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明主様
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ご在世中
ゲラちゃんの家は古くから信仰しているので、古くからのみ教えがある。
当時の紙で、当時の活字から浮かび上がる明主様のエネルギッシュさが
魅力で、今でも休みの日には開いている。
なんちゅうか躍動感がいいんだよな。
それを読んでいると、明主様がいかに信仰的に自由な考えを持っていたかが
わかる。
そして斬新。
つねに、最も新しく、誰もやっていないことをやっていく様子が伝わってくる。
政治、国際情勢、文化、鉱山、恋愛、男女の営み……内容も多岐にわたるしな。
ここで語られている明主様像とは、かなり違っていると感じだ。、
誰と会ったとか、どのご神体が一番とか、そんなチマチマしたことにこだわる
方ではなかったと思うぜ。
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(無題)
>明主様がいかに信仰的に自由な考えを持っていたかがわかる。
>そして斬新。
>つねに、最も新しく、誰もやっていないことをやっていく様子
宗教臭くない、ってことだね。
古い業界の人だけど、その業界らしくない新しさを持っている、って感じか。
当時信者でない一般の人から見ると、
ライブドア時代のホリエモンとか、
大阪市長時代の橋下さん、
みたいなイメージだったのかもしれないね。
まあ情報革命前だから、知名度の比較は難しいけど。
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大きさが
その二人と比べるのはさすがに失礼かなという気がしないでもない。
二人とも立派な人だと思うし、頭も切れるし、意志力がすごいし、
エネルギッシュだと思う。
ただ、その二人と比べると、大きさが違う気がする。
お二人とも大きいんだけど、それよりはるかに大きい、
そんな感じかなぁ。
まぁ、気取らないところは同じかもな。
エラそうに見せないというか。
あと繊細なところも同じかもな。
橋下さんは選挙応援しか見たことがないのでわからないが、
ホリエモンは意外に繊細な人という印象だった。
明主様も繊細なところはあるみたいだし。
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気がつけば
マンデーブルーが消えている。
学校時代から日曜日の夜から憂鬱だった。
とくに何か心配事があるわけでもないのに、憂鬱になったものだ。
それが、ここ1年ほどになるかな、なくなった。
これも天国にいるお陰だろうか。
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(無題)
学生時代は・・・、アマリに大学行かな過ぎて、
マンデーブルーも何もなかったな(苦笑)
今はコロナでマスクブルーの人結構多いと思うし、
これから暑くなるからそういう人更に多くなると思うけど、
職場なりでの実質マスク強制がない境遇にあることには、
本当に感謝しかない。
塞翁が馬。
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マスクピンク
ゲラちゃんの職場、100%マスクしてるがな。
冬はいいけど、夏は辛いだろうなぁ。
マスクでいいことが一つある。
ブスが美人に見える。 ← みんな言ってる。
逆境のなかでも、福を見いだす。
前向きな職場だろう。
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明主様との共感
「分院よさらばのつづき」から続きます
「何もしないで」と言われたので先祖の慰霊以外はやりません。
平成27年の立春際にバス参拝を計画していたら2日前になり都合が悪くなったのでキャンセルし、
「バス代はこのあと申し込まれる方に私の代わりに参拝させてあげて下さい」と申し出たにも関らず、
その後申し込まれる方からは普通に集金しこちらにお金は還ってきませんでした。
聞くところ、「サブチーフが還すなと言われますので」と。
「まあお金は払っているのだから霊は参拝しているということになるな」と思っていたら、
聖地の動画、画像からは光を頂けていましたが、その後、心に想うだけで光を頂けるようになり、
それ以後参拝することは無くなりました。※相手の背後には邪神がいるのではなく神様がいます。
その後そのサブチーフは昇格し他県のチーフとして赴任して行かれました。
それからしばらくして台風が普通はスライスするのがフックしてその県に向かって行ったのは記憶に新しいところです。
一昨日、世界メシア教の月次祭に行ってきました。東方之光に籍を置く私は知り合いに誘われて行くというスタイルです。
新たな御神業の段階を感じるかのような、終始暖かい光に満ち溢れるものを感じました。
同時に自分の中では、聖地を必要としない教団の新たな個の完成に向かうスタイルについて確信が生まれました。
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気が向いたら
気が向いたらでいいんだけど、
そもそもサブロクって、なぜ、東さんに所属するようになったのけ?
かなり相容れなそうな気がしていたんだが、サブロクと東さんって。
世界メシア教って、昨年末のご生誕祭のときから、段違いに力強くなった。
これはゲラちゃんが感じだけで、そのことを参拝仲間に言ったら、ピンときて
なかったみたい。
年が明けて、立春祭。
今度は参拝仲間のほうが言った。
「なんかスゲ〜〜力強い感じがした。すごかった」
ゲラちゃんは、ご生誕祭のときは無視したくせにと心のなかで思ったが、
口には出さず、
「自分もそう思った」
と同調した。
明らかに力強くなってると思うよ。
地に脚がついているというが、しっかり根を張り巡らしているというか、
とにかくビクともしない力強さなんだよな。
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(無題)
力強い感じだったり、
温かい感じだったり。
役割に応じた感じ方なのかも。
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ちょうどいい
洋ラン(シンビジウム)の切り花をいただいて、花瓶に入れて目の前においてある。
そこには数百本の洋ラン(シンビジウム)が咲き乱れているそうで、そのうちの10本ほどをもらってきた。
テーブルの上に、一つの花が7〜8センチにもなろうというランが40以上開いているけれど、ちょっとここには大きすぎる。
こんな大きなのは、ホテルとか、何かのショーに使われるのだろうけれど・・・。
大きなタイが大味という、程。
程ほどがいいと思う。
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(無題)
シンピジウムとは東南アジアから日本にかけて自生するのが原産のようですね。
それに手を加えて洋ランとなった。
>テーブルの上に、一つの花が7〜8センチにもなろうというランが40以上開いているけれど、ちょっとここには大きすぎる。
香りが強そうですね。
食事の時など、その香りがちょっと邪魔になるくらいでしょうね。
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馥郁
香り無し。胡蝶蘭も香り無いです。
月下美人は香りますよ。その代わり一夜だけで、夜10時〜翌朝の3、4時ごろだけは、それは見事な花を開かせ、香ります。その匂いも好きとか嫌いとかに分かれる。
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(無題)
>香り無し。
これは意外でした。
黄色いシンピジウムなどは香りが強いという印象があったもので。
まあ、交配具合や個体差によって違うのかもしれませんね。
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匂いの強いラン
匂いの強いランというので調べてみました。キンギアナムというのがある・・・。
あれかということで、実は我が家にもあります。
これはトイレの消臭剤のような、ツンと来る匂いで、花もそれほど長く持たないような感じです。
これらの花は妻担当でやってます。
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明主様との共感?
