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古代科学史掲示板

1管理人:2018/05/08(火) 19:42:26
赤井川・ウトナイ湖・幌満隕石ルート
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000001_3M.png

連休中は、北海道各地のクレーター探索をしていました。

今回は、一昨年掲示板で論議して、先の会報7号にも掲載した北海道各地のクレーター落下ルート(図1参照)のうち、岩淵先生ご指摘の赤井川のクレーター状地形を起点として、ウトナイ湖、幌満・様似(隕鉄の採れる鉱山がある)へと伸びるラインを探索してきました。

詳細なルートについては、また後日お知らせしますが、図2のようになります。図3はウトナイ湖です。

概ね25度前後のラインとなり、地軸の傾斜角から年代を推定できると思います。

それで、先日も指摘したのですが、ウトナイ湖も、支笏湖同様に、半月型のクレーターです。

なぜ、隕石の落下の際に、円形ではなく、半月型のクレーターとなるのかが課題でしたね。

この件を物理学的に解明したいと思います。



312管理人:2019/10/07(月) 23:02:21
Re: バンゲア大陸関連
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。


> そうですか。それは耳よりな話ですね。「地球体積の増大説」をとっている自分には、そのような現象はありうる話かと思います。地球重力は比較して大洋部より大陸部のほうが大きいとは既知のとおりです。したがってすでにある大陸の上に重ねてミドル天体が衝突すると自ずとそこの重力は高くなります。私は地中海あたりと東南アジアあたりも推めていませんでしたが、そうだったのですね^^!。
> /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsearch.yahoo.co.jp%2Fimage%2Fsearch%3Frkf%3D2%26amp%3Bei%3DUTF-8%26amp%3Bgdr%3D1%26amp%3Bp%3D%25E5%259C%25B0%25E7%2590%2583%25E3%2581%25AE%25E9%2587%258D%25E5%258A%259B%25E5%2588%2586%25E5%25B8%2583%25E5%259B%25B3%23mode%253Ddetail%2526index%253D0%2526st%253D0
>

重力地図の件はいつみても、興味深いですね!

> さらに、地表の重力は地殻の押し合い部でも生じているようです。それが地震によって解消されるのは先学の知るところです。面白い情報がありました。東北3/11の地震で東北の重力位置が変わっていたと、「欧州の重力探査衛星が記録していた」・・・、 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gizmodo.jp%2F2013%2F12%2Fgoce.html
>

これは、完全球形なので、地図の標識でしょう(汗)
それにしても地震前後の重力異常は気になるところです。

>  ちなみに、自説「BC.2001年末の東北に落下した巨大隕石でも」太平洋側から列島側へと圧縮されていた ストレスがその衝撃を発端に “連鎖的に” 解消したとしています。



相当な衝撃だったでしょうから、ストレス地震が誘発されたことは考慮すべきかもしれません。


あと、今月半ばあたりに、釜石含めて、東北まわりたいとおもってるんですが、平さんは来られませんか?

313 史実探偵: 平 素人:2019/10/08(火) 21:30:13
Re: 会合関連^^
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。

>
> あと、今月半ばあたりに、釜石含めて、東北まわりたいとおもってるんですが、平さんは来られませんか?

台風が心配ですがOKです^^。10/15の昼過ぎ 奥州市・水沢着で奥州市一泊を考えています。
奥州ではなくて釜石での一泊ありかとも思いますが、岩淵先生はご無理かとおもいます。この度は、周回ではなく先様や岩淵先生にお会いして、お話しやお礼を言っておきたいのが第一目的です。次報をお待ちします。下記の「史実探偵局」末尾のCOコメント欄のクリックで連絡がとれます。非公開ならば「管理人のみ」で、公開ならば興味ある多数人の参加をこばむものではありません^^!
 岩淵先生とも、どうぞのご連絡を~~!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



314管理人:2019/10/09(水) 13:41:20
Re: 会合関連^^
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います^^。
>

とりあえず、平さんブログのほうに会合の件コメントしておきましたので、ご確認宜しくお願いします!

315 史実探偵: 平 素人:2019/10/10(木) 01:55:17
Re: 会合関連^^
管理人さまへのお返事です。
>
> とりあえず、平さんブログのほうに会合の件コメントしておきましたので、ご確認宜しくお願いします!

myブログへのコンタクトありがとう御座いました^^。
一日早いですが、10/14日の釜石泊まりで考えます。何分日にちがないので宿や切符の手配がつくかどうか明日あたってみます。今回は先生や先さまにお会いしてお礼をいうのが主目的でありますから“一泊のみ”を考えています。14日がダメな場合は10/15日の奥州市泊まりになるかも知れません。台風19号で東海や東北新幹線のダイヤや、海上が荒れれば予定がくるってしまうので迷うところです。むしろ安全を見込んで24日、25日のあとのほうがいいかも知れませんね^^! 先生ともご連絡を!


http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



316管理人:2019/10/10(木) 11:48:58
Re: 会合関連^^
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。
> >
> > とりあえず、平さんブログのほうに会合の件コメントしておきましたので、ご確認宜しくお願いします!
>
> myブログへのコンタクトありがとう御座いました^^。
> 一日早いですが、10/14日の釜石泊まりで考えます。何分日にちがないので宿や切符の手配がつくかどうか明日あたってみます。今回は先生や先さまにお会いしてお礼をいうのが主目的でありますから“一泊のみ”を考えています。14日がダメな場合は10/15日の奥州市泊まりになるかも知れません。台風19号で東海や東北新幹線のダイヤや、海上が荒れれば予定がくるってしまうので迷うところです。むしろ安全を見込んで24日、25日のあとのほうがいいかも知れませんね^^! 先生ともご連絡を!
>
さっそくお返事ありがとうございます。
確かに宿は埋まってますね。
台風後の路面状況も気になるので、先生も動ける24日以降で考えましょうか?

317 史実探偵: 平 素人:2019/10/10(木) 21:22:38
Re: 会合関連^^
管理人さまへのお返事です。

さっそくのお返事ありがとうございます。

10/14日の釜石泊まりを手配してくれました^^。一応、15日の釜石から奥州市への切符も手配してくれてるようですが、できれば15日の朝、先さまの車に同乗させて頂き奥州市の先生とも歓談し、おそくとも14時30分北上駅発で帰路につきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。尚、釜石の宿の名称が分かりしだいTellをしますので、これもよろしくお願いいたします^^!。岩淵先生にはその旨でお話しておきました。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



318管理人:2019/10/11(金) 00:07:43
Re: 会合関連^^
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。
>
> さっそくのお返事ありがとうございます。
>
> 10/14日の釜石泊まりを手配してくれました^^。一応、15日の釜石から奥州市への切符も手配してくれてるようですが、できれば15日の朝、先さまの車に同乗させて頂き奥州市の先生とも歓談し、おそくとも14時30分北上駅発で帰路につきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。尚、釜石の宿の名称が分かりしだいTellをしますので、これもよろしくお願いいたします^^!。岩淵先生にはその旨でお話しておきました。


すいません、やはりダメです・・、その場合15日夜に水沢に到着するので、平さんと会うのが間に合いません。

予報では、14日は午後〜15日午前も荒れる模様で、バイクで苫小牧経由で八戸から水沢に向かうのは困難を伴いそうです・・・。


ひとまず25日以降に変更しましょう。



319 史実探偵: 平 素人:2019/10/11(金) 03:26:41
Re: 会合関連^^
管理人さまへのお返事です。

おっての ご連絡ありがとうございます。

> すいません、やはりダメです・・、その場合15日夜に水沢に到着するので、平さんと会うのが間に合いません。
> 予報では、14日は午後〜15日午前も荒れる模様で、バイクで苫小牧経由で八戸から水沢に向かうのは困難を伴いそうです・・・。

> ひとまず25日以降に変更しましょう。

 「15日の中止」そのほうがいいですね。
でも当方は、色々な人に都合をつけてもらったり、人を介しての宿や切符の手配をしてもらった手前、ことわりづらいものがあります^^!??それに口説き倒した〇〇は、すっかりその気になってます(笑い)。台風で行く手を阻まれない限り“釜石泊まり”をたのしんで来まぁ〜す^^。のでので、どうぞよろしく・・・

えらいお坊様が「あまり先の約束はしないようにしている」とおっしゃいました。先の少ないこのいのち。考えてまよって決めたことならばあとは悩まずなりゆきで・・、  (拝白)。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



320管理人:2019/10/11(金) 08:09:13
Re: 会合関連^^
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。
>
>??おっての ご連絡ありがとうございます。
>
> > すいません、やはりダメです・・、その場合15日夜に水沢に到着するので、平さんと会うのが間に合いません。
> > 予報では、14日は午後〜15日午前も荒れる模様で、バイクで苫小牧経由で八戸から水沢に向かうのは困難を伴いそうです・・・。
>
> > ひとまず25日以降に変更しましょう。
>
>  「15日の中止」そのほうがいいですね。
> でも当方は、色々な人に都合をつけてもらったり、人を介しての宿や切符の手配をしてもらった手前、ことわりづらいものがあります^^!??それに口説き倒した〇〇は、すっかりその気になってます(笑い)。台風で行く手を阻まれない限り“釜石泊まり”をたのしんで来まぁ〜す^^。のでので、どうぞよろしく・・・
>
> えらいお坊様が「あまり先の約束はしないようにしている」とおっしゃいました。先の少ないこのいのち。考えてまよって決めたことならばあとは悩まずなりゆきで・・、  (拝白)。


14日朝までには台風は通過していることは確かですが、下記の台風予報のように、東北を直撃するので、線路上の樹木の除去などで14日午前中の電車が動く保証はないと思います。

私も14日午前中は宮古フェリーに乗るためには室蘭まででる必要があり、バイクなので道路状況が心配です。

こちらは台風予想。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jma.go.jp%2Fjp%2Ftyph%2F1919.html


できるならば、すぐ旅館はキャンセルして、電車も延期したほうがよいでしょう。その人も自分が勧めた相手に被害が及べば困るとおもいますし・・。

あと、下記のサイトにこんな投稿もありました。

米航空宇宙局(NASA)と海洋大気庁が連携して運用している気象観測衛星「スオミNPP」が日本に接近している台風19号を宇宙からとらえた。渦状の雲の幅は南北で2000キロ以上に及んでおり、米国内では「スーパー・タイフーン」として紹介されている。AP通信によれば、「ハギビス」と呼ばれている19号は大西洋上で発生するハリケーンの規模を示すカテゴリーでは最大級の「5」。米国内の気象専門家からは「存在しない6に相当する」という意見も出始めている。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fheadlines.yahoo.co.jp%2Fhl%3Fa%3D20191010-00000203-spnannex-soci
「ハギビス」は前日までの24時間で最大風速を45メートルも増やしており(現在65メートル)、この発達スピードは地球で発生したハリケーン、サイクロン、台風の中で史上最速の部類。あまりに急速に発達したため、最初にあった台風の目の周囲に“2つめの目”ができたことが確認された。

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkoukan2017.progoo.com%2Fbbs%2F


321 史実探偵: 平 素人:2019/10/11(金) 21:13:52
Re: 会合関連^^
管理人さまへのお返事です。

 釜石行きについてのご心配、たいへんうれしく思います^^。
先さまにお会いできないことになったのは大変ざんねんですが、釜石へは一度は訪れておきたいところです。一筋なわとはいかないのはもとより承知。それもこれも受け入れてたのしんでまいります^^。ただし電車が動かなければ・・・^-^!??ご心配ありがとう御座いました。



http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



322 史実探偵: 平 素人:2019/10/12(土) 06:33:33
Re: 会合関連^^
> 管理人さまへのお返事です。

??myブログへのコメントみました。5年来?の入信でみすごしてしまいました(汗~!)
??釜石行きについて、ご心配をおかけして済みません(深礼)。先走ったようです^^!

この度の件は、おおくの方に都合をたのんでの岩手行きです。電車がうごけば行かないわけにはいきません。その先は、臨機応変でたのしんでまいります。「台風一過」になればそれもよし(笑い)。

でも、先さまの場合は海行きがあり、かならず波高荒れはあります!。ごむりをする必要はさらにさらにありません!!??先さまは行動的なお方^^。山陽道を通りすがりでのお会いが、この先できるやも知れません。

尚、このパソコンは同居していた息子管理なので、メール関係は使うことができませんので悪しからずご了承ください^^! ありがとうございます。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



323管理人:2019/10/12(土) 11:34:25
Re: 会合関連^^
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> > 管理人さまへのお返事です。
>
>?? myブログへのコメントみました。5年来?の入信でみすごしてしまいました(汗~!)
>?? 釜石行きについて、ご心配をおかけして済みません(深礼)。先走ったようです^^!
>
> この度の件は、おおくの方に都合をたのんでの岩手行きです。電車がうごけば行かないわけにはいきません。その先は、臨機応変でたのしんでまいります。「台風一過」になればそれもよし(笑い)。
>
> でも、先さまの場合は海行きがあり、かならず波高荒れはあります!。ごむりをする必要はさらにさらにありません!!??先さまは行動的なお方^^。山陽道を通りすがりでのお会いが、この先できるやも知れません。
>

平さん、お返事ありがとうございます。とりあえず、私のほうは、明日台風すぎてから様子みて行くかどうか考えますね。
いくらか仕事が残っており、すぐには出発できない感じです。おそらくは月末から来月初頭にするような気がします。

よい旅行をお過ごしください。

324 史実探偵: 平 素人:2019/10/21(月) 07:20:15
10月/14日の釜石行き
<釜石を訪れたい>
台風19号は、ハギビスと名付けられ南北2千kmの風雨域をもち年間雨量の1/3が降った所もあるという。静岡県に上陸し福島や宮城、神奈川など12都県で75人死亡、14人が不明者となっている。河川の決壊は7県52か所(16日・朝日)、長野県では千曲川が決壊し新幹線車両7本が水浸しになった。列島の幹線も不通や運行停止が相次ぐなどの大打撃をうけた。釜石市で13日に予定されていたラグビーワールドカップ、ナミビア−カナダの試合が、この台風の影響で中止された。
その釜石に10/14日泊で行きました。
列島大動脈、山陽、東海、東北新幹線は、予定どおりの運行で新花巻14時41分着。花巻から釜石までの釜石線は途中の遠野止まりで、次の電車は2時間余り後の発車。泊りを予約している釜石まで行けない。それを知らずにホームへたたずむのは、私たち2人と釜石でお店が泥水被災した姉さまの手助け目的のご婦人と、あとから来た一日一組限定、(とおの屋 要)遠野の美味しいどぶろく^^が目的の30歳がらみ?のお兄さん2人の5人のみ。ここ新花巻で次の電車遠野までの2時間余は待てない。オザキさんと云われた(もう一人のお兄さんのお名を二度聞きしたのに思い出せない^^!)お兄さん達はレンタカーを即断!! 「真にもうしわけ御座いませんが、私たち3人を同乗させて頂けないでしょうか^^?」「いいですよ^^遠野までですが・」車行きで1.5時間は? かかったかな。お礼をいい分配を願い出ると「困っている人があったら助けてあげて下さい」と、固辞された。さて、残された遠野駅での3人。これからどうする?? 奇しくもオザキさんといわれるキャッシー中島似の御婦人が釜石の姉さんにTelすると、盛岡から帰りの姪ごさん母娘が約1時間ほどで遠野につくという。駅員さんに聞けば不通であった釜石行きの電車は、先ほど10分前に出たというし、次の電車は2・3時間後の発だという。それまで待つと釜石着は午後の10時はゆうに過ぎてしまう。ここでもその釜石行き御婦人の情にお願いしてのヒッチハイク^^!。釜石へ着いたのは6時頃。<3/11>で流された姪ごさんのお家がその海岸ホテルのすぐ近くにあったそうです。そして、カナダ選手30名が泊まられたと聞くホテルで合ったお客はただ一人の貸きり状態^^!。 翌朝、歩いた釜石駅までの道路では流れ出た泥土の片づけ作業がなされていて、注意しないと滑りこけるほどでした。もとより、観光が目的の釜石行きではありませんでしたが「人情け」というかえられない経験ができ、我が敬する奥州市の岩淵先生にもお会いすることができました。
 そして、もう一つ学んだことは、このような大災害時には、状況が色々とかわっているのにその錯綜した情報が一人歩きして伝わること。「その情報が何時、だれが、どこで出したか」を見極めることが大切かとおもいました。このようなことは「史記」にもあることで、その一字一句の全てが正しいとは限らないのではとも感じました。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



325管理人:2019/10/22(火) 23:15:16
Re: 10月/14日の釜石行き
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

平さん、こんばんは。先日の件は、大変お疲れさまでした。当日はお会いできなくて残念でしたが、
そうでしたか、やはり釜石方面もいろいろ被害が及んでいたのですね。ともあれ、ご無事でなによりでした。旅先での人との出会いは何よりうれしいものですね。

私のほうは、当日はバイクで釜石港から向かう予定でしたが、台風通過後とのこともあり路面の関係で二次災害になるといけないので、今回の東北・釜石行きは見送らせていただきました。

また、よい機会に釜石鉱山とそのクレーター中心部にある小川ダムについては、別途探索してみたいとは感じています。

また近いうちにどこかでお会いできること楽しみにしています。







326 史実探偵: 平 素人:2019/10/23(水) 00:49:37
Re: 10月/14日の釜石行き
管理人さまへのお返事です。

> 平さん、こんばんは。先日の件は、大変お疲れさまでした。当日はお会いできなくて残念でしたが、
> そうでしたか、やはり釜石方面もいろいろ被害が及んでいたのですね。ともあれ、ご無事でなによりでした。

ご心配をおかけしました~~!。奇しくも同性のオザキさん御二方のご厚情にあまえてのヒッチハイクでした。道路事情は釜石を知る御婦人オザキさん方の道行きがなかったら難しかったかもです。三陸鉄道は不通で翌15日から運行開始との放送がされていましたから来釜石中止は正解でした。またいつかどこかで会えるといいですね。ありがとうございました。

 古代史版のほうのピラミッド山形が気になってます・・・^^!。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



327 史実探偵: 平 素人:2019/12/04(水) 04:05:34
題 - まだある卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸 !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000332M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000332_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000332_3M.jpg

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-6.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



328 史実探偵: 平 素人:2019/12/13(金) 12:25:58
卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



329青面金剛:2019/12/14(土) 05:37:34
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

☆ 先ず、何故、岡山県総社市岩屋に埋めたと推理できるのか、の一番重要なアプローチ部分が全くないのでは、坪背山と同様に、単なる思い付きレベルだと感じます。
 命主社と荒神谷と賀茂岩倉遺跡から、一気に、岡山県総社市岩屋に何故、飛ぶのかの説明が無い。
古文書の記述や、地元の伝承話と詳細に一致する、などの決め手が無いと、専門家の方々は、発掘候補地に加える事は有りません。発掘には、大勢のボランティアの協力と、税金からの支出が掛かりますので。

 荒神谷も賀茂岩倉も、近くに重要な祭祀場が有り、物部方に降伏した後、銅剣と銅鐸が奪われない様にと、谷の斜面に埋めた、と言われています。
地元の方々は、その埋めた地が荒されない様にと、「その谷に近づくと祟りが有る。」と噂を広めて、発掘の日々まで守られて来ました。

 総社市・岩屋寺金堂の裏手の崖の上の均地(なるち)は、帰り際に、立ち入り禁止の立て札が、有った事から、禁足地と思われます。この岩屋の地は、吉備津彦に攻め入られた、吉備の先住の王「温羅」と其の仲間たちの最後の決戦の場で、戦死された方々が埋められた墓地の上を、歩いて来たのでは無いでしょうか。

百済の王子 温羅 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhisamitsu.exblog.jp%2F23653885%2F
大和朝廷に滅ぼされた温羅一族  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkono1.jp%2Flandscape%2Flandscape13891
吉備津彦温羅退治  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-18-6urataiji.html
おかやま桃太郎ものがたり 吉備津彦と温羅
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokayama-kanko.net%2Fdigitalbook%2F_SWF_Window.html

 温羅は製鉄技術で農機具や漁具などを広めたので、銅剣や銅鐸とは相容れない感じがします。
吉備の地で、出雲と共通性が有る古墳は、吉備地方では一番古い、三角縁神獣鏡など13面が出土した
備前岡山車塚古墳(岡山市)の方では無いかと思います。
備前車塚古墳  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkofun.info%2Fkofun%2F2957

松本1号古墳(島根県雲南市三刀屋町給下)
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.unnan.shimane.jp%2Funnan%2Fkankou%2Fspot%2Fiseki%2Fmusium06.html

《案内板表記》 「松本一号墳は、出雲地方でもっとも古い前方後方墳です。全長は50mを測り、雲南地方で最大の古墳です。また前方後方墳としては出雲地方で三番目の大きさです。前方部の先端がやや開くことから我が国でもっとも古い前方後方墳の一つ備前岡山車塚古墳(岡山市)との類似性が指摘されるなど、古代出雲を考える上で重要な古墳です」

>魏からの銅鏡数100個=出雲銅鐸数39個+<吉備銅鐸数23個>+神戸銅鐸数14個+野洲銅鐸数24個
><岡山県総社市岩屋の金堂寺裏の斜面に>筆者のいう23±α個の銅鐸

