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本迹関連の部屋
1
:
美髯公
:2009/07/18(土) 14:25:22
「本迹」と一応銘を打ちましたが、「本迹」に限らず「教義一般」も
こちらで、お願いいたします。
話が入り組んでくれば、その時は分割も考えますのでm(__)m
2
:
沖浦 克治
:2009/07/18(土) 14:30:15
ここに書かせていただきます。
内容は私の板に書いたものですので、マルチポストと判断なさるなら削除くださいませ。
本当は本迹にスレッドが立ってから書きたかったのですが、何方もお立てにならないのでここに書かせていただきます。
曼荼羅は、虚空会に建った宝塔を書き写したもの。
御書にあります。
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
(日女御前御返事)
『すりかたぎ』とは、書き写すとの意味ですね、現在の印刷やコピーです。
お曼荼羅は虚空の宝塔を書き写したもの。ですので、宝塔が本来の姿で本、お曼荼羅は書き写されたもので迹です。
双方の対比では必然的にこうなります。
では、虚空の宝塔は何を書き写したものか?
先生のご指導にありますね。
『この宝塔は、衆生己心の妙法を虚空に写し取ったものですから迹です。
衆生己心の妙法が本です。』(趣意)
これではっきり致しました。
お曼荼羅は、宝塔に対して迹。
宝塔は、衆生己心の妙法に対して迹。
ですので、衆生己心の妙法は双方に対して本。
お曼荼羅は他の二つに対して必ず迹。
物凄く単純なんですよ。
所が複雑にして飯食ってた人がいるんです。
日蓮正宗という宗派のボンさんですよ。
以下に彼らの邪義を貼っておきます。
天城さんや、恋さん、その他の眺め人が、この通りの意見を何度も何度も書いていますね。
【破邪顕正】創価教義検証館 から、抜粋引用。
池田名誉会長と教学部幹部は、「如来神力品第二十一」における釈尊から地涌の菩薩への付嘱を題材にとって、
仏と九界の衆生との垣根を取り払い、「凡夫でしかない」という従属的な信仰的立場から、
「凡夫こそ仏なのだ」「人間こそが最高に尊貴なのだ」という主体的な信仰への変革こそが法華経の心 であるとしている。
その文証として日蓮大聖人御書全集から『諸法実相抄』の 『凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』(全集P1358)
同じく、『本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり』(全集P1359)を、その究極の表現として挙げ、
「信仰実践者である衆生・凡夫こそ本仏であり、教えを説く仏は衆生の影(迹)の役割となる。
であるから、仏は我等衆生にとって主師親三徳を備えているのではなく、実は我等衆生が主師親三徳を被らせることによって仏を尊貴たらしめているのである。」
「凡夫こそ本仏。仏は迹仏にすぎない。」
という、まさに「仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言」であると宣揚している。
さらに、「絶対者と思われている神仏は、 実は凡夫=人間の影であり、用(働き)であり、人間のための手段にすぎない」として
「人間のための宗教」の大宣言であるとし、「人間が上、仏が下」とする創価学会独自の法義解釈を展開している。
3
:
沖浦 克治
:2009/07/18(土) 14:31:54
命の顕れ方です。
大聖人様の人としてのお姿は迹ですね。
少し微妙な問題ですが整理いたしましょう。
『下種最後直授摩頂の本迹 久遠一念元初の妙法を受け頂く事は最極無上の潅頂なり法は本人は迹なり。』
(百六箇抄)
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
この御文が本物かどうか?
ひとまずおきます。
人として生きる姿は、命の永遠性から見ると、迹です。
命そのものが己心の妙法で本で仏。
私はこのように思います。
ですので、私共も、大聖人様も現世は仮の姿で迹。
命そのものが本です。
『故聖霊は此の苦をまぬかれ給いすでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり、経に云く「設い大火に入るも火も焼くこと能わず、』
(上野殿後家尼御返事)
命そのものは火にも焼けない。
このように仰せですね。
方便現涅槃。と言いますが、死ぬ事は方便だと説かれます。
ですので、生きる事も方便です。
命が、死んだり生きたりする事自体が命の性質の現われで、本質は更に深いところにある。
これが仏法です。
若退若出が命の本性です。
『生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり』
(御義口伝巻下)
ですので、大聖人様も私共もこの世は仮の姿です。
そして、仏と衆生も仮の姿なんですよ。
4
:
管理人
:2009/07/20(月) 22:19:26
沖浦さん、貴殿はその仮の姿をどう現じていくのでしょうか。
それによって、貴殿が仏にもなれば、四悪趣の衆生にもなる。
この信心は現世で成仏をするための信心であるのは言うまでもありませんが、例えば今が臨終の時であるならば貴殿は健やかに臨終を迎えられるでしょうか。
遣り残していることはないか、明日死んでもいいのか。
それぐらい今日を悔いなく戦ったのか。
ご本尊に申告できる唱題をお互いに心がけて行きましょう。
南無妙法蓮華経、臨終正念。
5
:
沖浦克治
:2009/07/21(火) 07:35:52
仮の姿をどう現じて行くのか??
考えもしませんね。
明日死んでも、今この瞬間死んでも、思う事は一つだけなんですよ。
この次も創価で行くぞ!!
6
:
管理人
:2009/07/21(火) 16:05:32
沖浦さん、すごいですねそれは。
まだお若いです、負けそうです。
7
:
沖浦克治
:2009/08/01(土) 06:15:01
信じる宗教や思想、信条の如何を問わず、人を憎めばいくら創価の御本尊様にお題目を唱えても功徳はありません。
怨嫉謗法を言う大謗法ゆえです。
『何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、』
(曾谷殿御返事)
仏敵だとして、人を憎めば怨嫉謗法です。
ですので、この御文の通り功徳はありません。
人を憎んでいるかどうか?
簡単に見分ける方法があります。
希望と夢を語るか?
嫉妬と、恨みを語るか?
この差を見れば簡単に判明致します。
仏敵は自分の命のなかにある。
これを知っているか?
しらないか?
敵が命の中なら、仏も同じ所にいるのです。
曼荼羅の中にいるのではありません。
人が本、仏が迹。
曼荼羅は迹。
拝む人が主体で本。
8
:
造素
◆9LvDHshvXI
:2009/08/02(日) 21:55:19
沖浦様、はじめまして。よろしくお願いいたします。
謗法があれば功徳は無い。おっしゃるとおりです。
怨嫉についてもう少し詳しくご教授いただけますでしょうか。
9
:
沖浦克治
:2009/08/03(月) 07:16:42
造素 さん、おはようございます
怨嫉は、十四謗法の最後の四ッです。
十四謗法は以下の通りです。
憍慢(きょうまん) - 増上慢と同義。慢心。おごり高ぶり仏法を侮ること。
懈怠(けたい) - 仏道修行を怠ること。
計我(けいが) - 我見と同義。人間我に執着し、自分考えで仏法を判断すること。
浅識(せんしき) - 自身の浅はかな知識によって正法を否定すること。
著欲(じゃくよく) - 欲望に執着して仏法に不信すること。
不解(ふげ) - 仏法を理解しようとせず自己満足すること。
不信(ふしん) - 仏法を信じないこと。
顰蹙(ひんじゅく) - 顔をしかめて仏法を非難すること。
疑惑(ぎわく) - 仏法を疑い惑うこと。
誹謗(ひぼう) - 仏法を謗(そし)り悪口を言うこと。
軽善(きょうぜん) - 仏法の善を信受する者を軽く見る・蔑視すること。
憎善(ぞうぜん) - 仏法の善を信受する者を憎むこと。
嫉善(しつぜん) - 仏法の善を信受する者に嫉妬すること。
恨善(こんぜん) - 仏法を信受する者に対して恨みを抱くこと。
このうちの十までは御本尊様に自行化他のお題目を唱える事で、チャラになります。
所が、最後の四種類はいくら創価でがんばっても犯すと罰が出ます。
ここで注意すべきは、この四種類の但し書きです。
仏法の善を信受する者を。
とありますね。
私もそう習ってきました。
でも、大嘘なんですよ。
御書にあるでしょう。
身子(舎利弗の過去世の名前)がバラモンに目をあげて、臭いからいらないと踏み潰されました。
その時身子は、
こう言うどうしようもない奴は救わなくてもいい。
こう、思って菩薩の行をやめたんです。
それで地獄に堕ちたと説かれます。
自分が折角目を上げたのに、踏み潰した。
憎んだんです。
軽んじたんです。
恨んだんですよ。
妬んだかどうか?
わかりませんね。
バラモンは正法(仏法)なんかやってませんよね。
だから、バラモンじゃないですか。
目をくれと言うから、自分の目を繰り抜いてあげた。
痛いですよ、麻酔だってありません。
世界中で、今出来る人10人い無いと思います。
それを、これは菩薩の修業だから。と実行したんです。
すると、もらったバラモンは、
こう言う臭い目はいらない!
踏み潰したんです。
これ、普通許せますか?
この話聞いて、それは身子がいけない。と思いますか?
私は思えません。
所が、大聖人様は、それが退転だ。と、仰せです。
仏法はね、修業する側には物凄く厳しい教えなんです。
救われる側には物凄く甘いんです。
開目抄のこの御文は、私には、
一切衆生が本来仏だから、誰でも彼でも、憎んだり、恨んだり、軽蔑したり、嫉妬すれば、即、怨嫉謗法なんだよ。
と、大聖人様がご指南だと思えます。
一昨年、気が付きました。
それまで45年ほど、気付かないでいたんです。
法華講の方々との、法論と、3度の質問会でお教えいただきました。
ですので、法華講の方々には感謝申しております。
開目抄です。
『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ』
10
:
管理人
:2009/08/03(月) 18:50:12
沖浦さん、大変勉強になる貴重な体験を書き込んでくださり感謝します。
そうですよね、人は人の中でしか成長することはできない。
現実の世界が本当の仏道修行の場であります、NETがその現実における修行の掛け橋になれればこれほど有益な手段はないと確信しております。
沖浦さんにはその率先の一人になって頂いて、これからのNET界を変えて頂きたいと思います。
わたくしも微力ながら、後に続いて行きたいと決意しております。
貴重な体験をありがとうございます。
11
:
沖浦克治
:2009/08/03(月) 22:51:08
管理人さん
ネットは布教の有効な武器になると存じます。
然しながら、現在、ネットの創価を名乗る人の大半がレベルが低すぎます。
現実社会で頑張ってこそのネットです。
それが、眺め人は反対なのですね。
お互い頑張りましょうよね。
12
:
造素
◆FuMfqbppQY
:2009/08/04(火) 00:18:57
沖浦様。ご丁寧にありがとうございました。
早朝からスラスラとご解説すばらしいですね。
知識が身についていないと出来ない事ですね。
眺め人らが本棚をひっくり返して書物を散らかして
あーでもないこーでもないといいながら
書き込みするのと大違いですね。
13
:
沖浦克治
:2009/08/04(火) 05:40:31
造素 さん、おはようございます
御書は一編を深く読むことが大切何です。
丸暗記するまで読みふける。
寺子屋教育と同じなんです。
生徒にテキストを丸暗記させるのです。
音楽と同じです。
オリジナルを作りたがるアマチュアはトップには昇れません。
面白い事に、個性が出ません。
言葉と同様ですね。
日本語発明した人いませんでしょう。
私共は言葉を覚える時、徹底した模倣から入ります。
赤ちゃんと、幼児期です。
でも、いつの間にか、隣の部屋で一言聞いただけで、今誰が喋っているってわかるじゃないですか。
徹底した模倣が、本物のオリジナルの基礎なんです。
ルイ・アームストロングという、トランペット奏者がいました。
一世を風靡された方でした。
彼が田舎から出て、プロになるべく出発する時、心に秘めた言葉がありました。
トランペットの先生に教わった言葉です。
基本を学びそれから外れろ。
自分以外の誰をも目指すな。
御書も同じなんです。
読んで読んで読みふけって、その上で現実社会で戦って、同苦して、初めて読めます。
私も少しだけ読めるようになりました。
眺めててもわかりません。
14
:
佐藤義徳
◆TxJTOsA7Go
:2009/08/10(月) 22:46:50
こんばんは。佐藤です。
宇宙の森羅万象すべてが、衆生を取り巻く全ての環境が衣報でもあるが、妙法であり御本尊でもあります。 肉眼で見ることができます。曼陀羅も同じく肉眼で見ることができます。
衆生己心の妙法も御本尊であり正報にも例えられます。
勿論、肉眼で見ることができません。
日本古来では、主にアイヌ民族が先住民族であると、政府は認め始めています。
アイヌ民族の前身は縄文人であり、日本人の祖先なのです。
大陸からの北方系渡来人とは違いますが、どちらも日本人であることは間違いありません。
アイヌ民族は人間を取り巻く環境全てに感謝をし、【本】と捉え、祈りを捧げてきました。
衆生の生命には神は内在しないという考え方です。
これを一応は、多神教、偶像崇拝、宗門曼陀羅崇拝と類似しています。
原理主義、外道信仰とも言います。
私たち衆生己心の妙法そのものが御本尊です。
肉眼では見えませんが、正報にも例えられます、衆生己心の妙法【本】の仏界を喩現させるには、お題目をあげることです。
これを内道信仰と言います。
日蓮正宗の原理主義、外道信仰との違いを、スタンスの違いを明確にしなければならないと考えられます。
15
:
沖浦克治
:2009/08/15(土) 06:38:34
本迹を,最も世間で納得を得られる捉え方は、目的が本、手段が迹。でしょう。
何のため、の、何が本、ためが迹。
一言の中に本迹があります。
そして、分割は不可能です。
セットですね。
行為と、目的です。
目的があっても、行為がないと達成は不可能ですし、目的がなければ正しい行為は起こせません。
衆生救済。という目的があって、はじめて菩薩の行が可能です。
衆生が本で、菩薩は迹ですが、菩薩の中だけでは、四弘誓願と言う誓いが本、そのための行動が迹。
然しながら、行動にも本迹があります。
誓願にそった行動が本、外れた行動が迹。
本迹はいくらでも細かく判定可能です。
仏法と衆生では、衆生のための仏法ですから、人が本、仏法全体が迹ですね。
仏は仏法の中に含まれますので、
仏が迹、衆生が本。
衆生のみにかぎると、本来は仏様ですので、仏としての立場が本、人としての立場は迹になります。
人は本来仏様ですので、自身の命が全て備えた仏であり、三大秘法も全て自身に備わったものだ。
こう決める事が本覚です。
虚空会とか、御本尊様はその説明です。
これが、仏法の基本原則です。
これを外すと、外道になります。
『但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず・法なり、・法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫の修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり。』
(一生成仏抄)
素直に拝すれば簡単に理解が出来ますね。
所が、複雑に読む職種の人がいます。
日蓮正宗の僧侶と言う生業の方です。
この人たちは、一切衆生と仏を別次元にし、その次元の狭間で受け渡しをすることがご商売です。
イタコですね。
霊界と現世の橋渡し役です。
仏法では霊界はありません。
若退若出が命の本質です。
『又云く無も有も生も死も若退も若出も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、』
(御義口伝巻下)
イタコは不要です。
同じく、凡夫のことを人間と言い、仏が本来で衆生が仮の姿。
これが仏法ですから、ご本仏様と、法と、お曼荼羅があれば、誰でも成仏可能です。
すると、僧侶は不要になります。
指導者は必要ですが、僧侶と言う職業にはこだわる必要がありません。
過たず方向を示せるコーチングが必要ですが、仏法は現実社会で開く教えなので、在家しかいりません。
出家は不要です。
曼荼羅至上主義の眺め人は、出家待望論ですね。
邪義です。
サ〜〜、眺め人はどう言い返すかな〜〜??
