したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

門下・門流史関係

1管理者:2004/05/08(土) 14:42
門下・門流史関係は此方へ。

62直人:2004/07/04(日) 09:07
オスカーさん、こんにちは。

 私は大日蓮展へ行ってないので知りませんでした。『本門本尊論入門』は早速、
読んでみます。

63直人:2004/07/04(日) 09:08
川蝉さん、こんにちは。

 私が疑問に思っているのは宗祖が「観心本尊抄」「報恩抄」において一尊四士義を展開されて
いるのに、「観心本尊抄」「報恩抄」撰述以降の成立である「四条金吾釈迦仏供養事」「日眼女
釈迦仏供養事」に、

  釈迦仏の木像一体(定本P1182)

  三界主教主釈尊一体三寸木像造立(定本P1623)

とあって、未だ一尊四士の造像がなされていないことはどうしたことだろうかと。弟子檀越に一
体仏を本尊とすることを認められ、宗祖も釈尊一体仏を本尊と崇められていたのが気になると
ころです。
  
  釈尊一仏本尊である。鎌倉の小庵の本尊は佐前佐渡身延を通じて変わらなかった宗祖の
  本尊であったのである。(『大崎学報』104−P10)

 もっとも「観心本尊抄」は富木常忍に宛てられたものですから、富木常忍が四菩薩を造立し
ようとして「四菩薩造立抄」が宛てられたことも充分に考えられますね。「四菩薩造立抄」を後
代の偽作としたのは軽率だったなと反省しています。
 けれども、「日代上人に遣す状」に、

  大聖人御記文に帝王御崇敬あって本門寺建立以前には遺弟等嘗て仏像造立すべか
  らず(宗全2−P408)

とあって、日代師は、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

と云うのでしょう。宗祖が本尊とされたのは釈尊一体仏でしたし、弟子檀越が造立したものも
釈尊一体仏でしたから、一尊四士はおそらくは戒壇堂安置の本尊を云い、それ以外は釈尊
一体仏でもよいと考えておられたのではないでしょうか。

64顕正居士:2004/07/04(日) 11:51
直人さん。川蝉さん。

日興上人の『原殿御返事』に
http://nakanihon.net/nb/haradono.htm
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、
未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、
御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し
参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わば
さも候いなん。
それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、
なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に
作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。いかに聖人御出世の
本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破し給うべき」とあります。
1 久遠実成の如来の画像は一二人が書いたが、2 久遠実成の如来の木像は誰も造っていない、
3 随身仏は上行等の脇士も無い始成の仏である、4 南無妙法蓮華経の教主の木像は聖人御出世の
本懐である。要するに、「日蓮聖人御出世の本懐」は「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」
の「木像」の造立である。『本尊抄』に「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」に当る
のでしょう。
したがって日興上人の具象的の本尊観は三位日順師が述べるように、曼荼羅の諸尊を立体的に造立
することである。「画像は一二人書き奉り候えども」、絵曼荼羅でも一二人しか(合格のものは)
造れなかったのだから、「御力契い給わずば」、木像の造立には才能ある仏師を召集する人望、財力
がたいそう必要である。「来入末法始此仏像可令出現歟」とは東大寺盧舎那仏の造立のような盛儀で
あると考えたのではないでしょうか。だから「未だ木像は誰も造り奉らず候」は蓮祖在世に一尊四士
が造立されなかった意義には必ずしも読めない。「それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に
候いき」の「それも其の仏は」の語句からは、蓮祖在世に一尊四士の造立があっても変でありません。

65直人:2004/07/04(日) 12:24
顕正居士さん、こんにちは。

 私もおおむね同じように考えていました。ただ、大曼荼羅の木像化といってもすぐ
ピンとこないのですよね。それで便宜上、一尊四士と云っていました。

66川蝉:2004/07/04(日) 14:15
「日代上人に遣わす状」は、尹師は師日尊の像造に対する疑問を日代師に問い合わせた書状ですね。

尊師が以前には「興師は像造を誡めていた」と云っていたのに、ある人から立像釈尊と脇士十大弟子像を寄進を受けた。
そこで富士門流の僧俗が「形像を本尊として立て置くべきでない」と非難をよせた。
尊師の説明は
「形像を本尊として立て置くべきでないことは勿論であるが、観心本尊抄・報恩抄によれば曼荼羅本尊のごとく一切の大衆を造立すべきであるとの意が見える。宝塔末座の立像(一体仏)は高祖の本懐ではない。しかし一向に仏像造立を難ずるは、実に一辺の義である。
宝塔造立まで(曼荼羅のごとく造立すること)四菩薩だけを造り添え脇士とし、大曼荼羅の脇に立て奉ったのである。」
と云う説明であった。
伝説では、大聖人の御記文に「帝王が帰依し本門寺建立される以前には、仏像造立すべからず」とあるそうであるし興師も同様の見解と聞いているが、仏像造立についての実義はいかなるものか教えて頂きたい。という内容の書状ですね。


この「日代上人に遣わす状」の中に、
「大聖人の御代には富木禅門の造るところの仏像・・みな以て御開眼供養候い畢んぬ云々」と尹師は、富木殿の一尊四士像は日蓮聖人の開眼供養を受けたものと見ていますね。
また日大師の「日尊上人仰云」にも、尊師が、「大聖人の御代に真間富貴五郎入道常忍、ミソ木を給いて造立す(取意)」(宗全2−420)と、富木殿の一尊四士像は日蓮聖人の御代に造られたものとしていますね。

「日尊上人仰云」によると、尊師は一尊四士像を略本尊とし、資縁があれば造立してよいと云う見解ですね。(宗全2−420)。
国主帰依の暁の本門寺は曼荼羅の木像化が本尊造立についての記文相伝としていますね。(宗全2−420)。

ご指摘のように、日代師は、「日代上人に遣わす状」の返事「宰相阿闍梨御返事」に
「仏像造立の事、本門寺建立の時也」(宗全2−P234)
といっていますね。
これは、
「国主が帰依し本門寺建立の時に仏像造立することが日蓮聖人の本意であり、曼荼羅本尊図はその為めのものである。いま仏像を造立しても良いと云う見解は私的に戒壇をしても良い事になってしまう(取意)」(宗全2−P234)
ということで「仏像造立の事、本門寺建立の時也」と書いていますね。
「仏像造立の事、本門寺建立の時也」とは「曼荼羅の像造は本門寺建立の時である」と云う意味ですね。

日順師「心底抄」に
「本門の戒壇、其れ豈に立てざらんや。仏像を安置すること本尊図の如し」
とあること、また、
「日代上人に遣わす状」の中に見える尊師の「宝塔造立まで」との見解から推すると、日代師の
「御本尊図は其れが為めなり」(宗全2−P234)
とは、本門寺の本尊は曼荼羅の木像化と云う見解のようですね。

国主帰依して建立される本門寺の本尊は曼荼羅の木像化であって、今はまだ造立すべき時期でないと云う見解は尹師の師の尊師と同じですね。(続く)

67川蝉:2004/07/04(日) 14:17
(続きです)

ただし、「宰相阿闍梨御返事」に
「造立過無くんば、何ぞ大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を造り副えられざらんや」(宗全2−P235)
とあるので、日代師は尊師と異なり、一尊四士の造立も否定していたようですね。

>「四菩薩造立抄」を後代の偽作としたのは軽率だったなと反省し
>ています。

とのことですが、真蹟が無いこと「日常目録」に題名が記されてないことから偽書説が出で来るようですが、内容的には親撰に思えますね。
「日常目録」と「日裕目録」とにある「御恋慕由事」。あるいは「日裕目録」の「本尊造立事」が 「四菩薩造立抄」であろうと云う見解があるそうです。

本化妙宗の高橋智遍居士は
「立像釈尊は嘱累総付の教主にして日蓮聖人の随身仏なり。大曼荼羅図顕後は前に法華経を安置しても本門本尊とはなりません。
現存遺文からは大曼荼羅図顕後はどのような形で立像釈尊を捧持されたかについて、確証がない(趣旨)」(本尊論正義112頁)
と論じていますが、四菩薩を添えていないけれども(形式は整っていないけれど)、日蓮聖人は、一体像を無始久遠仏として拝されていたのではないでしょうか。

顕正居士さん、こんにちは。

『原殿御返事』の分析、全く同感です。

68空き缶:2004/07/04(日) 23:36

 皆様お久しぶりです。

 ここのところの論議を、注意深く聴講させて戴いております。

 曼荼羅本尊のごときの造像と聞きますと、日蓮宗本山本遠寺の本堂内陣を思い浮かべます。
 ↓
 http://www.elnolte.ne.jp/ouno/naijin.html