★ これまでに出土した銅鐸は全国で約500個。出雲銅鐸数39個と有りますが、加茂岩倉遺跡39口の他に、荒神谷遺跡に銅鐸6口が出土しています。基本的な下調べも不十分で、お近くの図書館にも通って無いと、お見受けします。

◎ 徐福が攻め入った地は鳥取で、倉吉が、それまでの都だったのでは、と解説しているブログを紹介します。
「真実の古代史」 by サイの尾・猿田彦
千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fysaino11jp%2Fe%2Fb6834d410c5f55068af442e4d97793fd

 倭国の都(鳥取県中部)
鳥取県中部は天孫が降臨されて(紀元前195年頃)、奈良時代に藤原氏に滅ぼされる(734年頃)まで倭国の都であった。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2Fmaps%2Fd%2Fviewer%3Fmid%3D1EHG9ZjblLEN16jCK1CWjfhMtjgU%26ll%3D35.41365693365169%252C133.77201409999998%26z%3D10

〇 先祖からの伝承は数十世代を経て奇跡的に、繋がってきた遺産ですので、記憶の確かな内に、ここに書き入れるか、Dr・いずも氏か管理人さんに託すか、近くの出雲系の神社の宮司さんと氏子さん方に託すか、して置かないと、平さんが途絶えさせた事に成って終います。
「悪しき爪」の伝承についても、エピデンスは要りませんから、覚えている限り、記録として残さないと、後々の発掘者が、災難を被る事になり兼ねません。



330 史実探偵: 平 素人:2019/12/15(日) 04:37:58
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



331青面金剛:2019/12/16(月) 06:56:46
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 追伸 :「論より実行 !!」坪背山の天岩戸の原形、その坑道(=光道)を掘りだしたズリの確認を地元のメディアや、行政、博物館とうにお願いしてますが、いまだにナシのツブテです。当方のボケや、(遊びについやすお金もない^^!)もあり今はあきらめて「終活中」です。先様はお返事をくださった3/100人目になりました。
> ・・・朝になりました、以後よろしくです・・・(笑い)。

★ 「論」だけ掲げて「実行」を伴わない、のは平さんでしょう。足の不自由な身体障碍者でも無いのに、各方面にお願いした処で、「あんた、近場に住んでんだから、自分で直ぐ行けるじゃないの?」と言われるのがオチです。

 台風が接近している最悪の時に、釜石まで新幹線を乗り継いでまで、無駄足運んだ旅費で、出雲に数回は行けた筈です。

 旅費が無いなら、近所で定年後に暇を持て余している冒険好きに、連れて行ってもらう手も有る訳だし。お礼に畑で取れた新鮮な野菜を時々届けるのも有るでしょう。

 坪背山周辺は、戦前から戦後にかけて銅鉱の採掘が有りましたから、仮にズリが有ったとしても最近の物の可能性が有ります。千数百年前のズリなど風雨で流されている、と考えるのが自然でしょう。
 現場は登山道以外は、歩くのも困難な様です。携帯も圏外で古い坑道に落ちても助かりません。マムシも多いと聞きます。鷺銅山の事については、鵜鷺コミュニティーセンターに問い合わせる手が有ります。

鷺(さぎ)銅山〜大歳(おおとし)鉱山
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.geo.shimane-u.ac.jp%2Fgeopark%2Fsagi-otoshikozan.html

古代出雲『出雲と産銅』の謎(その1)
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fshigechanizumo%2F43484585.html


独り言一人旅 214 <鷺銅山跡>
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Ffrom_iwamiginzan%2F27611815.html

「石垣で造られた平坦地は、工場・作業場の跡で辺りに孔や窪みがある。銅の山は、この山の上の斜面で、東西2つの峰を持つ龍山(りゅうざん:標高311m)と言う山で、路頭彫りの頃には山頂が低くなるほどに掘ったと言う。更に、林の斜面に分け入ると、坑道や竪坑の跡など沢山あると言い、下草刈りなどしない今は、草やシダが繁り、歩くのは危険だとも聞いた。

そんな話を地元で聞く前に、興味本位で林に入ったが、忠告の通りに気味悪く感じて、深入りはしないで戻ったほどだ。決して一人では入るな!との事であった。とは言え、鷺銅山跡も鷺浦の町も、調べて行けばまだまだ見所一杯だ。

双子山・龍山の頂上付近から西斜面には、上から田中鉱山・中山鉱山・鵜峠鉱山、そして鷺銅山の名前が、古い地図には記される。銅山に詳しいと言う地元の一人が、海に漁に出ているとかで、色々聞けなかったのは残念であった。ただ、鉱山と銅山とがあるのは、最期は石膏鉱山として栄え、やがて閉山になったと言うことのようであったが、詳しく聞けなかった。この日は時間も準備も無く戻ったが、いつか装備・陣容を整えて登って見たいものだ。

俄(にわか)勉強の身では、鷺銅山について詳しくを知る由もお伝えする術も無いが、鷺浦港の直ぐ東に周ると、旧中学校校舎を利用した<鵜鷺(うさぎ)コミュニティーセンター>があり、二階が歴史民族資料館になっている。整理も間に合わず雑然とある中に、銅鉱山・石膏鉱山の時代や、回船で栄えた時代の街の様子など記された、貴重な文献・地図・絵図・写真、鉱石・工具・道具などのほか、興味ありそうな民俗資料などが所狭しと並んでいた。豊かであった時代の痕跡など沢山あって、何時か整理され広く公開されると嬉しいところだ。 」

鵜鷺コミュニティーセンター
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.izumo.shimane.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1375402079050%2Findex.html


332 史実探偵: 平 素人:2019/12/17(火) 02:54:15
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-200804.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



333青面金剛:2019/12/17(火) 22:23:48
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>「この銅鐸の有る無しを確かめるのに・論はいらない」がぬけていました。

☆ 「論」が無くては、地元の発掘調査計画の検討委員会にも掛かりません。

> 朝夕の美しい太陽の両方を海上湖上に拝めるのは出雲のほかに(??)ありません^^。
> <鷺峠のズリ??について>

☆ 日御碕にも行かれたことが無いんじゃないですか? 一度、日御碕へ行けば、坪背山云々という発想は無くなるでしょう。鷺峠のズリは、道路上から、ドローンを飛ばして探す手も有りますが、ズリの上に雑草が茂っていたら見つからないかも。


 岡山県古代吉備文化財センター  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.pref.okayama.jp%2Fsite%2Fkodai%2F622638.html

「平成26年度に出土し、全国的にも希少な銅鐸であることが明らかとなった、総社市神明遺跡出土銅鐸も展示しています。その他にも、岡山市高塚遺跡の銅鐸出土状況や波止場状遺構などを復元したジオラマ、古代の堤防の一部も展示しています。」

平成 29 年度 岡山市埋蔵文化財センター講座第 4 回
弥生時代の青銅器 ー岡山市内出土の銅鐸を中心に− 安 川  満
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.okayama.jp%2Fcontents%2F000311137.pdf

総社・神明遺跡 銅鐸に「流水文」 国内4例目、全体像が判明
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdoutaku.cocolog-nifty.com%2Fblog%2F2015%2F08%2Fpost-3304.html

鬼ノ城内の発掘調査
最終金属加工の炉の調査が主なもののようでした。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkphodou.web.fc2.com%2Ftiraku%2Fblog-6%2Fpage9%2Ffiles%2Fcategory-9b3c30ce57ce.html

☆ 鬼ノ城は、古代の製鉄と鉄加工の地だった様です。禁足地で、吉備津彦との戦いに敗れた方々の埋葬地を、荒すだけに成りそうですので、地元の研究者も賛成しないでしょう。


334 史実探偵: 平 素人:2019/12/18(水) 01:36:01
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000339M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000339_2M.jpg

http://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm



335青面金剛:2019/12/19(木) 13:30:44
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> > >「この銅鐸の有る無しを確かめるのに・論はいらない」がぬけていました。
> 「総社市岩屋に、大量銅鐸の有る無し <だけ> を確かめるのに・論はいらない」
> その<だけ>の言葉がぬけていました^^!。・それに行動力もぉ^^?(滝汗〜〜)
・・で、より多くの誰かさんに、託したいと思い、咎(デメリット)を承知でそのピンポイントの発表にうつりました。  ・・・で、より多くの参加者・共立者を募りませんか^^?
>????はい。出雲にも、行ったことがありません。
> 坪背山(壷背山)(つぼせやま)島根県出雲市

★ 禁足地での発掘申請には、よりハードルの高い「論」が必要とされ、それすら無いのでは、係官が申請書を一瞥しただけで、却下されてしまうのがオチです。

★ 総社市岩屋の方では「実行」と「行動力」を力説する人が、坪背山には行こうともしない。言っている事と、やっている事が正反対の人が、参加を呼び掛けた処で、誰も付いて行きません。

★ 管理人さんが、この次に、出雲へ行く時に、連れて行ってもらうのが、好いかも知れません。主な観光コースも巡っていないのでは、命主社と出雲大社(素鵞の社)、日御碕神社と伊奈西波岐神社を廻った後に、最後に坪背山を通るのが好いかも。

 私は一昨年に日御碕灯台の上まで登ってきました。平さんは無理かも知れません。

336管理人:2019/12/19(木) 22:45:26
鬼の岩屋
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000341M.png

https://www.jalan.net/kankou/spt_33208af2172073698/#basicInfoArea



337 史実探偵: 平 素人:2019/12/20(金) 07:03:44
Re: 鬼の岩屋
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000342M.jpg

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-date-201607.html



338 史実探偵: 平 素人:2019/12/20(金) 23:36:31
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-10.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



339青面金剛:2019/12/21(土) 06:50:03
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>  今後、それらが出土してから騒ぐか、素人の欠ける部分を補完されて楽しむかは、先さまや、この掲示板をご覧になっている皆さましだいです。
> (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!

★ 結局、平さんは、自分が立てた説にも拘わらず、自分からは一切動かずに、他人に、けし掛けて居るだけの人。

>↑犬墓山石碑(この上にオニの生首をか?)
★ 平さんの文中には、地元の方々への配慮が見られません。

おかやま桃太郎ものがたり 吉備津彦と温羅
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokayama-kanko.net%2Fdigitalbook%2F_SWF_Window.html

☆ この紙芝居にも描かれている様に、温羅は製鉄の技術力を以って、農機具や漁具や狩猟器具を広め、豊作や豊漁を地元にもたらしました。岡山では毎年、「ウラジャ」の踊りを若い方々が舞って、吉備津彦に敗れた「温羅と仲間たち」の功績を讃えています。

★ 発掘許可申請者が、「地元の方々へ配慮が出来る人物かどうか」、も許可の判断材料の一つです。平さんの無神経さでは、地元の方々とのトラブルを引き起こしてしまい兼ねない、と敬遠されてしまいます。

☆ 先祖から数十世代をも経て、奇跡的に繋がってきた、古伝承以外は、平さんの勝手な盲説でしかなく、平さんの人生と共に終わるだけ。
 「先祖からの言い伝え」を最初からオープンにして、各方面に持ち掛けていれば、何人かの専門家も動いた筈です。

★ 釜石まで遠出できたのなら、近場の出雲には、容易に行けるでしょう。平さんが「坪背山の現地レポート」をここに書き入れる時まで、この議論は、しばらく休止とさせて頂きます。


340青面金剛:2019/12/23(月) 02:38:39
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
?? 史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>  今後、それらが出土してから騒ぐか、素人の欠ける部分を補完されて楽しむかは、先さまや、この掲示板をご覧になっている皆さましだいです。
> (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!

★ 結局、平さんは、自分が立てた説にも拘わらず、自分からは一切動かずに、他人に、けし掛けて居るだけの人。古い坑道や竪坑が沢山残っている、危険の高い坪背山の探索を、他人に頼るのは、無責任極まりない。各方面から無視されて当然です。

>↑犬墓山石碑(この上にオニの生首をか?)
★ 平さんの文中には、地元の方々への配慮が見られません。

おかやま桃太郎ものがたり 吉備津彦と温羅
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokayama-kanko.net%2Fdigitalbook%2F_SWF_Window.html

☆ この紙芝居にも描かれている様に、温羅は製鉄の技術力を以って、農機具や漁具や狩猟器具を広め、豊作や豊漁を地元にもたらしました。岡山では毎年、「ウラジャ」の踊りを若い方々が舞って、吉備津彦に敗れた「温羅と仲間たち」の功績を讃えています。

★ 発掘許可申請者が、「地元の方々へ配慮が出来る人物かどうか」、も許可の判断材料の一つです。平さんの無神経さでは、地元の方々とのトラブルを引き起こしてしまい兼ねない、と敬遠されてしまいます。

☆ 先祖から数十世代をも経て、奇跡的に繋がってきた、古伝承以外は、平さんの勝手な盲説でしかなく、平さんの人生と共に終わるだけ。
 「先祖からの言い伝え」を最初からオープンにして、各方面に持ち掛けていれば、何人かの専門家も動いた筈です。

 平さんが、過去30年間に各方面へ、約2000通の調査依頼の手紙を出した、その切手代だけでも、出雲へ10回も行けた筈で、出雲の地を一通り廻れてた事でしょう。平さんが、やっている事は、本末転倒した事ばかりで、馬鹿らしく成ってきます。

★ 釜石まで遠出できたのなら、近場の出雲には、容易に行けるでしょう。平さんが「坪背山の現地レポート」をここに書き入れる時まで、この議論は、しばらく休止とさせて頂きます。



341 史実探偵: 平 素人:2019/12/23(月) 02:51:48
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://houshizaki.sakura.ne.jp/tuboseyama.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



342青面金剛:2019/12/23(月) 22:23:07
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人さんへの返事です。

>  わたし一人がそこへ行っても「無駄足」になるだけ。

★ 詐欺師! 平さんが、ここの掲示板に、いい加減な説を繰り返し掲げて、自分一人では絶対に現地に行かないのは、別な目的で、参加者を集める「釣り」として、利用しているから。

★ 平さんが、自分の住んでいる町の名前すら教えないのは、別の目的が有るから。

★ 勾玉を「ポケットに忍ばせて持っていきたい。」と以前、書き込んでいた様に、発掘物を転売する、盗掘集団の客寄せ役だから。

★ 参加者から、旅費を借りた後に、トンずらする、旅費サギを目的としているから。

★ 参加者の金品を掠めるのが、目的だから。

★ 平さんは犯罪者集団の客寄せ役と疑わざるを得ない! 「先祖からの伝承」も全くの嘘で、作り話でしかない。平さんのHPも「釣り」。


343 史実探偵: 平 素人:2019/12/24(火) 03:03:12
人身供儀・その歴史、忘却の彼方に!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-9.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



344 史実探偵: 平 素人:2019/12/25(水) 21:33:53
続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-4.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



345青面金剛:2019/12/26(木) 06:06:23
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>『ひと山こえてぇ〜、ふた山こえて、み山(三上山)の前でぇ〜、た〜ぬきさん、狸さん踊ろじゃないかぁ』
>  この鞠つき童唄には、おそろしいまでの秘密が隠されていた。

>     岩の付く地名その西方????約1里・二山越え   西、及び荒神の付く地名
> <出雲> 岩倉           大黒山・仏教山    神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)    *山 ・経山      黒尾地区 西谷?(にしたに)

>   人里から程よく離れた山の中腹、        ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
>野洲町三上山から始めた謎解きでしたが、最終的には「この手鞠唄」が決定打となりました。大量の銅鐸の埋め場所の大岩山から、ふた山越えた、三つ目の山が三上山でした。一方、出雲の方を調べると加茂岩倉から西へ、大黒山ともう一つの山を越えた三つ目の山が仏教山で、これも△の山姿をしています。その<前>の斜面に大量の銅剣が埋めてあったことに、驚きを禁じえませんでした。

>  卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」

★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。
 一度指摘しても頭に入らなく、地元の方々に無神経な勝手な説を繰り返すから、地元の方々に白い眼を向けられるのが、平さん一人ならば兎も角、そのとばっちりを被りたく無いから、平さんとは歩きたくも無い。

◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき

 西本昭子・作 末吉陽子・絵 新風舎 2006.10.25 刊

 岡山弁でつづる 「三休山」(みやすみやま) を背景にした いたずら好きのたぬき親
 子と おんばあ の おはなし。

 ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪

 と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。

☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11880

岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
岩倉公園  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11923

☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。三休公園民話村にも行った事が無いんじゃないですか?

三休山のおんばあと、たぬき 西本 昭子 作 末吉 陽子 絵

新風舎(ティルコーポレーション)2006/10 発売 (A5) ISBN:9784289007738
価格:1,210円??(本体:1,100円)

☆ 三休公園民話村から、岩倉山山頂へは、ほぼ南方向に有ります。荒神谷から賀茂岩倉の方向は、東南の方角で、神の通り道(神門)の方向です。




346 史実探偵: 平 素人:2019/12/28(土) 00:52:42
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
青面金剛さまへのお返事です。
 コメントありがとう御座います。・・もう下さらないと思ってたのですがぁ〜^-^?
わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、(もし?)素人の予見した場所に、予測した形でその坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが世に残りますよね(^^)

> >  卑弥呼は「稚児を殺めた銅剣を、二度とその剣、その荒神に持たせてはならない!」
> ★ 前にも指摘した様に、銅剣の×印は、東出雲王家の富家の紋である、銅矛が交差した紋を示す、王権の象徴を意味します。

 先さまのご指摘のすべてを記憶している分ではありませんが、出雲には<富・とび>という地名(国土地理院)がありました。何故、これをトビと読むのか不思議でなりませんでした。飛び? 鳶?そのすべては思い出せませんが。加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。

> ◎ みやすみやまの おんばあと、たぬき
>  ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪ ひとやまこえて ふたやまこえて みやすみやまの うえで ♪たぬきさん たぬきさん ♪あそぼじゃないか いま ごはんの まっさいちゅう ♪おかずは なあに うめぼし こうこ ♪ひときれ わたしにくださいな ♪あかちょこ べっちょこ いやしんぼう♪
>  と たぬきさんが まりつきを・・。ほんに 近くに聞こえてくるような。

 またまた、貴重な情報をありがとうございます。
わたしは「二山越えて、三山の前で、狸さん・・」の狸さんが推めていませんでした。「なぜ、それが狸さんなのか?」狐ではだめなのかと?「ぽんぽこぽんの すっぽんぽーん♪」 そうです。この形容は。狸の皮太鼓をたたく音だったのです! 「おんばあ」は卑弥呼です。一般に卑弥呼は美娘として描かれていますが、わたしは、そうと考えていません。娘時代と老期とはちがうでしょうが、史記には「千人の傍女にかしずかれ、その姿見たものなし」とあるようですが、女子は長髪が一般的な世の中。老期の卑弥呼は、幼児期に削がれたその耳を隠すおかっぱ頭。目の周りには歌舞伎役者のようなクマドリ。そしてお歯黒の歴史があることから、前歯の全てを抜いていたと推定しています。倉敷市・船穂町の里木貝塚では前歯を意識的に抜いたのでは?とする遺骨がでたとか。その遺骨が卑弥呼だとはしませんが、「お歯黒」は江戸時代まで残っていたようですから、巫女さんにおいては、同様なことが拡散したのではないでしょうか。

卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。

卑弥呼の本拠が(自分の知識では)どことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。でなければ「姫路」の地名は残ってはいない。興し(おこし)に乗って移動している。このシキタリは、浜松の姫街道(国土地理院)。地方によっては、今でも花嫁行列や、葬儀列として残っているのは皆さまの知るところです。このように。今の私たちが「何をしているか」から手繰っていくのが素人探偵のやり方です。みやまの前か?上か?の問題は残ります。青面金剛さま>ありがとうございました。

> ☆ 三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上400-11
> 岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
> 岩倉公園

 行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗〜^^!)。
こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。

> ☆ 平さんが、その説を唱え続けたいなら、絶版本なので、図書館の館員に探してもらう事。

 図書館へいけば、そのネットワークをとおして、読みたい本を他の図書館から取り寄せてくださるのは知っていますが、只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



347青面金剛:2019/12/28(土) 05:41:47
Re: 続・童唄に隠された謎?・その歴史、忘却の彼方に!
??忘却探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> わたしの意とすることは『 ここ掘れ、ワンワン^^』 先様のコメントはありがたいのですが、辛口コメントも、度を過ぎたモノはいかがかと思います^~! この先、その出土までには時間がかかると思います。それ等が出土しなければいいのですが、もし?素人の予見した場所に、その坑道窟や大量の銅鐸が出土したらまずいことが残りますよね(^^)

★ 結局、現地に一度も行かず、他人に、けし掛けて居るだけの人が、度が過ぎて、ふざけた事を書き込んでいれば、疑われるのも仕方ないでしょう。
 図書館にも行かず、地元の新聞も読まず、地元のテレビも見ず、地元のラジオすら聞かない人が、勝手に描いた説など、専門家が候補地に加える事は有りません。


> 加茂(カモ?)や、鷺峠をはじめとして、出雲には鳥の地名が他の地に比べて多いのが気になっていました。×印は、歴史の流れを考えると、「富家の家紋」が先にあったのではなくて、卑弥呼の封印の方が先であり「この剣、二度と使わじ」とした不使用の意や、封印の意があるのではないでしょうか。今では封書を閉じるとき×印を書く人は少なくなりましたが。この×は封をするって意味ですよね。その剣の茎(なかご)に無印のものが幾つかありましたが、これは素人の謎解きでおおいに参考になりました。つまり、それは使用しなかった新品・予備剣かと!! このように考えて歴史をさかのぼれば「富家」は由緒ある家筋になります・・^^。

