したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

避難用作品投下スレ5

565名無しさん:2009/12/25(金) 17:08:12 ID:fqgC202s0



るーこ「しまった、うーへい。時間だ」
春原 「どうしたの?」
るーこ「実は、るーはこの後デートの約束を取り付けていたのだ。そろそろ失礼する」
春原 「ちょ、めちゃくちゃ中途半端なんですけど……って、え? デート??」
るーこ「そうだ。せっかくのクリスマスだからな」
春原 「そっか、まぁクリスマスだから仕方ないね。いやぁ、それにしても僕、いつの間にそんな器用なことしてたんだろ」
るーこ「? うーへいとじゃないぞ」
春原 「は?」
るーこ「るーは、うーへいに誘われた覚えなどない。こちらから誘う義理もまだない」
春原 「え……え、えぇ?」
るーこ「うーへい。これは肝に命じていて欲しいが、B−4のるーとうーへいの関係はまだそこまで深くない。
    どちらかと言うと、うーへいの片思いって印象の方が強いかもしれないぐらいだ」
春原 「何それ」
るーこ「安心するのはまだ早過ぎるってことだ。るーのハートを見事げっちゅしてみろ、うーへい。ではな」
春原 「ちょ、ま……」


チャットを退室(12/25-17:10:00)
るーこはどこかへ行ってしまったようです


春原 「え。何それ。何これ……何だ、これっ!
    何なんだ、こ、れ、はーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」




春原陽平
【所持品:こっそり用意していたるーこへのクリスマスプレゼント】
【状態:リア充氏ね!】

ルーコ・マリア・ミソラ
【所持品:スイーツ(笑)脳】
【状態:♪】


いつも二番煎じで申し訳ないです! メリークリスマス!! リア充氏ね!!!

566想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:50:47 ID:6Ze9kqqQ0
 ――残り六時間。

 職員室の全員が作業を中断し、ようやく表に出てきた『主催者』の放送を聞き終えたとき、那須宗一がまず思ったのがそれだった。
 要は昼になれば向こう側から仕掛けてくるという寸法だ。つまり、泣いても笑ってもそれまでに体勢を整えなければならない。
 宗一自体は首輪の構造自体は既に把握しており、手持ちの荷物で解除できることも確認していた。

 首輪の仕組みは拍子抜けするほどあっさりとしたもので、お粗末なものだった。
 遠方から電波を受信し、番号をチェックした後に信管を作動させ爆発する。
 だが首輪が自爆するにはとある回路が引っ張られるのを感知したとき、という杜撰さであり、
 ここにさえ引っかからなければいくら分解しようが爆発することはない。しかもこの回路は生死判定も行っていた。
 事前に信管さえ抜いておけば爆発するどころか死亡判定も出ないという有様であり、
 ひとたびひっくり返してみれば高校生、いや中学生でもどうにかなってしまうほどの代物でしかなかった。

 そんなところまで元ネタの小説と被せなくていいだろうにと宗一は呆れながらも、
 和田透の情報がなければこんな事実も知りえなかったのも事実だった。
 無様だ、と自虐するつもりはなかった。可能性は既にこちらの手の中にある。
 後は皆の糸を結び、強固なものにしてゆくだけだ。

 もう俺は、絶望なんて感じない。守ってくれる頼もしい味方がいる。信頼できる仲間がいる。そいつらと一緒なら地獄にだって行ける。
 ゆかり。七海。皐月。エディ。夕菜姉さん。俺にもようやく、帰る家が見つかったよ……

 ある者は苦笑し、ある者は笑顔で応援し、ある者は遅すぎだと呆れ、ある者はただ見守り、ある者は静かに頷いた。
 それぞれ全く別の反応でありながら、そのどれもがやさしい。
 全員の姿が網膜の裏に溶け、消え失せた瞬間に、宗一は叩いていたキーボードの音を止めた。
 作業完了。後はリサ=ヴィクセンに伝えようかと席を立ったとき、ガクッと膝が落ちた。

 力が入らない。自分でも驚くほどに。
 よくよく思い出してみればここまで不眠不休で働いてきた結果なのかもしれなかった。
 とうとう体も限界というところか。前準備が終わって、張り詰めた糸が切れたのかもしれない。
 へらへらと笑っていると、自分の状態を察知したらしいリサが肩を叩き、手を差し出してくれた。

567想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:51:06 ID:6Ze9kqqQ0
「ちょっと休んだら?」
「そうさせてもらうか」

 手を取り、少しは活力を取り戻した体を立たせる一方、作業が完了したことも目線で伝える。
 黙って頷いたリサは完全に立ったのを確認すると「ほら行ってきなさい」と軽く背中を押し出した。
 よろめきながら後ろ目に職員室を確認してみると、高槻は椅子にもたれ掛かって寝息を立てており、
 一ノ瀬ことみも芳野祐介もその姿はない。どうやら自分が最後だったようだと判断して「ビリだったか」とおどけてみせた。

「残念。ブービーよ」

 自らを指したリサが唇の端を吊り上げる。額面にも出さないが、リサだって疲れているに違いなかった。
 そういう部分はやはりリサの方が格上かと素直に認め、宗一は「後はよろしく」と言い残して職員室を出た。

「……おお」

 一歩廊下に出ると、窓から差す朝日の光が宗一の目に飛び込んだ。
 たかが二時間ちょっとパソコンに向かっていただけとはいえ、
 疲弊していた身には命の源と言える陽光を受けるにはいささか刺激が強すぎた。
 目が細まり、くらっと体が揺れる。そのままよろめき、窓際の壁に強く体を押し付ける結果になってしまった。

 へへ、ともう一度笑って、宗一は窓から外を眺めてみる。
 薄く、青く色づいた空は、どこまでも茫漠と続く夜の闇ではなく、帰路へと続く遥かな道を指し示していた。
 今日はよく晴れそうだ。
 そんなことを思いながらふらふらと歩いてゆくと、隣の教室から小柄な影が現れた。

「あ……宗一さん」

 肩までかかる栗色のショートヘアを靡かせながら、古河渚がとてとてと走ってくる。
 心なしか強張った顔をしているのはきっと自分のせいなのだろう、と宗一は我が身の疲労ぶりに呆れた。
 渚が出てきたとき、すぐに彼女だと分からなかったのもあった。
 軽く手を上げて応じてみようとしたが、へにゃへにゃと動く自分の腕を鑑みれば、既にゾンビ状態と言っても過言ではなさそうだ。

568想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:51:22 ID:6Ze9kqqQ0
「寝ましょう」
「第一声がそれか」

 苦笑で返すと、「笑い事じゃないです」と少し怒ったような口調になって、渚が腕をとって肩に回した。
 どこかに連行されるらしい。元々宗一は渚に会いに行くのが目的だったので特に文句はなく、なすがままにされていた。
 抵抗する気力がなかったというのもある。

 腕が回されると、密着した渚の体からほんのりと懐かしい匂いが漂ってくる。
 石鹸の匂いだと気付き、そういえばやけに艶があるということに、女の子だなと意識せずにはいられなかった。
 同時に自分が風呂に入っていないことに軽く羞恥心を覚えたが、今そうしてしまえば溺れ死にそうだったので諦めることにする。
 ならばせめて渚といることを楽しもうと思いつつ、宗一は口を開いた。

「どこに連れていくのです」
「……普通に隣の、教室です」

 どうやら渚が出てきたところに連れて行かれるらしい。
 渚が言うには毛布や枕もあるらしく、床の固さを除けば安眠は得られそうだった。
 教室の扉を一緒にくぐりながら、渚が質問してくる。

「どうしてあんなところに? もう、無茶です。フラフラなのに一人で……」
「渚に会いたかったから」
「ふえっ?」

 我ながら正直すぎる回答だと思ったが、面白い反応が得られたのでよしということに宗一はしておいた。
 みるみるうちに赤面してゆく渚の正直さが可笑しく、「可愛い」と続けてみると「か、からかわないで下さい」と小声で反論してきた。

「変な声出しちゃったじゃないですか……皆さん寝てましたからいいですけど」

569想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:51:39 ID:6Ze9kqqQ0
 教室を眺めてみると、中にいる全員がすやすやと寝息を立てており、中央にはきちんと整理されたデイパックが並んでいる。
 どうやら待機していた連中がやってくれたらしい。
 ひとつ手間が省けたことに感謝しつつ、宗一は渚に連れられて教室の隅にある壁にもたれさせてもらった。
 毛布と枕を取ってきます、とデイパックとは別の、雑用品が積まれているスペースに移動する渚を横目にしつつ、
 眠りこけている連中の顔を眺めてみた。

 床で川の字になって寝ている三人組はルーシー・マリア・ミソラと朝霧麻亜子、伊吹風子だ。
 ルーシーは長い髪をくらげのように広げ、麻亜子はだらしなく口を開け、風子は何やら幸せそうな顔をしながら麻亜子に抱きついている。
 さしずめ仲のいい三姉妹といったところか。年上二人組がことごとく年下にしか見えないけれども。

 その付近で壁にもたれ掛かり、座るようにして寝ているのは川澄舞。
 物静かな彼女らしく、寝息のひとつも聞こえない。相方っぽい国崎往人はどこかに行っているようだった。

 教卓の近くで座ってうなだれるようにして寝ているのはほしのゆめみ。
 寝ているのではなく、機能を停止させているだけだとすぐに思い直したが、
 それにしても人間に酷似しているな、と近年の進化したロボット事情に感心を抱く。
 ご丁寧に頭のリボンに『Sleep Mode』と書かれているのにはロボットだなと思わざるを得なかったのだが。

 外側の窓の近くで二人身を寄せ合って寝ているのは姫百合瑠璃と藤田浩之だった。
 ぴったりと寄り添って眠る姿に若干の羨ましさと嫉妬を感じつつ、
 だが自分にも渚がいると思い直して、宗一はこれからやろうとしていることの中身を反芻した。
 やれるのかと疲れきった頭で思いながらも、ここで言わなければ機会はないと知っている理性で臆病な部分を押さえつける。
 どうやらまだまだ弱い部分はあるらしいと意外な弱点に内心溜息をつきつつ、毛布と枕を手に戻ってきた渚を迎えた。

「よく寝てるな、みんな」
「疲れてるんだと思います」
「放送があったのに」
「もう、関係ないんだと思います。そんなことは」

570想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:52:01 ID:6Ze9kqqQ0
 毅然と言い放った渚には、既に覚悟を固め、後をこちらに委ねてくれている強さがあった。
 毛布を受け取りくるくると体に巻きながら、これが仲間意識というものなのだろうかと考えを巡らせる。
 ある部分では無言のうちに気遣う思いやりがあり、ある部分では他人に背中を預けて無防備な姿を晒す。

 個人の力が全てであり、利害の一致でしか物事を見ようとしないエージェントからの常識で言えば、
 ここにいる連中は馬鹿げているの一語で括られるのだろう。
 しかしそれは所詮理屈で見た物の見方に過ぎない。理屈を超え、お互いを信頼し合えるやさしさが今の自分達にはある。
 皆本能的に感じているのだろう。理屈と暴力で屈服させようとする主催者。デイビッド・サリンジャーには負けられない。
 自分のために、自分を成す根幹のために、やさしくなれる他人のために。
 目を反らしてはいけない。断固として異議を唱え続ける必要があることを。
 人の死の上に積み重なってきた生であり、ボロボロの布切れ同然の価値しか持っていないのだとしても……

「そうだな。もう、何も関係ない」

 ふわふわとした毛布の感触を楽しみつつ、宗一は渚の意志に応えた。
 ほっとしたように笑って、しかし渚は「でも、やっぱり不安なところはあります」と付け加えた。

「わたしにもようやく、やりたい事ができました。今この瞬間だけのことじゃなくて、ずっと先まで続くような」
「いい事じゃないか」

 羨ましい、と宗一は思った。
 自分はどうだろうか?
 ここで少しでも変わって、他人に誇れるようなことをしてゆける自信があるだろうか?
 少なくともエージェント稼業を辞められる気はしなかったし、楽しめはしても意義を持てているかと言われると答えられない。
 渚は驚くほどのスピードで進んでいっている。自分には及びもつかないような速さで、遥か前に。

「ですけど……わたし、考えすぎて、焦ってるんじゃないかって。本当にこれでいいのかって、いまいち、自分じゃ信じられなくて」

571想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:52:23 ID:6Ze9kqqQ0
 たどたどしくも、渚は懸念の在り処を宗一にはっきりと伝えた。
 生き急いでいると思っているのかもしれなかった。本人が実感しているからこそ、先を進み続けることに躊躇してしまう。
 先頭に立って歩くのに慣れていないのだ。どうしても一歩、立ち止まって後ろを振り向いてしまう。
 それはそれで彼女の優しさ、謙虚さの証明でもあるし、悪いということはなかった。
 それでも渚は自分を信じられない。ひとりでいたときの過去が忘れられずに。

「少なくとも俺は応援してるさ。渚は、ひとりじゃない」

 渚は憂いを含んだ笑みを見せた。
 これだけでは足りない。言葉を交わさずとも理解できるものもあれば、
 言葉で伝えてでしか理解できないものもある。人間とは、そう不便なようにしか作られていない。
 だからこそ人の言葉、仕草、所作に至るまでを一喜一憂することだってできる。
 宗一は一拍溜めて、伝えるべき思いを伝えた。

「俺は……渚が好きだから」

 打算と思惑が錯綜する世界で、徹底して冷酷となりあらゆるものを疑い続けなければならなかった自分。
 人並みのことさえしてこれずに自分自身を信じられなくなってしまった渚。
 本来なら関わることすらなかっただろう二人の人間だ。まして、それぞれ考えていることすら違う。
 だが、自分はそんな理屈を超えて渚に好意を持った。何度転んでも立ち上がり、その度に強くなる彼女の姿に憧れた。
 彼女のためになら地獄にだって行ける。

 それほどに守りたいものであると思え、同時に安らげる存在だとも思えた。
 どこまでも一緒に未来を作り、やり直していこうとも頑張ろうとも思える。
 全てを託して身を委ねられる、魂を充足させられる場所がここにある。
 渚がその場所なんだと、宗一は己の全てを使って伝えた。

「えっ? あ、あ……」

 告白されるとは思ってもみなかったのだろう、その言葉が冗談であるのを待ち望んでいるかのように、
 渚はせわしなく目を泳がせ、意味もなく口を開閉させては途切れ途切れの言葉を吐き出すだけだった。
 可愛いなという感想が素直に浮かび上がったが、言ってしまえばまた冗談かと思われそうだったので、
 じっとして渚が落ち着くのを待った。

572想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:52:46 ID:6Ze9kqqQ0
 渚は僅かに震え、緊張のせいか表情を徐々に硬くしてゆく。
 すぐに答えてくれないことは宗一にも分かっていた。人の気持ちに対しては、特に誠実であるのが彼女だから。
 少しずつ息を整えた渚は、次には穏やかな笑みを浮かべていた。
 自分と同じ、魂の充足の場を見つけ出した者の安らかな表情だった。

「わたしも……その、好き……で、す」

 声がしぼんでゆくのがいかにも渚らしいと思い、嬉しさよりも可笑しさが込み上げてきて、笑った。
 何もかもが不器用に過ぎた。お互いの気持ちひとつ確かめ合うのにここまで緊張していることにも、
 確かめたそばから気の抜けた体が弛緩してゆくのを感じていることにも、不器用だと感じてしまっていた。
 渚も小さく照れた。控えめに笑う彼女もぽろぽろと泣いていた。多分、ただ緊張から解き放たれたせいだろう。

 全く。俺達も。格好悪い。
 川の流れ。こびりついていたものを洗い流してくれたあの時のことを思い出しながら、宗一は渚を手招きした。

「頼みがあるんだ。膝枕してくれ」
「また、変なこと言いますね」
「本気だぞ。恋人の膝枕で寝たい」

 仕方ないですね、というように目元を緩め、渚は涙を拭ってから宗一の枕元で静かに腰を下ろした。
 とても柔らかそうな膝が目の前に差し出され、宗一は一も二もなく飛びついた。
 流石に節操がないかと少し思ったが、手を頭に乗せ、ゆっくりと撫でてくれている渚を見た瞬間、その懸念は吹き飛んだ。
 ひとの暖かさと柔らかさにただ身を委ねていればいい時間をようやく自覚して、宗一はようやく意識を楽にさせることができた。
 無防備でいられる感覚。一時を一切他人に預けていられることが純粋に心地良かった。

「……寝ちゃうんですか」

573想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:53:03 ID:6Ze9kqqQ0
 渚も同じ気持ちなのだろうか、その声は少し間延びしているようだった。
 ああ、と応じて、最後にもう一度だけ宗一は起き上がった。起き上がって、無防備な渚に口付けをした。
 僅かに力が入る気配が伝わったがそれも一瞬のことで、徐々に力を抜いてそのまま流れに身を任せる。
 そのまま数秒ほどしてから、ようやく宗一は唇を離した。「おやすみなさい」と一言付け加えて。

「はい。……おやすみなさい、です」

 宗一は目を閉じたが、意識を閉じるまで直前の渚の顔が映ったままだった。
 薄い桃色の、作りたてのゼリーのような渚の唇の感触が幸せでならなかったのだった。
 そこで、ようやく宗一は気付いた。

 ――俺は、俺という人間は、やっと、初めて、幸せってものを手にできたのかもしれない。

     *     *     *

「大丈夫? 痛くない?」
「平気。……入りもしないうちから心配しすぎなの」

 それぞれ脇に洗面器とタオルを抱え、一ノ瀬ことみと藤林杏は風呂場へと続く廊下を歩いていた。
 古河渚が風呂から上がったということで、既に休憩時間に入っていたことみは、
 教室で風呂の順番を待っていた杏と合わせて二人で入ることにしたのだ。
 理由は単純なもので、怪我の度合いが著しいということで誰かの助けがなければならないかもしれないということからだ。
 無論、言い出したのはことみではなく杏。意外な心配性ぶりに呆れよりも寧ろ驚きの方を覚えたことみは、
 無下に断る気も持てずに同道させてもらうことにした。

 風呂場は狭いと渚は言っていたが、一人が湯船に、一人が体を洗えば何も問題はないだろう。
 そもそも、ことみは湯船に浸かれるような状態ではなかった。
 風呂に入ろうと思ったのも、爆弾の製作、及びそれまでの行程でで泥臭くなったのをどうにかしたかったという思いからで、
 最悪濡れタオルで体を拭ければ良いと考えていた。
 それはそれで女の子としてどうだろうと思わないではなかったが、頓着してこなかったのもまたことみの性分でもあった。

574想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:53:23 ID:6Ze9kqqQ0
「そう……? 見た目が酷いからさ、気になっちゃって」
「人のこと言えない」

 ビシッ、と全身包帯だらけの杏を指差す。ことみからしてみれば杏の方こそひどい有様だった。
 それとも、失明しているからひどいと思われたのだろうか。怪我をした面積だけなら自分の方が狭いのに。
 指摘された杏は苦笑いしながらも、納得がいかないように小首を傾けて言った。

「そりゃそうだけど……でも、顔は女の命じゃない?」

 考えてもみなかった発想が杏の口から出てきて、ことみはつかの間絶句していた。
 やがて驚きから冷めた頭は、自分が合理的なものの見方しかしていないという事実にも気付いて、ことみは失笑を浮かべたのだった。
 なるほど、確かにそうだ。女の命を失くした方が心配されるのは当然ということか。
 だから風呂に行く直前、戻ってきた渚にもやたら気にかけられていたのか。
 どうにも一ノ瀬ことみという人間は女としての自覚が薄いらしい。

「まあ、それはそれで一部の人に需要があるし」
「どんなよ」
「……傷物の女?」
「アホか」

 肩を小突かれつつ、ことみはこうして気にかけてもらえる友達がいることに感謝した。
 こうしてひとりで気付けないことにも気付かせてくれるのが友達なら、くだらない話で花を咲かせられるのも友達。
 ひとりでいるよりずっとずっと楽しいことがあり、様々なものにも触れられるというのに。
 心に刻み込んだ『手紙』の中身を反芻して、ことみは一人で時間を潰していた過去の自分に問いかけてみた。

 やりたいことひとつなく、知識で隙間を埋め合わせるしかなかった自分。
 それでもいいと目を反らし、諦めていた自分。
 どうしてもっと早くに、その現実を変えようと思わなかったのだろう。
 そうすれば、ここにもう一人、『師匠』であり、『友達』である人がいたかもしれないのに。

575想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:53:37 ID:6Ze9kqqQ0
 後悔を覚える一方で、焦らずに大人になれという父の言葉も蘇り、ことみはそれを埋め合わせるだけの時間があることもまた自覚した。
 焦らずに、ゆっくり。時間をかけて目的は達成していけばいい。
 今はそのための仲間だっているのだから。

「にしても、驚いたわ。渚まで医者になるとか言い出すんだもの」
「でも納得はしたの。渚ちゃんならそうするって気がした」

 まあね、と杏も頷く。風呂に行く前の少しの時間、会話を交わした中で渚は「帰ったら医者になる勉強をする」と言い出したのだ。
 ことみが医者になる心積もりはまだ渚達には話していなかったので、自身も面食らってしまった。
 曰く、「大好きな人たちに少しでも健康でいて欲しいから」とのこと。
 渚らしい考えだと納得して、ことみも医者になりたい旨を打ち明けたのだった。

 もっとも自分は尊敬している人のために、というごく個人的な理由であったのだが、渚はそんなことを構うことなく喜んでくれた。
 生きて帰ったら、一緒に勉強しようという計画まで既に織り込み済みだ。
 こうして約束一つ交わすだけで歩く道がずっと楽になったように感じられるのだから、人間は現金なものだと思う。

「杏ちゃんはどうするの?」
「あたしは……前と変わらないな。保母さんになるって決めてたから」
「保母さん……?」
「何よその疑問系は」
「なんでもないの」

 別にいいじゃない、と膨れっ面になる杏に、ことみはそれと分からない程度に唇の端を笑みの形にした。
 理由は大体見当がつく。いかにも面倒見のいい杏に向いた職業だと思い、「頑張れなの」とエールを送っておいた。

「ありがたく頂戴しておくわ。あんたこそ頑張って医者に……あーいや、別に心配しなくていいか」
「なにそれひどい」
「だって全国一位じゃない」
「うぬう、王者とは常に孤高なの」
「ま、渚と仲良く勉強しなさいよ」

576想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:53:51 ID:6Ze9kqqQ0
 いつしか会話は他愛もない話、将来の話へと移り、夢中になる余りもう風呂場を通り過ぎていたことも忘れていた。
 それに気付いたのは、ぐるぐると廊下を一週くらいしたときのことだった。

     *     *     *

 学校の屋上というものはどこも変わらないのだなという感想を抱きつつ、急場で塗りたくられたような汚いコンクリートと、
 転落防止用に張られた金網とを見ながら、芳野祐介は夜明けの空気を存分に吸った。
 今まで埃っぽい部屋でひたすら作業に没頭していたからなのか、
 澱んでいた肺が新鮮な空気を取り込んで溜まっていたものを洗い流してゆくようだった。

 もう少しで全てが終わる。じきに文字通りの生死を賭けた最後の戦いが始まる。この島の風景も見納めということだ。
 出入り口近くの壁にもたれかかるようにして座り、同時に差し込んできた曙光に目を細めた。
 存外見た目は悪くない。陸から船で何時間とかかる田舎の孤島といったところか。
 殺し合いという要素さえなければ或いは好感情を抱いていたかもしれなかった。
 既に百人からの死体がここには転がっており、過去を含めれば、そしてこの島を建造するために支払われた犠牲も合わせて、
 何百、何千という単位で人が死んだことになるのだろう。

 身震いすら感じる。そこまでして、篁という連中は何がやりたかったのか。問いかけても詮無いことだとは思いながら、
 それでも犠牲になった理由を知りたい一心が芳野に当てのない疑問を出させたのだった。
 返答があるはずはない。この先主催者に出会えたとしても、返ってくるのは身勝手な言い分だけだろう。
 結局のところ、ここの死は理不尽な死でしかない。公子も、瑞佳も、あかりも、詩子も理由なく死んだ。
 何を満足させられることもなく。

 なら生きている自分はどうだろう、と芳野は思った。生きて帰って、その後はどうなるのだろうと想像した。
 公子はもうなく、伊吹風子と二人で生活することになるのだろうが、果たして風子はそうしてくれるだろうか。
 殆ど付き合いもなかった、というより機会があるはずのなかった芳野と風子とでは壁があることには違いなく、
 そこだけが唯一の不安だった。芳野自身は風子を養って暮らしてゆくのにも不満はない。
 だが風子は拒む権利を持っている。風子にとってみれば、自分は他人同然でしかないのだから……

577想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:54:08 ID:6Ze9kqqQ0
 だから言い出せずにいた。目の前の作業に集中して意識的に遠ざけてきたことだった。
 自由な時間を与えられた今、浮かんでくるのはそのことばかりで、さりとて直接聞くにはまだ覚悟が足りず、
 こうして屋上でひとり寂しく悩んでいるしかないのが芳野の現状だった。

 誰かに相談すれば良かったのかもしれないが、大半は寝ていて聞けるような状態でもない。
 内心一番頼りにしていた藤林杏も姿を見つけられず、ぶらぶらと歩き回った挙句にここに辿り着いたというわけだ。
 今まで暖かい室内にいたからなのか、朝の空気は肌寒く少し鳥肌も立っている。
 いつまでここにいようかと考えを巡らせていると、唐突に開いた扉から思いも寄らぬ客が現れた。

「こんなところにいたか」
「おはよう、というべきなのか?」
「生憎だが寝たのは一時間程度だ」
「俺は寝てないが」
「こんなところで寝るな、死ぬぞ」

 軽口を叩きつつ、国崎往人の投げて寄越した缶コーヒーを受け取る。
 こんな場所に現れたのも意外なら、気の利いたものを持って現れたのも意外だった。

「どこで手に入れた?」
「置いてあった」

 思わず缶の底を見る。賞味期限は切れていないようだった。
 道端に落ちていたものを拾ったというわけではなさそうだ。
 ムッと眉根を寄せた往人を見ながら「そう怒るな。確認しただけだ」と笑って缶を開ける。

 温められてはいなかったが、冷たくもない缶コーヒーは飲むには丁度良かった。
 久しぶりに水以外の飲み物を口に入れたからか、喉が歓喜に震えているように思える。
 美味い、と素直に感じながら芳野は「どうしてここに?」と尋ねた。

578想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:54:23 ID:6Ze9kqqQ0
「話せてなかったからな。あの時以来だ」
「そういえば、そうだったか」
「お前がどうしていたか聞きたかった。……神岸のこともな」

 芳野とは反対の壁に背を預け、往人もポケットから缶コーヒーを取り出した。
 問い詰める口調ではないが、真実を確かめようとする口調だった。
 大事なことだったはずなのに、今まで話すのも忘れていた。人の存在は、一人だけのものではないというのに。

「守りきれなかった」
「……そうか」

 一拍置いて呟かれた往人の声は寂しそうだった。悲しむでも怒るでもなく、ただ寂しそうに。
 どういなくなったかではなく、いなくなった事実自体に対して考えているようだった。
 守りきれなかった。口にしてしまえばそれだけの、しかし重過ぎる事柄。
 逃げちゃいけない。前に進むしかない。当たり前のことを教えてくれた誠実な人間。
 芳野も寂しい、と思った。――そう感じるのは、自分が大人だからだろうか。人間だからなのだろうか。

「守るっていうのは、難しいな」

 往人の言葉に、芳野は黙って頷いた。一人で為すにはあまりにも難しすぎることだった。
 だからこそこうして集団となり、互いに守りあうものなのかもしれない。
 杏が自分に対してそう思っていたように。

「俺も守りきれなかった。守ろうとしたつもりでやっていたことが全部裏目に出て、全部失った」
「……それは、ここいる全員がそうなのかもしれない」

 肯定の代わりに、芳野はその言葉を紡いだ。
 ここにいるのは失ったものが多すぎる人間達ばかりだ。
 往人も、杏も、高槻でさえそうだ。

579想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:54:38 ID:6Ze9kqqQ0
 そうなってまで必死に生き延びて、また新しく生き甲斐を見つけて守ろうと必死になる。
 こうしてみるとなんと進歩のない生き物なのだろうとさえ思う。
 けれども諦めるという行為が生み出すものは、往人の言う『寂しさ』でしかないと知っているから、
 たとえどんなに愚かしい行為だとしても人は守るという行為をやめようとしないのだろう。

「だが、今はまだ生きている。生きている限り俺達は戦って、守っていかなければならない」

 自分の命しかり。人の想いしかり。守りたいと思うものしかり。
 その道を自分の意志で選択している以上、逃げてはいけない。前に進むしか、ない。
 ただそれを苦難の道と受け取るか希望を指し示す道と受け取るかは自分次第だ。
 少なくとも、今の自分は……芳野祐介という人間は、苦には感じていない。それは確かな事実だった。

「お前にだってそういうものはあるだろう、国崎」
「……そうだな。俺が選んだ道だ」

 どこかあっけらかんとした調子で言い放って、往人はコーヒーを飲み干した。
 芳野もそれに倣う。手で温めていたコーヒーは少しだけ温かく、爽快感こそないものの味わいがあった。

「なあ、国崎」
「なんだ」
「生きて帰れたらどうする?」
「あまりその話はしたくないな」

 往人も考えられないのかと思ったが、往人の口から突いて出た言葉は意外なものだった。

「このご時勢に大学どころか高校も出ていない人間が就職活動せにゃならんからな……大変ってレベルじゃない」
「……は」

 本気の口調で言うものだから、呆れを通り越して笑いが飛び出した。
 重要な問題なんだぞ、と声を張り上げたことがまた可笑しく、「傑作だ」と腹を抱えた。

580想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:54:54 ID:6Ze9kqqQ0
「何とかなるもんだよ、そういうのは。俺なんか元犯罪者だ」
「なに?」
「薬物でな。だが電気工になれたぞ」
「マジでか」
「もっとも、就職するまでに滅茶苦茶苦労したがな」
「いや、十分だ」

 往人は案外なんとかなると思っているのか、小さくガッツポーズをしていた。
 実際のところは苦労なんてものではなかったが。頭を下げ続け、日中歩き回り、ようやく掴んだに過ぎない。
 そのあたりの苦労話でもしてやろうかと思ったが、今はやめておくことにした。
 そういう話は、往人が苦労して溜息をついたころにでもしてやればいい。

 想像しているとまた笑いが込み上げ、一方で殆ど誰にも話さなかった身の上を語っていることにも内心驚いた。
 こんなにも簡単に、先のことを想像できるものなのか。
 やはり分からないものだと思った。人生も、それ以外の全ても。

「俺は……公子さんの妹と……風子と暮らしていこうと思う。本人が、受け入れてくれたらの話だが」
「そういや、伊吹がそんなことを言っていたな。すまん、忘れてた」
「忘れてたって……」
「以前に会ってたんだ。会ったらよろしくって言伝も頼まれた。ここまで遅くなって悪かったよ。
 ……まあ、んな深刻そうな顔で言わなくても、伊吹なら言う前に了承するさ。あいつなりに心配してたみたいだからな。
 あいつにとっちゃこんなのは既に決定事項で、その先をどうしたいか考えてるんだろう」
「……そうか」

 その先。自分にしろ往人にしろ、まだ子供だと思っていた風子でさえも先のことだけを考えている。
 ここで死ぬなどとは微塵も思っていない。
 いや正確には、この島が出している死の臭気などもはや些細なものでしかないということなのだろう。
 それは逃げではなく、しっかりと現実を見据えた末の結論に違いなかった。
 不意に、眩しい光が芳野の網膜を刺激した。ようやく顔を出した太陽の光に、芳野は目を細めたのだった。
 本当の夜明けだ。恐らくはこの島で見る、最後の。

581想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:55:08 ID:6Ze9kqqQ0
「いい朝日だ」
「ああ」

 そうしてしばらく、二人で太陽を見続けていた。
 絶海の孤島であるはずなのに、そこには外界へと通じる道があるように思えたからなのかもしれなかった。
 逃げ場はない、と言ったな。
 芳野は放送の主に言い返す。

 逃げるつもりは毛頭ない、とだけ言っておいてやる。貴様には、この朝日でさえ拝めまい。

     *     *     *

 曙光が眩しい。
 薄暗い所にずっといたからなのか、窓ガラスを通してでさえ朝日はリサを圧倒した。
 同時に、体内に蓄積していた疲労という名の澱みが瞬時に分解されてゆくのもまた感じていた。
 太陽にはそれだけの力がある。何の疑問もなくそう思い、リサは窓を開け、直に陽光を浴びてみる。

「……暖かい」

 こうしていると、それだけで不安までもが解消されてゆくような気がする。
 作戦、計画は練りに練ったつもりだったが懸念はいくらでもある。元々が分の悪すぎる賭けといって差し支えない。
 当たれば生き残り、負ければ死ぬ。加えて当たりを引き当てられる確率は五分にも満たないときている。
 果たして本当にやってみる価値はあるのだろうか――そんなつまらない疑問を、この太陽は掻き消してくれる。
 上手くいく。それだけの思いを結実させてひとつ深呼吸すると、朝の澄んだ空気が最後のしこりを洗い流してくれた。

「朝か……?」

582想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:55:28 ID:6Ze9kqqQ0
 重たい声に振り向くと、そこでは寝ぼけ眼の高槻が気だるげに目を擦っていた。
 頷いてみせると、高槻は大仰に体を反らして「何時だ」と尋ねる。「七時くらいかしら」と答えたところ、
 「俺にしちゃ寝てたほうだな」ととてはそうは思えない、欠伸を交えた返答が来た。
 一番早く眠りについていたとはいえ、それでも三時間にも満たないはずの睡眠時間のはずだが、元気なものだ。
 自分が言えたことでもないと思い、リサは苦笑して「いい朝よ」と話題を変えた。

「だろうよ。ここにいても溶ける気がする」
「貴方は吸血鬼?」
「ばーか。吸血鬼は灰になるんだよ」
「知ってるわ。頭は起きてるみたいね」
「心遣い、痛み入るね」

 首をコキコキと鳴らしながら、高槻は軽口を叩いてくれる。コンディションは見た目ほどは悪くなさそうだ。
 体調管理を気にしている自分はこの時間でも軍人の性分が頭をもたげているのか、それとも親切心から尋ねたのか……
 判然としないまま、「それで、今後のことなんだけど」と続けようとすると「あーやめてくれ」と高槻が腕を交差させ、罰印を作った。

「いつもの俺はティータイムなんだよ」
「安物のコーヒーでしょう?」
「甘いね。栄養ドリンクだ」
「働き者なのね」
「人間は光合成できないんだ。太陽なんぞ浴びても何の得にもならんわ」
「そうでもないかもよ? 来てみたら、もやし人間さん」
「栄養ドリンク、プリーズ」
「Sorry.当店ではこちらの商品は取り扱っておりません」
「……しけてるねぇ」

 大袈裟に嘆息してみせると、高槻は重い腰を上げてよたよたとこちらに歩いてくる。
 頭は起きているが、体は全然眠っているようだった。
 いかにも科学者らしいと考えを結びつつ、代わりにあるものを取り出してみせた。

「煙草なら、あるんだけど」
「最高の栄養をありがとう」

583想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:55:43 ID:6Ze9kqqQ0
 体も目覚めたようだった。軽快な動作でこちらに近づき、手を揉みながら媚びた笑いを浮かべる。
 ヘビースモーカー……とまではいかなくとも、それなりの喫煙者であることは察しがついた。
 この数日、吸う暇もなければ体も飢えていたのだろう。少しくすんだ色になった、ふやけた紙の箱から煙草の一本を取り出し、
 ライターと一緒に投げて寄越す。高槻は器用にキャッチして受け取り、早速火をつけようとしたところで、ふとリサを眺めた。

「吸わねぇのか」
「私はスモーカーじゃないのよ」

 ならなんで煙草を、と言いたげな高槻の目線に苦笑で応じてみせると、
 大体のことを察したらしい高槻がライターの火打ち石から指を離した。

「いいのか」
「使ってあげて。その方が……彼は喜ぶから」
「……コブつきかよ。つまらねえ」

 男女の関係を察知したらしい高槻が、嫌味か妬みか、それとも何か別の感情でも抱いたのか、本当につまらなさそうな口調で言い、
 それでも煙草に対する未練は捨てきれないらしく、火をつけて吸い始めた。
 吐き出した白い煙は、リサの開けた窓から外に吸い込まれ、空を目指すかのように昇りながら消えてゆく。
 煙の匂いは僅かに甘味を帯びていて、持ち主である緒方英二の人間性を表しているかのようで、彼らしい選択だとリサは思った。

 愚直なやさしさしか示せなかった、不器用に過ぎる男。ただ、はっきりと好意を持っていることはリサにも分かり、
 上手くやっていけるだろうとも思っていた。だからこそ、英二がこの場にいないことが寂しすぎた。
 辛いのでもなく、悲しいのでもなく、寂しい。ここにいないことがあまりにも惜し過ぎた。

「くそっ、美味いもん使いやがって……」
「貴方と違って、洒落た人だったのよ」
「惚気かよ。聞きたくもないからやめろ」
「寂しいの?」
「うるせえよ」

584想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:55:55 ID:6Ze9kqqQ0
 怒ったように煙を吐き出して、高槻はボリボリと頭を掻いた。分かっているのかもしれなかった。
 このように寂しく思えることの、それだけの信頼があったのだということを。
 それを惚気と表現するのなら、そうなのかもしれない。悪くないなと悪戯な気持ちを覚えながら、「もう一本どう?」と尋ねてみる。

「結構だ。砂糖吐きそうだよ。甘すぎてな」

 どうやら一本吸って欲よりもプライドの方が勝り始めたようだった。
 少しだけども、本気で残念がっている自分がいることに気付き、それだけの余裕はできたらしいと自覚することが出来た。
 煙草を服の内側にあるポケットに仕舞い、リサはそこにある存在を確かめた。

 英二とは、まだコンビを組んでいる。宗一には悪いが、英二がまだ自分にはベストのパートナーだった。
 もう一度窓から外を眺める。正確には、煙が消えていった空を眺めた。
 先に帰ったのかもしれない。自分とのディナーを予約するために。
 少し自信過剰だろうかとも思ったが、これくらいが自分らしいとも思い、「すぐ行くわ」と返事しておいた。

「ん?」
「何でもない。休憩はいつまで?」
「あー……芳野とかが戻ってくるまで」
「余った時間に煙草はいかが?」
「悪りい、俺健康主義になったんだわ」
「あら残念」

 こうしている自分は、さほど変わりはしていないのかもしれないとリサは思った。
 でも、それでいい。でしょう?
 自分らしいとはこういうことなのだろうと納得して、リサは窓辺に腰掛け、頬を撫でる風に身を預けた。

585想いのカナタ:2010/01/06(水) 16:56:16 ID:6Ze9kqqQ0
【時間:3日目午前07時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

那須宗一
【状態:怪我は回復】
【目的:渚を何が何でも守る。寝てる】 

スモーカー高槻
【状況:怪我は回復。主催者を直々にブッ潰す。煙草を吸ってご満悦?】

芳野祐介
【状態:健康】
【目的:思うように生きてみる】

一ノ瀬ことみ
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない。お風呂タイム中】

リサ=ヴィクセン
【状態:どこまでも進み、どこまでも戦う。全身に爪傷(手当て済み)】

川澄舞
【状態:往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている。両手に多少怪我(治療済み。支障は全くない)】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている。寝てる】

朝霧麻亜子
【状態:鎖骨にひびが入っている可能性あり。寝てる】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:スペツナズナイフの柄】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で舞を笑わせてあげたいと考えている】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている】

古河渚
【状態:健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく。寝てる】

ルーシー・マリア・ミソラ
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:まーりゃんはよく分からん。寝てる】

ほしのゆめみ
【状態:スリープモード。左腕が動くようになった。運動能力向上。パートナーの高槻に従って行動】

藤林杏
【状態:軽症(ただし激しく運動すると傷口が開く可能性がある)。簡単には死ねないな。お風呂タイム】

姫百合瑠璃
【状態:死ぬまで生きる。浩之と絶対に離れない。寝てる】

藤田浩之
【状態:歩けるだけ歩いてゆこう。自分を取り戻した。寝てる】

586想いのカナタ:2010/01/06(水) 17:02:18 ID:6Ze9kqqQ0
追記。
→B-10です

587名無しさん:2010/01/08(金) 15:11:08 ID:hPwFa8nY0
瑠璃「あけまして、おめでとうございますっ!」
早苗「おめでとうございます〜」
瑠璃「B-10代表の姫百合瑠璃やで。今年はうちと一緒に、新年楽しもうな」
早苗「本年もよろしくお願いします。わたしは、D-5代表の古河早苗と申します」
瑠璃「あ、先に言っておきたいんやけど、お正月スペシャルは今回が最終回や。理由は分かるやろ」
早苗「うふふ。実は私達の物語、もうすぐ無事完結するんです」
瑠璃「最後までめっちゃ頑張るから、よろしくなっ!」
聖 「そんな訳で、今年はこんなノリだ。B-4の代表としては、肩身が狭くて仕方ない」
瑠璃「自業自得やん」
聖 「辛酸だが、事実だけに反論はしない」
早苗「気を落とさないでください。どうぞ、パンです。焼きたてです。元気がでますよ」
聖 「……何だこれは」
早苗「コンセプトは、『きらきらな思い出』です」
瑠璃「トゲトゲやね」
聖 「ふむ。イメージしたのは、金平糖か何かか?」
早苗「綿飴です。縁日の思い出はいかがでしょう」
瑠璃「こういうポケモンおるよな」
聖 「ふむ。この硬度といい、鎖を合わせればいいモーニングスターになるだろう」
早苗「……(ふるふる)」
聖 「あ、後でちゃんといただくから安心しろ。そういえば、いつぞや佳乃にも買ってやったな……懐かしい……」

588名無しさん:2010/01/08(金) 15:11:38 ID:hPwFa8nY0
瑠璃「丸く収まったところで、本題行くで。昨年のハカロワ3と言えばっ!」
早苗「投下作品全83話、うちD-5は41話です」
瑠璃「B-10は34話やで。集計間違ってたらごめんな」
聖 「B-4は8話だ。これに間違いはない」
早苗「お亡くなりになった方は……D-5ですと、ちょっと明記が難しいんですよねぇ」
瑠璃「うちの所は12人。思い返すだけで、何や。胸が熱なる」
聖 「私の所はゼロだゼロ、悪いか」
瑠璃「むっちゃ悪いと思うで」
早苗「そのまま過半数で脱出されれば、問題ないと思います」
聖 「その内大規模な虚殺が行われるから安心してくれたまえ。ほら、火山が噴火するとか」
瑠璃「どこまで自然災害に頼ればええんや……」
早苗「わたしのD-5は、もうすぐ可愛い赤ちゃんに会えるんですよ〜。とっても楽しみです」
瑠璃「うちも佳境や。絶対、皆で脱出する。負ける気ないでっ!」
早苗「瑠璃さんは、赤ちゃん産まないんですか?」
瑠璃「はぁ?!」
早苗「赤ちゃん可愛いですよ〜。瑠璃さんも赤ちゃん、欲しいですよね?」
瑠璃「は、はあっ?! う、うちが、あいつの、あ、あか、あが……っ?!!!」
聖 「ふっ。若いな」

589名無しさん:2010/01/08(金) 15:12:03 ID:hPwFa8nY0
瑠璃「ご、ごほんっ! 気を取り直して、他の話題行くでっ!」
聖 「そうだな、他に印象深いと言えばはラジオの件か」
早苗「こんにちは〜、ルネッサンスさん見てくださってますか〜?」
聖 「惜しい。正しくはルイージだ」
瑠璃「全然ちゃうやんかっ! うちの作者さんディスってんのちゃうっ?!!」
聖 「すまない、戯れが過ぎたようだ。それにしても、ルーデル氏のまさかの乱入には驚かされたものだ」
瑠璃「D-5のおかげで、うちらもイメージアップやねっ」
聖 「イメージ……アップだと……?」
瑠璃「マジキチに定評があるってことやろ。ええことやん」
聖 「どうやら私は、君と違う感性を持っているらしい」
早苗「こんばんは〜、乾電池さん見てくださってますか〜??」
瑠璃「少し口閉じよ。なっ?」

590名無しさん:2010/01/08(金) 15:12:29 ID:hPwFa8nY0
瑠璃「そんな感じやな」
早苗「そんな感じですね」
聖 「うむ」
瑠璃「長かった。ここまで、めっちゃ長かった」
早苗「そうですね」
聖 「感慨深いな」
瑠璃「……あんたはどうするん?」
早苗「そうですよね、この中で目処が立っていないのは……」
聖 「気長にやるさ。ここが駄目になったなら、他でも何処でも。……甘えられるのも今のうちか」
早苗「わたし達のルートが終われば、いよいよハカロワ4始動なんでしょうか?」
瑠璃「さあ。うちの作者さんも急がしそうやから、参加できるか分からへんけど」
早苗「そうなんですか〜」
聖 「私の中の人はやる気満々だ。あれだ、例の幼馴染の皆が力を合わせるゲーム。やり込んでたぞ」
瑠璃「ほんまかいな。ってか、そんな暇あったんかい」
聖 「鼻歌もよく口ずさんでいる。せいっやっマジマジ!ってな」
瑠璃「それ全くの別物やけどっ?!!!!!」
聖 「まぁ、とりあえずは目先ご愁傷様やな……ま、とりあえずは目先のゴールを見つめるのが大事やね」
早苗「そうですね、ちょっと先過ぎるお話を振ってしまったみたいです」
聖 「何であれ今年もお互い頑張ろうということだ」
瑠璃「そうやっ!!」
早苗「えいえいーおー、です♪」



瑠璃「ハカロワ3は永久に不滅なんやっ! うちは負けへん、皆絶対負けへん。
   うちが勝利を掴む所、目ぇ離したら嫌やからな!」

早苗「葉鍵ロワイアル3の板と住人の皆さんに、幸あれです♪ ひっひっふー」

聖 「私達はようやく登りはじめたばかりだからな。 このはてしなく遠い葉鍵坂を……」










瑠璃「ちょ、最後縁起でもあらへんっ!!!!!!!!!!!!11」





姫百合瑠璃
 【所持品:無し】
 【状態:やる気!その気!ひろゆき!!!……ってアホ言わすなっ!!!!】

古河早苗
 【所持品:トゲトゲな思い出】
 【所持品トゲパン】

霧島聖
 【所持品:真剣で私に恋しなさい!!】
 【状態:まゆっち萌え】

591>>590訂正・差替:2010/01/08(金) 15:17:41 ID:hPwFa8nY0
瑠璃「そんな感じやな」
早苗「そんな感じですね」
聖 「うむ」
瑠璃「長かった。ここまで、めっちゃ長かった」
早苗「そうですね」
聖 「感慨深いな」
瑠璃「……あんたはどうするん?」
早苗「そうですよね、この中で目処が立っていないのは……」
聖 「気長にやるさ。ここが駄目になったなら、他でも何処でも。……甘えられるのも今のうちか」
早苗「わたし達のルートが終われば、いよいよハカロワ4始動なんでしょうか?」
瑠璃「さあ。うちの作者さんも急がしそうやから、参加できるか分からへんけど」
早苗「そうなんですか〜」
聖 「私の中の人はやる気満々だ。あれだ、例の幼馴染の皆が力を合わせるゲーム。やり込んでたぞ」
瑠璃「ほんまかいな。ってか、そんな暇あったんかい」
聖 「鼻歌もよく口ずさんでいる。せいっやっマジマジ!ってな」
瑠璃「それ全くの別物やけどっ?!!!!!」
聖 「まぁ、とりあえずは目先のゴールを見つめるのが大事だろう」
早苗「そうですね、ちょっと先過ぎるお話を振ってしまったみたいです」
聖 「何であれ今年もお互い頑張ろうということだ」
瑠璃「そうやっ!!」
早苗「えいえいーおー、です♪」



瑠璃「ハカロワ3は永久に不滅なんやっ! うちは負けへん、皆絶対負けへん。
   うちが勝利を掴む所、目ぇ離したら嫌やからな!」

早苗「葉鍵ロワイアル3の板と住人の皆さんに、幸あれです♪ ひっひっふー」

聖 「私達はようやく登りはじめたばかりだからな。 このはてしなく遠い葉鍵坂を……」










瑠璃「ちょ、最後縁起でもあらへんっ!!!!!!!!!!!!11」





姫百合瑠璃
 【所持品:無し】
 【状態:やる気!その気!ひろゆき!!!……ってアホ言わすなっ!!!!】

古河早苗
 【所持品:トゲトゲな思い出】
 【所持品トゲパン】

霧島聖
 【所持品:真剣で私に恋しなさい!!】
 【状態:まゆっち萌え】



まさかのコピーミス・・・これは恥ずかしい。申し訳ないです。

昨年に続き今年も一日遅れましたが、今年もよろしくお願いします><

592Mission Log:2010/01/18(月) 22:01:02 ID:q4xvWIEE0
 題名:初心者にも分かる首輪の外し方
 著:世界のNASTY BOY

 和田のレポートを見れば簡単だ。ドライバーとニッパーがあれば事は足りる。
 首輪の後背部、つまり首に当たる方に極小のネジ穴がいくつかあり、それを丁寧に外す。
 すると回線の一部が出てくるので青い回線を切る。こうすることで信管蓋を開けるときにトラップに引っかからずに済む。
 次にその右隣にあるネジを外し、信管を取り外す。左右にある線は切ってかまわない。
 尚、黄色い線は切る、引っ張るなどしないこと。最悪爆発する。
 信管を取り外した後は爆発する危険性はないので好きにしてもらって構わない。
 ただし、白い線を切ると生死判定が途切れ、管理していると思われる場所に死亡判定が出てしまうので注意。
 また、バッテリーを抜き取ろうとしても結果は同じになる。
 よって主催側の目を欺くため、生死判定は残しておいたほうが良いと推察する。
 回線そのものは手で無理矢理引き千切ることも可能ではある。
 首輪そのものの材質も材質から考慮してそれほど堅くはないようだ。多分踏みつけたらポキリと折れる。
 首輪を完全に外すまでの所要時間はおよそ一分ほどだと思われる。実践はしていないので若干ズレると考えられる。
 手元に首輪がないため実験は出来ず。だが和田の資料の信憑性は高いため罠である可能性は低い。
 万が一罠であった場合を考慮して、首輪の解除は俺が最優先で行う。

     *     *     *

593Mission Log:2010/01/18(月) 22:01:15 ID:q4xvWIEE0
 爆弾の性能メモ

 大よそ半径数十メートルにわたって吹き飛ばす程度の性能になった。
 とはいえ威力は保障できない。不発する可能性もあるので過信は禁物。
 仕掛ける場所としては管制室、敵の司令室などが考えられる。
 信管を抜いてから数秒後に爆発する。ダッシュして逃げれば直接信管を抜いても間に合う……はず。
 基本的に遠くから紐等を使って引っ張る方法を推奨する。
 本の通りならば木造家屋を一瞬で吹き飛ばせる。多分コンクリも吹き飛ぶ。
 崩落に注意。
 結構重い。台車に乗せて運ぶことを勧める。その場合護衛が何人か必要である事を言っておく。
 あんまり衝撃を与えても爆発するかも。取り扱い注意。
 だからなるべく平坦な道を移動させたほうがいいかも……

     *     *     *

594Mission Log:2010/01/18(月) 22:01:29 ID:q4xvWIEE0
 クソロボットのレポート

 銃弾が効かん
 生身? の部分には効くんじゃね?
 無茶苦茶早い
 神神うるさい
 装備は確か刃物、P−90、それとフラッシュバンらしきものが。俺らより装備は豪華なようだ
 学習能力があるらしく攻撃を見切られたことがあった

 とまあ、こういう特徴があったので対応策として、まず一対一にさせないことが考えられる
 悔しいがあのクソロボの実力は参加者の誰よりも強いだろう。装備も相手が勝っている以上正面からの殴り合いは死ぬ
 常に弾幕を撒きつつどうにか動力源を一発で壊せればいいんだが
 それが可能な武器はグレランかロケランくらいだろう。着ている修道服は防弾・防爆効果があると見ている
 囲んで白兵戦に持ち込むのも、危険だがありかもしれん
 逃げられないと考えた方がいい。とにかくしつこかった
 最悪でも二人、欲を言えば四人は戦う人数が欲しい。俺とゆめみじゃ全く歯が立たなかった
 ここには十五人いるから四つくらいのパーティに分けることを提案する。つか却下させない
 装備は念入りにしといたほうがいい。狙撃も考えられるかもしれん
 ロボットだから目視で数キロは届くんじゃないか? 熱感知しているかもしれない(正確に射撃してきたから)
 武器を渡すと危険かもしれない。あらゆる武器の用法を叩き込まれている可能性がある
 メインコンピュータを壊せば戦闘不能にはさせられるかもしれない。そこがどこかはわからん
 とにかく出会ったら遠慮なく叩き壊してしまうことが一番だろ
 相手は人間じゃないしな
 疲れた

     *     *     *

595Mission Log:2010/01/18(月) 22:01:50 ID:q4xvWIEE0
 侵入路について

 →これまでの情報を総合するといくつか搬出路を含む出入り口があると見られる。
  そこが本当に主催側の中枢部に繋がっているか、という疑問があるが、袋小路である可能性は低いと思われる。

 ∵地下に建造物があるとした場合、脱出路を複数確保しておかないと緊急時の脱出が困難になるため。
  またそれぞれが独立していると参加者に占拠される確率が高くなるため。
  すぐに救援に行けるように、それぞれの通路は繋がっていると判断できる。

 →入り口はどの程度の間隔であるかということについては、一ノ瀬ことみの考察より数百m間隔であると考えられる。
  入り口には警戒網もあると考えられるので、首輪を外した後に一斉に潜入という方法が望ましい。
  また、中枢部、管制室、脱出路などを確保する必要がある。

 ∵先にサリンジャーに逃げられてしまえば足がなくなる可能性があるため。
  当然向こう側としては脱出の際証拠隠滅を図ってくるため通信設備も破壊される可能性がある。
  通信部はなるべく最優先で確保したい。

 →地下設備の場合ヘリではなく潜水艦や船舶での脱出を取ることが多い。
  最下層部分に置かれているだろう。見張りもいるはずなので戦闘が予想される。
  速攻できるメンバーが望ましい。ただし中枢部を最速で確保すればその限りではないかもしれない。
  何にしろスピードが勝負だ。設備も装備も向こう側が上であるため、奇襲するしか勝負の方法がない。

 →救援を求められるならば、日本政府かアメリカ政府への連絡が望ましい。
  私か宗一の名前を出せば大抵は信じてもらえるだろう。万が一私も宗一も身動きが取れなかった場合、
  判断は各人に任せる。

 →道中にある兵器類は破壊できるならば破壊しておくことが望ましい。

 ∵もしも制圧に遅れた場合連中が持ち出してくるため。
  火力勝負になってしまえば勝ち目がない。破壊できなければ諦める。
  使えるならば使ってもいいのかもしれないが、暴発暴走の危険性があるため、
  無視すること。判断を周囲に仰ぐのがよい。素人が兵器を扱えるものではないことを心に留めておく。

 →連絡はこまめに取り合いたい。が、無線機がないような状況なので期待はしない。
  代わりにチームメンバーでの連絡を密にすること。
  はぐれたところを狙い撃ちにされる。
  敵は島にいた参加者よりも遥かに強大であることを覚えておくこと。

596Mission Log:2010/01/18(月) 22:02:51 ID:q4xvWIEE0

 追記:各種レポートを総合しての作戦立案

 四チームを編成し、爆弾運搬班、中枢部制圧班、通信設備確保班、破壊工作班に分ける。
 侵入は別々の場所から同時に行い、突入前に首輪を解除するものとする。
 メンバーは後で決める。ただし各チームの戦力がなるべく均等になるように配慮はする。
 作戦実行はサリンジャーの指定した時間の一時間前。こちらから先手を仕掛ける。
 後手に回ると圧倒的な戦力差で叩き潰されてしまうからだ。とにかく速戦即決しかない。

 最後に一つ。
 生きて、このミッションを完遂させましょう。


【時間:3日目午前07時00分ごろ】
【場所:D−6 鎌石小中学校】

→B-10

597終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:15:25 ID:AA.5FDBE0
 
「護られて、助けられて、生き延びさせられて」
「生まれさせられて、罪を負わされて」
「そこに幸福は、あったのかな」



「ねえ―――教えてよ、水瀬名雪」




***

598終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:15:50 ID:AA.5FDBE0
 
 
そこには花が、咲いている。
白い、白い花。
咲き乱れて、散ることもなく、ただ燦然とその純白を、緋色の月の下に晒している。

ざあ、と風が吹いた。
白い花の海は静かに、大きく波打ち、しかし花弁の一枚も舞い上がらせることなく、
やがて純白の海原は、久遠の時を越えてそうしてきたように、再び凪ぐ。


それが、世界の最果てだった。


純白を覆うのは、漆黒の夜空。
星一つない闇の中、見開かれた瞳のような赤い月だけが、咲き乱れる花々を見下ろしている。
ぼってりと、うすら赤い月光に照らされてなお白い花の海の只中に、二つの影が立っていた。
影の片方が、口を開く。

「ねえ―――教えてよ、水瀬名雪」

白に近い銀色の髪と、琥珀色の瞳。
少年といえる年頃の、それは人影だった。

「―――」

水瀬名雪と呼ばれた影は、答えない。
少年の真正面、ほんの数歩の距離を置いて立ちながら、目を細め、静かに息を吐く。

「私だけ……か」
「誰も辿り着けない、はずだったんだけどね」

肩をすくめる少年を、名雪は見つめている。

599終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:16:26 ID:AA.5FDBE0
「神様はいつだって余計なことばかりしてくれる。気まぐれで、身勝手で。
 実際僕らのことなんか本当のところはどうでもいいと思ってるんじゃないかな」
「お前は……そうか」

首を振って苦笑を浮かべた少年の言葉には答えず、細めた目の奥に奇妙な光を宿らせた名雪が、
口の中だけで呟く。

「お前が、そうなのか。これまでも、ずっと」
「……? ああ、なるほど」

一瞬だけ怪訝な顔をした少年が、すぐに何かに納得したように頷く。

「僕の影とは何度も会っているんだよね。お久しぶり、そしてはじめまして。
 その節はお互い……ええと、殺し合ったり助け合ったり、したのかな?」
「……」
「そう、影。僕はここから、」

と、純白の花畑と赤い月の夜空を見渡して、

「……ここから出られないからね。たくさんの影が、世界中の色んな時間の色んな場所に散らばってる。
 もちろん、キミたちをこの戦いに招くのも、それを見届け、推進するのも大事な役目だよ。
 僕は彼らではないから、実際に何をしてるのかはよく分からないこともあるんだけどね」

一息に告げて、少年は悪びれずに笑う。

「まあ、大体の役目は僕たちの思い描く未来を造るためのお仕事、ってやつかな。
 他にも、その時々で細々したこともお願いするけど―――」
「終わるのか」

長広舌を、遮って。
少年の言葉を聞くや聞かずや、ただじっとその琥珀色の瞳を見つめていた名雪が、
おもむろに口を開いていた。

600終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:16:53 ID:AA.5FDBE0
「世界は、また終わるのか」
「……」

その言葉に、今度は少年が黙り込む。
僅かに見上げた瞳が、緋の月光を受けてゆらりとその色を変える。

「この戦いは……そういうものだろう。終わり、続く世界の、ここが中心か。
 終わらせるのがお前の企みか。或いは終わり、終わる果てに何かを見出すか」

刹那の沈黙。
表情を消した少年が、小さな称賛と驚愕とを含んだ声を漏らすと同時、浮かべたのは、笑みだった。

「……へえ」

苦笑でも、嘲笑でもない。
純粋に興味深げな、まるで難問に挑む学究の徒のような笑み。

「さすがに、優勝者は違うね。積み重ねた時間は、キミたちをそこまで真実へと近づけたのか。
 亀の甲より、というやつかな」

冗談めかした少年の視線を受けても、名雪は微動だにしない。
ただ静かに、池の底に沈む藻が、水面から届く光を見上げながら佇むように、少年を見据えている。

「正解。その通りだよ。この戦いを経て、世界は終わる。この戦いが、終わりの始まり。
 あとは転がり落ちて、終わっていく。止めようもなく、救いようもなく。キミの知っているようにね。
 ……うん、そのはずだった」
「はず、だった?」

思わせぶりな少年の言葉に、名雪が眉根を寄せる。
そんな名雪の様子に肩をすくめ、ひとつ天を仰いでから少年が、ぴ、と名雪を指さす。

601終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:17:42 ID:AA.5FDBE0
「だってキミたち、生きてるじゃない」
「……」
「こんなにたくさんの大きな可能性が残ったら、世界はまだ終わらない。終われない。
 キミたちという可能性はきっと、どうにかして延命させてしまうんだ。
 本当は不治の病で手の施しようもない、この世界をね」

大きく、少年が首を振る。
気負う子供の、走って転ぶのを見るように。

「終われない世界はだから、だらだら、だらだら……ゆっくり衰えながら、死んでいくしかない。
 時間がかかるよ。ロクでもない時代が、ずっと続く。誰も幸せになれない世界だ」

深い溜息を、ひとつ。

「僕たちはそれを知ってる。どうしようもない世界が、どうしようもないまま続く時代の惨さを知ってる。
 どうやったって救えないことを、どう頑張ったって変えられないことを、嫌っていうほど、知ってるんだよ。
 だから、終わらせてきたんだ。もう一度初めから、今度は上手くいくように願って。
 誰も幸せになれない時間なら、誰も望まない未来なら、そんなものはだって、いらないじゃないか。
 僕たちが渡す引導で、世界は苦しまずに、終わっていけたんだ。これまでずっと、そうしてきた。
 今度だって、そうなるはずだった……キミたちが必要以上に頑張ったりしなければ、ね」

顔を上げ、少年の視線は眼前、名雪を射貫く。

「キミたちは生き残り、せっかく集めた呪を解き放ち、挙句に神様まで殺してしまった。
 もう世界は簡単には終われない。苦しみながら死んでいくより他にない。
 そうして終われば、もう次も、ない」

託宣のように、告げる。

602終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:18:16 ID:AA.5FDBE0
「もう、世界は繰り返さない。終わるんだ。苦しみ抜いて。誰も幸せになれないまま。
 キミたちがやってのけたのは、そういうことだよ。ひどい話だね」

言われた名雪はしかし、少年を真っ直ぐに見据えたまま揺らがない。
風に靡く少年の銀髪が琥珀色の瞳を二度、三度と隠し、四度覗いた頃、影の囁くように、口を開く。

「私たちが死ねば世界は終わる」

どろどろと、粘つくような声で。

「成程、下らない―――ならどうして、お前が直接殺さない」

吐き棄てるような言葉が、少年の足元に絡みつく。

「どこにでも、いくらでもいるのだろう、お前たちは。
 機会など狙うまでもない。生まれてすぐに殺してしまえばいい。
 そもそも生まれてこないようにするのだって簡単だろう。
 お前たちが本当に、最初から、存在しているのなら。
 ここまで大袈裟に、大掛かりに私たちを招いたところで、暇潰し以上の意味はないだろうに。
 それほどの力を持ちながらお前は、お前たちは何故、世界を裏側からしか、動かさない」

独り言じみた囁きは、それでも問いのかたちを成して、少年へと向けられていた。
ゆらゆらと、煙草の煙のように大気を満たして穢す名雪の問いを、少年は一息に吸い込んで、
舌と肺とで味わうようにほんの僅かに息を止め、それからゆっくりと吐き出す。

「……たとえば、この馬鹿馬鹿しい催しが行われなかったら、どうなると思う?」
「……」

少年の口から漏れる吐息は、答えを成さない答えを伴っていた。
じっと次の言葉を待つ名雪に苦笑して、少年が続ける。

「簡単さ。世界は滅びない」

603終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:18:56 ID:AA.5FDBE0
手の平を上に、小さく肩をすくめておどけてみせる少年の、透き通る瞳はしかし、
一欠片の愉悦も含んではいない。
そこにある色は、詠嘆や諦観や、或いは絶望と呼ばれるそれに、よく似ていた。

「今回と同じだよ。この戦いで生き残るただ一人が出なければ、世界は続くんだ。
 病んだまま、弱ったまま、生き続けさせられる」

丁度キミみたいにね、と薄暗い笑みを浮かべる少年に、名雪は沈黙と無表情を以て返答する。
小さく鼻を鳴らして少年が言葉を接いだ。

「この戦いの勝者にはね、世界の行く末を変えるだけの力が備わってるんだ。
 だってそうだろう、世界で一番大きな可能性たちの、その頂点なんだから」

一番大きな、と告げるとき、少年の手が宙に大きな円を描いていた。
翳るままの表情と、大きな身振り。
噛み合わぬそれを、少年はまるで初めから決められた動作ででもあるかのように、こなしていく。

「一番を決めて、それ以外の全部が消えて、だから世界は細く細く、尖っていく。
 そうしていつか、世界の可能性の全部を乗せたキミの重みを支えきれずに、折れるのさ」

細い棒を手折るような仕草で薄く、暗く笑って、ひらひらと軽く手を振る。

「それで、終わり。やり直し。たったひとりだけが残って、もう一度初めから、ね。
 それだけさ。それだけが、僕たちが長い時間をかけてようやく見つけた、たったひとつのやり方。
 世界を苦しめずに、どうしようもない時代を生きて苦しむ人間を出さずに、今を終わらせる方法なんだ」

言い放って、名雪を見据え、頷く。

604終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:19:20 ID:AA.5FDBE0
「うん、そうさ。その通り。
 キミの覚えている、あの最初の世界―――あの滅亡は、キミがいたから引き起こされたんだ。
 たったひとり生き残った、生き残らされたキミの持つ可能性に耐えきれずに」

名雪は、沈黙を保っている。
僅かな間を置いて、少年が薄昏い笑みを、静かに深める。

「嘆く必要なんてないさ。キミは世界を救ったんだ。あれ以上にひどくなる前に。
 それは、在り続けたいと願っただろうさ。世界も、そこに生きる命もね。それが本能だ。
 だけど、駄目なんだ。病んだまま在り続ければ、苦しむのは彼らなんだから。
 苦しんで、苦しんで、やがては在ることを、在り続けたことを、これまでに在ったことを悔み出す。
 幸せであったはずの時間も、健やかで、穏やかで、輝いていたはずの時間も、忘れてしまったみたいに。
 それは、とても不幸なことさ。とても、悲しいことさ。だから、そうなる前に終わらせなくちゃいけない。
 そうしてまた初めから、幸せな時間をやり直すんだ。ずっと、ずっとそうしてきたように」

細く、息を吐く。
視線を上げて夜空を見上げ、それから足元にどこまでも拡がる白い花の海を見下ろして、
再び名雪を見つめる。

「それを悪と、断じるかい。それを愚かと、笑うかい。水瀬名雪は、繰り返す者は、僕を」

そうして言葉を切り、少年は口を閉ざす。
沈黙が、降りた。
名雪は、動かない。
緋色の月光と、純白の海原と、琥珀色の視線に包まれて、名雪は立っている。
立って、ただ真っ直ぐに見つめる少年の瞳を見返して、水瀬名雪はそこに在った。

605終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:20:02 ID:AA.5FDBE0
「―――」

沈黙が凝集する。
月光が結晶する。
純白が昇華し久遠を封じたような琥珀がその内圧に耐えかねて微かに揺れた、その刹那。
ただ一言。

「―――どうして」

ただ一言が、放たれていた。
遥かな星霜を経て老いさらばえた少女の口から紡ぎだされたそれは、あらゆる色を閉じ込めたような、黒。
黒の一色を以てのみ表せる、一粒の言の葉。
それは追及であり疑念であり、詰問であり呵責であり、問責であり審問であり査問であり、
或いは面詰であり非難であり、指弾であり弾劾であり、嘲罵であり軽侮であり侮蔑であり、
懐疑であり猜疑であり疑義でありそのすべてでもあり、そして既に、問いですらなかった。