ゲラさん、自分が好きな教団と自分に必要な教団は違いますが、最近はその区別がつきません。
聖地を持たない世界メシア教が如何にすれば個の完成を図れるかを提案する前に、聖地について考えをまとめてみたいと思います。
そもそも聖地とは何か。会社や仕事はそこに従事する人が幸せになるための道具であって、
聖地もその道具としての役割とすれば「ここに来ればいいんです」というお言葉から「触れて救われる場所」である筈。
川合輝明氏は43歳ごろ教団の代表となりその後一元化を成し遂げ、熱海完成後の教団浄化により、
余人を以って代えがたい存在から一転非難の中心人物となるが、教団再建派は指導者にお願いするも固辞される。
再三のお願いに出された条件は、「自分のやりたいようにやるけどいいか?もう宗教の時代は終わった。明主様を救世主として世にお出ししたい。
この一点に自分のすべてを賭ける」として療院の開設を始めとして今日のMOA・東方之光の基礎を築かれた。
特に一元化後の様々な制約のある中、信仰活動を中心した在り方では踏み込めなかった「個の救いと完成」というテーマであって、
体的には療院建設、内的には聖地の研修に力を入れた。
聖地では、箱根は霊的=想念を明主様に通わすことで明主様がどう応えてくれるのか。つきつめれば「内流」が頂けるかどうかが研修の中心テーマとされた。
熱海は形に現れた美というものを中心に明主様と共感が得られるようにというテーマだったと受け止めている。
特に取り上げられていたのは渋井先生に対する明主様のお言葉「非常に頭のいい人で、私が言った通りに考え、私の言ったようにやっている」
という小川栄太郎先生に言われたお言葉である。
明主様と同じように分かることが出来れば素晴らしいと思うが、応えて頂けるかどうかが大事になってくる。
ある時「明主様は景観台(水晶殿)からの眺めは自然美の極致だと言っておられるが、あなた方は本当にそう思えているのか」と幹部の先生方に指導しておられた。
私はその内流も自然美の極致の両方とも明主様が応えて頂けたが、他に共感できる人のあまりの少なさに課題意識として持つようになった。
平成15年に引退される時の川合会長の満ち足りた感じの表情から、私は今後どこに目線を向けなければならないかを考えていた。
「長げ〜よ!」と言われるので一旦切ります。
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自分との対話の深さと浅さ
死刑囚の成長例
『一人は哲学が好きで「本を読んで感動しても、人と話せないことがつらい」と話す。
別の一人は自身を灯台に例え「私の歩んだ道を歩まないよう示すことが、私の生きる道だ」と語る。』
聖イグナチオ教会協力司祭のスペイン人神父、
ハビエル・ガラルダさんの記事(3/17 47NEWS)より
『「死刑囚には考える時間があり、『深いところの自分』と仲良く話すからだ」。
ガラルダさんはこれを「充実した沈黙」と表現する。
ただ、「浅いところの自分」としか話せない死刑囚は罪と向き合えず、
境遇に不満を述べるのだそうだ。』
自分との対話の深さ浅さ、誰にでも当てはまりそうです。
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変な話
白ぽっちさんの写真を見て、あれ〜!?っと思った。このシャツ私のと同じ柄じゃない・・・。
だよねと妻に聞いた。そうそうとクロゼットにまだあるかもしれないと探してみたけれど、既になかった。
変な話、先ほど娘がカラスを拾ってきた。何かに襲われたのか、尻尾の羽がないので飛べない。それを拾ってきたということ。
少し前の話、この頃街中では車の品評会というわけでもないけれど、とある交差点で、ドリフトを楽しむ会が大きくなってきているという。そんな中、街中を猛スピードで走るというのもあって、先日のそれは、ランボルギーニが乗用車と事故を起こした。相手は死亡。ランボルギーニも大破ながら、運転手は未成年で、無免許。無傷。事故の責任のことなど、何もないって顔だったらしい。
そんな世の中。
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2題
1題 個人が信仰を選択できるようになったのは最近のことのようだ。
カソリック、プロテスタントといっても、領主や王が高い免罪符を購入できれば、
カソリック。そうでない場合は、プロテスタント。領民は、領主や王が決めた信
仰をする。現在でも、この様相にさほど変化はないらしい。
日本でも似たようなもので、仏教もキリスト教も為政者への布教から入ってい
る。布教するには、為政者の許可が必要だったしな。
2題 その話は外国の例ではないかな。ゲラちゃんもユーチューブだったかで、執行
経験のある刑務官の話を見たか、聞いた記憶がある。
ほとんどの死刑囚は、自分が助かることしか考えていない。どうすれば執行を
延ばせるか、回避できるか、それだけだって。被害者への謝罪も、この目的でしか
行われていない。
ごくごくわずかな例外として、教誨師の話で、執行後は救われることを信じる
ようになった死刑囚もいて、その人たちは心からの謝罪もあるようだ。
謝罪というのは、救われて初めて湧きおこる精神行動なんだろうなと思う。
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(無題)
>このシャツ私のと同じ柄じゃない・・・。
相当前の、父親からのアメリカ出張お土産、
だったかもしれません。であれば同じ柄、有り得ますね(笑)
>高い免罪符を購入できれば、カソリック。
そうでない場合は、プロテスタント
今日読んだ歴史の本によると、宗教改革が成功したのは
ドイツで『活版印刷』技術が発明されたことが大きいとの事。
発明以前には、教会の腐敗や偽善が情報として広まらなかったために改革の支持も広まらなかったが、
活版印刷で広く知らしめることが出来たため、
支持が広まった、という話。
情報革命がキーポイント。
救世教や秀明、その他の宗教なども、次の情報革命(インターネット)によって
内部の腐敗・不正が相当知られることになった、のと同じだね。
>その話は外国の例ではないかな。
これは東京拘置所の話みたい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/27e1027bd323464250a3877fedb7c592d915917d
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識字率
印刷は大きいよな。
ただ一般の民衆が、どのくらいの数、文字が読めたかとなると、
やはり支配層。
日本みたいに寺子屋もないし。
ちなみにマフィアはカソリック。 金あるんだろうな。
宗教側も、どうしてもターゲットは支配層になったんだろうな。
個人の信仰となると、今でも心もとない。
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(無題)
出張お土産はメイド イン C でしょう。
先日、妻が買い物に行った先で、電話をかけてきました。
あずきを買いたいけれど、日本産の慣行農業のものか、中国産のオーガニックのものがあるけれど、どちらを買おうか?
結局買わずに帰ってきました。
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全体とひな型
聖地を管理していても願いに沿わなければ、指導する人もいない状態では聖地を以って個の完成は難しいと考えられる。
しかし分かる人は分かる。つまりいずれ聖地の方で管理者を選ぶことになると思います。
私は聖地と自分の関係が理解できるようになると、いづのめや主之光との交流が始まった。
タテの東方之光の資質を以って、ヨコのいづのめと交流し始めてからは、自分の行く先や周りにいろいろな変化が起きてきた。
メシヤとなられてからは明主様時代には見えなかったことも理解できるようになった筈です。
そのメシヤを求めていく自分にも理解できただけは当然切り捨てなければならない部分が出てきます。
先のいづのめとの交流で、「想念の実践の型」を事例で確認し、私自身が想念で実践できる資質を引き出せたということは、
それまでの東方之光でもいづのめでも理解できない結ばれた一つの世界にいるからです。そうなるとそこには今までの必要のないものが出てきます。
聖地参拝をしなくなってからしばらくすると「聖書を学びませんか?」とキリスト教との付き合いがはじまり、
自分に必要なことなのだろうという気持ちはあっても、あまりにも違いすぎるため困惑しながらも、
特に去年からリモートでやる1分前に「お祈り」をしてから臨むようにしたところ、
「天におります私たちの父よ、お名前が神聖なものとされますように〜」と始めると、神からの光を感得できるようになって来た。
そしてリモートが始まり「まずお祈りをしてから始めましょう」ということでお祈りが始まるのだが、
そこからは光は感じません。しかし私には必要ないが、その方々には必要なものだと思います。
そのように人類の3分の1を擁するキリスト教。地球的、全体的レベルな視点で見ることを学ぶにはまずその世界観を理解しようとします。
言語は違っても地球上ほとんどの国で受け入れられている聖書です。
また世界から中心に向かって浸透するのとは対極の、「型の拡大」として中心から全体に拡大することを願う我々としては、
「想念」でエホバに繋がれば、カトリックの偶像崇拝や、偶像を通さず祈りの形式を重要視するプロテスタントの両者を結ぶことが出来るはず。
結べるとは救いを示すことになる。つまり聖書の学びはキリスト教というよりも、自分自身の完成の手段と出来るはずです。
世界メシア教に所属するならば分科会を作り、その分科会同士の交流を図り全体を見ていくという学びを積み上げれば、
結果として見えてくるものがあると思います。
自分がいいなと感じるものでは無く、浄霊を頂き楽になればその浄霊は自分にとって必要なものという位置づけになる。
同じように光を感得出来るものは必要になるものということです。
しかし光を感じないものは自分には必要ないものであって、間違っているというものではありません。
私はそのようにしてどう進むべきか判断し、自分なりに極めてみたいと思っています。
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(無題)
>出張お土産はメイド イン C でしょう。
そうかも(苦笑)
>浄霊を頂き楽になればその浄霊は自分にとって必要なものという位置づけになる。
同じように光を感得出来るものは必要になるものということです。
方法論と結果論、の御教えが浮かびました。
僕は現在御教え拝読とはほぼ無縁の生活を送っていますが、
秀明で100編の御教えは数10回は繰り返し拝読して相当覚えているので、
こういうようなキッカケで結構頭に浮かんできます。
今となるとその拝読した時期は、まさに自分に必要だったんだと思っています。
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ボンクラ
教祖、明主様の聖言。
私の書いたものは、文字ができて例がないほど難しい。(昭和28年)
ボンクラは半分、もっとボンクラなら3分の1位しかわからない。(昭和23年)
いずれも趣旨。
文字ができて最も難しいと明主様がおっしゃったみ教え(御神書)を、理解し、会得した
つもりの人が、なんと多いこと。
「言葉の奥を読め」(趣旨)
ともおっしゃっている。
ゲラちゃん、「ボンクラ」って単語、妙に気に入ってしまったんだよな。
おまけ……。
「教え」では、人を救うことはできない ともおっしゃっている。
「み教え」なんて言い出したに、誰
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(無題)
御教えに限らないけど、
後々そうだったのか!と
理解が深まることは結構有るね。
>ボンクラ
何かの略なのかね〜。
語呂はいいかも(笑)
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御神書
明主様は、「神があることをわかるだけでいい」
「ああしろ、こうしろは必要ない」とおっしゃっている。
つまり、教えは必要ないということだ。
必要のないことを書くはずもないわけで、み教えなんてありえないはず。
ゲラちゃんが子どものころは、「御神書」だった。
明主様は、神様のことを、神様の言葉を記したってことじゃないのかな。
神様のことといっても、あの神様がどうとか、この神様、あの神様とかでもなく、
「主神様の愛」についてしたためたんだと思う。
あえて「教え」というなら、「主神様の愛」を教えてくださっただけで、
人間にああしろ、こうしろと教えたものではない。
そう考えると、脳内はかなりスッキリする。
ゲラちゃんも気づかないで「み教え」とか使っていたけど、いつから御神書が
み教えに変ったんだろうって、思い出そうとしているがわからない。
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クローズ
今週の恥ずかしい話。
ゲラちゃんは英語が苦手だ。
とはいえ年をとってくると、選べるほど仕事がない。
しかたなく引き受けたのだが、こんな英文に出合った。
They are close.