とにかく私が何か言うか、現世でアクションを起こすと、何が何でも難癖つけないと、ネットで住み場所なくなる人たちです。
反沖浦グループ。
ネットの眺め人ですね。
屁理屈楽しみにして待っていましょうね。
笑ってあげましょう。
16
:
管理人
:2009/08/17(月) 18:49:53
佐藤義徳さんこんばんは。
もうすでに明白ですね、創価学会は今もなお広宣流布し続けておりますが、宗門は衰退の一途をたどっております。
結果の伴わない宗教など邪宗と言えるでしょう。
17
:
管理人
:2009/08/17(月) 18:57:43
沖浦さん、こんばんは。
わたくしはこの掲示板を開設するにあたり、もろもろの掲示板管理者に開設のご案内メールをしております。
でもいまだにこられない所を見ますと情けなくなります。
NETでしか批判できない日蓮仏法を下げる輩がこの世界には蔓延しているようです。
どうか、現実の世界で戦わせてさしあげましょう。
それが慈悲というものです。
18
:
沖浦克治
:2009/08/17(月) 21:33:20
管理人さん
たまには私の板にもどうぞ。
お互いに現実社会で勝利いたしましょうね。
19
:
管理人
:2009/08/31(月) 11:15:54
沖浦さん有難うございます。
お気持ちだけ受け取っておきたいと思いますので、お互いに現実で戦って参りましょう。
20
:
taka
:2009/11/11(水) 16:16:27
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門 の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?
21
:
美髯公
:2009/11/12(木) 15:35:28
おや、「幸」の常連のtakaさん?
おはつでんなァv(^^、こないな辺境な板まで巡回されておますのか?
今後とも、この板盛り上げてやってな。よろしゅうに
23
:
taka
:2009/11/12(木) 19:57:07
沖浦克治さん
本迹論について教えてください。
私の「本迹」の認識は、
①、本地と垂迹
②、本門と迹門 の二つと認識していますが、沖浦さんは、この二つから展開されていると理解しても良いのですか?
24
:
美髯公
:2009/11/13(金) 12:34:26
>>22
おはつでおます。無名人はんm(__)m
チクッと、お尋ねいたしますが この
>>22
っちゅうのはミスリでっか?
それとも、ワザと、でしゃろか?ミスリなら管理人はんに削除要請を
出そうか思っとりますよってに。どないなんでしょ?
25
:
無名人
:2009/11/13(金) 17:52:11
ごめんなさい。ミスです。
26
:
taka
:2009/11/13(金) 17:58:07
美髯公さん
沖浦さんをここに呼んでくださいませんか。
27
:
美髯公
:2009/11/14(土) 11:04:10
というこで・・・・・と思ってたら、早ァ〜削除されとりますがなァ(^^;
手際よい処置、お手数かけよりましたm(__)m
>>26
おはようさんです、takaさんm(__)m
ヘッ!(゚o゚; なして、そうなりますねん(^^;ゞ
と言う、弄りは止めときまっさ(笑
一応、メ−ルは打っておきましたが、条件は「手隙な時」と
入れておりますよってに、焦らず気長に待ちまひょ。ねv(-_^
28
:
taka
:2009/11/14(土) 18:01:37
ありがとう
29
:
沖浦克治
:2009/11/15(日) 21:44:49
takaさん
やって来ましたよ。
本門と迹門は私は意識していませんね。
どっちが目的に適うか?
どっちが手段か?
こう言うたてわけが主ですね。
30
:
taka
:2009/11/16(月) 01:59:40
沖浦克治さん
私の拙い教学力での質問ですが。
目的が本、手段が迹。とのことですが、世界平和が本、広宣流布が迹でいいのでしょうか。
31
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 06:42:47
広宣流布は民衆救済が目的ですね。
世界平和はそのための必須条件です。
すると、広宣流布の中に含まれます。
ですので、広宣流布が本で世界平和が迹となります。
然しながらこれは立場と見かたで反対になりえます。
平和が欲しくて信心する国民が多数いれば、そこでは平和が本で広宣流布は迹になります。
法華経の本迹は絶対的な真理での優劣です。
多くの人はこの本迹に惑わされています。
真理は価値ではございません。
認識の対象です。
牧口先生は真理を価値から外されて、利益を入れられました。
どっちが利を生むか?
創価の価値観ですね。
すると、爾前経で救われる衆生がいるなら、その衆生はその教えが本です。
後の教えは全て迹です。
ニュートン力学より、相対性理論が真理として優れます。
然し私共の生活はニュートンで問題ありません。
ですので、相対性理論は真理として優れていても、一般化致しませんね。
同じ理屈です。
32
:
taka
:2009/11/16(月) 14:10:29
沖浦克治さん ありがとうございます。
広宣流布と世界平和の、本迹の関係理解できます。つまり、「必要条件」「十分条件」「必要十分条件」という考え方がありますが、その考え方でいいのでしょうか?
それから「法華経の本迹は絶対的な真理の優劣です」と言われるのはどういう意味でしょうか?
是非教えてください。
33
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 17:25:00
taka さん
爾前経では、釈迦は弟子達に言うんです。
お前達とはこのインドではじめて会ったんだ。
そして今化導をしている。
それが、法華経迹門では、三千塵点劫と言う大昔に、お前達と私は一緒に修業したんだ。
その縁で自分はインドに生まれて仏になった。
そしてお前達を化導している。
と、過去世からの弟子達との関係を明かしました。
本門では、それを否定して、自分はインドに生まれる前から仏だったんだ。
五百塵点劫と言う物凄い昔に実は仏になった。
その後あらゆる娑婆世界で説法教化してきた。
その時お前達もズート教えて来たんだよ。
と、自分がインドで仏になったんではなくて、遥か以前から仏だったと明かすんです。
始成正覚を破るといいます。
始めてインドで正覚(正しい悟りで成仏を示します)を得た。と言う立場を破ったんです。
それまでは、インド応誕の釈尊と言って、インドで生まれてインドで修業をして、インドで仏になった釈迦。
ところが本門寿量品では、インドに生まれる遥か昔から仏だった。
すると、16歳で出家して、30歳で明の明星が光る瞬間悟りを開いて成仏したのは一体なんだろうy?
こうなりますね。
だって、インドに生まれる以前から仏だったんですから、30以前も当然仏じゃないですか。
でも、30歳以前と以後では全く違う立場なんです。
現実にはそうなんですよ。
以前は法は説けません。
以後は仏法を説きます。
この差は何か?
30歳で思い出したんです。
悟りは、俺は元々仏だったんだ。ですね。
すると、一切衆生も忘れているだけじゃないなのかな?
と言う可能性が出ます。
でも、釈迦はここまでなんです。
その後は大聖人様の法になります。
ここまでおわかりいただけましたでしょうか?
34
:
taka
:2009/11/16(月) 17:51:50
沖浦克治さん
解ります。何度も、教学試験で勉強してきました。
つまり、「如我等無異」をおっしゃりたいのですね?
35
:
沖浦克治
:2009/11/16(月) 21:51:31
takaさん、今晩は
如我等無異ですね。
元々人は仏様で大聖人様と何一つ変わりがないのです。
ですが、借りにこの世ではさまざまな姿と境涯を現じています。
こう言うと、元々仏なら、仏道修行はいらない。と、文句を言う人が必ずいます。
人は人として生まれますが、キチンと人間社会で育たないと人にはなりません。
同じくチンパンジーを人間と同じ環境で育てても、人にはなりません。
元が猿ですから。
人が成仏すると言うことは、元が仏だからです。
御書には、日蓮が弟子檀那等。と書かれてあります。
日蓮だけで言い場面でもしばしば出ますね。
仏様の慈悲、如我等無異が顕れたお言葉です。
36
:
taka
:2009/11/17(火) 11:05:32
沖浦克治さん
「人」と「仏」が、「如我等無異」であることを「本迹」で理解するのは、少し無理があるのでは?
私は、「人」と「仏」が、ともに「本地」は同じで、この地に「垂迹」したと解釈していますがいかがでしょうか?
37
:
沖浦克治
:2009/11/17(火) 17:17:00
takaさん
仏と衆生の本迹は一つではないのです。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
(御講聞書)
最初の御文は、人は迹で本は仏。
後のものは、反対ですね。
どうしてでしょうか?
38
:
taka
:2009/11/17(火) 23:56:01
沖浦克治さん
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』 (百六箇抄)
下種…下種仏法
寂照…悟りの境地
実事…真実
体用…体は法の本体、実相。用は、体にそなわる働き。
無上…最高・最上
生仏一如…「生」は迷いの衆生、「仏」は悟りを得た仏陀の事、「一如」は全く等しく差別がないこと。
事…事相・事法のこと。理に対する語。
本覚…本仏の正覚
通解;下種仏法における真実無上の悟りの本迹は、事の上での生仏一如であるという悟りである。それは「本地は仏」であり、「垂迹は人」である。
『本とは凡夫なり、末とは仏なり、究竟とは生仏一如なり、生仏一如の如の体は所謂南無妙法蓮華経是なり云云。』
(御講聞書)
本末究竟等のこと。相・性・体は凡夫の姿であるが、南無妙法蓮華経の実践により、用である、力・作・因・縁・果は仏になる。
すみません、日ごろ馴染のない御書なので、かなり、己義を交えてしまいました。教えてください。
39
:
無名人
:2009/11/18(水) 11:54:55
沖浦克治さん
最初の御文は、人は迹で本は仏。
後のものは、反対ですね。
どうしてでしょうか?・・・・・・・
「私の己義」をあえて言わせてもらえば、この2文に矛盾はないと思います。
「法性の淵底・玄宗の極地」が地涌の菩薩の住所であり、目指すは、「九識心王真如の都「です。
御本仏日蓮大聖人が凡夫の姿でこの娑婆世界にお生まれになり(本迹)、我々弟子とともに目的地まで進んでいく(本末)。
だけれど、勿体ないことですけれども、この世に、「仏・菩薩」が存在しなければ、「悩める衆生」は、成仏しない、又「悩める衆生」がいなければ、「仏」の存在意義がない。まさしく、「仏の使命は、衆生救済にある」と。沖浦さんは、仰りたいのだと思うのですが、いかがでしょうか?
私も、そう考えます。
40
:
沖浦克治
:2009/11/18(水) 23:05:16
人と生まれるのは仮の姿で、本地は仏だ。
こう、考えると人が迹仏が本。
ですね。
然しながら、仏は人の幸福のために法とを説きに出現する。
この捉え方では人が本、仏が迹です。
捉える側のスタンスの相違です。
ですから、どっちでも正解でしょう。
要するに、
一切衆生の本地は仏で、あらゆる仏達はそれを気付かせる為に出現し法を説く。
これをキチンと理解すればいいのだ思います。
41
:
taka
:2009/11/19(木) 21:23:18
沖浦克治さん
ここまでは、分かったような気がします。
ここでは、「仏」と「人」の二つに分けての本迹ですが、「仏」にも、優劣といいますか、上下はないのでしょうか?
もちろん、「人」にもですが?
42
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 07:15:54
あると思いますよ。
あくまでも現象面ですが。
どの仏も全て南無妙法蓮華経如来ですね、本地は。
私共も同じです。
本地は差別が全くありません。
然し現実社会では差別があるでしょう。
お金持ちだったり、貧乏だったり。
持てる人持てない人。
天才と鈍才。
一杯あります。
でも、これは世間と言う所での仮の姿ですね。
経文にはとあります。
方便で死ぬ、ですから生きるのも方便です。
生死不二が仏法ですから。
ですので、この世の姿は全て方便です。
生きても方便死んでも方便。
本地は南無妙法蓮華経如来。
この世の姿がそのそれぞれの命の垂迹。
優劣も上下もあっていいんじゃないでしょうか?
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
この御文をお互いに思索致しませんか?
43
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 07:17:35
抜けていました。
経文にはとあります。〜経文には方便現涅槃とあります。
44
:
taka
:2009/11/20(金) 19:36:05
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
久遠自受用報身の本迹…本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕・本門の大師日蓮=日蓮大聖人
男は本女は迹知り難き勝劣なり…勝劣などあってはならない
能く能く伝流口決す可き者なり…伝えていきなさい。
通解;我々大聖人門下は、男女の差別、勝劣は一切ないということを、伝えていきなさい。(迷約)
申し訳ありません。「百六箇抄」に関しては、全然参考書もなければ、先生の指導も私の周りには見当たりません。ゆえに沖浦さんとの対話が成り立たないのではないかと思われます。よろしく御賢察ください。
45
:
沖浦克治
:2009/11/20(金) 22:44:37
この御文は、男が本で女が迹だと言われているのではないでしょうか?
然しながら、勝劣は知りがたい。
若しくは非常に知る事が困難だ。と、仰せでないかとおもうのです。
同じく男女の立場の同位性を説かれた御文があります。
『末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、』
(諸法実相抄)
ここでは男女差別を否定なされておられますね。
すると本迹が勝劣とイコールでないと考えられませんか?
46
:
taka
:2009/11/21(土) 10:34:07
沖浦克治さん
「男が本で女が迹」が解りません。詳しく教えてください。
47
:
大河
:2009/11/21(土) 14:07:59
横レス失礼します。
>>46
takaさん
昔、大白蓮華に「百六箇抄講義」が掲載されていたことを、某板、某HN氏の書き込みで
読みました。さて、本になっているのでしょうか?
本があるといいですね。
池田先生の御義口伝講義に少しだけ記載されています。
takaさんは、ホームにしている掲示板上で御義口伝講義を所持と書かれておりましたね。
ですから、詳細に書く必要はありませんので、該当箇所だけ書きます。
「また、これは甚深の法門になるが、日蓮大聖人も、釈尊も男であり、天台、伝教も男である。創価学会会長も男であり、経文の「福徳智慧」の定義に照らしても、
又「百六箇抄」の「男は本・女は迹・知り難き勝劣なり」との御相伝を拝しても
それは当然の道理である。」
尚、場所は、「普門品五箇の大事・第四・二求両願の事」
多少ご参考にしていただければ幸いです。
48
:
taka
:2009/11/21(土) 17:05:45
大河さん ありがとう
49
:
taka
:2009/11/21(土) 22:04:45
沖浦克治さん
大河さんのアドバイスで、今勉強中。
「勝劣」でないことは、分かりますが。「本迹」が理解できそうで頭の中で整理できません。
50
:
taka
:2009/11/22(日) 18:23:52
沖浦克治さん
分かったような気がします。間違いを、恐れずに申しますと、”男””女”を固定的に考えるから分からないのであって、”男的個性(性質、役目)”女的個性(性質、役目)”と解釈すれば、「本迹」が理解できるのですが、いかがでしょうか。
51
:
大河
:2009/11/22(日) 19:33:14
>>50
>男的個性(性質、役目)”女的個性(性質、役目)
先生の著書で読んだ記憶があります(これは確実で出典は出せます)
永遠の生命のうえで、来世に「男」に生まれるも、「女」に生まれるのも
あり得る、どちらの可能性もある、と、書いてありました。
何かヒントがありそうですね。
ただ、私は、「本迹」は勝劣であることを、疑いません。
男は本、女は迹、これについて
今、100パーセント解らなくても、必ず理解できる時が来ると
信じていますので。
でも、研鑽、探求することは素晴らしいと思います。
52
:
沖浦克治
:2009/11/22(日) 20:18:36
男か女かは命の本質ではありませんね。
今の世で男でも、次はわかりません。
ですので、その差別は方便ですね。
ですから、本迹と勝劣、共にこの世の方便です。
男が優れ、女が劣る。
これは仏法ではないでしょうね。
53
:
大河
:2009/11/23(月) 09:27:53
takaさん
『久遠自受用報身の本迹 男は本女は迹知り難き勝劣なり。能く能く伝流口決す可き者なり。』
(百六箇抄)
については、「勇気・前進♪♪今日より明日へ」掲示板
http://jbbs.livedoor.jp/study/9219/
鬼さんが、「解からない事聞きましょう」スレッドで、今夜にも書いて下さるらしいです。
注目ですね。
それから、「幸の架け橋」掲示板の「麦の信行学」スレッドでも、白麦さんが
ご自分の「考察」形式で、書いています。なかなか、内容が濃く、読み応えが
あり、今回の「命題」も、早くも取り上げています。
参考になると思います。
それからですね、昨年来、沖浦氏の「己義」が問題になったのは
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」を、執拗に主張し、今でも主張していますが
これは明確に「邪義」であることは、多くの人が破折し尽くし、その頂点は
http://www2.ezbbs.net/33/amagian/
天城五兵衛氏の、統一された論文です。
一読の価値あります。
54
:
taka
:2009/11/23(月) 12:36:39
沖浦克治さん、大河さん
私は、「勝劣」と「優劣」を混同していたように思われます。
男女の「本迹」に勝劣はあるけれども、男女の「優劣」はない。
いかがでしょうか。
55
:
大河
:2009/11/23(月) 15:49:23
>>54
takaさん
唯一の手掛かりは、先日紹介しました「御義口伝講義・普門品五箇の大事・第四二求両願の事」だけです。
あらためて熟読してみました。そして整理してみました。takaさんは所持されているので
簡略化しておきます。
「求女とは世間の果報」・・・・女の子を産みたいというのは「世間の果報」を求める心である
世間の果報とは、女性は現在自分が置かれている立場での、安穏な幸せを求める。
保守であり、消極性であり、受け身である。(多くの女性は当てはまりますね)
求男とは出世の果報・・・・経文に「福徳智慧」とあるごとく、男は、智慧と福運を
もって未来を切り開いていく逞しい力が無くてはいけない。
出世とは、自分一個でなく、対社会であり、狭い枠を打ち破って前進していく
積極性と考えられる。
「求女の徳」・・・現世安穏、現実生活の幸福
「求男の徳」・・・後生善処、すなわち福運と智慧をもって、いかなる事態をも
悠々と乗り越えていく力、永遠の幸福境涯、
この「求男の徳」は、創価学会の女性会員も、当たり前のこととして確信を掴んでいますよね。勿論、男性会員も当然ですが。
でも、日蓮仏法を知らない、男性は「求男の徳」は、ありませんね、一般的には。
もちろん、日蓮仏法を知らなくても、「求男の徳」を有している立派な方は、
たくさんおりまして、特に先生と対話をされている世界の識者(男女共)などは
仏法を知らずとも、自然に価値観を同じくしています。
「求男の徳」と「求女の徳」との対比であれば、「勝劣」は認められそうですね。
何故ならば、この仏法を創価学会の中で学び、多くの女性が確かなる価値観「求男の徳」
を得ているわけです。それまでは、低い劣った価値観(思想)で生きていたわけですから。
大聖人の仏法が、法門上、最高だからであって、
「久遠自受用報身の本迹」と、ありますね、このへんは、ポイントかなと思いますが
今は確かなことは書けませんが。
「求男の徳」という点では、既に、創価学会員の男女では男女差は無く、むしろあるとすれば
「個人差」ですね。
56
:
沖浦克治
:2009/11/23(月) 20:13:00
勝劣と、優劣はほとんど同じ意味じゃないでしょうか。
takaさん
57
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 08:29:30
本迹を整理しておきましょうね。
先ず、ここにAさんと言う衆生がおられる。
この人は、仮の姿で人間で凡夫なんです。
では、この世で悩み苦しみながら生きているこのAさんの、本当の姿、本地って言うのは一体なんだろう?