 なお、「冨士門流信徒の掲示板」では、本遠寺本堂のような造像ではなく、曼荼羅本尊のごとき伽藍をもつものが「本門寺」ではないかとのご意見もあります。

 いずれにしましても、これまで御影と曼荼羅本尊だけの世界で生きてきましたので、仏像に関する皆様の議論より種々学ばせて戴いている次第です。

69直人:2004/07/04(日) 23:57
川蝉さん、こんばんは。

 懇切丁寧な解説ありがとうございます。そうしますと、「尊師実録」の、

  本門寺の本尊造立記文相伝(宗全2−P420)

というのは、大曼荼羅をいかに形像化するかということを記していたことが窺えますね。

  御本尊図は其れが為めなり(宗全2−P234)

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

 つまり、「大聖人御記文」(宗全2−P408)「本門寺の本尊造立記文相伝」にはどの大曼荼
羅をもとにして、いかに形像化するかということが具体的に記述されていたもの、と考えられ
ますね。
 
>一尊四士の造立も否定していた

 この文は史料を読み返しているときに気になりました。日代師は重須を付属されたとも伝
えられる人ですが、その日代師が日興上人の本尊観とは別なものであったのは興味深いも
のがあります。
 
>「本尊造立事」が 「四菩薩造立抄」であろうと云う見解があるそうです。

 やはりそうなのですか。「日祐目録」に「四菩薩造立抄」が記載されているか調べていたと
きにこれが目に付いたので、これかなとは思いましたが私はどうも日蓮宗のことには疎く、
言及を避けた次第です。

70直人:2004/07/05(月) 00:18
空き缶さん、こんばんは。

 本遠寺は2年ほど前に一度だけ行ったことがあります。某氏と勤行しましたが不慣れ
なもので〝今どこをやっとるん?〟と、ずっと思っていました。
 本遠寺時代・・・イヤなこともありましたが今となっては笑い話にしかなりません。
懐かしいな、っていうのが正直な感想ですね。

71川蝉:2004/07/05(月) 11:36
直人さん今日は。

曼荼羅の木像化の本尊もしくは一尊四士像は、国主が帰依した暁に建立される本門寺の本尊として造立されるべきものであるから、一国同帰が成就する前には、私的あるいはグループ的に、造立してはいけない。と云うのが日代師の考えのようですね。
本門寺の本尊は曼荼羅の木像化もしくは一尊四士像という相伝があったのでしょうね。

それにたいし、尊師は、そうではあるが、国主の帰依が未だ成就しない中でも、資力が有れば一尊四士像を造立して、個人的あるいはグループ的に拝しても良いではないかと云う鷹揚な考えだったのでしょうね。
富木殿や太田殿も鷹揚的な考えで造立したのでしょうね。

観心本尊抄から推すると、日蓮聖人は、一尊四士像を公的お堂の本尊にと云うお考えであったように思えますね。

「四菩薩造立抄」の冒頭部分に
「今に始めざる御志言を以て宣がたし。何の日を期してか対面を遂げ、心中の朦朧を申し披かん哉。」
とあるので、「日常目録」に記されている「御恋慕の由の事」が「四菩薩造立抄」であって、「真間釈迦仏御供養事。弘法寺に納められる」とある例もあるので、「御恋慕の由の事」も真間にでも移され紛失したのかも知れない。「日裕目録」にある「本尊造立の事」は「御恋慕の由の事」の写本で有るかも知れない。と推測されています。(塩田義遜教授説・日蓮聖人御遺文講義17)

空き缶さん今日は。

本遠寺の本堂内陣写真の紹介ありがとうございました。
身延山の仏殿納牌堂(650遠忌に建立されたお堂で、法事など行おこなうお堂で、私が在院していたころ、本堂がわりのお堂とされていました)の御宝前は、さらに曼荼羅の座配に近いものでした。

72空き缶:2004/07/05(月) 13:07

 直人さん、こんにちは。

 某氏とは坊氏のことですね。私はあまりよく知らないのですが、ついこのあいだ創価系の掲示板にて、同じスレッドにてカキコがありました。
 日蓮宗関連のことには詳しい方と思われますが・・・
 ところで直人さん、そろそろですね。「大石寺教学の研究」、この夏一番のお楽しみです。

 

 川禅さん、お久しぶりです。
 
 久遠寺の仏殿納牌堂の御宝前、初めてお聞きしました。ありがとうございました。
 話は脱線しますが、久遠寺に在勤されていた時に日向師の板曼荼羅は御覧になったことはありますでしょうか。
 実は某所では、この日向師の板曼荼羅の存在を持って、某所の板曼荼羅を真撰とする論議がありました。
 某所にて曰く、日興師が板曼荼羅(通称:本門戒壇之大御本尊)をもって身延を離山したために、日向師は代替の板曼荼羅を作成し秘仏とした、というのです。
 もし御覧になられたことがございましたら、その大きさや相貌など可能な限りでかまいませんのでご教示いただきたく存じます。

73川蝉:2004/07/05(月) 16:15
空き缶さんへ。

日向上人の板曼荼羅の有無についてまったく知りません。
お役に立たないですみません。

74空き缶:2004/07/05(月) 19:46

川禅さん、返レスありがとうございます。

日向師の板曼荼羅(通称:幽霊曼荼羅)は大石寺の堀日亨師の著作「日興上人詳伝」に出てきたのですが、あくまでも「秘仏」として扱っているようですね。

75空き缶:2004/07/05(月) 19:51

 すみません、川蝉さんの「蝉」の字を間違えていました。

 川蝉さん、大変に失礼致しました。謹んでお詫び申上げます。

76直人:2004/07/06(火) 02:16
川蝉さん、こんばんは。

 日尊師の本尊思想は日興上人の本尊思想と大きな差はないようですが、しかし、日代師
は日興上人の本尊思想よりさらに厳格な感がしますね。
 諸師に宗祖、さらに云えば日興上人の本尊義と異質な点があるところに興味深く感じました。
 興門の本尊義は今後(現在)の研鑽課題でしたので川蝉さんの御指摘は大変有益でした。
 今後とも御指導下さいますようよろしくお願い致します。

空き缶さん、こんばんは。

 私は最近、創価学会関係から手を引いていますのでその辺りのことはよく分かりません。
 日蓮宗のことはここ「大聖人門下掲示板」か「BBS-sangha」(大阪布教師会)で聞く方が
無難です。
 『大石寺教学の研究』は校正に手間取って予定より大幅に遅れていますがもうそろそろ
印刷所から出版社に回るころだと思いますし、出版社さんも7月末を予定としていますから
これ以上の延期はないはずです。
 来春あたりには『興門本尊の考察』でも出してみたいなと考えています。その後、日順師・
日教師・日寛師の学説について書いて『興門教学史』を出したいなと考えています。

77直人:2004/07/27(火) 01:19
■宗史抜書(6)
 〔日順師の学説について〕

 日順師の著述は宗祖本仏思想の見られるもの、宗祖本仏思想の見られないものに大別するこ
とができる。日順師は「表白」において、

  我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、月氏震旦に勝たり(宗全2−P317)

と云うのである。しかし、これより10年後日興上人の命によって日順師が執筆した「五人所破抄」
には、

  日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕(宗全2−P80)

とあって、《宗祖=上行再誕》が保持されており宗祖本仏義まで発展していない。執行海秀氏は
『興門教学の研究』において、

  本朝の本仏が直ちに日蓮本仏を表明するものか否かは明らかではない。久遠の本仏を本尊
  として戒壇を建立せんとする意が窺われる。(『興門教学の研究』P132)

と述べている。久遠実成釈尊を本仏本尊として日本国に本門戒壇を建立することによって「我朝
は本仏の所住なるべき」となると考えるのは穿った見方であろうか。これより8年後日順師は「日
順阿闇梨血脈」を著述しているが奥書の血脈系譜に、

  南無久遠實成釈迦如来上行菩薩後身
  日蓮聖人
  本門所傳導師日興上人
  (研教1−P277)

とあるのみで、本文からは宗祖本仏思想を見出すことはできない。堀日亨師は『富士日興上人詳
伝』において、

  この血脈は、順師の多くの遺編に似ず、全文宗祖本仏の香い芳しからず、いわんや、この血
  脈図においては、まったく上行日蓮で無相承家の説と遠からず(詳伝P300)

と述べている。血脈系譜は『富士宗学要集』では、
 
  南無久遠實成釈迦如来上行菩薩――後身日蓮聖人(富要2−P25)

