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明主様
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全体とひな型
聖地を管理していても願いに沿わなければ、指導する人もいない状態では聖地を以って個の完成は難しいと考えられる。
しかし分かる人は分かる。つまりいずれ聖地の方で管理者を選ぶことになると思います。
私は聖地と自分の関係が理解できるようになると、いづのめや主之光との交流が始まった。
タテの東方之光の資質を以って、ヨコのいづのめと交流し始めてからは、自分の行く先や周りにいろいろな変化が起きてきた。
メシヤとなられてからは明主様時代には見えなかったことも理解できるようになった筈です。
そのメシヤを求めていく自分にも理解できただけは当然切り捨てなければならない部分が出てきます。
先のいづのめとの交流で、「想念の実践の型」を事例で確認し、私自身が想念で実践できる資質を引き出せたということは、
それまでの東方之光でもいづのめでも理解できない結ばれた一つの世界にいるからです。そうなるとそこには今までの必要のないものが出てきます。
聖地参拝をしなくなってからしばらくすると「聖書を学びませんか?」とキリスト教との付き合いがはじまり、
自分に必要なことなのだろうという気持ちはあっても、あまりにも違いすぎるため困惑しながらも、
特に去年からリモートでやる1分前に「お祈り」をしてから臨むようにしたところ、
「天におります私たちの父よ、お名前が神聖なものとされますように〜」と始めると、神からの光を感得できるようになって来た。
そしてリモートが始まり「まずお祈りをしてから始めましょう」ということでお祈りが始まるのだが、
そこからは光は感じません。しかし私には必要ないが、その方々には必要なものだと思います。
そのように人類の3分の1を擁するキリスト教。地球的、全体的レベルな視点で見ることを学ぶにはまずその世界観を理解しようとします。
言語は違っても地球上ほとんどの国で受け入れられている聖書です。
また世界から中心に向かって浸透するのとは対極の、「型の拡大」として中心から全体に拡大することを願う我々としては、
「想念」でエホバに繋がれば、カトリックの偶像崇拝や、偶像を通さず祈りの形式を重要視するプロテスタントの両者を結ぶことが出来るはず。
結べるとは救いを示すことになる。つまり聖書の学びはキリスト教というよりも、自分自身の完成の手段と出来るはずです。
世界メシア教に所属するならば分科会を作り、その分科会同士の交流を図り全体を見ていくという学びを積み上げれば、
結果として見えてくるものがあると思います。
自分がいいなと感じるものでは無く、浄霊を頂き楽になればその浄霊は自分にとって必要なものという位置づけになる。
同じように光を感得出来るものは必要になるものということです。
しかし光を感じないものは自分には必要ないものであって、間違っているというものではありません。
私はそのようにしてどう進むべきか判断し、自分なりに極めてみたいと思っています。
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