運動からはずすべきではないと考えます。
144
:
武蔵
:2003/08/19(火) 14:36
>>143
>しかし、私的所有権制度から利益を得ているわけではない人すら、この神話を信じ込んでいる。
そのことが、私的所有権制度の基礎を確固たるものにしているという現状があるわけです。
これは痛感するんですがね。
貧乏人の代表ともいうべき「我々」が、なぜか「家賃生活」という既得権すら守りたがる(笑)
神話が実話として世界を闊歩しています。
ただ、共産主義革命の過程で余りにも多くの過ちを犯してしまった。
人民裁判(考え方自体は非常に民主的な方法と思うんだけど)・粛清・・・・・
アレルギーは私にもあります。
>(共産主義革命が起こらなかった国においてすら、社会保障の拡充がなされていったのは、
潜在的な革命の可能性があったからこそ、とする史観がありますね。それも同じです。)
だから資本主義の中に、共産主義が目指したものを「社会保障」「基本的人権の擁護」という形で
形成していきたいと思うのです。
まずは最底辺の底上げという形で・・・・・
145
:
ぼーん
:2003/08/19(火) 15:46
>>144
念のために言っておきますと、僕は共産主義者ではありません。
共産主義の間違いは、安直に言ってしまえば、その未来像の実現方法における失敗です。
マルクスの行った資本主義批判は極めてリアルできちんとした基盤にのった批判であり、
今なお力を持っていると言えるものです。
(カーですらマルクスを、ある段階までは「リアリスト」である、と認め、その議論に賛意を示してる。)
> だから資本主義の中に、共産主義が目指したものを「社会保障」「基本的人権の擁護」という形で
> 形成していきたいと思うのです。
> まずは最底辺の底上げという形で・・・・・
そのような政策を行うことに僕は同意します。
問題は、どのような論理の上に、その政策を正当化するか、です。
たとえば、同じようにある社会保障制度の1つを実現しようとするときに、
私的所有権(既にもっている人たちの既得権)を批判せずに、いったいどこからその社会保障制度の財源を捻出するというのでしょうか?
社会保障制度の財源は、それが所得移転であれ教育投資であれ、既得権の持ち主からそれを(一部であれ)取り上げることなしには不可能です。
そしてそれは、「私的所有権であるから取り上げてはならない」と保護されているのです。
それでも取り上げることに同意するのは、「温情」であり、「してもしなくてもよいこと、あえて言えば恵まれない人を助けるという美徳」とされる場合だけです。
結果、不十分なレベルでしか社会保障は行われないでしょう。今がそうであるように。
私的所有権を批判しない限り、どのような形であれ、武蔵さんの言うような政策を推し進めていくことの正当化はできません。
正当化できないならば、私的所有権という神話のために損をしている人を結集させることはできません。旗がないのです。
結集させることができなければ、「私的所有権は正当な権利である」と主張する人々に対して政治的に対抗することはできず、
武蔵さんの言う社会保障制度も政治的に阻まれるでしょう。
146
:
ぼーん
:2003/08/19(火) 15:56
共産主義アレルギーとは、私的所有権神話の裏返しに過ぎません。
避けて通れるものではないのです。
共産主義は、現実の社会が利害の対立である(資本家と労働者の利害の対立である)ことを喝破
しましたが、その解決方法として「単一階級の実現」を掲げました。これは、問題の解決というより、
問題の回避なわけです。
結果的に、共産主義社会における既得権層が、「我々は単一階級である」という神話によって、
実際には利害対立があるはずの人たちを抑えつけていたわけです。
原始的な資本主義社会における持てる者が、自由競争理論によって「資本家と労働者の利害の調和」
を説き、資本家と労働者の間の実際の利害を覆い隠そうとしました。
(自由競争理論の大前提が、私的所有権です。)
共産主義社会における持てる者が、「すべて労働者階級である」という単一の階級という神話によって、
実際上の利害対立を覆い隠そうとしました。これらは、まったく同じ構造を持っています。
同じように言うならば。
現代の資本主義社会は、自由競争理論+自発的善行によって、持てる者と持たざる者の間の利害を
覆い隠そうとしています。ある種のボランティア賛美論をはじめ、私的所有権論を批判せずに問題を解
決しようとする志向を持った様々なアイデアが出されるのも、無理のない話です。
(資本家が自らボランティアや寄付を実践しながら賞賛したり謙遜したりしますよね。あれも興味深い現象です。)
私的所有権神話の延命を図る人たちは、共産主義アレルギーすらも利用するでしょう。
私たちはそれに対抗できる論理的な言葉を紡いでいく必要があるのです。
# そして、それは可能です。私的所有権の理論の根拠のなさは、既に証明済み、と言っていいでしょう。
様々な政策論を、その上に置いていくことが必要でしょう。
147
:
ぼーん
:2003/08/19(火) 16:09
>>138
あまり趣味ではないけれど、リアリスト的に言うならば。
現行の私的所有権システムにおいて利益を享受している人は、そんな政策をやりたくはないんですよ。
で、そういう社会の中で、いったい誰が、その「みんなが、毎日安心して食べられるシステム構築」をするんですか?