ソクラテスの言う、汝自身を知れ。
の、汝自身が本地ですね。
池田先生が、今月号の大白蓮華御義口伝講義で明快にお答えです。
『汝自身とは、一念三千の当体、尊極無上の仏の生命なのです』
はっきりしているでしょう。
Aさんの本地は久遠元初からの仏です。
御書にもあります。
『第四 如来如実知見三界之相無有生死の事
御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、』
(御義口伝巻下)
書いてありますよ、これを信受するだけでいいんです。
これも、先生のご講義に書かれてあります。
ところが、これを信受されると困る人がいます。
僧侶と言う職種の人ですね。
いいや、これは大聖人様だけなんだ。
他の人間は違う。
そうして置かないと、自分達の優位性は崩れます。
日蓮正宗と言うところがそれで、寛師と言う人が始めた邪義です。
ところが、御書にはそうは書かれていません。
『所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、』
(御講聞書)
この通りですね。
先生がそう仰せで、御書にもその様に書かれてある。
信受すればいいのです。
そうすると、Aさんは垂迹で人なんですよね、現世では、
本地とは本の事で、仏。
迹は垂迹で、人。
御書にもそう書かれています。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
大聖人様の文底下種から見れば、衆生と仏が一如(不二)の立場では、人としての姿が垂迹で、久遠からの仏である事が本地で本。
このように仰せです。
59
:
taka
:2009/11/24(火) 18:30:13
沖浦克治さん
理解できます。
「勝劣と、優劣はほとんど同じ意味」を、詳しくお願いします。
60
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 19:24:57
勝とは、優れるの意味を含むでしょう。
優とは、勝るの意味を含みますね。
ですから、そんなに違いは無いと思うのです。
61
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 19:27:08
takaさん、今からお題目の時間ですので、又後ほど。
62
:
沖浦克治
:2009/11/24(火) 21:06:12
今度は、仏と衆生の本迹を考えます。
個人としての本迹は、本地が仏で、垂迹が人間。
娑婆世界は、この垂迹の人間が集まる世界ですね。
そして当然自分が仏である事は忘れ去っています。
だから不幸が起こります。
救済のために仏が出現して法を説き広めます。
この法を説く仏も、救われるべき衆生も、本地は全く同じ仏です。
仏は自分が仏と悟っている、衆生は忘れていて迷いの状態。
『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
この通りです。
すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。
仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。
こうなります。
現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。
63
:
taka
:2009/11/25(水) 15:19:32
沖浦克治 さんが言われているのは、「本迹一致説」ではないですよね?
「本門」と「迹門」には勝劣があります。これは間違いない。
「本地」と「垂迹」には勝劣はあるのでしょうか?
「本地・垂迹」は同一人ですよね?
同一人だから、勝劣はないと思われますがいかがでしょうか?
「発迹顕本」はどう解釈されますか?
すみません、何となく理解できてるようなのですが、「もやもや」しています
64
:
沖浦克治
:2009/11/25(水) 17:21:19
takaさん
少し難しく考えすぎでしょう。
同一人物での勝劣は常にあります。
今日は1時間唱題するぞ!
で30分で終われば負け。
やれば勝ち。
全てに勝劣はあります。
発迹顕本は本地を顕すですが、本地が優れ、垂迹は劣るでいいんじゃないですか。
65
:
taka
:2009/11/26(木) 13:05:46
沖浦克治 さん 理解できました。 次の、
「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。
こうなります。
現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」を、
詳しく、教えてください。
66
:
taka
:2009/11/26(木) 18:45:29
沖浦克治さん
『総じて一代の聖教は一人の法なれば我が身の本体を能く能く知る可し之を悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり此れは華厳経の文の意なり、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)(御書p567・4行)
通解; 総じて一代の聖教は一人のことを説いた法であるから我が身の本体をよくよく知るべきである。この自身の本体を悟ったのを仏といい、これに迷うのが衆生なのである。これは華厳経の文の意である。
講義; 一大聖教は「我身一人の日記文書」で生命のありようを説き明かしたものであり、この自己の本体を徹底的に悟りきわめたのが仏である。
このことは華厳経が説いている通りであるとされ、この自己の生命と宇宙万象との一致を明かした止観輔行伝弘決の文を挙げて、自身を知ることは宇宙万象をも知ることであると教えられるのである
「すると本地は同じですが、現実の姿は異なります。」 解ります。
「仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。」 ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?
「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。
以上、私の拙い解釈をしてみました。よろしくご指導ください。
67
:
沖浦克治
:2009/11/26(木) 19:48:31
takaさん
>仏は衆生のために出現しますから、救済されるべき衆生が目的で本。
救済する側の仏は迹。」 ここは、「生(迷)仏(悟り)一如」、「衆生即仏」と解釈すべきではないでしょうか?
即はイコールではありません。
即は精進行であるお題目です。
『昼夜常精進 為求仏道故
此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。』
(御義口伝巻下)
衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです。
人が人本来の能力を発揮するには、教育が必要でしょう。
同じなんですよ。
ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
導かれる側が衆生。
衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
何のため。が本で目的なんですよ。
>「現代語で言えば、人間のための法ですから、人が本で、法が迹。
法とは仏法全部ですから、仏も、お曼荼羅も当然迹に含まれます。」
ここでは、「人法勝劣」ではないと思われますが、紛らわしいので、大聖人の仏法は、「人法一箇」と思います。
人は元々南無妙法蓮華経の当体ですね、ですので人法一箇です。
本迹とは異なる観点です。
68
:
大河
:2009/11/27(金) 00:32:30
>>67
> ですので、人に仏道修行をさせ導く側が仏。
> 導かれる側が衆生。
> 衆生の化導が目的ですから、衆生が本、仏が迹。
> 生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
> 何のため。が本で目的なんですよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
国民(民衆)の幸福が本・国家(政治体制等)が迹
こういう指導は先生のスピーチにあります。
その例でいけば、
宗教組織(教団)のケースは
会員(信者)の幸福が本・教団組織は迹、・・は成立しますね。
>>生徒の教育が目的ですから、生徒が本、教える先生は迹。
教育とは生徒の「幸福」のためで(目的)、教師は「環境」の最たるものです。
69
:
沖浦克治
:2009/11/27(金) 07:36:22
あのネ、大河さん、
申し訳ないですが、邪魔なんですよ。
72
:
taka
:2009/11/27(金) 19:24:22
大河さん
私は、あなたに対して、特別な感情は、有りませんが、今、沖浦さんと、
真剣に、対話をしています。沖浦さんが邪魔だと仰るのですから、ご遠慮ください。
それから、自己紹介の件、私がうっかりしていました。美髯公さんとは、無二の親友なもので、
すみません。
73
:
taka
:2009/11/27(金) 23:06:27
沖浦克治さん
大聖人の仏法は、人法一箇ですね。釈迦仏法は、人法勝劣ですね。
大聖人の仏法は、但信力のみですね。釈迦仏法は、歴劫修行ですね。
「衆生が本地を思い出すには、仏道修行が必要なんです」とは、
沖浦さんがの仏道修行の程度はよく分かりませんが、精進行だと私も思います。
精進行については、もう少し考えてみたいと思いますが。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」
私は入信以来疑ったことがありません。おかげで、何不自由のない生活をさせていただいております。
「無疑曰信」こそ成仏の要諦だと思うのです。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。「根本尊敬」の存在だと思っています。
つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。
私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。
「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」を、迹(手段)と言えるのは、御本仏以外にないと思います。
「創価学会」「三代の会長」を、迹と言えるのは三代の会長以外にないと思います。
私たちが言えるのは、友人と仏法対話をする時、その時は、友人は「本」で自分は「迹」と言えるのではないでしょうか。その時、友人が衆生で、自分が仏だとおもいます。
しつこいようですが、弟子の立場で、師匠が「迹」というのは、どうも不自然だし、あるべき姿ではないと思うのですが、いかがでしょうか。
74
:
沖浦克治
:2009/11/28(土) 07:21:44
takaさん、おはようございます
>「御本仏日蓮大聖人」「御本尊」「御書」「創価学会」「三代の会長」を、私の成仏のための、功徳を得るための、手段にしてはいけないと思うのです。
物凄く間違った考えですね。
一見正論と間違う所が非常に危険です。
紛然ですね。
手段なんですよ。
先生のご指導です。
『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。
諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
ですから独裁はありません。』(取意)
本果妙が迹で、本因妙が本。
こうなりますね、ですから弟子は本で師匠は迹になります。
これと、根本尊敬とは別のお話です。
いくら何方かを根本から尊敬し南無しても、主体は自分ですね。
取って変わることも、変わってもらう事も出来ません。
依正でわけるなら、正報が自分でその他は全て依報です。
依報が主体になる事はありません。
我思う故に我あり。
シベン哲学の最高峰ですが、仏法はこの、思っている我を、我即如来。と説き明かします。
思う自分がこの世になければ、一切は自分に取って存在しません。
あくまでも、全ては自分が中心。が仏法です。
良いことも、悪いことも、一切が自身の命の中から起きている。
内道と言います。
師匠に南無して根本尊敬だから、価値判断は一切お任せします。
外道の見本です。
弟子がね、勝手に一切を師匠に寄りかかって、広宣流布できますか?
師匠は迷惑ですよ。
何故そう言う発想になりませんか?
『仏法者は、独立した自由人です。』(取意)
こうあるべきなんですよ。
>「根本尊敬」の存在だと思っています。
つまり、本迹を論ずるものではないと思うのです。
『答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、』
(本尊問答抄)
本迹論じて生き残れないようなものは、拝んじゃいけませんよ。
無疑曰信を勘違いされていますね。
『疑って、疑って、疑いぬいて、それでも疑い切れなかったから信じる以外にない。
無疑曰信とはそう言うことなんです。』(取意)
池田先生です。
信の入り口は常に疑いなのです。
そして、信を深めるものも、やはり疑いです。
動執生疑があらゆる信の入り口で、深めるきっかけです。
私は、かって池田先生を疑いました。
書物も、音源も全て捨てました。
でも、疑い切れずに帰ってきたんです。
疑う以前の先生への気持ちと、現在。
現在が何百倍も強いです。
疑えない人に、真実の信はないでしょうね。
『なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、』
(開目抄下)
いくらでも疑って見ろ!
信じさせてやる!!
私にはこのように読めます。
>私たち、弟子はそれを論ずる資格はないと思います。
いいえ、論じない人は弟子の資格が無いと思います。
盲信は弟子の道じゃありません。
75
:
taka
:2009/11/29(日) 23:13:37
沖浦克治さん
『大聖人様の仏法は本因妙、釈迦は本果妙です。
ところが、大聖人様と日興上人を較べると、大聖人様は既に本果であられる、日興上人は本因です。
私と戸田先生、戸田先生は本果であって私は本因です。
諸君たちと私では、諸君たちが本因、私は本果。
今度は、諸君達が本果で部員さんは本因。
こうして、仏法は本因本果、本果本因と永遠に続いていくのです。
ですから独裁はありません。』(取意)・・・・・・・
この指導で私が感じることは、「本因・本果」と「本・迹」は別の観点で論じなければならないと思います。
「本因・本果」は、師弟、指導を教えられているように思います。
「本・迹」は、仏が、衆生に本地を悟らせるための方便と言えるのではないでしょうか。
つまり、仏が、衆生に、「迹」を通して「本」を教えている。あるいは、悟らせようとしている。そう思います。大聖人のご一生を、学ぶと、ありありと分かります。
池田先生も、然りです。
沖浦さんの「本迹論」の展開は、ほぼ、間違っていないと思います。
只、日蓮大聖人の仏法においては、弟子の立場からは「本迹」は必要ないのではないかと思います。だって、信じさえすれば、瞬時に、やすやすと仏になれるのですから。
例を挙げますと、沖浦さんが仰っている、「衆生が本、漫荼羅が迹」――これは、日蓮大聖人が、弟子のために、末代の幼稚の頸に、かけてくださったわけですが、弟子である私たちは、「日蓮大聖人の魂」であると拝すべきだと思います。
76
:
taka
:2009/11/29(日) 23:15:49
沖浦克治さん
私の信心は、“盲信”ではありません。
“盲信”では、40年以上信仰を貫くことはできません。
入信以来、勤行・唱題・20分の教学を欠かしたことはありません。、
(だからといって、御書講義がやすやすとできる能力があるわけではありませんが)
私の信仰は、日々の積み重ねで今日があると自負しています。
朝晩の勤行の際、池田先生の導師で、大聖人を仰ぎ、決意・報告等を行っています。だからでしょうか、何時間でも、心ゆくまで唱題をすることができます。
御書は、日蓮大聖人のお言葉として、お手紙として、自分の身に当てはめて、そのまま拝するようにしています。
私の人生は、沖浦さんに負けないくらい、波乱万丈でした。
大病(がん)で生死の境をさまよったり、経済的にどん底をはいずりまわったり、だけど一度も師匠を疑ったりしたことはありません。それはそれで、良い思い出になりました。
体験を言っていたらきりがありません。
77
:
taka
:2009/11/29(日) 23:16:50
沖浦克治さん
弟子は、師匠の言われたことを、一言一句もらさず、100%実現するのが使命です。
日興上人、戸田先生。池田先生のご一生を学べば解ります。
私が申し上げたいのは、「この人は私の師匠だ」と決めるのは「弟子」だということです。
だから、決める瞬間の条件としては、「師匠は絶対である」ということではないでしょうか。
「師匠のために、一生を懸けても悔いはない、命も惜しくない」
「師の理想を、命を懸けて実現させるのだ」
私は、身近な、池田先生の振る舞いから学びました。
翻って、師匠の立場から学ぶことはなにか。
師匠である日蓮大聖人のご一生は、一切衆生のため、弟子たちのため、古今東西の思想・哲学を、駆使して、命を懸けた戦いでした。それは、弟子たちに、「本地」を悟らせるためでありました。
池田先生も然りです。
つまり、「本迹」は、師匠の立場で、表現するものであると思います。
私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。
原田会長は仰いました。
「池田先生にまなび、池田先生のごとく」と。
78
:
沖浦克治
:2009/11/29(日) 23:41:48
>私(弟子)の立場で、日蓮大聖人、池田先生を「迹」とはもってのほかです。
では、対話を終了いたしましょう。
もってのほかの方と対話をしても平行線です。
貴方は貴方のお立場、私私のスタンス。
それで良いと存じます。
79
:
管理人
:2009/11/30(月) 05:29:05
心の師となるとも心を師とせざれですね。
80
:
沖浦克治
:2009/11/30(月) 06:59:48
管理人さん、おはようございます
対話は大切です。
ですが、自分が絶対だと思ったらもう対話ではありません。
私は大聖人様とご本仏と信じ、池田先生を師匠と仰ぎます。
ですが、それを他人に押し付ける事は絶対に致しません。
私の生き様をみて、世間様は、創価学会も、大聖人様も、池田先生の事もご判断なされる。
だから無様な人生だけは絶対に生きないぞ!
