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Japanese Medieval History and Literature

1釈由美子が好き:2007/06/03(日) 21:01:22
快挙♪ 3
 本日の歴史学研究会総会・大会2日目、日本史史料研究会さんのお店、中島善久氏編・著『官史補任稿 室町期編』(日本史史料研究会研究叢書1)が、なんと! なんと!!

  41冊!!!

 売れたと云々!!
 すげェ!! としか言いようがない。

 2日で、71冊。
 快進撃である。

7470鈴木小太郎:2022/04/18(月) 18:01:41
三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(その8)
※小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」のタイトルで(その11)まで進めて来ましたが、三浦周行論文の紹介が長く続いて内容とタイトルに齟齬が出来てしまい、後で検索する際に不便が予想されるので、(その5)以降のタイトルを「三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」と変更しました。


「第五節 持明院統の御主張」を、三浦の立論の基礎となった史料とともに紹介してきましたが、結論として、あまり説得力のあるものではないですね。
三浦も、この節の纏めとして、

-------
 其他持明院統の御主張は一として正面より積極的に後嵯峨法皇の御思召が後深草上皇にありしを立証するに足るものなきのみならず、却て寧ろ法皇が亀山天皇の治世の君に定められ給へかしと望ませられしことの朧げながらも窺ひ奉らるゝものあるなり。亀山天皇の皇子世仁親王を愛して、当時後深草上皇に二才御年長の皇子煕仁後の伏見天皇 のおはしゝにも拘らず、親王を皇太子に立て給ひしが如き、法皇の御在世中の御定にして、此点より見ても、大宮院の幕府に仰せ遣されし法皇の御素意は、必ずしもこれを矯められしことゝも考へられず。
 されば縦し皇位の継承に関する後嵯峨法皇の御素意が、亀山天皇の御一統に限られて後深草上皇の御一統を永久に除外すべしと迄思召したりとは信ずべからざるにもせよ、当面の問題として法皇が亀山天皇の御親政を望み給ひしことも、又世仁親王の未来の皇位を期待し給ひしことも、並びに事実にして、後嵯峨院の御在世中、幕府が此御素意に従つて、亀山天皇を治世の君と定め奉りしは、強ちにこれを咎むべきにあらず。

http://web.archive.org/web/20061006212841/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-02.htm

と書いています。
さて、三浦論文はこの後、

第六節 両統問題の経過
第七節 両統君臣の疎隔
第八節 両統の色彩
第九節 両統分争と御領

と続きます。
「第六節 両統問題の経過」では、大宮院が幕府に表明した「後嵯峨院の御素意」が真実なのかを後深草院が疑い、

-------
 此御不信はやがて御不満を生じ、そが一の導火線となりて、両統分立の火の手を挙げ、爾来幾多の波瀾、曲折を経て南北朝の分立とはなれり。此点につきても、従来の研究は、増鏡、梅松論、太平記其他二三の記録に拠る位にて、事件の真相は猶ほ未だ知られざるもの多きが如し。余は今此間の経過を分ちて五期となし、これより逐次其概説を試みん。
-------

ということで、文永九年(1272)の後嵯峨院崩御からより元弘三年(1333)の鎌倉幕府滅亡までを五期に分けて「概説」されますが、現時点ではもう少し細かな議論になっているので、あまり参考にならないですね。
「第七節 両統君臣の疎隔」と「第八節 両統の色彩」も簡略に過ぎる議論であり、省略します。
「第九節 両統分争と御領」は、

-------
 終りに臨みて、一事の弁ぜざるべからざることは両院の御分争と御領との関係これなり。従来一般に両皇統の御争に附帯して各御領の御争ありしと思考せらる。即ち後嵯峨院は後深草院に長講堂領等の御領を譲られし代りに、御子孫永く皇位の望を絶たしめられたりといふが如き、後、後醍醐天皇より幕府に向つて持明院統の大位に即かせらるゝ間は、長講堂領は亀山院の御子孫に進めらるべき由を諭されしといふが如きことこれなり。

http://web.archive.org/web/20061006212846/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondai-03.htm

と始まって、室町院領のことなどが細かく議論されており、当時の研究水準としては相当なものですが、現時点では古くなってしまっているので、これも省略します。
ということで、恒明親王問題を理解するための初級編、三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」はこれで終えることとし、次の投稿から中級編:三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究 第二輯』、1930)に入ることとします。

7471鈴木小太郎:2022/04/20(水) 11:41:41
三浦周行「両統問題の一波瀾」(その1)
小川剛生氏の「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(『金沢文庫研究』347号、2021年10月)に登場する金沢貞顕の書状は、僅か三歳の恒明親王から金沢北条氏にとって特別なゆかりのある古今集の写本を贈られたことへの礼状です。

小川剛生氏「謡曲「六浦」の源流─称名寺と冷泉為相・阿仏尼」(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c114810da4f82a93cdff488a3efd2c68
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b529b1034f9df20d6339295cb6f4f83

この書状を理解するためには、そもそも恒明親王とは何者かを詳しく知る必要がありますが、そのための素材として、

入門編:三浦周行「第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『鎌倉時代史』改訂版、1916)
初級編:三浦周行「鎌倉時代の朝幕関係 第三章 両統問題」(『日本史の研究 第一輯』、1922)
中級編:三浦周行「両統問題の一波瀾」(『日本史の研究 第二輯』、1930)
上級編:森茂暁「「皇統の対立と幕府の対応−『恒明親王立坊事書案 徳治二年』をめぐって−」(『鎌倉時代の朝幕関係』、1991)

の四つの論文を挙げることができます。
そして、入門編・初級編を終えたので、これから中級編、三浦周行「両統問題の一波瀾」に入ることとします。
もちろん私も単に古い論文を紹介するだけではなく、最晩年の亀山院が何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか、また、亀山院は自分に敵対していた西園寺公衡をどのようにして恒明親王の庇護者に取り込んで行ったのか、についての若干の私見を述べるつもりです。
そして、その二つの課題を整理した上で、改めて小川論文を検討する予定です。
ということで、三浦周行「両統問題の一波瀾」に入ります。
この論文は、

-------
一 研究の経過
二 亀山法皇宸翰に対する旧説の批判
三 余の解釈
四 恒明親王立儲の御内慮
五 西園寺公衡に対する御遺託
六 両統の御同意
七 法皇崩御前後の形勢
八 其後の経緯
九 事書案の批判
-------

の九節から構成されていますが、まずは第二節の途中まで引用します。

-------
 一 研究の経過

 大覚寺持明院両皇統間の皇位継承が両統迭立に依つて其順位を決定されてから、両統間の争議で残るは只譲位受禅の時期の問題丈となつた為め、従来に比して少からず形勢が緩和さるゝに至つたが、測らずも亀山法皇の遺詔から、大覚寺統側に内訌を生じ、延いては持明院統側にも動揺を来たした一波瀾が捲起された。私は此問題について嘗て史学会で数回の講演を続けたことがあつたけれども、故あつて発表の機会を逸したが、昨春(大正一一、五)出版の拙著『日本史の研究』に収めて始めて世に問ふことゝした。然るにこれと前後して本研究に取つて喫緊な新史料の発表があつて、幸ひにも私の旧説を裏書することゝなつたから、これを機会として本問題に関する私の研究の過去を辿り乍ら、其帰趨を明らかにしようと思ふ。

 二 亀山法皇宸翰に対する旧説の批判

 研究の対象は先づ亀山院御凶事記に見えた亀山法皇宸翰の字句から始まる。嘉元三年(中には七月二十日のも二十六日のも八月二十八日のもある)法皇が崩御に先きだつて(崩御は同年九月一五日である)後二条天皇其他上皇、親王、女院等に数通御譲状を遺し給ふと共に、前右大臣西園寺公衡に賜はつた二通の宸翰御消息があつて、其一通には

  五旬已後、面々御譲状等、守銘或持参、或可分進、太王不譲泰伯、而意
  在季歴、泰伯三譲季歴、意在太王、思之々々、
    嘉元三年七月廿六日 御判

と見える。これは法皇の崩御後五十日を経過してから、是等の御譲状をそれ/゛\名宛を御認めになつた銘書に任せて、或はこれを持参し、或は届けるやうにと公衡に御依頼になつたものであるが、其文を承けて一種の暗示を含んだ四句の意味が問題となつて来る。それについては従来学者の間に二つの異つた見解が行はれてゐる。一つは栗田博士の説であつて、一つは星野博士の説である。それを説く前に、今一つ次の如き遺詔を挙げよう。

  一 文永故院御譲状、一向以愚僧為総領歟、深草院雖為兄、一事一言不
  及訴訟、是併被重孝道故歟、且為先例、非余新儀、所領配分依多少、不
  慮嗷々出来事、可耻々々、可哀々々、

 これは前の遺詔を承けて、一旦五旬已後分進を仰せられたけれども、重ねて御閉眼後速に分進するやうにと仰せられたから其通りに取計らつたとの公衡の手記の後に載つて居るのを見ても、此重ねての仰出と同時に賜つたものであらうと察せられる。

http://web.archive.org/web/20061006194534/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-hiroyuki-ryotomondaino-ichiharan.htm

いったん、ここで切ります。
三浦の問題意識を確認するため、入門編・初級編との重複を厭わず引用しましたが、この後の栗田寛・星野恒説批判は古い議論なので省略します。

7472鈴木小太郎:2022/04/27(水) 12:51:59
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その1)
このところ体調があまり良くなかったのと、いったん投稿をサボったらサボりぐせがついてしまって、結局、一週間も休んでしまいましたが、またボチボチと書いて行きます。
休んでいた間、井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)や佐伯智広氏の『皇位継承の中世史』(吉川弘文館、2019)などを読みつつ当面の運営方針について再検討した結果、恒明親王問題の入門編・初級編で既に問題の所在は明確になっているので、中級編・上級編はいったん中止します。
そして、前回投稿で触れた二つの課題、即ち、

(1)最晩年の亀山院は何故に恒明親王を皇嗣とすることに固執したのか。
(2)亀山院と敵対していたはずの西園寺公衡は、何故に恒明親王の庇護者となったのか。

についての私見を明確にした上で、その私見が従来の研究の到達点と矛盾しないかを検証する中で、中級編・上級編とした論文についても若干の検討を行うことにしたいと思います。
とりあえず、今日は肩慣らしを兼ねて佐伯氏の『皇位継承の中世史』を少し紹介したいと思います。

-------
現在では常識とされる皇位の父子継承は、いつから、どのように行われたのか。天皇親政から摂関政治、院政へと移り変わる政治制度や、鎌倉幕府滅亡、南北朝内乱など、譲位や即位に武士が深く関わった事象を読み解き、皇位継承の実態に迫る。天皇と権力・親族との関係を軸に歴史の流れをとらえ、目まぐるしく展開した中世政治史を明快に描き出す。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b440652.html

吉川の「歴史文化ライブラリー」シリーズは何故かきちんとした章立てをしないので目次が見づらいですが、私の当面の関心に関係するのは実質的な第四章の「皇統の分裂」で、この章は次の三節に分かれています。

-------
承久の乱の影響
元寇と両統迭立
両統迭立と鎌倉幕府滅亡
-------

いずれも近時の学説の到達点を簡潔にまとめており、両統迭立をめぐる通史的理解としてはこれで十分な内容ですね。
ただ、歴史研究者の通弊というべきか、佐伯著にも国文学の研究の成果が採用されていない点は少し気になります。
例えば、実質的な第二節「元寇と両統迭立」には、

-------
平頼綱の滅亡による皇統の再変更

 武力によって成立した政権は、遅かれ早かれ、武力によって打倒される運命にある。クーデターによって成立した平頼綱の権力も、例外ではなかった。【中略】
 こうして幕府政治の主導権を握った貞時は、皇位継承について、当初は特に変更を加えなかった。ところが、永仁六年(一二九八)七月、伏見天皇から皇太子胤仁親王(後伏見天皇)へと譲位が行なわれると、幕府の意向によって、翌月に後宇多院の皇子邦治親王(後二条天皇、九四代)が皇太子とされた。三度目の皇統の転換が、この時確定したのである。
 その直接のきっかけとなったのは、伏見天皇の寵臣として権勢を誇った京極為兼の失脚であった。実は、後深草院は正応三年(一二九〇)に出家して政務を退いており、伏見天皇が積極的に親政を進めていた。その側近として政務に介入したのが為兼であったが、その権勢のあまり、多くの貴族たちから批判を浴びただけでなく、本来は持明院統を支持していた西園寺実兼からも警戒されるようになった結果、伏見天皇の譲位直前の永仁六年三月、為兼は佐渡国に流罪とされたのである。
-------

とあります。(p132)
京極為兼は人生で二度流罪になった珍しい人で、二度目の流罪に際しては西園寺実兼との対立があったことが明確ですが、一度目の流罪の場合、少なくとも史料には実兼との対立は出てきません。
それどころか、乾元二年(1303)閏四月、為兼が赦されて佐渡から戻ってきた直後に行われた「仙洞五十番歌合」には「入道前太政大臣」実兼も参加していたりして、およそ激烈な対立があったとは考えにくいのですね。
このあたりは井上宗雄氏がずいぶん前から主張されていて(『中世歌壇史の研究 南北朝期 改訂新版』(明治書院、1987、p43・107、初版は1965)、国文学研究者の間では常識になっていると思いますが、歴史学研究者には未だにこうした認識は共有されていないようです。

7473鈴木小太郎:2022/04/28(木) 13:07:51
佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)
京極為兼の第一次流罪の原因は『花園院記』正慶元年(元弘二年、1332)三月二十四日条の解釈の問題でもあります。
為兼は三日前の同月二十一日に七十九歳で死去していますが、為兼を敬愛していた花園院は二十四日条で為兼の生涯を回想しており、その中に「傍輩之讒」という表現が出てきます。
井上宗雄の『中世歌壇史の研究 南北朝期』によれば、

-------
 永仁四年五月十五日、為兼は権中納言を辞した。三十余年も後の記述であるが、花園院記正慶元年三月廿四日の条に(為兼)「至中納言、以和歌侵之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退旨申之、仍解現任、籠居之後、重有讒口、頗渉陰謀事依武家配流佐渡国」とあるのを信ずれば、現任を解かれたのは政道口入によって傍輩から関東への讒言があり、幕府から為兼を斥けべき執奏があったのである。
 竜粛『鎌倉時代』(下)や岩橋小弥太氏『花園天皇』等の叙述では、為兼と西園寺実兼の勢力が拮抗した為、実兼の妬忌にあって失脚したのだ、としているが、為兼が実兼に忌避されて失脚したのは、花園院記の前掲に続く部分によると、為兼の第二次失脚・配流(すなわち正和末年の土佐配流)であって、この永仁度の失脚は「傍輩之讒」(具体的には誰人の誹謗か不明であるが)によるものであった。なお為兼帰洛後の嘉元頃に為兼は実兼と親しかったので、この事から考えても第一次失脚は実兼との対抗によるものではなかったと思われる。
-------

といった具合です。(改訂新版p42以下)
同書では初版(1965)の記述と改訂新版(1987)での追加部分が明確に区分されており、ここは初版で既に記述されていた部分ですね。
さて、井上説に対しては、政治的に対立していたとしてもそれは歌壇活動とは別ではないか、という反論も一応考えられない訳ではありません。
しかし、乾元二年(1303)閏四月、為兼が幕府に赦されて帰洛した直後の同月二十九日から翌五月一日にかけて持明院殿で行われた「仙洞五十番歌合」には、

 左:女房(伏見院)・経親・兼行・為相・俊兼・教良女・藤大納言典侍(為子)・延政門院新大納言・永福門院小兵衛督・中将(永福門院)
 右:為兼・家親・永福門院内侍・範春(後伏見院)・新宰相・家雅・入道前太政大臣(実兼)・親子・俊光・九条左大臣(道良)女

の二十人が参加していますが、「すべて持明院統の側近廷臣と女房群であるが、実兼のような権貴の人が入っているのは注意され」(p107)、「とにかくこの歌合は全体的に力のこもった佳什が多く、作者の人数といい、番数といい、現存京極派歌合の中、最大のもの」(p108)です。
加えて、

-------
 書陵部蔵伏見宮旧蔵本の中に、この歌合に出詠する実兼の詠を為兼に合点せしめた一軸(原本)がある。為兼の合点歌が実兼の歌合詠進歌となり、為兼の評語等もあって注意すべきものである。【中略】ともあれ為兼は帰洛後ただちに顕貴の歌道師範たる地位に復したのである。
-------

といった事情もあって(同)、いわば為兼の帰洛祝いの歌合において実兼と為兼の関係は極めて良好ですから、流罪の原因を実兼が作ったと考えるのは無理が多かろうと思います。
ところで、流罪の原因については他にも様々な学説が提示されてきましたが、異色なのは何といっても今谷明説です。
『京極為兼』(ミネルヴァ書房、2003)において、今谷氏は永仁の南都争乱との関係を提示され、為兼はこの争乱に関与したのが失脚の原因であったとの斬新な説を唱えられました。

-------
『ミネルヴァ日本評伝選 京極為兼 忘られぬべき雲の上かは』
両統迭立という政争に深入りしたため佐渡配流に遭ったと考えられてきた京極為兼。本書では、その失脚の経緯を新たな視点から解明するとともに、歌人としてはもちろん、政治家としても優れていた為兼の人物像に迫る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b48497.html

しかし、今谷著が出た直後、小川剛生氏が「京極為兼と公家政権」(『文学』4巻6号、2003)で今谷新説に強力に反論され、南都争乱と為兼の配流を結びつけるのは根拠薄弱であることを論証されました。
ただ、小川氏も今谷説を否定しただけで、「傍輩」についての独自説を提唱されることはなく、結局、振出に戻ってしまった訳ですね。
この点、井上宗雄氏は『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)において、今谷説と小川説を紹介された後、

-------
 『花園院記』に見える、讒言をした「傍輩」とは誰であろうか。関東に告げているのだから、西園寺実兼であろうか。実兼にしても為兼の「権勢」は目に余るようになっていたのではあろうが、ただ「相敵視し、互に切歯」、讒をしたことの明らかなのは第二度の折である(『花園院記』)。佐渡からの帰洛後、為兼と実兼との間は資料的に見て平穏であり、第一次(佐渡配流)の場合は、字義の如く「傍輩」、同程度の身分の廷臣で、為兼によって官途を塞がれた如き人(複数の可能性があろう)ではなかろうか。ただし、為兼の政治行動に不満であった実兼が、その失脚に暗黙の諒解を与えていた(岩佐氏)ことはありえよう。おそらく政界の大立者としては、表面では中立的な立場に敢て終始したのではなかろうか。
 徳政下、この傍輩による告発は正当視され、関東の介入があっては天皇といえども、どうすることも出来なかったのである(「傍輩」は、天皇に対抗するために幕府を介入せしめた面もあろう)。
-------

と書かれています。(p91)
佐伯智広氏もこうした学説の動向は当然御存知でしょうから、「その権勢のあまり、多くの貴族たちから批判を浴びただけでなく、本来は持明院統を支持していた西園寺実兼からも警戒されるようになった結果、伏見天皇の譲位直前の永仁六年三月、為兼は佐渡国に流罪とされたのである」とされたのは岩佐美代子氏あたりの影響でしょうか。
実は私は「傍輩」=西園寺公衡ではないかと疑っているのですが、私見は次の投稿で書きます。