となっている。この系譜に疑義をはさんだのが執行氏であった。

  ただ問題なのは(中略)南無久遠実成釈迦如来上行菩薩といい、その後身を日蓮聖人として
  いることである。ところで『富士宗学要集』の編者が「日心本の系線明ならず」とあるところから
  すると、これは原本には恐らく「南無久遠実成釈迦如来――上行菩薩後身日蓮聖人」とあった
  のではないかと思う。(『興門教学の研究』P129)

執行氏の「南無久遠実成釈迦如来――上行菩薩後身日蓮聖人」とする指摘は大石寺においても
認められている。高橋粛道氏は「三位日順師の著書」において次の如く記している。

  (南無久遠実成釈迦如来)      上行菩薩後身日蓮聖人(『日蓮正宗史の研究』P246)

 ところで、日順師は興国三年、「表白文(誓文)」を著し、

  本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り(宗全2−P340)

と記している。宗祖を本尊視するこの記述は宗祖本仏思想を伝えるものであると云わざるを得な
いように思う。しかし、日興上人在世の時代、日興上人寂後数年の時点では未だ宗祖本仏思想
を伝える記述は見られない。これは換言すれば、日興上人に宗祖本仏思想がなかったことの証
左でもある。
 かかる推考が許されるならば、興門における宗祖本仏思想は「日順阿闇梨血脈」成立以降、
「表白文(誓文)」が成立するまで、すなわち、宗祖滅後55年〜61年の間に日順師によって創作
されたものであろう。

【註】
本稿には多々誤りがあるかもしれない。その場合は諸賢からの御批判を賜りたいと思います。

78川蝉:2004/07/29(木) 14:19
思いついた事を。

日順師の「表白」の
「我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、月氏震旦に勝たり」(宗全2−P317)
の意味するところは、直人さんの

>「久遠実成釈尊を本仏本尊として日本国に本門戒壇を建立するこ
>とによって「我朝は本仏の所住なるべき」となると考えるのは穿
>った見方であろうか。

と云う解釈に賛成です。

表白の「我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、」の文のすぐ前には
「請い願わくば此の法座に来臨影響の釈迦多宝・十方三世の諸仏・諸菩薩・諸天等・上行無辺等の地涌千界の大菩薩・・」
(富集宗義部1・11頁6行)
とあるし、
また「誓文」にも
「未曾有の大曼荼羅・所在の釈迦多宝十方三世の諸仏・・」
(富集宗義部1・28頁7行)
とあって、大曼荼羅本尊に釈迦多宝等が在すと云う考えがあります。

そこで、大曼荼羅が本尊とする法華信仰が行われている日本には本仏釈尊が常に来臨影響されていると云う考えを持っていたので「我朝は本仏の所住なるべき」と記されているのだろうと推測されますね。


日順師の「表白文(誓文)」の
「本尊総体の日蓮聖人」(宗全2−P340)
とは、一見、大曼荼羅全体を日蓮聖人 と拝する宗祖本仏思想の言葉のようにも見えますね。

しかし、「御本尊の中の日蓮聖人」の意に取れるとも思われます。

順師の「本門心底抄」を見ると、
「総体所顕の十界を互具の仮体と号するなり,所以に釈迦多宝・十方分身の諸仏の所在は仏界なり、上行無辺行浄行安立行等の四大士は本化の菩薩界なり、(中略)遍く之れを勧請して載せざることなし、此れ則ち善悪凡聖・大小権実皆悉く具足し擣シ和合の本門至極の大曼荼羅の故なればなり」(富集宗義部1・31頁6行)

とあって、十界勧請の大曼荼羅を「総体所顕の十界」と表現して居るようです。
各尊がそれぞれの界に所在しているのが十界勧請の大曼荼羅であると述べているわけですね。

日蓮聖人が大曼荼羅の中に所在されている事を示しているのが日蓮聖人の花押署名であると順師は考えていたのではないでしょうか。
そこで、「別しては本尊総体の日蓮聖人」と表現されたという解釈も成り立つと思われます。

「表白文(誓文)」の7年後の「本門心底抄」には
「神力別付の上行応化の日蓮聖人」(29頁7行)
とあり、また34頁4行には
「是れ我が弟子応に我が法を弘べし」等と天台の「下方を召し来る三義」をもって日蓮聖人の出現と戒壇建立必然を証しています。
ですから「本門心底抄」には日蓮本仏思想は見えないといえます。

もし「表白文(誓文)」の「別しては本尊総体の日蓮聖人」の言葉が、日蓮本仏を語るものならば、ほぼ7年後の「本門心底抄」にも明確に日蓮本仏思想が出ていて当然と思われるのに、日蓮本仏思想が打ち出されていませんね。

79直人:2004/07/29(木) 21:23
川蝉さん、こんばんは。

 川蝉さんから懇切丁寧なコメントをいただけると嬉しいですね。
 今回は主に「上代日興門流略史」(http://www.sincere.ne.jp/~naohito/nenpyou.html)の流
れに沿って書いていたので「本門心底抄」を見落としていました。>>77を投稿した後、「本門心
底抄」を引用すべきだったなと気づきました。それで「本門心底抄」を読み直し、成立は何時だっ
たかと調べたら「表白文」より後の著述でした。
 日順師は「本門心底抄」において、

  上行慶化の日蓮聖人(宗全2−P341)

と云い、「摧邪立正抄」(「本門心底抄」成立後1年)において、

  日蓮聖人は忝くも上行菩薩の慶化末法流布の導師也(宗全2−P358)
  
  富士の義に云く日蓮聖人は上行菩薩にて御座す(宗全2−P359)

と云うわけですから、「表白文」の一文を以って日順師を宗祖本仏論者であるとしたのは早計だ
ったな、と反省しています。
 日順師の寂年は文和三年・六十一歳説(「興門諸師略傳」宗全2−P11)と正平十一年・六十
三歳説(詳伝P660)がありますが、何れにしても「本門心底抄」「摧邪立正抄」は晩年の著述に
属するわけですから日順師に宗祖本仏思想があったとすることは早計でした。

80直人:2004/08/10(火) 23:39
■宗史雑書(7)
 〔創価学会における教学の変遷について〕

 創価学会は昭和5年11月18日に創立された。当時は創価教育学会と云い牧口常三郎氏の
価値論を教義としていたようである。牧口氏は尋問調書において次の如く述べている。

  問 創価教育学会の指導理念及目的は
  答 (中略)本学会の目的とする処は日本国民の一人でも多く本会に入会せしめて日蓮
  正宗の信仰を基礎とした私の価値論を認識把握せしめて、人生生活の安穏幸福を招来
  せしめるにありますが、価値論の教義的具体的指導理論は後で詳細に申上ます。
  (『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P185〜186)

 また、牧口氏は、

  私は正式の僧籍を持つ事は嫌ひであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従っ
  て日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しか出来ません。私の価値論をお寺に於て宣
  伝説教するわけには参りませんませんので私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念
  に価値論を採り入れた処に私の価値論がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があ
  るのであります。(『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P188)

と云うのである。「純教義的な形に嵌った行動しか出来ません」とは牧口氏が価値論を大石
寺教義とは異質なものであると認識していたことを如実に伝えるものである。牧口氏は重須
本門寺にも参詣していたと伝えられ(>>7 >>11)、牧口氏は価値論という自説を宣教できる
のであれば何処でもよかったのかもしれない。であれば、早川達道師が「あなたの考えは
日蓮聖人の教えとは違う」として牧口氏の重須入信を拒否(>>11)したのも頷ける。
 牧口氏の本仏観は如何なるものであったか断定し難いものがあるが、尋問調書において、

  正法、像法の二千年間を過ぎた所謂末法万年の時代で各勝手気儘に争ひに耽つて居
  るから「闘諍堅固の時」とも云ひ、又釈尊の教への全く消滅した時代でありますから「白
  法隠没」とも申しまして、濁悪雑乱の時代で又此の末法時代の初期五百年の間に法華
  経は弘まると予言されています。(『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P193〜194)  

と云うあたりは、宗祖本仏論者であったことを窺わせる。けれども、戸田城聖氏は昭和25年
11月12日、創価学会第五回総会において次の如く述べている。

  牧口先生なきあと、第二代会長も、いまだ空席のおりに、わたくしは釈迦の教法たる法
  華経を、当学会の指導理念としていたことが、わたくしの重大なる誤りであったことに、
  気がつきました。(『講演集』上−P44)

 これによれば、少なくとも戦後の数年間は日蓮仏教ではなく釈尊仏教を創価学会の教義
としていたようである。
 ところで、価値論は牧口氏の初版本と昭和28年、戸田氏によって補訂されたものがあり、
補訂版には、 
  