引きこもりの話かぁと思って読み進めていたのだが、
メンバーの一人が気づいた。
彼らは、仲がいい。
という意味だとわかった。
一つの単語にいろんな意味がある。
クローズ=閉鎖
と疑いもなく思い込んでいたSimple brainが、恥ずかしかった。
言葉って、本当に奥が深いなぁ。
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(無題)
>メンバーの一人が気づいた。
組織の存在が許されている理由そのものだと思っている。
一人で気付く・悟るなんてまず無理。
交流があってこそ、その振り返りに意義が出る。
本質的に一人で喜怒哀楽、ってあるのかな。
一人=無、じゃないかと思っている。
我思うゆえに我有り、だけど、
我のみ思うゆえに我以外なにもなし、じゃないかと。
だからこそ、執着を取りたい場合には一人になるのが有効なんじゃないかな〜。
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執着は、他人の価値!?
他人の価値観が入ると、自分に与えられた本心の思いが見えなくなるという意味?
この切り口は、新しいな。
本心からの思いってのは、ゲラちゃんに言わせると、神から与えられた思いなんだが。
たしかに他人の、社会の価値観に触れると、損得もあって、そっちに引きずられるって
のはあるな。
物事は、相反するものが同時進行することが多いが、
人との関りを絶つと生きていられないってのもある。
結構知られた話が、たしかフリードリッヒ1世じゃなかったかな。
生まれたばかりの赤ん坊を集めて、人との関りを可能な限り絶って育てた。
衣食住、最高の環境で。
3歳まで生きた赤ん坊はいなかったという。
ゲラちゃんも人が嫌いなほうなので、1人でできる仕事をしてきた。その結果、
社会的な地位とか、見栄とかはなくなった。
でも社会とのズレが大きくなったような気がして、チームでやる仕事も引き受ける
ようにしている。
執着がなければ取る必要もなくなるけど、執着もないと生きられない。
感情も、喜怒哀楽も、執着もあったほうがいい。
あって出さないのがいい。
明主様の誓言にはこう記述されているけど、これは神様に対してのこと。
人間に対しては、あって出し方をコントロールするのがベストだと考えている。
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枕の冊子
源氏物語に比べて、どうしても興味がわかなかったのが、枕草子だ。
理知的すぎて、破綻がなく、温もりを感じなかったせいであろう。
数年前、たしかラヂオだったと思うが、こんな話を聞いた。
源氏も枕も、京都で書かれたもの。
作者は京ことばのイントネーションで書きすすめたはず。
だから、京ことばのイントネーションで読まないと、本当の味わいがわからない。
ゲラちゃん、早速、京ことばのイントネーションで読んでみた。
はるはあけぼの
以来、枕草子が好きになった。
御神書を含めた聖言にも言えるのではないだろうか。
明主様は江戸っ子育ち。
思想の根底には、江戸っ子魂が流れていると思う。
クドクド、きらい。 ダサいの、きらい。 あっさりさっぱり、粋に洒脱に。
江戸っ子になったつもりで拝読すると、また異なった視点が見えてくる。
http://
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キュウリの実験
浄霊と想念でガンだという実験結果は、あまりにもあからさまに違いが出ました。
それで、今回、浄霊と何もしないと、ガンだと想念でという三つでやることにしました。
いろいろ学ぶことが多いです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/9205.hirunosekai/0001207.jpg
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(無題)
>他人の価値観が入ると、自分に与えられた本心の思いが見えなくなる
ここまで明確な考え方ではなく、
一人の状態とは、マイナス(執着)を減らせるものではあるが、
プラス(成長)を増やせるものではない、
という意味のつもりだった。
言われて逆になるほど、と思ったよ(笑)
>本心からの思いってのは、ゲラちゃんに言わせると、神から与えられた思い
この辺が、いつも自分との違いを認識させてもらえてありがたい。
実存主義とまでは言わないけど、自分は神様の存在を意識せずに考えることがあるな、と。
これが分かる機会をもらえたのも、自己開示したからこそだと思う。
>人間に対しては、あって出し方をコントロールするのがベスト
そう思うし、さらに俺はもうちょっと積極的に我を出して、
結果から学んでもいいと思っているよ。
無意味なぶつかりは不要だけど、
必要なぶつかりを避けていると成長しないしね。
紫式部の姓は藤原、らしいね。一族の人だったのかな。
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(無題)
藤原氏全盛の時代になぜ政敵(清和源氏ではない)の源氏が活躍する物語が出せたか、という問いが有る。
有る説によれば、これは葬った源氏への鎮魂の意味らしい。
現実の世界では葬ったが、せめて架空の世界で活躍させることで鎮魂し、
怨霊化することを避ける意味合いがあったという説。
俺は結構納得中〜。
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鎮魂かぁ
鎮魂説は、初めて聞いたので、まだ何ともいえないんだが。
単に、皇籍から臣下に下った氏として、源を使っただけなんじゃないのかなぁ。
源平藤橘で、平氏は天皇から3代目、源氏は2代目だからより天皇に近いので
用いたと。
むしろ藤原氏内部の鎮魂ってのがあるんじゃないかなぁ。
定子は道長の兄の娘だし、その兄が先に死んで一族も没落した。
一条天皇は定子が忘れらず、道長の娘の彰子に興味がない。
そこで一条天皇を振り向かせるために、式部を雇って書かせた説。
源氏への鎮魂だとしたら、光の末路が哀れすぎるし、それも自業自得的に
報復されてるんだよな。
鎮魂にしては、やぶ蛇になるんじゃないかと。
式部の亭主は浮気者で、式部の下にはあまり来なかった。
その恨みで、モテ男の末路を哀れにしたという説もあったりして……。
よーわからんな。
それにしても、世界最古の女流文学。女が文字を書く国は珍しいそうだ。
サッホーがいるが、彼女は奴隷だったし、結局処刑されたんじゃなかったかな。
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神がいない理由
神が出てこない理由は、明らか。
今までのどの宗教を、神がいることを教えるものはなかったからだ。
これは明主様の聖言によるものだが、たしかにないんだよな。
神の名は他の宗教でも出て来るが、神がいることを知らせる宗教はなかった。
明主様信仰でも例外ではなく、神がいることを信じる信者は少なかった。
だからこそ、忌まわしい問題を起した。
尾行・盗聴・盗撮もそうだが、神がいると信じて入ればそんなことはしない。
神様が人間にそんなことをさせるはずはないと思うからな。
ないって思うのも当たり前、
ただゲラちゃんたち世界メシア教は、神と出合うための宗教が看板なんだ。
自分のすべて、この世のすべては神様のものだと自然に思えているよ。
本心もな。
これからは、もっともっと神と出合う体験が話せると思う。
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聖地の公用語
ゲラちゃんが高校生のころには、すでに言われていた。
「聖地の公用語は、関西弁」
教団職員の多くが関西人で、飛び交う言葉も関西弁だというのだ。
ゲラちゃんの完全なる推測なんだが、
江戸っ子のノリで書いた誓言が、関西人のノリで解釈されるようになった。
この関西のノリで解釈された誓言が、あたかも明主様のみ心であるかのように
語られ、江戸っ子のノリが消えていった。
のではないかと。
知り合いの男性は、寅さんの柴又の出身だ。