7474鈴木小太郎:2022/04/29(金) 13:31:42
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その1)
京極為兼に親しく接した花園院の証言の価値は高く、為兼の第一次流罪の原因となった「傍輩之讒」についても、私はその事実が実際にあったものと考えます。
その上で、仮にこの「傍輩」が西園寺公衡だとすると、当時の政局の流れにうまく当て嵌まるのではないか、というのが私見です。
そこで、先ず西園寺公衡がどのような人物かを確認しておくと、概略については「コトバンク」の解説が便利ですね。
上杉和彦氏(『日本大百科全書(ニッポニカ)』)によれば、

-------
西園寺公衡(1264-1315)
鎌倉後期の公卿。父は太政大臣実兼。母は内大臣中院通成の女顕子。竹林院入道左大臣と称される。侍従・左中将を経て、1276年(建治2)に従三位となり、1283年(弘安6)権中納言、1288年(正応1)権大納言、1298年(永仁6)内大臣、1299年(正安1)右大臣。同年父実兼の跡を受けて関東申次となる。1309年(延慶2)に左大臣に昇進したが、同年中に官を辞し、11年(応長1)に出家した(法名静勝)。両統迭立期においては、大覚寺統に近い立場にありながら、亀山院・後宇多院の不興を買う事態を招く行動をとったために持明院統に接近する時期もあり、その政治的地位はやや不安定であった。彼の日記『公衡公記』(宮内庁書陵部所蔵)は、鎌倉時代後期の公武交渉の状況を伝える貴重な史料である。また、『春日権現験記絵巻』を制作し春日社に寄進したことで知られる。1315年(正和4)9月25日没。
『竜粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』▽『森茂暁著『鎌倉時代の朝幕関係』(1991・思文閣出版)』

https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E8%A1%A1-67708

とのことですが、「大覚寺統に近い立場にありながら」については若干の疑問があります。
この点、森茂暁氏(『朝日日本歴史人物事典』)は、

-------
鎌倉時代後期の公家。太政大臣西園寺実兼の嫡子。母は内大臣中院通成の娘顕子。竹林院左府と号し法名は静勝。建治2(1276)年従三位。官位累進し延慶2(1309)年従一位左大臣に至ったが,同年中に辞し,応長1(1311)年8月出家。父実兼が正安1(1299)年6月に出家したのちの嘉元2(1304)年夏,鎌倉幕府の要請を受けて関東申次に就任,正和4(1315)年9月に父に先だって没するまでの11年間,このポストにあって,朝廷と幕府の間の連絡・交渉をつかさどった。公衡は持明院統に近く,また公衡の妹瑛子(昭訓門院)が生んだ亀山法皇の皇子恒明を扶持したため,大覚寺統の後宇多上皇と折り合いが悪く,後宇多の勅勘にあったりした。父祖の例に違い,公衡が太政大臣に到達しなかったのは,家運衰退のきざしとみられる。公衡は日記を残しており,『公衡公記』として刊行されている。<参考文献>森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』
-------

とされていて、少なくともその政治家としての活動の出発点においては「持明院統に近く」という評価が適切ですね。
さて、公衡は父・実兼(1249-1322)が十六歳のときに生まれた子で、父との年齢差は僅か十五年です。
そして正応三年(1290)の浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)に際しては、後深草院の前で、

-------
「この事はなほ禅林寺殿の御心あはせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引きたがへ、東かく当代をも据ゑ奉り、世をしろしめさする事を、心よからず思すによりて、世をかたぶけ給はんの御本意なり。さてなだらかにもおはしまさば、まさる事や出でまうでこん。院をまづ六波羅にうつし奉らるべきにこそ」

http://web.archive.org/web/20150918041631/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-asaharajiken.htm

と亀山院を糾弾するなど相当に強い性格であって、父親に一方的に従属するような人物ではないですね。
亀山院にとって、この浅原事件は人生最大のピンチであって、幕府に弁明の使者を送るなどしてなんとか切り抜けはしたものの、公衡に対して良い感情が抱けたはずもありません。
しかし、十五年後の嘉元三年(1305)、公衡は亀山院から恒明親王の将来を託される立場になっており、後宇多院と厳しく対立して院勅勘を蒙るような事態も生ずることになります。
この十五年間で、亀山院と公衡の関係はどのように変化したのか。
また、この十五年間には、永仁四年(1296)の為兼の失脚・籠居と同六年(1298)の第一次流罪、そして嘉元元年(1303)の為兼帰洛という持明院統にとっての重大事件が起きていますが、それと亀山院・公衡間の関係の変化には何か連関があるのか。
これらの問題を次の投稿で考察します。

7475鈴木小太郎:2022/05/11(水) 01:48:15
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その2)
京極為兼の第一次流罪に関する今谷説を批判するに際し、小川剛生氏は「二条殿秘説」という史料に注目されましたが、その中の「正和五年三月四日伏見法皇事書案」(小川氏による仮称)に第一次流罪に関係する記述があります。
井上宗雄氏『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)の簡潔な要約を引用させてもらうと、

-------
 この「事書案」については後章で再び取り上げるので、ここでは第一次失脚と関係ある記述のみ触れておく。
 正和五年十二月二十八日為兼第二次失脚ののち東使重綱法師が入洛。翌日西園寺実兼を通じて、

  (前略)入道大納言(為兼)、永仁罪科に依り流刑に処せられ了んぬ。今猶先非を悔い
  ず、政道の巨害を成すの由、方々その聞え有るの間、土佐の国に配流すべしと云々。

と申し入れた。後文には「彼の度、陰謀の企て有る由、一旦その沙汰に及ぶ」とあり、永仁の失脚は「政道の巨害」と「陰謀の企て」があったとされ、上記『花園院記』の記事と一致する。なお「陰謀の企て」とは、小川氏が本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』を引いて推定するように、武家への反逆計画が疑われたのである。すなわち為兼の失脚は、和歌をもって候する身で政事に介入し、陰謀の計画を疑われたのが原因であった。
-------

ということで(p89)、改めて『花園院記』正慶元年(元弘二、1332)三月二十四日条の記述の正確性が裏付けられた訳ですね。
即ち、「為兼の権中納言辞任は、和歌によって仕える立場なのに、政道に口入を行うようになり、傍輩の讒言があって幕府が現任の官を解任するように執進し、籠居せしめ、のち重ねて讒言があったが、それは陰謀にわたることであったので、幕府は佐渡に配流した、すなわち為兼の辞任は政道への口入による傍輩の讒、そのあと籠居、重ねて陰謀に関わる讒言によっての配流であった」(p86以下)ことは信頼できます。
ここで、「傍輩」という表現だけからすると権中納言であった為兼と同レベルの存在であったようにも見えますが、しかし、「傍輩」の条件としては幕府首脳を動かせるだけの政治力を持つことが必須です。
為兼自身も伏見天皇の使者として関東へ派遣された経験があり、また、祖母が宇都宮頼綱の娘という出自もあって宇都宮氏・長井氏等の有力御家人との間に相当強力なコネを有していますから、「傍輩」の関東への影響力は為兼を凌ぐものでなければなりません。
となると、当然に関東申次の西園寺家の名前が出てくる訳で、古くから西園寺実兼が「傍輩」候補となっていたのは十分な理由がある訳です。
しかし、井上氏が半世紀以上前に指摘されたように、実兼が帰洛後の為兼と余りに親しく交わっている点も否定しがたく、実兼ではどうにも不自然な感じが否めません。
そこで私は、為兼の流罪の前後を通じて、西園寺公衡と亀山院の関係も大きく変化していることを考慮し、同じ西園寺家であっても公衡の方に注目してみた訳です。
さて、実兼が京極派の重要歌人であるのに対し、公衡には歌壇での活動は殆どありません。
ただ、皆無ではなくて、伏見天皇践祚の翌正応二年(1289)三月に開催された和歌御会には参加しており、その時の歌が『玉葉集』に採用されているので、一応は勅撰歌人でもあります。
即ち、『玉葉集』の「巻第七 賀歌」に、

   正応二年三月、鳥羽殿に行幸ありて、花添色といふことを講ぜられし時
                        入道前左大臣
 桜花おのが匂もかひありて今日にしあへる春やうれしき

とあって(1060番)、権大納言・中宮大夫の公衡(二十六歳)は、朝廷の公式行事の場にふさわしい優美な和歌をそつなく詠む程度の教養は有していた訳ですね。
しかし、公衡の歌人としての活動はこれが最初で最後です。
いったい、何故に公衡は歌から遠ざかってしまったのか。
ひとつの可能性としては、西園寺家に仕える「家礼」に過ぎない京極為兼に指導者面をされるのが嫌だったから、という理由が考えられます。
人生で二度も流罪を経験した京極為兼は相当に強烈な性格であり、他方、公衡も浅原事件で亀山法皇を黒幕として糾弾し、後深草院にたしなめられるような強い性格の持ち主ですから、頑固者同士、衝突する可能性は相当にあった思われます。
そこで、次の投稿で、西園寺実兼・公衡父子と京極為兼の動向を年表風にまとめてみたいと思います。

なお、西園寺家については龍粛氏と網野善彦氏の次の論文が参考となります。

龍粛「西園寺家の興隆とその財力」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957)
http://web.archive.org/web/20100911054013/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-saionjikeno-koryu.htm
網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

西園寺実兼・公衡父子の個性の違いについては、橋本義彦氏の次の論考が参考になります。

橋本義彦「西園寺実兼・西園寺公衡」(『書の日本史 第三巻 鎌倉/南北朝期』、平凡社、1975)
http://web.archive.org/web/20150909222852/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto-yoshihiko-sanekane-kinhira.htm

西園寺公衡については、皇太子時代の今上天皇が木村真美子氏と連名で次の論文を書かれています。

「<史料紹介>西園寺家所蔵『公衡公記』」(『学習院大学史料館紀要』第10号、1999)
http://web.archive.org/web/20150512043618/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/naruhitoshinno-saionji.htm

橋本義彦氏が「その記述の詳細なことは他に類例をみないほどのもので、かれの周到にして几帳面な性格がにじみ出ている」と評されている『公衡公記』の例はこちらです。

西園寺公衡「石清水御幸記」(史料纂集『公衡公記』第一、続群書類従完成会、1968)
http://web.archive.org/web/20151128051057/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-saionji-kinhira-iwashimizu.htm
西園寺公衡「亀山院御落飾記」(史料纂集『公衡公記』第二、続群書類従完成会、1969)
http://web.archive.org/web/20061006212816/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-saionji-kinhira-kameyamain.htm

また、森茂暁氏の次の論文には『公衡公記』から「後深草院崩御記」が引用されていますが、公衡の政治的立場を考える上で非常に興味深い史料です。

森茂暁「西園寺公衡」(『鎌倉時代の朝幕関係』、思文閣出版、1991)
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm

7476鈴木小太郎:2022/05/03(火) 12:27:32
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その3)
西園寺実兼・公衡父子と京極為兼との関係について、年表風に整理してみます。
周辺の人物を含め、関係者の生年、そして為兼が権中納言を辞し、籠居することになった永仁四年(1296)現在の年齢を確認しておくと、

後深草院  寛元元年(1243)生 54歳
亀山院   建長元年(1249)生 48歳
西園寺実兼 同         48歳
京極為兼  同 六年(1254)生 43歳
西園寺公衡 文永元年(1264)生 33歳
伏見天皇  文永二年(1265)生 32歳
後宇多院  文永四年(1267)生 30歳

となります。
なお、井上宗雄氏は為兼の「兼」は主家の実兼の偏諱だろうと推測されています。(『人物叢書 京極為兼』、p18)
為兼にしてみれば、五歳上の実兼にはちょっと頭が上がらないけれども、公衡は十歳も年下で、主家だからといって何から何まで遠慮しなければならないような立場でもなさそうです。
さて、為兼の第一次流罪の前後の主要な出来事を挙げてみると、

弘安十年(1287)十月 熈仁親王(伏見)践祚、後深草院政開始。
正応元年(1288)七月 為兼、蔵人頭。
同       八月、公衡、中宮大夫。
同       十一月 公衡、権大納言。
正応二年(1289)正月 為兼、参議。
同       十月 実兼、内大臣。翌年四月、辞す。
正応三年(1290)二月 後深草院出家、伏見親政開始。
同       三月 浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)。公衡、亀山院を黒幕として糾弾。
正応四年(1291)七月 為兼、権中納言。
同       十二月 実兼、太政大臣。翌年十二月、辞す。
正応五年(1292)五月 公衡、右近衛大将。
同       六月 公衡、、右馬寮御監。
同       閏六月 公衡、近衛右大将を止められ、権大納言・中宮大夫も辞す。
永仁元年(1293)七月 為兼、伊勢公卿勅使。
永仁三年(1295)九月 某『野守鏡』を著して為兼を非難。
永仁四年(1296)五月 為兼、権中納言を辞し、籠居。
永仁五年(1297)八月 公衡、権大納言に還任、右近衛大将を兼ねる。
同       十月 公衡、大納言。右馬寮御監。
永仁六年(1298)正月 為兼、六波羅に逮捕される。
同       三月 為兼、佐渡に流される。
        六月 公衡、内大臣。
        七月 後伏見天皇践祚。伏見院政開始。
        八月 邦治親王(後二条)立太子。
正安元年(1299)四月 公衡、右大臣。同十二月、右大臣を辞す。
同       十二月 実兼、出家。ただし、関東申次は維持。
正安三年(1301)正月 後二条天皇践祚。後宇多院政開始。
同       八月 富仁親王(花園)立太子。
嘉元元年(1303)閏四月 為兼、幕府に赦されて帰洛。
嘉元二年(1304)夏頃 公衡、関東申次となる。
同       七月 後深草院崩御。
嘉元三年(1305)九月 亀山院崩御。

といった具合です。
いくつか気になる点がありますが、まず、正応五年(1292)の公衡の地位はずいぶん変動が大きいですね。
五月に右近衛大将に任じられたと思ったら、閏六月に辞めさせられて、同時に権大納言・中宮大夫も辞しています。
この「中宮」とは伏見天皇の中宮、西園寺※子(永福門院、1271-1342)で、公衡の七歳下の同母妹ですね。
そして、散位が五年も続いた後、為兼籠居の翌永仁五年(1297)八月に公衡は権大納言・右近衛大将に復帰します。
そして公衡復活の翌永仁六年(1298)正月に為兼が六波羅に逮捕され、三月に佐渡に流されます。
為兼が流罪となっていた五年の間に、伏見天皇は後伏見天皇に譲位を余儀なくされ、伏見院政も僅か二年半で終わって、正安三年(1301)正月には後二条天皇践祚、後宇多院政開始となり、持明院統と大覚寺統の関係は大きく変動していますが、公衡は内大臣・右大臣と順調に出世していますね。
ただ、実兼は正安元年(1299)十二月の出家後も関東申次の役職におり、公衡が関東申次となるのは五年後の嘉元二年(1304)です。
さて、こうした一連の流れを見ると、為兼と公衡の動向は全く無関係とは思えません。
特に正応五年(1292)の公衡の地位の変化は失脚と言ってよいもので、これが誰の意向によるのかが気になりますが、「後深草院崩御記」(『公衡公記』)嘉元二年(1304)七月十六日条によれば、

-------
故院(後深草)先年有御約諾之旨、其詔慇懃、所詮御万歳之後事、一向可執沙汰之由也、予(公衡)又深存其旨、而近曾奉内裏(後二条天皇)御乳父事、御本意已可相違歟之由、法皇(後深草カ)常有御遺恨之気、然而於其条者、暫譲補他人、奉行凶事之条、不可有子細之由、中心存之、又奏其由了、而自去夏比、関東執奏事自東方申之旨、予已奏之、最前喪籠、奉行凶事之条、於身有憚、又関東所存殊猶予之子細非一事、仍入道殿(実兼)令申其由給之処、院(伏見カ)仰云、法皇(後深草)御意已堅固也、中々御病中申此儀者可為御心神違乱之基、誠所申難儀、皆所密示合也、只可奉行之躰ニて御閉眼以後可仰仰(衍カ)他人云々、仇予可奉行之由、被載御遺誡、又被入素服人数了、御閉眼以前、内々被仰試(堀川)具守卿 法皇執事 処、申可奉行之由、而御閉眼以後忽以変改、仍只為方卿一人可管領云々、凡予昵近故院(後深草)之後、多年之間、於事雖有快然之気、一事而未拝不快之天気、而今不奉行御没後事、不喪寵、不纏※麻、生前之本意相違、遺恨何事如之哉、筆端更難及者哉、

http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm

とのことなので、後深草院と公衡の関係は後深草院の最晩年に急激に悪化したものの、それまでは順調だったことが分かります。
となると、正応五年(1292)の公衡の失脚は伏見天皇の意向となりそうです。
おそらくこの時、何かの事情で為兼と公衡が衝突し、為兼を庇護する伏見天皇が公衡を処分したと考えてよいのではないかと思います。

7477鈴木小太郎:2022/05/04(水) 12:04:25
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その4)
正応五年(1292)の『公卿補任』を見ると、

関白   九条忠教(四十五)
太政大臣 西園寺実兼(四十四)
左大臣  鷹司兼忠(三十一)
右大臣  二条兼基(二十五)
内大臣  徳大寺公孝(四十)※八月八日上表
同    三条実重(三十三)※十一月五日任
大納言  堀川具守(四十四)
同    土御門定実(五十二)

と八人続いた後、権大納言が十四人もいて、順番に名前と年齢を挙げると、

三条実重(三十三)、久我通雄(三十五)、花山院家教(三十二)、西園寺公衡(二十九)、近衛兼教(二十六)、大炊御門良宗(三十三)、九条師教(十七)、鷹司冬平(十八)、堀川基俊(三十二)、洞院実泰(二十四)、源通重(三十三)、藤原為世(四十三)、久我通雄(三十五)

となっており、公衡は四番目に登場します。
公衡は四年前の正応元年(1188)に権大納言となっていますが、二十代で権大納言というのは相当早い昇進で、上記十四人の中でも二十代は摂関家の近衛兼教・九条師教・鷹司冬平と洞院実泰・西園寺公衡の五人だけですね。
さて、公衡の項には、

中宮大夫。五月十五日兼右大将。六月廿五日右馬寮御監。閏六月十六日止大将。同日権大納言中宮大夫同辞之。

とあります。
この日付に注目して他の人事を見ると、五月十五日には右大臣・二条兼基が兼任の左大将を辞し、権大納言・花山院家教が左大将を兼任します。
同日、権大納言・三条実重が兼任の右大将を止められ、公衡が右大将となった訳ですが、公衡が右大将を止められた閏六月十六日には花山院家教が左大将から右大将に転じ、三条実重が左大将に任じられています。
このように左右の近衛大将だけを見れば名誉職の盥回しに過ぎないような感じもしますが、公衡が権大納言と中宮大夫を辞し、以後、実に五年間も散位だったというのは本当に異常な人事ですね。
公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます。
なお、「中宮」とは西園寺実兼の娘・◆子のことですが、その母は中院通成の娘・顕子なので、公衡の七歳下の同母妹です。(◆金偏に「章」)

西園寺◆子(永福門院、1271-1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E9%8F%B1%E5%AD%90

◆子は伏見践祚の翌正応元年(1288)六月二日に入内し、八月二十日に中宮に冊立されますが、中宮大夫となったのは公衡、そして中宮権大夫となったのは母・顕子の甥、中院通重です。