  釈迦滅後二千年においては、釈迦の法華経も、天台の理の一念三千も、その功能をお
  よぼさないのである。いかんとなれば、釈迦滅後二千年後の衆生は、本未有善といって、
  釈迦仏法にも他の仏にも、縁を結ばない荒凡夫の衆生であるからである。ここにおいて
  末法の本仏たる日蓮大聖人は、凡夫のお姿として末法に出現して、一切経の哲理をじ
  っと見つめられたのである。しこうして久遠元初の自受用身であり、上行菩薩の再誕で
  あることを自得遊ばすや、ここに一切衆生を幸福に導いてゆく本尊を出現せしめたので
  ある。(『牧口常三郎全集』[東洋哲学書院]1−P343)

とあるが、この記述は初版本には見られない。牧口氏の著書には僅かに宗祖本仏思想を
伝えるものがあるが、しかし、草創期においては本仏観は今日の如く確立していなかった
ものではないだろうか。真実、本仏観が確立していれば戸田氏が釈尊仏教を用いるとは考
え難いからである。

[この稿、続く]

81直人:2004/08/12(木) 06:20
>>80の続き

 創価学会における他教団批判は昭和22年頃から行われ、同年3月2日には法華宗獅子吼
会本部に青年部員が乗り込んで法論を仕掛けている。また悪質なところでは開催された国
柱会の講演会(於・読売ホール)において講演を妨害し、智学居士を悪罵したりしている。
 昭和26年、『折伏教典』が刊行されると他教団への批判は激しさを増してゆく。創価学会
は『折伏教典』において、

  今日末法の時は釈迦仏の時ではないのである。釈迦の法はもう死んだ法で何の利益
  もないのである。(『折伏教典』[昭和36年版]P99)
  釈尊出世の本懐である法華経でさえも、末法の今日にはまったく力がなく
  (『折伏教典』[昭和36年版]P136)

と云い、末法においては法華経は無益であるとして、

  釈迦の仏法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の仏法は「南無妙法蓮華経」の七
  字の法華経である。(中略)日蓮大聖人が末法の御本仏であらせられる
  (『折伏教典』[昭和36年版]P104)

と云い、宗祖を本仏とし、「釈尊脱仏・宗祖本仏」の立場から法華経二十八品を末法無益
とするのである。かかる教学理解は平成三年に創価学会が大石寺から破門されるまで一
貫していたものであった。
 平成七年、『大白蓮華』において池田大作氏と教学陣(斎藤克司氏、遠藤孝紀氏、須田
晴夫氏)によって「法華経の智慧」と称するてい談が行われている。『法華経の智慧』は宗
祖本仏が貫かれながらも、同書には、

  須田 大聖人は法華取要抄で、法華経は本門も迹門も〝釈尊滅後の衆生のために〟
  説かれたのであり、なかんずく〝末法の衆生のため〟であると結論されています。さら
  に末法の中でも〝大聖人御自身のために〟説かれたと仰せです。
  名誉会長 「釈尊滅後の衆生のため」「末法の衆生のため」。ここに「一切衆生のため」
  という法華経の慈悲がこめられている。法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事
  因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。
  滅後の衆生、特に末法という濁世の衆生を救わなければ、その理想は叶えられない。
  だから滅後の衆生のための仏の教えを説かないはずがない。そのための慈悲の経典
  が法華経です。(『法華経の智慧』1−P62〜63)

ともある。釈尊の仏法が法華経二十八品であり、法華経が釈尊滅後の為に説かれたとす
るのであれば、「釈尊脱仏」「法華経末法無益」とすることは許されない。
 かつての『教学の基礎』には、

  大聖人は「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべ
  し」(御書一五四六㌻)と仰せになり、末法の現在では釈尊の説いた最高の経である
  法華経ですら成仏の法ではないことを明かされています。
  (『教学の基礎』[昭和61年版]P87)

とあったが、平成14年に再刊された『教学の基礎』には、

  法華経は釈尊滅後の衆生のために説かれた経典です。万人の成仏を実現するため
  には、仏が自分の在世において衆生を救うだけでは足りません。滅後の衆生のため
  に成仏の法を顕し、それを伝え、弘めていかなければなりません。法華経は、まさに
  滅後の救済を主眼とし、そのための法と使命と実践を説いたのです。
  (『教学の基礎』P71〜72)

とあって、従来の「法華経末法無益」から「法華経末法正意」へと変遷している。この記
述は『法華経の智慧』をうけたものであることは想像に難くない。
 「法華経の智慧」が完結すると、池田氏は教学陣(斎藤克司氏、森中理晃氏)と「御書
の世界」と称するてい談を行っている。さきに述べた如く池田氏は『法華経の智慧』では、
「法華経末法正意」を展開しているが、「御書の世界」では、

  名誉会長 御書は末法の経典です。大集経に「闘諍言訟・白法隠没」とあるように、
  末法は、釈尊の仏法の中で混乱が極まり、民衆を救う力が失せる時代であるとされ
  ています。(『御書の世界』1−P6〜7)

と云うのである。これは『法華経の智慧』における「滅後の衆生のための仏の教えを説か
ないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です」という発言と全く相反するもので
ある。

[この稿、続く]

82直人:2004/09/17(金) 23:51
〔宗史余話〕
 
 今ここに記すことは文献的論拠がなく云わば「素朴な疑問」であることを了承下さい。昨日、
西山の某師と対談してきたわけですが、彼の主張は次の如くでした。

  「百六箇抄」は「具騰本種本迹勝劣抄」(西山口伝書)のパクリであり、「御本尊七箇相承」
  は「円融大曼荼羅口決」(西山口伝書)の一部が流出したものである

 しかし、私としては一概に頷首できない。そもそも、両巻血脈抄は日尊門流によって偽作され
たものが日教師に相伝され、日教師の大石寺帰伏によって富士に伝わったものと考えられる。
しかし、西山は辰春問答に際して「両巻血脈抄が日尊師へ相承されたことに異議はない」と云
い、これによれば、その当時、西山に両巻血脈抄は存在しなかったようである。
 日精師の「家中抄」には日代師にも相承されたと伝えられているが、日代相承説は西山日順
師によって形成されたものと伝えられている。興門の所伝によれば、重須が保田と組んで大石
寺に対抗したのと同様に、西山も大石寺と組んだと云うのである。これが日辰師以降もあったの
であれば、《悟胤映隆順》の頃に大石寺から西山へ両巻血脈抄・「御本尊七箇相承」が流れ、西
山日順師が日代相承説を形成し、大石寺から流入した相伝書を逆手にとったものかもしれない。
 なお、日精師は日順師より100年後の人なので、「家中抄」はその当時の興門で語り伝えられ
ていた伝承を検証せずそのまま記しただけであろう。

83直人:2004/09/18(土) 00:21
訂正

>日精師は日順師より100年後の人

 西山日順師は1688年寂、日精師は1683年寂。同時代に生きた人であった。日精師が「家中
抄」を著述したのは1662年であるから、日代相承説の成立は1662年より以前であろう。西山日
隆師は1674年に寂しているが、『日蓮大聖人 正附法日興聖人・正伝燈日代聖人』によれば、
日順師は隠居した後、87歳で寂したと云うので、日順師が1662年より前に日代相承説を形成し、
その伝承を日精師が「家中抄」に記載したものであることは充分に考えられる。
 なお、日代相承説は要山日舒師(1652−1718)によって否定されている。

84オスカー:2004/09/18(土) 22:13
直人さん、お元気ですか
大石寺教学の研究を購読し、読ませてもらいました。
余話なんですけども、要山日舒上人という方は福島市の出身で、大石寺の中興の
日有上人の伝記である大杉山もふでという書き物で、有師信仰を確立したとも、
言われる人物で、現在の大杉山有明寺の本堂安置の板御本尊を造立しています。
その他には、千葉市若葉区の眞光寺に安置されている日興上人の板御本尊も、
施主の一人になっています。
割り込みましてすいませんでした。益々の活躍を期待しています。

85直人:2004/09/22(水) 23:20
オスカーさん、お久しぶりです。

>お元気ですか

 私は相変わらずです。最近は考究を尽くせなかった点について書いたり、読み直して訂正した
りしています。そんなわけで最近は以前ほど書き込みしていませんでした。(3年間の疲れとい
うものは少しはあるかもしれませんが)