団子屋のモデルとされる店のおばちゃんとも知り合いだ。
そのおばちゃんの話題が出ると、知り合いはすかさず言った。
「あのババア、ろくなもんじゃねぇ」
よくよく話を聞いてみると、知り合いはそのおばちゃんに可愛がられて育ち、
むしろ好感を持っていることがわかった。
好きとか、世話になったという言葉は一言も出なかったが、表情から読み取れた。
江戸っ子のノリって、こういうものじゃないかなと思う。
明主様は、人を叱るとき、周囲に聞こえるような大声で怒鳴っていた。
褒めるときは、本人にしか聞こえないほどの小声だったそうだ。
これも江戸っ子のノリで、読み取らないと間違えた解釈になってしまうだろう。
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(無題)
>鎮魂にしては、やぶ蛇
内容によっては、そうかもね。
内容によっては、鎮魂のうちに入るかもしれないから、
まあよーわからんな(笑)
>神の名は他の宗教でも出て来るが、神がいることを知らせる宗教はなかった。
奇跡などで実感させる、ようなことかな。
個人単位で神の存在を知る人はいくらでもいるよね。
組織的に再現性高く、知らせる宗教がなかった、ということならそんな感じはする。
ゲラちゃんは言葉好きだなぁ。
昨日韓国ドラマブログ管理人の文筆業の人とやりとりしたけど、
なんか文章がゲラちゃんに似ている感じがした。
ドラマの中の物凄い細かいところに多数気付ける人だった。
もみ上げの長さの違いとか・・・(連続シーンだが撮影は間が空いている、ということ)
仕事上気付きが大事なんだろうなぁ。
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(無題)
>今回、浄霊と何もしないと、ガンだと想念でという三つでやることにしました。
とても興味深い実験だと思います。
ちなみにキュウリは自然農法によるものだったりするのでしょうか。
また、ある程度、ビンに通気性を持たせたり、切らずに一本そのままだったりすると、どうなるのかなぁと少し気になっています。
あくまでも想像ですが、ビンに通気性を持たせた場合、浄霊をしたものが一番早くカラカラに乾くようにも思います。
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その神は、
人間が作った神ではないかな。
明主様がおっしゃる神は、人間を作った神のこと。
人間を作った神を信じさせる宗教は、キリスト教くらいじゃないかな。
その意味で、明主様は
「本教と一番近いのはキリスト教」
とおっしゃったのだと思う。
一般に神を信じるという人でも、
自分に都合がいいことがあると、神を信じ、
都合がわるいことがあると、神はいないとか、神に見捨てられたとか言い出す。
神は、いいことをしたから愛す、悪いことをしたから見捨てるということはない。
常に愛する。
いい人も悪い人も愛する。
それを信じる人が、神を信じる人である。
神を信じる人しか、神は救うことはできない。
ということのようだ。
http://
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ラブレターfrom
もしかしたら、ものすごく失礼な表現かもしれないのだが。
明主様は、主神様からのラブレターを伝えてくださった方。
教主様は、主神様からのラブレターへの返事のしかたを伝えてくださっている方。
ざっくりとしたイメージではある。
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ものすごい雨
昨夜の地震に続いて、今日は強風雨。
傘はおちょこになり、立っていられないほど。
にもかかわらず、けっこうな人出。
それなのに、店舗はシャッターが目立つ。
お客さん、逃がしちゃうよ〜〜〜。
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(無題)
明日は曇りでその後1週間くらいは晴れるのかな、関東は。
雨風でコロナ、というかウイルスはどのていどダメージを受けるものなのかな〜。
そもそも非常に壊れやすいものだと認識しているけど。
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レオパレス救済!?
レオパレスを救済しようとするファンドが現れた。
いわゆるハゲタカ。
救済条件はかなりきびしく、ほとんど身売り。
ファンド側も一か八かの大勝負だけに、非難することはできない。
救済とは、全生命を委ねることかもしれないなと改めて感じた。
それでも本当に生き返ればいいが、その保証はどこにもない。
どうせ全人生を失うなら、可能なかぎり生き返れるところに賭けたい。
明主様は、本当に人を救うことができるのは、メシアだけだと仰った……。
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世界メシア教
一つの波紋掲示板のほうは「反世界メシア教」一色になって来た様相です。
反論・擁護するわけではないが、感じていることをそのまま書いてみます。
●浄霊よりも想念=人や組織は内側から崩れていくもので外からの圧力は切っ掛けに過ぎません。
教育も引き出す教育と云って、如何に内にあるその人のものを引き出せるかに掛かっている。
その作用を助けるための外力であり、自らの良能力を引き出すための外からの力として浄霊がある。
しかし常に人に頼らざるを得ないし、自己浄霊にしても外からの力として自分の手をかざさなければならない。
例えばこれを外の力に頼らずに内の力を引き出そうとすれば「想念」によるということになる。
これまで私は「想念による浄霊」を発表してきましたが、
方法についてはメシア教側でお考えになると思うし、ぜひ参考にさせてもらいたい。
●聖地は箱根・熱海・京都と3か所同時に想い浮かべることでより強い光を感得でき、それは力となります。
それは想念以外には到達できない世界で、浄霊や聖地や偶像などの外からの力として、また形あるものにこだわるものではありません。
明主様は「一度来れば想い出すことによって霊はこっちに来るから浄まる」と言われている。
それをどう実感し自らの信仰として確立していかれるか楽しみにしています。
●1914年以後の地上での悪魔サタンの経綸から逃れるためには、「感謝」の想いが主神に届くしかないということだと思います。
これは御教えを読んでも聖書を読んでも、共有できる想念の在り方です。
また共有できるばかりではなく、地球レベルの全体的な世界観とひな型観の価値は、相呼応することで力となり、善の経綸が進んでいくということは予想できます。
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祈りと想念
我ら世界メシア教が一般に、「想念」というときは、神にすべてをおゆだねすること
を指すときが多い。
すべてをゆだねた瞬間、心がぱっと明るくなる。
光が差し込んだような気持ちという感じだ。
想念の浄霊と祈りの区分けがよくわからんのだが、
常々考えていたのは、急激な浄化が起こったときのことだ。
突然、浄霊は朝夕の3分ずつに変えた。
その結果、日常生活は以前とまったく変わらない。
それでも、急激な過激な浄化のことが気になっていた。
先日、歯が痛み出した。
肩もカチカチだ。 このところ仕事が忙しすぎて、PCとにらめっこが長時間。
そのせいだと思う。
温まると、痛みは耐えられないほどとなって、全身を襲う。
肩を浄霊しようと思ったが、日ごろ、「二の問題」と公言しているのに、
自分のときは例外というのも言行不一致になり、自分が許せない。
心のなかで祈った。
「メシアの御神様」と繰り返し言い、「この激痛もすべておゆだねします」
(ゲラちゃんは、何でも神様に返上するのだ!)
ほんの10秒ほどで、痛みが消えていくのがわかった。
口の中に苦みのある液体が少し滲み出るのは、浄霊と同じだ。
浄霊より、即座に痛みが消えていったのがありがたい。
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(無題)
ゲラさんすごい!