中院通重(1270-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%87%8D

正応五年(1292)、公衡が中宮大夫を辞すと中院通重が中宮大夫となり、それは永仁六年(1298)の伏見譲位後に◆子に女院号宣下があって永福門院となるまで続きますが、同母兄がいるのに母方の従兄・中院通重に交替したということは、公衡と◆子との関係も悪化したことを窺わせます。
為兼と伏見天皇・◆子は京極派の和歌の世界で固く結びついており、正応二年(1289)三月に開催された和歌御会で一首を詠んだ後は全く歌壇と縁がなかった公衡には入り込む隙がなかったのかもしれません。
さて、公衡は研究者の間では異常に詳細な日記を残してくれたことで有名ですが、一般的には『徒然草』第83段のエピソードで名前が知られている程度の人だろうと思います。
即ち、

-------
 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども、「珍しげなし。一上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
 「亢竜の悔あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。よろづの事、先のつまりたるは、破れに近き道なり。

http://web.archive.org/web/20150502065713/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-83-chikurinin.htm

という話ですが、西園寺家は公経・公相・実兼と三代続いて太政大臣となったので、公衡も当然に太政大臣になれたはずだが、本人が「一上」(左大臣)で十分だと判断して出家してしまった、というのは本当なのか。
公衡が極官の左大臣となったのは延慶二年(1309)三月で、同年六月に辞し、応長元年(1311)八月に出家していますが、延慶元年(1308)に花園天皇が践祚、伏見院政となっているので、公衡を太政大臣にするかどうかの決定権は伏見院にあります。
伏見院としては、かつて為兼と軋轢があり、五年の散位の間に為兼と為兼を贔屓する伏見天皇への恨みを募らせ、幕府に讒言して為兼流罪の原因を作った公衡を決して許さず、関東申次という重職の相応しい地位として左大臣までは認めたものの、太政大臣は許さなかったのではないか、そして公衡も伏見院の対応を見越して太政大臣をあきらめた、というのが実際だったのではなかろうかと私は想像します。

7478鈴木小太郎:2022/05/05(木) 12:38:51
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その5)
前回投稿で「公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます」と書いてしまいましたが、これはちょっと勇み足でした。
為兼の専横が目立つようになるのはもう少し先の時期であり、正応五年(1292)の時点で西園寺家の「家礼」である為兼が公衡と正面から衝突できるのか、そしてそれを実兼が許容するか、という疑問も生じます。
まず、前提として為兼と実兼・公衡父子の関係を確認しておくと、井上宗雄氏『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、次のような具合いです。(p55以下)

-------
 さて、西園寺実兼(四十歳)は正応元年十月権大納言より正官に転じ、右大将を兼ね、従一位に昇り、翌年十月任内大臣、三年四月に辞したが、四年十二月太政大臣となる。この間もとより関東申次は続けている。
 以上のような状況が為兼に大きく影響したことはいうまでもなく、正応元年七月十一日蔵人頭となっている。『勘仲記』に、

 隆良朝臣、伊定朝臣、顕資朝臣、実時朝臣、宗冬朝臣五人の上?を超越
 すと云々、禁裏御吹挙、先途を遂ぐと云々。

とあり、超越して頭に補せられたのも深い信任による天皇の推挙であった。
 翌二年正月十三日任参議。『伏見院記』には為兼について「本自〔もとより〕無弐の志を竭〔つ〕くし、忠勤を致すの仁也」とあり、この昇進も天皇の配慮に依った。ちなみに、十五日に拝賀、そのあと西園寺邸に赴いて新任の慶を申した。「家礼〔かれい〕の仁と雖も」公卿として拝賀に来たのだからとて、実兼も公衡も対面している。
-------

この『公衡公記』の記述からは、為兼は本来「家礼」であって、西園寺家に従属すべき存在であるものの、しかし、公卿になった以上は西園寺家としてもそれなりに対応する、という微妙な関係が伺えます。
そして、蔵人頭・参議となって以降、為兼は、例えば後深草院が出家して伏見親政となった翌正応四年(1291)、幕府との特別な関係を背景に朝廷の人事に介入していた禅空(善空)なる真言律宗の僧侶の排除に尽力するなど、伏見天皇の信任に応えて実際に相当な活躍をしています。
為兼の専横が目立つようになったのは永仁二年(1295)あたりかららしく、正応五年(1292)ではちょっと早すぎる感じです。
とすると、正応五年に公衡と衝突したのは誰かが問題となりますが、既に二年前から親政を行っていた伏見天皇ではなかろうかと思われます。
浅原事件での対応や、正安三年(1301)、後二条天皇の即位式で花山院家定の失態を咎めたエピソード(但しこれは典拠が『増鏡』。後述)などを見ると、万事に几帳面な公衡は周囲の空気を読まない頓珍漢な正義漢でもあります。
他方、伏見天皇も芸術家肌というか潔癖症というか、政治家としては大物とは言い難い面があって、二人が衝突する可能性は高そうです。
そして、その際に公衡の側に何らかの落ち度があったならば、実兼も公衡を守りにくかったと思われます。

※『増鏡』巻十一「さしぐし」に記された後二条天皇の即位式での公衡のエピソードは次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p410以下)

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 かくて新帝〔後二条〕は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかう、すみたるさまして、しめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時、花山院三位中将家定、御剣の役をつとめ給ふとて、さかさまに内侍に渡されけるを、今出川の大臣〔おとど〕、御覧じとがめて出仕とどめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなか沙汰がましくてあしかりなん。ただ音なくてこそ」と申しとどめ給へりしこそ、なさけ深く侍りしか。後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん。

http://web.archive.org/web/20150918073845/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-gonijotenno-sokui.htm

「今出川の大臣」は前右大臣・西園寺公衡、「鷹司の大殿」は前関白・鷹司基忠(1247-1313)ですね。
西園寺公衡が強硬な意見を吐き、それを誰かが窘めるというパターンは浅原事件と同じですが、「後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん」という語り手の尼の感想が些か不自然で、『増鏡』作者による脚色の可能性もありそうです。

7479鈴木小太郎:2022/05/06(金) 15:14:35
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その6)
為兼を幕府に讒言した「傍輩」が誰かを探ってきたのは、正応三年(1290)の浅原事件で亀山院を黒幕と糾弾した西園寺公衡が嘉元三年(1305)には亀山院の遺志を奉じて恒明親王の庇護者になるまで、二人の関係が極端に変化した経緯と理由を知るためでした。
今までの投稿で井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)を何度か引用させてもらいましたが、公衡と亀山院の関係についても同書には参考になる記述が多いですね。
同書は、

-------
序 和歌の家(家系/祖父為家の妻室・諸子/父為教とその周辺)
第一 為兼の成長期
第二 政界への進出―正応・永仁期
第三 第一次失脚
第四 帰還以後―嘉元・徳治期
第五 両卿訴陳と『玉葉集』

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b548116.html

と構成されていますが、第二章第三節「君寵の権勢」の冒頭には、

-------
 正応六年は八月五日に永仁と改元された。永仁三年頃までの為兼の政治的行動は諸記録によってかなり明確だが、ここも一々記載することは煩瑣でもあるので、幾つかの事蹟を挙げるに止めよう。
 三条実躬は本家筋の実重と不和のことがあり、実重の訴えによって勅勘を蒙ったが、西園寺公衡らの尽力で、正応六年(永仁元)三月八日勅免される。その伝達を為兼が行なっており、次いで公衡から勅免状が届いた。これは公衡の尽力と亀山上皇の意向などによったらしいが(『実躬卿記』)、為兼も公衡に従って衝に当たったようであり、内意を示したり、事後の処置を伝えたりしている。
-------

とあります。(p64以下)
公衡が権大納言を辞した正応五年(1292)の翌六年三月、伏見天皇の勅勘を蒙った三条実躬を助けるために公衡と為兼は協力しているので、やはりこの時点では二人の関係は特に悪くはないようですね。
そして三条実躬の背後には亀山院がいて、浅原事件の後は暫らく静かにしていた亀山院もそれなりに復活してきたようです。
同年四月には平禅門の乱が勃発して関東は大騒動でしたが、為兼は七月に公卿勅使として伊勢神宮に派遣され、十二月には関東に下って親戚の宇都宮景綱(蓮愉、1235-98)と和歌を詠じたりしています。
関東下向の理由は不明ですが、井上氏は永仁勅撰の議についての了解工作も含まれるだろうとされています。(p67)
翌永仁二年(1294)三月には長井宗秀の嫡子・貞秀が蔵人に補せられ、東使として在洛中の宗秀からは朝廷側に相当の贈り物があり、また貞秀の拝賀などの華やかな儀礼が行なわれますが、これも為兼が差配していたようで、為兼の権勢を支える要因には関東との密接な関係も大きかったようですね。
さて、井上氏は『実躬卿記』に基づき、当時の為兼の権勢を窺わせる次のような話を紹介されています。(p68以下)

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。
-------

もちろん、これは三条実躬という少し僻みっぽい官人の偏見の可能性もあるでしょうが、亀山院にとっては面白くない時期であったことは間違いないですね。
他方、為兼が鎌倉との独自ルートを強化して権勢を振るい始めたことは、関東申次の西園寺家としても穏やかな気持ちで見過ごすことはできなかったように思われます。
なお、三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭となっています。
文永元年生まれなので、公衡と同年、為兼より十歳下ですね。

-------
没年:没年不詳(没年不詳)
生年:文永1(1264)
鎌倉後期の公卿。父は権大納言公貫。母は中納言吉田為経の娘。文永2(1265)年叙爵。近衛少将,中将を経て永仁3(1295)年に蔵人頭。3年後に参議に任じ,公卿に列する。嘉元1(1303)年,従二位,権中納言。2年後官を辞し散官となる。延慶2(1309)年正二位に昇る。翌年按察使に任ず。正和5(1316)年民部卿を兼ね,また権大納言に任じられる。2カ月余りで同職を辞任し,翌年出家。法名を実円といった。日記『実躬卿記』があり,蔵人頭のときのことが書かれており,史料価値は高い。
(本郷和人)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%BA%AC-1133599

7480キラーカーン:2022/05/07(土) 00:14:40
駄レス
>>権大納言が十四人もいて
中々の壮観ですね。更に、(権)中納言と参議もいたのですから、
議政官全体で何人になったのでしょうね。
管見の限りだと、閣内大臣(≒議政官)は凡そ20人超が最大限のようですので

(権)大納言がこれだけ多いという事は、准大臣の事実上の定員も1名だったのでしょうか。

>>(正親町)三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭
当時は、大臣家でも頭中将になれたのですね。

7481鈴木小太郎:2022/05/07(土) 11:38:50
京極為兼が見た不思議な夢(その1)
ちょっと横道に入りますが、京極為兼が有していた鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀との縁です。
宇都宮氏は頼綱(蓮生、1178-1259)、泰綱(1202-60)、景綱(1235-98)と続きますが、為兼の祖父・為家(1198-1275)は頼綱娘と結婚し、二人の間に二条為氏(1222-86)・京極為教(1227-79)等が生まれており、為兼にとっては宇都宮景綱は父・為教の従兄弟ですね。

宇都宮景綱(1235-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%99%AF%E7%B6%B1

ちなみに頼綱室は北条時政の娘で、母は時政の後妻・牧の方ですが、この人は頼綱と離婚後、四十七歳で前摂政・松殿師家と再婚しており、なかなか自由奔放に生きた女性のようですね。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a345048ef491da666beea454dbd19f97

ま、それはともかく、為兼は三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政ですから、生まれたときから関東との特別の縁がある人です。
さて、『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは本郷氏の説明で一応納得していたのですが、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この夢は本郷説の当否を考える上でけっこう重要ですので、少し検討してみます。
まず、本郷説を紹介します。(p167以下)

-------
 永仁六(一二九八)年正月七日、六波羅は前中納言京極為兼を逮捕し、三月十六日に佐渡に流した。為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる。天皇の側近く仕え、伝奏の代役も果たしている。彼の祖父為家は西園寺家と親しく、母は同家家司三善雅衡の娘であった。そのため為兼は、はじめ関東申次西園寺実兼と昵懇であったが、彼の権勢の増大は実兼との不和を招き、両者の激しい対立が六波羅の介入をもたらしたという。だが朝臣である為兼が、なぜ天皇や上皇でなく武家に処罰されたのか、詳細は明らかでない。
 ある日、為兼は不思議な夢を伏見天皇に語っている。父為教とは従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたというのである。景綱の母は名越朝時の娘、妻は安達泰盛の姉妹、彼はどちらの縁からも北条得宗家から警戒の目を向けられていたに違いない。こうした景綱のことをわざわざ日記に書き留めていることからすると、伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか。この推測が当を得ているならば、為兼が罪ありと認められた以上、伏見天皇の身も安泰ではあり得ない。果たして七月二十二日、天皇は譲位して後伏見天皇が践祚する。更に八月十日、後宇多上皇の皇子邦治親王が春宮にたてられた。皇統は、近い将来、再び亀山上皇の側に戻ることになった。このとき人々は、皇位の継承権が持明院統・大覚寺統に等しく保たれていること、次代の治世がどちらのものかはあくまでも幕府の裁量によって定められることを知ったのである。
-------

本郷氏が「為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる」、「彼の権勢の増大は実兼との不和を招き」に付した注をみると、いずれも『花園天皇記』元弘二年三月二十四日条が典拠ですが、実兼との不和は第二回目の流罪については妥当しても、第一回目の流罪については説得的でないことは既に述べました。

佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

また、宇都宮景綱が登場する夢についても、永仁元年(1293)の時点で「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していた」と考えるのはあまりに早すぎて無理があります。
では、この夢はどう解釈したらよいのか。
実は『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、というのが井上宗雄説です。

7482鈴木小太郎:2022/05/07(土) 12:11:00
議政官のインフレ化
>キラーカーンさん
>更に、(権)中納言と参議もいたのですから、議政官全体で何人になったのでしょうね。

中納言が洞院実泰(二十四)一人ですが、洞院実泰は五月十五日に権大納言となっています。
権中納言は中院通重(二十三)以下十四人、参議は花山院師藤(二十七)以下十四人ですね。
但し花山院師藤は正月十六日に権中納言となっています。
また、三条実重は十一月五日に権大納言から内大臣となっているので重複は三人です。
結局、

関白〜内大臣 6人
大納言    2人
権大納言   14人
中納言    1人
権中納言   14人
参議     14人

の合計51人から3人を引いて48人ですね。
鎌倉後期には議定官のインフレ化が顕著です。

7483鈴木小太郎:2022/05/08(日) 17:12:13
京極為兼が見た不思議な夢(その2)
宇都宮景綱が登場する為兼の夢の話は『伏見院記』の永仁元年(1293)八月二十七日条に出てきますが、当該記事は国文学研究資料館サイトで確認することができます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&amp;C_CODE=0257-038109

上記リンク先で全54コマの最後の方、50コマの左側から51コマまで三ページ分が八月二十七日の記事で、最初の二頁が「永仁勅撰の議」について、三頁目の八行目の途中までが「南都維摩講師」を競望する僧侶についての記事です。
そして以後十三行目までが為兼の夢の記録ですが、井上宗雄氏の要約を借りれば、その内容は次の通りです。(『人物叢書 行極為兼』、p66以下)

-------
 八月二十六日為兼は天皇に次のことを語った。前夜、賀茂宝前で夢想があった。夢中に宇都宮入道蓮愉(前述)が、異国からの唐打輪を勧賞のため進める、といってきた。為兼が何の賞か、と問うと、叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰すべき事前の勧賞であり、また糸五両を献ずるが、これは五百五十両になるだろう、ということであった(『伏見院記』)。霊感の強い為兼のこの夢想は、きわめて政治性の強い、願望の結果であったと思われ、天皇にしても、この夢を書きとめたのは、上述伊勢における為兼の霊感と同様、希瑞として共感するところがあったからであろう。すなわちこの二十七日は、勅撰のことが議せられた日であり(後述)、両者の念頭には、素志が果たされるべき希瑞として映ったのであろう。
-------

冒頭の八月二十六日は二十七日の間違いですね。
「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」ですから、ここだけ見ればずいぶん物騒な話で、本郷和人氏のように「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか」などという解釈になりかねません。
しかし、八月二十七日の記事全体に占める比率を見れば明らかなように、この時点で伏見天皇にとって最も重要なのは勅撰集の撰集です。
そして、宇都宮景綱は御子左家と関係の深い武家歌人ですから、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話と考えるのがよさそうです。

宇都宮景綱(1235-98)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

井上氏は上記部分に続けて、

-------
 そして為兼は歳末、関東に下った。『沙弥蓮愉集』に、「権中納言為兼卿永仁元年歳暮之比、関東に下向侍りしに、世上の事悦びありて帰洛侍りし時、道より申し送られ侍」として「としくれし雪を霞に分けかへて都の春にたちかへりぬる」(五四二)とあり、蓮愉の「雪ふりて年くれはてしあづまのにみちあるはるの跡はみえけん」の返歌が録されている。「世上の悦」とは何であろうか。翌年正月六日正二位への昇叙をさすと推測されている(『沙弥蓮愉集全釈』)。なお為兼の下向は十二月六日前後であり(『親玄日記』)、東下の主眼はおそらく勅撰の議についての了解工作であって、そのほか政事についての要務などであったのだろう。
-------

と書かれていていますが、永仁元年(1293)は四月に平禅門の乱があった激動の年で、朝幕関係にも全く影響がなかった訳ではないでしょうから、むしろ何かの「政事についての要務」が「東下の主眼」であったかもしれません。
しかし、宇都宮景綱とののんびりした歌の贈答からすれば、少なくとも景綱との関係では「勅撰の議についての了解工作」、今後、撰集について何か問題が生じたならば宜しくご協力をお願いします、程度の話だったのだろうと思います。
景綱にしてみても、「妻は安達泰盛の姉妹」という関係から霜月騒動で冷や汗をかき、浅原事件の処理で東使を勤めるなど平頼綱に協力した後、平禅門の乱でやっと晴れ晴れした気分になった直後ですから、面倒なことに巻き込まれるのはうんざり、という立場だったと思います。
なお、「永仁勅撰の議」などと言われても、国文学関係者でなければ何のことか訳が分からないでしょうから、これも井上著から引用しておきます。(p73以下)

-------
 八月二十七日天皇は為世・為兼・雅有・隆博を召して、勅撰集撰集のことを諮った。為兼は前夜賀茂社に参籠し、夢想のあったことは前に述べたが、撰集について祈念するところがあったのであろう。
 二十七日雅有は所労で不参。天皇は右大将花山院家教をして三者に、下命の月はいつがよいか、また御教書・宣旨・綸旨など下命の形式や、撰歌の範囲などを下問した。為世は十月下命がよいとし、為兼は下命に一定の月はないから八月でよい、と答え、隆博はこれに賛同している。下命は三者とも綸旨によるのがよい、とし、撰歌の範囲は、為世は、上古の歌は先行の集に採られ、残るのは下品の歌だから中古以後の歌を主張、為兼は、近日天皇は古風を慕われているから上古以後がよい、として隆博の賛同を得た。また百首歌を召すのは「近来定まる事」だが、これを仰せ下されるのは撰集下命の前か後かについては、各人「時に依って「不同」である」と答えた。以上の評議によって、天皇は家教を通して、今月の下命、また上古を棄てるのは無念だからそれも選び載せること、今日が吉日だから、というので綸旨案を家教が持参した。それによると、万葉以外の代々の勅撰集に入らざる上古以来の歌を撰進すべく四人に命じた。隆博は喜悦の余り落涙、天皇はその歌道執心の深さに感嘆している。
 以上は『伏見院記』に依ったが、『実躬卿記』にも簡単な記事がある。すなわち「今日 勅撰有る可し。御百首出題以下事、評定有る可しと云々」とあるが、これは、この日、勅撰集のことが決まり、そのための御百首出題以下のことを議すべく、評定が有るのであろう、と解せられる。実躬は早退したので詳しくは記していない。
 天皇の上古仰慕の念、為兼の上古歌の尊重の意見、万葉にも詳しい六条家の末孫としての隆博の考えなどが窺われるが、為世と為兼の対立点(二点)はすべて為兼案が採用され、手まわしもよく綸旨が下された。天皇と為兼との間に前もって相談があったことが容易に推測される。
 これがいわゆる「永仁勅撰の議」であるが、ここで提起された課題は後に長く尾を引くことになる。
-------