「……、」

反射的に何かを、どこか常には見せぬ奥深くから湧き上がった何かを言い返そうとでもしたように
口を開きかけた少年が、しかし僅かに首を振り、代わりに重く澱んだ息を吐いた。

「どうして? どうしてだって?
 ……決まってる、生まれるためさ、僕が、僕たちが」

告げた言葉に、揺らぎはなく。
しかし、そこには込められた力もまた、ない。

「幸せな世界に、病み衰えない世界に生まれて、幸せになりたいんだ、僕は。僕らは。
 それだけを願ってる。願ってきた」

ひどく掠れた、声。
とうの昔に住む者を失った廃屋の、荒れ果てた一室に忘れ去られた壁紙が、時を経て黄ばんでいくような。
触れれば脆く崩れそうなほどに乾ききった、それは声音だった。
どこか遠くを見ていた琥珀色の瞳が、

「だけど」

すう、と翳る。

「それも、もう終わりだ」

午睡の安らぎを、黄昏の朱が染めるように。
夜を告げる色が、その瞳を満たしていく。

606終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:21:37 ID:AA.5FDBE0
「足元を見てごらん。キミの周りを見てごらん」

そこには花が咲いている。
風に揺れ、しかし散ることもなく咲く、純白の花。
儚げで可憐な、白い、白い花。

「病んだ世界は、それでも望むんだ。在り続けることを。
 いつか、老いの辛さも、病みの苦しみもなくなって、ただ穏やかに在れると、信じているから。
 だから、終わる世界は夢をみる」

花は、一面に咲き誇っている。
緋色の月の下、どこまでも、どこまでも。

「終わらずに在り続ける、ただそれだけを祈るような、夢」

降り積もる雪のように。
或いは、万物に等しく眠りをもたらす、冬の灰のように。

「夢をみながら、キミたちの重みに耐えきれずに、世界は終わっていく。
 だからそれは、種を残すんだ。夢をみる種を」

白く、白く、ただ白く、大地は覆われている。

「終わりたくはなかったと、永劫を在り続けたかったと叫ぶ、純白の花を咲かせる種さ」

月下、咲くのは。

「そう、」

白い、白い花。

「この花の一輪、一輪が嘆きなのさ。終わる世界の悲しみだ。終わった世界の苦しみだ。
 その結晶が、この花だ。この地に咲く、僕の力の源だ」

さわ、と。
風に揺れて泣く、純白の群体が。
水瀬名雪を、囲んでいる。

607終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:16 ID:AA.5FDBE0
「キミの殺した、これが世界の詠嘆さ。受け止めてみせてよ、可能性」

さわ、さわ、さわ、と。
白の海原が泣く。
嘆きの音が、夜空を包んで揺り動かす。

「贖いを求める声を」

さわ、さわ、さわさわさわと。
花が、泣く。
泣いている、はずだった。
それは、ただの一輪であれば、微風に揺れる可憐な花でしかない。
ただ静かに、密やかに、散ることもなく赤い月を見上げるだけの花。
しかし、風に啜り泣く白い花は幾千幾万、否、幾億を超えて、見渡す限りを埋め尽くすように、
大地を純白に染め上げている。
無限をすら思わせる嘆きの重奏は、互いに重なり合い、混ざり合ってぐねぐねと捻じ曲がり、
次第に別の貌を見せていく。

「救いを求める祈りを」

さわ、さら、さわ、ざわ、ざら。さら、さわ、ざら、さら、ざら、ざらざらざら。
ざら、ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。ざらざらざら。
既に風は、やんでいる。
それでも音が、止まらない。
彼方に吹く風に揺れているのか。
或いは、嘆きの音のそのものが、隣り合う花々を揺り動かしているものか。
いずれ、音は、聲は、止まらない。
純白の水面を覆う嘆きは、今やどこか、嘲うような聲にも似て、緋色の月光をひりひりと焦がしていた。

608終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:34 ID:AA.5FDBE0
「安らぎを求める、切なる願いを」

月光を捻じ曲げて、花々は泣いている。
大気を磨り減らして、花々は嘲っている。
歪む。音に満ちて、夜空が歪む。
歪む。歪に満ちて、大地が歪む。
嘲う。嘆く。花が嘲う。花が嘆く。
嘲う。嘲う。嘲う。嘲う。嘲う。
歪みが歪みを生み出して、歪みに生み出された歪みが歪みを歪めていく。

「これが―――終わる世界さ」

純白の海原が荒れ狂う。
大気を歪める音は散らぬ花弁を波濤と変え、波濤は刃となり槍となり、宙を吹雪くように舞う。
漆黒の夜空が融け落ちる。
月光を歪める音は星ひとつない空を押し潰し、引き伸ばして隙間を作り、隙間から漏れた光で星を造った。
宙を舞う槍が空を刺し、吹雪く刃が天を突く。
突かれた星が魂消たように走り出し、天球を駆けて隣の星を衝き動かす。
隣の星がそのまた隣にぶつかって、星の散乱は瞬く間に夜空の全部に拡がっていく。
漆黒の空は幾つもの刃と槍とで切り裂かれ、その度に生まれたばかりの星々が犇めき合って、
そうしてその中心に、月が口を開けていた。
赤い月は、穴だった。
真黒い玉突台に空いた、大きな赤い、暗い穴。
夜空の真ん中で、蠢き犇めく星々が押し出されてくるのを、じっと口を開けて待っている、
そのうすら赤いぼんやりとした月に、次から次へと光の粒が飛び込んでいく。
星を呑んで、光を喰って、月が大きくなっていく。
血を啜る蛭の、醜く肥え太って赤く膨れるように。
赤い月が、星を啜って、夜空を齧って、膨れ上がっていく。
ぼってりと、赤く、紅く、緋く、真円を描いて、月が、空を覆っていく。

「―――」

ざらざらと音が満ちる。満ちる音が空を歪める。
歪んだ空に浮かぶ月が、ぎょろりと目を向いた。
もう、夜空は見えない。赤い、紅い、瞳だけが、
じい、と見つめている。音が、嘆き、嘲う音が、
海原と瞳と、白と赤を、歪め、撓め、拡散する。
瞳はいまや、牙だった。顎の開き、閉じる如く。
瞬きが、大地を喰らう。純白を一息に呑み込み、
月の瞳の顎に呑まれて、音が、嘲い、嘆く聲が、

―――消えた。


***

609終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:22:59 ID:AA.5FDBE0
***


月と、花と、音と、空と瞳との只中で、水瀬名雪は目を閉じていた。
恐怖の故にではない。
無論、諦観の故でにも、まして絶望の故にでも、なかった。
それは、確信の故にである。
そしてまた同時に、それはある種の恐怖と、諦観と、絶望を伴う確信でもあった。
無限に近い詠嘆の嵐の中で、名雪は己が確信の否定されるのを希求し、またそれが叶わないことを理解していた。

救われるだろう、と。
そう思う。
無限に近い有限の嘆きは、救われてしまうだろう。
それが、救われぬものという存在の、定義だ。

ただ一言を、告げさえすれば。
否、口にする必要すら、なかった。
ただ願えば。祈れば。求めれば、それは叶うのだ。

そうして、気づく。
救われぬと。
報われぬと嘆きながら、生き続けてきたのは。
水瀬名雪が、それを願わなかったからだ。
願えば、叶っただろう。
祈れば、救われただろう。
求めれば、報われただろう。

それをしなかったのは、何故だろう、と。
問いかけても、自身の内から返る答えの、あるはずもない。

きっとそれは、意地とか矜持とか、そういう風に呼ばれるものだ。
これほどに摩耗し、鈍化し、錆びついてなお、水瀬名雪の中に屹立し続けた、ただ一本の細い柱。
この世の果ての只中の、その一番の奥底でなお、水瀬名雪を阻むもの。

610終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:23:22 ID:AA.5FDBE0
だけど、と。
音の消えた世界の中で、名雪はほんの僅か、笑う。
それは、古びた鍵を手に、自らの足枷を眺める年老いた女の、力ない笑みだ。
己が手で己自身を律する恐怖と、昨日と違う明日が訪れることへの怯懦と、
幾枚かの小銭だけを蓄えた壺と、虫の涌いた埃だらけの布団を置いた寝台と、
晴れ渡った青い空の広がる小窓の向こうとを順に見つめて、なおじっと動かない奴隷の、
逡巡と悔悟と、追憶と追想と夢想とが入り交じった、笑みだ。

―――ああ、ああ。
もう、意地を張るのも、疲れた。

力なく笑んだまま、希望ではなく摩耗から、幻想ではなく鈍化から、
水瀬名雪は、己が心の中にある、細い柱を、そっと押す。
鍵穴に差し込まれた真鍮の、拍子抜けするほどあっさりとした小さな音を立てるように、
柱が、崩れた。

611終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:23:42 ID:AA.5FDBE0
「救われなかった世界と、人はいう」

それは、ただ、眠っていた。
眠っていただけだった。

「違う」

それは、消えない。
それは、滅びることもない。

「それは、その力を持つ者の前にあって、名を変える」

誰に知られることもなく。
誰に惜しまれることもなく。

「救われるべき、世界と」

ただそれが、求められるそのときを、待っている。
その名を呼ばれる、その時を。

「簡単なんだ、そんなことは」

その名を呼ばれるとき、錆は剥がれていく。
その力を求められるとき、煌きは、蘇る。

「私の好きな人なら」

それは、黴の生えた襤褸を纏った、みすぼらしい老人だ。
或いは、取り立てて見るべきところのない、凡庸な青年だ。
また或いは、教養もなく毎日の労働に追われる、無力な女でもあった。

しかしそれは、それを求める者の目には、ただ貴く、雄々しく、誇らしく映るのだ。

それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も美しく刃を捌く剣の遣い手であれた。
それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も速く空を翔ける天馬の騎手であれた。
それは、そうであらねばならぬとき、この世で最も高らかに正義を謳い上げる、最後の砦であれたのだ。

だから、告げる。
ただ一言、その名を。

「―――たすけて、祐一」

称してそれを、救世主という。



***

612終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:24:01 ID:AA.5FDBE0
***



そして彼は、蘇る。



***

613終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:24:26 ID:AA.5FDBE0
***


白銀の鎧があった。
量販店の棚に山と積まれた、安っぽいフリースのジャケットがあった。

悠久を凍りつかせたような、紫水晶と同じ色の瞳があった。
悪戯っぽい、どこか幼さの抜けぬ黒い目がぼんやりと開かれている。

冬の空の月光を紡いだような銀色の髪が風に靡いていた。
教師の目に止まらぬ程度にほんの僅かに脱色された濃茶色の、無造作な髪だ。

その背には翼が生えている。
三対六枚、磨きあげられた鏡のような銀の翼は、誰にも見えない。

美しい、それは少年だった。
青年へと移り変わる時期の奇妙な歪さを湛えた、道行く者の誰ひとりとして振り向かぬ、そんな少年だ。

それは、救済のためのシステムだ。
それは、ただそこにあるだけのものだ。

それは、相沢祐一という。
それを、相沢祐一という。

そして彼の前に、月も星も、夜空の隙間も純白の嘲う海原も、
何もかもが、沈黙した。

614終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:25:10 ID:AA.5FDBE0
相沢祐一は、大地を呑み込んだ月の瞳と、呑み込まれた花々の咲き乱れる大地とを無視して、
ただひとり、そこに立っている。

立っているから、そこには大地があった。
大地があるから、それは月に呑み込まれてはいなかった。
大地を呑み込んでいない月は、ただ天空の彼方に赤く浮かんでいる。
天空に浮かぶだけの月は、だから瞳などではなく。
そこはただ、月下の花畑でしか、ない。

何もかもが、かくあれかしと定められたままにそこにあり、故にそこには三つの影が、
緋色の月光に照らされて、立っている。

ざあ、と。
風に揺れる花々を見渡して、

「……、道化め」

と、琥珀色の瞳の少年が、吐き棄てる。
相沢祐一は黙して立ち、答えない。
水瀬名雪もまた、口を開こうとはしなかった。
ただ僅かに微笑を浮かべながら、祐一を見つめている。
優しげで、切なげで、悲しげで、誇らしげな、それは微笑だった。

「……錆び付いた剣。ノイズ混じりのロジック。
 そんなものが今更出てきて、何になるというんだい」

名雪の表情に、僅かに眉根を寄せながら少年が言う。
興を削がれたとでも言いたげな声音。

615終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:25:42 ID:AA.5FDBE0
「水瀬名雪。ねえ、今やキミは世界で一番の可能性のひとつなんだ。
 もうこんな時代遅れの張りぼてより、よほど大きな存在なんだよ。
 知っているだろう? これはもう、自分が何であるのかも分かっていない。
 自分の姿も保てない。自我だって、あるかどうかも分からない」

横目で相沢祐一を睨みながら、少年が続ける。

「これはただのシステムさ。もう駄目になったシステムでもある。
 一度限りの緊急避難くらいには使えるかも知れないけどね。それだけさ」

ぼんやりと輝き、ぼんやりとその輪郭を薄れさせ、ぼんやりと美しく、ぼんやりと凡庸に、
ただ立ち尽くしているような相沢祐一を、ひどくつまらないものを見たとでもいうように
小さく首を振り、溜息をついてから、少年は告げる。

「消えろ。お前なんか―――必要ない」

それは、崩壊の合言葉だった。
かつて完全であったもの、かつて瑕疵なく在ったものを容易く滅ぼす、ただの一言。
請願に呼応し救済を希求する、その存在意義が故の陥穽。
純粋な否定は、転移する癌細胞のように、相沢祐一を規定する要素を侵食し、破壊する。
果たして、少年の言葉が響くと同時。

「―――」

立ち尽くしていた相沢祐一の、時が止まる。
風に靡いていた銀色の、或いは濃茶色の髪までが、精緻な彫像の細工であるかのように凍り付いていた。
言霊が染み入るように、相沢祐一から色が失せていく。
紫水晶の、或いは飾らぬ黒い瞳が、白銀の鎧が、或いはありふれた上着が、誰にも見えない、
或いは誰の目にも鮮やかな三対六枚の翼が。
まるで世界から祐一を包む空間だけが彩度を失ったように、そのすべてが、薄暗い灰色へと変じていく。
ゆらり、と揺れたのは相沢祐一の身体だ。
否、祐一自身は未だ指の一本、髪の一筋すら動かしてはいない。
揺れたのは、その輪郭だった。
水に落とした飴玉の、ゆらゆらと溶けてその形を失っていくように。
相沢祐一の全身が、大気との境界線を揺るがせていた。
薄れ、揺らぎ、透き通り、混じり合い、融け合って、相沢祐一という存在の輪郭そのものが、
緋色の月光に満たされた大気の中に流れ込んでいく。
喪失と崩壊とが、止まらない。
それは紛れもなく相沢祐一がこれまでに何度も辿ってきた、消滅へと至る過程だった。

616終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:26:24 ID:AA.5FDBE0
「……さあ、邪魔者は消えるよ。続きと行こうか、水瀬名雪」
「……」

向き直った少年の、視線の先。
水瀬名雪はしかし、少年を見やりすらしない。

「……、何がおかしい?」

眉根を寄せたのは少年だった。
微動だにせず相沢祐一を見つめる、水瀬名雪の表情。
ただじっと視線を向けたその顔には、微笑だけが浮かんでいる。
相沢祐一の顕現したときと、まるで変わらない微笑。
滅びゆく姿を見つめる笑みでは、なかった。
つられるように祐一へと視線を戻した少年の表情が、険しくなる。

「……!? どういう……」
「無駄だよ」

水瀬名雪の、静かな言葉。
二対の視線の前で、相沢祐一に、変化が現れていた。
崩れゆく灰色であったはずの、その身体。
薄れかけた色彩が、夜の明けるように鮮やかに、彩りを取り戻そうとしていた。
色の戻るのと、歩調を合わせるように。
全身の崩壊もまた、止まっていた。
ゆっくりと、引いた波が寄せるように、輪郭がその境界線を取り戻していく。

「無駄なんだ」

白く長い指先の、吹き抜ける風の愛撫を受けるままに立つ相沢祐一を見つめながら、名雪が言う。
その眼前、銀色の翼が、夜空を裂くように蘇っていく。

617終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:27:15 ID:AA.5FDBE0
「祐一は、消えない。そんな言葉なんかに、負けたりしない」
「……っ!」
「だって、ここには」

気色ばむ少年を無視するように、名雪が両手を広げて周囲を見渡す。
そこには、

「祐一を必要としている世界が、こんなにも、あるんだから」

白い、白い花々が、咲き乱れている。
ざあざあと泣く、純白の海原が、相沢祐一を押し包むように、拡がっている。

「―――」

すう、と。
深紫色の瞳を虚空に向けたまま、花々のざわめきに身を任せるように立ち尽くしていた祐一が、
音もなく唐突に、その場に跪いた。
片膝をつき、屈み込んでその指を伸ばした先に、一輪の花がある。

「……つまらないことを」

呟いた少年に、笑みはない。
その瞳には蔑みと嘲りとが、ありありと暗い炎を燃やしている。

「言ったろう、その花の一輪が、終わった世界の結晶だって。
 周りを見なよ。それが幾千、幾万……どれだけあると思ってる?
 無限の世界、その命すべての嘆き、哀しみ、苦しさ、寂しさ―――。
 そんなものに、勝てるはずがない」

吐き棄てられた少年の言葉にも、名雪は錆び付いた微笑を崩さず、ただ一言を返す。

「勝つんじゃない。救うんだ」

618終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:27:40 ID:AA.5FDBE0
その声が静かな風に融けるのを、合図にしたように。
相沢祐一が、白い花に、触れる。
手折るでもなく、千切るでもなく。
微かに揺れる純白の花を、愛撫するように。
甘やかに、その手で包む。

「私は知ってる」

水瀬名雪の見つめる、その眼前。
まるで祐一の手に、その身を委ねるように。
白い花が、薄緑色の細い茎ごと、抜ける。

「本当の愛を、そんな風に呼ばれるものを見せてくれる、世界でたったひとりの人」

ずるりと抜けた薄緑色の茎には、奇妙なことに、根がなかった。
引き抜かれた大地に、根の残っているでもない。
まるで切花が一輪、大地に挿されていたように、その白い花は咲いていたのだった。

「幾千の嘆きも、幾億の悲しみも、たとえばそれが、無限にあったとして」

ぽたり、と。
垂れ落ちるものがあった。
地に埋もれていた細い茎の、切り取られたような断面。
そこから、ぽたり、ぽたり、ばたばた、と。
次第に勢いを増しながら垂れ落ちるのは、赤い、赤い汁だった。
黒みがかった赤褐色は不透明で、粘ついていて、どろり、ばたばたと。
まるで鮮血のように、止め処なく、流れていく。

「そんなものは、関係ない。関係ないんだ」

619終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:02 ID:AA.5FDBE0
その手から溢れ、腕に伝って白銀の鎧を染める深紅の液体を、ほんの一瞬見やって、
相沢祐一が、その白い花に、顔を寄せる。
捧げ持った花を、そっと抱きしめるように、いとおしむように。
純白の花弁に、唇を重ねた。

「祐一は、救うんだ。全部を」

赤く、紅く、血のような汁が垂れ落ちて、祐一の胸を、脚を、その身体を汚していく。
それにも構わず、相沢祐一は白い花弁へと口づけたまま、じっと花を抱きしめている。
ばたばたと、はたはたと。
流れ落ちる真っ赤な汁に、混じるように。
はたはたと、はらはらと。
一枚の花弁が、舞い落ちた。
それを、追うように。
花が、散る。
散って、舞い、緋色の月光に手を振るように、消えていく。

「―――」

祐一の唇に触れていた、最後の一枚が散るのと同時。
血のような汁も、止まる。
ただ細い葉と小さな萼だけを残した、薄緑色の茎を、祐一がそっと大地に置く。
置いて立ち上がった、その全身は深紅に染まっている。
返り血を浴びたように、或いは深い傷を負ったように、鮮血のような紅に染まって、
祐一がほんの一歩、足を踏み出す。
そこには、次の一輪が、待っていた。

620終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:29 ID:AA.5FDBE0
「そんな……」

少年の戸惑ったような呟きは、相沢祐一を止められない。
ゆっくりと膝を折った祐一が、純白の一輪を手にとって、抱きしめる。
やさしい愛撫とやわらかい口づけと、流れ出す血を浴びてなお翳りなく、嘆く世界を抱く姿と。
寸分の違いもなく繰り返される光景の最後に、白い花が、風に舞う。

「散っていくぞ、花が。救われていくぞ、世界が」

水瀬名雪の、謳うような声が響く。
そこに、流れる時はない。
緋色の月光に照らされた純白の花畑を、歩み、跪き、穢れに染まる救世の徒の前に、
時の流れの如きは、その意味を失う。
幾百の嘆きがただの一瞬に散り、たったひとつの純白の詠嘆は永劫を以て空に舞う。
幾千と、幾万と、ただのひとつと刹那と久遠とが、相沢祐一の歩みの前に凝集していた。

「やめろ……無理だ、無理なんだから……」

白い、白い花が舞う。
怯えたように手を伸ばす少年に背を向けるように、相沢祐一の行く先で、花が泣き、世界が嘆き、救われる。
救われて、いく。
純白の海原に舞う、白い花弁は波濤だった。
波濤は泡沫のように空へ舞い上がり、漆黒の夜空を、緋色の月光を、白く、白く侵していく。
可憐な白が、空と大気とを焦がし、その有り様を、塗り替えていく。


***

621終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:28:58 ID:AA.5FDBE0
 
「やめて……やめてよ……」

息の詰まるような白に包まれて、少年の声は力ない。
花の海原は、既に見えない。
舞い上がり、雨のように、風のように大気を押し包む純白は、果て無く続くはずの花畑の、
その果てまでが散る如く、闇を染め上げていた。
夜はもう、終わろうとしていた。
終わる夜に浮かぶ月は、夕暮れの公園に取り残された子供のように物悲しく、痛ましい。

「待ってよ……こんなのは、違うだろう……?」

ふるふると首を振って、白い闇の中、少年が両手を広げる。
眼前に立つ水瀬名雪に向かって、震える声を張り上げる。

「これは、最後の戦いなんだ……僕の、僕たちの、最後の戦いなんだから……!
 こんな風に、こんな、こんなの……だめだよ、ちゃんと、ちゃんとやらなきゃ……」

言葉にならず、それでも絞り出された声に、水瀬名雪がほんの一瞬、目を向ける。

「……、」

何かを言おうとして口を開きかけ、しかし、すぐに視線を少年から外す。
見やった先、水瀬名雪に向けて歩む、姿があった。
それきり名雪が、少年を見ることは、なかった。

「これで終わりなんだ! これが最後なんだ!」

叫ぶような声も、届かない。

「もっと、もっと遊ぼうよ! ずっと、ずっと!」

伸ばす手に、差し伸べられる指はなく。
水瀬名雪はただ一人、相沢祐一だけを、見つめていた。

「待って……待って!」

月が、赤い月が、夜を吸い上げるような純白に覆われて、欠けていく。
緋色の月光も、救われた世界の欠片に掻き消されて、少年には、届かない。


***

622終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:29:34 ID:AA.5FDBE0
 
「―――」

三歩の距離が、二歩になり。
二歩の距離が、一歩を埋めて。
そうして二人が、向かい合う。

大地に咲く花は既になく。
嘆く世界の、終わった世界のすべては、救われていた。

それで終わりなのだと、水瀬名雪は理解していた。
救世という、その一点だけが相沢祐一という概念だと、ならばそれが終わった今、
相沢祐一は存在を赦されないのだと、正しく認識していた。

だから、気付かなかった。
相沢祐一が眼前に立つのは、別れを告げに来たのだと、そう考えていた。
諦念と摩耗とが、水瀬名雪にそれを許容させていた。
それは何度も繰り返した絶望で、或いは幾度も乗り越えた終焉で、それだけでしかないと、
ただ、もう次がないと、それだけのことでしか、なかった。

だから、気付けなかった。
相沢祐一が、その手を伸ばすまで。
伸ばされたその手が、自らの胸に、そっと触れるまで。
そこに咲く、小さな白い花を、やわらかく撫でるまで。
そうして、その胸に咲いた花ごと、水瀬名雪を抱きしめるまで。

623終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:29:49 ID:AA.5FDBE0
「そう、か―――」

驚きはなく。
戸惑いもなく。
ただ、安らぎと、喜びだけが、あった。

「終わるんだね―――ようやく。
 好きな人の手で、私は、終われるんだね」

消えていく。
吐息を感じるような距離の向こうで、紫水晶の色が消えていく。
冬の月のような銀色も、輝く鎧も、煌く翼も消えていく。

そこにある。
凡庸で、悪戯っぽい黒い瞳が、そこにある。
ほんの少しだけ色を抜いた無造作な髪と、飾り気のない安っぽい服と、そうして、それから。
そこには、温もりが、あった。

「ありがとう―――祐一」

最後には、口づけを。
終わらない世界の、繰り返す時間の終わりには、ただ、愛しさだけが、あった。

小さな、白い花が。
音もなく、散る。




******

624終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:30:36 ID:AA.5FDBE0
 
 
 
咲く花は、既にない。
白く舞う花々は空に融け、漆黒を取り戻した夜が寒々と闇を湛えている。
どこまでも広がる茫漠たる大地が支えるのは、たったひとつの影だった。

「……どうして」

影が、呟く。
誰にも届かない呟きは、やがて地に落ち、染みていく。
吹く風に揺れる白の海原はなく。
嘆く声も、聞こえない。

音のない荒野で、少年が聞くのは、だから、声だ。
耳朶を震わせる音ではない。
かつて聞き、そしていつまでも少年の奥底の伽藍洞の中を響き続ける、消えない声だ。
永遠と久遠とを共に在り、これから迎える最後の時を、長い長い煉獄を、手を携えて見届けるはずだった、
幾つもの声だった。


―――余は、翼がほしい! この空を越えて、どこまでも飛べる翼が!

 ―――来てみれば、わかる……ってさ。

―――手をのばせ、こんちくしょー!

 ―――あたしの本当の名前を呼んで。そうしたら―――

―――ねえ、わたしたちは、きっと、ずっと、もっと、もっと―――


声はもう、内側にしか響かない。
去った者と、振り向かぬ者と、応えぬ者と。
繋ごうと伸ばした手の、届くところには誰もいない。

625終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:31:02 ID:AA.5FDBE0
「待ってよ」

力なく見上げて呟く声は、虚しく空に消えていく。

「そんなの、ないよ」

見上げた夜空には、星のひとつもない。
ただ取り残されたように、細い、細い、糸のように痩せ細った赤い月が、
ぼんやりと、浮かんでいる。

「僕を、置いていかないでよ……」

終わる世界の嘆きを統べた、無限の力も。
永劫を超えて辿り着いたはずの、最後の好敵手も。
誰も、いない。
何も、ない。
だから、

「―――ようやく、見つけた」

何もかもを失くした少年が、
夜明けの稜線に沈む月のように、ぼんやりと振り返って、その琥珀色の瞳に映った、
二つの影に向けて浮かべたのは。
縋るでも、疎むでもない。
薄く、薄く、ただ一欠片の失意だけを、滲ませた。
色のない、笑みだった。

626終焉憧憬(了):2010/01/23(土) 04:31:20 ID:AA.5FDBE0

【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】


少年
 【状態:―――】


天沢郁未
 【状態:―――】

鹿沼葉子
 【状態:―――】


相沢祐一
水瀬名雪
 【状態:消滅】

→693 924 1068 1103 1106 1110 1113 1115 ルートD-5

627/死:2010/02/06(土) 04:26:54 ID:D/ovS9dk0
 
******




血。
血だ。
生温くて、どろどろとして、ひどくいやな臭いのする、それは血だ。

止め処なく溢れ出すそれを見て、思う。
これは、僕の身体の中に、流れていたものじゃない。
だってそれはきっと、もっと綺麗なものであるはずだった。
それは命を支えてくれるものだ。
それは僕を満たしているものだ。
それがこんなに、いやなものであるはずが、なかった。

だから、それはきっと、汚れてしまったのだと思う。
僕の中に何かとても厭らしい、不潔なものが入り込んで、僕を濁らせている。

いま流れているのは、だからそういうものだ。
僕の中の汚いものが、だくだくと、だくだくと流れ出している。
痛みはない。うるさい声も、もう聞こえない。

ぼんやりとした眠気の中で、汚れてしまって、濁ってしまって、いやな臭いのするようになった
気持ちの悪い血がだくだくと、だくだくと広がっていくのを、僕は、ただじっと見つめている。




******

628/死:2010/02/06(土) 04:27:16 ID:D/ovS9dk0
 
 
 
「……ああ、天沢郁未か」

それは呟くような声だ。
目の前に立つ人影に向けているようで、しかしその実はどこにも向けていないような、
独り言じみた呟きが、少年の口からは漏れている。

「突然で、それからとても残念な話なんだけど」

掠れた声は、星のない夜空に吸い込まれるように消えていく。
暗く、重く垂れ込める空は波立つこともなく、ただ乾いて剥がれる薄皮のような声を受け止めている。

「キミが捜してるのは、僕じゃないよ」

笑みの形に歪んだ口元に、表情はない。
感情も、情念も、そこにはない。
色と温度のすべてをどこかに置き忘れてきたような顔で、少年がぼそぼそと続ける。

「彼はもう、どこにもいない」

漏れ出す言葉はだから、真実の色にも、虚構の色にも染まってはいない。
淡々と、録音された音声を繰り返す壊れた機械のような声には、ただそれだけの意味しかない。

「知ってるだろう、あの夜に死んだんだ」

あらゆる装飾を廃して意味だけを固めたような、それは言葉だった。
路傍の石の如く無価値で、牢獄の鉄格子ほどに無遠慮で、死に至る老人のように無彩色な、言葉。

629/死:2010/02/06(土) 04:27:37 ID:D/ovS9dk0
「……ああ、そうだ。何なら代わりを造ってあげようか」

触れれば砕けて粉になる、木乃伊の浮かべるのと同じ形の笑みを口元に貼りつけて、
少年が小さく頷く。

「そうだ、それがいい。キミがずっと捜していた、彼だよ」

いい考えだと呟いて、答えのないまま頷いて、不毛の大地に目を落とす。
どこまでも拡がる赤茶けた土の上には、枯れ果てた草の細い茎が無数に横たわっている。

「似たようなものなんかじゃない」

ほんの僅かに踏み出した、その足の下で枯れ草が折れて乾いた音をたてる。
かさかさと耳障りな、少年の声音と同じ音。

「寸分違わず同じものを、キミにあげよう」

枯死の音を口から漏らしながら、少年は薄く力ない視線を、眼前の影に向ける。
向けて、すぐに目を逸らした。

「だからもう、帰ってくれ」

視線を合わせぬまま、深々と息をついて、少年はようやくにそれだけを、呟く。

「疲れてるんだ」

呟いて、首を振る。

「僕をひとりにしてくれ」

俯いたまま、何度も、何度も。

「僕はもう、ここでずっと、」
「―――知ってたよ、そんなのは」

どこまでも沈み込んでいきそうな少年の言葉を遮ったのは、真っ直ぐに斬り込むような、声音だった。
天沢郁未が、口を開いていた。

630/死:2010/02/06(土) 04:27:59 ID:D/ovS9dk0
「あいつは死んだ」

微かに射す緋色の月光の中、その姿は乾いた血糊に抱かれて、どこまでも暗い。
傍らに立つ鹿沼葉子もそれは変わらず、しかし共通するのは、その瞳であった。
星もなく、浮かぶ月も細く弱々しい夜空の下、二対の瞳は闇を蹂躙して輝いている。

「死んだんだ。誰が何を言ったって、私だけは疑えない。疑っちゃいけない」

纏った襤褸も、露出した肌も赤黒く染め上げて、しかし凛と背を伸ばし、
郁未は微塵の揺らぎもなく死を口にする。

「それを、私は感じたんだから。感じられたんだから」

言って、笑む。
愉ではなく、悦でもなく。
哀を割り砕いて充足と宿望とで月光に溶いたような、笑み。
何かを求める笑みではない。
何かを味わう笑みでもない。
ただ、終わった時間を、流れ去った何かを懐かしく思い出す、そんな笑みだ。

「だから分かるよ。あんたがあいつじゃないってことくらい」

静かに、風が吹き抜ける。
空に流すように、郁未が笑みを収めた。
収めてしかし、瞳はぎらぎらと輝きながら少年へと向けられている。

「だけど、来たんだ。だから、来たんだ」

左手には長刀を、右の手は拳を握り込んで。
少年を射竦めるように見据えながら、郁未が言い放つ。

「夜をぶっ飛ばしに」

631/死:2010/02/06(土) 04:28:22 ID:D/ovS9dk0
幽かな月光を反射して光った長刀の刃が、ぐるりと回る。
緋色の弧が、大地を向いて止まった。

「私と、あいつと、私たちにとっては、もう終わった夜に」

振り向かず掲げた柄に、かつりと硬い音。
傍ら、金色の髪が靡く。
鹿沼葉子の持つ鉈が、郁未の長刀に小さく打ち合されていた。

「そんなものに、まだしがみついてるヤツがいるんなら、私が、私たちが、
 教えてやらなきゃいけないから―――」

もう一度、小さな音。
郁未からも、得物を打ち合わせて。
視線は少年に向けたまま、しかし呼吸は寸分違わぬ確信をもって、手にした刃を、振り下ろす。

「だから、来たんだ」

一対の刃が、大地を突き穿ち。
風が、声を運ぶ。

「もう一度、ここへ」

突き刺さった長刀から手を離し、郁未が深く息を吐く。
ほんの半歩踏み出して、残りの距離は十歩分。
手を伸ばしても、まだ届かない。
届かなくても、刃を離したその手には、差し伸べるだけの、空きがある。
だから更に一歩を進んで、

「―――!」

しかし踏み込んだのと同じだけ、僅かに一歩を後ずさった少年の、琥珀色の瞳がほんの一瞬、
郁未を見返して、再び弱々しく逸らされるのに、足を止めた。
溜息を一つ。
沈黙は二呼吸分。
それから大きく息を吸って、何かを言おうと見上げた空に、薄ぼんやりと細く赤い月が浮かんでいた。

632/死:2010/02/06(土) 04:28:49 ID:D/ovS9dk0
「……ああ、何だ、そっか」

それを見て、拍子抜けしたように郁未が呟く。
溜めていた言葉は、どこかに置き忘れたようだった。

「あのときの、あれも」

細い、細い、赤い月の欠片。
一つの物語が終わった夜の、その最後に見た、真実。
真実というネームプレートを下げた大根役者が、夜空にぽつりと浮いていた。

「結局、あんただったんだね」
「……それは、そうさ」

呆れたように視線を下げた郁未の眼前、少年が頷きもせずに答えていた。
力なく赤茶けた地面を見下ろしながら、ひどくつまらなそうにぼそぼそと声を漏らす少年の、
銀色の髪の先が風に揺れて薄い月光を掻き毟る。

「ただの人間が、僕をどうにかできると思ったのかい」
「まあ、頑張れば」
「……」

事もなげに言ってのける郁未に、少年が絶句する。

「……そもそも僕は、僕たちじゃない」

降りた沈黙を埋めるように言葉を継いだ少年の声音には、僅かに呆れたような響きがある。
水底に沈む船から漏れた泡沫のように儚く幽かな、それはしかし、少年が郁未たちと向きあってから
初めて見せた、感情と呼ばれるものに近い何かの萌芽でもあった。

「僕は、僕さ。ずっとここにいる僕だけさ。捕まる『種族』なんて、どこにもいやしないんだ。
 いるとしたらそれは、僕が望んで提供した人形だよ」

言葉が、言葉を引きずり出す。
そして心もまた発した言葉に手を引かれるように、琥珀色の瞳に、ほんの少しづつ光が宿っていく。

「世界は人の塊だ。人を動かせば世界は変わる。そういう意味で教団は有用だった。
 君たちという可能性を生み出したんだ。そこにいるだけで世界を変える、大きな物語を」

少年の瞳が、天沢郁未と鹿沼葉子を、映す。
映し、怯んで、しかしついに逸らすことなく、二対の視線を、見返した。

633/死:2010/02/06(土) 04:29:13 ID:D/ovS9dk0
「キミたちの力……不可視の力とキミたちの呼ぶそれは、元々は僕の力だ。
 教団はそれをキミたちに……正確には人間に、広めるために存在したんだよ」
「……だけど、FARGOはもうない」

向けられた少年の瞳をじっと見据えながら教団の名を口にする、郁未の声に揺らぎはない。
憎悪も嫌悪もなく、無感動に無感傷に、それを告げる。

「ええ。教団は私たちが壊滅させました。あなたから頂いた、この不可視の力で。
 存命の関係者は、最早片手で数えられる程度のはずです」

淡々と言葉を継いだ鹿沼葉子の声音にも、押し殺した感情は存在しない。
それが回顧をもってのみ語られる、過去の事実でしかないというように。

「力を寄越して研究させて、力でそれを潰させて。全部があんたの差金なら、与えて、奪って……。
 何がしたかったのさ、一体」

溜息混じりに首を振る郁未に、少年の表情が曇る。
答えを求める問いではなかった。
それでも、少年は口を開く。

「それは……汐から、聞いてるだろう」
「あんたからは聞いてない。それを聞いてるとは、私は言わない」

絞り出されたような少年の言葉を、郁未が言下に否定する。
強い視線と、声だった。

634/死:2010/02/06(土) 04:29:45 ID:D/ovS9dk0
「……」
「……」
「……希望を」

沈黙に押し負けたのは、少年だった。

「希望を、求めていた」

声は、掠れている。
しかしそこに、虚飾はない。
虚栄も虚構も削ぎ落とされた、それは少年という存在の結晶した、言葉であるようだった。

「僕は、生まれたかった。幸せになりたかった」

なりたかったと、口にする。
終わってしまった夢のように。

「それだけさ。それだけなんだよ」

言い放って、郁未の目を見た少年が、表情を変える。
浮かべたのは、嘲笑だった。
郁未たちに向けられたものではない。
ただ自らを蔑み蝕むような、嘲笑。

「……で、そんな僕に何を教えてくれるんだい、天沢郁未、鹿沼葉子」

嘲う少年が、両手を広げる。
その手の先では、空と大地とが、少年を包んでいる。

「生まれることすらできなかった僕に」

少年を囲む大地に、咲く花はない。
散らばった枯れ草と赤茶けた土だけがどこまでも続いている。

「求めて、終に与えられなかった僕に」

少年を見下ろす夜空に、光る星はない。
病に冒されたように痩せ細った赤い三日月だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

「キミたちは、何を教えてくれるっていうんだい」

少年の広げた手に、触れる指はない。
そこには誰も、いなかった。
だから、天沢郁未は、一歩を踏み出して、口を開く。

「そんな、御大層なことじゃあないけどね。
 気づかない方がどうかしてるって、その程度のこと」

635/死:2010/02/06(土) 04:30:03 ID:D/ovS9dk0
少年は、下がらない。
下がらない少年に、更に一歩を近づいて、その目を真っ直ぐに見返して、言う。

「―――夜はもう、明けてるんだ」

残りの距離は、八歩分。
遠い、遠い、八歩。
しかし、ただの、八歩だ。

「私は誰だ? 私たちは誰だ? 天沢郁未だ。鹿沼葉子だ」

踏み出せば、七歩。

「それで、あんたは誰なの?」

六歩が、五歩に。

「名前もまだない。私はあんたをなんて呼べばいいのかだって分からない!」

四歩は、三歩になる。

「―――こっち、来なよ」

ほんの三歩の向こう側へ、手を伸ばす。
それが、最後の一歩分。
残りの二歩を、その向こう側に、託して。
天沢郁未が、足を止める。

「……」

差し伸べられた手を、少年はじっと見詰めていた。
ただ一歩を踏み出して、手を伸ばせば、残りの距離は、零になる。
零の向こうに、目を凝らすように、耳を澄ますように。
少年はその手を、じっと、じっと見詰めている。

「―――」

何度目かの風が、吹き抜けた。
風に背を押されるように、少年が顔を上げる。
天沢郁未を見て、その傍らの鹿沼葉子に目をやって、もう一度天沢郁未へと目を戻して、

「―――、」

そうして口を開こうとした、その瞬間。

聲が、響いた。


***

636/死:2010/02/06(土) 04:30:29 ID:D/ovS9dk0
***



『―――道は一筋にあらず』



***

637/死:2010/02/06(土) 04:31:03 ID:D/ovS9dk0
***


それは、聲だ。
姿なく、風も震わせず、しかし響き渡る、聲だった。

『青の最果てに佇む者、来し方より行く末を定める者、ただ一人、道を選ぶ者―――』

歳の頃は、少女。
しかし声音は冬の雨のように重く、冷たい。

『あなたは問い、私は答え、それでもなお、迷うなら―――』

あなた、と響いたその聲の指すのが少年であると、その場の誰もが理解していた。
指差すように、睨みつけるように、声音は響いていた。
故に、天沢郁未と鹿沼葉子は動けない。
今このとき、己は傍観者に過ぎぬと、理解していた。

『この世の価値を、命の価値を、分からぬままに惑うなら―――』

忍び寄るように。囁くように。断罪のように。神託のように。
聲が、ぐるぐると少年を取り巻いては、夜に染み入るように消えていく。

『ならば今一度、答えましょう―――』

風に融けた聲が、大気に混じってその密度を濃密にしていく。
聲が、肌にぬるりと感じられるほどに凝集した聲が、風と、夜とを練り固めて。

『示しましょう―――言葉ではなく、かたちを』

そこに、赤い光を灯す。

『―――最後の、道を』

638/死:2010/02/06(土) 04:31:31 ID:D/ovS9dk0
いまや弱々しい、緋色の月光ではない。
そこにあるのは、真紅だ。
赤という言葉の意味を形而上から引きずり出したような、真紅。
そうして浮かぶ、真紅の光の中心に、何かがあった。
震えるように、微かに痙攣する何か。
拳ほどの大きさの、ぬらぬらと蠢く肉のような質感。
それは、心臓である。
あらゆる血管と臓腑とから切り離されてなお脈を打つ、人間の心臓に他ならなかった。

「何さ、道って……。問いって……」

赤い光の中に浮かぶ心臓を見つめながら、少年がようやくに声を絞り出す。
戸惑ったような呟きだった。

「僕は……僕は、そんなこと、知らない」
『いいえ』

否定は、即座。

『いいえ、いいえ。あれはあなた。あなたの声。あなたの問い』
「そんな……」

なおも何かを言い募ろうとする少年の弁明を断ち切るように、朗々と聲が響く。
聲に震えるように、浮かぶ心臓がひくり、ひくりと蠢いた。

『あなたは確かに問うたのです。あの地の底の、神座で。赤と青との、戦の果てに』
「……」

釈明を蹂躙し、降りた沈黙の中に姿なき聲だけが谺する。

639/死:2010/02/06(土) 04:32:00 ID:D/ovS9dk0
『巡り廻る、答えの一つがその手なら―――』

とくり、と。
赤光に浮かぶ心臓が、その鼓動を大きくする。

『この世の在り様の罪咎を、肯んずるのがその手なら。赤は否やを示しましょう』

そしてまた、赤光自体も次第にその輝きを増しているように、見えた。
心臓が脈を打つたび、送り出されるべき血の代わりに、光が満たされていくようでもあった。

『続き、続く世界を、認めないと。不完全に、不手際に、片手落ちに続く世界は、幕を下ろすべきであると。
 ここが世界の最果てならば。否を以て、その選択に介入すると』

心臓が、脈を打つ。鼓動が、次第に早くなる。
光が、その密度を増していく。聲が、その圧力を増していく。

『肯んじ得ぬすべてを、終わらせる道を―――青の最果てに、示しましょう』

謳い上げるような聲と、鼓動を打つ心臓と、輝きを増す赤光と。
赤の響きが、朽ち果てた大地と夜空を、支配していく。

『ここは最果て。世界の極北。これはあなたの物語。あなたが消えれば、世界も消える』

囁くように、叫ぶように、夜空と大気とに練り込まれた聲が、ただ一人へと向けられる。
銀色の髪が、赤光に照り映えて煌めいた。

『これが最後の選択肢』

琥珀色の瞳が、どくりどくりと脈打つ肉塊に捉えられて、離れない。

『選びなさい、物語の行く末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何も得られずに終わろうとしていた少年に、

『あなたの描いてきた、世界という物語の結末を』

時を越えて在る少年に、
すべてを失くした少年に、
何かを得たいと望んだ少年に、

『苦界へと続く、その手を取るのか』

聲が、刃を突きつける。
それは、選択という刃だ。
未知という鋼を決断という焔で鍛えた、己が手を裂く、抜き身の刃だ。
どくり、と刃が脈を打つ。

640/死:2010/02/06(土) 04:32:22 ID:D/ovS9dk0
『或いは』

その聲を、合図にしたように。
赤光が、どろりと垂れ落ちた。
濃密な光が、ついには飽和の限界を超えて質量を得たかのように、糸を引きながら流れ出す。
流れる光の中に揺蕩っていた脈打つ肉は、しかし地に落ちることもなく、そこに浮いていた。
赤光がすっかり落ちきって、宙に残るものはもはや輝くこともない、てらてらとした粘膜の塊だった。
寒空の下に露出した、桃色と乳白色と淡黄色との混じり合った塊が、身震いするようにふるふると揺れた、
次の瞬間。
地に垂れ落ちて溜まっていた、赤光であったものが、唐突に爆ぜた。
蕾の弾けて咲くように、朽ちた大地に真紅の大輪が花開く。
月下、大地に咲く真紅と、その真上に浮かぶ桃色の心臓。
やがて実となり種を成す、それは花弁と雌蕊のようにも、見えた。

と。
ぐじゅり、と濡れた音がした。
爆ぜて散った、赤光であったものから、何かが芽を出す音だった。
ぐずぐずと、ずるずると、どろどろと伸びるそれは細い、今にも千切れそうな桃色の、肉じみた気味の悪い芽だ。
ひとつひとつが頼りなげにふるふると蠢く肉の欠片が、そこかしこに散った赤光の欠片から一斉に芽吹いていた。
肉の芽は刹那の間に肉腫となり、赤光であったものを吸い上げながら伸びていく。
ほんの数瞬の後、それは既に芽と呼べるものではなくなっていた。
桃色の茎。否、根もなく葉もなく、ふるふると揺らぎ蠢くそれは、糸である。
数千、数万を超す桃色の肉糸が、ぐずぐずと伸びていく。
無数の肉糸は伸びる内に互いに撚り合わされ、次第に太く変じながら、宙の一点を目指していくようだった。
その先に浮かぶのは、どくり、どくりと、今やはっきりと鼓動を打つ心臓である。
煉獄の亡者の蜘蛛の糸に縋り、争って手を伸ばすように、肉糸が心臓へと迫り、伸びて、
そしてとうとう桃色の糸が、その最初の一片が、心臓に触れる。
触れて、融け合った。
融けた糸が、ずるりと心臓に巻き上げられて、太い動脈に変わっていく。
次の一片は、別の血管に変わった。
変わってできた動脈に、新たな糸が融け合って、その経路を分岐させていく。
幾十の糸が、瞬く間に複雑な血管を形成し。
幾百の糸が、それを包む神経細胞と膜と脂肪とを作り上げ。
幾千、幾万の糸が、骨格を、その中に生み出していく。
筋繊維が、腱が、関節が、無数の糸によって縒り上げられ、一つのかたちを成していく。
皮が張り、指が分かれ、爪が生え、白い歯が、真っ直ぐな鼻梁が、歪んだ耳朶が、腕が、脚が、
人が、造り上げられていく。

『或いは―――』

最後の糸が、ずるりと巻き上げられて、眼窩に収まっていく。
星空を織り込んだような長い黒髪を、白くたおやかな手が、煩わしげにかき上げる。
そこに、黒い瞳があった。
ぎらぎらと輝く、瞳だった。
瞳は、笑んでいる。
牙を剥くように、笑んでいる。

『もう一つの物語に―――呑まれるのか』

美しい、それは女のかたちをしていた。
美しく、猛々しく、そしてどこまでも、どこまでも、昏い。
女の名を、来栖川綾香といった。




******

641/死:2010/02/06(土) 04:32:49 ID:D/ovS9dk0
******

 
 
 
傷。
傷だ。
閉じているべきものが割れ裂けて、そこから血が流れている。
だからそれは、傷口だ。

傷の中にはきっと、膿と汚れと、もう感じない痛みだけが、ある。
流れ出すのは、濁った血だ。
僕の身体がいやがって、膿と汚れに抗って、押し流そうと垂らす血だ。

早く、早く出てこいと願う。
気持ちの悪いものは、いやな臭いのするものは、この身体の外に出ていってしまえと思う。
その、一方で。

出てくるな、出てくるなと祈る、僕がいた。
おぞましいものが、吐き気をもよおすようなものが顔を覗かせたら、僕は耐えられない。
そんなものがこの身体の中にあったことに、そんなものにこの身体を穢されたことに、きっと耐えられない。
これから先のずっと、そんなものが汚した血が流れ続ける苦痛に、そんなものが身体のどこかに
ぶつぶつとした卵を産み付けているかもしれないという恐怖に、僕はきっと耐えられない。

だから僕は、希う。
傷口も、汚れた血も、膿にまみれたいやなものも、全部、全部なかったことになればいいのに、と。
そんなものは初めからなくって、僕は汚れてなんかいなくって。そんな夢を、希う。
だけど、それは叶わない。

僕にはわかる。
わかってしまう。
この傷口の奥には、それが確かにいるのだと。

それは僕の身体を蝕んで、僕の肉と心とを貪って、ぶくぶくと肥えた、怪物だ。
生まれてくる。
それはもうすぐ、生まれてくる。

どろりと汚れた、黒っぽい血と。
ぐずぐずといやな臭いのする、薄い黄色の粘つく膿と。
そういうものと混じり合って。

こんな、おぞましい傷口の中から生まれてくるものは、きっと、




******

642/死:2010/02/06(土) 04:33:08 ID:D/ovS9dk0
 
 
 
女の笑みに、囚われて。
ぐらり、と少年が揺れる。

「僕は……」

流れる脂汗と、蒼白な顔色。
どくり、どくりと響く音に掻き消されるような呟き。

「僕は―――」

振り返れば、そこには瞳。
手を差し伸べる、真っ直ぐな瞳。

「―――、」

どくり、どくりと世界が揺れる。
脈打つ鼓動の音が。
星のない夜空を圧し潰すように。
どくり、どくりと、響いている。

643/死:2010/02/06(土) 04:33:31 ID:D/ovS9dk0
 
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】

少年
 【状態:最終話へ】

天沢郁未
 【状態:最終話へ】

鹿沼葉子
 【状態:最終話へ】

里村茜
 【状態:―――】

来栖川綾香
 【状態:―――】



【時間:2日目 午後6時すぎ】
【場所:I-7 沖木島診療所】

春原陽平
【状態:最終話へ】


→999 1096 1113 1116 1122 ルートD-5

644インターセプト:2010/02/08(月) 23:21:38 ID:UUiEoiqU0
「っ!」
「なっ?!」

一触即発に見えた場の雰囲気を拡散したのは、突如躍り出た乱入物だった。
霧島聖に対して狙いを定めていた少年も、これには後退を余儀なくされる。
その聖はと言うと、かけられた一ノ瀬ことみの声ですかさずしゃがみこみ、宙を舞うそれ等の行く末を息を飲みながら見守っていた。
はんなりとした放物線を描く小瓶、舞っている数は計三つ。
小瓶の先、ともる炎の色はオレンジがかった赤いものである。
布だろうか。火の元となっているそれは、よくみればしっとりと塗れていた。
そんな小瓶を待ち受けているのは、保健室の固い地面。

危ない。気づき、一つの舌打ちと共に膝のバネを使って立ち上がる聖の目の前、小瓶は容赦なく砕け散った。
ガラスの割れる旋律が連続して聖達の耳に入ると同時、揺れる炎はたちまち周囲へと広がっていく。

(随分と危ないことを、してくれたものだな……っ!)

燃え上がる炎が広い範囲を陣取るのに、時間はそうかからないだろう。
古い建物であるこの鎌石村小学校、木造ではないが周囲を舞う大量の埃がここにきて最大の火付け役になっていた。
炎の規模は、ますます膨らんでいくに違いない。
まだ調べきっていない場所からおかしな薬品が出てきたら、厄介なことになる。
必要なのは、早めの脱出だ。
そのためにも聖達はまず、対峙しているこの少年を何とかしなければいけない。

(……! そうだ、あれなら)

素早く周囲を見渡した聖が目に付けたのは、先ほどまで相沢祐一が眠っていたベッドだった。
ベッドを仕切るためにかかっているカーテンには、小さな炎の花が虫食いの様になって咲いている。
その光景から一つの閃きを得た聖は、瞬間、そこに向かって一気に駆け出していた。
立てられた派手な地鳴り、聖の奇行に少年もすぐ気づく。
手にしていた機関銃の先端を、少年は躊躇することなく聖へと向け、その引き金に指をかけた。

645インターセプト:2010/02/08(月) 23:21:57 ID:UUiEoiqU0
「駄目。撃たせない」

すかさずスカートのポケットに手を突っ込んだことみが、新たな武器をその手にする。
瓶を放った後隅の方へ逃げていたことみが取り出したのは、少年も一度痛手を負っている、暗殺用十徳ナイフである。
いくらか練習でもしていたのだろう、ことみはそこそこ慣れた手つきで備え付けられている吹き矢の吸い口に唇を寄せると、間髪なくセットされていた矢を少年に向け打ち込んだ。

「おっと!」

鋭い棘は、構えていたMG3を今正に発砲しようとしていた少年へと、真っ直ぐに向かって飛んでいく。
しかし軌道が読みやすかったからか、少年が矢を避けるのは容易いことだった。

「ことみちゃん、君の相手は次だから。少しだけ我慢してて、ねっ!」
「きゃっ」

スナイパーの如く少年を遠方から狙っていたことみの真横、走る銃弾は牽制か。
敢えて致命傷を避けているかのような動き、少年は小さな悲鳴を上げ逃げ惑うことみを楽しそうに見つめている。
そんな二人を尻目に、聖はと言うとさっさと目的の場所へと辿り着いていた。
聖からすれば、ことみが少年の気を引き付けてくれたおかげで事がスムーズに行ったことになるだろう。

(すまないことみ君、もう少しだけ耐えてくれ……っ)

心の中でことみに対する謝罪を繰り返しながら、聖は少年の気がこちらに向かないうちにと行動を起こす。
ベアークローで布地を裂かないようにと、聖は気をつけながら炎のともるカーテンを掴んだ。
足に踏ん張りをかけながら聖が全身の力でそれを引っ張ると、カーテン地が固定されている鉄のバーがミシミシと上下に揺れる。
バーの上部、何箇所にも渡りしっかりと括られているカーテンがこれで外れる気配はない。
それならばと。
今度は敢えて突き刺すように手を突っ込み、聖は装着したベアークローでしっかりとした布地を引き裂いていく。
聖は瞬く間に、無残な姿と化したカーテンを自身の手に堕とした。

646インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:17 ID:UUiEoiqU0
一箇所にまとめられたことで、炎の移りは今まで以上の速度を持って進行する。
小さな花は、やがて大きな松明のように変化していくだろう。
形が崩れないようにと、聖はまだ火のついていない残っている布地を一箇所に集め、幾重ものしっかりとした固結びを作った。
こうしてできた塊は、まるでブーケのようにも見える。
炎のともる、真っ赤な花束。狙っていた物の完成に、聖の顔にも笑みが浮かぶ。

「せんせっ、駄目っ」

聖が冷水を浴びせられることになるのは、その直後だった。
か細いのは相変わらずなものの、ことみの声には今まで以上の焦りが含まれていただろう。
はっとなる。聖の脳裏に走る予感が、警告音を打ち鳴らした。
すぐ様泳がせた聖の視線、膝をつき、身を乗り出すようにしたことみの形相が一瞬移りこむ。
その先、視線の終末点に彼はいた。
ことみを相手にしていたはずの少年と目が合い、聖はしばしの間彼と静かに見つめ合った。

燃えるカーテンの熱の影響ではない汗が、聖の額をしとどに塗らす。
少年の口元は、緩んでいた。
今ならはっきりと伝わる、その邪悪さ。

息が詰まる。
取れない身動き。
ちりちり、ちりちり。
手にしていた布地部分までついに炎が侵食してきたが、聖は固まったままだった。

少年の手にある、凶器。
矛先は聖へと、再び向けられている。
その姿勢は、既に固定された後だった。
少年がトリガーを引けば、機関銃にセットされた銃弾がたちまち聖を蜂の巣にするだろう。

「それじゃ、さようなら。君は本当につまらなかったよ」

647インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:35 ID:UUiEoiqU0
最期の言葉、間に合わなかったということ。
その非情さに、聖は強く唇をかみ締める。
諦めることなんてできない。
できっこなかった。
聖は強く、少年を見据える。
強く強く。視線で殺せるくらい、じっと少年を刺し続ける。

少年という一つの点に注がれる、二つの線。
聖の眼差しともう一つ、それはことみが送るもの。
少年の追随で、彼女の足元には焦げた穴が複数ある。
そこでぺたんと、ことみは尻餅をついていた。
腰が抜けてしまったのか、彼女の下半身はぴくりとも動かない。
静止したままことみは頭をフルに回転させ、自分の持ち物の中で何かこの場を打開できるものがないか、必死になって考える。

先ほどことみが即興で作成した火炎弾の複製は、材料の関係でもうできない。
床に転がっていた空き瓶も、相沢祐一の手当てで使用したこともありただでさえ残り少なかった消毒用のアルコールも、ことみは全て使い切ってしまっていた。
持ち込んでいた100円ライターは残っているが、それだけでは無用の長物である。

ぎゅっと。掴んだままの十徳ナイフを、ことみはしっかり握りしめた
これでどう応戦できるか。
考える。
考える前に行動を、とも思うが、ことみの足は彼女の言うことを聞こうとしない。

言葉が出ない。
ことみの頭が、真っ白に、なる。

648インターセプト:2010/02/08(月) 23:22:51 ID:UUiEoiqU0
直後、数発鳴った銃声音。
驚きと恐怖でびくっと身構えたことみは、聞きたくないと言った風に頭を抱え込むとそのまま小さく丸くなった。
ふるふると震えることみの様子は、まるで小動物である。
今のことみに、果敢な聖をサポートしていた影はない。
切れかけた緊張の糸が、ことみを絶望の淵に追い込んでいく。

「がっ!」

低い低い呻き声。
襲われた痛みに対するものだろう。
断続的に漏れる洗い息は、ことみの元までしっかり届いている。
その痛ましいこと。
ぎゅっと目を瞑り、ことみは自身を殻の中へと逃がそうとする。
その間も、騒音はずっと続いていた。
駆ける音、逃げる足音。

「このっ!!」

銃声、銃声。
今頭を上げれば、自分にも空洞が作られるのだろうか。
自身が作り上げた想像に身を震わせることみ、しかし彼女の耳はその違和感をしっかりと捕らえていた。

(……?)

恐れる心が一端引く、それはことみの頭がしっかりと働いている証拠になるだろう。
ことみは気づく。
冷静になったところで、ことみの解答はすぐに用意された。

……発砲音は、今も尚ことみの背後から発せられている。

649インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:13 ID:UUiEoiqU0
ことみは少年と距離を取り、広瀬真希や遠野美凪が逃走に用いた校庭に続く窓付近に位置していた。
そんなことみの後ろに、このタイミングで少年が回り込むことは現実的に考え不可能だ。

「立ちなさい! そのまま窓から逃げていいからっ!!」

誰かの叫び声、それと同時に保健室の床ががなりを立てる。
人の気配に顔を上げようとすることみだが、その前に自身の頭を抱えていた腕を強い力で引っ張り上げられた。
丸く固まっていたことみの戒めが解かれる。
開かれたことみの視界、眩しさを感じる中映りこんできたのは、鮮やかに揺れる真っ赤な炎だった。
燃える保健室とは、また別の紅。

「つつ……さすがに腕が痛いわね」

苦言を漏らしながらも、手にする拳銃を下ろそうとは決してしない。
そうしてまた駆け出した少女、向坂環。
もう一つの『赤』が、いつの間にかそこに存在していた。





開け放たれた保健室の窓にかかる白いカーテン、その隙間から見えたもの。
聖やことみが追い詰められていた様は、遠目にいた環にも容易く伝わっていた。
まだ炎が移っていない分、部屋の中とのコントラストは環からすると不気味としか表現できないだろう。

何とか保健室の窓際まで辿り付いた所で、環は迷うことなく引き金に手をかける。
しっかりと足場を固めるが、彼女も拳銃を撃つのは初めての行為だ。
せめて威嚇の意味にでもなってくれればと、環は足を止めている少年を狙い二発の銃弾を撃ち放った。

650インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:28 ID:UUiEoiqU0
「っ!」

反動で震える体を耐えさせながら、環はそれでも見据えた視線の先で自分の功績を確かに知る。
明後日の方向に跳んでいったと思いきや、銃弾の内一発は見事少年に被弾していた。

(初めてにしては、中々のものじゃないっ!)