★ 卑弥呼は、18代続いた出雲王国を侵略した側である、物部王国の同盟国側ですので、富家の方が先です。

 卑弥呼が祀られているのは、宇佐神宮の本殿・二之御殿に比売大神として祀られています。
宇佐神宮  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.usajinguu.com%2Fguide%2F

 鹿児島神宮の北東側に卑弥呼神社も有りますから、ここも祭祀の場の一つと考えられます。
鹿児島神宮  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkagoshima-jingu.jp%2Faccess.php

 日御碕に隠が丘という小高い丘が有り、出雲王朝の閉朝後に、三代続いた、物部方の王の墳墓では無いか、と言われています。

隠が丘  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-enmusubi.com%2Fentry%2Fkakuregaoka%2F

☆ 日御碕の遊歩道を歩いてみれば、岬の先に、「経島(ふみしま)」が見え、太陽の祭祀を行うならば、この場所だと実感します。
 この島は日御碕神社の神域として神職以外の一般の立入りは禁止されており、年に一度8月7日の例祭の時のみ、宮司だけがその島に舟で渡ることができます。
 別名夕日の祭りといわれ、刻一刻と日が沈む中で執り行われる様子は神々しさが漂います。

経島(ふみしま) /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-kankou.gr.jp%2F370

日御碕神社  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izumo-kankou.gr.jp%2F678


>  卑弥呼は、狸皮太鼓(鼓・つづみ)をたたき、その大量の銅鐸や銅剣を封印している。
> 卑弥呼の本拠が(自分の知識ではどことはいえないが、その<埋封・まいふう筆者の造語>のため、出雲・吉備・姫路・野洲へと移動している。
>みやまの前か?上か?の問題は残ります。

☆ 出雲から、難波や大和に向かうには、美作の出雲街道を通ります。

☆三休公園民話村 岡山県久米郡美咲町西川上  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11880
岩倉山:標高394.2m 岡山県加賀郡吉備中央町上田西
岩倉公園  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.okayama-kanko.jp%2Fspot%2F11923

☆ 吉備中央町の岩倉山の周辺には、加茂や神の名の付く地名が残る事から、祭祀の場が有った事が伺えます。

>  行ったことも聞いたこともありません・・(滝汗〜^^!)。

★ 地元の人間に、遠方の人が観光案内しなきゃならないのは、本当に馬鹿らしく成ってくる。

> こういった遺跡に桜の植樹は珍しくありません。今でこそ桜は観光木ですが、その昔をさかのぼれば「農事呪縛の木」であったことは、先さま方の知るところです。逆に「桜」の植樹があれば、その歴史の拡散かと(神戸・桜が丘)疑ってみるのも楽しいことです。「みやすみやま」にしても「宮山・みやま」にしても珍しくありません。今でも、里山に神社があればそれ等は「みやま」の呼称で呼ばれているのではないでしょうか? 「共通の文化があれば共通の事象あり」 何故、それが「三・み」なのか? 今では、その追求を、すっかり忘れていることが大きな問題だと考えています。

☆ 「みやすみやま」=宮住み山
 つまり、出雲王家の親族か、美作後南朝の宮様の、どちらかが住んでいた宮が有った、と思われます。久米郡の久米は、天皇・大王家の警護役の意味が有ります。

美作後南朝  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpasocon-salon.floppy.jp%2Fakihisa01.html

>  只今は「 終活中^^!」そのエネルギーは残っていません。ので、ので・・・

★ 知らん! 釜石まで行けた体力が有るなら、次の桜の季節に、宮住公園と岩倉公園と、命主社と日御碕へ行ってこい!

 これだけ、教えてあげたのだから、もう、十分でしょう。後は、管理人さんと、Dr・いずも氏に頼みなさい。先祖からの伝承が本当に有るなら、書き残さないと、何も残りません。(終)


348 史実探偵: 平 素人:2019/12/30(月) 15:25:12
Re: 鬼の岩屋
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



349鳩摩羅童子:2019/12/31(火) 21:10:07
発音付きチベット語オンライン辞典
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Tibet_dic.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



350鳩摩羅童子:2019/12/31(火) 21:30:53
言語道断 は、タミル語にある。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17_1.html#n.532

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



351管理人:2019/12/31(火) 23:18:36
今年もお世話になりました
平さん、童子さん、またわかちあいありがとうございました。

鬼ノ城は、以前もライン面で分析したかぎりでは、神籠石ですね。山城説もありますが、神域説もあり、その石積みの低さが問題となっています。水門の活用法も考えどころですね。

細かいところは、また正月休みあたりで、ゆっくり拝読させていただきますね。

今年もお世話になりました。



352 史実探偵: 平 素人:2020/01/10(金) 00:07:23
あおさぎ・鳥祖卵生!
  年がかわりました。管理人さま、皆さま。 本年もよろしくです^^。

12/31 本日の夕方のことです。車での帰り道ライトのなかに、なにやらが? ブレーキを踏むと、アオサギでした。こんなことは初めてです。私の見るアオサギは昼夜は問いませんが、川の中かその岸辺にじっと佇み、魚を待つ姿しか見たことが有りません。何時捕食しているのかと疑うほどじっとしています。そのアオサギが道の真ん中に。スピードがでてないとはいえ危うく轢いてしまうところでした。停車すると。かの鳥は飛び立つでもなくゆっくりと道を譲ってくれました。私は近時「鳥祖卵生」という言葉をしりました。大まかにいえば人間の祖先は鳥であったという考えです。この中でアオサギは、その漂々とした佇まいと灰色をしていることから、死灰のなかから蘇る鳥とされているようです。萎えることなく絶えることなく続いてきた「この想い」にも存命中はむりとの思いが勝るようになった今日この頃ですが、水辺でもない道の真ん中に、車行き交う私のライトの前に何故いたのでしょうか。わたしには「急くことなく道を譲っておきなさい」とでも言いたかったように思えてなりません。こういった極大論(巨大隕石と大津波)は没後に認められるが世の常。「これでもか。これならば、」と広報を重ねてきましたが本懐にいたるまでには50年100年はかかるかもしれない。これがあなたに伝わらないのは、その史実がなかったからではない。わたしの論述がいたらないからだ。 年の節目に、□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



353 史実探偵: 平 素人:2020/01/30(木) 09:25:35
Re: 神籠石
http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/kaifu-/kougoishi.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



354管理人:2020/01/04(土) 18:17:31
Re: 神籠石
平さん、あけましておめでとうございます!今年もよろしくお願いします。

神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。

平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。


神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。

その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。

また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。

先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。

また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。

平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。





355 史実探偵: 平 素人:2020/01/05(日) 08:32:12
Re: 神籠石
管理人さまへのお返事です。ご丁寧なコメントありがとうございます。
  皆さまにとって本年も益々のお年になりますように^^。

> 神籠石についてご意見ありがとうございます。特に水門の存在は用途解明のキーポイントになりそうですね。

 今までは「神籠石」のことば自体を知らなかったのですが、祖先がその石列を何故、「籠・かご」の字をあてているのかに興味をもつようになりました。ご存知のように、竜は雨降らす水の神であり、その神に人里近くで天にも近い山頂で「雨降らせ給へや!」の祈りがあったのではないでしょうか。山城説のそれはその時期の解明で大切なことなのでしょうが、歴史的知識のない素人には卑弥呼以前の代に的をしぼっています。
地形的干天から瀬戸内沿いでは雨乞いが発達していたようで、管理人さまが特視?される北九州には「岩屋」の地名が数多くあるのには驚かされています。それに名前は思い出せませんが「〇〇平」は龍神への食台(myぶろぐ)だとしたこともありました^^!。

> 平説は、そうすると現在言えばダムのような役割を果たしていたことになるでしょうか。土砂崩れ止めの土塁ともいえそうですね。

 そうですね「ダム」と云うと水利の意がつよくなりますが、水田への水利にしては貯水量が小さすぎるので「呼び水儀式のための貯水」ではないかと考えています。そして、神籠石は「境界決め」の意が強いのではと思うようになりました。

> 神籠石の原型については、個人的には沖縄のグスクとの関係を模索していますが、そのグスク自体は山城と神殿の組み合わせとなりますから、その神籠石の構造がグスクと重なれば、立証できるのではないかと感じます。

 沖縄の「城・グスク」については全く知識がないのですが、以前、管理人さまの調査で「さいごはやはり現地調査で・」のことばがつよく残っていますし、私も、そのように思います。

> その際に、水門の是非や、その位置などが同じかどうかも気になるところです。
> また聖域の構築方法に共通性がないかどうかも調べる必要がありそうです。

そうですね! それが「雨乞い施設」だとの認識を得るには 学者の論理と解明が是非とも必要です。「水門の是非や、その位置!!」の追求には同感です。わたしは、以前「その海水や湖水(琵琶湖)の水を天にあげて雨水に変えて頂けませんか」と、ご先祖さまは祈ったのではとしたことがありました(笑い)。

> 先ほど、沖縄特集の番組をみてましたが、御嶽という聖域の紹介があり、洞窟や岩の重なり合う地点と、日の出の方角との関係性について触れていました。

わたしが、管理人さまや、先様方に強く願っているのはその件です。正月の番組で伊勢の夫婦岩のあいだからダイヤモンド富士が遠くにある映像をみました。祖先は 正月(≒冬至)の日の出に強い興味をもっています。但し、地球の歳差運動でその方向に変化ありとは先様がたが識るところです。今<渡来人>会報をみていて、私たちが神社にある盤石が山のどの位置(方向)にありかを知ることは先祖の考えをしるうえで大切と考えるようになりました。

 今、私たちが両の手を合わせたスリットや 盤石二つの間から初日ノ出がのぼってきました。わたしには、その強い日差しが四千年まえの巨大隕石が発した'<閃光>千光寺' 信仰の源に思えてならないのです。

> また水流という点では、沖縄でも水田が造られていたそうで、湧き水の利用もなされていたそうです。水を通しやすい上層の石灰岩と通しにくい下層の泥岩との組み合わせで、そのような湧き水が流れ出るようになるそうです。

山や、巨岩の隙間から、干天においても涸れない湧き水を聖水としてあがめることは 各地にもあるようです。沖縄と同様な石灰地に中米のセノーテがあるのは先さま方のしるところです。

> 平さん的には、神籠石と貯水、流水の関係があると考えておられるのですよね。その辺、もう少し掘り下げてみてもよいかもしれません。

 管理人さまぁ〜〜 素人の中坊的発想や論説ではどうにもならんとですよぉ〜〜
 それにボケが加わってきてますしぃ〜〜 (会報のほうに移りたいのですがぁ^^!)

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



356 史実探偵: 平 素人:2020/01/06(月) 04:09:12
渡来人会報「吉備・四国」を読んで
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



357 史実探偵: 平 素人:2020/01/07(火) 15:09:57
Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kibisikoku0511.htm

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



358管理人:2020/01/08(水) 03:02:19
Re: 渡来人会報「吉備・四国」を読んで
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへ??&; 皆さまへ>
>
平さん、お返事遅れてすいません、別件でかかりっきりになってしまいまして・・・・。

ぜひ、吉備のほう、平さんのほうでも、現地への探索結果出てきましたら、よろしくお願いします。

なかなか吉備までは足を運びにくくなりました・・。

359鳩摩羅童子:2020/01/09(木) 22:27:38
稗田阿礼(ひえだのあれ) は、サンスクリット語 カモ。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_17.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



360 史実探偵: 平 素人:2020/01/11(土) 03:54:32
徐福達が日本史に与えた影響、その?〜?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



361管理人:2020/01/12(日) 01:36:35
印欧祖語と日本語との関係
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000366_3M.jpg

童子さん、平さん、今年もよろしくお願いします。

やはり印欧祖語が日本語とどうかかわっているのかがきになってきますね。

古代史掲示板でもお話してますように、インダス・シュメール、そして印欧祖語との関わりは、縄文時代後期に見えてくるような気がしてますが、言語面でどうみえてくるかが課題です。

縄文人がすでに圧倒的多数でいたでしょうから、そこに少数者が移住してどのくらい影響を与えれたかが課題ですが、津軽弁とかそのあたりに、仮に上記の要素がみえてくると面白いかもしれません。

東北方面の語彙は、やはり縄文人とのつながりが残っていることは、その分布図などからも明らかなようです。

図1,2,3は、小泉保『縄文語の発見』からの引用です。ご参照ください。



362 史実探偵: 平 素人:2020/01/12(日) 07:55:06
Re: 印欧祖語と日本語との関係
管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います。

昨年は、大変お世話になりました。こちらこそよろしくお願いいたします。
資料をそえての早速のお返事ありがとう御座います。お手数をおかけしました
自分にとっての徐福は、Dr.いずも氏>の感化が大きいのですが、そのやりとりをピックアップしようと思うのですが、いまさらながら自分の長駄文にうんざりして、どこに何を書いたのかすら覚えがなくて・・、読み返しの苦戦をしています。

> やはり印欧祖語が日本語とどうかかわっているのかがきになってきますね。
> 古代史掲示板でもお話してますように、インダス・シュメール、そして印欧祖語との関わりは、縄文時代後期に見えてくるような気がしてますが、言語面でどうみえてくるかが課題です。

渡来人については、祖語やら、DNAやら、気象変動やら、突発的災害や、流行病、勢力拡大等の様々な要因がからんでくるのですね。わたしにとってはレベルが高すぎて考えがおよびません。なかでもDNA分布の研究は最先端になるのでしょうか・・・?? 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



363管理人:2020/01/13(月) 01:23:55
Re: 印欧祖語と日本語との関係
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。コメントありがとう御座います。
>
> 昨年は、大変お世話になりました。こちらこそよろしくお願いいたします。
> 資料をそえての早速のお返事ありがとう御座います。お手数をおかけしました

> 渡来人については、祖語やら、DNAやら、気象変動やら、突発的災害や、流行病、勢力拡大等の様々な要因がからんでくるのですね。わたしにとってはレベルが高すぎて考えがおよびません。なかでもDNA分布の研究は最先端になるのでしょうか・・・??


平さん、今年もよろしくお願いします!

言語やハプロの話は、確かに理解しにくいことかと思いますが、古代史掲示板のほうに、平さんのメインテリトリーの話を書き込んでおきましたので、よろしくご参照ください。ご指摘の2000年前の大津波の実証可能性が見えてきてます!

364 史実探偵: 平 素人:2020/01/13(月) 20:51:25
Re: [10702] 4大文明と津波地層
管理人さまへのお返事です。
   古代史掲示板[10704]の投稿分をこちらへもコピペします^^!。

> ご指摘の(BC.)2000年前の大津波の実証可能性が見えてきてます!

   ありがとう御座います。うれしいです。

↓( コピペ^^!)
短日間のうちにすごい量の情報量ですね。それ等を四大文明にからめてのご考察、大変参考になります。じっくりと消化したいと思います。ありがとうございます。

岩淵先生や平の名前を出して頂きましてありがとう御座います。二人は、「四千年前の東北巨大隕石説」を持っているのですが、先さまも挙げられている、ミドルインパクトによる地球規模の気温降下、地震や巨大津波、そして火山の誘発等、人類を含めた生物への影響は多大なものがあります。それの一番身近なものである4000年前のものにしぼって喚起を願っているのですが未だ日の目を見ていません。

中で、世界共通の“地球規模の事象”として論じ合えることは、隕石の冬がおこす “海水位の後退” があります。わたしは推量値で、約1.6mの後退。気温ではおよそ13℃(〜16℃)の降下とみています。これが短期2〜3年のうちに変動することに大きな問題があります。生物相の変化移動はもちろんですが、稲作文明を持つ大陸では大きな影響が考えられます。そして浅海化がありますので魚介類の変移等を地球規模で「共通の論題」として論じあえたらいいなと思っています。ありがとうございました。

追記 「年代の決定合意の難しさ?」
 こういったものを論じ合うとき、何時の場合もその年代の食い違いが出ることがあります。巨大隕石の衝突という“一瞬のできごと”でも、何がしかの補正があったり、堆積する地層についても “巨大津波” の発生によって経年の異なるものが混ぜ合わされたり、津波が第二波、第三波・・による堆積状をていすることから、一般的な斉一説をとれない難しさがあります。そして、現科学の多くは、巨大津波が内陸奥深くまで運んだ貝やサンゴ類を『かつてここは海だった!』とする考えが定着しており、この考えを取り除くのは至難です。

 十年以上前だったと思います。九州大の女先生が貝類の年代測定に着目されたことがありました。ご存知のように貝類の生息地はあまり移動しません。ところが巨大津波の性質として、それ等を根こそぎして津波の端部や、先端部へ置き去ることがあります。これはすべての事象に当てはまることですが『流体が媒体となって各々の物質を運ぶ時、それ等は非常に効率よく似たものは似たもの同志で分別される同似集合の原理・作用(筆者提唱)』があります。この考えは現科学が巨大(orミドル)隕石と、それによって生じる巨大津波へ、シフトしないかぎり難しいと考えています。(そこで素人的ヒラメキ^^!、人のDNA調査は著しく進歩しているが貝やサンゴのDNAは変わらないのかな??、汗~~!)

 そして、津浪についても一元的な論じ方がされていることに問題があります。津波の波高は、地形・地勢によって 震源地の直近にあっても大きく変わります。津波のやつはズルい^^!から抵抗の少ない方へ方へと移動します。「津波は川を上る」といわれますが、これは川が遠浅状になっていて津波は楽に登れるからだと申し上げたことがありました。□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



365管理人:2020/01/15(水) 00:01:20
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。


>
>
> 追記 「年代の決定合意の難しさ?」
>  こういったものを論じ合うとき、何時の場合もその年代の食い違いが出ることがあります。巨大隕石の衝突という“一瞬のできごと”でも、何がしかの補正があったり、堆積する地層についても “巨大津波” の発生によって経年の異なるものが混ぜ合わされたり、津波が第二波、第三波・・による堆積状をていすることから、一般的な斉一説をとれない難しさがあります。そして、現科学の多くは、巨大津波が内陸奥深くまで運んだ貝やサンゴ類を『かつてここは海だった!』とする考えが定着しており、この考えを取り除くのは至難です。
>
>  十年以上前だったと思います。九州大の女先生が貝類の年代測定に着目されたことがありました。ご存知のように貝類の生息地はあまり移動しません。ところが巨大津波の性質として、それ等を根こそぎして津波の端部や、先端部へ置き去ることがあります。これはすべての事象に当てはまることですが『流体が媒体となって各々の物質を運ぶ時、それ等は非常に効率よく似たものは似たもの同志で分別される同似集合の原理・作用(筆者提唱)』があります。この考えは現科学が巨大(orミドル)隕石と、それによって生じる巨大津波へ、シフトしないかぎり難しいと考えています。(そこで素人的ヒラメキ^^!、人のDNA調査は著しく進歩しているが貝やサンゴのDNAは変わらないのかな??、汗~~!)
>
>  そして、津浪についても一元的な論じ方がされていることに問題があります。津波の波高は、地形・地勢によって 震源地の直近にあっても大きく変わります。津波のやつはズルい^^!から抵抗の少ない方へ方へと移動します。「津波は川を上る」といわれますが、これは川が遠浅状になっていて津波は楽に登れるからだと申し上げたことがありました。□


津波の移動詳細については興味深いですね。

南海トラフの件を先ほども調べていたんですが、そろそろ近いようです。
固着域が外れはじめると、ちょうどやねの雪が落ちるようにして、一気にはがれるようです。・・・と雪国の人しかわからないかな・・。

それで津波ですが、複数の震源から複数の波が生じて、重なりあうことで、巨大化するようです。

今回の南下トラフだと8つ?くらいの震源域と津波が重なるようですが、隕石落下の津波の場合は1つか、あるいは複数の落下かでも大きさが変わりそうですね。

そして、津波がどこまで内陸へと向かうのか、ここがご指摘のとおり重要なポイントです。

通常の津波だとせいぜい沿岸だけですが、巨大化すると河をさかのぼることができるかどうか、そのメカニズムも解明が必要です。

黄河とか長江クラスの大河だと、傾斜が緩い分、内陸まで向かえる可能性もあるのではないですかな。

以前テレビで満月の日に、大河をさかのぼるシーンがありましたね。どこだったかな・・。

これこれ。黄河逆流。

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.cnta-osaka.jp%2Fspot%2Fnature%2Fqiantang-river
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DjjoKcGytrUg

これで黄河文明が一度に滅んだとするとどうなるだろう・・・。



366 史実探偵: 平 素人:2020/01/16(木) 01:44:14
Re: [10702] 4大文明と津波地層
http://www.cnta-osaka.jp/spot/nature/qiantang-river

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



367管理人:2020/01/19(日) 20:24:31
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 管理人さまへのお返事です。
>

> 巨大隕石とプレート圧の開放で起きる、地震の規模と津波の波高は全く異なります。わたしは、それを巨大隕石は風呂の湯面を拳でたたいた時の波立ちであり、プレート圧の開放では、同じ力で湯中で拳を動かした時ほどの波高差があると例えています。私たち素人は陸地を巨大な一塊の巌(いわお)と考えがちですが、岩淵先生(分散説)私(主核説)の違いはありますが、提唱している小天体クラスでは、陸地も波状化して破砕(出雲半島)したのではと思っています。
>
> > そして、津波がどこまで内陸へと向かうのか、ここがご指摘のとおり重要なポイントです。

>?? ありがとうございます。 大潮で起こる逆流でさえ、中国では大迫力がありますね。よく観察すると、直角の波止に突き当たる津波が角奥(=湾奥)へいくほど斜状に高くなっていたり、川岸のほうが濁泥色になっているのが認められます。濁泥を持った“沿岸津波”ほど怖いものはありません。石が石をウガチその破壊力は格段に増していくからです。
> 四千年まえの東北に衝突した巨大隕石が発した巨大津波は、その比ではありません。岩淵先生は、その時の巨大津波が良渚文明を滅ぼしたとし、わたしは、その津波は内陸の「天津」まで届き、その様は「竜因」のようであったと地名に遺しているとしました。そして、朝鮮半島の東海岸には「方魚津・パンオジン」とか、「方津」の地名があります。その巨大津波は「朝方に大量の魚を持って来た」といっているのでしょうね。きっと^^! 半島にも詳しい管理人さまは、もっともっと津波に関係した地名が見つかると思います。
>?? 尚、津波のメカニズムですが、通常の波が風で起こる同位置での上下動に対し、津波の波は押し波移動だと解すればさほど難しいことではありません。数学にも秀でた先さまでは、風でおきる最大波高は水の重力により約38mだと導きだすのは難なきことだと思います。?? ちなみに<3/11地震>のときの津波最高到達地点は40m弱でした。
> そして、この動画を見てもう一つ気付いたことがあります。川の両岸で津波の力を散逸させない構造になっていることです。 ありがとう御座いました。


お返事遅くなりすいません!
津浪のメカニズム、気になるところですね。

津浪の威力の計算が知りたいところです。東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。三連動型の東南海地震によるものと考えられているようですが、スマトラ沖地震クラスの威力だったのではないかと感じます。あのときは、はるばるインドまで数mの津浪が奥地にまで入り込むほどの威力がありました。

次回の南海地震もそのクラスになる可能性があり、どこまで内陸へと入り込むのかは、過去の津浪地層を追う事である程度予測できるかもしれません。

早急に迫られた課題のように感じますが、またお気づきの点ございましたら、宜しくお知らせください。

368 史実探偵: 平 素人:2020/01/21(火) 00:25:07
Re: [10702] 4大文明と津波地層
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-18.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



369管理人:2020/01/22(水) 23:44:59
Re: [10702] 4大文明と津波地層
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。


>
>   津波の理論上の計算式は、(ご存知とは思いますが^^)
> 津波の波高hは、水路幅wに比例し、水深dの四乗根に反比例することが知られています。
>              1
>  h = w × −−−−−−−−−
>            4√ d
> 津波は港に入った波という意味で、沖合ではたいしたことがなくても、V字状の湾奥では猛威をふるいます。津波警報が出た時、船が沖合に避難するのはこのためです。わたしは、水路幅のほうはロートを水平に切った状態であり、水深は垂直に切った時を思い浮かべています。実際にはロートの中心線上からの進入か、それを外れての進入かでも違いますし、海底地形による抵抗や溢水があれば計算式より少な目になるのかな^^? そして、理由は判らないのですが岬でも高くなることが観測されています。
>
>

なるほど、こういう計算式があるんですね!