現代人から見るとずいぶん些末なことに拘っているような感じがしないでもありませんが、永仁元年(1293)八月の時点では、伏見天皇にとって、自らの治世を言祝ぐ勅撰集の実現こそが最大の課題だった訳ですね。
ただ、様々な事情からこの勅撰集の編集は遅延し、永仁四年(1296)の為兼籠居、ついで六年(1298)の為兼流罪によって、いったんは立ち消えになってしまいます。
そして為兼が流罪から戻り、徳治三年(延慶元、1308)後二条天皇崩御によって花園天皇が践祚し、伏見院の第二次院政が始まってから問題がより熾烈な形で再燃することになります。

7484鈴木小太郎:2022/05/09(月) 10:52:26
京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)
宇都宮景綱で検索してみたら、リンク先の2017年11月8日付産経新聞記事はなかなか良いですね。

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宇都宮景綱 武家家法の草分け「弘安式条」

 戦国時代に滅亡した宇都宮氏は歴代当主の肖像画はあまり残っていないが、江戸時代、古書画を模写して編纂された「古画類聚」には7代・宇都宮景綱の肖像画がある。僧侶の姿である。【中略】
 景綱は弘安6(1283)年、中世武家家法の草分け「宇都宮家弘安式条」を制定した。全70カ条のうち24条が社寺に関する規定で、宇都宮氏が宇都宮明神(現宇都宮二荒山神社)の神職だったことを反映している。他は裁判の方法に関する規定2条、けんか、訴訟に関する規定11条、幕府との関係を示す規定2条、一族、郎党に関する規定31条。
 同館学芸員、山本享史さんは、景綱が幕政の中心にいた安達氏との関係が深いことに注目する。義兄弟、安達泰盛は同時期に幕政改革要綱「新御式目」を制定しており、弘安式条もその影響があるとみている。景綱の名も義父・安達義景から「景」の字が与えられたようで、山本さんは「宇都宮氏は歴代、北条氏から1字もらうことが多く、景綱は例外的。安達氏は幕府実力者であり、密接な関係を持っていたことが分かる」。北条氏への対抗勢力形成というわけではなく、より広く実力者と縁を持つため。泰盛は北条氏外戚で、幕府重臣中の重臣。景綱も引付衆や評定衆の重責を担った。
 だが、裏目に出る場合もある。安達氏は北条得宗家の執事である内管領・平頼綱と対立。霜月騒動(1285年)で泰盛は滅亡し、景綱も失脚したが、「人間万事塞翁が馬」。平禅門の乱(1293年)で頼綱は自害。景綱は幕政に復帰した。【後略】

https://www.sankei.com/article/20171108-RLH5N573URMZHN634KBE7FB7XI/

細かいことを言うと、景綱は正応三年(1290)三月の浅原事件後に東使として鎌倉から派遣されているので、その時点で既に政治的には復権しており、平禅門の乱で鬱陶しい重石が取れて伸び伸び活動できるようになった、ということだろうと思います。
さて、先に京極為兼の鎌倉人脈で特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀と書きましたが、宇都宮景綱は為兼の父・為教の従兄弟で、嘉禎元年(1235)生まれですから為兼より十九歳も上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人ですから、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
為兼と親しく交流したことは確かですが、

-------
    中納言為世卿亭にて人々歌よみ侍りしに、雨後雪といふことを
 暮るるより尾上のしろく見ゆるかな今朝のしぐれは雪げなりけり(沙弥蓮愉集)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

という歌も詠んでいて、為兼の宿命のライバル、二条派総帥の為世とも親しいですね。
為世も三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政であって、武家社会との縁の強さは為兼と全く同じです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

ちなみに為世が権中納言になったのは正応三年(1290)六月で、正応五年(1292)十一月に権大納言に転じた後、翌十二月に辞していますから、景綱が「中納言為世卿亭」で歌を詠んだのは正応三年に東使として京都に派遣されたときのことと思われます。
このように宇都宮景綱と為兼の関係は特別に親密というほどでもない上、景綱は永仁六年(1298)三月に為兼が流罪となって間もなく、同年五月一日に死去していますので、為兼との関係も終わります。
他方、為兼と長井宗秀との関係は宇都宮景綱以上に緊密だったようで、歌風にも及んでいます。
この点を見るために、まずは井上著から少し引用します。(p67以下)

-------
 二年正月六日叙正二位。三月五日左衛門少尉貞秀が蔵人に補せられて初めて参内した。貞秀は長井宗秀男。長井氏は大江広元の流れを汲む幕府の文筆官僚で、先祖は宮廷の中下級官僚だが、現在宗秀は幕府の要人である。その御曹司が蔵人に補せられたのだが、「権中納言為兼、諸事扶持を加うと云々。権勢尤も然るべき歟」、と『勘仲記』は記し、かつ六日の条では、貞秀は姿も所作も気品があり、きちんとしていたとある。宗秀は東使として在洛中で、昨日は饗応のために主殿司十二人に砂金二十両、小袖二、檀紙二十帖を贈っている(同、五日の条)。貞秀は十八日に諸所拝賀、十九日に石清水臨時祭の舞人を勤めたが、それを見ようとして「見物車雲霞の如し」という有様であった(『実躬卿記』)。

   永仁二年三月大江貞秀蔵人になりて慶を奏しけるをみて宗秀がもとにつかはしける
 めづらしきみどりの袖を雲の上の花に色そふ春のひとしほ (『風雅集』雑上一四五八)

おそらく貞秀の補任には上記『勘仲記』の記事からも為兼の力が大きく働いたのであろうことは推測に難くない。
-------

検討は次の投稿で行います。

7485キラーカーン:2022/05/09(月) 21:57:11
駄レス(その2)
>>の合計51人から3人を引いて48人ですね。
岸田内閣の大臣と副大臣級の合計がざっと50名ですので、それと同じ規模ですね。

>>参議     14人
権官がなく「八座」という唐名があるのに、14名とは・・・

7486鈴木小太郎:2022/05/10(火) 11:39:18
京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その2)
細川重男氏の「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」(『鎌倉政権得宗専制論』、吉川弘文館、2000)を見ると、宇都宮景綱は文永六年(1269)、三十五歳で引付衆、同十年(1273)、三十九歳で評定衆となっているので、細川氏の言われるところの「特権的支配層」の一員です。
他方、長井宗秀は弘安五年(1282)、十八歳で引付衆に就任、平禅門の乱の直後、永仁元年(1293)四月に越訴頭人、十月に執奏、永仁三年(1295)、三十一歳で寄合衆となっており、宇都宮景綱より更に地位が高く、「特権的支配層」のトップクラスですね。
細川氏の『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)の「第六章 秋田城介安達時顕─得宗外戚家の権威と権力」には、「高時政権期、時顕が長崎高綱(入道円喜)と共に最高実力者の地位にあった」ことの説明の中で、

-------
 二人の鎌倉幕府における地位を示すより信憑性の高い史料は『貞時供養記』元亨三年(一三二三)十月二十六日条の法堂供養の席次であり、ここでは高時とその母大方殿の次位として「修理権大夫殿〔金沢貞顕〕以下御一族宿老」と対座して「別駕〔安達時顕〕・洒掃〔長井宗秀〕・長禅〔長崎高綱〕以下御内宿老」が記されている。「宿老」が北条氏一門(「御一族」)とそれ以外(非北条氏)に分けられていたのであり、北条氏の代表は金沢貞顕、非北条氏の代表は安達時顕・長井宗秀・長崎高綱であったのである。「宿老」とは、幕府特権的支配層の上層部、寄合衆家の人々と考えられる。「宿老」に次ぐのは「評定衆・諸大名」であり、「評定衆」は特権的支配層の下層部である評定衆家の人々、「諸大名」は守護級豪族御家人と推定される。そして最末席は「身内人以下国々諸御家人等」、つまり特権的支配層以外の人々であった。安達氏が長崎氏など共に幕府の家格秩序の最高ランクに位置していたことが如実に理解される。
-------

とあります。(p150)
宗秀は嘉暦二年(1327)に六十三歳で死去しますが、本当に最晩年まで「御内宿老」として「幕府の家格秩序の最高ランクに位置していた」訳ですね。
何故に長井宗秀の地位がこれほど高かったかというと、それは大江広元の嫡流と見なされていたからです。
井上宗雄氏が書かれているように、永仁二年(1294)、「幕府の要人」である宗秀の「御曹司」貞広は蔵人に補せられていますが、この時期、御家人が蔵人になるのは相当に珍しいのではないかと思って「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」全205名を確認したところ、蔵人となっているのは、

133 長井泰秀(大江広元の孫、長井宗秀の祖父、1212-53)
141 毛利季光(大江広元の子、1202-47)
142 海東忠成(大江広元の子、生年未詳-1265)

に長井貞広を加えた四人だけですから、蔵人補任は大江広元の子孫にのみ認められた特権のようですね。
そして貞広を除く三人が蔵人に補せられた時期は、

毛利季光 建保五年(1217、十六歳)
海東忠成 安貞元年(1227)
長井泰秀 寛喜元年(1229、十八歳)

ですから、最終の泰秀から貞広の補任まで六十五年も経っており、広元の嫡流にとっても長く途絶えていた伝統の復活といえそうです。
ちなみに大江広元自身は蔵人となっておらず、宗秀も蔵人にはなっていません。
そして、『勘仲記』によれば「権中納言為兼、諸事扶持を加うと云々。権勢尤も然るべき歟」とのことですから、為兼は大江広元の子孫の先例を調べ上げた上で、宗秀が本当に喜びそうなご機嫌取りをしてあげたことになりますね。
その上、「永仁二年三月大江貞秀蔵人になりて慶を奏しけるをみて宗秀がもとにつかはしける」とのことで、「めづらしきみどりの袖を雲の上の花に色そふ春のひとしほ」などという目出度い歌を贈った訳ですから、宗秀としても感謝感激だったはずです。
ところで「宗秀は東使として在洛中」でしたが、別に宗秀は保護者として息子が蔵人になるのを見守るために来た訳ではなく、その目的は興福寺の門跡、一乗院と大乗院の大抗争(「永仁の南都闘乱」)への対処です。
この点は次の投稿で書きます。

>キラーカーンさん
私は漠然と両統迭立期に急激に官職のインフレ化が進んだように思っていたのですが、そうでもなさそうです。
今はちょっと余裕がありませんが、後で調べてみます。
まあ、おそらく先行研究があると思いますが。

7487鈴木小太郎:2022/05/11(水) 11:58:19
京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その3)
「永仁の南都闘乱」はかなり複雑な話なのですが、森幸夫氏の最新刊、『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館、2021)に簡潔な説明があったので引用させてもらいます。
「歴史文化ライブラリー」の通例、というか悪弊で同書はきちんとした章立てをしていませんが、全体の構成は、

-------
六波羅探題以前―プロローグ
六波羅探題の成立
極楽寺流北条氏の探題時代
転換期の六波羅探題
探題を支えた在京人たち
南方探題主導の時代
六波羅探題の滅亡
なぜ滅亡したのか―エピローグ

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590522.html

となっており、実質的な第三章「転換期の六波羅探題」は「探題北条時村の時代」と「探題北条兼時・北条久時の時代」に分かれています。
「永仁の南都闘乱」は北条久時の在任時に起きています。(p110以下)

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久時の探題就任
 永仁元年四月四日、新たな六波羅探題北方として北条(赤橋)久時が入京した(『実躬卿記』)。二十二歳である。南方探題には引き続き北条盛房が在任していた。
 久時は北条義宗の子で、長時の孫である。得宗家に次ぐ家格の極楽寺流北条氏の嫡流であったが、上洛以前に幕府内で要職に就いていた形跡はない。しかし、久時の上洛から二十日も経ない四月二十二日に、鎌倉で平頼綱が誅伐されること、さらに久時が、頼綱との関係が深かったとみられる北方探題北条兼時の後任であったことには注目せねばなるまい。【中略】先に善空の一件でみたように、正応四年ころには、平頼綱の権勢にも陰りがみえていたから、久時の北方探題任命は、北条氏による支配体制を泰時以来のあるべき形に戻そうとした、当時の執権北条貞時の意思に基づくものと考えられるであろう。そして貞時によって頼綱が討伐され、名実ともに、幕府の鎌倉・京都支配のあるべき形が取り戻されたのである。
-------

いったん、ここで切ります。
赤橋久時は足利尊氏の正室・登子の父親ですね。

赤橋久時(1272-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82

登子の姉妹には京極為兼の失脚後、その養子・正親町公蔭と結婚した種子や「鎮西歌壇」の女流歌人「平守時朝臣女」もいます。

尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)〜(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572

さて、北方探題赤橋久時の在任当時、探題の権限はあまり強くありませんでした。(p112以下)

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久時の時代
 得宗家と水魚の関係にあった赤橋家当主として、六波羅探題北方となった北条久時であったが、永仁五年六月までの久時の探題在任時代、六波羅探題は西国成敗(裁判)の判決権を有していなかった。【中略】
 久時期の六波羅は、西国成敗の制限のみではなく、寺社紛争解決においても幕府が全面的にリードする場面が多いように思われる。久時期には「永仁の南都闘乱」と呼ばれる、興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争が繰り広げられた(安田次郎 二〇〇一)。
 永仁元年十一月、春日若宮の祭礼において、一乗院覚昭僧正と弟子の信助禅師配下の武者たちが合戦し、信助には大乗院慈信僧正が加勢して死者が出る大規模な闘乱が生じた。この抗争の次第を六波羅探題は鎌倉に注進し、十二月近国御家人をもって興福寺を警固する事態となった。翌二年二月になると、紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛する。ともに吏僚系の有力御家人である。八月、六波羅で一乗院方と大乗院方との問注が行われ、この審議内容は鎌倉に報告されて、九月、一乗院覚昭が勅勘に処せられて流罪と決する。しかしこの処分を不満とする一乗院の門徒が、春日神木を泉木津まで動座させる事態となってしまう。翌永仁三年二月、有力得宗被官の安東重綱が上洛して情勢を把握し、鎌倉の北条貞時政権は、三月覚昭を宥免し、九条家の覚意を一乗院に入室させることで解決をはかった。これによって春日神木は帰座することとなる(『興福寺略年代記』『永仁三年記』ほか)。
 これが永仁の南都闘乱の概要であるが、こののちしばらく一乗院・大乗院の対立は継続し、永仁五年六月には一乗院領に地頭が設置される事態となる(十月に地頭は停止される)。
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途中ですが、長くなったのでいったん切ります。
「紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛」したのは永仁二年(1294)二月ですが、長井宗秀には子息の貞秀が同行しており、井上宗雄氏が書かれていたように、貞秀は翌三月五日、蔵人に補せられています。
また、井上氏は言及されていませんが、同日、貞秀は検非違使にも任じられています。
これは何を意味するのか。

7488鈴木小太郎:2022/05/13(金) 12:16:01
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)
投稿を一日休んでしまいましたが、昨日は今谷明氏の『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』(ミネルヴァ書房、2003)を読んでいました。

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両統迭立という政争に深入りしたため佐渡配流に遭ったと考えられてきた京極為兼。本書では、その失脚の経緯を新たな視点から解明するとともに、歌人としてはもちろん、政治家としても優れていた為兼の人物像に迫る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b48497.html

同書は確か「ミネルヴァ日本評伝選」の最初の一冊だったと思いますが、その刊行直後に小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)が発表され、今谷新説の根幹部分があっさり撃破されてしまいました。
そのため、同書は全体的に学問的価値に乏しいエッセイ風の読み物と思われてしまったようで、きちんとした書評も出なかったようです。
というか、かく言う私自身もそう思っていて、小川論文が出た後、書店で同書を手に取って、一応の内容をざっと確認しただけで、購入もしませんでした。
今回、初めて同書をきちんと読み、小川論文と比較してみた結果、小川氏も今谷新説を完全に論破した訳ではなく、今谷氏の見解にはなお参考にすべき点が多々あるように感じました。
そこで、「京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係」シリーズをいったん中断して、今谷著の検討を行いたいと思います。
まず、今谷氏の問題意識を確認するため、「はしがき」から少し引用します。
「はしがき」の冒頭には、

  沈み果つる入り日のきはに現れぬ
     霞める山のなほ奥の峰

という為兼の歌が掲げられ、「私と為兼の出会いについて追憶を辿ることをお許し願いたい」として中学生の今谷氏がこの歌に「電気を受けたような衝撃をおぼえ」て以降の青春の思い出が書かれていますが、省略します。

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 その後、四十余年という長い歳月が経った。私は歴史学を専攻することになり、それも日本中世史が分野であったから、為兼に再接近する機会はいくらでもあったのだが、縁がなかった。元来、室町の政治史を専攻とする私が為兼伝を執筆する必然性は全く無いのである。どうしてそうなったのか。その事情を以下に記してみる。私は十年程前から、義満の宮廷改革のことを調べたのを機縁に、天皇制や王権の問題に興味を持ち続けてきた。数年前、小学館の幹部のお声掛かりで、同社発行の教育誌『創造の世界』(季刊)に「王権の日本史」と題する天皇制度史を連載する仕儀となり、その十何回目かで、鎌倉後期の皇統の分裂事情を概説する「両統の迭立」なる原稿を執筆した。そこで、何十年ぶりかで京極為兼に再会することになったのである。
 拙稿「両統の迭立」でとり上げた為兼は、歌人としての彼ではなく、伏見天皇の権臣としての、政治家為兼であった。
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いったん、ここで切ります。
私は旧サイトの「参考文献」に『創造の世界』第105号(1998)から「正応の『大逆』事件 (3)変後の処分と後深草法皇」を入れておきましたが、

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 次に注目すべきは、後深草の思惑をはるかに超える強硬な大覚寺統弾圧を主張した西園寺公衡の存在である。次項でとりあげる京極為兼もそうであるが、当時は公卿界も両派に分れ、天皇家以上に深刻な対立をくりひろげていた。これは相手方の統派を打倒することによって、大きな権益がころがり込んでくる公卿界の構造を象徴するものである。こうして、各公卿が幕府と結託して相手方を出し抜こうと虎視眈々の争いが続くことになる。

http://web.archive.org/web/20090101153751/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-hengonoshobun.htm

ということで、引用したのは京極為兼が登場する直前までです。
なお、「参考文献」には「両統の迭立」の「1 分裂の発端」も入れておきました。

http://web.archive.org/web/20061006194606/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imatani-ryotonoteturitu-01.htm

また、第106号で今谷氏は『増鏡』の作者について論じておられます。

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 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢27・29輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去(こうきょ)記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
 さらに元亨四年(1324)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(1344)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
 このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm

ただ、今谷氏の応援にもかかわらず、「若き国文学者田中隆裕氏」の洞院公賢説は学界で全く支持を得られないまま四十年近い歳月が流れました。

7489鈴木小太郎:2022/05/14(土) 09:49:26
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その2)
今谷明氏は「王権の日本史」第14回「後醍醐の討幕運動」(『創造の世界』第106号)において、