セオリー通りなのですね。今度自分もやってみようと思います。
他の方々も経験されたなら投稿してください。
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(無題)
好きなことをしていると学びも多い。
韓国ドラマから最近学んだこと。
相手に純粋に夢中になっている時は、他の人に興味が無くなる。
そうでもない時は、他の人に目移りし、
新たに好きになったり嫌いになったり、愚痴をこぼしたり。
仮説ですが、
純粋に自分の教団が好きで信仰していたら、
他教団にアマリ興味が向かないんじゃないかと。
どこかに義務感、しなければいけない感の存在する程度に応じて、
他教団を批判することに繋がる、ような気がしています。
批判そのものを悪とは思いませんが、
批判に繋がる源として、
意識的・無意識的に抑圧されている人が、
抑圧の程度に応じて、
意識的・無意識的に批判してしまうんじゃないかな〜。
自分もよく批判してたな(汗)
これも一種の鏡合わせ、なのかも。
抑圧の全く無い人が、批判する光景が全く浮かばないんだよな〜。
楽しく好きなことに集中してそう。
この投稿も、批判する人を批判しているのかも。
まあそれはそれで、その程度に抑圧されているのかもしれないな〜。
好きなことに集中できてたら、書かないだろうし。
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3年前のこの日
3年前というと、庭山さんから熱海に参拝に行くとメッセージがが入ってた時で、私は神奈川にいた。熱海の知り合いに連絡したら、熱海は、そんな雰囲気じゃあないということだった。
その後22日は新宿に伺うことができて、ひょっとしたらT原君に会えるのかと期待もしてたら、すでに熱海に移ったと聞かされた。
その年の東京は大雪。タクシーで新宿まで往復した。こんな経験は初めてで、車の中でずっと妻から浄霊を頂いていた。
まさかT原君が離脱を選ぶとは思ってもみなかったのだけれど、イヅノメに期待しているわけでもないことながら、不思議に思った。
渡辺氏が理事長だった頃か、そろそろ定年退職でという時に、退職と言うのをキャンセルした。
それは当時大きな出来事で、私たちが見ていたイヅノメの復活の道は断たれた感じを受けた。
その頃の動きについて詳しくはない。ただ、その後に辞職を選んだ職員は少なからずいたように聞いているけれど、勘違いなのかもしれない。
それ以前、私は波紋の方で、散々分裂前のイヅノメを詰っていた。もっと前には、庭山さんに将来のイヅノメの分裂は教主レベルで起きるだろうと書いた。
という流れで終わっていくのか、浄化を過ぎての和合なのかは謎・・・なのかもしれない。
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T原君
彼と初めて会ったのは、おそらく専従試験の時で、私はその頃記憶ができない日々を送っていた。
アメリカで英語学校に通うことを決めた11月、突然にその浄化が始まった。とにかくひどい頭痛で、学校に通うどころではなくなって、英語学校を辞めた。
もっとも翌年3月頃には日本に戻り、大学に復学した。
ただ頭痛がひどく、勉強などできる状況ではなかった。
夏、大仁農場に行ってた。その頃に専従試験の面接などあったようだ。
奉仕の時、ずっと頭が痛くなかった。
奉仕者の研修に出なくてはならないということで、熱海に連れて行ってもらって、石崎先生の講義を受けた。しかし、まるでぐっすり眠っていた。
9月になって帰宅、学校が始まる。ものすごい頭痛が再開で勉強どころでなく、地元の布教所で浄霊を頂いていた。
専従試験で熱海に行った。その時初めてT原君に会ったけれど、彼との記憶はその時にはなく、3月にあった全国信徒大会でダビンチのどうのこうのの集会があって、それが終わった時に、たまたま彼に会って、今の集会どう思いました?と聞かれ、酷い内容だったと告げると、嗚呼よかった、自分もそう思いました、ということだった。それから学院に入学してから、彼から学んだことは多大だった。
実際彼の能力はものすごく、それは布教発展でとんでもない結果を見せた。
研修生の当時、彼がイヅノメの青年、学生会を立ち上げたわけで、その頃の新生には青年、学生信徒は存在しても会の発端を作ったのは彼。
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研修先にて
T原君と一緒に派遣されたことがある。
一緒の釜の飯を食ってというのと違って、現場での彼はすでに何か経験しているようだった。
一言で言えば二度と一緒に現場研修をしたくないということ。
実力が違いすぎる。天と地の差を彼は見せる。これをやられて耐えられる人はいないと感じた。人と物が集まるのをまざまざと見せつけられる。
しかしながら他に彼並みの人材を見たこともない。勝負は強いし、モテる。気前も良い。
情報収集力の凄さ。実現力。きっと何かすごい方の生まれ変わりじゃあないかと思う。
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(無題)
>きっと何かすごい方の生まれ変わりじゃあないかと思う。
渋井先生でしょうかね(笑)
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ドキッ
>四代様の血筋の正統性は信じていない
傍観者さんはきわどい話を出してるね。
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T原語録
>随分イヤな冗談
T原氏の毒舌の餌食は万にのぼる・・・かもしれないが、いい人ですよ。
確か、土方が好きだった。
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名前からすると
天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと、天忍穂耳命)
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(無題)
真逆の解釈、というのはなるほどですね。
以前にgoodluckさんの出しておられた長文には、きわどい内容のものがありましたね。
野澤氏が、観音教団の管長さんと話をしてるあたりのことなど、誰かしら残されていたらいいと思うのですが。
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慰霊を通して
今年の冬大雪の中、1月には父の2年祭を執り行った。
何とか祭員は家までたどり着いてくれたものの、参列者はゼロで祭員と私の2人。
父が喜んでいるのかどうなのか全く感じることが出来なかった。
この3月には母の3年祭を執り行ったが、天候に恵まれ兄妹・子・孫の総勢17名が参列した。
一人ひとり献花をし善言讃詞奏上の後、母の喜びの想いが光となって自分が感得することが出来た。
この2つの出来事により分かったことは、年祭のための儀式よりも、祝詞や歌よりも、
人が先祖に向ける想いに救いがあるということです。
人の想いに対し幽世大神が働いて頂けるということだと思いました。
そのことが分かったのですぐ父の御霊に対しお詫びをしたところ、すぐ光で応えてくれました。
以前、祝詞や善言讃詞以外に術を知らなかったころは、それが浄霊であり救いであった時代でした。
私の中では時代は想念の段階を迎えています。
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幽世大神様
幽世大神様も、主神様。
現在、世界メシア教では、「主神なる先祖の神」となっている。
祖霊様も、主神様に守られていると思うと、また違った安堵感がある。
大勢の参拝は力をいただけるそうだけど、
1人ぽっちの参拝もまた別の感慨がある。
形だけの大勢か、心底からの1人かって話なんだろうな。
サブロクの父ちゃん、母ちゃんが、主神様の赦しを受けて、
天国に行かれることを祈る。
もう行っていたら、余計なお世話なんだろうが。
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政宗と村正
今週の切れる話。
名刀といえば、政宗と村正。
鎌倉時代の政宗、室町時代の村正。
政宗には悪評はないが、村正は妖刀と言われる。
妖刀と言われるゆえんは、本来斬らなくていいものまで斬ってしまうからだ。
とにかく村正の切れ味は素晴らしいらしい。
斬れることを追究し、作られた。
そのせいで、よけいなものまで斬ってしまうようだ。
家康公の祖父、父、家康本人まで斬っている。
もちろん反論もあって、当時の村正は超人気で、現在のユニクロに匹敵する
という声まであるほど。
出回っていたから、スキャンダル的殺傷まで起こってしまったのだという。
真偽はいずれにせよ、刀だからって斬れればいいってものではないと思う。
斬るべきものは斬り、斬らないでいいものは斬らない。
ゲラちゃんは、政宗になりたい。
TPOをわきまえた能力の向上をめざしたい。
ま。美術品に傾倒した明主様も、刀はお好きではなかったらしいが。
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ワクワクの最上級
天国に来てから湧きおこるワクワク感。
そのワクワクが最も強く現れるときがわかった。
といってもゲラちゃん自身の体感にすぎないんだが。
とにかく、そのワクワケスト。
いいこと、わるいこと、いずれにせよ、
「主神様にすべてをおゆだねします」と言ったときだ。
もちろん想念、つまり心のなかで思ったときも含めてた。
痛いとい、その他ヤバイとき、ゲラちゃんは