> >東日本大震災のときの津浪の数倍ある津浪が、2000年前に起ったようです。
>
> 管理人さまぁ〜 わたしはそれが分らんのですよぉ^^! 私と岩淵先生が論じる東北巨大隕石が4000年前。先さまが云われる大インパクトが2000年前。岩淵先生はアッシャー博士との話し合いで東北のそれはエンケ彗星のデブリ(破砕分体)だろうにおちついたようです。とすると、エンケ彗星の母体(本体)は、2000年周期で太陽を周回か?の疑いがあります。人々が、こっから先を紀元だとするには単なる一学者の論説ではなく、多くのひとが同意する何かの巨大インパクトがあったのではないでしょうか。ご存知のように、欧州には、巨大隕石?によるメシア願望があります。それに、海が割れたとか、ノアの方舟伝説とかもありますから、ローマあたりに巨大津波を伴うような巨大隕石があったのではと^^??? 根も葉もない妄想をしています(^-^!)



いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。

4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。

あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。



370 史実探偵: 平 素人:2020/02/04(火) 22:52:23
Re: [10702] 4大文明と津波地層
管理人さまへのお返事です。
   お返事ずいぶん遅くなりゴメンナサイ!(><)!。

> いえいえ、2000年前のは、プレート型津波です。三連動でしょう。
> 4000年前と4700年前のは隕石落下と睨んでいます。
> あと、3700年前ごろにも、世界的な転機があります。ここにも津波地層があるのですが、ここでも隕石落下があった可能性を考えてます。

 人類が「世界的な転機」を起こすには想像を絶するようなインパクトがあったのですね。先さまは、2000年前のはプレート型と推んでおられるのですね。プレート型と巨大隕石が起こす事変の大きな違いは「隕石の冬」が有るか無いかにあります。又、巨大隕石が陸部への衝突か、深さ3700mの海部への衝突かによっても、ずいぶんとその様相は変ると思います。つまり、水蒸気をあげれば早くに爆雨となって終息するし、陸部であれば成層圏へまで粉塵を舞い上げるので、その “微小の” 全てが地上に降りるまでは相応の時間がかかります。そして、火山活動を誘発するかしないかの影響もあると思います。

 わたしは、「地球の温暖化」は、CO2の増加とするのが世界のすう勢ですが、それより大きいサイクルは、巨大隕石(その規模にもよります)が舞い上げた粉塵が時間をかけてゆっくりと空気が澄んでいくからではないのかとみています。これを言葉にすれば、地球の温暖化の一番大きな原因は『濁り水(=濁り空気)の沈殿化だ!』と思っています。もちろん先さまが以前に揚げられた天体の運動も関係ありとは思いますが・・・^^!

 巨大隕石、又はプレート型地震が起こす巨大津波について、ですが、大きくは、大西洋、インド洋、太平洋の三つと考えています。津波の力は摩擦熱での消費がほとんどないから大洋ではずいぶん遠くまで運ばれます。(チリ沖津波が日本に届いた)しかし、津波の奴(力)は、ズルいから東南諸島や、中南米で邪魔されると、そこで力をそがれて大きくは越えられないのではないでしょうか??。thanks^^。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



371 史実探偵: 平 素人:2020/02/05(水) 14:46:41
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000376M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000376_2M.jpg

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372 史実探偵: 平 素人:2020/02/08(土) 05:12:27
触らぬ神(暴論)に祟りなし^^?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000377M.jpg

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

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373青面金剛:2020/02/08(土) 05:15:26
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
??机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>   出土した!あとになって「忙しかった」との言葉は聞きたくないものです^^!
>此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
> <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
>吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
> その祟りがあっても、当方、一切の責任をおいかねますので、自己責任でよろしくお願いいたします。
> 埋蔵金を探し出すよりいとも簡単。あなたは、わたしの予言する所へ足を運べばいいだけだ!
> 但し、その封印を解くと、震えが止まらない程の 恐ろしい祟り(タタリ)があるかもヨ! (笑)
>  遺物が出土してからでないと動けない動かない。物証至上主義も美学だが、考古学をそんな
>   魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。

>    (大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
> <出雲> 岩倉             神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)       黒尾地区 西谷?(にしたに)

★ 前にも指摘した様に、吉備津彦と温羅の決戦の場である、古戦場にある寺の御堂は、大勢の戦死者を追悼する為に、有る訳ですから、金堂の裏側の丘が立ち入り禁止ならば、そこは戦死者の埋葬地です。

★ 吉備津彦の温羅退治は、西暦174年後半で、吉備津彦の出雲侵入は、その約10年後の185年ですので、「出雲と同じやり方で埋めた」とする平さんの説は成り立ちません。

 吉備津彦温羅退治  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-18-6urataiji.html

 古代史の復元  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2Fmokuji.htm


★ Googleマップの検索欄に「岡山県 岩倉、荒神、西谷」を入れて地名検索を掛ければ、
 岡山県 吉備中央町岩倉山、倉敷市岩倉神社、井原市岩倉山神社。

 荒神は20ヶ所程も出てきます。西谷も数か所ヒットします。これらの地を一通り廻る事無しに、思い付きレベルで、勝手に決めつけた所で、全く根拠が有りません。

 更に、平さんの文中には、地元の方々を激怒させる無神経な表現が多々見られます。そんな罰当たりの説を、誰も受け継ぎたくないのは当然でしょう。


★ 考古学者のシュリーマンが、発掘に関するルールを定めていて、
『発掘候補地が、探索に危険な場所だったり、死者の埋葬地で霊障や祟りが懸念される土地である場合は、発掘提唱者の人生の枠内で収める事』があります。

 平さんは、机とパソコンの前という、安全地帯から、他人に、「危険な所に行ってくれ!墓を掘ってくれ!」と無責任に嗾けているのは、発掘のルールに反します。

 まだ軽トラックを運転できるのなら、吉備中央町の岩倉公園や三休山へ、日帰りで行って来れるのでは無いですか。
 後は、管理人さんがドローンの操縦に慣れておられる様なので、「坪背山にドローンを飛ばしてもらえませんか?」と頼むと好いかも。ドローンなら、古い坑道に落ちたり、マムシに咬まれるリスクも無いでしょうから。


374 机上探偵: 平 素人:2020/02/09(日) 00:37:37
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
青面金剛さまへのお返事です。
 レアなコメントありがとう御座います^^。この掲示板へ訪れるお人はたいてい「古代史掲示板」へもお出でる人だから1人/160人?ぐらいの希少価値があります^^。それを思うと有難い思いでいっぱいです。

>
> ★ 前にも指摘した様に、吉備津彦と温羅の決戦の場である、古戦場にある寺の御堂は、大勢の戦死者を追悼する為に、有る訳ですから、金堂の裏側の丘が立ち入り禁止ならば、そこは戦死者の埋葬地です。
> ★ 吉備津彦の温羅退治は、西暦174年後半で、吉備津彦の出雲侵入は、その約10年後の185年ですので、「出雲と同じやり方で埋めた」とする平さんの説は成り立ちません。
>
>  後は、管理人さんがドローンの操縦に慣れておられる様なので、「坪背山にドローンを飛ばしてもらえませんか?」と頼むと好いかも。ドローンなら、古い坑道に落ちたり、マムシに咬まれるリスクも無いでしょうから。
>

 先さまの色々なアドバイスや情報の提供は嬉しいのですが、私の元々は「南極大陸が大隕石→四千年前の東北巨大隕石→卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」のような現科学にないアウトレット論が売り^^ですから先さまが、専門家が、現史学からなんと云われようと「それを」ゆずる分けにはいきません。

 先さまは、拙論を「机上論」とさげすまれておられるようですが、 「中坊程度の机上論」でも解ることに “大きな意味” があります。皆さまが「何だぁ”そうだったのかぁ」と気づけばいいだけです。幾度も言いますが「これが、先さま方に伝わらないのは、その史実が無かったからではなく素人の論説法が拙いから」です。もちろん部分的には、誤りもあるとは承知しています・・・、

もとはと言えば「子ども心と遊び心」で始めたこと。卑弥呼については「十人十色」いろいろに論じるのも楽しいではありませんか。それが出土しなければガックリですが、もし出土したら・・ですよね^^?

尚、
★坪背山の「坑道排出ズリの確認」は猪ノ目茶屋跡から散策道を7分ほど登った右手の分かれ道の突き当り下斜面と推んでいますから、ドローンはいりません。ただ積雪を考えなければ、通常の注意で充分と思いますが??

★岩屋寺金堂の裏斜面の「23個銅鐸推定地」は下方に金堂が見える位置であり、この時期雪もなく、マムシはもちろん居ません。ただ散策道を外れた私有地か社有地かも知れないので、その<許可さえ>得られれば大して難しいとは思いません。但しこの時期、凍みていたり、落ち葉で滑りこけないように注意しなければなりません。(ゴメン、啓蟄すぎて道にシマヘビがぁ^^!)

 私ですかぁ^^? これからは全て成り行きで・・・、
30年あまりの広報をしてきました。それ等を受け取る受けとらないは現学や先さま方の自由! 当方少々ボケも入ってきました。わずらわしいことは嫌です。残り少ない人生。たのしまなくっちゃーね。「四国真ん中スイーツ電車」にいってきまぁす^^。

<評価の歩み>↓ どれか一つでもなれば、根ほり葉ほり調べられるのも嫌ですよね^^!

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375机上探偵: 平 素人:2020/02/11(火) 10:16:47
大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
 卑弥呼の時代、今から1700年ほど前、土地の私有化が進んでいない時、その大量の銅鐸を封印する土地を選ぶには、「どこでもいいや」という分けではなく、”何かの決まり”があるはずだ。

<銅鐸の出土>
多少のズレはあるが銅鐸がまとまっての出土は、出雲が39個、吉備の予測数(23個)、神戸14個、野洲で24個が出土している。後々ではあるが四国や淡路島、静岡?、それに北陸地方でも発見かっているようだ。
静岡での全斜面探査?以外は、何かの偶然からの出土であり、出雲岩倉では山斜面の道路新設中、野洲大岩山は新幹線施設の計画前?、神戸神岡(かむか)では住宅建設?? 時で、あり現状はとどめていない。
単品の発見でも、何かの工事中とか、鯉のぼりの竿立て穴とか、子供が持ち遊んでいたとかの発見であり、予測しての発見はまったくない。予測しての発見は史学者のゆめのようです。(笑い)

このように、何かの偶然からの現状破壊がほとんどであり、まとめての出土の場合は「山の中腹に」がわかっている。それも比較的浅い場所からと推測され、筆者は、当時の男性の平均身長を五尺余として、その埋め底を「四尺」とした。これ以上掘ると顔に土がかかり掘りずらいから(^^!)だとしました。土葬の場合もほぼこの深さであり、「四」=「死」の考えからの発生かと思います。

「山の中腹」だと聞いて、新幹線の途中下車ではあるが、野洲の銅鐸博物館、神戸の考古館?へ出向いたことがある。野洲では記憶に薄いが移転地であり峠状の道路脇だったかな。神戸では、ご親切にも地図でのコピーまで頂いたのに分からずじまい^^!。

「埋め地の方角は?」
人里から程よく離れた奥山で、片道3時間以内。これ以上かかると祀りごとをして、その日うちに帰ってこれなくなると推んだ。そして、「山の山頂からの方位は?」東西南北どこでもいいはずなのに、「どこでもいいや!」とはしていない。筆者は、それを東から東南までの間と推定した。理由は、冬至の旭光に由来しているとは前述しています。

「人里から程よく離れた所」
祖先は、人里から程よく離れた場所を「境内・けいだい」と定め、そこを冒してはならない聖域として一般の人々の立ち入りを禁止した。そこで雨乞い生け贄のための幼子を隔離して育てていたとしたのが(別紙)の「鬼ノ城・きのじょう」であった。総社市岩屋は、それよりさらに奥の「奥坂」にある。地名に「奥」の字がつけば人々の生活圏から外れていることを意味する。日本人には、戸障子はおろかロープ一本の「境界」でも、侵してはならないとする考えが潜在している。この考えは、中国の客家、欧米の鉄格子で遮る考えからは、とうてい理解できない。

総社市奥坂岩屋の「金堂」ですが
 金堂とは冬至の極光が射し「ひかり輝く」ことを意味する。全国の名ある社(やしろ)の向きが東から南までの間にあれば、あながち、この考えが当たっていないとは言えない。蛇足ながら、差し矢の風習はこのことから来ていると思っています。
岩屋寺・金堂には、この下方に真宗か真言宗の社寺らしき社屋はあるが、金堂に連なる社屋はない。そして、土壇の上に立つ建物の足が異常に高い。これは、そこに〇〇の神さまがおわすのではなくて、金堂裏の山体が重要であることを意味する。そしてこの社屋は前部の格子戸だけで周りは囲まれていた(?)、と思うが正確には思い出せない^^!。中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた。これは、「その射し矢=冬至の旭光=荒神さま」の御来光を阻み、この社屋の後ろに埋めた23個の銅鐸に“乗り移つらせないため”だと謎解きしました。

「お宮の前面が格子戸になっているのは何故??」
子どもの頃、このように考えたお人は、きっとあるはずだ。その子供心を思い出し、深く追求しなければ「この祖先からのメッセージ」は貴方には伝わらない。(ちょっと言葉が過ぎました^^!)このように、今の史学がその銅鐸を謎の遺物と呼び、その歴史をすっかり忘れてしまっていることが問題なのだ!。その前面を塞いでしまえば、その光神さまは入れないし、あらぬ所へ飛び散り、取り付いて悪さ(災い)をもたらすかも知れないと思ったのかな(^-^!)。
 この金堂の裏手の岩壁の下に、「溜井」のような跡があったのが気になっています。
 国土地理院・岩屋・金堂の地図を載せようと思っているのですが、手間取っています^^!

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



376青面金剛:2020/02/12(水) 08:37:33
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> <銅鐸の出土>
> 多少のズレはあるが銅鐸がまとまっての出土は、出雲が39個、吉備の予測数(23個)、神戸14個、野洲で24個が出土している。後々ではあるが四国や淡路島、静岡?、それに北陸地方でも発見かっているようだ。
> 「埋め地の方角は?」
> 人里から程よく離れた奥山で、片道3時間以内。これ以上かかると祀りごとをして、その日うちに帰ってこれなくなると推んだ。筆者は、それを東から東南までの間と推定した。理由は、冬至の旭光に由来しているとは前述しています。

★  荒神谷遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kojindani.jp%2Fiseki%2Findex.html

 銅剣358本と銅鐸6個と銅矛16本
「遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にあります。銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、昭和60年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)が出土しました。」

   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kojindani.jp%2Fpark%2Fpark.html


> 「人里から程よく離れた所」
> そこで雨乞い生け贄のための幼子を隔離して育てていたとしたのが(別紙)の「鬼ノ城・きのじょう」であった。
> 総社市奥坂岩屋の「金堂」ですが、金堂とは冬至の極光が射し「ひかり輝く」ことを意味する。
> 岩屋寺・金堂には、この下方に真宗か真言宗の社寺らしき社屋はあるが、金堂に連なる社屋はない。そして、土壇の上に立つ建物の足が異常に高い。これは、そこに〇〇の神さまがおわすのではなくて、金堂裏の山体が重要であることを意味する。中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた。これは、「その射し矢=冬至の旭光=荒神さま」の御来光を阻み、この社屋の後ろに埋めた23個の銅鐸に“乗り移つらせないため”だと謎解きしました。

★ 「中に小さな毘沙門天の木彫が飾られていた」事から、「お宮」では無くて、仏教の『お堂』です。銅鐸の時代に仏教は未だ渡来していません。

★ 百済の王子である温羅は、製鉄の技術で、農機具や漁具を地元に広め、豊作と豊漁を貰らした事で、地元民からの信頼を得て、地元の娘と結婚しました。

> 「お宮の前面が格子戸になっているのは何故??」

★ 「お堂」の前面が格子戸になっているのは、御供え物が、カラスやキツネなどに荒されない為。


☆ 荒神谷博物館も加茂岩倉遺跡ガイダンスも、古代出雲歴史博物館も訪れる事なしに、勝手な妄想を描いてるだけです。
 荒神谷も加茂岩倉も、近くに出雲王家の重要な祭祀の場が有りました。総社市奥坂岩屋は、出雲王家とは関係ないです。

 加茂岩倉遺跡ガイダンス
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkamo-iwakura.amebaownd.com%2Fpages%2F1404761%2Fpage_201711071032

 島根県立古代出雲歴史博物館  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izm.ed.jp%2F

 島根県立八雲立つ風土記の丘  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.yakumotatu-fudokinooka.jp%2F

 出雲弥生の森博物館
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.izumo.shimane.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1244161923233%2Findex.html

 島根県立埋蔵文化財調査センター  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.pref.shimane.lg.jp%2Fmaizobunkazai%2F

 島根大学ミュージアム  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmuseum.shimane-u.ac.jp%2Findex.html



377机上探偵: 平 素人:2020/02/14(金) 02:06:56
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
https://kamo-iwakura.amebaownd.com/pages/1404761/page_201711071032

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



378青面金剛:2020/02/15(土) 10:11:50
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 出雲の「仏教山」、吉備の「経山」、神戸に荒神山と大月荒神谷、野洲に三上山と「妙光寺山」があります。これ等の山は大量の銅鐸の出土地から<二山越えの三山の前>あたりにあります。そして、不思議なことに、直線、曲線(徒道)を問わなければ、ほぼ3km〜4kmであり。すなわち<1里 = 1離>ほど離れた場所にあります。
>  何故に仏教に由来する山名がついているのか、今だに解りませんが、四ヶ所の内三ヶ所までが<二山越えて一里離れた所>にあるのか不思議でなりませんでした。特に出雲の「仏教山」と吉備の「経山」は酷似しています。
> 出雲の仏教山を、「カンナビ山に否定する」がありますが、私は、カンナビ山の山姿は、ブログ「いずものこころ」で、その山頂は「丸くてなだらかな形をしている」と得ていたので剣山型の仏教山がカンナビ山であれば、その考えを変えなければなりません。出雲にカンナビ山は四山あり、その囲まれた中に宍道湖・中海があり、「四方の風を呼び八方の雨雲を呼び寄せ中海に慈雨を!」とも得ていました。
>  「仏教山 = カンナビ山(?)」から、妄想した^^!)のですが、仏教系の山名のまえに何か、ほかの山名(通称は何?)が付いていたのではないかと疑るようになりました^^?。
> その地元には史学で云われない「言い伝えやいわれ」があり、それ抜きでその地の歴史を論じてはならないと強く教示されています。『地元のことは地元にきけ!』