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 従来から『増鏡』は、『太平記』などより遥かに高い史料的価値を有するとの評価を得ていた。例えば、前々稿で言及した亀山院「殉国」祈願問題の如きも、基本史料は『増鏡』が唯一の典拠たるにかかわらず、どの論者も『増鏡』の信憑性を疑わず、安心してこれに依拠されている。これは、『増鏡』が公卿日記等とほとんど齟齬する所なく、また『太平記』等の戦記物と異なって後世の潤色、改変の跡がほとんどみられないからであった。
 ではその作者は誰なのか。その作者が確定せぬうちは『増鏡』の史料的性格も判明せず、その信憑性も全面的には依存できないということになる。
【中略】
 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢二七・二九輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
 さらに元亨四年(一三二四)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(一三四四)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
 このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm

と書かれています。
しかし、田中隆裕氏の「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−」(『二松学舎大学人文論叢』第27輯、1984)を実際に読んでみると、問題の設定の仕方に既に洞院公賢という結論を導く枠組みが出来ていて、徳大寺公清に関する記事の評価なども公平とは言い難く、今谷氏以外に支持者が生まれなかった理由も自ずと明らかだと思います。

http://web.archive.org/web/20150918011536/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tanaka-takahiro-kinkata.htm

ただ、今谷氏が、

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 ところで、王政復古成った元弘三年(一三三三)に二条良基はわずか十四歳、対して公賢は四十三歳の壮年であり、良基をかりに作者とすれば、『増鏡』の記事はすべて幼時以前の出来事にすぎないのに対し、公賢著者の場合は、鎌倉末期の諸事件は彼の生々しい見聞を経ていることになり、信憑性は比較にならぬ程高くなる。
-------

と言われている点はその通りで、『増鏡』に描かれた鎌倉末期の政治情勢の機微は、当時の宮廷社会を実際に知っている人間でなければ描けないだろう、という今谷氏の歴史研究者としての直観には私も賛成したいと思います。
さて、「はしがき」の続きです。

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 そういう次第で、為兼に関する政治の諸研究に目を通すうちに、土岐善麿の『京極為兼』も閲読し、さらに国文学の諸大家、お歴々による為兼研究をも通覧する機を得た。その過程で痛感させられたのは、為兼が鎌倉後期の、すでに宮廷政治史にとどまらず、時代史全般に亘っての重要人物であったということである。加うるに、為兼の生涯の一転機となった佐渡配流の背景について、諸家の解釈にはない新しい見解の成立する余地があることに気付かされた。それは、既存の諸研究について一部史料の読み誤りと見られるものがあるほか、為兼と同時代の公卿である三条実躬の日記『実躬卿記』が公刊され、また為兼佐渡配流に至る緊迫した政治情勢を物語る『春日若宮神主祐春記』(『興福寺略年代記』と並ぶ重要史料)が、従来は使われていなかったこと等の事情による。またそれに関連して、安田次郎氏の研究があらわれ、為兼失脚の事情が明らかになった。
 以上の理由によって、為兼の生涯の重大な部分について、従来は誤って解釈されていたと考えられるので、鎌倉時代史に門外漢の学者ではあるけれども、新しい為兼伝が書かれる必要がある、と思考するに至ったのである。
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そして今谷氏は、「三年程前に、草思社のPR誌(月刊『草思』)に一年間の連載を求められ、題材に窮して中世の人物列伝を執筆したが、その六人の一人に為兼も取り上げ」たものの、「しかしそれは、たかだか四十枚程度の短編であって、為兼の評伝と称すべきほどのものでは」なかったそうです。

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 ところが今回、上横手雅敬先生から、ミネルヴァ書房の日本評伝選の編集委員になるよう慫慂があり、余儀なくお引き請けしたものの、委員の手前、何か一冊引き受けざるを得ず、結局、「京極為兼」で執筆しようということになった。但し、昔から和歌が好きであるといったところで、所詮は下手の横好き、素人の物真似であり、私は歌論や和歌の評釈は出来ない。ただ、歴史学畑の人間として、従来とは異った視点で、為兼像を描く、といったことが可能であるに過ぎない。また、私のオリジナルな研究の結果を若干示すことで、「為兼卿」の名誉を何がしかでも回復できることがあったとすれば、著者にとってこの上ない喜びである。従って、為兼の歌と歌論については、従来の国文学の大家、お歴々の業績を殆どそのまま使わせて頂くことになるかと思う。この点もあらかじめお断わりしておきたい。
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ということで、これで「はしがき」は終わりです。
ちなみに月刊『草思』の連載は『中世奇人列伝』(草思社、2001)として纏められ、2019年には文庫化もされていますね。

http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2411.html

また、今谷氏は岩波書店の『文学』にも「京極為兼の佐渡配流について」(隔月刊一巻六号、2000)という論文を寄せられていて、『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』の刊行直後、小川剛生氏が驚くべき早さで反撃できたのも、こうした今谷氏の一連の著作があったからですね。

7490鈴木小太郎:2022/05/14(土) 14:55:19
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その3)
それでは今谷説の核心部分を見て行くことにします。
永仁四年(1296)五月十五日、為兼が権中納言を辞し、籠居しますが、同六年(1298)正月に六波羅に逮捕され、三月に流罪となります。
『京極為兼』の「第四章 佐渡配流」は、

1 為兼籠居
2 永仁の南都闘乱
3 佐渡流人行

の三節から構成されていますが、籠居に関する諸学説を紹介した第一節は省略し、第二節の冒頭から引用します。(p123以下)

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   2 永仁の南都闘乱

為兼に連座した僧二人

 籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。

 正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

これによれば、為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならないのである。ところが従来の研究は、それが極めて不充分で、私に言わせれば、殆んどその視点からの研究は等閑視されていたのである。
 さて三人の"下手人"の性格であるが、問題は聖親法印である。前にも引いた江戸時代の歴史家柳原紀光の編にかかる『続史愚抄』は、

 この日〔正月七日〕、座する事あるに依て、武家より京極前中納言<為兼>および
 石清水執行聖信〔親〕等、六波羅に幽す。

と、聖親を石清水八幡の社僧であるとしている。『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる。ただ慎重な石田吉貞博士ひとり、「八幡宮執行聖親法印」として、石清水社との判定を避けておられる。

聖親は石清水と無関係

 結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である。何故ならば、そもそも中世の石清水八幡宮には、「執行」という役職は設置されていない。中世の石清水八幡宮の組織と人員を詳細に記録した『石清水八幡宮寺略補任』によると、中世の同八幡宮は、

  三綱(上座・権上座・寺主・権寺主・都維那・権都維那)
  検校
  別当・権別当・修理別当・俗別当
  神主

が主な職階であって、執行は見当らない。三浦周行ほどの歴史家(東大史料編纂官、京大教授)がこのことを見逃したのは、ちょっと不可解であるが、うっかり『続史愚抄』を信用したのであろう。
-------

うーむ。
今谷明氏ほどの歴史家(横浜市立大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授)が「聖親は石清水と無関係」と堂々言い切っておられるので、この記述を信用しない読者は稀だったと思われますが、結論からいうと、この聖親という僧は、従来の定説通り、やっぱり石清水八幡宮の関係者でした。
ま、それはともかく、今谷説をもう少し見ておきます。(p125以下)

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聖親は東大寺の僧

 それでは、執行職が置かれていた八幡宮とは、何処の八幡宮なのであろうか。『略年代記』自体が南都(興福寺・春日社)の記録であることから、奈良で唯一の八幡宮である東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)ではないかと推測されるのであるが、これを当時の史料から確認しておこう。『東南院文書』は中世の東大寺の院家で、東大寺関係の古文書を収めているが、その中に宝治三年(一二四九)三月、伊賀名張新庄を東大寺に寄進した法眼聖玄の寄進状に、

 兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時、夢見の様は、(中略)何様の事哉の由申さしむ。
 執行答へて云く、

とあり、さらに『東大寺図書館架蔵文書』の内に、元徳元年(一三二九)十二月の手掻会米請取状に、

 執行所(花押)

とあり、別に「執行朝舜(花押)」ともあり(この二つの花押は同じ)、鎌倉時代を通じて東大寺八幡宮に執行が置かれていたことがわかる。以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる。
-------

うーむ。
この部分、今谷明氏ほどの歴史家が「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」と断言されているので、普通の読者はうっかり信用してしまうと思いますが、しかし、上記史料には「兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時」とあるだけです。
これでは東大寺に「執行」という役職があり、同じく東大寺に「執行所」という組織ないし部局があったことは言えても、東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)に「執行」「執行所」があったとまでは言えないですね。
それと、「聖親法印」の名前や花押がバッチリ登場するならともかく、「兼乗<播磨法橋>」や「執行朝舜(花押)」だけですから、やはり「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」は強引に過ぎます。

7491鈴木小太郎:2022/05/15(日) 10:43:27
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)
今谷説の出発点であり核心部分でもある「聖親法印=東大寺八幡宮執行」説は、今谷著の刊行直後、小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)によってあっさり否定されてしまいました。
この論文で小川氏は、

-------
 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。
-------

と指摘され(p40以下)、「この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる」に付された注(24)には、

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(24) たとえば「執行法印聖親」が石清水八幡宮の怪異を朝廷に注進し(『兼仲卿記』弘安十年六月四日条)、「御山執行正真法印」が後深草上皇の御幸を迎え(『公衡公記』正応元年二月一日条)、事件後の永仁六年五月四日には出雲国安田荘を田中権別当御房に譲った(『石清水文書』一、執行法印聖親譲状。なお大日本古文書・鎌倉遺文では「聖観」と誤る)。
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とあります。
念のため『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安十年六月四日条を見ると、「於蔵人所被行御占」云々の後に「執行法印聖親」が提出した文書が載せられていて、

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八幡宮
 注進、
二日、<天晴、丑時、>自当御宝殿之上、指艮天[ ]一流在之、
頭者如師子頭、其色赤色也、尾者五色而長一丈許
也、其後宝殿三所内中御前鳴動如雷、而響稍久、通
夜之輩失肝仰天、中御前御鳴動者、依為挑御灯明
之最中、承仕慶願聞之、同時自護国寺礼堂之東階経
礼堂、人数廿人許奔西手水船之許、其足音甚高、即
護国寺西妻戸鳴響之間、仮夏衆五師善証、勾当長
順、僧良儀三人依聞之、即雖相見其形、更無之云々、
右注進如件、
 弘安十年六月二日 執行法印聖親
-------

とあります。(『増補史料大成第三十五巻(勘仲記二)』、p192)
まあ、学者間の論争でここまでコテンパンにやられることも珍しいと思いますが、この殆ど清々しいほどの敗北の後、今谷氏は全く反論することができないまま、二十年近い歳月が流れました。
結局、2003年9月、「ミネルヴァ日本評伝選」第一号の栄誉とともに和歌の海に就役した「アドミラル・イマタニ」は、最新鋭の歴史学の成果で武装したと称して国文学界の「お歴々」を挑発したものの、出港直後に国文学界の若きエースパイロット、小川剛生氏から「京極為兼と公家政権」という対艦ミサイルをくらって大破・炎上してしまった訳ですね。
さて、以上のような経緯で、今谷著は研究者によるきちんとした書評も出ないまま、和歌の海の藻屑として消え去ってしまった訳ですが、今回、初めて今谷著をきちんと読み、小川論文と細かく比較してみた結果、小川氏も今谷著を完全論破した訳でもないなあ、というのが私の印象です。
何より『興福寺略年代記』の「正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前」という記述に基づく今谷氏の「為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならない」という視点は今でも有効のように感じられます。
小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。
また、小川氏の「責任」に関する発想があまりに近代的なのではなかろうか、という疑問もあります。
小川氏は今谷氏の見解を要約した上で「為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱」であり、「為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない」と言われており(p40)、それはまことにもっともで理路整然とした、現代人には極めて分かりやすい主張ではあるのですが、しかし、中世の武家社会では現代人には不可解な「責任」を追及する例がけっこうあります。
例えば、文永九年(1272)の二月騒動では、名越時章を襲った御内人五人は、単に上の指示に忠実に従って行動していただけなのに斬首されてしまっています。
また、嘉元三年(1305)の嘉元の乱でも、北条時村を襲撃した十二人は独自の判断の余地など全くない状況で命令に従って行動しただけなのに斬首されてしまいます。

二月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
嘉元の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

こうした事例を見ると、「責任」という観念が中世の武家社会の人と現代人ではずれることがけっこうあるようです。
とすると、為兼も、現代人の感覚では南都騒動の「責任」を問われることはあり得ないのに、鎌倉後期の武家社会の感覚では「責任」があるとされた可能性も考慮すべきではないかと思われます。
この点、今谷説を更に丁寧に紹介した上で、改めて検討します。

7492鈴木小太郎:2022/05/16(月) 15:38:47
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その5)
(その3)で引用した部分の続きです。(p126以下)

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百毫寺はどんな寺か

 次にもう一人の下手人、妙智房の在籍した白毫寺は鎌倉時代に創立された、当時としては比較的新しい寺院である。寛元二年(一二四四)僧良遍が白毫寺の草庵に於て『菩薩戒通別二受鈔奥書』を記したのが記録上の初見といわれ、その後有名な西大寺の叡尊がこの寺を再興し(『南都白毫寺一切経縁起』)、弘安二年(一二七九)には叡尊自身が当寺に於て教化を行ったことが、彼の自伝である『感身学生記』にみえている。従って鎌倉後期には一応の伽藍は備わっていたとみられる。やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。
 以上によって、為兼は南都の僧両人と"一味"として捕縛されたのであり、その嫌疑は南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)に関する紛議であることが推測される。ここに於て、傍輩の嫉視や政敵の排斥による失脚説はその根拠を失うことになる。何故なら、単なる為兼個人への中傷によるならば、東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性はないからである。さてその南都の紛議とは一体何か。為兼の籠居が永仁四年(一二九六)五月、六波羅への拘引が同六年(一二九八)正月、佐渡配流が同年三月である。この間に、南都でどのような紛争・事件が起こっていたのであろうか。
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今谷氏は白毫寺が「一乗院系列の寺院であった」とされますが、ただ、その根拠となる史料は「白毫寺妙智坊」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後のものです。
叡尊再興後の白毫寺は真言律宗の拠点寺院であり、当時、真言律宗は鎌倉幕府との良好な関係を背景に全盛を誇っていましたから、幕府と敵対していた興福寺の「一乗院系列の寺院であった」かは相当に疑問です。
また、今谷氏は「南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)」とされますが、「南都」は興福寺の異称であるとともに「大和一国」(奈良)の異称でもあります。
東大寺・白毫寺は後者の「南都」には含まれますが、前者の「南都」とは独立性を持った存在ですね。
そして安田次郎氏が解明された「永仁の南都闘乱」は興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争ですから、ここでの「南都」は前者、即ち興福寺(春日社を含む)の意味です。
従って、仮に「八幡宮執行聖親法印」が東大寺の僧侶であったとしても、聖親法印と白毫寺妙智坊の組み合わせは「永仁の南都闘乱」とは直接結びつく訳でもないですね。
ま、それはともかく、続きです。(p127以下)

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籠居の理由は南都の沙汰

 ところで前述のように為兼の籠居は永仁四年五月だが、その前月の『略年代記』永仁四年四月条(為兼籠居の直前)をみると、

 四月日、宗綱・行貞〔二階堂〕両人、関東より入洛す。南都の沙汰たりと云々。

とあって、幕府から二名の使者が入洛したことが知られる。四月のいつ上洛したか、『略年代記』では判らないが、春日若宮神主の中臣祐春の日記が内閣文庫に架蔵されており、その五月三日条に次のようにある。

 去月廿六日并びに廿八日、関東より使者入洛すと云々。五箇条の事、沙汰致すべしと云々。
 その内、南都の事、その沙汰を致さしむべしと云々。 (『春日若宮神主祐春記』)

すなわち、幕府の両使は、四月二十六日と二十八日に相次いで上洛したのである。為兼の籠居はそのわずか十数日後のことである。このように、南都の紛議による幕府使節の上洛と、為兼の処分は一連の出来事として理解するのが自然である。つまり、「南都の沙汰」によって幕府使が上洛した十数日後に為兼の辞官閉居となり、その約一年半後、為兼は南都の僧侶二名と共に捕縛されたというのが、判明した事実である。すなわち、為兼の籠居も、六波羅拘引も、佐渡配流も、原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるものであることが知られる。両統迭立で為兼が暗躍したとか、伏見天皇の討幕陰謀とか、傍輩の嫉視による讒口とか、すべて後世の牽強付会か、学者の誤解にもとづくものであったことがわかる。そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい。
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小川剛生氏により「八幡宮執行聖親法印」は石清水の僧侶であって、奈良という意味での「南都」の人ではないことが確定した訳ですが、東使二人と為兼の籠居が時期的に近いことも「南都」と結びつけるのは些か強引ですね。
『興福寺略年代記』だけを見れば東使の目的は「南都の沙汰」となりますが、『春日若宮神主祐春記』では「南都の事」は「五箇条の事」の一つに過ぎません。
聖親法印の帰属以外にも今谷説には弱点が多く、「原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるもの」はいかにも無理の多い推論でした。
ただ、永仁六年(1298)正月、為兼が聖親法印・妙智房とともに六波羅に逮捕された理由は謎のまま残ります。
「東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」ならぬ「石清水八幡宮寺や真言律宗関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」は何だったのか。

7493鈴木小太郎:2022/05/17(火) 14:30:53
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その6)
「そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい」(p128)に続いて、今谷氏は「永仁の南都闘乱」を十ページに亘って説明されます。
今谷氏が依拠されているのは主として安田次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)の「永仁の南都闘乱」(『お茶の水史学』30号、1987)ですが、今谷氏の要約だけでもうんざりするほど複雑なので、引用は止め、小見出しだけ紹介すると、

 為兼と南都北嶺
 永仁の南都闘乱
 大乗院と一乗院の対立
 春日社頭の激戦
 春日神体の移座分置
 京都での騒ぎ
 為兼、伝奏として干与
 一乗院、蔵人宿所を襲撃

といった具合です。
「一乗院、蔵人宿所を襲撃」は永仁五年(1297)正月七日の出来事で、綸旨を持参して南都に下った「職事信忠朝臣」の宿所を一条院の僧兵・神人が破却したのですが、この綸旨は「関東執奏」に基づくもので、当該行為は実質的に幕府への侮辱であり、「武家敵対」と見做した幕府は「一乗院の荘園にことごとく地頭を設置し、大弾圧に出」ます。
これをきっかけに一乗院側も大人しくなって、「十月十八日には一乗院の地頭は廃止された。四年に及ぶ争乱はここに一まず幕を下ろすことにな」ります。
さて、以上の説明の後、今谷氏は次のように書かれています。(p139)

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幕府の硬化

 幕府は騒動を徹底的に根絶する方針で臨み、一乗院領地頭設置と併行して、堂衆らの処分を評議したものと思われる。処分の範囲は、大乗院に加勢して再三八幡神輿を動かし、京都の政務まで乱した東大寺の執行らにも及ぶことになった。こうして、翌年正月、為兼・聖親・妙智房の三人が六波羅に拘引されることになったのである。聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任、妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう。
 事件が、神体別置のみで鎮静化しておれば、為兼は配流まではされなかっただろう。騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ以上、朝廷側の責任者として、誰かの首が差出される必要があった。かくて騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあったとみられる為兼が、廷臣中の処分のヤリ玉に上ったのである。伏見天皇は恐らく断腸の思いであったろうが、幕府の強硬方針に、忠臣為兼をかばい切れなかったものと思われる。また佐渡遠島の処分も、武家敵対=謀叛の科としては、先例に照らして当然と認識されたものである。
-------