ボタボタと垂れていく血が、保健室の地面を違う紅に染める。
出血は、少年の肩口からだった。
掠めるといったレベル、骨までは達していないであろうが肉を抉り取られたという痛みに少年の眉は不快気に寄せられている。
これには、さすがの少年も予想をつけられなかったのだろう。

滴る血をそのままにしながら、少年はすぐ様その場を離れようとする。
保健室の中を駆け、的にならないようにする少年の身から零れていく体液を追うように、環の銃弾は開け放たれた保健室の窓から飛ばされてくる。
だが環の射撃の腕は決して、精巧なものではない。
虚をつかれた初動以外、少年が銃弾に触れることももうないだろう。

それでも環が少年のテンポを崩すことには、成功したのだ。
これで少年の目は、再び聖から外れることになる。

聖は諦めていなかった。
全く諦めていなかった。
この瞬間まで、ずっと待っていた。
少年に隙が生まれるこの時を、聖はずっと待ち続けていた。

時間にして、一分にも満たないこのどんでん。
今も尚ちりちりと自身の両手を焼き続けている布束を、聖は形を崩さないようそっと持ち上げた。
そのまま、ゆっくりと振りかぶる。

651インターセプト:2010/02/08(月) 23:23:51 ID:UUiEoiqU0
「……っ」

燃え盛る炎のブーケの熱による発汗、目の痛みが細くする視界。
耐えながら聖は、煙や墨でむせないようにとひっそりと呼吸を止める。
集中。狙いを定めたところで。
目標が足を止めようとするその瞬間、決して逃すことはなく。
聖は渾身の力で、その炎の塊を少年に向け投球した。

「あまり僕を、舐めないでくれるかな」

少年の声。そこに危機感は含まれていない。
環との応戦で疎かになっていたとも思われる少年のチェックだが、決してそんなことはないとでも言いたいのか。
迫り来る聖の炎に対しても、少年は冷静だった。

「ふっ!」

少年は炎の塊を体で受ける前に、自らの手で叩き落とした。
高速の手套は、常人で追うことができないレベルの速さを持つ。
炎の触れた場所に火が当たるが、少年がダメージを受けた様子はない。
絶望の色。ことみの表情。
苛立ちの音。環の舌打ち。
しかし聖は微笑んだ。にやりと意地悪気に口元を歪ませた。
むしろ聖の狙いは、その後だった。

「?! ごほっ、がっ、はぁ……っ」

強い力で地面に叩きつけられたカーテンの中、充満していた細かな煤はこの衝動で一気に撒き散らされることとなる。
もくもくと上がる黒い煙の中、少年は視界を覆うレベルの塵に包まれた。

652インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:14 ID:UUiEoiqU0
「ごっ、ごほ、ごほっ!! ごはぁっ、が、がはっ!!!」

少年の堰は止まらない。
地に落ちた塵も踊り続ける、膝をついた少年の堰がかかっているのだろう。
時間がかかったからこその、絶大な効果がそこにある。
舞い上がる煤は、そのまま聖にとって勝利の紙ふぶきとなった。


          ※     ※     ※


火は、校舎の一部にも引火していた。
このままだと、老朽化した校舎を丸ごと飲み込む可能性も高いだろう。
保健室も薬品は多いが、もしあるとすれば理科関係の教室の方が幾分も危なかった。
この場から、急速に離れなければいけない。
遊具も何もない広いだけの校庭に佇みながら、聖は背後の保健室をそっと振り返った。

「せんせ……」

呼ばれる声で視線を戻そうとした聖の胸に、ボンボンのついた愛らしい二つ結びを揺らしながらことみが飛び込む。
ここに来るまで聖が何度も聞くことになった、ことみが呼ぶ聖自身への呼称。
その言葉に含まれた安心が、聖の心を軽くする。

「よく頑張ったな、ことみ君」

ふるふる。二つ結びが左右に揺れる。
ことみは顔を上げることなく、ぎゅっと白衣を握り締めながら聖にしがみついていた。
押し付けられたぬくもりの小ささに、聖は今は亡き妹の姿を連想させた。
この命を守れてよかったという実感が、聖の内にもじわじわと流れていく。

653インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:31 ID:UUiEoiqU0
「さっさとここから離れましょう。あの男が追いついてくるかもしれないわ」
「そうだな。……君も、助かった。君がいなかったら私は生き延びていられなかったと思う。礼を言おう」

名も知らぬ猫目の少女から飛ばされた愛らしいウインク、茶目っ気溢れる環の動作に聖もようやく肩の荷が降りた気持ちになった。

「先生! ことみっ!!」

遠くから、これもまた聖にとって慣れ親しんだ少女達の声が響く。
目をやれば、必死の形相でこちらに向かってくる少女の姿がすぐさま聖の視界に入った。
走り寄って来るのは広瀬真希、それに遠野美凪といった先に聖が逃がした少女達、その後ろからは遅れながらも相沢祐一がついて来ている。
先頭を駆ける真希はそのまま真っ直ぐ聖へと駆け寄ると、ことみと同じようにしかと彼女にしがみついた。
タックルのような勢いに押されながらも、聖は倒れないようにとしっかり足を踏ん張る。
ここに来てまで疲れた体を酷使しなければいけないことに、聖は思わず苦笑いを漏らした。

「先生……先生……っ」

聖の様子に気づかないのか、真希が半分泣いてでもいるようなか弱いうめき声を零す。
恐らくこの小ささでは、聖本人や、真希の隣でまだ聖に引っ付いているだろうことみにしか聞こえていないだろう。

「……馬鹿。この期に及んで、戻ってくる奴があるか」
「だ、だって! だってだってだってっ!!!!」

呆れたような聖の言葉に、がばっと真希が顔を上げる。
そこで崩れそうになっていた真希の表情は、ぽかんと、呆けたものになった。

「大馬鹿者」

頭に置かれた聖の手の温度、そのまま優しく撫でられ真希は思わず押し黙る。
聖の手つきには、柔らかさが満ちていた。
聖の手は、火傷で爛れ痛々しいことになっている。
しかし聖はそれをあくまで真希に感じさせないよう、気づかせないよう。
細心の注意を払い、真希の髪を撫でていた。

654インターセプト:2010/02/08(月) 23:24:55 ID:UUiEoiqU0
「先生……」
「すまないな。心配をかけた」

真希の気持ちが、聖は素直に嬉しかった。
頼って貰え、その期待を反することなく終えられたことが聖は本当に嬉しく思えた。
見回せば、誰も欠けることなく今またこうして集まることができているという、その事実。
皆聖よりも年下の、幼い少年少女達。
愛くるしい聖の亡き妹と、同じ年代の少年少女達。

聖にとって、守れたというその事実こそが大切なものだった。
一番だった。

全てが微笑ましく、聖はまた苦笑いを浮かべる。
歪ませた頬には、聖にとってありったけの充足感が満ちていた。
守れなかった亡き妹、守ることができた可愛らしい仲間達。

瞳を瞑る。
聖の瞼の裏で、霧島佳乃も微笑んでいた。
聖と一緒に、微笑んでいた。





―― その時がなった発砲音を、誰が予測できただろうか。
 




放たれた機械音は断続的で、仕込まれた弾が尽きるまで終わることはなかった。
聖の白衣が塗れる。白い衣の背面が、真っ赤に染まる。

655インターセプト:2010/02/08(月) 23:25:13 ID:UUiEoiqU0
飛び散った赤は、ことみの顔面にも飛沫となって降りかかる。
聖の体を貫通した弾で怪我を負う寸前、ことみは再び強い力で腕を引かれていた。
先程と同じようにことみの手を引いた環は、そのまま小さなことみの体を抱え込むと転がるようにしてその場から距離を取る。

「真希さんっ」

駄々漏れになる体液は、ことみだけでなく真希のオフホワイトのセーターをも染めてくる。
固まる真希の体に自身を当て、美凪は彼女の体勢を崩した。
聖にしがみついていた真希の体は剥がれ、自然と地に伏せる形になる。

ことみと真希という二人の支えを失い、聖はそのまま長い黒髪を宙に舞わせながら、前のめりに崩れていく。
溢れた少女の聖の血液が、地面にどくどくと流れていく。
それが砂地に染みていく様は、まるで地が聖の生気を吸い取っていくようにも見えた。

「……っ」

何かを耐える息遣いが耳に入り、真希はまだぴくぴくと細かく震えている聖から美凪へと目線を移した。
真希の代わりというわけではないが、流れ弾の被害は美凪に向かっていったことになる。
弾は、美凪の柔らかな右頬を掠っていた。
一筋の傷は美凪の頬に、新たな血を流させる。
真希は見つめる。そんな赤い光景を、無言で見つめる。見つめるだけ。
香る生臭さに、真希の臭覚は既にいかれていた。
それと同時に麻痺する思考回路、銃声が止んでいたことが真希の命を救っていただろう。
今の真希には逃げる気力等、全くの皆無であったのだから。

「だから言ったじゃないか。舐めないでくれって、さ」

地面を弾むMG3のがちゃんという立てられた音に、面々は静かに息を呑む。
元々全身黒ずくめだった彼の相貌は、煤の汚れでさらに隙間ない闇をそこに表現していた。

656インターセプト3:2010/02/08(月) 23:26:54 ID:UUiEoiqU0
「お、前は……」

美凪に駆け寄ろうとしていた、祐一の足が止まる。
彼の正面に佇む男の手には、新たな拳銃が握られていた。
何処かに隠してでもいたのか、先程までは持っていなかったはなかったはずの屈強な盾を手に、男は再び彼等の前へと立ち塞がる。

「死ねばいいよ、全員」

少年の目は、笑っていなかった。




【時間:2日目午前8時05分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ(吹き矢使用済み)、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:環に抱きかかえられている】

霧島聖
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:死亡】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(15/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、予備弾丸12発】
【状況:ことみ、環、祐一、真希、美凪と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:15)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:ことみを抱えている】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:呆然・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:呆然】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:呆然、右頬出血】

(関連・1095)(B−4ルート)

MG3(残り0発)は校庭に放置



タイトルですが「インターセプト3」でお願いします。
失礼しました・・・。

657エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:36:08 ID:xs23czu20
 タイムリミットの前の暇潰しも、いよいよ佳境に入っていた。

 単純に追うだけでは猪は捕まらないと判断したデイビッド・サリンジャーは、
 複数のフロアに予めアハトノイン達を置いておくことで包囲するように猪を追い詰め、
 そして今や猪は中層付近の一フロアで右往左往しているだけだ。

 手こずらせてくれた、とサリンジャーは感想を結ぶ。外からは虫一匹入れないはずの鉄壁の要塞も、
 中はまだ未完成なのだという事実を思い知らされた。改善の余地はまだまだあるということか。
 そういう視点で見ればこの謎の侵入者の存在も決して悪いことではない。
 とはいえ、篁総帥は何を考えて動物を支給品にしようと考えたのか。
 かつての主の理解の範疇を超えた奇行に辟易しつつ、サリンジャーは今後の予定を組み立てることに集中することにした。

 お遊びはここまでだ。正午まで一時間と少し。そろそろ戦闘用アハトノイン達をスタンバイさせておく必要がある。

 唯一負傷していた02も修理が完了し、問題なく戦える状態だ。サリンジャーは下層部の士官室……
 今はアハトノインのために割り当てた部屋へのモニターを眺める。

 彫像のようにじっとして動かぬアハトノイン達の数は五体。
 そのうち、護衛用としてサリンジャーの近くに控えている01を除いているので、
 ここで稼動している戦闘用は実際には六体いることになる。少ない数かもしれなかったが、元々人間以上の実力を持つ上、
 装備も万全、耐久力は比較にもならず、加えて戦闘用データを02から全員にフィードバックしているので、
 もう不覚はないと考えても良かった。たかだか十五人でしかない生き残りを殲滅することなど容易いことだ。

 この分だと『鎧』を持ち出す必要もなさそうだと断じたサリンジャーは、次に参加者達の情勢を観察する。
 数時間前まで一箇所に集まっていた参加者達は、現在バラバラに散開し、島のあちこちに分かれている。
 おそらく戦力を分散させようという試みなのだろう。降伏する意思も殺し合い従おうという意思もないらしい。
 全く反応がないのもそれはそれでつまらないものだったが、目論見どおりではあるから気にすることもなかった。
 集団戦のデータが取れないのは困り物だったが、データが取れるだけでも良しとしなければならない。
 何しろこれから本格的にアハトノイン達の生産に入らなければならないからだ。
 この島から宣戦布告をするために、世界の覇者たるための下積みももう彼女らの生産を残すのみだ。

658エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:00 ID:xs23czu20
 既にサリンジャーの手元には最強の盾も矛も要塞もある。
 どんな軍隊でさえ一蹴し、どんな兵器でさえ無効化してしまう、篁の技術を結集した発明の数々だ。
 サリンジャーは早く使いたくて仕方がなかった。これらの兵器にはサリンジャーが関わっていないものも多数ある。
 自分の論理を否定した者達が一体どんなに唖然とした顔になるかと思うとサリンジャーの愉悦は収まらなかった。

 まず手始めにタンカーの一隻でも沈めてやるか。それとも直接アメリカでも攻撃するか。
 全てが自分の掌の中という気分は悪いものではなかった。
 あるかも分からない世界を侵略するという計画よりもよほど面白いというのに。

「まあ、総帥も勝ち続けてきた人間でしたからね……私のような、負けしか知らなかった人間の気持ちなんて分からない」

 どんなに優秀でも、所詮はプログラマー。所詮は土台作りの役目しか担えない男。
 篁の傘下に入ってからも常々言われ続けた罵詈雑言に、サリンジャーはひたすら耐えてきた。
 いつか必ず足元に這い蹲らせてやる。それだけを考え、謙り、時には媚びさえして、頭を下げたくもない人間に頭を下げてきた。
 戦うことしか知らない猿頭の醍醐にも、金持ちというだけで踏ん反り返る大企業の重役達にも。

「そいつらに核の一発でも撃ちこんでみるのも面白いかもしれませんねぇ……」

 流石にこれは冗談だったが、それだけのことを易々と行えるだけの力が、サリンジャーの手の内にあった。
 野望を実現出来る。その前に、目の前の塵をさっさと払ってしまう必要があった。

 リサ=ヴィクセン。一応同僚ではあったが、職場の違いからか、それとも彼女が新参であったからか殆ど会話を交わしたこともない。
 だが彼女の所属についてはサリンジャーも聞き及んでいる。『ID13』。アメリカ軍の誇る特殊部隊、そのエース。
 彼女が参加した作戦は十割成功しているらしい。何の経緯があって篁に仕えていたかは分からなかったが、
 彼女の仕事ぶりを聞き、サリンジャーは密かに感心していたものだった。

 冷静沈着な判断と、時には味方でさえ欺く用意周到な作戦。そして、誰も寄せ付けぬ鋭い雰囲気。
 地獄の雌狐の名に相応しく、一人でかなりの数の任務を成功させている事実は、サリンジャーにさえ良い印象を抱かせたのだった。
 あれも始末しなければならないと思うと少々勿体無い気分になったが、仕方がない。
 敵であるからには速やかに排除する必要があった。ナイフの刃先を突きつけられているというのは体に悪い。
 アハトノインとどちらが上か、ということにも興味があったので、是が非でも彼女とは一戦を交えて貰わねばならなかった。
 もっとも、勝つのは自分の兵士だろうが――

659エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:18 ID:xs23czu20
 そこまでサリンジャーが思惟を巡らせた、その時だった。

「な……!?」

 サリンジャーが驚きの声を上げる。思わず立ち上がった拍子に椅子が倒れ、机の上のコーヒーカップが倒れた。
 呆気に取られるサリンジャーの視線の向こうでは、参加者の現在位置を示す光点がてんでバラバラなところに現れては消え、
 信号のような不自然な明滅を繰り返していたのだ。
 いやそれどころか、現在の生存者数、死亡者数すらも滅茶苦茶な値を示し、生存判定もおかしなことになっていた。
 不調、そんなものではない。慌てて近くにいる作業用アハトノインの肩を掴み、「何が起こった!」と怒鳴る。

「何者かに参加者管理用のコンピュータを荒らされている模様です」
「なに……?」

 ハッキング。即座にその一語が持ち上がり、横からパソコンの画面を覗き見る。
 ザ・サードマン。その文字がディスプレイ上にでかでかと浮かび上がり、
 悪魔をモデルにしたようなキャラが奇声を上げながら暴れまわっている。
 いかにも古臭い手段に呆然とする一方で、どこから侵入されたという疑問が浮かぶ。

 セキュリティに穴があるわけがない。そもそも接続できるような環境があるわけがない。
 内部の裏切り? いや物理的に裏切れるはずがないのだ。何故なら、ここにいる人間は自分ひとりしかいないのだから。
 従順なロボットが裏切れるわけがない。だが事実としてハッキングはされている。しかも趣味の悪い悪戯プログラムつきで。

「プログラマーの心当たりはある……あのガキか……だが、どうやって……!」

 歯軋りするサリンジャーの耳に、今度は甲高い警告音が響き渡った。
 侵入者の存在を知らせる、警告アラームだった。

660エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:38 ID:xs23czu20
『報告。報告。ゲート2、10、3より侵入者の模様です。数は不明』

「馬鹿な、どういうことだ!」

 監視モニターに振り返ってみたが、そこには何も映っていない。
 まさかと思う間に「監視プログラムもやられた模様です」という無遠慮な声が聞こえた。
 アハトノインの無機質な声に苛立ちを覚える一方、まずはシステムを復旧させ、
 迎撃に当たらせるべきだと指揮官の頭で考えたサリンジャーは、戦闘用アハトノインの待機している部屋にマイクで通達する。

「出撃だ! 侵入者の迎撃に当たれ! 私とアハトノイン以外皆殺しにして構わん!」

 命令を受けたアハトノイン達が一斉に立ち上がり駆け出してゆくのを目の端で捉えながら、
 続けてパソコンの前で固まっているアハトノイン達に「システムの復旧だっ! 急げノロマ共!」と怒声を飛ばす。

「ゲート2、10、3……?」

 あまりにも急すぎる事態の変転に頭が混乱しながらも、サリンジャーは分析を続ける。
 一斉に侵入されたと見て間違いない。しかも、こちらのセキュリティを何らかの手段を用いて破った上でだ。
 雌狐め。主犯の存在を即座に思い浮かべたサリンジャーは力任せにデスクを叩き付けた。

 しかもゲート2、3、10といえば参加者達が向かった方向と一致する。つまり、あの分散は最初から計算ずくというわけだ。
 こちらが準備を整えている間に奇襲を仕掛けてきたのだ。有り得ないという感想が浮かんだが、現実を否定していても仕方がない。
 戦闘用アハトノインが会敵するまでは少し時間がかかる。高天原の内部深くに潜り込まれてしまうのは恐らく確定だろう。
 要塞内部には精密機器も多いために下手に銃火器が使えない。――しかも、それはこちらの論理であり、
 破壊者たる向こう側にはそんなものは関係ない。島ごと沈められる危険性は皆無とはいえ、これでは……

「……しまった!」

661エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:37:56 ID:xs23czu20
 サリンジャーはもう誰もいなくなったアハトノインの待機室に目を回す。
 高天原を傷つけないために、銃火器の使用を禁じる命令を出したままにしておいたことを忘れていた。
 白兵戦しか挑めない状況と、好き放題撃てる相手の状況とでは、いくらアハトノインでも分が悪すぎる。
 命令の変更を伝えようと、サリンジャーはマイクの送信ボタンに手を掛けた。

「駄目です。通信も不可能な状況です。現在復旧していますが、まだ時間が」
「それじゃ遅いんだよ、この役立たずがっ!」

 割って入った声にカッとなったサリンジャーは思わずアハトノインの顔を殴りつけたが、
 アハトノインは何事もなかったかのようにムクリと起き上がり、また淡々と作業を始めた。
 何とも言えぬ不快な気分になったサリンジャーは、壁を思い切り蹴りつけた。

 世界への宣戦布告を日単位で変更される羽目になった、サリンジャーの憤りの表れだった。
 銃撃が許されているのは、上部のエレベーターからだ。
 せめてそこまで辿り着いてくれるように、サリンジャーは爪を噛んで祈るしかなかった。

「……この私が、神頼みとはね」

     *     *     *

「上手くはいったみたいだな。さぁて、この首輪ともようやくお別れってわけだ。アディオスアミーゴ」
「ぴこぴこ」

 ポテトの相も変わらず喜色の悪い踊りを横目にしつつ、俺はゆめみが首輪を外してくれるのを待った。
 藤田、姫百合の二人はどことなく緊張した面持ちで俺を見守っている。
 まあ、失敗したら爆発するかもしれないってんだからそりゃそうだわな。
 仮に失敗したとしても、このHDDの中にあるワームが敵方のコンピュータを引っ掻き回している頃合いだろうから、
 しばらくは爆破させられる心配もないんだが。

662エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:13 ID:xs23czu20
 全く大したプログラムだ。プログラミングの知識は聞きかじった程度でしかないんだが、こんなに自己増殖が早いとは。
 しかもそれを一日も経たずに組み上げたってんだからこいつの姉……だったか妹だったかは凄いもんだ。
 ま、和田って奴の情報がなければこうも簡単に侵入することも出来なかったんだがな。
 多分結構前のデータのはずなのに、更新してなかったのが間抜けもいいところだ。

 和田の言う通りアクセスしただけでするすると入れたんだからな。敵も想定外だったのか、見くびっていたのか。
 あんな高慢ちきな放送するような敵さんだ。きっと油断してたに違いない。ざまあみろ。
 そうこうしてる間に首輪は外れたらしく、見ていた二人も首輪を外し始める。

「ぴこ」

 首輪をくわえたポテトが俺にほれ、と差し出す。
 これのせいで散々苦労させられたし、酷い目にも遭った。
 郁乃が死ぬこともなかっただろうし、沢渡が死ぬこともなかっただろう。
 クソッタレめ。俺は乱暴に首輪を受け取ると、思いっきり窓の外へと投げ捨てた。
 思ったより軽かった首輪は軽い放物線を描いて消えていった。
 本当なら海でも投げ捨てたかったが、この際文句は言わん。

「こっちも終わったぜ」
「準備オーケイや」

 やる気まんまんらしく、装備まできっちり整えた二人が威勢のいい声をかけてくる。
 というより、俺達が一番最後だから早く合流したくて仕方がないのだろう。
 他のメンバーは既に侵入を果たしているはずだ。当然首輪も外して。ドンパチやっているかもしれない。
 破壊工作班、と銘打たれた俺達は専ら重装備で固め、しんがりとしての役目も引き受けることになった。

 ちなみに他の三つのチームはそれぞれ爆弾設置、中枢部制圧、通信施設の確保という役割を任されている。
 とは言ってもあくまで『指針』であるだけで、あくまで脱出が第一らしいが。
 またワームを送り込む過程でどうしてもネットに繋がなければならないため、ここに残っていたというわけだ。
 主な役割は敵方の兵器類の破壊。とはいってもこの装備では破壊できるかどうかも怪しいと俺は睨んでいるので、
 実際のところは小火器類を壊すくらいのものだろう。

663エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:32 ID:xs23czu20
「まあ慌てるな。慌てる古事記は読者が少ないって言うぞ」
「……おっさん、わざと言ってねえか?」

 おっさん言うな。折原のことを思い出して、少し言葉が詰まってしまった。
 タイミングを逃してしまったのでこれ以上ボケることは出来ないと思った俺は何事もなかったかのように話を進める。

「2、3、10の入り口から侵入できるみたいだが……どこを選ぶ?」

 ちなみに、ここから侵入できると教えてくれたのも和田の情報である。まさしく救いの神ってわけだ。
 入り口は十箇所あるとのことだったが、学校の位置関係上から最も近いこの三ルートが選ばれた。

「決まってるやろ。一番近い10や」
「ほう、その理由は」
「なんでって……そりゃ、その方が早く追いつけるから」
「悪くない答えだ。及第点だな」
「じゃ、じゃあおじさんの意見はなんやの」

 ふふん、と俺は鼻を鳴らす。まーた始まったか、とポテトが溜息をつき、ゆめみがクスッと笑ったのが目に付いたが、
 最後なんだ。大いに笑って見逃してくれ。こうやって大人面してられるのも最後なんだからな。大事なことなので二回言ったぞ。

「武器庫のIDカードには10って書いてあったそうだ。つまり、武器庫が近いってことだ」
「……なるほど。武器庫に近い分、破壊工作もしやすいってことか」
「ザッツライトだ藤田」
「なんや、結局10番ってことやん」
「……まあそうなんだが」
「意見は一致しているようですし、良いことだと思います」

 流石ゆめみ。きっちりフォローしてくれるぜ。
 ロボットにフォローされるのも悲しい話だが、この島では一番古い付き合いになってしまった間柄だからな。
 それなりの信頼ができてるってもんだ。

664エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:38:51 ID:xs23czu20
「ぴこー」

 はいはい。お前が一番の相棒ですよっと。だから服の裾引っ張んじゃねえよ。ラーメンみたいに伸びるだろうが。
 そう、郁乃も、沢渡も、ささらも七海も折原もいなくなってしまい、寺から一緒にいたメンバーも俺達二人だけだ。
 だから、ってわけじゃない。あいつらが死んだから俺は生きなきゃならないってのはこれっぽっちも思ってやしない。

 ただ――思ったのさ。好き勝手できる程度の人間にはなってやるかってな。
 生きていた頃のあいつらの期待に少しだけ応えるくらいはしてやろうって決めたんだ。
 下らないって昔なら思っただろうな。でも今は違う。違ったって、いい。そうだろ?

「行くか」
「はい」
「ああ」
「うん」
「ぴこ」

 悪くないって、本気で思えているなら。

「さぁて、恨みはらさでおくべきか。思いっきり暴れてやる!」

     *     *     *

 ごうんごうん、と低く唸る音と薄暗い廊下、そして網の目のように四方に広がるパイプは、
 古河渚に気味の悪い生物の内部に潜り込んでいる様を連想させた。
 自身を縛っていた首輪は既になく、ここまで誰にも遭遇することなく駆け抜けてくることができた。
 順調といえば順調、だが順調に行き過ぎていることがかえって渚に不安を抱かせる。
 静かなのだ。誰かが追ってくる気配も、待ち構えている気配もない。
 それは渚の前方に控えているルーシー・マリア・ミソラも那須宗一も感じているようだった。

665エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:08 ID:xs23czu20
「誰もいないな……」
「いいことじゃないか。リサも言ってたろ、戦わないに越したことはないって」

 ルーシーの呟きに軽い調子で答えた宗一も、警戒の度合いは強めている。
 廊下の曲がり角に差し掛かると、まず宗一が先んじて進み、
 覗き込んで安全を確認した後に自分達を進ませるという有様だ。
 渚でさえ嫌な感じがするくらいなのだから、宗一はもっと強く感じているのだろう、
 と様子を窺っている宗一の姿を見ながら思う。

 自然とグロック19を持つ手に力が入った。戦わないに越したことはない。確かにそうだ。
 しかし建物の内部に強引に侵入している以上、迎撃の手がないはずがない。
 異物が入れば、自己防衛機能で一斉に排除しにかかる。ここを人体の構造に例えればあって当然だ。
 だからこそ、いつ何が起こっても対応できるように宗一は身構えている。油断は即、死に繋がる。

「よしいいぞ、行こう」

 行けると判断した宗一が手招きしてくる。ルーシーがまず進み、宗一の背後についたところで渚も動き出した。
 三人で行動するときの基本陣形とも言うべきものだった。前衛を宗一が、中座をルーシーが、そして最後尾に渚が位置する。
 単純に戦闘力の順で並べたものだが、一番強い人間に先を任せるという発想だから悪くない。
 宗一の動作も指示も堂に入ったもので、流石にエージェントの貫禄を漂わせている。
 緊張の中にも、宗一がいれば大丈夫だと思えるのは、恋人だから……だけというわけではない、と渚は思いたかった。

「しかし、だ」

 進みながら、ルーシーが珍しく自分から雑談の口を開いてきた。

「戦うのが人間相手じゃなくて良かったというべきなのかな。ロボットなら、まだ大丈夫だ」
「……わたしもです。壊すのはちょっとかわいそうだなって思いましたけど、それでも、もう人が人を殺すのは」

 見たくないものだ。言う前に、ルーシーは頷いてくれた。
 無論人間相手でも、銃を向けなければならない時があることを渚は知っている。
 人が殺せたって何もいいことはない。そうであるからこそ、そうさせないために、
 力の使い方を知って考えるのが自分達の役目だ。

666エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:25 ID:xs23czu20
 天沢郁未に銃口を向けたとき、渚には本気で撃てる気持ちがあった。
 力の倫理を鎮めるための力。血塗られた道であっても、その先が善いものになると信じられるから向けられる力。
 最終的に郁未が理解していたかどうかは分からない。だが渚は、確かな声を聞いた。

 やってみろ。出来なきゃ殺すわよ。

 どこか乱暴で突き放すようで、それでも優しさを隠そうともしない声は本心からのものなのだと、
 渚は何の疑いもなく信じることができた。

「できるなら、あのサリンジャーって奴はふん縛って連行してやりたいぜ。
 でも、ま、それは後でもいい。今必要なのはここから逃げ出すことだ」
「ああ、そうだな……裁くのは、私達じゃない」

 自分達を殺し合いに巻き込み、大切な人を幾度となく奪ってきた張本人。
 ここにいる誰もが、少なからぬ恨みを抱いているはずだった。
 渚でさえ、どうしてこんなことをしたのか問い質したかった。
 けれども誠実な答えが返ってくるはずのないことは想像に難くない。
 手前勝手な言葉しか期待できないことは、幾度となく繰り返されてきた放送の中身からも分かる。
 だから謝罪など求めない。代わりに自分は関わらない。しかるべき措置さえ受ければ渚にはそれでよかった。
 考えるべきことはいかに復讐するかではなく、どんな未来を生きるかということだったから……

「にしても随分長い廊下だぜ。ホントにここ建物なのかよ?」
「隊長がそれでどうする」
「俺はセイギブラックだ」
「レッドはいないぞ。ちなみに私はブルーだ」
「わたしは……ホ、ホワイトで」

667エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:42 ID:xs23czu20
 ばっ、とルーシーと宗一が振り向いた。敵かと思って渚もグロックを構えて振り向いてみたが誰もいない。
 なぜ二人が凄まじい勢いでこちらに向き直ったのか分からず、「どうしたんですか」と尋ねてみると、
 二人は大真面目な調子で言った。

「「いや、まさかノってくると思わなかった」」
「わ、わたしだって冗談くらい分かりますっ!」
「いや、いや。俺は嬉しいぞ。ユーモアのある彼女で俺は幸せだ」

 宗一はなぜか感動に咽び泣いている。宗一の影響が少しはあるのは否定しなかったが……
 そしてさりげなく惚気たことにルーシーがふっと溜息をついていた。

「起きたとたん膝枕だったな……一体何があったのかと」
「俺の彼女は気前がいいんだ。やさしくしてくれたぞ」
「誤解を招くような言い方しないでくださいっ!」

 顔を真っ赤にして否定するが、宗一とルーシーはゲラゲラ笑ったままだった。
 敵地の真ん中でこんなことをしていていいはずがないのだが、
 宗一が率先してからかってくるものだからどうしようもない。

「やれやれ。ご馳走様」
「どういたしまして。なんならまた食べる?」
「しばらくいい。お腹一杯だ」
「そりゃ残念だ」
「……宗一さん」

 流石に気分のいいものではなく、少し低い声で言ってみると、またぎょっとした調子で振り向かれた。
 敵……ではなさそうだった。

668エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:39:59 ID:xs23czu20
「い、いや、ごめん、からかい過ぎた。……怒った?」
「……少し」
「悪かった。この通り」
「もういいです。帰ったら、で」

 手を合わせる宗一をこれ以上引っ張りまわす気もなかったので、最低限の言葉で応じてみせると、
 聡い宗一は意図に気付いてくれたらしく、「ごめんな」ともう一度言ってまた前衛に戻っていった。
 ふぅ、と苦笑をひとつ吐き出した渚は、こういうことをすぐ悟ってくれるような人だから好きにもなったのだろう、と思った。

「……お腹一杯だと言ったんだがな」

 ぼそりと呟いたルーシーもまた聡かった。

     *     *     *

 目の前にあったのは、巨大な空洞だった。
 どこまで続いているのかと思わせる程の、底無しの暗闇。
 時折ひゅうひゅうと吹く風の音は、化物の唸り声のようにさえ感じられる。
 誰一人として戻れない地獄へと通ずる穴……そんな感想を、芳野祐介は抱いた。

「これがコンソール……かな? ねー誰か英語読める?」

 暗闇を眺めていた芳野の横では、朝霧麻亜子が伊吹風子と共に何かを弄繰り回している。
 はいはい、と藤林杏が離れ、二人の元へと駆け寄る。

 あいつらは確か藤林より年上じゃなかったのかと思わないでもなかったが、
 年齢と学力が比例するわけでもないと思いなおし、芳野は再び暗闇へと目を戻した。
 長い間事故により眠っていた風子はともかく、麻亜子はただ単に勉強していないだけなのだろう。
 もっともそれは自分についても同様だったのでそれをとやかく言う資格はないし、言う気もなかった。

669エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:40:15 ID:xs23czu20
「そういや、歌作ってた時も英語が正しいかなんて全然考えてなかったな」

 己の気分のまま、情動のままに作っていた英語が正しいわけがなく、今にして思えば恥ずかしいものだと芳野は思ったが、
 それでも売れていたのは内容が正しいかどうかなんて関係なく、それ以上に人を惹きつけるなにかがあったのだろう。
 もうそれは分からなくなってしまったし、持ち合わせているはずもなかったが……
 けれども、代わりに手に入れたものだってある。
 自覚しているのならよしということにしておこう、と結論した芳野は暗闇から目を放し、顔を上げた。

「エレベーターのコンソールみたいね……これが上昇で、これが下降かな?」
「でもエレベーターなんてどこにあるんですか?」
「はっはっは。洞察が足りんぞチビ助よ。見よ、あの大穴を」
「チビ助言わないで下さい。で、あれがどうしたんです?」
「あれがエレベーターさね」
「……バカですか? あ、バカにしか見えないエレベーターなんですね。分かります」
「おいチビ助さらりとひどくディスったな! だーかーら貴様はバカチンなのだっ!」
「あんな大きなエレベーターあるわけないじゃないですか! 風子にだって分かりますっ」
「ドアホー! だったらあんな大きな穴は何のためにあるんだよ!」
「アホアホ言わないで下さい! アホが移りますっ」
「はいはいはい、喧嘩はそこまでよ」

 敵地だというのに奇声を張り上げて唸っている二人を杏が頭を掴んで押し留める。
 全く誰が年上なのだか分からなかった。
 とはいえ、納得させられるだけの言葉を杏も持ち合わせていないらしく、苦笑顔で助けを求めてくる。
 芳野はやれやれと首を振って、「搬送エレベータだ」と二人に言った。

「巨大な物資を運ぶために空洞状の構造にしたエレベータだよ。恐らく、今は下に止めてあるんだろう」
「そうなんですか?」
「あのー、なんであっちの言葉は信用するのかしら」
「あんたは普段から胡散臭いのよ」
「う、胡散臭い!?」

670エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:42:29 ID:xs23czu20
 大仰な動作で麻亜子が驚く。自覚していなかったらしい。
 あれだけ奇天烈な言動を繰り返しているのに……
 こいつは分からん、と芳野は内心で溜息をついた。

「……とにかく、まずはこのエレベータを持ってくるぞ。上昇させてくれ」
「了解しましたっ。ポチッとです」

 風子が言うやいなや、空洞の底の方から低く唸る音が聞こえてきた。エレベータが上昇を始めたらしかった。
 まず、上がってくるまでにそれなりの時間を要することになる。それまでは待機だが、警戒はしておく必要はあった。
 コンソール前でたむろしている三人に近づきつつ、「お前ら、油断するんじゃないぞ」と声を飛ばす。

「どこから敵が来るか分からないんだからな」
「でもさ、ここまで一本道だった気がするんだけど」
「……まあ、それはそうなんだが」

 麻亜子の意外と冷静な突っ込みに、芳野は声を詰まらせた。
 ただのアホではないのが麻亜子なのだ。

「今アホとか思ったっしょ」
「いや」

 時々勘も鋭いから困ったものだった。

「へんっ、どーせあちきは期末試験の追試の追試の追試もダメだったからお情けで単位を貰うようなダメ女さ」
「それはダメとしか言いようがないような……」
「そこは慰めてよ!? それが人情だろそーだろー!?」
「アホです」
「がーっ! チビ助だけにゃ言われたくねー!」

671エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:42:48 ID:xs23czu20
 もう止める気力も起きなかった。好きにしてくれ、とさえ思う。
 本当に前に一度交戦した人物なのかとさえ疑いたくなってきた。
 そうこうしているうちにエレベータが上がってきて、広場とさえ見紛うほどの広い空間が目の前に出てきた。
 これだけ大きいとなると、相当数の荷物を運べる。ざっと見た限りでは縦横それぞれ20mはあるだろうか。

「……何を運ぶのかしら」

 あまりにも巨大すぎる床に、杏がそう言うのも当然というものだった。
 仕事柄搬送用エレベータを見ることも多かった芳野も、これだけ巨大なものは見たこともない。

「重機か何かでも運ぶんじゃない? ここ滅茶苦茶広そうだし」
「ここからさらに下に行くんですよね……地下何階まであるんでしょう?」

 それぞれが好き勝手なことを言っていたが、巨大なエレベータに対する畏怖らしきものが感じられるのは気のせいではないだろう。
 これだけのものを建造できる敵に対しての戦慄が混じっているといってもいい。
 自分達が喧嘩を売ろうとしている相手は、それだけのものなのだ。

「行くぞ」

 尻込みしていても始まらないと思い、簡潔に一言だけ告げて進む。
 もう既に、ここは敵の胃袋の中なのだ。
 芳野に続いて麻亜子がエレベータの床を踏み、その後に風子と杏が続いた。
 エレベータの端に小さい箱型の制御装置があり、それを使って下降・上昇させるようだった。
 下降ボタンしか明るくなっていないことから、降りることしかできないのだろう。

 ボタンを押すとガクンと一瞬揺れた後、エレベータが下がってゆくのが分かった。
 それまでいた通路がどんどん視線の上へと上がってゆく。
 またしばらくは待機の時間と見てよさそうだった。

「爆弾はちゃんとあるな」
「ええ、ここにありますよ」

672エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:05 ID:xs23czu20
 流石に置き忘れてくるほどの馬鹿はここにはいない。
 杏の隣にはかなりの範囲を吹き飛ばせるらしい爆弾が台車の上に積まれている。
 ニトログリセリンとは違い、微細な刺激で爆発するほどのものではないが、それでもデリケートな代物であるのには変わりない。

「落とすなよ」
「分かってますって」

 念を押した芳野に、杏は自信たっぷりに答えた。
 なんだかんだ言いながら、逐一爆弾の様子を見てくれていたのは杏だった。
 意外と目配りが利いて、細かいところまで見てくれている。優秀な人材だ。
 本人は色々と自信がなさげだが、この目の速さは評価に値するものがある。
 寧ろ杏がいてくれるからこそ、芳野は安心して前を向いていられると言ってもよかった。
 その意味ではこの人事は上手いものだと芳野はリサ=ヴィクセンに感謝する。

「そういえば杏さん、怪我は大丈夫なんですか?」
「まだ痛いんなら代わったげるよ」
「あ、うん。もう大丈夫。何とかなると思う」

 ……目配りが利くのは、杏だけではなかった。
 一見喧しいだけのように見えて、実は色々な方向でバランスは取れているのかもしれない。
 全く大したものだと芳野はリサの手腕に驚嘆するほかなかった。

 そう、話をしているときでも全員がほぼ中央に集まり、襲撃にも備えていることがメンバーの優秀さの証拠だ。
 いや優秀でない人物などあの十五人の中にはいないのだろう。
 全員が修羅場を乗り越え、何かを背負い、悩んで、苦しんで、それでも前を向こうと決意した人ばかりだ。
 最終的な目的は違う部分もあるのだろうが、それでも『誰も死なせたくない』という部分では同じなのかもしれなかった。

「にしても、長いよね、このエレベーター」
「ゆっくりしてるだけなのかもしれないがな」

673エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:24 ID:xs23czu20
 壁面を見る限りでは、エレベータの移動速度は極めて遅い。
 一刻も早く進んで、敵の指令中枢部を叩かなければならない。
 いざというときの爆弾もあるにはあるが、基本的に破壊力が強すぎて滅多なところで使えるものではない。
 最低でも、このエレベータから降りたところで、というのが条件だろう。
 爆破するポイントとしては、敵の戦力が集まっているところが望ましいのだが……

 そんな都合のいい場所があるのだろうかと芳野が考えていると、不意に袖を引っ張られる。
 なんだと思って見てみると、眉根を険にした風子が上を指差している。

「何かいるような気がします」
「何か……?」

 目を凝らしてみるが、上も薄暗くて判然としない。
 さりとて気のせいではないのかと無碍にするのも躊躇われ、じっと覗き込んでみる。

「っ!」

 確かに見えた。壁際の『何か』が動いた。
 反射的に爆弾の乗った台車を蹴り飛ばし、「散れっ!」と叫ぶ。
 爆弾が爆発するかもしれないという考えは、直後、台車のあった地点が火花を散らしたことによって即座に吹き飛んだ。
 後一歩遅ければ誘爆して骨ごと残さず炭になっていた。ゾッとした気持ちを感じる一方で、最初に対応したのは麻亜子だった。

 素早くイングラムを取り出した彼女は上方に向かってフルオートで射撃する。
 だがその行動すら遅かったらしい。既に中空を舞っていた敵はこのエレベータに向かって飛び降りていた。
 ドスン、という人間の体躯には見合わない音と共に着地した敵は――プラチナブロンドを纏った、漆黒の修道女だった。
 芳野は知っている。彼女が誰であるのかを。
 ゆっくりと、緩慢な動作で顔を上げた彼女の瞳は、あの時と寸分も違わない無機質な工学樹脂の色だった。

「あなたを、赦しましょう」

 美しい女性の声で言い、女が、『アハトノイン』がP−90の銃口を持ち上げた。

674エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:43:45 ID:xs23czu20
     *     *     *

「コンテナだらけなの」

 規則正しく詰まれたコンテナの群れを見ながら、ウォプタルに乗った一ノ瀬ことみが感心したように息を吐いた。
 このコンテナの中にあるのは恐らく武器弾薬か、はたまた生活必需品の数々か。
 或いは殺し合いの運営に必要なものなのかもしれない。
 回収出来そうもない以上、詮索しても無意味だと考えたリサ=ヴィクセンは、「先を急ぎましょう」と伝えて前に進む。

 自分達は先鋒の役割を務めている。装備は他のメンバーに比べれば多少軽装だけれども、それなりのものを与えられている。
 リサ自身はM4カービンにベレッタM92、それとトンファーを持っている。
 怪我の影響がまだ残っていることみはウォプタルに乗せて移動させることにした。
 装備品はウォプタルにつけているため、苦にはなっていないはずである。

 この正体不明の動物は荷物の運搬も行えるほど力があるらしく、平気そうな顔をしてのしのしと歩いている。
 篁の研究所で生み出された新種の動物なのだろうか。
 どんなことでもやってのける篁財閥のことだ、それくらいはあってもおかしくはなかった。

「にしても、ただっ広いところだな……一体ここで何しようってんだ、あいつらは」

 呆れたようにきょろきょろと周りを見回しながら歩いているのは国崎往人だった。
 怪我の度合い、筋骨隆々とした外見から自分のチームに選抜している。実際、そこそこ重量のあるはずのP−90、
 SPAS12、コルトガバメントカスタム、ツェリスカ、サバイバルナイフなどを持ち歩いているにも関わらず飄々としている。
 本人に言わせれば「荷物持ちは慣れた」とのことらしい。
 中々頼もしい人材だと思いつつ「殺し合いの運営でしょう?」と返答してみる。

「んなもん、ちょっとした機械とかを使うにしてもここまで広くはないだろ」
「……まるで、要塞」

675エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:05 ID:xs23czu20
 往人の後を引き取って続けたのは川澄舞だった。
 往人の同行者、ということで相性を考慮してメンバーに入れた。本人曰く「一応戦える」とのことらしい。
 実際どれだけの実力があるのかはいまいち不明瞭だったが、日本刀を携えて歩き回る様はどこか堂に入っていて、
 決して素人などではないことをリサに感じさせた。
 近接武器だけに拠っているのが少し不安と言えば不安だったが、舞自身が銃を持つのを嫌ったので彼女の好きにさせることにした。
 無理に苦手な武器を持たせたところで意味はないと考えたからだった。

 適材適所。銃器に関しては、少なくとも自分というプロフェッショナルがいるのだからいくらでもフォローは行える。
 とはいえ、限りはある。弾薬もそれほど豊富にあるわけではないのだ。
 それゆえ、なるべくならば戦闘に入りたくないというのが全員共通の見解だった。

「要塞、ね。確かにそうかもしれない」
「と、いいますと?」

 ことみが合いの手を打ってくれる。

「この島、実は人工島なのよ」
「初耳だぞ」
「……」

 舞は薄々感づいていたらしい。不自然極まりない部分はいくらでもあった。
 和田の情報、自身の情報、それらから推理したことをリサは続ける。

「地図に載っていない島。色々と詰め込まれたコンテナの数々。
 正体不明の敵ロボット。ここが軍事要塞だとしても何もおかしくはないわ」
「ロボット、ってのは高槻が言ってたあれか。あれは敵の尖兵だと?」
「そうね。あれがここを守る用心棒ってことになる」
「……じゃあ、なんで私達は殺し合いをさせられていたの?」
「さあね……でも、一番最後の放送で主催の意図が変わったのは明らかだった。殺し合いをしろ、が参加者を全滅させる、だもの」
「殺し合いはただの余興だった。そんな可能性もあるの」
「ふざけた話だな……」
「はっきりしていることが一つあるわ。何にしても、ここの連中は命を重んじるような人間じゃない」

676エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:21 ID:xs23czu20
 それは全員が感じていたようで、怒りを孕んだ気配が滲み出るのが伝わった。
 理不尽を受け止めはしても、決して許したわけではない。リサとて同じことだった。

「……でも、まずはここから生きて出ること。それが、一番だと思う」

 抑える風ではなく、今できる最善のこととしてその言葉を口にした舞に、全員が無言で頷いた。
 生きることを何よりも優先しなければならないのが今の自分達であったし、そう望んだのも自分達だ。
 殺し合いの中でも様々な人と出会い、言葉を交わし、新しいなにかを見つけた者もいれば、失った者もいる。
 今まであったもの全てを砕かれてしまった者もいる。

 だが、それでもバラバラになった欠片を拾い集め、また自分の足で歩くことを決めたのが自分達なのだろう。
 要は自分のことを優先しているだけなのでもあるが……それで、良かった。
 言い訳して、間違った行為を続けるよりは。

「ま、その話はこれくらいにして、だ。このコンテナの山はどこまで続くんだ」

 これ以上結論の見えきった話を続けるのは無意味だと思ったのか、往人が別の話題を振ってくる。

「とりあえず、真っ直ぐには進んでいるけど」
「適当なのか」

 その通りだった。が、地図も何もないのだから仕方がない。
 壁沿いにでも行けばよかったかと今さらながらに思ったが、そこまで悠長にしている暇もない。

「でも、出口みたいなのはある」

677エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:36 ID:xs23czu20
 出し抜けに舞が言い、びっ、と前方を指差した。
 よく見れば緑色の光点があり、扉らしき枠も見える。
 自動開閉式の扉に間違いなかった。

「……まずはあそこね」
「上手く誤魔化したなの」

 余計な一言を挟んだことみを小突いてやろうとしたところで、緑色の光点が唐突に赤色へと変わる。
 誰かが来る。それは勘ではなく確信だった。
 咄嗟にことみのウォプタルを引いて隠れ、往人と舞にも隠れるよう合図を出す。
 嫌なタイミングで鉢合わせたものだ、と内心で舌打ちする。

 不幸中の幸いといえるのが、ここはコンテナだらけで隠れる分には困らないというところくらいだ。
 往人と舞は自分達とは対岸の方のコンテナに隠れており、下手に合流しようとすれば見つかる。
 刹那のことだったとはいえ、離れてしまったのは失策だったか。
 どうするかと考えていると、人のものにしてはやたらと重厚な、地面を踏み潰すような足音が迫ってくる。

 哨戒、とは考えられなかった。明らかに質量を帯びた、
 規則正しくありながら無遠慮に音を立ててくる足音は人間のものとは思いがたい。
 だとするなら、こちら側に来ている敵は『ロボット』以外に考えられない。
 高槻の言う通りならばとんでもないスペックを誇る。何せレポートによれば銃弾が効かないらしいのだ。
 なるべくならばやり過ごしたいところではあったが、リサは探知能力の存在も懸念していた。
 赤外線探知、聴音センサー。人間の存在を探れる技術など溢れかえっている。
 既にこちらが潜んでいる場所を知られている可能性もある。だとするならば、仕掛けるしかない。
 至近距離からライフル弾をありったけ叩き込んでやれば倒せないことはないはずだ。

 M4を持ち上げる仕草をすると、往人と舞もリサの意図を理解したらしく、コクリと頷いた。
 戦闘はなるべく避けたいと言った矢先にこの有様だ。
 どうにもこうにも、エージェントというものはトラブルに巻き込まれやすい性質であるらしい。
 だが、それでもいいとあっけらかんとした気持ちでいる自分の存在もあって――

678エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:44:52 ID:xs23czu20
 きっとそれは、どこかの音楽プロデューサーのせいだったり、どこかの少女のせいだったり、
 どこかの同業者のせいだったりするのかもしれなかった。
 ミッションは迅速に、華麗に。そして、楽しんで……

 地面を蹴り、コンテナから飛び出したリサの動きはまさに他の追随を許さぬほどに早かった。
 M4をしっかりと構えていたリサには、自身が空中に浮いていることなど関係がなかった。
 視界に入った黒衣の影に向けて、頭部をポイントし、引き金を引く。
 正確に放たれたM4の三点バーストが、綺麗な三角形状に頭部を撃ち貫き、ぐらりと影を揺れさせた。
 そのまま前転して往人たちのいるコンテナへと転がり込む。それに合わせるかのように、二つの風が頭上を通り過ぎた。
 連続した銃声。続いて聞こえる、舞の裂帛の気合。
 何が起こったのかは見るまでもなかった。

「……すごい」

 時間にしてみれば、僅か10秒もない出来事だった。呆然と言ったことみに「プロだもの」と言ってのけ、
 ニヤリと笑ってみせると、ことみはやれやれという風に首を振った。
 さて敵はどうなっているのか、と思ったリサは倒れた敵を見下ろしている往人と舞の背中に近づく。

「どう?」
「人間じゃないな」
「でも、血のようなのが出てるのは、少し不気味」

 覗きこんだ先では、仰向けに倒れ、頭部の半分を破壊された女が……いや、ロボットがいた。
 銃撃のせいか、プラチナブロンドの長髪は千々に千切れ飛び、
 舞が切断したのか、P−90を持っていた右手が切り飛ばされ、握ったままに近くに落ちている。
 半壊した頭部からは血の色をした冷却液がじわじわと広がっており、一見すれば血溜まりに浮く死体の様相を呈していた。

679エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:09 ID:xs23czu20
 これが『アハトノイン』……人の形をした殺戮ロボット。
 顔が半壊しているにも関わらず、無表情を貫いたままのアハトノインに対してリサが思ったのは、純粋な嫌悪感だった。
 命令のままに人を殺し、意義も正義もなく命を奪う最悪の道具。
 人型にしているのも悪趣味としか思えず、リサは思わず「最悪の趣味ね」と毒づいてしまっていた。
 こんなものを作り、データを取るためだけに何百人もの生き血が啜られてきた。
 どろりとした冷却液も犠牲者の血のようにしか思えず、リサは大きく溜息を漏らす。

「しかし、助かった。あんたが正確に狙撃してくれたからこっちもやりやすかった」
「どうも。そっちこそいい腕前ね。エージェントにでもなってみない?」
「学校に行っていない俺でもなれるのなら」
「……Sorry.今の話は忘れて」
「おい」
「フフ、冗談よ。でも、エージェントはやらない方がいいわ。本当に、色々と厳しいから」

 ちらりと舞の方を見やると、往人は「……なら、忠告に従っておく」と分かったのか分からなかったのか、
 ぶすっとした声で応じた。男女の関係を気にして口出しするようになったのは、自分も既に経験しているからなのだろうか。
 そのような視野でものを見ることができるようになった自分が嬉しくもあり、少しだけ悲しくもなった。

「年かしらね……」
「あ?」
「いいえ、何でも。それよりカタはついたんだし、先を急ぎましょう」

 まだアハトノインを見下ろしている舞に、気持ちを切り替えるつもりで言ってみたのだが、舞は微動だにしなかった。
 それどころか、彼女は再び刀に手をかけている。

「川澄さん?」
「……まだ、こいつは死んでない」

 死んでいない? 頭部が半壊したはずなのに、何故そう言うのかと問おうとした寸前、「来る」と舞が刀を構えた。
 言い切ったと同時、舞が振り下ろした刀が――受け止められた。
 アハトノインが差し込んだ、グルカ刀によって。

680エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:26 ID:xs23czu20
「なに!?」

 思いも寄らない事態に動転した往人が慌ててガバメントカスタムを構えるが、
 アハトノインは既に舞の刀を打ち払い、大きく跳躍していた。
 そのままコンテナに飛び乗ったアハトノインに「どういうことだ!」と往人が叫ぶ。

「……そういうこと」
「おいこりゃどういうカラクリなんだ、リサさんよ」
「人間とは違うってことよ。頭を破壊したからといって、そこに動力源やコンピュータがあるわけじゃない」
「……ああ、なるほどな……つくづく厄介なロボットだ」

 コンテナの上からこちらを片目で睥睨するアハトノインは、さながら墓地から蘇った『生ける屍』のようであり、
 決して自分達を見逃さない亡者のようでもあった。
 銃器はない。が、どこを撃てば即死するのかも分からない。
 どうすると逡巡しかけたとき、「先に行って」という舞の声が割って入った。

「このくらいなら私と往人でもなんとかなる。そっちはそっちのやることを」
「ダメよ。まずこいつを倒すところから……」
「時間がどれだけかかるか、分からない」

 言い切った舞には、こちらには時間がないとも言う響きがあった。
 ここで時間を消費している暇はないという風に視線を寄越した舞に、リサは反論の口を持てなかった。

「……リサさん。そうしたほうがいいと思うの」
「ことみ……」
「どうせなら正直になるの。私を守ってまで戦う自信はない。そうでしょ?」
「……」

 肯定も否定もせず、舞はアハトノインに向き直った。
 往人は既に舞と一緒に戦う気なのか、慎重にガバメントカスタムの銃口を向けている。
 もうこの二人を動かす言葉はないと結論したリサは、大きく溜息をついて二人に言った。

681エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:42 ID:xs23czu20
「絶対倒すのよ」
「当たり前だ」
「すぐに追いつく」

 短い言葉。だがそこには、絶対にやってみせるという決意があった。
 出口までは訳20m前後。突っ切れば、数秒で辿り着ける範囲だ。

「GO!」

 いけると判断したリサの行動は迅速だった。前に飛び出したリサに続いてことみのウォプタルも疾駆する。
 アハトノインの首が動き、こちらへと向きを変えてきたが、その体がぐらりと揺れる。
 ガバメントカスタムを連射すると共に「相手を間違えてるぞ、ウスノロ」という挑発的な往人の声が聞こえる。
 アハトノインの攻撃対象が変わったのがはっきりと分かった。コンテナを蹴る音が聞こえ、続いて甲高い刃物の打ち合う音が聞こえた。

「往人に手は出させない」
「……あ、なたを、赦し、ま」

 雑音を纏ったアハトノインの声は、元の容姿からは想像もできないほど醜いものだった。

「リサさん!」

 アハトノインに気を取られていると、既に扉の向こう側に移動していたことみがこちらに呼びかけるのが見えた。
 これで、間違ってはいないか。英二と別れたときの光景がリサの脳裏を掠めたが、
 だからこそ信じなければいけないと自分に言い聞かせた。

 英二も、栞も、自分の勝利を信じてやるだけのことをやった。分かれたせいで死んだわけではなく、信念に従って最後まで戦った。
 だから迷ってはいけない。立ち尽くしてはいけない。今できる、最善のことを。
 リサは走った。扉が閉まる。閉ざされた部屋からは銃声と刀の打ち合う音が聞こえてくる。

 それは、彼らが生きている音だった。

682エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:45:56 ID:xs23czu20
【時間:3日目午前11時50分ごろ】
【場所:『高天原』】

【所持品一覧】
1:宗一、渚、るーこ
装備:ウージー、グロック19、クルツ、サブマシンガンカートリッジ×7、38口径弾×21、M10、バタフライナイフ、サバイバルナイフ、暗殺用十徳ナイフ、携帯電話、ワルサーP5(2/8)、日本刀、釘打ち機

2:高槻、ゆめみ、浩之、瑠璃
装備:M1076、ガバメント、コルトパイソン、マグナムの弾×13、500マグナム、.500マグナム弾×2、M79、火炎弾×9、炸裂弾×2、ベネリM3、忍者刀、忍者セット、おたま、防弾チョッキ、IDカード、武器庫の鍵、スイッチ、ライター×2、防弾アーマー

3:芳野、杏、麻亜子、風子
装備:デザートイーグル50AE、デザートイーグル44マグナム、ニューナンブ、イングラム、ウージー、89式、SMGⅡ、サブマシンガンカートリッジ×7、89式マガジン×2、S&W M29 5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、日本刀、ボウガン、注射器×3(黄)、宝石、三角帽子

4:リサ、ことみ、舞、往人
装備:M4、P−90、SPAS12、レミントンM870、レミントン(M700)、ガバメントカスタム、ベレッタM92、ツェリスカ、ツェリスカ弾×4、M4マガジン×4、ショットシェル弾×10、38口径ホローポイント弾×11、38口径弾×10、M1076弾×9、7.62mmライフル弾(レミントンM700)×5、日本刀、サバイバルナイフ、ツールセット、誘導装置、投げナイフ(残:4本)、トンファー、ロープ

683エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:46:09 ID:xs23czu20
那須宗一
【状態:怪我は回復】
【目的:渚を何が何でも守る】 

解き放たれた男・高槻
【状況:主催者を直々にブッ潰す】

芳野祐介
【状態:健康】
【目的:思うように生きてみる】

一ノ瀬ことみ
【状態:左目を失明。左半身に怪我(簡易治療済み)】
【目的:生きて帰って医者になる。聖同様、絶対に人は殺さない】

リサ=ヴィクセン
【状態:どこまでも進み、どこまでも戦う】

川澄舞
【状態:往人に付き従って行動。強く生きていたいと考えている】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】

朝霧麻亜子
【状態:ダイ・ジョーブ】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

国崎往人
【所持品:スペツナズナイフの柄】
【状況:強く生きることを決意。人形劇で舞を笑わせてあげたいと考えている】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている】

古河渚
【状態:健康】
【目的:人と距離を取らず付き合っていく】

ルーシー・マリア・ミソラ
【状態:生き残ることを決意。髪飾りに美凪の制服の十字架をつけている】
【目的:まーりゃんはよく分からん】

ほしのゆめみ
【状態:パートナーの高槻に従って行動】

藤林杏
【状態:絶対生きて帰る】

姫百合瑠璃
【状態:死ぬまで生きる。浩之と絶対に離れない】

藤田浩之
【状態:歩けるだけ歩いてゆこう。自分を取り戻した】

684エルサレムⅡ [修道女]:2010/02/10(水) 18:46:32 ID:xs23czu20
→B-10

685エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:07:54 ID:3kpzQWQU0
 そこは、世界にただひとつ残された、最後の楽園だった。

 照明にしては明るすぎるくらいの光が照りつけ、等間隔に敷き詰められた石床は綺麗に磨かれ、素晴らしくつるつるしている。
 一方石床以外の足場は雑草ともつかぬ植物が生い茂っており、石柱にも巻き付いてそこだけが年月を経たような有様になっていた。

 目を移してみれば、畑のようなものまであり、色とりどりの花が空間を着飾っている。
 ちょろちょろと聞こえる小さな音は水音だろう。上手く風景に紛れているのか、ぱっと見ではどこにあるのか分からない。
 部屋の中央には一対の机と椅子が用意されており、それも綺麗に磨かれた大理石のものだった。
 ただ――空の色だけは単調な青一色であり、ここが偽物の楽園でしかないことを強く示していた。

「驚いたな、こんなところがあるなんて」

 構えていた銃を下ろし、ルーシー・マリア・ミソラは呆然と呟いた。
 いや、正しくは呆れていた。こんな時代錯誤も甚だしい施設を構えている主催者の神経が改めて分からなかった。
 単に庭園というのならば分からなくはない。城にそのようなものを配置するのは理解できる。

 しかしそれは住人が人間であるならばの話だ。ここには花の美しさを楽しみ、愛でる住人などいない。
 いるのは機械だけだ。ただ命令のままに動く機械の兵隊だけ。
 逆に皮肉っているとさえ取れた。自分達ばかりではなく、この世界そのものを嘲笑っているような、そんな感覚だった。

「懐古趣味もいいところだぜ。空中庭園のつもりかよ」

 同じものを那須宗一も感じ取ったのか、棘を隠しもしない口調で言う。
 周囲を絶え間なく見回しているのは、恐らくは何か仕掛けがないかどうか探っているのだろう。
 それほど、この空間は胡散臭い。

「でも、綺麗なところですよね」

686エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:16 ID:3kpzQWQU0
 フォローなのか素なのか、どちらともつかない調子で古河渚が言った。
 確かに、見た目には美しい。日常にどこかのビルの中で見れば、素直に賞賛の言葉を出していただろう。
 結局のところ、こんな場所にあるから反感を持つだけなのかもしれない。
 やれやれと心の奥底に根付いた毒を手で払い、ルーシーは「行こう」と歩き出した。

「取り合えず道沿いに行けば別のところに行けると思う」
「だな。ったく、どこまで広いんだかここは……」

 宗一は相変わらず周囲に目を配っている。
 妙に気がかりに思ったルーシーは「嫌な予感でもするのか」とカマをかけてみる。

「始めに言っておくが、俺の勘の的中率は高いぞ」
「それは信用できそうだな。で」
「来るかも」

 簡潔な一言だったが、だからこそ、という気になった。
 渚と頷きあい、前方に注意を向ける。
 テーブルセットを越え、今はほぼ部屋の中央にいる。
 幸いにして通路自体は一方通行であるため、囲まれる可能性は低いのが救いだった。

「あ、そうだ言い忘れてたわ」
「なんだ」

 言っちゃっていいのかな、と前置きしてから宗一は苦笑する。

「早く言え」
「いやーその、実はさ」

 ばしゃ、と背後から一際大きな水音が立った。
 魚が跳ねた? そんなもの、ここにいるはずがない。
 ここは命の途絶えた死の楽園だ。
 ならば、そこに潜んでいるのは――物言わぬ守衛だ。

687エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:35 ID:3kpzQWQU0
「口にした途端に起こるんだ。『悪い予感』」

 振り向くと、そこでは宗一と、水に濡れた『アハトノイン』が刃を交えていた。
 水中から奇襲された? 一瞬でその結論を下すと、ルーシーは宗一の肩越しにクルツを撃ち放った。
 水中から飛び出したまま宙に浮いていたアハトノインは銃弾をもろに受け、再び水中へと落ちる。
 サバイバルナイフを逆手に構えた宗一が「ということだ」と締めるのを「なら言うな!」とルーシーも怒声を飛ばす。

「いや忘れてたんだ。悪い悪い。まあタイミングは計れたってことで」
「あ、あの、今ので……」
「いや、多分ピンピンしてる。手ごたえがない」

 人を少なからず撃ち、少なからず殺しているからこそ、ルーシーはアハトノインが動いていることを瞬時に悟った。
 この庭園には見えにくい水路が至るところにあるようで、アハトノインはそこを伝って移動してきたのだろう。
 機械であるから、水中での窒息もない。いつどのタイミングで攻めてきたものか分かったものではない。

「走り抜けた方が良さそうかもな」

 宗一の提案に、渚とルーシーも頷いた。わざわざ相手に合わせる意味もない。
 問題は振り切ることが出来るかということだが、はっきり言って自信がない。
 それでもやるしかない。踏み止まっている暇は、なかった。

「走れ!」

 宗一の声に合わせて全員が走り出す。庭園を抜けるまでは距離にして50mもなかったが、
 目の前の敵はそう易々と通してくれる相手ではなかった。
 先ほどよりも大きな水音と飛沫が跳ね上がり、大きく跳躍したアハトノインが頭上を通過する。
 力任せの先回りもできるらしい。水滴を垂らしながら降り立つ黒衣の修道女に向け、再度クルツを発砲する。
 しかしアハトノインは着地の硬直などまるで無視して横に飛び、ルーシーの弾幕を掻い潜ってくる。
 こちらを見定める、薄銅色の工学樹脂の瞳。狙いを定めた殺戮機械は、まずルーシーを屠るつもりのようだった。

688エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:08:57 ID:3kpzQWQU0
 上等だ。心中で啖呵を切り、グルカ刀を抜いていたアハトノインに休むことなく弾を撃ち続ける。
 数発当たる。だが少しばかり身じろぎしただけで、アハトノインは止まらない。
 どっちだろうがお構いなしか。流石に回避に移るべきと判断し、一旦発砲を止めた瞬間……アハトノインが小さく屈んだ。
 ルーシーがそれを認識した時には、凄まじい速さで前に飛び出していた。

「速……!」

 斬られる。間に合わないと思ったが、「でえぇぇい!」という場違いな気合と足がアハトノインの斬撃を中断させた。
 宗一だった。周りからの攻撃に対して無防備になるのを狙っていたらしい。
 蹴り倒した勢いに任せ、続けてグロック19の引き金が引かれた。
 至近距離から発砲されては流石にダメージが通ったのか、アハトノインの腕がビクンと跳ねる。
 全弾撃ちつくしたのを確認して、宗一がアハトノインから離れる。普通の人間なら既に死んでいるが、
 アハトノインは平然と起き上がったばかりか、起き上がった勢いに任せ、宗一を射程圏内に捉えていた。

「いっ!?」
「那須!」

 辛うじてアハトノインの攻撃から救われたルーシーに援護の暇はない。
 だが、戦える者はもう一人いる。
 宗一の足元から火線が走り、アハトノインの右半身に着弾する。
 むき出しの足を銃弾から守るものはなく、穴の開いた足から血のようなものを噴出させ、修道女がぐらりと傾き、転倒する。

「よし、ナイスアシスト!」
「……分かってて慌ててましたよね?」

 立ち上がった射撃手の渚が立ち上がり、確信する口調で言った。

「なんで渚にはバレるかね」
「だいたい分かります」
「浮気できないな……っと!」

689エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:09:17 ID:3kpzQWQU0
 ベルトに差していたウージーを取り出すと、まだ起き上がろうとしていたアハトノインに追撃する。
 全弾着弾はしたが、それでもトドメを刺すに至らないらしく、宙返りをしながら後退する。
 体の至るところに穴が開き、顔面のいくらかが抉れて金属フレームが露になり、元は美麗だった足も赤い液体が漏れ、
 ドロドロと地面に滴らせながらも、それでも平然としている。

「不死身かよ……」
「こっちを殺すまで死ななさそうだ」
「ロボットじゃなくて……ファンタジーの化物みたい、です」

 渚でさえこのような表現をしていることに、ルーシーは少なからぬ驚愕を覚えた。
 それほどの殺意と、執念と、おぞましい何かを宿している。
 アハトノインは殺し合いを強要させて恥じない連中の意志そのものと言っていい、傲慢と暴力の象徴だった。

 度重なる銃撃の影響か、ボロボロになっていたフードが落ち、貌が露になる。
 細やかな金糸の髪が揺れ、ざわざわと波立った。濡れているからなのか、それは余計に美しく妖艶に思えた。
 旅人をその歌声で水底に沈める魔女、ローレライ……ルーシーが抱いたのはそんな感想だった。
 いや、歌声ではない。呪詛だ。何千の血を吸いながら当然としか断じない者が放つ、呪いの言葉だ。
 殺せ。或いは、食え。いやどんな言葉でもいい。とにかく、それはルーシーにとってはおぞましく、地下道に籠もった饐えた臭気だった。

「次で決着をつけるぞ」

 だからルーシーは自然と口に出していた。もうこれ以上、見ていたくなかった。
 見ていると湧き上がる感慨は怒りや憤懣ではなく、ただ哀れだと思う気持ちだったから……

 石畳を踏み潰し、アハトノインが疾駆する。相変わらずの前進突撃。だが、その突撃は何者にも止められない。
 ならば受ける必要はない。手持ちの武器でトドメを刺すには……
 ルーシーは腰につけている、確実にアハトノインを倒せるであろう武器に触れる。
 これならばあの怪物も打ち崩せる。問題は、確実に弱点に当てることだった。

690エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:09:40 ID:3kpzQWQU0
 頭を撃ち抜こうが止まらないロボットだが、決して不死ではない。機械である以上必ずカラクリがある。
 大体の予想はついている。後は、己の勘を信じて行動できるかだった。

 いけるさ。どこの誰ともつかない声がそう言い、そうだなとルーシーも応えた。
 自分にはこれまでに培ってきたものがある。新しく知ったことがある。思い出したこともある。
 人の心を慮れるやさしさも、身を預けていられる心地良さも持っている。
 そのために犠牲にしてしまったものもある。自分が許せなくなるくらいの後悔だって、した。

 ここで自分がやったこと。ここで生き抜こうとした人たちのこと。
 所詮それはどんな歴史にも残らない、たかが一つの惑星の、屑鉄に沸いた錆のようなものでしかないのだろう。

 しかしたとえそうであったとしても、私は……

 M10を発砲する渚を援護にして、宗一がウージーを持って突進する。
 アハトノインはしゃがみ、長い足を突き出すような足払いを繰り出す。挙動は異常に素早い。だが相手が悪かった。
 世界一のエージェント、ナスティボーイに生半可な格闘は通用しない。
 逆に足を狩った宗一はバランスを崩したアハトノインの顔面目掛けて追撃の前蹴りを見舞う。
 ところがアハトノインは有り得ない速度で上体を反らし、器用に全身をバネにして宗一の蹴りを受け止めた。

 ちっ、と舌打ちしながら宗一がナイフで挑みかかる。
 既に体勢を立て直していたアハトノインはグルカ刀で難なく受け止め、返す刀で宗一の側面、脇腹を狙う。
 バックステップしても避けられない。ならばと宗一は無理矢理前転して刀を空かす。
 そこに付け入らせないのが世界一たる所以だった。

 腕の力だけで体を持ち上げ、脚を振り上げ、踵落としのような一撃を与える。
 アハトノインが崩れる、かと思えばしぶとかった。
 ガシャ、という音がしたかと同時、アハトノインの左手に小型のナイフが収まっていた。仕込みナイフだ。
 マジかよ、と宗一が呻く。しかし言葉とは裏腹に行動は冷静で、
 体勢を崩しつつも近距離では役に立たないウージーを放り捨て、腰に差していた十徳ナイフを引き抜く。

691エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:01 ID:3kpzQWQU0
 アハトノインの振り下ろしたグルカ刀と小型ナイフに、宗一のサバイバルナイフと十徳ナイフが鍔迫り合う。
 宗一でなければ串刺しにされていただろう。だがこのままでは宗一が不利になる一方だ。
 どうするとルーシーは一瞬逡巡した。まだ機会ではない。飛び込むにはもうちょっとだけ早すぎる。

 だが、仲間の命が――

 ――いや、そうじゃない。信じろ。

 踏み出しそうになる足を押し留める。
 信じる力。人と人が生み出す、奇妙な、それでいて何物にも負けない力。
 それは、かつて故郷で教えられた言葉だった。
 皮肉だとは思わない。何故なら、自分と美凪がそうであったように。
 〝あらゆる物理法則を越えて、『みんな』はひとつ〟なのだから。

 押し込もうとしていたアハトノインの、華奢ながら頑強な体が白煙を噴き出す。
 アハトノインが振り向く。その先では、宗一が投げ捨てたウージーを腰だめに構えた渚の姿があった。
 渚に矛先を変えようとするが、その体が動くことはなかった。
 宗一が釘打ち機を足元に打ち込み、動かないようにしていたからだった。
 今のアハトノインは動けない。望んで止まなかった、チャンスの到来だ。

「ナイスキャッチ」
「実は、野球は得意なんです」

 ニヤと笑い合った二人には恋人という間柄を越えた、もっと深い繋がりがあるように思えた。
 誰もがそうなのかもしれない。誰もが既に、見つけ出しているものなのだろう。
 そこには自由に入ってゆくことが出来る。望みさえすれば。

 だから、私も……もっと大きなひとつになる。
 裂帛の気合と共に、ルーシーが突き出した日本刀が、深々とアハトノインの胸部を貫いた。

692エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:22 ID:3kpzQWQU0
「……!」

 声にならない声を上げ、全ての繋がりを断ち切ろうとする存在が、ただ壊すだけの存在がルーシーを睨む。
 焦点も定まっていないカメラアイは、既にロボットとしての機能を失っていることを証明していた。

「失せろ」

 抑揚のない声で言い、刀を更に深く押し込むと、アハトノインは呆気なく崩れ落ちた。
 指一本さえも動かす気配はなく、完全に機能停止したことを確認して、ルーシーは長い溜息をついた。

「まだ終わってないぞ」

 倒した安心感からか、座り込んでいたルーシーに宗一が手を差し伸べる。
 後何体いるかは分からないが、まだ戦いは終わっていない。これからだ。
 やれやれ、最後まで戦い抜くというのは疲れるな、なぎー?
 苦笑して、宗一の手を取る。強い力で引っ張られるのを感じ、全身から抜けていた力が戻ってくるのも感じた。
 尻についた埃を払いつつ、ルーシーは「にしても、見事だったぞあの連携は」とまずは二人を褒める。

「だろ? これが」
「みんなの力です」
「……そこは愛の力って言おうぜ」
「恥ずかしいじゃないですか……」

 その後小声で「それに、ムードがないです」と付け足した渚に、くくっとルーシーは笑った。
 どうやらこういう部分での女の扱い方には慣れてないようだと思い、首を傾げる宗一に「もっと勉強するんだな」と言っておいた。
 納得のいっていない風に眉根を寄せた宗一だったが、まあいいかと思ったのか「それよりも」と話題を変える。

「野球が得意ってマジか」
「お父さんが得意でした」
「……なるほど、血筋ってか」

693エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:10:46 ID:3kpzQWQU0
 宗一は軽く笑っただけだったが、ルーシーにはどうにも不思議でならなかった。
 思い返してみれば、あそこまで鮮やかに宗一に合わせられるというのも凄い話なのだ。
 世界一は伊達ではない。プロに合わせるには、プロの技量が必要だ。
 息は合っているのは疑いようのない事実なのだが、それだけではないように思えた。

「それに、なんだか今はとっても調子がいいんです。すごく体が軽くて」
「ほー……やっぱりこれは」

 愛の力、か。終わりのなかった殺し合いに終止符が打てると思えば、それくらいの力が発揮できるものなのかもしれない。
 まだまだこの地球には不思議なことが一杯だ、と感慨を結びつつ、さもありなんという風に頷いておいた。

「……」
「……」
「まあいいさ。後に聞くよ」
「そうしてください」

 にっこりと笑った渚に、やれやれと肩を竦ませつつ宗一が歩き出した。
 その背を追う渚は、見事に無茶苦茶少年の手綱を取っている。
 本当に大したものだ、とルーシーは感心する。初めて会ったときは、今にも崩れ落ちそうなほど儚い印象があったのに。
 前に、前に進むたびに彼女は本当の意味で強くなっている。控えめだけれど、しっかりと他者を支えていける人間になった。
 やはり渚のようにはなれそうにもない。あれは規格外だということを今さらのように理解し、ルーシーは諦めの息を吐き出した。
 だが羨望や嫉妬はなかった。なら自分は別の強さを身につけていけばいい。人を思いやれる程度には優しくなれればいい。

「そう、なれているかな」

 銀の十字架に手を触れる。無言で応えてくれるそれもまた、優しかった。
 二人の背中を追おうと、ルーシーも走り出す。二つ分の足音を伴って。

694エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:11:09 ID:3kpzQWQU0
 二つ?