このように、言い聞かせて生きております。
もとより私は非常に軟弱で、臆病で、だらしの無い、ルーズな人間です。
ですので、常に自分に言い聞かせないとあっと言う間に堕落致します。
そう言う人間が、他人様に創価を開くには、人生で勝ち上がる以外に無いと思っております。
本迹や因果、総別や本末などは、人生に勝手こそ生きる理屈でしょう。
ところが今、ネット上げて大騒ぎしている。
私はこの惑耳驚心が、非常に滑稽に感じます。
功徳さえ受けているなら、笑いながら堂々と対話が可能なのです。
ところが、ほとんどの人は、罵りしか返らない。
功徳のない人生です。
決めつけは、堕落の始まりですね。
81
:
taka
:2009/11/30(月) 09:14:56
沖浦克治さん
それでは、仕方ありません、またの日を楽しみにしています。
色々有難う御座いました。
82
:
美髯公
:2009/11/30(月) 12:50:56
沖浦さん、taka さんお疲れ様でした。
結局の所、お2人の立ち位置の違い(「本迹」の捉え方)ですね。
それがお互い解かっただけでも収穫でしょ。
たった、一度の対話(テキストのみの)では、理解は出来ても納得までは
中々難しいですよね。リアルの対面対話でさへそうそう簡単には
いかないのですから
またの、お2人の対話期待しておりますm(__)m
83
:
沖浦克治
:2009/11/30(月) 13:34:04
takaさん
よろしければ私の掲示板で続きをやってもいいですし、貴方が、もってのほかと言うご意見を取り下げていただけるなら、対話を再開いたしますよ。
いかがでしょうか?
決め付けてしまうと対話にはならないと思うのです。
84
:
taka
:2009/11/30(月) 17:18:57
沖浦克治さん
あなたがいわれいる「本迹」は、「師」である立場(大聖人)においてはその通りだと思います。
それを、弟子の立場で、そのことを、「本迹」として、とらえたり、活用してはいけません。
あなたは、「本迹」を展開しすぎです。どこやらの、『ノラ』さんがいっている、ねつ造でも、ましてや、あなたは、『邪師』でもありません。
そのことだけは言っておきます。
85
:
沖浦克治
:2009/12/01(火) 09:01:11
taka さん、おはようございます、そしてありがとうございました。
最後にですが、池田先生が、かって、観心の本尊について述べられました。
正確な音源が私の家にございます。
来年、時期を見計らって、私のと頃で聞く会を致します。
多くの方々にご確認をいただく予定です。
『観心とは信心と訳します。
我が心の仏界を観じる。
私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。
だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)
86
:
taka
:2009/12/01(火) 11:08:40
沖浦克治さん
しばらくご無沙汰します。
光線さんの好意で、「百六カ抄」を勉強しようと計画しております。
それが終わった時点で、また、考え指してください。
87
:
沖浦克治
:2009/12/02(水) 07:51:16
『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、』
(日女御前御返事)
広宣流布の旗印だと仰せですよ。
シンボルで道具ですね。
書き顕されたご本人様が仰せです。
これを素直に信受する。
我見はいりません。
そしてね、ご本尊様に関して先生のご指導です。
『戒壇様って言ったって誰も拝まなければお力は出ません。
ただの物です。
物で出来ているんだから何時かはなくなっちゃいます。』(取意)
『観心とは信心と訳します。
我が心の仏界を観じる。
私共凡夫が仏になるためには本尊が要る。
そのための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
本尊のための人間じゃないよ、人間のための本尊なんだよ。
だから大聖人様はありがたいんです。』(取意)
感情論でご本尊様論じても無意味です。
先生のご指導です。
『教学無き戦いは感情である。』(取意)
感情で話す人は、教学無いのです。
御本尊様は人のためにある。
人が御本尊様のためにあるのではない。
これだけキチンと弁えているなら、後は別にかまいません。
私はね、御本尊様は虚空の宝塔を、大聖人様がお曼荼羅として書き顕されたと信じます。
そして、その虚空の宝塔は私共の命をそのまま虚空に写したものです。
これも先生のご指導にあります。
そうすると、お曼荼羅の大元は私共の命ですね。
極簡単な理屈です。
衆生己心の妙法(南無妙法蓮華経)〜虚空の宝塔〜お曼荼羅。
こう言う順番になります。
御書と、池田先生のご指導で明白なんですよ。
昨日の聖教新聞ご覧ですか?
開目抄が載っています。
大聖人は、万人に具わる衆生本有の仏性を南無妙法蓮華経となづけられ、唱題の実践によって、いかなる人であれ、胸中の仏の生命が涌現することを教えられた。
この通りです。
私共の命は南無妙法蓮華経。
それを虚空の宝塔として釈迦が顕した。
大聖人様は更に、ご本尊様として書き顕された。
大元は私共の命です。
これを忘れて仏法はないのですよ。
更に、昨日の聖教新聞です。
先生の北海道指導が載っています。
広宣流布といっても、あくまでも大切なのは、一人一人が幸福になることだ。
学会員の幸福を「豆腐」に例えるならば、広宣流布は「オから」で、つまり、その副産物で、自然のうちに成し遂げられるのだ。
個人なんですよ。
一人の人間が最も尊くて大切なんです。
ここが全てです。
組織やお曼荼羅至上主義は間違いなんですよ。
88
:
<削除>
:<削除>
<削除>
89
:
管理人
:2009/12/05(土) 19:45:21
>>88
は掲示板趣旨に合わない為、削除いたしました。
90
:
美髯公
:2009/12/15(火) 10:41:16
悲しいかな未だ「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」を理解出来得ず
『信じたくて、信じたくて、切なくも悲しいまでに「沖浦説」を信じたくて、
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」も強烈に支持していて、』と、
のたまう御仁が居るのは驚きである。
恐らくは、「本迹=優(勝)劣」と言う、宗教批判の原理である「五重の相対」の
呪縛から踏み出す事の出来得ないのであろうとは思うが無惨な事である。
この様に書けば、すぐさま「百六箇抄」を上げてくると思うが、
いかんせん、小生、この講義書を持ち合わせて居らねば反論の仕様も無し。
そして、この様な御仁の決まり文句は『「御本尊を迹」と思えば不敬に
つながる』とか、「強いて言えば『御本尊も本であり、衆生も本である』」と
愚劣と言う様な回答しか戻ってこない。
なぜ、「御本尊を迹」が不敬につながるのか、これは前述した理由によるものと
判断できる。
また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
これの答えは誰にも答えられない。
なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
91
:
とっくり
:2009/12/15(火) 12:35:09
もー、分からんちん(  ̄Д ̄)σ)* ̄- ̄)
92
:
美髯公
:2009/12/15(火) 13:12:52
他掲示板でも「本迹」について、問題提起したことがありますが、
結局の所、「本迹」が、よく解かっておられないようでしたね。
俗に言う公式見解から一歩も出られることは無かったですね。
曰く、「迹は本に対する影である」とか「本=天月、迹=池月」であるとか。
「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智と言う」が理解出来なかった様ですね。
その御仁曰く、「不変真如の理が迹(影)であるはずがない」といわれました。
自称、「教授」ですよ(笑
そして、思ったとおり「百六箇抄」を引っ張ってきましたね。
今、お相手は一服しておりますが(^^;
大聖人仏法における「本迹」って何なんでしょうね?
法華経二十八品の立て分け?天月と池月の関係?本体と影の関係?
じゃぁ無いでしょうね、それらは皆、釈迦仏法の範疇だと思います。
結局のところ、「迹門を不変真如の理、本門を随縁真如の智」ではないかと
思います。そして、基本差別無しの「而二不二」の関係と思います。
ここが解からねば「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は理解しがたいでしょうね。
93
:
とっくり
:2009/12/15(火) 14:35:22
南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等
うん。
で、何で本迹入れんの?
入れなあきまへんの?(* ̄∇ ̄*)。
ついでに、HN何てよむの?
自己紹介、後で入れるね(* ̄∇ ̄*)。
94
:
美髯公
:2009/12/15(火) 15:18:07
なァ〜してェ〜、入れちゃァ〜あきまへんかァ〜?
入れてもよろしゅゥおまっしゃろに(笑
「美髯公」=「びぜんこう」で、おまっせェ〜v(^^
95
:
とっくり
:2009/12/15(火) 17:43:35
ある人によると、本迹を入れないと、正宗であり、眺め人らしいのだが、入れないといかんの?
96
:
美髯公
:2009/12/15(火) 20:08:05
そないな事、その御仁に聞いておくれ、わては、知らん。
わてが、書いてるンは「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」が、
間違いであると言う御仁向けやして。
それに、あんさん、そない手ェ広げてよろしゅゥおまンのか?
他板で、なんや「五百塵点劫」が、どうたらこうたらとやっておられたと
思いますが、もう片付きはったんか?
97
:
taka
:2009/12/16(水) 08:15:18
とっくりさん、美髯公さん
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。
「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。
結論として、沖浦さんの「本迹」は展開のしすぎです。
私は、こう思いますがいかがでしょうか。
98
:
美髯公
:2009/12/16(水) 10:23:11
おはようさんです、takaさんm(__)m
>「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」はただしい。
>「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」もただしい。
はい、その通りだと思いますね。
>大聖人は、御本仏です。故に、御本仏のお立場からいえば、曼荼羅は衆生を仏界に導くための道具(迹)です。
>ゆえに、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、御本仏の立場で仰っていると思います。
>だからといって、弟子である、私たちが、軽々しく使っていいものではありません。
この部分に、ついては異論がありますが止めておきます。
沖浦氏との話し合いされてる時感じたのですが、この部分に関しては多分に、takaさんの感情的なものを
感じた故。
>「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」は、弟子として、最も正常な信心感覚だと思います。
まァ、「弟子」は除いても、日常的な信心姿勢だと思います。と、言うよりそれより他無いでしょうね(^^;
ですので、「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、あくまで教学の見地からであり、
実際の信心姿勢は、「本迹不二」であり「境智冥合」なのです。
所謂、とっくりさんの言われる、「南無妙法蓮華教=日蓮大聖人=御曼荼羅=祈る俺等」の姿に
他ならないのです。
99
:
とっくり
:2009/12/16(水) 18:38:27
>>96
うん!?
ああ、あれね。
なんかレスの進行ハンパ無く早いから、どっか行っちゃった。(((^^;)
別にいいよ。どのみち話の論点ズレてるし。
100
:
沖浦克治
:2009/12/16(水) 22:45:37
ご本尊様にお題目を唱え、仏道修行をして、人間革命と言う功徳を受けた私や貴方に姿が本。
教学の捉え方の差で目くじら立てて難癖言う人は罰の人生で迹。
101
:
とっくり
:2009/12/16(水) 23:55:32
>>100
アハハ!!
完全に“勝劣”で捉えてんじゃん(ノ∇≦*)。
必死のフォロー台無し。
102
:
沖浦克治
:2009/12/17(木) 07:27:52
本迹が勝劣の時も当然ありますよ。
とっくりさん、少し御書と先生のご指導およみなさいね。
月があって、水に映っている。
月本体は本ですね。
池の物は迹。
池の月は潮の干潮は起こせません。
実態がないですからね。
ですから、生命の進化には役立ちません。
劣るのです。
でもね、俳句を詠む人には役に立ちます。
この場合、池の月が本物より優れているのではないのですよ。
認識の対象としての池に映った月なんです。
竿先に かかれとばかり 池の月
今私が詠みました。
俳句には役に立ちますね。
ご理解できましたか?
103
:
美髯公
:2009/12/17(木) 12:41:44
「随縁不変」で捉える「本迹」には「優(勝)劣」は、ありまへんけど
「価値」で捉える「本迹」には、当ッたり前に「優(勝)劣」は、ありまっせェ〜
良き例が「新・人間革命 第八巻 宝剣の章12」にありますよって、御一読の事を。
結構、各掲示板で引用されていたのとちゃうかな?
「百六箇抄」からの解説だったような。
104
:
とっくり
:2009/12/17(木) 13:55:02
>>103
宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)
105
:
美髯公
:2009/12/17(木) 14:27:58
>宝剣の場所、教えてやったの…俺やないか〜い!!ヾ(--;)
でっかァ〜(^^;ゞ ヒッ!ヒッ!ヒツ! そォらァ〜失礼しましたm(__)m
106
:
沖浦克治
:2009/12/17(木) 14:38:17
とっくりさん
場所知ってても、眺めていたらわかりませんよ。
キチンと読んで思索しないと。
学生が勉強する時は本、遊んでいると迹。
確かそうあったでしょう。
でもね、人としての勝劣は同じ人間ですから勉強する時が優れ、遊ぶ時が劣るとは限りません。
無論見方によるとそう言う場合もあります。
いけないのはね、先生のご指導や御書を、教条的に読みとることです。
そこには思索が入る余裕がありません。
思索が無ければ人としての向上は起こりません。
人間は葦である。
然し、人間は考える葦である。
107
:
大河
:2009/12/25(金) 18:05:36
>90 こんなレスがあったのね。
>また、「御本尊も本であり、衆生も本である」ならば、「迹」は何なのか?