「すべてを主神様におゆだねします」と言う。
そのときに湧きおこるワクワクが最も鮮明であることに最近、気づいた。
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とあるレジェンド
1990年になっていない頃だったと思いますが、アメリカが当時の新生で、スポットライトを浴びた。
全くステージの上で、華やかにスポットライトに映し出されたようなそれは、ニューヨーク、セントラルパークでの野外浄霊の様子でした。
当時アメリカはまだ華があった頃・・・。
公園で浄霊をするというようなことで、浄霊の広がりという結果は、私自身にはないのです。
能力に自信がないので、霊界作りでやります。
今日でも公園で浄霊をして、布教発展をとは思わないのです。
いろいろ好みのやり方があるのですが、ふとあの動画の声優役をしたH君を思い出し、彼から、争いの霊界にいつまでいるのかと戒めの言葉をもらっても、またそれからでもずっと争いの霊界の住人であったなあと思い返しています。
渋井先生は争いを避けておられたのだとつくづく思う。
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いまだに忠臣蔵
明主様は、忠臣蔵にはあまりいい感想を述べている。
仇討ちという気持ちはなくなるのが本当だと。
にもかかわらず、先達の誰それが、誰それにひどい仕打ちを受けたとか、
受けないとか。
明主様の信者になったんだから、そういうの関心なくなるのが自然だと
思う。
その先達方だって、明主様への心底からの信仰があれば別に無念なんて
感じているはずないじゃん。もう救われているんだろうし。
それなのに、第三者だけがいまだに忠臣蔵の世界を抜け出せないでアレコレ……。
それでいて、さも明主様のみ心に沿っているようなことを言う。
まぁ、このタイプはリアルの信者には滅多にいないんだが、こと掲示板には
多発している。
本当に信者? と思ったりしている。
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(無題)
忠臣蔵も諸説あるなぁ。
物語としては吉良は悪役だけど、
単なる被害者、という説も有る。
我があって我を出さないのが良い。
これは望ましい最終形態のことを言っていると思っている。
つまり、我を出さなくても不満が無い状態。
我を出さないことで不満がたまるならば、
俺はちゃんと出すべきだと思う。
不満がたまる状態は最終形態ではなく、過程だから。
出すことで反応があり、学ぶ。
繰り返していくうちに色々悟り、
出さなくても不満が出なくなっていくものだと思う。
だから忠臣蔵的思考も、学びの過程では必要。
中途ハンパでなく、『しっかり』あだ討ちなり批判なりすると悟りが早そう。
一番学びが進まないのが、我慢して不満がたまる状態、だと思う。
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我慢のミカタ
ワガママの代名詞のように言われているゲラちゃんが言うのもなんだが……
我慢も大切。
人間はストレスがないと能力が伸びていかない。
我慢しないことで伸びる能力があるなら、それも魅力。
我慢することで抗体ができえみたいだ。
ただ力づくで我慢させると、変な抗体ができて、一種のトラウマ
みたいになるんだと思う。
上手に我慢することを心掛けている。
それと、やってみなくちゃわからないと思うけど、
お委ねすると、我慢の必要もなくなる。
それで解決することも多いし、別の幸運が舞い込んで来たりして、
元々の不快なんてかまっている暇はなくなったりするから。
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(無題)
>お委ねすると、我慢の必要もなくなる。
それで解決することも多いし、別の幸運が舞い込んで来たりして、
元々の不快なんてかまっている暇はなくなったりするから。
きっとそうなんだろうと思う。
その委ねる、が分かるまでは、
さっき書いた唯物風方法論?は必要だと思うのと、
後何か別の道もありそう。今は思いつかないけど。
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イースター サンライズサービス
これもレジェンド。
ハリウッドボウル・イースターサンライズ・サービスに、当時のチャーチ・オブ・ワールドメシアニティ、後の浄霊フェローシップの安食教師が、式典を司って、ハリウッドボウルの舞台から、参拝者に浄霊を取り次いだという出来事。
それは一度だけのことだったのか、翌年もあったことなのか、記憶は定かではないけれど、1980年代は大きな行事が続いていた。
とにかくそれはキリスト教の重大な式典を浄霊の安食教師が仕切ったという、ある意味考えられないことだった。
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忠臣蔵といえば
最近知ったことだが、
内匠頭の親族に、同じように癇癪持ちというか。
逆上して刃傷沙汰を起し、切腹させられた人がいるそうだな。
その親戚が憑依したのかもしれないし、DNAに組み込まれている
のかもしれない。
いずれにせよ、吉良事件で生きながらえたとしても、もっと大きな事件を
起した危険性はたかそうだ。
今ならお委ねするという想念の浄霊もあるんだが、あの時代では無理。
そこで小さいなころから少しずつストレスを与えていけば、感情を抑える
抗体ができて、もう少しマシな表現ができたかもしれないと思う。
普段は非常におとなしい人物で、激昂したときだけ人が変わったというから、
気の毒ではあるんだが……。
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かざす手の位置
昨今、ネットで浄霊を受けるというやり方が、浄霊の中でも一般となって、祭典時、また、拝礼時に資格者が浄霊を取り次ぐことをライブで見ることができ、また同時にそれを通して浄霊を受けるとなります。
時代の流れで、またコロナ禍がそれを後押しでもしているのかと思ったりましてます。
ここで思うことですが、浄霊をされている姿、つまりかざしている手の位置で、違いがあるのではないかということを聞きました。
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額からの浄霊
時に渋井先生の浄霊力の凄さというのはレジェンドですが、ケースによって額から直接浄霊をととりつぐということも渋井文書に出ていました。
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浄霊実験
浄霊、何もしない、想念、という三つ。
3月の18日から、実験を始め、浄霊には毎日一回5分浄霊を取り次ぐ。
真ん中は何もしない。
ガンは医者にあなたはガンの末期と告げられたという設定で5分間想念を送る。
それぞれのビンは普段は離して保管。
向かって左の浄霊のものは色がまだ緑を残している。ビンの中の水滴が多い。
真ん中は水分がかなり出ている。緑色は保たれている。
ガンのものは白い斑点が全体に目立ち、緑色が薄くなっているが、水分が出ていない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/9205.hirunosekai/0001246.jpg
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技術とメンタル
アスリートが言う。
今の若い人は、技術的なことはすごい。
ただメンタルは弱い。
想念の浄霊をいえば、やり方ばかりに注目が集まる。
想念なのに、想念はスルーかよ。
やはり相反するものは同時進行するようだ。
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言い分を通したあとのむなしさ
『山と水』に、同じようなお歌があったと思う。
今、ゲラちゃん、ある仕事で揉めていた。
原因は、ゲラちゃんのミスだ。
先方は、訂正には応じるが、手数料として差額分として追加納金しろという。
実はゲラちゃん、いつも冷静。
論理的に詰め寄るタイプなので、冷静でないと論理に隙ができるからだ。
一部のミスで判断せず、全体から見て判断すべきではないかというのが、
ゲラちゃんの反論だ。
アレコレやりとりした結果、ゲラちゃんの言い分を、先方も認めた。
渋々だ。面倒くさくなったのではないかと思う。
言い分が通ったのはよかったのだが、後味はわるい。
言い分が通ったあとの虚しさってあるんだよな。
これからはミスはしないようにしようと思ったが、自信はないのが……。
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(無題)
メンタルの強さは、いかに自分の本心に向き合っているか、に影響されそうだ。
自分が一番したいことは何なのか、が明確になると、
必要なもの、不必要なものの仕分けが出来て、アマリ他に影響されなくなる。これは自分の経験。
最近自己肯定感について考える機会があったけど、
自己肯定感の高い人は、シンプルに自分のやりたいことに向かう。直接関わりのないことは気にしない。
低い人は、他人の評価が気になりすぐ影響を受け、メンタルが揺れる。怒りやすい。
情報過多になって、自分と向き合う時間が以前より大分減っているのが現代で、
その減った分メンタルが定まっていない=弱い、
という可能性は感じる。
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ケースメソッドもあるかも