☆ 『出雲の仏教山を、「カンナビ山に比定する」』元は『神の山』『神奈備山』と呼ばれ、後の征服側が、出雲での神奈備信仰を隠蔽させるために仏経山と呼び名を変えてしまいました


> 伊奈西波岐神社に奥の院あり(勾玉・銅戈を打付けて竜の首根っこの縛り付け場所)が判明。
> タクシー運転手も避けるから(猪の目峠に隠された坑道・天岩戸あり)を確信した。

> 加茂岩倉遺跡ガイダンス <大量の銅鐸の埋めてあった場所は、>
> 狭く長い谷の最奥部である。そして奥の南側に張り出した丘陵の南東斜面に埋められていた。銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない。
> 『狭く長い谷の最奥部南東斜面に(吉備では東向き斜面)、銅鐸出土地からの眺望はあまりよくない』多少の違いはありますが、筆者が23個の銅鐸ありと推定した岩屋の金堂の裏斜面に酷似しています。厳密にいえば金堂裏の上方斜面には南北50〜60歩の均地(なるち)があり、ここで封印のための祈祷儀式がされたと推みました。
> 『眺望はあまりよくない』が、その谷の先にある山と山との谷あいに1700年前の冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ位置にその銅鐸が埋められていたのであれば最高ですよね。尚、その所に、光道(こうど)に類する地名や、いわれ・言い伝え、そして射り矢、入谷(いりや)に関する歴史があれば、「総社市奥坂岩屋に大量の銅鐸があり」は確定します。

☆ 『海風想』のHPに加茂岩倉遺跡の地形図に方位が示されてますが、加茂岩倉遺跡ガイダンスの建物と平行した、南南東向きの斜面に在り、「冬至の太陽が昇り旭光が射しこむ」のは、日の出からだいぶ時間が経過した、太陽の角度が可成り高く成らないと無理です。

『海風想』加茂岩倉遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html


> 「加茂岩倉」の地名の由来はなんですか?? どこにその『岩はあるのですか?』総社市岩屋に鬼の差上げ岩と呼ばれている巨岩があるのはもちろんですが、その旭光を止める屏風岩や、山頂に重しの役目とみる大きな露岩があれば、加茂岩倉と総社市岩屋には大量の銅鐸を寝かせて(伏せて)埋めるという共通の文化があります。

☆ 同じページの下方に加茂岩倉遺跡の第一駐車場から見る岩倉の写真が有ります。また、加茂岩倉遺跡の北北東の約400メートルのに「矢櫃神社跡」があり、その奥側斜面には食いつくように大きな岩が座している。この大岩も、「磐座(いわくら)」として古くから祭祀が行われた場所であるといえる。
 うんなん旅ネット 加茂岩倉遺跡 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.unnan-kankou.jp%2Fcontents%2Fspot%2F274

☆ 『海風想』の磐富一馬氏は、同じページの更に下方で、加茂岩倉遺跡のガイダンス(資料館)に掲示されている航空写真を基に、『出雲タケルの姿』を示しています。

              西谷墳丘墓群(頭)

                            荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)



  夜都米佐須伊豆毛多祁流賀波祁流多知都豆良佐波麻岐佐味那志爾阿波禮

 「出雲タケルさまが身につけていらっしゃる太刀。
    つる草のごとくたくさん巻き付けて、その身だしなみに感動する」(磐富一馬氏の口語訳)
  『海風想』  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html

☆ 磐富一馬氏の説に補足するならば、右足の場所には、武内宿祢の墓が有る『神原神社』、
左足には『佐為神社(さいじんじゃ)』、右腕には『草枕山(酔ったオロチが枕に眠った山)』


               西谷墳丘墓群(頭)

   草枕山(右腕)                    荒神谷遺跡(左腕)

         加茂岩倉遺跡(剣を腰に付ける位置)


    神原神社(右足)                  佐為神社(左足)


☆ これが平さんの先祖からの伝承である「命主社と同じ様に『大の字』に埋めた」の意味では無いでしょうか。

☆ 日御碕での太陽信仰を、太陽の運行(冬至・春分・夏至・秋分)を基に分析した論文は、既出ですが、日の出日の入りの角度は、下記のブログで、

 蘇える出雲王朝  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyomiagaeru.exblog.jp%2F27467502%2F


 日御碕神社 海底遺跡
「日御碕神社の宮司さんから、経島で行われている夕日の神事が、昔は沖にある「タイワ」の瀬で行われていたという言い伝えを聞いたそうである。もし、経島ではなく、その海底遺跡で神事が行われていたのなら、夏至の沈む方位線もまた別のところに向かって引かれることになる。」


☆ 鯉喰神社は卑弥呼の墳丘墓の上に建てられて居る様ですが、足守川を挟んだ東岸が「加茂」の地で、上賀茂神社と賀茂神社が有ります。
 加茂氏は、祭祀を毎日司る役目ですので、祭祀の場に近い場所に住まねば成りません。片道3時間も掛けるのは、王家の方々が行事の時に、歩いて行ける距離です。
 吉備中央町の岩倉山の周辺には、加茂、賀茂の地名が残る事から、直ぐ近くに賀茂氏が住んでいた事が伺えます。

☆ 磐富一馬氏の『海風想』では、屏風折れの石垣は、太陽信仰の祭祀場と推察しています。

「石垣の上は大きな建物を造れるほどの広さは無く、幅は大股歩数で約10歩程度しかありません。
  方位を測ってみますと、舌状の突き出し方向は真東です。そうすると、この舌状に突き出した石垣の上から突き出し方向を見ますと、日の出地点は突き出しを中心に置いて右に左に日を振ります。
 すなわち、この高石垣は日の出を観測して農業の時期を知る、太陽信仰の祭祀場だったのではないでしょうか。どうりで豪華です。」

   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fkougoisi-kinojyou-1.html



379机上探偵: 平 素人:2020/02/16(日) 07:50:08
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
青面金剛さまへのお返事です。
 早速のコメント有難うございます^^。
  昨日、「四国まんなか千年ものがたり」に行きました。息子たちが呼んでくれた
スイーツ電車ですが、まるで通常を離れた別の時空に入ったような時を楽しんでまいりました。
車に弱い私、帰りの特急南風に車よいしましてパタンキューです^^!。

 一読ですが・、コメントやその情報には大変興味を^^ひく個所が目に入っています。
 しかし、今は頭が鳴りふかく考えることが出来ません。時間をください・・・。

 冬至の入光は、かなり時間がたってから・、総社でもそのような気がしていました?
 加茂岩倉から、荒神谷へ行く旧道・徒歩道がある・・☆
 文面に、岩・盤座、矢の字等々をみかける・・・・???

あとで、熟読します・・・ありがとうございました・・・後々に・・、

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



380机上探偵: 平 素人:2020/02/17(月) 06:59:45
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
http://kaifuusoo-575.sakura.ne.jp/izumo-3-kamoiwakura.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



381青面金剛:2020/02/17(月) 20:00:01
Re: 大量の銅鐸の埋め場所の決め方!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> しかし、射光・射的の考えは絶対に外すことは出来ないと考えています。
> 例えば、その埋め場所を低い位置に変えれば、日の出からの時間はかなり経過しますし、その位置をだんだん高くしていくと、日の出の時間に近くなってきます。
>  次に、「入光・入谷(いりや)」の考えがあります。
> 本坑と偽坑の位置の関係を知りたいと思います。
>  この話は、1700年前のはなしですから、現在は歳差により日の出の方向が72年に1度角、少しずつ時計回りにずれていますからそれを考慮しなくてはなりません。いずれにしても、先さまが強くもとめるように最後は実地検証が大切かと・・・^^!、

★ そこまで強い拘りを持っているならば、自分で直接、賀茂岩倉へ行って確認してこい!

☆ ”金鶏伝説”
 「加茂岩倉地区には、昔から「元旦の朝、初日の出が差し込む”大岩”の下に金の鶏がいて、年に一度この時だけ鳴く。その下を掘ると宝を授かる。だが、それを他人に話してはならない。」との”金鶏伝説”があった。」 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fuser.kkm.ne.jp%2Ftatetani%2Findex.html

「元旦に岩の中にいる金の鶏の鳴き声を聞いた人は幸せになるという金鶏伝説の大岩もあります。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.monaka-data.net%2Fdoutaku-monaka%2F


☆ 荒神谷・加茂岩倉遺跡及び『出雲国風土記』から推理する 古代出雲の測量法   吉 田??薫

「両遺跡の位置関係を知るため地図上(図-1.1)で線を引いてみると、両者 は不可分の関係にあることが一目瞭然である。まず、大黒山(315m)と高 瀬山(314m)を結ぶ線と、両遺跡を結ぶ線は直交する。さらに、大黒山と 両遺跡、高瀬山と両遺跡は等距離である。すなわち、底辺を共有する二等辺 三角形が描けるのである。 」

「ブロンズサークル??銅剣の数 358 本は年 365 日を想起させること、加茂岩倉遺跡から眺めると 荒神谷遺跡の方向は冬至の日没方向であることをヒントに、ストーンサーク ル(秋田県大湯環状列石:約 4000 年前の縄文時代後期の遺跡など)になら い、三種類の青銅器を環状に並べてみる。」

/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpeshimane.net%2Fwp%2Fwp-content%2Fuploads%2F2015%2F02%2F2014-25

☆ 全国遺跡報告総覧 加茂岩倉遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2618

☆ 全国遺跡報告総覧 出雲神庭荒神谷遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F13824

☆ 真幸ヶ丘公園の六角形の建物は『展望台』です。

☆ 鯉喰神社の南東の『王墓の丘史跡公園』にある真宮神社から南東へ約400m程に『岩倉神社』が有ります。倉敷市日畑203
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jinja-net.jp%2Fjinjacho-okayama2%2Fjsearch3okayama.php%3Fjinjya%3D28635

☆ 「ドローンは要りません」と言い、場所を搾り込んでいるならば、平さんが自分で行くしか有りません。 念のために、登山用品店などで売っている非常用のホイッスル(100均ショップにも探せば有るかも)と、クマ除けの鈴(マムシは金属の擦れる音を嫌うので。自治体で無料で貸し出してる場合もある)を付けて行くと好いでしょう。







382荊の紀氏:2020/02/19(水) 00:18:44
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
??史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

??????????????参考に成れば幸いです。

 N34度44分 E133度45分 ?
<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
N34度44分 E133度45分 ?

<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
N34度43分   E133度46分 48″
十進数 34.718482 133.779913

荒神谷遺跡ー奥坂岩屋寺金堂
方位角 130.64477度(東南に40.64477度)
距離111.84885?

40.64477度ー40.908417=0.263647 (差 約0.26度)

古津路遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 40.908417度
距離40.179686?

弥生時代の古式銅鐸ばかりが発見される淡路島の銅鐸を象徴しています。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkuniumi-awaji.jp%2Fheritage%2F01nakagawara%2F
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は、兵庫県淡路市黒谷にある弥生時代の遺跡。
北緯34度30分18.4秒 東経134度54分30.3秒
十進数34.505111, 134.908417

北緯35度22分35.4秒 東経132度51分8.7秒
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡
十進数 35.3765, 132.852417

荒神谷遺跡ー古津路遺跡
方位角 123.93394度(東南に33.93394度)
距離 207.305791?

荒神谷遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 116.748485度(東南に26.748485度)

古津路遺跡ー五斗長垣内遺跡
方位角 40.908417度
距離40.179686?

五斗長垣内鍛冶工房遺跡のこと そして 同じ頃 出雲で起こった大量の埋納銅鐸・銅剣出土のこと。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.infokkkna.com%2Fironroad%2F2015htm%2Firon11%2F1506doutaku00.htm

古津路銅剣 | 淡路島日本遺産kuniumi-awaji.jp/heritage/06kotsuro/
多数の銅鐸が発見された慶野松原近くの古津路遺跡から見つかった銅剣で、14本が確認されています。



> 久しく休止していた送信活動を再開し、次の文面を各機関に送ります。
>   出土した!あとになって「忙しかった」との言葉は聞きたくないものです^^!
>
>                           ( Feb.05, 2020 )
> 〔極秘〕 ↓此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
>             You must dig here. bow wow^^.
>     <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
>    N34度44分 E133度45分 ? この掘り上げ 場所の推定を、1mと違えてはならない!
>  ※探知機を持ち込めばいいのだが、それでは 「予測できる・した」 という意味が半減する!!
>
>    古代史掲示板 [332] 投稿者: 史実探偵: 平 素人 投稿日:2019年12月 4日(水)
>   この記事は、地域・地主様へのご迷惑や歴史破壊を考えて近時まで〔極秘〕として
>   いましたが、何方さまからも相手にして頂けないので、 咎を承知で再度掲載します。
>      (それを待っていたら、こっちの頭も命も持たない^^! 。(ので只今、終活中です。)
>
>          写真1金堂の裏斜面 & 写真2岩屋寺金堂
>
>       ↑吉備・総社市岩屋・未掘の銅鐸23個が埋めてある岩屋寺金堂とその上斜面
> ※写真の場所は散策コースを外れております。(散策道は所有者のご協力からなっており)コース外の
> 探索はくれぐれも、その許可をとってからになさって下さい。そうしないと立ち入りさえ出来なくなって
> しまいます。【厳重注意】
>  尚、それがわずか 四尺下の土中 なのに今の今迄盗掘されなかったのは「墓泥棒も恐れるほどの荒神」を強力な法力で封印しているからだ!」 その祟りがあっても、当方、一切の責任をおいかねますので、自己責任でよろしくお願いいたします。  史実探偵: 平 素人 、拝□
>
>   さて、あなたさまは、つぎの三択どうされますぅ・・・^^?
> 1.実績のない素人の妄想・戯言として 無視する。 →が、出たらさわぐ~~?
> 2.その銅鐸の掘り上げに携わり、古代史に風穴をあける。→祟りがあるかもよ~~!
> 3.卑弥呼が、その銅鐸が出土しようがしまいが「今のワシにゃあ関係も 興味もねぇ(笑い)」
>
>  <その銅鐸が“何故23個”なのか?>この詳しくは、こちらへどうぞ(^-^!)
>       関連記事: /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffujorinokuukan.blog108.fc2.com%2Fblog-entry-1.html
>
>  卑弥呼は、それまで永々と続いた「銅鐸生け贄文化を銅鏡身代わり文化へ変えようと」魏から得た
>  100枚の銅鏡に換えて、出雲と “同じ決め事”で持ち寄った銅剣と銅鐸を “セット”で封印している!
>
>  卑弥呼が埋めた・させた“大量の銅剣”を発見ける事は、有るか無いかも分からない徳川の
> 埋蔵金を探し出すよりいとも簡単。あなたは、わたしの予言する所へ足を運べばいいだけだ!
> 但し、その“封印”を解くと、震えが止まらない程の 恐ろしい祟り(タタリ)があるかもヨ! (笑)
>  出雲・野洲・神戸には、大量の銅鐸を寝かせてヒレ伏して埋める という「共通した文化」がある。
>
>           “ 共通の文化には、共通の事象あり!”
>   その出雲で大量の銅剣類が出土している。共通の文化には、共通した事象があるならば、
>  「野洲や神戸にも」(そして吉備にも)、出雲と全く同じような関係場所に、100%の確率で
>  “大量の銅鐸や銅剣類” がセットされて、1700年余の眠りに就いている!!!
>  遺物が出土してからでないと動けない動かない。物証至上主義も美学だが、考古学をそんな
>   魅力のない学問にしたくない。推理好きで遊び好きの貴方の参加を是非に希望します。
>                          Blog: since 2007  June 22,
>
> 大量の銅鐸と銅剣の埋め場所は、
>        以下(青色)のような “相関関係と、共通性” がある。
>
>    (大量の銅鐸と銅剣の出土とその推定場所)
>         <大量の銅鐸>                  <大量の銅剣>
>   人里から程よく離れた山の中腹、           ほぼ西南方で辺ぴな谷奥の南向斜面
>     岩の付く地名→   その西方;約1里・二山越え→   西、及び荒神の付く地名
> <出雲> 岩倉           大黒山・仏教山△姿   神庭荒神谷・西谷(さいたに)
> <吉備> 岩屋?(総社市)     *山 ・経山△姿    黒尾地区 西谷?(にしたに)
> <神戸> 桜ヶ丘(古名;神岡かむか) * (荒神山△姿)  地獄谷 or  大月地獄谷?
>          (いわやの駅名あり)
> <野洲> 大岩山          *山 ・妙光寺山  と、三上山との谷間・(地名?)
>   (註)(?マーク)は、予想した埋封(まいふう;筆者の造語)場所で、未だ未掘です!
>
>
> <大量の銅鐸・(銅剣)の現在迄の出土数と予測数>
>  ↓赤字は,未出土の大量の銅鐸・銅剣の出土予測数
> <出雲>  岩倉         39個       神庭荒神谷・西谷    358本
> <吉備>  岩屋 出土予測数  (23個)    黒尾地区 西谷 目安予測数(200本?)
> <神戸> いわや,神岡(古名;かむか)14個 地獄谷or大月地獄谷?目安予測数(120本?)
> <野洲>  大岩山        24個       三上山との谷間  目安予測数(200本?)
>      銅鐸&銅鏡のそれぞれの<合計> (-1卑弥呼の手持ち分^^?)
>        100個 = 出雲39個 +(吉備23個) + 神戸14個 + 野洲24個
> 卑弥呼が銅鐸との交換に使った銅鏡の数( = 魏から得た銅鏡数100個(^-^)
> 註)銅剣で・目安予測数としているのは、出雲の銅鐸1個に対する銅剣数を(358÷39=9本)として算出した数であり、これは、あくまで目安としての数です。(減る傾向ありか?)
>    ↑ Myブログ、月別アーカイブ 2011/1月&;2月<銅剣銅鐸探査のあれこれ!>より、
>      /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffujorinokuukan.blog108.fc2.com%2Fblog-date-201101.html

383机上探偵: 平 素人:2020/02/19(水) 08:45:14
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
荊の紀氏先生へのお返事です。

 せんせいぃ〜ぃ^^!??どうされてたんですかぁ心配してました。
 御自分の掲示板には毎日ご記事をあげているのに、「なぜ?」の思いがありました。

ルーツさんとのやり取りで、「うちのキシがごめいわくをかけています」がありました。
紀氏先生は、管理人さんにとって、身内のようなものかな^^?
先生にはせんせいの多くのファンがいるはずです。復帰をのぞみます。
(・・、でも管理人さまのいうこともすこしはきいてね^^!)
この掲示板は管理人さまの度量でなりたっているのは、先生もよくご存知のはず^^!

わたしのほうは衰えもあり、根がつづきません。今は青面さまで手一杯です^^!。
>?????????????? 参考に成れば幸いです。
先生のは、私にとってむつかしそうですが、あとでゆっくり考えたいと思います。
今後のご指導をよろしく、お願いいたします。  早々、

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



384机上探偵: 平 素人:2020/02/19(水) 10:51:24
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
続、キシ先生へのお返事です。

淡路島の件は、最近のニュースであり、センセ>も揚げられていましたね。
わたしは、この件をつぎのように考えています。

卑弥呼が銅鐸に換えて分け与えた銅鏡の数は100枚であり、前述している「出雲と吉備と神戸と野洲」に、その100個を分け与えればなくなってしまいます。ご存知のように銅鐸を使用しての文化は約500年の永きに渡っています。銅鐸は「荒神を呼び寄せ乗り移らせる媒体」と最終的に結論づけましたから、二体を越えると荒神同士はケンカを始めるので、少なくとも3体以上まとめて埋められているは、卑弥呼が提唱した「主神(銅鏡)は太陽であり、従来の荒神(銅鐸)は従神だ」との考えが <波及した以後> のものと考えています。

↓MYブログより^^!
<なぜ、“大量の”銅剣や銅鐸が埋められたのであろうか?>
 銅鐸は、大量にまとめて埋められた以前にも、必要時以外は個々に(土中保管説)埋められていた。 話は、これを大きくさかのぼり、「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。

 生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、 どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!”  それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった! 又来るあの大事変が!!
  人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
 「やがて、あの星は全天を覆うだろう。 私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」と、
   結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。

 火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。 その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」 元は、と云えばヒミコは、一般の子と区別するために、その削がれた耳を、おカッパ頭で隠し、人里離れた境内で “人身供儀用”として、大切にそだてられていた三歳〜七歳までの幼子のうちの1人であったが、その口寄せが 「よく当たる」 ことから、その厄を逃れていた。
 この一件でカリスマ性を増した卑弥呼は、銅鐸を中国・魏から取りよせた銅鏡に替えさせた。初めて見る銅鏡に修厳者達は驚愕した。並みの驚愕ではない。太陽の光を反射するその鏡は直視することが出来ない。 目を閉じて地に‘ヒレ伏’した。

 日巫女さまの云うことに間違いはない! 早朝の戸口に白羽の矢を立てられれば、否でも愛児を差し出さねばならない社会制度。 雨乞いや厄災時には“その命”神が召すのだと! 稚児たちを殺めた。 一度使った刃は二度と使いたくない。出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。 このような「衆生雨乞いのための社会制度」に、不満がくすぶっていたから、卑弥呼の提唱する“銅鏡象徴文化”へと、容易に変わっていく。 しかも、ヒミコさまは、その銅鏡を下さると云う。 荒神・銅鐸文化が発達し、卑弥呼(銅鏡)文化へと変わった所には、 「その神二度と起こしてはならない! その剣二度と持たしてはならない!」と、 不使用にした銅鐸と銅剣が持ち寄られ、それぞれが 別離させて“封印”されている。□

ゴメンナサイ、
 方位学や、十進法・複進法、円弧・距離法、等々は私には難かしくて・むつかしくて^^!、 それから、お返事を書く時、「その人の文>を長く張るのは止めましょう」と、
 管理人さまが仰っていましたよね(汗〜^^!)