 幻聴ではなかった。
 確かに音は、そこにあった。
 振り向く。後ろの世界では、有り得ないことが起こっていた。
 串刺しにされ、完全に機能を停止したはずのアハトノインが、グルカ刀を持って突進してきていた。

 何が起こっているのか分からなかったルーシーが現実を認識したのは、
 肉に刃物が突き刺さる、気持ちの悪い音を聞いたときだった。

「っ……かはっ」

 異物が体にめり込む感覚。ひたすら違和感を覚えたのは最初だけで、そこから先は苦痛の地獄だった。
 想像を絶する痛みが体中を駆け巡り、命を支える柱が崩れてゆく実感があった。
 痛いとは、こういうことなのか? 春原が、澪が、美凪が味わった感触がこれだというのか。
 声を出そうという発想さえなかった。そんなことさえ考えられないくらい、全身が死に支配されている。

 アハトノインの、相変わらず焦点の定まらない瞳を見る。
 無表情のまま、グリグリと刀を押し付けてくる彼女からは悪意さえ感じ取れる。
 てらてらと輝く金属骨格の光は、全てを無駄だと言い切るような怜悧さがあった。
 冗談じゃない。ルーシーはその一語だけを心に思い、残った力の全てを使って、アハトノインの胸部に突き刺さる刀を掴んだ。

「まだまだだっ!」

 絶叫と共に渾身の力で刀を振り上げる。その拍子にぶちぶちと自らの肉が切れ、
 どろりとした感触が己の内奥から喉元に逆流してくるが、ルーシーの行動を妨げるほどのものではなかった。
 無理矢理切り上げられ、アハトノインの体が肩口からほぼ真っ二つに裂け、か、と口が大きく開かれた。
 苦悶の表情のつもりなのだろうか。なら楽にしてやると、ルーシーはワルサーを切り裂いた部分に突っ込み、
 引き金を引いた。内側からでは強固な装甲も防弾コートも役には立たず、
 アハトノインは動力源ごと機能停止に追い込まれることになった。

695エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:11:29 ID:3kpzQWQU0
 冷却液を飛散させながら天を仰ぎ、倒れた修道女は今度こそ完全に死んだ。
 その様子を見届けてから、ルーシーもガクリと膝を折った。

「るーちゃんっ!」

 悲鳴に近い渚の声が聞こえ、緩慢な調子で振り返ると、渚は今にも泣き出しそうな表情でルーシーの肩を掴んだ。
 ああ、痛い。そう言って笑ってみせると、渚はビクリと震え、手を離す。
 途方に暮れたような渚の顔が痛々しく、死ぬのかとぼんやり思ったが、全くそんな感じはしなかった。

 むしろ心地良い。ここまでやりきったという思いがそう感じさせるのか、
 それともこれが死を迎える感覚なのかと考えたが、どちらとも判然とせず、
 背後で立ち尽くしている宗一に視線で問いかけてみた。
 だが宗一も答えることはなく、ゆっくりと首を振った。やはり、自分で考えろということらしい。
 そうして少し考えてみた結果、ちょっとした大怪我なのだろう、と思うことにした。

「……ちょっとやられただけだ。少し休めば、また良くなる」
「ちょっとって……!」

 どうなっているかは自分でもよく分からなかったが、恐らくは血まみれなのだろう。
 今も出血しているのかもしれない。それでも死ぬとは思えず、ルーシーはまた笑ってみた。
 やせ我慢などではなく、本当に気分が良かったからなのだが、渚はそうは思ってくれなかったらしい。
 ごめんなさい、と繰り返す渚に、ルーシーは「だったら」と返した。

「医者になって、渚が治してくれ。ふふ、傷痕も残らないくらいのやつで頼む」

 ここに来るまでに交わした雑談の中で、渚は医者になりたいと言っていた。
 なんだか彼女らしいとも思えたし、患者にも優しい先生になるだろうとも予想できた。
 対して自分は、取り合えずウェイトレスになって働くくらいのことしか思いつかず、口を濁していた。
 それも自分と渚の違いなのだろう。だから今は、世界一のウェイトレスになってやろうと、そう決める。

696エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:11:52 ID:3kpzQWQU0
「分かり、ました……約束、です」

 小指を差し出す渚に、うんと応じてルーシーも小指を絡ませた。
 こういうのを、なんと言うのだったか。ああ、日本の文化には詳しくない。
 やれやれ。世界一は厳しいな。
 そう思っているうちに小指が離れ、少しだけ寂しく思って、ルーシーは「ついでに」と髪につけていた十字架を外す。

「これ、持って行ってくれないか。口約束だけじゃ信用できないからな。私が合流したら返してくれ」

 遺品として手放さないと決めたはずのそれを、なぜ渡そうと思ったのかは自分でも分からなかった。
 いや、と頭に浮かんだ考えを否定する。きっと、そうだ。
 だからルーシーは新たに浮かんだ考えを紡ぐ。

「あらゆる物理法則を越えて、私も、渚も、なぎーも、皆はひとつだ」

 出し抜けに言ってしまったからか、わけの分からない言葉になったかと思ったが、聡い渚は理解してくれたらしく、
 薄く笑って、十字架を受け取ってくれた。

「ちょっと待て。私がつける」

 笑ったのが自分にとっては嬉しく、ルーシーは十字架をひったくると渚の髪に手を回し、
 短いポニーテールの髪留めになるように十字架をつけた。
 少し地味だった渚の髪型はちょこんと垂れたポニーがアクセントとなり、彼女の可愛らしさを引き立たせていた。

「そっちの方が似合うぞ。どうだ、私のセンスも悪いものじゃないだろ」

 なあ、那須。そう言ってやると、渚は宗一の方に振り向いた。
 いきなり様変わりした渚を見せ付けられた宗一の顔がたちまち照れた色に染まり、
 「ま、まあまあな」と予想通りの言葉が返ってきた。

697エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:12:08 ID:3kpzQWQU0
 最高の気分だった。初心な奴め。とことん恋愛には疎い宗一を年上の目で見ながら、
 ルーシーはこれが自分の目指したところか、と考えを結んだ。
 どんなに苦しくて、辛くて、みっともなくても、ここを目指してきて良かったと心から思える。
 うーへいも、なぎーも今はこの気分を味わっているに違いない。

「さ、もう行ってくれ。もう少ししたら、私も追いかけるから……」

 笑い疲れ、やっとのことで切り出すと、渚も宗一も今度は何の躊躇いもなく頷いてくれた。
 ようやく自分はまだ大丈夫だということに気付いてくれたらしい。
 走り去ってゆく二人の背を見送りながら、ルーシーは天を仰いだ。

 チープな空だけがある。そこには何も映っていない。
 逆に言えば、ここから何でも作っていけるということだった。何もないなら、作ればいい。
 これから時間ならいくらでもあるのだから……

「そうだ、思い出した」

 空に差し伸べていたルーシーの手が、小指一本差し出したものに変わる。

「ゆびきりげんまん、だったな」

698エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:12:37 ID:3kpzQWQU0















【ルーシー・マリア・ミソラ 死亡】

699エルサレムⅢ [ありがとう]:2010/02/24(水) 23:12:58 ID:3kpzQWQU0
【場所:『高天原』】

【所持品一覧】
1:宗一、渚
装備:ウージー、グロック19、クルツ、サブマシンガンカートリッジ×5、38口径弾×21、M10、バタフライナイフ、サバイバルナイフ、暗殺用十徳ナイフ、携帯電話、ワルサーP5(2/8)、日本刀、釘打ち機

那須宗一
【状態:怪我は回復】
【目的:渚を何が何でも守る】 

古河渚
【状態:健康】
【目的:今は、前だけを】

→B-10

700来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:28:53 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
それは、そのあるべき生を踏み躙られた、ただそういうものである。




******

701来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:29:29 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
幼い頃、部屋の窓から見える景色が好きだった。
春、遠くの山が桜色に染まるのを、私はとても美しいと感じていた。
私の生は輝いていた。

あるとき、姉が言った。
あの桜は、もうすぐ見られなくなるのだと。
山は崩されて、沢山のお家になるのだと、そんなことを言った。
とても悲しくなったのを、覚えている。
私の生は輝いていた。

一晩、考えた。
考えた末に私は、窓の向こうの景色が、次の春も桜色に染まることを望んだ。
そうして私は来栖川だった。
私の望みは、来栖川の要求は、すぐに叶えられることになった。
私の生は輝いていた。

大勢の人間が困ると聞かされた。
少しだけ寂しい気持ちになって、すぐに忘れた。
その何倍も、嬉しかった。
私は、私の望む景色が窓の向こうに在り続けることを、正しいと、思った。
私の部屋はそうあるべきなのだと。
それをこそして、正しい姿なのだと、そう思った。
私の生は、輝いていた。

窓の向こうの山がなくなったのは、それからすぐのことだった。

702来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:29:46 ID:wvXD0MO.0
これでいいの、と私に言ったのは、姉だった。
これでいいの。人を困らせてはいけません。
これでいいの。桜が切られてしまっては可哀想だから、遠くの山に移すことになったの。
これでいいの。今度、一緒に見に行きましょう。綺麗に咲いた桜の下で、お弁当を頂きましょう。
これでいいの。これで誰も困らないの。誰も悲しくならないの。
これでいいの。これでいいの。これでいいの。

703来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:30:38 ID:wvXD0MO.0
これでいいの。
静かに繰り返される言葉は、私を縛る十字架だった。

これでいいの。
言葉は私の目を貫いて、私の心に穂先を向ける。

これでいいの。
槍は鋭く、磔の私は身を捩ることも許されず。

これでいいの。
姉の刃が私の中に、冷たい痛みを、差し向ける。

これでいいの。
穂先が皮を小さく裂いて。

これでいいの。
垂れ落ちる血は、ひとしずく。

これでいいの。
私を抉る、言葉の槍に、

これでいいの。
じわりと、力が込められて、

これでいいの。
窓の向こうに、山はもう、ない。

これでいいの。
私は、

これでいいの。
私は、

これでいいの。
私は、黙って、頷いた。

頷いたのだ。
僅かに数ミリ、言葉もなく、不貞腐れたように、妥協を、肯んじた。

704来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:30:58 ID:wvXD0MO.0
 
―――よくできました、と。

そう言って微笑んだ、姉の顔を私は忘れない。
その一瞬。その数ミリ。
その微笑が、私を濁らせたのだ。

澄んだ水面に、墨の一滴を垂らすように。
それはすぐに見えなくなって、水面の色は、変わらずに。
しかし、それはもう、元の澄み渡った水では、ない。
純粋の座から引きずり下ろされ犯された、それは穢れの混じった水だ。


私の生が濁って澱む、それは瞬間だった。

705来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:31:38 ID:wvXD0MO.0
 
敗北が人を濁らせる。
膝を屈せば澱んでいく。

醜いと、思った。
濁った目に映る何もかもが、たまらなく醜いと。
澱んだ私を通すとき、窓の向こうの光景は、どこまでも矮小で、猥雑だった。
それは、訣別すべき亡者の苑。断絶すべき、煉獄だ。
私が喪ったのは、つまりそういうものだった。

透き通ったものだけが在り続けたはずの世界は、だからもう、そこにはない。
私は、それが許せなかった。
私には、それが、赦せなかった。

だから、決めた。
だから、定めた。
私の意味を。その価値を。かくあれかしと望む、在りようを。

これでいいのと、強いる世界があるのなら。
私は今度こそ、頷かない。
頷いてはならない。
私はもう、負けない。

よくできましたと、微笑むことを赦さない。
赦して、濁って、終わらない。
終わっては、ならない。
私は二度と、屈しない。

抗うのではない。挑んだのでもない。
たかが現実の如きに屈さぬと決意した、それだけのことだ。
生きて、濁らず。
目を覚ませば瞼を開くように、或いは息を吸えば吐くように。
生きるということの、それは当然。

それは、今なお生きるすべての来栖川綾香が、すべての来栖川綾香に、
或いはすべての松原葵に、坂下好恵に命ずる、ただ一言。
生きよと命ずる、その声の、それが意味だ。

美しく、在れと。
私の生を輝かせる、それが絶対の回答だ。
澄み渡る私の向こう側に広がる景色は、きっとどこまでも、透き通っている。

706来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:00 ID:wvXD0MO.0
 
だから、私は赦さない。


私の命の在りようを。
来栖川綾香の闘争を。
よくできましたと、笑むのなら。
これでいいのと、強いるなら。
私はそれを、赦さない。

生きて、果て往くそのときを、姉が、世界が、穢すなら。
私はそこで、終わらない。

来栖川綾香は屈しない。
そう決めた。そう定めた。
ならば、敗北を以てこの生は、終わらない。
死を超えて、私の生は勝利する。

来栖川芹香に。
私を濁らせるすべてに。
それが望むすべてに。
続き続けることが、勝利だと。
姉が、世界が、望むなら。
私はそれを、蹂躙する。
私の生を、輝かせる。

たとえば、拳を振るうこと。
たとえば、力を振るうこと。
たとえば、私が来栖川であること。
たとえば、私が来栖川綾香であること。
私の生は、輝いている。

空を見て、星はなく。
夜明け前の、藍色の空が好きだった。
私の生は、輝いている。


私の生は、輝いている。

707来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:16 ID:wvXD0MO.0
 
目の前には、世界の中心。
来栖川芹香の望み。
澱みを齎すもの。

拳を握り、腕を上げ。
顎を引いて、力を込める。
心臓から流れ出し、全身を駆け巡る血の一滴までを感じる。
澄み渡る、来栖川綾香の生の、そのすべてを込めて、走り出す。

走り出し、


走り出そうと、


走り出そうとして、


足が進まないことに、気づく。
目を落とせば、そこに。
私の足に縋りつく、亡者がいた。



***

708来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:32:45 ID:wvXD0MO.0
***

 
 
来栖川綾香の目に映っていたのは、少女である。
どこか困ったように眉尻を下げて笑う、小柄な少女。
奇妙に張り付いたような表情を浮かべたそれが、綾香を見上げていた。
その少女の名を、綾香は知っている。
小牧愛佳と呼ばれていた、それは死者だ。
この島で命を落とし、強化兵に回収された遺骸と同じ顔が、綾香の左の足首にしがみついている。
ぱっくりと裂けていた首の傷は、見当たらない。
どこから現れたのか。
なぜ死者がここにいるのか。
理由は。原理は。原因は。目的は。
その一切を、綾香は考えなかった。
挽肉同然にされた来栖川芹香が、眼前に現れたのだ。
今更死者が彷徨い出たところで、驚くには値しなかった。
だから綾香は、ただ空いた右の脚を小さく引き、無感情に振り下ろす。
困ったような笑みを浮かべた少女の貌が、困ったような笑みを浮かべたまま、中心から窪んだ。
鼻骨が折れ、鼻梁が粉砕され、しかし血が噴き出すことはなかった。
顔面を砕かれた少女は、笑みを歪めたままゆっくりとその輪郭を薄れさせ、消えていく。
小さく息を吐いて、綾香が正面に向き直る。
下らない抵抗だと、考えていた。
文字通りの、無意味な足止め。
来栖川芹香か、他の誰かか。
いずれ生きて濁り、死して屈した何者かの、精一杯の抵抗であったものか。
疾走の再開までは、ほんの一瞬。
踏み出した足が、しかし、ぐらりと揺れた。

709来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:05 ID:wvXD0MO.0
「―――!?」

傾いた視界に、綾香がたたらを踏んで体勢を立て直す。
何が起きたのか、分からなかった。
踏み込んだ左足の、地を踏みしめるはずの足の、感覚がなかった。
ただ底無しの沼に沈み込むように、体全体が左へと傾いていた。
睨むように見やった、綾香の目が大きく見開かれる。
左足。小牧愛佳のしがみついていた、左足の、足首。
その後ろ半分が、ぱっくりと、割れ裂けて傷口を覗かせていた。
否、それは傷ではない。
そこに血は流れていない。
じくじくと痛むこともない。
ただその部分で、皮と肉と骨とが途切れ、中身を曝しているに過ぎない。
裂傷ではなく、創傷でもあり得ず、それは純粋な、喪失であった。

「―――」

小牧愛佳と共に消えてしまったようなそれを、綾香はほんの一瞬だけ凝視し、すぐに向き直る。
手をついて、右に体重を乗せた膝立ちになる。
使い物にならない左足を無視した、疾走の態勢であった。

「 の一本で、止められるか―――」

鼓舞するように声を出して、しかし、綾香は己の言葉に眉根を寄せる。

710来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:27 ID:wvXD0MO.0
今、何を言おうとした。
否、何を、言った。
一瞬前の、記憶の空白。
一本、と。
確かにそう言った。
しかし、それは何だ。
何のことだ。
何を、一本。
何が、一本。
何のことを、言っている。
己が内に湧き出した空白に、綾香の心中がざわめいていく。
一本。そうだ。それは、この左足の、喪失だ。
それを、言った。言おうとした。そのはずだった。
喪失とは、何だ。
論理が、破綻している。
左足の喪失。喪失とは、何だ。
左足は、左足だ。何も喪われてなど、いないはずだった。
見やる。そこには、足がある。
右の脚に、目を移す。
そこには腿があり、膝があり、脛があり。
踝があって、踵があって、腱があり、甲があり、指があり、ならば左にも、同じものがあるはずなのに。
同じものとは、何だ。
左の脚にも、腿がある。
膝があり、脛があり、踝があって、甲があって、指があった。
それが、左足の全部で、何一つ、喪われてなど、いないように思えた。
分からない。
ならば、自分は今、何を言おうとしていたのか。
分からない。
それではまるで、左の足には、今はない何かが、あったようでは、ないか。
そんなものは最初から、ありはしないというのに。

711来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:33:51 ID:wvXD0MO.0
じわりと、何かが皮膚に染み込んでくるような感覚を、綾香は覚えていた。
戦慄に似た、恐怖に近い、しかしそれとも違う何か。
打ち払うように首を振り、片足だけで立ち上がる。
力を込めた、その右足に触れるものが、あった。

「―――!」

長い黒髪の、穏やかな笑みを浮かべた少女。
その少女の名を、綾香は知らない。
仁科りえと呼ばれていたことを知らぬまま、綾香は少女に拳を振り下ろす。
手応えがあり、少女が歪み、ゆっくりと消えていく。
そうして綾香が、大地に倒れ伏した。
右足の、甲から先が、消えていた。
地を踏みしめることもできず、膝をついて眼前を睨む綾香は、もう足に目をやりは、しなかった。
そういうものだと、理解していた。
走ることも、歩むことさえもできず、しかし綾香は、前に進もうとする。
両の手を地について四つ足となり、恥辱すら覚えず、ただ屈さざるべき世界の中心、銀髪の少年の元へと
猛然と進もうとするその足を、押さえる腕があった。

「―――」

振り返れば、それが己が手にかけた少女であったと知っただろう。
しかし綾香は目をやらない。
言葉もなく、空いた方の足で後ろを蹴りつける。
沢渡真琴と呼ばれていた少女が、消えていく。
消えながら、少女の最後に触れていた綾香の左の足指のその全部が、一度になくなった。

712来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:34:26 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――たとえ明日死んだって、今日負けるのは、いやだ。



右の足にしがみつく、女の名前を綾香は知らない。
河島はるかという名を知らぬまま、綾香は女を蹴りつける。
女は綾香の右の踵に最後に触れて、そしてそこには、もう何もない。

左の足にすがりつく、少女の名前を綾香は知らない。
藍原瑞穂という名を知らぬまま、綾香は少女に拳を振るう。
少女は綾香の左の足を最後に抱いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚をがしりと押さえた、少年の名を綾香は知らない。
那須宗一という名を知らぬまま、綾香は少年を引き倒す。
少年は綾香の右の脹脛を最後に撫でて、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に乗りかかる、少女の名前を知っている。
雛山理緒という少女の名を、しかし思い出さぬまま、綾香は少女を踏みつける。
少女は綾香の左の臑を恨みがましく最後に掻いて、そしてそこには、もう何もない。

右の脚に手をかけた、少女の名前を知っている。
上月澪という少女の名を、やはり思い出さぬまま、綾香は少女を薙ぎ払う。
少女は綾香の右臑を最後に小さく二度叩き、そしてそこには、もう何もない。

左の脚に手を乗せる、老爺の名前を知っている。
幸村俊夫という老爺の名を、しかし考えることもなく、綾香は老爺を蹴り上げた。
老爺は綾香の左の脹脛を微かにさすり、そしてそこには、もう何もない。

右の脚を踏み躙る、女の名前を知っている。
篠塚弥生という女の名を、もはや浮かべることもなく、綾香は女を振り払う。
女は綾香の右膝を冷たいその手で一つ撫で、そしてそこには、もう何もない。

左の膝を捻じ上げる、少女の名前を知っている。
坂上智代と思い出し、しかしそこには感慨もなく、綾香は智代に拳を放つ。
智代は綾香の左の膝を無理やり捻って捩じ切って、そしてそこには、もう何もない。

713来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:34:45 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしの世界、あたしの手が届く場所、あたしの指で触れるもの。



河野貴明がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の右腿が毟られて、そしてそこには、もう何もない。

篁がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の左腿が抉られて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、脚はない。
 両の脚の全部が、既に喪われていた。
 倒れ伏し、しかし腕で地を掻いて、綾香は前へと、進んでいる。


醍醐がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の股関節が撃ち抜かれ、そしてそこには、もう何もない。

草壁優季がいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の女性に口づけられて、そしてそこには、もう何もない。

月宮あゆがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尻が剥がされて、そしてそこには、もう何もない。

緒方理奈がいた。
省みぬまま振り払い、綾香の子宮に指が這い、そしてそこには、もう何もない。

伏見ゆかりがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の尾骨が抜き去られ、そしてそこには、もう何もない。

柚原このみがいた。
名を知らぬまま振り払い、綾香の直腸が掴み取られて、そしてそこには、もう何もない。

714来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:04 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――世界って、そんだけだよ。そん中に、お前も入ってる。



霧島佳乃がいた。
振り払われて、綾香の卵巣をそっと撫で、そしてそこには、もう何もない。

姫百合珊瑚がいた。
振り払われて、綾香の寛骨を摘み上げ、そしてそこには、もう何もない。

姫百合瑠璃がいた。
振り払われて、綾香の仙骨を割り砕き、そしてそこには、もう何もない。

向坂雄二がいた。
振り払われて、綾香の大腸を引き摺って、そしてそこには、もう何もない。

新城沙織がいた。
振り払われて、綾香の虫垂を毟り取り、そしてそこには、もう何もない。

朝霧麻亜子がいた。
振り払われて、綾香の小腸を弄び、そしてそこには、もう何もない。

椎名繭がいた。
振り払われて、綾香の下大静脈にじゃれついて、そしてそこには、もう何もない。

梶原夕菜がいた。
振り払われて、綾香の腹大動脈を撫で下ろし、そしてそこには、もう何もない。

春原芽衣がいた。
振り払われて、綾香の右の腎臓に手を伸ばし、そしてそこには、もう何もない。

緒方英二がいた。
振り払われて、綾香の左の腎臓を見下ろして、そしてそこには、もう何もない。

715来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:23 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――そんで、なんだ? 勝ちと負けを決めるのはなんだ? あたしらを分けるのはなんだ?



佐藤雅史がいた。
振り払われて、綾香の膵臓を掻き毟り、そしてそこには、もう何もない。

伊吹公子がいた。
振り払われて、綾香の脾臓を抱きしめて、そしてそこには、もう何もない。

柏木梓がいた。
振り払われて、綾香の腰椎を折り取って、そしてそこには、もう何もない。

長森瑞佳がいた。
振り払われて、綾香の胆嚢を捧げ持ち、そしてそこには、もう何もない。

柚木詩子がいた。
振り払われて、綾香の十二指腸を小突き回し、そしてそこには、もう何もない。

宮沢有紀寧がいた。
振り払われて、綾香の胃を突き破り、そしてそこには、もう何もない。

山田ミチルがいた。
振り払われて、綾香の広背筋を細く裂き、そしてそこには、もう何もない。

美坂栞がいた。
振り払われて、綾香の腹直筋をぺたりと叩き、そしてそこには、もう何もない。

柏木初音がいた。
振り払われて、綾香の肝臓を貫いて、そしてそこには、もう何もない。

長瀬祐介がいた。
振り払われて、綾香の副腎を侵食し、そしてそこには、もう何もない。

716来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:35:43 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――テンカウントか? レフェリーのジェスチャーか? それともジャッジの採点か?
      そういうんじゃない。そういうんじゃないだろ。



立田七海がいた。
振り払われて、綾香の横隔膜に爪を立て、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、腹はない。
 頭と首と、腕と胸だけが残されて、そこから下には何もない。
 それでも手指は地を穿ち、綾香は前に進んでいる。


宮内レミィがいた。
振り払われて、綾香の胸椎を射貫き、そしてそこには、もう何もない。

巳間良祐がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の下半分を握り締め、そしてそこには、もう何もない。

北川潤がいた。
振り払われて、綾香の肋骨の残りの全部を手に取って、そしてそこには、もう何もない。

柊勝平がいた。
振り払われて、綾香の肩甲骨を丁寧に外し、そしてそこには、もう何もない。

岡崎直幸がいた。
振り払われて、綾香の食道をぼんやりと眺め、そしてそこには、もう何もない。

吉岡チエがいた。
振り払われて、綾香の気道を取り上げて、そしてそこには、もう何もない。

小牧郁乃がいた。
振り払われて、綾香の肺の右のひとつを手で握り、そしてそこには、もう何もない。

向坂環がいた。
振り払われて、綾香の肺の左のひとつを解きほぐし、そしてそこには、もう何もない。

澤倉美咲がいた。
振り払われて、綾香の左心室を切り分けて、そしてそこには、もう何もない。

717来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:02 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――そこで尻尾を巻いたらあたしの負けだ。その時にこそ、あたしは死ぬ。
      人はそこで本当に死ぬんだよ。



名倉由依がいた。
振り払われて、綾香の右心室に縋り寄り、そしてそこには、もう何もない。

リサ=ヴィクセンがいた。
振り払われて、綾香の左心房を刺し穿ち、そしてそこには、もう何もない。

美坂香里がいた。
振り払われて、綾香の右心房を引き剥がし、そしてそこには、もう何もない。

名倉友里がいた。
振り払われて、綾香の肺動脈を引き破り、そしてそこには、もう何もない。

エディがいた。
振り払われて、綾香の肺静脈を解体し、そしてそこには、もう何もない。

藤林杏がいた。
振り払われて、綾香の大動脈を轢き潰し、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、臓器はない。
 呼吸器と循環器と消化器と、その全部を奪われて酸素も血流もなく、
 しかし綾香は、ただ一点を見据えながら前に進んでいる。


神岸あかりがいた。
振り払われて、綾香の僧帽筋を断ち切って、そしてそこには、もう何もない。

森川由綺がいた。
振り払われて、綾香の乳房の右のひとつに力を込めて、そしてそこには、もう何もない。

ルーシー・マリア・ミソラがいた。
振り払われて、綾香の乳房の残りのひとつを両手で抱え、そしてそこには、もう何もない。

住井護がいた。
振り払われて、綾香の鎖骨を取り外し、そしてそこには、もう何もない。

718来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:26 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしら、笑えないからさ。
      頑張ったとか、精一杯やったとか、そういうので笑えないからさ。



姫川琴音がいた。
振り払われて、綾香の右手の指の全部を押し潰し、そしてそこには、もう何もない。

月島拓也がいた。
振り払われて、綾香の右手を撫でさすり、そしてそこには、もう何もない。

保科智子がいた。
振り払われて、綾香の左の指に溜息をついて、そしてそこには、もう何もない。

柏木耕一がいた。
振り払われて、綾香の白い右腕を千切り取り、そしてそこには、もう何もない。

スフィーがいた。
振り払われて、綾香の右の肘を小突き、そしてそこには、もう何もない。

広瀬真希がいた。
振り払われて、綾香の右の肩を捻じ曲げて、そしてそこには、もう何もない。

遠野美凪がいた。
振り払われて、綾香の左手をぺちりと打って、そしてそこには、もう何もない。

橘敬介がいた。
振り払われて、綾香の左腕を踏みつけて、そしてそこには、もう何もない。

芳野祐介がいた。
振り払われて、綾香の左肩に首を振り、そしてそこには、もう何もない。

岡崎朋也がいた。
振り払われて、綾香の頚椎を放り捨て、そしてそこには、もう何もない。

719来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:36:43 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――あたしは、ずっと、世界の真ん中に。



伊吹風子がいた。
振り払われて、綾香の咽頭に指を入れ、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香に、体はない。
 それは地に転がる、一個の首でしかない。
 大地に歯を立てながら前に進む、一個の首でしか、なかった。


古河秋生がいた。
綾香の下顎を割り取って、そしてそこには、もう何もない。

長瀬源蔵がいた。
綾香の耳を両手で覆い、そしてそこには、もう何もない。

相楽美佐枝がいた。
綾香の鼻をつねり上げ、そしてそこには、もう何もない。

七瀬留美がいた。
綾香の頬を引っ叩き、そしてそこには、もう何もない。

藤井冬弥がいた。
綾香の髪を手で漉いて、そしてそこには、もう何もない。

月島瑠璃子がいた。
綾香の舌を引き抜いて、そしてそこには、もう何もない。

高槻がいた。
綾香の上顎を砕き去り、そしてそこには、もう何もない。

七瀬彰がいた。
綾香の右目を抉り取り、そしてそこには、もう何もない。

久瀬がいた。
綾香の左目を静かに見つめ、そしてそこには、もう何もない。

720来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:37:13 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
   ―――美しく。



湯浅皐月がいた。
綾香の頭蓋を切り割って、そしてそこには、もう何もない。

巳間晴香がいた。
綾香の脊髄を吸い出して、そしてそこには、もう何もない。

霧島聖がいた。
綾香の延髄をぶち撒けて、そしてそこには、もう何もない。

深山雪見がいた。
綾香の小脳を掻き乱し、そしてそこには、もう何もない。

柏木楓がいた。
綾香の間脳を切り裂いて、そしてそこには、もう何もない。

柏木千鶴がいた。
綾香の大脳を見下ろし、爪を差し入れて、そしてそこには、もう何もない。


 来栖川綾香には、何もない。
 もう、何もない。
 それでも、前に進む。進もうと、していた。


松原葵がいた。
ファイティングポーズを取っていた。
口も、頬も、瞳もないまま、綾香が笑う。
拳も腕も、脚も身体もないまま構えを返し、拳の先をこつんと当てて、綾香は前に進む。


セリオがいた。
無表情に立ち尽くすセリオに苦笑して、綾香がその頭をひとつ撫で、それきり振り返らずに進む。
どうか、あなたの行く先が美しくありますように、と。
背後から聞こえた声に、手を振った。


そうして、長い道のりの、その最後に。
静かに笑んだ来栖川芹香が、いた。

721来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:37:54 ID:wvXD0MO.0
そっと手を伸ばし、もう何もない綾香を抱いて、芹香が囁く。
―――これでいいの、と。


これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憤激を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の慨嘆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の憂愁を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の決意を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の栄貴を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の光輝を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の気勢を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の心胆を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の反骨を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の我欲を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の願望を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の妄執を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の拘泥を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の迷妄を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の篤信を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の耽溺を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の過去を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の明日を融かし、そしてそこには、もう何もない。

これでいいの。
言葉が来栖川綾香の名を融かして、そしてそこには、もう何もない。


そしてそこには、もう何もない。

722来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:38:12 ID:wvXD0MO.0
 
何も、残らなかった。

身体を喪い、心を奪われ、その名をすら既に持たず、

来栖川綾香は、

故に存在することもできず。

来栖川綾香は、

故に存在せぬこともできず。

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

来栖川綾香は、

故に、

もう、どこにもいない。

723来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:38:49 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意地という、そのただひとつを、除いては。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
.

724来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:09 ID:wvXD0MO.0
それは、終焉となるはずの、一瞬だった。
最早何者でもないそれを抱いた来栖川芹香が、微かに笑んだまま、口を開いていた。
声が、発せられようとしていた。
よくできました、というその言葉が響くことは、なかった。

来栖川芹香を覆い尽くしたのは、     である。
かつて来栖川綾香であった何か。
もう何者でも何物でもないそれが、刹那の内に来栖川芹香を包み、覆い、圧し潰して、呑み込んでいた。

血もなく肉もなく、
光もなく音もなく、
声もなく涙もなく、
ただ来栖川芹香を消し去って、それは在った。


在って、在り続け、それは、     は、前へと、進み始める。

725来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:22 ID:wvXD0MO.0
 
それは、生きて、生きて、生き果てた、もう何者でもない、何か。
それは、ただ生き、在ることを誹る者だけが悪と呼ぶ、そういうものである。

726来栖川綾香:2010/03/02(火) 13:39:37 ID:wvXD0MO.0
 
 
 
 
【時間:すでに終わっている】
【場所:最果て】


     
 【状態:―――】


→796 890 947 950 955 968 1014 1051 1096 1123 ルートD-5

727名無しさん:2010/03/02(火) 13:43:42 ID:wvXD0MO.0
本作の収録タイトルは

『<i><ruby><rb>     </rb><rp>(</rp><rt>クルスガワアヤカ</rt><rp>)</rp></ruby></i>』

とさせて下さい。
次回がルートD-5の最終話になります。

728/生:2010/03/04(木) 17:58:32 ID:RRWdl1IA0
 
どくり、どくりと。
音が響く。

そのもやもやとした、もう何者でもないものが這いずるように近づいてくるのを、
少年は呆然と眺めている。

それは、恐怖だ。
それは、命であったものだ。
それは、生きていたものが、その最後まで生きた、結末だ。

そうしてそれは、道だった。
暗がりに隠されて見えなかった、細い細い、分かれ道。
生まれると、在り続けると、その二股しかありはしないと思っていた、しかし終わりへと繋がる、それは道。
どこかでそれを望んでいた、はずだった。
幸福を保障されない世界なら、腐り果てゆく苦界なら、生きたくはないと。
さりとて長い長い滅びへの日々を、眺めて過ごしたくもないと。
二つの絶望に挟まれて、第三の選択肢は、魅力に溢れている、はずだった。
しかし。

「……何を迷ってる!」
「呑まれれば、きっと何もかもが終われるでしょう、ですが……!」
「あんなのと一緒になりたいか!?」

天沢郁未の、鹿沼葉子の声が聞こえる。
差し伸べる手は、きっとまだそこにある。
こちらへ来いと、命を選べと誘う手。
その道は、まだそこにある。

迫るのは、終焉だ。
その、色もなく音もなく、ただもやもやとしたものは、何もかもを終わらせながら近づいてくる。
踏み躙られた大地が、侵された大気が、取り込まれた夜が、穢された空が、終わっていく。
終わったすべてがそれの一部となって、それは今や、空を覆うまでに拡がりながら這いずってくる。
どくりどくりと響く鼓動は、だから空に反響して何もかもを圧し潰すように響いていた。
白い花に覆われていた大地は、最早見る影もない。
枯れ果てた草の風に吹かれて転がる、赤茶けた土の半分は既に終わっている。
夜空を統べていたはずの赤い月も、ただ迫る終焉を甘受するように痩せこけた光だけを振りまいて、
どくりどくりと響く音に掻き消されるように力なく明滅を繰り返していた。

そうして少年は、ぼんやりと思う。

―――ああ。
終焉に、侵されるまでもなく。
楽園は、とうの昔に壊れていた、と。

音が、やまない。



******

729/生:2010/03/04(木) 17:58:47 ID:RRWdl1IA0
******

 
 
ア、という音では、既にない。
ガ、とグァ、とが混じり合ったような、乾いて潰れた、からからと、がらがらとした音。
それが、春原陽平の喉から漏れる、音だった。

噛まされた布は滲んだ血で赤く染まっている。
暴れた拍子に歯で切った、ズタズタに裂けた舌と口腔からじくじくと滲み出す血が喉を塞いで、
だから定期的に布を外して喉に水を流し込んで血ごと吐かせるそのときに、春原が叫びとも嗚咽ともつかない
奇妙な音を漏らすのだ。

何重にもきつく縛られた手足は擦れて皮が破れ、春原が苦痛に呻いて身をよじる度に、
四肢から新たな激痛を供給していた。
その痛みに暴れればまた手足を寝台に括りつける布がぎちぎちと擦れ、傷を深めていく。
苦痛の螺旋が、春原を取り巻いていた。

存在しないはずの膣口は既に限界まで伸びきって開きながら更なる伸張を皮膚に要求し、
会陰部に小さな裂傷を作って新たに血を流している。
傷は産道が呼吸と共に縮み、拡がるのに合わせて次第に裂け目を広げ、膣内へとその版図を伸ばしていく。
その、流れだす血で人の体の正中に境界線を引くような傷の伸びる先に、ぬるぬると絖る、桃色の肉がある。
児頭だった。



******

730/生:2010/03/04(木) 17:59:10 ID:RRWdl1IA0
******



どくりどくりと響く音の中で、少年は立ち尽くしている。

「僕は―――」

呟いて見上げた夜空の半分は、既に終わりに侵されている。
視線を下ろせば、迫るのは生まれて生きて、踏み躙られたもの。
生まれていれば、自分がそうなっていたかもしれないもの。
恐れていた結末の、具現。
それ自体のありようが、これまでの選択を、ただひたすらに幸福に満たされた世界を探し求め、
久遠に等しい時間を待ち続けた自身の道程を肯定しているかのように、少年には思えた。
行き詰まった道なら、その果ての具現に呑まれるのも、悪くはないような気がした。

「目ぇ開けろ! 意気地なし!」

そんな、微睡みのような夢想を真正面から打ち砕いたのは、叩きつけるような声である。
空を包む鼓動にも負けぬ、天沢郁未の、声だった。

「目の前に何がある! そこに何がいる!?」
「……見てるさ。だけど、」
「見えてない!」

小さく首を振った少年の言葉を、天沢郁未は両断する。

「何も見えてない! 見ようとしてない! ちゃんと見据えろ! そいつを! あんたを!
 考えろ! 覚悟しろ! それで、選ぶんだよ! 流されずに、あんたの答えを!」
「僕、は……」

響く鼓動の音の中、少年は一歩も動けない。
前から躙り寄るのは、何者でもないもの。
後ろに下がれば、やがて天沢郁未に触れるだろう。
動けばそれは、どちらかを選ぶということに他ならなかった。
前にも進めず下がることも許されず、凍りついたように足を止めたまま、少年が眼前のそれを目に映す。
郁未の言葉に押されるように、道ではなく、選択肢ではなく、ただ迫るものとしての、それを。

731/生:2010/03/04(木) 17:59:46 ID:RRWdl1IA0
 
それは、姿のないものだ。
さわさわと震える、人と花と獣とを磨り潰して陽炎に溶かしたような、名状しがたい何かだ。
それは、名前のないものだ。
ゆらゆらと揺らめく、何かであることを拒み、何かであることを否定された、そういうものだ。
それはたぶん、憎悪と嫌悪の塊だ。
何かに憤り、何かを嘆き、何かに唾し何かをぶち撒け何かを咀嚼し嘔吐するような、そういうものだった。

醜悪だと、感じた。
じわりと浮かんだ汗に滑ったように、ほんの半歩、更にその半分を、下がる。
待っていたように、背後から声がする。

「これは勝負だ、あんたと、そいつの。もしかしたら、あんたと、私の。
 或いは、あんたと、それ以外の全部との、勝負なんだよ」

静かに響くその声は、奇妙なことに、空を圧し潰す鼓動の音よりも大きく、少年に聞こえていた。

「選ぶときだ。あんたは負けて終わるのか、生まれて私らと出会うのか」

とくり、とくりと鼓動の音が。
郁未の声に融けるように、届く。

「あんたの半分は、もうとっくに選んでる。あとは、あんただ。それで、決まりだ」
「半分……?」

郁未の言葉を、少年が反芻する。

「半分て、何さ……僕は、僕だ。僕でしかない。まだ、何も選んでない……」
「いいや」

戸惑ったように首を振る少年に、郁未の声が染み渡る。

「この音が、答えさ」
「音……?」

732/生:2010/03/04(木) 18:00:05 ID:RRWdl1IA0
声と、音。
郁未の声に、融けるように。或いは郁未の声を、溶かすように。
とくり、とくりと音がする。
どくり、どくりと音がする。
鼓動の音だ。
星のない夜空に反響し、花のない大地に跳ね返って世界を覆う、それは音だ。

「これは……この音は、だって……」

うぞうぞと躙り寄る、何者でもないもの。
それが人のかたちをしていた時の、更にその前、この大地にどこからともなく現れた、その時から響いている音だ。
だから、それは既に何者でもないそれの、鼓動であり、咆哮であり、悲鳴であり、絶叫である、はずだった。

「……よく見てください」

第二の声が、聞こえる。
鹿沼葉子の、声だ。
淡々とした声が、ただ事実だけを述べるように、続ける。

「あれはもう、人ではない。姿も、実体もありはしない。……心臓など、存在しません」
「だから、音も聞こえない。聞こえるはずがない」

輪唱するように、郁未が続ける。
振り返らぬまま、しかし激しく首を打ち振るって、少年が叫ぶように言い返す。

「だけど、聞こえてる! 僕にはずっと聞こえてる! なら、何だ?
 あいつの鼓動じゃないなら、いま聞こえてるこの音は何だっていうんだい!?」

何者でもなくなったものを指さして言い放ち、荒い息をつく少年に、郁未の声が谺する。

「そんなの、決まってる」

夜に響く、鼓動に詠うように。

「あんたの音だよ」

告げる。

「あんたの中の、命の音だ」



******

733/生:2010/03/04(木) 18:00:23 ID:RRWdl1IA0
******



流れだす血は止まらない。
母体も寝台も赤褐色に染め上げられている。
ぬるりと額に浮かんだ汗を拭う古河早苗もまた、その全身を血に濡らしていた。

状態は最悪に近い。
陣痛は明らかに過剰で母体の身体と精神とを限界を超えて痛めつけている。
会陰部の裂傷は広がり続け、既に肛門近くまで達しようとしていた。
母体が暴れるのは収まりつつあったが、多量の出血で昏睡に陥りかけているに過ぎなかった。

この場に医療関係者はいない。
いるのは一人の経産婦と二人の少女。
投薬もできない。切開も縫合もできない。
鉗子も使えない吸引の仕方もわからない。
死に近づいていく母体と胎児とを前にして、それは無力に限りなく近い。
しかし、それでも、まだ無力と等しくは、なかった。
三人は、女性だった。
生まれ出ようとする生命を前に、血に怯えることはなかった。
誕生の無惨に、怖気づくことだけは、なかった。
それだけが、二つの生命を支えていた。
長い分娩の終わりは、ゆっくりと、しかし確実に近づきつつ、あった。

血の河となった産道の奥に児頭の見えたとき、古河早苗が漏らしたのは安堵の息である。
あとは時間との戦いになる、はずだった。
母体が出血に耐えられるかどうかだけが分かれ目だと、そう思った。
一度、二度の陣痛に収縮した子宮が、児頭を押し出そうとする。
見え隠れしていた児頭が、見えたままになり、しかし、早苗の表情が凍りつく。

おかしい。
向きが、おかしい。
母体は、春原陽平は、寝台に仰向けになっている。
ならば、出てこようとする胎児の頭は、下を向いている、はずだった。
見えている児頭は、明らかに、横を向いていた。

びくりと痙攣するように、母体が震える。
陣痛に押されるように子宮が縮み、しかし、児頭は、出てこない。
出て、こられない。
妊婦の頃を、思い出す。
読み耽った本を思い出す。
目の前の状況の、切迫を、理解する。

縦に長い産道を、縦に長い胎児の頭は、だから回転して縦向きに潜り抜けようとする。
もしも胎児が回転をしなければ。
児頭は、産道を通り抜けることができない。
低在横定位。
そんな、異常分娩の一例が。
目の前に、あった。

出てこない。出られない。
強かったはずの陣痛が、次第に間隔を空けていく。
母体も、限界を超えていた。

ほんの数センチの壁の向こうに、命が消えていこうと、していた。



******

734/生:2010/03/04(木) 18:00:45 ID:RRWdl1IA0
******



とくり、とくりと命が響く。
もう、その半分以上が終わってしまった空に満ちるように。

どくりどくりと、鼓動が響く。
枯れ果て、眠りについた大地を、揺り起こすように。

凛と光る、それは音だ。
地の底の岩屋に響いた、それは聲だ。


   ―――ねえ、世界って―――


鼓動に揺れる少年の、呆然と両手を当てた胸の、その奥から響く、それは問いだった。
それは、記憶ではない。体験でもない。
ただ、確かにそれを発したことがあると、それだけを少年は感じるような、問いだ。
覚えている。
記憶でもなく、経験でもなく、ただ、覚えている。
問いと、応えを覚えている。


   ―――んなこと、ねえよ―――たまにかったりいけど、な―――


 ―――わかんないけど……少なくとも、退屈はしてない……かな―――


   ―――私には、好きな人がいるんだ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。それが―――


 ―――いいえ、いいえ。確かにままならず、確かに愚かしく、確かに脆弱で、取るに足らず―――
    

覚えている。


     ―――それでも、素晴らしいものも、ほんの少しだけ、ありました―――


返る応えの、輝きを。


  ―――そう―――


そうして決めた、その道を。


  ―――なら、僕は―――


少年は、


  ―――生まれたいと、思う―――


覚えている。

735/生:2010/03/04(木) 18:01:01 ID:RRWdl1IA0
 
「生ま、れる……」

どくり、どくりと。
響く鼓動が、覚えている。

「僕は、生まれるのか……?」

それは、半分。
答えの半分。

「……ああ」

もう半分を、求めるように。

「あんたは、こんなにも、生まれたがってる」

天沢郁未の、声がする。
今やはっきりと己の内側から響いてくる、鼓動に背中を押されるように、少年がおずおずと口を開く。

「僕は……僕は、生まれさせられるのか……?」
「違う」

否定は、鋭く。

「お前が、選ぶんだ」

続く言葉は、やわらかく。

「そう、か……」

鼓動が、苦しい。
大きく、息を吸う。
吸い込んだ夜の大気にも鼓動が染み付いていて、それはひどく重苦しい。

「そうだ……」

目の前には、ふるふると揺れる、何者でもない終わりの具現。
幸福を保証されない世界の、生の果て。

「僕は……」

見据えて、思う。
これまでの久遠を。
無限の試行と、失敗を。
思って、口を、開く。

「僕は、生まれたかった―――」

答えの全部を、口にして。
少年が、走り出す。



******

736/生:2010/03/04(木) 18:01:14 ID:RRWdl1IA0
******



それは、だから、ほんの小さな、奇跡ともいえないような、一瞬だ。

どくり、と。
胎児が、小さく震えたその瞬間。
母体の収縮に、合わせるように。
くるりと、児頭が回っていた。

それはまるで、誕生までの数センチを躊躇っていた命が、微かに頷いたように。
生まれてこようと、するように。



******

737/生:2010/03/04(木) 18:01:40 ID:RRWdl1IA0
******



振り返れば、そこには手。
差し伸べられる、手があった。

「―――来い!」

走り出して、辿り着くまで。
ただの、一歩。
ほんの、一歩だった。

「―――」

天沢郁未と、鹿沼葉子の伸ばした手に、少年がそっと、手を重ねる。
どくりと鼓動が、重なった。
見上げて、尋ねる。

「待ってて、くれる……?」

見つめる瞳は、すぐ近く。
怯えたようなその声に、郁未は眉を顰ませて、

「待つか、馬鹿」

言い放つ。
びくりと強張った少年の手が、しかし次の瞬間、強く握られる。
温もりの先に、悪戯っぽい瞳が、あった。

「走りなよ、頭と身体使ってさ!」

言った郁未が、

「誰だって、そうやって、追いついてくる」
「……、うん」
「ちょっとくらいは、寄り道しててやるかもね」
「……すぐ、追い抜くさ」
「よく言った」

頷いた少年と、傍らに立つ鹿沼葉子に、深く笑む。
重ねたその手に、力が込められた。

738/生:2010/03/04(木) 18:01:57 ID:RRWdl1IA0
 
「なら、天沢郁未と―――」

背後には終焉。
空は終わり大地は終わり、しかし跳ね除けるように、声は響く。

「鹿沼葉子は―――」

重なる声が、光を生み出す。
それは、力。
不可視と呼ばれた、祈りの力。
かつて少年が人に預けた、可能性。

「その誕生を―――」

ほんの僅か、残された空に。
赤い月が、浮かんでいる。
痩せこけて、しかし輝く、赤い月。
小さな小さな夜を統べる、その星に向かって。

「祝福する―――!」

光の道が、開く。



******

739/生:2010/03/04(木) 18:02:31 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
******

740/生:2010/03/04(木) 18:02:55 ID:RRWdl1IA0
******



海原に、陽が昇る。
ちゃぷちゃぷと、白い羊の波を掻き分ける音だけが響く水平線に、夜明けの緋色が満ちていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

夕暮れの街に、夜が来る。
喧騒もなく、ただ色とりどりのネオンサインが煌く街を、夜闇がそっと覆っていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

麦畑に、雨が降る。
さわさわと、風に実りを謳う穂に、恵みの雨が染みていく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

蒼穹に、虹が立つ。
吹く風に、雨上がりの涼しさと空の高さを含ませて、彩りが蒼の一色に滲んでいく。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

雪山に、星が瞬く。
空いっぱいの煌めきが、新雪に残る足跡ひとつを、幻想色のオーロラと共に照らしている。
そうしてそこには、誰も、誰もいない。

最果ての、夜が明ける。
星はなく、月もなく、花もなく、何もなく。
そうしてそこには、もう、誰も、誰もいない。

741/生:2010/03/04(木) 18:03:43 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
小さな島の、陽が沈む。

その片隅の、夜に抗う、産声の中。

空に向けて咲く花のような、その小さな手のひらが掴むものを、未来という。
 
 
 
 
 
.

742/生:2010/03/04(木) 18:04:08 ID:RRWdl1IA0
 
 
 
 
 

【葉鍵ロワイアル3 ルートD-5 完】





.

743名無しさん:2010/03/04(木) 18:07:51 ID:RRWdl1IA0
以上をもちまして、ルートD-5の物語は完結となります。
長らくお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

それではまた、どこかでお目にかかれることを祈りつつ。

744エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:45:17 ID:.B1J6ho60
 いざ目の当たりにしてみれば、それは人とは明らかに異なる姿だった。

 にこりともしない無表情に、そよとも靡かないプラチナブロンドの長髪。
 一見華奢に見えるものの、所々浮き出ている骨格のようなものは、明らかに女性のものではない。
 今までに見てきたメイドロボとは、何もかもが違う。
 あくまでも人間に近づけ、人間のためにを設計思想として開発されたそれと違い、
 目の前のロボットはあくまでも人を殺すように開発されている。

 本当に進化したロボットは、人と見分けがつかなくなるという。
 その意味では、これは退化している。誰の目にも分かる禍々しさを漂わせているロボットが、人間に近しいはずがない。
 メイドロボにだって劣る。そう結論した朝霧麻亜子は、いつもの調子で黒いコートを纏う修道女に話しかけた。

「ちょい待ちなよ。このままあたしらを銃撃してもいいのかな」

 P−90の銃口は全くブレず、現在は芳野祐介にポイントされている。
 逃げ場のないエレベータだ。このまま乱戦になれば、少なからぬ犠牲が出ることは目に見えている。
 エレベータが降りきるまで時間を稼げればよし。銃撃戦にならなければさらによし。
 口八丁手八丁は麻亜子の得意技だった。自分が、役に立てるのはここしかない。

「あちきら爆弾持ってるのよねえ。下手に撃てば……ドッカーン! なんだけど、さ」

 嘘ではない。流れ弾が台車の爆弾に命中でもすれば、アハトノインも自分達も粉微塵に吹き飛ぶ。
 加えて、建物自体に甚大な被害が及ぶことであろう。
 仮にもロボットならばそれくらい考える頭はあるはずだと期待しての言葉だった。
 ロボットの――アハトノインの目が麻亜子の方に向いた。
 単に音声と認識したのか、それとも内容の不味さを聞き取ったのかはまるで判断がつかない。

「ご心配には及びません」

745エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:45:41 ID:.B1J6ho60
 赤子をあやすかのような声で、アハトノインが言った。
 無表情と相反するような清らかな声質に、麻亜子はいっそ笑い出したくなった。ここまでちぐはぐだと笑うしかない。

「我が高天原は、どのような悪魔の業火にも耐え得る、唯一の安住の地なのです。
 恐れることはありません。怖がることはありません。ここは、母なる大地の御加護によって守られているのですから」

 何の根拠もない、神がここにいるから大丈夫なのだという、愚直なまでの敬虔さで語る修道女に、全員が声を失った。
 これはそもそもロボットですらないのか。考え、認識するという機能さえ持ち合わせていない、ただの機械。
 馬鹿野郎、と麻亜子は叫びたくなった。目の前の盲目な修道女に対してではなく、これを作り上げた人物に、だ。

「ですから」

 アハトノインが唇の端を吊り上げた。初めて笑う彼女の顔は、不出来な人形のようだった。

「あなたを、赦しましょう」

 麻亜子は既に走っていた。言葉に耳を傾ける暇も、意味もないと悟ったからだった。
 先ほどまでいた場所に銃弾の雨が叩き付けられ、火花が散る。
 さらにこちらに伸びてこようとする火線を、他の三人が遮りにかかる。

「囲めっ! 対角線にならないように囲んで撃て!」
「む、難しいこと言わないでくださいよ!」
「ユウスケさんはいつもそうです!」

 芳野がウージーを、藤林杏が89式小銃SMGⅡを、伊吹風子がSMGⅡを抱えて走る。
 中央にいたアハトノインは敏感に状況を察知したのか、一旦銃撃を停止し、取り囲むこちらの状況を窺った。

「おっと、あたしも頭数に入ってること忘れないでくれよっと!」

746エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:03 ID:.B1J6ho60
 チャンスと判断し、麻亜子が反撃のイングラムを撃つ。
 だが動きながらの射撃は精度が低すぎるらしく、軽くステップして避けられる。
 ならばと陣取りを終えた三人がそれぞれ射撃を開始する。
 咄嗟に顔を覆うようにガードしたアハトノインに無数の銃弾が突き刺さる。
 普通の人間ならば既に致命傷だが、この人ならざる修道女に常識は通用しないことを知っている。
 漆黒色のコートは防弾コートであり、自分達の持つサブマシンガン程度では貫通すら不可能だ。
 現にアハトノインは少したたらを踏んだだけで、まるでダメージなど受けていないようであった。

「くっそ、やっぱこんな武器じゃダメか……」

 杏が弱気の音を吐くのを「そうでもない」と冷静な芳野の声が遮る。

「藤林の小銃は、通っているようだぞ」

 ガードを解いた修道女の太腿に、赤い線が垂れる。血液かと思ったが、そうではない。
 人を殺したことのある麻亜子はすぐに分かった。血と同じ赤色ではあるが、どろりとしていない。
 つまりはほぼ粘着性がないということだ。自分の知っている血というものは、もっと汚いものだ。
 そう思っている自分に気付き、やだな、と麻亜子は思った。汚いという発想に至っている自分が嫌になった。
 人間はそんなものじゃないってわかっているのに――

「まーりゃんっ!」

 誰かの叫び声で意識を沈思させていることに気付いたときには、既にアハトノインが眼前に迫っていた。
 全身に力を総動員させ、しゃがんで刃物を回避する。
 振り下ろしてくるとは考えなかった、いやその考えは捨てていた。
 曲がりくねった刀身を見た直後、首を狩ってくるという発想に至ったからだ。
 結果として勘は当たったものの、肝が冷える思いを味わった。

 こんなときに物思いになんか耽ってるんじゃないよ、あたし! まーりゃんだろ!

747エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:21 ID:.B1J6ho60
 自身に活を入れ、反撃に移る。
 ボウガンの矢を取り出し、渾身の気合と共にアハトノインの足に突き刺す。
 それは奇しくも以前篠塚弥生が行った、鬼となった柏木耕一を足止めするときに行ったものと同一の手法だった。
 そのまま前転してアハトノインから離れる。反転して追撃しようとした修道女は、
 しかしバランスが悪いと感じたのか一旦矢を引き抜く作業に入った。

 それを他の三人が見逃すはずがない。
 一斉射。エレベータの端に追い詰められていたために、そのまま直撃すれば落下も考えられた位置ではあった。
 ところがアハトノインは軽い調子で、だが人間には考えられないほどの跳躍力で飛んで避け、
 壁際にあった梯子を掴むという離れ業をやってのけた。

「なんなのよ、あいつ!」

 マガジンを交換しながら杏が苛立たしげに叫ぶ。
 気持ちは分かる。麻亜子ですらこれで決まりだと思っていたからだ。
 源義経よろしく八双飛びされるとは考えてもみなかった。

「まあまあ。あんまり怒ると傷に響くぞ?」

 熱くなってはいけないと思い、親切心からそう言ってみたのだが、返ってきたのはギロリと睨む視線だった。

「あんたね、さっき死にそうになっといて何言ってんのよ」
「や、あれは敵に隙を作るための孔明の罠」
「嘘です。風子には分かります。ぼーっとしてました。ダメダメです。ぷーです」

 横槍を入れられ、なにを、とすまし顔の風子に言い返そうとしたが、事実であるだけに言葉が出てこなかった。

「ったく、一瞬寿命が縮んだわ。何考えてたか知らないけど、しっかりしてよ」
「そうですそうです。そんなんだからチビなんです」
「おい関係ないだろそれー!」
「来るぞ!」

748エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:38 ID:.B1J6ho60
 大体チビはお前もじゃないか、と言うのを遮ってくれたのは芳野だった。
 空気読めてないと文句の一つでも垂れたくなったが、敵もまた空気は読めていないらしい。
 梯子から落下するようにしてアハトノインが舞い戻ってくる。
 最初の襲撃のときより高度があったためか、今度の着地では麻亜子達にも振動が伝わってくるほどの揺れが生じた。
 あの重量でなんであんなに飛べるんだ。以前戦った鬼にも勝るとも劣らない無茶苦茶ぶりに舌打ちをしたところで、
 場違いな警報とアナウンスが流れる。

『安全のためにエレベータを一時停止します。繰り返します、安全のためにエレベータを一時停止します』

「……さっきのどすこい! のお陰で止まっちゃったみたい」
「最悪です」
「おいこっち見んな」
「ってことはなに? 足止め……ってこと!?」
「そのようだな」
「最悪……」
「最悪だな」
「だー! 皆してこっち見んなー!」

 本心から麻亜子のせいにしているわけではないのは分かるが、ついついノリで返してしまう。
 とはいえ、本当に状況は悪い。
 少し戦っただけでも分かるが、アハトノインの戦闘力は尋常ではない。
 このまま缶詰にされていては無事では済まない。
 冗談抜きに、さっき麻亜子も死に掛けたのだから。

 一応倒す手段もないではない。
 エレベータから突き落とすなどすればこの局面は切り抜けられる。
 けれどもそれが難しいのはあの回避力を見れば明らかである。
 接近戦など持っての他。偶然回避できたから良かったようなものの、あの剣戟は見切れるものではない。
 つまるところ、遠距離でも近距離でも不利。そして今は逃げる手段さえない。

749エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:46:56 ID:.B1J6ho60
 どうすればいい、と内心に冷や汗を垂らしながら思う。
 切欠は自分だ。なら自分がどうにかしなければならない。
 せっかく生き長らえた命だ。ここで使ってみるのも悪くはないかもしれない、と麻亜子は思った。
 捨てるための命ではなく、使うことに意義を見い出せる命。
 一度は失ってしまった、命を賭けてでも守りたいと思えるなにか。
 捨て鉢のつもりはない。自分で選んで、それに納得のできる選択なら、大丈夫。

「あのさ」
「却下」
「却下です」
「……何も言ってないんだけど」

 言わなくても分かる、というように、却下と言い放った杏と風子が大袈裟に溜息をついた。

「別にそんなの、求めてないですし」
「そうそう。そんなの見せ付けられてもねえ」
「いや、何をするか言ってもない……」

 その先は二人に睨まれて続けることが出来なかった。みなまで言わせるなと言いたいらしい。
 どうやら提案することさえ許されていないらしい己が身を自覚して、麻亜子は「じゃあどうすんだよ」と半ば喧嘩腰で言い返した。

「やれやれです。目まで節穴になりましたか」
「あー!? ……っと!」

 風子に言い返そうとしたあたりで、アハトノインが地面を蹴って突っ込んでくる。
 戦術は以前と変わらず。懐に飛び込む利を覚え、金髪を靡かせながら接近してくる。
 固まっていては斬撃の餌食になるだけだ。素早く散開して銃撃を展開する。
 だがやはりサブマシンガン程度では効き目がない。唯一効力のあるライフル弾も決定的なダメージにならず、
 そもそもライフル弾だけは避けてくるので実質無傷だ。
 誰かが動きを止めなければならないのだ。倒すならば。

750エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:20 ID:.B1J6ho60
「で、目が節穴って何だよ! 事と次第によっちゃチビ太郎に格下げすっぞ!」

 逃げ回りながら、麻亜子は風子に問いかけた。
 目の前に迫ってくる絶望から目を逸らしたかったからなのか、それとも恐怖を感じていたくなかったからなのか。
 ……或いは、いつもの自分でいたかったのか。
 それってなんだろうね、と自身に問いかけて、よく分からないという返事だけがあった。

「ふーっ! 風子男の子じゃないですっ! そんなことはどうでもいいから上見なさい上をっ!」
「うえー!?」

 くいくいと指差す風子に応じて顎を上げる。
 エレベーターに動きはない。まさか梯子を伝って逃げろという馬鹿な発想ではなかろうかとも思ったが、
 すぐにそれが思い違いであることを知らされる。

「あるでしょ、穴が!」

 杏の呼びかけに、麻亜子は少し遅れて頷いた。存在に気付かず、一瞬呆然としていたからだ。
 そう、人一人がどうにか通れそうなくらいの穴が壁に空いていたのだ。
 通風孔かなにかだろうか。或いは非常用の通路なのか。
 とにかく、さあ使ってくれと言わんばかりにあった穴を見過ごしていたことに麻亜子は呆れ、腹を立てた。
 なるほど節穴か。言い得て妙な例え方に今度は可笑しくなり、それ以上己の迂闊さを責め立てるのは一時やめにすることにした。

「ああ、あるねっ!」
「そっから逃げればいい!」
「足止めはどうすんのさっ! こいつ、ただで逃がしてくれるほど気前がいいと思えないぞっ!」

751エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:37 ID:.B1J6ho60
 アハトノインは風子を狙い撃ちしていたが、斬撃するタイミングで杏が頭部を射撃しようと試みてくるために手が出せないでいた。
 ならばと目標を変更しようとすれば、今度は芳野と麻亜子で足を狙う。
 距離が離れていればそこにポイントできる程度の隙はあった。
 足はむき出しであるため、直接ダメージを与えられる数少ない部位であり、
 さらにアハトノインが人間型のロボットであるために衝撃でバランスも崩しやすいという理由もあった。

 結果として四方八方から射撃される羽目になったアハトノインは回避に専念せざるを得ず、今のところは五分五分の状況だ。
 ただし、それは常に距離を取っていればの話であり、一旦追い詰められれば不利なのは火を見るより明らか。
 五分五分と言っても、限りなく危うい五分なのだ。

「足止めなら俺がやる! 後藤林、お前も援護しろ!」
「了解っ!」
「待て待て待ちなよ! 足止めって簡単に言うけどさ!」
「お前ら両方チビだからあそこも通りやすいだろ!? そういうことだ!」
「がーっ! なんじゃそりゃー!」
「ユウスケさん……いいんですか」

 風子もチビというワードに反応するかと思えば、案外冷静な反応だった。
 そういえば、と麻亜子は思い出す。言葉こそ少ないが、あの二人は互いを気遣っているような見えない何かがあった。
 いや、特別な関係であるからこそ言葉がなくとも通じ合っていたのかもしれない。
 国崎往人と川澄舞がそうであるように。とはいっても、彼らのような男女の関係とはとても思えなかったが。

「構わんさ」

 簡潔に過ぎる一言。麻亜子などではその真意など推し量れようもない短い言葉だったが、風子は全てを汲んだらしい。
 分かりました、といういつもの硬い言葉を残して、風子は芳野とすれ違うように走る。
 逃がすまい、とアハトノインも追う。

 金属の床を叩く、ハンマーに似た音が猛獣のように迫る。
 その真正面から芳野がウージーを乱射する。顔面を狙ったものだったが、器用に首を逸らされて当たらない。
 ひゅっ、と風を切ってグルカ刀が構えられる。そこで芳野の弾も尽きた。
 まずい――! 走っていた麻亜子は援護に駆け寄ろうとしたが、狙いの安定しないイングラムでは巻き込む可能性があった。

752エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:47:55 ID:.B1J6ho60
「まーりゃんは……今は逃げるだけ考えてればいいのよ!」

 だが芳野の真後ろから続け様に射撃が行われる。
 半ば芳野を盾にしたような形だったが、アハトノインには想定外だったらしい。
 腰のあたりを撃ち抜かれ、ガクンと体勢が崩れる。
 その隙を見逃す芳野ではなかった。いや、最初からそもそもこれを想定していたのかもしれない。
 手早くデザートイーグル44マグナムを取り出すと、一つの無駄もない動作で引き金を絞った。

 拳銃弾とは比べ物にもならない重低音と共にアハトノインの上半身が揺れ、続けて放たれた第二射が右腕を砕いた。
 関節部の脆い箇所にでも当たったのだろう。
 空気の詰まった袋が弾けたように、金属片が飛び散った。
 腕が床に落ちたのと、風子が穴に入ったのは同時だった。
 アハトノインは肩の付け根から血飛沫を、いや正確には血とよく似た色の液体をスプリンクラーのように撒き散らしていて、
 当の彼女もそれを不思議そうに眺めていた。このような場面に突き当たったことはないらしい。
 それにしても悲鳴のひとつも上げず、首を捻りながらなくなった腕を見つめていることには不気味さすら覚える。
 映画に出てきた殺戮ロボットもこんな感じだった。そんなことを思っていると、急に工学樹脂の瞳がこちらへと向けられた。

「主よ、どうか愚かなるわたくしどもをお赦し下さい」

 手に持っていたグルカ刀を放り捨て、腰からP−90を抜き放つ。
 射撃してくるのかと身構えたが、銃口はあらぬ方向へと向けられていた。
 先ほどの言葉と合わせ、電子頭脳でも狂ったかと考えたが、すぐにその意図に気付いた。

「あいつっ、自爆する気だ!」

 P−90の先にあるのは置き去りにしたままの爆弾。
 死なば諸共。右腕がなくなった不利から計算して自爆するのが最も有効な戦術だと踏んだのだ。
 信心深いにも程がある。なにをどうしたら自爆なんて選択肢を選ばせることになるのか。
 麻亜子はイングラムを構え、引き金を絞ったが弾が出て来ない。弾切れ――!
 なんでこんなときにっ! この状況すらアハトノインの計算に入っているのではとさえ思い、ふざけるなという感想だけが残った。

753エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:11 ID:.B1J6ho60
 誰でもいい、なんとかしてくれっ!