最近は、スポーツだけじゃないけど、ケースメソッド方式が多くなっている。
実際の事例に基づいて、対処法を考えて行く。
想定される事態に基づいて、というものも含めてだけど。
だけど現実には、事例通りとは限らない。
想定外の事態に直面したときに、対処できなくなって逃げちゃう。
日本の昔ながらの訓練法、同じことを繰り返し行う。
どういう意味があるかわからないけど、繰り返す。 剣道とか、柔道とか、相撲とか。
この方法だと、想定外の事態に対処しやくなるらしい。
対処できるから、逃げ出さない → 強いメンタル かなと。
なんかの論文で読んだだけだけど。
朝夕拝や浄霊も、必ずしも心が伴っているときばかりじゃない。
それでも続けることに意味があるのかなと思う。
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(無題)
中学の時柔道部だったけど、
その経験でいうと、
>繰り返す
は、無意識的に反応する、とほとんど同意だった。
試合中頭で考えてそれを運動神経に伝える、なんて暇ないからね。
>想定外の事態
に対しても、いつもと同じことを(無意識的にでも)できる。
って感じだった。
まあ、個人の経験談の域の話だけど。
-
ケンカ、弱いねん
柔道部かぁ。
強いんだな。
ゲラちゃん、体力的ケンカ、弱いねん。 口ゲンカだけ、強い(イジイジ。
同じことを繰り返す論、やっぱりそうなんだな。
いつも、「メシアの御神さま〜〜」とか言ってるから、とっさのときにも
出る。
それなりに、というか、それでもなんとか事態は改善するもんな。
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想定外の事態
2年前の秋だったか、ドトールでの出来事。
夏、暑かったので、毎日のようにドトールに行き、
アイスラテを頼んでいた。
暑さが弱まると、行かなくなったのだが、秋の寒い日、
温かいものが飲みたくて、久しぶりにドトールに。
「ホットのアイスラテ」
レジにいた学生風の兄ちゃん、固まった。
ああいう店は、マニュアルによる、いわばケースメソッドだから
想定外の事態に対応できなかったんだろうな。
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(無題)
>浄霊、何もしない、想念、という三つ。
この実験はとても興味深いです。
右はすでに毒素を溜め込んだ状態で死んでいるようにも思えます。
左と真ん中は生きていて呼吸も浄化もしているようですね。
左は浄霊して不純水素を焼尽したので毒素の排泄は殆ど無いようで、ビンに付着する水滴は呼吸によるものかもしれません。
真ん中のビンに溜まっている水分には排泄した毒素が多量に混ざっているようにも思います。
やはり、霊の穢れが物質化すると多量になりますね。
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医者からの宣告
ガンの末期です。余命・・・と医者から宣告されたという設定のキュウリは実験を始めて数日で白い斑点がではじめ、水蒸気はないという変化。
二回の実験で、ガン宣告ということから起こるリアクションが、ある意味殺文句(ころしもんく)ということだと解釈しました。
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(無題)
>二回の実験で、ガン宣告ということから起こるリアクションが、ある意味殺文句(ころしもんく)ということだと解釈しました。
確かにそのようですね。
送り手(医師)の想念が移写するようにも感じられますね。
では、ガン宣告をしつつも、ガンとは毒素を一時的に集溜して延命するために出来るものなので、しばらくは肉や魚を食べず、なるべく血液を汚さない食生活を心掛けながら経過を見ましょう、消える可能性もありますよ、としたら結果が変わってくるのでしょうかね。
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選択
余命宣告を受けた時、実際は、後2週間です。今すぐ治療を受けるために、緊急行きなさいと言われました。
その治療を受けないと、2週間で死にますということ?なのかと思う中で、やったーと思ったことを含めて、思わず吹き出した。こみ上げた笑を瞬間に止められなかった。
確かに症状は良くないのだけれど、検査期間も結果が出て、医者に呼ばれるまで日数があって、今日から2週間と聞かされ、普通だったら相当なショックを受け、医者の指示に従って、緊急の治療を受けるということなんだと思うけれど、私はその治療を受けた延命を望まなかったので、すぐに帰宅して死を待つということにした。
死なない・・・。
選択ということで、一体どれが良いのかは人それぞれで、あれからまだ生きているというのも、生活できる環境があるからで、それがなければ違う選択にならざるをえない。
選択肢は色々とあるし、無いし・・・。
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初めて医者に・・・
学生時代の怪我の時は、学校から直接学校医なんだかに連れて行かれた。
問題なのは、無医薬ということがゆえに、そういうものとの縁が無いこと。
娘もそれがゆえに、公的な証明書の発給を渋られたりして、しばらくは出生証明がもらえなかった。
浄霊の人の盲点。
私の場合、末期の腸癌というのが最初の医者から言われたこと。
癌であるはずが無いと自分では思っていたけれど、症状からそういう診断を受けた。医者に行ったのは、医者にいかないまま死亡の時に犯罪とされることを避けるためのことで、今の社会では回避、無視はいけないこと。
菜食で、癌はないだろうと自分ではそう思った。
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(無題)
中々面白い実験をされてますね。想念による悪い暗示を与えることでも結構影響が出て来るんですね。
キュウリでさえ影響が出るのであれば人間に対し言葉でストレートに伝えられればどうなんだろうと思います。
既にご存知と思いますが、以前拝読した精神作用の影響に関するみ教えを思い出しました。↓
http://www.rattail.org/mobile/search1/ke/kekkak19.html
この中で2、3の実験例が出ていますがキュウリでは無く牛の例ですが、想念や言葉を与えたかどうかは分かりません。
最後の部分に『人間の精神作用がいかに影響するかが知らるるのである。』とありますように、
医師の指示により心配になって治療をうけて益々悪化し亡くなったりする反面、医者に関わる機会も無く何も知らずに
浄化を乗り越えてしまって完治している方も結構沢山あるのかも知れません。
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(無題)
なるほど、そういう実情があって、キュウリの実験を試みたという事なのですね。
それにしても、余命2週間、今すぐ治療しなさい、と告げられた事は大変な御守護でしたね。
普通であれば、この時点からガン治療を勧める医師は少ないと思いますので。
苦痛があるようでしたら緩和ケアで痛み止めを処方していきますという感じで、さらに毒を盛り続けるという事になりそうですね。
浄化中に検査を受ければ、何かしらの網に引っかかると思いますし、長期に及ぶ浄化の場合はガンを筆頭に命に関わるような病名を付けられる場合が多そうです。
まあ、たとえ菜食のみであったとしても、火素の量が増え続けていますから固結の溶解に対して排泄が追いつかない場合は一時的に体のどこかに溜め置く必要があるのでしょうね。
おそらく、御浄霊を毎日頂いていても、そうなる可能性はあると思います。
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そういう実情
ということではないのですが、私との会話、生活が浄霊一辺倒ということと、実験をしてる妻は浄霊活動現役なので、気が向いて実験をしてるようです。
ガンではないので、今回のガン実験とは関係はないのです。
どうなんですかね、実際資格者とか、きつい浄化頂いて曇りの払拭という方々は多いですよ。
私の場合ある程度公にしてますけれど、これを書いている30分後の体調など全くわかりません。
以前の元気な頃と違って、ニュースとしての浄霊情報を上げるようにしてます。以前は臨戦ということも多々ありましたが、そんな元気はないので、できるのなら、悠久の語り合いという感じでことを進めたいと思ってます。
アメリカの浄霊歴史でも、日本のことでもそうですが、ならば今後どうするのかということとかが出てくると面白いですよね。
T君が渋井文書に関わったのか知りませんが、なんとなく直接というのはなかったと思います。
山根先生とかは本の終わりに名前が出てますが・・・。
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(無題)
>アメリカの浄霊歴史でも、日本のことでもそうですが、ならば今後どうするのかということとかが出てくると面白いですよね。
確かにそうですね。
個人的に思う事は、今までは、それを団体の売りとして人を取り込んできた場合が多いですよね。
ですから、それとは真逆の発想も必要かもしれません。
T氏の思いによる行動とは逆に転んだという事も必然なのでしょうね。
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(無題)
浄霊交換というサイトが以前あって、シュウメイ関係の方がされていたと思うのですが、当時書き込んでおられた博識の方々はどうなっているのでしょう?