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



385青面金剛:2020/02/20(木) 05:29:03
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 銅鐸は「荒神を呼び寄せ乗り移らせる媒体」と最終的に結論づけましたから、二体を越えると荒神同士はケンカを始めるので、少なくとも3体以上まとめて埋められているは、卑弥呼が提唱した「主神(銅鏡)は太陽であり、従来の荒神(銅鐸)は従神だ」との考えが 波及した以後 のものと考えています。
>その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!
>出雲の大量の銅剣は、犠牲者の数だ。


☆ 荒神谷遺跡の銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本と加茂岩倉遺跡の銅鐸39個の表す意味については、Dr・イズモ氏のHPの解釈と分析が、一番的を得ている、と思われます。

 出雲文化探訪  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2Findex.html

 出雲文化について 風葬文化と青銅器
  5.風葬と青銅器(2)  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2Findex98-4.html

 太陽崇拝族と銅鐸で知る冬至祭祀

『「 弥生時代に入っての稲の栽培では夏至が重要な農業暦の一日となり、古代のシャーマン(巫術師)たちは、この日を人々に告げ、田植えの督促をした。また、冬至の日は一年中で太陽が一番弱くなると見られていて、この日を境にして太陽が再生し、復活すると考えられていました」の部分と「古代日本にだけ出土する遺物として有名な銅鐸について、型持ち穴が二至の太陽の日の出線の向きを示しているのではと指摘した方もあったようです」の部分である。 』

 神在祭の起源  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2.html

?荒神谷遺跡が高瀬山と大黒山から等距離にあるという事実
?荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡が夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶ直線上にあるという事実

『 この2つの事実は各青銅器の特徴から考えて、「一連の青銅器、銅剣、銅鐸、銅矛を用いて測量した結果、導き出されたもの」である可能性が高い。』

「次に銅矛である。銅矛の特徴として研ぎ分け処理が挙げられる。研ぎ分けとは刃部の最終段階の研磨の際に、意識的に砥ぐ方向を変える磨き方法のことである。
 荒神谷の16本の銅矛も、そのうち7本に研ぎ分け処理がなされているのが確認されている。研ぎ分けは光の反射を計算されたものである。これは点滅信号にも似て、遠距離でも判別をつけやすくするのに都合がよい。
 これらの銅鐸と銅矛を使用し、二等辺三角形のポイントを定めるとき、銅鐸の鐘を鳴らす構造が活きてくる。」

「 実は銅剣が目盛の役割を果たしていると考えると、その特徴は理解しやすい。」

「 実は、これらの青銅器を使用して荒神谷遺跡を決定するのに理想的な数量を示しているように思える青銅器群が既に荒神谷の付近(およそ20km)で発見されている。
 鹿島町佐陀本郷の志谷奥遺跡出土青銅器の銅剣6本と銅鐸2個である。銅鐸1個につき銅剣3本で目盛2個分を作り出すことができるので、銅剣を計りたい方向に1本ずつ抜き差しすれば、目盛を等間隔に移動させることができる。よって銅剣3本で十分目盛の役割は果たせるように思える。 」

「 銅鐸孔が太陽の年軌道を表したものならば、その内角の往復分で1年間の太陽の動きを表しているから、そのことを考慮に入れて目盛を数えてみると銅剣179本は興味深い数字をはじき出す。銅剣が作り出すその目盛数は月の満ち欠けによる一年周期、つまり太陰暦354日と一致するのである。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-2.html

 358本(銅剣の本数)/2=179本(銅鐸一個分に使用されたと考えた場合の銅剣数)

 179ー1=178(銅剣で目盛を作ったときの数)

 この数が銅鐸孔が作り出す内角の目盛であるとするなら、往復分は2(178ー2)+2=354
(両端は1回、他は往復するので2回である)

これは純太陰暦で一年を数えた場合の年周期数
(ただし実際は354.36706といった端数がある)である。

「 それでは再び荒神谷遺跡に着目しよう。銅剣の配列状況を見ていただきたい。」
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-3.html

『 正面右側から1列目93本、2列目120本、3列目111本、4列目34本である。私はこの中で特に1列目の本数で作り出す目盛数が春分から夏至までの日数と一致することを重要視したい。』

「 銅剣数が作り出す太陰暦を太陽暦と一致させるために、その基準数である春分から夏至までの日数を1列目に配置したならば、2列目、3列目も意味ある数字である可能性が考えられる。
 この仮説だと絶対数が358本しかないため、どうしても4列目には意味ある数字を配置出来ない。それと比べれば2、3列目、特に1列目と同じ向きの2列目は意味ある銅剣数である可能性が高い。
 これにより現在の太陽暦に合わせた日付を推測することが可能である。
 2列目の一番手前の銅剣は夏至から数えると10月20日、3列目の一番手前の銅剣は2月8日を表している可能性が高いことになる。 」

 青銅器と神在祭の関係  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-4.html

『 ところが文献には見られないが、今尚残っている民俗行事で、もっともよくこの暦の作成及び修正を表しているものが存在する。それが「神在祭」である。』

『 もし「神在祭」で示されているように出雲だけで暦の修正が行われていたのならば、暦を修正できる人々がいなくなると各地で青銅器を使用する必要はなくなる。ここに青銅器文化が滅びてしまった直接の原因があるように思える。』

 志谷奥遺跡のシンプルさについて  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F5-8.htm

『 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間(これが重要である!!)に位置する。銅剣6本、銅鐸2個。
 ひっそりと静まりかえった谷にこんな青銅器があると誰が気付いたであろう。場所は「風土記」でいうところの「恵曇(えとも)のつつみ」を見下ろす場所で、地下2、30cmの所に青銅器は眠っていた。』


☆ 全国遺跡報告総覧 志谷奥遺跡  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2329

☆ 志谷奥遺跡で奇跡の出会い
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fkuma050422%2Fdiary%2F201806200000%2F

「 でも、荒神谷遺跡の剣はボロボロになっていて、保存するのに苦労したと聞いた。ここの剣や銅鐸はしっかりしていた。私なんかは、ホンモノでカネをついた。いい音がしたよ。考古学関係の人はここはすごい遺跡と言われるんだけど、今は忘れ去られている。」
「 荒神谷にしても、加茂岩倉にしても、そしてこの志谷奥にしても、全て見晴らしの悪い谷の中腹に埋納している。」

 松江市鹿島町志谷奥(しだにおく)遺跡 3号銅鐸の破片を公開
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.izm.ed.jp%2Fcms%2Fnews.php%3Fmode%3Dyoyakuadd%26id%3D1625
「 今回判明した3号銅鐸の破片は、志谷奥遺跡1・2号銅鐸、銅剣6本とともに古代出雲歴史博物館 常設展で展示公開します。」

※ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対照的な位置にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。

 弥多仁神社 彌多仁社(みたにのやしろ)深谷(みたに)にある神社。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jinja-net.jp%2Fjinjacho-shimane%2Fjsearch3shimane.php%3Fjinjya%3D29596








386史実探偵: 平 素人:2020/02/20(木) 07:04:09
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8023.shimoeda/0000391M.jpg

続・荊の紀氏先生へのお返事です。

> 参考に成れば幸いです。

<岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
素  人の予測地>  N34度44分?   E133度45分 ?
紀氏先生の予測値>  N34度43分    E133度46分 48″

 上記のように少しのズレがあります。
わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。

先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。

・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。

 他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
  ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



387荊の紀氏:2020/02/21(金) 09:01:28
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
>「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」

銅鐸の鐸は飛鳥時代に寺院などにぶら下げられていた木鐸や金鐸などの風鐸(風鈴)から付けられた名です。
風鐸に似ていることにより鐸の名になってしまったという由来があります。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkaifuusoo-575.sakura.ne.jp%2Fizumo-3-kamoiwakura.html
…ぶら下げられていた…メドゥーサの首…
天上のペルセウスは、右手に剣、左手にはメドゥーサの首を持っている。
ペルセウス ベテルギウス
ペルセウスのメドゥーサ退治では、姉のステンノと同じく不死身であったため、首を刎ねられることはなかった。 同名の別人? ある物語によると、オリオンの母と言われているが、その場合はクレタ島の王ミノスの娘とされている。
同名の別人?
ある物語によると、オリオンの母と言われているが、その場合はクレタ島の王ミノスの娘とされている。エウリュアレは海神・ポセイドンとのあいだに英雄・オリオンを生んだ、となっている。

オリオン座の肩に異変 ベテルギウス、爆発の前兆? /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXMZO55383030X00C20A2MY1000%2F

ベテルギウス…剣
銅鐸 銅剣(経緯)…現在…測量用品 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs

ある時刻での天体の天球上での高度角,時角,方位を観測することによって,その観測地点の経度,緯度,方位角を求める測量。天文測量でその位置を決定した地点を天測点という。経度などは天球上の位置が正確にわかっている星や太陽の見える方向から計算することができる。
天文測量 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

…予測・予見の為に励みましょう。



> 続・荊の紀氏先生へのお返事です。
>
> > 参考に成れば幸いです。
>
> <岡山県総社市奥坂岩屋寺金堂裏斜面の均地上部斜面>
> 素  人の予測地>  N34度44分?   E133度45分 ?
> 紀氏先生の予測値>  N34度43分    E133度46分 48″
>
>  上記のように少しのズレがあります。
> わたしが(?)印を付けているのは、未だに迷いがあるからです。金堂のすぐ上部に、はっきりとは思い出せないのですが、南北50・60歩、東西20・30歩の均地(なるち)上写真がありました。最初はこの中心部か? と思ったのですが、まてよ!、平地であれば容易にその上を歩けてしまいます。バチあたりにも荒神が乗り移る銅鐸の上を歩いて、その足音でその荒神を起こそうものなら大変なことになります。・・で、この件では「斜面」というキーワードが重要視されていまので、斜面であれば容易にその上を歩くことが出来ません。そこで、その平地に連なる斜面を考えたのですが、その斜面が3mたらずの斜面であり、その上部は簡単に歩行できるなだらかさになっています。はたして、3m足らずの斜面に23個?の銅鐸が埋められるものか? の疑問がありました。
>
> 先生の予見値を国土地理院図や、Google Earthで探してみているのですが、なかなかヒットしません。それに、地理院でもGoogleでも以前と検索の方法が変わってきていて、好きな倍率や方角が簡単に選べずとても苦労します。ご存知のように、磁北やら修正の問題を合わせて考えると、他の地も含めての地図からの探求は素人の手にはおえません。
>
> ・・で、先生の予測値をみると、当方の斜面とした予測地より、少し南と東へズレています。ということは斜面ではなく<均地>のほうになるのでしょうか^^? いずれにしても、レイラインや、数理だけで、その埋め地を絞り込めることは素晴らしいことであります。
>
>  他の大量の<銅鐸の埋め地>のすべてが重機で破壊されている現在、その現状をとどめているのはこの岩屋だけ(?)です。現状のままで保存したい。探知機が進化した現在、それを掘り上げることなしに何かレントゲンのような探知機でその姿をみることはできないですかね。金属探知機を持ち込んで辺り一面を捜せばその有無を調べるのは簡単ですが、それをする前に、<何故、祖先はそこに大量の銅鐸を埋めた>のかの思いをさぐることの方がはるかに大事と考えています。
> 「出土した結果より、その埋め場所を予測・予見できることの方がはるかに大事なのだ」
>   ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

388机上探偵: 平 素人:2020/02/22(土) 01:34:20
Re: 此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
荊の紀氏先生へのお返事です。

?? 重ねての情報ありがとうございました^^。

銅鐸=測量器具は、最新のニュースであり、センセも以前にあげられてましたよね。
銅鐸といっしょに<カギフック>が出たことから、そのように考えられたのでしょうね。

それと、認めると素人^^!の「荒神乗り移り媒体説」と、相容れず、いままて積み上げてきた謎解きがまったく成り立たなくなります。銅鐸は未だに諸説墳分^^で「鳴り具」以外は、確たる答えはでていないようです。色々に論じることは大切ですが、測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。わたしの場合も<粗雑>に開けられた穴の具体的な使用法がヨメていません^^!。

またまた、当方の拙文をながく張って頂きました。古代史版では張れなくなりました。関連記事が近くにある場合はその要がないのでは^^?  ご参考に感謝します。今後もよろしくお願いいたします^^。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



389青面金剛:2020/02/22(土) 05:53:56
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 測量器具とした場合。「大量にとかマトメテ」というワードが解らなくなります。

☆ 卑弥呼の同盟国である物部国が、西出雲王国を軍事制圧し、西出雲王家である神門臣家が、降伏した後、出雲での統治権を失った為に、出雲での暦の修正が、行なえなく成りました。神門臣家は大和の葛城の地に移住します。

 神門臣の拠点はどこだったか?  (4) 西出雲王国 滅亡の時
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyomiagaeru.exblog.jp%2F24321149%2F

「最後に西出雲王家が支配権を失う形で、講和となった。講和を締結したのは、出雲王朝最後の主王・山崎帯(たらし)であった。」

【古代賀茂氏の足跡】大倭の葛木山の峯
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fchiangmai1971%2Fentry-12338911734.html

『葛城の地に「賀茂建角身命」や「八咫烏」を祀る神社は無く』
『葛城の鴨社は、全て出雲系の神を祀っています。』

☆ 出雲族原点の巨岩割れ目岩信仰の「女夫岩」とその周辺の神社、古墳を訪ねる
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyochanh1947-kodaiizumo%2Fs%2F

 古代出雲族信仰の社には、「おはせ石と ほと石」があり、子孫繁栄、五穀豊穣を願う女夫石なのが分かります。子宝を願う出雲の信仰には、「稚児を犠牲にする」発想は有りません。

☆ 子宝の御利益の有る八重垣神社には、分かり易い山神様が
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnishimagome.link%2F2017%2F06%2F03%2Fen-musubi-yaegaki%2F

☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。

☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。
 昔、弥多仁神社の西方200メートル程に、潮の湧き出る場所が有ったとされます。
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrelaalegre.amebaownd.com%2Fposts%2F1060655

 弥多仁神社の南方には、丹花庵古墳や古曽志大塚1号墳などがある、古墳の丘古曽志公園と、島根県埋蔵文化財調査センターも有ります。

 古墳の丘古曽志公園〜島根県松江市〜 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.uraken.net%2Frail%2Ftravel-urabe183.html

 島根県 埋蔵文化財調査センター  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.pref.shimane.lg.jp%2Fmaizobunkazai%2F


 

390机上探偵: 平 素人:2020/02/22(土) 21:41:31
Re: 此処に銅鐸が眠っている
青面金剛さまへのお返事です。

 コメントありがとうございます。

> ☆ 加茂岩倉遺跡の駐車場からガイダンスへの遊歩道の脇には、水量の豊かな水が流れています。加茂岩倉遺跡の元地は、田んぼで、此処の水は鉄分が多く飲料には適さないものの、稲作には十分であります。つまり、加茂岩倉の地では、雨乞いは必要ないのです。斐伊川と赤川が合流する地で湧き水が豊富だからです。

 1700年前の昔に加茂岩倉周辺で水稲栽培をしていたとは思いませんが、仰るように水稲は意外と少しの山水でも栽培が可能なようです。水稲の発達拡散が何時頃か、その時の気候がどうだったか、又、海進、海退(沼地)等々の歴史は、私には分かりません。出雲、山陰地方では雨乞いの要は少ないと思いますが、瀬戸内のほうでは干天が多く溜池が多いのが特徴です。

<雨乞いに関係する地名>
松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。ちなみに、茶臼山は列島の山名のなかで一番多い山名と聞いたことがあります。そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。

> ☆ 「 志谷奥遺跡は鹿島町の朝日山と神目山の間に位置する 」事から、朝日山と神目山を結ぶ線と対称的な位置に有る、弥多仁神社周辺にも、銅鐸や銅剣・銅矛などが埋められている可能性が有ります。

 弥多仁神社周辺で、銅鐸や銅剣・銅矛が予見予測して発見かればいいですね^^。

「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」 myブログ「この指とまれ」より、
 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entory-31.html



391青面金剛:2020/02/23(日) 04:10:59
Re: 此処に銅鐸が眠っている
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> <雨乞いに関係する地名>
> 松江市だったかな。<茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、出雲に雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。
>そして<丸山・円山>がそれにつづき、 さらに<竜・龍がつく山名>を加えれば、雨乞いとはかぎりませんが何か厄災時があれば、慈雨や平癒を願った儀式が、そこであったと理解しています。島根半島には<竜山>の地名があります。

☆ 松江市山代町の茶臼山は昔、神名樋山と呼ばれていました。南側に眞名井神社が在ります。
 嫁ヶ島にはいくつかの伝説が残っていますが、一番有名なのは嫁いびりにあった女性がなくなった際に水神様が島を浮かび上がらあせたというものです。
「姑にいじめられた若嫁が寒さに凍った湖上を実家に帰る途中、氷が割れて水死し、それを哀れんだ湖の神様が一夜にして島を浮かび上がらせてできた島を「嫁ヶ島」と呼ぶようになったそうです。 」
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frtrp.jp%2Farticles%2F36256%2F

 松江大橋 源助柱  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.japanmystery.com%2Fsimane%2Fgensuke.html

 小泉八雲の『Glimpses of Unfamiliar Japan(日本の面影)』松江城の人柱伝説
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftabi-and-everyday.com%2Farchives%2F11906


> 「銅鐸文化から、銅鏡文化への移行は何人も否定できず、その変換点に魏からの銅鏡100枚があり卑弥呼がいる!!」

☆ 加茂岩倉遺跡から南東1.9キロに神原(神財)神社が有ります。其の脇の古墳からは、「景初三年」銘の三角縁神獣鏡などが1972年に出土しました。卑弥呼の鏡との説も有る三角縁神獣鏡は、古代出雲歴史博物館(現在リニューアル中)で展示されています。


 神原神社と神原神社古墳 島根県雲南市加茂町神原
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.yatsu-genjin.jp%2Fsuwataisya%2Fjinja%2Fkanbara.htm

 神原神社古墳  三角縁神獣鏡
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwi12000.starfree.jp%2FforGmap%2Fhtml%2Fkanbarajinjya.html%23kanbarajinjya

 全国遺跡報告総覧 神原神社古墳  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsitereports.nabunken.go.jp%2Fja%2F2419


☆ 神原神社のある加茂中の地も松江市も、度々、豪雨による水害に見舞われています。斐伊川などの河川の氾濫と、宍道湖の増水による水害を、『八俣の遠呂智』伝説に重ねてるところも在ります。


392机上探偵: 平 素人:2020/02/24(月) 08:39:56
人身供儀・その歴史、忘却の彼方に!
青面金剛さまへのお返事です。

>  古代出雲族信仰の社には、「おはせ石と ほと石」があり、子孫繁栄、五穀豊穣を願う女夫石なのが分かります。子宝を願う出雲の信仰には、「稚児を犠牲にする」発想は有りません。

そうですね^^。出雲大社は、縁結びの神さまとわたしも認識しています。以下myブログからの拾い読みで恐縮なのですが「人身供儀」にかんしての当方の考えを述べてみたいと思います。

<以下myブログより>
『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、四千年前の大事変 がもたらした慈雨(大雨)と、生け贄(厄災)との “交換思想” が根幹にあり、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。 そして、その 因習を止めさせようとした のが卑弥呼であるとも謎解きした。

 その 「雨乞いは」、村人こぞりて行う大行事であり、その埋め場所は “衆知の事実” なのに、その銅鐸や銅剣が、ごく近時まで盗掘の被害に遭わなかったのは、墓泥棒も恐れるほどの “祟り”があったからだ。(今は、すっかり忘れられていますが^^!)
 しかし、銅鏡にかえても欲しい雨は降るとばかりは限らない。 「やっぱり荒神様は、生娘を欲しがっているのだなぁ〜」と歴史は続いていく。、、、□

 わたしたちは、今に、子宝をさずかり、一歳のお宮参りをします。そして女児と男児では歳が異なるようですが、「七・五・三」の紐落としとかのヤク明けとかの厄払いをします。なぜこのような習慣が残っているのでしょうか。
以前にも申し上げていますが「早朝の戸口に白羽の矢が立てられれば、否応なしに “衆生のため” として三歳から五歳の子を神に差し出さなければならない社会制度」がありました。これに類する伝聞や伝承は「昔話」として処々に語られてきましたが、ゲームが発達した今、まったくと言っていいほど子供たちに語られなくなろうとしています。