>これの答えは誰にも答えられない。
>なぜなら、その場凌ぎの、思い付きでしかないからである。
>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
>>「御本尊も本であり、衆生も本である」
生死一大事血脈抄
然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
文底から読むと(日蓮大聖人の立場から)
久遠実成の釈尊・・・・・・・・・・日蓮大聖人
皆成仏道の法華経・・・・・・・・・御本尊
我等衆生・・・・・・・・・・・・・私たち
三つ全く差別無しと解りて・・・・「信」の一字で「差別」無し、
この三つ、すべて「南無妙法蓮華経」
御本尊は、人法一箇であるから、
「日蓮大聖人も南無妙法蓮華経、御本尊も南無妙法蓮華経、私たちも「信」を条件に
南無妙法蓮華経、本来「差別無し」ということ。
南無妙法蓮華経こそ「本」という意味で表現したのであろう。
だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。
「差別無し」であるから「勝劣」は無い。
そして、「本・迹」の「立て分け」は、「同一事象」で立て分けるのであるから
曼荼羅と衆生を、「立て分ける」こと自体が、おかしい。
108
:
大河
:2009/12/25(金) 18:10:19
>>107
の続き
>「迹」の無い「本」なぞ在りはし無いし、また「本」の無い「迹」も在りはし無いのだから
御本尊の相貌の「本・迹」は、以下の通り、「相貌」ですからね、念のために、
本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。(先生の御書の世界より)
「御本尊」そのものは「本」である。どこまでいっても、御本尊は「本」以外に無い。
文底独一本門の「本」である。
御本尊を「本」として、あらゆる宗教、そして日蓮仏法以外の仏教経典は、全て「迹」となる。
当然、釈尊の法華経28品全体も、大聖人の文底独一本門からみれば「迹」となる。
釈尊の法華経28品だけであれば、前半14品が「迹門」後半14品が「本門」となる。
私たちの「本・迹」は、
地涌の菩薩として、広宣流布への実践がある時(状態)は「本」
地涌の菩薩の使命を忘れ、怠けている時(状態)は「迹」
これは、地涌の菩薩という「事象」での「本・迹」の立て分けである。
学生が、その本分である勉学に励んでいる状態は「本」
学生が、その本分である勉学を怠けている状態は「迹」
これは「学生」という「事象」での「本・迹」の立て分けである。
起きていて、生命活動をしている状態は「本」
眠っていて、生命活動が停止している状態は「迹」
これは「生命活動」という「事象」の「本・迹」の立て分けである。
(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)
以上でわかるように、「同一事象」での「立て分け」である。
曼荼羅本尊と、私たちは、「本・迹」に立て分ける必要は無い。
繰り返すが「信の一字」を、条件に「差別無し」である。勝劣関係は無い。
又、同一事象としても「くくれない」
必要が無いからこそ、学会出版物にも
「衆生己心の妙法が本・曼荼羅が迹」は、間違いですなどの記載も、当然無い。
まさか、このようなことを言いだす会員が出現することを想定していない。
いや、正確に言えば、「あらぬこと」を言いだす会員が出現することは想定して
いるだろうが、あらかじめ、書いておくのは不自然だ。
109
:
沖浦克治
:2009/12/26(土) 07:10:21
愚か者の戯言・・・・
>だから、「本・迹」に「立て分ける」必要無し。
『又立つ浪吹く風万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。』
(百六箇抄)
所詮、ネットの虚言屋の戯言・・・・・・・・
110
:
美髯公
:2009/12/26(土) 11:07:41
あははは (^0^ ♪ エンドレステ−プでおますなァ〜(爆
御書を引っ張って来ても、自身の思いと違う事の書かれた御書は無視か(^^; 、まァ、それも宜しゅゥおまっしゃろ(笑
他板で、面白いものを見つけたよってに貼り付けておきまっさ
=================================
428 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 22:48:05 ID:g4YvIW0E0
>>329
>是法住法位 世間相常住
>信心即生活
>御本尊を根本にして(信心)即(実践行動)(境智冥合)
>御本尊の力を引き出し自身に仏の生命力を湧かせ生活に
>反映させる。
『大御本尊それ自体は「是法住法位」お姿であり、不変真如の理であるそれを、さらに御本尊を根底に信心を開き、人々の生活の上に、
現実に、智慧となり、大生命力となって、湧現してくるとき、「世間相常住」と読むのである。
この経文の左に「是の法住すれば」と読むべきことを示されているが、これは「是の法」それ自体が、御本尊であり、
御本尊が根底になることを、強く、説かれようとされたからにほかならない
(中略)
御本尊を根本としたとき、われらの生命には、英知が光り輝いてくる。
一切を開き、一切を作りゆくと当体は、はかならぬ、汝自身である。その自身の当体に、偉大なる智慧の湧現があるとき、
必ずや常住不変の、前進の人生を歩んでいけることを強く訴えたいのである』
ここでは、「迹門」を「不変真如の理」として「本門」を「隋縁真如の智」とされている
429 :備前 ◆TtzwqSGci2:2009/11/28(土) 23:08:11 ID:g4YvIW0E0
先の先生の講義を持って考えうれば「人が本・曼荼羅の御本尊は迹」これは間違いではないという事もいえるのである。
なお、この時の「本迹」は「優(勝)劣」ではなく「本迹不二」と了解すべきと思う。
根拠としては、「南無妙法蓮華経」の項で
『隋縁真如の智を離れて、不変真如の理があるのでもなく不変真如の理がなくて、隋縁真如の智があるというものではない。
一切万物の事象ことごとく、隋縁不変をともに備えているものなのである。
この隋縁不変がともに存在しているのが、生命の実相であり本質であり、妙法の実体なのである。』
======================================================
以上
111
:
美髯公
:2009/12/26(土) 11:26:34
まァ、くどく言えば
>本迹に立て分ければ、根源の法である南無妙法蓮華経が「本」で、虚空会は「迹」です。迹をもって「本」を顕すのです。
は、漫荼羅御本尊様をもって「我らの生命」を顕しているという事でんな。
総じて言えば、信心していようがいまいが「我らの生命」と言うのは南無妙法蓮華経と言う事でっせ、お忘れなきようにな。v(^^
別して言えば、信心している「我らの生命」がそう。
で、もう一重立ち入って言えば、「総じて」が「我らの生命」、「別して」が「大聖人様の生命」。
112
:
大河
:2009/12/26(土) 20:01:55
>>108
>(人間だけでなく、その他の、ある程度、(意思)のある動物にも当てはまるであろう)
これは「取り消し」
仏道修行できて、仏界の生命を事実として涌現できる人間の一念が
その他の生物、環境等に、依正不二で影響を及ぼす故。
113
:
沖浦克治
:2009/12/26(土) 21:30:26
貴方自身の存在を、ネットから取り消しなさい。
偽配達員へ。
114
:
美髯公
:2010/06/03(木) 14:21:05
某掲示板で、「一大秘法」云々が話題になっております。 (^^;
①片や「一大秘法は戒壇大御本尊」。ちなみに「三大秘法の御本尊」は、どうも日蓮正宗さんが護持しているのに限る御真筆の御本尊らしい。
御形木も「三大秘法の御本尊」の内なンかなぁ〜?
ちなみに、なぜかと言うと「身延所持の御真筆御本尊も、三大秘法の御本尊なら身延にも『本門の戒壇』があるのか?」と
問うっておったから。
結局、彼の仁の見ているのは形なンよな。『日蓮と同意』と言う五文字が抜けていれば「本門の本尊」安置の「戒壇堂」であろうと
「本門の戒壇」とは謂わんし、また「本門の本尊」でも無かろうに (^^;
②片や「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」。では具体的に謂わばと言えば上記の人と同じ
「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」となる。
結局、相手に反論したいがために表現を変えているだけの事なのね。
「一大秘法」・・・・結句、解釈の仕方、此れに尽きる。なぜなら、大聖人様は、明確にお示しになっておられないから。 v(^^
「一大秘法は宇宙法界に本有常住する南無妙法蓮華経の事」、唱えれば「題目」、視覚に訴えれば「御本尊」、理を思わば「我が当体・生命」
現実を考えれば、「題目」っしょうね v(^^ 小難しい理屈並べず単純に考えれば、そうなりますわな。
「御本尊」安置だけでは、成仏得度は無理でっしゃろな、絶対に「題目」がいりまっしゃろ?「題目」が不要っちゅうのは聞いた事が、ありまへん。
「題目」のみでは、どうか?可能でっしゃろ?御在世当時、皆が皆、大聖人様にお目通り出来てた訳では、無いのと違うかな?
それに、「発迹顕本」前では、誰も成仏出来てないっちゅう事になりますしな (^^;
115
:
美髯公
:2010/06/04(金) 13:19:07
録内・録外御書・・・知った時は、「録内」の方が信憑性が高く「録外」は信憑性に難ありと思っていたが、「録内」にも偽書ありと言う話も有り
少し調べてみると信憑性は同等、ただ纏められた時期が違うだけだった。知らないと言う事は怖いのォ〜 (^0^ ♪
『所詮三周の声聞法華経に来て己心の宝塔を見ると云う事なり、今日蓮が弟子檀那又又かくのごとし、
末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若 し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは
我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり。
今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房
此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず
我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて 南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、
経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝 塔其の前に涌現す」とはこれなり、あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ』
阿仏房御書(宝塔御書) /或文永九年三月十三日
『此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。』
日女御前御返事(御本尊相貌抄) /建治三年八月
上記、二編ともに「録外」に、収められております。真筆無し、写本無し。俗に言う「真偽未決」と言われるものではなかろうかと思います。
あやふやな情報で書いております。申し訳無し m(__)m 新情報を存知よりの方、お教えて下さればと思います。
で、σ(^^ ぁ、何がしたいンだったけ (^^;ゞ ポリポリ ワスレテマッタ
116
:
美髯公
:2010/06/05(土) 13:32:12
もう一つ、抜けておりました (^^; ポリポリ
『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、
譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、』
『されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給いしなり三世の諸仏の出世の本懐一切衆生皆成仏道の妙法と云うは
是なり。是等の趣きを能く能く心得て仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。』
法華初心成仏抄 /建治三年
この、御書探すのに往生しましたでェ〜 (^^; 「篭の中の鳥」で御書検索(満月城岡山)掛けてもヒットせぇへんし、
「篭の鳥」や「篭」でも、ヒットせぇへんかった (;_; シクシク なんのこたぁ〜ない!「かご」の漢字が違ってまってた (^0^;
「籠」で検索掛けてりゃヒットせぇへんわな (^0^; ♪ 「満月城岡山」で使ぉ〜とんは、「篭」の「かご」やさかい (笑 。
ただし、御書全集や編年体御書で使われとる「かご」は、この「籠」ね。 v(-_^
転記ミスか、御書全集でも、古い版かは知れまへンなァ。ちなみに、σ(^^ ン所のは、昭和52年度の版やし。
で、本題。この御書は元々「無年月日」だそうです。よって、少し調べると「弘安元年」と表記している所もありますよってに
「弘安元年」は、間違いと思い込まないよう気ぃ〜つけなはれ。
117
:
美髯公
:2010/06/14(月) 16:11:09
阿仏房御書 / 或文永九年三月十三日・日女御前御返事(御本尊相貌抄) / 建治三年八月・ 法華初心成仏抄 / 建治三年
一応、御本尊に関連した御書三篇、いずれも出世の本懐とされる「弘安二年十月十二日の戒壇大御本尊」の造立もしくは図顕前に当たります。
なぜ、「造立もしくは図顕」かと言うと、人によって違うから (^0^ ♪
普通は「造立」なのですが、最近では「戒壇御本尊は紙幅であったが、有師以降に後世のため楠板に模刻した」と言う人もおられるよってにな。
「弘安二年十月十二日」以前ではあるが、佐渡以降でおます。と言う事は「発迹顕本」された後でんな。おまけに、既に身延に入られておられるし
そして、当然に御本尊は御図顕され、下付され始めておられますなぁ。そういった時期の三篇の御書、「戒壇御本尊」が「一大秘法」、
「一閻浮提総与」であり余の御本尊は分身散体等と言った発想に結びつくものがおませんなァ〜・・・・
では、「御本尊」っちゅうのは、何か?!法華経の行者の一身の当体って謂われておられますな。「一身の当体」っちゅうても、姿・形じゃおまへん。
「我が己心」が、大聖人様が「御本尊」を語られる上での共通項目となっておられますな。
「漫荼羅御本尊」とは、大聖人様の法魂であり、御内証であると同時に、我らの法魂であり、内証であると言う事でおます v(^^
だから、「漫荼羅御本尊」否定は、自身の「己心の釈尊」、「己心の諸菩薩」を否定する事になるから、あかんのですわ。早い話、自身の生命の否定ですわな。
と言って、絶対に「漫荼羅御本尊」を拝さなければならないのかと言うと、そうでもありまへんのや。「拝さなくてもいい」と言う事と「否定」は別問題や。
この辺、解かっとのんか、解かってへんか知らへんけど「拝さなくてもいい」=「否定」と考えとる輩が多いで困ったもんだわ (^^; (笑
118
:
備前
◆TtzwqSGci2
:2010/09/24(金) 12:43:20
うっす!久しぶり v(^^ 美髯公!なんぞかんぞと続いているようだね (笑
あまり、活況で無いから議論ネタ(此処でなるかな?)を落として行くね (笑
おまえさん好みのネタだと思うが違ってたらメンゴな! (^0^; ♪
=====================================
140 :大河:2010/09/24(金) 10:26:49 ID:U0lvXrxU0
再掲載
133 名前:大河 投稿日: 2010/09/24(金) 07:47:15 ID:U0lvXrxU0
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/9645/1217901876/187
> 御書を読めば、物体であるお漫荼羅が、
>一大秘法や出世の本懐になれない事が直ぐ理解可能です。
一大秘法すなわち本門の本尊の「定義」
日蓮大聖人が胸中に所持されている久遠元初の妙法である
南無妙法蓮華経・・・・・・・& それを図顕した曼荼羅本尊
久遠元初の法
板曼荼羅でなく「久遠元初の法」・・・分身散体の義
全く池田先生のご指導の通り、
>それでは世界広布が不可能だからです。
分身散体の義により、日寛上人書写の御本尊が
世界広布している事実がある。
=====================================
まっ、気が向いたら考察の一つでも書き込んでいてくれ (爆
119
:
美髯公
:2010/11/28(日) 16:58:40
立宗の日にちなみまして考えますことは " 日蓮大聖人は、いったい何をこの世にお弘(ひろ)めになろうとされたのか " という一点であります。
それは、端的に申し上げれば「本尊」であります。「根本として尊敬すべきもの」としての「本尊」であります。
人は、根本に迷えば、枝葉にも迷い、根本に迷いがまければ、枝葉末節の迷いもおのずから消えていくものである。故に、いちばん大事な根本の
ところのものを、一切衆生に与え、弘められたのであります。
では、その「本尊」の内容とは何か。それに関しては、御書のなかにおいて“ 自分は幼少の時に、清澄寺で虚空菩薩に対して、日本第一の智者に
なしたまえと祈って、大智慧をたまわった ”という意味のことを述べておられますが、晩年において、その具体的内容を第二祖日興上人に示して
おられます。
すなわち「御本尊七箇の相承」のなかに「明星直見の本尊の事如何、師の曰はく末代の凡夫・幼稚の為めに何物を持って以って本尊とす可きと・
虚空蔵に御祈請ありし時・古僧示して言わく汝等が身を以って本尊と為す可し・明星の池を見給へとの玉へば、即ち彼の池を見るに不思議なり
日蓮が影・今の大曼荼羅なり 」というのが、それであります。
これにつきまして、あえて誤解をおそれずに申し上げれば「 汝等が身を以って本尊と為す可し 」とある通り「 人間の生命をもって本尊とせよ 」
とのことでありまして「 一切の根元は“ 生命 ”それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに“ 人間生命 ”
そのもである 」という哲理であり、思想なわけであります。
120
:
美髯公
:2010/11/29(月) 19:59:39
では、そう断言できる道理の根拠は何か。それは同じく同抄のなかに、このように申されております。
「師の曰はく法界の五大は一身の五大なり」。そして、また「法界即日蓮、日蓮即法界なり、等位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・
因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞いなり」云々と。
すなわち、日蓮大聖人が仰せられるのには「宇宙法界の全要素」と「日蓮という一個の生命体の全要素」とは、全く同じものである。
日蓮の振る舞いというものは、人工的な作為を越えたところの、自然の奥深い因果に基づいた「心法妙」の振る舞いなのであり、それ故に、
この生命を「本尊」として大切にできるのである。という意味のことを、述べておられるのであります。
私どもは、このご教示において「生命の尊厳」の原点を見いだし、改めて“人間とは何か”ということを問い直し、この二十世紀において、
新しき人間の復権を目指して、斬新(ざんしん)なる庶民と地域の文化諸活動を、展開しているわけであります。きょうのこの「文化祭」も、
その一つの昇華であります。
以上のように申し上げますと、一つの疑問がでてくるかもしれません。それは「原理上は確かにそうであろうが、現実問題として見るならば、
同じ“ 一個の生命体 ”tぴっても、日蓮大聖人は悟っておられる。我々は毎日迷っている。したがって、両者の間には、埋め尽くせない、
越えがたい断層が存在しているのではないか」ということであります。
121
:
美髯公
:2010/11/30(火) 20:00:20
だが、この疑問に対しては、日寛上人が「寿量品談義」のなかにおいて、まことに鮮やかに解答を与えられているのであります。
すなわち「仏界を成ずることは因行による、因行を励むことは信心による、信心を進むことは法を聞くによるなり。聞かずんば信心生ぜず、
信心生ぜずば修行を怠る。修行を怠れば未来何なる処に生るべしや。仍て歩を運んで聴聞肝要なり。聞く裏に信心を生ず、其の間が仏なり。
一念信心を生ずれば一念の仏、二念信心生ずれば二念の即仏乃至一時信心生ずれば一時の仏なり、一日信心を生ずれば一日の仏なり乃至云云。
信心生ずること必ず聞くに由るなり、縦ひ信心を生ぜざる裏ありとも、聞きさへすれば功徳無量なり」と。
先ほどの疑問は、この日寛上人のお話によってお考えいただければ、道理のうえからお分かりいただけると、思うのでございます。
つまり、大聖人も私ども凡夫という両者の断層には "法を聞くこと" "信心という橋をかけること" によって、立派に往来できると、日寛上人は
教えておられるのであります。
「一念信心を生ずれば一念の仏」であるならば、願わくば、一生信心を貫いて、生涯の仏たらんことを願い切って、
"この世を生きることそれ自体が、楽しくて楽しくてたまらない" というような遊楽の人生を、生き切ってまいりたいと思いますけれども、
いかがでしょうか。
122
:
美髯公
:2010/12/08(水) 12:50:03
上記、三投稿はワテが最初かと思っとりましたんやけど先に書いてた人が居りましたわ (笑
eco氏主催の「五座三座」っちゅう掲示板でおます。したが、皆さん情報がが早いわ〜 (^^;
単に、ワテが遅いだけでっか?しっかし、どっから引っ張って来るんでしょうかね〜?ワテはそっちの情報源の方が知りとぉおます (笑
======================================================================
なら、敢えて書きましょうか?
