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「α」についてはここで語ってください

55ぼーん:2003/07/29(火) 10:33
>>53-54
「無意味」というのは、その主張を聞くべき理由がどこにもない、という意味です。
私たちがあるルールに基づいた要求を聞く「べき」と言えるためには、そのルールが両者に共有されていなければなりません。
I氏がI氏の理念にしたがって相手の行為を批判したり要求したりすることは、その理念を相手が共有していなければ、無意味な要求に過ぎません。
I氏が相手の理念にしたがって相手の行為を批判したり要求したりすることは、有意味ではありますが、それに答える義務は相手にはありません。
あくまでも、こたえてもこたえなくてもいいものでしかありません。

それと、「理念と行動の一貫性」は、今考えている論点ではほとんど重要ではありません。
相手に対して要求する力を持つ理念とは、共有されている理念によってのみ可能なのであり、
一方がその理念を拒否している場合、その理念に基づいた要求をすることは無意味なのです。

> ただ、理念としてしまうと綻びが出てくる。無条件な当為としてしまうと人間は身動きが取れない。
> それはそうです。掟でさえ守るのは至難の業ですが、理念にまで高めてしまえば、
> それを掲げた瞬間から人はαに反せざるを得ません。十字架を背負うことになる。
> 誰もに守ることの出来ないルールは、もはやルールではありません。
> 少なくとも社会を律する規範にはなりえないし、まして野望と悪意の渦巻く国際社会に対しては蟷螂の斧であります。

身動きが取れない、かどうかは、後で検討したいと思います。
私たちは身動きを事実として「とる」んです。

原則やルールは、その身動きを評価したりするためのものでしかありません。

「殺人は罪である」というルールは、私たちが殺人行為をするときにそれを評価するだけです。
そういうルールがあろうとも、私たちは殺人をしなければならない状況においては、殺人をします。
しかし、そうではあっても、「殺人は罪である」というルールをルールとして確認しておくことには意味があります。
しばしば人が守れないから「殺人は罪である」というルールはルールとして機能していない、と言うことはできません。
私たちが、そのルールを守れるかどうかということと、それがルールとして機能しているかどうか、ということは、
ひとまず別の話であります。「守れるかどうか」が無駄な話だといいたいわけではありません。それはそれで
重要な話です。僕が言いたいのは、それらは別の話であり、それぞれが別の意味で重要なのだということです。

その上で、「殺人は罪である」というルールがなく、殺人行為が吹き荒れているような状況Aと、
「殺人は罪である」というルールがあるが殺人行為が吹き荒れているような状況Bがあるとします。
殺人行為をなくしていく、平和にしていくにあたって、Bの方がずっとチャンスが多い。
これはAでとりえる手段はBでも使えるが、他方、Bで使える手段はAでは使えないことがあり、
それゆえBの方が平和を達成するにあたっての手段が多くある、ということから証明できます。

「殺人は罪である」をαに入れ替えても同様です。
守ることができるかどうかということと、それをルールとすべきかどうか、ということは、基本的には関係ない話です。

で、理念を掟と言い換えることに何か意味があるとは思えません。
そもそも掟にしても「無条件な当為」のはずです。


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