心優しい人たちが、でしょうか?
既得権の享受者は、絶対にそんなことをしたいとは思わないんです。
それは、持てる者から奪うことによってしか実現できないのですから。
# いや、たまにはマルクスみたいにブルジョア生まれのくせにプロレタリアートの立場で思考するもの好きがでてはきますけども。
それが一大政治勢力になるなんてことはありえないわけです。
そして、既得権を支えている神話(私的所有権神話)を共有している人たちは、そんなことをすべきではない、と思うんです。
持てる者から奪うことは私的所有権の侵害であり悪だ、と言われているわけですから。そういう神話の中に生きてますから。
一部の人たちは、そこで犯罪に走るなど、そもそもの善悪の彼岸で自分の生活を立てていこうとするかもしれません。
犯罪に走ることのできない人たちは、それが自分たちに相応の待遇であると信じて、その枠組みの中で生きていくんです。
# 一部の犯罪者の言うことに、社会通念の矛盾を突く鋭い内容が含まれていたりするのも、決して偶然ではありません。
こうした中で、リアルな政治的相互作用の帰結として武蔵さんやイカさんの言うシステムを構築したいならば、
それを政治的に実現しようとする勢力が必要なんです。じゃ、いったい誰なんですか?良心的な市民でしょうか?
それは、運動の当初においては必要な存在ですが、それだけではダメなんです。
その勢力が存在するためには、そのような勢力が存在しえるための理屈が必要なのです。
資本主義勃興期の労働者に共産主義が必要とされたように。
共産主義という思想のその内容面での失敗から学ぶことは必要でしょう。
しかし、その「政治的な成功」からも学ぶべきです。
148
:
武蔵
:2003/08/19(火) 16:15
>>145
共産主義国の中にも「既得権」神話が跋扈しています。
典型的なのは「将軍様」の世襲でしょう。
そういう意味で、全ての「私的所有権」または「既得権」を吐き出せというのは
まさに革命でしょう。
>それでも取り上げることに同意するのは、「温情」であり、「してもしなくてもよいこと、あえて言えば恵まれない人を助けるという美徳」とされる場合だけです。
結果、不十分なレベルでしか社会保障は行われないでしょう。今がそうであるように。
確かにそうです。持てる者は権力を握っています。
選挙方法を握っているし、富の分配権すら握っています。
税制はますます金持ち優遇政策になってゆきます。
>私的所有権を批判しない限り、どのような形であれ、武蔵さんの言うような政策を推し進めていくことの正当化はできません。
私の言っているのも、ゆるやかな私的所有権批判ではあるのですが・・・・
つまり、我々は「私的所有権」から疎外されているものであるということの自覚です。
だからこそ、底辺を底上げすることによって我々もレベルアップする立場であるということに自覚です。
民衆が自分たちの立っている位置を自覚すれば、
税制を改革して、その分配たる社会保障制度や、
国際的には、一体その国に何が必要なのか―ミサイルか医療品か、それらへの姿勢が変わってくると思います。
もちろん「私的所有権ってなんや?」「それは守られるべきものか?」
「守ったらオイラは得なんか損なのか?」という議論も大事だと思います。
少しずつはやっているんですが・・・
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