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Japanese Medieval History and Literature
快挙♪ 3
本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!
41冊!!!
売れたと云々!!
すげェ!! としか言いようがない。
2日で、71冊。
快進撃である。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)
>筆綾丸さん
読まずに批判するのは私の主義に反するので、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020)をざっと読んでみました。
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【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!
【各界が絶賛!】
■佐藤優氏(作家)
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である。
■ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。
■白井聡氏(政治学者)
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
新書版ながら全部で375頁という結構な厚さですが、小見出しを見れば内容を把握できる部分も多いですね。
それでも一時間ほどかけて全体を眺めてみて、まあ予想通りの本だな、という感じでした。
そもそも私はタイトルの「人新世」が読めず、「じんしんせい」かと思っていたら、これは「ひとしんせい」だそうですね。
「はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!」に、
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人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世〔ひとしんせい〕(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
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とあります。
読みづらい「湯桶読み」を強いる斎藤氏の言語感覚には若干の疑問を感じないでもありません。
そして Anthropocene の発音がまた分かりませんが、「アントロポシーン」とか「アントロポセン」とか「アンソロポシーン」などと読まれているそうです。
人新世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96
ま、それはともかく、全体の構成は、
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はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!
第1章 気候変動と帝国的生活様式
第2章 気候ケインズ主義の限界
第3章 資本主義システムでの脱成長を撃つ
第4章 「人新世」のマルクス
第5章 加速主義という現実逃避
第6章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム
第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う
第8章 気候正義という「梃子」
おわりに――歴史を終わらせないために
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となっていて、第6章までは資本主義への批判と「脱成長コミュニズム」の提唱、そして讃美が続きます。
ま、私にはあまり納得できない議論でしたが、百歩譲って「脱成長コミュニズム」への転換という理念は認めたとしても、それをどのように実現するのか、という問題があります。
この点、斎藤氏は「第7章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、
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▼脱成長コミュニズムの柱?─労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
使用価値経済への転換によって、生産のダイナミクスは大きく変わる。金儲けのためだけの、意味のない仕事を大幅に減らすからである。そして、社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を意識的に配分するようになっていく。
例えば、マーケティング、広告、パッケージングなどによって人々の欲望を不必要に喚起することは禁止される。コンサルタントや投資銀行も不要である。深夜のコンビニやファミレスをすべて開けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。
必要のないものを作るのをやめれば、社会全体の総労働時間は大幅に削減できる。労働時間を短縮しても、意味のない仕事が減るだけなので、社会の実質的な繁栄は維持される。それどころか、労働時間を減らすことは、人々の生活にとっても、また自然環境にとっても好ましい影響をもたらす。マルクスも『資本論』のなかで、「使用価値」の経済に向けた転換のためには、労働時間の短縮が「根本条件である」と述べていた。
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などと書かれています。(p302以下)
しかし、そもそも「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と「社会の再生産にとって本当に必要な生産」を誰がどうやって選別するのか。
そして、その選別がなされたとして、「金儲けのためだけの、意味のない仕事」に従事する人々、具体的には「マーケティング、広告、パッケージング」業界や「コンサルタントや投資銀行」で働いている人々をどう処遇するのか。
斎藤氏は「国家」を全面的に否定する立場ではないそうなので、選別の過程に「市民」の参加があるにしても、結局は「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と「社会の再生産にとって本当に必要な生産」の選別は「民主的」に「国家」の法律によることになるはずです。
そして、そこで「金儲けのためだけの、意味のない仕事」と認定された仕事に従事する人々は、「職業選択の自由」(憲法第22条)を奪われ、「社会の再生産にとって本当に必要な生産」への従事を要請されることになるのでしょうね。
そして、俺はそんなの嫌だ、という人は、「市民」の非難に曝され、結局のところ国家権力によって「金儲けのためだけの、意味のない仕事」から強制的に排除されることになろうかと思います。
それでもなお反抗する人は、収容所に入れられたり処刑されたりするのかは分かりませんが、まあ、あまり愉快ではない人生を送ることになるでしょうね。
とすると、収容所や処刑を伴うかどうかは別として、斎藤氏の描く「脱成長コミュニズム」の素晴らしい未来は、実際には自由のない、かなり悲惨な世界になりそうです。
そして、そうした世界において、例えば漫画家・文筆家のヤマザキマリ氏などは「金儲けのためだけの、意味のない仕事」に従事していると認定されない保証はあるのか。
まあ、いろいろ考えると、斎藤氏は結局は「環境スターリン」なのではないかな、という感じがします。
ブルシット・ジョブ?
小太郎さん
斎藤氏は、僕の言うとおりにすれば社会(世界)はよくなる、としながら、具体的な処方箋はなにも提示していませんね。
グレーバーの「ブルシット・ジョブ」という語は初めて知りましたが、斎藤氏は、自分の職業や集英社から新書を出すことはブルシット・ジョブかもしれない、と考えたことなど微塵もないのだろうな、と思いました。
Re:人間の終わりまで
「心と意識の謎は量子物理学で解き明かされるのか?」の御紹介されたページを一応読んでみました。
まず、タイトルの「量子物理学」という語を初めて見ました。ググってみたのですが期待する解説のページには当たらず、
Wikipedia日本語版の「物理学」の項目にある「量子力学を基礎とする応用理論一般を指して量子物理学と呼ぶことがある。」という記述が理解できました。
まだ物理学の世界で標準的な認識はなく個々の研究者が自分なりの定義で使っているようです。
なお、Wikipedia日本語版に「量子物理学」の項目はありません。
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この謎が謎になるのは、ひとつに確定した実在についてあなたが意識的に経験したことについて、あなたが何かを報告し、あなたの報告と量子力学の数学による予測とのあいだにミスマッチが生じるときだけだ。
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ここで謎と表現しているのは「意識は量子力学で語れるか」のことです。
まず、引っ掛かるのは「量子力学の数学による予測」です。これは、量子力学の方程式を用いて計算した結果のことでしょうか?
そもそも、日常生活の事象について量子力学で予測したことなど無いので、ミスマッチは生じません。そんなことをしている人がいるのでしょうか?
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そこで、量子力学のルールは、測定される電子にも、測定を行う装置を構成する粒子にも、その測定装置の表示を構成する粒子にも当てはまると考えよう。しかしあなたがその表示を見て、視覚情報が脳に流れ込むと、何かが変化する。標準的な量子の法則が当てはまらなくなるのだ。
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「視覚情報が脳に流れ込む」ですが、私は視覚とは一群の光子が目に受容されその信号が脳に伝わり処理されて発生源或いは反射元を認識する感覚のことと、理解しています。この表現は非常に違和感を感じます。
「何かが変化する」ですが、何が変化するのでしょうか?
「標準的な量子の法則が当てはまらなくなる」ですが、法則が当てはまるか否か判断する事象が適切に記述されていないと思います。
唐突に結論を提示されても受け入れられません。
こんな感じで、この記事を理解しようと試みることは非常に苦痛です。せっかく御紹介頂いたのですが、私にはこの記事は理解できません。
原文と訳文
ザゲィムプレィアさん
引用した紹介記事は、引用しておいてなんですが、誰が書いたものかわからないので、ブライアン・グリーン本人の『時間の終わりまで』をお読みになれば、疑問は解消すると思います。
グリーンの最初の啓蒙書『The Elegant Universe』(1999)は、むかし、苦労しながら原文で読んだものですが、今はもう、そんな根性はないので、最新作『時間の終わりまで』は翻訳で読むつもりでいます。どこまで理解できるか、わかりませんが。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その2)
>筆綾丸さん
>グレーバーの「ブルシット・ジョブ」
岩波書店から『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』という上品なタイトルの翻訳が出ているそうですね。
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やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い――それはすべてブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のせいだった! 職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。
https://www.iwanami.co.jp/book/b515760.html
私は未読ですが、ウィキペディアにはグレーバーが五種類に分けたという「ブルシット・ジョブ」の具体例が出ていて、グレーバーの上品な分類名にもかかわらず、社会を円滑に動かすための重要な仕事が多いように感じます。
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取り巻き……受付係、管理アシスタント、ドアアテンダント
脅し屋……ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリスト
尻ぬぐい……粗雑なコードを修復するプログラマー、バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ
書類穴埋め人……調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライアンス担当者
タスクマスター……中間管理職
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96
特に「バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフ」がいなかったら警察沙汰にも発展しそうで、これほど重要な仕事はなさそうです。
そもそも警察など犯罪者の「尻ぬぐい」が仕事の大半ですが、グレーバーはこれも「ブルシット・ジョブ」に分類しているのでしょうか。
グレーバーは去年、五十九歳で亡くなったそうですが、ウィキペディアの写真を見る限り、ネアンデルタール人に似た上品な顔立ちの人ですね。
デヴィッド・グレーバー(1961-2020)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC
さて、斎藤氏はマーケティングや広告を「ブルシット・ジョブ」の代表に挙げていて、それらに対する憎悪は凄まじいですね。
「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」には、
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現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。
デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会になんの問題もないと感じているという。世の中には、無意味な「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れているのである。
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とあり(p314以下)、少し前の「第六章 欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」では、
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▼ブランド化と広告が生む相対的希少性
さらに、生活の質や満足度を下げる希少性は、消費の次元にもある。人々を無限の労働に駆り立てたら、大量の商品ができる。だから今度は、人々を無限の消費に駆り立てねばならない。
無限の消費に駆り立てるひとつの方法が、ブランド化だ。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。
その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品に、ブランド化によって新規性が付け加えられていく。そして、ありふれた物が唯一無二の「魅力的な」商品に変貌する。これこそ、似たような商品が必要以上に溢れている時代に、希少性を人工的に生み出す方法である。希少性と言う観点から見れば、ブランド化は「相対的希少性」を作り出すといってもいい。差異化することで、他人よりも高いステータスを得ようとするのである。
例えば、みんながフェラーリやロレックスを持っていたら、スズキの軽自動車やカシオの時計と変わらなくなってしまう。フェラーリの社会的ステータスは、他人が持っていないという希少性にすぎないのだ。逆にいえば、時計としての「使用価値」は、ロレックスもカシオもまったく変わらないということである。
ところが、相対的希少性は終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。
こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、商品が約束する理想が失敗することを織り込むことによってのみ、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。
しかも、この無意味なブランド化や広告にかかるコストはとてつもなく大きい。マーケティング産業は、食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている。商品価格に占めるパッケージングの費用は一〇〜四〇パーセントといわれており、化粧品の場合、商品そのものよりも、三倍もの費用をかけている場合もあるという。そして、魅力的なパッケージ・デザインのために、大量のプラスチックが使い捨てられる。だが、商品そのものの「使用価値」は、結局、何も変わらないのである。
果たして、この悪循環から逃れる道はないのだろうか。この悪循環は希少性のせいである。だから、資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。それがマルクスの脱成長コミュニズムなのだ。
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といった具合です。(p255以下)
「マーケティング産業は、食料とエネルギーに次いで世界第三の産業になっている」そうですが、市場調査みたいなものでそんな産業規模になっているはずはないので、これは具体的にはどのような業種を念頭に置いているのですかね。
また、「商品価格に占めるパッケージングの費用は一〇〜四〇パーセント」とありますが、化粧品のような特殊な例はともかく、例えば鉄鉱石のパッケージング(?)にそんな割合がかかるはずもないので、これもどのように算出しているのか。
ま、細かい話をすればキリがありませんが、要するに斎藤氏は「贅沢は敵だ」と言いたいのでしょうね。
斎藤幸平ならぬ斎藤憲兵は、人間の欲望を否定し、人類の全面的な人格改造を狙っているようですが、それも結局は地球環境のためなんでしょうね。
此比浪速(大阪市大)ニハヤル物
小太郎さん
https://en.wikipedia.org/wiki/Bullshit_Jobs
原書の表紙は、はじめはクロスボウかなと思いましたが、磔刑のパロディなんでしょうね。
グレーバーの『Debt』(負債論)というタイトルを見て、甚だ失礼ながら、井原今朝男氏の朽ちかけた迷著『日本中世債務史の研究』を思い出しました。
翻訳者のひとり酒井隆史氏は、『ブルシット・ジョブの謎』(講談社現代新書 2021年12月15日)という本を押っ取り刀で出しましたが、これで一儲けしてやろうというような卑しい肚づもりは全くなく、世の中の不条理を嘆く清貧の研究者なんでしょうね。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その3)
>筆綾丸さん
『人新世の「資本論」』の「終わりに─歴史を終わらせないために」には、
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マルクスで脱成長なんて正気か─。そういう批判の矢が四方八方から飛んでくることを覚悟のうえで、本書の執筆は始まった。
左派の常識からすれば、マルクスは脱成長など唱えていないことになっている。右派は、ソ連の失敗を懲りずに繰り返すのか、と嘲笑するだろう。さらに、「脱成長」という言葉への反感も、リベラルのあいだで非常に根強い。
それでも、この本を書かずにはいられなかった。最新のマルクス研究の成果を踏まえて、気候変動と資本主義の関係を分析していくなかで、晩年のマルクスの到達点が脱成長コミュニズムであり、それこそが「人新世」の危機を乗り越えるための最善の道だと確信したからだ。
本書を最後まで読んでくださった方なら、人類が環境危機を乗り切り、「持続可能で公正な社会」を実現するための唯一の選択肢が、「脱成長コミュニズム」だとうことに、納得してもらえたのではないか。
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とありますが(p359以下)、「本書を最後まで読ん」だ私は、「持続可能で公正な社会」を実現するためには「脱成長コミュニズム」だけは選択してはいけないな、と思いました。
斎藤氏は「ソ連は論外だ」(p129)などと自身の立場が旧来の共産主義とは違うのだと強調されますが、まあ、「脱成長コミュニズム」を現実化しようとすれば反対する人々を強権的に弾圧せざるをえず、結局のところ「ソ連の失敗を懲りずに繰り返す」ことになりそうですね。
エコ・マルクス主義みたいなのもずいぶん昔に流行っていて、それらとの違いも斎藤氏が強調するほど大きいものとは思えませんでした。
結局、私にとって『人新世の「資本論」』はさほど知的興味を惹く作品ではありませんでしたが、ただ、この種の本が40万部も売れるという現象には一応の検討が必要でしょうね。
この点、斎藤氏自身の分析はけっこう正確なのだろうなと思います。
『朝日新聞GLOBE』の2021年8月2日付記事によれば、
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斎藤さんは「コロナ禍で空気が変わった」とみる。経済が打撃を受けると、女性を中心とした多くの非正規労働者が真っ先に仕事を失った。一方、富裕層は株高の中で富を膨らませ、格差はさらに広がった。「今まであった社会的、経済的不平等が可視化され、過剰な生産と消費に基づいた資本主義社会がどれほど破壊的なものかを明らかにした」。斎藤さんのもとには「日頃感じていた疑問をえぐり出してくれた」といった感想が寄せられた。
もう一つの原動力は「ソ連を知らない」若者たちだ。「物心ついてから資本主義が自分の生活に恩恵をもたらしてくれたという経験が希薄で、社会主義的なものが悪いものだという体感もあまりない」世代と斎藤はいう。新自由主義の格差の問題をより自分事として実感する世代の少なからぬ人たちがマルクスの考えに共感している。
https://globe.asahi.com/article/14407032
とのことですが、特に後者は、まあ、そうだろうなと思います。
1987年生まれの斎藤氏も「ソ連を知らない」若者で、
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斎藤さん自身、旧ソ連の記憶はなく、むしろ人生で大きなインパクトがあったのは、リーマン・ショックであり気候変動問題であり、東日本大震災による原発事故だった。東京出身。私立の中高一貫校を卒業後、米国の大学に進学した。その学生時代、ハリケーン「カトリーナ」で甚大な被害を受けたニューオーリンズで炊き出しのボランティアに参加した。目にしたのは、スーパーの賞味期限切れの食料などを求めて集まる困窮した人々。いつも大学で接する裕福な白人の学生たちとのギャップに衝撃を受けた。「なぜこれほど豊かな社会なのに、これほど貧困が蔓延(まんえん)し、医療も受けられず日々の生活にも困るような人たちが大勢いるのか」。そんな資本主義に対する疑念がマルクス研究へと向かわせた。
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のだそうですが、アメリカに留学してマルクスにかぶれる、というのは本当に最近の現象ですね。
第一次世界大戦後の混乱で通貨が暴落したドイツに多くの留学生が集まり、その多くが共産主義にかぶれてしまった百年前と比較するのは古すぎるとしても、資本主義の権化であったアメリカの大学の多くは、ずいぶん極端な形で左傾化してしまったようです。
それにしても、「ブランド化」を蛇蝎のように嫌う斎藤氏が「私立の中高一貫校を卒業後、米国の大学に進学」というのは些か奇妙な感じがしますね。
現代社会において「希少性を人工的に生み出す方法」の最たるものは教育です。
ウィキペディアによれば斎藤氏が留学したのはウェズリアン大学だそうですが、知名度ではハーバード大学あたりに劣るとはいえ、通好みの超一流大学ですね。
「私立の中高一貫校」の同級生が行ったであろう東大や早稲田・慶應あたりが「スズキの軽自動車」だとしたら、ハーバードがベンツで、ウェズリアンは更にその上の「フェラーリ」でしょうか。
斎藤氏の学者としての実質的な「使用価値」(有用性)は『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の翻訳者である、
酒井隆史(1965年生。大阪府立大学教授。早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了)
芳賀達彦(1987年生。大阪府立大学大学院博士後期課程)
森田和樹(1994年生。同志社大学大学院博士後期課程)
の諸氏あたりとさほど違いはないのかもしれませんが、ウェズリアン大学政治学部卒業、ベルリン自由大学哲学科修士課程修了、フンボルト大学哲学科博士課程修了という斎藤氏の学歴は「相対的希少性」の点では燦然と輝きますね。
斎藤幸平(1987生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%B9%B8%E5%B9%B3
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その4)
『人新世の「資本論」』の「はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である!」には、
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温暖化対策として、あなたは、なにかしているだろうか。レジ袋削減のために、エコバッグを買った? ペットボトル入り飲料を買わないようにマイボトルを持ち歩いている? 車をハイブリッドカーにした?
はっきり言おう。その善意だけなら無意味に終わる。それどころか、その善意は有害でさえある。
なぜだろうか。温暖化対策をしていると思い込むことで、真に必要とされているもっと大胆なアクションを起こさなくなってしまうからだ。良心の呵責から逃れ、現実の危機から目を背けることを許す「免罪符」として機能する消費行動は、資本の側が環境配慮を装って私たちを欺くグリーン・ウォッシュにいとも簡単に取り込まれてしまう。
では、国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくらなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。
かつて、マルクスは、資本主義の辛〔つら〕い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。
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とありますが(p3以下)、宗教嫌いの点では、斎藤氏は旧来のマルクス主義の立場をきちんと踏襲されていますね。
ただ、数多くの「殉教者」を生んだマルクス主義がどこか宗教っぽい感じがするように、遥か昔、1883年に死んだマルクスを崇める斎藤氏の姿勢にも宗教の匂いが漂います。
それは特に「第四章 「人新世」のマルクス」に顕著ですね。
この章の冒頭には、
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▼マルクスの復権
「人新世」の環境危機においては、資本主義を批判し、ポスト資本主義の未来を構想しなくてはならない。だが、そうはいっても、なぜいまさらマルクスなのか。
世間一般でマルクス主義と言えば、ソ連や中国の共産党による一党独裁とあらゆる生産手段の国有化というイメージが強い。そのため、時代遅れで、かつ危険なものだと感じる読者も多いだろう。
実際、日本では、ソ連崩壊の結果、マルクス主義は大きく停滞している。今では左派であっても、マルクスを表立って擁護し、その知恵を使おうとする人は極めて少ない。
ところが、世界に目を向けると、近年、マルクスの思想が再び大きな注目を浴びるようになっている。資本主義の矛盾が深まるにつれて、「資本主義以外の選択肢は存在しない」という「常識」にヒビが入り始めているのである。先述したように、アメリカの若者たちが、「社会主義」を資本主義よりも好ましい体制とみなすようになっているという世論調査のデータもある。
ここから先は、マルクスならば「人新世」の環境危機をどのように分析するのかを明らかにし、そして、気候ケインズ主義とは異なる解決策へのヒントも提示していこう。
もちろん、古びたマルクス解釈を繰り返すことはしない。新資料も用いることで、「人新世」の新しいマルクス像を提示するつもりである。
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という力強い宣言があります。(p140以下)
そして、この「新資料」についての説明が少し後に出てきます。(p147以下)
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▼新たな全集プロジェクトMEGA
しかし、なぜ、二一世紀にもなって、マルクスの新しい解釈が可能なのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。古いものを新しい装いで繰り返しているだけではないか、と。実際、そんな本も多い。
だが、実は、近年MEGA〔メガ〕と呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』(Marx-Engels-Gesamtausgabe)の刊行が進んでいるのだ。日本人の私も含め、世界各国の研究者たちが参加する、国際的全集プロジェクトである。規模も桁違いで、最終的には一〇〇巻を超えることになる。
一方、現在日本語で手に入る『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)は、本当の意味の「全集」ではない。大月書店版に収録されなかった『資本論』の草稿やマルクスの書いた新聞記事、手紙などは膨大にある。大月書店版は、正しくは、「著作集」である。
それに対して、はじめて公開されることになる新資料も含めて、マルクスとエンゲルスが書き残したものはどんなものでも網羅して、すべてを出版することを目指しているのがMEGAなのだ。
なかでもとりわけ注目すべき新資料が、マルクスの「研究ノート」である。マルクスは研究に取り組む際、ノートに徹底した抜き書きをする習慣をもっていた。亡命生活でお金もなかったため、ロンドンの大英博物館で、毎日、本を借りては、閲覧室で抜き書きを作成したのである。
その生涯で作成されたノートは膨大であり、なかには『資本論』には取り込まれなかったアイデアや葛藤も刻まれている。その意味で、貴重な一次資料なのである。
ところが、こうしたノートは、これまで、単なる「抜き書き」として片づけられ、研究者たちによってさえ無視され、出版もされてこなかった。このノートが今、私を含めた世界中の研究者たちの努力によってMEGAの第四部門として全三二巻で、はじめて公にされるようになっているのである。
そして、MEGAによって可能になるのが、一般のイメージとは全く異なる、新しい『資本論』の解釈である。悪筆のマルクスが遺した手書きのノートを丹念に読み解くことで、『資本論』に新しい光を当てることができるようになる。それが現代の気候危機に立ち向かうための新しい武器になるのだ。
-------
うーむ。
実に感動的な文章ですが、「MEGA〔メガ〕と呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』(Marx-Engels-Gesamtausgabe)」に向けられた「私を含めた世界中の研究者たちの努力」の様子は、別の書物を連想させます。
それはもちろん『聖書』ですね。
『聖書』の方が歴史が古いので、今までに編集・出版された版の数も多いのはもちろんですが、その研究に向けられた努力の質と量では、MEGA周辺の研究者たちも決して負けてはいない感じがします。
そして、1883年、今から138年前に亡くなったマルクスの「預言」は今なお斎藤氏を始めとする多くの研究者(信者?)を導き、「現代の気候危機に立ち向かうための新しい武器」さえ提供してくれる訳ですね。
現象面だけを見れば、これを「宗教」と言わずして何と呼ぶのか。
『人新世の「資本論」』を読んで、マルクス主義は「宗教」だなあ、と改めて思った私です。
Marx-Engels-Gesamtausgabe
https://ja.wikipedia.org/wiki/Marx-Engels-Gesamtausgabe
お坊ちゃんとメガバイト
小太郎さん
甚だレベルの低い話で恐縮ですが。
斎藤氏の学歴の内、ウェズリアン大→ベルリン自由大→フンボルト大の約十年間、すべて奨学金で通過したのではないとすれば、生活費も含め、日本からの潤沢な仕送りが必要だったはずですが、その辺りの事情はどうなっているのでしょうね。
金持ちのお坊ちゃんは、ハリケーンの被害を見て、世の中にはこんな貧乏人もいるのか、と驚いたが(東日本大震災は留学中で見ていない)、革命家やテロリストやアサシンは怖くてなれないので、とりあえず(なんとなく)、マルクスの研究をしてみた、ということかもしれないですね。でも、『人新世の「資本論」』で儲けた印税は貧乏人にはあげないからね、と。
moonlighting
https://www.bbc.com/news/world-59673952
はじめはイギリス人らしいジョークかと思いましたが、ソ連崩壊後、プーチンが副業(moonlighting)としてタクシードライバーをしていたのは本当なんですね。
三択の内、Doorman at a discotheque などは、斎藤氏なら、ブルシット・ジョブと侮蔑するのでしょうね。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その5)
『人新世の「資本論」』、全く役に立たないということはなくて、斎藤幸平氏がバッサバッサと斬り捨てる思想のうち、「加速主義」などは特に参考になりますね。
私は「加速主義」という言葉も知りませんでしたが、斎藤氏によれば次のような立場だそうです。
「第五章 加速主義という現実逃避」の冒頭から引用します。(p206以下)
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▼「人新世」の『資本論』に向けて
ここまでの議論で明らかになったように、気候危機の時代に、必要なのはコミュニズムだ。
拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私たち自身の手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わりを迎える。資本主義でない社会システムを求めることが、気候危機の時代には重要だ。コミュニズムこそが「人新世」の時代に選択すべき未来なのである。
しかし、コミュニズムとひとくちにいっても、さまざまなものがある。本書は、晩年のマルクスの到達点と同じ立場を取って、脱成長型のコミュニズムを目指す。だがそれに対して、経済成長をますます加速させることによって、コミュニズムを実現しようという動きもある。それが、近年、欧米で支持を集めている「左派加速主義」(left accelerationism)だ。
率直にいって、「加速主義」は晩期マルクスの到達点を知らずに突き進んだ異物にすぎない。「生産力至上主義こそがマルクス主義の真髄である」という一五〇年あまり続いた誤解の産物が「加速主義」なのだ。しかし、環境危機を憂う人々のあいだで、その可能性が真剣に議論されているのである。
ここからは、この「加速主義」を反面教師として検討・批判していきたい。そうすることで、晩年のマルクス、そして本書の目指す脱成長コミュニズムの姿がよりイメージしやすくなるはずである。
これが、この第五章の狙いである。
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「拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私たち自身の手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わりを迎える」というのは『人新世の「資本論」』の主旋律で、本当に何度も繰り返し登場しますが、まあ、要するに「終末論」なので、これもキリスト教に近いですね。
日本では大正期に流行った大本教を連想させます。
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「この現状世界が木っ葉に打ち砕かれる時期が眼前に迫りました。それはこの欧州戦争(第一次大戦のこと)に引続いて起る日本対世界の戦争を機会として、いわゆる天災地変も同時に起り、世界の大洗濯が行はれるので、この大洗濯には死すべきものが死し、生くべきものが生くるので、一人のまぐれ死も一人のまぐれ助かりも無いのであります。」
「日本対世界の戦争が何時から始まるかというと、それは今からわずか一、二ケ年経つか経たぬ間に端をひらきます。」
「時期は日に日に刻々と切迫して参りました。モウ抜差しならぬ処まで参りました。眼の醒める人は今のうちに醒めて頂かねばなりませぬ。日の経つのは夢のやうですが、今から一千日ばかりの間にそれらの総ての騒動が起って、そして解決して静まって、大正十一、二年頃はこの世界は暴風雨の後の様な静かな世になって、生き残った人達が神勅のまにまに新理想世界の経営に着手してる時であります。」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10009
中間整理(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10028
さて、斎藤著に戻って続きです。(p207以下)
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▼加速主義とはなにか
加速主義は、持続可能な成長を追い求める。資本主義の技術革新の先にあるコミュニズムにおいては、完全に持続可能な経済成長が可能になると主張するのだ。
例えば、イギリスの若手ジャーナリスト、アーロン・バスターニはこの可能性を追求して、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」(fully automated luxury communism)を提起し、人気を博している。
そんなバスターニも気候変動が人口増加と並んで、二一世紀における文明レベルでの危機的事態だと指摘する。とりわけ、途上国の人口増加と経済発展は、さまざまな資源消費量や、耕作しなくてはならない土地面積を増やし、地球に負荷をかける。これは、気候変動にとって取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。とはいえ、途上国の人々に対して、現在の暮らしで我慢しろと言うわけにもいかない。ここに、既存の環境運動の困難があるとバスターニは考える。
ここまでは本書と共通する問題意識である。けれども、その先の見解は大きく異なる。近年著しい発展を見せている一連の新技術を利用すれば、こうした問題は一挙に解決できると、彼は考えているのだ。
牛を育てるのには、膨大な面積の土地が必要となるが、どうするか? 工場で生産される人口肉で代替すればいい。では、人々を苦しめる病気はどうするか? 遺伝子工学によって解決可能である。オートメーション化は、人間を労働から解放してくれるが、ロボットを動かすための電力はどう確保するのか? 無限で、無償の太陽光エネルギーでまかなえばいい!
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ちょっと長くなったので、いったんここで切ります。
>筆綾丸さん
>すべて奨学金で通過したのではないとすれば、生活費も含め、日本からの潤沢な仕送りが必要だったはずですが
「私立の中高一貫校」卒業までの教育費とアメリカ・ドイツの留学先での学費・生活費を通算したら、フェラーリの二・三台は買えそうですね。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その6)
続きです。(p208以下)
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たしかに、リチウムやコバルトのようなレアメタルが地球上に存在している量は限られている。だが、バスターニによれば、それも心配無用だ。なぜなら、宇宙資源探索の技術が発達すれば、地球のまわりにある小惑星から資源が採掘可能になるからである。バスターニにとっては、自然的限界など存在しない。
もちろん、これらの技術は現段階では汎用性はなく、商業化しても、採算は合わない。それでも、彼は楽観的である。「ムーアの法則」による指数関数的な技術開発のスピードによって、近いうちに、これらの技術が実用化されるようになると予測するのだ。
そして、実用化が進んで、当該部門での生産力が上昇すると、最終的には、市場の価格メカニズムにとっても革命的な変化が生じるとバスターニは述べる。というのも、価格メカニズムは希少性が存在するところでしか作用しないからだ。例えば、空気は潤沢に存在しているので、空気には価格がつかない。空気と同様、太陽光や地熱も潤沢であり、化石燃料とは異なって、設備費の減価償却さえすめば、あとは無償のエネルギー源になる。
指数関数的な生産力発展を推し進めていけば、あらゆるものの価格は下がり続け、最終的には、自然制約にも、貨幣にも束縛されることのない、「潤沢な経済」になる。それが、「完全にオートメーション化された豪奢なコミュニズム」だと、バスターニは主張する。そこでは、人々は環境問題を気にすることなく、好きなだけ自由に、無償の財を利用することができるようになるだろう。
バスターニにとっては、それこそが、「各人はその必要に応じて受け取る」というマルクスのコミュニズムの実現だというわけだ。
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うーむ。
面白いなとは思いますが、これが左翼だ、「コミュニズム」だと言われると、何だかよく分りません。
私は「加速主義」などという言葉すら知らなかったので、とりあえずウィキペディアを見てみると、斎藤氏の説明とはかなり異なる印象を受けます。
加速主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E9%80%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9
英語版には、
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The term "accelerationism" was first coined as a neologism by professor and author Benjamin Noys in his 2010 book The Persistence of the Negative to describe the trajectory of certain post-structuralists who embraced unorthodox Marxist and counter-Marxist overviews of capital, such as Gilles Deleuze and Félix Guattari in their 1972 book Anti-Oedipus, Jean-François Lyotard in his 1974 book Libidinal Economy and Jean Baudrillard in his 1976 book Symbolic Exchange and Death.
https://en.wikipedia.org/wiki/Accelerationism
とあるので、「加速主義」という言葉自体、2010年に造語されたばかりで、その用法もずいぶん混乱している感じですね。
そして、日本語版・英語版のいずれにもバスターニなる人物が登場しないので、この人が何者なのかを検索してみると、「シノドス」に次のような記事があります。
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テクノロジーの恩恵を万人に、すべての人々に贅沢を!――『ラグジュアリーコミュニズム』(堀之内出版)
橋本智弘(訳者)ポストコロニアル理論・文学
イギリスで注目の若手論客アーロン・バスターニとは何者か?
本書は、アーロン・バスターニの初の著書Fully Automated Luxury Communism (Verso, 2019)の全訳である。バスターニはイングランド南部の都市ボーンマスで生まれ育ち、現在はロンドンを拠点に活動するジャーナリストだ。2011年にオンラインニュースメディアのNovara Mediaを共同創設し、以来ウェブ上の記事やYouTubeチャンネルを通じてジャーナリズム活動を展開している。また、2015年には、博士論文「ストライキ! オキュパイ! リツイート!――緊縮イギリスにおける集団的アクションと接続的アクションの関係」により、ロンドン大学から博士号を取得している。
https://synodos.jp/library/27328/
この記事の中で斎藤氏のバスターニ評も出ているので、当該部分と『人新世の「資本論」』を合わせて読むと、バスターニの位置づけもかろうじて分かりますね。
橋本智弘氏の翻訳は来年出るそうですが、正直、何だか騒々しい感じの本なので、私としてはある程度評価が定まってから読もうと思います。
ところで、バスターニは珍しい姓ですが、父親はイラン人で、イラン革命を逃れてイギリスに渡った人だそうですね。
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Aaron Bastani was born as Aaron Peters in Bournemouth to a single mother. She was employed in cleaning, the service industry and social care, and voted for the Conservative Party. His Iranian father Mammad Bastani was made a British refugee during the Iranian Revolution. He took the name Bastani in 2014; his mother died in 2015.