小川剛生氏が指摘されたように、聖親法印は石清水関係者なので、「聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任」は明らかに誤解です。
また、小川氏は特に言及されていませんが、叡尊再興から間もない時期の白毫寺は真言律宗の拠点なので、「妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう」も無理筋ですね。
更に、そもそも為兼が「騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあった」と言えるか疑問な上に、為兼は永仁四年(1296)五月に権中納言を辞し、籠居していたので、翌年正月の「信忠宿所破却」で「騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ」こととは全く無関係です。
結局、籠居前の事態までならともかく、籠居後のエスカレーションの責任まで為兼が負うというのは余りに理不尽ですね。
ということで、今谷新説は無理が多いのですが、そうかといって小川剛生氏の「京極為兼と公家政権」が全ての疑問を解消してくれたかというとそうでもなくて、いくつか気になる点があります。
そこで、次の投稿から小川論文を検討します。

7494鈴木小太郎:2022/05/18(水) 11:25:46
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)
それでは小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)を検討して行きます。
予め私が気になっている点を述べておくと、小川氏は公家政権の内実を極めて詳細に、持明院統に対しては批判的に描く反面、幕府側についてはずいぶん甘い、というか単調で平面的な見方をされているように思われます。
即ち、小川論文は政権担当能力に乏しい持明院統を幕府が随時指導し、時に鉄槌を下す、というような描き方で一貫しているように見えるのですが、幕府側も一枚岩ではないのはもちろんで、公家政権に対する基本的姿勢を異にする派閥があるように思われます。
そして、その派閥の力関係に時期的な変動があるので、公家政権への対応も特に一貫している訳ではなく、時期を区分して、幕府と公家政権の相互関係を細かく追って行く必要があるのではないか、というのが私見です。
また、小川氏はこの論文に先行して「六条有房について」(『国語と国文学』872号、1996)という論文を書かれていますが、両者を合わせ読むと、六条有房の役割について、小川氏がずいぶんあっさりした書き方をしている点が気になります。
後宇多院の寵臣・六条有房(1251-1319)は久我通光の孫で、後深草院二条の七歳上の従兄なのですが、『増鏡』には宗尊親王の娘・掄子女王と有房の情事が膨大な分量で描かれていて、何故にそのような歴史的重要性に乏しい記事が詳細に描かれるのか、非常に奇妙な印象を受けます。
そのため、私は以前から六条有房に興味を持っていたのですが、二つの論文を合わせ読むと、有房こそが為兼の二度の流罪を背後で操っていたキーパーソンではないか、という感じがします。
私には小川氏が既に有房の政治的重要性を解明されているように見えるのですが、小川氏は何故かあまり踏み込んで書かれていないので、この点を私の立場から補足してみたいと思います。

『増鏡』第十一「さしぐし」「掄子女王と源有房」
http://web.archive.org/web/20150516000203/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-arifusa.htm

さて、この論文の構成は、

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一 はじめに
二 『花園院宸記』における為兼像
三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)
四 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(2)
五 佐渡配流事件の再検討
六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
七 おわりに
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となっていますが、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p30)

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一 はじめに

 鎌倉幕府の使者安東重綱父子が京極為兼を捕え、毘沙門堂の邸から六波羅探題に連行したのは、正和四年(一三一五)十二月二十八日申刻のことであった。西園寺家に近いある公家は「今夕戌剋大納言入道為兼自関東被召取、用車、頭中将忠兼朝臣同車、不審、於一条室町見物、如夢、見物後参今出川殿」と記している。また『徒然草』一五三段によれば、この一条大路で為兼と養子忠兼の乗った車を見物する群衆の中には日野資朝がいて、「あなうらやまし、世にあらむ思ひ出、かくこそあらまほしけれ」との、例の不敵な感想をつぶやいたことになる。翌年正月十二日土佐国に配流、為兼の政治生命はここに断たれた。
 影響は為兼周辺にとどまらず、主君の伏見法皇にも波及し、ひいては花園天皇退位の伏線となるなど、鎌倉後期の公家政権を揺るがす大事件となった。なぜ為兼が失脚しなければならなかったのかについて、これまでにも考察が重ねられている。ただ、これに加えて、廷臣としての為兼、二度の配流については、近年急速に進展した中世の公家政権や公武関係に関する研究成果を参照しつつ、持明院統の治世における為兼の位置を明らかにしておく必要があると思われる。本稿ではそうした問題意識に立って新たな史料を紹介し、為兼の生涯を再考することにしたい。
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『徒然草』第一五三段は、

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 為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出で、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

http://web.archive.org/web/20150502075500/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-153-tamekane.htm

という短いものですが、第一五二段と第一五四段も日野資朝のエピソードで、『徒然草』が描く人物の中でも特に強烈な印象を残す人ですね。
なお、『徒然草』には為兼の養子・忠兼は登場していませんが、為兼とともに六波羅に逮捕された忠兼(正親町公蔭)は後に足利尊氏の正室・赤橋登子の姉妹・種子と結婚します。
従って、尊氏は為兼周辺の人間関係や為兼配流の事情についても熟知していたはずですね。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)〜(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878

7495鈴木小太郎:2022/05/19(木) 11:28:10
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その2)
第二節は研究者にとっては一般的な知識を整理しているだけですが、小川氏の新発見を評価する前提として紹介しておきます。(p30以下)

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二 『花園院宸記』における為兼像

 為兼の失脚は、伏見院や花園院の寵愛を恃んだ僭上が募ったのと、これを嫌悪する入道太政大臣西園寺実兼が、関東申次としての自らの権能を生かして、鎌倉幕府に讒言した結果と説明されている。たしかに為兼の言動は世の耳目をそばだたせるものがあった。しばしば神仏の示現や夢想を受けたと喧伝し、擁護疑い無きものと主君の期待をくすぐる姿は怪しい験者のように映るし、傲岸不遜な自信家で摂関大臣の権勢さえ憚らず、配流事件の半年前、宿願ありと称して南都に参詣し、春日社頭での一品経供養および興福寺西南院における蹴鞠および延年舞を催した時には、あたかも廷臣を随従させた法皇のように振る舞い、「事之壮観、儀之厳重、不向〔異カ〕臨幸之儀、超過摂関之礼者歟」と記された。養子忠兼も驕慢な振る舞いは同様で、「市中虎」と罵られる始末であった。このことは自然宮廷の内外に多くの敵を作ることとなった。早く三浦周行が「是等の事蹟が、反対党に向つて、彼を陥擠すべき適当の口実を与へたりしや疑ふべくもあらず」と看破した通りである。
-------

いったん、ここで切ります。
「しばしば神仏の示現や夢想を受けたと喧伝し、擁護疑い無きものと主君の期待をくすぐる」例としては、『伏見院記』永仁元年(1293)八月二十七日条に記された宇都宮景綱が登場する夢を挙げることができます。
井上宗雄氏の要約によれば、「前夜、賀茂宝前で夢想があった。夢中に宇都宮入道蓮愉(前述)が、異国からの唐打輪を勧賞のため進める、といってきた。為兼が何の賞か、と問うと、叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰すべき事前の勧賞であり、また糸五両を献ずるが、これは五百五十両になるだろう、ということであった」という夢ですね。

京極為兼が見た不思議な夢(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c4400085d2a58cf03402f6462dfc85cd
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f5f166069c3293a62feb4fa6891d4d09

また、「事之壮観、儀之厳重、不向〔異カ〕臨幸之儀、超過摂関之礼者歟」は『公衡公記』正和四年(1315)四月二十四日条に記されています。
三浦周行『鎌倉時代史』は「第九十六章 京極為兼の勢力」「第九十七章 京極為兼の末路」と二章を為兼に割いていますが、小川氏が引用された部分には、

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為兼の恩人実兼との乖離
 彼れは政事上、文学上、多くの敵を有せるも、伏見法皇の御信任の前にはそは必ずしも深憂となすに足らざりしなり。然るに端なくも此に彼れの運命を呪ふべき一大勢力は現はれたり。これを彼れの恩人たり保護者たりし西園寺実兼其人となす。為兼は実兼の保護に依りて其顕栄を得たりしに拘らず、法皇の恩寵に誇りて往々実兼の意に乖り、終に其最も疾悪し嫌厭するところとなれり。而かも奮闘的生涯に馴れたる為兼は深く意に介することなく、一意報効を図りつゝありしに似たり。 正和四年四月、彼れは其宿願を果たさんが為め、一門を伴うて南都に赴き、西南院に於て蹴鞠会を催し、又神前に和歌を講ぜり。卿相雲客の進退さながら主従の如く、儀礼の盛んなる摂関にも超え、又臨幸に異らずと称せらる。彼れの目的は種々の祈の為めといふも、恐らくは持明院統の隆盛と家門の繁栄とに外ならざるべく、多少其得意に任せて、常軌を逸せし嫌なかりしにはあらざらんも、世に伝ふるところの如きは、反対党の誇張に係るもの蓋し多かるべし。然れども是等の事蹟が、反対党に向つて、彼れを陥擠すべき適当の口実を与へたりしや疑ふべくもあらず。

http://web.archive.org/web/20150222101813/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/miura-kamakura-93-97.htm#miura-97

とあって、三浦周行の為兼評は後世の研究者に強い影響を与えていますね。
『鎌倉時代史』に、

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実兼、復関東申次となる
 六月、公衡は其職を辞し、応長元年八月出家す。法名を空性といひ、後静勝と改む。
 正和四年九月、西園寺公衡病んで薨ず、年五十二。竹林院左府と号す。彼れの病むや、伏見法皇為めに軽囚を赦し、又八万五千基の石塔を鴨河原に立てゝ其平愈を祈り給ひ、後伏見上皇も亦尊勝護摩を修せしめ給ふ。彼れ其異数の寵遇に感泣せり。中納言実衡、前権中納言季衡茲に父の喪に服す。これより後実兼は復幕府の申次となりて、公武の要路に立てり。
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とあるように、公衡は正和四年(1315)四月に為兼の専横を記した後、同年九月に死去してしまったので、十二月の為兼逮捕、翌年の流罪を知ることはありませんでした。
公衡死去の時点で嫡子・実衡は既に二十六歳でしたが、関東申次には六十七歳の実兼が復帰します。
そして実兼の復帰直後に為兼逮捕・流罪となるので、これは実兼が幕府を動かしたからだ、というのが従来の通説でしたが、この点についても小川氏は若干の疑問を示されています。
なお、「養子忠兼も驕慢な振る舞いは同様で、「市中虎」と罵られる始末であった」に付された注(6)を見ると、出典は「『槐御抄』(宮内庁書陵部蔵柳原本)御幸・正和元年七月十二日条」とのことです。
『槐御抄』(かいぎょしょう、別名「公秀公記部類」)は三条実躬の嫡子・公秀(1285-1363)の日記を公秀の孫・公豊(1333-1406)が分類・整理したものだそうですが、公秀は『増鏡』の成立年代を考える上でちょっと気になる存在です。
というのは、巻十六「久米のさら山」の末尾に「「三条前大納言公秀の女、三条とてさぶらはるる御腹にぞ、宮々あまたいでものし給ひぬる、つひのまうけの君にてこそおはしますめれ」とあって、元弘三年(1333)六月、大塔宮護良親王の還京で大団円を迎えたはずの『増鏡』にとっては何とも唐突な追記ですね。

http://web.archive.org/web/20150831083007/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/2002-zantei04.htm

7496鈴木小太郎:2022/05/19(木) 14:19:41
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その3)
為兼の養子・忠兼が登場する『槐御抄』は宮内庁書陵部の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」で読めますね。

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000444120000/806d05675f8a47c58ba1891d9b677645

リンク先で86コマ中の55コマを見ると、正和元年(1312)七月十二日の章義門院(伏見院皇女、母は洞院公宗女・英子)の御幸の記録に供奉者が列挙されていて、その中に忠兼(当時十六歳)も含まれています。
これを記した三条公秀(当時二十三歳)は「忠兼朝臣」の割注で、その華美な衣裳を批判的に記した後、「如市中虎莫言々々」と憤慨していますね。
元徳二年(1330)、従三位に叙せられて初めて『公卿補任』に登場した正親町忠兼(三十四歳)の尻付には「(正和四年)十二月廿八日東使召取為兼卿之時同車。但即赦免云々」とあり、正和四年(1315)、正四位下・蔵人頭の忠兼(十九歳)は養父・為兼と一緒に逮捕されてしまったことが分かります。
処罰されなかったとはいえ、忠兼の経歴には空白期間が続きますが、何故かこの間に忠兼は北条一門の中でも得宗家に次ぐ家格を誇る赤橋家のお嬢様、赤橋種子と結婚することになり、元亨二年(1322)には二人の間に忠季が生まれます。
種子は足利尊氏正室の赤橋登子の姉妹なので、忠兼は尊氏の義理の兄となりますが、ただ、忠兼が従三位に叙せられたのは元徳二年(1330)なので、鎌倉幕府崩壊前です。
となると、忠兼の復権は赤橋種子の兄・守時(第十六代執権、1295-1333)の口添えの可能性が高そうです。

赤橋種子と正親町公蔭(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5

ま、それはともかく、小川論文の続きです。(p32以下)

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 このように為兼は鎌倉後期の廷臣としては珍しくも印象的な人間像を結びやすいが、それは主に『花園院宸記』の記事によって得られたものである。花園院は平生より為兼に言及すること少なくないが、とくに薨去の報に接した正慶元年(一三三二)二月二十四日条には、優に一千字を越える追討の辞を記しつけた。そこから一節を掲げる。

  伏見院在坊之時、令好和哥給、仍寓直、龍興之後為蔵人頭、至中納言、以和哥
  候之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退之由申之、仍解却見任、籠
  居之後、重有讒口、頗渉陰謀事、依武家配流佐渡国、経数年帰京、又昵近如元、
  愛君之志軼等倫、是以有寵、正和朕加首服之時、為上寿任権大納言、無幾旧院
  〔伏見院〕御出家之時、同遂素懐了、於上皇〔後伏見院〕并朕為乳父、(中略)
  而入道大相国<実兼公>自幼年扶持之、大略如家僕、而近年以旧院之寵、与彼相敵、
  互切歯、至正和□年□遂依彼讒、関東重配土佐国、

 春宮時代から伏見院に仕えた為兼は、親政が始まると蔵人頭・参議・権中納言と速やかに昇進したが、「粗ら政道の口入〔こうじゅ〕に至」り、傍輩の讒言で籠居を余儀なくされ、さらに「陰謀」が取沙汰されたため永仁六年(一二九八)に鎌倉幕府によって佐渡国に配流された。赦免後に花園院の即位と伏見院の再度の院政に会い、正二位権大納言に昇ったが、今度は若い頃に家僕のようにして仕えた西園寺家と拮抗するようになり、遂に実兼の讒言によって幕府が再び土佐に流したという。
 頻繁に利用される史料であり、為兼の経歴を語って間然とするところがない。それでも、ここでの為兼像は和歌の正道のために殉じた聖人とでもいうべきで、花園院一流の道学に裏付けられていることを、十分に承知しておくべきであろう。客観的ではあるが、鎌倉後期に生きた廷臣としての為兼の姿をじかに伝えるものでは必ずしもない。この整理された記述を、当時の史料をもとに検証し、肉付けしていく作業こそ重要である。
-------

いったん、ここで切ります。
細かいことを言うと、為兼が蔵人頭に補されたのは正応元年(1298)七月十一日、任参議は翌二年正月十三日なので、いずれも後深草院政下の人事ですね。
権中納言となったのは正応四年(1291)七月二十九日であり、こちらは伏見親政下です。

7497鈴木小太郎:2022/05/20(金) 11:26:28
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その4)
第二節には若干の続きがありますが、そこでは「廷臣の為兼がどうして武家によって処罰されたのであろうか」という問題提起がなされています。
続いて第三節に入ります。(p33以下)

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三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)

 林鵞峰編『続本朝通鑑』巻第一一六・正和五年三月の条に「東使入洛議事。上皇驚懼」という項文に繋けて、為兼の土佐配流について、他の資料には見えない記述がある。

  或記謂、東宮尊治春秋漸近三十、其侍臣等労待禅継、故謳歌多端、而時務有不愜
  武家之意者。旧臘東使入洛、抑損之。今年三月東使又来、與六波羅両職相議奏請
  曰、京極大納言入道<藤為兼。>往年貶謫、赦帰之後、猶不悔改、而為朝廷之巨害
  云々。上皇懼而不得已、勅責為兼収其領地。東使猶不慊之、告西園寺前相国実兼、
  実兼奏曰、宜任武家之請而流土佐国。然諸臣胥議謂、朝務不可隔親疎、若実有罪
  者、不可不罰、然亦讒愬之行、不可不察焉。東使又議改家平執柄復任冬平。上皇
  使侍臣解之曰、関白再任、先例惟多、冬平在当時、則有識之人、而熟政道、故還
  補之、左大臣道平雖可為一上、然暫猶豫云々。然東使猶嗷々、上皇使侍臣復解之
  謂、故最勝園寺入道<貞時。>推戴此皇統、而慇懃相約、則朝廷武家雖隔都鄙、何
  可齟齬哉、然今武家有所疑、則宜染宸筆告賜之、叡情不曲、万機無私者、任宗廟
  冥鑑云々。又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌
  倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。<按、此旧記残簡、出自二条殿、
  而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉。(下略)>

 この長文の記事は、最後に注されるように二条殿から出た旧記に基づいて書かれたものであり、その内容はかなり具体的である。
 すなわち、伏見院の政務には幕府の意に叶わぬところがあったため、前年冬に東使が入洛して勧告を行った。三月に東使は為兼は再び朝廷の巨害となっている、と申し入れた。伏見院は為兼の領地を没収したが、使者は満足せず実兼に諮った。このため為兼は配流された。廷臣たちは朝廷の沙汰に偏頗があってはならず、君は讒訴に気づかなくてはならないと囁いたが、東使は今度は関白に左大臣二条道平をさしおき前関白鷹司冬平を再任させたことを詰問した。院は冬平は有職の人で適任だと弁解したが、東使は納得しなかった。院は故北条貞時が持明院統を推戴してから君臣水魚の思をなしている、どうして異図を抱こうか、と弁解しなければならなかった。これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである。
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この『続本朝通鑑』の記事は、もちろん従来の研究者も気づいていたものの、「ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず」、「江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴」い、かつ、「肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明」であったので、「この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かった」のだそうです。

林鵞峰(1618-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0

ところが、小川氏はこの「二条殿の旧記」を発見された訳ですね。(p34以下)

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 しかし、この「二条殿の旧記」とは、東京大学史料編纂所に蔵される林家本『二条殿秘説 附卜部秘説』のことであり、そこに収載される「条々」と題する資料が『続本朝通鑑』の記事のソースとなっていることが判明する。
 『二条殿秘説』は、鵞峰が二条摂関家より採訪した文書・典籍を一冊にまとめた「二条殿秘説」と奉幣以下の次第を載せる「卜部秘説」よりなる。前者は以下の中世の記録の抜書で構成されている。その標題を順に示すと以下の通りである。