>大石寺教学の研究

 ありがとうございます。今読み返すと整理しきれていない箇所があって読み難かったであろう
と思います。その点は今後改善していきます。これは私が師と仰ぐ方の薦めなのですが、今後
は学術大会の場に出て行くことになると思います。

>要山日舒上人

 高橋氏の論考を思い出しました。「御杉山まふて」は未刊なので日舒師が(全体的に)
どのように記しているか興味が引かれるところです。
 これからもよろしくお願いします。

86直人:2004/11/01(月) 21:03
■宗史雑書(番外編)
 〔御影について〕

 先日、日蓮宗教学研究発表大会にて御影について質問され、それ以来質問された事柄に
ついて少しく考えました。本稿はその愚考をまとめたものです。
 日興上人は消息文において「仏聖人」「御経日蓮聖人」「法華聖人」と記しているわけです
が、日興上人は『報佐渡国講衆書』において《仏=釈尊》としています。また、「御経」とは明
らかに法華経をさしていますし、日蓮聖人は『守護国家論』において《法華経=釈尊》として
います。この点から考えると、

  仏=釈尊=大曼荼羅
  聖人=御影

というように解することができるのではなかろうか。つまり、日蓮宗における奉安形式である、

  [大曼荼羅]

    (御影)

  (http://www.myoukakuji.com/html/guide/

というものを表しているものではないだろうか。日興上人は日蓮聖人への尊崇の念から「仏
聖人」等と記し、御影を祀っていたけれども、あくまでも御本尊は大曼荼羅であったと拝する
ものです。真実、日興上人が御影を本尊の如くとらえていたのであれば、御影の意義が「日
蓮聖人の御姿を後代に伝えるため」とせず、もっと別な表現になったであろう。

87川蝉:2004/11/03(水) 16:11
興師は大曼荼羅の前に祖師像を安置していたと推測出来ます。
「御影の御見参に」(宗全2−150)
「聖人御影の御宝前に」(宗全2−151)
とあっても、宗祖を本仏と拝していたとは云えません。
私どもが仏壇に何か供物を供えるさい、親や我が子の位牌がある場合、「母(或いは父)に供えさせて頂きます」とか、「○○ちゃん、どうぞ」と云う言葉が思わず出るものです。

興師は、御影を通して宗祖が常に見守ってくれていると確信していたのでしょう。そして師に対する給仕をつくされていたと思われます。給仕の想いから「聖人御影の御宝前に」等の言葉がでたのでしょう。

伝・朗師の「本迹見聞」にも
「今家法主聖人は」(宗全1ー16)とあります。
これは「日蓮法華宗を始め、基となった聖人」と云う意味です。
興師が「法主聖人の御神殿に」(宗全2−162)
と称しているのも、「真の法華の宗旨を始めた聖人」と云う趣旨の言葉でしょう。

「法華聖人の御宝前に」(宗全2−180)
は、法華経弘通の聖人と云う意味でしょう。

「御経日蓮聖人見参に」(宗全2−187)
は、
建治元年五月の御書「上野殿御返事」に
「父の御ために釈迦仏法華経へまいらせ給にや」
とあります。背後に大曼荼羅を懸けた釈迦立像の前に法華経を置いた御宝前であったと思われます。
故に、「釈迦仏法華経 」と書かれたのでしょう。

興師の「御経日蓮聖人見参に」と云う表現は、この日蓮聖人の表現と同例と思われます。
興師は大曼荼羅の前に御御影、その前に法華経を安置していたとも推せられます。ゆえに 「御経日蓮聖人見参に」と書かれたのでしょう。

「仏 聖人の御座候座に」(宗全2−188)
とありますが、この「与由比氏書」の二行目に
「仏の御施餓鬼絶え候処に」とあって、精霊を仏と称しています。ゆえに、「仏 聖人」は「仏(精霊)と日蓮聖人の影現されている席」と云う意味と思われます。
「曾根殿御返事」にも
「又聖霊御具足法華聖人の御宝前」(宗全2−180)
とあります。この意味は「故人の聖霊が御具足している(現れている)日蓮聖人が照覧されている御宝前」ということであろうと思われます。
「与由比氏書」の 「仏 聖人の御座候座に」の意味を「仏(精霊)と日蓮聖人の影現されている席」と解釈できる例証となりましょう。

宗全2−181の「曾根殿御返事」
「仏にまいらせて候」
宗全2−183の「曾根殿御返事」
「仏の御見参に」
とあるのも、「精霊に供養した」と云う意味か、或いは「久遠実成釈迦如来に供えた」と解釈すべきだと思います。

「或いは、久遠実成釈迦如来に供えたと解釈すべきである」
と云う理由は、
「与波木井実長書」
「久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり。・・上行菩薩日蓮上人の御霊崛なり」(宗全2−169)
とか
「原殿御返事」
「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為めには釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を」(宗全2−173)
等とあるので、興師にとって「仏」といえば「久遠実成釈迦如来」
である道理ですからです。
また直人さんがご指摘したとおり「報佐渡国講衆書」に
「しょほっしんの、しゃかほとけ(釈迦仏)」(宗全2−178)とあるからです。

88直人:2004/11/04(木) 09:39
川蝉さん、こんにちは。

 「法華聖人」「御経日蓮聖人」「仏聖人」についての御教示、大変参考になりました。私も大
曼荼羅の前に祖師像(御影)を安置していたと思いますし、御影について云われた消息文が
あるからとて日興上人は宗祖本仏論者であったとは考えません。しかし、川蝉さんが仰られ
るように私たちは「○○さん、どうぞ」という念が沸きます。日興上人も日蓮聖人への恋慕渇
仰があったでしょう。それゆえに、「御影の御見参に」(宗全2−P150)、「聖人御影の御宝前
に」(宗全2−P151)と云われたのでしょうね。
 先日、「御影が郷門に持ち去られ日時師が替りの御影を再建しているのはどうか?」(趣旨)
というような質問をいただいたわけですが、それもまた、その当時の人が日蓮聖人への尊崇
の念や恋慕渇仰があったからなのだろうと。それが、『富士一跡門徒存知事』の「御影を図す
る所詮は後代に知らしめん為なり」(宗全2−P121)ということなのでしょう。日蓮聖人の御姿
を後代に伝えるのは、後代、日蓮聖人をお慕いする人が出てくるからでしょう。そこに御影の
意義があったのでしょうね。
 日時師の時代にはもうすでに御本尊と御影が一対になっていたかもしれませんが、日興
上人はあくまで久遠実成釈尊を本仏と拝し、御本尊は大曼荼羅であったでしょう。
 あの質問は私にとって大変有意義なものでした。

89直人:2005/02/02(水) 22:59:38
■宗史雑書(8)
 〔戒壇本尊の形態について〕

 日蓮正宗常泉寺の信徒であった松本和道(佐一郎)氏は昭和32年、『尋勝論』と題する国柱会
批判書を著している。松本氏は山川博士の「聖祖の大曼陀羅本尊図式に文永建治と弘安との二
大別のある所以の法義を闡明す」(『信心』249号所収・筆者(直人)未見)を挙げて山川博士は本
門戒壇の御本尊を仏像と考えているが、田中智学居士は本門本尊を仏像で表すことはできない
といっていたから、山川博士の論考は智学居士に師敵対するものであるという(『尋勝論』P6〜8・
要旨)。そして、その論拠を智学居士の『本門本尊造立私義』に求めている。
 『本尊造立私義』(展転社)を一読してみたが、確かに仏像で表すことは難しいもののようで智学
居士は仏像に否定的ともとれる。しかし、智学居士は『本尊造立私義』において、

  一国同帰の時となッて、勅命によッて国立として本門大戒壇を造立する場合には、それこそ世
  界中にただ一つの聖壇であるから、経費もヘチマも議論はない。壇相、形像、妙工良技をあげ
  て如何なる難工でも出来るであらう。又その時節には任運に本化の菩薩が、帝王種なり智臣
  なりに生まれ出でて、不思議なる大手腕を振はるることと考へるから、その時の事は吾等の心
  配するに及ばざる所とおもふ。(『本尊造立私義』P118)

といい、これによれば、一天広布の暁に建立される大本門寺の御本尊は大曼荼羅を形像化するも
のと考えていたもののようである。であるならば、山川博士の論考は師敵対ではない。思うに智学
居士は大本門寺の本尊は仏像であるが、その他の寺院、在家は大曼荼羅を拝すべしといいたか
ったのではないだろうか。
 こうした本尊論は興門にも見られる。日順師は『本門心底抄』において、

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

といい、日代師は『宰相阿闍梨御返事』において、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

といっている。ところで、大石寺を中心とする大曼荼羅正意論者は日順師の『法華観心本尊抄見
聞』や『摧邪立正抄』の、

  法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱
  ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ(宗全2−P355)