 偶然でもご都合でもいい。ここまで散々苦しめておいてまた見捨てるなんて許せない。
 自分がこの状況を招いたというのなら、もっと不幸にしてくれても構わない。
 だからあのロボットを、誰か……!

「うおりゃあああぁぁああぁぁああぁっ!」

 二度とするまいと思っていた神頼みに応えてくれたのは偶然でも何でもない、杏の裂帛の気合だった。
 3キログラム超はある89式小銃が、ぶおんと音を立てて飛んでゆく。
 凄まじいスピードと回転だった。女の膂力ではとても考えられないものだったが、火事場の馬鹿力がそうさせたのだろうか。
 唸りを上げて迫ってきた89式小銃の投擲は、
 アハトノインの常識では考えられないものだったらしく、避ける動作さえさせずに激突した。
 P−90が零れ落ち、更に走っていた杏が飛び蹴りで転ばせる。
 怪我が完治していない杏は衝撃から来る苦痛に顔を歪ませたが、すぐに熱の籠もった顔に戻った。

「今の内に! 昇れまーりゃんっ! ってか早くしろ!」

 杏の動きに見惚れ、棒立ちになっていた麻亜子は「わ、分かってるよ!」と返して穴に潜り込んだ。
 風子は既に向こう側へと移動したのか、姿は見えない。
 そんなに長い穴でもなさそうだと判断して先に進もうとしたところで、忘れていた一つの疑問が浮かび上がる。

「爆弾どーすんの!?」

 狭い穴の中で何とか身を捩って、麻亜子は背後にあるエレベータに向きながら問いかける。
 そう、ここから逃げるのであれば必然、爆弾は置き去りにすることになる。

「後で取りに来ればいい」
「でもさっき自爆しようと……」

754エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:28 ID:.B1J6ho60
 いいかけて、自爆が目的ではないということに麻亜子は思い至る。
 あくまでも自分達を倒すことがアハトノインにとっての優先事項で、爆弾自体は問題ではない。
 全員がここから逃げれば、爆弾の存在は放置して追跡にかかることは十分に考えられる。
 無論自爆しない可能性はないが、メリットが特にない以上、ロジックにがんじがらめの連中には考えにくい。

「命あっての物種だからな」

 普段なら三流であるはずのその台詞も、今の自分達にとってお似合いだと麻亜子は思った。
 生きてさえいれば。どんなに僅かでも可能性はある。
 分かったと頷いてまた身を捩らせようとしたところで、再び警告音が鳴り響いた。

『エレベータ再起動。運転を開始します』

「げっ!?」

 なんてタイミングだ、と思った。早くしなければエレベータが下降してしまい、この穴に入れなくなる。
 電気系統が動き出す低音が聞こえ始め、早くしないとという麻亜子の焦りを強くする。

「と、取り合えずこっちに昇って! エレベータが下がればあいつだって追えないんだからさ!」

 身を捻るタイミングはないと結論した麻亜子はずりずりと後ろに下がりながら芳野と杏を手招きする。
 とにかくこちら側まで来させることが優先事項だった。
 既にアハトノインは立ち上がっているものの、銃も刀も手放して空手の彼女に追撃する手段はない。
 片腕も失ってバランスも悪くなっている以上、走ったって追いつけない。
 それは二人も先刻承知のようで、距離があることを一瞥して確認し、一緒に走り出す。

755エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:48:48 ID:.B1J6ho60
 間に合うはずだ……そう確信し、ほっと安堵の溜息をつく。
 爆弾を置いてくるのは痛手だが、とにもかくにも全員が無事であって良かった。
 移動した後はまず爆弾の回収を優先するか、それとも脱出に向けて何かを探すか――
 そんな麻亜子の思考は、視界に写ったアハトノインによって中断された。
 え? と思わず声に出してしまっていた。何もなかったはずの、空手だったはずの彼女の左手には、
 小型のナイフが、握られていた。

 やめろ――! そう叫ぶ前にはもう、アハトノインがナイフを投擲していた。
 狙いは当然、距離的に近かった杏だった。
 全く想像外の一撃に、杏は驚愕と苦悶をない交ぜにした表情を浮かばせて崩れ落ちる。
 同時、エレベータが動き出した。じりじりと下がってゆく足場に、麻亜子は間に合わないと直感した。
 それは目を合わせた芳野も同じだったようで、杏と麻亜子を交互に見返す。

 何を言えばいい、と飽和する頭で思った。
 杏か、自分達か。そんな冷酷すぎる選択肢を突きつけられるはずがない。
 なんでだよ、と麻亜子はありったけの怒りを含ませて呟いた。

 ふざけるな。このまま杏を見殺しにしてたまるか。

 エレベータに降りようとした麻亜子に「来るなっ!」と叫んだのは芳野だった。
 鬼の形相で睨まれ、びくりと身を竦ませた麻亜子に、今度は打って変わって微笑を浮かばせた芳野が言う。

「先に行ってろ。俺はもう少しこいつと遊んでから行くさ」

 じりじりと杏に迫るアハトノインを指差す芳野に、麻亜子は呆れとも怒りともつかぬ感情を抱いた。

「カッコつけんな! あたしに、何もするなって言うのかよ!」

 感情の矛先は自分だった。まだ何もやっていない。こういう損をする役回りは本来自分の役目ではなかったのか。
 何のためにここまで、泥を啜ってまで生き延びてきたのか。分からないじゃないか。
 自分にはやるなと言った癖に? 無茶苦茶だ。そんなものがまかり通るものか。

756エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:03 ID:.B1J6ho60
「ガキが出しゃばるんじゃない」

 身を乗り出し、援護に行こうとした麻亜子の意志を打ち砕いたのは芳野の冷徹な声だった。
 既に芳野はウージーの弾倉を交換し、杏の盾になるように移動していた。
 エレベータは止まらない。徐々に小さくなってゆく芳野の姿とは対照的に、声はどこまでも大きく響いた。

「今出てきても狙い撃ちだ。感情に任せて自分のやるべきことを見失うんじゃない。来るな。これは大人としての命令だ」

 やるべきこと? なんだよ、それ。
 それをあんたがやろうとしているんじゃないかと言い返そうとした麻亜子に、一際大きな声で芳野が言った。

「妹を守れるのはお前だけだ。妹を……風子を、頼む」

 声を大きくしたのは、麻亜子の後ろにいる風子に対して言ったものなのかもしれなかった。
 その意図を、その言葉を聞いてしまえば、これ以上我を押し通すことなど出来ようはずもなかった。
 狡い。一番大切な人を任されて、言い返せるはずがない。
 かつて河野貴明に対して、ささらを頼むと言ったときのことを思い出し、
 自分はこんなにも過酷なことを押し付けていたのかと麻亜子は後悔した。
 握る拳が震え、折れそうなほど歯を食い縛る。
 言葉を失った麻亜子を置いて、エレベータは下がってゆく。

 ――なら、だったら。

 貴明はささらを守りきれなかった。それでも、最後の最後まで守ろうとした。
 それで舞の命は救われ、舞が自分の命も救った。

 ――自分は……誰かを救えるのだろうか?

     *     *     *

757エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:19 ID:.B1J6ho60
 ここにきて、無理が祟ってきたらしい。
 ナイフが突き刺さった場所から、波が伝播してゆくように全身に熱が走り、感覚を灼く。
 意識が朦朧とする。力が入らない。頭がちりちりする。吐きそうだ。
 全身がぷつぷつと切れてゆくような、自分をつなぎ止めているものが切れそうな感じは、きっと気のせいではないのだろう。
 傷が開きかけていることを半ば確信しながら、杏は背中に突き刺さったナイフを乱暴に引き抜いた。
 ぬるりとした感触が嫌で、即座にナイフは投げ捨てた。
 刃の半分以上が血で汚れていたことから考えると、
 きっと大怪我なのだろうなと他人事のように思いながら、杏はニューナンブを引き抜いた。

 倒れたままの姿勢で二発、三発と引き金を絞る。
 いつの間に拾い直したのか、P−90を構えていたアハトノインが下がる。
 いきなり下がったアハトノインに、ぎょっとした芳野が杏の方を向きかけたが、「よそ見しない!」と一喝すると、
 すぐに追撃を開始した。
 だが右腕がないにも関わらず、アハトノインは必要最低限の回避動作をするだけで応える様子もなかった。
 全く忌々しい。ナイフを隠し持っていたことといい、底意地の悪さが見て取れようというものだ。

 舌打ちしながら、改めて状況を確認する。
 エレベータは既に動き始めており、ここには杏と芳野、そしてアハトノインしかいない。
 残りの二人は無事逃げおおせたということだ。
 安心する一方で、こちらは絶体絶命の状況に追い込まれたことも理解して、杏は乾いた笑いを上げた。

「置いてかれちゃいましたね」
「そうだな」

 淡々とした返事。だが弱さもなく、黙って盾になってくれた芳野に対して杏が思ったのは、頼りになるなという感想だった。
 言葉にしなければ伝わらないこともあるが、言葉にしなくても伝わることもある。
 男だけにしか分からないものなのかと思っていたそれが、今ようやく理解出来たような気がして杏は少し嬉しくなった。

「で、どうします? もう逃げられませんけど」
「一応……考えてはいる」

758エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:35 ID:.B1J6ho60
 少し間を置いたのは、逡巡しているということなのだろう。
 つまり、それは――

「いいですよ、やっちゃってください」

 考える前に、杏は言い切った。
 考えてしまえば腹を括れるはずもないと思ったのがひとつ。
 それと時間がないと思ったのがひとつだった。

「でも一つだけ聞きますよ」
「なんだ」
「最初からこのつもりじゃなかったんですよね」
「当たり前だ」

 間をおかず、芳野は即答してくれた。
 期待通りの返事にホッとする。けれども、だからこそ、あの一瞬の逡巡がどれだけの苦悩に満ちていたのか想像するのも難く、
 ヘマやっちゃったなぁという後悔が浮かんできた。
 この過失が誰のせいでもないということは分かっている。この負債を誰が背負うのかということも答えられるはずがない。
 そういうとき……いつも黙って請け負ってくれるのが大人だった。
 結局最後の最後まで借りを返すことは出来なかったと思いを結んで、だったらと杏は自身の弱気の虫に言い返した。
 ガキんちょは我侭言ってやろうじゃないの、と。

「何かできることあります?」
「好きにしろ。ただ、自爆はしてくれるなよ」

 ああ、そういう作戦かと杏は納得した。あくまで勝つため、か。
 どうやらしぶとく生き残るつもりであるらしい芳野に応えるように、杏はなにくそと体に鞭打って足を立たせる。
 ほら、立てた。まだ生きれるじゃないの、あたし。
 口内にへばりついていた血を床に吐き捨て、杏は不敵な目で眼前の敵を見据えた。

759エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:49:52 ID:.B1J6ho60
 こうして見てみれば、状況は決して不利なばかりではない。
 アハトノインは片手を失い、かつ空手。
 先程のようにナイフを隠し持っていることも考えられるが、いつまでも続くわけがない。
 どだい、逃げようとしていた以前とは違い、こちらは背水の陣で覚悟を決めている。
 本当に持っていたとしても不覚は取らない自信があった。

 芳野がウージーを構えながら突進する。
 その選択は正しい。敵に行動させる暇は与えない。活路は前にある。
 地を蹴って芳野から離れようとするところに、杏が日本刀を持って迫る。
 狙うは首一つ。ロボットと言えど、頭部を破壊されては無事ではいられないはず。
 渾身の力を込めて白刃を横に薙ぐ。人間の皮膚程度なら紙でも裂くように斬る刃は、しかし咄嗟のガードによって阻まれる。
 空いた左腕で受け止めたのだ。怪我など考える必要のないアハトノインならではの防御だった。

 だが、これは布石。
 近接武器の役割は力で抑え込むこと。即ち、動けなくさせること。
 芳野は銃を撃ちに行ったのではない。
 拾いに行ったのだ。

「退けっ!」

 バックステップした瞬間、凄まじい銃弾の雨がアハトノインを撃ち貫き、ビクンと体を跳ねさせる。
 P−90の5.56mm弾が防弾コートごと貫通し、皮膚の内面で回転して衝撃を伝えた結果だった。
 よろめき、赤い液体を吹き散らす修道女。更にP−90の銃口を引き絞った芳野だったが、
 今度は垂直に飛んで避けられる。
 もはや反撃など考えない、必死の回避。

 ――しかし、これも布石。
 どんなに人離れした運動が可能とはいっても、それは地に足が着いていればの話だ。
 空中にいるアハトノインに、もういかなる攻撃も回避する術はない。
 そう、最初から狙いは一つ。

760エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:50:13 ID:.B1J6ho60
 杏は床に落ちたグルカ刀を拾い――
 目的は頭部の破壊。それだけだ。
 ――思い切り投擲した。

 ぐるぐると、さながらブーメランのように回転するグルカ刀は、反応を遅らせたアハトノインの眉間に刺さり、
 カクンと頭を傾けさせた。杏の投擲能力があればこその芸当。
 芳野はどう考えていたかは知らない。本当にP−90でトドメを刺すつもりだったのかもしれない。
 杏は杏で、自分でも確実にトドメを刺せる方法を考え、可能な限り実行しようと思っただけだ。
 別に意志の疎通をしていたわけではない。
 それでもこうして見事に連携させられたのだから、人の適応力は恐ろしいものだと杏は思った。

 これでひとまず安心ですね。
 そう言おうとした杏の肩に、重たい感触が走った。
 だが重たさを感じたのはほんの一瞬だけで、そこから先は灼けた鉄の棒を無理矢理体に押し込められた感覚だった。
 喉になにかが込み上げ、耐えられずにゴホッと吐き出す。口から飛び出たモノの色は赤かった。
 何だろうこれはと思う間もなく、激痛に支配された体が倒れ伏す。
 辛うじて動かせたのは目だけだった。動かした視線の先では芳野が何事かを叫んでいる。
 激痛は耳をバカにしてしまうらしい。耳鳴りが激しい。なんだ。一体、これは?

 疑問に答えたのは自身の上を通り過ぎた影だった。
 ゆらり、ゆらりと。
 墓から這い出たゾンビのように、覚束ない足取りで芳野に迫る影は……
 間違いなく、先程眉間に刃を突き刺したアハトノインだった。
 は、と杏は夢でも見ているかのような気分になった。

 頭を狙っても死なない? 冗談でしょ?

761エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:50:46 ID:.B1J6ho60
 何度倒しても蘇る、死の世界の住人。
 この島の怨念を取り込み、動力としていると言われても納得してしまいそうなほど、
 目の前のアハトノインは現実離れした存在だった。
 勝てるわけがない。人間風情がこんな化物を倒そうと思ったのがそもそもの間違いだった。
 自分自身の命も、もう残り僅かしかないのが分かる。
 そんな状況で何ができる? たかが一回の女子高生でしかない自分が、あんな化物相手にどうにもできるはずがない。

 もういい。痛いのも辛い。早く、誰か、あたしを楽にしてよ……!

 じりじりと追い詰められてゆく芳野を見るのを苦痛に思われ、杏は目を閉じる。
 一度遮ってしまえば、そこはもう何も無い世界だった。
 嫌なことも、辛いことも感じずに済む、虚無の世界。
 最後に辿り着いたのがここかと感想を結ぼうとした杏の脳裏に、せせら笑う声が聞こえた。

 ――僕よりヘタレじゃんかよ?

 聞き間違えるはずもない。それは春原陽平の声だった。
 結局この島では再会することすら叶わず、放送でしか死を確認できなかった腐れ縁の友人。

 ――らしくねぇよ。お前、エキストラか何かじゃないのか?

 春原と一緒に、挑発するように笑うのは岡崎朋也だった。
 好きだった人。会うことも、思いを伝えることすらできずに彼岸へ旅立ってしまった人。

 ――根性ないなおい。俺の苦労返してくれよ?

 茶々を入れるような軽い声は折原浩平のものだった。
 身勝手に、自分を置いたままやりたいことだけやって死んだ、馬鹿な男の子だった。

 ――お姉ちゃん。その、格好悪いよ……

 普段絶対言わないようなことを言ってきたのは妹の藤林椋だった。
 死んで欲しくなかった。どんな形でもいいから、生きていて欲しかった。

 ――あはは。しょうがないよ。だってこの人。案外ヘタレなんだ。

 屈託のない笑顔でとんでもないことを言ったのは柊勝平だった。
 人殺しをしようとして、自分が殺してしまった人。
 好き勝手なことを言う周りの面々に対して、杏が抱いたのは逃避したい気持ちではなく、
 お前らが言うなという怒りにも似た気持ちだった。
 大体、どいつもこいつも勝手なことばかりして死んでいった連中ばかりじゃないか。

762エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:00 ID:.B1J6ho60
 陽平は惚れた女の子を残して死んじゃうし!

 朋也は風子ちゃん残して死んじゃうし!

 折原は何も言わずに行っちゃったし!

 椋も勝平さんもたくさんの人に迷惑をかけたし!

 ……でも、それでも。
 例えたくさんの人を殺し、間違いを犯してきたのだとしても……
 守るためには仕方のなかったことなのだとしても……
 生きていて欲しかったのに。
 死ぬのは、誰かを置いて行ってしまうのは、とても寂しい。
 そうさせたくないし、したくない。

 ――死にたくない。

 どんなに情けなくて、みじめでも。

 ――あたしは、皆と、生きていたい!

 目は、もう閉じていなかった。

     *     *     *

763エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:19 ID:.B1J6ho60
 そこから先は十秒にも満たない時間の中での出来事だった。
 芳野はP−90を構えようとしたが、それより先に懐に飛び込んだアハトノインに銃を弾き飛ばされた。
 腕が浮き上がったところをグルカ刀で腕ごと叩き切られ、芳野が絶叫する。
 更に返す刀で腹部を斬られ、芳野は戦闘能力の殆どを奪われた。

 しかし、それでも戦いを諦めたわけではなかった。
 絶叫したのは痛みを忘れるため。銃を握り続けるため。
 残った方の手は、しっかりとデザートイーグル・44マグナムを握り締めていた。
 生きているのなら、まだ戦えるしどんなことだってできる。
 芳野がこの島で唯一得た、価値のある宝物だった。

 生きてさえいれば。

 時間をかけて罪滅ぼしの方法を考えることだってできる。
 自分の生きる意味を考える時間だってできる。
 だから絶対に諦めない。自分が、人としていられるために。
 残った腕に、戦うための力を全てつぎ込んで、芳野は発砲を続けた。
 P−90でボロボロになり、防弾コートが半ば役立たずになっていたアハトノインは衝撃をモロに受け、
 一発受けるたびに一歩ずつ後ろに下がってゆく。

 このままエレベータから突き落としてやる。芳野の頭に残っていたのはもはやそれだけだった。
 右足。左足。一歩ずつ後ろに下がっていったアハトノインに、もう後はなかった。
 更にもう一発。下がれる場所のないアハトノインの体がぐらりと傾き、バランスを崩す。
 残り一発。その体に撃ち込めば、エレベータから落ちる。

764エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:37 ID:.B1J6ho60
「喰らえ……化物……!」

 言葉に力を込め、弾丸に乗せようとした芳野の執念は――しかし、カチリという弾切れの音に遮られた。

「たま……切れ……くそ……!」

 手から力がすっぽ抜け、甲高い音を立ててデザートイーグルが床に落ちた。
 それと同時、全身を支える力もなくなり、ずるずると芳野の体も崩れ落ちる。
 辛うじてエレベータの柵を掴んで押し留めたものの、片腕のない芳野にできることはもうなかった。

 視線の先では、ゆっくりとのけぞりから元の姿勢に戻ったアハトノインがコキリと首を傾げる。
 頭部を攻撃されて多少なりともコンピュータが狂ったのか。
 それとも、肝心なところで一歩届かせることもできない自分を嘲笑ったのか。
 何も映さず、虚無のみをたたえた工学樹脂の瞳を睨みつけながら、芳野は「機械風情が余裕面するな」と唸った。
 アハトノインは何も言わなかった。いや正確には、彼女自身は喋っているつもりだったようだ。
 口が開いているところを見ると喋ってはいるらしいのだが、発声機能がおかしくなっているらしい。
 芳野は笑った。こんなときですらありがたい教えの時間か。
 自らを絶対の優位者と恥じない傲慢ぶりには恐れ入る。
 だから、と芳野は柵を握ったままの手から指を一本、天へと向けた。

「――人間を」
「舐めるなぁぁああぁぁああぁっ!」

 それは宣戦布告などではなく、合図だった。
 やれ。やってしまえという芳野の合図。
 サインを受けて、倒れて戦闘不能になっていたはずの……
 血の海に倒れていたはずの杏が、駆けた。

765エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:51:53 ID:.B1J6ho60
 アハトノインは一瞬、それを認識できないようだった。
 日本刀を持った杏の姿をぽかんと見つめていた。まるで幽霊でも見るかのような目で。
 傑作だな、と芳野は破顔した。ゾンビが幽霊に殺される、か。
 杏は真っ直ぐに日本刀を突き出し、アハトノインの腹部を刺し貫いた。
 か、と口を開いて、修道女の体がくの字に折れる。
 そこを見逃さず、杏は前蹴りで体を突き飛ばす。
 後ろには何もない。頭から真っ逆さまに、アハトノインは奈落の底へと落ちていった。

 今度こそ終わった。その実感が芳野の中を巡り、緊張の糸が切れた。
 もう握る力さえなくなった手が柵から離れ、そのままずるずるともたれかかるようにして座り込む。
 煙草を無性に吸いたい気分だった。それだけ心地良かった。
 ポケットの中に入っていたらいいのにと思い、まさぐろうとしてみたが、片腕ではもう一方のポケットを探れない。
 やれやれだと嘆息していると、同じように疲れきった表情の杏が隣にやってきて、倒れこむようにして座った。
 袈裟に斬られた体は半分以上が真っ赤で、生きているのが不思議なくらいだった。
 いやそれは自分も同じようなものかと思い直して、「お疲れさん」と一言労う。

「どーも」

 気だるげにしながらもニッと笑った杏に、芳野は素直に可愛いなと思った。
 普通に生活を送っていたなら、きっと彼氏の一人はいただろう。

「……あー、疲れましたね、なんか」
「ああ……」

 エレベータはまだ降りきらない。どれだけ長いのかと思ったが、実際には戦っていた時間が短かっただけなのかもしれない。

「ねえ、暇ですよね」
「暇だな」

 これからやらなければならないことは山ほどあったが、今現在が暇であることは否定しない。
 ただ待つだけの時間になってみるとやたら長く感じられるのだからおかしなものだった。

766エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:13 ID:.B1J6ho60
「あたしね、保母さんになりたいんですよ」
「ほう」
「なんというか、結構人の世話焼くのが好きなんですよ。……芳野さん、どんな職でしたっけ?」
「電気工だが」
「どうして電気工に?」
「色々あったから……と言いたいところだが、特別サービスだ。教えてやる」

 どうせまだ時間はある。つっけんどんに終わらせてしまうのは勿体無いと思って芳野は話すことにした。
 隠し続けるようなものでもない、と吹っ切れたのかもしれない。
 わくわくしているのを隠しきれていない杏の顔を見れば理由付けなどどうでも良くなったというのもあった。

「まあ、そうだな。俺は元々歌手だった。夢のロックスターとやらだったんだ」
「へぇ……実はあたし、あんま音楽聴かないんですよね」
「割と国民的に人気だったんだがな。知らなかったか」

 はい、と素直に頷く杏にまた可笑しくなり、くくっと笑いながら話を続ける。

「全盛期はすごいもんだった。毎日ファンからレターが届くような感じさ。それこそ老若男女問わずにな。
 そう、どんな奴も俺を応援してくれていた。俺の歌に希望を持ってくれていた。
 次の曲にも期待しています、頑張ってください。そんなコメントと一緒にな。
 中には俺の歌のお陰で生きる希望を取り戻したなんて奴もいた」
「凄いですね……」
「それだけ聞けばな。だが、当時の俺は気が気でなかった。
 なにせ誰かを救うだなんて考えたこともない。好き勝手に曲を作って、好き勝手に歌ってただけなんだからな。
 次の曲も希望を与えなきゃいけないって脅迫されているような気分になった。
 元々考えるのが苦手な俺だった。すぐに曲作りに行き詰った。
 フレーズが浮かばなくて、メロディが浮かばなくて、それなのにファンの期待は止まらない。
 俺の歌は迷走を始めた。末期には今までの俺そのものを否定するような歌を作ってたくらいさ。
 その挙句に、俺はヤクに手を出した」
「麻薬……ですか?」
「そうだ。それで拘置所行き。出所したときには、もう何も残っちゃいなかった。
 ファンも、金も、名声も、歌も、何もかも。
 俺は虚ろな目をしたまま元いた町に帰った。なんのことはない、そこしか行く場所がなかったからだ。
 もう世界に、俺の居場所なんてなかったんだ」

767エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:36 ID:.B1J6ho60
 芳野はそこで一旦言葉を区切った。
 改めて口にしていると、なんとまあ波乱万丈な人生だったと呆れる。
 やりたいことをやって頂点まで上り、そのまま転げ落ちていった哀れな男。
 だが、今も底辺をさまよっているとは思わなかった。

「だけどな、そんな俺を待っててくれた人がいるんだ。
 伊吹公子さん……今となっちゃ元婚約者だが、笑って俺を出迎えてくれたんだ。
 おかえりなさい、ってな」

 故郷には、待っていてくれる人がいた。
 世界から見放されても、決して居場所を失ってしまったわけではなかった。
 この島で公子を失ってしまったが、それでも自分を支えてくれる人はたくさんいた。
 居場所は誰にでもある。その気になりさえすれば、またやり直すことが出来るのだと知った。

「……そっか、それで妹さん、か」
「隠すつもりはなかったが……悪いな」
「ま、そんな経緯があるんじゃしょうがないですよ」

 重たすぎる昔話を、杏は笑って受け流してくれた。
 案外こういうものなのかもしれないと思い、芳野は昔を嫌悪していたことが可笑しくなった。
 心のどこかではまだやさぐれていて、同情されるだけだと思い込んでいたのだろう。

「歌手だったんですよね」
「ああ」
「じゃ、一曲歌ってくださいよ。どうせ、暇なんですから」

 エレベータはまだ降りきらない。
 ならそれも悪くないかもしれないと思い、芳野は「特別だぞ」と言った。

「何がいい。あまり最近の歌は知らないんだが……」
「大丈夫です。あたし、超メジャーな曲しか知らないんですよね」

 元歌手と、その知り合いのする会話ではないと思い、二人で笑う。
 こんな時間を過ごせるのだから、あんな過去でも捨てたものでもない。
 いつかこうして笑える機会が来る。こうして、生きてさえいれば。

768エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:52:51 ID:.B1J6ho60
「あー、そうですね……じゃあ、あの歌で」
「なんだ」
「あれですよ……ちょっと昔に流行った、そう……メグメルって歌」

 ああ、と芳野は頷いた。
 他人の曲だが、芳野も知っている。
 よろこびのしま、という意味の、やさしい旋律の歌。

 一度思い出すとするすると歌詞が思い出されてくる。
 全て思い出してみればここで歌うにしては中々にいい曲だなと思った。

 ふ、と一瞬口元を緩ませてから、芳野は歌を口ずさみ始めた。


 その顔は全てを赦し、また赦された人間の顔だった。


 歌声が、静かに、ただ静かに、響いていた。

769エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:53:05 ID:.B1J6ho60


















【芳野祐介 死亡】
【藤林杏 死亡】

770エルサレムⅣ [CLANNAD]:2010/04/11(日) 21:53:44 ID:.B1J6ho60
芳野、杏周辺
装備:デザートイーグル44マグナム、ニューナンブ、ウージー、89式、ボウガン、注射器×3(黄)、グルカ刀、P−90
【銃器は全て残弾0】
【エレベータ内に爆弾があります】

麻亜子、風子
装備:デザートイーグル50AE、イングラム、SMGⅡ、サブマシンガンカートリッジ×3、S&W M29&nbsp;5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、ボウガン、宝石、三角帽子


朝霧麻亜子
【状態:あたしに誰かを救えるの?】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

伊吹風子
【状態:泣かない。みんなで帰りたい】

→B-10

771凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:08 ID:.g4VCraU0
せんせい。せんせい。
ずっと傍にいてくれた先生。
私の話を信用してくれたせんせい。
先生。せんせい。

せんせいがくれた安心が、嬉しかったの。
先生が教えてくれた命の大切さを、大事にしようと思ったの。

先生。せんせい。
せんせいが私を守ってくれたの。
先生が私を守ってくれたの。

私も、せんせいの助けになりたかったの。
なりたいと思ったの。


せんせい。

せんせい。何処へ行くの?



     ※     ※     ※



「……どうして、こんなことを?」

772凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:25 ID:.g4VCraU0
ふわりと。
羽根のような軽さで、少女は静かに立ち上がった。
頬には、痛々しい焼けた痕が一筋。そこから流れる血液は、少女の顎に向かって一直線に伸びている。
顔の汚れを気にする素振りを一切見せず、少女、遠野美凪はそのまま歩を進めた。

彼女の目には、正面にいる男しか映っていない。
少年。
今ここで絶対の力を持っている、危害をぶつけてくる人物である。

美凪の一歩一歩は、とても小さな動きだった。
まるで夢の中を彷徨っているかのような緩慢さに、彼女の混乱している様が垣間見えるだろう。
悲しみに細められた美凪の瞳、その色は他者の心に容易く罪悪感を植えつけることも可能だと断定できるくらい、どこまでも昏い。

「君達は、何のために自分達が連れて来られたのかをきちんと理解していないようだね」

美凪の哀願を湛えていた眼差しすらも、彼は一刀で軽々と裂いた。
少年の声色はいたって冷静であり、彼の漂わせる張り詰めた空気もどっしりとしたその様子を物語っている。
ゆっくりではあったが確実に縮まっていたはずの美凪と少年の距離が、そこで一度停滞した。
当てられた不安要素に自然と両の手を胸元に当てると、美凪はそのまま黙って立ち竦む。
対し、かけた圧迫の手応えを感じたからか、少年はどこか満足そうだった。
びくつきながらも決して引こうとはしない美凪を上から下まで見渡した所で、少年はまるで幼子に物を教えるように言葉を紡ぐ。

「君達は、殺し合いをするためにここにいるんだよ」

少年の下す、きっちりと断定された決定事項。
頭の悪い稚児にしっかりと言い含むような強さがある台詞に、美凪だけではなく一同が呆然となる。
今ここで少年と対峙している面々、その誰もが彼に言い返そうとしなかった。
困ったように八の字の如く寄せられている美凪の眉、その表情は諦めか。
ただただ困ったようにも見える透明感、納得は決していかぬだろうが美凪の様子はとにかく「静か」であった。

773凡人表明:2010/04/21(水) 12:12:48 ID:.g4VCraU0
それは、彼女の性格だからかもしれない。
ゆったりとした美凪の気質が、影響しているのかもしれない。
……ならば、彼女と正反対の激情家であるもう一人の少女は、どうなる。

「馬鹿にするんじゃ、ないわよ……っ!」

わなわなと震えながら、少女は握る拳の力を怒りでさらに倍増させた。
彼女も立ち上がっていた。いつの間にか、立ち上がっていた。
折れそうになっていた戸惑う気持ちを胸の奥に押し込めた状態で、広瀬真希はしっかりと自分の両足で立ち上がっていた。

「そんなの勝手でしょ、あたし達が望んだことじゃない!」

真希が味わった恐怖の種は、この瞬間全て吹き飛んでいた。
非日常的残虐な光景に、真希の心は何度も悲鳴を上げている。
慣れることなんて、できやしなかった。
もう、全てから逃げ出したいとさえ、真希は思っていた。
こんな怖い世界から、いなくなりたいと願った。

「あんた何様よ、決め付けるなんて信じらんないっ!」

つかつかと、怒鳴りながら少年と美凪の間に割って入っていく真希には、今やそんな後ろ向きな姿勢の片鱗は一寸も無い。
強い意志を湛えた眼で、真希は少年を睨み付けている。

「真希さん……」

庇われる形で真希の背後に追いやられていた美凪が、真希の羽織っている割烹着の端を恐る恐る引く。
挑発的とも思える度を越えた真希の行動に、さすがの美凪もどう対処すればいいか分からなくなっているらしい。
軽く振り返り美凪と目を合わせると、真希は大きく一度だけ頷いた。
大丈夫だという意志をしっかり込めながら、真希は美凪へとアイコンタクトを送る。
安心の裏づけ等、決してない。
それでも美凪が大人しく引き下がるくらいの力が、真希の瞳の中で盛っていた。

774凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:10 ID:.g4VCraU0
真希の心は、いくつもの恐怖でぐにゃぐにゃに歪められている。
そこであげた悲鳴の数なんて、彼女自身一々覚えてなどいられない。
そんな、逃げたいと真希が叫ぼうとする瞬間いつも目にするのは、誰よりも彼女の近くにいたこの大人しい少女だった。
美凪は気づいていないが、真希がこうして奮い立てたのは彼女の影響である。
美凪は強い。
暴力的な意味ではなく、美凪はとてもしっかりとした少女だ。

例えば、怪我を負った相沢祐一を真希と美凪の二人で発見した時。
夥しい血の量に目を白黒させるだけだった真希に対し、美凪は行動は素早かった。
今真希の目の前にいる、この少年とのいざこざでもそうだろう。
一度目は保健室、二度目は先程の不意打ち。
美凪がいなければ、真希は彼の放つ銃撃の餌食になっていたはずだ。

真希は知っていた。
普段ぽややんとしている美凪が、本当は自分よりもずっと強い少女であるということを。
自分よりもずっと落ち着いた状態で、きちんと事の判断ができる人間だということを。

そんな美凪が、今、こんなにも無防備な姿を晒している。
異常の度合いは大きい。
この意味で目の前の少年の異質さは、最早真希の想定の範囲を優に超えるものになっていた。

「あんたの道楽に、こっちまで巻き込んでんじゃないわよ!!!」

少年と違い、自身に人を殺める力がないことを真希は理解している。
それ以上に、人を傷つけるという行為を彼女は想定できていない。
それでも、真希は周りの人間を守る側に居たかった。

『でも、だからと言って先生やことみが見殺しになっちゃうかもっていうこの状態は、耐えられないから。無理、絶対無理』

775凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:27 ID:.g4VCraU0
向坂環の前で放った言葉、それが真希の全てである。
自分の目の前で、自分の大切な仲間を傷つけられるのを見逃してたまるかという、ただそれだけの意地。
肩から提げていたデイバッグの中を探り、取り出した斧を片手に真希は少年と対峙した。
この斧で人を切りつける想像は、勿論真希の中ではできていない。
しかし、もうそんな初歩的なことすらも関係ない域に真希は来てしまっている。

誰も止められない。
人一倍意地っ張りな彼女を止められる人間なんて、ここには一人もいない。

「君は馬鹿だね」

真希の暴走を冷静に流す少年の表情は、呆れの一色に染まっている。
すたすたと、今度は少年が一気に真希達との間合いを詰めた。
美凪の表情に焦りが混じる。
手にしていた真希の割烹着を美凪は幾度も引いてみたが、真希が彼女と再びコミュニケーションを図ることはなかった。
何か策があるのか。ないのか。
それこそ周囲の人間、見届けることしかできていない者達も真希の狙いを見極めることは全くできていない。

「果敢と無謀の意味を履き違えると、痛い目を見るよ」

ついには手を伸ばせば触れられるくらい、両者の距離は近くなった。
真希は少年が迫ってくるまでの間も、今も、ずっと逸らすことなく彼の目を刺すように射っている。
真希が引く様子は、やはり皆無だ。

「僕が怖くないの?」
「……」
「そっか」

776凡人表明:2010/04/21(水) 12:13:45 ID:.g4VCraU0
一言。
対話は、それで終了となる。
問答に応じない真希を少年が見切ったのは、一分にも満たないその一瞬だった。

「きゃああっ!」

さすがに、ここまで手が早いとは真希も考えていなかったのだろう。
飛んできた少年の裏拳で、真希の体は軽々と吹っ飛んでいた。
握られていた真希の斧も、衝撃で彼女手の中からすっぽ抜けるとそのまま明後日の方向へと転がり落ちていく。
美凪の視界で景色が揺れる。
殴りかかるために手放したあの大振りの盾、少年の手から解放されたそれと真希の体が地に沈むのが、正に同時だった。

「真希さんっ」

真希の体が叩きつけられた音で、美凪もはっとなる。
しかしすぐ様駆け寄ろうとする美凪に対し、少年がそんな愚行を許容する訳もない。
すかさず美凪の腕を掴み、ぎりぎりと捻り上げることで少年は彼女の行動を制限した。
たまらず苦悶の声を零す美凪、強すぎる少年の力が彼女の額にぶわっと脂汗を浮かび上がらせる。

「美凪に……さわんじゃないわよおぉぉぉ!!!!」

がなったのは、真希の咆哮だった。
ふらつきながらも起き上がり、殴られたことで切れた口元の痛みも気にすることなく真希は少年へと突進した。
片手に拳銃、もう片方の手には美凪を捕らえた状態の少年は、余裕の表情にて低姿勢で迫ってきた真希を蹴り返す。
再び、真希は地面にダイブする。
それでもよろよろと起き上がり、真希は諦めることなく少年へと駆け出した。

土埃でドロドロになっていく真希の割烹着、克明に記し付けられた蹴られた跡も痛々しい。
顔中が腫れ上がっていっても、真希は決して引こうとしなかった。
止まらぬ真希の勢いに、少年の無表情が崩れていく。
少年は、手を使わずに足技だけで真希を凪ぎ払っていた。
その様子、まるで遊戯である。

777凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:05 ID:.g4VCraU0
いや、遊びだった。
遊びだから、少年は真希に止めを刺していなかった。それだけだ。

「あの子、一体何考えてんのよ……っ」

傍観者が口を開く。
環の表情には、どうすることもできない現状に対する苛立ちが詰まっていた。
彼女も銃と言う名の凶器を手にしていたが、真希達の様子を見る限りこうも折り重なるようにされてしまうと、簡単に引き金を引くこともできない。
それは、環と同じく立ち尽くすしかない相沢祐一も同じだった。

二人とも、既に銃を撃つという行為には抵抗がない域まで行っている。
しかし、射撃の腕はそれとは別だ。
万が一真希と美凪にでも被弾してしまったらと考えてしまうと、環も祐一も身動きが取れなくなってしまう。

「……撃って。あの二人なら大丈夫。割烹着に当たれば、大きな怪我になることはないと思うの」

環と祐一、二人の視線が集中する。
その先には、環の腕の中で守られていた少女の姿があった。
小さな体に、幼さが強調される愛らしい髪飾り。
か弱い外見の一ノ瀬ことみの口から、そのような獰猛な台詞が発せられるとは二人とも予想できていなかった。
環の腕を解きながら、ことみは淡々と言葉を続ける。

「あの二人が着ているのは、防弾性なの。多少は耐えられるから」

直接的な打撃をボディにあれだけ受けながら真希が食らいついていけているのも、きっとその恩恵だろう。
彼女の装備を知らない環や祐一からすれば、寝耳に水の情報だった。
そうして、しっかりと自身の足で立ち上がったことみは、一瞬だけ作られたばかりの赤い水溜りに目をやる。
沈んでいる霧島聖の遺体に眉を寄せるものの、ことみが気持ちを切り替えるのは早かった。

「怖いなら貸して。気がこっちに向かない内に、嗾けなくちゃ意味ないの」

778凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:22 ID:.g4VCraU0
暴力的な強要に、ことみと触れ合う時間がほぼ皆無であった二人は、かなり驚いているようだった。
しかしことみは全てを無視する。
二人に質問をする間すら与えない。
非情な面を見せることみだが、彼女もすぐ気持ちを落ち着かせることができた訳では、決してなかった。





美凪が動いたことで真希が少年に喧嘩を売るような形になってしまったその時、ことみは一人大人しくしていた。
その身は未だ、環の内に抱えられている。
環の温もりの中、ことみは真希達の姿を眺めていた。眺めているうように、見えた。

(せんせ、せんせ、せんせ)

ぱくぱくと、声にならない言葉を紡ぐ。
ことみは必死に話しかけていた。
既に絶命している聖に向かって、声をかけていた。

(せんせ、せんせ、せんせ)

聖は答えない。答えられる訳もない。
ことみにとっての一番の理解者に成り得たはずの大人の女性は、ここで欠けてしまった。
聖と二人でこの島から脱出を誓った夜が、ことみの中で走馬灯のような幻影として蘇る。

(せんせ、せんせ、せんせ)

ぱくぱくぱく。
ことみの乾いた唇は、それでも無言を唱え続けていた。
締め付けられた胸の痛みに、ことみははらはらと涙を流す。

779凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:39 ID:.g4VCraU0
ことみは決して、強靭な精神を持ち合わせた人間ではない。
冷静にものを考えることができ、頭の回転も早い有能な人種ではあるだろう。
しかし彼女の能力が発揮できるのは、ことみ自身の心にある程度の余裕がある場合に限る。
このような非日常、体も心も磨耗していくしかない世界に放り込まれ、彼女のバランスが崩れない訳はない。

保健室の一件で不安定になったことみの心、何とか無事に生還できたがその直後に与えられたのがこの仕打ちである。
揺らいでいたことみの波、甘い作りの防波堤には既にいくつものヒビが入っていた。
信じられない、信じたくないといったお決まりの嘆きを、ことみはひたすら零す。
空虚を作りたくない。
思考に間を作ってしまったら闇が全てを飲み込んできそうで、ことみは自身を止めることができなかった。

……ふと。
そんな彼女の脳裏に、数時間前の出来事が甦る。

ことみは、キーボードを打っていた。
カタカタと、無心で作業をしていた。
鎌石小学校の、パソコンルーム。そこにことみは聖といる。
まだ直接的な死とは無縁にあったあの頃、ことみも聖も近しい人間を失ったことを知った。

『もう誰も、死なせたくないの』
『私だって、そう思うさ』

ぽつりと、自然に漏れたことみの言葉。
聖のレスポンスは早かった。

780凡人表明:2010/04/21(水) 12:14:56 ID:.g4VCraU0
誰も死なせたくないという思い。
悲しいという思い。
心が涙を流すのは、強制的に無に返されるという痛ましさに対してだった。
命を奪われるという行為が、恐怖ではなく悲愴であったあの頃。
その延長。
ことみは、ことみ達は、ずっとそんな感覚を持っていたはずだ。

何故少年を追い詰めた時、彼の命を奪わなかったのか。
奪おうとしなかったのか。
簡単だった。
死なないために殺すという選択肢を、ことみだけではない……彼女達、皆持ち合わせていなかったからだ。

(せんせ。私達は、間違っていたの?)

ぽつりと、自然に出たことみの疑問。
聖から返ってくるものはない。

誰も傷つけたくない、死なせたくない。
その直情が間違いだなんてことみは決して思わない、しかし。
目に映ったもので、ことみは理解した。
すぐに理解した。

無謀な形で少年に歯向かう真希の姿は、事情を知らない人間からすれば滑稽なものだろう。
信じられないだろう。
ことみだけが、真希の心理を明確に感じ取っていた。
死なないために殺すという選択肢を持たないことみだからこそ、周りの人間をただ守りたいだけなんだという真希の無垢さに気づいた。

何であれ、このまま真希が無駄死にしてしまう可能性は非常に高い。
絶対の確立を持っているくらいだ。
美凪を取り押さえるのに例の大盾を手放しているものの、少年はまだ銃をその手に握ったままだ。
今はまだ真希を甚振っているだけだが、少年の気さえ変わればいつでもその命を奪える立場に彼はいる。

781凡人表明:2010/04/21(水) 12:15:14 ID:.g4VCraU0
「撃って。あの二人なら大丈夫。割烹着に当たれば、大きな怪我になることはないと思うの」

ことみの切り替えは、早かった。
涙の筋はまだ頬に残っている。
それでもよろめくこと等なく、ことみは庇われていた安全な場所から抜け出した。
美凪を捕らえ、真希に一方的な暴力を振るう少年をことみはじっと見据えている。

大盾という少年を守る壁がない今も、またと言えない機会だった。
直接の力の差は、自覚するしかない。
そこを埋めるチャンスの一つ一つを見逃さないことが重要だと言うことを、ことみは痛いほど学んでいた。
あとは、行動に出るだけである。
その踏ん切りを、ことみはつけている。

「あの二人が着ているのは、防弾性なの。多少は耐えられるから」

しっかりと自身の足で立ち上がったことみが、一瞬だけ作られたばかりの赤い水溜りに目をやる。
沈んでいる聖の遺体に眉を寄せるものの、ことみが気持ちを切り替えるのは早かった。

「怖いなら貸して。気がこっちに向かない内に、嗾けなくちゃ意味ないの」

冷静にものを考えることができ、頭の回転も早い有能な人種が行動に出ようとする。
欠けていた心の脆弱さを意識し直したこの瞬間、彼女は誰よりもこの島で生き残れる可能性のある強みを手に入れていた。

782凡人表明:2010/04/21(水) 12:15:36 ID:.g4VCraU0







ただ、それは。


「……ひっ!」


少しだけ。


「?! 止め、止めてください、お願っ」


遅かった。








「真希さあああああああぁぁぁぁぁぁんんんっ!!!!!!!!!!」

大人しい、いつもぼそぼそとした声でしかしゃべることのなかった遠野美凪という少女が、今まで上げたこともないであろう大きな悲鳴を声にした。
美凪の嘆きと、一発の銃声が重なり合う。
そこにいる者全ての鼓膜を突き破らんかという勢い、音が止んだ後もその緊張はしばらく続いた。

783凡人表明:2010/04/21(水) 12:16:00 ID:.g4VCraU0
「で、何?」

真希の額に突きつけたその引き金を、何の躊躇もなく少年は引いていた。
くたっとなる真希の肢体が、彼女の絶命を物語っている。
飄々とした態度のまま、少年は泣き崩れる美凪の腕を尚も掴んだ状態で視線をことみ達三人に向けた。
硬直する彼等を見据え、返答が与えられなくとも気にすることなど全くせず、少年は一人口を開く。

「喧しい蝿がいたからよくは聞き取れなかったけど、何の相談?」

あまりにも軽い、その言い分。
ぎりっと強く唇をかみ締めながら、環が低い唸りを上げる。
怒りで寄せられた環の眉が、深い彫りを作ることで彼女の激情を静かに表した。

「悪いけど、逃げ場なんてないよ。君達はここで処分するから」
「……随分な言い草ね」
「今更じゃない? いい加減にしてくれないと、僕も疲れてしまうよ」

一ミリの疲労感が見えていない少年の軽口に、ますます環の頭が熱くなっていく。
ただただ状況だけは最悪で、その横で祐一も押し黙るだけだった。
ことみは。

「……」

天才少女で名を馳せる、一ノ瀬ことみは。
冷静にものを考えることができ、頭の回転も早いことみは。ことみも。

「…………」

祐一と同じように、押し黙るしか、なかった。

784凡人表明:2010/04/21(水) 12:16:45 ID:.g4VCraU0
【時間:2日目午前8時10分】
【場所:D−6・鎌石小中学校・中庭】

一ノ瀬ことみ
【持ち物:主催側のデータから得た印付の地図、毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ(吹き矢使用済み)、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:無言】

少年
【持ち物1:強化プラスチックの大盾(機動隊仕様)、注射器(H173)×19、グロック19(14/15)】
【持ち物2:支給品一式、レーション2つ、予備弾丸12発】
【状況:ことみ、環、祐一、美凪と対峙・効率良く参加者を皆殺しにする】

向坂環
【所持品:コルトガバメント(残弾数:15)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:無言】

相沢祐一
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:鎌石中学校制服着用(リトルバスターズの男子制服風)、腹部刺し傷あり(治療済み)】
【備考:無言・勝平から繰り返された世界の話を聞いている】

広瀬真希
【持ち物:防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:死亡】

遠野美凪
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:泣き崩れている、右頬出血】


(関連・1124)(B−4ルート)

消防斧は校庭に放置

785エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:13 ID:NGfemGc.0
 一歩大きく踏み込み、袈裟に刀を振り下ろす。
 剣筋が線として捉えられる位の高速の太刀筋は、しかしあっさりと弾き返される。
 敵――アハトノインは下から打ち上げるようにして弾く。
 刀を上段に持ち上げさせ、バランスを崩す戦法だ。

 それが分かっていない川澄舞ではなかった。
 無理に踏ん張らず、力を逃すようにして後方に退避。
 着地時につま先に思い切り腰を落とし、詰め寄る間を与えずに再度肉薄する。
 今度は弾かせる暇はなかった。金属同士がぶつかり合う甲高い音と共に、舞とアハトノインの顔も切迫する。

 銃撃により、顔の半分が潰れ、骨格の一部や回線のいくつかがむき出しになっている。
 一方で人間の形を残している部分は平時とまるで変わらない。
 色艶の良い唇。決して揺らぐことのない、感情を持たぬ瞳。筋肉も血も通ってないのに、見た目だけはふっくらとした頬。
 ほしのゆめみとは違う。あまり深い付き合いではないとはいえ、舞は何の抵抗もなくそう思った。
 だから遠慮なく戦える。倒すべき敵だと分かるから、守るべきものが分かっているから。

 柄を握る手に力を込め、舞は刀を押し込む。
 すかさず反発する力が強くなった。一瞬押せるかと考えた舞は読みが浅かったと内心で舌打ちした。
 片腕だけとはいえ、単純な膂力で言えば人間を遥かに陵駕するらしい。
 それならそれでやりようはある。今度は逆に力を緩めた。
 急に相対する力を失い、アハトノインが前傾に体勢を崩す。
 刀を下方に逸らし、そのまま弾いて横に回る。受け流し、横を取った形だ。
 いけると確信した舞は今度こそと脚部へと目標を定め、一閃。

 アハトノインは驚異的な反応速度で回避に移っていたが、舞の一撃を避けきれるものではなかった。
 脚部から赤色の冷却液が噴き出し、僅かによろめく。
 冷却液はオーバーヒートしないようにするだけではなく、
 身体のバランス調整も行っているために僅かながらに動きが止まったのだった。
 そこで舞は一歩引く。追撃はしなかった。
 そうするまでもない。自分が距離を詰めるよりも早く、攻撃してくれる頼もしいパートナーがいる。

786エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:37 ID:NGfemGc.0
 国崎往人だった。P−90の火線が遠慮なくアハトノインへと殺到する。
 サブマシンガンの一種でありながら、5.7×28mm弾を用いたP−90は、
 威力こそライフル弾には劣るものの貫通力は拳銃弾の比ではない。
 アハトノインの着用していた防弾コートはこの弾丸の前には紙切れ同然だった。
 ボトルネック構造……つまり、弾頭が尖った形状となっている5.7×28mm弾はあっけなくコートを貫通し、
 勢いを保ったまま人工皮膚部を直撃した。

 軟体に着弾した弾丸は、内部で乱回転して運動エネルギーを拡散させ、アハトノインに奇妙なダンスを踊らせた。
 対テロ用に開発されたP−90は人間に対して有り余るほどの殺傷力を備える。
 それは人間とは大きく異なる、戦闘用にチューニングされたロボットに対しても変わらなかった。
 多数の銃弾を受け、内部からも衝撃を与えられたことによりアハトノインの運動系統を司るCPUが一時混乱を起こした結果、
 無様に仰向けに倒れる羽目になった。

 倒れた隙を見逃さず、舞が接近する。
 だが既にコントロールを取り戻したアハトノインは倒れていながらも器用に足を振り回し、舞の足を取った。
 想像外の一撃に、今度は舞が倒れることになった。咄嗟に受け身は取ったもののアハトノインは立ち上がっており、
 形勢は一変。今度は圧倒的有利を取られた。

 一つだけとなったカメラアイを動かして、アハトノインがこちらを見下ろし、睥睨してくる。
 獲物を見定めた目だった。その口元が微妙に歪んだのを、舞は見逃さなかった。
 刀を一文字に構えて受けの体勢を取るが、防ぎきれる確証はなかった。
 しかしグルカ刀が一閃することはなかった。寸前、往人が連射したP−90を回避するために距離を取ったのだった。
 機を逃さず、素早く立ち上がって往人の元まで撤退する。

「……ごめんなさい」
「気にするな。死ななきゃいい」

 そっけなく返して、往人はいつでも発砲できる体勢を取る。
 今の舞にはそれがありがたかった。

787エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:21:54 ID:NGfemGc.0
「とは言うものの、あそこから反撃されるとはな」

 助けられた手前、態度にこそ出さなかったが舞も同様の感想を抱いていた。
 油断していたわけではない。寧ろ、勝機を掴んだと確信したからこその接近だった。
 それを足一本でひっくり返す適応力の高さ。あれだけ戦力を削いだにも関わらず、
 有利どころか五分にすら辿り着いていないのだということを思い知らされたような気分だった。

「頭ぶっ壊しても死なない。撃っても止まらん。だったら」
「逃げるか」
「切り刻むしかないな」

 そして前者の選択肢はない。コンテナが密集するこの場所では隠れることはできるだろうが、逃げ切ることは難しい。
 何よりこのロボットを放置しておくことの危険性が高すぎる。
 五分とまではいかなくても、僅かにでも勝機があるのならばやるしかないのが今の状況だった。
 それは往人も理解していたらしく、ふっと短く溜息をついた。

「貧乏くじだったかな」
「ここに来た時点で、すごい貧乏くじ引かされてる」
「違いない」

 言葉は笑っていたが、顔は笑っていなかった。
 ここに至って、まだ自分達はこの島の鎖にがんじがらめにされたままだ。
 殺し合いの中で倒れることを強いる鎖を、未だ外せていない。

「そろそろ、ツキをこっちに持ってくるか」

 往人の言葉に、舞は力強く頷いた。
 一人では外せない、どうしようもないものも、誰かがいれば外せる可能性はある。
 たとえそれがどんなに儚い希望だったとしても……
 往人の顔をもう一度見て、決心を胸の中に仕舞いこむ。
 絶対に大丈夫と信じて、舞は走った。

788エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:09 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 思えば、結局誰一人として知り合いに会うことはできなかった。
 一番に探し求めていた神尾親子とは会えず。
 みちるは出会う前に殺され。
 遠野美凪、霧島姉妹。誰かと一緒にいたと聞いて、その誰かのために死んでいったと聞いた。

 詳しく聞くつもりはなかった。
 そういう生き方を選んだのだと納得した。
 国崎往人にはそれが羨ましかった。
 胸を張って命を賭けられるなにか。
 彼女達は見つけることが出来、全てを注いできたのだろう。
 生死はその結果でしかなく、残された方にも残したものがあった。

 痛み、悲しみ、苦しみ。
 そういったものはあったのかもしれない。
 けれども、乗り越えるだけのものもまた渡した。
 それは希望であったり、未来であったり、或いは願いであったりするのかもしれない。
 自分にはなかった。自分を託すことが出来るなにかが見つからなかった。
 旅をする目的はあった。しかし目的というだけで、元の願いからは離れたものになっていた。
 翼を持つ子を喜ばせれば、自分の願いも見つかるかもしれない。
 そんな漠然とした思いだった。笑わせたいという思いは確かにあったが、
 それが本当の目的、願いかと聞かれれば答えに窮した。
 いや違う。笑わせた先、目的を達成した先の自分が想像できないのだ。

 終えてしまった先に希望はなく、
 終えてしまった先の未来は見えず、
 終えてしまった先の願いもない。

789エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:26 ID:NGfemGc.0
 だから考えないようにしてきた。今自分の為すべきことだけに目を向け、自らの人生については目を背けてきた。
 殺し合いという現実に対処しなければならない。それを言い訳にして。
 故に戸惑った。川澄舞に対する気持ちを再確認したとき、湯船の中で背中越しに語り合ったとき。
 戸惑いながらも、未来を必死に考えようとする自分が生まれた。

 これからの生活のため。そんなしがない理由ではあるのかもしれない。
 それでも、大切な人ができたという事実以上に重たいものなどなかった。
 格好悪いからと目を背けられるはずなどなかった。
 どんなに無様でもいい。一緒にいられるなら、と往人は『生きる』ことを考えるようになった。
 人間とはそういうものなのかもしれない。

 自分のような男女の関係だけに留まらず、友人のため、家族のため……いや見知らぬ誰かに対してでさえ、
 人のことを考えて行動するようになったとき、『希望』や『未来』が生まれ、豊かさが育まれてゆくものなのだろう。
 舞を守りたい。一緒にいたい。
 ただそれだけの気持ちが、こんなにも自分を奮い立たせる。
 恋に狂った馬鹿野郎でも構わない。
 それでもいいと感じている自分がいるのだから――!

「頼むぞ……!」

 先駆けて走る舞を援護するように、往人はP−90に引き金に思いを乗せ、引き絞る。
 フルオートで連射せず、三点バーストで射撃した。
 舞に誤射しないためというのがひとつ。弾数が少なく、無駄撃ちを避けたいと思ったのがひとつだった。
 アハトノインは律儀に全弾回避し、迫る舞に先制の攻撃を許すことになった。
 所詮相手はロボット。人間のような柔軟な思考を持たないことがこちらとの決定的な違いであり、付け入る隙だった。

 右手側に回り込むようにして舞が側面から日本刀で斬りつける。
 先の頭部を破壊したときの攻防で、アハトノインは右手も失っていたためだった。
 必然大振りにならざるを得ない攻撃を舞が回避するのは容易く、空振りしたところに次々と斬撃を加えてゆく。
 一体どんな経験をしてきたのかは検討もつかないが、舞はかなりの技量を誇る剣士であることが分かる。
 それなりの重量があるはずの日本刀をまるで木の棒でも振るかのように扱い、一閃するたびにアハトノインに傷が増えてゆく。
 先の失敗から回避に重点を置いた舞の立ち回りにアハトノインは対応できず、攻撃は空振りを繰り返すだけだった。
 往人は万が一のときに備え、いつでも射撃できるようにP−90を構えている。
 仮に超人染みた反応で舞が不利になってもこちらから援護すれば攻撃を阻止できる。

790エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:22:46 ID:NGfemGc.0
 一片の隙もない、二段構え。後は自分達の集中力の問題だった。
 もはや人間の体を為さず、あちこち切り裂かれて金属骨格むき出しのアハトノインは動くのもやっとの様子だった。
 舞は猛攻を止めない。アハトノインが一歩後退したのをきっかけにして詰め寄ってゆく。
 必然、アハトノインは後ろへ追いやられ、致命傷となる一撃は回避しながらもじりじりと下がっていった。
 剣を振るう舞の顔からも玉のような汗が飛んでいる。息も弾んでいる。いくら凄腕の剣士とはいっても女であることには違いなく、
 スタミナを消費しているのが目に見て取れる。

 焦るな。お前がトドメを刺す必要はないんだ……!

 往人の動く気配に舞も気付いたらしく、長髪が縦に揺れた。
 よし。冷静さを失わない舞を頼もしいと思いながら、往人が牽制のP−90を向ける。
 剣を腕でガードした直後、隙を窺っていたアハトノインは鋭敏に往人の挙動を察知し、また一歩退いた。
 が、下がらせることこそ往人の狙いであり、舞の狙いでもあった。
 ガツンという音が空間に響き渡る。アハトノインがコンテナに背をぶつけたのだ。

 左手からは舞、右手には往人。囲んだ形。敵に逃げ場はない。回避さえもできない状況で、為す術はない。
 気付かなかったとでもいうように首を振り向かせたアハトノインの隙を見逃すほど舞は甘くない。
 一瞬の間隙を突き、日本刀を真っ直ぐ、突きの形にして走った。
 頭部を破壊しても尚倒れないというのならば、他の動力源……つまり、駆動部を狙うしかない。
 腹部か、或いは胸部。防弾コートの厚い壁で守られているそこに弱点はあるに違いなかった。

 舞が狙ったのは胸部だった。その選択は理に叶っている。突き刺した後に切り下げれば、腹部も攻撃できるからだ。
 連携できるこちらの勝利だ――確信し、P−90を下ろし掛けた往人の思考が吹き散らされたのは次の瞬間だった。
 普通は、例え追い詰められようとも避ける素振りはする。それが戦闘に臨む者の思考であり、生き延びるための思考だ。
 しかしアハトノインは逃げも隠れも、防御さえしなかった。
 コンテナを背にした彼女がやったことはそのいずれでもなく……全力でコンテナ群を殴るという行為だった。

「なんのつもり……」

 呟いた往人の頭が真っ白になるまでに、それほどの時間はかからなかった。
 コンテナ群の上部が揺れ、ぶるりと生物のように身を震わせたかのようにして――直後、落下した。
 冗談だろ!? このような反撃など全く想像の外であっただけに、往人はP−90を構えることも忘れ、舞に叫んでいた。

791エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:06 ID:NGfemGc.0
「逃げろ! 潰されるぞ!」

 今まさに突きを繰り出そうとしていた舞の動きがピタリと止まり、弾かれたかのように後ろに跳躍した。
 本人も精一杯というような反応は、しかし間に合ったようで、体ひとつ分の距離を置いてコンテナが落下した。
 凄まじい量の埃が舞い上がり、往人と舞を覆い尽くす。
 煙幕を張られた格好にもなり、ゴホゴホと咳き込みながら、まずいなと舌打ちした。
 一瞬とはいえ分断された。ここは一度離れて体勢を立て直すしかない……

 もうもうと視界を覆う埃から逃げるように移動しようとした往人に、焼けるような痛みが走ったのはその直後だった。
 ぐっ、と苦痛の呻き声を上げた往人の頭に浮かんだのは、撃たれたという理解だった。
 バカな。その一語が駆け抜ける。撃ってきたのはアハトノインに違いないが、一体どうやって?
 銃器はどこから? どうやってこちらを補足した?

 それらの疑問は、反撃しようと振り向いたときに解決した。
 赤く光るカメラアイと、手に収まった小型拳銃。
 なんのことはない。最初からそのような装備があっただけという納得が広がり、往人は苦笑とも怒りともつかぬ表情を浮かべた。
 追い詰めてなどいなかった。敵は最初から、分断する腹積もりで戦っていた。それだけのことだった。

 クソッタレと吐き捨て、反撃を試みた往人が引き金を絞ることはなかった。
 腕を立て続けに撃ち抜かれ、力の抜けた手からP−90がすっぽ抜ける。
 さらにもう一発、腹部を撃たれた往人が自らの血に沈んだのは僅か数秒と経たない間だった。

「往人に……手を出すなっ!」

 銃声を聞きつけたのか、決死の形相を浮かべて舞が突進してくる。
 恐らくは、自分が撃たれた様子も見たのだろうと思った往人は、しかし遅すぎると判断していた。
 アハトノインの銃口は、既に舞へと向けられている。

「ダメだ! 逃げ――」

 叫びが届くことはなかった。
 自分を撃ったときと同じく、ひどく軽い発砲音が誇りまみれの空間に響き、川澄舞の体を崩れさせた。
 胸、下腹部……その他諸々を撃たれた彼女は恐らく、即死だった。

792エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:24 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 ――もういいかい?