人本仏釈論を最初に唱えたのは皮肉にも かの池田先生ですよ。
証拠(1)
http://smw69.exblog.jp/6586612/
証拠(2)
http://smw69.exblog.jp/6586591/
これは新人間革命にも書かれていた内容でした
それを拡大解釈してしまった結果が沖浦氏の「人本仏釈」なんですけれど
======================================================================
あのぉ〜 細かい事かも知れへんけど、字ぃ〜が違うんでっけども・・・・・(^^;ゞ
「人本仏釈」やのぉ〜てぇ〜 「人本仏迹」やなんだけどもぉ〜・・・・・
それに、此処では「人本仏釈」ではなく「衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹」の方だと思いよりまっけどなぁ〜
123
:
美髯公
:2010/12/10(金) 13:05:54
で、書き忘れたもんで、一点。
「それを拡大解釈してしまった結果」ではありまへんでぇ、素直に読んでみなはれ。
「衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹」と言う結果になりまっせ。
ただ、「漫荼羅御本尊を迹門不変真如の理」と明言されたりした時、「本門随縁真如の智」は何かと言う事に関しては明言されておりまへん、
逆もまたしかなりえおます。
明言すれば、色々差し障りが出てきますよってに、後は各人察せよとの姿勢でおますわな。
125
:
首都高バトル01
:2011/10/23(日) 22:39:19
ご無沙汰してます。
この考え、どう思われます?
十界互具について
十界互具を人間の生命内に観ると、
まず依報(さまざまな十如是の姿)を覚知することにより十界が顕れる。
そしてそれに対処しようと、正報の自らの境涯に応じて収まる十界より顕れ、対処しようとする十如是(立ち向かう自分の姿)が、顕れる。
十界×十界、それぞれに十如是が収まる。心具から始まり心生(湧現、顕現)へ・・・十如是を持って十界は顕れ、十界を持って十如是が顕れる。
働きを捉えることで、十界互具がどういうものか、見えてくる。
妙法蓮華経は、即これ十界互具である。
126
:
首都高バトル01
:2011/10/23(日) 22:40:52
認識と対処・・・
生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。
十界互具についてこういう捉え方をする内容があるかを
あちこち見たのですがなかったものですから、お尋ねしました。
127
:
美髯公
:2011/10/25(火) 21:40:47
おばんです!初めまして、首都高バトル01 はん。
正直、言わはっとる事が、よォ〜理解出来てへんのんやけど・・・・一つ (^^;
> 生命内においてそれぞれの境涯に応じて十界と十如是が役割と働きを行う。
【それぞれの境涯に応じて】とありますが【十界】そのものが【境涯】と違いますやろか?
128
:
首都高バトル01
:2011/10/25(火) 23:53:52
どうもです。
そうですね。
それぞれの十界の境涯に応じて、十如是が役割、働きを行う。
129
:
首都高バトル01
:2011/10/26(水) 00:46:30
これは、わかります?
・十如是(正確な言葉が見当たらないのですが、、、所、つまり依報の)を持って十界が顕現する。(言い換えれば依報を持って十界が顕現する)または、まわりの妙法蓮華経の姿を持って十界が顕現する。
・十界(それぞれの境涯が対処しようとする命)を持って十如是が顕現する。
いつも私が使っている例で、考えてみてください。
「 蛇に、にらまれた蛙 」
蛙は、瞬間的に依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、この場合は蛇ですが、
蛇の持つ特性と蛇がこれから蛙に向かって行おうとする一連の行動を見ます。
これが依報に存在する一つの妙法蓮華経の姿、十如是です。
蛙は未来に起こる一連の現象を見ます。(自分が食べられる姿を)
瞬間に心が出てきます。(恐怖の、、、この場合地獄界でしょうか?)
*十如是を持って十界が顕現する。
*十界を持って十如是が顕現する。
蛇と蛙の例で、これは想像してみてください。
蛙が何も出来ない場合は、身動きできず、地獄即地獄。
蛇は、空腹なら地獄即餓鬼。
十界互具が見えてきているように思うのですが、いかがでしょうか?
130
:
美髯公
:2011/10/26(水) 20:35:30
おばんです、首都高バトル01 はん
十如是が依報でっか?なら十界が正報? (^^;
なァ〜んか、十界と十如是の関係の考え方が違うように思いまっけど (^^;
極端な言い方を許して貰えば、十如是っちゅうのは、十界の付録みたいなもんでしゃっろう?
所謂、本誌 (十界) があるよってに、付録 (十如是) があるみたいに。
また、十界は項目で、十如是は、それの解説という事もいえるのと違いまっか?
十界 (境涯) が決まる事によって、その境涯に応じた働き (十如是) が、あるのであって、
働き (十如是) によって境涯 (十界) が決まるっちゅう様なことは、無いと思いまんけど・・・
131
:
首都高バトル01
:2011/10/27(木) 00:07:43
依報に存在する妙法蓮華経(十如是)の姿を五陰で認識し、それを持って境涯に応じた十界が顕現する。
心如工画師を思い出して下さい。
九界即仏界、仏界即九界は、真の十界互具の在り方。
これを言っておかないと単なる華厳の説明に終わってしまいますので。
言っていること、御理解していただけますでしょうか。
132
:
首都高バトル01
:2011/10/27(木) 00:22:30
斧さんところの創価王道で、
十界互具と十如是の説明をされ、十界互具は十界と十界に所と能の違いがあると言われおり、そこで終わっております。
その続きを説明しています。
133
:
首都高バトル01
:2011/10/27(木) 01:25:04
立て続けですみません。
御文に、
「釈尊五百塵点こうの当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」御書P513.
*本は、本地久遠元初。 *理は、難思境智の妙法。
この本理が本地難思の境智の妙法、即.事の一念三千であると言うこと。
134
:
首都高バトル01
:2011/10/28(金) 18:39:57
十如是を持って十界が顕現するを否定すると、
南無妙法蓮華経、御本尊を持って仏界が湧現することを否定することになります。
御本尊に(題目を唱えることに)より、自受用身できなくなります。
話は変わりますが、(というより変わっているようで続いています。)(体と用が倶体倶用であること、そして迹本不定へ。)
御義口伝、冒頭の帰命について、
なぜ色心が出てくるか、わかります?
この色心が、「 不変.随縁 」とは何かを指す、解くヒントです。
これがなんであるかわかると、本迹一致(本迹不二と言う言葉はありません。)ではなく、本と迹が不定(迹本不定)であることがわかってきます。(また説明します。)
前回の「十如是を持って十界は顕現する」は、
創価の出版物、書籍からの引用です。
その内容は、また書きますのでよろしくです。
135
:
首都高バトル01
:2011/10/28(金) 18:56:53
また
諸法実相抄の
「実相は南無妙法蓮華経の異名なり」の実相もこの不変真如にあたります。
またあとに出てくる本有は、随縁真如にあたります。
取り急ぎですみません。
続きは、またということで。 よろしくです。
136
:
首都高バトル01
:2011/10/30(日) 01:42:42
・サイコロを転がすと毎回、目が数が違う(同じ数の時もある。)。(サイコロが止まった瞬間や、止まった時)
・生命は、たえず変化している。いま見た瞬間が次には、変わっている。転がしたサイコロのように定まらない。
そしてグ〜ルグル回っている。グ〜ルグルと。
・色心で見てみます。
生命は永遠不変であり、人間の生命は、肉体を構築し、肉体(妙法蓮華経の姿)に属します。
仏界は、心に属し、本門に有ります。また縁に随がい(御本尊、題目)、現れます。
生命も仏界も差別がなく、絶対であります。
その生命と心、仏界と肉体をグ〜ルグルまわり、一定にとどまらず、変化します。
・永遠不変の生命から縁に随がい心(十界、仏界)が現れ、その心が肉体を動かします。
・サイコロの目、数のようにある時は、永遠不変の生命のまま(ボ〜としているのかどうなのか?心が現れていない状態)。
またある時の一点をみると、心が肉体を動かしている状態。つまり不定。
生命とは、迹門不変真如。 仏界とは、本門随縁真如。
人が生きている限りたえず変化し、一定でない。
・依正で見てみます。
御本尊は、非情に属し、体は永遠不変の生命の冥伏した妙法蓮華経の姿というより、体は永遠不変の生命を保ち(冥伏し)ながら、仏界の生命が全面に出たまま、(ヒーローズのヒロ.ナカムラが時間を止めたそのままの状態)止まっている状態。
・とても失礼で申し訳ないのですが、
サイコロをふってみます。
御本尊は、不変真如から随縁真如、出現停止状態。我々は、その都度変わる、変化する。
・すべてのもの(生命)には、仏の命が具わっており、差別が無いこと。
随縁不変・一念寂照の御本尊。
・迹と本は定まらない。・・・迹本不定。
参考・・・御書P.708
御義口伝の冒頭の帰命についての所、参考にして下さい。
また御書P.239
有情.非情の所、参考にして下さい。
137
:
首都高バトル01
:2011/10/30(日) 01:52:04
訂正
×出現停止状態
○出現して、停止状態
138
:
首都高バトル01
:2012/01/04(水) 23:16:18
2012年も 宜しくお願いします。
十如是を持って十界が顕現する。は、
以下の内容の中に書かれています。
(赤鬼さんの教学.十章抄でもその内容は見れます。)
「 十如是とは、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である。
[ つまり諸法は必ず相、性、体…
如是本末究竟等の十の範疇をもって顕現する
ということが真実の相であると説いたのである。]
諸法とは森羅万象であるが、十界に収まる、とすると、
諸法実相十如是とは、地獄界、餓鬼界…仏界のどの界も、
平等に[ 十如是をもって顕現する ]ということであり、
十界が、現象として顕現した面では相互に差異があっても、
顕現する仕方、形式の面においては平等であるという真理が
ここに明たかにされたことになるのである。
その結果、[ 二乗も含めて一切衆生が、
仏と同じく十如是の法則に基づいて顕現している ]ことであって
成仏の可能性をもっていることが明らかになったのである。
このことによってまた、これまでの三乗を開いて一仏乗を明こすことが
仏の本意であるという開三顕一の法門がほぼ明かされたことになった。
ここから“略開三の十如実相”といわれているのである。
ちなみに、「広開三顕一」は、方便品の一大事因縁・開示悟入の説法が
それにあたる。
そこでは、はっきりと、釈尊が自らの出世の目的は衆生をして
仏の知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏知見の道に
入らしめるところにあることが宣言されたのである。
さて、十界の一切衆生が仏知見すなわち仏界を具えているということは
十界がそれぞれに十界を具えているということである。
ここから十界互具・百界千如の法理を天台大師は立てたのである。」
139
:
eco
◆Smw69BiSBo
:2012/06/09(土) 08:18:41
お初なのですが なんか風の便りで呼ばれてしまったので・・・・・
>>122
ブログで引用した「金沢講演」の資料は、昭和50年頃に発刊された小冊子のもので
その冊子自体 絶版になっているので もしかしたら「全集」の何処かにあるかもしれません。
掲載した理由は、御本尊のことで、2ちゃんでも あれこれともめていた時期だったので 当時、「参考」という形で掲載しました。
>>人本仏迹
「字」のことは無視してください(涙)・・・・
>>衆生己心の妙法(御本尊)本、漫荼羅御本尊迹
それを聞いて「自分が御本尊だ 俺が基準」と解釈して勘違いしてしまったのが・・・・(お察しください。)
ただし、彼には過去「金本位」と「通貨管理制度」の違いを比喩にして説明したことがありましたが
それがちょっと理解ができなかったようです。
ちなみに人本仏迹は牧口先生が用いた「価値論」で簡単に破釈ができてしまう 単純なものです。
もっとも・・・・ その背景には「記憶の干渉」や「伝言ゲーム」や「思い込み」等々
心理的な要素の観点から さまざま角度でプロセス等がよみとれますが
いずれにしても 指導者の言は、無謬性などの働きにより 一種の権力にも陥りやすく
結果的には さまざまな人に「影響を及ぼす」ので
だから人間革命の11巻では「トップに立つ人の言葉は重い」・・・と記したんじゃないでしょうか?池田先生?
・・・と「嫌味」も記しておきます。 あの対告は 自分に降りかかる事を考えず小泉(隆)さんに言い聞かせていたけれど
今でも ここ 最近の「新人間革命」や「指導」など読んでいても、結局は「他人事」の感覚でしか物事を書いていない。
そして「自分が一身になって・・・」と たとえ小説では綺麗ごとを並べて言い張っても
現実問題 それらの責任はとっていないし 勘違いによる暴走の結果に対しては
フォローもできずに止める事ができていないし 結果的には無責任のまま・・・・・・
140
:
見習い
:2012/06/12(火) 19:26:21
いらっしゃいませ、eco様 m(__)m
管理人代理をやらせて貰っております、見習いと言います。
久々のお客様、嬉しく思います。
早速の書き込み有難く存じ上げますが、当掲示板には一応【自己紹介】と言うスレッドを設けておりますので
そちらの方に書き込みいただいて後、本迹関連の部屋、口舌の輩の部屋、管理人室への書き込みをお願い致します m(__)m
145
:
沖浦克治
:2016/01/28(木) 06:58:59
極めて基本的な大聖人仏法の道理を書いておきます。
日蓮正宗と言う宗派は。戒壇本尊原理主義です。
それはご勝手にどうぞ。
ですが、アホなことを言い過ぎると愚かを晒しますので注意しましょうね。
例えば、
戒壇本尊にお目通りできななら、成仏は叶わない。
こういう事は御書に欠片もございません。
御書には明記されてあります。
『第六此人不久当詣道場の事
御義口伝に云く此人とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり、』
(御義口伝巻下)
これだけ具体的に書かれてあって、未だに、
戒壇本尊にお目通りが〜〜〜〜〜〜〜!!!!!
ダメだ!!
こりゃ〜〜!!
146
:
沖浦克治
:2016/05/22(日) 21:01:02
今晩は、皆様方。
今朝仏間で唱題中悟りました。
御本尊を拝むことは、大聖人個人を拝むのではない。
一切衆生を拝む行為!!
ご本尊の位置づけが凄くすっきり致しました。
嬉しいです。
創価学会に入会した時、御本尊は大聖人そのものだと教えられて来ました。
寛師の六大秘法を創価学会も採用していたからです。
その後、自分で御本尊は大聖人ではないと悟りました。
然しながら常に位置づけに疑問がありました。
御本尊は衆生己心の妙法を写し取ったものです。
でもやはり曖昧さが常に残っていました。
今朝突然唱題中に悟りました。
御本尊を拝むことは、一切衆生に合掌礼拝の行をしていることなんだ。
凄くすっきりしましたよ。
147
:
沖浦克治
:2016/05/25(水) 17:16:31
よく思います。
人生の幸不幸、成功不成功って何なんだろう??