という文を依文として戒壇本尊の形態は仏像ではなく大曼荼羅であるというのである。けれども、
『本門心底抄』『宰相阿闍梨御返事』を踏まえてみれば、大曼荼羅の形像化は本門寺戒壇一箇
所に限られ、その他寺院等は大曼荼羅を拝すべしであるとするのが『摧邪立正抄』の文意であろ
う。
 その意味では曼荼羅正意・造仏正意といった何れかが正意であるとする正傍論は元来なかった
ものと考える。

90直人:2005/05/18(水) 18:48:34
〔『北山本門寺貫主 本間俊雄師 との法義対論』に対して〕

 この度『北山本門寺貫主 本間俊雄師 との法義対論』と題する文書を読む機会を得た。これは
法華講員である樋田昌志氏が妙観講の「大石寺近隣の日蓮宗系寺院破折」なる活動に参加し
て、本間師と対談した際に録音したものを起こしたもののようである。その内容は弘安二年板曼
荼羅論、血脈論が中心となっている感を受ける。樋田氏の誤りを指摘しておこう。
 樋田氏に限らず大石寺門徒が板曼荼羅を論ずる時、その依文とするのが『聖人御難事』の、

  此の法門申しはじめて今に二十七年(中略)余は二十七年なり(定本P1672)

という御文である。そもそも『聖人御難事』は日蓮聖人の逢難について述べられているのであっ
て御本尊図顕に触れるところがなく、『聖人御難事』を板曼荼羅図顕の文証とする会通は私が知
りうる限りでは近代までなかった。事実、板曼荼羅を「究境中の究境、本懐の中の本懐」といった
日寛師でさえ、『聖人御難事』を依文としていない。明治二十五年、驥尾日守師が『末法観心論』
を著して大石寺の教義を批判したことがある。これに対して、大石寺から日応師が『正法実義論』
を著し、これに加筆・補訂して明治二十七年、『弁惑観心抄』として論陣を張ったことがある。日応
師は『弁惑観心抄』において、

  弘安二年十月本門戒壇の大本尊を顕すを以て出世の本懐を成就せりと云ふへし、故に宗祖
  の云く(中略・『聖人御難事』の御文を引用)此文意を深く考ふへきなり余は建長五年より二十
  七年弘安二年十月本門戒壇の本尊を顕はし出世の本懐を究盡し玉ふへきとの聖意にほかな
  らさるなり(『弁惑観心抄』P195)

といい、ここにおいて『聖人御難事』を板曼荼羅図顕の文証とする今日の論法を見ることができる。
しかし、堀日亨師はこの会通に否定的である。堀師は『熱原法難史』において、
  
  先師がかつて直にこの文をもって戒壇本尊顕彰の依文とされたようだが、直接の文便はない
  ようである。(『熱原法難史』P72)

といっている。日応師の会通、さらには今日における大石寺門下による『聖人御難事』の引用は
我田引水・牽強付会ともいうべきものである。
 次は血脈論である。樋田氏は、

  『百六箇抄』に「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡
  嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。」とある(中略)この百六箇抄の御文なんか
  はどのように拝したら(対論P9)

といっている。ここにおいて留意すべき点は第一にこの箇所は後加文であること、第二に誰人に
よって後加がなされたかということである。樋田氏が引用した『百六箇相承』の該当文には次の
文が続く。

  経巻相承直授日蓮(中略)六萬坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺
  上行院と号す可き者なり(宗全2−P27〜29)

 経巻相承は聖人滅後百年代、顕本法華宗の祖である日什師が展開した立義であること、広宣
流布の暁に本門寺を号する時、大石寺では「多宝富士大日蓮華山大石寺」と称して「多宝富士山
本門寺上行院」とは決して称しない。さらに六萬坊思想が要山義であることは大石寺も広く認める
ところである。これらを勘案した時、後加文は要山僧によってなされたものであることが分かる。長
くなるのでここでは引用を避けるが、細井日達師は昭和四十五年六月二十八日、富士学林研究
科の砌における講演の中で後加文を要山僧の加筆とし「大石寺流の考えでない」と断じている。
つまり、「日興嫡嫡付法の上人」とは尊門日大系における《蓮興尊大…》という血脈系譜をさすの
である。その意味では『百六箇抄講義』における池田大作氏の、

  代々の法主上人が記述された個所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい
  (『「百六箇抄」の池田会長講義』P6)

という講義は史実を無視したものであるし、これまた、「大石寺流の考えでない」。今日、の宗創
対立の中で『百六箇抄講義』は大石寺門徒によってしばしば引用されるところであるが、まったく
意味を持たない。堀米日淳師の見解(淳全P1378)もまたしかりである。
 樋田氏は『日興跡条々事』を引用して板曼荼羅の正統性を主張するが、『日興跡条々事』は明
らかな偽書である。それは署名・花押を見れば分かる。まず、日興上人の署名であるが「日」字
は角張っており、「興」字の14、15画は「∞」の如く記されているが『日興跡条々事』の「日」字は
丸みを帯び、「興」字の14、15画は「ヘ」となっていて日興上人の筆体と明確に相違している。

91顕正居士:2005/05/18(水) 20:55:20
直人さん。久し振りです。It's been ages!

>日寛師でさえ、『聖人御難事』を依文としていない。

いえ。この義は日寛師からです。

「宗旨建立已後第二十七年に当って己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕したまえり」(観心本尊抄文段)

http://nakanihon.net/nb/honnzonnsyoumonndann.html

92直人:2005/05/18(水) 21:13:25
顕正居士さん、こんばんは。

 御教示ありがとうございます。
日寛師は「此の法門…」を直接の依文(引用がなかった)としていなかったと記憶
していましたのであのような書き方になりました。

93今川元真:2006/05/18(木) 10:40:20
日有上人の化儀(てへん)少には、法華宗もしくは法華経の信あれば、改宗時に他宗の本尊等を漫陀羅の御前に並べても問題無いように書かれ、守(札)や漫陀羅を書く時は判形あるべからずと書いてあった憶えがあります。日有上人等が戒壇本尊を模造した時、高祖・開祖の漫陀羅では畏れ多いので日禅上人の漫陀羅等を模造したのでは無いかと考えるのですが、如何でしょう。それとも、戒壇本尊と言う位置の本尊は無かったのでしょうか。

94川蝉:2006/05/19(金) 12:00:47
今川元真さん今日は。

日有上人の「化儀抄」をザット見てみました。

「法華宗もしくは法華経の信あれば、改宗時に他宗の本尊等を漫陀羅の御前に並べても問題無いように書かれ」ている部分は見あたりませんでした。

「有師化儀抄」に
「他宗の法華宗に成る時、本と所持の絵像木像ならびに神座(イハイ)其の外他宗の守りなんどを法華堂に納むるなり。・・」
(富士宗学要集第一巻70頁)
とありますが、これは改宗以前に拝んでいた他宗の本尊などは、法華堂に納めてもらうべきである(引き取ってもらい処分して貰うべきである )との意味でしょうね。

「漫陀羅を書く時は判形あるべからずと書いてあった憶えがあります」
第二十条と二十一条のようですね。(富士宗学要集第一巻71頁)末寺の住職はお守りや曼荼羅を書くときには判形を書くべきでないと云う意味のようですね。

「日有上人等が戒壇本尊を模造した時、高祖・開祖の漫陀羅では畏れ多いので日禅上人の漫陀羅等を模造したのでは無いかと考えるのですが 」
との事ですが、「日禅上人に授けられた所謂、日禅漫陀羅が日蓮聖人筆でない(偽物)と、日有上人等が知っていたから、それを板本尊として模造しても不敬に当たらないと考えて模造したのではないか 」と云う文意ですか?。

板本尊にした方が、保存性が勝ると考えたり、筆跡鑑定もされにくいと思ったかも知れませんね。

95今川元真:2006/05/19(金) 12:42:50
川蝉さん、返答ありがとうございます。 聖人滅度後、法華一乗を宣揚するには漫陀羅本尊が末法無戒の世に合っていると考え(依法不依人其他) 日有上人等は熱原三烈士もしくは蓮・興・目に続く人材の願主を弥四郎国重と表して板本尊を模造したのでは無いかと過った事を思い計り書き込みしました。       板本尊にしたのは耐久力の問題だと自分も思います。紙幅の漫陀羅を板に貼り所表にしたと言われたり、仏像もしくは漫陀羅は修行の道具であると考えていたのであれば、 罪と罰の多少はあれど結果往来だと割り切っていたのかもしれません。