 (1)二条殿由来。
 (2)条々(正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>。
 (3)明徳二年三月十三日崇光院御幸長講殿宸記。
 (4)称名院ヨリ二条殿ヘ遣ス状。
 (5)三種神器伝来事。
 (6)中陪事。
 (7)二条殿甚秘御記<二條後普光院摂政良基記也>・当御流御即位御伝授之事。

 もとより写しであるから、その資料的価値は慎重に判断する必要がある。事実(7)は二条良基が永徳三年(一三八三)に即位勧請の由来につき記したものとされるものであるが、後世の偽作である。ただし(2)の場合は、敢えて偽書をなすような背景が見当たらず、また内容も当時のものとみてよく、文章も古態をとどめており、まずは信用できると思われる。以下、(2)を「正和五年三月四日伏見法皇事書案」ないし「事書案」と仮称したい。
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とのことで(p34)、これは本当に素晴らしい発見です。

7498km:2022/05/20(金) 16:55:50
議政官の定員
>議政官のインフレ化
正応5年の元旦現在の議政官は、
関白   九条忠教
左大臣  西園寺実兼
右大臣  鷹司兼忠
内大臣  二条兼基
大納言  堀川具守、土御門定実(2名)
権大納言 三条実実、久我迪雄、花山院家教、西園寺公衡、近衛兼教、大炊御門良宗、九条師教、、鷹司冬平(8名)
中納言  洞院實泰
権中納言 中院通重、御子左為世、花山院定教、中御門為方、一条内実、坊城俊定、洞院公尹、京極為兼、西園寺公顕(9名)
参議   花山院師藤、粟田口教経、衣笠冬良、滋野井冬季、中御門宗冬、鷹司宗嗣、二条資高、花山院師信(8名)
です。これは鎌倉前期の著である『官職秘鈔』の示す、大納言2名。権大納言8名(最大)、中納言(3人)・権中納言(最大10名 実際の補任例では正権を含めて10名)と比較しても、多いとはいえません。なお、参議は八の座と称されたように、実質定員8名です。どうやら昇進・辞任に伴う新任者も含めているようですね。

7499鈴木小太郎:2022/05/20(金) 17:25:51
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その5)
林鵞峰が「按、此旧記残簡、出自二条殿、而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」と記していたように「事書案」には脱落・錯簡があり、小川氏はそれを次のように修正して翻刻されています。(p35以下)

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   『二條殿秘記内』(朱)
   正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔、信濃前司、>
    條々
  一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條
  前大納言〔源有房〕下向云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有
  物忩沙汰乎、
  一、京極大納言〔為兼〕入道間事、関東時議被驚思食之間、先於
  忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知
  行、為姫宮御扶持一所被預置也、納言二品〔従二位為子〕、彼二品事、
  永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰、当
  時之次第如此、此上可為何様乎、凡政道事、就謳哥説可
  被糺明之由、度々被申之処、或承、或以重綱法師〔安東〕令言上
  之旨被申之間、去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、
  頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以
  按察[葉室頼藤]如奏聞者、入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶
  不悔先非、成政道巨害之由、方々有其聞之間、可配流土
  佐国云々、就成政失者、就其篇目、被改先非、可被慰人
  之愁歟、凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被
  引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如
  此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟、委細
  被戴七〔去カ〕年事書了、但成政道巨害之輩、被加懲粛之写〔ママ〕、更
  不可依親疎、尤可為御本意、惹起自讒者之凶害者、可被
  糾明之由、就謳歌説被触申許也、所詮今度沙汰之趣、被
  疑申 叡慮者、御合躰不変之次第、重染宸筆、可被顕御
  心底、将又為大納言入道一身罪科者、就其旨趣、且被散
  御不審、且可被休御愁鬱者也、[
  〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
  使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
  詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
  汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
  重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
  若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
  禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
  可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁
  [            ]字及委細、随分明左右可被思
  食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
  縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
  執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
  老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
  代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
  不慮之御違[             ]
  一、執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有
  其聞、被痛思食、再任之条、先例勿論之上、当時為有識
  之仁、為政道要須之間、且任勅約、且依器用、被還補之、
  左府〔二条道平〕為一上致公務、所申雖非無其謂、未至父祖先途之年
  齢、暫相待之条、不可有子細乎、再任毎度何時無理運之
  仁哉、且祖父〔鷹司兼平〕建治例在近歟、当時之用捨、可謂玄隔乎、
  抑関東御返事、任道理可為聖断云々、此條偏被任時議歟
  之由、被思召候間、被執申候間、若被存左府理運之由、
  被申此返事者、令沙汰之趣、令参差歟、可為何様乎、
-------

小川氏は「以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう」(p36)と軽く書かれていますが、これを見て大体の内容が把握できた方はどれくらいおられるでしょうか。

>?さん
こんにちは。
「議政官のインフレ化」、私もちょっと変なことを書いてしまったなと反省し、次の投稿で「私は漠然と両統迭立期に急激に官職のインフレ化が進んだように思っていたのですが、そうでもなさそうです」と書きました。
ただ、公卿の数量的把握は誰かやっているだろうから別に私がやらなくても、という気持ちもあって、全然フォローが出来ていません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/886594037a40d49eab659a2a02cd9998

7500鈴木小太郎:2022/05/21(土) 10:17:22
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その6)
小川論文はサブタイトルが「土佐配流事件を中心に」となっていて、為兼の第一次流罪についての新知見はあくまでも副産物という扱いです。
ただ、「事書案」から窺われる幕府側の姿勢は、結局のところ第一次流罪(佐渡)と第二次流罪(土佐)は同一原因、即ち為兼の「政道巨害」によるものだ、ということなので、第二次流罪に関する記述も丁寧に見ておきたいと思います。
ということで、続きです。(p36)

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 以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう。すなわち「事書案」は伏見法皇の意を体したものであり、為兼の配流をはじめとする一連の事件を受けて、その責任を詰問してきた鎌倉幕府に対して朝廷側の対応を説明し陳弁に努めたものである。その筆者は明らかではないが、院の近臣であり、このような文書の起草に当たることのあった平経親がその候補に挙げられよう。それから先に原本では端裏書かと推測した「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」という注記は、「事書案」を公武交渉の際の窓口となった鎌倉幕府の奉行人に附した年時を指す。当時奉行人で「信濃前司」といえば太田時連(道大)である。一方「刑部権少輔」には該当者がいないが、例の「文保の和談」で活躍した摂津親鑒が当時刑部権大輔であり、正和四年には奉行人として活動している。
-------

正和四年(1315)十二月二十八日に東使安東重綱が上洛し、六波羅の軍勢三百余りを率いて為兼を逮捕、翌五年(1316)正月十二日に土佐に向けて出発したとされるので、「事書案」が記された正和五年三月四日の時点ではまだまだ事態は収束せず、関係者は疑心暗鬼になっていたでしょうね。
なお、「平経親がその候補に挙げられよう」に付された注(12)を見ると、

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(12)森茂暁氏『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版 平成3・6)第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」は、経親の執筆した伏見院の「恒明親王立坊事書案 徳治二年」を紹介している。
-------

とあります。
徳治二年(1307)の事書案の端書には「不出之事書案 経親卿書之 徳治二年」とあり、書いたのは平経親で間違いないのですが、森氏は「平経親自身が立案・清書した可能性が全くないわけではないが、そう断定することはできない。むしろその背後に立役者がいるようにも思われる」とし、立案者=西園寺公衡説を唱えておられます。
三浦周行は立案者を京極為兼と考えていました。

http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm

さて、続きです。(p36以下)

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 さて『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない。ただ「事書案」の興味深い内容に対して、錯簡のため十分に活用できなかったものの、これを生かして記事を構成しようとした努力はやはり注意されよう。これによって『続本朝通鑑』の史料解釈、あるいは歴史叙述の態度の一班を伺うことができるであろう。
 それはともかく、為兼の土佐配流について考える時に、もはや『続本朝通鑑』の記事の替わりに、この「事書案」という一次史料を生かさない手は無かろう。また「事書案」は鎌倉後期の公武交渉史の空隙を埋めるものとしても、様々に活用される筈である。右の復元案に従って、次説では「事書案」の要旨をまとめてみたい。
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7501鈴木小太郎:2022/05/21(土) 13:18:35
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その7)
それでは第四節に入ります。(p37)

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 第一項「御治天間事」は、持明院統の治世が事件によって終わりかねないことを憂えたものである。ここには、敵失に奇貨居くべしということで、早速大覚寺統の後宇多院が腹心の六条有房を幕府に派遣した事に言及している。有房が使者に立ったことは、後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく。伏見院は、幕府がくれぐれも早まった判断をしないようにと訴えているのである。
 第二項は「京極大納言入道間事」である。まず東使安東重綱は為兼を捕縛した翌日、西園寺実兼を通じ、
  入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、
  方々有其聞之間、可配流土佐国云々
という申し入れを行った。東使が為兼を処罰した理由を「政道巨害を成す」としたのが第一に注意されよう。『花園院宸記』の為兼薨伝には別に「得罪之故者、政道口入之故之由、関東已書載之」とあるのはこれを指し、また「事書案」の後文で「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」あるいは「但又成政道巨害云々」などとあるのは、全てこれを受けている。「政道巨害」の具体的な内容については後述する。
-------

いったん、ここで切ります。
「後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく」に付された注(14)には「拙稿「六条有房について」(国語と国文学73-8 平成8・8)参照」とありますが、この論文を見ると、六条有房が鎌倉を訪問した頻度に驚かされます。
先ず、

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 正応五年から永仁二年にわたる、鎌倉滞在中の醍醐寺座主親玄の日記によれば、有房がほぼ毎年東下し、幕府要人と面会している事実が知られる。「有房朝臣使者入来了、為訴訟下向」(正応五・十一・十五)、「今日羽林向相州〔北条貞時〕亭、御書等持参」(永仁元・九・十八)、「有房朝臣書状到来了、廿七日罷立京都由也」(同・十二・九)、「今日羽林出仕了」(同・十二・十七)、「羽林向佐々目[頼助]了」(同・十二・廿)、「播阿使入来了、有房朝臣状到来了云々」(永仁二・九・廿五)等。亀山院の指令をうけて大覚寺統復権の為の政治工作にあたっていたと見て誤りはあるまい。
-------

とありますが(p32)、親玄(1249-1322)は久我通忠の子なので六条有房とは従兄弟の関係にあり、生年も有房(1251-1319)と近いですね。
ちなみに有房と従兄弟ということは、親玄は後深草院二条(1258-?)の従兄でもあります。
『親玄僧正日記』は正応五年(1292)から永仁二年(1294)までの三年分しか残っていないので、この前後の期間に有房が鎌倉を訪問していたのかは分かりませんが、三年間に限っても慌ただしいほど京都・鎌倉を往復していますね。

高橋慎一朗氏「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
土谷恵氏「東下りの尼と僧 」
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm

また、嘉元三年(1305)九月の亀山院崩御後の恒明親王騒動の際も、有房は後宇多院側の立場から同年十一月に東下し、翌年、帰京後再び慌ただしく東下しています。
記録に残っていない事例を含めたら、有房は生涯にいったい何度、京都・鎌倉を往復したのか。
ま、それはともかく、続きです。(p37以下)

-------
 為兼は配流されたものの、その後の伏見院の処置が軽微でとかく公正を欠くものとみなされたため、幕府から重大な疑念を呈された。この「関東時議」に驚いた伏見院はさきの処置がいかに厳密であるかを詳しく説明し、幕府の疑念を払拭しようとしたのである。
 これによって、為兼の周辺に罪科が及んでいる事が知られる。忠兼は解官され所領も一箇所を遺して没収された。また「納言二品」は為兼の姉従二位為子である。老齢ながら当時権勢のあった女房であるらしく、幕府はその責を糺したが、伏見院は「今度不及其沙汰」と不問に処したのである。為子が罪に問われたのは事件の性格をおのずと窺わせよう。なお、同じく養子の俊言・為基も連座したらしい。
 しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。
-------

うーむ。
「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」とありますが、この状況で何故に小川氏が西園寺実兼を「讒臣」と考えるのか、私にはさっぱり理解できません。
その点を含め、次の投稿で私見を少し書きたいと思います。

7502鈴木小太郎:2022/05/23(月) 12:53:31
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その8)
小川氏は「『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない」(p36以下)と書かれていますが、『続本朝通鑑』の記事と小川氏復元の「事書案」を読み比べると、確かに正確な要約とは言い難いですね。
例えば「事書案」は大きく三項目に分かれ、

一、御治天間事
一、京極大納言入道間事
一、執柄還補事

という順番なのに、『続本朝通鑑』の記事では、筆頭の「一、御治天間の事」に相当する部分が一番最後に、

-------
又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed299e0d9a26605e19fd0e10d474f343

という具合いに、まるで付け足しのように書かれていたりします。
また、細かいことを言えば、「事書案」では、「先於忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知行、為姫宮御扶持一所被預置也」と、為兼の養子・忠兼の処分が書かれているのに、『続本朝通鑑』では「勅責為兼収其領地」と、為兼に対する処分になってしまっています。
ただ、『続本朝通鑑』の記事で、『花園院宸記』と比較して一番重要な部分、即ち西園寺実兼が積極的に讒言したのではなく、あくまで幕府の判断を消極的に容認しただけ、という部分は、「事書案」の解釈としては間違いではないように思われます。
この点、次田香澄氏が重要な指摘をされており、(その4)では要約引用で済ませていましたが、改めて引用すると、「これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである」の後に、

-------
 早く次田香澄氏はこれについて「『本朝通鑑』では、『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」と述べ、実兼が幕府に讒言したのではなく、あくまでも幕府の主体的な意志として為兼の逮捕が実行されたとする。つまり幕府は伏見院の失政を鳴らして朝廷政治に介入してきたとみなされる訳である。
 ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず、また為兼の捕縛と配流はそれ以前であるから、ここに述べられているような経緯が実際にあったとは考えにくい。それと江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴うため、次田氏もあくまで異説として触れたに過ぎず、肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明である以上、この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かったのである。
-------

と続きます。(p34)
ただ、「事書案」には、

-------
去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱
法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以按察[葉室頼藤]如奏聞者、
入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、方々
有其聞之間、可配流土佐国云々、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

とあるだけですから、より正確には「去年十二月廿八日」の「翌日」、西園寺実兼は安東重綱が言った内容を葉室頼藤を使者として伏見院に報告しただけですね。
安東重綱は正和四年(1315)十二月二十八日に上洛して六波羅に入り、直ちに「六波羅数百人軍兵、毘沙(門)堂に馳せ向い、為兼を召取り候」(『鎌倉遺文』25702、「玄爾書状」)なので、「去年十二月廿八日」の時点では一体何が起きているのか誰も正確には理解しておらず、実兼も「翌日」に安東重綱から為兼逮捕の理由を聞き、それを伏見院に伝えた、という順番です。
従って、次田香澄氏の「『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」という解釈も不正確であり、事前の「相談」などなかった訳ですね。
さて、小川氏は「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」(p37)とされますが、これは私にはあまりに不自然な発想のように思われます。
もちろん実兼も為兼の専横、特に『公衡公記』に記された正和四年四月の「南都西南院和歌蹴鞠の会」での傲慢な態度などは面白くなかったでしょうから、為兼逮捕の前に幕府からの「相談」はなかったとしても、関東申次という立場である以上、あるいは何らかの意図を幕府に伝えたことはあったかもしれません。
しかし、ここで問題となっているのは実兼の意図ではなく、正和五年(1316)三月四日、伏見院が幕府に送った正式な文書中の「凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」という表現の解釈です。
この時点で、伏見院が「讒諂臣」は実兼だ、処罰しなければならない、などと内心で思っていたとしても、それを匂わせるような文書を幕府に送ることがあり得るのか。
窮地に追い込まれている伏見院にとって、自身の正室・永福門院の父であり、関東申次の要職にある実兼をわざわざ敵に回すようなことを書いて、何か得になることがあるのか。
伏見院の政治的判断能力については些か懐疑的な私ですが、さすがに伏見院も、この文書で実兼の責任追及を匂わすような真似をするとは、私には到底思えません。
では、ここで伏見院が処罰したいと思っている「讒諂臣」は誰なのか。
まあ、私としてその筆頭候補は文書の冒頭に、

-------
一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條前大納言〔源有房〕下向
  云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有物忩沙汰乎、
-------

と登場する六条有房だろうと思います。

7503鈴木小太郎:2022/05/24(火) 14:16:48
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その9)
私も自分に古文書学の素養がないことは十分に自覚しており、古文書や古記録そのものについて専門家の領域に踏み込むことは遠慮しているのですが、小川剛生氏の「事書案」の復元については、本当に小川氏の見解が正しいのだろうか、という疑問が拭えません。
というのは、小川氏の復元案によると、三項目のうち、二番目の「京極大納言入道間事」があまりに肥大して全体のバランスが極めて悪くなり、しかも「京極大納言入道間事」の内容に異様に重複が多くなってしまいます。
率直に言って、こんなまわりくどい文書を送ったら相手はイライラして突き返しても不思議ではなく、とても有能な廷臣が書いた文章とは思えません。
そもそも小川氏の復元の手順はどのようなものだったかというと、次の通りです。(p35)

-------
 「事書案」は『二条殿秘説』の、第五丁表から第九丁裏にわたって書写されているが、原本は文書であり、「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」というのは原本の端裏書ないし注記ではなかったかと想像される。
 ところが、鵞峰が「則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」とする通り、この資料には脱落・錯簡がある。それは親本に由来するものであり、写本が行詰め等必ずしも親本の形態をとどめているものではないため、内容に即して復元する必要がある。
 現在の「事書案」は、それぞれ「御治天間事」「京極大納言入道間事」「執柄還補事」に始まる三項目からなっている。「執柄還補事」には、別項の文章が途中に紛れ込んでいるが、これを除去することでこの項は完全に復元できる。ついでその別項に属する文章は、これ自体二つの部分からなるようであるが、ともに第二項の「京極大納言入道間事」の一部と判断される。後で触れるように、この項は東使安東重綱の申し入れを引用しつつ釈明を行なったものと考えられるからである。結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることになるが、まずその骨子は伝えていよう。この他の項が立っていたかは分からないが、一応この三項で完結していると見てよいのではないか。
 それでは以下に私案として錯簡を正し、「事書案」の全文を翻刻した。脱落と考えられる箇所は[     ]で示した。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

ということで、第三項に交じっていた「別項に属する文章」を便宜的に【文章A】【文章B】とすると、

【文章A】

〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
  使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
  詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
  汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
  重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
  若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
  禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
  可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁

【文章B】

 [            ]字及委細、随分明左右可被思
  食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
  縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
  執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
  老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
  代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
  不慮之御違[             ]