At the Royal Holloway, University of London, Bastani completed a PhD titled Strike! Occupy! Retweet!: The Relationship Between Collective and Connective Action in Austerity Britain under the supervision of Andrew Chadwick.At weekends, he sold tomatoes while working on Novara Media projects. He held a significant role in the 2010 United Kingdom student protests against increased tuition fees as an activist and organiser.During protest attendances as research for his PhD, Bastani was arrested twice, leading to a six-month extension.After he used a bin to jam open an HSBC bank door at a 2011 protest, he was convicted of a public order offence and served a year's community service at Mind and as a leaf sweeper. He completed the PhD in 2015.
https://en.wikipedia.org/wiki/Aaron_Bastani
母親の職業からしておよそ裕福な家庭に育ったはずもなく、学生運動で二度逮捕されるなど、学者ではなく活動家として頭角を現した人のようですね。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その7)
アーロン・バスターニが1983年か84年生まれかはっきりしないのも謎ですが、『Fully Automated Luxury Communism (完全にオートメーション化された贅沢な共産主義) 』のような本が、仮にも「コミュニズム」の名で語られるのが一番の謎ですね。
同書の宣伝文句を翻訳すると、
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労働、希少性、資本主義を超えた新しい社会のための異なる種類の政治
21世紀には、新しい技術が私たちを労働から解放するだろう。イートメーションは完全雇用の上に築かれた経済を弱体化させるのではなく、むしろ全ての人にとって自由、贅沢、幸福の世界への道である。技術の進歩は、食料、医療、住宅といった商品の価値をゼロに近づけるだろう。
再生可能エネルギーの進歩は化石燃料を過去のものにするだろう。必須の鉱物は小惑星で採掘されるだろう。遺伝子工学と合成生物学は寿命を延ばし、病気を殆ど消滅させ、人工肉を提供する。新しい地平線が手招きしている。
『Fully Automated Luxury Communism (完全にオートメーション化された贅沢な共産主義) 』において、アーロン・バスターニは並外れた希望のビジョン、私たちがどのように豊饒なるエネルギーに移行し、90億人の世界に食料を与え、労働を克服し、生物学の限界を超え、すべての人に意味のある自由を確立するかを示している。このような社会は、最終目的地ではなく、歴史の始まりを告げるものにすぎない。
https://www.versobooks.com/books/3156-fully-automated-luxury-communism
といったことになるかと思いますが、まるで遥か半世紀前、石油危機以前に流行った「未来学」のような感じです。
これが社会運動とは無関係な理系の学者あたりの主張ならともかく、何ともエネルギッシュな風貌と鋭い舌鋒の持ち主である、まだ若い「左翼」活動家から出てくるところが驚きです。
Fully Automated Luxury Communism | Aaron Bastani
https://www.youtube.com/watch?v=1kxzplDg0CE&t=59s
さて、アーロン・バスターニの主張に対する斎藤氏の見解はいかなるものか。(p210以下)
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▼開き直りのエコ近代主義
しかし、バスターニのような楽観的予測こそ、晩期マルクスが決別した、あの生産力至上主義の典型である。これは、最近では「エコ近代主義」(ecomodernism)と呼ばれている。エコ近代主義は、原子力発電やNET(九一頁参照)などを徹底的に使って、地球を「管理運用」しようという思想である。自然の限界を認識して、自然との共存を目指すよりも、自然を人類のために管理することを目標とするのだ。第二章でも触れたブレイクスルー・インスティテュートを広めているのが、このエコ近代主義である。
エコ近代主義の問題点は、その開き直りの態度にある。ここまで環境危機が深刻化してしまったのだから、いまさら後戻りはできない。だから、今以上の介入をして、自然を管理し、人間の生活を守ろうというわけだ。
例えば、フランスの哲学者ブルノ・ラトゥールはこのことを「汝〔なんじ〕の怪物を愛せよ」と表現し、人類が作り出したテクノロジーという「怪物」を見捨てることは許されないと、エコ近代主義を擁護している。
むろん、バスターニやラトゥールのエコ近代主義は、ロックストロームが「現実逃避の思考」と呼ぶものである。第二章で私たちは「緑の経済成長派」の欺瞞を見たが、デカップリングが困難である以上、コミュニズムになったとしても、環境の持続可能性と無限の経済成長の両立が可能になることはない。
バスターニの加速主義的なコミュニズムにおいても、経済規模を二倍、三倍と拡大しようとするなら、結局は、より多くの資源採掘が必要となる。その結果として化石燃料から太陽光に切り替えたにもかかわらず、その差分が失われ、二酸化炭素が増大することになる。「ジェヴォンズのパラドックス」(七五頁参照)は、コミュニズムにおいても生じてしまう。
加速主義は世界の貧困を救うためにさらなる成長を求め、そのために、化石燃料などをほかのエネルギー源で代替することを目指す。だが、皮肉にも、その結果、地球からの略奪を強化し、より深刻な生態学的帝国主義を招くことになってしまうのだ。
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うーむ。
確かにバスターニの主張はあまりに楽観的のように聞こえますが、かといって斎藤氏のあまりに悲観的な予測が正しいのか。
私は、そもそも斎藤氏に現代の科学技術の水準を正確に理解する能力があるのか、という点で若干の疑問を感じます。
1987年生まれの斎藤氏は、1883年に死んだマルクスの「訓詁学」、「マルクス考古学」には練達しているのでしょうが、そうした研究に没頭していた人が、いくらまだ三十代前半の若さとはいえ、果たして近年の科学技術の水準に追いつく余裕があったのか。
バスターニの予測が正しいのか、それともバスターニ等の「エコ近代主義」を批判する斎藤氏の予測が正しいのか、はたまた両者とも間違っているのかは、あと五十年もすればある程度の結果が出るでしょうが、まあ、私としては斎藤氏の予測は極端すぎるように感じられ、それは結局は斎藤氏の科学技術に対する理解不足に起因するように思われます。
さて、ここで一曲。
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ヒロシ&キーボー「3年目の浮気」
(男)馬鹿いってんじゃないよ お前と俺は
ケンカもしたけどひとつ屋根の下 暮らして来たんだぜ
馬鹿いってんじゃないよ お前のことだけは
一日たりとも忘れたことなど なかった俺だぜ
【中略】
(男)3年目の浮気ぐらい大目にみろよ
(女)開き直るその態度が 気に入らないのよ
https://www.uta-net.com/movie/2181/
斎藤出羽守幸平(ゆきひら)
小太郎さん
イタリア語で basta così といえば、もういい、うんざりだ、やめてくれ、という意味ですが、Bastani とはスタバの新作ドリンクで、中東産のハシシで味付けされています。
加速主義はスポーツカーの永遠のテーマで、スズキよりフェラーリのほうが加速に優れています。蛇足ながら、ニュートンの運動方程式は F=ma です(Fは力、mは質量、aは加速度)。そして、力(Macht)といえば、ナチの強制収容所のスローガンは Arbeit macht frei でした(この macht は動詞ですが)。
Luxury Communism は中国共産党の新しいテーゼで、習近平以下、幹部の面々は酒池肉林にならぬ程度のラグジュアリーな生活をしています。
日本には昔から、欧米ではこんな思想が流行っている、と猿真似する傾向がありますが、こういう人は、「では」をもじって出羽守と呼ばれるそうですね。
マルクスの青い鳥
>筆綾丸さん
>出羽守
アメリカでマルクスにかぶれてアメリカ出羽守、というのはずいぶん変な話だなあと思っていたのですが、NHK出版サイトの「NHK出版新書を探せ!」という連載記事に斎藤幸平氏のインタビューが出ていて、裏事情がかなり率直に語られていますね。
「NHK出版新書を探せ!」第10回 日本人はなぜ気候変動問題に関心を持てないのか?――斎藤幸平さん(経済思想学者)の場合〔前編〕
https://nhkbook-hiraku.com/n/nd4ab4de3422b
朝日新聞グローブの記事に「東京出身。私立の中高一貫校を卒業」とあったので、開成か麻布かと思ったら、これは芝学園だそうですね。
芝中学校・高等学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
芝学園は増上寺が母体だそうですが、特に厳格な仏教教育をしている訳ではなく、斎藤氏も宗教嫌いの立派な無神論者に育ったようですね。
ウィキペディアには山田邦明氏(1957生。愛知大学教授)のお名前がありますが、山田氏は新潟県出身、十日町高校卒業のはずで、どうなっているのか。
ま、それはともかく、高校までマルクスも読んだことがなかった斎藤青年は、2005年に東大の理科?類とアメリカのウェズリアン大学に合格し、三か月だけ東大に在籍しますが、その間に廣松渉などを読んでマルクスにかぶれた訳ですね。
廣松渉(1933-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89
そして、奨学金を得てウェズリアン大学に留学し、マルクスを本格的にやりたいと思ったものの、「アメリカにはマルクスを研究できる大学なんてほとんどない」ため学部卒業後はドイツに渡ります。
しかし、「じつはドイツに行ってもマルクスをやっている人ってあまり」おらず、「フンボルト大学の博士課程に上がるときに、MEGA(Marx-Engels-Gesamtausgabe)という、マルクスとエンゲルスの新しい全集を編集する日本人研究者チームのメンバーに入れてもら」って、ここから本格的なマルクス修業が始まった訳ですね。
ところが、エコ方面からマルクスを研究した斎藤青年にとって、実は日本の文献が大いに参考になったのだそうです。
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この本〔『大洪水の前に』〕を読んで驚いたのが、日本の研究者の議論がかなり参照されていることです。それだけ日本のマルクス研究の質が高かったということでしょうか。
斎藤 僕は世界一だと思いますね。だからある意味、アメリカやドイツでマルクス研究をしたのは回り道だったとも言えるんです。私が強い影響を受けたのは、久留間鮫造や大谷禎之介ですが、彼らに限らず、日本の理論的な蓄積はものすごく分厚くあった。けれども、アメリカに留学していたせいで、学部生の頃は全然知らなかった。やっと修士2年目で読むような感じでしたから。
ドイッチャー記念賞をもらえたのも、日本の研究の一番いいところを掬えたおかげでもあるんです。物質代謝論についても今まで蓄積があったけど、日本語文献がほとんどなので、英米圏には知られていませんでした。
日本では90年代以降、その手の研究は次第に下火になっていったんですが、皮肉なことに、21世紀に入ると、アメリカで社会主義的なエコロジー研究がすごく盛り上がっていくんです。でも、日本からすると既視感があるから、上の世代のマルクス研究者は「椎名重明や宮本憲一がやってた話ね」みたいにスルーしてしまった。海外ではエコ社会主義がムーブメントになっているのに、日本の左翼のおじさんたちは、「俺らは昔からやってたよ」みたいな感じになっちゃってるわけですよ(笑)。
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私は共産主義そのものにはあまり興味がない代わりに共産主義的人間にはマニアックな興味があって、久留間鮫造は大原社会問題研究所の関係で少し調べたことがありますが、それにしても古い名前ですね。
久留間鮫造(1893-1982)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%95%99%E9%96%93%E9%AE%AB%E9%80%A0
大谷禎之介(1934-2019)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%A6%8E%E4%B9%8B%E4%BB%8B
斎藤青年が追い求めたマルクスの青い鳥は、アメリカにもドイツにもおらず、意外にも日本にいた訳ですね。
強引にまとめれば、斎藤青年はアメリカ出羽守・ドイツ出羽守かと思ったら、実は日本出羽守だった、と。
マルクスの青い鳥(その2)
斎藤青年が自慢されている「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」、私はその存在すら知りませんでしたが、ウィキペディアによれば、
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歴史家アイザック・ドイッチャーとその妻タマラ・ドイッチャー (en:Tamara Deutscher) を記念して、毎年「マルクス主義の伝統における、またはついての最高で最も革新的な新しい書物を例証する」英語で発表された新たな本に対して授与される賞である。1969年から続いている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%B3%9E
というものだそうです。
ただ、公式サイトを見ても選考者の資格や選出方法、また受賞作品の選考の基準や手順、といった情報が皆無で、何だかよく分らない賞ですね。
About the Deutscher Memorial Prize
http://www.deutscherprize.org.uk/wp/
1969年に始まったとのことですが、思想界でマルクス主義の顕著な退潮が始まった時期と重なるので、あるいは数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞でしょうか。
過去の受賞者を見ても、狭い範囲の変わり者の集団みたいな感じで、世間的にそれなりに名の通った人といえば1989年のテリー・イーグルトンや1995年のエリック・ホブズボームくらいじゃないでしょうか。
ま、別に斎藤青年が受賞したことをけないしたい訳ではなく、日本人で初受賞、しかも最年少というのは、それなりにたいしたものだとは思いますが。
さて、斎藤青年の発言の中に、
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斎藤 アルチュセールや廣松渉は、『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』の間に、理論的な断絶があることを強調しました。けれども、それでは一面的です。一方、西欧マルクス主義者たちは、若い頃のマルクスの疎外論を高く評価し、ヒューマニズム的なマルクス像という連続性を見いだしました。けれども彼らは、『資本論』理解が中途半端です。日本の場合、『資本論』の理解は深いが、宇野派の影響が非常に強かった。最近、柄谷行人や熊野純彦の本を読み直して強く感じたことですが、私が自由な読み方ができたのは、宇野派からまったく影響を受けない環境でマルクスを自由に研究できたことが大きかったと思います。だから博士論文でも、アメリカ、ドイツ、日本の間のどこかに完全に属するわけではなく、それぞれのいいところをうまく融合できたのかなという気はしますね。
https://nhkbook-hiraku.com/n/nd4ab4de3422b
とあるように、マルクス主義の硬直化に対抗するため、一時期は「青年マルクス」の研究が流行した訳ですが、近時はエンゲルスが編集した『資本論』には現れていないマルクスの晩年の思想、いわば「老人マルクス」の研究が盛んで、斎藤青年もその流れに乗っている訳ですね。
そして斎藤青年は「老人マルクス」の思想の中に現代社会が直面するエコロジー問題の解決策を見出し、
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斎藤 そうそう。上の世代のポスト資本主義や脱成長論は、たいてい日本下り坂論と合体していて、元気がでないんですよ。バブルの恩恵に与った人たちが、年をとってから反省をして、日本も資本主義ももう成長しないでいいじゃないかと言っても、若い人には老害にしか感じられませんよね。
でも、僕ぐらいの世代で脱成長をポジティブに語れば、さすがに「老害じじい」という批判はない(笑)。だからこそ、今年出した『人新世の「資本論」』で、脱成長は下り坂じゃなくて、むしろそっちのほうが豊かになるんだ、という切り口を示したかったんです。
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などと言われますが、果たして斎藤氏の主張を「元気の出ない脱成長論」から「元気の出る脱成長論」への転換を促す革新的な思想と捉える人がどれだけいるのか。
まあ、『人新世の「資本論」』を読んだ私の感想としては、まだ若くて可塑性のある時期を1883年に死去したマルクスの「訓詁学」、「マルクス考古学」に捧げた斎藤青年は、年齢的には若くとも、既に「老害じじい」となっている可能性も高いように思われます。
それはちょうど、まだ十代のグレタ・トゥーンベリが、頑固で偏屈な老女のような風貌になっていることに対応しているのかもしれません。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/greta-thunberg-un-speech_jp_5d8959e6e4b0938b5932fcb6
Deutche(r)のナゾ
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A5
物理学者のドイッチュ(Deutsch)と同じく、ドイッチャー(Deutscher)も、ドイツ、ドイツと言いながら、ドイツ人ではないのですね。
昔、ドイッチュの量子計算に関する本を読んだとき、そんなことありえないだろう、と思ったものですが、世界はいまや、量子コンピュータが主流になりつつあります。
マルクス経済学は、絶滅危惧種というより、すでに滅びた学だと思っていたので、現在もマルクス経済学の講座が大学にあることが信じられません。
出羽国(上国)の国守に相当する位階は従五位下だと思いますが、幸平(ゆきひら)氏の場合、最年少のドイッチャー記念賞受賞者なので、二階級特進して、正式な肩書きは正五位下行出羽守くらいになりますか。
大阪という、商人と漫才と維新の町で、マルクス経済学に興味のある人がいるのか、他人事ながら心配です。
斎藤幸平氏とテーラーシステム
『人新世の「資本論」』、いろいろ変なところがありますが、私が何とも古臭く感じたのは斎藤氏の労働に関する認識ですね。
「第五章 加速主義という現実逃避」は、小見出しを並べると、
▼「人新世」の資本論に向けて
▼加速主義とはなにか
▼開き直りのエコ近代主義
▼「素朴政治」なのはどちらだ?
▼政治主義の代償─選挙に行けば社会は変わる?
▼市民議会による民主主義の刷新
▼資本の「包摂」によって無力になる私たち
と続いて、賛成できるかどうかはともかく、ここまでは最近の議論が紹介されています。
しかし、その次から、どうにも古臭い変な話が登場します。(p221以下)
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▼資本による包摂から専制へ
資本による包摂が完成してしまったために、私たちは技術や自律性を奪われ、商品と貨幣の力を頼ることなしには、生きることすらできなくなっている。そして、その快適さに慣れ切ってしまうことで、別の世界を思い描くこともできない。
アメリカのマルクス主義者ハリー・ブレイヴァマンの言葉を借りれば、社会全体が資本に包摂された結果、「構想」と「実行」の統一が解体されてしまったのである。どういうことか、簡単に説明しておこう。
本来、人間の労働においては、「構想」と「実行」が統一されている。例えば、職人は頭のなかで椅子を作ろうと構想し、それをノミやカンナを使って実現する。ここには、労働過程における一連の統一的な流れが存在する。
ところが資本にとって、これは不都合な事態である。生産が職人の技術や洞察力に依存するなら、彼らの作業ペースや労働時間に合わせざるを得ず、生産力を上げることもできない。無理をさせれば、プライドの高い職人たちは気分を害して、辞めてしまうかもしれない。
そこで、資本は、職人たちの作業を注意深く観察する。そして、各工程をどんどん細分化していき、各作業時間を計測し、より効率的な仕方で作業場の分業を再構成していく。そうなると職人たちはお手上げだ。いまや、誰でもできる単純作業の集合体が、職人よりも速く、同じクオリティか、それ以上のものを作ってしまうからである。
その結果、職人たちは没落する。一方、「構想」能力は、資本によって独占される。職人の代わりに雇われた労働者たちは、ただ資本の命令を「実行」するだけである。「構想」と「実行」は分離されたのだ。
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うーむ。
斎藤氏はこれが現代資本主義の最先端の「労働」だと思われているようですが、テーラーシステムの説明としか思えません。
どうなっておるのだ、と思って、ハリー・ブレイヴァマンの名前で検索してみると、1978年に岩波から『労働と独占資本 20世紀における労働の衰退』という本が出ていますね。
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独占資本のもとでの労働過程の特性を具体的に示しつつ,特定の技術の進展が労働の性質と労働者階級の構成にもたらした帰結を,アメリカ資本主義の展開のなかで解明する.労働の衰退に基づく人間の衰退の鋭い告発.
https://www.iwanami.co.jp/book/b262283.html
びみょーな内容だなと思って、更に検索すると、ウィキペディアには日本語版はありませんが、英語版には、
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Harry Braverman (1920-1976) was an American Marxist, worker, political economist and revolutionary. Born in New York City to a working-class family, Braverman worked in a variety of metal smithing industries before becoming an editor at Grove Press, and later Monthly Review Press, where he worked until his death at the age of 55 in Honesdale, Pennsylvania.Braverman is most widely known for his 1974 book Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century, "a text that literally christened the emerging field of labor process studies" and which in turn "reinvigorated intellectual sensibilities and revived the study of the work process in fields such as history, sociology, economics, political science, and human geography."
https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Braverman
などとあります。
ハリー・ブレイヴァマンは1920年にニューヨークで生まれ、金属加工の労働者として働き、大恐慌期に急進的な労働運動に参加。
米国初のトロツキスト政党である「社会主義労働者党(SWP)」のメンバーとなり、当然、赤狩りで弾圧されて、「マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの思想を公刊し称揚することを反逆罪とした悪名高きスミス法の最初の犠牲者」の一人となります。
1950年代にSWPを除名されたりした後、編集者に転じ、60年代にはマルコムXの自伝を出すなどしたそうです。
そして彼の名前を一躍有名にした著書『Labor and Monopoly Capital』において、彼はフレデリック・テーラーの「科学的管理法」を批判したとのことなので、やはり斎藤氏の説明はテーラー批判のようですね。
ただ、フレデリック・テーラーは1856年、日本はまだ江戸時代だった頃に生まれ、1915年に死去した人ですから、テーラーの主張した「科学的管理法」は相当古い考え方です。
さすがに現代の労働関係をテーラー考案の非常に素朴な「科学的管理法」で説明する勇気のある研究者は少ないと思いますが、斎藤氏は例外的な「勇者」なのかもしれません。
フレデリック・テイラー(1856-1915)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC
>筆綾丸さん
>大阪という、商人と漫才と維新の町で
大阪市立大学は昔から左翼の牙城として有名ですね。
今は「サヨク」とでもすべきなのかもしれませんが。
外部収奪論
小太郎さん
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000355536
『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』に、ローザ・ルクセンブルクの理論(周辺からの収奪)に触れながら、以下のような対話がありますが、これを理解できる知識は私にはありません。
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佐藤??資本主義においては資本家が労働者から搾取するだけでなく、富裕層が貧困層から、というように常に社会の中枢に近い側が周縁からの収奪を行っています。(社青同)解放派はこのことを資本主義における最大の悪の一つと捉え、特にアジアに対する罪の意識を非常に強くもっていました。そして解放派のこの特徴は、他の新左翼党派にも大きな影響を与えました。
池上??大阪市立大学准教授の斎藤幸平さんが書いた二〇二〇年のベストセラー『人新世の「資本論」』(集英社新書)でも外部収奪論は特に強調されている点ですね。その意味で解放派の思想は現代に通じる部分もありそうですね。
佐藤??そのとおりでしょうね。ただ斎藤幸平さんがまさにそうなのですが、彼のようにヨーロッパでマルクス主義を学んでくると、基本的にレーニンは傍流でローザが主流なので自然とそこに注目するようにはなるんです。日本みたいに資本主義国でありながらスターリン主義系のマルクス主義が強い国は実はかなり珍しいのです。(202頁)
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NHKさまさま
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2021/12/102678.html
https://www.townnews.co.jp/0602/2021/12/03/603114.html
鎌倉駅前には、『鎌倉殿の13人』の登場キャラクターをラッピングした派手なタクシーも現れましたが、鎌倉殿の13人、というより、よってたかって義時、といった感じです。
駄レス
>>大阪という、商人と漫才と維新の町で
かつて、参議院選挙区で大阪が三人区だった頃
一位:芸人、二位:公明党、三位自民か共産(体感では三対一くらいで自民有利)
という感じでした。
今は、四人区となって、芸人枠の後を維新が襲い、公明枠が安泰で、
残りの二議席を維新と自民と共産で争うという感じでしょうか。
>>大阪市立大学は昔から左翼の牙城として有名ですね
しかし、大阪大学はマル経が華やかなりし頃からの近代経済学の牙城だったりします
斎藤幸平氏とコロナ禍
『人新世の「資本論」』関係の投稿、気づいたらこれで十二個目ですが、さすがにそろそろ終わりにしたいと思います。
私自身は斎藤氏の資本主義に対する憎悪を共有することはできませんが、その一番の理由は、斎藤氏の科学技術に関する認識を信頼できないからですね。
例えば斎藤氏は「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、コロナ禍も資本主義が悪いのだ、という主張をされています。(p278以下)
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▼コロナ禍も「人新世」の産物
本書は資本主義から離れ、脱成長コミュニズムに移行する必要性を擁護してきた。そして、ここから先は、脱成長コミュニズムをどう実現させるのか、脱成長コミュニズムがどのように気候危機を解決するのかを説明していきたい。
ただ、その前に、「人新世」の危機の先行事例としてひとつ見ておきたいものがある。新型コロナウイルスのパンデミックだ。「一〇〇に一度」のパンデミックによって、多くの人命が失われたし、経済的・社会的な打撃も歴史に残る規模だった。しかし、そうであっても、気候変動がもたらす世界規模の被害は、コロナ禍とは比較にならないほど甚だしいものになる可能性がある。コロナ禍は一過性で、ささやかなものだったと、気候変動に苦しむ後世の人々は振り返ることになるかもしれない。
そのように被害規模が違うといっても、コロナ禍を危機の先行事例として見ておく価値はある。気候変動もコロナ禍も、「人新世」の矛盾の顕在化という意味で、共通しているからだ。どちらも、資本主義の産物なのである。
資本主義が気候変動を引き起こしているのは、これまで見てきたとおりだ。経済成長を優先した地球規模での開発と破壊が、その原因なのである。
感染症のパンデミックも構図は似ている。先進国において増え続ける需要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウイルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーの占める空間は、ウイルスを抑え込むことができない。そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。
しかも、パンデミックの危険性は専門家たちによって以前から警告されていた。気候変動の危機の到来を科学者たちが悲痛な声で警鐘を鳴らしているように。
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今回のコロナウイルスの発生源がアマゾンあたりならば、このような説明も一応可能かもしれませんが、さて、どうなのか。
ま、その点は置くとして、斎藤氏は「▼国家が犠牲にする民主主義」の小見出しでアメリカのトランプやブラジルのボルソナロ大統領の悪口を言った後、「▼商品化によって進む国家への依存」を深く憂慮した上で、「▼国家が機能不全に陥るとき」において、
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また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。
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と書かれています。(p284)
ここに付された注2には、
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マイク・デイヴィス「疫病の年に」マニュエル・ヤン訳、「世界」二〇二〇年五月号、三八頁。
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とあり、私はこの記事は未読ですが、「精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化」というのは、おそらくファイザー社への批判かと思います。
しかし、ファイザー社は「抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していた」のか。
また、斎藤氏は、続く「▼「価値」と「使用価値」の優先順位」において、
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コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。
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とされるので(p285)、斎藤氏にとってEDは「使用価値」が皆無の、資本主義の悪を象徴する商品のようですね。
そして、「▼「コミュニズムか、野蛮か」」において、斎藤氏は、
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なぜコミュニズムなのか。極右の自警団やネオナチのような過激派、マフィアが支配する野蛮状態を避けようとするなら、コミュニティの自治と相互扶助が必要となるからである。生活に必要なものを、自分たちで確保し、配分する民主的方法を生み出さなくてはならない。だからこそ、来るべき危機に備えて、平時の段階から自治と相互扶助の能力を育てておく必要がある。実際、政府に頼ろうとしても助けてくれないということを、日本人はコロナ禍で学んだはずだ。
【中略】
中途半端な解決策は、長期的にはもはや機能しない。実際、右派ポピュリズムの台頭に既存の自由民主主義勢力は対抗できていない。だから、普通のリベラル左派の議論には退場してもらおう。
そして、こう言わねばならない。「コミュニズムか、野蛮か」、選択肢は二つで単純だ!
もちろん、ここで選ぶべきは「コミュニズム」である。だからこそ、国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え、自治管理や相互扶助の道を模索すべきなのである。
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と主張されます。(p286以下)
まあ、ここまで「国家や専門家」の悪口を言われるのであれば、斎藤氏はおそらくファイザー社やモデルナ社のワクチンは接種されていないのだろうなと思います。
EDのような資本主義の権化ともいうべき商品を販売していたファイザー社はもちろん、モデルナ社だって資本主義の泥沼に咲いた悪の花でしょうから、まさか斎藤氏がそんな極悪非道の企業が開発したワクチンを接種するようなことはないに決まっています。
「政府に頼ろうとしても助けてくれないということを」「コロナ禍で学んだ」斎藤氏も命は惜しいでしょうから、「国家や専門家に依存したくなる気持ちをぐっと抑え」、資本主義下の企業に期待することなく、「コミュニティの自治と相互扶助」、「生活に必要なものを、自分たちで確保し、配分する民主的方法」が新コロナに有効な新薬を開発してくれる日を待っておられるのでしょうね。
果たしてその日まで、ワクチンを接種しない斎藤氏の命は持つのか。
「コミュニズムか、野蛮か」、選択肢は二つで単純ですね。
>筆綾丸さん
『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』は未読なので、レスはのちほど。
>キラーカーンさん
大阪市立大学にはゾンバルトの蔵書もあったりして、「左翼の牙城」と決めつけるのもまずいかもしれないですね。
「ゾンバルトが蔵書を売却した理由」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9616
「その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります」(by 佐藤優氏)
>筆綾丸さん
池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみました。
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高揚する学生運動、泥沼化する内ゲバ、あさま山荘事件の衝撃。
左翼の掲げた理想はなぜ「過激化」するのか?
戦後左派の「失敗の本質」。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000355536
正直、それほど期待していなかった、というか、殆ど既知の内容なのではないかと予想していましたが、要所要所で昔の文献を簡潔に紹介するなどの工夫があって、なかなか良い本ですね。
池上氏も随所で鋭い考察を示しており、テレビで見るような単なる物知りおじさんではないですね。
さて、御指摘の部分、私も深入りできる能力はありませんが、「外部収奪論」といっても斎藤幸平氏の場合は自然からの収奪が中心ですから、「アジアに対する罪の意識」がどうしたこうした、という議論の延長線上にはあっても、かなりの飛躍が感じられます。
また、佐藤氏の「彼のようにヨーロッパでマルクス主義を学んでくると、基本的にレーニンは傍流でローザが主流なので自然とそこに注目するようにはなるんです」との見方は間違いですね。
『人新世の「資本論」』には、確かにローザ・ルクセンブルクへの言及はありますが(p56)、それもごく僅かで、そもそも斎藤氏は「ドイツ出羽守」ではありません。
「マルクスの青い鳥」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051
私にとって参考になったのは、「第三章 新左翼の理論家たち」の最後に出てくるやりとりです。(p209)
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佐藤 末端のほうは継承できるだけの知力がありませんから次第に殺しの話しかしなくなってしまったかもしれないけれど、それでもやっぱり運動を始めた人たちは非常に賢かった。ですからなおのこと、これほど多くの知的な人たちが運動を指導した半世紀後の日本がこうなっていることが不思議です。もはや社会で交わされる言葉に思想性なんて欠片もありませんから。
だから左翼というのは始まりの時点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。そしてその仕組みは、リベラルではなく左翼の思想の中のどこかにあるはずなのです。
池上 前巻でも佐藤さんが言っていたように、リベラルと左翼は全く違うもので、リベラルはむしろ資本主義の思想ですからね。
佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。
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ここは実に、私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。
思想を紡ぐ力
小太郎さん
佐藤優氏は、以下のように述べていますが、オウムの地下鉄サリン事件であれ、ダーエッシュの自爆テロであれ、「人間に思想を紡ぐ力がある以上」、これは普遍的な現象で、どうしようもない不治の病だろうな、という気がします。
斎藤氏も独りで騒いでいるうちは安全ですが、信奉者を集めて組織化したりするようになると、どうなるか、わからないですね。
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私たちがいま敢えて左翼史を若い人たちに学んでもらいたいと考え、こんな対談をしているのだって、その理由の一つは、影響を受けることで自分の命を投げ出しても構わない、そしていざとなれば自分だけでなく他人を殺すことも躊躇うまいと人に決意させてしまうほどの力をもつ思想というものが現実に存在することを知ってもらいたいからです。
そして人間に思想を紡ぐ力がある以上、それだけの力を持つ思想は今後も形を変えながら何度も現れるでしょう。
しかしそうした、人間を最終的には殺し合いに駆り立てる思想にしても、その始まりにおいては殺人とは無縁の、むしろこの世の中を良くしたいと真剣に考えた人たちが生み出したものではあるわけで、だからこそそれが、どういう回路を通ることで殺人を正当化する思想に変わってしまうのかを示したいのです。(180頁)
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付記
同書123頁に、山本義隆氏への言及がありますが、氏の『磁力と重力の発見1,2,3』は大変な名著で、昔、文字通り寝食を忘れて読み耽ったことがあります。ほとんど何も覚えていませんが、もう再読することはないと思います。
「まず三・五%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である」(by 斎藤幸平氏)
>筆綾丸さん
>『磁力と重力の発見1,2,3』
山本著は筆綾丸さんのご紹介で知って私も読んでみましたが、確かに名著ですね。
『十六世紀文化革命』も面白かったです。
「ヨーロッパはヨーロッパで独自に発見」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5093
「軽々とめぐり歩く」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/5115
>斎藤氏も独りで騒いでいるうちは安全ですが、
斎藤氏は選挙を通じての改革を明確に否定していますね。
「第五章 加速主義という現実逃避」には、次のように記されています。(p213以下)
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しかしながら、バスターニが大きな社会変革を目指しているにしても、選挙を通じて共産主義革命を起こすというビジョンは、加速主義者たちが批判する「素朴政治」とは、別の意味であまりに素朴すぎる。そして、その素朴さのゆえ、危険でさえある。
まず、資本主義の超克という生産関係の領域での変革を、政治的な改革によって、実現できると考えていることが、素朴である。これは、典型的な「政治主義」の発想にほかならない。
▼政治主義の代償─選挙に行けば社会は変わる?