 元気のいい、幼い女の子の声が聞こえる。
 この声を、自分は知っている。
 川澄舞はぽつねんとある場所に立ち尽くしていた。

 黄金色の稲穂が無限に広がり、夕日が世界の果てまで伸び、どこからともなく現れては過ぎ去る風がある場所。
 名前などあるはずがない場所。
 しかし、そこは確かに存在していた。
 遊んだ記憶があり、始まったところであり、終わらせたところでもある。
 風がやってくるたびに稲穂が揺れ、こっちへおいでと手招きしているようであった。

 ここは死後の世界なのだろうか、と舞はぼんやりと想像した。
 自らの心象が作り上げた、自分だけの黄泉……そこまで考え、死を抵抗なく受け入れようとしていた自分に気付かされた舞は、
 自らの諦めの良さに慄然とする思いを味わった。
 そうさせてしまうだけの強烈な力がそこにあった。
 人から意志の全てを奪い、諦観だけで満たしてしまう力――

「それは違うよ。諦めてきたのは、あなた」

 背後に発した子供の声が舞の思考を遮った。
 いつの間に、と思う間もなく、子供が舞の目の前に現れる。
 それは紛れもなく……子供の頃の自分そのものだった。

「嘘が本当にならないから、諦めてわたしを捨てたのが、あなた」

793エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:40 ID:NGfemGc.0
 忘れたと思っていたのに、一目見るだけでこうも鮮明に思い出せるものなのか。
 今よりも少し短い、しかし当時から長かった黒髪。
 外で遊ぶときにはいつも着ていた、山吹色の少し丈の短いドレス。

 この姿を見るだけで全てが思い出せる。
 ここがどんな場所だったか思い出せる。

 自分の居場所だったところで、自分の全てだったところ。
 風が吹きさらす夕焼け空は夜の気配を伝えながらも、決してそこからは動かない。
 時を止めてしまったまま、未来永劫変わることのない閉ざされた記憶の降り積もった世界だ。

「ねえ、聞いてる?」

 意識を外されていたのが気に入らなかったのか、少女は頬を膨らませ、不満を滲ませた声で言う。
 今と全く変わらない、しかしまだ何も知らなかった頃の瞳を見返した舞は無言で頷いた。
 だとするなら、この子も自分の記憶なのだろうか。
 置き去りにしてきた自分。忘れてしまっていた自分に仕返しするために、この世界に呼び込んだのか。
 想像を働かせる舞に、「それは違うな」とまたも心を読んだかのように少女が言った。

「わたしはわたし。わたしはあなたで、あなたもわたし。仕返しなんて、するはずないよ」

 穏やかな微笑を浮かべつつ言う様子は、まるで親しい友達にでも話しかけるようだった。
 ああ、そうだったと舞は思った。
 この少女と自分は不可分な存在であったことも、忘れていた。
 ここも、この少女も単なる思い出ではない。
 昔から自分に内在していた『力』。自らの思考を具現化する『力』そのものだった。

「思い出した?」

794エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:23:56 ID:NGfemGc.0
 はしゃぐように問いかける少女に、舞はこくりと頷く。
 始まりは母の病気からだった。
 一向に良くならない母の体調。どんなに医者が手を尽くしても良くなることのなかった母。
 日に日にやつれてゆく母の姿を見ながら、舞はそれでも一生懸命快復を願った。

 自分には母しかいなかったから。
 父の存在を知らず、親類とも縁遠かった自分はいつだって一人ぼっちだったから。
 家もあまり裕福ではなく、母だけが唯一の心の拠り所だと感じていた舞に、
 いなくなってしまうかもしれないという恐怖はあまりにも大きすぎた。

 願った。願って、願って、願い続けた。
 神様。神様。神様。
 自分の言葉などちっぽけでしかなく、何の意味も持たないと半ば理解しながらも、それでも舞は祈り続けた。
 一人になってしまうのは嫌だから。このぬくもりを失ってしまうことがあまりにも怖かったから。
 お願いします。何だってします。絶対に嘘もつきません。いい子になりますから……
 ありとあらゆる言葉を並べ立てた。弱々しい力で頭を撫でてくれる母の手を感じながら、
 痩せ細ってゆく母の手をぎゅっと握りながら、精一杯の笑顔を向けながら、舞は願った。

 奇跡が起こったのは、ある日の朝だった。
 それまで悪化の一途を辿っていた母の体調が、突然快復の兆しを見せ始めたのだ。
 夜通し手を握り、夢の中でも祈り続けていたあの日からだったと記憶している。
 快復の原因は全く分からず、医者でさえも信じられないといった様子だったが、何が原因かなんて舞にはどうでもよかった。
 母がいなくならずに済むと分かって、ただそれだけが嬉しかった。
 もっと早く良くなればいい。良くなって、また自分と遊んでくれるようになれれば、それで良かった。

 母が退院できるまでに良くなったのは、それから一年と経たない時間だった。
 尋常ではない快復ぶりだったらしい。人体の奇跡とでも表現するしかなく、
 ここまで来れば医者も困惑よりも素直に感心するほかなかったようだ。
 苦笑交じりに送り出してくれた医者や看護士の顔を見ながら、舞と母は元の生活に戻っていった。

795エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:13 ID:NGfemGc.0
 家は相変わらず裕福ではなかったが、生活に困ることは全くなかった。
 困っていれば誰かが助けてくれたし、図ったかのようなタイミングで幸運が舞い降りてくる。
 その時はいつだって舞が「そうなればいいのに」と思ったときだった。
 『力』を薄ぼんやりとだが自覚し始めたのはこの頃だったかもしれない。
 思ったことが、現実になる。自分の思い通りに現実が変わってゆく。

 しかし舞自身はそれを積極的に使おうという気は起こらなかった。
 興味がなかったというのもある。今のままで十分だという気持ちもあった。
 優しく、いつだって自分といてくれる母さえいてくれれば。
 だがその『願い』は長続きしなかった。膨大すぎる人の前には『力』も意味を為さなかった。
 『力』が知られ始めたのは、恐らくふとしたきっかけ――怪我をした動物に『力』を働かせたときから――だった。

 何も道具を持たず、何も行わず、まるで手品か魔法のように現実を塗り替えてしまう『力』に賞賛の言葉はなかった。
 人は普通ではないものを忌み嫌う。正体不明のものを恐れる。子供心にも人がその習性を持つことは気付いていた。
 だから、自分達親子が排訴されるのも予想はしていた。
 小学校の時分でさえ、少し見た目が違うだけでからかわれる題材にされる。まして大人であれば……
 予想はしていたものの、やはり辛いものがあった。
 自分がとやかく言われるより、何の関係もない母が心無い言葉を浴びせられるのを見ているのが辛かった。

 なぜ。どうして自分だけを責めないのか。
 子供でしかなかった舞にこの事態はどうすることもできず、それどころか母に守られるだけの日々が続いた。
 陰口を浴び続け、疲れた表情になりながらも、母は決して舞を責めることはしなかった。
 母も気付いていた。舞に、特別ななにかがあることに。
 それでも庇ってくれるのは、どうして。尋ねたとき、苦笑の皺を刻んだ母の表情は、一方でどんな人よりも毅然としていた。

 自分の娘を守らない母親がどこにいるのか。

 全く当たり前の言葉で、しかしどんな偉人の言葉よりも重みのあるものだった。
 人としての強さ、女としての強さを見せ付けられ、舞は人が肉体や健康の状態だけで強さが決まるのではないと知った。
 だからこそ守りたいと思った。父親がいなくとも悲観的になることなく、逃げることもしなかった母を大切にしたいと思った。
 そのために耐える日々を選んだ。大きくなるまで。その一語だけを胸に刻んで、各地を転々とする日々を続けた。

796エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:29 ID:NGfemGc.0
 『力』は好きにはなれなかった。疎まれることには慣れたとはいえ、
 友達のいない生活、孤独な日常は子供だった舞にとっては『力』など不要なものでしかなかった。
 精々他人に悟られないよう、人と距離を置くくらいしか対処する術を知らず、
 家族と一緒にいるのとは別の寂しさを抱え込む日が続いた。

 文句を言うつもりはなかったし、言える立場でもなかった。自分自身理解もしていた。
 それでも感情を完全に紛らわせることなどできなかった。
 『力』があっても舞は人間でしかなく、ただの少女でしかなかった。
 我慢はできたが、内奥で膨らんでゆく思いはどうしようもなかった。

 そんなときに現れたのが『彼』だった。
 記憶は曖昧で、名前もよく思い出せない。ただ、『彼』は別だった。
 偶然の出会いだったように思う。一人で遊んでいたところに、急に声をかけられた。
 少し話して、少し遊んで、その次の日にまた出会って、もう少し話して、もう少し遊んだ。
 そうしてゆくうちに、話す時間も遊ぶ時間も増えていった。

 舞は『彼』のことが嫌いではなかった。
 ふとしたはずみで『力』を発現させてしまったときも『彼』は何も言うことはなかった。
 取り繕うような態度も、恐れ慄く態度も、忌避の態度も見せなかった。
 それが自然だというような振る舞いと、屈託のない笑顔。嘘偽りの感じられない姿に、次第に惹かれていったのかもしれない。
 今までは、異物を見るような目。疎外し、排除する目でしか見られていなかったから……

 『力』のことについても少しずつ打ち明けるようになった。
 半ば相談、半ば愚痴を漏らすような形ではあったが、『彼』は丁寧に聞いてくれていた。
 人々に忌み嫌われ、自分でさえ持て余してしまう力。
 生かす手段も見つからず、捨て去る方法も分からないこの力を、自分はどうすればいいのか。

797エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:24:46 ID:NGfemGc.0
 実際はもっと拙く、子供らしい感情に任せた言い方だった。
 嫌い、とまでは言わないまでも好きじゃないと言っていたことは覚えている。
 母を救ったかもしれない力であるから、嫌いにもなりきれない。
 けれども自分を一人にさせてしまっている力だから、好きにもなれない。
 己の中で複雑化し、好きと嫌いの根を張っている『力』に対処するにはどうしたらいいのか。

 これから先、大きくなって母に支えられることなく生きてゆけるようになっても絶えず向き合わなければならないであろう問題に対して、
 『彼』は別に今のままでいいんじゃないかと言った。
 最初は所詮他人事、どうでもいいのかと落胆しかけたが、続く『彼』の言葉でその気持ちは吹き飛んだ。

 そんなことを気にしなくても、理解してくれる人はきっといる。
 オレみたいにさ、と言った『彼』の笑った顔を見たとき、舞は何かしら胸のつかえが取れたような気分だった。
 舞も久しぶりに笑った。母の前で見せる、強くなるための笑いではなく、自然と零れ出た笑いだった。
 『力』をどうこうする必要なんてない。舞は舞らしくいてくれればいいと言った『彼』の言葉が嬉しかった。

 何の根拠もない、儚い希望ではあったのかもしれない。
 それでも昨日より良い明日を信じようとする考えは、舞にとって好意的に受け入れられるものだったのだ。
 きっと母が良くなると信じ続け、願いが現実になったあの時のように。
 舞は『彼』ともっといたいと思うようになった。この人の近くにいれば、きっと理解してくれる人も増えるだろうから。

 だが、そう思っていた矢先に『彼』はいなくなってしまった。
 正確には帰るのだと言っていた。帰るから、もうここには来れない、と。
 初めて言葉を聞かされたときは絶句していた。まだこれから、という時に、なぜ。
 帰らないで。やっとの思いで吐き出した舞の言葉に『彼』は首を振った。仕方がないことなんだと言った。

 裏切られたとは思わなかった。どこか歯切れの悪い様子は『彼』自身の言葉ではないとすぐに分かった。
 そして瞬時に、こう予想した。
 理解してくれる人もいれば、そうでない人も大勢いる。自分たちを忌み嫌い、遠ざけてきた連中がいるように。
 『彼』は自分と遊んでいることを知られて、引き離されたのだ。
 子供でしかない『彼』は従うしかなかった。何もできなかった自分同様に……

798エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:02 ID:NGfemGc.0
 子供であることの小ささ、無力さが絶望となって圧し掛かってきていた。
 自分には何も力がないから、やっとできた友達一人だって守れない。
 その事実をいつものように納得する自分がいる一方で、諦めたくないと叫ぶ自分がいた。
 『彼』から教えられた希望を信じ、明日が良くなると信じて笑った自分。
 ここで何もしなければ、今度こそ自分は自分のことを嫌いになってしまうだろうという、確信にも似た気持ちがあった。

 けれども、十年一日耐え忍ぶことしかしてこなかった舞にはどうすれば『彼』を引き止められるのかが分からなかった。
 どうすれば希望の在り処を取り戻せるのかが分からなかった。
 だから舞は嘘をついた。

「魔物が来るの!」

 もう少し年を経ていれば、もっと違う言葉を絞り出せたのかもしれない。
 だが舞にはこうするしかなかった。
 明確な敵を作り、一緒に対処していこうと、そんな言い方しか出来なかった。

 『彼』はやってくることはなかった。
 嘘だと見抜かれたのだろうか。いや違う、そうではない。『魔物』が邪魔をしたのだ。
 舞との仲を引き裂くために、『魔物』が言葉を届けられなくした。
 そうと信じるしかなかった。
 信じなければ、自分は諦めてしまったということになるのだから。
 自分を一人にしようとする『魔物』がいる。

 ならば、討たねばならない。

 一つの結論を見い出したとき、外から獣のような咆哮が聞こえた。
 すぐさまその正体を理解した。間違いない。あれが諸悪の根源……『魔物』なのだと。
 舞は棒切れを持って飛び出した。外で暴れ回る『魔物』を一生懸命に追い払った。
 倒すことこそ出来なかったが、『魔物』はいずこともなく消えていった。
 『魔物』と戦い、疲労した舞の胸中にあったのは、明確な悪の存在を見い出した昂揚だった。

799エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:21 ID:NGfemGc.0
 あれさえやっつければ。『彼』だってきっと戻ってきてくれる。
 だが、『魔物』は強大だった。あれだけ懸命に戦ったのに、傷一つついていなかった。
 自分一人ではどうにもならないくらいの実力差があった。

 ――ならば、倒すまで鍛えればいい。

 薙ぎ払い、打ち倒し、その存在を抹消できるまでに己を高めればいい。
 今はまだ敵わなくとも、いずれ絶対倒してみせる。
 守れないのではない。守ろうともしない諦め、無関心こそが悪い結果を引き起こすのだと断じて、舞は戦おうと決めた。

 即ち、自分たちをどうしても理解しようとしないモノと。『魔物』と。

「嘘を嘘で塗り固めたのは、あなた」

 幼い自分の声が聞こえた。
 淡々としていても、明らかに自分を責める調子があった。

「諦められないって言いながら、実際はその場しのぎの嘘をついて、上手く行かなかったからって現実にしようとしたのがあなた」

「そんな自分に疑問も持たず、子供のころの思い付きを頑なに信じて変わることすらしなくなったのがあなた」

「そうして何かあれば自分さえ傷つけばいいと思うようになって、自分を傷つけるのは魔物だからとしか考えなくなったのがあなた」

「結局のところ、あなたはそんなのだから一人なの。いくら経っても、全然成長なんてしてない」

 重ねられる言葉に、舞は反論することが出来なかった。
 確かに、そうだ。あの日から、些細な嘘を真実だと思い込み、
 ありもしない『魔物』を退治しようと躍起になっていた自分は愚か以外の何物でもない。
 明日はきっと良くなる。『彼』の語ろうとしていたことの本質も捉えず、
 思考を停止させて盲目的に『魔物を倒す』以外の目的を持てなくなってしまった哀れな女。
 それが川澄舞という人間の生きてきた、無駄とも言える半生だ。

800エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:37 ID:NGfemGc.0
「今度だってそう」

「逃げて、逃げて、逃げた末に、あなたは国崎往人に居場所を求めた」

「守る人がいなくなったから。自分に罪を与えるための依代として」

 そうなのかもしれない、と舞は思った。
 好きになったのも、一緒にいたいと思ったのも、結局は自分に罰を与えるため。
 嘘をつき、拠り所を失った女が新たに求めた依存先。

 川澄舞は、嘘つきの悪い子で、
 約束も果たせない悪い子で、
 なにひとつ守れない、弱すぎる女だ。

 そんな自分が生きていてはいけない。
 だから己を傷つけることで罪を清算しようとした。
 ただの自己満足なのだと、分かっていたにも関わらず。

「分かった? どこまで行っても、あなたは一人なの。それが『力』の代償なんだから」

 目の前の幼い少女は自分であり、かつて嘘をついた結果生まれた魔物だ。
 一見何の悪意もなさそうな、屈託のない笑みが舞へと向けられた。

 しかし、舞は知っている。
 この笑みは、自分を慰めるためだけの笑み。
 何かあれば自分を傷つけることで己を満足させてきた、手前勝手な笑みだ。
 疑いようもない我が身の姿だ。
 だが認める一方で、これは過去でしかないと、胸の奥底で語りかける自分がいた。

801エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:25:56 ID:NGfemGc.0
「分かったなら、もう一度力を貸してあげる。あなたの望むことを現実にする力。
 でも代わりに、またあなたは一人になる。誰からも認められず、理解もされない。
 あなたが生きてゆくのは一人ぼっちの世界――」

「――それは、違う」

 沸き立つ気持ちに押し出された言葉は、湿った空気を吹き散らして少女へと届けられた。
 途中で遮られ、呆気に取られた表情で見てくる少女に、舞は強い確信を含んだ視線を返した。
 込み上げてくる熱が抑えられない。冷静でありながら、熱くなってゆく自分を感じる。
 今の自分を、過去の己に示すために、舞ははっきりと口に出して伝えた。

「私は、一人じゃない」

 口に出す間際、強く吹いた風にもかき消されることはなく、言葉が世界を震わせた。
 確かに、様々な間違いを犯してきた。
 けれどもやり直してゆこうという意志もまた、今の自分にはある。
 今はまだ間違っていても明日という一日で少しは良くなるかもしれないから。
 一日で無理なら、さらに時間をかけてでも良くしてゆこうという気持ちが、自分にはある。

 理解してくれる人がいるから。一緒に逃げてやってもいいと言ってくれた人がいるから。
 同じ湯船に浸かったときの温もり。少しごつごつしていて、けれども確かな暖かさがあった人の温もりが自分にはある。
 だから一人じゃない。生身の自分を受け入れてくれた人がいるから、もう諦めない。

「私は、信じてる。
 どんなに儚くても、遠い道のりでも、
 気持ちの持ちようひとつで明日を変えてゆける可能性があるんだってこと。
 今度こそ言い訳はしない。それが大人になるってことで、昔の私への責任の取り方だって思ってるから。
 だから――あなたも見守って欲しい。私の、人生を」

802エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:15 ID:NGfemGc.0
 最後に語ったのは拒絶ではなく、受け入れる意志だった。
 否定などしない。出来るはずがない。間違いを犯してきた自分も、大切な自分の一部だと分かっているからだ。
 受け入れてみせると言い切る舞の凛とした視線を受け止めた少女は、やがて仕方がないという風に苦笑を刻んだ。
 何の含みもない、もうこうなってはどうする術もないというある種の諦めだった。

「『力』のことも話さなきゃいけない。この時点で、あなたは拒絶される可能性がある」
「その時は、その時。……私、少しは諦めが悪くなったから」
「……強くなったんだね、あなたは」
「好きな人が、できたから」

 言ってしまったところで、恥ずかしい台詞なのかもしれないと思ったが、どうせ自分に対してだ。何も憚ることはない。
 少女が白い歯を見せた。舞も頬を緩めた。
 お互いがお互いを受け入れ、何年と溜まっていたしこりの全てを洗い流した瞬間だった。

「じゃあ、助けなきゃね。その、好きな人」
「うん、助ける。だから……力を貸して」
「分かってる。目を閉じて。わたしの声に、応えて」

 舞は目を閉じた。
 穏やかに流れる風の声。稲穂のざわめき。
 握られる舞の手。てのひらから伝わってくるのは、やさしい温もり。

 ――もういいかい?

 世界が、終わる。

 ――もう、いいよ。

803エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:32 ID:NGfemGc.0
     *     *     *

 どうしたらいい。
 繰り出されるアハトノインの剣戟を頼りないナイフで受け止める往人の頭にあったのはその一語だった。
 舞が死んだという絶望でもなく、命の危機に対しての焦りでもない。
 ただどうしたらいいという言葉のみが支配し、一切の思考を奪っていた。

 たったひとつのカラクリも見抜けなかったばかりに。
 しかも全く予測できなかった事項であり、理不尽だという言葉すら浮かび上がる。
 最初からこうなる運命だったのだろうか。

 ナイフの一本を叩き折られる。元々が投げナイフであり、打ち合うことを想定していない武器なのだから当然だった。
 柄だけになったナイフを投げ捨て、次のナイフで斬撃を受け流す。
 一体どこにこんな力が残っているのかと我ながらに感心する。
 生きるために戦ってきた、この島での習い性がそうさせているのだとしたら全く大したものだと思う。
 何も考えられなくても、体は勝手に生きようとする。最後まで諦めまいとする。
 厄介なものだと呆れる一方で、ここまで生に執着していただろうかと自らの変化にも驚いている。

 当てなんてない人生だった。
 曖昧な目的のために年月を過ごし、その日の日銭にも困るような時間の連続。
 生き甲斐なんてなかった。命を懸けられるようななにかもなかった。
 ふらふらとさまよい続け、自分の代で法術も途絶えてしまうのだろうというぼんやりとした意識だけがあった。
 挙句、いつの間にか手にしていた大切なものでさえ気付かないままに過ごしていた。
 国崎往人の人生は、無意識のうちに積み上げては崩し、積み上げては崩してきた、無駄の連続だった。
 食い潰してきたと言ってもいい。

 この島の、殺し合いに参加させられた人間の中でどれだけの生きる価値があったのだろう。
 自分などよりももっと有意義に生きてきた人間などたくさんいるはずだった。
 なのに自分は生きている。
 佳乃を犠牲にし、美凪を犠牲にし、観鈴を犠牲にし、様々な人の死の上に、そして舞の屍の上に、自分は成り立っている。
 それだけの価値がある人間なのだろうか。
 どうして、自分が先に死なないのだろうか。

804エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:26:49 ID:NGfemGc.0
 ナイフの二本目が叩き折られる。正確には、折られた瞬間ナイフが弾き飛ばされた。
 踏み込んできたアハトノインの突きを紙一重で避け、足で蹴り飛ばす。
 三本目を取り出しつつ距離を取る。残りはこれを含めて、二本。銃を構えさせてくれる隙があるとは思えなかった。
 明らかな劣勢。銃撃された部分の痛みは増し、熱を帯び、体から力を奪ってゆく。
 徐々に死へと追い込まれていっている。なのに抵抗しようとする体。
 生きることにこんなにも疑問を持っているにも関わらず、だ。

 蹴り飛ばされ、転がっていたアハトノインが復帰し、さらに斬りかかってくる。
 袈裟の一撃を、往人は死角に回り込むようにして回避する。
 曲がりなりにも戦えているのは、顔の半分を破壊され、視界が激減したアハトノインであるからなのかもしれない。
 往人から一撃を叩き込もうと試みたが、所詮は投げナイフだった。
 刺す以前に繰り出された後ろ回し蹴りのカウンターを貰い、無様に地面に転がる。
 ナイフはどこかに飛び、転がった拍子にいくつかの武器が零れ落ちた。

 確認する。手持ちはナイフ一本と、最も役に立たない拳銃であろう、フェイファーツェリスカだった。
 反動の大きすぎるこの銃は片手では撃ちようがない。鈍器としての用法しか見い出せないくらい役立たずの代物だ。
 最悪の状況だった。出血は大して酷くはない。血が足りず、目が眩んでいることもない。
 それどころか、まだまだ戦えると言っているように、臓腑の全てが脈動し、全身の隅々にまで力を行き渡らせている。
 単純な一対一では絶対アハトノインには敵わないというのに。

 分かりきっている理性に反発するように、右手が素早く動いてナイフを取り出す。左手で反吐を拭う。
 足に力が入り、すっくと立ち上がる。ただの本能で行っているにしては、随分と整然とした行動だった。
 生きろと体が命じているのではなく、自らがそうしたいと言っているかのような挙動だった。

 俺は、生きたいのか? この期に及んで?

 全く自分勝手だと思ったが、間違いなく自らの内に潜む意志はそうしたいと告げている。
 寧ろ、自らの人生に疑問を抱いていることこそが偽物のようにさえ思える。
 今まではロクなことをしてこなかった人生。時間を食い潰すだけの人生を送っていたはずの自分が、なぜ……

805エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:27:07 ID:NGfemGc.0
「……ああ、そういうことか」

 ふと一つの考えを発見した往人は、素直にその考えに納得していた。
 今までは、今まででしかない。
 現在を生きる自分は違う。
 生き甲斐を考え、命を懸けられるものを見つけ出すことが出来るようになった、人並みの人間だ。
 だから生きていられる。生きようとする。
 価値のない人間なんかじゃない。

 自分自身が認め、認めてくれる誰かがいたからこそ、往人は自身の考えを肯定することができた。
 もっとも、一番理解してくれていたひとは既にここにはいないのだが……
 それでも確かにいたのだという事実を、知っているから。

「諦められないよな」

 ナイフを構え、来いというように眼前のアハトノインを睨みつける。
 元来目つきの悪い自分のことだ、さぞ怖い顔になっているだろうと往人は内心で苦笑した。
 とはいっても目の前のロボットに、こんなものは通用しないだろうが。

 往人はコンテナを背にするようにじりじりと下がる。
 普通の攻撃が通じない以上、直接頭の中にナイフを突き刺すくらいしか対処法が思い浮かばない。
 だが回避するだけの立ち回りではとてもではないがそんな隙など見当たらない。

 そこで考え付いたのが、刀をコンテナに引っ掛けるという方法だった。
 突きを繰り出させ、コンテナで弾いたところに必殺の一撃を叩き込む。
 子供でも引っかかりそうにない単純すぎる方法であるうえ、そもそもそれだけの隙があるのかとも思ったが、
 さして頭の良くない往人にはこんな策しか思いつかないのが現状だった。
 それでも、やらないよりはやる方がいい。
 どんなに少ない可能性でも追っていけるのが自分達、人間なのだから。

806エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:27:27 ID:NGfemGc.0
「来いよ」

 挑発するように投げかけた言葉。それに応じるようにアハトノインが突進してくる。
 グルカ刀を真っ直ぐに構えた、突きの体勢だ。
 いける。そう判断した往人はギリギリまで引き付けるべく腰を落とす。
 距離は瞬く間に詰められる。残り三歩、二歩、一歩。
 刀の射程距離に入ったと判断した往人は、全身の力を総動員して真横に飛んだ。
 振ったにしろ、このまま突いたにしろ、運が良ければコンテナに刀が当たってバランスが崩れるはず……
 しかし思惑通りにはいかない。真横に振られたグルカ刀はコンテナにも当たらない。

「やっぱ思い通りにはいかないな」

 着地したと同時、既にアハトノインはこちらへと接近している。

 まだ諦めてたまるか。

 今度は回避できないと判断して、振り下ろされる刀をナイフで受け止めようとする。
 だが、所詮強度では雲泥の差がある。今までがそうだったように、当たり前のようにナイフは折られた。
 けれども刀自体は逸らすことができた。この僅かな隙を往人は見逃さない。

「まだだっ!」

 往人の視界の隅で、ふわりとナイフが浮き上がる。
 それは蹴飛ばされたときに落とした三本目のナイフだった。
 浮き上がったナイフの刃がアハトノインを向き、頭部目掛けて射出されるように動いた。
 法術の力。手を触れずとも動き出す、往人にだけ備わった力。
 人形に複雑な動きをさせることの出来る往人に、真っ直ぐ飛ばすことなど造作もないことだった。
 完全に不意をついた一撃。半ばアドリブのような戦術だったが、避けられるはずがないと確信していた。

807エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:27:47 ID:NGfemGc.0
 理不尽なのはお互い様だ。くいと指を動かしたナイフは僅かに動きを変え、
 アハトノインの頭部を刺し貫き、刃は首筋にまで達していた。
 何が起こったのか理解できるはずもないアハトノインはビクリと体を硬直させる。
 が、完全に動きが止まることはなかった。
 止まったのは一瞬だけで、何事もなかったかのようにナイフを引き抜かれる。

「……マジかよ」

 ナイフを投げ捨て、無駄だというように唇の端を歪めたアハトノインに、往人は慄然とする思いだった。
 乾坤一擲の策。当たるだろうと思っていたし、実際見事な形で命中したのに、倒れない。
 分かったのは頭部付近は弱点ではないという事実だけだった。
 頭を破壊され、右手をもぎ取られ、ボロボロになった防弾コートは殆ど用を為さず、それでも死なずに立ち塞がる。
 大した忠誠心だと思う一方、ここまで傷ついても馬鹿正直に殺そうとする姿は哀れなようにも思える。
 何も考えず、思考を停止させてひたすらに任務をこなそうとする機械。

 だがな、そんなものに負けるわけにはいかない……!

 往人も不敵な笑いを返した。
 積み重ねてきたものを心無い機械に壊されることほど、往人にとって屈辱的なことはなかった。
 だからまだ戦う。それだけだ。

 頭付近が無理ならば、別の箇所を狙えばいい。
 間に合わないことを半ば理解しながらも、往人はツェリスカを取り出そうとする。
 しかし、アハトノインは既にグルカ刀を持ち上げていた。
 後は振り下ろされるだけ。天高く掲げられた刃は、裁きを下すギロチン。
 完全なる死刑宣告だったが、素直に受け入れるほど往人は諦めが良くなかった。

 そうだろ、舞?

808エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:28:05 ID:NGfemGc.0
 今はいない、最愛の人の名を呼ぼうとして、だがそれが果たされることはなかった。
 突如現れた『何か』にアハトノインが吹き飛ばされる光景を目にしたからだった。
 ゆらりと、陽炎のように蠢く『何か』は、吹き飛ばされ、どうなったのかも理解していないアハトノインに向かって突進する。
 正体不明のものに殴られ、混乱の極地にあったアハトノインは防御すらしなかった。

 『何か』の突進をモロに受け、今度はコンテナへと吹き飛ばされる。
 打撃ゆえに致命傷にはなっていないようだったが、理解不能な状況にアハトノインは対処する術を持てない。
 それはそうだろう。何せ彼女はロボットでしかないのだから。
 けれども殴られ続ける不利は不味いと判断したらしく、撤退の道を選ぼうと身を翻したアハトノインを、
 往人がそのままにしておくはずはなかった。

「……チェックメイトだ」

 今度は法術の力をツェリスカのトリガーに込める。同時に反動を抑えるための力も法術で補う。
 片手で撃てないのなら、こうすればいい。
 ほぼ無反動のまま、ツェリスカから銃弾が吐き出される。
 象をも一撃で殺害する威力のあるツェリスカの弾丸を、人間型であるアハトノインが受け止められる道理はなく、
 腹部に命中した結果、凄まじい力が胴体を引き千切り、防弾コートごと破壊した。

 バラバラと零れ落ちる機械の破片を眺めながら、往人は終わったという感想を抱いた。
 それで安堵してしまったのか、体からは力が抜け、ぺたんと情けなく地面に座り込んでしまう。
 傷口が今更のように痛み出し、往人はやれやれと顔をしかめつつも笑った。

「お疲れ様、往人」
「……生きてたんだな」

 笑ったのには他にも理由があった。
 舞は生きていた。いつの間にやってきたのか、座ったままの往人を穏やかな表情で見下ろしている。

809エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:28:20 ID:NGfemGc.0
「いけない?」
「いや全然。……嬉しいさ」

 普段なら口に出さないようなことまで言ってしまうのは、やはり彼女が大切な人であるから、なのだろう。
 生きていて良かった。その思いが体の芯から込み上げ、無性に彼女が愛おしくなった。

「怪我は平気か?」
「大丈夫。そういう力が、私にはあるから」
「力?」
「明確には言えないけど……」

 舞は銃撃された部分を指でなぞった。
 傷口があったであろうその場所からは、一滴の血も流れ出ていない。
 力、と舞は言った。その正体は分からないが、自分と同じようなものなのだろうと往人は納得した。

「ってことは、さっきのアレも舞か」
「……驚いた?」
「少しは」
「怖くない?」
「全然」

 だって俺はこんな力があるんだぞ。そう言って、いつもの法術で壊れたナイフの柄を動かしてみせると、
 そうだったと舞は微笑んだ。傷を治す力かなにかは知らないが、別にあったとしても驚かない。
 今まで出ることがなかったのは、恐らく今の舞の清々とした表情にも関係あるのだろうと当たりをつける。
 きっと、何かがあった。それだけ分かれば十分だと往人は結論した。
 今までのことは、後々にでも聞けばいい。
 この瞬間は、二人とも生きていたことを喜びたかった。

810エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:28:34 ID:NGfemGc.0
「舞」
「ん?」
「キスしてもいいか」
「……え?」

 何を言われたのか分かっていないような顔に、可笑しさ半分愛おしさ半分の気持ちだった。
 首を少し傾げる姿が、可愛い。
 理由というほどのものはない。強いて言うなら、その存在を生身で確かめたいという思いがあったからだった。
 湯船で感じた、柔らかな背中の感触を思い出したかったからというのもあった。

「……別に、構わない」

 尻すぼみになってゆく声と、不自然に逸らされる目線。
 頬に少し赤みがかかっているのは、恐らくは照れている証拠だろう。
 自分はどうなのだろうとも思ったが、舞に聞くのも野暮でしかなく、往人は舞いにしゃがむよう促した。
 ん、と素直に応じて、互いに見詰め合うような格好になる。
 そういえばキスはどのようにやるのだったか、と今更のように往人は思ったが、尋ねる無神経さは流石にない。

 舞も舞で、戸惑いと期待を含めた目で往人を見ている。
 このままでは動きそうもないと判断して、こうなれば下手でも構うものかと、舞を抱き寄せる形で唇を重ねた。
 何の変哲もない、唇を合わせただけの、初々しすぎるキス。
 それでもお互いの体から、重ね合わせた部分から、暖かさが伝わってくる。

 この暖かさがあるから、自分達はより良くなることを目指してゆけるのだろう。
 そう結論して、往人は今しばらく、この時間に身を預けることを決めた。

811エルサレムⅤ [少女の檻]:2010/05/23(日) 18:28:52 ID:NGfemGc.0
舞、往人
装備:P−90、SPAS12、ガバメントカスタム、ツェリスカ、ツェリスカ弾×4、ショットシェル弾×10、38口径ホローポイント弾×11、38口径弾×10、日本刀


川澄舞
【状態:往人に付き従って行動。『力』がある程度制御できるように】
【その他:往人に対して強い親近感を抱いている。剣道着を着ている】

国崎往人
【所持品:スペツナズナイフの柄】
【状況:舞と一緒に、どこまでも】
【その他:左腕に文字を刻んだ。舞に対して親近感を抱いている】

→B-10

812POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:02:56 ID:MH5vuqA20
 狭いダクトの中を這いながら進む、朝霧麻亜子の速度は鈍かった。

 ずっと考え事をしているせいだった。

 自分は何のためにここにいて、何をしたらいいのか。
 脱出のために、生きて帰るためになどという、そんな当たり前のことではなく、もっと根本的ななにか。
 これから先、未来永劫自分を支えていく根源的ななにかを探そうとしていた。

 あたしは。

 今までずっと、その場その場の対処しかしてこなかった。
 その瞬間にやることを分かってはいた。だから、ヘマを踏むことは少なかった。
 だがそれだけだった。後輩を失ってから先、麻亜子は『そのためだけに』出来るものを探さなかった。
 本能的に拒否していたのかもしれない。きっとそれは、怖かったから。
 二度まで手放してしまうのが怖くて、喪失の痛みが怖いと感じていたから。
 自分勝手な、朝霧麻亜子という女は、いつかなくなってしまうことを恐れていた。
 それこそ叶わない願いだというのに。自分がここという世界に生きている限り、なくならないものはないのに。
 いやだからこそなのかもしれない。拒否するあまりに、いつかはなくなると分かりきっていたからこそ、
 失うものは自分だけでいいという結論に至ったのかもしれない。
 ……でも、それじゃダメなんだ。
 芳野祐介の言葉、藤林杏の後姿を思い出しながら、麻亜子は己の恐怖と向き合った。
 自分だけでいて、満たされるわけはない。それではあまりにも寂しすぎる。
 無言の信頼であってもいい、単なる気遣いでもいい。
 無条件に誰かに背中を預けられるものひとつあるだけで、人は真の充足を得られる。
 芳野が逃がしてくれたのは、杏が逃がしてくれたのは、麻亜子にその機会を与えようとしてくれようとしたからなのだろう。
 寂しいままに、義務感に駆られて死んでしまうのを見たくはない、それだけの理由で。

813POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:03:23 ID:MH5vuqA20
 あたしは。

 恐ればかりの心の中。
 間違ったことばかりしてきた自分がいてもいいのかという恐れ。
 再び喪失を迎えたとき、まともでいられるのかという恐れ。
 こんな卑小な自分を受け止めてくれるだけのひとがいるのかという恐れ。
 誰にも、何もしてやれないのではないかという恐れ。
 怖い。あまりに怖く、躊躇ってしまう。
 どうやってみんなは、この怖さを乗り越えてきたのだろう。
 踏み出せないままに疑問だけが募る。
 どうやれば自分は、人は。
 強さを手にいられるのだろうか。

 あたしは。

 ダクトから抜け出た先では、先行していた伊吹風子が待っていた。
 間を持て余していたのだろう。青く光る、綺麗な宝石を手で弄びながら小さく立ち尽くしていた。
 出てきた麻亜子に気付き、いつもの顔が無言で持ち上げられた。

「ごめん、待たせた」
「遅すぎです」

 宝石をしまいながら、風子は麻亜子の横に並んだ。
 その顔色に変化はない。少し固い、幼さの中に生硬い色を残した瞳がある。
 あの会話の一部始終は聞いていたのだろうか。
 いやあれだけ大声でやりとりしていたのだ、聞こえないはずはなかった。
 半ば、風子の家族を見捨てた形の自分。どう、思われているのだろうか。
 聞こうにも、麻亜子は聞く術を持たなかった。
 いつもの茶化した聞き方ができないことがひとつ、そして風子に詰られるのではないかと思ったのがひとつだった。
 だから麻亜子は、今まで自分がやってきた通りの『その場の対処』しか話題に出せなかった。

「これから、どうする?」
「どうするもこうするも……爆弾の回収が先だと思います。一旦下に降りて、エレベータのところまで行きましょう」

814POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:03:43 ID:MH5vuqA20
 風子にしては珍しくまともな意見だったが、それに冗談を言える空気ではなかった。
 ああ、うん、と頷いて、階段を探すために麻亜子と風子は歩き始めた。

「……えらく素直ですね。いつもの調子はどこに行ったんですか」
「……そんなの、言えるような状況じゃないだろ」

 空気の違いを察したからこそなのか風子は尋ねる声を出してきたが、麻亜子は突っぱねる返事しかできなかった。
 自分の中に根付いてしまった恐れがそうさせてしまった。
 嫌で、嫌で、仕方ないのに。

「別に、いいんです。ユウスケさんはそういう人だって分かってましたから」

 特に気にすることもないような調子で、風子は言った。
 二人が別れる際の会話が思い出される。
 ただ一言の、しかしお互いを分かりきった会話。
 あんな言葉でしかなくても、それぞれに納得できている。
 だからこそ風子はこう言ったのかもしれなかった。

「昨日ですね、ユウスケさんと、色々話したんです」
「いつ?」
「大体……ええ、風子がお風呂から上がってすぐくらいです」

 麻亜子が湯船に浸かっていた時間帯だった。
 朝にはいつの間にか隣で寝ていて驚いたものだったが、そんなことをしていたのか。

「将来のこととか、何をやってみたいかとか、そういうことです」
「チビ助、そういうのあるんだ」
「チビ助じゃないです。……それで、ユウスケさんは応援してくれるって言ってくれました」
「芳野のお兄さんは……どうするって言ってたの?」
「歌だけはない、って言ってたくらいでした。何も考えてないんです、あの人は」

815POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:04:06 ID:MH5vuqA20
 呆れもなく、失望もなく、ただそのような人間だと受け止めた声だった。

「だから思いつきで何でもやるんだろうな、って思いました。今さっきだってそうです」
「あれは……でも、あれは」
「カッコつけなんです。男の意地ってやつだったんでしょう。風子には全然分かりません」

 悪し様に言っているのではなかったが、どこか愚痴をこぼすような口調に、麻亜子は戸惑うしかなかった。
 大人としての生き方を貫いた芳野。機会を与えてくれた芳野。
 竦んでいることしかできない自分には大きすぎる存在だと思っていたのに、風子はまるで同等の存在のように言っていた。
 家族だから、なのだろうか。
 言葉のない麻亜子に構わず、風子は淡々と続ける。

「でもいいんです。それでいいんです。ユウスケさんは、それで良かったんです」

 淡々としながらも、風子の口調は震えていた。それでも泣いてはいなかった。
 風子の中でも整理がつけられないのかもしれない。
 麻亜子に吐き出すことで整理しようとしているのかもしれなかった。

「別に、風子がどう思おうが、他の誰かがどう思おうがいいんです。
 ひとは、そのひとらしくいればいいと思うんです。
 無理に正しいことをしようとしなくても、いいと思うんです」
「そのひとらしく……」
「風子の周りのひと、みんなそうです。岡崎さんも、笹森さんも、十波さんも、みんな自分勝手でした。
 こっちがどう思うかなんて少しくらい考えるだけで、自分が満足するように生きる。
 でもそれは間違ってなんかないです。そうするべきです。風子もそうしてます。いえ、そうするようにしました。
 それで、ありのままの自分を見てもらって、信じてもらうんです。
 いいも悪いもなくて、こんな風子なんだって信じてもらって」

816POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:04:27 ID:MH5vuqA20
 風子はそこで一度言葉を切り、麻亜子へと向き直った。
 変わることのない、愚直でもあり純真でもある瞳に見据えられ、一瞬息が詰まりそうになる。

「まーりゃんさんは、風子はどんなだって思ってます?」
「……それは」

 麻亜子の知っている風子。
 なにかとつまらないことで喧嘩をし、じゃれ合い、他より年上なのに揃って子供染みたことばかり繰り返している。
 馬鹿馬鹿しくて、下らなくて、ふざけている。

 あたしは。

 でも、楽しかった。

「チビのくせに大人ぶって、のーてんきなアホで、あたしに突っかかってばかりの……いい友達だと、思ってる」
「その言葉、そっくりお返しします。チビで目立ちたがりでアホみたいなテンションのまーりゃんさん」

 麻亜子も、風子も一斉に笑った。
 お互いに同じことを考えていた可笑しさと、ようやく素直に言葉を交し合えたことへの嬉しさ。
 それらがない交ぜとなって笑いを呼び起こしたのだった。
 何も考えずに、無条件で自分を見せられる心地良さがあった。

 あたしは。

 誤魔化してなんかいなかったのかもしれない。
 馬鹿なことをしていたのは、逃げなどではなかった。
 本当に楽しいと思っていたからやっていただけだった。
 自分でやっていたくせに、何故そんなことにも気付けなかったのだろう。
 それくらい自分を見ようとしてこなかったということなのかもしれない。

817POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:04:48 ID:MH5vuqA20
「そうです。どーせ今の風子はそんなもんです。でもいいじゃないですか、楽しいんですから」
「……そうだね、それが一番」

 自分らしく。
 どんなものかさえ分かっておらず、輪郭もあやふやだと思っていたのに、
 こうして会話ひとつ交わしただけで実体を伴って自分の中に染み込んでくる。
 友達とは、こういうものだった。
 失ってしまうもの、いつかなくなってしまうというイメージが大きくなりすぎていて、
 その本当の意味を忘れてしまっていた。
 ようやく笑いも収まってきた麻亜子はひとつ息をつき、ようやく見えた階段の先を眺めた。
 照明も暗い鉄製の階段はどこまでも伸びているようで、先の長さも分からない。

「ね、チビ助」
「チビ助言わんといてください」
「あたし、もっと色々な人と知り合うよ」
「無視ですか。まあいいです」
「そんで仲良くなってさ、あたしが必要だって、そう言わせてみたい」

 誰かに己を必要としてもらう。
 芳野が風子に無言の信頼を預けたように、自分もその存在を見つける。
 芳野だけではない。河野貴明が久寿川ささらと共にいたように、ささらが貴明といたように、
 誰もが芳野と同じことをしている。

 あたしは。

 人が人を想う環に加わり、連綿と続く命のひとしずくになる。
 有り体に言えば恋愛や結婚。それだけの話だったが、麻亜子なりに考えた『救済』はこんな結論だった。

818POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:05:14 ID:MH5vuqA20
「そうですか。まあ、風子は今のところ勉強しか考えてないので、おバカに付き合うのは今日までの予定です」
「いやお笑い芸人じゃなくってだな」
「えっ」
「本気で驚いた顔すんなっ! 声優になりたいんじゃあたしはー!」
「へー」
「冷めた反応しないでよ!? もっとこう夢のある話だとかキャーマーサーンとか黄色い悲鳴上げてくれたっていいと思うよ」
「頑張ってください」

 風子のそっけない言葉に愕然とする思いだったが、元々こういう人間なのだったと結論した麻亜子は溜息をひとつ残して会話を止めた。
 全く、最後の最後までペースを握らせてくれない、天敵のような女だった。

「ところで声優ってなんですか」
「知らなかっただけかいっ!」

 階段を下りつつ、ハイテンションとマイペースの混ざり合った奇妙な会話が繰り広げられる。
 いつも、でいられる瞬間。こうした時の、一瞬一瞬の時間で自分は、自分達は救われているのかもしれない。
 そんなことを麻亜子は思った。

「で、なんなんです声優って」
「えー、あー、それは……アテレコする人」
「アテレコ? 何か収録するんですか」
「……微妙に認識が違ってるのは気のせいじゃないって思うね。
 まあ間違っちゃいないよ。アニメとか、洋画の吹き替えなんかをしたりするのさ」
「あー、あれですね。なるほど分かりました。中の人になるんですね」
「チビ助の言葉選びは一々エキセントリックだって思うよ」
「お前が言うなと返事しておきます」

 エレベータのパネルは、確かこのあたりで止まるような設定だったか。
 目的のフロアを見つけ、エレベータへと急ぐ。
 一応爆弾の回収という目的を背負っている以上、行動は迅速にするべしという共通の見解が二人にはあった。
 それともう一つ。
 二人の、芳野と杏の安否が気になっていたからというのもあった。
 無事に逃げられたのだろうか。
 それとも宣言通り、アハトノインを見事に打ち倒してくれたのだろうか。

819POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:05:54 ID:MH5vuqA20
 二人は。

 二人は――

「……」
「……」

 降りきった大型エレベータの端。
 柵に寄りかかるようにして、二人は眠っていた。
 気色は最悪だったが、随分と形の良い顔色だった。
 とても楽しそうで、とても穏やかで、羨ましいという感想さえ浮かんだ。
 二人が戦っていたであろう機械の姿はなかった。
 ただパーツの欠片がそこら中に転がっていたことから少なくとも無事ではないのは明らかだった。
 いや、トドメをきっちりと刺したのだろうと、自信を持って思うことができる。
 そうでなければ……こんな充足した、満たされた顔でいるわけがない。

「預かりに、来ました。二人とも」

 風子は静かにそう言い、エレベータの端に鎮座していた爆弾の載った台車へと進んでゆく。
 麻亜子は使える武器はないかと持ち物を検分してみたが、使えそうなものはなかった。
 文字通りの総力戦だったのだろう。

 ねえ。

 あたしは。

820POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:06:12 ID:MH5vuqA20
 目を閉じたまま眠っている二人の姿を眺めながら、その先にいる懐かしい親友二人の姿を眺めながら。
 にっと口をいっぱいに広げた爽やかな笑みを浮かべながら。

 行ってくるぞ、諸君!
 あたしは、ここから……卒業するっ!
 ぐっ、と親指を突き出して麻亜子は誓った。


 それが彼女の卒業式だった。

821POP STEP GIRL:2010/07/11(日) 22:06:32 ID:MH5vuqA20
麻亜子、風子
装備:デザートイーグル50AE、イングラム、SMGⅡ、サブマシンガンカートリッジ×3、S&W M29&nbsp;5/6、SIG(P232)残弾数(2/7)、二連式デリンジャー(残弾1発)、ボウガン、宝石、三角帽子


朝霧麻亜子
【状態:なりたい自分になる】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

伊吹風子
【状態:泣かない。みんなで帰りたい】

→B-10

822エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:32:28 ID:Ckv4lVpo0
 ようお前ら久しぶりだな。
 こうして話すのも中々に久しぶりな気がする高槻だぞー。
 最終決戦……というといかにも重々しい響きだが、まあ実際のところはスタコラサッサと逃げ出す脱出行なわけだ。
 というのも、まあ俺らの装備が貧弱すぎることが原因なんだけどな。
 本当はなーなんだっけ、名前は忘れたがあの憎たらしい野郎に鉛玉をありったけブチこんで正義は勝つ!
 みたいな締め括りにできれば一番なんだろうけどさ、そいつはお預けだ。
 似合うとか、似合わないとか、そういう権利があるとかないとかそういう話じゃなくて、
 ただ単に戦力が足りないってのがなんともまあ情けないところだ。

 けどよ、まあ、そんなもんなんだろう。
 綺麗さっぱりなハッピーエンドなんて誰もが期待しちゃいないし、そんな甘い希望が現実になるだなんて信じてもいない。
 俺が、俺達が信じていることはもうたったの一つしかない。
 生きて帰って、自分たちだけの、自分たちだけが掴むべき未来ってやつを目指す。
 他の誰でもない、自分だけが考えた未来だ。
 地獄から戻れた報酬にしては安すぎる報酬なのかもしれないけどな。
 まあ価値なんて人それぞれだ。
 俺か? 俺の価値は……そうだな、クズくらいの価値はあるかもな。

「随分降りてきましたね」

 ゆめみが階層を表示したパネルを見上げながら言う。
 大型エレベーターを利用して下ってきた、『高天原』の地下30階。
 俺達の目的は武器弾薬の破壊だ。
 要は首輪を一斉に外した混乱を狙って、強力な武器を持ち出される前に何とかしようって寸法だ。
 果たしてリサっぺの目論見通り、今のところの俺達は敵に遭遇してさえいない。
 無人の荒野を駆けるがごとく真っ直ぐに突き進んでこれたってわけだ。
 気味が悪いくらいに順調だが、そのほうがいい。最悪に遭遇するのなんて岸田の野郎だけで十分よ。

「そろそろ……かな? 浩之」
「ああ。それっぽい感じがする」

823エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:32:51 ID:Ckv4lVpo0
 壁を見やりながら藤田のあんちゃんが言う。
 明らかに質感を増した、重厚な壁と床。
 地上付近のそれよりも頑丈そうだ。
 軍事要塞の懐に弾薬あり……山勘に近いリサっぺの指示はビンゴだったようだ。
 目的の達成は近いかもしれんな。まずはここを進んでみなければわからんが。

「ぴこぴこ」

 頭の上で定位置を確保しているポテトも何かしら感じるところがあるらしい。
 確かに、だんだんと幅が開けてきている。つまり何か大きな部屋に通じているかもしれないということだ。
 和田って奴の資料の中には『戦車』だとか『核兵器』なんて言葉もあった。
 流石に核兵器に出くわしたらどうにもならんが、戦車程度ならむしろこっち側に取り込むことだった不可能じゃない。
 格納庫に辿り着ければ大当たりだな。

「けど実際、破壊する言うたってどうするん? まだ何も聞いてないんやけど」
「そろそろ聞かせてくれよ、おっさん」
「おっさん言うな」

 折原を思い出すじゃねえか。

「ま、手持ちだけじゃ無理だろうな」
「おい……」
「だからここから拝借するのさ」

 文句の口を開きかけた藤田は、それで合点がいったようだった。
 最新鋭の兵器があるなら、最新鋭の兵器で破壊してしまえばいい。
 毒皿ってやつだな。使えるかどうかは……まあ、気合でなんとかしよう。
 こっちには科学の粋を集めたコンパニオンロボットさんがいるんだ。なあゆめみ。

「……? どうされましたか」

824エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:33:13 ID:Ckv4lVpo0
 まぁたまた謙遜なさってゆめみさん。そんな可愛らしく小首を傾げたってできるんでしょ? 俺には分かっておる。

「あの、その、ご期待には応えられないかと……一応、プラネタリウムの解説員としての機能しか……」

 ……だと思ってましたよ。流石にここで「なん……だと……」なんてマジレスは返さないのが今の俺。
 ま、俺が担当するんだろう。一応機械弄りはやってたしな。

「待てよ、そういや妹さんよ、アンタは機械いけないクチか」

 おだんご頭娘の姫百合がこちらを向く。姉がなんかウィルスだかワームだかを作ったってんで、すこーしだけ期待してみた。

「ウチはさんちゃんと違って、そういうのはからっきしや」
「まさか、機械を触っただけで壊す特殊能力の持ち主か」
「ギャルゲーのやりすぎや。そんな器用なことができてたらとっくの昔に首輪壊しとるねん」

 ごもっとも。

「それに、そういうときは大抵さんちゃんはおらんかったしな」

 どこか寂しそうな口調で呟く妹さん。少しはやっておけば良かったと思っているのかもしれない。
 姉貴の足跡が辿れないのが、悔しいんだろう。
 俺には兄弟はいないが、家族を理解したいという気持ちは分からんでもない。
 分かってたつもりでも、分かってなかった。そういうとき、どうしようもなく悔しくなる。
 俺は、郁乃を理解しないままに別れてしまった……

「ぴこ」

825エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:33:39 ID:Ckv4lVpo0
 今のところの数少ない理解者のポテトが、俺の肩を叩いてくれる。
 一方の妹さんは藤田に肩を抱かれていた。なんなんだこの差は。
 俺はゆめみさんに救いの目を求めたが、にっこりと笑われるだけだった。
 ああ、なんか空しい。
 犬肌やロボ肌はもういいや。
 できればムチムチプリンの大人の女の感触が欲しい。

「ぴこぴこー」

 そんな妄想に耽っていた俺をポテトが現実に戻そうとしてくれる。
 そうだ、ここは敵地のど真ん中じゃないか。
 いかん、気を抜いていたらまた後悔する羽目になってしまう。
 キリッと凛々しい顔を作って、俺は現実に戻る。

「って、なんじゃこりゃ」

 現実復帰一言目は気の抜けたものになってしまった。
 しかし許していただきたい。このようなものを目にしては呆けた声を出すしかなかったのだ。

「……標本、みてーだな」

 通路を抜けた先の、開けた空間。
 そこには左右の壁にみっしりと、ミツバチかなんだかの巣を想起させる、薄青色のカプセルが群生していたのだ。
 透けたカプセルの向こう側では、ゆめみさんによく似た女の顔が目を閉じたままに控えている。
 まさか、これは全部予備のロボットなのだろうか。
 四方に並べられたそれは、軽く1000体はいると思われる。
 冗談じゃない数だ。もしこいつらが一斉に起動して、襲い掛かってきたら……
 背筋が震える思いを味わいながら、こいつらをどうすべきかと考える。
 破壊してしまうのが一番だが、いかんせん火力が足りない。一部屋まるごと吹き飛ばせるだけの火力が欲しい。

「高槻さん」

826エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:33:57 ID:Ckv4lVpo0
 考える俺の横で、カプセルに手を触れていたゆめみさんが告げる。
 なんだ? まさか機能停止装置かなにかがあるとでもいうのか!
 さすがゆめみさん! 俺達ができない発見を即座にやってのける! そこに痺れる憧れるゥ!

「ご期待に添えられず申し訳ありませんが、この子たちは調整中のようです」
「あ?」

 どういうこったと、俺はカプセルを覗き込む。
 カプセルの中にはあられもない姿のロボットがいる。くそっ、あれやあれはないのか。残念だ。

「あの、そちらではなく、こちらを」

 ぐいっ、と首を修正される。こいつだんだん遠慮がなくなってきやがった。

「お? ……ああ、確かに調整中って書いてるみたいだな」
「OSも何も入っていないのかもしれません」
「ただの素体?」
「そのようです」

 なんだ。ってことは今すぐ襲い掛かってくるってことじゃないのか。
 どっちにしろ、起動させられたら厄介なものには違いないが。

「おっさん、どうするんだよこれ」
「だからおっさんはよせ。まあ、心配はない。今のところはな」

 既に武器を構えている藤田はやる気マンマンだ。頼もしいが、もう少し我慢だ。
 本当にか? と確かめる目を寄越してきやがったが、俺が『調整中』を見せると、納得の顔を見せて姫百合のところに戻っていった。
 信用ねえな。ま、前もこんな感じだったから寧ろ気が楽でいいが。
 俺とゆめみも二人の元へ戻りながら、これからの方針を提案する。

「さて、ここから部屋は三つに分かれてるみたいだ」

827エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:34:17 ID:Ckv4lVpo0
 正方形の形状になっているこの部屋は、あくまでロボット共を保持しておくためだけの部屋のようだ。
 俺達が入ってきたところも合わせると、出入り口は四つ。
 仮にここをロボ軍団の待機場所とするなら、それぞれの出口には装備品が保管されている可能性は十分ありうる。
 つまり、ここから先こそが本命ということだ。

「どの入り口から当たっていくかってことだが……」

「あ、発見ですっ」

 明後日の方向から聞こえた第三者の声。
 円形になって話し合いに夢中だった俺達は全員が全員「まずい!」と思ったに違いない。
 各々の武器を手にしながら振り向き、臨戦態勢へと移る。

「わーわー待て待ちなよ! あたしらだって!」
「……あ?」

 さあようやくおっ始まったかと思った矢先のことである。
 俺達の動きを止めたのはある意味俺にとっては敵より忌々しい奴の声だった。
 ちっ、と舌打ちしながら武器を下ろす。
 まーりゃんと確か……伊吹、だったか、のチビコンビが台車をガラガラと動かしながら駆け寄ってくる。
 まあ舌打ちなんてKYなことをしていたのは俺くらいのもので、他の連中は揃って嬉しそうな顔をしてやがった。
 気持ちは分からんでもない。敵地で、偶然とはいえ仲間の無事を確認できたんだ。
 というか、俺が嬉しくないのは完全に個人の事情なんだけどな。
 まーりゃんだけは未だに気に食わない。
 何が気に入らないって言われたら、そりゃまあ色々だ。
 もっと何回も殴っておけばよかったと思っている俺がいて、気持ちを整理しきれていない自分に自己嫌悪さえするほどだった。

828エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:34:42 ID:Ckv4lVpo0
「よっ、ゆめみんおひさーです」
「無事で良かったです、伊吹さん」

 なんか軽いノリだなこいつら。仲いいのか?
 改めてじろじろ見回してみると、どうやら微妙に怪我をしているみたいだ。
 そういえばこいつらは確か……

「芳野さんと杏はどうしたんだ?」

 ハイタッチしてイエーイし合っている伊吹とゆめみはやり辛いと感じたのか、まーりゃんの方に話を振る藤田。
 そう、あの二人がいなかった。確か一緒にいたはずだった。
 聞かれることは想定していたのか、尋ねられたまーりゃんは少しだけの間を置いてから言った。

「二人とも、死んだよ」

 簡潔に過ぎる一言だった。逆にそれが二人の死の重さを示しているように思う一方、全てが伝わるはずもなかった。
 なんでだよ、と若干語気を荒げて言う藤田に対し、まーりゃんは冷静だった。
 少なくとも、俺には冷静なように見えた。

「あのロボットと交戦して。……細かい内容まで話すと、長くなるから言わない」

 或いは、言いたくないということか。普段の奴とは一線を画す物言いに、藤田も戸惑いの色を見せる。
 俺もそうだった。ふざけた言動しか見てこなかっただけに違和感を覚える。
 だからといって、それまで奴に積み重なってきたものが溶けるものでもなかったが。

「……ちゃんとお別れはしてきたよ。あたしらなりだけど、全力で」

829エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:35:03 ID:Ckv4lVpo0
 そんな俺達の居心地の悪さを察したかのように、まーりゃんは笑った。
 力のない笑みでもなければ、無理矢理作った笑みでもない。やることを済ませてきた顔だった。
 ならあいつらも置き去りにされたままじゃないんだなという感想がスッと流れ込んできて、何かしら安心する気持ちが生まれていた。
 そしてそんな感想を抱いたことに、俺自身驚いていた。
 何故だろう。奴が笑ったのを見ただけで、心の中にたち込めた霧のようなものが晴れていったんだ。

 なんだ、それ。気持ち悪い。あいつに納得させられたってのか?

 もう一度眺めたまーりゃんの顔はやはり明るく、
 多少の付き合いがあったはずの芳野や藤林に対する愚痴のようなものはやはり浮かばない。
 あいつらはやるだけやって逝けたんだと何の抵抗もなく思うことができていた。
 少しは人を認めるだけの気持ちも残っていたらしい。
 芳野や藤林も、あのまーりゃんも。
 ただ奴に苛立つ気持ちも一方では残っていて、言い表しようのない複雑な感情に、俺は憎まれ口で返すしかなかった。

「そりゃ良かったな」

 言わなければいいのにと本心では思っていても、クズでしかなかったときの習い性がさせてしまっていた。
 皮肉たっぷりの言葉とも取られかねない言いように藤田も姫百合も揃って顔をしかめる。

「そんな言い方はないだろ、おっさん」
「うるせえ。おっさんじゃない。……別に嫌味でもなんでもねえよ」
「……あんまり、波風立たせるようなこと言わんといてや。何が気にいらへんのかは分からんけど」
「ふん……」

 俺も分からねえよ。
 まーりゃんは何も言わない。
 くそっ、ドヤ顔でもされてたほうがまだ色々整理つけられそうなのに。
 なんとなく、差のようなものを感じた。俺よりも先の、前を歩かれているような感覚だった。

「まあまあ。ここはまーりゃんさんを立ち直らせた風子に免じて」

 そんな俺の気持ちを読んだらしい伊吹があまりよく分からないフォローをしてくれる。
 黙っていても空気が悪くなりかねなかったので乗ることにした。
 せめてそれくらいしないと、格好悪いままだった。

830エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:35:29 ID:Ckv4lVpo0
「なんだ、凹んでたのか」
「実はそうでして。全く、年上のおねーさんとして恥ずかしいです」
「おい、同い年だろあたしら」
「えっ」
「えっじゃねー! 渚ちんから聞いてるだろ! 同じ卒業生の年だろー!」
「えっ!?」
「ええっ!?」

 驚いたのは藤田と姫百合である。
 声にこそ出さなかったものの、俺だってビックリ仰天天地鳴動空前絶後だったさ。
 ……こいつら、藤田と姫百合より年上だったのか……
 ああ、畜生、合法ロリはいたんだな……いやそんでも未成年だけど。

「なんで驚くねんチミら」
「いや、だって……てっきり年下だと……なあ瑠璃」
「う、うん……」
「なんでさ」

 まーりゃんの目がこちらを向く。ロクな回答が回ってこないと思ったらしい。
 人、それを無茶振りという。

「肥後さ」
「肥後どこさ」
「熊本さ」
「熊本どこさ」
「せんばさ」
「せんば山には……なんであんたがたどこさになるのさ」

831エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:35:48 ID:Ckv4lVpo0
 いいノリだ。
 ……なんでこんなことしてるんだ、俺は。
 嫌い嫌いだとさっきまで思ってたのに。
 そんなに嫌いでもなかったってことなのか、実は。
 アホらしい。

「なんだよ、チビか。チビだから年下に見えたってか、ああん!?」
「ふーっ!」

 何故俺に詰め寄る。

「お、落ち着いてくださいお二人とも! 女性の平均身長から考えますとお二人とも数センチほど低いだけですから!」

 割って入るゆめみさんだが、フォローになってない。

「へーんだ! チビで胸がなくたって年上なのは事実だもんな! なあチビ助!」
「そうですそうです! 風子たちの方が大人です! 後チビ助言わんといてください」

 意味もなく偉そうにしているチビバカ二人。
 藤田と姫百合は納得のいかなさそうな顔をしているが、無理もない。俺も納得いかない。
 先ほどまでギスギスして居心地が悪かったはずの空間が和やかになっているのが気に入らない。
 何より、俺がそれにホッとしているのが気に入らなかった。
 けれども、そう感じるのは素直になれていないだけなのだと、そう思えない自分もまた気に入らなかった。
 結局何もかも気に入らないんじゃないか。
 燻ったままの気持ちを抱えながら、俺は「んなことより」と逸れた話を元に戻すことにした。
 お前が逸らしたんだろうがという話は聞かない。

「その台車にあるの、爆弾だろ?」
「ん、ああ、うん。どーでもよくはないけど、まあそうだね」
「丁度いい。これから必要になりそうだ」

832エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:36:14 ID:Ckv4lVpo0
 台車の上にある箱型の爆弾。確か一ノ瀬と芳野が夜なべして作っていたものだ。
 戦闘の余波でも食ったのか、所々汚れが見られるそれは、ある意味では芳野の魂の欠片だった。
 最高の舞台だ。ここで使ってもらえてお前も光栄だろ?

「このハチの卵みたいなの吹っ飛ばすんですか?」
「俺もそう思ってた。ここで使うのか、おっさん」
「まあ待て。下手に使ったら俺らがここから出られなくなる。まずはここを調べるほうが先決だろ」
「そうですね……確か伊吹さん達が向こうから来られましたから」

 実質、調べるべき箇所は二つ。加えて今の人数が六人であることを考慮すれば、かなり余裕がある。

「つまり、二手に別れて調べたらええってことやな」

 察しのいい姫百合が総括してくれた。
 実際どこに爆弾を使うかは、戻ってから決めればいい。
 これまで敵に遭遇してこなかった関係上、それくらいの時間はあった。

「そういうことだ。で――」

「ぷひーーーーーーー!」

 またしても俺の声は遮られた。
 一体なんなんだ今度はと振り向いた瞬間、ぼふっとしたものが顔面に飛び込んできた。

 がつんっ!

 気持ちのいいストレートだった。ぐはっと呻きながら仰向けに倒れる俺。
 固まっている皆の衆の顔を見る一方で獣臭い匂いを嗅ぎながら、またこんな役どころかよと心の中で吐き捨てた。
 絶望のあまり気絶したかったが、そんなギャグをやっている場合ではないし、ここで気を失おうものならポテトの熱いキスが待っている。
 正確には人工呼吸だが。どっちにしろ嫌だ。俺はアニマルマスターじゃない。
 ぬおおおおと気合で意識が遠のいていくのを堪えながら、俺は顔面に張り付いたフットボールみたいな何かをひっぺがす。

833エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:36:34 ID:Ckv4lVpo0
「ぷひ〜……」

 むんずと掴んで目の前に持ってきてみれば、それは小型のウリ坊だった。なぜこんなところに畜生が。

「ぴこぴこ、ぴこっ!」

 ポテトが反応していた。なんだ、知り合いかお前ら。世界は狭い。
 いや待て、どこかで見たことがあるような……忘れた。なんだっけ?
 うるうるとつぶらな瞳を潤ませた畜生は息が荒かった。心なしか疲れているようにも見える。
 どこからか走ってきたのか?

「おい見ろおっさん!」

 だからおっさん言うな。
 そう文句を垂れようとした俺の口は、開いたまま塞がらなかった。
 恐らくは、畜生が走ってきた方向から現れたのだろう。
 でなければこの畜生が疲労困憊している説明がつかない。
 なるほどね。逃げてきたのね。やれやれ、とんでもないモン連れて来やがって……!
 俺は武者震いとも慄きとも判断できない震えを感じていた。
 ぞろぞろと部屋に侵入してきやがったのは、あのクソロボットだった。
 それも一体や二体じゃない。大勢だ。

「はっ、愉快だねぇ」

 ぽいっと猪を放り出し、俺はM79を構える。
 ここに来て一気にご登場とは。盛大なお出迎え、痛み入るぜ。

834エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:37:00 ID:Ckv4lVpo0
「ちょ、ちょっと! あの数相手に……!」
「るせえ! 先手必勝だ!」

 奴の、アハトノインの実力を多少なりとも知悉しているらしいまーりゃんが性急だと制止をかけたが、
 狭い入り口に密集している今を狙わずしてどうする。
 M79にはあらかじめ火炎弾を装填してあった。
 まずは先制のきつい一発。
 低い弧を描いて飛んでいった火炎弾は未だまごまごしていたアハトノインの集団、ど真ん中に直撃し、盛大な炎を吹き上げた。
 間髪入れず俺は次の火炎弾を装填する。

「ああもう! やれるうちにやるしかないか!」

 一度仕掛けてしまえば、続くしかないと分かっているまーりゃんがイングラムを撃ち込む。
 何度か扱って慣れているのか、まーりゃんの動作は俊敏だった。
 前に出ようとしていたアハトノイン達が撃ち貫かれ、どうと倒れる。
 それに触発され、藤田や姫百合、伊吹がさらに発砲を開始する。
 伊吹と姫百合は拳銃、藤田はマグナムだった。下手な鉄砲数撃てばなんとか当たるの言葉通り、
 ぞろぞろと出てきていたアハトノイン達がばたばたと倒れてゆく。
 ヒューッ、よく当たるもんだ。……いや、避けていないのか?
 倒れたアハトノインはぴくりとも動く気配がなかった。おかしい、あの当たりようといい、
 復活しないことといい、あまりにもあっけなさすぎやしないか?
 俺が前に戦ったときは、あんなもんじゃなかったんだが。

「ねえ、やけに簡単に当たってくれてるように見えるんだけど」
「お前もそう思うか」

 同じ疑問を抱いたらしいまーりゃんに言葉を返しつつ、次の火炎弾を発射してみたが、
 ろくすっぽ回避する様子もなく密集部に着弾して炎の花が咲く。
 爆風で吹き飛ばされたアハトノイン達は脆いもので、腕が足が千切れ飛ぶのは当たり前で、中には胴体から吹き飛ぶ奴もいた。
 耐久力がなさすぎる。
 避けもしないことから、ひょっとしてこれは数だけなのではないのかという想像が浮かぶ。
 手ごたえのなさは交戦したことのない藤田や姫百合も感じ取っているのか、発砲していいのかと確認するようにこちらを向いた。
 まだアハトノインはやってくる。各々接近戦用の武器を構えているのは見えていたが、のろのろと前進してくるだけだ。
 まるで的にしてくれと言ってやがる。
 無駄に弾を消費していい相手じゃないと判断し、俺は接近戦に切り替えた。
 突進していく俺に続いてゆめみも横に並ぶ。

835エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:37:21 ID:Ckv4lVpo0
「いいのか」
「……人間でなければ。それ以前に、わたしの役目は、皆さんをお守りすることです」

 はっきりと言ったゆめみの横顔に迷いはない。はっ、ロボットだから当然か。
 前に出た瞬間、アハトノイン達が揃って武器を振り上げたが、遅い!
 胴体に数発ガバメントを撃ちこんでやると、眼前の一体はあっけなく動きを止めた。
 その手から刀を奪い取り、横に振り回す。
 すぐ横にいたもう一体の両手が吹き飛び、呆然となくなった腕を見回していた。
 トドメの一突きを刺す一方で、ゆめみが次々と忍者刀でアハトノインの顔面を刺す。
 いける。接近しても楽勝だ。
 来いと後続に顎で指示すると、ボウガンで援護に回ることにしたらしい伊吹を除いて三人が駆けてくる。

「奴らの刀拾って使えっ! 相当ノロマだ!」

 言われるまでもないとばかりに、三人は既に倒れたアハトノインから武器を拾っている。
 お? ……銃も持ってたのか。ちっ、そっちにすりゃ良かったか。
 ちゃっかり目ざとく拾っていたのはやはりまーりゃんだ。抜け目のない奴め。
 通路の奥からはまだまだかなりの数が控えていたが、それでも十数体程度だ。

 狭い入り口からしか攻めてこれない連中を相手するのは簡単なことだった。
 ひたすら前進して、射程内に入れば武器を掲げるアハトノインは、さっと横に退いて回避するか、
 その前に攻撃を打ち込めばあっけなく倒れる。
 ゆらりと迂闊な一歩を踏み出したアハトノインの首を一薙ぎして落としてやる。
 戦いというにも及ばない、それは一方的な狩りだった。
 藤田と姫百合は慎重になっているのか二人一組で向かい、一人目に気を取られているところにもう一方が攻撃を加える手法で戦っていた。
 学習能力の欠片もないらしいアハトノインは単純なフェイントにも引っかかり、
 あっという間に胴体を突かれ、腕を切られ、破片や赤い液体を撒き散らしながら倒れてゆく。
 まーりゃんや伊吹は遠距離攻撃に徹し、正確に銃弾やボウガンを撃ちこんでいる。
 特にまーりゃんは一度交戦している経験からなのか、遠慮なく銃弾を叩き込んではまた新しく銃を拾い直し、さらに撃ち続ける。
 ひどく手際が良かった。負けてはいられないと、俺もゆめみと連携してアハトノインに突っ込む。
 先を行ったゆめみが振り下ろされた剣戟を弾き、バランスを崩したところに俺が刀で切り裂いた。
 だが致命傷ではなかったらしく、胴体から夥しい赤い液体を噴き出しながらもまだ動いていた。
 なら、きっちり壊しきってやるよ。

836エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:37:41 ID:Ckv4lVpo0
「とっとけ」

 ぶん、と刀を放り、アハトノインの眉間に突き刺す。
 仰け反った体勢から後ろ向きに倒れた奴は、そのまま動くことはなかった。

「お見事です」
「相手にもならんな」
「ですが、油断は禁物です」
「分かってる。次だ。十秒で片付けるぞ」
「十秒では無理かと……」
「例えだよ、たとえ!」

 まったく。これだからロボットは。
 だが言葉を額面通りにしか受け取らず、ずれた回答を寄越してくるゆめみもそれはそれで会話の潤滑剤になっていた。
 狙ってやっているんじゃないかという気さえしてくる。ちらりと横顔を見てみたが、今の彼女は無表情だった。
 いいさ。どちらにしても、俺にとっては楽だ。
 パートナー。不意にその言葉が過ぎり、ロボットがパートナーでいいのかと感じはしたが、
 よくよく考えてみればロボットなんて本来人間のパートナーになるように設計されているようなものだ。
 だったら、何も問題はないよな、ええ?