長いこと生きてきて悟ったことがあります。
それは、
少し満足できる人生を望むなら味方を作れば良い。
最高の人生を歩みたいなら、憎まれることを恐れない勇気を持つ。
気付くのに長いことかかりましたが、今は全く生き様に迷いがございません。
148
:
備前
◆TtzwqSGci2
:2016/05/26(木) 00:42:13
こんばんは、沖浦さん
>>146
> 創価学会に入会した時、御本尊は大聖人そのものだと教えられて来ました。
そうですね、人法一箇の故と教えられましたね。
しかし、生命論から見るとおかしな話ですよね
万歩譲って、大聖人ご存命中なら通用したでしょうがねェ〜
149
:
沖浦克治
:2016/05/28(土) 07:04:04
備前さん、おはようございます。
御書には大聖人本仏論はありません。
最初のお人だと明記されてあります。
捻じ曲げたのが寛師。
習いそこないですね。
150
:
沖浦克治
:2016/05/28(土) 07:06:22
オバマ大統領が広島で語られました。
核兵器のない世界を作ろう。
自分が生きている間に無理だとしても必ず作らねばならない。
1957年9月8日の戸田先生の原水爆禁止宣言から59年・・・
https://www.youtube.com/watch?v=au0rr5zPixE
世界の指導者がこういう講演をするところまでやってきました。
牧口先生、戸田先生がご存命であられたならば、どれほどかお喜びになられたでしょう。
SGIと池田先生の不惜身命の戦いが時を呼び寄せたと信じる一人でございます。
151
:
沖浦克治
:2016/05/28(土) 10:15:46
戸田先生は池田先生に、
自分が亡き後7年間で300万所帯達成。
を御遺命なさいました。
200万所帯と最初に言われ、直ぐ、
『いや300万所帯だ。
大作やれるか?
急がねばならんのだ。』(趣意)
と言われた意味が、このオバマさんの演説でよく理解できました。
あの300万所帯の達成に人類の滅亡がかかっていたのです。
152
:
沖浦克治
:2016/05/31(火) 05:57:24
フェイスブックに今書きました。
嫌われれる勇気、という本が出ているようです。
もう、30年以上前の事です。
演出家と二人で苦労して舞台をやっていました。
その時演出家が聞きました。
沖浦、お前どういう生き様したい。
お答え致しました。
舐められて可愛がってもらうより、恐れられて嫌われたい。
二人で大笑いしました。
今そういう人生です。
でもね、10年間悪口言い続けられたお方は信頼できます
悪口は下から上に向かう傾向が強いのです。
10年間悪口雑言の嵐の人は、誰も交代できない能力を持っておられます。
火事場の消防自動車です
少々の事では存在を否定できません。
『鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、』
(日蓮聖人ご遺文)
こういう人に私はなりたい・・・・・
153
:
沖浦克治
:2016/06/17(金) 04:35:38
おはようございます。
出発の朝となりました。
7時12分のバスで新宿から成田。
19日が本番。
練習で何千回してきたことを大会でやるだけです。
『勝ち負けは
人の生命の
常なれど
最後の勝をば
仏にぞ祈らむ 』
戸田先生のお言葉を胸に秘め、戦って参ります。
154
:
沖浦克治
:2016/06/27(月) 07:58:47
選挙で民進党へ入れた事を書きました。
早速問題だとしてクジラさんの板で騒ぐ人がいます。
以前、
戒壇本尊本懐の邪義たること。
興師の唯受一人を否定。
曼荼羅は道具。
だと書いた時も、同様の反応が激しく起こりました。
真面目な創価学会員はそういう反応を致しません。
反創価の人は反応します。
何故か?
困るからです。
以前法華講の方々は、
創価学会は破門であるから戒壇本尊からの功徳がない。
唯受一人を嫡々一人として受け継ぐ猊下のご威光も及ばない。
これが武器でした。
私は根底から否定したのです。
そんなの要らね〜〜。
困ったでしょうね。
ですので、あちらこちらで創価学会員に成りすまして私を激しく攻撃なさいました。
次に法華講員の方々の攻撃は、
創価学会員は聖教新聞を沢山とらされ、広布部員は何十万円と強制され、選挙になると全員が休む間もなく駆り出され、民音のチケットも無理やり押し付けられている。
それで生活も苦しくてゆとりも全くない。
こういうものでした。
ですので私は、
私は聖教新聞は家族で一部、推進はやらない、選挙活動は全くしなくて広布部員は一人一口、民音などは行ったことがない。
創価学会関係でかかる費用は、交通費まで含め全部合わせても、年間に家族で4万円ほどしか使わない。
と、事実をキチンと提示致しました。
これは彼らは困ったでしょうね〜!
これで法華講さん達の武器はもぎ取られてしまいました。
その上、法華講さん達と仲良くなって一緒に写真を撮ってネットでドンドンアップ致しました。
その効果も少々あって、最近は法華講さん方はめっきり弱くなってしまっています。
クジラさんの所へ書いた人はその名残の方ですね。
進歩のない人です。
155
:
沖浦克治
:2016/06/29(水) 15:14:25
下種仏法の血脈についてです。
先ず、高僧から高僧へと伝授される血脈という思想は大聖人仏法にはございません。
御書には明確に書かれてあります。
『夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、』
(生死一大事血脈抄)
血脈とは南無妙法蓮華経そのものです。
そして、
『総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、』
(生死一大事血脈抄)
私どもが南無妙法蓮華経と唱える所がそのまま生死一大事の血脈です。
何故ならば、一切衆生の命はすべて南無妙法蓮華経だからです。
人が思考を重ね思索をし、突き詰めて行くと、最後は南無妙法蓮華経を悟ります。
私どもの命はそういうふうに出来ています。
ですので、
何方か特別な一人が常に師匠の悟りを相伝して伝え広める。
こういう思想は大聖人仏法にはございません。
釈迦にもありません。
釈迦は、舎利弗も須梨槃特も平等に教えております。
特別な英才に後世の広布を託す、という方式は仏法にはございません。
『所謂地獄の一人餓鬼の一人乃至九界の一人を仏になせば一切衆生皆仏になるべきことはり顕る、譬えば竹の節を一つ破ぬれば余の節亦破るるが如し、』
(法蓮抄)
一切衆生を仏にするためには、あらゆる階層の一人を仏にすることが肝心だ。
この観点は、一切衆生を平等に扱うことが基本です。
『一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
この通りです。
ですので、興師に限らず何方か特別な人が大聖人の後をついで法を伝えるという思想は初めからありません。
最初から下種仏法の血脈は断絶することがありません。
衆生が一人でも生きている限り、その方の命には下種仏法の血脈である南無妙法蓮華経が息づいております。
156
:
沖浦克治
:2016/07/21(木) 08:06:13
今時こんなことやってるようじゃね〜〜
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20150522-001.html
157
:
沖浦克治
:2016/08/06(土) 07:07:02
71回目の広島原爆の日。
謹んで犠牲になられた方々の追悼を致します。
南無妙法蓮華経・・・・
158
:
沖浦克治
:2017/01/05(木) 04:56:14
創価学会仏、と私どもが未来の経典に書かれる。
創価学会は公式に見解を出しました。
ここで考えられることは、その時点では創価学会は存在を止めていると云う事です。
運転手と云う職業がありますが、近い将来自動運転技術が円熟し普及するなら無くなります。
自動車運転教習所も消滅致します。
太陽光発電が進化し、蓄電池も桁違いに良くなり、インホイールモーターなどの先進技術が当然になると、ガソリンスタンドは要りません。
以前、大きな企業には電話交換手が普通にいましたが、今はそう云う職業がありません。
日蓮思想が世界の思想の根底に座る日は、創価学会が不要になる日です。
既に創価学会は指導主義を止め、励まし主義になっています。
それでないなら存在できないからです。
近い将来、アメリカ市民が教会へ行くような信仰のやり方が、創価の信心の主流になるでしょう。
宗教活動と日常生活の境が無くなるのです。
当然、選挙戦を組織でやることも無くなります。
良い悪いではなく、時代の要請です。
私は創価学会員としての最後の世代の闘いを経験致しました。
福運があったと感謝しております。
159
:
沖浦克治
:2017/01/10(火) 06:15:45
自分が大聖人と寸分たがわない南無妙法蓮華経如来である、と心の底から信じる。
これが出来るなら人生は変わります。
師匠がネールさんの言葉を引用なさいました。
『仏教が堕落したのは釈迦を人間から離れた特別な存在としたからだ。』(主意)
私共は寛師の、
大聖人だけが特別な存在で人間とはかけ離れている。
この思想に知らず知らずの内に毒されて来ました。
今創価学会はその思想からの脱却を図っている最中です。
戒壇本尊本懐の否定。
全てのご本尊への平等観。
創価学会仏の公表。
寛師教学の否定。
今後の展開で更に進むと思います。
創価思想の幕開け!!
私共は寛師から大聖人仏法へ入りました。
ですが、SGIにはそう云う思想はございません。
最初から大聖人本仏思想がない。
驚くべき事実です。
SGIでは大聖人を優れた思想家の面から強く捉えています。
創価学会はSGI傘下の団体。
近い将来当然その方向へ向かわざるを得ません。
今からその思想の変換に備えておいた方が良いでしょうね。
160
:
沖浦克治
:2017/01/11(水) 06:18:04
おはようございます。
御書には一切衆生が南無妙法蓮華経如来だと書いてあります。
後は門下としてそれを信受するかしないか?
個々人の信心の厚薄の問題です。
別しては大聖人、総じては一切衆生が本仏。
これも間違いです。
等しく大聖人と寸分たがわない本仏です。
ここがわからないと不軽菩薩の行は出来ません。
ご本尊手を合わせて唱題していても、
このご本尊は一切衆生の命を形どったものだ。
このご本尊を拝むことが一切衆生を拝むことにな。
法華経の修行の肝心である不軽菩薩の行が、このご本尊に向かう唱題なんだ。
ここを理解するべきですね。
世界中の宗教が人間の上に神を据えてダメになっています。
私共はその轍を踏む愚かを犯してはなりません。
そのための創価学会なんですよ。
今創価学会は未来の経典に私どもが創価学会仏と記されると高らかに宣言いたしました。
新しい時代、新しい宗教、新しい思想の幕開けなんです。
私共はSGIの一員です。
そこでは大聖人を宗教かではなく、革命家思想家として捉えています。
価値観の逆転があるのです。
遅れないように致しましょうね。
宗門の念仏題目なんか捨てましょう。
161
:
沖浦克治
:2017/01/12(木) 05:31:27
人と仏の本迹について。
創価学会は世界広布新時代にあたり、
人のための宗教!!
を高々と宣言いたしました。
人間革命に明確です。
AのためのBならば、Aが目的Bが手段。
これは大原則。
人間(の幸福)が目的、宗教はそのためにある手段。
仏法は衆生のためある教えですが、日蓮正宗時代反対になっておりました。
破門からもう直ぐ30年。
宗門の蔭も消え去り創価学会は教義を一新。
更にまだまだ変更するでしょう。
良い時代となりました。
大聖人仏法は衆生のためにあります。
これは大原則で国の憲法見たいなもの。
大聖人仏法では人間の事を凡夫と云います。
凡夫に二種類あって、仏と衆生。
同じものですが異なりがあります。
御書には、
『衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、』
(一生成仏抄)
わかりやすく云うなら 冰と水の関係に似ています。
双方同じ、H2 O。
仏法は人のためにある法ですので、衆生を済度するために仏が出る。
当然主体は衆生で、仏は従になります。
これが人類全体からの主と従ですし、本迹とも云えます。
人が本仏は迹。
そしていま一つの観点からです。
では私共個々人の中ではどう云う関係になるのか?
私共は本来は久遠の南無妙法蓮華経如来です。
御書にありますね。
ですが、今はそれを忘れて(迷って)います。
貴方は100%の仏様ですか?
こう問われて素直に、ハイと答える人は少ないです。
迷いがそう云う答えをさせています。
所がSGIのメンバーは同じ問いに、
ハイ!!
と答えます。
迷いがないのですね。
以下於保さんの講演から抜粋引用いたします。
(2009年12月06日『海の文化と村の文化』)
そこで、「この中で,自分のことを南無妙法蓮華経如来だと信じられる人?」と手をあげてもらったんです。フランスのメンバーは6人全員、「はい」と元気いっぱい手をあげたんですよ。日本のメンバーは40数人中3人でした。
〜引用終わり〜
御書にば私どもが人の形をしているのは迹で、本地は仏だとあります。
『下種寂照実事体用無上の本迹 生仏一如の事の上の本覚の寂照なり人は迹仏は本なり云云。』
(百六箇抄)
久遠からの南無妙法蓮華経如来が、たまたま地球と云う星に人類の恰好で生きている。
端的に云うならこう云うことです。
ご本尊と拝む私どもの本迹などは簡単です。
創価学会が見解を出したでしょう。
仏道修行のためのご本尊。
当然拝む側の私共は本、手段としてのご本尊は迹。
迷う必要すらございません。
162
:
沖浦克治
:2017/01/12(木) 07:03:35
私や貴方方個々人の立派から更に考察致します。
自分の事を仏法では正報と云います。
その正報である自分を取り巻く一切の環境を、依報、と名付けます。
『夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる』
(瑞相御書)
最後の正報を依報がつくるとの思想は、現代の物理学や天文学をリードするものですが、又の機会に譲ります。
依報は影であって正報が本体、正報がないなら依報は存在しない。
ですので、正報である衆生(私共)が本、囲む環境である依報が迹。
個々人に訳すなら、個人と云う存在がその方にとって本、囲むすべての環境は依報で迹。
人間関係に限定して述べるなら、例えばAさんと云う方がおられるなら、Aさんだけが本、他の私共は迹。
自明の理です。
当然Aさんを囲む人間関係には、師匠である池田先生や同士である私どもも一切含まれます。
若し大聖人と同じ時代で四条金吾から見ると、大聖人も迹になります。
これは大聖人を軽んじるとかと云うレベルの事ではなく、依正から見るとそうなると云う事。
四条金吾を私や他の方々に変えても同じですね。
所が、ダメな方々もおられて、
沖浦は自分が本仏で大聖人が迹仏だと云った!!
愚かなものですね。
頭破七分です。
私はそう云う事は一言も云いません。
当時御本仏は大聖人お一人と常に書いております。
現在は機根が整い始めたので、少々発言に変化がございます。
ですが大聖人を尊敬し奉り事には変化はございません。
結論です。
自分にとって自分が世界の中心にいる!!
自分がどこまで云っても本!!
自分の人生に主役は自分一人!!
ここがわからないと虚しいですね。
折角の創価人となった意味が薄れます。
本迹って、人生の勝利に大事な大事な概念ですよ。
迷ってる場合ではございません。
163
:
JJJ
:2017/01/22(日) 06:54:54
おじゃまします。
凡夫は、本来、本仏(南無妙法蓮華経如来)とすると、………。
御本尊は、本来、本門の本尊。
と、見るのが、整合性があると思われますが、
そう捉えるのは、私だけでしょうか??
164
:
沖浦克治
:2017/01/30(月) 05:47:05
本尊に迷う人が多いですね。
寛師の邪義、戒壇本尊本懐と三大秘法当体論の蔭を引きずる人たちです。
曼荼羅本尊は迹であって、本は私共衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
御書に明快です。
観心本尊抄には曼荼羅本尊が仏像だと明記されていますし、この御書の少し後で書かれた顕仏三来記に以下の御文がございます。
『爾りと雖も仏の滅後に於て四味三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん此の人は守護の力を得て本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、』
(顕仏未来記)
本尊抄は文永10年4月、顕仏未来記は同年5月。
本尊抄の後で明確に本尊の本体をご指南です。
『本門の本尊妙法蓮華経の五字を以て閻浮堤に広宣流布せしめんか、』
誰でも理解出来ますが、頭破七分の人は読めません。
怨嫉謗法ってね、御書まで読めなく致します。
損ですね〜〜!