「政治主義」とは、議会民主制の枠内での投票によって良いリーダーを選出し、その後は政治家や専門家たちに制度や法律の変更を任せればいいという発想である。カリスマ的なリーダーを待ち望み、そうした候補者が現れたら、その人物に投票する。変革の鍵となるのは、投票行動の変化である。
【中略】
実際、政治重視の社会改革は、スティグリッツのような経済学者のやり方である。ジジェクのスティグリッツ批判を思い出そう(一三〇頁参照)。議会政治だけでは民主主義の領域を拡張して、社会全体を改革することはできないのだ。選挙政治は資本の力に直面したときに必ずや限界に直面する。政治は経済に対して自立的ではなく、むしろ他律的なのである。
国家だけでは、資本の力を超えるような法律を施行できない(そんなことができるならとっくにやっているはずだ)。だから、資本と対峙する社会運動を通じて、政治的領域を拡張していく必要がある。
-------
「資本主義の超克という生産関係の領域での変革を、政治的な改革によって、実現できる」はずがない、というのが斎藤氏の確固たる信念のようですが、では具体的に何をしようとしているのか。
その具体策は、例えば「市民議会」なのだそうです。(p215以下)
-------
▼市民議会による民主主義の刷新
その一例が、近年欧米で注目されている「気候市民議会」である。市民議会(citizens' assembly)が一躍有名になったのは、イギリスの環境運動「絶滅への反逆」とフランスの「黄色いベスト運動」の成果である。これらの運動は、その背景は異なるものの、どちらも道路や橋を閉鎖し、交通機関を止めるなどして、都市機能を麻痺させ、日常生活に大混乱をもたらしたのだった。
-------
フランスでは、この後、マクロンとの折衝があって、「気候市民議会」が開かれることになったそうですが、
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市民議会の特徴は、なんといっても、その選出方法である。選挙ではなく、くじ引きでメンバーが選ばれるのだ。ここに選挙で選ばれる国会との決定的な違いがある。もちろん、くじ引きといっても完全にランダムではなく、年齢、性別、学歴、居住地などが、実際の国民に近くなるように調整される。
そして、市民議会においては、専門家がレクチャーを行い、そのうえで参加者は議論を行い、最終的には、投票で全体の意思決定をする。
-------
のだそうで(p217)、私には何が素晴らしいのかさっぱり分かりません。
要は選挙による代表ではなく、国民の縮図を作って、そこで多数決を行うのだそうですが、専門知識がないただの素人が集まっても、そこできちんとした「議論」がなされるはずもなく、「レクチャー」をした特定の「専門家」による誘導・扇動・洗脳の結果が表明されるだけですね。
斎藤氏は、
-------
市民議会の提案がここまでラディカルな内容になったのは、民主主義のあり方が抜本的に変容したという事実からけっして切り離せない。さらに、この変化をもたらしたのが、社会運動だったという点も強調しておこう。
-------
などと絶賛されていますが(p217以下)、「市民議会の提案がここまでラディカルな内容になったのは」選挙で勝てない特定の勢力が「レクチャー」する「専門家」の選定に集中したからでしょうね。
斎藤氏は「この変化をもたらした」「社会運動」が「道路や橋を閉鎖し、交通機関を止めるなどして、都市機能を麻痺させ、日常生活に大混乱をもたらした」ことをあまり「強調」されませんが、「民主主義のあり方」を「抜本的に変容」させるためには、多少の犠牲、「社会運動」で病院へ行けなくて死んだような人がいたとしても、それは仕方ないということなのでしょうね。
そして、こうした非民主的勢力の常として、「市民議会」で掠め取った「民意」を錦の御旗にして、以後は新たな「民意」の形成を排除することにしたのでしょうが、それはまさにボルシェビキのやり方です。
斎藤氏がレーニンの後継者であることは、『人新世の「資本論」』では別に隠されている訳ではありません。
マルクス主義の古典的理解によれば、革命の主体は労働者ですが、斎藤氏は「肝心なのは労働と生産の変革なのだ」(p291)などと言いつつ、実際には「脱成長コミュニズム」という革命の主体を労働者には求めておらず、それは気候変動危機に目覚めた「市民」の役割になっています。
「おわりに─歴史を終わらせないために」には、
-------
もちろん、資本主義と、それを牛耳る一%の超富裕層に立ち向かうのだから、エコバッグやマイボトルを買うというような単純な話ではない。困難な「闘い」になるのは間違いない。そんなうまくいくかどうかもわからない計画のために、九九%の人たちを動かすなんて到底無理だ、としり込みしてしまうかもしれない。
しかし、ここに「三・五%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
【中略】
けれども、そろそろ、はっきりとしてNOを突きつけるときだ。冷笑主義を捨て、九九%の力を見せつけてやろう。そのためには、まず三・五%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。
-------
とありますが(p361以下)、これはレーニンの「前衛党」の発想と同じです。
もちろん、「「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると」となってはいますが、斎藤氏は「資本主義の超克という生産関係の領域での変革」を目指し、現在の憲法秩序、例えば「職業選択の自由」(憲法第23条)を否定することを目指しているので、「非暴力」で済むはずはないですね。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11036
レーニンのゾンビ
小太郎さん
https://www.lefigaro.fr/international/la-russie-prise-dans-les-griffes-de-son-passe-communiste-et-imperial-20211221
ソ連崩壊後30年に関するフィガロの記事ですが、写真はレーニン没後97周年記念式典(本年1月)の模様で、執行者並びに列席者は3人だったようです。100周年記念となれば、もう少し増えるのかもしれません。
Mais son cadavre bouge encore et menace l'Ukraine.(しかし、URSSの骸はまだ蠢いていてウクライナを脅かす)とあり、アメリカ(NATO)との交渉が決裂すれば、ロシアはウクライナに侵攻するのでしょうね。
斎藤氏の主張は、内乱の予備(陰謀)とは言いませんが、荒唐無稽な囈言ですね。
レーニンとスターリンの距離
>筆綾丸さん
>レーニン没後97周年記念式典(本年1月)
ロシアではレーニンの銅像は結構残っているようなので、ご紹介の記事、いくら何でもパレード(?)が地味すぎるように感じました。
少し検索してみたら、『朝日新聞GLOBE』の服部倫卓氏(一般社団法人ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究所所長)の2020年4月20付記事に、
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ロシアからレーニン像がなくならない理由
生誕150周年を機に考える
4月22日は、ウラジーミル・レーニン生誕から150周年という記念の日でした。言うまでもなく、1917年の社会主義ロシア革命の立役者にして、それにより成立したソビエト・ロシアの最高指導者です。レーニンは1870年4月22日の生まれですので、そこからちょうど1世紀半の年月が経過しました。
【中略】
というわけで、ロシアでいまだにレーニンの名前やレーニン像が至る所にあるからといって、レーニンという人物がロシア国民の大ヒーローというわけではありません(増してやマルクス・レーニン主義は何の関係もありません)。その証拠に、新しく出来た施設にレーニンの名前が付けられたとか、新たにレーニン像が作られたといった話は、聞いたことがありません。あくまでも、以前からあったものを否定はしない、というだけなのです。
https://globe.asahi.com/article/13331211
とあります。
積極的にレーニンを讃美している訳ではないけれど、もはや古い伝統だからそれなりに大切にしよう、みたいな感じですかね。
プーチンも自分の祖父がレーニン、スターリンの料理人であった、というずいぶん前からの噂を認めましたが、それもレーニンに対する特別な感情とは結びついていないようですね。
プーチンの祖父は「レーニンの料理人」だった(『東洋経済オンライン』)
https://toyokeizai.net/articles/-/212266
ところで私の地味ブログ、最新の記事が一番読まれるのが通例なのですが、昨日は何故か四年前の、
レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの「三角関係」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4912e353610bdb7b1fc146dccf4d0ca4
という記事が一番でした。
レーニンというと、前にも一度書いたことがありますが、遥か昔の学生時代、私は渓内謙氏の「比較政治論」という講義を聴講したことがあります。
渓内謙(1923-2004)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%93%E5%86%85%E8%AC%99
別にソ連に特別な興味があった訳ではなく、割と簡単に単位を取れそう、くらいの軽い気持ちで、階段教室の後ろの方で時々居眠りしながら聞いていただけなのですが、当時、私が渓内氏の講義から漠然と受けた印象は、レーニンは立派だったけどスターリンがソ連の方向を歪めてしまった、みたいな感じでした。
ま、それは些か乱暴すぎる纏めでしょうが、ソ連崩壊前はレーニンの活動の実態について史料的な制約が大きく、レーニンとスターリンの関係は専門家でも正確には把握できていなかったはずですね。
フルシチョフによるスターリン批判の後でも、レーニンまで否定するとソ連の体制が最初から全然ダメだったという話になってしまいますから、レーニンのあまり芳しくない行動についての史料はずっと隠されていて、レーニン夫妻とイネッサ・アルマンドの奇妙な「三角関係」など、おそらく極秘中の極秘だったのだろうと思います。
そして、新史料がソ連崩壊後に公開されるようになって、今ではスターリンはレーニンを否定してソ連を誤った方向に導いたのではなく、仮借なき政治的暴力の行使においても、スターリンこそがレーニンの最も正統的な後継者であることが明らかですね。
さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏は1987年生まれで、「ソ連を知らない」、「物心ついてから資本主義が自分の生活に恩恵をもたらしてくれたという経験が希薄で、社会主義的なものが悪いものだという体感もあまりない」ことを肯定的に、どこか自慢っぽく主張されています。
「人新世の『資本論』」なぜここまで売れるのか(『朝日新聞GLOBE』サイト内)
https://globe.asahi.com/article/14407032
そして『人新世の「資本論」』において、斎藤氏はスターリン批判めいた表現を繰り返しますが、レーニンを積極的には否定しない立場なので、実際にはスターリンへの道も近そうです。
「ソ連を知らない」純朴な若者たちは、斎藤氏のような人には近づかないのが賢明ですね。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
12月23日の投稿「斎藤幸平氏とコロナ禍」において、斎藤著の、
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また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やED(勃起不全)の治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
という記述(p284)は、斎藤氏が引用するマイク・デイヴィスなる人物がファイザー社批判として述べたのではないか、と推測しましたが、これは正確ではありませんでした。
『世界』932号(2020年5月)の「疫病の年に」を確認してみたところ、まずマイク・デイヴィス氏は、
-------
1946年、アメリカ・カリフォルニア生まれ。歴史家。邦訳書に『要塞都市LA』(青土社)、『感染爆発』(紀伊國屋書店)、『自動車爆弾の歴史』(河出書房新社)、『スラムの惑星』(明石書店)ほか。
-------
という人物で、「歴史家」というよりは「活動家」っぽい感じがします。
そして、この「論文」に付された酒井隆史氏(大阪府立大学教授)の「解説」によれば、
-------
一九九〇年代以降、予見的で画期的な著書をいくつも公刊し、揺るぎない影響力をもつデイヴィスであるが、その知的キャリアは一直線のものではない。一九四六年にカリフォルニアに生まれたデイヴィスは、家庭の事情もあり大学進学もせず食肉工場で働きながら、一九六〇年代の激動に飛び込み、数年間の活動家としての生活を送る。一九七〇年代にはトラック運転手として働くかたわら、独学でマルクスやサルトルを学び、一念発起して大学でアイルランド史の研究に着手する。それからも『ニューレフト・レビュー』誌のフルタイム編集員などを勤めつつ論文や著作を公刊するのだが、一九九〇年が転機となる。みずからの故郷であるロサンゼルスについて、その反映【ママ】と華やかさの裏面で広がる貧困、暴力、レイシズムを、ポストモダン全盛時代に抗うかのように異色のハードな分析と文体でダークに描き、「ロス暴動」を予言したとされる『水晶の都市』(『要塞都市LA』村山敏勝・日比野啓訳、青土社、二〇〇一年)が、大ブレイクしたのである。それからデイヴィスのロサンゼルス論は、災害と資本主義との関係への注目から自然史と都市論の接点へと拡がり、その試みは二〇〇一年公刊の『レイト・ヴィクトリアン・ホロコースト』(Late Victorian Holocausts: El Niño Famines and the Making of the Third World, Verso, 2001)で世界史の領域へと大胆に発展する。【後略】
-------
とのことなので(p40)、やはり「歴史家」というよりは「活動家」の要素が強く、その業績には毀誉褒貶が伴うようですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mike_Davis_(scholar)
https://en.wikipedia.org/wiki/Late_Victorian_Holocausts
ま、私自身はわざわざ著書を読んでみたいと思うような人ではありませんが、とりあえず「疫病の年に」の斎藤著に関連する部分だけを確認してみると、
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しかし、国民皆保険とそれに関連する要求は、最初のステップにすぎない。巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄したことを、予備選挙の討論会でサンダースとウォーレンのいずれも強調しなかったのは残念だ。巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている。利益をもっとも多くもたらすのは心臓病の薬、依存性の高い精神安定剤、男性の性的不能治療薬であり、院内感染や新興の病気、昔からある熱帯病の予防ではない。インフルエンザに対する特効ワクチン(すなわち、ウイルスの表面タンパク質の変異しない部分を標的にするワクチン)の開発はもう何十年ものあいだ可能であったにもかかわらず、優先するだけの利益があるとはみなされなかった。
抗生物質による医療革命が巻き返しを食らうとともに、古い病気が新しい感染と併行してあらわれ、病院は遺体安置所と化していくだろう。処方薬の法外な高値を日和見主義的に非難することはトランプでさえできるが、わたしたちに必要なのは、製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョンだ(これはかつて行われている─第二次世界大戦中に米軍はジョナス・サルクその他の研究者たちに初のインフルエンザ・ワクチンを開発するよう協力を求めた)。一五年前、自著『感染爆発─鳥インフルエンザの脅威』のなかで、わたしはこう書いている。
ワクチンや抗生物質、抗ウイルス薬を含む、救命に必須の医療品へのアクセスは、万人
に無償で保障される人権たるべきだ。そうした薬を安く生産しても採算がとれる市場が
ないなら、政府や非営利団体がその製造・配布の責任を負うのが当然だろう。いついかな
るときも、貧しい人々の命は巨大製薬会社の利益に優先されなければならない。
現在のパンデミックは、真に国際的な公衆衛生の基盤が欠落するなかで、資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能だという議論をさらに広げている。だが、民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤は決して存在しえない。
その実現には第二のニューディール政策を超えた人類生存のための独立した社会主義的計画が必須だ。オキュパイ運動後、進歩派は収入と富の不平等に対する闘争を最優先することに成功し、それはそれですばらしい成果だった。だが、社会主義者は医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する次のステップに今こそ踏み切らねばならない。
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といった具合です。(p38以下)
「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」、「巨大製薬会社一八社のうち一五社は完全にこの分野を切り捨てている」とあるだけで、すぐ後に「男性の性的不能治療薬」への言及はあるものの、別にファイザー社を批判している訳ではなかったですね。
さて、マイク・デイヴィス氏は「製薬会社の独占を解体し、救命のための薬を公共部門で生産し提供することを目指す、大胆なヴィジョン」を持ち、「医療・製薬産業を当面の標的にし、社会的所有と経済権力の民主化を提唱する」大胆不敵な「社会主義者」です。
そして、「脱成長コミュニズム」の提唱者である斎藤氏も、「資本主義のグローバル化は生物学的に持続不可能」であって、「民衆運動が巨大製薬会社と営利目的の医療の力を潰さない限り、そうした基盤〔「真に国際的な公衆衛生の基盤」〕は決して存在しえない」というマイク・デイヴィス氏の立場に賛成なのだろうと思います。
しかし、仮に巨大製薬会社潰しを行っていたら、コロナ禍へのより素晴らしい対応ができたのか。
この点、次の投稿で、「疫病の年に」のちょうど一年後、『世界』944号(2021年5月)に掲載された山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」という記事を参考にしつつ、少し検討してみたいと思います。
ギブ・ミー・チョコレート
小太郎さん
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000356343
COVID-19発生後、二年以上経過しましたが、ワクチンに関しては、この本(2021年8月)が最も優れた啓蒙書ですね。
カタリン・カリコ女史のmRNAワクチンは画期的な業績ですが、日本人がファイザーとモデルナのワクチンに群がる姿は、終戦直後のギブ・ミー・チョコレートのような既視感がありました。
『スターリン葬送狂騒曲』(2017)という映画は、有楽町の映画館で見ましたが、ソ連の歴史をよく知らないせいか、呆れるほど内容を覚えていません。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その3)
岩波書店の『世界』は、同社の宣伝文句では、
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『世界』は、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌です。創刊以来70年余、日本唯一のクオリティマガジンとして読者の圧倒的な信頼を確立しています。とりあげるテーマは、政治、経済、安全保障、社会、教育、文化など多様ですが、エネルギー、地域、労働・雇用、医療・福祉、農と食などの分野の記事も掲載しています。 もっとも良質で、もっとも迫力ある雑誌をめざします。
https://www.iwanami.co.jp/magazine/
という雑誌だそうですが、「日本唯一のクオリティマガジン」はいくら何でも厚かましいですね。
私は『世界』に「良質な情報と深い学識」があるとは思えず、もちろん購読していませんが、944号(2021年5月)は「人新世とグローバル・コモンズ」を特集しているので、図書館でバックナンバーを覗いてみたところ、当該特集自体はそれほど感心しませんでした。
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特集1 人新世とグローバル・コモンズ
人類は地球を圧倒する存在となった。
今後は、地球を管理していかなければならない。
――SF小説のストーリー設定ではない。直面する現実である。
地球史の中では一瞬の閃光にすぎない近代以降の人類の活動が、気候をはじめとする地球環境や生態系に破壊的な変化をもたらしつつある。
科学からのメッセージは明らかである。我々に残された時間は少ない。この状況を科学的に早急に把握し、人類は協調して対処する必要がある。
もし、それができなければ? 人新世=人類の時代も長くは続かないだろう。
地球というグローバル・コモンズとの向き合い方を特集する。
https://www.iwanami.co.jp/book/b577044.html
まあ、「科学」というよりは「宗教」っぽい情熱に溢れた「論文」が多いのですが、この特集とは関係のない山岡淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」には、『世界』にこんな「良質で、もっとも迫力ある」記事が載るのかと、ちょっと驚きました。
冒頭から少し引用してみます。(p32以下)
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前代未聞の薬剤─驚異的な開発スピード
パンデミックの出口は見えず、世界の人びとは恐れと倦怠の日々を送っている。ただ、この長いトンネルの向こうにもワクチンという光がさしてきた。
世界が新型コロナウイルスに翻弄されるなか、ワクチンだけは驚くべき速さで開発された。出遅れた日本でも、医療者への接種が先行して始まり、四月半ばには高齢者への接種が開始される。昨春、コロナの第一波が来たころ、一年後のワクチン実用化を予見した感染症専門家はほとんどいなかった。過去に最も早く開発されたおたふく風邪ワクチンでさえ認可までは四年かかったのだから無理もないが、「数年を要する」はずが実際には一年足らずで承認された。間違いなく、医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーションが起きている。
ゲームチェンジャーの一人は、ドナルド・トランプ前米国大統領だった。昨年五月一五日、トランプ氏が記者会見で「できるだけ早く(ワクチンを)開発、製造し、供給したい」と訴え、開発計画に「ワープ・スピード(ものすごい速さ)作戦」と名づけたときは秋の大統領選を睨んだ大言壮語のように聞こえた。「マンハッタン計画(第二次大戦中の原爆製造計画)以来の大規模な試みだ」と語るにいたっては被爆国の人間としては鼻白むばかりだった。
ところが、である。トランプ氏が確保した開発予算一〇〇億ドル(約一兆七〇〇億円)は、米国立衛生研究所と軍、製薬会社に結束を促し、有望なワクチン候補を絞り込んで開発を加速させた。製薬大手ファイザー社とドイツのバイオ企業ビオンテック社のコンビが先陣争いを制する。史上初めて、タンパク質をつくるための設計図=メッセンジャーRNA(mRNA)による感染症予防ワクチンを完成させ、承認を勝ち取ったのである。
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トランプは「リベラル」なメディアからは毛嫌いされ、その政策がきちんと紹介されることはあまりなく、また、特に新型コロナに関してはマスクを拒否する姿勢が目立ったので、非科学的な政治家であるかのような印象を与えていましたが、ワクチン開発への貢献はすごいですね。
バイデンは、少なくとも新型コロナに関してはトランプの遺産で食っているような人です。
さて、ではワクチン開発の具体的様相はどのようなものだったのか。(p33以下)
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開発スピード、有効性、安全性、さまざまな意味でmRNAワクチンは前代未聞の薬剤だ。その開発の立役者は、ビオンテックの最高経営責任者で、トルコ生まれの免疫学者、ウール・シャヒン氏である。二〇二〇年一月中旬、中国が新型コロナの遺伝子情報を発表するとシャヒン氏は直ちにmRNAワクチンの作成に取りかかった。二週間後には一〇〜二〇種類のワクチン候補薬をコンピュータ上で設計し、得意先のファイザーに共同開発を持ちかける。両者はバートナーシップを拡大し、三月半ばには最大で七億五〇〇〇万ドル(八二五億円)の仮契約を交わした。
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いったん、ここで切ります。
ウール・シャヒン(1965生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%92%E3%83%B3
>筆綾丸さん
宮坂著は未読なので、レスは後ほど。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その4)
トランプの新型コロナワクチンに対する姿勢はトランプ支持者からも理解されていないくらいなので、左翼活動家のマイク・デイヴィス氏やマルクス考古学者の斎藤幸平氏が理解しにくいのは当たり前ですね。
トランプ氏、ワクチンの追加接種を受けたと発言 ブーイング受ける
https://www.cnn.co.jp/usa/35181142.html
新型コロナワクチンの開発そのものについて検討するのは私の能力を超えますから、あくまで資本主義との関係だけを見て行きたいと思います。
テキストも山際淳一郎氏の「コロナ戦記 第8回 「死の谷」に落ちた国内ワクチン」に限定して、山際氏の見解が一応正しいことを前提にしておきます。
『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、一応の水準は確保されているはずですね。
なお、山際氏は、
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1959年愛媛県生まれ。ノンフィクション作家。
「人と時代」を共通テーマに近現代史、政治・経済、建築、医療など分野を超えて旺盛に執筆。著書は『気骨 経営者土光敏夫の闘い』(平凡社)、『田中角栄の資源戦争』(草思社文庫)、『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社)、『原発と権力』(ちくま新書)、『国民皆保険が危ない』(平凡社新書)、『あなたのマンションが廃墟になる日』(草思社)ほか多数。
https://www.kouenirai.com/profile/6487
という人物です。
さて、前回引用部分の続きです。(p34)
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ファイザーとビオンテックが選んだ戦略は「同時並行」方式だった。通常の新薬は基礎研究から動物を使った非臨床試験、人を対象とした治験(第一相〜三相臨床試験)で安全性と有効性を確かめ、当局に薬事申請する。承認後、生産体制を整備して供給を始める。
だが、米独コンビは、安全性を確認する予備的な動物実験を行なうと、一挙に四つのワクチン候補の治験にとりかかった。ウイルスを迎え撃つ抗体を十分に産生できない候補は捨て、最良のものに絞り込んでいく。並行して生産体制を整えた。承認前の工場建設はギャンブルに等しい。審査機関の米国食品医薬品局(FDA)は、いくら急いでいるといっても有効性、安全性のチェックで手抜きはしない。仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた。まるでジェット機を飛行させながら機体整備をするような開発を完遂し、mRNAワクチンは世に送り出されたのだった。
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ということで、これが「医薬品産業の秩序を激変させる破壊的イノベーション」の概要ですね。
しかし、この「破壊的イノベーション」がアメリカとドイツでなければ起きなかったかというと、どうもそうではないらしいのです。
続きです。(p34以下)
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凍結された日本のmRNAワクチン開発
水際だった手法と潤沢な資金、思い切った決断のどれが欠けてもイノベーションは起きなかっただろう。では、翻って日本のワクチン開発はどうなっているのか。出遅れは隠しようがない。政府関係者でさえ、「日本はワクチン開発において三周半遅れぐらいになってしまっている」と新型コロナ対応・民間臨時調査会のヒアリングに答えている。
だが、あまり知られていないが、mRNAワクチンに関しては、三年前、日本も十分な可能性を保持していた。そのまま開発を継続していたら事態は一変していたはずだ。
二〇一六年から一八年にかけて、日本でも感染症のmRNAワクチンのプロトタイプが作成され、動物試験で免疫原性(抗原などの異物がヒトや他の動物の体内で免疫応答を引き起こす能力)が確認されていたのである。逃した魚はとてつもなく大きかった。その先駆的研究は、免疫学者で、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のワクチン・アジュバント研究センター長だった石井健氏(現・東京大学医科学研究所教授)が製薬会社の第一三共と共同で主導していた。
当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はなかった。いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていたのだ。
歴史に「if」は禁句だが、もしも三年早く新型コロナ感染症の大流行が起きていたら、石井氏らの研究は対象をコロナに絞って治験へと進み、日本は大量のワクチンを外国から買うのではなく、輸出する側に回っていたかもしれない。いまから思えば千載一遇のチャンスだった。が、そうはならなかった。治験の予算はカットされ、プロジェクトは「死の谷」に落ちてしまったのである。石井氏は次のように振り返る。
「二〇一五年に韓国でMERS(中東呼吸器症候群)のアウトブレイクが起き、日本でも対策が急がれていました。第一三共さんがmRNAのテクノロジープラットフォーム(基盤技術の総称)の開発を一緒にやりたいと言ってくださり、厚生労働省に『緊急感染症対策』としてMERSウイルスのmRNAワクチン開発を提案して受け入れられました。MERSワクチンをつくっておけば、本物の高病原性の感染症が日本に伝播しても抗原の塩基配列、アミノ酸配列さえあれば、すぐに最適のワクチンがつくれます。しかもRNAやDNAのワクチン製造には、大きなタンクは必要なく、小さな工場を全国にたくさん設けて対応できる。そういうストラテジーで臨みました」
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長くなったので、いったんここで切ります。
新型コロナ対応・民間臨時調査会(コロナ民間臨調)
https://apinitiative.org/project/covid19/
東京大学医科学研究所 感染免疫分野 ワクチン科学分野 石井健研究室
https://vaccine-science.ims.u-tokyo.ac.jp/message/
なぜ日本はワクチン開発に出遅れたのか?