「ぴこっ」
「お? なんだ今頃戻ってきやがって。あ? 猪落ち着かせてた? そりゃ仲が良くって……結構!」

 頭の上に戻ってきたポテトを、早速捕まえてぶん投げる。久々のポテトカタパルト弾だ。
 ぴこ〜〜〜〜……と情けない声を上げながらも、器用にぶんぶんと手足をばたつかせ、アハトノインの顔に取り付く。
 その間にアハトノインのスクラップから刀を拾い上げ、ゆめみと一緒に突進。
 視界を遮られ二の足を踏んだ隙を見逃さず、二人で同時に斬りかかる。
 倒れる。よし、また一人。これでもうそろそろゴールか?
 周囲を確認してみると、数はそう多くない。もう十体もいないだろう。
 もう一仕事か。
 相変わらず前進しかしてこないアハトノインの方に走ろうとすると、「待てよおっさん」と藤田の声がかかった。

837エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:38:02 ID:Ckv4lVpo0
「おっさん言うんじゃねえ」
「言いやすいんだからいいだろ。もう六人も使ってこいつら相手にする必要ねえよ。後は俺と瑠璃に任せとけ」

 いきなりの提案に、俺ははあ、と間抜けな言葉を返すしかなかった。
 なんだそれ? ここは俺に任せては死亡フラグ……いやでもこいつらザコだっけ。

「結構時間食っちまった気がするんだよ」
「数は多かったからな」
「そろそろ、連中だって本格的に動いてくるかもしれない。その前におっさん達で本命叩いてくれよ」
「あんだよ、大人任せか」
「ガキが大人頼りにして何が悪いんだよ」

 この野郎……
 口は悪かったが、『頼りにする』という言葉は子供そのものの言葉で、俺の自尊心を刺激しやがる。
 そうだな、ここでくらい、大人ヅラしたって悪かない。
 何よりその方が格好いいじゃないの。

 まんまと乗せられた俺は「ちっ、仕方ねえな」と文句を言ってはみたものの、湧き上がる笑みを隠し切れなかった。
 それを知ってか知らずか、藤田はニヤと笑うと、姫百合に声をかけながら残ったアハトノインに突っ込んでゆく。
 だが、いくら弱いとはいえ、二人ではキツくないか?

「はいはいはい、そこはこの風子にお任せを」

 と、俺の心の声を読んだかのようなタイミングで伊吹が出てきた。
 っていうか、読んだ。

838エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:38:22 ID:Ckv4lVpo0
「三人なら大丈夫でしょう。ということで、あのお二人を援護してきますっ」
「チビ助? 大丈夫なの?」

 いつから聞いていたのか、まーりゃんが割り込んできた。
 意外に表情は心配そうだった。
 こいつら、似たもの同士で仲がいいのか?
 ……似たもの、か。俺は嫌いな奴が多かったな……

「ぶっちゃけ、苦労するの嫌なんで楽そうなこっちの方に付きます」
「ぶっちゃけた!」
「あーごほんごほん。ここは風子たちに任せて先にいけっ!」
「説得力ねえなおい」

 俺とまーりゃんの突っ込みなどそ知らぬ顔。
 ん? 待てよ? ってことはこの流れだと俺はこいつと一緒にいることに……
 同じことを考えたらしいまーりゃんと目が合う。こっち見んな。

「……じゃ、ついてっていいかな」

 憎まれ口が飛んでくるかと思ったら意外と素直すぎる言葉だった。
 やや遠慮の色さえ見える。くっ、ちょっとときめいた!
 馬鹿な、俺はこんな貧相な体のガキなんて……いやそんなことはどうでもいい。
 好き嫌いなんて言えるような状況じゃないだろう。

「勝手にしろ。気にいらねえが、お前は強いんだからな」

 だから、必要だ。
 その言葉を飲み込んでしまった俺。ツンデレってレベルじゃなかった。
 正直な話、さっきの戦いぶりを見ていてもこいつは頼りになりそうだったのだ。
 気に入らないのは事実。だがそれでも、認めるべき部分は多かった。
 認めるだけ、ちったあマシになったのかね、さっきよりは。

839エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:38:47 ID:Ckv4lVpo0
「じゃ、チビ助。後はよろしくな」
「チビ助言わんといてください」
「はいはい。分かったよ、ふーこ」

 伊吹の、名前を。確かめるように、試すように。まーりゃんはその名を呼んだ。
 名前を呼ばれたのは予想外だったのだろう。
 絶句した伊吹は、すぐにふんとそっぽを向いて「早く行ってください」と俺達を追い払いにかかる。
 照れているのだろう。なんだ、こいつにもかわいいところあるじゃないか。
 くすりと笑ったまーりゃんは、しかしそれ以上何もせず、「オラ行くぞぉ!」と俺の脇腹をつついてきた。
 いつもの奴だった。「うるせえ」と返しながら、俺は人はこういうものなのかと新たな感慨を結んでいた。

 ちょっとした言葉、一言で、根っこに潜む本音を引き出すことができる。
 ならば、さっき、俺が「必要だ」と言っていれば、俺はまーりゃんの何かを引き出せたのだろうか。
 気に入らないと思っていた奴の、別の一面を理解することが出来るのだろうか。
 今まで生意気としか思っていなかった伊吹に、あんな感想を抱けた。
 クズで、人を拒むことしかしてこなかった俺が、あっさりと素直な感想を持てた。

 ……俺は。
 まともに、なりたいのかもしれなかった。

     *     *     *

840エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:39:06 ID:Ckv4lVpo0
 何か二言三言残して、高槻、ゆめみ、麻亜子の三人が別の出口へと走っている。
 結局、そんなに会話することはできなかったか、と瑠璃は軽く自嘲した。
 明るかった姉に比べて自分はどちらかといえば身内寄りであり、他者との関わりを避ける傾向があった。
 天真爛漫な姉に余計な虫がつかないようにするため、というのが四六時中一緒にいる理由だったが、
 今ではそうではなかったのだろうと言い切れる。
 とどのつまり、引っ込み思案だっただけなのだ。
 他人が怖いというだけではなかった。ただ、別のもっともらしい理由をつけて言い訳していただけだった。
 そういうところを直していかなければならないのだろう。
 気付かないままでいるより、気付いた方がいい。
 それで一時どんなに傷ついたとしても立ち直り、やり直すだけの力が自分たちにはあるのだから……

「……ふっ!」

 気合と共に一閃。アハトノインが持っていた刀は見た目よりずっと軽く、それでいて切れ味抜群だった。
 恐らく、最新鋭の技術で製造されているからだろう。瑠璃にしてみればありがたいことこの上なかった。
 脚部を切断された修道女姿のロボットがばたばたと地面で無様にもがく。
 戦闘能力はなくなったと判断して次に向かう。
 接近戦を繰り返していたせいか、体が赤く、オイル臭い。
 イルファを整備していた珊瑚もこんな匂いの中で日常を繰り返していたのだろうか。
 むっとした、重く、饐えた匂いを鼻の中に吸い込むだけで、珊瑚の声が聞こえてくるような気がした。

 まだ、いける。
 敵が落とした刀を拾い、投擲する。
 刺さることは期待していなかったが、運良く胴体に刺さってくれた。
 ぐらついたところをもう一撃。
 勢いよく突いた刀は胴体そのものを貫通し、刃先が背中から飛び出していた。
 カクンと崩れ落ちるアハトノイン。これで、後は何体だ?
 ふっと一息ついた瑠璃の横から、接近していたらしい一体が刀を振り上げていた。
 すぐさま反応し、刀を引き抜こうとしたが、抜けない。
 深く刺さりすぎていた。しまったと後悔したが、逃げるには遅すぎた。
 アハトノインの指が強く柄を握り締めた。やられる――!

841エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:39:27 ID:Ckv4lVpo0
 無駄だと分かりつつも腕で防御する。
 ……が、振り下ろされることはなかった。
 胸部から刃先を露出させたまま、修道女は動きを止めていた。
 ピクリとも動かない、神への祈りを捧げたままの女の後ろから「油断大敵だな」といたずらっぽい声がかかる。
 浩之だった。既に新しく刀を拾っている。

「……それは、お互い様のようやな」
「あ?」

 怪訝な声を上げる浩之の後ろで、ドサリと音を立てて倒れるものがあった。
 浩之の背後に迫っていたらしいアハトノインだった。
 ボウガンで狙撃してくれた風子がニマニマと笑っている。
 振り返り、全てを理解した浩之が肩をすくめる。
 自然と笑いが零れた。世の中は少し、面白くできている。

「台無しやで」
「るせ。さて、これで全部……か?」

 それまで溢れんばかりにいたロボットの群れは、もう出入り口にも見えない。
 どうやら殲滅しきったということらしい。
 足元に広がる、行動不能となり鉄屑と化したアハトノインの総数はいくらになるのだろう。

 さんちゃんが見たら、どう思うやろうな……

 ロボットに人間と同じかそれ以上の愛情を注いでいた珊瑚なら、この状況を悲しんだことだろう。
 常々彼女は、ロボットの軍事利用に対して批判的な口を開いていた。
 それほど興味を抱いていなかった昔はふーん、と聞いているだけだったが、今なら少しだけ分かる気がする。
 空しい、という気分だった。ただの鉄屑として横たわり、それで役目を終えてしまった彼女達は本当に必要とされていたのだろうか。
 消耗品としてでしか扱われないのは、悲しすぎるのではないか。

「解放してあげられたら、ええんやけどな」
「ん?」
「いや、こっちの話」

842エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:39:46 ID:Ckv4lVpo0
 いつの間にか独り言を発していたらしく、反応した浩之になんでもないと首を振る。
 機械工学の知識がなさすぎる自分には、到底無理な話だった。
 少なくとも、今は。

「それにしても皆さん、真っ赤です」
「ぷひぷひ」

 この戦闘の発端となったとも言える猪を器用に頭に乗せながら、風子がやってくる。
 遠距離に徹していた風子は比較的返り血……いや、返りオイルも少なかったが、
 自分も浩之もべチャべチャだった。元の制服が赤っぽかったので気になっていなかったが、改めて見ると真っ赤だ。
 黒い学生服の浩之はどちらかといえば赤黒い色だったのだが。

「人間のよりマシだぜ。オイル臭いけど」
「むんむんします」
「ぷひ〜……」

 より鼻が利くらしい猪はまいっているようにも見えた。

「それにしても、どこからやってきたんやろ、この仔」
「ここのペット……なわけないよな」
「むぅ、風子はどこかで見たことあるような気がするんですが」
「ま、あの毛玉犬と同じようなもんかもな。そんなことより、こっちもさっさと先を……」
「ぷっ! ぷひ!」

 何かに反応したように、猪が大声で鳴いた。
 じたばたと手足を動かし、必死に何かを伝えようとしているようだった。
 「何かあるんですか?」という風子に反応して、瑠璃は周囲を確認する。
 動物の勘を信じる……というわけではないが、警戒はし過ぎて困ることはない。
 さっと素早く四方を見回してみたが、どの出入り口からも影は見えない。
 浩之も同様らしく、困惑した表情を見せていた。

843エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:40:10 ID:Ckv4lVpo0
「ぷ、ぷひ!」

 ばたばた、と前足をこれでもかと動かしている。
 足の方向は、上を向いていた。
 上――!?
 考えるよりも先に、口を動かしていた。

「離れて! 上からや!」

 言った時には既に足が地を蹴っていた。
 声に素早く反応して、浩之と風子も下がった。
 その行動から、一秒と経たないうちだろうか。
 風を切る音と共に、だんと足元のアハトノインの残骸を踏み砕いて、何者かが落下してきた。

「ご大層な登場だぜ……」

 顔を上げる何者か。それは今まで相手にしてきたものと同じ……しかし、何かが決定的に違う顔だった。
 プラチナブロンドの長髪。漆黒の修道服。手に持っている曲がりくねった刀。
 同じなのはそこまでだった。最も異にしていたのは目だ。
 紅い瞳。血のように赤い瞳が、寸分の感情もなくこちらを凝視している。
 何かがヤバい。直感したのは浩之もだったようで、すぐに仕掛ける愚は犯さなかった。

「……最悪です。これは、とっても最悪です」

 震える声で、風子が言っていた。
 瑠璃はそれで思い出す。風子と、まーりゃんは、ロボットと交戦し、二人を失ったと言っていた。
 ならば、今目の前にいるこれは、それまでと比較にならない本物だということか?

「でも、よかったです」

844エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:40:29 ID:Ckv4lVpo0
 戦慄しかけた心を打ち払ってくれたのは、未だ震えを残したままの、しかし歓喜に打ち震えている風子の声だった。

「ようやく、ユウスケさんの仇が討てます……!」

 本物の怒り。あんなに猛り狂った風子の声を、表情を、瑠璃は見た事がなかった。
 伊吹風子とは、こんなにも激情家だったのか。
 新たに抱いた感慨に浸る間もなく、風子が戦端を開いていた。
 ボウガンを投げ捨て、持っていたサブマシンガン――SMGⅡのトリガーを引き絞る。
 問答無用の先手は高槻のときと同一だったが、結果は同じではなかった。
 向けられた銃口に素早く反応し、後ろに宙返りしながら銃撃を回避する。
 ちっと吐き捨て、風子はさらにP232を連射する。
 こちらは命中はしたものの、僅かに身を捩らせただけで、アハトノインはケロリとした様子だった。

「やっぱり拳銃ではダメですか」
「効いてない……!?」

 さっきのアハトノインの大群には、拳銃でも効果があったというのに。
 根本的なものが違う。本格的な戦闘にも耐えうる殺戮マシーン。
 瞬時にその感想が浮かび上がり、瑠璃にも目の前の敵が想像している以上の化物だと実感させた。
 まごまごしていては、やられる。

 残骸の中から拳銃を回収し、とにかく数撃てばの精神で連射する。
 両手に持ち、弾丸の続く限り撃ち続けたが、アハトノインは微動だにしない。
 避ける必要もない、と判断したのだ。
 実際、彼女の皮膚はおろか修道服も無傷であり、拳銃程度では何の意味も為さないことを示していた。

 なんて、奴……!

845エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:40:54 ID:Ckv4lVpo0
 有効手が少なすぎる。即ち、それはこちらが殆ど空手であるということでもあった。
 まして敵は芳野祐介と藤林杏の二人をも殺害しているのだ。強くないわけがない。
 マグナムならば或いは通じるか? 銃器には詳しくないが、マグナムの威力は高いということくらいは瑠璃も知っている。
 コルトパイソンを取り出そうとしたところで――今度は、向こうが動いた。
 腰を浅く落としての突進。ただそれだけだったのだが、速さが尋常ではなかった。
 いきなり目の前にアハトノインが現れる。錯覚かと思うほどに一瞬で詰め寄ってきたのだった。
 そのまま掌底を貰い、体が宙に浮く。
 内臓が破裂するような衝撃を感じながら、瑠璃は受身を取る暇もなく地面を転がされた。
 あまりに早すぎる出来事の連続に、脳がついていかない。
 やられたのだと判断したのは、げほっと咳き込んだときだった。

「瑠璃っ!」

 浩之の叫び声でようやく我を取り戻す。
 その時には既に、アハトノインが刀を引き抜いてひゅっと振りかぶっていた。
 やられてたまるか。痛みに苦悶の表情を出しながらも、瑠璃は落ちていた刀を拾って倒れたままの体勢から無理矢理投げつけた。
 これも驚異的な反応で回避されてしまったが、その間に追いついた浩之と風子が両側から挟み込む形で攻撃を仕掛ける。

「うおおおおおあああっ!」

 裂帛の気合と共に繰り出された刀の一閃。しかし事もなげに同じ刀で受け止められ、弾いたところを蹴りで反撃される。
 浩之は弾かれた反動でよろめきながらも蹴りを回避してみせる。
 それどころか避けたところにもう一度斬り込んだのだが、またも弾かれ、しかも上に斬り上げられたために刀を取り落としてしまった。
 隙ができてしまう。だがフォローするように風子が割って入り、身長差を補うように飛び掛かった。
 絶妙なタイミングでの割り込みだった。にも関わらず、まるでダンスでも踊るかの如く回転して斬撃を回避し、
 逆に風子の懐に飛び込み、返しの一撃を見舞った。

 そこに防御に入る瑠璃。二人の攻防で体勢を立て直すことができた瑠璃は、ベネリM3を手に、下方から射撃したのだった。
 至近距離からのショットガンの発砲。完全に攻撃態勢に入っていたアハトノインは直撃を受け、大きく吹き飛ばされる。
 それでもギリギリでガードに入っていたらしく、損傷は指の一部が削ぎ落とされたこと、手持ちの刀が破壊された程度に留まっていた。
 なんて攻撃、防御性能だと感嘆すら覚える。三人を相手に、しかも完全な隙を突いた攻撃だったはずなのに。
 これが現代のロボットか。訓練された兵士も、このアハトノインの前には赤子同然なのかもしれない。
 珊瑚が反対していた理由も分かる。これは、一方的な殺戮だ。
 慈悲も是非もなく、入力された命令に従ってひたすら戦い続けるだけの人形。
 悲鳴も、命乞いの声も、何も聞き入れない。作業同然に命を刈り取る彼女は、無造作に死を振りまく死神だ。

846エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:41:21 ID:Ckv4lVpo0
「冗談じゃねえ……なんなんだよ、あの野郎」

 あれだけ攻勢を仕掛けて、殆どダメージがない状態なのだ。
 浩之が毒づくのも無理からぬ話だった。
 風子は無言で敵に集中している。仇を討つためには、いつもの軽口さえ開く余裕はないようだった。

「でも、逃げたらあかん。ううん、逃げたくない」

 だから、いや、だからこそ瑠璃は死神を打ち倒さなくてはならないと決めた。
 自分がロボットを愛していた、姫百合珊瑚の妹だからではない。
 一個人として、反目しつつも理解し合うことができた人間だからこそアハトノインが、いやアハトノインの奥に潜む悪意が許せなかった。
 ロボットから理解させることを奪い、心を通わせる機会を奪っている悪意が。
 今まで流されるままで、漠然とした意志しか持てていなかった。
 それゆえ多くを失い、後悔し、自らに澱みを溜め込んできた。
 けれども何かをしたいと思っても、それが何なのか今の今まで分からなかった。
 何のために生き、何のために身を捧げてもいいと思えるのかが掴めなかった。
 なにひとつとして『豊かさ』を生み出せず、燻っていた。
 でも、ようやく見つけることができた。

 長い長い遠回りをして。
 何度も何度も失敗して。

 ようやく辿り着いたのが『ロボットの尊厳を守りたい』という思考だった。
 結局のところそれは珊瑚が抱いていた気持ち、掲げていた理想と何も変わりはしなかったけれど……
 ただ流されて辿り着いたのではない。
 自分の気持ち。自分の思い出があって、そこから考えて辿り着いた結論だ。
 それでも珊瑚と同じ思考になってしまうのがいささか可笑しい気分ではあったが、悪くはない。
 双子の姉妹なのだ。同じことを夢見たっていい。
 それに自分には、支えてくれる浩之という存在もいる。
 心を通わせた存在を感じていたから、瑠璃は何も躊躇うことなく己の決意を受け止めることができた。

「そうだな……ま、逃げるわけにはいかないか」

 余熱の燻る視線を感じてくれたのか、浩之も付き合う声を出してくれた。

847エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:41:42 ID:Ckv4lVpo0
 ありがとうな。

 その台詞を心の中で呟き、瑠璃はアハトノインの中に潜む、真実の敵を見据えた。
 まだ先程の「ありがとう」を言うわけにはいかない。
 終わりの言葉にしてはいけない。自分達はこれを始まりの言葉にしなければならない。
 より善いものを目指し、高みへと向かっていける世界に進むために。
 一緒に生きて帰るために。
 瑠璃は笑った。

「きっついお灸据えたる」

     *     *     *

 激しく運動しすぎたせいか体の節々が悲鳴を上げ、かつて打撲した足が熱を伴った痛みを発している。
 息は上がり、心臓はこれ以上ないほど激しい鼓動を叩き、玉のような汗が全身に滲んでいる。
 体力には自信はあるつもりだったのにな、と浩之は心中に呟く。こんなことなら佐藤雅史とサッカー部にいれば良かった。

 だが、その雅史もいない。

 雛山理緒も、松原葵も、来栖川綾香も、来栖川芹香も、セリオも、姫川琴音も、宮内レミィも、

 保科智子も、マルチも、長岡志保も、

 神岸あかりも。

 もう、みんないない。

 二度と会えない。

848エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:42:02 ID:Ckv4lVpo0
 限界に直面して初めて、浩之は喪失を実感していた。
 理解はしていたつもりだった。それでもいざ確認し、己の本心、過去の思い出と対面してみると全然違った。
 意識はしなくても浮かび上がってくる友人の言葉が、幼馴染の言葉が胸を締め上げ、浩之を息苦しくする。
 つらい。率直にそう思った。
 今の現実は自分の手に余りすぎるほど苦しい。
 それまであったはずのものは全てなくなり、拠るべきものもなく、たった一人で孤独の海を彷徨っている。
 海を漂う椰子の実に似ていると浩之は思った。
 どこの誰にも知られず、ただ孤独に目指すべき場所も知らずに流されてゆく。
 だが、それでは寂しすぎる。
 だから懸命にもがき、流れに逆らい、どこかの島に流れ着こうと努力を重ねる。
 たとえ辿り着けなかったのだとしても、行く先々の新しい出会い、未知の風景は今を少しでも変えられるかもしれない。

 俺が泳ぎ続けるのは、そういうことなんだ。

 沈んでしまった椰子の実。海底に埋もれてしまい、芽を出すことすらできなくなった実たちに対して、浩之はそう告げた。
 自分はまだ生きてしまっている。どんなに嫌がっても現実はいつも自分の隣にいる。
 諦めようとしても根底に根付いた意志が、沈むことを許してくれない。
 死にたくない。言葉にすればそういうことなのだろう。
 陳腐で、俗な言葉で、友人達からすれば失礼極まりない考えには違いない。
 それでも進まなければならないと、そう決めたのが藤田浩之だった。

「うおおっ!」

 力を振り絞って刀を振り下ろす。アハトノインは刀を弾かれている。つまりチャンスだ。
 この機を逃すまいと畳み掛けるが、不利であるはずのアハトノインの動きは冷静だった。
 軌道を読んで最小限の動きで避けられる。ならばと浩之は風子に視線を向けた。
 一人では無理でも、二人なら。チャンスだと分かっているのは風子も同じで、囲い込むような動きで背後から攻めようとする。
 前後に挟まれる不利は相手も承知しているらしく、回避を念頭に置いた動きから逃げる動きへと変わったが、
 それだけで今の浩之たちを止められる理由にはならなかった。

849エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:42:22 ID:Ckv4lVpo0
 絶対に逃がしはしない。瑠璃の反撃で得た千載一遇の時間を無為にするわけにはいかない。
 ここで何としてもトドメを刺す。
 体感的にも、ここで決めなければ持たないと理解していたからこそ浩之は多少防御を犠牲にした攻撃を繰り返す。
 命中こそしないが、アハトノインは後手後手だ。
 同じく畳み掛けた風子の繰り出した刀による突きが回避される。
 だが避けられるのは風子も浩之も先刻承知の事項だった。
 隙を見計らい、浩之が500マグナムを向ける。
 更にこれまでの動きから、横に飛んで逃げるだろうと読んで銃口を少し逸らしてトリガーを引いた。
 予想は外れてはいなかった。直撃こそしなかったものの、脇腹を掠ったマグナム弾にアハトノインが理解できないといった表情を見せる。
 当然だろう。計算の上では完璧に回避しているだろうから。
 だが所詮そんなものは定石の上に作り出されたものに過ぎない。
 もう一発。最後の弾丸だったが構うことも躊躇もなく浩之は発砲する。

「……!」
 想定外の事態に突き当たったからか、アハトノインの動きが一瞬遅れた。
 それでも前回の行動からまた少し逸らしてくると判断したらしく、動きは殆どなかった。

 バカめ。二度も同じことするわきゃねーだろ!

 今度こそ、きちんと狙いを据えた銃口は見事に防弾コートの中心を捉えていた。
 直撃。マグナム弾の威力は9mm弾などの比ではなく、
 真正面から膨大なエネルギーの圧力を受けたロボットの体がぐらりと傾き、行動不能に陥らせた。
 この期に及んで弾丸が貫通しなかったことに呆れを通り越して感嘆の気持ちさえ抱いたが、これで条件はクリアした。

「瑠璃、行けっ!」

 言うまでもないとばかりに、瑠璃は既にベネリM3を構えていた。
 狙いはむき出しの頭部。ここさえ破壊してしまえばいかに頑強な体を持つアハトノインと言えど倒せる。
 機会を窺っていた瑠璃の狙いは正確だった。
 ベネリM3から発射された無数の散弾はアハトノインの頭部を丸ごと飲み込み、
 スイカを叩き割ったかのように機械片を飛び散らせながら完膚なきまでに破砕した。
 首なし騎士の完成だ。もんどりうって倒れるロボットの残骸を眺めながら、浩之は「よし」と勝利を確信した声で呟いた。

850エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:42:42 ID:Ckv4lVpo0
「ふーっ、手強い相手でした」

 したり顔で大袈裟に息を吐き出す風子に、「トドメを刺したの、瑠璃だからな」と突っ込む。
 すると風子は心外だだとでも言うように唇を尖らせ、「チームプレイというべきです」と抗議した。

「そうそう。今回はチームの勝利やで。三人やなかったら危なかったし」
「まあそりゃそうなんだが……」
「ということでもっと褒めてください」
「調子に乗るなって」

 頭を小突くと、風子はますますニヤニヤとした顔になる。
 どうもマイペースな人間は苦手だ。それを言うなら珊瑚もマイペースだったのだが、珊瑚は別段そういう風には感じなかった。
 この違いはいったい何なのだろう。本当に、世の中には色々いる。
 だからこそ面白みを感じられるのかもしれない。風子につられたわけではないが、浩之も含みのない微笑を浮かべた。

「さ、行きましょう行きましょう。だいぶ遅れてしまったようですし――」

 風子が、背が低かったからかもしれない。
 視界の隅……風子の肩越しに、ピクリと動いたものが目に留まった。
 一瞬目の錯覚かと瞼を擦ってみたが、間違いなく、それは、

 動いた。

 背筋が凍るような怖気が走った。まるで幽鬼のような足取りで起き上がった『首なし』は、しかし一分の無駄もない動作で拳銃を袖から抜き出した。
 隠し拳銃――!
 明らかにこちらの動きを把握している。逡巡している暇も戦慄している暇もなかった。

「風子! どけぇっ!」

851エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:43:09 ID:Ckv4lVpo0
 半ば突き飛ばす形で風子を押しのけ、500マグナムを撃とうとして……そこで、弾切れになっているのにようやく気付いた。
 動くはずのない『首なし』が起き上がったことに動転してしまっていたのか。きちんと確認はしていたのに。
 浩之の異常を瑠璃も察知したのかフォローに入ろうとベネリM3を構えたが、遅かった。
 『首なし』は的確な動作でこちらに狙いを定め、次々と発砲してくる。
 最初に突き飛ばした風子は直撃こそ免れたものの、浩之と瑠璃は飛来する銃弾を避ける時間も残されてはいなかった。
 隠し持っていた拳銃は、たかが小口径のものだったとはいえ、柔らかい人体を破壊するには十分な威力だった。
 即死はしなかったが、乱射された銃弾が体のそこかしこを引き裂き、瑠璃も同等のダメージを負って床に倒れこむ。
 お互いの生温い血の温度と、べたつく感触を味わいながら、二人が取った行動は即座の反撃だった。

「こなくそっ!」
「やられてたまるか!」

 取り落としたベネリM3を二人で拾って構え、発砲する。
 痛みを押しての射撃。撃たれた腕が、腹が、肩が、足が悲鳴を上げる。
 それでも撃った。瑠璃が隣にいるという安心感だけでまだ死なない、生きていられると思えてくるから。
 二人一緒なら、いくらだって生きられる。人間は、そういう風にできている。

 そうさ、俺は瑠璃を愛してるんだ。だからこんなところで死ぬわけにはいかないんだよ……!

 決死の反撃はいくらか実を結んだのか、ベネリM3の直撃を受けた『首なし』が吹き飛び、アハトノインのカプセル郡に突っ込んで動きを止めた。
 だがそれは一時的なものでしかなく、すぐにまた身じろぎを始める。
 化け物め。物語通りの不死身の騎士というわけか。
 互いの体を支えつつ立ち上がり、残ったベネリM3を撃ち尽くす。
 距離はありすぎるくらいだったが、引き付けている余裕はなかった。
 だが頭部を失ってなお、『首なし』の動きは健在だった。
 まるで射撃が続けて来ることを読んでいたかのようにステップで絶妙に避けながら接近してくる。

「音で感知されてるみたいや!」

852エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:43:30 ID:Ckv4lVpo0
 それは浩之も分かっていた。でなければこちらに近づいてこれる理由がない。
 恐らくはそれだけではない、センサー等を通してこちらの位置までを正確に把握していると思ってよかった。
 なら、あの分厚い防弾コートを突き抜けてどうやって破壊すればいい?
 ショットガンであるベネリM3の直撃を受けてなお、防弾コートには僅かの損傷しか見受けられなかった。
 策は見つからない。考えているうちにベネリM3の弾も尽きた。残る武器は殆どない。
 射程内に入ったと感知したらしく、『首なし』が拳銃を向ける。
 そこで飛び掛ったのが、風子だった。

「借りは返させてもらいます!」

 『首なし』に対してか、或いは自分たちに対してか。恐らくはどちらもなのだろう。
 接近は予期していたのか、まるで見えていたかのように銃口を風子に変えたが、風子はそのまま突進した。
 当然、『首なし』も発砲する。銃弾を数発体に受けながらも、それでも風子は止まることなく防弾コートに取り付き、

「分かってはいても、見えてはいませんよね……! だったら、こっちのもんです!」

 至近距離からM29を押し付け、次々と撃つ。
 ゼロ距離の銃弾は流石にどうしようもないはず。それなのに、数度体を跳ねさせた『首なし』はよろりと一瞬バランスを崩したが、動じることはなかった。
 何事もなかったのように拳銃がポイントし直される。まさか、と目を見開いた風子の体が、今度は逆に跳ねる。
 先の銃撃で避けるだけの余力もなかった風子は胸から大量に出血し、呻いた後に倒れた。
 やられた。そう実感する間もなく『首なし』の狙いがこちらに切り替わった。

「く……!」

 悔しさを声に出す時間すらなかった。コルトパイソンを構えた瑠璃を補助し、後方に下がりながら発砲を続ける。
 しかし『首なし』に拳銃はマグナムであっても通じない。
 当たりはしたものの、一歩ほど後ろに下がっただけでダメージはない。

「どうすりゃいいんだ、こいつ……!」

 まるで、下がってくる釣り天井のある部屋に押し込められたかのような気分だった。
 どんなに知恵や勇気を振り絞っても押し寄せる壁そのものの前にはどうしようもない。
 そう、何をやっても無駄だと目の前の『首なし』は告げていた。

853エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:43:50 ID:Ckv4lVpo0
 だから安らかな死を。
 あなたを、赦しましょう。

 頭はなく、口もないのに、はっきりと『首なし』がそう言うのを浩之は聞き取った。

「……冗談じゃない」

 冗談じゃない。
 お前の赦しなんかいらない。
 俺は絶望を信じない。
 俺はもう、世界に絶望することはやめたんだ。
 友達がみんな死んでしまっても。
 人が人らしくいられず、悪鬼に変わってしまったのを何度見ても。
 自分自身を一度捨ててしまった俺自身がどうしようもないクズだとしても。
 未来は、豊かさはまだそこにあるんだから……!

「浩之」

 自分と同じ、世界に絶望することをやめた少女の瞳があった。
 大切なものを全て奪っていった世界を憎むのではなく、そんな世界を変えようとする瞳だ。
 これがあるだけで、何の不安も感じない。
 これから起こること、起こすことを、全てこの身に引き受けられる決心がついた。

「爆弾を使ってみるか。派手な花火になるぞ」
「ええな、それ。面白そうや――すごく」

854エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:44:05 ID:Ckv4lVpo0
 一泊溜めて、瑠璃は今までで一番の笑みを見せた。
 吹っ切った笑顔であり、諦めたような笑顔であり、しかしこの結果に満足しているような顔。

 やっぱり、強いな。

 苦笑交じりの表情しか渡せなかった浩之は、最後まで強さを見せられっ放しだったなと感想を結んだ。
 川名みさきしかり、姫百合珊瑚しかり、一ノ瀬ことみしかり。
 女は強い。いつも支えてくれるのは彼女たちのほうだ。
 いや、だからこそ、それを背負って行動に移すことができる。

「任せたぜ、瑠璃」
「任せとき、浩之」

 体が離れる。
 ぬくもりがなくなるとは思わなかった。
 離れても、傍にいなくても、こうして同じ想いを共有している限り暖かさは感じられる。
 それがこんなにも心地よかった。
 走り出した背後で銃声が木霊する。
 爆弾までの距離は意外と近かった。
 手に持ったのはライター。ポケットに仕舞ってあったが、使いどころを見出せなかったものだ。
 爆破は本来芳野たちにやってもらう予定だったのだから。

 美味しいとこ、貰ってくぜ芳野さん。

 足がもつれ、倒れかけたが誰かが支えてくれたかのようにギリギリで立て直すことができた。
 支えてくれたのは誰だろう。

 ――みんな、かもな。

855エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:44:23 ID:Ckv4lVpo0
 いくぜ。
 見てろよ……!
 爆弾に取り付き、導火線に火を点す。
 痛みのあまり指が震えかけたが、また誰かが支えてくれた。
 意識も朦朧としてきた。意外と血を流していたのかもしれない。
 見てみれば点々と続く血の跡は長く、体中の血を全て流してしまったのではないかとさえ思える。
 瑠璃も、風子の姿も見えない。だが一人ではない。ここには、みんながいる。
 火のついた導火線が、徐々に短くなってゆく。
 命が失われる恐怖はなく、この後起こることを想像して寧ろ楽しい気分になった。

 ……ああ、そうか。

 楽しいと思えるのは、ここにみんながいるから。
 自分がしてきたことを、誇りを持って話すことができるから。
 感情を交わし、共有し合うことができると知っているから。
 きっと、それが、豊かさなのだろう。

 未来は。

 俺の、未来は――

     *     *     *

856エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:44:39 ID:Ckv4lVpo0
 強烈な閃光が、藤田浩之の体を丸ごと飲み込み、直後に膨れ上がった炎の色すら知覚させずに意識を消し飛ばした。
 一ノ瀬ことみ特製の爆弾は凄まじいエネルギーとともにアハトノイン達を格納していたカプセル郡ごと破壊し、部屋全体を火球が制圧した。
 その爆発は天井も突き破り、瓦礫の山を築き上げ、かつてそこにあったものの痕跡を跡形もなく消し去った。
 そこには、なにもない。
 あるのは、ただ、大爆発があったという事実と、そこに残された誰かの想いである。

     *     *     *

857エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:44:55 ID:Ckv4lVpo0
 ……やれやれです。
 結局、最後まで敵討ち、できませんでしたね。
 面目ないです十波さん。仇取ってよって約束、破っちゃいました。
 それに教師にもなれそうにないですね……まあ、罪作りな教師にならなかったことは幸いなのでしょう。
 ユウスケさんにも謝らないと。ちょっとだけ楽しみだったんです。新しい暮らし。新しい家族が。

 って、風子約束破りまくりじゃないですかっ!
 な、なんて最低な女! がーん! まーりゃんさんにバカにされて言い返せないレベルですっ!
 そう思うと、まーりゃんさんがにょほほほとかそんな感じの笑いを浮かべて突っ立っている光景が見えました。
 最悪です。こっち来ないでください。まだ早いです。
 ……ああ、しかし、死ぬって結構痛いんですね。
 何度も死に掛けてはきましたけど、いざこうしてみると痛いばかりです。
 もうちょっとこう、ふわーっといく感じを想像していたのですが。
 人生うまくいかないものです。だからこそ楽しいのかもしれませんが。
 決まりきったことをするのは、風子ちょっと苦手です。
 だから痛くないようにしましょう。楽しいことをしましょう。

 この状況でさしあたって楽しいことは……ああそうですね、あの首なしさんの妨害ですかね。
 藤田さんと姫百合さんが何するか知ったこっちゃないですが、邪魔するならあのお二人よりあっちですね。
 ふふ、風子は天邪鬼なので誰かの邪魔をしたくなります。
 こういう小悪魔っぷりが男の子をメロメロにするんですね。
 ……いつまでも、じっとしてても面白くないので、行動に、移しますか。

858エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:45:12 ID:Ckv4lVpo0
 ぷひぷひ。
 おやイノシシさんじゃないですか。逃げても良かったのに。
 ぷひー。
 なるほど決心がついたんですね。何かやれることがやりたい、と。
 ぷひ!
 死ぬの、怖くないですか?
 ふるふる。
 痛いの、怖くないですか?
 ふるふる。
 全部なくなってしまうのは、どう思いますか?
 ぷー……
 意地悪だって? そうですね、風子はそうなのかもしれません。
 風子、正直嫌いです。あの首なしさんも、お姉ちゃんを殺した人も、ユウスケさんを殺したあのロボットさんも、岡崎さんを殺したあの人も、十波さんと笹森さんを殺したあの人も。
 ……でも、憎めないんです。殺した人も人間なんです。風子と同じ、人間……
 憎んでも、なんだかそれが自分に跳ね返ってくるような気がして……そうですね、怖いんです。怖いから、風子は憎みきれなかった。
 だから引っ込み思案だったんですね。人に感情を持つのも、怖かった。
 でも今は……ほんの少しだけ違うんですよ。怖いのは今でも変わりないですが、悪いことばかりじゃないってことは分かったんです。
 なんか言ってることがめちゃくちゃで分かりにくいって? 風子、天邪鬼ですので。
 まあ、あれですよ。……誰も、嫌いにはなってもいいけど、恨んだり憎んだりしちゃ駄目ですよってことです。
 それは、何も変われないってことですから。
 ぷひ……
 そうですか、イノシシさんがそうなら、よかったです。
 ということで、協力してください。……できますよね?
 ぷひ!

859エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:45:27 ID:Ckv4lVpo0
 なんか、少し悲しい気分です。最後にこうして語り合ったのがイノシシさんとは。
 ああでも可愛いからどうでもいいですね。可愛いは正義だと思います。
 一番の正義はヒトデですが。
 ここ変わってないって? 人には譲れないものもあるのです。
 さぁ、最後の、風子の勝負ですっ!
 発砲を続けている姫百合さん。首なしさんは避けもしていません。効かないからでしょうか。
 そういうのを、傲慢って言うんです。
 弾切れになった姫百合さんに首なしさんが近づこうとしますが、させません!
 イノシシさんと風子で足元に飛び掛って押さえ込みます。
 見えてはいませんよね? だったら、『今度こそ』こっちのもんです!
 ぎゅっと掴んだら、口から何か出てきました。鉄臭くてまずいです。
 足をとられた首なしさんでしたが、何が起こったのかはすぐに把握されました。
 足元に異変があると感じたらしく、即座にイノシシさんの方に拳銃を向けました。
 流石に、風子も助けられませんでした。掴まってるだけで精一杯だったんです。
 でも姫百合さんが助けてくれました。体ごと飛び掛って首なしさんを押し倒します。
 グッジョブです! あ、無理やり動いたらまた赤いのが出ました……痛い、ですね……

 でも、痛いのに、なんかとても嬉しい気分です。痛いのが嬉しいって風子Mですか。Mじゃないです。どっちかというと女王様です。
 こんなときまでバカなこと考えてますね。それが可笑しくてへらへらと笑うと、姫百合さんも笑ってました。
 みんな楽しいのでしょうか。よく分かりません。
 でも、こういう気分だってみんなで分かってるのは……
 とっても最高なことだと、そう思ったんです。
 あったかい気分でした。体のどこかもあったかい感じでした。

 ……いつだったでしょうか。
 この感じを、どこかで、風子は知っていたような気がします。
 光が、舞って。
 とってもきれいで。
 風子なりに言うと……
 これが、未来なんです。
 あったかくて、懐かしい……未来……

     *     *     *

860エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:45:44 ID:Ckv4lVpo0
 姫百合瑠璃の体も、
 藤田浩之の体も、
 ボタンと呼ばれていた猪の体も、
 伊吹風子の体も、
 もうそこにはない。
 瓦礫の山に埋もれることすらなく、存在そのものが光に飲まれた。
 だが、光が収まった後に……いくつかの、新しい小さな光が生まれた。
 光はすぐにどこかへと消え去った。
 どこかを目指して、消えた。
 その先は未来とも言うべき、その場所である。

861エルサレムⅥ [自決]:2010/08/01(日) 17:47:22 ID:Ckv4lVpo0
【藤田浩之 死亡】
【姫百合瑠璃 死亡】
【伊吹風子 死亡】



高槻、ゆめみ
装備:M1076、ガバメント、M79、火炎弾×7、炸裂弾×2、忍者刀、忍者セット、おたま、防弾チョッキ、IDカード、武器庫の鍵、スイッチ、防弾アーマー

麻亜子
装備:デザートイーグル50AE、イングラム、サブマシンガンカートリッジ×3、二連式デリンジャー(残弾1発)、ボウガン


朝霧麻亜子
【状態:なりたい自分になる】
【その他:体操服(上下のジャージ)を着ている】

高槻
【状況:主催者を直々にブッ潰す】

ほしのゆめみ
【状態:パートナーの高槻に従って行動】



→B-10
次回が最終回となります。
投下の際には告知を行い、時間を指定してから投下を行いたいと思います。
お暇があればお付き合いいただけたら恐縮です。

862名無しさん:2010/08/27(金) 21:09:20 ID:w1hhOi020
B-10の者です。
今から最終回を投下したいと思います。
容量が160kbある都合上、四部構成に分けて投下します。
休憩など挟みますが、どうぞご了承下さいませ。

863終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:10:43 ID:w1hhOi020
十三時四十七分/高天原中層

「ねえ、リサさん」

 ウォプタルの背中に揺られながら、一ノ瀬ことみはしばらくぶりの口を開いた。
 国崎往人、川澄舞の両名と離れて以後、初めて開いた口だった。
 それまで黙っていたのは、二人の安否が心配だったからではない。あの二人なら絶対生きている。
 ただ、これからやるべきことに対して整理をつけ、自分の中で消化する時間が欲しかったから黙っていた。

 文字通りの命を賭けた大一番の中に、自分達はいる。それは今まで命のやりとりをしてこなかったことみには怖いことだった。
 今も正直、早鐘を打ち続ける心臓を落ち着かせることができない。
 ことみは誰かがいなくなることの恐ろしさを知っていた。だからこそ、恩人とも言える霧島聖を殺害されたときでさえ犯人である宮沢有紀寧の命を奪うことができなかった。
 結果的には、彼女は道連れにしようと自爆してしまったのだが……
 包帯を巻いたままの目が痛む。命を投げ打ってまでしてやったことは、目玉一つを奪うことだけだった。
 そうはなりたくない。それがことみの気持ちだった。
 死んでしまっても何かを為そうというのではなく、生きていたいから何かを為さなくてはならないという自信が欲しかった。
 でなければ、自分もきっと有紀寧と同じような、自己満足のためだけの死を迎えてしまうだろうから。

「リサさん、これから……ここから出たら、何をするの?」

 リサとはそれなりに長く行動してきたつもりだったが、彼女自身のことについては知らないことも多かった。
 どこで生まれ、何をしてきたのか。何も知らない。

「今の仕事を続けるわ。それしかやれないからなんだけど……」

 特に表情を変えることもなくリサはそう言った。
 自分の運命を決定的には変えることはできないと知っている女の顔だった。
 自分より長く生きているはずの人だ、それなりの重さはあるのだろうと思ったがあまり好ましい言葉ではなかった。
 大人はこういうものなのかもしれない。多くを語らず、責任の重さを黙って受け止めてやれることだけをやる。
 聖にもそんな部分は多かった。自らの責任を果たすだけ果たし、言葉だけを残して逝ってしまった。

864終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:11:05 ID:w1hhOi020
「でも、それだけじゃない。今の仕事を続けていく中でもちょっとした変化……楽しんだり、笑ったり、泣いたり、悲しんだり……
 そういうものを感じられる機会を増やしていこうと思ってる。仕事だけの人生なんて、寂しいでしょ?」

 生きる道そのものは変えられなくとも、その過程ならばいくらだって変えられる。
 微笑を含んだままのリサに虚を突かれたような気分になりことみは思わず「リサさんでも泣いたりするんだ」と軽口を叩いてしまっていた。

「私でも泣くことくらいあるわよ。人間だもの」
「そうかな……」
「無闇矢鱈と人前でそうしないだけ。意地が出てくるのよ、年をとるとね」
「大人って、格好付けなんだ」
「そうね……私の知ってる人は、大体そんな感じだった。でも、分かるでしょ?」

 年上が情けない姿を見せたくはない。だから意地を張るし、身勝手なことも言ったりする。
 それは分かる。だが、分かっているからこそ受け入れられない部分もあった。それは自分がまだ子供だからなのかは分からなかった。

「せめて、親しい人の間でくらいは子供になってもいいと思うの」
「だから家族になって、子供も作るんでしょ?」
「……分からないの」
「私はそうしたいわ。今はエージェントって仕事しかできないけど、いつか、きっと」

 リサにとっては遠すぎる夢なのだろうか。はっきりと口に出すことはしなかった。
 それでも強い言葉で、遠くを見据えるように言ったリサには、そこまでの道筋も見えているのかもしれない。
 ならば、自分はリサに負けている。医者になりたい夢はあっても、まだ漠然とした道しか分からない我が身を振り返り、ことみはようやく納得する答えを得たと思った。
 仕事の内容は違っても経験する道のアドバイスに長けているに違いない。将来は、恐らく。
 そんなリサに、ようやく自分の未来を預けてみようという気になったのだった。

「お願いがあるの」

 なに? と今更ねとでも言いたげな顔でこちらを見てくる。遠慮がないのはお国柄の違いなのだろうかと苦笑を返しつつ、
 ことみは一つの提案を持ちかけた。

865終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:11:25 ID:w1hhOi020
「二手に別れるの。リサさんは当初の予定通り中央の制圧。私は脱出路の道筋を探す。ほら、私この恐竜さんに乗ってるから早いし」
「そうするメリットは?」

 感情に訴えず、合理的な判断を持ちかけてくるのは流石にリサだった。だがその方がことみとしてはやりやすい。
 元々、考えるのは得意中の得意なのだから。

「んー。さっきアハトノインと遭遇したけど、あれってなんでなのかな」
「どういうこと?」
「普通、自分の身を守りたければああいう強いボディーガードは身辺につけてるはずなの」
「ふむ」
「ところがそれをホイホイ手放した。ってことはつまり、テンパってるってことだと思うの」
「まさか。こんな殺し合いを計画する奴よ」
「でもそれは変わったかもしれない。途中から、明らかに色々変えてたもの」

 主催内部でゴタゴタがあったかもしれない。リサがそれに感づいている可能性は高かった。
 何より、那須宗一と話し合う姿を目撃している。推理が含まれるだろうが、概ね外れはないだろうと踏んでいた。
 リサは特に反論を寄越さなかった。つまり、反論はないということだ。ここに畳み掛ける。

「リサさん強いし、一人でも何とかなるんじゃないかな。もちろん私にもリスクはあるの」
「貴女の身が危ないわね」
「そこをリサさんに託すって言ってるの。……これは私の勘なんだけど、こんなことでテンパるような主催者なら、なんかやらかしそうな気がするし」

 半分冗談のつもりで言ったのをリサも理解してくれたらしく、「例えば、基地の自爆スイッチを押すとか」と付き合ってくれた。

「そうそう。他にも基地がぶっ壊れるのお構いなしで兵器ぶっ放しとか」
「……ありそうな話ねぇ」

 コミックの中でしか有り得なさそうな話なのだが、リサは意外と神妙だった。
 本気ではないだろうが、可能性のひとつとして受け止めたのだろう。

866終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:11:47 ID:w1hhOi020
「追い詰められた奴は何をするか分からないからね……貴女が、宮沢有紀寧にそうされたように」
「えっ?」

 思ってもみなかった言葉が飛び出してきて、ことみは間抜けな口を開いてしまっていた。
 まさか、本気なのだろうか。
 硬い表情を作るリサの真意は測れず、判然としないものだった。

「何をしでかすか分からない、か……」

 何とも言えなくなってしまう。不測の事態に陥ってしまうと頭が回らなくなる悪い癖は治っていないらしい。
 ここもいずれ変えていかなければと見当違いな決心をしている間に結論を出したらしいリサが「分かった」と言っていた。

「別行動にしましょう。ただし、危なくなったらすぐに逃げてね。そこだけは約束して」
「え、ああ、うん」

 こくこくと頭を下げたのを見たリサは「うん、よし、それじゃあね」とまくし立てて先に行ってしまった。
 呆然と取り残されたような気分になり、ことみは首を捻りながら「うーん」と呟いてみた。
 これでよかったのだろうか。いや、当初の予定通りではあったのだが。

「……まあ、私がいても正直戦闘の役に立たないし」

 だから自分の得意なことをやろう。
 気を取り直し、ことみはのんびりと歩いていたウォプタルの手綱を強く握った。
 目下の見立てでは、地下の、最深部が怪しい……というのはフェイクで、この近辺のフロアに何かがあると見ていた。
 理由はひとつある。アハトノインが『見回り』に来ていたこと。
 どこかに急行するなら歩いているはずはない。警戒のために来ていたのだとすると、重要な何かがあるということだ。
 試しにウォプタルを走らせて、まずは様子を見ることにした。

867終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:12:13 ID:w1hhOi020
「当たってればいいけど」

 全部が推理でしかないのに、無闇に確信している自分がいる。
 そういう根拠のない自信は聖から貰ったものなのだろうか。

 ねえ、先生。
 私、意外と図々しくなったかもしれないの。
 だから絶対医者になる。なれるように祈ってて欲しいの。なれなかったら先生のせいなの。

 聖が、苦笑した気がした。

     *     *     *

十三時五十四分/高天原中層

 ことみの小さな一言が切欠だった。
 追い詰められた人間は何をしでかすか分からない。
 もし、今ここを管理している人間が、自分の推理通りの人間だったとしたら――
 それがことみと離れた理由であり、急いでいる理由。
 生きて帰る。それだけが目的なら急ぐ必要はなかったし、今こうしていることもない。
 けれども、もし、帰る場所そのものが失われてしまうかもしれないとしたら?
 実行するかどうかはともかくとして、やると決めたならばどんな非道なことでもやってかねみせないのが『彼』だった。

 脱出する前になんとしても接触し、決着をつける必要があった。
 本当なら皆と合流した上で行うべきだったし、そうしたいと思っていたが事態は急を要する。
 分散してしまったのは失敗だったかもしれないとリサは舌打ちした。
 もし既に脱出路の確保が終わってしまっているなら、『彼』は準備に取り掛かっているかもしれない。
 そうなる前に潰したいというのがリサの気持ちだった。

868終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:12:52 ID:w1hhOi020
 片っ端から怪しそうな場所に突入してみたが、いずれも無人。
 本命の場所には必ずいるだろうからいないはずはない。そう考え、もう何度も突撃してはみたが結果は得られていない。
 『高天原』は広すぎる。このフロアではない可能性もある。
 そもそも、勘と当てずっぽう、そして和田の残してくれた僅かな情報だけが頼りでしかない。
 首輪データと共に発見した『高天原』のデータが古い可能性は否めない上、建造初期のデータだった。
 だが、自らの経験と勘を信じるしかない。
 今度こそ手遅れになるわけにはいかないのだから……

 新しい部屋を発見したリサは躊躇なくそこに踏み込む。
 物陰から飛び出すと同時にM4を構える。敵と判断すれば即座に撃つ心積もりだったが、またも無人。
 その代わりに、床に赤い液体が放射状に散らばっているのを発見した。その傍らには、投げ捨てられたゴミのように放置されたウサギの人形と、ひび割れた眼鏡があった。
 床の赤いモノに触れるリサ。既に凝固しかけているのか、殆ど手にはつかない。
 つまり、いくらか時間が経過しているということだった。

「……誰かが、殺された?」

 考えるならばそうとしか考えられない。
 主催者の仲間か、或いは別の誰かなのか。血痕だけではこれ以上の事実など分かろうはずもなかったが、ことみの推理は正しいことになる。
 やはり篁が死んで以降、運営内部で争いがあったのだ。
 当初の目的を遂行するか、やめさせようとした一派と争いになったのか、或いは篁財閥の権力を握ろうと他を排除にかかろうとしたのか。
 いや過程はどうでもいい。その結果として、『彼』がトップの座に居座っている。
 そして全てを隠蔽すべく、参加者を全て皆殺しにしようとしている――

「お待ちしておりました」

 やはり『彼』を放置しておくわけにはいかないと結論を結びかけたところで、唐突に声が背後からかかった。
 気配は感じなかった。心臓が凍りつき、内心戦慄する思いであったのだが、何とかそれを隠し通し、いつもの振る舞いでリサは振り返った。
 そこにいたのは、以前撃破したはずのアハトノインだった。いや違う、とリサは即座に判断した。恐らくは別の機体。だが……
 平板な表情、金色の髪と赤外線センサーを搭載した赤い瞳、胸のロザリオ、修道服。
 何から何まで同じで、生き返ったのかとすら思う。きっちり揃えられたアハトノインには個性の文字すら見えない。

869終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:13:17 ID:w1hhOi020
「我が主が貴女様をご招待しております。どうぞ、こちらへ」

 恭しくお辞儀をして、手で誘導してくる。罠か、と思ったリサだったが、そもそも敵陣の只中に突入している身で罠も何もないと考え直した。
 余裕があるということなのか? いやそれはない。推理通りの人物ならば余裕など有り得ない。そんな器を持ち合わせているはずはない。
 これは虚勢だ。プライドが小さい男が張ったつまらない虚勢。
 わざわざ使いを寄越すのも、自ら出て行くことができなかったからなのではないか。
 そう思うと色々勘繰っていたことも馬鹿らしく感じ、逆に余裕を持てるようになった。
 その程度の男、御せなくてどうする、リサ=ヴィクセン。

「ご招待に預かりましょう」

 もしかすると、アハトノインを通して見られているかもしれないと思い、リサはわざとふてぶてしい態度を取った。
 M4を仕舞いもしなかったが、特に気にかけることも別の表情を見せることもなく、「では、どうぞ」と先を歩いてゆく。
 人間であれば、まだおちょくることもできたのだが。
 そういった意味でも面白くないと思いつつリサはアハトノインに続いた。

「ところで、質問は許可されているのかしら」
「命令にはありません。もうしばらくお待ちください」
「……面白くないわね」
「申し訳ありません。その命令は実行できません」

 口に出すだけ無駄だろうとリサは結論した。
 それにしても応対まで簡素そのものだとは。ほしのゆめみなら、もっと面白い答えで受け答えしてくれるのに。
 ほんの少し付き合っただけだが、リサはアハトノインを通して製作者の人間性が改めて分かったような気がした。
 ひどくつまらない。男としての魅力は皆無といっていい。

「英二なら、そもそも自ら出向いてくる、か。比較するのも失礼だったかな」

 わざと聞こえるように言ってみたが、返ってきたのは無言だけだった。
 やはりつまらない。廊下を通り過ぎ、階段を下りてゆくアハトノインの背中を見ながらリサは嘆息した。

870終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:14:19 ID:w1hhOi020
     *     *     *

十四時十五分/高天原格納庫

「……こいつは」

 目の前に聳え立つ、高さ5m以上はあるかという物体を見上げながら高槻は想像以上の代物が出てきたことに驚いているようだった。
 無理もないな、と朝霧麻亜子は思う。こんなもの、どうやって破壊しろというのか。
 戦車なのかロボットなのか、それとも別の兵器とも判断できないそれは今は休止中なのだろうか、
 間接部のライトをチカチカと輝かせているだけで動く気配を見せていなかった。
 しかし動いてはいなくとも、頭頂部に配置されている大型の筒は息を呑むほどの威圧感があり、例えるなら玉座に鎮座する大王、といった佇まいだった。
 恐らくは戦車砲かなにかなのだろう。それにしては鋭角的なデザインだとも思ったが、最新鋭の兵器というものはこういうものなのかもしれない。

「どうするのさ」

 ただ立ち尽くしているわけにもいかず、麻亜子は腕を組んだまま見上げている高槻に問いかけた。
 ほしのゆめみは相変わらず高槻一筋といった振る舞いで、特に何もしていなかったからだ。

「見ろ」

 首を少しだけ動かし、高槻はとある一点を指し示したようだった。
 視線の先を追うと、大型筒の下のあたりに、取っ手らしきものがあるのが見えた。

「コックピット?」
「だろうさ。ちょいと狭そうだが、あの大きさなら少なくとも二人は入れる」
「おい、まさか」
「ここであれを奪わなくてどうする」

 麻亜子は頭を抱えた。あんな最新鋭の兵器、動かせるはずがないではないか。
 確かに、面白そうだとは思うが。
 ここで面白そうだから動かしてみたいと思ってしまっている自分がいることに気づき、麻亜子はため息をもう一つ増やした。
 玩具みたいに簡単にできるはずがないと感じてはいても、それがどうしたやってみなければ分からんという考えもある。
 どうも学校生活の中で、あらゆる無茶に挑んでみたくなるのが習い性として定着してしまったらしい。

871終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:14:39 ID:w1hhOi020
「動かせる自信あるの?」
「ない」

 随分きっぱりと高槻は言ってくれた。「なんだよそれ」と呆れ混じりの口調で返すと「動けばいいんだよ、事故っても」と、
 本気なのか冗談なのかも分からぬ答えが返ってきた。

「ま、いざとなればあのレールガンぶっ放せばいいだけの話だ」

 それが出来るのか、という質問は置いておくことにした。
 実現性はともかくとして、手当たり次第に暴れまわるという発想は面白そうだと麻亜子も感じたからだった。
 結局のところ、面白さを第一義にして動くという性分はどんなに辛酸を舐め尽くしても変わることはないのだろう。
 それでもいいか、と結論付ける。自分の人生、好きなように決めて行動してもいい。好きなように行動するという選択肢が、今の自分にはある。

「よし分かった。その覚悟に免じて先鋒となってハッチを開ける任務を与えよう」
「あ?」
「何だよ、言いだしっぺの法則を忘れたか高槻一等兵」
「……」

 ジロリ、と睨まれる。どうもまだ高槻は自分に対して警戒心が強く、心を許してくれていない部分があるようだった。
 当然か、とも思う。考えている以上に因縁は深く、一生を費やしても埋めきれない溝であるのかもしれない。
 それでもと麻亜子は反論する。どんなに人殺しの業が深くても、最低な人間だったとしてもそれで終わるわけにはいかない。
 どんな暗闇に落ちたとしても、そこから這い上がれるだけの力を人間は持っているのだと知ることができたのだから。

「分かった。行きゃあいいんだろ。でもな、ひとつ確認していいか」
「?」
「あすこまで、どうやって行くよ」
「……」

872終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:15:00 ID:w1hhOi020
 取っ手は四脚に支えられた台の上にあり、脚立か何かを使わなければ取り付くこともできそうになかった。
 脚から這い上がろうにも、表面は滑らかであり、ロッククライミングまがいのことも不可能そうだ。

「つまりだ、俺が上がろうと思えばお前ら二人で俺を肩車しろってことなんだが、できるかチビ」
「あー!? チビって言ったかこいつ! できねーよ! 悪かったなこんちくしょう!」
「お、落ち着いてください……わたしは恐らく大丈夫だとは思いますが」

 麻亜子はゆめみを睨んだ。スレンダーな体。けれども割と高い身長。その上力持ち。萌え要素のツインテール。

「完璧超人め! もげろ!」
「はい?」

 もげろの意味が分からなかったらしく、小首を傾げられる。しかもかわいい。

「ま、そういうことだ」

 ポン、と肩を叩かれる。高槻はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべていた。
 多少は溜飲を下げたのかもしれなかった。それはそれで何か苛立たしい気分ではあった。
 かといって男に肩車できるだけの膂力はなかった麻亜子に返しの一手が浮かぶはずもなく、先鋒を務めなければならない我が身に嘆息するしかなかった。
 キック力なら負けないのに。
 どこか言い訳のように心中で呟きながら、麻亜子は「分かった。行きゃあいいんでしょ」と承諾した。

「あ、スカートの中見るなら100円な」
「見ねえよ。そもそもスカートじゃないだろが」

 麻亜子は自分を確認してみた。体操着だった。すっかり忘れていた。おまけに普通のズボン。

「ちっ」
「露骨に舌打ちすんな。大体てめぇのような貧相なガキのパンツ一枚見たところで興奮しねえよ。中学生じゃねえんだ」

873終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:15:30 ID:w1hhOi020
 本当に興味なさそうに言っていたので、なにかますます悔しい気分になる。
 何が一番悔しいかというと、全く持って高槻の言ったことが全て真実であることだった。

「ふん。あたしでも需要はあるんだもんね」
「ロリコンはな、年齢もロリじゃねえと納得しないもんだ」
「あー!? あたしが年増だってか!」
「悔しかったら胸増やしてボインになってみろよバーカバーカ!」
「胸なんかいらんわっ! あんなもん年食ったら垂れて使いもんにならんもんねー! バーカ!」
「負け惜しみしてんじゃねえよ幼児体型!」
「んだとテンパのくせに!」
「ててててめぇ! せめてウェーブって言えこの野郎!」
「やーいやーい悔しかったらサラサラストレートにしてみろってんだ」
「ばっ、こういうのは個性っていうんだよ! 分からんのかこの低身長!」
「お二人とも、小学生のような喧嘩はやめてくださいっ!」

 珍しくゆめみが声を荒げたこともあったが、それ以上に小学生の喧嘩という指摘があまりにも的確だった。
 なんで張り合ってたんだろうと今更のように感じながら、同様の感想を抱いていたらしい高槻と一緒に大きくため息をついた。
 そのタイミングまで一緒だったので「けっ」と言ってやったが、全く同じタイミングで向こうも「けっ」と言っていた。

 なんなんだよ、これ。

 言い表しがたい気分を抱えながら、麻亜子は渋々といった感じで座り込んだ高槻の肩に乗り込む。
 更にその高槻をゆめみが下から肩車する。肩車の三段重ねだった。
 バランスが崩れるかと多少不安な気持ちだったが、予想外にしっかりと固定してくれていて、揺れることすらなかった。
 いかにもぶすっとしているのに、がっちりと足を掴んでくれている高槻の手が妙に頼れるものに思えてしまい、麻亜子は何か居心地の悪くなる気分だった。
 やるべきことをちゃんとやっていると言えばその通りなのだが、歯がゆいというのか、くすぐったくなるような気持ちだった。

874終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:15:52 ID:w1hhOi020
「おい、さっさと開けろって」

 考え事をしていたからなのか、目の前に取っ手があることにも気づけなかった。
 何やってんだろ、あたし。
 自分でも整理のつかない気持ちを抱えながら、それを少しでも晴らすべく麻亜子は話を振った。

「ねえ、あたし軽いでしょ」
「……そりゃな」

 流石に事実までは否定してこないようだった。

「胸があったら重かっただろうねー」
「代わりに下乳が俺の頭に触れるかもしれないってドリームがあるから問題ない」
「……あんたさ、意外にスケベな」
「セクハラ大魔王のお前にゃ言われたくないね」
「うっさいな」

 言いながら、麻亜子は少し吹き出してしまっていた。
 ああ、似ているのだ、自分達は。
 あまりにも似すぎているから戸惑ったのかもしれない。
 わけもない対抗心も、自分達が似ているからなのだろうか。

「んなこたどうでもいいからとっとと開けろよ」
「はいはい……ここか、せーのっ」

 意外に取っ手は重く、若干の反動がかかることは承知の上で両手で引っ張る。
 しばらく力を込めるとハッチは簡単に開いた。
 が、その瞬間目の前が揺れた。

875終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:16:18 ID:w1hhOi020
「うわわっ!? なになに!?」
「う、動き出しました!」
「何だと!?」


『侵入者を確認。これより対象の排除にかかります。セーフモード解除、Mk43L/e、シオマネキ、起動します』


 げっ、と麻亜子も高槻も、そしてゆめみでさえも漏らした。
 地震が起こったのではなく、目の前の『シオマネキ』が動き出したのだった。
 それも自分達をターゲットに、殲滅するように。
 開いたままのハッチから、僅かに操縦席が見えた。
 しかしそれは操縦席と呼べるようなものではなく、複雑に回線が絡み合った、一種のコンピュータのようであった。
 その配線群に紛れ込むようにして、いや配線に繋がれている、ひとつの影と目が合った。
 目は赤く、それでいて瞳の中には何も宿してはいなかった。
 この目を、自分は知っている。
 そう知覚したとき、目の下にある口腔が開き、一つの言葉を発した。

「あなたを、赦しましょう」

 ぐらりと麻亜子の体が揺れた。
 動き出したシオマネキから離れるべく、高槻とゆめみが自分を下ろしにかかったのだろう。
 ハッチの中はもう見えない。ただ――
 シオマネキも、アハトノインであるということが分かった。

     *     *     *

876終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:16:41 ID:w1hhOi020
十四時四分/高天原司令室

「ようこそ我が『高天原』へ。歓迎しますよ、ミス・ヴィクセン」
「歓迎会の迎えにしちゃ遅いんじゃないの? エスコートの下手な男は嫌われるわよ、ミスター・サリンジャー」

 それは失礼、と軽薄な笑みを作ったまま、デイビッド・サリンジャーは豪奢な作りの椅子に腰掛け、足を組んだ。
 敵が目の前にいるというのに、殺されるなどとは微塵も感じていない態度だった。
 武器も持っていないのに? この自信は背後に控えているアハトノインによるものなのだろうか。
 直接交戦したとはいえ、まだその真の性能を把握してはいない。この殺人ロボットに、果たして一対一で勝てるか。
 考えている間に口を開いたのはサリンジャーだった。

「いつまでもお互い口上を述べていても仕方がありません。早速本題に入るとしましょうか。私は意外とせっかちでしてね」
「あら。せっかちな男も女には逃げられやすいわよ」
「性分なんですよ。なにせ元がプログラマーですから。迅速に結果を出さなければいけない仕事も多かったんですよ」
「今はどうなのかしら」
「そうですねえ……神なんていかがですかね」

 ジョークにしてもいささかつまらなさ過ぎるとリサは返事を寄越すのも躊躇った。
 上がいなくなったからといって、神様気取りか。くだらない、たなぼた的に地位を獲得しただけではないか。
 当人は面白いとでも思っているのか、くくっと忍び笑いをしている。リサは想像していたよりずっと小さい男だと感想を結んだ。

 デイビッド・サリンジャー。篁の元に潜入していたときに、何度か出会ったことがある。
 機械工学部のチーフプログラマーであり、最新技術の研究をしていたと聞く。
 当時のリサはサリンジャーのことまで気にしている余裕はなく、せいぜいその程度の情報くらいしか知らなかった。
 まさか篁の側近クラスであり、ここまでの地位とは思わなかったが……
 しかし、アハトノインの性能を見る限りサリンジャーはプログラマーとしては一流だということは感じていた。
 その人間性はともかくとして、ロボットに殺人させるアルゴリズムを組み込める技術者をリサは知らない。可能であるとすれば姫百合珊瑚くらいのものだろう。
 だから篁に目をつけられた。己がためならどんな非道でもやってのける残虐な性格であるのは、ここまでの経過を見ても明らかだ。

「素晴らしいロボットね、貴方の『アハトノイン』は。戦闘できるロボットなんて初めて見たわ」
「そうでしょうそうでしょう! いやあ苦労したんですよ。何せオーダー元……篁総帥の仕様が無茶苦茶でしてね。頭を悩ませたものです」

 饒舌に話すサリンジャー。放っておくといつまでも喋りそうな勢いだった。
 会話するのも億劫になってきたリサはさっさと結論を引き出すべく、サリンジャーの口を遮って次の疑問を出した。

877終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:17:07 ID:w1hhOi020
「それで、このロボットを使って貴方は何をするつもりなのかしら」
「神の国の建設ですよ」

 また神か。いい加減うんざりしてきたので、露骨に呆れてみせた。
 まあまあとサリンジャーは猫なで声でなだめすかす。それがまたリサの心を刺激し、苛立たせた。
 この男、人をイラつかせるのだけは一人前なのかもしれないとリサは評価を改めた。マイナスの方向に。

「夢物語なんかじゃありませんよ。この高天原と私の忠実な下僕がいればね」
「ロボット軍団で世界征服でもしようっての?」
「その通り」

 大正解、とでも言いたげな表情だった。
 馬鹿じゃないのと言いたくもなったが、それすら呆れによって言い出す気力も失せた。
 まるでSF小説か映画の世界だ。一体何をどう考えればそのような発想に辿り着くのかと驚きさえ覚える。

「アハトノイン達の実力は皆さん確認済みでしょう? あれ、実は意外とリミッターかけてましてね。
 ここをなるべく傷つけさせないために銃の使用を控えるように言ってしまったんですよ。
 いやはや。流石に分が悪いかと思いましたが結構そうでもなかったようで。今二体破壊されてしまっているんですが、三人も殺せてるんですよ。
 上出来でしょう? 近接武器だけで強力な武器を持ったあなた方を三人。全力ならとっくに全員死んでますよ」

 テストで想像以上の点数を取れたことを自慢するようにサリンジャーは述べる。
 ここで見ていた。命を賭けて戦っていた皆の姿を実験する目でしか見ていない。
 その上、机上の空論だけで全員殺せるなどとのたまう姿に、流石のリサも怒りを覚え始めてきた。
 表情にもいつの間にか出てしまっていたらしく「おっと、怒らないでくださいよ」と全く悪びれてもいない声でサリンジャーに言われる。
 それがますますリサの怒りを逆撫でした。
 スッ、と胸の底が冷たくなり、殺意が鋭敏に研ぎ澄まされてゆく。
 こんなつまらない男の掌で転がされていたのかと思うと、情けないというより笑い出したい気分になる。
 仇などと言うのも惜しい。そうするだけの価値も意味もない。
 口に出して証明するまでもない。こんな男より柳川祐也や緒方英二、美坂栞の方が余程優れているし魅力的だった。
 だから負けるはずがない。こんな男に殺されるはずがない。
 リサは黙ってM4の銃口を持ち上げ、サリンジャーへと向けた。

878終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:17:52 ID:w1hhOi020
「まあ話は最後まで聞いてくださいよ。我ながら魅力的な提案だと思いますよ? ここから先の話は」

 椅子を横に回転させ、流し目でこちらを見ながらサリンジャーは言った。
 銃口を向けられているというのに、全く微動だにしていない。即座にアハトノインが守ってくれるという余裕があるからなのだろうか。
 それとも、本当に自分の話が魅力的だと思っているのか。
 どちらにしても思い上がりも甚だしい。
 見た目だけは二枚目なサリンジャーの細い顔を見ながら、リサは冷めたままの感情で続きを聞いた。

「高天原の設備、そして篁財閥の財力なら量産することも不可能ではない。それにこちらには核もある。
 つまり、我々は武力と経済力のどちらも握っているわけです。面白いゲームになると思いますよ?
 人間の軍隊が圧倒的な差で我が神の軍隊に敗れてゆく様はね。私達はここでその様を眺めていればいい」
「たかが核くらいで何をいい気になってるの? 撃つ設備も必要だし、何より撃ったところでアメリカを初めとした先進国には迎撃できるだけの力もある。
 撃ち返すことだってできる。いやそうするまでもないわ。撃った場所を確認して空爆すればそこで終わり。貴方の言う神の軍隊とやらには戦う必要もないのよ」
「それがそれが、話はそうじゃないんですよねえ」

 ここが肝心要というように、サリンジャーは愉快そうに笑う。
 対照的に眉を険しくしたリサに「いいですか、ポイントは二つあります」と先生が生徒に教える口調でサリンジャーが続ける。

「まず一つ。貴女の言う反撃は核を撃った場所が特定できなければならない」
「特定は容易よ。熱探知でどうにでも」
「その熱を全く使わない、つまり、推進力にエンジンを使わない核弾頭を撃てるとしたら?」
「は?」
「あるんですよ、こちらには。『シオマネキ』がね」
「『シオマネキ』ですって!?」

 その返答こそを待っていたかのようにサリンジャーは愉悦の笑みを漏らした。
 Mk43L/e、通称シオマネキ。世界初の自動砲撃戦車であり、四脚とローラーによる走行はどんな悪路をも走破し、
 回転式の砲座に設置されたレールキャノンで発見した対象を確実に破壊する。
 米軍で極秘裏に開発されていたのだが、肝心のAIの製作が滞り、現在は計画も凍結されていたはずだ。
 それ以前に四脚による走行すらも危うく、とても実戦に投入できるような代物でもなかった。

879終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:18:31 ID:w1hhOi020
「米軍が諦めてしまったのでね。こちらで研究を続けさせていただきました。中々興味深くて面白かったですよ?
 まあ話し始めると長くなるので、要点だけ話しましょう。我々は、『シオマネキ』のレールキャノンで核弾頭を撃てる。
 撃てるんですよ。探知も迎撃もできない核弾頭をね。文字通りのステルスだ。どうです面白いでしょう?」
「……」

 リサは何も言えなかった。正確には、探知することは不可能ではない。
 だが迎撃は難しい。サリンジャーの言う通り、シオマネキで狙撃することが可能なレベルのレールキャノンである場合、
 弾頭はとてもではないが迎撃はできない。最低でも、一発は核による砲撃を許すことになる。
 いやそれだってシオマネキが一体であるならばの話で、仮に量産されたとしたら……?