165
:
沖浦克治
:2017/01/30(月) 20:36:27
三大秘法ってね、物じゃないのですよ。
命そのものです。
衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経が本門の題目でそのまま本門の本尊。
本門の戒壇はその本尊と題目の活動の場です。
固定された大伽藍ではありません。
『されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、』
(最蓮房御返事)
私共が信心をしながら生きて行く場所すなわち常に寂光土だとあります。
寂光土とは仏の住所、それが本門の戒壇です。
御書に書いてあるのですよ。
所が寛師の邪義の戒壇本尊本懐と三大秘法の当体に惑わされた人はこの御文が読めません。
少しだけ冷静に御書を読めば誰でもわかるんですがね〜〜。
166
:
JJJ
:2017/01/31(火) 05:56:37
失礼します。
私は、
御本尊は、開門.起後のところの、本門の本尊と捉えております。
もちろん、仏像、舎利の拝むのであれば、この御本尊を前に置きなさいと、言われていると、捉えております。
167
:
沖浦克治
:2017/02/05(日) 14:57:18
JJJさん、今日は。
御本尊は仏そのものではありません。
仏を象ったものです。
西郷さんの銅像は西郷さんを象ったもので、西郷さんそのものではありません。
御本尊と仏の関係も同じです。
御図顕なされるご本人が、
仏像。
と云っておられます。
ですので疑う必要すらありません。
168
:
沖浦克治
:2017/02/05(日) 14:59:35
何故御本尊を拝むのか?
大聖人の御本尊は一切衆生の命を写しとったものです。
この点は御書に明確です。
更に大聖人は法華経の修行の肝心は不軽菩薩の合掌礼拝の行だと仰せです。
これも御書にございます。
御本尊を拝むことは一切衆生を拝むことなんです。
169
:
沖浦克治
:2017/02/06(月) 06:44:08
あらゆるスポーツがフォームから入ると大成しないことを書きました。
何故なのか?
スクワットを例にとると、フォームから教えるコーチは生徒を外から規制して強くする人です。
この場合、軽い重量を理想とされるフォームで高回数反復練習させます。
補助も良い道具もあまり必要ありません。
私の様にフォームから教えず、先ず重たい重量を挙げさすことから教える人は、生徒を中から強くするコーチ。
これは高重量を2〜3回やらせます。
当然適切な補助や優れて安全なラックなどが必要です。
フォームから教えると生徒たちは平均的に強くなります。
高重量からやらせると、生徒たちはそれぞれの個性でずば抜けて強くなります。
フォーム重視のコーチングから、一流のスクワッターは出て来ません。
突然変異で強くなれないからです。
コーチが強くするのではなく、生徒が自分で強くなるトレーニング。
最も重要なんです。
アルペンレースを例にとると、板を走らせることから教えるべきです。
所が日本は、フォームを重視します。
ですので、突然変異で素晴らしい選手は出て来ません。
残念ですが、我が国のコーチングの実態はほとんどがダメですね。
仏法を内道と云いますね。
人を内なる革命で変えるからです。
外からの規制で律するものを、外道と呼びます。
人は内道で成長致します。
外道ではダメなんです。
170
:
JJJ
:2017/02/12(日) 07:29:12
失礼します。
たとえ、仏像に釈迦の霊が憑依(適切な言葉が見つからず、申し訳ありません。)したとしても、そこに実相.諸法.十如がなければ、仏界も三身.寂光土も現れず、一念三千は成り立ちません。
憑依?寄生?合致?合体?装着?着座?……着座かな。
ひと度、妙法蓮華経と唱えれば、仏から凡夫まで、すべての仏性が、顕れ集まり、自名指定の席に着座……。
御本尊は、開門(証中の[ あかしのさなかに ]不思議一.本化本尊).起後のところの本門の本尊と捉えております。九界即仏界.従因向果から、仏界即九界.従果向因へ、俗諦世間に挑めば、仏壇閉扉にて、御本尊は迹門不変真如の理に帰すると、捉えております。(参考御書→阿仏房御書P1304「ゆゆしき大事……」また「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔その前に涌現す」。法華初心成仏抄P557「一度(たび)妙法蓮華経と唱うれば……」
・また本尊の姿は、(起後のところの)本門の本尊.(証前の)[南無]妙法蓮華経の五字[七字]と捉えております。よくご存知であられます、顕仏未来記の「本門の本尊・妙法蓮華経の五字」の意です。
謎は解けましたでしょうか?
そう捉えるのは、私だけでしょうか?
171
:
JJJ
:2017/02/13(月) 11:37:57
失礼します。
訂正です。すみません。
(誤) 九界即仏界.従因向果(従因至果)から、仏界即九界.従果向因へ
○ 従果向因の仏法。九界即仏界.仏界即九界。
172
:
JJJ
:2017/02/13(月) 17:45:23
失礼します。
さらに、訂正します。すみません。
(誤) 開門(証中の[あかしのさなかに]不思議一.本化本尊)
○ 開門(本化.本門の本尊の起点、不思議一。)
173
:
沖浦克治
:2017/02/15(水) 06:32:47
JJJさん、おはようございます。
御本尊は方便なんです。
実像である南無妙法蓮華経を紙に写し取ったもの。
仏そのものではございません。
仏は私共。
お化粧する時鏡見ますね。
あの鏡が御本尊、見ている私どもが本体ですね。
同じなんです。
174
:
JJJ
:2017/03/01(水) 04:14:44
失礼します。
御本尊は、虚空会の儀式を象ったと言われておりますが、私は、そうは捉えておりません。
霊山一会儼然未散ですから、実体は見えませんが、仏性と言う心性の形でその儀式が題目と共に行われていると捉えております。不思議一ですから、書写本尊と題目に顕れ、一体となっていると、捉えております。つまり世間の物の外用を写す鏡ではなく、不思議一体の御本尊と言う仏界の明鏡を、境智冥合するところに顕れる自身の仏性、心の鏡で自身に内在する生命が、同じ南無妙法蓮華経と正観する南無妙法蓮華経如来であるとすることを、御本尊を鏡としてそこに自身が南無妙法蓮華経如来であると見ていると、捉えております。
ですので、
御本尊は、(開門 [開塔] .起後のところの、本化本尊 →起後のところとは、久遠を明かす寿量品所顕の本化本尊 .)本門の本尊と捉えております。
分かりにくいかと思いますので、
次回に、長文になりますが、全容を書きます。
また御本尊、中央.実相.南無妙法蓮華経について語らせて頂きますと、久遠や法界、宇宙という概念が加わります。
本日は、これで失礼いたします。
175
:
沖浦克治
:2017/03/28(火) 05:57:11
昨日は今年2回目のオフ日に致しました。
連日の闘いで疲れた身体と心を癒しました。
唱題もお昼の1時から30分。
朝夕の勤行を一回にまとめてやりました。
それまでの時間ひたすら食べて寝ていました。
そして思いました。
近い将来勤行も朝夕ではなく、日に一回自由な時間帯でやるようになるだろうな・・・
その方が合理的ですね。
176
:
沖浦克治
:2017/04/02(日) 06:29:32
上行菩薩は一人だけではないと書いたら、色々あちらこちらで反論がございます。
真面目なご意見もございましたので少々ご説明致します。
御書には
『此の人末法に出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中国ごと人ごとに弘むべし、』
(妙密上人御消息)
とございます。
人ごと国ごとに弘めるのですから、一人では不可能です。
地涌の菩薩の代表としてのシンボルの上行菩薩。
この菩薩の本地は何か?
久遠の南無妙法蓮華経如来です。
そして私共一切衆生も同じく寸分違わぬ久遠の南無妙法蓮華経如来。
御書に如来の説明がございます。
『されば文句の五に云く其車高広の下は如来の知見深遠なるに譬う、横に法界の辺際に周く堅に三諦の源底に徹す故に高広と言うなりと、所詮此の如来とは一切衆生の事なり既に諸法実相の仏なるが故なり、知見とは色心の二法なり知は心法見は色法なり、色心二法を高広と云えり、高広即本迹二門なり此れ即ち南無妙法蓮華経なり云云。』
(御講聞書)
『然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。』
(御義口伝巻下)
『此の妙法蓮華経とは我等が心性総じては一切衆生の心性八葉の白蓮華の名なり是を教え給ふ仏の御詞なり、』
(一念三千法門)
ここまで書くと必ず無知な方が云いますね。
仏に総別があって、別しては大聖人お一人だ!!
これって大間違いなんですね。
『御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、』
(御義口伝巻下)
寛師の害毒は凄まじいものがございます。
捨てて良かった日蓮正宗。
辞めずに良かった創価仏法!!
追記致します。
御書は大聖人お一人との表記が多くある。
だから大聖人だけが特別の仏様なんだ。
これも大きな勘違いです。
大聖人を特別な存在に祭り上げ、聖人化してしまうと、それに使える僧侶たちも簡単に特別な人種に出来ます。
後世の習い損ないが犯した自己保身の大嘘。
代表は寛師ですね。
御書には、
『一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し、』
(三世諸仏総勘文教相廃立)
最初のお一人が大聖人です。
後は一切衆生が全て同じ。
そして、大聖人も一切衆生の中です。
当然ですよ、人間ですからね。
177
:
沖浦克治
:2017/04/08(土) 05:51:03
他板でも、上行菩薩で浮かれ騒ぐ方もおられます。
少し整理しておきます。
多くの方の位置付けは、
久遠元初の仏>上行菩薩。
こう云うものですね。
久遠元初の自受用身如来が宇宙の最初の仏で、それが大聖人。
釈迦はその法門である南無妙法蓮華経を修行久遠実成で仏に成った。
上行菩薩はその釈迦の法華経を末法で弘める人。
ですので、大聖人が上行菩薩の再誕だと云う思想はありません。
大聖人は御書の中で、ご自身が上行菩薩である事を明確に否定されておられます。
『而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、』
(新尼御前御返事)
明快に否定されておられる。
誰がどう読んでも大聖人は上行菩薩ではあり得ません。
釈迦仏法の限定された思想の中の上行菩薩の位置付けは、私共大聖人門下とは無関係なのです。
大聖人は久遠の南無妙法蓮華経。
これは変わりません。
そして、
私共一切衆生も寸分違わず久遠の南無妙法蓮華経如来。
ここが日蓮思想の極意。
これが分からないと御書はわかりません。
ですので、何処かの誰かさんの様に、
沖浦は自分を久遠の南無妙法蓮華経如来から上行菩薩への格上げをしている。
などと云う方は、御書に暗い見本ですね。
まあ寛師教学ではそんなものです。
178
:
沖浦克治
:2017/04/17(月) 06:34:48
クジラさん所にsewさんが書き込まれておられますね。
私はこの件でどちらの味方もいたしませんが、一つだけ書いておきます。
sewさんとは現実に何度か対面しております。
クジラさんとは対面をしておりません。
ですので、現状では
sewさんのご指摘の内容が実際にあった。
と、大きな確率で考えております。
但し双方のお話をお聞きしないと結論は出せません。
将来クジラさんと対面することがあるなら、その時お聞きいたしますでしょう。
クジラさんに対面をしてその説明を要求する、と云う事ではございません。
対面の機会があって(私は強く望んでおりますが)、クジラさんがその話題に触れる事をお許しになられるなら、その時はお聞きしたいと存じます。
対面による対話こそが、創価学会の基本であり、大聖人仏法の根幹をなす行い。
これは昨日も書かせて頂きました。
『人生の大事は対面による対話しかどうしようもない。』(主意)
牧口先生以来、創価の伝統でございます。
『書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん、』
(太田入道殿御返事)
創価三代の聖人方、日蓮大聖人、これ等の末法広布の偉人方が、押しなべて対面による対話をせよと云われる。
私は、大聖人門下の創価人として、ネットを助縁とした対面対話を目指すことが仏法者のネットの王道だと定めて来ましたし、今後も変えるつもりがございません。
当然、対面には危険が付きまといます。
先ずアポをとる時から、自身の連絡先や実名などの個人情報が相手に知られます。
それを悪用されることが十分に考えられます。
事実、私も凄まじいまでのバッシングに晒され、結果として家業に大きな影響をもたらしました。
2008年ごろからその傾向が強くなり、一昨年まで継続致しました。
白馬村での体育協会加盟にも横槍があり、私共の仕事も紆余曲折を強いられました。
何よりも恋女房が精神的に落ち込み、家庭が暗くなることもございました。
ですが、御書には、
『日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二・とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし』
(佐渡御書)
私自身の過去世現世の謗法故に悪口罵詈される。
それはそのまま現世での宿命転換の原動力だ。
この御文をそう定めて身で少々読みました。
その結果現在の大成功がございます。
ネットの掲示板で創価を語るなら、魔が競うのが当然。
それを恐れていて、ネットを舞台にした人間革命境涯革命は不可能。
御書にございます。
『願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ師子は値いがたかるべし、国主の責めなををそろしいわうや閻魔のせめをや、日本国のせめは水のごとしぬるるををそるる事なかれ、閻魔のせめは火のごとし裸にして入るとをもへ、』
(閻浮提中御書)
当時門下への大弾圧の真っ最中。
その国家による命に及ぶ弾圧でさえ、水に濡れるようなものだ、閻魔の責めは火の中に裸で入るほどの物、国主の責めなど恐れてはならない。
この様に門下を激励なさっておられる。
ネットで実名晒して責めらる程度、そよ風に頬を吹かれるようなもの。
しかも、そのそよ風で自身の境涯革命が成し遂げられる。
これほど素晴らしい話は滅多ございません。
更には、ハンネのままであってもお互いに対面し合うなら、その部分から宿命転換は開始できます。
但し私は皆様方にお勧め致しません。
志のあらんお方はそう云うネットをなさいませ。
志のないお方はご遠慮なさいませ。
これだけの事でございます。
『其の故は経文明白なり道心堅固にして志あらん人は委く是を尋ね聞くべきなり。』
(法華初心成仏抄)
広くは広宣流布。
狭くは、自身の人間革命虚がい革命。
これらへの志のないお方は、どうぞハンネでのネットでおやり下さいませ。
それはそれで楽しいでしょうから。
179
:
沖浦克治
:2017/06/11(日) 06:35:42
縦線時代の戦友たちが4人で昨夜やって来られました。
ご夫婦お二組。
70歳超えてます・・・・・
4人ともに池田先生から名前で呼ばれる人です。
昭和33年〜37年の入会の方々。
私は組織では全く出世(書き方良くないですが)せず、戦友たちは幹部になって大活躍。
人生の総仕上げにかかって全く平等に戻りました。
忌憚のない話が弾んで楽しかったです。
4人ともに関西創価学会の草分けの方々です。
それで質問いたしました。
掲示板で常に争っていたことです。
一大秘法って何ですか?
4人一斉に即答。
本門の題目です!!
やはりな〜〜・・・・・
私は兵庫県神戸市で入会して、4か月後の任用試験。
三大秘法の勉強でそう教わりました。
所が、長野県に来てからは全てと言っていいほどの方々が、
一大秘法は本門の本尊。
と信じておられます。
この落差はなんだろう?
池田先生が昭和31年関西の戦いをされた時、常に御書講義をなさったと聞きました。
その時、将来の将来を思われ、寛師共学否定の真実の法を教えられたとわかりました。
私が、
関西以外は一大秘法は本門の本尊なんですよ。
と言うと、
エ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!
と驚かれました。
私は関西の教学で育った人間です。
池田思想の洗礼を強く受けていたのですね。
だから御書をスムースに理解できたのでしょう。
ネットで教宣とか広宣の方々とやりあいましたし、現在も少しあります。
大聖人仏法の肝心要である、
一大秘法が本門の題目(私共の命)。
これがわからないなら、御書は絶対理解出来ません。
昨夜はこの話題に花が咲きました。
久々の研鑽とオアシス。
創価の戦友はありがたいです。
180
:
沖浦克治
:2017/08/29(火) 15:28:00
テレビも北朝鮮のミサイルで塗りつぶされています。
ミサイルは怖いですが、桁違いに恐ろしいものがあります。
隣国が何時責めてくるかわからない。
だからわが国も核兵器を所有して対抗すべきだ!!
それには先ず憲法九条を何とかせねばならない。
憲法改正に向けて国民の危機感を煽り、それによって再軍備を正当化すべく憲法改正の世論を作ってしまおう。
軍備は凄くお金がかかります。
当然膨大な利権が生まれます。
原発の利権の見通しが立たない現在、軍備で儲けたい一握りの政治家と企業がある。
今こそ私共は、トルストイ、ガンジーに代表される武力によらない抵抗を思うべきです。
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