連載・東大のワクチン開発の現状を追う?mRNAワクチン開発と研究環境
https://www.todaishimbun.org/covid_19_vaccine_20210414/
緒方春朔
小太郎さん
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E6%98%A5%E6%9C%94
日本発になりえたかもしれないmRNAの話を聞くと、ジェンナーより6年早かった緒方春朔を思い出します。もし春朔の人痘法が世界的に普及していたら、ワクチンの名は、vacca(牛)に由来するvaccineではなく、homo-(anthro-、andro-)という接頭語が付いていたかもしれないですね。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その5)
僅か三年前、2018年「当時、感染症のmRNAワクチン研究ではドイツのビオンテック社と石井氏らに大きな差はな」く、「いまやファイザーと組んで全世界にコロナワクチンを提供し、飛ぶ鳥を落とす勢いのバイオメーカーと日本のアカデミアはほぼ同等のポジションについていた」にもかかわらず、何故に日本のmRNAワクチン研究は失速してしまったのか。
続きです。(p35以下)
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従来の病原体を弱毒化したワクチンや、感染能力を完全に失わせたウイルス、細菌、その一部からつくる不活化ワクチンは、鶏卵や細胞でのウイルスの培養に時間がかかるうえ、数十トン規模の培養タンクも求められる。
一方、mRNAワクチンはウイルスの遺伝子配列に応じて短期間に小さな設備で開発できる。ウイルスが変異してもゲノム情報があれば数週間以内に改良が可能だ。まさにモックアップ、後々の改良を見込んで最初に製作するプロトタイプといえるだろう。
石井氏らの開発は順調に進み、一年もたたないうちにMERSのmRNAワクチンができあがり、サルの実験でも非常によい免疫原性が得られた。さらにジカ熱や新型インフルエンザのmRNAワクチンのプロトタイプもつくる。いずれも動物実験で免疫原性を確認し、論文もまとめて、いざ臨床試験へ、とプロジェクトメンバーの士気は高まる。が、しかし。厚労省は治験の予算を認めなかった。基礎研究と非臨床試験の段階で数千万円だった費用は、人間相手の治験となれば億単位に増える。それを政府は出し渋った。ありていに言えば、「ここから先は企業とやりなさい。研究者が自分でやる必要はないでしょう」と突き放したのである。公共的観点でサポートを続けようとはしなかった。
企業側も新たな投資に及び腰だった。そもそもワクチンの市場規模は医薬品全体から見れば非常に小さく、感染症の流行が終息すれば製剤は在庫の山と化す。投資に見合う利益が望めない。日本初の感染症mRNAワクチンは官と民の「死の谷」に落ちてしまった。
「反省をこめて言えば、MERSのアウトブレイクは終わり、ジカ熱や新型インフルに活路を見出そうともしましたが、まだmRNAワクチンは新しい技術で、誰もが飛びつくものではありませんでした。準備しておこうという雰囲気はあったけれど、私も含めて本当にこれが必ず必要になるという危機感や、それを政府や企業に伝えて治験を働きかける気合が足りませんでした。そこが反省点ですね」と石井氏は語る。
こうして二〇一八年、日本のmRNAワクチンの開発は凍結されたのであった。
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ということで、厚労省が僅か「億単位」の「治験の予算」を認めていれば、日本が「全世界にコロナワクチンを提供」する可能性もあった訳ですね。
日本が釣り損ねた魚はあまりに大きかったとはいえ、ドイツのビオンテックとアメリカのファイザーも簡単に現在の地位を獲得できた訳ではありません。(p36以下)
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じつはこの年、ドイツのビオンテック社も研究開発が分岐点にさしかかっていた。免疫学者のウール・シャヒン氏と医師で腫瘍学者の妻オズレム・チュレジ氏が設立したビオンテックは、二〇〇〇年代後半から一貫して、がんの免疫療法にmRNAワクチンの技術を活かそうとしてきた。がんは遺伝子変異に起因している。多様な遺伝子の変異が、がん細胞を異常に増殖させる。そうした変異に速やかに対応するにはmRNAを使った免疫療法、いわゆる「がんワクチン」がふさわしいと夫妻は考え、研究を積み重ねていた。
同年夏、そこにインフルエンザのmRNAワクチンの開発が加わる。提案したのは提携先のファイザーのウイルス感染症研究者だった。ファイザー側はビオンテックのmRNAの生産能力の高さに目をつけ、毎年流行するインフルエンザのワクチン開発に技術を活用できれば、より速く、柔軟に対応できると期待した。背景には熾烈な競争がある。
世界のワクチン市場は四一七億ドル(四兆六〇〇〇億円:グローバルインフォメーション調査、二〇一九年)と推定されている。感染症の有病率の高さや、ワクチン開発への政府支援の増加で今後五年に五八四億ドルに達すると予想される。年平均成長率は七パーセント。それがコロナ禍で一挙に拡大した。現時点で世界市場の約九〇パーセントを四大製薬会社が占めている(グラクソスミスクライン社二四パーセント、メルク社二三・六パーセント、ファイザー社二一・七パーセント、サノフィ社二〇・八パーセント「World Preview 2018,Outlook to 2024」)。ファイザーはメガファーマらしい貪欲さで、常に新分野の開拓を狙っている。ビオンテックはファイザーと四億二五〇〇万ドル(四七五億円)の契約を結び、インフルエンザ用ワクチンの開発、治験に乗り出した。
ここが日本と米独との運命の分かれ目だった。mRNAをテクノロジープラットフォームの中核に位置づけ、戦略的に資金を投じられるかどうかが、のちに新型コロナワクチンを七〇〇〇億円かけて欧米の製薬会社から買うか、世界各国に売るかの差となって現れた。
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私は医薬品業界の事情は全く不案内なので、以上の山岡氏の分析が正しいのかどうか、評価する能力はありません。
ただ、何といっても『世界』という「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)に載った記事ですから、これを前提として資本主義の意義、国家の役割について、「左翼」や「リベラル」の人びとと対話することは可能だと思います。
果たして、コロナ危機で鮮明になった資本主義の最先端の動向に照らして、マルクス考古学者の斎藤幸平氏が肯定的に引用するマイク・デイヴィスのように、資本主義を敵視し、巨大製薬会社を潰さねばならないとする立場が正しいのか。
ま、少なくともマイク・デイヴィスが書いているような、「巨大製薬会社が新しい抗生物質や抗ウイルス剤の研究と開発を放棄した」という事実がないことは、思想的立場が異なる人たちとも共通の認識とできそうですね。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11064
>筆綾丸さん
ま、一回負けただけですからね。
次の機会は近いかもしれません。
宗教的なるもの
小太郎さん
資本主義とは関係ありませんが、欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない、という根本的な問題がありますね。かりに、日本がmRNAを最初に開発できたとしても、治験の段階で、スズキがフェラーリに追い抜かれるように、アメリカにスッと追い越されたように思われます。コロナに関して、compassionate use という言葉も話題になりました。
また、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は関係ないと思いますが、アメリカの治験の異常なスピードにはプロテスタント的なものが根底にあって、ブディズム、あるいはトッド流に言えばゾンビ・ブディズムは、亀のようにとぼとぼ歩くしかないのかなあ、という気がしないでもありません。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)
>筆綾丸さん
>欧米と宗教的背景が違うため、日本では治験が進まない
前回投稿で引用した部分の続きに、
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もっとも、石井氏と第一三共の関係はプロジェクトが凍結されてもつながっていた。石井氏が二〇一九年に東大医科学研に移り、ラボを立ち上げて研究者を集め、実験ができるようになったところで新型コロナのパンデミックが起きる。逃した魚がふたたび近づいてきた。石井氏と第一三共はコロナのmRNAワクチンの開発に照準を定めた。そして、第一三共は今年三月下旬、ついに健康な成人一五二人を対象に治験を開始。二〇二二年中の供給をめざしている。石井氏は「動物実験では完璧です。ファイザーや、モデルナのワクチンに引けをとらないものができたと思います。ただ、臨床試験をしなくては本当のところはわからない。一年遅れで彼らと同じスタート地点に立てました」と感慨深げに語った。
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とありますので(p35)、現時点でどのような状況なのかは知りませんが、日本でも治験が著しく遅れるということはなさそうですね。
日本でワクチン開発が遅れた理由については山際淳一郎氏も分析していて、第一は反ワクチン運動、第二は安全保障の観点の欠如ですね。(p35以下)
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ワクチン開発を拒む国の消極姿勢
ひと口に日本は周回遅れといっても、その裏には技術の種子が撒かながら収穫にいたらなかったケースが無数に隠れている。国としての戦略が問い直されるのはいうまでもない。それにしても、かつてはワクチン開発国だった日本が、どうして海外のメーカーに依存するようになってしまったのか。ワクチンと時代の移り変わりから説き起こしてみよう。
戦後、日本は伝染病(感染症)の撲滅を掲げて復興に踏み出した。長く死因の第一位だった結核は特効薬ストレプトマイシンの導入で抑えられたが、発疹チフスや天然痘、ジフテリア、赤痢の流行が断続的に続く。一九四八年に「予防接種法」が制定され、「罰則付きの接種」が義務化された。政府は社会防衛を最優先し、ワクチン開発に拍車をかける。感染症による死亡者が大幅に減っていく傍ら、予防接種による健康被害が続出した。一九七〇年には小樽保健所での集団種痘接種でゼロ歳児が脊髄炎を発症する。一九七三年、種痘やインフルエンザ、ジフテリア、百日咳、ポリオ(小児麻痺)などのワクチンで脳性麻痺やてんかん、知的障害といった重い後遺障害を抱えた患者と家族六二組が「東京予防接種禍訴訟」を起こす。提訴の波動は大阪、名古屋、九州と全国へ広がった。
ワクチン接種には副反応がつきものだ。たとえ一〇〇万人に一人の健康被害でも、当事者にとっては確率論では済まない厳しい現実そのものである。一九七六年、国は予防接種を「罰則なしの義務」とし、「健康被害救済制度」を創設する。一九八九年、MMR(おたふく風邪・ハシカ・風疹の三種混合)ワクチンの接種で無菌性髄膜炎が多発して集団訴訟が提起された。ワクチンに使われたウイルスが十分に弱毒化されていなかったための発症で、予防接種への不信感が募った。予防接種禍訴訟の原告勝訴が確定すると、国は方針を大転換した。一九九四年、予防接種を「義務」ではなく、「努力義務」に改め、「集団」から「個別」へと接種形態を変える。個人の選択に委ねる方向に舵を切った。
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いったん、ここで切ります。
「東京予防接種禍訴訟」の経緯については、自由人権協会サイト内の下記記事が簡潔にまとめていますね。
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この訴訟は、予防接種被害について、接種医師の責任を直接に問うことをせず、予防接種を強制し、その違反に対して刑罰を科すことまでしている国のみを被告として、その責任を正面から追及するはじめての訴訟でした 。裁判は、医学上、法律上の困難な課題に取り組みつつ、第1審の判決まで11年、控訴審の判決まで19年、控訴審判決で請求が認められなかった1家族についての最高裁判決、その後の差戻控訴審での和解まで26年の長い年月の経過を要しました。しかし、判決の内容は、いずれも被害者の司法に対する期待を受けとめ、被害の法的救済を実現させる画期的なものであり、法にもとづく被害者の救済と予防接種制度の改革を実現させる大きなインパクトをもたらしたのです。
1994年には、予防接種法が改正され、予防接種は「予防接種を受けるよう努める」義務となりました。
http://jclu.org/issues/vaccination/
また、弁護団により上下二巻の大著が出ています。
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1973年に提訴された予防接種被害東京訴訟(被害者62家族)の26年間にわたる裁判記録。予防接種被害の救済を求め、被害者とその弁護士が権利の実現のためにいかに戦い、裁判所がその使命をどのように果たしたか。第1編訴訟の概要・経過では弁護団の雑談会がリアルに物語っている。第2編以降では訴状、答弁書、準備書面等、さらに意見陳述、証言、尋問調書等、原告の「生の声」をも収録した貴重なドキュメンタリー。全2巻、総1820頁に訴訟の全てを凝縮。
https://www.shinzansha.co.jp/book/b188833.html
その編者は著名な弁護士ですね。
中平健吉(元裁判官・弁護士、1925-2015)
http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/topics150319.pdf
大野正男(弁護士・最高裁判所判事、1927-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%AD%A3%E7%94%B7
こうした裁判の内容が世間に正確に理解されたかは相当問題で、反ワクチンそのものが社会正義として語られるような風潮も強くなった訳ですね。
そして、その風潮が製薬業界にどのような影響を与えたのか。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その7)
続きです。(p38)
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国の消極策は製薬業界の意欲を殺いだ。世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止める。しだいにワクチン未接種者が増え、二〇〇〇年代にはハシカや風疹が集団発生した。二〇〇八年には北海道で開かれた「G8主要国首脳会議」(洞爺湖サミット)では、事務局ホームページに「日本からハシカを持ち帰らないように、ワクチンを接種したかを確認し、まだの人は打ってください」と掲載される始末だった。
開発力の衰えを痛感した厚労省は、新型インフルエンザの流行(二〇〇九〜一〇年)を機に国産ワクチンの振興を図ろうとする。「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業」と銘打ち、細胞培養法の製造工場の完成を期して四社に交付金を付けた。北里第一三共(現・第一三共バイオテック)三〇〇億円、化学及血清療法研究所(現・KMバイオロジクス)と武田薬品工業、阪大微生物病研究会には各二四〇億円が助成される。
しかし、阪大微研は採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退。北里第一三共は当初の期限までに必要な供給体制を整備できず、さらに五年粘って設備の改良に努めたが目標に届かなかった。二〇一九年に補助金の一部を返上したうえに遅延損害金を払って終止符を打つ。武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている。
-------
「採算が合わず、早々と補助金を返還して撤退」したはずの「阪大微研」が最後の文章に再び登場するので、変だなと思って、厚労省サイトの「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業(細胞培養法:第2次事業)評価委員会」というページを見たら、やはり「阪大微研」は早期に撤退していますね。
https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-kenkou_128643.html
従って、「武田薬品と阪大微研はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」は「武田薬品と【KMバイオロジクス】はハードルをクリアしたものの惨澹たる結果に終わっている」の誤りですね。
ただ、最終評価である令和元年5月17日付の「「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、
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令和年5月13日に開催した新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会において、第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果について評価が行われました。その結果を踏まえて、今般その評価が確定し、全国民分へのワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価されましたので、その結果をお知らせします。
【評価対象事業者】
(1)KMバイオロジクス株式会社
(2)武田薬品工業株式会社
(3)第一三共バイオテック株式会社(旧:北里第一三共ワクチン株式会社)
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04757.html
とあり、更に「別紙:「新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備臨時特例交付金」第2次事業(延長分)及び追加公募分の成果等について」を見ると、
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(1)事業者ごとの評価
? KMバイオロジクス株式会社 【中略】
A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
? 武田薬品工業株式会社 【中略】
A評価。概ね事業計画どおりに事業を実施。事業目的を達成。
? 北里第一三共ワクチン株式会社 【中略】
C評価。事業目標のワクチン数量(約 4,000 万人分)を半年以内に製造可能な体制の整備は
未達成。(これを踏まえ、助成金の一部を返還させることとした。)
(2)事業全体の評価
○ 小児用ワクチンの接種用量は成人に比べて少ないことを考慮すると、全国民への
ワクチン接種が可能となる。
○ これを踏まえ、新型インフルエンザワクチン開発・生産体制整備事業評価委員会(別添)に
おいて、全国民分のワクチンの生産体制の確保という当初の事業目標を達成したと評価され
た。
https://www.mhlw.go.jp/content/10906000/000509992.pdf
とのことなので、山岡氏の酷評との整合性が取れていないように見えますが、これは業界事情を熟知した、分る人には分かる文章なのでしょうね。
文章自体には全然曖昧さはないので、いわゆる「霞が関文学」とは別の問題であろうと思われます。
ま、とにかく、山岡氏の見解が正しいのであれば、予防接種禍訴訟を契機に社会のワクチンへの風当たりが強まって、「国の消極策は製薬業界の意欲を殺」ぎ、「世界に先駆けて水痘や日本脳炎のワクチンを開発してきた業界は新規案件を止め」、「開発力の衰えを痛感した厚労省」が新たに投入した国の資金も無駄に終わってしまったようですね。
マルクス考古学者の斎藤幸平氏は、
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コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
などと言われていますが、さすがに日本でワクチン開発に製薬会社が及び腰になっていたのは、そこまで単純な理由からではないですね。
斎藤氏はもともと思考が単純なのか、それとも「資本主義においては」、書籍の内容が正確か「どうかよりも、儲かるかどうかが優先される」ので、無内容でも「どんどん売れる」本が「重要だというわけ」で、集英社が、その利潤を最大化するために、愚鈍な大衆にも分かりやすい勧善懲悪の単純明快な説明を斎藤氏に要請したのか分かりませんが、おそらく前者でしょうね。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その8)
予防接種禍訴訟の弁護団は、自分たちが正義の戦いをしているとの揺るぎない自信を持って国を相手に戦ったのでしょうが、結果的に反ワクチンの風潮を生み出したことを現時点でどのように評価すべきなのか。
具体的には、HPVワクチンの接種が激減して、ワクチンを接種していたならば死ななくて済んだ多数の犠牲者を出してしまったことをどう考えるのか。
ま、これは専門知識のない私には判断が難しい問題ですが、羹に懲りて膾を吹いてしまったのではないか、という疑いはぬぐえないですね。
『子宮頸がんとHPVワクチンに関する最新の知識と正しい理解のために』(公益社団法人 日本産科婦人科学会サイト内)
https://www.jsog.or.jp/modules/jsogpolicy/index.php?content_id=4
「積極的勧奨再開について」(同)
https://www.jsog.or.jp/modules/news_m/index.php?content_id=1104
さて、山際淳一郎氏が日本のワクチン開発の遅れの原因として挙げる二番目は国防・安全保障の観点の欠如です。(p38以下)
このような指摘が「日本唯一のクオリティマガジン」(但し自称)である『世界』に登場するのは非常に珍しい感じがします。
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安全保障の一環としてのワクチン開発
現在、コロナワクチンを製造しているのは米、英、独、中、ロ、印の六カ国だ。これらの国々と日本の間には開発動機に決定的な違いがある。それはワクチンを、国防や安全保障の一環ととらえるか否かだ。遺伝子研究の世界的権威で、がんプレシジョン医療研究センター所長の中村祐輔氏は、一一年間の滞米生活の実感をもとに、こう指摘する。
「アメリカは常にバイオテロにさらされるリスクを考えながら、ワクチン、治療薬を開発しています。新しい生物兵器で攻撃されたときにどれだけ早く対応できるかに国の命運がかかっています。コロナのパンデミックは一種の戦争状態ですから、国防の視点で軍産官学が団結してワクチン開発を進める。日本にはそういう意識がまったくありませんから、比較にならないくらい開発基盤が弱い。バックグラウンドが全然違います」
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中村祐輔氏は今年、文化功労者に選出されましたね。
その経歴はあまりに華麗で、
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1952年大阪府生まれ、68歳。1977年大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部第2外科(神前五郎教授)および分子遺伝学教室(松原謙一教授)から、1984年米ユタ大学ハワード・ヒューズ医学研究所研究員(レイ・ホワイト教授)を経て、1987年ユタ大学人類遺伝学助教授に就任。1989年に帰国後、癌研究会癌研究所生化学部長として、ユタ大学留学中に発見した遺伝子の反復配列VNTRを遺伝子多型マーカーとして活用し、家族性大腸腺腫症(FAP)の原因遺伝子として、がん抑制遺伝子APC遺伝子の単離・同定に世界で初めて成功した。
【中略】
2011年から内閣官房参与・内閣官房医療イノベーション室長を務めた後、2012年からシカゴ大学医学部腫瘍内科教授、兼、個別化医療センター・副センター長を務め、がん個別化医療の実現に貢献し、2018年より現職(公益財団法人がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長)に就任。現在も、個々の患者のがんゲノム情報に基づいたがん免疫療法の実用化を目指した研究を牽引している。
また、2018年より内閣府戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「AI(人工知能)ホスピタルによる高度診断・治療システム」のプログラムディレクターに就任している。
東京大学名誉教授、シカゴ大学名誉教授。1996年武田医学賞、2000年慶應医学賞、2003年紫綬褒章、2020年クライベイト引用栄誉賞などを受賞。
https://www.jfcr.or.jp/genome/news/8932.html
といった具合です。
ここには記されていませんが、中村氏は東証マザーズに上場している創薬ベンチャー、オンコセラピー・サイエンス株式会社の創業者の一人で、中村氏がノーベル生理学・医学賞を受賞するのではないか、という噂で株価が変動するような立場の人ですね。
「<JQ>OTSが急落 ノーベル賞の期待剥落で」(日本経済新聞2020年10月6日)
https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL06HBG_W0A001C2000000/
オンコセラピー・サイエンス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9
ま、こういう経歴の人ですから、中村氏はアメリカのワクチン開発の背景を熟知されており、その証言は信頼できますね。
さて、続きです。(p39)
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バイオテロの危険性は東西冷戦の終結後に高まった。旧ソビエト連邦の生物兵器製造組織の人や情報が流出したからだ。ソ連崩壊後に米国に亡命した、生物兵器開発のリーダーで医学者のケン・アリベックは、自著『バイオハザード』で赤裸々に告白している。
「一九九〇年一二月、われわれはエアロゾルにした新型の天然痘兵器の実験を、ベクター(現・ロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター)の爆発実験室のなかで行った。実験は成功した。コンツォヴォ(ベクター所在地)に新しく建てた第一五ビルの生産ラインで、一年に八〇トンから一〇〇トンの天然痘ウイルスを製造できることが、計算で明らかになったのだ。これと並行して、野心に燃えたベクターの若い科学者たちは、遺伝情報を改造した天然痘ウイルスを開発しており、われわれはその分野でもこの生産ラインを利用できないかと考えていた。
WHOが種痘の普及で天然痘を根絶したと宣言したのは一九八〇年だった。その一〇年後に自然界にはない天然痘ウイルスの開発が行なわれ、兵器に転用されていたことに驚きを禁じ得ない。一九九〇年代半ばには北朝鮮、イラク、イスラエル、イラン、中国、ロシア、インドなど一七ヵ国が生物兵器を所有している、と米国議会技術評価局(OTA)は上院の聴聞会で発表した。その後、このリストにはさらに多くの国が加わっている。
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ケン・アリベックの『バイオハザード』は1999年にアメリカで出版され、邦訳もあるそうですが(山本光伸訳、二見書房、1999)、私は未読です。
ケン・アリベック(1950生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF
少し検索してみたところ、山内一也氏(1930生、東京大学名誉教授)が同書について検討されていますね。
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霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第79回)6/25/99
本講座(第69回)でソ連の生物兵器計画の実質的責任者で、1992年に米国 に 亡命したケン・アリベックKen Alibekの話としてソ連における生物兵器開発の状況 や マールブルグウイルスの実験室感染による死亡事故などをご紹介しました。今回、 彼 の書いた本「バイオハザード」が出版されました。かなり派手に宣伝されているの で 、お読みになった方もいると思います。
彼の周辺での権力闘争、それにまつわるエピソードなどが多く紹介されておりソ 連 の軍事研究の実態は驚かされます。しかし実際に生物兵器に関する技術的な部分は あ まり多くありません。生物兵器の実態に関するレポートという観点では贅肉が多す ぎ ます。そこで私なりにソ連の生物兵器の実態に関する部分を拾い出して、その要約 を 試みてみます。
https://www.jsvetsci.jp/05_byouki/prion/pf79.html
ソ連からの亡命者が書いた本であるため、若干の誇張はあるのでしょうが、旧ソ連が生物兵器開発に熱心だったことは間違いないですね。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その9)
続きです。(p39)
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そして二〇〇一年、イスラム過激派が旅客機でニューヨークの世界貿易センタービルを攻撃した「9・11同時多発テロ」の一週間後、米国でバイオテロ事件が起きる。テレビ局や出版社、上院議員に炭疽菌が封入された手紙が送りつけられ、五人が死亡、一七人が負傷した。中村氏は「事件直後、DOE(米国エネルギー省)から検査会社に炭疽菌をできるだけ早く検出できる検査キットを開発しろ、と指令が出て、私の友人たちは一所懸命それをやっていました」と回想する。
捜査は長期化し、FBIの捜査線上に浮かんだ容疑者は米陸軍基地フォート・デトリック内の陸軍感染症医学研究所の微生物学者、ブルース・インビスだった。キリスト教原理主義者のインビスは、封筒に炭疽菌とイスラム過激派を装った脅迫状を入れて犯行に及んだとみられる。証拠を固めたFBIの告発が迫った二〇〇八年八月、インビスは解熱鎮痛剤を大量服用し、自ら命を断った。米国では、この炭疽菌事件後、「公衆の健康安全保障ならびにバイオテロへの準備および対策法」(バイオテロ法)が制定され、米国向けの輸出食品に厳しい規制がかかる。国際社会はバイオテロを、いま、そこの危機として受けとめた。
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「ブルース・インビス」とありますが、「イビンス」の誤記でしょうね。
ただ、ウィキペディアの英語版を見ると、「アイヴィンズ」と発音するようです。
自殺は事件の七年後で、FBIは別の人物を容疑者として追っていて、その人物との訴訟において約600万ドルの和解金で示談としたこともあったそうですから、相当な難事件だった訳ですね。
Bruce Edwards Ivins(1946-2008)
https://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Edwards_Ivins
それと、「いま、そこの危機」は clear and present danger の訳でしょうが、これはトム・クランシーの小説のタイトルで、映画化もされたので、「今そこにある危機」でないと何となく間の抜けた感じがしますね。
ま、それはともかく、中村祐輔氏のお名前と「炭疽菌」で検索すると、例えばこんな記事が出てきて、子宮頸がんワクチンについての言及もあります。
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中村 もう一つ大きな海外との意識の差があり、それはテロ対策です。2001年の9・11の直後に、アメリカで炭疽菌テロが起きました。アメリカにとってはバイオテロっていうのが現実のものなのです。その対策として、ワクチンは大きな柱の一つだったわけです。技術はもうがんで培われていて、がんゲノムのシーケンスなんてすぐにできるわけです。
【中略】
中村 免疫っていうのは、日本ではネガティブな面ばかりが強調され、それが大きくなっています。例えばワクチンで副反応が出たら、「危ないからワクチンをしない」となる。子宮頸がんワクチンがその典型です。だから日本だけが、子宮頸がんの発症率が下がっていない。ほかの国では子宮頸がんにならない時代になってきているのに、日本は高止まりしている。
結局、「公衆衛生」という概念が、あまり理解されていない。みんなの利益を考えた場合、一部の人に副反応が出ていても、それはやっぱり絶対多数の人たちのために必要なのです。もし、子宮頸がんワクチンで副反応が出た場合は、どうして副反応が出たか、どんな人に出やすいのか、原因を調べて減らしていけばいい。
https://diamond.jp/articles/-/279795
さて、マルクス考古学者の斎藤幸平氏には、もちろん国防・安全保障といった観点は存在しません。
『人新世の「資本論」』全体を通しても、そのような観点は皆無なので、一度も考えたことがないのでしょうね。
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コロナ禍の場合、商品の「使用価値」とは、薬が病気を治す力のことで、「価値」とは、商品としての薬につく値段である。ワクチンとEDの薬であれば、役に立つのは、命を救うワクチンである。だが、資本主義においては、人の命を救うかどうかよりも、儲かるかどうかが優先される。高価でもどんどん売れる薬が重要だというわけだ。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
とされる斎藤氏の資本主義の理解はあまりに素朴で、「越後屋」が悪役として登場する一昔前のテレビ時代劇のような感じがします。
山岡淳一郎氏も、もちろん製薬企業に経済的利益という目的があることには言及されていますが、それは反ワクチン運動とバイオテロを紹介した後の話です。(p40)
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金持ちしか医療を受けられなくなる日
生物兵器は国際条約で禁じられている。憲法で平和主義を謳う日本がそれに手を出すことは許されない。戦中、陸軍軍医・石井四郎率いる「七三一部隊」が中国で犯した人体実験の蛮行の記憶も残る。しかしながら、バイオテロやパンデミックから国民の命を守る「専守防衛」の観点からのワクチン開発の議論は高まってもいいのではないか。
海外諸国のワクチン開発の、もう一つの大きな動機は経済的利益の追求である。日本が購入契約を交わした三つの海外メーカーのワクチンの値段を比べると、それぞれの姿勢が見えてくる。WHOのデータによれば、ファイザー社のワクチンは一回=二〇ドル。五月に承認されそうなモデルナ(米国)社のmRNAワクチンは一回=三三ドル。ファイザーは年間二〇億回分、モデルナは一〇億回分の生産を見込んでいるので、単純計算で四〇〇億ドル(四兆三二〇〇億円)、三三〇億ドル(三兆五六四〇億円)の売り上げが立つ。
これに対し、英国のアストラゼネカ社とオックスフォード大学が開発したウイルスベクターワクチンは一回=三〜四ドル。モデルナの約一〇分の一の安さだ。
アストラゼネカ社のワクチンは、人体に無害な改変ウイルスをベクター(運び屋)として使う。新型コロナウイルスの遺伝子をベクターでヒトの細胞に運んでタンパク質をつくらせ、免疫応答を得る。ファイザーやモデルナのワクチンは超低温で保管しなくてはならないが、こちらは二〜八度の冷蔵庫に入れられる。有効率は七九パーセント、心配された血栓との因果も関係ないと確認された。総合評価の高いワクチンがこれほど安く提供されるのは、なぜか。英国が「パブリック(公)」の重要さをそこに込めているからだ。医療は広く公衆を支え、公正に分配されなくてはならないという哲理が脈打っている。アストラゼネカ社は「パンデミック期間中においては、営利を目的とせずワクチンを供給する」、つまり「原価で売る」と宣言した。
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利益獲得という目的がなかったら、例えばファイザー社とビオンテック社は「仮に承認が見送られたら数十億ドルをドブに捨てる覚悟で両社は並行プランを加速させた」(p34)といった行動はとらなかったでしょうから、ファイザー・モデルナ社の価格設定を非難するのも変ですね。
ただ、資本主義といっても、アメリカモデルが唯一の選択肢ではないことは確かです。
この点でも、斎藤幸平氏の資本主義の理解はあまりに単純ですね。
大晦日のご挨拶
最後の最後に「資本主義は「宗教」なのか」というタイトルの投稿をしようと思っていたのですが、来年への持ち越しとします。
皆様、良いお年をお迎えください。
なお、掲示板投稿の保管用のブログ「学問空間」では、12月13日の「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」以降の記事のカテゴリーを「鈴木ズッキーニ師かく語りき」に変更しました。
「ズッキーニ」は私の洗礼名です。
白梅
小太郎さん
年頭の話らしくなくて恐縮ですが。
『回顧2021』(日経12月25日)の俳句として、東日本大震災10周年に触れて、次の句が掲載されていました。しびれるような名句ですね。
しら梅の二度頷きて呑まれけりー照井翠『泥天使』
『人新世の資本論』の普及
今年も、小太郎さんの成果を楽しませて頂くとともに、時々お邪魔させていただきます。宜しくお願いします。
事情があり拙宅には毎月『浄土宗新聞』(発行は浄土宗)という印刷物が届きます。
1月号の鐸声というコラムで斎藤幸平氏の『人新世の資本論』が取り上げられています。
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斎藤氏は、人新世の文明の基盤である資本主義は、飽くなき利潤追求が目的であり、有限な地球の中で、必然的に、環境破壊、格差社会等の問題を引き起こしてしまうとする。
斎藤氏が提唱するのは、私たちの社会全体が、永遠に続く経済成長という神話から脱却して「足ることを知る」ことによる潤沢な生き方へ転換することである。
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そもそも本を読んでおらず鐸声子の記述を批評する資格がないのですが、仏教者が共産主義の色彩が強い斎藤氏の思想を取り上げるのは如何かと思います。
ところで、『鎌倉殿の13人』が始まります。頼朝や義時が描かれるのを見ないわけにはいきませんが、『平清盛』に失望させられたのは覚えているので録画してから見ようと思っています。
新年のご挨拶
明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。
>筆綾丸さん
>照井翠『泥天使』
釜石高校の国語の先生なんですね。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/81632
>ザゲィムプレィアさん
>1月号の鐸声というコラム
『浄土宗新聞』、ネットでも読めますね。
https://press.jodo.or.jp/news/
少し検索してみたところ、光圓寺という文京区のお寺さんのサイトに、
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昨年の『武器としての資本論』に続いて(というか)、『人新世の資本論』を読んでいます。この著者、斉藤さんというのですが、何と高校の後輩であるそうで、まぁ中庸な学校から俊英が出たものだと感服しております。
https://kouenji.site/2021/11/22/%e9%81%a3%e3%82%8b%e3%83%bb%e9%a6%b3%e3%81%9b%e3%82%8b/
などとありましたが、斎藤幸平氏は芝学園出身なので浄土宗とは縁のある人ですね。
四十万部を超えたという『人新世の「資本論」』の購入者の中でも私ほど熱心に読んでいる人は少ないと思いますが、私は何故かツイッターでは斎藤氏にブロックされています。
思想は異なるとはいえ、もう少し読者を大切にしてほしい、と思わないでもありません。
「マルクスの青い鳥」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)
新年早々、コミュニズムがどーしたこーした、といった話をするのも剣呑なので、大河ドラマ関係のことを少し書きたいと思います。
『鎌倉殿の13人』ブームを当て込んで続々と一般書が出版される中、山本みなみ氏の『史伝 北条義時 武家政権を確立した権力者の実像』(小学館、2021)は若手女性研究者の手になるものなので、私も注目していました。
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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公・北条義時(演・小栗旬)の生涯に迫る一冊。著者は、現在、もっとも北条義時に肉薄していると評価される新進気鋭の研究者。姉・北条政子と源頼朝の結婚、頼朝の挙兵、平家との戦い、武家政権の成立、将軍代替わりを契機とする政権内の権力闘争、将軍暗殺、承久の乱・・・・など大河ドラマのストーリーをより深く理解し、楽しめる構成。新史料を元に初期鎌倉時代政治史のミッシングリンクを解明し、『吾妻鏡』以外の公家史料も駆使して、なぜ北条氏が執権として権力掌握に成功したのか、その真相にも迫る。さらに著者の勤務先(鎌倉歴史文化交流館)が鎌倉という「地の利」を活かして考古学の成果も活用。カラー写真・図版満載で、鎌倉散策のお供にもなる書に仕上がりました。読みやすくわかりやすい文章ながら、内容は深い。
https://www.shogakukan.co.jp/digital/093888450000d0000000
といっても、私の興味の範囲も限定されていて、とりあえず「姫の前」と竹殿に着目するパターンが続いていますが、この点では山本著も従来説と代わり映えがせず、「もっとも北条義時に肉薄していると評価」できないように感じます。
ま、とりあえず山本氏の見解を確認すると、次の通りです。(p90以下)
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姫の前との出会い
頼朝が征夷大将軍に任じられた建久三年(一一九二)、義時は姫の前を正妻に迎えた。姫の前は比企朝宗の娘で、将軍御所で女房をつとめていた女性である。周知の通り、頼朝は伊豆で二十年におよぶ流人生活を送るが、その間、頼朝を支援していたのが、乳母〔めのと〕をつとめる比企尼の一族であった。朝宗は、この比企尼の近縁者といわれる。
御所ではたらく姫の前は、格別に頼朝のお気に入りで、また大変美しい容姿の持ち主であったという。『吾妻鏡』には「権威無双の女房なり。殊に御意に相叶ふ。また容顔太〔はなは〕だ美麗と云々」とみえている。
彼女のことを見初めた義時は、一、二年もの間、恋文を送り続けたが、相手にされなかった。そこで、見かねた頼朝が義時に「姫の前と絶対に離別しません」という内容の起請文(今でいう誓約書)を書かせて、二人の仲を取り持ち、無事婚姻に至ったという。ときに義時は三十歳になっていた。
義時は、姫の前とのあいだに三人の子をもうけた。婚姻の翌々年には、長男の朝時が生まれている。朝時は、のちに鎌倉の名越に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将軍として活躍することになる。
二男の重時は、建久九年(一一九八)に誕生した。重時は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は十七年にも及ぶことになる。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
娘の竹殿は、生没年未詳である。大江広元の息子親広と結ばれたが、承久の乱で親広が京方に付いたため、離別して内大臣土御門定通と再婚し、男子を出産した。鎌倉後期に成立した『百錬抄』や京都の貴族葉室定嗣の日記『葉黄記』によれば、息子の顕親は承久四年(一二二二)に誕生しているため、乱後程なくして再婚したとみてよかろう。なお、『公卿補任』に従えば、顕親の生年は承久二年(一二二〇)となるが、『公卿補任』はきわめて重要な史料である一方、誤りも多く、他の史料で確認しながら使う必要がある。ここでは、一次史料である『葉黄記』に従うのが妥当である。
このように、三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう。
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うーむ。
竹殿については改めて検討したいと思いますが、『公卿補任』に誤りが多いことは一般論として正しいとしても、肝心の源顕親の記事は、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付に、
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従三位 <土御門>源顕親<十九> 正月五日叙。左中将如元。
前内大臣(定通公)二男。母故右京権大夫平義時朝臣女。
貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
とあって、相当に詳しいですね。
山本氏は一次史料の『葉黄記』の方が信頼できると言われますが、葉室定嗣にとって顕親など親戚でも何でもなく、当該記事も宝治元年(1247)六月二日、顕親が出家したときに二十六歳であったと記しているだけです。
そんなものを「一次史料」だからといって優先してよいのか。
私としては山本氏の研究者としてのセンスを疑いたくなりますね。
ま、それはともかく、「姫の前」については山本著に続きがあります。
「源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11012
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)
山本著では比企氏の乱を論じた後、姫の前への再度の言及があります。(p125以下)
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義時の活躍と葛藤
比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は複雑であったに違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと考えられる。
乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁するほかなく、加えて妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされたのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない。苦渋の決断であったとは思うが、実父の命令に従うほかはなかったのである。
義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことであろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していたから、頼朝との誓約を守れなかったという負い目があったのではないだろうか。
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「乱後、姫の前は上洛して貴族と再婚し」とありますが、再婚相手は村上源氏傍流の歌人・源具親です。
歌人としては妹の宮内卿の方が有名ですが、具親も後鳥羽院が設けた和歌所の寄人であって、それなりの才能の持ち主ですね。
さて、姫の前と源具親の再婚が比企氏の乱の前か後かについては、一昨年(2020年)三月、森幸夫氏の『人物叢書 北条重時』(吉川弘文館、2009)を出発点として少し考えてみたことがあり、その後も折に触れて検討を重ねてきました。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10174
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10175
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10176
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その14)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10187
「同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じた」(by 森幸夫氏)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188
比企尼と京都人脈
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10189
紅旗征戎は吾が事に非ざれど……
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10192
土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
「我又武士也」(by 土御門定通)の背景事情
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10241
長村祥知氏『中世公武関係と承久の乱』についてのプチ整理(その1)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10864
呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10973
細川重男氏『頼朝の武士団』に描かれた「姫の前」
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本郷和人氏『北条氏の時代』について
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大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008
源親広と竹殿の結婚、そして離婚の時期
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土御門定通と北条義時娘の婚姻の時期について(一年半後の補遺)
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「因幡守広盛」補遺
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ま、私としては「姫の前」と義時の離縁、そして源具親との再婚は比企氏の乱の前であることは間違いないと考えています。
姫の前が源具親との間の子、輔通を元久元年(1204)に生んだことは動かせないですから、彼女が妊娠したのは同年三月くらいまでの時期です。
とすると、建仁三年(1203)九月二日の比企氏の乱で一族が全滅した後、「姫の前」が鎌倉から京都に移動し、具親と再婚してせっせと子作りに励んだ、というのはずいぶん忙しい日程であり、「姫の前」はものすごく神経が太いというか、殆どサイコパスのような人間になってしまいますね。
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その3)
それにしても「姫の前」は本当に興味深い存在で、彼女と義時の離縁が比企氏の乱の前か後かによって義時の人間像が全く逆転してしまいますね。
山本氏の文章を借りれば、
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比企氏の乱における義時の活躍は目覚ましく、一幡を取り逃したものの、乱後には新田一族を殺害している。ただし、その胸中は【特に複雑ではなかった】に違いない。第一章で述べた通り、義時の妻姫の前は比企氏出身の女性であった。彼女とは、【少なくとも重時が誕生する建久九年(1198)までの七年間は】連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていたが、【建久十年の頼朝頓死を契機として、「姫の前」側からの申し出で離縁した可能性が高く】、頼家の重篤を契機として、北条氏と比企氏との対立が表面化し、両者のあいだにも暗い影を落としたと【は考えにくい】。
乱【前】、姫の前は上洛して貴族と再婚し、義時も【乱の前か後かは不明だが】伊賀の方という新しい伴侶を得ている。結局、義時は姫の前と離縁【したが、そのため、幸いにも】妻の生家の一族を自らの手で殺める、その中心人物として行動することを余儀なくされ【ることなく、むしろ妻に離縁された屈辱を晴らすために良い機会を得た】たのであった。比企氏討伐の指揮者は父時政であり、親権絶対の中世において父親に背くことはあり得ない【のが普通であるが、義時は二年後、姉・政子とともに父時政を鎌倉から追放している】。苦渋の決断であったとは思【われず】、実父の命令に従うほかはなかった【訳でもない】のである。
【義時側から離縁を要求したのではないので】義時が何より心を痛めたのは、亡き頼朝の期待に応えられなかったことで【はなく、妻から離縁されてしまった情けない夫の立場に置かれたことで】あろう。比企氏と北条氏の一体化は、頼朝の念願であり、両氏を繋ぐ存在として期待されていたのが義時であった。彼自身も、当然そのことを理解していた【が、妻の方から離縁されてしまったので、結果的に】頼朝との誓約を守れなかったという負い目【を感じる必要がなかったことは不幸中の幸いで】あったのではないだろうか。
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ということになり、まるでオセロのように全てがひっくり返ります。
義時は比企氏の乱で苦悩するどころか、むしろ「姫の前」に離縁された屈辱を晴らす絶好の機会が到来した、と喜んだのではないか、二人の離縁は比企氏の乱の結果ではなく、むしろ原因のひとつだったのではないか、だからこそ義時は率先して比企氏打倒に活躍したのではないか、という具合いに、義時の比企氏の乱での行動は非常にすっきりと説明できそうです。
そもそも「姫の前」は無教養で無骨な義時などには全く魅力を感じることなく、しつこいラブレターにうんざりしていた立場です。
「姫の前」が義時と結婚したのは頼朝が無理強いしたからであって、三人の子ではなく、頼朝が「姫の前」と義時の「かすがい」であり、桎梏であった訳ですが、その頼朝が建久十年(1199)に死んだので、別に起請文など書いていた訳ではない「姫の前」としては、あっさりと義時に三行半を突き付けたのだろうと私は想像します。
そして、富裕な実家からの援助で京都まで大名旅行をして、義時とは違って知性と教養に溢れた歌人であり、由緒ある小野宮邸を伝承していてそれなりに豊かでもあった源具親と結婚し、幸せに暮らしていたところ、建仁三年(1203)九月、鎌倉で比企氏一族が滅亡するという大事件が発生したものの、既に実家と離れていた「姫の前」まではさすがに陰険な北条一族も手を出さず、「姫の前」は翌元久元年(1204)、無事に輔通を生んだ、ということになります。
さて、私が最後まで分からなかったのは「姫の前」と源具親の接点です。
この点、森幸夫氏は、
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源具親は能登守時代、姫前の実家比企氏─当時は比企能員が当主で能登守護であったとみられる─との関係が生じていた可能性があろう。それがどのようなものであったかは不明だが、同じ国の国司と守護との間に何らかの接点が生じたとみることはさほど困難ではない。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10188
などと言われていますが、いくら何でも不自然であり、私は比企家の京都人脈ではなかろうかと考えていました。
ただ、「姫の前」と義時の間の三人の子のうち、ただ一人生年未詳の竹殿は、まるで母「姫の前」の人生を反復するかのように、大江広元の息子・親広と離縁した後、土御門定通と再婚しています。
この竹殿の動向から見ると、竹殿の生年は割と早く、朝時に近いと考えるのが自然です。
とすると、重時が生まれるまでの間に若干の空白期間が想定できます。
他方、源具親は九条兼実のライバル・源通親に近い存在であり、通親と頼朝の関係を考えると、大姫入内の問題に「姫の前」も絡んだのではないか、という微かな可能性が出てきます。
頼朝としては、大姫入内の準備工作に「姫の前」を参加させ、「姫の前」は頼朝の要請で京都に行き、そこで通親との接点が生まれ、具親との再婚のきっかけも生まれたのでなかろうか、というのが現時点での私の仮説です。
大江広元と親広の父子関係(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11008
ま、最後の方は史料的な裏付けを取ることが難しい話になってしまいますが、人間の心理としては、けっこう自然ではないかと思います。
いずれにせよ、比企氏の乱の直後に「姫の前」が義時から離縁され、直ちに京都に行って源具親と再婚し、子供を産んだという従来説はあまりに乱暴です。
私としては、森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者に失望した後、女性研究者の山本氏にそれなりに期待したのですが、残念ながら山本氏は従来説に何の疑いも抱いておられないようです。
従って、私としては山本氏が「もっとも北条義時に肉薄していると評価」することはできず、むしろ山本氏は全く的外れな方向にタックルして頓珍漢な義時像を描き出しているのではなかろうか、と思っています。
姫の前の離婚の政治面の考察
姫の前の離婚と再婚の時期を比企氏の乱前とした方が自然だという小太郎さんの意見に賛成です。
結婚と離婚の政治的な意味を考えてみました。
北条氏は政子が頼朝の妻であり、舅の時政が頼朝を旗揚げ以来支援してきて幕府で枢要な地位を占めるとともに家の勢力を伸ばしてきました。
比企氏は比企尼に対する頼朝の信頼が篤く、頼朝の勢力が拡がるにつれ一族の人間が重用されて、家の勢力を伸ばしてきました。
比企能員の娘の若狭局が頼家の妻になり、二人の間に一幡が生まれ、将来将軍になることが予想されます。
そうなれば政子がいるために北条氏が占めていた特別な地位が比企氏に移ることになります。
それを北条氏が喜ぶはずもなく、比企氏もそれを認識していたでしょう。この地位の交代を円滑に進めるためのキーパーソンは、家督継承者であり既に十三人の一人になっていて姫の前と結婚している義時です。
北条氏の家督となる義時を適切に処遇し続ける、両氏の間にトラブルが発生した場合、必要なら家督同士が直に話合い解決を図る。これを比企氏の基本方針とするべきでしょう。
姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、
比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
しかし、そのようなことが起きた形跡はありません。吾妻鏡は義時と姫の前の結婚を隠していないのですから、もし義時が別の比企氏の女性と再婚していればそれを隠さなかったでしょう。
離婚が乱前ということは、北条氏と比企氏の間の亀裂を隠せなくなった或いは隠す気が無くなったということを意味するのではないでしょうか。
史料の裏付けの無い考察ですが、コメントを頂ければ幸いです。
大河ドラマ愛好家さんのコメントへの回答
元旦の投稿「山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)」に対して、当掲示板の投稿保管用のブログ「学問空間」で「大河ドラマ愛好家」さんから長文のコメントをいただきましたので、こちらで回答致します。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669
まず、
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『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
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との点ですが、そもそも葉室定嗣とはいかなる人物かを確認しておきます。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、葉室定嗣は、
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没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年:承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。
(本郷和人)
https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%AE%9A%E5%97%A3-1102018
という人で、土御門顕親が出家した宝治元年(1247)六月の時点では、前年の九条家没落を受け、「専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった」立場です。
仁治三年(1242)の後嵯峨即位に多大の貢献をした土御門定通は、寛元四年(1246)の後深草天皇への譲位以降も後嵯峨院政において権勢を誇っていたので、その息子が出家してしまったことは貴族社会の大事件であり、土御門定通と「後嵯峨上皇の第一の側近」である葉室定嗣との間には密接な連絡の必要が生じることになります。
従って、定嗣の日記『葉黄記』は顕親出家に関する信頼できる一次史料であることは間違いなく、この点は私にも異存はありません。
しかし、この顕親出家騒動において、顕親の年齢それ自体が重要なのか。
顕親の出家時の年齢が二十六歳か二十八歳かで、出家騒動の様相が変わってくるのか、そして葉室定嗣の出家騒動に関する認識が変わってくるのかというと、そんなことは全然ありません。
定嗣は別に顕親の親戚でも何でもなく、顕親の生年に特別な関心を抱くような立場ではなくて、たまたまこの出家騒動の経緯を日記に記録するに際して顕親の年齢もメモ程度に記しただけです。
従って、聞き違い、記憶違い等の可能性は否めません。
次に『公卿補任』の信頼性についてですが、
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次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!