96アキラ:2006/11/25(土) 14:54:50
アマゾンで近日発売とのことです。どんな本ですか。詳細が分かる人、教えて下さい。

97アキラ:2006/11/25(土) 14:55:39
失礼しました。書名は『日蓮正宗の神話』です。

98ドプチェク ◆UILiye31iI:2006/12/18(月) 22:48:50
管理人さん、皆さん、お久しぶりです。
ちょっとだけお邪魔させていただきます。

アキラさん
>>96>>97
書き込まれてからもう1ヶ月近くが経ちますので、もしかすると、すでにご存知なのかもしれませんが、『日蓮正宗の神話』という本は、多分、論創社から出版されているものではないのか?と思われます。
先日、書店で“それらしい本”をたまたま見つけて、手に取ってざっと目を通したのですけど、著者は1992年に日蓮正宗(大石寺)を離脱して、現在、創価学会擁護派の日蓮正宗改革同盟だったか日蓮正宗青年僧侶改革同盟だったかに所属している松岡という人でした(フルネームは覚えていません)。
本の内容は、日蓮正宗と前法主の阿部日顕氏による数々の行状を糾弾したもので、本尊に関する事も取り上げられていました。
じっくり読んでいない為、詳細はわかりませんが。
まぁ、そのようなところです。

いきなり失礼致しました。

99ララ:2007/02/24(土) 15:39:11
初めまして。ララといいます。立場としましては元創価学会員です。
教えていただきたいのですが、「中古天台本覚思想」とはどういったものなのでしょうか?
いろいろとサイトを見て回りましたが私の理解力に合った文が見つからず、お恥ずかしながら質問させてください。
日蓮聖人の御遺文の中でその思想が出てるものは偽書の可能性が高いと聞きました。それはどういった理由なのでしょうか?
お教えいただければ嬉しく思います。

100川蝉:2007/02/25(日) 10:13:33
ララさん初めまして。


真如(宇宙の理法)を単なる理法、真理と見ないで、人格的(理智身)なものとし、一切の諸法はこの法身佛の現れ、流類とし、法界全体を法身仏と考える思想と、

寿量品の久遠実成の教説は、凡夫も無作三身の本覚の仏であることを顕すためのものであると解釈する思想とが、一緒になった思想が中古天台思想と云えましょう。

中古天台の亜流では、ついには、迷いの衆生の振る舞い(行為)は、そのまま仏の行いである、と考えて、修行軽視、釈尊軽視に、おちいった思想も出たようです。


日蓮聖人は、真如をそのまま無作三身の本覚の如来とは捉えていないのです。

久遠実成は、釈尊が三身具足の無始の古仏であることを教示するものであると、日蓮聖人は解釈されています。

十界互具論から、衆生も仏界(仏心)を具していると見ますが、あくまで、妙法五字を介して、釈尊の智徳(因行果徳の功徳)を譲与されなければ、仏心の顕現は出来ない、と云う思想です。

真如を無作三身の本覚佛とし、総ての存在は本覚仏であると考える一元論から、衆生本来仏なり、と云うのではなく、十界互具の実相論から、衆生も三身即一の仏を具している、としているのが、日蓮聖人の立場でしょう。

もし中古天台の思想と同じものならば、日蓮聖人の法門は、内相承の法門とか、別頭の法門とか、神力別付の法門であるなどと、云えないことに成ってしまいます。

ですから、中古天台の思想と酷似している御書は、日蓮聖人の思想としては傍系であるか、偽書と判断されています。

101顕正居士:2007/03/03(土) 18:59:45
天台本覚思想と祖書との交渉に関する基礎的な書物

日本思想大系・天台本覚論(中の田村芳朗師の本覚思想概説)
浅井要麟・日蓮聖人教学の研究

昭和初期の浅井要麟師の一部祖書への疑問と昭和中期の田村芳朗師の文献年代推定が
今日のあらゆる議論の前提になっています。

日本天台本覚思想そのものについては
島地大等・日本仏教教学史
上杉文秀・日本天台史
が基礎的な書物であることは今も変わらないでしょう。

日本天台本覚思想とは日本天台宗を中心に鎌倉・室町時代に発達したわが国独自の
仏教思想であり、以後の日本文化の根底をなすものと一般に理解されています。
鎌倉時代に新仏教なるものが出現しますが、依然、室町時代に発達したのは天台思想で
新仏教もこれを輸入して教義を形成していました。しかし比叡山の破却後、後期中国天台の
思想が輸入され、天台宗、日蓮宗などの学問が一変しました。

祖書との関連で問題になるのは一部祖書には室町時代を待たないと現れない高度に
発達した天台思想が含まれているのではないかということです。
(今日では口伝は問題にならないとおもいます。これらは明らかに室町時代のものですから)
なお前掲書の入手については検索すれば容易に発見できます(リンクが貼れないので)。

102開目:2007/03/05(月) 17:52:58
「妙法蓮華経五字非経文 非其義 唯一部意耳」

上記の「四信五品鈔」の意味は、妙法蓮華経の五字は、法華経一巻の意(こころ)だと日蓮聖人が述べている部分です。

然るに某富士門の掲示板では、それは現代的アレンジで、日蓮は経典を切り離して「妙法蓮華経の五字」を主張したのだと述べています。こういうのも中古天台的思想の影響です。

103問法第三:2009/07/05(日) 08:44:04
日蓮は釈尊を文上と文底で同一の呼称で呼ぶので意味が混同して文意が分かりませんでした。真意を汲むには口伝は必要だと思います。

104明星:2013/03/10(日) 02:50:28
碩学の皆様に安土宗論についてお尋ねします。

安土宗論については、日蓮宗が信長の策略に嵌められたということで
日蓮宗側では決着が付いているようですが、それは日蓮宗側のウソであるという知識人が多いようです。
このことについては如何でしょうか?

↓のように資料を呈示しながら日蓮宗側の負けを言い立てている人もいますし、
http://ameblo.jp/rekishisukikai/entry-10628409246.html

また、井沢元彦氏なども安土宗論は日蓮宗側の完敗と言っています。

これについて、どのように皆さんはお考えでしょうか?

105川蝉:2013/03/11(月) 09:22:26
明星さんへ、その一。
安土宗論の資料を所有していないので、資料を検討しての私の見解は現在の所、述べられません。
「日本仏教全書97」に、日蓮宗日淵の「安土宗論実録」・「信長公記」・日蓮宗日著の「安土問答」の三が収録されているそうです。法蔵館の「仏教大辞典によると、「前半は日著仮託の偽書、後半も後世の編集である」としています。
明星さん紹介のブログの見解が、如何なる資料を基に論述しているか解りませんが、かなり一方的な理解の様ですね。
「日蓮宗が武力戦闘集団で有った」旨を語って居ますが、その前に日蓮宗の教線拡大(武力戦闘力に依る勢力隆盛ではありません)を危惧した比叡山の僧兵による「天文法難」が起こり、そのご幾年かは、日蓮宗寺院は京都から追放され、その後、漸く京都布教を許されたので、日蓮宗の布教が再び盛んになり教線拡大著しく成った時点で起きたのが安土宗論です。
「日蓮宗事典」に、日蓮宗の一般的な安土宗論観が説明してあるので、ご参考に以下、紹介します。
●天正七年(一五七九)五月、織田信長の命による日蓮宗と浄土宗との安土宗論の結果、日蓮宗側が蒙むった法難をいう。安土宗論の発端は次のようにいわれる。普伝日門は信長の膝下の安土城下にきて猛烈な折伏伝道を行い、これによってまず土地の有力者大脇伝介、建部紹智は日門の熱心な帰依者となり、かくして、毎日一〇〇人、二〇〇人という改宗者を生じたという。あたかも天正七年五月中旬頃、関東より浄土宗の霊誉玉念という長老が安土城下にきて説法していた。そこへこの大脇伝介、建部紹智の二人が説法の座で疑義を問うたのに対し、玉念は「仏法の深義は若輩の汝らに話してもわからぬ、汝らのたのむ宗門の僧を出せ」といって、七日の法談を一一日間にのばしたことより端を発し、宗論へと進む。しかし本宗論の背景には信長の仏教弾圧政策があり、また浄土宗と信長の計画によって周到に準備されていた。浄土宗の僧聖誉貞安はかねてから信長の寵を得、新しく出入を許されていた人物であったが、安土における日蓮宗の急速な発展をみて痛憤し、これを信長に訴え、信長にとってもまた、かねてから各所に展開された日蓮宗徒の烈しい折伏伝道は、一個の強力な社会勢力として、天下統一を企図する信長にとって無視できぬ存在であった。信長はたえず自身の制覇の障害となるものを除したという。例えば比叡山の焼打ちや石山本願寺との対立などにみられる仏教弾圧政策があり、それ故信長は、これを機に浄土宗との宗論を命じ、日蓮宗の弾圧にのりだしたものといえる。