<その社会制度とは、どんな社会制度でしょうか>
 「通りゃんせ、通りゃんせ、ここは何処の<細道>じゃ、<天神>さまの細道じゃ、ちょっと通してくだしゃんせ、この子の<七つ>の<お祝い>に、<お札>を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい、怖いながらも通りゃんせ、々せぇ」

<その昔には、この童唄のような社会制度があった>
生まれて<一歳>の誕生日を迎えると<登録>のための宮参りをする。
人里離れた細道をとおり隔離された山奥に<境内>を定め天神さまに登録していた。
人々、『おお困りの時は、その命、神が欲しがっているのだ』として、その登録された三歳から七歳(男児・女児・地域によってその歳は異なるかも知れません)までのなかから一人(?)を選び、荒神への人身供儀用の<神子・巫女>として育てていた。

「ヤク」で検索すると、「厄、焼く、役、養久」がでてきます。
 一歳でお札を受けにいく。そして、そのお札を年神(牛神)さまへ供えておく。
一歳児では養育難なので三歳から役目が生じ、五歳・七歳でその役目が解ける。
 万一、間違って我が家に白羽の矢が立てられても、うちの子はその内ではありません!と言い訳できる。当時は土葬が一般的で「死んでからも熱い思いはさせたくないよぅ」の思いから火葬は例外であった。火葬にするのは「この煙、どうぞ雨雲に!」と、前述しています。

 五歳・七歳で、その役目が解けましたと報告にいく。
それを「厄払い」とか、「紐落とし」とかいっているのだ。そう云われれば、時代劇で幼児の髪がてっぺんで結わえられていましたから、「紐落とし」とは、その歳を境にその紐で結わえなくてもいいということでしょうか。

その天神さまの役を、今では<役場>が担っている。
総社市・鬼ノ城で、“硯・すずり”が出土して話題になったことがありました。これは、そこで<個々の歳を記録>するという今の役場の意味をもっていたのだ。その歴史の移り変わりの一時期だけを切り取って断じてはならない。このように、童唄から、その民話・伝承から、今、私達が神仏に対して「何」をなしているかの意を探るのが素人探偵のやり方です^^!。

 コメントありがとうございました。鷺峠の「大の字^^!」国土地理院図で、その「お又」の所に小さな「水流」の印が記されています。ふつう、こんな小さな流れは図に描かれないと思います。何かのイワレありかと思っています。「命出る源流」のイワレがあれば^^・・・、こんなことは地元の人しか知らないのでは・・・(^-^)。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



393青面金剛:2020/02/24(月) 12:32:59
日巫女も生贄であった
人身供儀探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、…、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。 そして、その 因習を止めさせようとしたのが卑弥呼であるとも謎解きした。

★ 昨年大ヒットしたアニメ映画『天気の子』の主人公である娘さんが、「晴れ女」として祈り続けた結果、人の世界には戻れなくなってしまう、巫女としての「いけにえ」の側面が描かれています。
 地方によっては、巫女は三年ごとに交代する、決まりを定めている所も在るようです。「それ以上は、人の世界に戻れなくなる恐れ」が在るから。

 天気の子  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tenkinoko.com%2F

★ 卑弥呼の亡くなる前年247年3月と亡くなる年の248年9月5日に、皆既日食が起きている事がわかっています。
 邪馬台国 九州説の場合、不吉な日食の責任を取らされて卑弥呼は殺された。

 卑弥呼と皆既日食
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fikejun_2018%2Fe%2Fbd34d530b4f8456928a56c7b50be0d31


> 「早朝の戸口に白羽の矢が立てられれば、否応なしに衆生のため として三歳から五歳の子を神に差し出さなければならない社会制度」がありました。
>  「通りゃんせ、通りゃんせ、ここは何処の<細道>じゃ、<天神>さまの細道じゃ、ちょっと通してくだしゃんせ、この子の<七つ>の<お祝い>に、<お札>を納めにまいります。行きはよいよい帰りはこわい、怖いながらも通りゃんせ、々せぇ」
その登録された三歳から七歳までのなかから一人(?)を選び、荒神への人身供儀用の<神子・巫女>として育てていた。
> 「ヤク」で検索すると、「厄、焼く、役、養久」がでてきます。

★ 日本列島に稚児を人身御供として捧げる、考えを持ち込んだのは、秦氏である徐福と軍事職能集団の物部勢力です。
 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
 なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
 「不老長寿の薬を探すため」とは、建前の方便で、実際は金丹(水銀)を求めてです。始皇帝陵には、大量の朱砂が埋められています。朱砂(水銀)は金の精錬にも防腐剤としても高価で貴重でした。

★ 出雲には元々、「荒神」と言う神は無く、夫婦和合の幸の神である『クナトの大神』と『アラハバキの女神』が信仰される、宗教国家でした。物部勢力の出雲への侵略後に、この神々の信仰は禁止され、道祖神や荒神の小さな祠に代えられてしまいました。「荒神」というのは仏教や道教が伝来した後に付けられた名です。

 客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamnavi.jp%2Fjm%2Farahaba.htm


> 総社市・鬼ノ城で、硯・すずりが出土して話題になったことがありました。これは、そこで<個々の歳を記録>するという今の役場の意味をもっていたのだ。

★ 百済の王子である温羅は、律令制度の経験を持つ事から、記録としての硯は用います。製鉄の為に、大量の木材が必要とされ、その搬出と植林も行わねば成りません。
 硯は、水を入れると、鏡の役目もします。和硯では神代文字で神を表す事も出来ました。
 鬼ノ城跡から南東に2キロの地に、温羅の妻、阿曽姫が巫女をしていたと言い伝えられる阿宗神社が在ります。製鉄の地から「鉄鐸が出る」と言うならば、未だしも、銅鐸とする根拠が薄弱過ぎます。

★ 「稚児を殺めた〜〜」と平さんの居住地から離れた土地には、根拠も不十分なのに拘らず、リアルに描写し、平さんの近所である鬼ノ城には、サラッと触れるだけ。これは、民俗学を語る上でのルールにも反し、他の地域の方々からの顰蹙と反発を買うばかりです。

★ 総社市の高梁川を挟んだ左岸に、秦の地名と「石畳神社」御神体の磐座も在り、その西南西には、備中国最古之社と伝えられる「麻佐岐神社」と磐座が鎮座しています。
 「石鎚大権現」と「城山金刀比羅神社」の間には、平さんが力説している「茶臼嶽」とあり、崖の傍に祠が祀られています。此処が稚児を殺めた現場では無いのでしょうか?

 石畳神社〜正木山登山日記
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmarchan.e5.valueserver.jp%2Fcabin%2Fmntn%2Fokay%2Fmasakiyama%2Fmasakiyama1.html






394机上探偵: 平 素人:2020/02/25(火) 01:30:34
人身供儀、その歴史!?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-2.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



395青面金剛:2020/02/25(火) 06:04:52
民俗学のルールは自分の県内から
生贄探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 日食はその大小を問わなければ通常に起こる自然現象ですし、
> 全天を覆うほどの彗星がニアミスしたら、それは畏怖を感じるでしょうね。その恐ろしさは、妙なる光としてが発生したと前述しました。

★ 日弥呼の時代に日食が「通常に起こる自然現象」とは知られていなかった、と思います。「妙見信仰」は、北極星への信仰です。

> その雨欲しいと生け贄をささげ、お願いする交換文化がありました。その(銅鐸)文化が永々とつづいている時に、徐福集団はやって来ました。
> そして、徐福が伴った「武人集団」は、列島の「生け贄文化」を知り、自分達を神と思う列島人に、その幼子を捧げよと云いました。

★ 平さんは、勝手な思い込みと決め付けで言ってるだけで、何らの立証にも成っておらず、検証の手順も踏んでいません。

> 自分達が連れて行った、行かせた児が長らえて帰れば、これに勝る実証はない!!
> 広い国土と、桃源郷、殺生与奪まで、欲しい物のすべてを得た始皇帝が、そんな徐福の甘言にやすやすと騙されるでしょうか?。

★ 徐福は一度、秦に帰国した際、始皇帝に「鯨に邪魔されたので、鯨打ちの達人を揃えたい。」と
甘言で逃げています。大量の朱砂を持ち帰った功労が有るので、大目に見られたのでしょう。
 徐福は、日本列島に戻った後は、もう大陸に帰る事は有りませんでした。始皇帝の寿命は間もない、と読んでいるからです。

>??先さまは、主題の場所に「卑弥呼云々」は別として、大量23個の銅鐸が埋められている(orかも知れない)と、お考えですか? それとも「無し」とお考えなのでしょうか^^???私は、先さまから、この答をまだ伺っていません。

★ 鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう。鬼ノ城跡の一角に、岡山県の重要文化財に指定されている「皇の墓」が在ります。温羅と、その家族・親族の墓でしょう。
 毘沙門天の仏像が納められている金堂(毘沙門堂との記述もあり)の裏地の禁足地は、温羅の家臣と兵達の埋葬地と考えます。

 2019年 「鬼ノ城 &; 岩屋」散策  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fgon.mbsrv.net%2F2019kinojyo05.html

> <茶臼山>や、その西に<嫁ヶ島>の地名がありますから、…雨乞いや人身供儀の歴史がなかったとは言い切れません。
> >「石鎚大権現」と「城山金刀比羅神社」の間には、平さんが力説している「茶臼嶽」とあり、崖の傍に祠が祀られています。此処が稚児を殺めた現場では無いのでしょうか?
>あとでゆっくり^^!
>そして「稚児の殺め」ですが、富山県氷見市に<船塚> 岡山県総社市に<高塚> 静岡県浜松市に<〇塚 浜松市には「姫街道」もあります。

★ 茶臼山を人身供儀の場だと強弁して於きながら、平さんの近場にある「茶臼嶽」稚児虐殺現場を指摘されると、答えを先送りして逃げ回る。そんな卑怯な応答を用いる輩が、「人身御供」や「生贄」などの、地元民感情にデリケートなテーマを扱う資格も無い、と言わざるを得ません。

 「石畳神社」から、「麻佐岐神社」へ向かう登山道脇には、夥しい数の石仏が並んでいますが、これらは犠牲者の数と見做されるのでしょう?
  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmarchan.e5.valueserver.jp%2Fcabin%2Fmntn%2Fokay%2Fmasakiyama%2Fmasakiyama1.html

> 『海の見える高台で、赤き血を源流にそそぎ、その遺骸を煙りに変え、「どうぞ、貴方様のお力で、この煙を雨雲に変えて下さい」と、その人里に慈雨を願う!』 その底流には、…、その生け贄はエスカレートして、「私達には、これ以上大切なものはありません!」と、3才〜7才の稚児に変わっていった。

★ この平さんの描写は、まさに「石畳神社」磐座から荒平山・石鉄山を経て、「麻佐岐神社」磐座へ向かう、山道の途中にある崖上から突き落とされた、惨劇を描いています。

★ 「岡山県 茶臼」で地名検索すると、10軒ほど見つかります。民俗学のルールでは、『地元民感情にデリケートなテーマを扱う場合は、先ず自分の県内から』が鉄則です。
 それを踏み外す輩には、「御宅の近場の此の場所も、その場所でしょう!」と後々、指摘されてしまうブーメランが返って来るからです。

 民俗学の入門書や、民俗学の先生方の講演会やセミナーを何回か聴きに行ってれば、民俗学のルールについて説明されます。
 「地元民感情にデリケートなテーマを扱う場合ほど、地道な事実関係の積み重ねを要します。」

 平さんの論法は、その積み重ねが全くなく、勝手な思い付きと決め付けによる、妄想が先んじています。平さんのやってる事は、興味本位の怪奇ホラーサイトの寄せ集めレベルでしか有りません。




396史実探偵: 平 素人:2020/02/25(火) 08:48:42
Re: 民俗学のルールは自分の県内から
青面金剛さまへのお返事です。

??コメントありがとうございました。

「 問 」
>??先さまは、主題の場所に「卑弥呼云々」は別として、大量23個の銅鐸が埋められている(orかも知れない)と、お考えですか? それとも「無し」とお考えなのでしょうか^^???私は、先さまから、この答をまだ伺っていません。
「答え」
★ 鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう。鬼ノ城跡の一角に、岡山県の重要文化財に指定されている「皇の墓」が在ります。温羅と、その家族・親族の墓でしょう。
 毘沙門天の仏像が納められている金堂(毘沙門堂との記述もあり)の裏地の禁足地は、温羅の家臣と兵達の埋葬地と考えます。

『鬼ノ城跡に銅鐸など有る訳ないでしょう』
鬼ノ城跡と岩屋は〇kmほど離れていて同一遺跡内ではありませんが、私と先さまは、いちばん大切な部分に相違があります。私が反論を請うているのは、自論の不備や誤りを正したいからです。
先さまが持論を掲示されるのは自由ですが、数々の反論に加え、いちばん大切な部分に決定的な相違があれば、いつまでたっても歩み寄ることは出来ません。しばらく平行線のままで時をおくことにしましょう。
 わたしは、残念ながら管理人さまや、キシ先生のように<度量のおおきい>人間ではありません。礼を欠いた先さまへの返答は大変つかれます。ごめんなさい。しばらくのあいだ先さまへの返答は保留とします。□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



397史実探偵: 平 素人:2020/02/27(木) 00:07:52
大量の銅鐸・銅剣、地名(青字)繋がり!
"共通の文化には共通の事象(地名)あり"
 <出雲>     <吉備>      <神戸>       <野洲>
銅鐸39銅剣358   (未出土)     銅鐸14銅剣(未出土)  銅鐸24銅剣(未出土)

 加茂岩倉      岩屋       いわや駅       大岩山
 荒神谷・西谷    西谷        ( ? )         ( ? )
 仏経山△      経山△     坊主山・荒神山△   妙光寺山・三上山△
 三宝荒神     山王神社(さんおう)
 砂川       砂川         ( ? )        蛇砂川
  赤川      ☆血吸川

現学は、地名を不確かなものとして、いっとう下にみるが、
『地名は祖先からの、一番確かに(合意された)合意伝言である』 史実探偵: 平 素人
さて、あなた様は、史学は、・・・を何んとよむ・・・^^!

追伸:
出雲と吉備は近くでもあり、何からかにから一番よく似てると思うのですがぁ(笑い)
 詳しくはmyブログ「出雲地方」「吉備地方」へ、どうぞ・・・^^!。

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398荊の紀氏:2020/02/27(木) 17:21:59
荒神谷ー奥坂岩屋寺金堂裏斜面ー松帆銅鐸…ライン?
淡路・松帆銅鐸
出雲と同じ兄弟銅鐸 共通の工人集団判明   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmainichi.jp%2Farticles%2F20161027%2Fk00%2F00m%2F040%2F016000c
昨年4月に兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった弥生時代前期末〜中期初め(紀元前3〜前2世紀)の松帆銅鐸(どうたく)(7個)のうち5号銅鐸が、島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡(6個、国宝)の6号と同じ鋳型(同笵=どうはん)で作られた兄弟銅鐸だったことが分かった。南あわじ市教委と奈良文化財研究所が26日発表した。松帆3号と、同県雲南市の加茂岩倉遺跡(39個、国宝)の27号との兄弟関係も既に判明しており、淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。
 一部破損して発見された松帆5号(高さ23.5センチ)と、荒神谷6号(同23.7センチ)は「外縁付き鈕(ちゅう)1式」に分類される古い銅鐸。奈文研の難波洋三・客員研究員が目視で分析し、つり手と胴体の文様構成や鋳造時に付く複数の笵傷の一致を確認した。松帆5号の方が傷が少なく、先に作られた初期の鋳造の可能性が高いという。


399史実探偵: 平 素人:2020/02/28(金) 21:33:33
Re: 荒神谷ー奥坂岩屋寺金堂裏斜面ー松帆銅鐸…ライン?
荊の紀氏先生へお返事です。情報ありがとうございます。
 出雲荒神谷ー出雲岩屋寺金堂ー淡路・松帆銅鐸ラインがあるのですね。

>淡路と出雲が共通の工人集団や銅鐸の流通で広域につながっていたことも明確になった。

 わたしは、銅鐸の拡散について、つぎのような考えを持っています。
銅鐸が荒神を呼び寄せ、乗り移させる媒体だとは、先にもうしあげました。銅鐸の拡散は徐福達が、童男童女3000人かその児たちを含む3000人かは分かりませんが「不老不死の仙薬」を探しに列島に渡来しました。その船団がヨーイドンと横一列に出発するわけではなく、徐福を旗艦として、例えばの話しですが、60人乗りとしても50艘となり、それ以下だったらもっともっと艘数は増えます。徐福達の陣容を見ると、操船に苦手なだろう百工・子供・婦人も含んでいます。武人ならまだしも、操船できる人達の数は制限されてきます。

 その推力の弱い分船団が海流の速い津島海流を横切るわけですから、千々に流され海の藻屑となり、これも例え数ですが半分の1500人が漂着したとしましょうか。徐福の乗っている船は旗艦ですから、当然、屈強な男たちが乗っていますから、列島の一番西に着岸します。それを出雲としておきましょう。以下、分断しながら流されて、石川、富山、新潟、・・・とします。この人達は生活に落ち着きができると、必ず西進して合流しながら、徐福のもとへ集合します。このことは結果的に幸いして、米大陸西部へと宿場街がなったように一日あたりの航路のところに船着き場所がなってきます。この意味において日本海側の文明遺跡が先んじて発達していったと云われるのが頷けます。この詳しくはDr.いずも氏>
とmyブログで・・・^^!

 集合したこの人達は「再開を歓び酒を酌み交わした」との神話になったのかな^^? 徐福はそれぞれの情報をもとに再編し、出雲を本社とし、それぞれを支所として薬石の蒐集にあたらせました。有益な情報があれば、徐福みずからも出張ったとは別紙でのべました。このような経過をへて、だんだんと航路・徒道のインフラが整備されていきます。

 徐福は「年一に出雲へ集まること」を指示した。ここで、管理人さまや、キシ先生がいわれる、高度な方位測量術が役にたってきます。つまり、やみくもに列島を探索するのではなく、一定のきまりによって往来すれば、新しい人に伝える場合でもより易く動けるからです。その目印として△姿の山や既存の集落を選びました。この時大事なことは、列島住民がすでに付けている山名や地名を利用しました。そのほうが道に迷った場合でも住民に聞くことができるからです。東北地方は人口密度が少なかったのでしょうか。徐福たちが付けたと思われる数字のつく地名が目立ちます。

 徐福は、中国本土へとりあえず蒐集した珍宝を中国の正月(着に)間にあうように10月の神無月に集まるように指示しました。出雲大社への神門で地方から寄った人たちは泊り会い人数が集まってから年末会議と次年度の活動方針やらを合議しました。集めた物品は出雲から沿岸航路沿いに西進し、唐津港から大陸へと出帆したと思われます。この場合長崎の方が大陸に近いのですが、旅行きの準備やら食料の調達は、平地の広い北九州のほうがだんぜん有利です。

 <銅鐸の拡散が最後になりましたが>
「不老不死の薬石探し」は、その情報や住まいや、船の建造修理等々に人手もいることだし、住民と事を構えて争いをするより、加治(治療)をして、その人たちの力を借りるほうがだんぜん有利です。なかでも部族の長たちが欲しがる銅製品(銅鐸)との交換にそれ等を得たことは容易に考えられます。列島人は、銅製品(銅鐸)を受け取りに随行します。銅製品の制作は、出雲半島の<別所>市内の<別所>でしたと前述しています。

 各郡(こおり)の大夫(イタコ・シャーマン)さん達は、より立派な銅鐸が欲しくなってゆくのが当然のなりゆき^^。最も立派なものは野洲にあったかな。徐福たちの根幹は、その薬石にあるのは前述したとおりですが、始皇帝や、徐福や、それを知る人も亡くなり、その<縛り>も、時と共に薄れていったと思います。そして、徐福達がなした足取りは、航路を主幹に内陸へのインフラが進んだことにより、銅鐸は<商取引の交換品>として拡散していったのではないでしょうか。

「徐福は列島支配」とみるのが史学のおおかたですが、筆者はそうは思いません。「徐福は広澤(広い沢)の王となり帰らなかった」というのは、大陸の人がやっかみを含めて云う言葉であり、支配者ならば顕示欲が強いので「俺は除福だ」と云ってもいいはずなのに、日本の史書にはそれがありません^^!  しょせん「不老不死の薬石」などあろうはずもなく、始皇帝が亡きあとも、大資を受けたてまえ、おめおめと帰ろうものなら人々に何を云われる分からない。それよりなにより、徐福は、火を噴く山ありの列島に神秘性を感じ『その薬、必ずあり』として、列島のどこかで果てたのではないのでしょうか。その「片道切符をもって!!」

 このように考えると、淡路島の出雲と同じ鋳型の銅鐸の件や、まとめて埋められた銅鐸の大小や年代が異なることも解けるのではないでしょうか。蛇足ながら、この話は卑弥呼より、約400年も前の古墳代や神話代より前の話しですから念のため(^-^!)