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との御指摘を見て、豊臣秀吉まで広げても、この程度の誤記しか見つからないのか、と私は吃驚しました。
実は私も『公卿補任』の年齢の誤りについて別の例を調べたことがあります。
それは後深草院二条の父、中院雅忠についての記述です。
雅忠は文永九年(1272)に四十五歳で死んだと記されているので、逆算すると、安貞二年(1228)生まれのはずですが、『公卿補任』をずっと追ってみると非常に奇妙なねじれがあります。
即ち、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
『公卿補任』自体に矛盾があり、雅忠は嘉禄元年(1225)生まれの可能性もあるのですが、まあ、これはある時点で誤記に気づいたということだろうと思います。
「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10183
さて、土御門顕親の出家時の年齢について『葉黄記』と『公卿補任』のいずれが信頼できるか、という問題に戻ると、私はやはり「書き継ぎの記録」である『公卿補任』の方が信頼性が高いと思います。
既に紹介しているように、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付は、
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貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10240
という具合いに相当詳細であり、記録に連続性があります。
『公卿補任』の年齢の誤記は、貴兄が十二世紀から十六世期まで調べても僅か四例しか見つけることのできないとのことなので、もともと顕親の生年に特に関心のない葉室定嗣の単発の記録より『公卿補任』の方が信頼性が高い、と考えるのが常識的ではないかと思います。
葉室
小太郎さん
https://localplace.jp/t000174614
昔、この掲示板で、後鳥羽院の側近・葉室光親を悼んで、次のような駄歌を詠んだ記憶があります。
灌仏会
「この甘茶がいいね」と君が言ったから 四月八日は葉室幼稚園
姫の前に関する小太郎さんの新解釈によって、従来の学説が綺麗に覆るような気がします。
土御門定通が処罰を免れた理由(再論)
「大河ドラマ愛好家」さんと私の地味なバトルはブログのコメント欄で続いていて、『公卿補任』の記載に何か問題があるようですが、今のところは先方の出方待ちです。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b5f11fffa1cf848113140648d3ec4984
この地味バトルでは何となく土御門顕親の生年が論点になっていますが、私は別に顕親が承久四年(貞応元、1222)生まれであっても困る訳ではありません。
承久の乱の終結は承久三年六月十五日ですが、その後、竹殿が土御門定通に再嫁して翌年顕親を生んだとすると、竹殿が妊娠するまではどんなに長くても八か月程度です。
京都守護でありながら幕府を裏切った前夫(大江親広)が行方不明になった後、ただちに再婚すること自体が些か妙な感じがする上に、新しい夫・土御門定通も後鳥羽方で戦闘に参加していた人ですから、処刑・配流等の処罰を受ける可能性も相当あった立場です。
そんな状況下で、再婚して子作りに励みましょう、というお茶目な行動を取っていたら、夫婦そろって相当に能天気なのではないか、という感じがします。
そして、結果的に定通が全く処罰されなかったことをどう説明するのか、という重大な問題があります。
念のため確認しておくと、承久の乱に際して、定通がそれなりの軍事的活動をしていることは『吾妻鏡』承久三年六月八日条に出ています。
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寅刻。秀康。有長。乍被疵令歸洛。去六日。於摩免戸合戰。官軍敗北之由奏聞。諸人變顏色。凡御所中騒動。女房并上下北面醫陰輩等。奔迷東西。忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等云々。次有御幸于叡山。女御又出御。女房等悉以乘車。上皇〔御直衣御腹巻。令差日照笠御〕。土御門院〔御布衣〕。新院〔同〕。六條親王。冷泉親王〔已上御直垂〕。皆御騎馬也。先入御尊長法印押小路河原之宅〔号之泉房〕。於此所。諸方防戰事有評定云々。及黄昏。幸于山上。内府。定輔。親兼。信成。隆親。尊長〔各甲冑〕等候御共。主上又密々行幸〔被用女房輿〕。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm
「忠信。定通。有雅。範茂以下公卿侍臣可向宇治勢多田原等」とあるように、定通は戦場に向かっていますね。
ここで定通は一歳上の同母兄「内府」源通光(三十五歳)や四条隆親(十九歳)のように甲冑を着けていると明記されている訳ではありませんが、後鳥羽院の御幸に同行するより遥かに危険な任務を遂行している訳ですから、当然に甲冑を着ていたのでしょうね。
そして官軍の敗北後、源有雅は甲斐で、藤原範茂は相模でそれぞれ誅殺され、坊門忠信はいったんは死罪と決まったものの、妹で実朝未亡人、西八条禅尼の懇願で流罪に変更され、辛うじて首の皮一枚で命がつながっています。
しかし、定通は最初から処断の対象にならなかったばかりか、正二位権大納言の地位もそのままです。
この処遇の差はいったい何なのか。
ま、定通が承久の乱の前に既に竹殿の夫であったためだろうと私は考えます。
土御門定通が「乱後直ちに処刑」されなかった理由(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10244
>ザゲィムプレィアさん
>姫の前と義時の結婚は比企氏と北条氏の間の問題であり、姫の前の感情でどうにかなる問題では無いでしょう。もし彼女があえて離婚を望めば、比企氏としては彼女を尼にするか或いは比企郡に逼塞させて示しをつけ、替わりの一族の女性(比企能員の娘ならベスト)を妻として差し出すのではないでしょうか。
率直に言って、私はザゲィムプレィアさんの見解に全く賛成できません。
「姫の前」が主体性のない女として、比企家当主の命令のままに動く存在であるかのように考えるのは誤りだろうと思います。
そうした人物像は「権威無双の女房」という『吾妻鏡』の描写にそぐわないですね。
私が考える「姫の前」は頭の回転が速く、自分の意見をはっきり言い、しかも存在するだけで周囲が明るくにぎやかになるような華やかな女性です。
幕府の創業期が終わって、二代目・三代目の世代になると、家格や女性の役割が固定化され、女性が活躍する余地も狭まったでしょうが、創業期はまだまだ緩くて、才能に恵まれた女性は個性的な生き方が可能だったように感じます。
何より北条政子や板額御前がいた時代ですからね。
>筆綾丸さん
>葉室幼稚園
葉室定嗣が中興の祖である浄住寺のすぐ隣なんですね。
何か関係があるのかは分かりませんが。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E4%BD%8F%E5%AF%BA
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
『史伝 北条義時』(小学館、2021)の「あとがき」には、
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岡山に生まれ育った私は、歴史を学ぶなら京都に行こうという単純かつ明快な理由から京都の大学に進学した。ここから大学・大学院とあわせて、十年もの間を京都で過ごすことになる。京都では、上横手雅敬先生・野口実先生・元木泰雄先生・美川圭先生といった第一線の中世史研究者からご指導を賜った。
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とありますが(p298)、学部は京都女子大だそうですから野口実氏の影響が一番強そうですね。
また、
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なお、小学館から刊行されている雑誌『サライ』のウェブサイトでは、政子や牧の方など義時を取り巻く女性たちについて綴った文章を連載しているので、本書と合わせて読んでいただきたい。義時周辺の人間模様が、より立体的に描けるようになるはずである。
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とのことなので、『サライ』サイトで読んでみたところ、「京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】」は特に面白いですね。
この記事には、
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1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。
https://serai.jp/hobby/1033821
という指摘があります。
また、「続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】」に登場する牧の方の三女について、
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三女は、武士の宇都宮頼綱(1172〜1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172〜1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。
https://serai.jp/hobby/1036729
とありますが、「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という指摘は重要ですね。
さて、山本氏はこのように義時周辺の「なかなかパワフルな女性」たちに注目されながら、「姫の前」については、その評価はずいぶん消極的です。
山本氏は「三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう」(p91)、「彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」(p126)などと言われますが、子供が多いことから「琴瑟相和す夫婦」と決めつけるのは現代的な「良妻賢母」的発想じゃないですかね。
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1) (その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
義時周辺の「なかなかパワフルな女性」を正確に認識できる山本氏が、「姫の前」に限っては森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者と同じような女性像を想定するのは、結局のところ義時が書いたという起請文の呪縛ではなかろうかと思います。
神仏に離縁しないと誓った以上、その結婚は永遠なのだ、それを破った義時は苦悩に打ちひしがれたに違いない、とマッチョな研究者たちは思い込んでいますが、起請文を書いたのは義時だけ、という一番単純な事実を忘れていますね。
ここは「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という、多くの研究者が同意できるであろう認識に戻って、起請文など書いていない「姫の前」には離縁の自由があったと素直に考えるべきです。
重時が生まれた建久九年(1198)までの七年間はともかく、義時と「姫の前」が「およそ十年連れ添」ったとの史料的裏付けはありません。
「姫の前」が「権威無双の女房」であり、鎌倉から京都に移動して貴族と再婚した「なかなかパワフルな女性」であることを考えれば、源頼朝という「かすがい」ないし桎梏が死去した建久十年(1199)以降、ある時期に「姫の前」から離縁の申し出があって、二人は離縁した、と考えるのが自然です。
そして、その時期が早ければ早いほど、義時の心理的負担は減少し、比企氏の乱で率先垂範して比企邸に殴り込みをかけることができたはずですね。
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
山本氏は『サライ』サイトで、「姫の前」についても「出逢いと別れはどう描かれる? 義時の最初の正妻、絶世の美女・姫の前―北条義時を取り巻く女性たち5【鎌倉殿の13人 予習リポート】」という記事を書かれていますが、これは『史伝 北条義時』と同じ内容ですね。
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さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。
https://serai.jp/hobby/1041312
「親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない」というのはどうにも変で、義時と政子は二年後の「牧氏の変」で時政と牧の方を鎌倉から追放しますから、少なくとも義時と政子にとっては「親権が絶対」ということはないですね。
なお、山本氏が紹介されている、
【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】
https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k
を見たところ、次のような悲しいやり取りがありました。
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とにもかくにも、ヨシトキ君は一目ぼれの人と結婚できたからハッピーエンドってことだね!
「いやいやいや、そんなに幸せな時間は長くは続かなかったんだ。頼朝様が亡くなったあと、頼朝様の長男頼家様が鎌倉殿になるんだけど、その頼家様が病気になってしまい、またまた次の鎌倉殿を選ばないと、って話になったんだ。
それで北条氏は頼家様の弟の千幡様(11歳)を、姫の前の生家、比企氏一族は頼家様の息子一幡様(6歳)を推して対立してしまい戦うことに……。僕は武士たちを率いて比企氏一族を滅ぼしたんだ」
それって、ヨシトキ君と姫の前の関係はどうなるの?
「そう、僕が先頭を切り姫の前の生家である比企氏一族を滅ぼしたんだから………。やっぱりね。離れるしか道はなかったんだ」
結婚している相手の一族と戦うなんて残酷な出来事だな。
「うん、800年経っても忘れらないよ。あの戦いのことも、姫の前のことも。姫の前との間には二人の子供もいたしね」
その後の姫の前はどうしたんだろう。
「僕と離れてからの姫の前は京に引っ越し、しばらくして貴族と再婚したらしい。幸せだったらそれでいい、幸せを願うしか僕にはできないから」
そういえば、ソレちゃんは姫の前にそんなに似ているの?
ヤッダー!
「うん、髪の毛が長くて黒いところなんて、そっくりだよ!」
そこ!?
よし! 元気出せ! ヨシトキ君! 夕日に向かって走るよ!
「よく分らないけど、いくよ」
おー!!
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「姫の前との間には二人の子供もいたしね」は変で、実際には朝時・重時・竹殿の三人ですね。
監修者は山本氏ではなさそうです。
女のgenealogy
初歩的な疑問で恐縮ですが。
?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。
?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。何か意味があるはずである。この竹の重複は何を暗喩するのか。
付記
竹はパンダの主食というような知識は鎌倉時代にはおそらくなく、また、爺臭い竹林七賢も関係ないだろう。比企氏の家紋には竹の葉の図柄があり、武蔵国比企郡及び鎌倉比企谷は筍で有名であった、というのは、ドコモダケならぬ孟宗(妄想)竹である。
『鎌倉殿の13人』における「姫の前」の不在
「姫の前」と義時の関係は、その結婚に至る経緯が「ヨシトキ君の恋バナ」として面白い上に、通説、というか私の超絶単独説以外の定説では最後に悲劇的結末が待っているので、これまた視聴者の涙を誘って大いに盛り上がりそうです。
従って、大河ドラマに「姫の前」が登場しないはずはないと思うのですが、不思議なことに、「鎌倉殿の13人」サイトを見ても、「姫の前」のいるべき場所は未だに空白です。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/cast/01.html
私としては、ナレーターの長澤まさみが怪しいと思っていて、長澤まさみは「権威無双の女房」として最も適役のように思われるので、実は彼女が「姫の前」でした、という展開になるのではないかと疑っています。
当たれば自慢したいので、ここに記しておきます。
なお、ツイッターで相互フォローしているエミさんは、
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初恋の人・八重役の新垣結衣ちゃんが2役やるっていうのはどうでしょう?
初恋の人に似てるから好きになった説。
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1478592840007831552
という説を提唱しておられます。
>筆綾丸さん
>?姫の前の父・朝宗の朝は頼朝の偏諱、息・朝時の朝は実朝の偏諱、ということか。
前者は分かりませんが、朝時は『吾妻鏡』建永元年(1206)十月二十四日に「相州二男〔年十三〕於御所元服。号次郎朝時」とあるので、実朝の偏諱でしょうね。
「吾妻鏡入門」(『歴散加藤塾』サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma18d-10.htm
>?竹御所が若狭局(能員の娘)の娘だとすると、姫の前の娘・竹殿といい、比企氏の血をひく女性の通称に、松でも梅でもよいはずなのに、なぜ竹の字が重複するのか。
これは私も前々から気になっているのですが、ちょっと分からないですね。
資本主義は「宗教」なのか。
中世史の話題は大河ドラマの進展に合わせて随時取り上げることにして、そろそろ「新しい資本主義」の問題に戻ります。
正月三日、Eテレで夜十時から「100deパンデミック論」という番組をやっており、司会者の伊集院光以下、斎藤幸平(経済思想家w)・小川公代(英文学者)・栗原康(政治学者)・高橋源一郎(作家)といった、頭が悪いか性格が悪いか、もしくは両方を兼ね備えた人たちが「白熱トーク」をやっていました。
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古今東西の「名著」を、25分×4回=100分で読み解く「100分de名著」。スペシャル版として「100分deパンデミック論」を放送します!
今回は、「パンデミック」がテーマ。多角的なテーマから名著を読み解くことで、「パンデミックとの向き合い方」について考察します。
通常の4回シリーズではなく、100分間連続の放送でお届けします。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2022special/
私も最初の二十分ほど見て、予想通り陰気で知的水準の低い番組であることを確認してから「マツコの知らない世界大新年会SP」に変えましたが、斎藤幸平氏は、まあ、よくしゃべる人間ですね。
あれだけ無内容なことを連続的に話す能力は私にはなくて、その点は敬意を表したいと思いました。
さて、コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論なのですが、そうはいっても、旧来のコミュニズムは貧乏が正しいなどとは絶対に主張せず、生産力=富の増大と公平な分配を主張しつつも、実際にはそれがうまく機能せず、結果的に社会の全体的な窮乏化をもたらす宗教でありました。
この点、斎藤氏は貧乏それ自体が正義であることを確信しており、みんなで貧しくなろう、それもなるべく早く、という「加速主義」ですね。
斎藤理論は確かにある意味ではコミュニズムのコペルニクス的転回であり、すごいといえばすごいですね。
ところで、コミュニズムが何故「宗教」かというと、それはコミュニズムが「殉教者」を伴うからです。
マルクスの『資本論』等のコミュニズムの「根本聖典」自体に「殉教者」を要求する主張があるかというと、そこは若干の議論が必要でしょうが、少なくともレーニンは明らかに「殉教者」を求めていますね。
そして、理論ではなく現実の歴史を振り返れば、コミュニズムの歴史は夥しい「殉教者」に溢れています。
戦前の日本に限っても、『しんぶん赤旗』の記事によれば、
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1925年施行の治安維持法は、太平洋戦争の敗戦後の45年10月に廃止されるまで、弾圧法として猛威をふるいました。拷問で虐殺されたり獄死した人が194人、獄中で病死した人が1503人、逮捕された人は数十万人におよびます(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟調べ)。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-09-22/20050922faq12_01_0.html
とのことで、この全部がコミュニストという訳ではありませんが、「転向」を肯ぜず、思想に殉じたコミュニストの数は大変なものですね。
また、戦後は、いわゆる「新左翼」の「内ゲバ」で百人近い犠牲者が出ており、これも当該組織を離れれば殺されることはなかったのに、離脱せずに結果的に死に至った人々ですから「殉教者」に含めることができるはずです。
このように、コミュニズムは多数の「殉教者」を伴う「宗教」ですが、では資本主義は「宗教」なのか。
マックス・ウェーバーは資本主義とプロテスタンティズムの関連を追求しましたが、日本のように住民の多数がキリスト教を受けれなかった土地でも資本主義は根付いているので、資本主義とプロテスタンティズムの結びつきは必然的なものではないですね。
ただ、そうはいっても、資本主義に「殉教者」が伴うならば、プロテスタンティズムとの関係とは別の意味で、資本主義を「宗教」と呼ぶこともできそうです。
果たして資本主義の歴史の中で「殉教者」はいたのか。
受信料
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/Q69QJ41RGW/
間違って、この番組を見てしまいました。
坂井孝一氏は平凡なことしか言わず、井上章一氏は食えない人で、中野信子氏は脳科学者(?)らしくトンチンカンなおしゃべりをしてました。受信料の無駄遣いとしか思えない内容でした。
資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
資本主義に「殉教者」はいるのか、とか大仰なことを書きましたが、コミュニズムと違って資本主義は基本的に体制側の理念・思想なので、「殉教者」が必要になる状況自体が考えにくいですね。
ま、ロシア革命やキューバ革命などは「殉教者」が登場してもおかしくない事態でしたが、革命的争乱の中で、自分個人の財産権を守るために命を捧げた人は多くとも、資本主義という理念・思想を守るために命を懸けた人はあまりいなさそうです。
もう少し広く、「自由」を守るために命を懸ける、となるとそれなりに格調が高く、「殉教者」も多少はいそうですが、資本主義≒経済的自由に限定してしまうと、いささか格調が低くなり、「殉教者」は生まれにくいですね。
従って、「殉教者」がいないから資本主義は「宗教」ではないのだ、という結論になりそうですが、しかし、そもそも前提として「宗教」をどう定義するか、という問題があります。
先にコミュニズムについて検討した際に、「コミュニズムは貧乏神を信仰する新興宗教、というのが私のかねてからの持論」などと書きましたが、こうした悪意のある冗談ではなく、真面目にコミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います。
これは国際日本文化研究センター教授の磯前順一氏風に言うと、コミュニズムが「ビリーフ」っぽいからですね。
磯前氏の『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』はなかなか難解なので、石川明人氏の『キリスト教と日本人』(ちくま新書、2019)から、そのエッセンスを紹介すると、
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磯前順一は『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』のなかで、日本語で「宗教」に統一される前の religion の訳語には、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)を中心としたものと、「ビリーフ」(概念化された信念体系)を中心とするものとの二つの系統が存在していたと述べている。前者には「宗旨」「宗門」など、後者には「教法」「聖道」「宗教」などが例としてあげられている。
そして彼によれば、一九世紀後半に religion の概念をもたらしたと同時に日本へのキリスト教宣教の主流となったプロテスタントは、儀礼的要素を廃するビリーフ中心のものであり、プラクティスを中心とした近世日本的な「宗旨」の概念とは嚙み合わなかったため、religion の訳語としてはビリーフ系統の「宗教」が選ばれることになったのではないか、という(三六〜三七頁)。
一九世紀後半は、「宗教」という日本語も、「キリスト教」という日本語も、ともにまだ出来たばかりのものであった。それらがいったい何なのか、どう理解すべきかについては、当事者たちのあいだでさえしばらくは不安定なものだったのである。
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といった具合です。(p217以下)
この磯前理論を前提とすると、「殉教者」のいない資本主義は「ビリーフ」(概念化された信念体系)的な宗教ではないとしても、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)的な宗教の可能性は残ります。
またまた悪意のある、しかも更に出来の悪い冗談を言い始めたな、と思われる方がいるかもしれませんが、苛烈な競争を伴う資本主義が利潤追求のために膨大な数の死者を生み出してきたことを考えると、これらの死者は資本主義の神に捧げた「生贄」ではなかろうか、という見方も、まんざら冗談でもない響きを帯びてくると思います。
営利企業のあくなき利潤追求の過程で生じた労働災害による死者、競争社会の精神的重圧に追い詰められた自殺者、更に斎藤幸平氏が問題にするような環境破壊による死者等々、資本主義はその成立期から現在に至るまで、膨大な数の労働者・市民に死を要求してきたことは紛れもない事実です。
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磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜─宗教・国家・神道』(岩波書店、2003)
日本において,「宗教」概念はどのように誕生したのか.「宗教」という視座によって,従来の心性構造はいかに変貌し,いかなる言説の空間が開かれたのか.「宗教」概念が導入された幕末,「政教分離」の成立した明治20年代,そして「宗教学」が構築された明治30年代に焦点をあて,近代日本における「宗教」の命運をたどる.
https://www.iwanami.co.jp/book/b264880.html
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石川明人『キリスト教と日本人─宣教史から信仰の本質を問う』(ちくま新書、2019)
日本人の九九%はキリスト教を信じていない。世界最大の宗教は、なぜ日本では広まらなかったのか。宣教師たちは慈善事業や教育の一方、貿易、軍事にも関与し、仏教弾圧も指導した。禁教期を経て明治時代には日本の近代化にも貢献したが、結局その「信仰」が定着することはなかった。宗教を「信じる」とはどういうことか?そもそも「宗教」とは何か?宣教師たちの言動や、日本人のキリスト教に対する複雑な眼差しを糸口に、宗教についての固定観念を問い直す。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072344/
>筆綾丸さん
『英雄たちの選択』は磯田道史氏が苦手なので見ていませんが、「北条義時・チーム鎌倉の逆襲」は井上章一氏が出たのですか。
正直、専門的知識のない井上氏が何のために出てくるのか、よく分らないですね。
国際日本文化研究センター教授の磯田道史氏による井上所長への忖度、おべんちゃらでしょうか。
そういえば
>>コミュニズムは「疑似宗教」だ、みたいなことを言う人はけっこう多いと思います
多分『ソビエト帝国の崩壊』だと思いますが、小室直樹は、宗教をマックスヴェーバー流に
『ある個人に一定の行動様式を形成させる一定の心理的なもの』(うろ覚えですが)
と定義すれば、共産主義のような「イデオロギー」も十分「宗教」として語るに足るものとなると述べていました。
(小室は、儒教もその意味での「宗教」であるとしています。何故なら、孔子は「怪力乱神を語らず」と多くの宗教が有する超常現象や死後の世界などの分野については何も語っておらず、儒教は祭祀の体系であり、その点において「イデオロギー」に近いとしています。さらに言えば、俗にいう「現世宗教」もその類かもしれません)
宗教的動機
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166613410
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佐藤??大平(正芳)さんはたしかに半端ではない読書家でした。
池上??あと吉田茂がいますね。(中略)
佐藤??もう一人のインテリ総理と言えば、石橋湛山ですね。(中略)そして、大平と石橋の二人に共通しているのは、強力な宗教的動機があることです。
池上??たしかにそうです。
佐藤??大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派で、石橋は日蓮宗で得度した僧侶です。二人は政治をやる背景のところに、つまりエトスのところで宗教的動機があって、それが本を読むことにつながっていたんじゃないか。超越的な使命を持っていたという意味では、二人はちょっと珍しいタイプかもしれません。(196頁)
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池上・佐藤両氏が、枝野幸男、志位和夫、不破哲三各氏に言及しているところなどは、まるで漫談のようで笑えます。
磯前順一氏と京極純一氏、そして大平正芳元首相について
私は一時期、磯前順一氏を大変な知識人だと思ってけっこう尊敬していたのですが、東日本大震災以後、磯前氏の著書に何だか違和感を感じるようになり、単著では『死者たちのざわめき 被災地信仰論』(河出書房新社、2015)は納得できず、更に磯前氏が非科学的な反原発活動家である島薗進と共著を出すようになったのを見て、今は全く遠ざかっています。
磯前順一(1961生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E5%89%8D%E9%A0%86%E4%B8%80
ただ、磯前氏の2000年代初めの頃の著書・論文は学問的に極めて洗練されており、明治維新前後の訪日外国人の記録を検討する際には『近代日本の宗教言説とその系譜』は本当に参考になりました。
この掲示板でも2019年に「国家神道」を論ずる際に磯前著を参照しましたが、その際には「宗教」の定義に関して、
-------
訪日外国人の記録を読む際に注意しなければならないのは、日本人との応答において「宗教」という概念について本当に意思疎通ができていたのか、ということですね。
英語圏の人であれば、"religion"という概念を前提に、日本人に対して「お前の"religion"は何か」と聞いているはずですが、"religion"の訳語が「宗教」にほぼ固定されたのは明治十年代に入ってからだそうです。(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』、p36)
それ以前はというと、最初に翻訳の必要が生じたのは日米修好通商条約(1858)の時で、この時以来、外交文書ではほぼ「宗旨」が用いられたものの、当時の啓蒙知識人による訳語は様々で、「宗門」「信教」「宗旨法教」「神道」「法教」「教法」「教門」「聖人の道」「聖道」「奉教」などが考案されたそうです。(同、p34)
従って、明治十年代以降はともかく、それ以前は通訳がどのように"religion"を訳したのかもはっきりしないことが多いのでしょうね。
ただ、そうはいっても、意思疎通に不自由な事態が生じた際には、仏教を信じるか、浄土真宗の門徒か、といった具合に、もう少し具体的なレベルに落として応答を重ねたでしょうから、丸っきり頓珍漢なやり取りにはならなかっただろうと想像されます。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10073
てなことを論じていました。
磯前順一・深澤英隆編『近代日本における知識人と宗教─姉崎正治の軌跡─』(東京堂出版、2002)も「宗教学」とは何かを考える上で本当に参考になりました。
『津地鎮祭違憲訴訟─精神的自由を守る市民運動の記録』(その4)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9996
「此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人」(by 浅野和三郎)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10012
私もかれこれ三十年近く人文系の研究者の世界を外部から観察していますが、四〇歳前後で学問的にピークを迎える人が多いなと漠然と思っていて、磯前氏もその一人ですね。
>キラーカーンさん
私は小室直樹は全然読んだことがありません。
前にも書きましたが、私の場合は京極純一氏の講義でコミュニズムとキリスト教の類似性の話を初めて聞きました。
非常に醒めた言い方だったので、私はずっと京極氏を無神論者と思い込んでいたのですが、その京極氏が東京女子大の学長になったと聞いたときはちょっと驚きました。
京極純一氏とキリスト教&共産主義
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8208
>筆綾丸さん
>大平の場合は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派
少し検索してみたら、リンク先ブログに「聖公会の信徒として、葬儀は立教学院諸聖徒礼拝堂で行われました」とありますね。
http://people.tenjounoao.com/christian/oohiramasayosi.html
また、住家正芳氏「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」(『立命館産業社会論集』2019年12月)という論文を読んでみたら、大平正芳が十八歳のときに参加した佐藤定吉の「イエスの僕〔しもべ〕会」というのは、救世軍などに近い運動形態の、当時としても相当に急進的な団体だったようですね。
佐藤定吉は若くして東北帝国大学教授となった化学者で、科学とキリスト教の関係の究明を終生の課題としていたようですが、だんだん国粋主義的方向に進み、現在のキリスト教史では位置づけが非常に難しい存在になってしまったようですね。
晩年には、
-------
佐藤は,先に挙げた大平の回顧の前年,1937(昭和12)年の年末に『皇国の世界指導原理』と題する共著を出版して「神が,皇国を世界歴史第二の発足点として選んでゐ給ふ事は歴然たる事実」(佐藤・原1937:12-13)であるとしており,「愛国的皇室中心主義」への傾斜をさらに強めていた。昭和10年(1935年)以降の佐藤は『信仰殉国』『国体と宗教』『皇国日本の信仰』『皇国信仰読本』『皇国信仰概説』『皇国神学の基礎原理』『皇国信仰鉄壁の布陣』などのタイトルの著作を矢継ぎ早に出版し(佐藤定吉著書目録:277-278),1941(昭和16)年には「イエスの僕会」を「皇国基督会」と改名するに至る。これは息子である佐藤信の目にも,「確かに戦時中,父は時流に乗って日本精神を強調し,栄光の日本を夢見ていた」ように映ったが,「父の本意は何とかしてキリスト教を日本に土着させたいと念願していた」ようでもあり,「日本精神の完成こそキリスト教の十字架であると信じていた」という(佐藤1970:560)。
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313
といった境地に達していたそうです。
ま、大平正芳はそこまで変化する前に離脱したようですが。
少し興味が湧いてきたので、後で大平正芳の回想録を見て、思想的・宗教的変遷を確認してみたいと思います。
伝カルヴァン墓
https://www.swissinfo.ch/jpn/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E3%81%AE-%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%9C%B0-%E3%81%AB%E7%9C%A0%E3%82%8B%E8%91%97%E5%90%8D%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1/46016586
十年程前、ジュネーブ郊外のCERNを訪ねた折、掃苔と称してプランパレ墓地の中をぶらぶらし、大平元総理は訪ねたことがあるのかどうか、知りませんが、伝カルヴァンの墓を見たことがあります。カルヴァンについてはほとんど知識がなく、ふーん、こんなものか、と思っただけで、むしろ、ボルヘスの墓を見たとき、こんなところにあるのか、と驚きました。
ホテルへの帰路、レマン湖の畔で、湖面に戯れる二羽の白鳥に話しかけたのですが、白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。
「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」
図書館で『大平正芳回想録』(鹿島出版会、1983)を借りたら、「回想録」というタイトルに反して638頁の詳細な伝記で、今はちょっと全部は読めないですね。
住家正芳氏の「青年大平正芳と佐藤定吉の「キリスト教」」に、
-------
佐藤の講演に感化され,浅間山麓での修養会や青山での講演会に参加した1928(昭和3)年から10年を経た1938(昭和13)年,大蔵省に入省して仙台税務監督局間税部長となっていた大平は,ともに「イエスの僕会」で活動した友人を追悼して次のように回顧している。
昭和三年から五,六年頃にかけて母校に在学せし諸君は「イエスの僕会」なる団体の
果敢な活動を記憶されていることと思う。それは当時全国の大学高専を遊説されて多
数の共鳴者を獲ち得た工学博士佐藤定吉氏の自然科学的宗教観に魅せられた一群の学
生の結社で,既成の YMCAの萎靡沈滞に対する反動も手伝って或は校庭に或は街頭に
この群独特の活潑な動きを展開していた。成程初期に於ては運動の焦点の見定めがつ
かず綱領自体に清算さるべきものもあったので何かしら地につかない突飛な相貌を呈
していたかも知れない。或は当時の学生層に喰入っていた一般的不安をこう言った側
面から発散させようとする一つのもがきとして一般に受取られていたかも知れない。
しかしともかくこの群は一つの異様なセンセーションを校の内外に捲き起し相当優秀
な学生の多くを自己の陣営に迎えていた。そして彼等は抑え難い内面的闘争と清算の
過程を辿って或者は基督教の正統に導かれ或者はこれを捨てて行った。
(大平[1938]2010:338)
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=450313
とありますが、これと同じ文章が『大平正芳回想録』にも載っていて、その後に編者が、
-------
大平自身は"正統に導かれたもの"か、あるいは"これを捨てたもの"か、この文章ではどちらとも明らかにされていない。しかし、その後を見るとき、彼は、聖書に親しんだ形跡は窺われるにせよ、キリスト者としての自らを強調したこともなく、ましてや伝道の挙に出たこともなかった。そういう点からするなら、おそらく右の一文は"イエスの僕会"に熱中した若き日の自分への別れの言葉であったのであろう。
-------
という見解を述べていますね。(p44)
高松高等商業を卒業した大平は、佐藤定吉のパトロンとなっていた実業家が経営する桃谷順天館という化粧品会社に就職した後、二十三歳のときに東京商大(現・一橋大学)に入学しますが、
-------
大学へ入学して以後も、正芳のキリスト教への関心は継続し、もっぱら聖書を通じて、信仰を深めようとした。『私の履歴書』によれば、大阪時代から矢内原忠雄の著作には傾倒しており、自由ヶ丘の矢内原邸を訪ねて「聖書研究会」に参加した(ただし、矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない)。
また、世田谷区東松原の自宅で聖書の講義をしていた香川豊彦の門をたたいたこともあった。【後略】
-------
とのことで(p51)、「矢内原忠雄夫人、ならびにその頃、同研究会に参加していた人々は、正芳の参加を記憶していない」のだから、行ったとしても数回で、目立たない存在だったのでしょうね。
ま、矢内原忠雄の聖書研究会も独特の排他的な雰囲気があったらしく、なじめない人がいたとしても無理はありません。
「会員の結婚についても矢内原の許可が必要」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8971
「先生には複雑な心理学はなかった。政治的な指導もなかった。ただ理想主義一筋だった」(by 竹山道雄)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8977
パラパラ眺めただけですが、結局、この後はキリスト教関係の話は出て来なくて、「エピローグ 永遠の今」に、
-------
大平首相の遺体は、病理解剖に付されたあと、しばらく地下一階の霊安室に安置された。【中略】遺体の前で顔を合わせる遺族たちの悲嘆を慰めるように、東京聖チモテ教会の沢邦介牧師が"主ありて世を去りし信徒の霊魂安らかにいこわんことを"と祈りを捧げた。
-------
とあり(p614)、聖チモテ教会は聖公会ですから、密葬は聖公会の儀礼で行われたのでしょうね。
ただ、その場所は何故か書いてなくて、「立教学院諸聖徒礼拝堂」だったかは分かりません。
正式な葬儀は「国葬」ではなく、「内閣・自由民主党合同葬儀」として日本武道館で行われたそうですね。(p615)
若い頃を除くと、意外にキリスト教の色彩の稀薄な人生だったようですね。
>筆綾丸さん
>白鳥って、ほんとに人相が悪く、歌舞伎の実悪のようだ、とあらためて思ったものです。
私も東北にいたときに白鳥をやたら観察する機会が多かったので、何だか白鳥は食傷気味です。
確かに悪そうな顔をしていますね。
娼婦ソーニャ
小太郎さん
大平正芳の『田園都市国家構想』を継承する岸田首相が、愛読書として、ドストエフスキーの『罪と罰』を挙げていたときは、えっ、とまず驚き、ついで、かりにそうだとしても、還暦過ぎの爺さんなら、そんなこと、恥ずかしくて言えないんじゃないの、と二度驚きましたが、あの小説の登場人物のなかでは、娼婦のソーニャだけがキリスト教的で、もし岸田首相がソーニャのファンだとすれば、岸田は大平のキリスト教的な精神の正統な継承者だ、と言えるのかもしれませんね。
昨日、『鎌倉殿の13人』を見て、つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか、というような、いやーな予感がしました。
追記
こういう真面目な見解もありますが。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/91246?imp=0
呉座勇一氏のレビューについて
筆綾丸さん
呉座氏は工藤祐経にふれていないですね。定説では祐経は祐親により京に送られ貴人に仕え雅な人間に仕上がり、頼朝に気に入られ側近になっています。
ドラマでは浮浪者のようなキャラクターで現れて頼朝に仕えるようになり、千鶴丸が殺されて頼朝に祐親の殺害を指示されました。
曽我兄弟の仇討について、頼朝もターゲットだったという説があります。三谷氏はそのようにストーリー展開するするつもりで伏線を張ったのかもしれません。
斎藤幸平『人新世の「資本論」』についてのまとめ
そろそろ資本主義は「宗教」なのか、というコンニャク問答は終わりにしたいと思いますが、仮に資本主義が「宗教」であるとしたら、その神はヤヌスのように、少なくとも二つの顔を持っていますね。
ひとつは豊穣を約束する顔であり、もうひとつは生贄を求める残酷な顔です。
ただ、生贄を求めるのはコミュニズムも同じであり、資本主義が求めた生贄の人数とコミュニズムが求めた生贄の人数を比べたら、まあ、スターリンの大粛清や毛沢東の文化大革命、更にポルポト率いるクメール・ルージュの大虐殺等々の輝かしい歴史を誇るコミュニズムの方が優勢でしょうね。
さて、去年、というか先月の13日に「私も「新しい資本主義」について考えてみた。」という投稿をして以降、主として自称・経済思想家、客観的にはマルクス考古学者の斎藤幸平氏の著書『人新世の「資本論」』を検討してきました。
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【「新書大賞2021」受賞作!】
人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。
気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。
それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのか。
いや、危機の解決策はある。
ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。
世界的に注目を浴びる俊英が、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす!