「更に言うなら、『シオマネキ』は量産する必要もないんですよ。貴女はこの島は固定だと思っているようですが、実はそうではない。
 移動可能なんですよ、この島は。動かしていないだけでね。エネルギーさえ確保できれば動かせますよ。今だって、何の問題もなくね」
「……つまり、探知しても正確な位置の割り出しは不可能」
「察しが良くて助かります。まあそれでも優秀な米軍あたりなら空爆だって仕掛けられるかもしれませんが、それも問題ないんですよ」
「まだ何かあるっていうの……!?」
「ええ。ですが、流石にここからは企業秘密に当たるので話せませんね。貴女が私の陣営に加わるなら話は別ですが」
「私を引き入れるって言うの……?」
「出自やこれまでの経緯はどうでも構いません。貴女は優秀だ。そこらへんのSPなどよりもはるかにね。
 どうです? 私の護衛になってみませんか? 待遇は望むようにしますが? ああ、他の参加者連中を逃してくれってのは出来ませんよ?」

 まるでリサが入ることは確定事項だとでもいうようにサリンジャーは聞いてもいないことを喋り続ける。
 は、とリサは嗤った。
 捕捉も迎撃も不可能な核。人間を凌駕するロボット兵器。まだ隠されているなにか――それがどうした?
 結局のところ、全て篁の遺産ではないか。他人の褌で相撲を取っているに過ぎない。
 この男自身の力は何もない。自らの力で何も成し遂げようとはせず、転がり込んできた玩具で遊ぼうとしているだけ。
 くだらない。そんなくだらない遊びに付き合うほど暇ではないし、魅力の欠片も感じない。
 プレゼンとしてもゼロ点以下だ。どんなつまらない話かと失笑を期待してみたが……それ以下だった。
 そして何より、自分を、リサ・ヴィクセンという女をコケにされたようで、気に入らなかった。

880終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:18:53 ID:w1hhOi020
 この私が? 地獄の雌狐と言われたこの私が、他人に尻尾を振るとでも思っていたのか?
 今ある未来から背き、泡沫でしかないものに身を委ねろという言葉に本気で従うと思っていたのか?
 そんな言葉で、私は動かされない。
 私が動かされるのは、いつだって生きている言葉、自分を生きさせてくれる言葉だ。

「――お断りよ。クソ野郎」

 今度こそ、何の感慨もなくリサはM4のトリガーを引き絞った。
 サリンジャーに殺到した5.56mmNATO弾は一言の命乞いも許さず、綺麗にサリンジャーの頭に風穴を開けるはずだった。

「それはそれは……残念です」
「……っ!?」

 だが、サリンジャーに弾丸は当たらなかった。否、見たものが正しければ、弾丸が逸れた。
 まるで当たることを拒否したかのように綺麗に逸れていったのだ。
 サリンジャーの傍らにいるアハトノインは寸分の動きも見せなかった。彼女が何かをしたというわけではない。
 けれどもサリンジャーが動いたわけでもなかった。これはどういうことなのか。

「特別ですから、企業秘密を教えて差し上げましょうか」

 表にこそ出していなかったものの、内心の動揺をあざとく感じ取ったらしいサリンジャーが冷笑を浮かべながら言った。
 自らが絶対有利だと安心する笑いであり、こちらを見下した笑い。
 優越感のみによって構成された彼の表情は、あまりにも似合いすぎていた。これが、奴の本性か。

「先程言いましたね、米軍の空爆ごときなんでもない、と」

 横を向いていたサリンジャーが再び正面に体を戻すと同時に、ポケットから長方形の、携帯電話サイズの物体を取り出した。
 あれがマジックの種だとでも言うのか? 疑問を抱いたリサに応えるようにサリンジャーは手で弄びながら続けた。

881終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:19:14 ID:w1hhOi020
「これがその答えです。総帥は『ラストリゾート』と言っていましたがね」
「……完成していたのね」
「おや存在だけは知ってたようですね。性能までは知らなかったみたいですが。そう、これが究極の盾。
 あらゆる銃撃、爆撃を無効化する夢のような兵器ですよ。どんな原理なのかは私も知らないんですがね。
 まるで魔法みたいでしょう? 今のテクノロジーを使えば、奇跡も幻想も作り出せる」

 サリンジャーは勝ち誇ったようにしながらも、「だが総帥は」と一転して吐き捨てるように言った。

「これだけの力がありながら、それを『根の国』だのとかいう訳の分からないところに攻め入るためだけに用いようとした……
 全く、宝の持ち腐れですよ。私のアハトノインもね。だから私が使うんですよ」
「貴方の自己顕示欲を満たすためだけに? はっ、どっちもどっちね」

 もう一発。射撃を試みたが、やはりサリンジャーには命中しない。
 どうやら常時発動型のシステムらしい。だがアハトノインが近くに控えている以上、接近不可能というわけでもなさそうだ。
 ――つまり。

「私の理論が正しいということを証明するだけですよ。間違っているのは私じゃない。世界だ」

 冷静を装って振舞っていながらも、その根底に卑小なものが潜んでいるのをリサは見逃さなかった。
 間違いを認めたくないだけの我侭な男だ。一度失敗したからといってやり直す気概も持てず、不貞腐れて漂っている間に玩具を拾っていい気になっているだけ。
 そこいらの高校生にも劣る小物でしかない。

「だから、貴方は負けるのよ!」

 リサは高速でサリンジャーに詰め寄った。『ラストリゾート』さえ奪ってしまえば恐れるに足りない。
 流石に意図を読み取ったらしいサリンジャーはアハトノインに「近づかせるな!」と盾にしたが、止められると思っていたのか。
 M4を構え、フルオートで射撃する。完全に接近戦の構えだったアハトノインは回避動作さえしなかった。
 だが。

882終点/あなたを想いたい:2010/08/27(金) 21:19:35 ID:w1hhOi020
「っ! こいつも……!」

 M4の弾が逸れる。避けられなかったのではない。避けなかったのだ。
 アハトノインも、『ラストリゾート』を装備している。
 グルカ刀を抜き放ったのを見たリサは一転して回避へと変じる。袈裟に切り下ろされるグルカ刀をかろうじて回避し、一旦距離を取る。

「危ない危ない……さて、ショーと参りましょうか。私のアハトノインと地獄の雌狐。どちらが強いかをね」

 悠然と座ったままのサリンジャーは、コロシアムの観客を気取っているようだった。
 なら、そこから引き摺り下ろしてやる。今すぐにだ。
 サバイバルナイフを取り出し、逆手に構える。対するアハトノインもグルカ刀を真っ直ぐに構えた。

883名無しさん:2010/08/27(金) 21:20:47 ID:w1hhOi020
ここまでが第一部となります

884終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:22:42 ID:w1hhOi020
十四時二十分/高天原格納庫

「ちょっちょっちょっとー! どうしてくれんのこれ!」
「うるせえ馬鹿! 言う前に考えろ!」
「お二人とも、言い争いは……!」

 四脚が振り回される。低いモーター音の唸りと共に迫る鉄棒を、三人は紙一重、しゃがんで回避する。
 鈍重そうな外見からは考えられないほど動きは俊敏で、逃げようとしてもすぐに回り込まれる。
 事実、先程の攻撃も髪を掠めていた。不味い、とほしのゆめみの頭脳は分析する。
 シオマネキの装甲はどれほどのものなのか、スペックは知りようもないが手持ちの携行武器だけで破壊できるはずがない。
 だからこそ高槻はシオマネキを奪おうとしたのだし、その発想は正しい。
 しかし、実際に動き出してしまった。どうすればいいのか。
 逃げるのが一番いい手段ではある。だが逃げられない。誰かが囮になってですら。
 シオマネキがバックし、前面にある二連装のチェンガンを傾ける。

「してる場合じゃないなっ!」

 発射される寸前、高槻の放ったM79の榴弾がシオマネキのチェンガン砲塔に命中し、爆炎を吹き上げる。
 代わりに補助装備と思われる側面の機関砲を移動しつつ斉射してきたが、急場しのぎの攻撃だったのか格納庫の壁に罅を入れただけに留まる。
 それを機に麻亜子が離れ、ゆめみもまた弾かれるようにして移動を開始した。
 一箇所に留まっていては的にされるだけだ。彼女はそう感じて行動したのに違いなかった。

「よし……装甲以外なら効く可能性がある!」

 ならば無力化することだって不可能ではない。ゆめみは忍者刀を手に突進する。
 素早く側面を向いたシオマネキが機関砲の掃射を開始したが、砲塔の旋回もできない固定砲台である側面砲を避けることは難しくない。
 動き自体は素早いが、大丈夫だとゆめみは判断した。
 四脚の足元まで辿り着く。即座に脚が振り回されたが、格闘AIに切り替わっているゆめみに見切れないはずはなかった。
 横に薙がれた脚をジャンプして回避し、そのまま主砲頭頂部へと飛び乗る。
 異変を察知して振り落とそうとしたが、しっかりと左手で機体を掴む。残った右手で忍者刀を逆手に持ち替えて突き刺してみたが、通るはずもなく弾き返される。
 やはり外部からの攻撃は不可能なようだ。ならば次の行動はと行動パターンの羅列を行おうと考えたとき、回り込んでいた麻亜子の声が聞こえた。

「ハッチ開けたときに見えたけど、あの中にアハトノインがいた! あいつがきっとこれ動かしてる!」
「了解しました!」

885終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:23:19 ID:w1hhOi020
 つまり、ハッチの内部に入ってアハトノインを倒す、もしくは彼女を繋いでいる回線を切ってしまえばいい。
 外殻が硬いならば、内側から切り崩せばいい。当たり前の戦術だったが、それこそが一番有効なのだとプログラムを通じてゆめみは理解していた。
 未だに振り落とされぬゆめみに苛立ったか、シオマネキが大きく上下に揺れ動く。落差の激しい動きに足がぐらついたものの、意地でもゆめみは手放さなかった。
 この機会を逃せば次はない可能性は高い。それは理由のひとつであったが、もっと大きな理由があった。
 失敗を繰り返したくはないから。
 沢渡真琴が命を落としたとき。小牧郁乃が岸田洋一に襲われたとき。ゆめみは何もできなかった。
 『お客様』の安全を守るはずの自分はどうしようもない無力を晒すばかりだった。
 戦闘向きではない。状況が悪かった。理屈をつけるならばいくらだってできた。
 けれどもそんな理由付けをしたところで命は帰ってこない。失われた生命の重さが軽くなるわけでもない。
 以前にそんな自分自身を『こわれている』とゆめみは評した。
 間違ってはいないのだろう。与えられた使命を遂行することもできず、何が正しかったのか、何が間違っていたのか、正確な答えも出せていない。
 ロボットにあるまじき、曖昧に答えを濁したままの自分は、きっとこわれている。
 だからこそ……今がこわれているからこそ、次は成功させなければならない。
 行うことを止めてしまったら、きっとそのまま、自分は何者でもありはしないまま瓦礫の山に埋もれてゆくのだろう。
 それは受け入れるべきではなかったから。今の自分がやりたいことは、人間の役に立つことなのだから。
 何があっても、ここでやり通さなければならない。

 シオマネキはしばらく暴れていたが、どうにも振り落とせないことが分かったらしく一旦上下の動きを停止した。
 行ける。ゆめみは動き出そうとしたが、今度は猛烈な勢いで前進を始めた。
 強烈な慣性がかかり、後ろへと押し流されそうになる。砲塔を掴んで再び張り付くことには成功したが、代わりに目に入ったのはターゲットにされた高槻の姿だった。
 殺害する対象を変更したのだ。理解したゆめみは狙いを変えようと自ら飛び降りようとしたが「やめろ!」という高槻の怒声に阻まれる。

「いいからそのままやれ! こっちは心配するなっ!」
「で、ですが……!」

 人間を助ける。それこそがゆめみの作られた目的であり、存在している理由。
 それをやめろと言われて、ならば自分はどうすればいいのか。
 加熱する思考回路は矛盾する状況に今にも焼き切れそうだったが、まだこわれるわけにはいかない。
 それが望まれていないと分かっていながら、ゆめみは高槻の援護に回る行動を選択しようとした。

「来るなって言ってんだ! 命令だ!」

 命令。その一語を捉えた耳が手放す寸前だった砲塔を掴ませる。
 高槻にそう言われれば、やるしかない。だがそれでは、人間を助けられるのか?
 再び迷いが生まれる。あるはずのない逡巡が起こる。まただ。いつも過ちを犯すときは、この迷いが生まれる。
 命令に従え。だがそれでやれるべきことを果たせるのか。命令。やるべきこと。わたしは、どちらを――

「いいから! アイツは心配しなくたって大丈夫! あたしらはゆめみさんを信じてるから!
 今なんとかできるのはゆめみさんだけなんだよっ! だからちっとは……自分を信じなよっ!」

886終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:23:48 ID:w1hhOi020
 思考に割って入ったのは麻亜子だった。シオマネキの背後に陣取った彼女はイングラムを構えていた。
 シオマネキの右部にあるレドーム目掛けて乱射する。レーダーの役割を果たしているそこは言わば目とも言うべき場所だった。
 生命線を狙撃され、火花を散らし、円形の盾のようにも見えるレドームがグラグラと揺れた。
 すぐさまバックして後ろの脚で麻亜子を蹴り飛ばす。ギリギリまで射撃していた麻亜子のイングラムが弾き飛ばされ、本人も余波を食らって大きく吹き飛ばされる。
 そのままローラーで押し潰そうとするのを、今度は高槻が遮った。
 最後の榴弾。脚を狙撃された脚部が榴弾の破片を貰い、ガリガリと不協和音を立て、次の瞬間にはローラーの一部が弾け飛んだ。
 バランスを崩し、傾くシオマネキ。ゆめみは必死に掴まりながら、彼らの言葉を聞いた。

「おい美味しいとこ持ってくんじゃねえよ! 俺が言おうと思ってたんだぞ!」
「へーん! 言ったもん勝ちだぞぅー! 悔しかったらもっといいタイミングで言ってみろよほれほれー!」
「お前ぇ! 後で殴る! 殴り倒す!」
「はっはっはー! ねえねえどんな気持ちー?」

 いつもの会話だった。死線の中にいるというのに、まるで彼らは変わらなかった。
 信じているとはこういうことなのだとゆめみは理解することにした。その場を全力で生きること。それが未来に繋がるのだと。
 何も諦めてなどいない。一挙手一投足を他人に預けつつも、やれることをやっている。

 なら、わたしもあの人達に倣えばいい。

 それで自らの目標が達成できると断じたゆめみはもう振り向かなかった。
 ハッチを目指す。その一念だけを胸に、ゆめみは僅かでも前に進めるように足を動かした。
 周囲からは二人の怒号、機関砲が掃射される音、四脚が大地を踏みしだく音が聞こえている。
 ゆめみ自身も必死にしがみついてじりじりとしか進めていない。動力を全開にしてこの程度なのだから、
 麻亜子が言った、「ゆめみにしか出来ない」という言葉は真実なのかもしれなかった。
 思う。考える。他人の期待を背負ったことは、初めてだった。
 自分ならばやりとげてくれるだろうという信頼。
 別に失敗しても代わりはいる、所詮は量産品でしかないという認識しかなかったゆめみには、現在も思考回路の中を巡っているこのデータの意味が分からなかった。
 この『気持ち』。やらなければいけないではなく、絶対にやってみせると言葉を書き換えているこの『気持ち』のデータは何なのだろう。
 知ったところで、ロボットでしかない自分が真の意味で理解できることはないのかもしれない。
 けれども、なればこそ、その意味を解き明かし、後世のロボット達に伝えてゆくのも自分達の役割ではないかとゆめみは感じた。
 それが責任。存在している者全てが背負う、責任という言葉の重さだった。

887終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:25:09 ID:w1hhOi020
「よし……!」

 ハッチは未だに開け放しになっている。侵入するのは容易い。
 一足で飛んで辿り着けるように脚部に力を込める。後はいつ飛ぶか。
 タイミングを窺っていたそのときだった。
 シオマネキ側面にあるレドームが、ギョロリとこちらを凝視したような気がした。
 まるで視線のように感じ、何かあるのかとゆめみは感じたが、それが既に遅かった。
 ひゅっ、と右腕を何かが駆け抜ける。痛覚を持たないゆめみは何があったのか理解できなかった。
 理解できたのは――ふと見た右腕が、丸ごとなくなっているのを見たときだった。

「えっ……?」

 呆気に取られた声を出すと同時に、またこれが起こりうると電子頭脳が咄嗟に答えを出し、体を反らさせていた。
 人間であればもう少し反応が遅れていただろう。体を捻った次の瞬間、ごうと唸りをあげてそれまでゆめみの頭があった場所を小型のワイヤーアンカーが通過していた。
 あれがゆめみの右腕を忍者刀ごと持っていったのだ。恐らく機体を固定するためのものを、攻撃に転化したのだろう。
 腕がなくなった異変を下の二人も察知したらしく、次々に声がかかった。

「ゆめみっ!」「ゆめみさん!」
「だ、大丈夫です、痛くはありませ……」

 応えようとしたとき、三発目のワイヤーアンカーが発射された。返事を已む無く中断し、回避しようとしたものの足場が不安定過ぎた。
 ずるっ、と足元が滑る。踏み外したと認識したと同時、ワイヤーアンカーがゆめみのいた場所を通過し、背後の壁へと刺さった。
 既に三つ刺さっている。引き抜かれる気配こそなかったものの、ゆめみの状況は最悪だった。
 片腕だけで機体の角に掴まっている状態でしかなく、さらに前後左右に激しく揺れるためいつ振り落とされてもおかしくなかった。
 ぐっ、とゆめみは歯を食いしばった。人間はこうすることで土壇場でも力を発揮できるのだという。
 まるで願掛けだった。しかし今はなんでもいい、ここから打開するためならどんなことでもしてみせなければならない。

「馬鹿! 気にしてる暇あったら……」

888終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:25:50 ID:w1hhOi020
 いつもの叱る高槻の声はそこで中断された。
 動きが鈍くなったのを敏感に察知したシオマネキが再び目標を切り替えたのだった。
 さらに運の悪いことに、高槻がいる位置は機関砲の真正面だった。
 高槻の声が、機関砲の掃射音に呑まれた。壁からもうもうと粉塵があがり、高槻の姿が見えなくなる。
 やられた、とゆめみは判断しかけたが、直後に聞こえたぴこぴこー! という鳴き声が粉塵を突っ切って飛び出してくる。
 ポテトだった。M79をくわえ、軽やかにシオマネキの背へと降り立つ。

「ゆめみ、プレゼントだ! 大事に使えよ!」

 生きていた。体中埃だらけで汚れながらも、しぶとく高槻は機関砲を避けきった。
 ボロボロになって倒れていたが、それでも生きている。
 はい、と答えようとした刹那、今度は四脚が振りかざされる。
 動けなくなったところをローラーで押し潰そうとしているのに違いなかった。

「そうはいかんざき!」

 麻亜子が体ごと飛び込み、高槻ごとごろごろと転がる。
 俊敏で目の広い麻亜子でなければ間に合わなかった。
 それでもギリギリでローラーが掠ったらしく、麻亜子の背中からは血の川が滲んでいた。

「ぴこっ!」

 指が引っ張られる。お返ししてやれ、と言ってくれている。
 散々いたぶったツケをお前が返せと、力強く引っ張ってくれている。
 ええ、とゆめみは応じた。

 わたしのお客様に手を出した代金は、しっかりと払っていただきます。

 一銭の釣りも残さない。綺麗に支払ってやる。
 体のばねを総動員し、腕の力一つでゆめみはシオマネキに復帰した。
 人間ならばよじ登らなければならない。だがゆめみは機械だ。こんなことくらい簡単にできなくてどうする。
 M79を拾い、そのまま空中へと跳躍。
 シオマネキ――いや、アハトノインの失敗は、自分をロボットではなく、人間と同じように認識してしまったことだ。

889終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:26:15 ID:w1hhOi020
 人間では為し得ないことだって……わたしには、できる!

 横飛びの体勢のまま、全く姿勢をブレさせることもなく……ゆめみは、M79から火炎弾を発射した。
 火炎弾が吸い込まれるようにハッチの中へと突入してゆく。
 着弾する寸前、信じられないというように目を見開いたアハトノインの姿を、ゆめみは見逃さなかった。
 哀れだとも、悲しいとも思わなかった。ロボットは所詮――ロボットでしかない。
 けれども……行為で感情を表すことも自分達にはできると、そう知っているゆめみは、別れの言葉を紡いだ。

「お待ちしております」

 爆発的に広がった炎の波に飲まれたアハトノインがどんな表情を浮かべたのかは、知ることができなかった。

     *     *     *

890終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:26:40 ID:w1hhOi020
十四時三十分/高天原格納庫

 内部から派手に炎を吹いたシオマネキとやらは脚をガクンと折ってそのまま動かなくなった。
 現在も煙がもうもうと上がり続けている。火災防止装置がそのうち作動するだろう。また濡れるのは面倒だな……
 今も俺の横でキュルキュルと唸りを上げて回転しているシオマネキのローラーとハッチを交互に眺めながら俺はそんなことを思っていた。
 結局奪い取ることはできないわ武器を使いまくるわで骨折り損のくたびれもうけだったような気がする。
 こんなのばっかだな。三歩進んで二歩下がるとかそんな感じだ。
 はぁ、と溜息をつく。疲れた。もう走りたくもない。
 でも立たなきゃいけないんだよな。かったるい。誰かどこでもドア持ってきてくれないもんかね。

「ご無事で何よりです」

 が、ひょっこりと現れたのは片腕がなくなったゆめみさんだった。
 ケーブルやら金属骨格やらが露出している姿を見るとやっぱロボットだなと思った。
 俺達なんかよりも遥かに優れている。羨ましいもんだ。

「そっちも無事……じゃ、ないな」
「修理が必要です」

 その割には全然何でもなさそうににっこりと笑う。可愛らしいが、どこか憎らしい微笑みだった。
 ボリボリと頭をかきつつ立ち上がる。その隣ではまだまーりゃんが寝ていた。こいつ。こんなときに寝てるんじゃねえよ。
 蹴っ飛ばしてやろうかと思ったが、身を挺して助けられた手前そんなことは出来ない。俺はこう見えても仁義に厚いのさ。
 別に驚いても嬉しくもない。本当だぞ?

「おい、起きろ」
「ん……くぅ……」

 軽く揺さぶってやると、まーりゃんは苦悶の表情を浮かべた。背中の血は止まっていない。
 あれだけでかいのにやられたんだ、物凄く痛いのには違いない。が、悠長に寝ている暇を与えるほど余裕はない。
 もうボロボロなんだ。ここらで俺達はスタコラサッサと逃げたいところだった。
 最低限の破壊活動はした、はず。
 もう一度叩いてやろうかと思ったところで、大きな地響きがしてここも激しく揺れやがった。
 しかも何かが崩れるような音もして、さらにヤバげなことに、俺達の近くでそれが起こったらしい。
 ガン、ガラガラという崩落の音が今も聞こえてくる。

891終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:27:04 ID:w1hhOi020
「今のは……」
「あまりここにもいられねぇな」

 そして、崩落が起こったらしい場所は俺達がやってきたルートにあったらしいということだ。
 ――つまり。

「あの、わたし、他の皆さんが心配ですので、少々様子を」
「その必要はない。行くな」
「ですが」
「言いたくないこと言わせるな。あいつらは、死んだ」

 そのつもりはなかったはずなのに、凄みを利かせた言葉にしてしまった。
 どうやら俺もあいつらは嫌いではなかったらしい。
 俺の言葉にゆめみは泣きそうな表情を浮かべ、ゆっくりと頭を下げた。

「……申し訳ありません」

 言葉の裏を読み取れない自分を恥じるように、ゆめみはしばらく頭を上げることもなかった。
 ロボットは、優秀だが、不完全だった。
 俺も言うまでもなく不完全だ。ひとつだって気の利いた言葉も出てこないしあいつらに向ける言葉だって浮かんでこない。
 頭で考えていることといえば、今この状況にどう対処するかということくらいだ。

 そうとも。俺達はこんなことしかできない。
 その都度その都度微妙に異なる道を選んでいるだけで全く新しい道を選ぶことなんて出来やしない。
 でも、そうして生きていくしかない。選んだ道の積み重ねがマシになってるはずだと信じて。
 今は生きることだけを考えろ。自分の目に見えるものを生かすことだけを考えろ。
 俺はもう一度まーりゃんの頭を叩いた。

892終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:27:26 ID:w1hhOi020
「起きろ。寝てる暇ねえぞ」
「無茶言わないでよ……結構痛かったんだぞ、アレ」
「自業自得だ」

 まーりゃんは一瞬色を失い、「そうかもね」と自虐的な笑みを浮かべた。
 それで俺は理解したのだが、過去に遡っての皮肉を言ったのだと思われたみたいだった。
 単にあのバカげた飛び込みに対して軽く言ったつもりだったのだが、自分で作ってしまった溝を放置した結果がこの有様だった。
 流石のゆめみも不安げな表情でこちらを凝視している。違うぞ。
 これこそ自業自得というやつだった。確かにまーりゃんは嫌いだ。だが憎いってわけじゃない。
 ……身を挺して守られて悪いなんて思えるわけがない。
 少なくとも、今の俺はここで何かを言葉にする必要があった。ほんの少しだけレールの向きを変える新しい言葉を。

「……でもな、お前を放っておくわけにもいかない」
「死なれると気分が悪いから?」
「違う。そこまで性根悪くねえよ」

 俺は倒れたままのまーりゃんに手を差し出したが、奴は遠慮するように手を引っ込めたままだった。
 こういう奴なんだと、今の俺は知っている。
 自分以外には積極的に動けるくせに、肝心な自分のこととなると臆病になっている。
 いや多分、奴と出会っていたときから俺はそれがわかっていたのだろう。
 奴にとっての親友を守ろうとした行動。全員のためにけじめを取った行動。
 ……傷ついてまで、俺を守ろうとした行動。
 羨ましかったのかもしれない。そして、理解したくなかったのかもしれない。
 何かから逃げるためだとしても、何かを誤魔化すためのものだったとしても。
 終始自分のことしか考えず、冷めた目でしか周囲を見てこれなかった俺自身が全く持ってないものを持っていたからだ。
 今は?
 理解した今、俺は自分と違い過ぎる奴にどうすればいいのか?
 決まっている。羨ましいなら……手に入れてしまえばいい。

893終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:27:57 ID:w1hhOi020
「お前が、必要なんだ」

 結局自分本位で動くことが根底に残っているのは変えようがない。
 だがそれがどうした。欲しいものを得るために他者と付き合うのだって悪くないはずだ。
 それも選択肢のひとつ。
 俺が手を取って無理矢理引っ張り上げてやると、しばらく面食らった顔をして俺を見ていたが、やがて照れ臭そうに顔を赤くして視線を逸らした。

「……別に、あたし一人で立てたよ」

 そうは言うものの、背中のダメージは思っている以上らしく一歩進むだけで痛そうな顔になっている。

「立てても歩けないようじゃな」
「うるっさいなー」
「ほれ」

 脇の下に頭を入れ、支えるようにして肩を組んでやる。
 小柄なまーりゃんの体の線はやっぱり細く、期待はずれもいいところだった。
 ちっ、もっとむっちりしとけってんだ。
 まーりゃんはしばらく複雑そうな顔をしていたが、俺が逃すはずもないので逃げられず、仕方なくという様子で合わせて歩き始めた。
 身長の違う奴に合わせて歩くのは中々難儀だったが、まあ出来なくもない。
 さてどこに向かったものかと考えていると、図ったかのようにポテトがぴこぴこと尻尾を揺らしていた。
 こっちに来いってか。
 手回しのいい犬だった。こいつとの腐れ縁もまだまだ続きそうだった。

「ゆめみ」
「はい」
「先にポテトと一緒に行って何か杖みたいなもの探して来い。少しは楽になるだろ」
「了解しました」

894終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:28:15 ID:w1hhOi020
 言うが早いか、ゆめみは片腕なのにバランスを全く崩さず小走りにポテトのところまで行く。
 その様子を見ながら、まーりゃんがはぁと溜息をついていた。

「なんかさー、あたし年寄り扱いされてない?」
「るせぇ、だったら歩いてみろドチビ」
「んだと天パのくせに」
「何だとコラ」
「やるかー?」

 ガルルル、と勝負の視線を絡ませたところで「お二人ともー、小学生の喧嘩はそこまでにしておいてくださいー」とゆめみが間延びした声で言っていた。
 今度は、二人分の溜息が出ていた。やれやれだ。

「行くか」
「そだね」

     *     *     *

895終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:28:41 ID:w1hhOi020
十四時二十分/高天原コントロールルーム

 一目見て、ことみはここだ、と直感した。
 ウォプタルから降りてコンソールを目指す。
 体中に巻いた包帯から鈍痛が走り、ことみの体を痛めたが動きが鈍るほどではない。
 コンソールは複数あり、たくさんの人員で動かしていたのだと窺い知ることができる。
 不思議なのはそのいずれもに電源がついたままだということだったが、構うことなくことみはコンソールを弄り始めた。
 罠だと思う。しかし罠だとしても、かかる前に逃げてしまえばいい。逃げるのは得意だ。
 片目が潰されているせいか、半分になってしまった視界では画面が見にくく、かなりの距離まで近づけなければ見ることすら覚束ない。
 単に疲労しているからかもしれない。想像以上の苦痛、想像以上の疲弊の中にいて、なお動けているのは極限状態での人間の生きようとする力そのものか。
 全く、この世の中は不思議で満ち溢れているとことみは思った。
 人殺しを強要された状況で人生の目的を見つけ出せたことも意外なら、巡り巡って両親の最後の言葉が聞けたことも意外。
 どちらも決して、自分が手に入れられないものだと思っていたのに。
 どんな苦境に立たされたとしても、生きてさえいればこんな偶然に巡り合うことだってできる。それを改めて実感させられた気分だった。

「ん〜……ここでもない」

 可能な限り早くキーボードを叩きながら、ことみはこの施設のマップを探していた。
 脱出路への近道さえ分かれば。通信機能と合わせれば皆を迅速にここから出させることができる。
 しかしシステムの構造はかなり複雑であり、しかもことごとく英字であったため、探すのも一手間だった。
 読むことが得意ではあったため詰まることはなかったのだが、何しろかなり独特の言葉が入り混じっていたため、いつもの感覚ではなかった。
 今まで紙の書面ばかり読んできたが、これからは電子書籍にも触れてみようと詮無いことを考えつつ、
 ツリー状に表示されたシステム構造のマッピングから怪しいものを手当たり次第にクリックしてゆく。
 と、画面上に表示された文字で目を引くものがあった。

「アハトノイン……の、AI?」

 遠隔操作で命令を伝えるシステムなのだろうか。今時はこんな技術もあるのかと関心しつつ、ことみは試しにこのシステムを実行してみることにした。
 仮に命令を操作できるなら、今戦っているアハトノインを全員無力化することだって可能なはず。
 多少計画から逸れてしまうが、ないよりあったほうがいい。よし、と気合いを入れ、システムへの潜入を試みる。
 しかしいきなり行く手を阻まれる。この手のシステムにはよくある、セキュリティ用のパスワードの入力画面だった。
 当然ことみがその内容を知るわけがない。だがこちらにだって心強い武器があるのだ。ぺろりと舌なめずりして、ことみはあるプログラムを呼び出した。
 それはここに突入する際、ワームを侵入させたと同時に組み込んだプログラム。姫百合珊瑚が作った即興のハックツールだった。
 流石に天才というべきなのか、ツールというだけあって操作は簡単でありシステムをそのまま放り込めば勝手に解析してくれるという優れものだった。
 ただし、莫大な計算を行うためなのかやたら重くなってしまうという欠点があり、解析中は他の動作が行えないという欠点があった。
 だがそれを差し引いても優秀な代物には違いない。例のシステムを放り込み、解析を待つ。その間に他のコンソールもちょこちょこと弄ることにした。

896終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:29:29 ID:w1hhOi020
「『ラストリゾート』? ……うーん、すごい。バリア展開装置なんてSFなの」

 次に見たコンソールはラストリゾートというバリアシステム専門のコンソールらしかった。
 詳しいことまではよく分からなかったものの、凄まじい演算速度を持つコンピュータである『チルシス・アマント』を使って力場を起こし、
 物理的障壁を起こすというものらしかった。物理好きなことみは心動かされるものがあったが、流石に紐解いている時間があるはずもない。
 ラストリゾートの起動には専用の装置が必要であり、かつここでないと使用が不可能とあったので、こちら側で使うことは不可能だろう。
 とはいえ、これも止めておいて損はない。ことみはこのシステムも呼び出そうとして、またもやパスワードに阻まれる。

「……えいっ」

 ツールに放り込んで、結果を待つ。なんとも機械任せだと嘆息するが、自分は天才ハッカーでもなんでもないし、このくらいが関の山なのだろう。
 椅子に腰掛けて一息つく。こういう時間がもどかしい。ただ待つだけの時間にも、そろそろうんざりしてきた。
 昔はそうでもなかったのだが。堪え性がなくなったのだろうかとことみは考えた。
 いや違う。待つことがつまらないのではなく、行動している楽しさを知ったからなのだろう。
 少ない時間だったとはいえ、自由に行動し、様々な言葉を交わすことのできた学校でのひと時は楽しかった。
 一人で篭っているよりも、ずっと。
 比較する対象ができてしまえばそんなものだった。今は、知ることも遊ぶことも大事だと思っている。
 そういえば趣味の一つも持っていなかった我が身を自覚して、帰ったら何か始めてみようとことみは思った。
 何がいいだろうか。パッとは思いつかない。音楽もやってはいたが、習い事であったし何か違うと思っていた。
 そうだ、確か家の周りが荒れ放題になっていたから、まずはそこを綺麗にしてみよう。
 趣味とは言いがたいが、まあ園芸でも好きになれるかもしれない。長い人生だ、色々試してみるのも悪くはない――

「……!」

 様々に思いを巡らせかけたとき、視界の上の方で移るモニタにあるものが映ったのをことみは見逃さなかった。
 こちらへと向かって歩いてくる一団。人数は五、六人くらいだろうか。
 いやそんなことはどうでもよかった。ことみは部屋の外に待機していたウォプタルを呼び寄せようとして、それが遅きに過ぎたことを目撃して実感した。
 悲鳴のような鳴き声を上げ、ウォプタルが首をかき切られて倒れた。思わず立ち上がり、ことみは先程の一団が部屋に侵入してくるのを眺める。
 アハトノインだった。それぞれにグルカ刀を持ち、のろのろとこちらに向かって歩いてくる。
 以前目撃したものとタイプは同じなのだろうか。だとしたら命はない。コンソールを見るが、アハトノインのAI管理画面はまだ出てこない。

897終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:29:51 ID:w1hhOi020
 遅かったか。後悔するより先に、ことみはM700を構えて撃った。
 先頭を歩いていたアハトノインの胸部に直撃し、倒れる。起き上がってくるかと思ったが、そのまま動くことはなかった。
 他のアハトノイン達も行動を変えることもなく、そのまま前進するだけだった。
 いける……? 恐慌しかけている精神を必死で抑えつつ、ことみはさらに射撃してみた。
 もう一体、倒れる。起き上がることはない。自分ひとりでも十分対処可能だと判断したことみは間髪入れず射撃を続けた。
 二体、三体。倒しても倒しても残ったアハトノインが前進を続けてくる。
 一歩近づかれるたびに鈍く光るグルカ刀に怖気を感じるが、逃げも隠れもできない以上やるしかない。
 やれやれ、と思う。熱中しすぎて機会を逃してしまうのもいつもと変わりない。
 追い詰められてはいても、寧ろ平時以上にどこか冷静になっている部分は聖から受け継いだのかもしれない。
 今までの自分なら、怯えてロクに銃も握れなかっただろうから。
 五体目を倒す。銃を撃ち続けたせいかズキリと肩が痛んだ。まだだ。まだ一体残っている。
 渋面を作りながらもしっかりと最後の一体をポイントした。距離はある。十分すぎるほど間に合うと断じて、ことみはトリガーを引いた。

「あ、れ……?」

 だが、弾丸が出なかった。弾切れと判断した瞬間、アハトノインがグルカ刀を振りかぶった。
 あの距離から!?
 半ば恐慌状態に陥りつつも、ことみは少しでも逃れるように、コンソールに背中を思い切り押し付けた。
 ぶん、と刀が縦に振られた。銀色の線を引いたグルカ刀はことみの膝をギリギリで掠め、空を切った。
 想像以上の射程だったことにヒヤリとしつつコンソールから離れる。何か音を発していたような気がしたが構っている暇はなかった。
 懐からベレッタM92を取り出し、発砲する。
 しかし先のM700と違い、きちんと狙いをつけていなかったためか連射しても全弾外してしまった。
 しっかりしろと自分に叫びながら今度こそしっかりと狙いをつけようとして……アハトノインが突きの構えを取ったのを見た。
 もう攻撃することも忘れ、遮二無二後ろに下がる。今度は肩を刀が抉る。チリッとした熱さが肩を巡り、ことみは「ぐうっ!」と短い悲鳴を上げた。
 そのままよろけ、後ろに下がる。雑魚相手にこの様か。悔しさを覚えながらも痛さでそれ以上何も考えられず、ただ下がるしかなかった。
 ぶんと再度刀が振られ、次は伸ばしたままの腕を切られる。包帯がはらりと解け、切られた部分が赤く染まる。
 せっかく治療したのに。焼け付く痛みを必死で我慢しながら後退しようとしたが、どんと何かにぶつかる。壁だった。

898終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:30:10 ID:w1hhOi020
 もう逃げ場はない。
 正面を見ると、無表情にこちらを凝視し、グルカ刀を真っ直ぐに構えたアハトノインがいた。
 殺してやるという意志もなく、ただ作業のひとつとして人間を殺そうとしている。
 それを理解した瞬間、ことみの中で俄かに熱が湧き上がり、全身を巡る血を滾らせ、痛みを吹き飛ばした。

 物みたいに殺されてたまるか。そんな人間らしくない死に方なんて、私は絶対に認めない。

 決死の形相を作り、ことみは攻撃されるのも構わずベレッタM92を向けた。
 同時にアハトノインも腕を引いた。突きだろう。そして自分の攻撃が間に合う間に合わないに関わらず、確実にそれは到達する。
 構うものか。僅かに生じた恐れさえ、自らに内在する熱情に押し流されすぐに姿を消した。
 後悔はない。自分で選んだ選択肢なのだから……!
 力の限りベレッタM92を連射すると同時、アハトノインの腕がばね仕掛けのように動いた。

     *     *     *

899終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:31:43 ID:w1hhOi020
十四時二十七分/高天原司令室

 高速で振り回されたグルカ刀を弾き、そのまま懐に飛び込む形で体当たりする。
 しかし思いの外アハトノインの体は重たく想定のダメージすら与えられていないようだった。
 僅かに身じろぎしただけで、今度はアハトノインの肘が振り落とされる。
 舌打ちしつつ捌き、ついでにと一発蹴りを放つ。
 アハトノインは上体を器用に反らして横に回避。そのまま移動しつつ斬りつけようとしたが、
 サバイバルナイフでガードし間一髪で防ぐ。防御できなければそのままリサの首を吹き飛ばしていたであろうグルカ刀とリサのナイフがせめぎ合う。
 重量があり刀身も長いグルカ刀とあくまでも小型のナイフでしかないサバイバルナイフとでは分が悪いことは承知している。
 刀身を少しずらし、滑らせるようにしてグルカ刀にかかっていた力を受け流す。前のめりに注力していたアハトノインは抗する力がなくなった分前へと動き、
 その隙を突いてリサが再び距離を取る。先程からこれの繰り返し。一進一退と言えば聞こえはいいが、実際はこちらがどうにか防いでいる状況でしかなかった。

 一撃として有効なダメージが与えられていない。やはり格闘戦では向こうに分があるということなのだろうか。
 一瞬でも気を抜けばあっという間に距離を詰めてくる瞬発力。的確にこちらの急所を攻撃してくる精度。こちらの攻撃をあっさりと回避する運動能力。
 正しく全てが一流の動きだった。タイマンというシチュエーションならば那須宗一でも互角とはいかないだろう。
 以前あっさりと倒せたのは不意打ちや精度の高い射撃を駆使していたからか。
 アハトノインを冷静に分析しつつも、リサは安全なところに退避もせずに戦いを眺めているサリンジャーの方に目を移した。
 自分が殺されるなどとは微塵も思っていない傲慢が冷笑を含んだ目とふんぞり返った姿からも分かる。
 実に気に入らない。その気になれば手を出せる距離なのに、サリンジャーに狙いを変えた瞬間アハトノインが割り込んでくる。
 恐らく最優先で守るべき対象に設定しているのだろう。せめてラストリゾートさえ無効化できれば手の打ちようはあるのだが。
 接近しての格闘では絶対にアハトノインには敵わない。それはれっきとした事実だ。
 それを踏まえ、なお勝つためにはどうすればいいか。
 最善の手段を模索し、リサは腰を落としながらアハトノインにじりじりと近づく。

「期待外れですねぇ、リサ=ヴィクセン。そんなものですか、地獄の雌狐の実力は」
「……まだ体が暖まってないだけよ」
「そうですかそうですか。それではもう少し遊んで差し上げろ」

 サリンジャーが顎で指示すると、アハトノインが少しだけ踵を浮かせた。
 飛ぶつもりか? そう考えたとき、ガシャンという音と共にローラーが足の裏から飛び出した。

「面白い玩具ね……!」

900終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:32:06 ID:w1hhOi020
 挑発の言葉を投げかけられるのはそれが精一杯だった。
 脚部の動力をそのまま使用して回転させているらしいローラーが唸りを上げる。
 まるでローラースケートを履いているかのようなアハトノインは、しかしそんなものとは比較にならないスピードで接近してきた。
 すれ違い様に斬りつけられる。分かりやすい動きだったために剣筋を見切るのは容易いことだったが、パワーが今までの比ではなかった。
 加速力を上乗せされたグルカ刀による一撃はナイフで受け止めようとしたリサの体をあっさりと吹き飛ばした。
 無様に転ぶことこそなかったものの、腕にはじんとした痺れが残り、筋肉が悲鳴を上げている。
 すれ違った後、アハトノインはローラーを器用に使って品定めでもするようにリサの周りを旋回している。
 爪を噛みたい気分だった。代わりに顔を渋面に変え、次の攻撃に備える。
 備えきったのを待っていたかのように、アハトノインが角度を急激に変え再接近してくる。
 加えて更に急加速をしていた。次も今までの速度と同じならと甘い期待をしていたリサは対応が間に合わなかった。
 脇腹をグルカ刀が擦過し、焼けた棒を押し付けられたような痛みが走る。
 僅かにたたらを踏んだリサに畳み掛けるように、通り抜けたはずのアハトノインがUターンして迫っていた。
 息つく暇のない連続攻撃。完全に体勢を立て直すこともままならないまま、リサは攻撃を受け続ける。
 顔を、腕を、肩を、足を、上体を、腰を、あらゆる体の部分をグルカ刀が抉る。
 リサだからこそギリギリで致命傷は免れていたものの、傷の総量は無視できないレベルにまで達していた。
 次の突撃が迫る。攻撃は直線的ゆえ、読めればかわせないものではなかった。剣筋を判断し、横に避けつつナイフで軌道を逸らす。
 そうして攻撃を回避し続けてきたが、先に限界がきたのはナイフの方だった。
 グルカ刀と触れ合った瞬間、ナイフに罅が入り刀身の一部がぱらりと落ちた。
 もう受け止めきれない……! く、と歯噛みするリサに、目ざとく感じ取ったらしいサリンジャーが哄笑する。

「おや、もう終わりですか? 私のアハトノインはまだまだ行けますよ?」
「黙りなさい……!」
「なんでしたら武器をくれてやってもいいんですよ? なに、ちょっとした余興ですよ」

 明らかにこちらを見下し、支配しようとしている男の姿だった。
 少しずつ痛めつけては僅かに妥協を仄めかし、そうして人を諦めの境地に誘ってゆく。
 つまるところ、この男は自分と同等の人間にさせたいだけなのだろう。
 自らは決して劣等ではない。それを証明するために、他者も同じ劣等の格まで下げてしまえばいいと断じているのがサリンジャーなのだろう。
 全員が卑屈になってしまえば、恐れるものはない。全員が同じなら、優れているのは自分なのだ、と。
 柳川と相対したときのような人間の闇、虚無を感じる一方で、柳川ほどの恐ろしさも価値もないとリサは感じていた。

901終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:32:31 ID:w1hhOi020
 サリンジャーの発する言葉には何も重みも圧力もない。人を殺しきるだけの力もない。
 当然だ。誰かの尻馬に乗り、好機と判断すれば裏切り、より力のある方に付いているだけの人間は、結局支配されているのと何も変わりない。
 それでいて自らの弱みを隠しもせず、寧ろ他者に受け入れてくれとだだをこねているような態度を、誰が恐れるものか。
 私が積み上げてきたものはこの程度のものに屈しない。
 リサは無言でサリンジャーを見つめた。もはや怒りも哀れみの感情もなく、ただの敵、つまらないだけの敵として冷めた感情で見ることができていた。
 サリンジャーは気に入らないというように露骨に表情を変え、負け惜しみするように言った。

「死を選ぶとは、つまらないことをする……やれ」

 アハトノインが自身を急回転させ、こちらに方向を変じて突進してくる。
 まだ行ける。今の自分の感情なら、どんな状況だって冷静に見据えることができるはずだ……!
 ナイフを構え直したその瞬間。
 ぐらりと地面が揺れる。
 眩暈や立ちくらみなどではなかった。まるで突発的な地震でも起こったかのように地面が揺れていた。
 急な振動に対応できずにアハトノインがバランスを崩し、コースから逸れた。
 千載一遇の好機と瞬時に判断し、リサがアハトノインの元へと駆ける。
 距離は少しあった。およそ十メートル前後というところか。アハトノインが起き上がるのに一秒。こちらに追いつくまで数秒。
 十分だ。リサは僅かに笑みの形を作り、しかしすぐに裂帛の気合いを声にしていた。

「何をしてる! 私を守れっ!」

 背後に動く気配はない。既に起き上がっているはずのアハトノインは、なぜか微塵も動く気配を見せていなかった。
 何かが違う。異変が起こっていると感じたのはリサだけで、単に動きが鈍いと思っているだけのサリンジャーはヒステリックな声を張り上げるだけだった。

「く、くそっ! 役たたずめ!」

902終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:33:01 ID:w1hhOi020
 それまでの余裕が嘘のように恐慌そのものの表情を作り、椅子を倒しつつサリンジャーが逃げ出す。
 所詮は元プログラマー。加えて丸腰の人間にリサが負ける道理はなかった。
 サリンジャーは必死に、部屋の奥にある扉を目指す。距離は殆どなかった。恐らく、万が一のために逃げやすい位置に陣取っていたのだろう。
 そう考えると最初から余裕などなかったのだと思うことができ、リサは冷静にM4を取り出して構えることができた。
 扉を潰す。取っ手を破壊してしまえば逃げられない。
 扉の取っ手は小さく、距離は七、八メートル。フルオートにすればいける。
 レバーを変え、フルオートにしたのを確認した後、トリガーに手をかける。
 だが危機察知能力だけは優秀らしいサリンジャーが気付き、意図を読んだようだった。

「ら、ラストリゾートを最大出力に……!」

 既に指は装置に届いていた。間に合うか、と感じたもののトリガーに指はかかっていた。
 ラストリゾートが発動している今、サリンジャーの目論見どおりに弾は逸れ、弾丸は全て外れるはずだった。

「……な……?」

 だが、弾は逸れることはなく、取っ手に当たることもなく……綺麗に、サリンジャーの背中を捉えていた。
 サリンジャーの背中を狙ったものではなかったのに。
 ぐらりと倒れるサリンジャーの手から、ラストリゾートが離れる。
 血は出ていないことから、中に最新鋭の防弾スーツでも着込んでいたのかもしれない。
 ともあれ、最後の楽園から追放された男の哀れな姿がそこにあった。

「ば、馬鹿な……なぜ収束している……く、くそ……故障か……」

 恐らく、違うだろうとリサは感じた。
 アハトノインがまだ動かないこと。そして不可解なラストリゾートの動作。
 考えられる可能性は一つしかない。誰かが操作系統を弄ったのだ。
 誰がやったのかは分からないし、検討もつかなかったが、感謝するのは後だった。
 ラストリゾートが使えない今、サリンジャーを倒すのは今しかない――!
 M4を向けたリサに、ギロリと凝視していたサリンジャーと目が合った。

903終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:33:55 ID:w1hhOi020
『ここで死ぬわけにはいかないんだよ、猿がっ……!』

 いきなり発されたドイツ語。その意味を理解しようと一瞬空白になったその間。
 隙を見逃さず、サリンジャーは懐からスタン・グレネードを取り出し、爆発させた。
 凄まじい閃光と爆発。訓練を受けていたリサは気絶こそしなかったものの一時的に視覚と聴覚を奪われる。
 真っ白になった感覚の中で、リサは己にも聞こえないサリンジャーの名前を叫んだ。

     *     *     *

904終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:34:20 ID:w1hhOi020
十四時三十分/高天原コントロールルーム

 アハトノインは、石像のようになったままピクリとも動くことはなかった。
 綺麗に。芸術的に。そして奇跡的に。
 彼女の突き出したグルカ刀は――刃先の、その先端がことみの右胸に触れる形で停止していた。
 もう一秒でも遅ければ胸を深く貫いたグルカ刀はことみの心臓を破壊し、生命を奪っていたのだろう。
 突きつけたままのベレッタM92を未だに下ろせず、ことみは慣れようのない緊張と生きていることの驚きを実感していた。
 疲れてもいないのに息が荒い。体が苦しい。だがその苦痛がたまらなく嬉しいのだった。
 なぜ止まったのかは分からない。額に穴を開けたまま、茫漠とした瞳で、何も捉えることのない金髪の修道女は答えを教えてはくれないのだろう。
 必ず相打ちだろうと予測していたのに。まるで壁にでも突き当たったようにアハトノインはその動きを止めている。
 何かが起こったことは明らかだったのだが、アハトノインそのものが物言わぬ骸になってしまったため調べようもない。
 ベレッタM92を撃った前後で激しい地震のようなものも感じたが、それが原因なのだろうか。

 ともかく、今言えることは刃先を突き付けられたままでは心臓に悪いということだった。
 修道女の体を蹴り倒し、壁際から脱出する。どうと音を立てて倒れたアハトノインは奇妙なことに、死後硬直にでもなったかのように全く体勢を変えていなかった。
 機能を停止した彼女は最後に何を感じていたのか。それとも何も感じていなかったのか。
 見下ろした視線に一つの感慨を浮かべたが、すぐにそれも次の行うべきことの前に霞み、頭の片隅に留まる程度になった。
 生きているのならば、まだやることがある。
 コンソールに取り付き、作業の続きを行おうとしたところで、ことみは全ての真相を知った。

「……偶然って、怖いの」

 画面の中ではアハトノインの機能を停止させ、然る後に再起動する命令が実行されていた。
 グルカ刀を振られ、コンソールに倒れこんでしまったはずみで起動していたのだろう。
 悪運と言うべきなのか、それとも運命の悪戯と表現するべきなのか。
 少し考えて、ことみはくすっと微笑を漏らしてからこう表現することにした。

「運も実力のうち」

 隣のラストリゾート管理装置も時を同じくして起動していたらしい。
 効果の程は定かではないが、とりあえず『拡散』から『収束』にモードを変えておく。
 ラストリゾートが物理的に攻撃を遮断する仕組みは力場によって力の向き、つまりベクトルを外側にずらすことによって擬似的なバリアを張るといったものだった。
 そこでベクトルのずらす向きを外側ではなく内側へと変更した。攻撃が集まるということだ。
 実際ラストリゾートが起動しているかすら分かってはいないのだが……

905終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:34:43 ID:w1hhOi020
 とりあえず、やれることはここまでだ。後は何とかしてここから逃げ出すだけ。
 ことみは物言わぬ骸となってしまったウォプタルの遺骸を寂寥を含んだ目で眺めた。
 正体不明で、どんな動物なのかも分からなかった。最後の最後まで、人間に従って死を受け入れていった動物。
 血を流し、ぐったりとして動かないウォプタルは役割を終えて眠りについているようにも見えた。
 もしかすると、この動物はここで生み出され、殺し合いゲームのためだけに作られたのかもしれないと訳もなくことみは感じた。
 確証があったわけではないし、ただの勘でしかなかったが、あまりにも大人し過ぎた死に様がそう思わせたのだった。
 さよなら、と心の中で呟いてからことみは部屋を抜け出した。

 ここまで運んでくれてありがとう。
 後は――自分の足で、歩く。

 以外に体は軽かった。血を流して、血液が足りていないのかもしれない。
 どちらでも良かった。今はただ、自分を信じて足を動かすだけだ。
 小走りではあったが、ことみの足はしっかりと動き前を目指していた。
 途中で包帯を直していないことにも気付いたが、この動いている体を感じているとどうでもいいと思い直し、
 赤くなった包帯をはためかせながら走ることを続行した。
 そういえば、と包帯を見ながら、タスキリレーに似ているとことみはぼんやりと思った。
 何を繋ぐためのリレーなのかは、分からなかったが。

     *     *     *

906終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:35:25 ID:w1hhOi020
十四時三十二分/高天原

『クソッ、クソックソッ! 猿どもめ!』

 口汚く己を脅かす者共を罵りながら、サリンジャーは対人機甲兵器がある格納庫へと足を運んでいた。
 何故こうまで上手くいかない。こちらの勝利は完璧だったはずではないのか。
 怒りの形相を浮かび上がらせるサリンジャーの頭の中には何が失策だったのかと反省する色は見えず、役立たずと化したアハトノイン達に対する不満しかなかった。
 AIは完璧だった。搭載したシステムも同じく。ならばハードそのものが悪かったとしか考えられない。
 予算さえケチっていなければこうはならなかったものを。
 少し前までは真反対の、賞賛する言葉しかかけていなかったはずのサリンジャーは、今は機体の側に文句をつけ始めていた。

『復讐してやる……猿どもめ、今に見ていろ……』

 呪詛の言葉を吐きながら、サリンジャーはカードキーをリーダーに押し付け、続けて暗証番号を入力する。
 パワードスーツとも言うべき特殊装備が配備された格納庫。軍人でなくとも楽に扱え、
 それでいてHEAT装甲による通常兵器の殆どを無力化する防御力となだらかな動作性による運動力。
 単純な戦闘能力ではアハトノインを遥かに凌駕するあの兵器で全員抹殺してやる。
 サリンジャーは逃げることなどとうに考えず、自分を辱めた連中に対する報復しか考えていなかった。
 そうしなければ自分はこれから先、ずっと敗北者でしかいられなくなってしまう。
 理論を否定され、機体を破壊され、それどころか受け継いだ篁財閥の力すら扱えずに逃げるというのは到底許しがたいことだった。

 所詮負け犬などその程度。

 いないはずの篁総帥や醍醐にせせら笑われているような気がして、サリンジャーはふざけるなと反駁した。
 今回は違う。ここにあるアレはハード面から設計を担当しているし、機能までも完全に把握済みだ。
 下手な軍人よりも遥かに上手に使いこなせる自信がある。
 結局のところ、最後に信用できるのは自分だけか――他者に僅かでも任せた部分のあるアハトノインを信用していたことを恥じつつ、暗証番号の入力を完了する。

『ちっ、網膜照合もあるのか……急いでるんだよ私はっ!』

 電子音声による案内すら今の自分を阻害しているようにしか感じない。
 苛々しつつ目を開いて照合させると、ピッと解錠された音が聞こえ、格納庫へと通じるドアが開いた。
 確認した瞬間、サリンジャーの手元で火花が散った。続いてバチバチとショートした音を立てるキーロックが、敵が来たことを知らせていた。

「サリンジャー!」

907終点/《Mk43L/e》:2010/08/27(金) 21:35:51 ID:w1hhOi020
 リサ=ヴィクセンだった。早過ぎる。閃光手榴弾まで放ったのにもう追いついてきたことに怖気を覚えながらも、サリンジャーは格納庫へと逃げ込む。
 ちらりと確認したが距離はまだ十分ある。そもそも距離が近ければリサが外す道理もない。
 立方体のような形状の格納庫の奥では、神殿にある石像のように安置された人型の物体があった。
 静かに佇み、暗視装置のついた緑色の眼でサリンジャーを見下ろしている。まるで来るのを待っていたかのように。
 やはり最後に信用できるのは自分だけだ。屈折した笑みを浮かべながら、サリンジャーは乗り込むべく像の足元まで走った。
 直後、リサ=ヴィクセンが格納庫に侵入してくる。扉が開いたままだったのはキーロックが破壊されたからなのだろう。
 だがもうそんなことも関係ない。パネルを動かし、コクピットを下ろす。
 股間、いや正確には胸部から降りてきたコクピットにはマニピュレーター操作用のリモコンと脚部操作用のフットペダルがある。
 試験動作は完了していた。サリンジャー自身でやっていたので今度こそ故障はない。
 一旦中に入ってしまえば外と内の分厚い二重装甲が自分を守ってくれる。
 さらにパイロットを暑さから守るための冷却装置も搭載しているため、たとえ蒸し風呂にされようがこちらは平気だ。
 再三安全を確認したところで、リサ=ヴィクセンの追い縋る声が聞こえた。

「逃げても無駄よ……! 貴方はここで終わり!」
「死ぬのは貴女達ですよ。私に逆らったことを後悔させてあげますよ! 貴女が大切にしようとしていたミサカシオリのようにね!」

 ふんと笑ってみせると、リサ=ヴィクセンの目から冷たいものが走った。完全に殺す目だ。
 関係ない。精々追い詰めた気になっているがいい。コクピットに乗り込みパネルを操作すると、一時視界が闇に閉ざされた。
 完全密閉型になっているためだ。だが機械により外部カメラで外界は捉えることはできるし、オールビューモニターという優れものだ。
 電源が入り、内部が徐々に明るくなってゆく。ぶん、と特有のエンジン起動音を響かせるのを聞きつつ、サリンジャーは操縦桿を握り初動へと入った。
 オールビューモニターが表示され、M4を構えているリサ=ヴィクセンの姿が目に入る。
 見下ろした自分と、見上げるリサ。やはりこの位置こそが相応しい。そう、自分は誰よりも優れていなければならないのだとサリンジャーは繰り返した。
 そうしなければ負け続ける。他者を常に下し、見下ろさない限りずっと惨めなままだ。

 出来損ないのお坊ちゃん野郎。サリンジャー家の面汚し。
 他のエリート達よりも格下のハイスクールに行かざるを得なくなったとき。プログラマーという職業に就くことになったとき。
 いつも周囲の目は自分を見下していた。内容に関わらず、勝負に負けた自分を慰めもしてくれなかった。
 世界はそういうものだとサリンジャーは悟った。誰かを踏み台にしなければ生きてゆくこともできない。
 長い間待った機会だった。負け続けることを強いられ、見下されることを常としてきた自分がようやく得た千載一遇の機会。
 それも、自分以外の全てを見下せるようになるという機会だ。
 こんなところで失ってたまるか。勝つのはどちらであるかということを教えてやる。

「見せてあげますよ。これが私の鎧、『アベル・カムル』だ!」

 格納庫に、獣のような咆哮が響き渡った。

908名無しさん:2010/08/27(金) 21:36:54 ID:w1hhOi020
ここまでが第二部となります。
少し休憩を挟みます。21:40からまた再開します

909名無しさん:2010/08/27(金) 21:45:30 ID:mmcxYldQ0
test

910名無しさん:2010/08/27(金) 21:52:20 ID:mmcxYldQ0
続きは新スレッドで!

ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/7996/1282913075/

911管理人★:2010/08/28(土) 00:28:50 ID:???0
容量の肥大化に伴い、新スレッドに移行いたします。
以降の作品は上記スレッドへの投下をお願いいたします。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板