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400荊の紀氏:2020/02/28(金) 23:59:07
Re: 人身供儀、その歴史!?
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

徐福もユダヤ人か …
ユダヤ新年は10月2日
>徐福は、中国本土へとりあえず蒐集した珍宝を中国の正月に間にあうように10月の神無月に集まるように指示しました。
10月の神無月に…
西暦で言うところの2016年のユダヤ新年は10月2日(日)の日没から4日(水)の日没まで(ちなみに2017年のユダヤ新年は9月20日から22日)。ユダヤ歴では1日は日没から始まり、次の日の日没に終わるというのも特長です。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftokuhain.arukikata.co.jp%2Ftelaviv%2F2016%2F10%2Fjewishnewyear.html
ユダヤの新年は、西暦の9月か10月に2日間祝われます。 家族や親戚が集まり新年を祝います。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.arukikata.co.jp%2Fcountry%2FIL%2Finfo%2Fholiday.html

徐福もユダヤ人か 秦始皇帝がユダヤ人、もしくは失われたイスラエル10支族の血を引いていたとすると、気になるのは徐福(じょふく)である。前章で見たように、秦始皇帝と徐福は同族であったwww.rui.jp/ruinet.html?i=200&;c=400&;m=289816
秦始皇帝と徐福は同族であった。徐福の祖先、徐氏(じょし)の始祖は秦始皇帝の祖先と同じく羸氏(えいし))であった。
 羸(えい)という姓は舜帝(しゅんてい)から伯翳(はくえい)が賜ったものとされるが、これは漢民族が中原(ちゅうげん)の覇権を握った後に体系化された中国神話によるものである。漢民族は自らの血統の正統性を主張するために自らの始祖を象徴的に黄帝(こうてい)という名で呼び、神話のなかで最高位の存在に仕立てあげた。その際、非漢民族は直系ではなく、あくまでも傍系という形で出自を黄帝に結びつけたのだ。したがって、秦始皇帝及び秦王家のルーツが黄帝であり、漢民族と同視であると考える必要はない。




> > 徐福は子供達約3千人を、遠く離れた異国の日本に移住させましたが、秦の始皇帝の時代で、万里の長城や王宮や始皇帝陵の建設に、延べ約百数十万人を強制的に苦役させている事から、その子供たちも親元から強制的に引き離し、連行した形で集めたものと伺えます。
> >  なぜ子供ばかりなのか、と分析するならば、子供では、物部の兵に楯突く事も出来ず、従順に洗脳し易いからです。
>
任侠伝にある、札所、札差、札場も、その流れの変形したものかと思います^^?

401史実探偵: 平 素人:2020/02/29(土) 22:30:27
徐福もユダヤ系か!?その影響で太陽主神説へか??
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402史実探偵: 平 素人:2020/03/20(金) 07:07:04
「銅器の拡布・制作地について」の思いつき^^?
下記〔 〕を編集していて思いついたことがあります^^!

徐福たち大陸系人が、銅器の制作を遅くまで(奈良時代の大仏銅材の寄進)専売にしていたか(?) とは前述しました。

では、どこでそれを制作していたのでしょうか?
素人は、出雲半島に<別所>というところがあり、そこでしていたと思います。なぜなら、別所とは、特異な地名でありなにやら秘密的なにおいがします。これは、わたしが傾注するDr.いずも氏からうかがったことですが、出雲半島は「破砕半島」ともいわれ、仔牛ほどの大きさの銅鉱がゴロゴロしていたと聞いています。列島探査の徐福たちがこれを見逃すはずがありません。

では、なぜ専売にしたのでしょうか?
銅は鉄に比べて融点が低いのですが、その精錬はたいへん難しいようです。加えて、銅器に対する思いは、列島人と大陸人とではまったくちがいます。前者は、銅がアカから緑青にかわることに神秘性を感じ、(今でも社殿の屋根には銅材をつかっています)それを祭祀用具とみているのに対し、大陸人は銅材が兵器用から発展したものであり、もし、列島人がその製法をしり、兵器として使用されると困ります。そして、銅鐸が列島人が欲しがるものであり、自分達が欲しいものとの格好の商の交換品でもあったからです。

島根半島にある「別所」は、大変へんぴな所^^!
おそらく、おそらくですが^^! 島根県の人もその存在を知ってる人ばっかりでは^^?  半島の中ほどで水田もすこしあるようですが、当時の島根半島が陸続きであったかどうかは分かりませんが、ここなら銅鉱もあることだし格好の隠れ場となります。近くに、泊りがけでの行き来があったのでしょうか、これまた小さく^^!<旅伏>の地名もあります。

出雲市の市街地にも、<別所>の地名が残っています。
時がたち、半島の別所では、その行き来が不便だから、その制作を「こちらに移そうや」になったのでしょうね^^。島根県では、今でも歴史ある精密鋼関係の会社があると聞いています。先のDr.>から^^。

この「思いつき」の正否を確かめる二つの方法があります。
?半島の「別所」で銅器制作に関する“遺跡”イワレ・氏名(うじ)が残っていないか?
?市内の「別所」の近くの神社のイワレ。そして、その関係と思われる氏名(うじ)。

今の時期寒いので、半島のほうの遺跡探索はお勧めできませんが、「氏、さがし」のほうなら電話帳で捜すことも可能かと^^! その電話帳は、図書館へいけばあるかもです。
「なぜ、それをあなたが、しないのか?」ですってぇ> ・・つかれました^^!

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403荊の紀氏:2020/03/31(火) 09:05:30
参考 陶磁器の鐸
銅鐸祭祀の源流 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fisaq2011%2Fe%2Fdf467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029
 先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
 「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。(考古用語辞典)
 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
 さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
 『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
 同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江下流域の呉と越に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。(2006年3月7日付朝日新聞)


404史実探偵: 平 素人:2020/03/04(水) 08:35:45
Re: 参考 陶磁器の鐸
https://blog.goo.ne.jp/isaq2011/e/df467d7e0dbb6be9d4e3b609833a6029

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405青面金剛:2020/03/06(金) 04:23:30
民俗学では創作を資料に加えるのは厳禁です
机上探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 素人は、出雲半島に<別所>というところがあり、そこでしていたと思います。出雲半島は「破砕半島」ともいわれ、仔牛ほどの大きさの銅鉱がゴロゴロしていたと聞いています。

★ 以前紹介した、「韓竈神社」の在る、出雲市唐川町は別所の西隣です。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F4travel.jp%2Ftravelogue%2F10567156

> それを祭祀用具とみているのに対し、大陸人は銅材が兵器用から発展したものであり、もし、列島人がその製法をしり、兵器として使用されると困ります。
> 島根半島にある「別所」は、大変へんぴな所^^!
>これまた小さく^^!<旅伏>の地名もあります。

★ 出雲王国の時代に、銅の精錬も製鉄技術も導入済みです。出雲王国が物部勢力に敗れた要因の一つとして、出雲では、鉄を武器に用いる発想が無く、農機具や漁具中心に使われていたからです。

  始皇帝陵の刀剣は、錆びる事無く、まるでクロームメッキを掛けた様に、其のまま物を切る事が出来ましたので、「隕鉄」を用いている、と思われます。つまり、物部の兵士達には、普通の鉄剣、武将には、隕鉄の鉄剣を持たせていた、と考えられます。

> 出雲市の市街地にも、<別所>の地名が残っています。
> 「こちらに移そうや」になったのでしょうね^^。先のDr.>から^^。
> ?半島の「別所」で銅器制作に関する“遺跡”イワレ・氏名(うじ)が残っていないか?
> ?市内の「別所」の近くの神社のイワレ。そして、その関係と思われる氏名(うじ)。

☆ 物部勢力の出雲侵攻後に、物部方の行政機関や寺を建てる為に、そこに住んでいた人々を強制的に移住させた移転先を「別所」と呼びます。唐川町では茶と柿の栽培が盛んです。
 唐川町は、ほとんどが荒木という姓です。これは、「韓竈神社」の岩倉の隙間が産道に成っている事から、古代出雲の女神「アラハバキ神」を基にしたのでは、と思われます。
   /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F4travel.jp%2Ftravelogue%2F10567156

☆ 1998年に、佐賀県の吉野ケ里遺跡で出土した銅鐸が、出雲で出土したと伝わる「伝出雲出土銅鐸(木幡家銅鐸)」と、同笵(どうはん、同じ鋳型で作られたもの)であることが、明らかになりました。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.matsue.shimane.jp%2Fjumin%2Fshisei%2Fkouhou%2Fshihou_matsue%2F1808%2Fbunkazai.htm
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Faomatsu123.blog.fc2.com%2Fblog-entry-158.html

★ 平さんが「鬼ノ城跡で雨乞いの人身御供の儀式が行われていた。」と推測する前提を進めると、岩屋の毘沙門堂の裏の禁足地に埋められているのは、銅鐸ではなく、出てくるのは「稚児の骨」です。


☆ 民俗学の手法は、地道なフィールドワーク『現地を廻りながら、様々な資料(聞き取りや伝聞含む)の積み重ね』の集大成であり、平さんの様に「机の前で地図を見ながら勝手な妄想を重ねる。」のは邪道の極りに他なりません。

☆ 民俗学では、資料に勝手な「創作」を加えるのは厳禁です。資料の捏造に当たり、検証から外れてしまいます。「創作」を一つでも加えようものなら、それは、「低俗な、覗き趣味の代物」に落ちぶれてしまいます。

☆ 民俗学では、丁寧な論理の積み重ねが基本であり、論理の飛躍した「暴論」や「勝手な思い込み」や「こじ付け」や「曲解」は許されません。
 平さんも鎌の刃を研ぐのは「稚児を殺める為」では無いでしょう。「〜と確信した」も勝手な思い込みと決め付けに、他なりません。

☆ 民俗学のルールを理解しない学生や若手研究者には、厳しい指導が行われます。民俗学の入門書すら読まず、地元の研究者方の話も聞かずに、独学で進めると、道を踏み外す事に成ります。

 岡山民俗学会  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fokayamaminzokugakkai.web.fc2.com%2F

 山陰・出雲の郷土出版のハーベスト出版  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tprint.co.jp%2Fharvest%2Findex.html



406史実探偵: 平 素人:2020/03/07(土) 01:41:09
コメントに感謝します。
青面金剛さまへのお返事です。

> Re: 民俗学では創作を資料に加えるのは厳禁です

 コメントありがとうございました。当方、「併進で行きましょう!!」とかいたからもう関わって下さらないものと思っていました。只今、こうしてコメントを下さって居るのは「卑弥呼・・」を掲げまして20年・2千通をこえると思いますが、キシ先生と先さまのたったふたりです。それを思うととてもありがたいことです。

わたしのやっている事は、『ここ掘れワンワン』のワンコです^^!。爺さま(専門家)ではありません。それの有る無しを決めるのは先さま方であり、学問の探求ではありません。南極大陸大隕石、東北地方巨大隕石、卑弥呼と大量の銅鐸銅剣の、これ等はそれに気づいて下されば中学生程度の学識でもわかること。なにしろ当のわたしがその程度の知識しかありませんから^^。

しかしながら、このような??“現学をはずれた” アウトローを世に伝えるには、先さまの仰るような轍を踏まなければならないのは今までの広報の中で充分に経験しています。それが成らないから苦労しています。・で今は存命中は無理と諦めました。.

 昨年の10月、台風19号を押して釜石にいったのは、自分の力の限界と思考・根気の衰えがあり、恩ある方々へのお礼をいって <区切り>をつけておきたかったからです。「総社市岩屋」の件は歴史的遺産を荒らしてはならない思いもあり、近年まで公表を避けてきましたが、どっちみち相手にしてくれないのだから「まっ、いいかぁ^^!」と公表に踏み切りました。そして、そのレポートを各機関に <送っておく>つもりでしたが、「卑弥呼云々に関しては」多々のコメントを下さっている先さまさえ懐柔できないのに、今まで無視されて来た機関や人達に送っても無駄かと^^? 思って未だに送付していません。・・今後のなりゆきで(^-^!)

 先さま情報の「総社市・秦(はた)」をみていましたよ^^。

<それから、先さまに誤解があるようです>
岩屋の金堂辺りは「禁足地=宗教的」ではなくて、遊歩道以外の「立ち入り禁止」の立て札がありました。
「金堂」の中はがらんどうで、粗末な台のうえに、これも申し訳ていどに小さな(2・30cm)毘沙門さまだけが置かれていたように記憶しています。鬼の城の近くに山王神社があるのですが、過疎から御本尊は足守の方へ移されているとかで、おそらく、金堂もそのようになっているのかも知れません?? そして、お寺の造りを調べたのですが、拝殿の両脇の柱の上は雲型であり、この金堂の写真では竜型になっています。

それから、わたしの言っているのは卑弥呼以前のことであり、その後の古墳代、神話代、出雲族・物部族の歴史をまったく識りません。先さまとは時代的なズレがあるように感じています。コメントありがとうございました。□

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407青面金剛:2020/03/07(土) 07:39:10
岩屋寺の住職さんに尋ねなさい
隠居探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 岩屋の金堂辺りは「禁足地=宗教的」ではなくて、遊歩道以外の「立ち入り禁止」の立て札がありました。
> 「金堂」の中はがらんどうに近く、粗末な台のうえに、これも申し訳ていどに小さな(2・30cm)毘沙門さまがお線香立てもなく置かれていたように記憶しています。
>過疎から御本尊は足守の方へ移されているとかで、

☆ 真言宗御室派 岩屋山 岩屋寺  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbitchu-iwayaji.com%2F
              所在地:〒701-1465 岡山県岡山市北区上土田480
               お電話でのお問い合わせ 電話番号:086−295−0466

※ 岩屋寺の住職さんは不在の時が多いので、事前に電話で予約してから行く事。
「岩屋寺の奥の院である、毘沙門堂の裏手にある小高い丘が、立ち入り禁止に成っているのは、どの様な由来からなのかを、お尋ねしたいのですが。」と尋ねると好いでしょう。

 奥坂穴観音保存会  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fokusakaanacanon.jimdofree.com%2F

 岩屋物語  /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkphodou.web.fc2.com%2Ftiraku%2Fblog-4%2Fpage40.html

> それから、わたしの言っているのは卑弥呼以前のことであり、その後の古墳代、神話代、出雲族・物部族の歴史をまったく識りません。

★ 「まったく識りません。」と言う人が、出雲の方々に失礼極まりない、決め付けた様な書き方を繰り返すのは、噴飯ものでしかなく、強い反発をくらうのは、当然の事です。

☆ 岩屋寺に関する事は、地元の郷土誌研究家が残した資料が、足守図書館や足守文庫に残されている、と思いますので、それすら調べる気が無いなら、このテーマは終わりとすべきです。


> そして、そのレポートを各機関に <送っておくつもり>でしたが、今まで無視されて来た機関や人達に送っても無駄かと^^? 思って未だに送付していません。・・今後のなりゆきで(^-^!)

★ 「人身御供」「生贄」という最も忌まわしいテーマを、多々綴った発掘話を、平さんは、自らの手を汚さず、人に丸投げしよう、との考えが、迷惑極まりない。

 『民俗学のルール』を幾つも破って書かれた平さんの駄文は、受け取った側が取り上げた場合に、その研究者までもが、『民俗学のルール』違反を指摘されてしまい、岡山民俗学会などの会員資格を取り消される恐れが生じますので、平さんが送付しても、相手側が取り上げる事は有りません。

 平さんの「悪しき駄文」は、平さんの人生の枠内で終わりとすべきです。




408史実探偵: 平 素人:2020/03/07(土) 17:42:43
広報活動30年2千通^^! その -1例^^!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-72.html

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409青面金剛:2020/03/08(日) 00:51:12
みやすみやま
隠居探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 2.岡山県埋蔵文化財センター様
> 4.総社市長 様 侍史、文化課文化財係様
> 5.岡山県岡山市足守岩屋寺御住職様
> 祖先は、「一山越えて、ふた山越えて、み山の前でぇ、狸さん、たぬきさん踊ろじゃないかぁ」 と、
> 毬付唄で、その埋め場所を教えてくれている。 □□岩屋 〇〇さま宛て(同封)の同意が頂ければ 『 スコッフ片手に、ツルハシかついで^^!』 の暴挙にうつります^-^!。

★ 岩屋寺の寺領なのに、住職さんの話も聞かずに、一方的な文書を送り付けた処で、返事が返って来なかったならば、「全くの見当違いです。」の意味です。

 神社のお宮の裏地は祭祀場であっても、寺の御堂の裏地は「お墓」が相場です。

☆ 『みやすみやま』と『岩倉山』なら童謡とピッタリで、美咲町と吉備中央町の町興しにも成るし、20通送るだけでも、岡山県埋蔵文化財センターの方々も、候補地の一つに加えて貰える、可能性は十分にある、と思いますが、温羅の製鉄の場に銅鐸などと、辻褄の合わない事を繰り返した所で、無しのつぶてです。

 今までに、発掘ボランティアの経験も無い人に、許可出す訳無いでしょう。



410史実探偵: 平 素人:2020/03/09(月) 22:13:58
中国人と日本人、贈り物の考え方の違い!!
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html

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411吾亞風:2020/03/11(水) 06:47:25
銅鐸で測量 - かごめかごめの真実とは…銅鏡反射を利用…
??巴形銅器も有鉤銅釧も銅鐸も共に測量器具でした!span>https://blog.goo.ne.jp/kagome1248/e/93049637f794c47a3d5ed29bab778dbc

銅鐸 剣 鏡 ・・これらは古代の測量機器でした
太古の昔から、我が国に精密な測量技術を持ち得ていた優秀なご先祖様達が居たという事実に、驚かされるばかりです。 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkagome1248%2Fe%2F464eaf43d7481391b26ae1af1edb72f7

かごめかごめ /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1781
亀は六芒星
「鶴と亀が統べった」
千家
「武者小路千家HP 官休庵」 『茶道用語』利休梅 ... 竹などで編んだ簡単な柵、垣根のようなもの)、その籬の亀甲模様または六芒星、五芒星、網干し、鳴子、川、その水辺の水鳥などなど境界線、結界を現すものがとても多いのです。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyamasakuran.seesaa.net%2Farchives%2F200703-1.html
籠目や亀甲型の六角形は魔除の力があるとも言われます。

その名も「赤染氏」 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2789
かごめかごめ都市伝説 鶴と亀はすべったの意味 M君
「かごめ」が籠目の意味だとすると、籠の中には龍がいる。龍は空を飛ぶから、籠の中の鳥と言っても良いだろう。鳥はとーりーいは鳥居日本を意味するという説もある。かごめかごめの鶴とカメ。亀甲紋と六芒星。鶴の折り紙から五芒星。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww7a.biglobe.ne.jp%2F%7Emkun%2Fnazo%2Fstar56.htm

亀甲 紋(キッコウ) ... 亀甲紋使用家は「見聞諸家紋」に、二階堂・小田・浅山・藤民部・宇津木・中村・湯浅とある。 ... その氏子総代である野田醤油の祖先は、それにあやかって亀甲に萬の寺を家紋とした。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhomepage2.nifty.com%2Fpapion%2Fpages%2Ffamilycrest%2Fkikkou.html

家紋の由来_鶴 紋
鶴紋. もともと鶴は霊鳥とされてめでたく、亀とともに長寿の印だった。 鶴の瑞祥にあやかって、鶴は昔から文様や紋章にさかんに用いられた。 ... 源氏系では柳沢、森、諏訪、室賀の諸氏が「鶴紋」を用いている。 降り鶴の丸. 光琳鶴. 三光琳鶴 ...
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.harimaya.com%2Fo_kamon1%2Fyurai%2Fa_yurai%2Fpack2%2Fturu.html
厳島神社の「平家納経」の表紙にも鶴がみられ「北野天満宮絵巻」にも同様の鶴が見られる。これらの紋はやがて家紋に転化していった。(対い鶴)

亀甲紋は出雲大社、厳島神社、香取神宮

安芸の厳島神社が「三つ盛亀甲に剣花菱」、

八角円堂
京都の最古の寺院建築である広隆寺は聖徳太子から秦氏に賜れた仏像を本尊に創建されましたが、境内に 桂宮院と言う、鎌倉時代の八角円堂があり、聖徳太子像が安置されています。 ... 八角円堂としては他に、興福寺北円堂(藤原不比等の一周忌に創建され、
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Forion.fken.ise.osaka-sandai.ac.jp%2Forion%2Fjap%2Fhstj%2Fnara%2Fhoryuji3.html

739年、僧行信らによって創立された別院上宮王院の仏殿。聖徳太子の供養塔でもあります。八角円堂で屋根に舎利塔である宝瓶を中心とした<露盤宝珠>を置いています。 組み物は簡素な三斗組、肘木は長く天平前期の特色がでています。
現状は鎌倉時代に斗を一段加えて高くし、軒の出も長くされています。
京都の最古の寺院建築である広隆寺は聖徳太子から秦氏に賜れた仏像を本尊に創建されましたが、境内に 桂宮院と言う、鎌倉時代の八角円堂があり、聖徳太子像が安置されています。
八角円堂としては他に、興福寺北円堂(藤原不比等の一周忌に創建され、1210年再建)、三聖寺愛染堂(室町時代建立、禅宗様。東福寺山内)などがあります。
六角円堂と言うのもありますが、その例は少なく、鹿苑寺地蔵堂(岐阜県美濃市。室町時代後期建立。小規模)、長光寺地蔵堂(愛知県、1510年)などがその例です。
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銅鏡は方位盤 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2905

太陽光の銅鏡反射を利用
「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号で」おくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高九三〇メートル、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあったという。
/shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmerulog.jp%2Fhal9000kamt%2FU4D6kyuyinJF

日本史のブラックホール・四国 /shimoeda/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F2660



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