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
ただ、これはもちろん同書が素晴らしい著作だからではありません。
斎藤幸平氏は「環境スターリン」?(その1)〜(その7)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11036
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11040
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https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11047
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11048
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11049
斉藤氏がアメリカ出羽守でもドイツ出羽守でもなく、実は日本出羽守であったというのは私にとっても意外な発見でした。
斎藤氏は「Deutscher Memorial Prize(ドイッチャー記念賞)」を受賞したのが自慢のようですが、別にノーベル賞のように賞金がもらえる訳でもなさそうで、数少ないマルクス主義の研究者が仲間内で褒め合い、マルクス主義文献の売り上げに貢献するために作った賞のようです。
要は「マルクス互助会」の宣伝戦略ですね。
マルクスの青い鳥(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11051
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11052
さて、そんな斉藤氏がマルクスの正統的な後継者かというと、私は疑問を感じます。
1818年にプロイセンで生まれたマルクスは、1883年にロンドンで客死するまで、自然科学を含め、諸学問の最新の動向に関心を持ち、自身の理論を、その時代において最新の水準に保とうと終生努力した人ですが、斎藤氏にそのような姿勢があるのか。
マルクスが死んでから104年後、1987年に生まれた斎藤氏は、「環境危機」の「解決策」が「晩期マルクスの思想の中に眠っていた」ことを「発掘」したのだそうで、マルクス考古学者としての斎藤氏の努力に対して、私も「ご苦労様」程度の言葉をかけるのにやぶさかではありません。
しかし、二十代という学者として本当に大切な時期を単調な「発掘」作業に従事していた斉藤氏は、その間、様々な学問分野の動向を学ぶ時間はなかったようで、「資本主義の際限なき利潤追求を止め」ると息巻きながら、およそ現代資本主義を理解しているとはいえず、その労働関係についての理解は未だにテーラーシステム段階に留まっているようです。
斎藤幸平氏とテーラーシステム
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11054
また、斎藤氏は東大理?に合格する程度の理系の素養はあったものの、「発掘」作業に従事している間にすっかり時代から取り残され、コロナ禍への製薬業界の対応に窺われる現代資本主義の最先端の動向についてもあまりに鈍感なようです。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その1)〜(その9)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11058
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投稿の順番は前後しますが、私は筆綾丸さんに紹介された池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)を読んでみて、佐藤氏の、
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佐藤 だから共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。
そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11059
という見解には感心しました。
核心部分云々は、まさに私が『人新世の「資本論」』を読んでみた感想そのものですね。
斎藤氏は日本どころか世界全体を理性で組み立てようとしていますが、そんなことは全く無理です。
中国もロシアも、イスラム原理主義も存在せず、全人類が地球環境危機に一丸となって立ち向かって行く仮想世界ならば斎藤氏の思考実験も多少の価値はあるでしょうが、その前提が存在しないので、斎藤氏のようにファンタジーを語っても無意味ですね。
斎藤氏は自身が素晴らしい知性だと思っていて、既に「自己絶対化を遂げ」ていることが明らかですが、日本の左翼の歴史をざっと振り返っただけでも、斎藤氏程度の知性は掃いて捨てるほどいます。
斎藤氏レベルの頭の持ち主がそれなりに一生懸命考えた程度のことは、環境危機という要素を除けば、日本の左翼史の中で全てが出尽くしていますね。
虚実皮膜と青い卵
ザゲィムプレィアさん
最近、小田原は村上春樹『騎士団長殺し』の舞台で有名になりましたが、しばらく前、曽我の梅林に行き、曽我兄弟所縁の宗我神社と越前寺を訪ねたことがあります。中世であれば、あのくらいの仇討ちはむしろ普通の事件で、歌舞伎の影響があるとは言え、なぜかくも人気があるのか、実はよくわからないのです。わからないと言えば、なぜ兄が十郎で弟が五郎なのか、というのもわかりません。
梅と言えば、藤原定家に、
梅の花にほひをうつす袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
という名歌があって、考えようによっては、仇討ちの幻のようにも読めます。その場合、袖とは虎御前のものになりますね。
呉座氏のレビューに、頼朝の肖像画が掲載されていますが、現在では、あれを足利直義とする説が有力で、なぜ堂々と頼朝像としているのか、これもよくわかりません。せめて、伝源頼朝くらいがいいのでは、と思います。
初回放送では、女装の頼朝が馬に乗って逃げるシーンがありましたが、頼朝は、相模川の橋供養の帰路、落馬して、それが原因で死んだとされているので、逃げるとき、いちど落馬させて、あれえ、とかなんとか、女言葉で言わせておけば、面白い伏線になったはずで、かえすがえすも残念です。
次回以降では、平清盛(松平健)がマツケンサンバのステップで福原に遷都するとか、歌唱力のある西田敏行(後白河院)が朗々と今様を唸るとか、そんなシーンがあれば、重厚な喜劇になるのではないか、と思っています。
小太郎さん
マルクスの青い鳥と言えば、昨日の王将戦で、挑戦者が昼食に青い卵(アローカナの卵)のオムライスを食べて話題になっていましたね。
岸田首相とキリスト教の無関係
>筆綾丸さん
>つまらぬ大河ドラマになるんじゃないか
『真田丸』も最初はあまり評判が良くなかったそうですから、もう少し展開を見たいと思っています。
ところで、週刊ポストの記事で、正確性には保証はありませんが、
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実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、細川護熙、麻生太郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。
https://www.news-postseven.com/archives/20120604_113430.html?DETAIL
とのことで、確かに比率は高いですね。
ただ、大平正芳氏の例のように、宗教に対する姿勢を個別に検討してみたら相当に濃淡のバリエーションがありそうです。
また、岸田首相がキリスト教と何か関係があるのかと思って検索してみたら、『日刊キリスト新聞』の2020年9月9日付「【自民党総裁選】菅氏、岸田氏、石破氏3人のキリスト教との関わり」という記事が出てきました。
それによると、
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岸田氏は広島1区選出の、祖父から続く世襲議員。本籍地は広島だが、生まれは東京だ。血液型はAB型。
広島には、毛利氏家臣で三入高松城(広島市)城主だった熊谷元直(くまがい・もとなお)が1687年、黒田官兵衛の勧めで洗礼を受け、洗礼名メルキオルと名乗り、近年、福者となった。安芸広島藩主の福島正則もキリシタンを優遇したが、後に禁令が厳しくなると、キリシタンは衰滅していく。
岸田氏自身とキリスト教との関わりは特に認められないが、7歳下の裕子夫人が広島女学院高校の出身。2016年に創立130周年を迎えた、中国地方では最も歴史の長いミッションスクールだ。創立者は砂本貞吉(すなもと・ていきち)牧師。米国でキリスト教に触れ、1886年、米国南メソヂスト監督教会の宣教師W・R・ランバス(関西学院の創立者)らの協力を得て女学校を創立した。学院聖句は「我らは神と共に働く者なり」(1コリント3:9、文語訳)。
https://christianpress.jp/suga-yoshihide-kishida-fumio-ishiba-shigeru/
とのことで、夫人がキリスト教徒ならともかく、単にミッションスクールを卒業しただけでは、結局のところ何の関係もないという結論になりそうですね。
日本の「ミッションスクール」は、信者の拡大という「ミッション」は全然果たしておらず、せいぜい死亡する信者と同程度の信者を新たに供給するミニマム・ミッション機関ですからね。
ちなみに、記事の時点では既に総裁候補を降りていた菅義偉氏の場合、
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出身地は、宮城県や山形県の県境に近い秋田県南部の湯沢市で、イチゴ農家の長男として生まれた。最寄り駅は奥羽本線の院内駅だが、線路の反対側の西に、「東洋一の大銀山」とうたわれた院内銀山がある。江戸時代初期には多くのキリシタンが各地から逃れて鉱夫として働き、宣教師たちも伝道のために訪れたところだ。その後、迫害が強まり、殉教者が多数出た。
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とありますが、これまた菅氏の信仰・宗教観とは全く関係なくて、よくまあここまでこじつけたものだと感心します。
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5歳下の真理子夫人との間に3人の息子がおり、長男は明治学院大学を卒業している。米国長老教会のヘボン宣教師が1863年に創設した日本最古のキリスト教主義学校だ。教育理念は「Do for Others(他者への貢献)」。新約聖書マタイによる福音書にあるイエスの言葉「Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい)」(7:12)から引用されたもので、ヘボンの信念をよく表す言葉とされている。
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これも「明治学院大学を卒業」という経歴がキリスト教信仰と特に関係ないのが日本の「ミッションスクール」の実態ですからね。
また、総裁選には結局立候補しなかった石破茂氏の場合、
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母方の曾祖父が、新島襄の愛弟子である金森通倫(かなもり・みちとも)。熊本バンドの一人として熊本洋学校から同志社へと進み、卒業後は日本組合基督教会・岡山教会の牧師を務めた。金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人。二人の間にできた長男、太郎が石破氏の祖父で、その長女の和子が石破氏の母親となる。
石破氏は、母親が通っていた日本基督教団・鳥取教会(現在は橋原正彦牧師)において18歳で洗礼を受けた(現在も現住陪餐会員)。同教会の宣教師によって始められた愛真幼稚園に通い、鳥取大学教育学部付属中学を卒業後、慶應義塾高等学校に進学。日本キリスト教会・世田谷伝道所(現在の世田谷千歳教会)に出席し、教会学校の教師も務めた。近年は国家晩餐祈祷会(日本CBMC主催)、キリスト教関係の講演会でゲストとしてスピーチに立つことも多い。
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ということで、こちらは本物の信者ですが、ただ、金森通倫(1857-1945)は極めて特異な宗教遍歴を経た人です。
同志社を出た後、自由キリスト教運動の影響を受けて「基督教の新解釈を公表して世を驚かし」、更に1898年には棄教を宣言しますが、大正期になって再入信して救世軍に加わり、次いで昭和に入ると今度はホーリネス教会に入会。
しかし、ここも暫くして脱会するなど信仰面で激烈な変遷を重ねた人ですね。
ま、変わり者という点では石破氏は金森通倫の直系といえそうです。
「教祖を神とせずとも基督教の信仰は維持されると云ふのが其の主たる主張」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8864
金森通倫の「不穏な精神」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8873
三谷太一郎『ウォールストリートと極東─政治における国際金融資本』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8879
鈴木範久『日本キリスト教史─年表で読む』
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10129
岸田首相とキリスト教の無関係(補遺)
日本の「ミッションスクール」は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、というのは客観的な事実ですが、ちょっと書き方がシニカルでしたかね。
ただ、この事実は法的観点からは決して悪いことではなくて、こうした実態があるからこそ、憲法89条の明文にもかかわらず、キリスト教系の私立大学に巨額の公的資金を提供することが可能になっていますね。
同条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」というものですが、一般に私学助成は憲法89条後段の「公の支配」の問題とされていて、「公の支配」と呼ぶにはどうにも弱い関与・監督であっても、まあ「公の支配」でいいのでは、ということになっています。
しかし、ウィキペディアにも紹介されている「1971年(昭和46年)3月3日、参議院予算委員会における内閣法制局長官答弁」にも、
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憲法八十九条の問題は、確かに率直に言って実は弱る規定であります。・・・日本のような国において慈善、博愛、教育の問題について、国費が公の支配に属していないものには出せない。逆に言えば、公の支配に属させることによって国費が出せるというふうにも解される憲法の規定が、規定の真の精神がそこにあるかどうかはわかりませんけれども、実際の日本の国情に合わすようなことをするにはやはりそういう解釈もやむを得ないのではないかというようなふうに考えまして、いまの私立学校法あるいは学校教育法その他の規定には、そういう補助と監督の相関関係を規定したものがございます。まあ、そういうことで始末をしておるわけでありますけれども、国会でもそういう法律を御制定になっていただいておりますから、そういう解釈がいまや公定的に是認されていると思いますけれども、正直に憲法の規定に立ち返ってみますと、その辺はやや問題があるように思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%AD%A6%E5%8A%A9%E6%88%90
とあるように、相当苦しい解釈ですね。
そして、宗教系の私立大学の場合には、憲法89条後段を突破できたとしても、同条前段も大きなハードルとなります。
同条前段では「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため」に支出してはならないと明確に定めているのですから、公金支出を合憲とするためには、例えば、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」ではないのだ、といった論理が必要になります。
しかし、これは自己の存在を全面的に否定することになるので、宗教系大学からはなかなか主張しにくい話ですね。
別の論理としては、宗教系大学は「宗教上の組織若しくは団体」であるけれども、助成される公金は当該組織・団体の「使用、便益若しくは維持のため」ではなく、個々の学生の教育活動を支援するためのものだからよいのだ、みたいな論理も考えられますが、奨学金ならともかく、大学に支出する公金にこうした論理が説得的といえるのか。
まあ、宗教系大学は他の私学と並んで憲法89条の後段を突破するのは可能であっても、同条前段の突破は至難の業のように思われますが、現実には宗教系大学にも巨額の私学助成が行なわれています。
ただ、キリスト教系の大学の場合、形式的・名目的には「宗教上の組織若しくは団体」のようではあっても、その実態は信者の拡大という「ミッション」は全然果たしていない、宗教的には無色透明の「組織若しくは団体」だ、ということであれば、公金を提供してもいいかな、という話につながりそうです。
逆に、特定のキリスト教系の大学に素晴らしい宗教指導者が登場して、入って来る学生が軒並み信者になる、というような事態となれば、さすがにそういう大学への公的資金の提供はまずかろう、という話になると思います。
まあ、憲法89条は「アメリカ的発想に基づくが、目的趣旨が必ずしもはっきりしないまま成立」(佐藤幸治)した条文で、憲法改正による立法的解決が一番なのですが、当分は無理でしょうね。
「靖国神社大学」(仮称)と憲法89条
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8387
裁判官可部恒雄の反対意見
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8392
原因において自由な行為?
小太郎さん
カナダ連邦ケベック州首相は、以下のような見解を表明したそうです(仏フィガロによる)。
同州の集中治療患者の半数はワクチン未接種者(人口の10%)で、医療に負担を強いているので(90%の未接種者に迷惑をかけているので)、健康寄与税という名目により、未接種者に応分の課税をすることにした、と。
まるで刑法の「原因において自由な行為」のような感じですが、日本ではちょっと考えられない状況です。かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、侃々諤々、喧々囂々の騒ぎになりますね。
追記
https://confidenceman-movie.com/romance
フジテレビの放送で見たのですが、長澤まさみに、是非、姫の前を演じてもらいたいですね。
共演者の美男美女(三浦春馬と竹内結子)が、この映画のあと、立て続けに自殺したというのはミステリアスです。
来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない。
従来のコミュニストはコミュニズムの神が貧乏神であることを隠蔽していたのに対し、「脱成長コミュニズム」を提唱する斎藤幸平氏は、コミュニズムの神が貧乏神でどこが悪いのだ、我は貧乏神が導く方向に突き進むぞ、と「カミングアウト」した訳で、確かにその点ではコミュニズムのコペルニクス的転回ですね。
こうした雑な結論を導いた斎藤氏が左翼知識人としてはさほどの知的水準の人物ではないことは明らかですが、左翼活動家としてはどうなのか、私には判断する能力がありません。
Eテレ「100deパンデミック論」等のマスコミでの華やかな活躍を見ると、池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書、2021)に登場する人物と比較するならば、あるいは斎藤氏は連合赤軍の森恒夫(1944-73)や永田洋子(1945-2011)クラスの優れた活動家なのかもしれないですね。
ま、斎藤氏を誉めそやすマスコミ関係者は、斎藤氏が日本国民を「山岳ベース」に誘導しているのではないか、他人の墓穴を掘る手伝いをしていたら、いつか自分たちもそこに埋められるのではないか、と疑ってみていただきたいものです。
なお、『人新世の「資本論」』を、
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【各界が絶賛!】
■佐藤優氏(作家)
斎藤は、ピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の資本論」である。
■ヤマザキマリ氏(漫画家・文筆家)
経済力が振るう無慈悲な暴力に泣き寝入りをせず、未来を逞しく生きる知恵と力を養いたいのであれば、本書は間違いなく力強い支えとなる。
■白井聡氏(政治学者)
理論と実践の、この見事な結合に刮目せよ。
■坂本龍一氏(音楽家)
気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら?
■水野和夫氏(経済学者)
資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ。
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1035-a/
と絶賛する人の中に『激動 日本左翼史??学生運動と過激派 1960-1972』の共著者の一人である佐藤優氏がいるのは些か不審ですが、「斎藤は、ピケティを超えた」ことは客観的事実ですね。
斉藤氏自身が「第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う」において、斎藤氏なりにピケティを評価した後、
-------
ただし、ピケティは脱成長の立場を明示的には受け入れていない。また、「参加型社会主義」を謳っていても、その移行のプロセスは、租税という国家権力に依存するところが大きい。この点は問題だ。つまり、資本を課税によって抑え込もうとすればするほど、国家権力が増大していき、?「気候毛沢東主義」に代表される国家社会主義に横滑りしていく。マルクスの脱成長コミュニズムから、離れていってしまうのだ。
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と批判されており(p290)、斎藤氏が「脱成長の立場を明示的には受け入れていない」ピケティの立場を超えていることは明らかです。
しかし、ピケティを超えたからといって、その跳躍が素晴らしい未来をもたらす保証はない訳で、まあ、私は地獄への「加速主義」ではなかろうかと思います。
さて、実は私自身も四半世紀にわたって「革命」の可能性を探っているのですが、私は来るべき革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならないと考えています。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が資本主義の誕生の秘密を解明したかどうかについては意見が分かれるところですが、資本主義とプロテスタント的な生真面目さとの間には確かに親和性があります。
そして、資本主義の神に捧げられる生贄には、この生真面目さの犠牲者が非常に多いですね。
他方、資本主義の悪を糾弾し、資本主義を打倒すれば素晴らしい未来が到来するのだと主張してきた旧来型のコミュニストは、生真面目さという点では、むしろ資本主義の讃美者を超える存在です。
そして「脱成長コミュニズム」を提唱してコミュニズムにコペルニクス的転回をもたらした斎藤氏は、生真面目さという点では旧来型のコミュニストを更に超えた存在で、生真面目の「加速主義」ですね。
生真面目さという点では、資本主義と旧来型コミュニズム、そして斎藤氏の唱える「脱成長コミュニズム」は連続しており、息苦しさは「加速」される一方です。
斉藤氏が主導する勢力が権力を握った場合、世界はプロテスタント的なお説教に満たされ、その精神的重圧は大変なものでしょうね。
果たしてそんなものが「革命」の名に値するのか。
むしろ逆に、来るべき真の革命は資本主義の「ひょうきん化」でなければならない、というのが長年にわたる私の資本主義研究の結論です。
そして、資本主義の「ひょうきん化」を具体的にどのように実現するか、が次の問題です。
>筆綾丸さん
>かりに、日本でこんなことをしようとしたら、憲法の13条と18条あたりが問題になり、
カナダの事情は知りませんが、日本も1948年の予防接種法制定時にはワクチン接種は罰則付きの義務とされており、これが1976年に罰則なしの義務、そして1994年に努力義務になっています。
ご紹介のカナダの例だと、罰則の代わりに課税ということで、ある意味では罰則より緩やかな義務付けの手法ともいえそうですね。
昔は社会防衛の観点が優先され、罰則について憲法13条の幸福追求権とか18条の奴隷的拘束の禁止との関係が議論されることはなかったのでしょうが、現在は確かに事情は違いますね。
ただ、今回のコロナ騒動を踏まえると、日本での努力義務化は羹に懲りて膾を吹いたような感じもします。
新型コロナ以上の感染力があるウイルスが登場するようなケースを考えると、特定の伝染病については罰則付きの義務化の復活も検討する必要があるかもしれないですね。
もちろん、その場合には正当な理由がある場合の拒否権は当然ですし、健康被害の救済措置の充実も前提となりますが。
斎藤幸平氏とコロナ禍(その6)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11071
「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきである。
私くらい『人新世の「資本論」』を熟読している読者は珍しいはずですが、ツイッターでは、私は何故か斎藤幸平氏にブロックされています。
私が何か斉藤氏の気に障るようなことを書いているのでしょうか。
「脱成長コミュニズム」のような大胆な「革命」を起こそうとする偉大な「経済思想家」ならば、もっと鷹揚な態度で読者に接していただきたいものですね。
https://twitter.com/koheisaito0131
さて、「脱成長コミュニズム」に対抗して、私は「資本主義のひょうきん化」を提唱したいと考えますが、「資本主義のひょうきん化」とは何かというと、資本主義のスピード感と柔軟性を維持しつつ、人々に過度の精神的負担を与えない、「遊び」のある資本主義ですね。
この「遊び」のある資本主義社会に正面から反するのが安倍元首相の唱えた「一億総活躍社会」で、本当に国民全員がみんな活躍してしまったら、国家の危機に際して予備兵力が足りず、社会が一挙に崩壊してしまいます。
平時には、社会にはあまり活躍しない人々、「遊び」に従事している人々が潤沢に存在することが必要です。
「一億総活躍社会の実現」(首相官邸サイト内)
https://www.kantei.go.jp/jp/headline/ichiokusoukatsuyaku/index.html
ただ、私が想定する「遊び」に従事する人々とは、もちろん昼日中から酒を飲んだりパチンコをしたりしている人ではなく、高度な教育を受け、いざという時には社会の重要な戦力となり得る能力を持った「高等遊民」です。
かつて「高等遊民」は、
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日本で明治時代から昭和初期の近代戦前期にかけて多く使われた言葉であり、大学等の高等教育機関で教育を受け卒業しながらも、経済的に不自由がないため、官吏や会社員などになって労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E9%81%8A%E6%B0%91
などと定義されていましたが、私は「高等遊民」という言葉にもう少し肯定的なニュアンスを感じていて、職業の有無も別にメルクマールにする必要はないように思います。
1980年代後半からの莫迦げた「大学改革」が行なわれる前は、人文系の大学教員などずいぶん余裕のある生活を送れていた訳で、こうした人々も、というか、こうした人々こそ「高等遊民」の代表と考えるべきです。
そして私は「高等遊民」の大幅な拡大を国家目標とすべきだと考える訳ですが、そのためには多くの「高等遊民」候補に、あくせく働く必要はなくとも、それなりに余裕のある長期的かつ安定的な生活を保障する仕組みが必要となります。
もちろん、その前提として、日本全体が経済的に豊かな社会でなければなりません。
また、ウィキペディアによれば、町田祐一氏の『近代日本と「高等遊民」』(吉川弘文館、2009)には、かつての高等遊民が「最終的に昭和初期満州事変・日中戦争へと続く対外戦争の中で起きた軍需景気により、就職難が解消し、国家総動員体制の元で何らかの形で戦争へ動員され、高等遊民問題は解消に向かっていった」といったことが書いてあるようですが、こうした歴史に鑑みても、戦争を起こさないことも大前提となります。
この点、岸田政権の唱える「新しい資本主義」に、戦争の回避のために我が国は何をなすべきか、という観点が乏しいことを以前少し書きました。
私も「新しい資本主義」について考えてみた。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11029
さて、こうした前提・大前提を勘案すると、仮に「高等遊民」候補に、ブラブラ働きつつも結果的に世界平和に貢献することができるような職場を提供することができれば、「資本主義のひょうきん化」への道筋も見えてくるような感じがします。
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町田祐一『近代日本と「高等遊民」─社会問題化する知識青年層』
明治末〜昭和初期、高等教育を受けながら一定の職にない「高等遊民」が社会問題化した。「危険思想」への傾斜が懸念された彼らに、政府や世論はどう対応したのか。高等遊民の実像と政治社会へ与えた影響、各種政策や自助努力による解決策をメディア史料などから解明。現代のニート・フリーター問題にも通ずる社会矛盾を考え、近代日本社会を問い直す。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b75791.html
エマニュエル・トッドの所謂「宗教的空白」こそ日本に埋蔵された原油である。
斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』の最大の問題点はその愚劣な内容ではなくて、「終末論」を唱えるこのような本が四十万部以上も売れるという社会現象の方ですね。
ソ連崩壊から三十年以上経って、コミュニズムに対する免疫のない世代が激増した、ということが一つの要因だろうと思いますが、他の先進国や鬱陶しい二つの隣国に比べて経済の不調が延々と続いて、ある種、破れかぶれみたいな心境になっている人も増えているのでしょうか。
ま、貧すれば鈍する、という格言はマルクスの『資本論』以上に人間と社会の真理を衝いていますので、マルクスウイルスのサイトウコウヘイ変異株に感染した貧乏神信者たちが目指す「脱成長コミュニズム」とは正反対の方向で、日本を豊かにする方策をしっかり考えねばなりません。
そこで私は、従来は否定的に捉えられていた日本の「宗教的空白」に着目し、この「宗教的空白」こそが日本に埋蔵された豊かな「原油」であって、これを精製して輸出することにより日本を豊かにしたいと考えるものであります。
そもそも「宗教的空白」とは何か。
これは、直接にはエマニュエル・トッドの表現であって、トッドは『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(文春新書、2016)の冒頭、2015年10月25日付けの「日本の読者へ」において次のように書いています。(p7以下)
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宗教的空白と、格差の拡大と、スケープゴート探しというこの問題設定において、日本はどう位置づけられるべきでしょうか。
もし私の変数から極端に単純化した等式を引き出すなら、宗教的空白+格差の拡大=(つまり)外国人恐怖症(に到る)、となります。これを日本に当て嵌めるならば、等式の左辺〔上〕には一致を、右辺〔下〕には謎を確認することになります。
等式の左辺は完璧に再現されます。日本の宗教的空白は、ヨーロッパのそれと同じくらいに徹底した空白です。神道は、ローカルな共同体と農耕社会の儀礼に根ざしていましたが、大々的な都市化により組織が深い部分で解体されました。仏教は、戦後の一時期には新たな形の宗教性の発展によって活力を取り戻したものの、ここ二〇年、三〇年の推移を見ると、カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。葬儀におけるその役割までもがかなり本格的に疑問視されるようになっているのですから。
日本における格差の拡大は著しい現象です。日本はもはや、国際比較の統計表の中でスカンジナビア諸国と並ぶ平等の極の一つではありません。まだアングロサクソンの国々の格差のレベルには達していませんが、そのレベルに近づいてきています。宗教的空白および格差の拡大(等式の左辺)を見れば、日本はまさに西洋の国です。あるいはむしろ、ヨーロッパの国です。米国には宗教性─これはより適切に定義される必要がありそうです─が存続していますから。
しかし、右辺については何といえばよいのでしょうか。いうまでもなく日本は、ヨーロッパのあらゆる国がそうであるようにはイスラム恐怖症ではあり得ません。イスラム教徒は日本国内にはほとんどおらず、地理的にも近くもなく、海の向こうの存在です。実のところ日本は、人口の問題があるにもかかわらず、ドイツとは逆に、その問題の解決策としての大量移民の受け入れを、移民がイスラム教徒であるとないとにかかわりなく拒否してきました。では、日本の政治的行動はどうか。イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭も、私はそこに見出しません。すこぶるリアルな中国の脅威に対しても、日本のリアクションは穏健そのもののように思われます。ヨーロッパに見られるようなロシア恐怖症さえ観察できません。近代日本において日露戦争が占めている中心的な位置を考慮すると、ロシア恐怖症は容易に発生しそうなものですけれども。
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トッドは十代のころにフランス共産党員だった人なので宗教とは相性が悪く、もちろんキリスト教は理解できても、日本の宗教事情には何ともとまどったようですね。
トッドの所謂「宗教的空白」は、実際には何も存在しない真空ではなく、宗教的な何かではあっても狂信を生み出すことのない、例えていえばある種の不活性ガス、空気のようなものです。
ここに書かれたトッドの理解は、それ自体はあまり参考になるものではありませんが、日本の「宗教的空白」は「イスラム恐怖症に相当するような、内実をともなったどんな外国人恐怖症の擡頭」ももたらさず、非常に「穏健」なものであることは重要です。
仮にこうした「宗教的空白」を輸出することができるならば、世界の人びとに精神的安定を提供し、世界平和に資することになるはずです。
しかし、「宗教的空白」を輸出することができるのか。
その具体的方法が、私がこの五年ほどずっと考えてきた思想的課題です。
日本の宗教的空白(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8305
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8306
社会の精神的安定にとって必要なのは「ビリーフ」ではなく「プラクティス」である。
「宗教的空白」についてあれこれ考えてみたのは2016年のことで、同年の「新年のご挨拶」で「グローバル神道の夢物語」という妙なシリーズを始めるぞと宣言し、森鴎外の「かのやうに」を出発点に日本人の宗教観を検討してみました。
「新年のご挨拶」(2016年)
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/8145
そして、その一年間の一応の成果は翌2017年1月3日の「古代オリンピックの復活」という記事に、
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神仏分離・廃仏毀釈に悲憤慷慨する松岡正剛氏に対しては、そんなに興奮することもないのになあと同情しつつ、実際に廃仏毀釈に多数の「殉教者」が出たのかを検討してみたところ、「大浜騒動」など浄土真宗関係の「護法一揆」で多少の死者は出ているものの、まあ、実態は酔っ払いの暴動みたいなものが多く、純度100%の「殉教者」は皆無、という暫定的結論を得ました。
また、「真宗王国」の富山藩における廃仏毀釈の経緯が結構面白いことに気づき、これを主導した林太仲と、その養子でパリを拠点に美術商として活躍した林忠正、また富山出身の近代民衆宗教の研究者で、現在でも極めて世評の高い『神々の明治維新』の著者でもある安丸良夫氏等について検討するうちに、安丸氏の「国家神道」論は「ゾンビ浄土真宗」とマルクス主義の「習合」ではなかろうか、などと思うようになりました。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8726
などと纏めておいたのですが、結局、同年中は「夢物語」と言えるような話にはなりませんでした。
その後も「宗教的空白」について時々検討しましたが、江戸末期には本当に徹底した「宗教的空白」が存在しており、明治に入ってむしろ、文明国には「宗教」が必要ではないかと考えてキリスト教に入信する人、逆にキリスト教に対抗するために仏教を革新するのだ、といった方向に目覚めた人が増えて、「宗教的空白」の範囲はかなり縮小していますね。