しかしながら、T氏がいつも中心で話し合いなどがあった頃、ワヤでした。
私は下戸ですので、料理と、かたずけ役でしたが、初めて長野農場からの里芋を頂いたので、それをみんなで食べた。美味しいのなんので、あっと言う間になくなったので、下町のヤオハンで里芋を買ってきて、食べた。
その違いに愕然としました。
酒を飲める彼らの傍若無人ぶりもあの頃は面白かった。
T氏は幕末の志士の土方歳三が好きだったので、彼をすいていた職員は、函館のお土産とかをプレゼントしてたような・・・。
当時ロサンゼルスセンターを、かなり魅力のあるセンターに、T氏を追い越せと思っていた頃もあったなあ。
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(無題)
>T氏を追い越せと思っていた頃もあったなあ。
私から見ますと18番さんの方が、かなり先に行っていると思いますよ。
まあ、多少役目が異なるようにも思いますが、独立した訳ですからね。
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もし・・・という仮定
当時、新生がイヅノメになる以前に、事例集本が5、6冊出たと思います。
あの頃、T氏のとことからの入信者が多くあって、新宿と上野原と二つの名が有名でした。
当時宣教局は、九州の可知代表の大浄霊会、御魂磨き。
松本総長が推した自己浄霊。
と、
関東ラインと私は区別していた新宿の想念の浄霊。自己浄霊は受け入れない、御魂磨きのような板こすりはしない側があった。もちろん私の目からそういう風に見えたということです。
霊界作りの九州。浄霊力の新宿。
そんな頃若手のT氏は御魂磨きの効果はあるのだろうか?という、編集局のK氏の誘いで調査ということで、御魂磨きの実験、というか、御魂磨きを取り組んだ。一月後、18番さん御霊磨きは効果があると私に知らせてくれました。
各地で行われた大浄霊会、御霊磨き。これの元々は教主様の御巡教のための3年前からの準備という心構えで取り組んだ九州のモデルがある。信じられないというような御蔭話、体験談の渦で、それを各地で見習ってということで取り組むわけですが、心構えの違いがあって、思うような結果がいただけないのが現実のように感じました。
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金粉の話題
熱海にいたころ、金粉についての話題も多くありました。奉仕の方々にそういう現象が起こっていたようです。
ただそういうことが勘違いを起こすことも少なからずあり、また時の教主が新生にお出ましにならなかったこともあってか、そんなブームは冷めていったようでした。
即席に奇跡を見たそんな日々。
現場の片隅では、食に力入れてという訴える声が私には聞こえてました。
ただ当時T氏は食にはほとんど興味を見せなかった。反対に、そんな話題を出す私をなじるということもあったので、彼にも見えてない部分があるんだと思いました。
そういえば、新生では光明新聞の配布を布教手段として進めていました。T氏は毎日500部を配布してたということです。単純に一月10000部。それが発展に大きくつながった一つの要因であったと思います。
そういう下積みの努力を重ねるとか、時間があればみ教え研鑽してました。
-
教主中心?
そもそも私は教団のことをあまりにも知らずにいて、関わってから、いろんなことを吸収して行ったので、その教主中心というのも自分の体験が情報の基準になっています。人からの影響はそれほど強くない。自分なりに教主中心を理解して、その理解は他の方々と違っていたのはよくわかりました。
かといって、明主様中心とか対立として出された言葉あそびにも乗っていませんので、実は気持ちは新生でも、もちろん再建でもなかった。
その後時の教主は中立派を作り、吉岡氏が総長でしたね。
総長の椅子というのも、理事長と名が変わっていく変遷。
もし、権力闘争がなかったなら・・・。みんな幸せなのだろうなあ。
実際信者さん側にしてみれば、今日、無医薬という生活という需要が提供されることが信仰の最大目的の一つと思うことができていないのが組織をまとめられない要因。
信者さんが感謝を提供することが、組織運営継続となっている。
専従者資格者がもっとお金ならお金を作り出すということなし。団体のお金が給料となって降りてくるので、営業という努力はほとんどしていない。ジムやが多く、営業マンが少なすぎる。
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信仰改革
minoruさんの言われる「組織改革ではなく信仰改革では?」という問いかけは急所を突いたものであり、そのまま自分に当て嵌まります。
信仰とは「ある宗教を信じて、その教えを拠り所とすること」とあります。
組織改革を自らの使命と信じいろいろやれども行き詰っていました。つまりは奇蹟の頂ける集団を目指すことでした。
しかし一人ひとりは因縁により組織に所属するも、組織と自分との関係を見つめ直さざるを得ない聖地での奇蹟を見せられ、
その組織からはもう自分には学ぶものは無いことが理解できてきました。
現在は自らの考えでメシヤ信仰に道を求めています。
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(無題)
樋口教師については、人づてに知るわけです。東京女子大の教授を経て、その後ハワイ、アメリカで浄霊の礎を築く。
先生はやはり学校がキリスト系であったということから、日本の一般の浄霊のあり方とは異なって、祈りをキリスト教系にされるということだったようで、確かに、祈りのしおりのアメリカ版というものは日本のそれとは全く異なるものだったようです。
アメリカ人対応の浄霊。
その後、流れはアメリカ人対応となるより、日本人に合わせていくことになっていったように感じます。
もしそうでなかったら、私など、入る余地のないアメリカ版浄霊となっているはずですから。
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よくやったね!
ハワイでも、その急激な発展で、当時の教会の建物を作ったという。1953年に始まって、あっという間の教会建設。
それからロサンゼルスの初めの拠点から今のところへ移る。
同じ頃にヴァレーセンターの土地を購入。
その頃の活気は大したもので、月一度はロサンゼルスから3時間のヴァレーセンターの奉仕。
300人〜400人が集ったという。食事もそこで用意されてた。それは自宅で作ってきたのもあり、その場で作られたものもあり。
そんな時を思いだして出る言葉は、よくやったね!
全く感慨深いものがある。
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まっぴら
今週の激怒な話。
昔からよくあるんだが、
「あの人が信仰してるから」
「あの人に助けられた」
とにかく人に傾倒し、感謝をささげる信者を見かける。
その光景をみるたびゲラちゃんは、激怒だ。
わが教団は、神に求め、神に感謝をする信仰だ。
人から利益を求め、人を崇拝するなんて、まっぴら。
人的交流団体なら、例の巨大教団に行けばいい。
信仰の対象は、どこまでも神、唯一の神、主神様だけでいいのだ。
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人間ぎらい
モリエールじゃないよん。
ゲラちゃんは、人間がきらいだ。
ちょっといいと思って仲良くしても、親しくなると嫌いになる。
理由は、簡単だ。
人に認められよう、とするからだ。
ゲラちゃんは、心のなかで思っている。
「バカのくせに」
ところが、ここにきて、親しくなるほど魅力的な人間が増えてきた。
「賢い!」
ゲラちゃんが感じる「バカ」と「賢い」の分岐点は、どこか。
自分のバカに気づいているかどうか。
人間なんて、神様から見れば、すべからくバカ、バカ一色。
せめて、自分のバカに気づける程度の賢さは持っていていいよな。
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(無題)
安食教師の100日祭でした。
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草木も黙る年度替わり
静かな年度替わりだ。
世間では相変わらずのコロナだが、この掲示板は静かだ。
人草が黙るのは、満たされている証とか。
明日は、春季大祭。
いい新年度になりそうだ。
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ワクワク国
なぜかワクワクする。
ここしばらく、前年度の締めと、新年度の混雑に紛れ、
忘れていたワクワクが、またよみがえってきた。
明日が春季大祭だからだろうか。
ところでワクワク国とは、日本のことらしい。
古代の海外文献で、「ワクワク国」という表記があるという。
どうやら、それは日本のようだとわかってきた。
なんの関係もないのに、なぜか嬉しい。
ワクワク国民、ゲラちゃんとしてはな。
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(無題)
認知症が進んだ父親を見ていて思うこと。
元気な時に心残りだったと思われることを、認知症になってから絶えず口にするようになっている。
元気なときには表に出てこなかった執着が、繰り返し出てくる状態。
もし自分が認知症になったとしたら、
やはり同じように、心残り、執着が繰り返し口をついて出そうな気がしている。
やはり、やりたいこと、気になることは元気なうちに決着をつけるべきだ。
いつ、今死んでも人生に後悔が無い状態。
橋下さんも自分はもういつ死んでもいい、って言ってたな〜。
行動するにしろ、行動せず昇華するにしろ、
年を重ねて執着が真に残っていないように過ごして行きたいものです。
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水
認知症に取りくむ理学療法士の話だが、
彼は、大量の水を飲ませる。
そのうえで、腎臓を柔らかくする体操を薦めている。
腎臓の浄霊に取り組んでみたら、いかがかな。
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