106川蝉:2013/03/11(月) 09:24:18
明星さんへ、その二。
 さて日蓮宗側では宗論を行う法則五ヵ条を作り、公正を期せられんことを上申したが、勿論これが取上げられるわけはなく黙殺され、いよいよ五月二七日安土城下の浄厳院で両宗は対決。日蓮宗側より頂妙寺日緩・妙覚寺老僧常光院日諦・寂光寺久遠院日淵・法音院(記録者)の四人、浄土宗側では阪東長老哀愍寺霊誉玉念・長老西光寺聖誉貞安・遍照寺信誉洞庫・一心院助念(記録者)の四人、判者には南禅寺長老鉄叟景秀・伴僧稷西堂・因果居士・法相宗の仙覚坊、信長の名代として織田七兵衛尉信澄、奉行・長谷川竹秀一・菅谷九右衛門・堀久太郎が列席し行われた。因果居士自記の『安土宗論』によると、因果居士は景秀が耳遠く聞こえぬので(時に八四歳)、自ら判者を買って出た。そして信長の依頼をうけて浄土宗側に不利な時は「内証あるによって批判せず」と記るし、また問答中にもたびたび浄土宗側に助言し援助するに及んでいる。本宗論の情景を日淵の『安土問答実録』によって再現してみると、法華宗側の傍聴者はみな場外に追い出され、浄土宗側のものは内陣にかくれ、局にひそみ「椽・芝の上まで奉行衆の人数みなみな法華宗の方を取巻き長道具にて、二、三千程もあるかと見えたり、雑人は幾千・万という数をしらず候き。法華宗のてい、かごの中の鳥と見えたり」という物々しさの中で進められた。そして一問一答をとげながら浄土宗はたびたび因果居士の助言のもとに危機を脱したが、そのうちに貞安は「四十余年未顕真実の文を以て破せば、方座第四の妙の一字を捨つるか」と、「方座第四の妙」という経論釈疏にない名目を言いだしてきた。法華宗側では初めて聞く名目にまごついたが、数番の問答で貞安は「汝知らずや法華の妙よ」と答えたので日淵は直ちに応酬し「汝愚癡なり、法華宗に対して法華の妙を捨つるかと問ふ歟、法華宗は法華の妙より立って其外の余法を悉く皆捨つ、汝、言はうずる事なきによって戯言(たわごと)を申すか」と答えた。このとき浄土宗暫く無言、赤面したという。日淵そこで奉行に対し「聞し召されよ、申つめて候」、すると玉念は「此妙、彼妙、妙義殊なることなし、妙は何れも同じ物よ」と、法華経を説く前に説いた諸経(爾前の経)と法華の妙とは同じであるという天台一家の円体無殊論をだした。このような円体同一の議論は法華宗では論じつくされた初歩の教義であり、議論が詭弁より一応の学問論となったから、日諦は物の響きに応ずるが如く「但以帯方便、不帯方便為異はいかに」と問うた。「ただ方便を帯すると、方便を帯せざるを以て異となす、爾前の経は帯方便の麁妙、法華は不帯方便の純妙、妙の名同じけれど義は天地の各別である、この義如何」と責められて玉念は無言、そこで日淵は奉行衆に「浄土両人共につめて候」と「問答の法なれば袈裟を給はらうずる」といったとき、玉念、つと立ち上るや「勝ったり、勝ったり」と二声叫ぶ。これを合図に周囲の人数どっと鬨の声をあげて殺到し、日緩らの袈裟をとり、打つ、なぐる、蹴るの狼藉を加え、日緩らをしばりあげ、場外にあって様子如何とうかがっていた法華宗徒二、三〇〇人を召しとらえ投獄した。信長は知らせを受けて直ちにかけつけ、日緩らをさんざんにはずかしめ、玉念・貞安にむかい「今日の法論近頃手柄で候、前々方々にて法論ありて種々の沙汰は聞いたれども、今度のように手柄なこととは知らなんで候、ここで果てた(この安土で決着した)事なる程に天下日本国かくれあるまじ」とほめたたえたと伝えている。
 こうして宗論は日蓮宗の負けと決せられた。そして信長は普伝日門・大脇伝介を拷問してそのあげく斬り、建部紹智を堺に捕えて殺した。また日諦・日緩・日淵の三人を安土の正覚院に拘禁し、日蓮宗が負けたこと、今後他宗に対して一切法論をせぬこと、日蓮宗を立て置かれて忝けないとの、京都諸本寺連署の起請文を信長に提出しなければならなかった。このようにこの宗論は純粋な教義の争いでなく、信長の計画的日蓮宗弾圧であったといえよう。かくて日蓮宗の態度に変化が生ずる。長老指導者たちによって、従来の強硬な折伏的弘教方法を柔軟な摂受的方法に切換え、おだやかな布教態度、教義づけが行われるようになるのである。しかし、これは信長あるいは秀吉の強力な近世政権を直接に身に感ずる京都を中心とする地域の大勢で、関東ないし中国方面では、この恥辱によって更に折伏的態度を堅持し各地に伝道し、京都にあっても、長老たちの態度に批判的な関東系教学を奉ずるものは、摂受主義の流れの中で毅然とした折伏的態度をもち続けていた。《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、宮崎英修『日蓮とその弟子』》(松村寿巌)

107川蝉:2013/03/11(月) 09:31:27
「明星さんへ、その一」の訂正です。

投稿「その一」の四行目を{法蔵館の「仏教大辞典によると、「安土問答の前半は日著仮託の偽書、後半も後世の編集である」としています。}と訂正して下さい

108明星:2013/03/13(水) 20:16:56
川蝉様、

さっそく、安土宗論に関する詳しい資料を教えて頂き有り難うございます。

日蓮宗を批判する人達は、安土宗論によって日蓮宗が詫び証文を書き、
それ以降折伏を行わなくなったのだから、日蓮宗の負けであると一方的に断じますね。

しかし、このたび教えていただいた資料によれば、これは信長の政権確立を
肌で感じていた京都周辺の話であり、関東ないし中国方面ではさらに折伏の
態度を強めていったとなりますと、これは話が違ってきます。

また個人的な感想としては、信長の政策(世俗権力による天下統一)からしてどう考えても
日蓮宗の折伏をそのまま放置するとは考えられませんので、やはり安土宗論には
なんらかの思惑があったものと推察されます。

安土宗論について今後とも自分なりに調べていきたいと思います。
今回はご丁寧に有り難うございました。

109伝六:2013/03/18(月) 15:50:00
安土宗論について考えるには田中智学著「安土法難論」を読むといいと思います。師子王全集論叢篇に収録されています。その一端を紹介しますと、信長の行動のあとをみると、キリスト教を保護して仏教の勢力を一掃しようという政策があった。比叡山は焼き討ちにあって女子供までみな殺しにあった。本願寺もほろぼそうとした。法華宗は戦争をしないから、法華宗得意の宗論で、問答を強制して負け証文を書かせて勢いをなくしてしまう。そういうながれの中の安土宗論です。キリスト教をなぜ保護したかというと、己の政策に利用しようとした。あさはかだが大きな思いつきがあった。歴史的キリスト教が侵略の手先になったということは今日では公論と思います。信長も後にはそのことに気がついたらしい。今も昔も信長の英雄的なところに眩惑されて、彼の殺人鬼的な面など暗部を剔抉する人はほとんどいないと思います。そういう点からも安土法難論は参考にするとよいと思います。

110明星:2013/04/15(月) 00:39:15
>>109
伝六様、

御返事が遅くなりまして申し訳ありません。
ご丁寧に有り難うございます。

やはり安土宗論の背景には信長の政治的戦略がありますよね。
仏教勢力を快く思わない信長が、法華宗の折伏を放置しておくはずがありません。

田中智学先生の「安土法難論」、機会があったら是非拝読したいと思います。
有り難うございました。

111法華系新宗教マニア:2022/02/05(土) 13:46:59
ツイッターで、
「えっ、霊友会って延身山系なの、
 新宗教みんなざっくり日蓮正宗系だと思っていた」
とのコメントを頂いたので書いてみた。

日蓮宗系諸教団の系統分類
――身延系、正宗系、法華宗系――
https://imadegawa.exblog.jp/32566899/


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板