これはもちろん私の発見ではなく、例えば渡辺浩氏の「補論『宗教』とは何だったのか─明治前期の日本人にとって」(『東アジアの王権と思想 増補新装版』、東京大学出版会、2016)には、明治維新前後の頃の「宗教的空白」がいかに徹底したものであったかが具体的に描かれています。
「Religion の不在?」(by 渡辺浩)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8882
「戯言の寄せ集めが彼らの宗教、僧侶は詐欺師、寺は見栄があるから行くだけのところ」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8884
細かいことを言えば渡辺論文には問題が多いのですが、基本的な認識については私も渡辺氏に同意できます。
そして、武士のみならず上層農民レベルでも、近世の相当早い時期に「宗教的空白」の存在が確認できますね。
『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/8963
『東アジアの王権と思想』再読
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/9817
私は最初は「宗教的空白」が歴史的にどこまで遡れるのか、という観点から調べていたのですが、過去に遡れば遡るほど宗教感情が篤いということではなくて、拡大と縮小の大きな周期があるようです。
もちろんいつの時代にも篤信者と「狂信者」はそれなりの割合で存在しますが、中世まで遡ってみたところ、南北朝期は日本史上「宗教的空白」が特別に拡大した時期ではないかと思われます。
『太平記』に描かれた鎮西探題・赤橋英時の最期(その1)(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10619
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10620
「からからと打ち笑ひ」つつ首を斬る僧侶について(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10766
南北朝の動乱が終わって以降の「宗教的空白」の変動については未検討ですが、近世に入ると「宗教的空白」は徐々に拡大して、幕末に最も増大する感じですね。
ただ、以上に述べてきた「宗教的空白」とは、磯前順一氏の用語に従えば、「ビリーフ」(概念化された信念体系)が「空白」だということで、「プラクティス」(非言語的な慣習行為)は一貫して、広く薄く継続して来たように思われます。
そして、日本社会に精神的安定をもたらしたのは、少数の「ビリーフ」派ではなく、大多数の「プラクティス」派だろうというのが私の暫定的な結論です。
資本主義は「プラクティス」としての「宗教」か。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11093
かに くり あをな うり かうし
小太郎さん
http://www.transview.co.jp/smp/book/b442696.html
まだ読んでませんが、西村玲氏が存命なら、宗教的空白あるいはゾンビ・ブディズムに関して、どんな見解を有したか、訊いてみたいところですね。
昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の好物として、かに、くり、あをな、うり、かうし、と和紙に達筆で記してあるシーンを見て吹き出してしまいました。
かには平家蟹、くりは勝栗、うり(瓜)は挙兵間近で今が売り、というパロディーだと思いますが、あをなはわかりません。かうし(柑子)は、現在の伊豆に多い蜜柑畑を踏まえ、都育ちの頼朝が伊豆に流されて蜜柑好きになった、ということなんでしょうね。歴史に残る名場面だと思いました。話の展開は、まあ、どうでもいいようなことです。
付記
頼朝は政子が出したアジを食べてましたが、東伊豆の湯河原、熱海、伊東と言えば、蜜柑の他ではアジの干物が有名ですね(小田原は蒲鉾と塩辛です)。ただ、伊豆の北条という地からすると、海の幸よりも、狩野川のアユ(塩焼き)のほうが相応しかったのではないか、という気がしました。
徒然草第40段に、栗をのみ食らう異様な女の話がありますが、佐殿は好き嫌いがあるとはいえ、バランスよく食べていたようです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8F%9C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
あをなは、落語の「青菜」を踏まえ義経を暗示しているのだ、ということかな。
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)
ツイッターで野口実氏が紹介されていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)という論文を入手したので、その感想を少し書きます。
野口氏らが提起された「北条氏は都市的な武士か」という問題に関連して、「北条時政とその後妻・牧の方の結婚時期はいつか」という問題が近時議論されています。
論点を明確にするため、呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)から少し引用させてもらうと、
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北条時政が都市的な武士であるという新説は、時政の結婚をも根拠にしている。時政の後妻は牧の方だが、その出自は長らく不明だった。ところが杉橋隆夫氏が、牧の方は平忠盛(清盛の父)の正室である宗子(池禅尼)の姪であることを明らかにした。牧の方の父である牧宗親は、池禅尼の息子である平頼盛(清盛の異母弟)の所領である駿河国大岡牧(静岡県沼津市・裾野市)の代官を務めていた。
杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
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といった具合です。(p35)
まあ、杉橋説はいくら何でも無理だろうと思いますが、山本氏が「二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前」、「頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定」した理由が気になります。
そこで山本論文を見ると、まずその構成は、
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はじめに
一、牧の方腹の娘たち
(一)婚姻関係の検討
?五女(平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁)
?七女(三条実宣と婚姻)
?八女(宇都宮頼綱に嫁したのち離縁し、松殿師家に再嫁)
?九女(坊門忠清に嫁す)
二、牧の方の評価
(一)時政・牧の方年譜の再検討
(2)晩年の牧の方
おわりに
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となっています。
「はじめに」では、杉橋隆夫・野口実氏の業績に触れた後、
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興味深いことに、牧の方腹の娘は鎌倉幕府に仕える有力御家人だけでなく、京都の貴族にも嫁いでおり、私見では北条氏の政治的地位や姻戚関係を考察する上でも貴重な手がかりになると考える。そこで、本稿では北条氏を評価するための基礎的研究として時政の子女、殊に牧の方が産んだ娘たちに注目し、その生年や婚姻関係を論じたい。さらに、娘たちの検討を踏まえて、牧の方と時政との婚姻時期や、晩年の牧の方と幕府の関係についても考察したい。
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とされています。(p1)
そして「一、牧の方腹の娘たち」に入ると、
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本章では、時政と牧の方との間に生まれた娘について検討する。系図や記録から時政の子女と見なされる者は十五名にのぼり、うち男子は宗時・義時・時房(以上先妻腹)・政範(牧の方腹)の四名、女子は十一名である〔表?参照〕。
女子十一名のうち、牧の方腹で貴族に嫁したのは以下の四名である(再嫁も含む)。
?平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁した五女
?三条実宣に嫁した七女
?宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女
?坊門忠清に嫁した九女
以下、それぞれの娘を検討したい。なお、娘の生年順は、野津本「北条系図・大友系図」(田中稔「史料紹介野津本『北条系図、大友系図』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、一九八五年。『福富家文書─野津本「北条系図・大友系図」ほか皇学館大学史料編纂』皇学館大学出版部、二〇〇七年)に拠るものである。
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とあります。(p2)
>筆綾丸さん
>昨日の『鎌倉殿の13人』
時政・牧の方の描かれ方は「北条時政が都市的な武士であるという新説」にずいぶん寄っている感じでしたね。
まあ、野口実氏はおそらく満足されていないでしょうが。
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
牧の方と「牧の方腹で貴族に嫁した」四人の女性については『サライ』サイトの山本氏の記事を参照して頂きたいと思います。
京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1033821
続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】
https://serai.jp/hobby/1036729
念のため「表? 時政の娘たち一覧」から、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人以外の娘たちの母親と婚姻相手を挙げると、
長女(政子) 先妻(伊藤祐親娘か) 源頼朝
二女 先妻(不明) 足利義兼
三女(阿波局)先妻(不明) 阿野全成
四女 後妻牧の方か 稲毛重成
六女 先妻(不明) 畠山重忠→足利義純
不明 不明 河野通信
不明 不明 大岡時親
とのことで、牧の方が産んだ娘は貴族との婚姻率が極めて高いですね。
さて、「牧の方腹で貴族に嫁した」四人のうち、生年がはっきりしているのは「宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女」だけで、この人は『明月記』に再嫁の時の年齢が四十七歳と明記されているので、文治三年(1187)生まれとなります。(p6)
また、男子は政範が八女の二歳下で、文治五年(1189)生まれですね。
ここまでは山本氏の論証は丁寧で説得的ですが、肝心の時政・牧の方の婚姻時期の推定は些か荒っぽいように思われます。
即ち、「二、牧の方の評価」の「(一)時政・牧の方年譜の再検討」に入ると、最初に杉橋説が成り立ちがたいことを検討された後で、
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【前略】前章で検討した娘たちの生年も含め、牧の方の年齢を再検討したのが上記の年譜である。生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした。
杉橋氏は「時政・牧の方年譜」において、藤原為家と宇都宮頼綱の娘(牧の方の孫娘)との間に生まれた為氏が貞応元年(一二二二)の誕生であることなどから、頼綱室の生年を承安二年(一一七二)と仮定されているが、彼女は天福元年(一二三三)に再嫁したとき四十七歳であり、生年は文治三年(一一八七)に確定する。また、細川氏・本郷氏は五女(朝雅室)・八女(頼綱室)・政範の生年を仮定されているが、うち後者二名について生年が判明することはすでに指摘したところである。
稲毛重成室の母は不明であるが、杉橋氏・野口氏が指摘されているように、稲毛重成の行動形態からみて牧の方腹の可能性が高いと考え、年譜に加えた。下線部分は史料による裏付けを得るものである。
時政と牧の方の年齢差は二十四、牧の方は政子の五つ年下となる。重要なのは杉橋氏の指摘??に関わる、時政と牧の方の婚姻時期はいつなのかという問題である。牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となったが、治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか。したがって、婚姻を平時の乱以前まで遡らせ、頼朝配流の背景に牧の方を介した池禅尼と時政の関係を推定する杉橋氏の見解に従うことはできず、平治五年(一一五九)には牧の方はまだ生まれてさえいなかったのではないかと思われる。
-------
とされるのですが(p9以下)、「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」との山本氏の発想にはちょっと驚きました。
このような、私にはどうみても強引と思われる仮定の結果、山本氏は「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」において、
治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か/八月頼朝挙兵
養和元年(1181)四女(重成室)誕生 <牧の方20歳)>(細川・本郷氏は時政・牧の方の婚姻を推定)
寿永二年(1183)五女(朝雅室)誕生 <牧の方22歳)>
文治元年(1185)七女(実宣室)誕生 <牧の方24歳)>
文治三年(1187)八女(頼綱室)誕生 <牧の方26歳)>
文治五年(1189)政範誕生(時政52歳)<牧の方28歳)>(細川・本郷氏は牧の方21歳と推定)
建久二年(1191)九女(忠清室)誕生 <牧の方30歳)>
とされるのですが、まあ、単なる数字合わせ以上のものではないですね。
「他の子女も機械的に二年ごとの出産」というのは、あるいはそのくらい間隔を置いた方が子育てがしやすいだろうという事情も考慮されたのかもしれませんが、それは現代人の発想であって、当時の有力武士クラスの女性は自分で子供を育てる訳ではなく、乳母にまかせるのが普通のはずです。
結局、山本氏の「牧の方腹で貴族に嫁した」女性たちの検討結果にもかかわらず、時政と牧の方の婚姻時期は分からないとしか言いようがありません。
そして山本氏自身も「○時政・牧の方年譜(含シミュレーション)」では「治承四年(1180)この頃、時政(43歳)・牧の方(19歳)婚姻か」としながら、結局は「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう」とされる訳ですが、これは野口実氏の研究を加味した推論です。
そこで、山本説の当否を判断するには野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)という論文を検討する必要が生じてきます。
なお、「機械的」云々は、2007年に政治問題化した柳澤伯夫氏(当時厚生労働大臣)の「女性は生む機械」発言を連想させ、ちょっとドキッとしますね。
柳澤伯夫(1935生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%BE%A4%E4%BC%AF%E5%A4%AB
婚姻のかたち
小太郎さん
牧の方の娘のうち、貴族に嫁した者は、
?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
?七女(実宣の側室)
?八女(頼綱の正室、のち、師家の側室)
?九女(忠清の側室)
というような理解でいいのでしょうね。
前回のドラマで、ふと気になったのは、牧の方の場合は嫁入婚、政子の場合は妻通婚(招婿婚)のようなもの、つまり、北条の館においては、形態の違う婚姻がほぼ同じ時期に同居していたのか、ということでした。まあ、別段、不思議に思うことでもないのでしょうが。
ご引用の論考を読むと、当たるも八卦当たらぬも八卦、という感じですね。
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その3)
山本氏は「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」とされます。
この「仮定」は何とも強引なものですが、この強引な「仮定」に基づいて遡っても、北条時政と牧の方の婚姻時期は治承四年(1180)止まりですね。
しかし、山本氏は更に「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされています。
そこで、その理由を知ろうと思って、「婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる」に付された注53に従って野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を読んでみたところ、不思議なことに野口氏はそのようなことを書かれていません。
この野口論文は京都女子大学サイトで読めるので、私は昨日二回、今朝も一回読んでみましたが、やっぱりありません。
「伊豆北条氏の周辺 : 時政を評価するための覚書」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927
そもそも山本氏の注記には些か不審なところがあって、
(53)野口B前掲注(4)論文。
に従って、注(4)を見ると、
(4)野口実A「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・品川氏と北条氏を中心に─」(『研究紀要』一九号、京都女子大学宗教・文化研究所、一九九九年)、同B「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書─」(『研究紀要』二〇号、京都女子大学宗教・文化研究所、二〇〇〇年)【後略】
となっているのですが、A論文が発表されたのは2006年、B論文は2007年ですね。
そこで私は、もしかしたら山本氏はA論文とB論文を取り違えているのではなかろうかと思ってA論文も読んでみました。
「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1922
この論文は、
-------
はじめに
一 大井・ 品川氏と品川湊
二 伊豆北条氏の系譜とその本拠
1 北条氏の出自
2 伊豆国衙周辺の人的環境
3 円成寺遺跡の語るもの
むすびに
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と構成されていますが、「1 北条氏の出自」の「時政が池禅尼の姪にあたる中流貴族出身の女性( 牧の方)を妻に迎え」(p57)に付された注(10)(p66)に、
(10)杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年) 。この論文における牧の方の年譜のシュミレーションには、政範の出産を四十六歳の時とすることなどに無理を感じざるを得ないが、時政と牧の方との婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることについては間違いないと思う。
とあって、私が探し求めていたのはどうやらこの記述のようですね。
ただ、ここには別に野口実氏の独自の見識は披露されておらず、杉橋論文に対する単なる感想ですね。
うーむ。
私の努力はいったい何だったのでしょうか。
>筆綾丸さん
>?五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
当時、貴族社会では鎌倉の有力者の娘を妻に迎えることが出世と財産獲得の極めて有力な手段になっていたので、正妻と離縁して武家の娘を妻に迎えるような例もありました。
従って、時政娘の場合、「側室」ではなく「正室」と考えるべきだと思います。
ただ、系図類の作者は、ここは身分違いだから「妾」だろう、みたいな解釈を加えていることがありそうです。
野口実氏「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」
ひょんなことから野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を都合三回精読する羽目になりましたが、この論文は非常に面白いですね。
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/handle/11173/1927
全体の構成は、
-------
はじめに
一、北条時政に対する諸家の評価
(一)大森金五郎
(二)佐藤進一
(三)上横手雅敬
(四)安田元久
(五)河合正治
(六)福田以久夫
二、中世成立の北条氏系図の比較と検討
三、北条時政の係累
(一)北条時定と服部時定
(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠
(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親
むすびに
-------
となっていますが、私は特に第三章の第二節と第三節に刺激を受けました。
まず、「(二)牧氏(大岡氏)一族とその本拠」には、
-------
ところで、すでに『沼津市史 通史編 原始・古代・中世』(二〇〇四年)第二編第五章「荘園制の確立と武士社会の到来」(杉橋隆夫執筆)に紹介されたところだが、最近になって牧氏の文化レベルにおける貴族的性格を示す貴重な成果が国文学者浅見和彦によって示されている(「『閑谷集』の作者─西行の周縁・実朝以前として─」有吉保編『和歌文学の伝統』角川書店、一九九七年)。
この論文によると、鎌倉初期になった歌集『閑谷集』の作者は『鎌倉年代記』に建久三年(一一九二)の「六波羅探題」として所見する牧四郎国親の子息に比定され、彼は養和元年(一一八一)二月ごろ加賀にあり、同年十月ごろ但馬に移って翌春のころまで滞留していたが、文治元年(一一八五)八月、牧氏の本領で平頼盛領であった駿河国大岡庄(牧)内の大畑(現在の静岡県裾野市大畑)に庵を構えるにいたる。そして、そこには都よりの知人も立ち寄り、また涅槃会・文殊講などの法会が執り行われ、あわせて歌会も開かれていたというのである。【後略】
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とありますが(p101以下)、ここでは国文学と歴史学・考古学の見事な連繋を見ることができますね。
また、「(三)『吾妻鏡』における牧宗親と大岡時親」には、
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『吾妻鏡』に記されたこの痴話話のなかで納得できないのは、北条氏よりも高いステイタスにあり、牧の方の父である宗親がどうして政子に仕えるような境遇にあるのか。そして、たとえ頼朝の怒りを買ったとはいえ、当時の社会における成人男子にとって最も恥辱とされるような羽目に陥らざるを得なかったのかという点である。
宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる。また、その官歴について『愚管抄』は大舎人允、『尊卑分豚』は諸陵助としている。ところが、亀の前の事件を記す『吾妻鏡』に、彼は「牧三郎」として登場し、文治元年(一一八五〉十月二十四日条からは「牧武者所」となり、最終所見の建久六年(一一九五)三月十日条まで変わらない。大舎人允や諸陵助の官歴を有するものが武者所に補されることは考えがたく、ここには何らかの錯誤を認めざるを得ないのである。
私は『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親にかかるものであると推測する。同書建仁三年(一二〇二)九月二日条に「判官」として初見する大岡時親を宗親と混同して伝えたものと考えるのである。この記事は『愚管抄』の「大岡判官時親とて五位尉になりて有き」という記事に符合する。ついで時親は『明月記』元久二年(一二〇五)三月十日条や『吾妻鏡』同年八月五日条に備前守として登場するが、武者所→判官→備前守という官歴は制度的にも年代的にも整合するところである。したがって、『吾妻鏡』に見える宗親の所見はすべて時親に置き換えられるべきで、宗親は頼朝挙兵以前に死没していた可能性が高いのではないだろうか。
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とあります。(p104以下)
「宗親が池禅尼の弟であるとするならば、かなりの年輩であることが予測できる」にもかかわらず、『吾妻鏡』には妙に軽い存在として描かれている謎は、「『吾妻鏡』に「三郎」「武者所」として所見する「宗親」はすべて、本来その子息である時親」であるならば、確かに綺麗に解けそうです。
まあ、『吾妻鏡』の原文を正面から否定することには若干の躊躇いは感じますが、『吾妻鏡』編纂時には、牧氏関係者は全体としてその程度の扱いを受けるほど軽い存在になっていた、ということなのかなと思います。
編纂当時に牧氏の子孫が幕府内でそれなりの存在感を維持していたら、「亀の前」事件が全面削除される可能性もあったでしょうね。
池禅尼(1104?-64?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%A6%85%E5%B0%BC
閑話
大森金五郎の「マンマと」とか「ムチャな」とかの語彙をみると、歴史学の泰斗というより、落語好きの下町のオヤジのような趣があります。夏目金之助と同い年なんですね。
文藝春秋二月号に、『「鎌倉殿の13人」を夫婦で楽しむ』と題して、本郷恵子・本郷和人両氏の対談があります。
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本郷和人??こうやって夫婦で対談するのは、初めてだね。
本郷恵子??そうね。
(中略)
恵子??(藤原)邦通は頼朝のために目代の館で行われる酒宴に参加し、現地を調査して館とその周辺の地図を作成している。映画『幕末太陽傳』でフランキー堺さん演じる佐平次のような人物を想像してください。お酒も飲めて場を盛り上げるし、手紙の代筆もできて、いろいろな知識もある・・・・・・。
和人??それじゃ、僕みたいだ(笑)。
恵子??いや、そんなことはない。フランキー堺はもっと垢抜けてる(笑)。(354頁〜)
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狸夫婦の漫談ですね。
同月号に、先崎彰容氏が、「人新世」の『資本論』に異議あり、と斎藤氏を批判しています。宗教じみた主張をするな、正義に飛びつくな、と。
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結局、私たちの歴史がマルクス主義から得た苦い経験とは、「行動」と「連帯」が人々の自由を奪ってきたこと、大量の粛清を許し、管理社会を生みだしてしまう「逆説」にあった。正義が、義侠心が、大量の死者を生みだすことは逆説以外の何ものでもないではないか。(295頁)
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「頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう」(呉座勇一氏)
「生年が判明するのは八女(頼綱室)と政範のみであり、その他の娘については牧の方が二十代で一男五女を儲け、二年毎に出産したものとした」、「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」という山本みなみ説を数式で表すと、
(時政・牧の方の結婚時期)=(八女頼綱室の生年)−3×(政範の生年-八女頼綱室の生年)-1
となりますね。
二年の間隔で四女(稲毛重成室)・五女(平賀朝雅室)・七女(三条実宣室)・八女(宇都宮頼綱室)の四人が生まれ、八女の生年は1187年ですから、四女が生まれたのは2×3年前の1181年、そして時政・牧の方の結婚はその一年前の1180年という計算です。
これはたまたま(政範の生年-八女頼綱室の生年)=2の場合の話ですが、もう少し一般的に、
Y:時政・牧の方の結婚時期
X:政範の生年-八女頼綱室の生年
とすると、
Y=1187-3X-1=1186-3X
ですね。
従って、
仮に政範と八女が1歳違いであったならば、Y=1183
仮に政範と八女が3歳違いであったならば、Y=1177
仮に政範と八女が4歳違いであったならば、Y=1174
となります。
こう書くと、まるで私が山本説を莫迦にしているように見えるかもしれませんが、「機械的」な「仮定」がある種の滑稽感を伴うことは否めないですね。
そして、山本氏は牧の方が「二十代で一男五女を儲け」たと「仮定」するので、「牧の方腹」の最初の娘が生まれたときに牧の方は二十歳とされますが、これも格別の根拠はないはずです。
身分違いの結婚で、しかも夫の年齢が相当に上となると、牧の方が再婚の可能性もあって、その場合、三十歳くらいまでだったら「一男五女を儲け」ることもさほど不自然ではないはずです。
ま、結局は良く分らず、時政・牧の方の結婚時期は不明といわざるを得ないですね。
しかし山本氏は、「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされるので、その理由を探ったら、杉橋隆夫氏の見解に野口実氏が同意したというだけの話のようです。
まあ、私は杉橋論文をあまり高く評価できないので、山本氏の最終的な結論にも賛成しがたいですね。
ところが、呉座勇一氏は山本氏の見解を妥当とされているようで、『頼朝と義時』において、先に紹介した部分に続けて次のように書かれています。(p36以下)
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前述の通り、池禅尼は死罪になるはずだった頼朝の助命を清盛に嘆願している(20頁)。その実子が、先に触れた平頼盛である。池禅尼は清盛生母(既に死没)よりはるかに身分が高く、朝廷内に広い人脈を持っていたため、清盛にとって頼盛の存在は脅威であった。池禅尼が亡くなると両者の関係は悪化し、清盛は頼盛を一時失脚させている。政界復帰後の頼盛は清盛に従順になったが、清盛と後白河法皇の関係が険悪になると、後白河と親しい頼盛の立場も微妙なものになった。
頼朝と政子が結婚した治承元〜二年頃は、平家打倒の陰謀が露顕したとされる鹿ケ谷事件の直後である。そして平清盛によるクーデターである治承三年の政変で、頼盛は一時失脚している。
以上の状況において、平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚が、頼盛と無関係に行われたとは考えにくい。頼朝への接近を図る頼盛の意向が背景にあったと見るべきだろう。むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか。
頼朝と政子が結婚した当時、伊豆国の知行国主は源頼政であった。知行国主とは受領(国守)の任免権を持つ者のことである。この場合、頼政は伊豆守を任命でき、嫡男仲綱を伊豆守にしている。すなわち、頼政は伊豆国の最高権力者であった。
源頼政は平治の乱で平清盛に味方し、武門源氏の中で最も羽振りが良かった。平清盛と良好な関係を保ち従三位まで昇叙したが(武門源氏初の公卿)、一方で源義賢(19頁)の遺児仲家を養子にするなど、源氏一門の生き残りを保護していた。また頼政は八条院に奉仕していた。
八条院暲子内親王は鳥羽法皇と美福門院の娘で、亡き鳥羽法皇から膨大な荘園群を相続していた。平頼盛は八条院の乳母の娘を妻に迎えており、多数の八条院領荘園の管理を任されていた。清盛に敵対する意思は八条院本人にはなかったが、八条院の周囲には清盛に対して複雑な感情を抱く政権非主流派が集まっていたのである。
平頼盛─源頼政─源頼朝の提携という政治的動きの中で、頼朝岳父である北条時政と、牧の方の婚姻は進められた。時政にしてみれば、頼朝への先行投資が早速実を結んだ、といったところだったろう。だが自体は、時政の思惑を超えて急転する。
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うーむ。
最初にこの文章を読んだときは、呉座氏の洞察は鋭いな、と思ってしまったのですが、山本論文の結論があまり信頼できないとなると、呉座氏の見解も些か微妙な感じがしてきますね。
薄氷の上に積み重ねた議論、砂上の楼閣ではなかろうか、という疑問を抱かざるをえません。
>筆綾丸さん
先崎彰容氏の斎藤幸平批判はネットでも読めますね。
私にも多少の感想がありますが、また後程。
「ベストセラー新書「人新世の『資本論』」に異議あり 「脱成長」思想の裏にある“弱さ”とは何か」
https://bunshun.jp/articles/-/51373
三頼説?
小太郎さん
「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、まるで、頼朝は成功すべくして成功したのだ、と言っているように素人には思われます。伊豆の流人の存在感が眩しすぎてクラクラします。
「何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」(by 呉座勇一氏)
>筆綾丸さん
>「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」と時政の再婚を絡めた話は、挙兵の結果を知っている後世の人間が時間を遡及させて組み立てたもので、
全くその通りですね。
18日の投稿で引用したように、呉座氏は、
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杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11111
と書かれていたので、私は山本みなみ氏の推定が相当確実なのだろうと判断し、そうであれば「頼盛ー頼政ー頼朝の提携」も考慮すべきなのかな、と思ってしまいました。
しかし、「杉橋氏のシミュレーション」を修正した山本氏の「一次方程式」と杉橋説では、いくら野口実氏の太鼓判がついていようと、少なくとも時政・牧の方の結婚時期については全く説得力がありません。
牧の方の結婚時の年齢についても、私は「平頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政との身分不釣り合いな結婚」で、かつ親子ほどに年齢が離れた究極の年の差婚であることを考えると、牧の方も再婚のような感じがするのですが、研究者が誰もその可能性に言及しないのは不思議です。
いずれにせよ、結婚というのは好き嫌いという感情を含め、偶然の事情が大きく左右するので、例えば牧の方が、最初は身分と年齢の釣り合いがとれた貴族社会の男性と結婚したものの、相手が死ぬか「性格の不一致」で離婚して、実家に戻っていたところ、それを心配した父親が、まあ、身分不釣り合いの年の差婚でも仕方ないか、ということで、政治情勢とは全く関係なく、結婚を認めた、という可能性もありそうです。
また、牧の方は時政失脚後も離婚などせず、伊豆北条で落魄の時政の世話を続けていたようですから、時政への愛情は深かったように思われますが、そうであれば、時政・牧の方の間に頼朝と政子のようなラブロマンスが絶対になかったとも言い切れません。
「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので、もともと貴族社会の軟弱男など好きでなかった牧の方は時政のワイルドな魅力に惹かれ、父親が身分違いだの年の差がありすぎるなどと反対したにもかかわらず、駆け落ち同然に時政邸に赴いた可能性だって絶対にないとは言い切れないはずです。
とか書きながら、まあ、それは多分なかったと思いますが、とにかく結婚というのは様々な偶然が関るので、特定の政治状況から、直ちにその時期を確定するなどというのはおよそ無理ですね。
そして当時の政治状況にしても、山木邸襲撃はともかく、石橋山合戦は、よくまあここまで無謀な戦いに生き残れたものだ、と感心するような悲惨な戦闘です。
頼朝の挙兵は乾坤一擲の大博奕で、普通だったらあっさり敗北して時政も野垂れ死だったはずが、奇跡的に何とか生き残った訳ですからね。
その後、東京湾を一周廻っている間に頼朝の勢力は急速に膨張しますが、その結果を遡らせて、まるで頼朝が勝つのが当然だった、頼盛も頼政も、牧の方の父親も、みんなそれを予知していた、みたいな書き方は、「むろん頼朝と連携して清盛に反逆するなどという大それた考えはなかっただろうが、何らかの政治的カードになり得るとの期待があったのではないか」とトーンダウンさせても、やはり無理が多く、呉座氏が嫌う「結果論的解釈」そのものではなかろうかと思います。
呉座勇一氏「源頼朝は朝廷からの独立を目指したか?」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/78141?page=4
炯眼
小太郎さん
牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。野暮なのは研究者だ、と。
https://www.nhk.or.jp/bunken/accent/faq/1.html
NHKは、北条を頭高型(ホウ\ジョウ)で発音するのですが、平板型の発音に慣れている私には、別の氏族のような違和感があります。
牧宗親は池禅尼の弟か?
小太郎さんが紹介された野口実氏の『伊豆北条氏の周辺』を読み、改めて池禅尼の周辺を調べてみました。
宝賀寿男氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』を見つけました。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/makinokata.htm
結論は弟であることを否定しています。系譜研究者の文章は慣れていないのですが、なかなか興味深いものでした。
なお、(2002.8.9記)という文章です。
以前に紹介した『資料の声を聴く』を運営している原慶三氏が宝賀氏を取り上げているのですが、そこで『諸陵助宗親について』を見つけたので引用します。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1180.html
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池禅尼ならびに待賢門院判官代宗長の弟とされる宗親について、『中右記』保延二年一二月二一日条に関連記事があることに気づいた。杉橋氏の論考に否定的な宝賀氏を含め、これまでの研究で言及されたことはないようである。 統子内親王御給で任官、叙任した人物を確認する中で偶然遭遇した。統子内親王が母待賢門院からその所領の一部を譲られた時期を考えるためであった。
まさに同日の小除目で藤宗親が諸陵助(正六位上相当)に補任されている。その前には二一才の源師仲と一二才の藤伊実が侍従(従五位下相当)に、年齢不詳の藤為益が縫殿頭(従五位下相当)に補任されたことが記されている。師仲は四年前、伊実は六年前に叙爵しており、為益もすでに叙爵していたと思われるが、宗親は叙爵前であった。宗親には系図にも関連する記載がなく、叙爵することなく死亡したと考えられる。
兄宗長は大治五年正月には「五位判官代宗長」とみえ、叙爵した上で待賢門院判官代であったことが確認できる(『中右記』)。和泉守に補任された時期を示すデータはないが、前任者である父宗兼は長承三年末に重任している。宗親が諸陵助に補任された前後に、和泉守が宗兼から子宗長に交替したと思われる。兄宗長の叙爵が確認できる六年後にも宗親は叙爵しておらず、両者の間にはそれ以上の年齢差があったのであろう。
源師仲は師時の子、藤原伊実は伊通の子であり、叙爵年齢の違いは親の差(その時点ではともに権中納言であるが、年齢は伊通が一七才若い)によるのだろう。宗長と宗親の父宗兼は院の近臣ではあったが、その位階は従四位上であり、諸陵助に補任された時点の宗親は二〇才前後で、その生年は永久五年(一一一六)前後ではないか。池禅尼はその時点で三三才で二男頼盛はすでに生まれている。宗長は二〇才代後半であろうか。
『尊卑分脈』でも宗長には「従五位上下野守」、宗賢「下野守従五位下」(ただし宗賢を歴代下野守に挿入可能な時期はない)との注記がある。宗長は仁平三年の死亡時で四〇才前半であったと思われる。宗親も三〇才過ぎには叙爵可能であったはずであり、極官が「諸陵助」であるならば、それ以前に死亡したことになる。当然、大岡宗親とは別人であり、牧の方(以前述べたように政子=一一五七年生と同世代か)が生まれる前に死亡した人物となる。杉橋氏とその関係者は一刻も早くその説を撤回すべきである。
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可能性としては死亡以外に長患い或いは出家もありますが、いずれにしてもこのようなキャラクターが地方に下り荘官になることは無いでしょう。
この結論が正しいとすれば、時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚ということになります。
幽霊
ザゲィムプレィアさん
幽霊の正体見たり枯尾花
といったところでしょうか。
余談ですが、藤沢周平の名作『蝉しぐれ』の主人公は牧文四郎といいますね。
「いまどき連名の論文は珍奇なようであるが」(by 細川重男・本郷和人氏)
念のため書いておくと、前回投稿の「「牧の方」という名前もなかなかワイルドなので、あるいは彼女は乗馬が大好きの活動的な女性であり、遠乗りに出かけたところ道に迷い、たまたま出会った時政が親切に道案内してくれたので」云々はもちろん冗談です。
ま、近時のある出来事をヒントにはしていますが。
さて、従前の常識に従って時政と牧の方の結婚が牧の方の父の承認を得た政略結婚であり、かつ身分違いの年の差婚であったとするならば、時期的にはやはり頼朝が石橋山合戦の敗北から奇跡的に立ち直って、東京湾を一周廻って鎌倉に入った治承四年(1180)十月六日以降じゃないですかね。
牧の方の父としては、それまでは北条など身分違いと思っていたとしても、時政の地位が劇的に向上したのを見て、世の中、やっぱり金と実力だよね、という方向にあっさり転換し、娘を嫁がせたのではなかろうかと私は想像します。
そして、山本みなみ氏によれば、牧の方は文治三年(1187)に宇都宮頼綱室、文治五年(1189)に政範を生んだ後、もう一人娘(坊門忠清室)を生んでいて、都合「一男五女」という多産の女性ですが、婚姻のときに三十歳くらいまでであれば「一男五女」を生んでもそれほど不自然ではないはずです。
山本みなみ氏が「一男五女」について細かく検討される前に発表された細川重男・本郷和人氏の連名論文「北条得宗家成立試論」(『東京大学史料編纂所研究紀要』11号、2001)によれば、
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時政が牧の方を妻に迎えたのは、やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか。四十代の彼は「ワカキ」牧の方を後妻に迎える。そして、先の三人の子が生まれる。彼らの生年を仮に朝雅室一一八四年、頼綱室八六年、政範八九年と推定すれば、これ以降の史実との間に全く齟齬が生じない。婚姻が八三年に行われ、牧の方が十五才であったとすると、政範を産んだとき二十一歳、後年、一族を引き連れて諸寺参詣し、藤原定家の批判を受けたとき五十九歳。まことに具合いがよい。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/11/kiyo0011-hosokawa.pdf
とのことですが(p2)、「やはり頼朝の政権が誕生した後のことだったのではないだろうか」は穏当な理解だと思います。
ただ、仮に婚姻が1183年だとすると、北条時政は四十六歳ですから、牧の方が十五歳であれば、年の差は三十一です。
うーむ。
あれこれ考えると、牧の方も再婚で、婚姻時に二十五歳くらいであれば、すべての辻褄が合って「まことに具合いがよい」ように感じます。
なお、細川・本郷論文の「はじめに」には、
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いまどき連名の論文は珍奇なようであるが、本稿は両名共同の研究作業の成果であり、やむを得ずかかる形をとることにした。1は本郷、2と3は細川が主に叙述したが、私たちは本稿全体への責任を共有するものである。
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とありますが、二十年前の両者の関係とその後の推移を知っている私としても感懐の深いものがあります。
>筆綾丸さん
>牧の方に宮沢りえを配したところからすると、炯眼の三谷幸喜氏は、牧の方は初婚ではなく再婚だろう、と見抜いているような気がしますね。
そうですね。
女優ですから本気で化粧すれば十代にも化けるのでしょうが、自然な年代設定でしたね。
>ザゲィムプレィアさん
牧の方の出自と池禅尼との関係については、ツイッターでも「千葉一族」というホームページを運営されている方からご意見を伺っています。
正直、つい最近、この問題に関わるようになった私には対応する能力がありませんが、大河ドラマの進展に合わせて、もう少し深めて行きたいと思います。
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武者所宗親と大岡時親は同一人物ではないかと思っています。あくまでも推測ですが。
『愚管抄』によれば、「大舎人允宗親」は「牧の方」と「大岡時親」の父。『吾妻鏡』では「牧の方」の兄弟が「武者所宗親」。(続く)
https://twitter.com/chibashi4/status/1484041110251274240
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牧の方の父「大舎人允宗親」や「牧武者所宗親」と同一人物とされる、池禅尼の兄弟「諸陵助宗親」は、保延2(1136)年12月21日に諸陵助に任じられています(『中右記』保延二年十二月廿一日条)。
https://twitter.com/chibashi4/status/1484389131627413510
宗親と時親に関する宝賀寿男氏の意見
1/21の投稿「牧宗親は池禅尼の弟か? 」で紹介した宝賀氏の『杉橋隆夫氏の論考「牧の方の出身と政治的位置」を読む』から引用します。
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大岡時親は、宗親が『東鑑』の記事から消えた建久六年(1195)の後に、ごく短期間だけ登場する。すなわち、同書の建仁三年(1203)9月3日条に初出で大岳判官時親と見え、比企合戦(
比企能員の乱)の鎮圧に際し、時政の命により派遣され比企一族の死骸等を実検したと記される。次いで、その二年後の元久二年(1205)6月21日条に畠山父子誅殺に際し、備前守時親は、牧御方の使者として北条義時の館に行き、重忠謀反を鎮めるように説得したことが記される。その二か月後の8月5日条には、時政の出家に応じ、大岡備前守時親も出家したと記され、これが『東鑑』最後の登場となった。終始、時政の進退に殉じたわけである。以降、牧氏が歴史に再浮上することはなかった。
『愚管抄』の記事により牧の方の兄とされる時親であるが、突然に判官(五位尉)として現れ、その二年後(1205)には備前守に任じている。備前は上国で守は従五位下相当とされるが、北条時政ですら従五位下遠江守に任じたのが正治二年(1200)、義時が従五位下相模守に任じたのが元久元年(1204)、
その弟・時房がその翌年の元久二年(1205)に時親に少し遅れる8月に従五位下遠江守に任じた(当時31歳)ことからみて、なぜか異例の昇進を時親が遂げたといえよう。
これらの動向を見てみると、建仁三年(1203)には判官になっていたのは、建久六年(1195)の武者所を承けて官位昇進したものとみられ、「宗親=時親」と考えるのが自然となろう。すなわち、時親は宗親の改名であり、牧宗親が判官補任を契機に「大岡判官」と名乗り、名前も北条氏に名前に多い「時」を用いて時親に改名したのではないかと推するのである。そう考えないと、父が六位で卒去したのに、その八年ほどしか経たないうちに息子が最初から五位で登場するという不可解なことになるからである。
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なお愚管抄について「時正(註:北条時政)ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹ニ子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ。コノ妻ハ大舎人允宗親ト云ケル者ノムスメ也。セウト(註:同腹の兄)ゝテ大岡判官時親トテ五位尉ニナリテ有キ」
を引用していて、同時代史料と認めた上で以下のように述べています。
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『東鑑』のほうから『愚管抄』の記事を見ていくと、後者にはいくつかの混乱・誤記があると考えざるをえない。それらは、著述者の居住地・環境による情報源や問題意識の差異により生じるものでもあり、当時としてはやむをえないものでもあろうが。
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大河寸評
『鎌倉殿の13人』第3回は、文覚(市川猿之助)が頼朝の前に伝義朝髑髏を放り投げて辞すときの、
「(そんなものは)ほかにもまだあるから」
という捨て台詞が素晴らしかった。猿之助は三谷映画の端役として絶妙な味を出していますが(『ザ ・マジックアワー』では、まだ亀治郎だったので、往年の時代劇スター・カメという端役でした)、これも大河ドラマの名場面になるかもしれません。
慈円は、
おほけなくうき世の民におほふかな
わが立つ杣に墨染の袖??(小倉百人一首95番)
などと殊勝な歌を詠んでますが、愚管抄の「時正ワカキ妻ヲ設ケテ、ソレガ腹二子共設ケ、ムスメ多クモチタリケリ」というような一文を読むと、天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、とあらためて思います。
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」
山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち」に先行研究として紹介されていた星倭文子(ほし・しずこ)氏の「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」」(服藤早苗編『女と子どもの王朝史』、森話社、2007)を読んでみましたが、これは面白い論文ですね。
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成人男性中心の歴史からは見落とされがちだった「女・子ども」の存在。
その姿を平安王朝の儀式や儀礼、あるいは家や親族関係のなかに見出し、「女・子ども」が貴族社会に残した足跡を歴史のなかに位置づける。
http://www.shinwasha.com/73-7.html
星論文の構成は、
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1 はじめに
2 婚姻の成立と家長の力
1 武家の場合
2 貴族の場合
3 婚姻の政治的背景……関東との縁
1 藤原実宣の場合
2 藤原国通の場合
3 藤原実雅と源通時の場合
4 離婚
1 藤原公棟の婚姻と離婚
2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
3 離婚不当の訴え
5 おわりに
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となっていて、面白い事例がふんだんに紹介されているのですが、藤原公棟の例は特に面白いですね。(p284以下)
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1 藤原公棟の婚姻と離婚
(18)嘉禄二年五月二十七日条
中将入道<公棟>に嫁ぎたる新妻独歩すと云々。時房朝臣の子次郎入道の旧妾なり。<彼等の妻妾皆参商
といえども、所領を分け与える之間、猶その力あり>本妻の常海の女、又離別せず、なお相兼ねる。
ここでは、離婚についていくつかの史料を提示したい。まず、北条時房の息の次郎入道・北条時村のもとの妾が、藤原公棟に嫁いでいる。しかし公棟は、本妻とは別れていない様子が記されている。北条時村は、前年の十二月八日条に「十二月二日に死去」とある。妾は、半年足らずで再婚していることになる。「所領を分け与える之間、猶その力あり」とあり、女性に資産があったことから結婚したともとれる。ところが、
(19)嘉禄二年六月十日条
世間の事等を談ず。中将入道<公棟>新妻<本より大飲して、ここ衆中に列座して、盃酌す。其比にセトノ法橋、
定円闍梨、公棟朝臣、その妻列座すと云々。>程なく離別す。
とあり、一か月も経たないうちに離縁している。当時は離婚の理由が明確にならないことが多いのに、「新妻大飲して」と明記されているのは興味深い。新妻は大酒飲みだったのである。このことが離婚の理由であったと考えられる。
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結婚の理由が金目当て、離婚の理由が妻が大酒飲みであるという非常に分かりやすい事例ですが、宴会に女性が参加すること自体は公棟も認めていて、ただ、そこまで飲むとは思わなかった、ということのようですね。
「新妻」はまことに豪快な女性ですが、ただ、こうした自由奔放な行動を取れるのは、結局はその女性に財産があることが裏づけになっていますね。
北条時村の「妾」だったというこの女性の出自を知りたいところですが、この婚姻は純粋に公家社会の例とはいえなさそうです。
なお、北条時村は時房息という出自に恵まれながら若くして出家したようで、この人もちょっと変わった人のようですね。
政村息の時村(1242-1305)とはもちろん別人です。
北条時村 (時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)
>ザゲィムプレィアさん
牧の方の娘に貴族に嫁した女性が多いのは間違いないので、仮に「時政と牧の方の結婚は近在の地方武士同士の結婚」に過ぎないとしても、牧家が京都との特別な関係を持つ家であることは争えないと思います。
また、平頼盛の所領は後に久我家の経済的苦難を救うことになるのですが、その伝領に、もしかしたら牧の方の周辺も絡んでくるのかな、といった予感があるので、もう少し丁寧に見て行きたいですね。
>筆綾丸さん
>天台座主とは名ばかりで、俗っぽい坊主だな、
これは本当にその通りですね。
歌好きも殆どビョーキっぽいところがありますね。
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その2)
星倭文子氏には『会津が生んだ聖母 井深八重―ハンセン病患者に生涯を捧げた』(歴史春秋出版、2013)という著書があって、その著者紹介によれば「1939年水戸市生まれ。福島大学大学院地域政策科学研究科修了。総合女性史研究会会員」だそうですね。
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会津藩家老西郷頼母の一族に生まれた井深八重は、同志社女子学校を卒業し、長崎県立高等女学校の英語教師として長崎に赴任しました。その後身体に異変が生じ、ハンセン病と疑われて神山復生病院に入院しましたが、それは誤診だったのです。しかし八重は病院を去る事はありませんでした。看護婦としてハンセン病患者の看護に一生を捧げた生涯でした。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784897578118
「鎌倉時代の婚姻と離婚 『明月記』嘉禄年間の記述を中心に」は冒頭の学説史整理がありがたいですね。
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1 はじめに
婚姻形態についての本格的な研究は、高群逸枝氏が一九五三年に発表した『招婿婚の研究』に始まるといっても過言ではない。高群氏は古代から現代までの婚姻体系を提示し、歴史的変遷を明らかにした。古代は群婚から妻問婚をへて婿取婚へ、平安中期は純婿取婚、平安末期は経営所婿取婚とし、鎌倉時代になると、婿取儀式形式を残しつつ、次第に夫方居住に移行をはじめ、それに伴い、家父長権が絶対的なものとなった、と指摘している。その結果、室町時代から嫁取婚が行われるようになり、婚姻も男女よりも家と家の結びつきが濃厚になった、とする研究である。
その後、関口裕子氏は、高群氏の主張と実証が乖離しているとしながらも批判的に継承している。一方、高群説には多くの問題があると批判している研究者は、主として江守五夫氏、鷲見等曜氏、栗原弘氏の三人である。さらに、服藤早苗氏は、高群氏が婿取婚とした平安時代の婚姻形態に関し、最新の研究成果から、?「婿が妻族に包摂されないので、婿取婚の用語は不適切」、?「居住形態からは妻方居住を経た独立居住と当初からの独立居住」、?「十世紀以降の婚姻決定は妻の父であり、夫による離婚が始まるので、家父長制下の婚姻形態」との特徴を持つ、と述べている。
小稿で検討する鎌倉期の婚姻形態については、次のような研究がある。辻垣晃一氏は平安時代末期から鎌倉時代初期の公家の結婚形態についての検討で、石井良助、高群逸枝、関口裕子各氏の嫁取婚成立時期に関する研究は十分な史料的裏付けに基づいて展開されていないと指摘し、独自の史料検討を行った結果、一般的な婚姻形態は婿取婚だった、と結論づけている。また、辻垣氏は、武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている。一方、五味文彦氏は「『明月記』の社会史」「縁に見る朝幕関係」「女たちから見た中世」などで、杉橋隆夫氏は「鎌倉初期の公武関係」で、政治的背景や社会史の面から具体例を検証しているが、婚姻形態の専論ではない。
婚姻決定権については、奈良時代までの婚姻形態は、男女ともに婚姻決定権・離婚権があり、両者の合意により婚姻関係が発生し、どちらかの一方が婚姻を解消したい場合は、自然解消している。平安時代には、妻方の両親が婚姻決定に介入し、次第に妻方の父親が婚姻の決定権を持つようになる。鎌倉時代になると夫方の父が婚姻決定に介入し、夫方・妻方ともに父が決定権を持つ、とするのが通説的見解のようである。
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いったん、ここで切ります。
私の関心からは、鎌倉時代は公家の場合「一般的な婚姻形態は婿取婚」で、「武家の場合についても、婿取婚から嫁取婚へと発展図式で捉える高群氏、田端泰子氏の説や、西日本に婿取婚の存在を推察し地域性を主張する高橋秀樹氏の説に対し、史料検討の結果、嫁取婚であったと述べている」辻垣晃一氏の見解が気になります。
https://researchmap.jp/tsujigaki
また、婚姻決定権については、「姫の前」の場合は「夫方・妻方ともに父が決定権を持」っておらず、頼朝が事実上の決定権を持っていたという非常に特殊な例ですね。
義時としては、おそらく「姫の前」の父親ないし比企一族の最有力者に手を廻して「姫の前」を説得してもらおうとしたのでしょうが、「姫の前」の強烈な個性に拒まれ、最後は頼朝に泣き寝入りという感じだったのでしょうか。
さて、星論文の続きです。(p263以下)
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離婚については、栗原弘氏の『平安時代の離婚の研究』、田端氏の「中世社会の離婚」「鎌倉期の離婚と再婚にみる女性の人権」、脇田晴子氏の「町における女の一生」などの研究がある。栗原氏は、平安時代の離婚は夫婦二人の問題であり、当事者主義が原則的で、夫は妻の過失の有無にかかわらず、妻を離別することが認められていた、と主張する。その背景には、夫は結婚・再婚に経済的負担がないため、安易に結婚・離婚・再婚を行うことが可能であったこと、両性の権利の不均衡の淵源は古代社会が一夫多妻制であり、離婚の権利を男性が所持していたこと、などを述べている。さらに、離婚された女性は、離婚をドライに受け止め、新しい結婚生活へ立ち向かおうとする積極的な姿勢が乏しい、あるいは、離婚後の女性の明るい話がほとんど見られないことなども述べている。だが、果たしてそういいきれるだろうか。
田端氏は、鎌倉期の離婚について次のように説明している。まず、鎌倉期には婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれたので、武家社会で公然化された。そのため離婚は、家と家との結合の破綻を意味することになり、これも公然化する必要が出てきて、宣告離婚が発生した、と述べている。首肯しうる見解であるが、貴族社会については具体的・実証的検討はされていない。
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田端氏の見解について、星氏は武家社会については「首肯しうる」とされていますが、田端説が正しいのであれば、「姫の前」についての私見、すなわち「姫の前」は比企氏の乱(1203)の結果、義時と離婚させられたのではなく、その前に「姫の前」の側から離婚を「宣告」した、という考え方(超絶単独説)は、政治史の面にも波及しますね。
鎌倉期の武家社会が、当事者、というか夫の意思で自由に離婚できる社会から「婚姻が家と家との結びつきを意味するようになり、長期的・安定的な婚姻が望まれた」社会になっていたとすると、義時と「姫の前」の離婚は北条家と比企家の「結合の破綻を意味することになり」ます。
とすると、二人の離婚が比企氏の乱の原因の一つではなく、主因であった可能性すら出てきますね。
ま、私見では、「姫の前」はそんな面倒くさい家と家の関係など知ったことか、とさっさと義時に三行半を突き付け、のんびり京都まで大名旅行をして、義時のような野暮ったいマッチョとは異なる教養溢れる歌人の源具親と再婚して楽しく暮らしていたのだろうと思いますが。
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)〜(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11080
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082
野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち
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野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)
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能員というカモネギ
小太郎さん
離婚が家と家との結合の破綻であるとすれば、姫の前と義時が離婚したあとなのに、能員は義政の招きに応じて、まるでカモネギのように(六代将軍義教が鴨の子に誘われて赤松邸で殺されたように)、なぜ平服でのこのこ名越邸に赴いたのか、という疑問が残りますね。
姫の前と義時の離婚は、朝宗と義時の関係が破綻しただけで、能員と義政の関係が破綻したのではない、と能員は考えたのか。あるいは、義政の仏事供養という招きは、比企家と北条家の関係修復の絶好の機縁と考えたのか。あるいは、たんに能員は烏滸だったのか。
比企氏滅亡の話を遠く京都で聞いて、聡明な姫の前は何を思ったか、興味は尽きないですね。
比企能員について
筆綾丸さん
比企能員は頼朝の流人生活を経済的に支え続ける才覚を持った比企尼の一族で、頼朝に認められ頼家の乳母父になりました。さらに、奥州合戦では北陸道大将軍を務めました。
北条との武力衝突を避けたいという思いはあったかもしれませんが、吾妻鏡に記述されるような単純な計略にかかることはなかったでしょう。
巧妙な罠が仕掛けられたかもしれませんが、もはやそれが明らかになることはないでしょう。
ゴッドファーザーパート1でマイケルは父と兄の仇を次のような罠で仕留めました。
?偽って手打ちに応じるポーズを見せる
?それを纏めるため中立な場所での会談を設定する
?安全の為会談は本人だけでボディガードは同席せず、互いに入室前に身体検査して丸腰を確認する
?会談場のトイレに予め隠したピストルで仇を射殺、そこから脱出して高飛びする
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その3)
前回投稿で引用した部分の続きです。(p264以下)
先行研究を踏まえた星氏自身の課題設定ですね。
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鎌倉期の婚姻形態や婚姻決定権などについては、実態に即した実証的研究が少ないのが実情であるので、小稿では、藤原定家の『明月記』を素材として、中級貴族である藤原定家の見た婚姻について検証してみる。『明月記』は治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)、定家十九歳から七十四歳までの日記であり、そこには女性たちについての様々な記述がある。特に嘉禄年間(一二二五〜二六)には、婚姻や男女間のことをめぐって興味深い記述が多い。ゆえに、短い期間ではあるが、小稿では先行研究を踏まえながら嘉禄年間の記述を主に、婚姻の決定権について武家と公家の違いや、婚姻・再婚の実態から見えてくるものを、そして離婚における女性の意思についても検証することとしたい。当時の離婚は家の形成にとって重要な役割を果たしていた。したがって、家族史研究にもささやかな寄与ができうるものと考えている。なお、『明月記』に関しては年月日のみをしるすこととする。
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嘉禄年間に着目された理由を星氏は明確に述べておられますが、この時期が承久の乱後の、まだまだ政治的・経済的、そして精神的混乱が続いている時期であることは留意すべきでしょうね。
承久の乱の戦後処理については多くの研究者が「前代未聞」「未曾有」「驚天動地」といった最大級の修飾語を工夫していますが、とにかく全ての価値の基準である天皇が廃位され、「治天の君」を含む三上皇が流罪となったのですから、従来の倫理秩序も動揺しないはずがありません。
朝廷は直属の軍事組織を失ってしまい、そうかといって幕府が責任をもって京都の治安維持を約束してくれた訳でもないので、強盗の横行など、社会秩序も乱れに乱れます。
こうした中で、結婚や夫婦間の関係についても当然に価値観の変動があったはずですね。
従って、『明月記』の嘉禄期の事例をどこまで一般化してよいのかという疑問はつきまといますが、全体的に記録が乏しい中で、やはり『明月記』の存在は貴重です。
さて、(その1)では「時房朝臣の子次郎入道の旧妾」であり、藤原公棟と再婚したものの、大酒飲みのために一か月で離縁となった「新妻」の例を紹介しましたが、優れた政治家とされている時房の周辺は、家族や夫婦の関係ではけっこうな騒動が多いですね。
まず「次郎入道」時村は承久二年(1220)正月十四日、弟の資時とともに突如として出家してしまいます。
兄弟二人一緒に出家というのは何とも異様な感じがしますが、これは『吾妻鏡』にも、
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相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma24b-01.htm
と記されていますね。
その後、時村(行念)は親鸞との関係があったようですが、出典は宗教関係の史料なので、どこまで信頼できるのか若干の問題がありそうです。
ただ、出家しても女性関係は変わらないという点では、いかにも浄土真宗っぽい感じはしますね。
北条時村(時房流)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%9D%91_(%E6%99%82%E6%88%BF%E6%B5%81)
そして星論文では、「2 婚姻の成立と家長の力」に入ると再び時房の四男・朝直の事例が出てきます。
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1 武家の場合
『明月記』の嘉禄年間に記された婚姻の記述には、武家と公家では家長の関わり方に違いが見える。辻垣晃一氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期の婚姻形態について、重要なのはどこで婚姻儀式を行ったかではなく、婚姻の開始はどういう形式であり、誰が婚姻儀式を差配したかという点である、と指摘している。
ここでは婚姻の決定過程に武家と公家の違いがあるのか、またある場合は何が違うのかを検証していきたい。第一に取り上げるのは、定家が関東の婿取りのこととして注目している、北条泰時の婿取りである。
(1)嘉禄二年(一二二六)二月二十二日条
関東執婿の事と云々、武州の女、相州嫡男<四郎>・朝直に嫁す。愛妻<光宗女>があるにより、
頗る固辞すと。父母懇切に之を勧めるによると云々。
(2)嘉禄二年三月九日条
武州婚姻のこと、四郎<相州嫡男>猶固辞する。事已に嗷々と云々。相州子息惣じて其の器に
非ず歟。出家の支度を成すと云々。本妻の離別を悲しむに依るなり。公賢朝臣の如きか。
-------
この後の説明がちょっと長いので、いったんここで切ります。
時村・資時の出家により朝直が嫡男とされていたようですが、その朝時まで出家してしまったら時房の権威は丸つぶれ、目も当てられない事態ですね。
>筆綾丸さん
本郷和人氏も重視する比企能員のカモネギ的行動ですが、『吾妻鏡』の記述をどこまで信頼できるかという問題がありますね。
ま、疑い出したら本当にキリがありませんが。
シンプルな事件
ザゲィムプレィアさん
『吾妻鏡』の記述が事実ならば、という前提で話をしているだけなんですよ。『吾妻鏡』が韜晦なら、話は変わります。
映画『ゴッドファーザー』の関連で言えば、比企の乱は、ホテルのペントハウスでのマフィアの幹部会をヘリコプターから機銃掃射して殲滅する場面(PART ?)のほうが近いと思います。
つまり、北条側は謀叛か何かを理由に比企邸を奇襲して皆殺しにした、というシンプルな事件と解すればよく、巧妙な陰謀をめぐらしたなどと考える必要はないのです。
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その4)
続きです。(p266以下)
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当時執権となった武州・北条泰時の娘が、相州・北条時房嫡男四郎朝直に嫁す記事である。朝直は当時二十歳、すでに妻がいた。愛妻とは、伊賀朝光の息子光宗の娘である。朝直は泰時の娘との婚姻を断るが、父母は婚姻を熱心に勧めている。この婚姻は、武家家長である父親同士により決定されるものである。父は北条時房であり、母は安達遠元の娘という説もあるが定かではない。時房は初代の連署に就任しており、泰時の叔父にあたる。「承久の乱」では共に上洛し六波羅探題になるほど泰時を補佐し良好な関係にあった。一方、伊賀朝光の息子光宗は、妹が北条義時の妻となっており、妹の義時の間に政村がいた。光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して義時の女婿である藤原能保の息子・実雅を将軍にたて、北条政村を執権に就かせようとした「伊賀氏の乱」が失敗し、信濃国に配流されていた。その光宗の娘が正妻であり、愛妻であったことから、朝直は泰時の娘との婚姻を渋る。
この婚姻を熱心に勧めた朝直の父である時房にとっては、すでに執権となった泰時の娘との縁組みは望むところであったろう。北条本家の娘が庶家に嫁すということは、泰時にも時房への懐柔・同盟強化の意図があったものと考えられる。朝直は光宗の娘との別れを悲しみ、出家も考えるが結局はそれも叶わず、光宗の娘とは離別し、泰時の娘を妻に迎える。父親への抵抗は出家をすることであるが、それはできず、そこには確かに家長の強大な権限が見て取れる。
朝直は、光宗の娘との間には子供がいなかったが、泰時の娘との間には時遠・時直をもうけている。しかし、時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した。
朝直の婚姻について、高群氏は、一族の家長の威迫と述べているが、双方の思惑が一致したためと考えたい。【後略】
-------
「光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して……」とありますが、僅か三歳で鎌倉に下った頼経は直ぐに征夷大将軍となった訳ではなく、宣下は嘉禄二年(1226)正月二十七日ですね。
『吾妻鏡』では同年二月十三日条に、
-------
佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.5-b02.htm
とあります。
その他、この時期の泰時と時房の関係が「北条本家」と「庶家」と固定化していたのかを含め、星氏の武家社会理解には多少の疑問を感じるところがありますが、とりあえずそれは置いておきます。
さて、伊賀氏の乱で実家の後ろ盾を失い、離縁を余儀なくされた光宗の娘は気の毒ですが、そうかといって新しく朝時の正室となった泰時娘が幸せだったかというと、そうでもなさそうですね。
朝時との間に「時遠・時直をもうけ」たものの、「時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した」訳ですから、結局は元妻に未練たっぷりの朝時とは上手く行かなかった訳で、朝時の再婚は誰一人として幸せにしない残酷なものだったということになります。
そして、朝時と泰時娘の間に二人の子供がいたとはいえ、それが決して夫婦間が円満であったことの証拠ではないという事実は、山本みなみ氏によれば「およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」義時と「姫の前」の関係を考える上でも参考になりますね。
山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)(その3)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11081
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11082
Re: シンプルな事件
筆綾丸さん
吾妻鏡に対する態度は了解しました。
ゴッドファーザーの件は、「巧妙な罠」という表現を使った後でそれに相応しい日本史の出来事を思い出せず、代わりに映画のエピソードを書いてしまいました。
日本史とは関係ないことですので、気にしないでください。
禁色
ザゲィムプレィアさん
ヒッグス粒子の発見(2013年)であれ、重力波の発見(2016年)であれ、観測誤差がどれくらい低くなれば実在すると言えるのか、という相対的な問題があるわけで、100%絶対存在するとは、たぶん、永遠に言えません。
『吾妻鏡』の記述も、僅か800年前のことながら、何が史実で何が曲筆か、明確に区別する基準などありませんから、まあ、だいたい、こんなもんだろう、ということがわかればいいと考えています。皮肉な言い方をすれば、歴史学とは最初から証明(実証)を禁じられている学問で、だから、人を不必要に惑わすのだ、ということになります。
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
私は北条泰時(1183-1242)と時房(1175-1240)の関係が「北条本家」と「庶家」に固定化されていたとは考えませんが、時房の子息のうち、時村(?-1225)と資時(1199-1251)が若くして出家、朝直(1206-64)も愛妻との離縁を強要する父に反発して出家しかけたことを見ると、時房流が結果的に「庶家」となったのもやむを得ない感じがしますね。
前妻に未練を残していた朝直に嫁し、二人の子を産んだ後、名越光時に再嫁した泰時娘は、光時が宮騒動(1246)で流罪になってしまった後はどのような人生を送ったのか。
北条朝直
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%9C%9D%E7%9B%B4
名越光時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E5%85%89%E6%99%82
さて、朝直・泰時娘の離婚は泰時娘側の申し出による協議離婚ではないかと思われますが、妻の側の申し出による離婚の例をもう一つ引用させてもらうことにします。
山本みなみ論文で重視されている「牧の方腹」の宇都宮頼綱室の話ですね。(p286)
-------
2 宇都宮頼綱室・為家室の母の離婚
藤原定家の息・為家の妻の母は、北条時政と牧の方との娘で、宇都宮頼綱の妻となった女性である。
(21)天福元年(一二三三)五月十八日条
金吾(定家息・為家)の縁者妻の母天王寺に於いて入道前摂政の妻と為る之由、わざわざ女子並びに
もとの夫の許に告げ送ると云々。自ら称す之条言語道断の事か。<禅門六十二歳、女四十七歳>
定家は、為家妻の母が、わざわざ娘の為家妻と元夫頼綱に前摂政藤原師家の妻になることを自ら告げることはいかがなものか、と非難している。しかしこの場合は男性側からの離婚宣言ではなく、女性側が離婚宣言し六十二歳の師家と再婚したと書いている。離婚の原因は不明であるが、鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており、田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが、これも同様な事例である。
-------
この『明月記』の記載で、山本みなみ氏の言われる「牧の方腹」の「八女」が天福元年(1233)に四十七歳、従ってその生年が文治三年(一一八七)であることが分かる訳ですね。
星氏は「離婚の原因は不明であるが」と書かれていますが、シンプルに新しい男ができたから、と考えればよいと思います。
松殿師家(1172-1238)は「前摂政」とはいえ、これは遥か昔の寿永二年(1183)、源義仲と結んだ父・基房が僅か十二歳の師家を摂政にしたという強引な人事ですね。
義仲失脚とともに基房・師家父子も失脚、松殿家は摂政・関白を出せる家柄ではなくなり、師家は半世紀以上、一度も官職に就けない人生を送った訳ですから、政治的には敗者です。
しかし、そういう人物に再嫁したということは、前・宇都宮頼綱室の選択は決して権勢や金目当てではなく、「愛情」に基づくことを示していて、こうした事情が分かる事例は本当に珍しいですね。
そして、藤原定家の目を白黒させた四十七歳の前・宇都宮頼綱室のあっけらかんとした自由気儘な行動も、おそらく彼女が相当の財産家であったことが裏づけとなっているはずですね。
松殿師家(1172-1238)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%AE%BF%E5%B8%AB%E5%AE%B6
山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/11112
なお、「田端氏は、実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられると述べているが」に付された注を見ると、これは「日本中世社会の離婚」(『日本女性史論』、塙書房、1994)で、私は未読です。
ただ、「実態として妻からの離婚は武家層にあったと考えられる」こと自体は、古文書・古記録や系図類を扱っている研究者には常識的な話かと思います。
星論文にはまだまだ興味深い事例が載っていますが、いったんこれで紹介と検討を終えることにします。
愚問ですが
小太郎さん
「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」という文章が、いまひとつ、よくわからないのですが、定家が属した公家社会の女性は、武家の女性とは反対に、婚姻関係なんて曖昧でもいいんじゃないの、と考えていたということですか。
取り急ぎ
>筆綾丸さん
>「鎌倉期の武家女性は婚姻関係の明白な状態を潔としており」
その箇所、私も気になりました。
星論文には多数の参考文献が挙げられており、それらを網羅的に読めば参考になる事例があるのかもしれませんが、私も今はちょっと余裕がありません。
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