となります。
私は【文章A】【文章B】は正和五年(1316)三月四日の「事書案」ではなく、「事書案」に先行する別の文書の一部の可能性があるのではないかと思います。
まず、「事書案」の第一項「御治天間事」は極めて短いものですが、「子細前々事旧畢、定有御存知歟」とあり、以前に何らかの通知をしたことを前提に、六条有房が下向したと聞くが、当方の見解を歪めるような主張をしているならば糺されねばならず、軽々に信用しないでください、と言っているように見えます。
また、「事書案」第二項「京極大納言入道間事」には、「讒諂臣」を処罰したいとする主張の中に「委細被戴七〔去カ〕年事書了」とありますが、これも先行する文書に「委細」が書かれていたことを前提としているように見えます。
そして、為兼流罪の後、伏見院から【文章A】【文章B】を含む第一の文書が提出済みだとすると、「事書案」第二項の冒頭に、いきなり為兼の養子・忠兼と姉・大納言二品(為子)に関する細かい話が出てくることも分かりやすくなります。
即ち、第二項の冒頭では、為兼の養子・忠兼の所領は悉く没収したが、ただ忠兼に養育させている「姫宮」の「御扶持」のため「一所」だけは残している、とずいぶん細かい弁解をしています。
更に為兼の姉「納言二品」(為子)についても、処分をしなかった理由として、「彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰」と、永仁の第一次流罪のとき、幕府は為子の責任を免じたから、今回もその措置に従ったのだ、と弁解し、「当時之次第如此、此上可為何様乎」(事情はこのようなものです。これ以上何をしたら良いのでしょうか)と訴えています。
これらは【文章A】が先行の文書だとして、そこで「云子孫云親類、重猶可被加厳刑」と約束したにもかかわらず、忠兼には所領を残しているし、為子は放置しているのはおかしいではないか、と難詰されて、それへの弁解と考えると分かりやすいように思われます。
仮に【文章A】【文章B】が先行する別の文書の一部だとすれば、第二項はほぼ半減し、「結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることに」はなりません。
また、第二項の前半で言い尽くしている内容を後半でクドクドと繰り返すこともなく、非常にすっきりした、読みやすい文章となります。
まあ、これは本当に古文書・古記録の専門家の世界の話で、私のような素人が口を挟むのは僭越の至りですが、小川氏の復元案にはどうにも納得できないので書いてみました。
専門家の御意見を伺えれば幸いです。

7504鈴木小太郎:2022/05/25(水) 11:57:09
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その10)
小川氏は、

-------
 しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b9d79dfe0a7c50869f81ac165a24df2a

とされますが、西園寺実兼か「讒諂臣」かどうかはともかくとして、実兼が「讒諂臣」云々の話を幕府に伝えた、という事実は「事書案」のどこにも書かれておらず、これは小川氏の勇み足ではないかと思います。
とにかく、窮地に陥っていた伏見院が、この時点でわざわざ永福門院の父である実兼を敵に回そうとするとは私には思えず、「讒諂臣」候補の筆頭は、「事書案」冒頭の「御治天間事」で皇統を持明院統から大覚寺統へ転換させようと工作していると名指しで糾弾されている六条有房と考えるのが素直だと思います。
さて、(その7)で引用した部分の続きです。(p38)

-------
 後文にはさきに為兼の「政道巨害を成す」といわれたことへの陳弁が連ねられる。

  此条入道大納言、不可相縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、
  此御方有御御許容、依被執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、
  存凶害驚遠聞歟、御老後恥辱何事如之哉、

 まず幕府は為兼の「張行」を伏見院が「許容」し、数々の「非拠」を行わせた結果、政治が乱れていると指摘し、伏見院は既に入道している為兼が現在の政務に関与するはずがないと弁解した。幕府の持明院統の治世に対する懸念が容易ならざるものであったことが分かる。
 つぎに「政道雑務御親子之間、被申合之条、代々芳躅也」以下は、伏見院と後伏見院の不和を背景とする。即ち、伏見院は正和二年十月に後伏見院に政務を譲り出家していたが、なお後伏見院を後見することが多かった。しかし後伏見院は父院の存在が重荷となり、この頃には政務の返上を申し立てる程であった。これも「謳哥説」の一つであり、持明院統の不協和音には幕府も関心を寄せたのである。ところで辻彦三郎氏は、当時の西園寺実兼が為兼を信任する伏見院からは距離を置き、逆に為兼を嫌う後伏見院を巧みに篭絡することで、伏見院の発言力の低下を意図していたことを看破し、『花園院宸記』の記事からは窺えなかった、為兼を取り巻く謀略を明らかにされている。「事書案」は辻氏の論が正鵠を射ていたことを裏書きする。闕文のために詳細は知り得ないが、つまりここは、法皇がなお政務に関与することに対する幕府の批判をうち消すべく記されたものなのである。
-------

「後文」の「不可相縡」という表現は、「縡」では意味が通らないので、これは「綺」(口出しすること、干渉)の誤りなんでしょうね。

「綺・辞・弄(読み)いろう」
https://kotobank.jp/word/%E7%B6%BA%E3%83%BB%E8%BE%9E%E3%83%BB%E5%BC%84-2009047

小川氏も「現在の政務に関与するはずがない」とされているので、そう解されているのだと思います。
ところで、「政道雑務御親子之間、被申合之条、代々芳躅也」云々には非常に複雑な背景があるので、「事書案」だけ読んでも全く理解できないはずです。
「為兼を取り巻く謀略を明らかにされている」に付された注(17)には、

-------
(17)『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館 昭和52・5)「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」参照。
-------

とあり、私も前々からこの論文が非常に気になっていました。
今回、改めてきちんと読み直してみたのですが、私にはとても辻彦三郎氏(元東京大学史料編纂所教授、1921-2004)が「当時の西園寺実兼が為兼を信任する伏見院からは距離を置き、逆に為兼を嫌う後伏見院を巧みに篭絡することで、伏見院の発言力の低下を意図していたことを看破」したとは思えず、それは辻氏や小川氏の「邪推」だろうと考えます。
また、「「事書案」は辻氏の論が正鵠を射ていたことを裏書きする」訳でもなかろうと思います。
総じて私は辻論文に極めて批判的なのですが、辻論文を批判しようとすると十回くらいの投稿が必要になるので、今は止めておきます。

-------
『藤原定家『明月記』の研究』

歌聖藤原定家の分身といってもよい「明月記」は鎌倉時代史研究に不可欠の史料である。本書は明月記自筆本が辿ったあとを歴史的に考察し、彼の感情の起伏をその行間に求めた。さらに江戸時代の貴紳が描く定家像をも論述。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32580.html

7505鈴木小太郎:2022/05/26(木) 13:54:18
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その11)
「事書案」については、伏見院が幕府に送った文書が何故に二条摂関家に伝わったのか、という問題もありますが、その理由は第三項から推定することができます。
この点、小川氏は前回投稿で引用した部分に続けて、次のように書かれています。(p38)

-------
 さて幕府から伏見院の「非拠」の最たるものとして突き付けられていたのが、第三項の「執柄還補事」であった。
 これは正和四年夏、関白近衛家平が辞意を洩らし、左大臣二条道平と前関白鷹司冬平が後任を競望したことに始まる。関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例であった。五月二十日には伏見院が「可被仰合関東云々」と関東申次に諮り、ついで六月十九日には院宣と冬平の款状二通、および道平の祖父・師忠・父兼基の款状が伝達されている(『公衡公記』)。
 やがて幕府は「事書案」にある如く、「任道理可為聖断」というこのような場合の決まり文句を返答して来た。それは、八月十日に幕府評定が開かれ、二条摂関家に対して「御先途御理運之条、雖勿論候、勅書之趣、暫可令期便宜給之由、被戴候上者、可令相待 公家御計給歟」という回答がなされたことからも裏付けられる。こうして九月二十一日鷹司冬平の還補となった。翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任であるとの主張が通ったが、もともと冬平は伏見院の覚えめでたい人物であった(『井蛙抄』巻六)。
 ところが、この関白交代が幕府の心証をひどく害した。「事書案」には「執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有其聞、被痛思食」とある。驚いた伏見院は、幕府が「可為聖断」というから冬平を還補させたのである、意が道平に在ったのならば最初からそう申せばよいではないか、と述べている。幕府が態度を硬化させた原因には二条摂関家が何らかの働きかけをしたことも推測されよう。そして関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる。為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した。そして冬平は結局在任一年にも満たず正和五年八月二十三日に退けられ、道平が関白となった。なお、二条摂関家にこの「事書案」が伝来したのは、以上のような経緯と関係があるのかもしれない。
-------

登場人物を整理すると、正和四年(1315)現在、関係者の年齢は、

 二条師忠(1254-1341)六十二歳
 二条兼基(1267-1334)四十九歳
 鷹司冬平(1275-1327)四十一歳
 近衛家平(1282-1324)三十四歳
 二条道平(1287-1335)二十九歳

となっていて、二条道平は辞意を洩らした近衛家平よりも五歳若く、他方、鷹司冬平は近衛家平より七歳年長、二条道平よりは十二歳年長です。
「関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例」であったので、伏見院はきちんと事前に幕府の意向を問い合わせ、「任道理可為聖断」という回答を得たので、「翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任」と考えて経験豊富な鷹司冬平を還補した訳ですね。
伏見院としてはきちんと手続きを踏んだ上で適切な人事を行ったはずなのに、結果的に「この関白交代が幕府の心証をひどく害」することになってしまいます。
一体全体、これは如何なる事態なのか。
まあ、おそらく幕府側としては、「任道理可為聖断」という建前通りの回答はしたけれども、実際には幕府の意向が二条道平にあることは諸事情から当然に推知すべきであったのに、わざわざ鷹司冬平を選ぶなんて、伏見院は政治家としてあまりに無能なんじゃないの、莫迦なんじゃないの、という感じだったのではないかと思います。
なお、「為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した」に付された注(20)を見ると、

-------
(20)『実躬卿記』永仁二年三月二十七日条・同年四月二日条・三年三月二十五日条に、伏見院在位の蔵人頭の任官に為兼が決定的な影響力を行使する様子が記される。このことは井上氏「一条法印定為について」(國學院雑誌101-1 平成12・1)に既に言及されている。
-------

とありますが、これは永仁二・三年(1294・95)の出来事ですから二十年前の話です。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』によれば、具体的には、

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6

という話ですが、蔵人頭と関白では重要性が異なるので、正和四年(1315)の「関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる」訳でもなさそうです。
いずれにせよ、これが「非拠」の最たるものとなると、「讒言」とかは実はどうでも良くて、要は幕府は伏見院を見限った、ということではないかと思います。
伏見院政はもう終わらせるしかない、だったらその理由が必要だ、理由が特になければ作り出せばよい、寵臣の為兼に幕府への叛意があったことにしよう、という話なのではないかと私は考えます。

7506鈴木小太郎:2022/05/27(金) 12:18:34
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その12)
続きです。(p39)
為兼の第二次流罪についてのまとめとなります。

-------
 このように「事書案」は、伏見院と後伏見院の不和、関白の交替など、当時の廷臣の日記・消息などによってのみ知られるところとよく符合する上、その事実をより具体的に伝えるものであって、実に興味深い内容である。為兼の土佐配流事件については、ほぼ以下のような経過を辿ったことが導き出されよう。
 幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいたが、「凡政道事、就謳哥説可被糺明之由、度々被申之処」とあるように、まずは伏見院自身でそれを是正することを期待した。すなわち、為兼らを院の判断を曇らせ様々な「非拠」を行わせる元凶として、暗にこれを退けるよう求めたのである。しかしながら、伏見院にはもとよりそのような考えはなかった。幕府は苛立ちを強めたであろう。その間にも関白交替の一件が起こり、為兼を「政道巨害」とみなす説はいよいよ確乎たるものとなり、遂に重綱の入洛、為兼の逮捕という事態に至った。その契機には西園寺実兼の讒言があったかもしれないが、「成政道巨害之由、方々有其聞」うちの、一つに過ぎないのである。伏見院と幕府とでは事態に認識に相当な隔たりがあり、「事書案」においてもそれはなお解消されていなかった。巷説は止むことなく、やがて伏見院は幕府に対し、重ねて異心なき旨を陳弁する告文を送ることを余儀なくされたのである。
-------

「伏見院と後伏見院の不和」に関して、小川氏や井上宗雄氏は辻彦三郎「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」に好意的ですが、私はかなり疑問を感じます。
辻氏は『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館、1977)の「あとがき」の一番最後に、「いまや校了に当り、恩師龍粛氏の御霊に本書出版のことを御報告申上げるよりほかないわが身を省みつつ、後悔の念を鎮めようと思う今日この頃である」と書かれるように、「恩師龍粛氏」の影響を非常に強く受けている方です。
そのため、上記論文にも龍粛(りょう・すすむ、東京大学史料編纂所・元所長、1890-1964)の「西園寺家中心史観」の影響が顕著で、例えば、

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 伏見天皇は文永二年(一二六五)四月の降誕。洞院実雄の女で玄輝門院藤原愔子の所生である。実雄は実兼にとって祖父実氏の異母弟に当り、西園寺家では彼が後嵯峨天皇や亀山天皇の特別の信任を蒙って優勢であることを無論快しとしなかった。すなわち俗言を弄せば、実氏の孫の実兼と実雄の外孫の伏見天皇とでは前世から打解け得ない宿命にあったといえよう。況んや実兼が両統を二股にかけると見做されるにおいてをやである。
-------

などとあります。(p306)
辻氏の論文には基礎的な部分に「西園寺家中心史観」という歪みがあり、この歪みが実兼の伏見院宛て消息等の解釈などの個々の論点の分析にも反映されているように思えるのですが、議論を始めると長くなるので、後日の課題としたいと思います。
さて、私は「幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいた」等の小川氏の幕府に関する認識に基本的に賛成しますが、ただ、小川氏の書き方だと、まるで幕府が非常に公平な、いわば現代の裁判官のように中立的な観点から持明院統の「失政」を観察し、「非拠」を「是正」するように「期待」し、それができないならば大覚寺統への交替という鉄槌を下す存在のようにも見えます。
もちろん、実際にはそんなことはなくて、幕府は中立的な存在でないのはもちろん、朝廷が持明院統・大覚寺統の対立のみならず、大覚寺統内部での更なる分裂、また同一系統内でも伏見・後伏見のような世代間の対立があるように、幕府も決して一枚岩ではありません。
小川論文を含め。従来の研究では、為兼の流罪が幕府内でどのように決定されたのか、具体的に誰が為兼の流罪を主導し、そしてその際には当該人物と京都側の誰が連絡を取り合っていたのか、といった事実が明確になっておらず、そうした問題意識も窺えません。
しかし、史料的限界はあるとはいえ、手がかりが皆無という訳でもなさそうです。
例えば正和四年(1315)十二月の為兼逮捕、翌五年正月の土佐配流の時点で幕府の実質的な最高権力者は長崎円喜・安達時顕とされており、この二人が為兼流罪を承認していることは間違いありません。
しかし、両人はあくまで最終的な裁定者であって、個別の問題の政策立案者・責任者という訳でもなさそうです。
当時の幕府首脳部(寄合衆)の中で京都事情に一番詳しいのは、乾元元年(1302)から六波羅南方、延慶三年(1310)から六波羅南方と、二度にわたって合計十年も六波羅探題を勤め、正和四年七月に連署となったばかりの金沢貞顕です。
為兼流罪の決定に際しては貞顕の意見は相当に重視されたはずですが、後宇多院との関係が深い貞顕こそが為兼流罪を主導した可能性も充分に考えられます。
この点、まだまだ準備は不充分ですが、とりあえず貞顕周辺の気になる事実をいくつか指摘してみたいと思います。

金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95

7507鈴木小太郎:2022/05/28(土) 15:23:05
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その13)
先日、ツイッターの投票機能を利用して、

-------
明らかに脱落・錯簡のある「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」に関し、私は小川剛生氏の復元案に若干の疑問を呈してみましたが、どのように思われますか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7c34e5955f4966a808387e1a62f652f

という質問をしてみたところ、

□ 小川剛生氏の復元案が正しい。         14.3%
□ 鈴木小太郎の見解が正しい。            0%
□ 鈴木説は疑問だが、小川説にも問題がありそう。 28.6%
□ 分らない。                  57.1%

https://twitter.com/IichiroJingu/status/1528981773455343617

という結果でした。
細かい数字になっていますが、全投票数が7票なので、順に1・0・2・4票ということですね。
私見は、小川氏自身が認めておられる第二項のバランスの悪さについて、思い付き程度の解決策を示したものですが、古文書・古記録の専門家が「事書案」に関心を持たれて、もう少し議論が深められることを期待したいと思います。
さて、為兼の第二次流罪に金沢貞顕が関与しているのではないか、という問題を検討する前に小川論文の続きをもう少し見て行きます。
小川論文は、そのサブタイトルに「土佐配流事件を中心に」とあるように第二次流罪をメインとしていますが、世間的には第一次流罪に関する今谷明氏の新説を粉砕してしまったことの方が話題になりました。
その概要は既に紹介済みですが、改めて小川氏の見解を正確に引用しておきます。(p39以下)

-------
五 佐渡配流事件の再検討

 ところで「事書案」は遡って為兼の永仁六年の佐渡配流事件についても触れているところがあるので、これについても検討したい。
 まず「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」というのによれば、佐渡配流も土佐配流と同じ原因、すなわち「政道巨害」をなした点にあることが明瞭となる。
 なお、「彼度有陰謀之企由一旦及其沙汰」とあるのは、『花園院宸記』の「頗渉陰謀事」と符合し、為兼の「陰謀」が取沙汰されたことが分かる。当時の用法から「陰謀」とは幕府の首長に対する反逆計画を指すのは明らかで、伏見院の周辺にそういう雰囲気が醸成されていたと推測することもできようが、「政道之口入」が誇張されて言い立てられた結果とみなせばよいであろう。なおこの事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる。
 また、「納言二品、彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之」とあることから、朝廷の側でも一旦為子を罪科に処することを検討したのであろう。為兼・為子の姉弟が処罰されるということは、先に縷説したように、両人が伏見院の治世に容喙したことを弾劾したものとみなされる。
-------

いったん、ここで切ります。
「この事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる」に対応するのは、「事書案」の、

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永仁御合躰事、最勝園寺禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

という箇所ですが、これは「永仁御合躰事」「最勝園寺禅門慇懃御返事」「正和御発願子細」の三つを「きっとご存じのことでしょうが」と言っているように見えます。
小川氏は第一次流罪の後、「最勝園寺禅門」(北条貞時)から「慇懃御返事」があり、それで「御合躰」が確認されたと解されていて、それは正しいと思いますが、「正和御発願」とは何なのか。
「御発願」なので正和二年(1313)十月十四日、伏見院が出家して政務を後伏見院に譲ったことだと思いますが、その「子細」とは、幕府側が伏見院と後伏見院の不仲の噂を知っていることを前提に、別に問題はなかったのですよ、と言っているのか。
深読みのし過ぎかもしれませんが、ちょっと気になります。
ま、それはともかく、続きです。(p40)

-------
 ところで最近、今谷明氏は、為兼の佐渡配流を永仁の南都擾乱、すなわち永仁元年から三年にかけて最も激化した、興福寺院家の大乗院と一乗院との抗争事件の責任を負わされたとする新見解を提示された。
 その根拠は南都関係者の処罰を申し入れる東使の入洛と、為兼が権中納言を辞したことが時期的に近接していることと、佐渡配流を伝える唯一の史料というべき『興福寺略年代記』に為兼の連繋者として見える「八幡宮執行聖親法印」を、騒動の中心となった東大寺八幡宮の執行と推定されてのことであった。今谷氏の説は従来曖昧であった配流の実情を明解に言い切っており、もしこの説が認められるならば、今後の為兼研究には種々修正すべき点が生じてくる。たとえば南都の問題に因があるならば、為兼が在島中に『鹿百首』を詠んで春日大明神に自らの無罪を訴え帰京を祈願した動機もよく説明されるからである。
 しかし、残念ながらこの説は成立し難い。まず右の程度では、為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱と言わざるをえず、「事書案」が説く以上の事情を想定するには及ばない。氏が幕府への敵対行動として配流の直接の因をなしたと強調される、一乗院門徒による蔵人平信忠の宿所破壊事件は、為兼の籠居中のことであり、かつ佐渡配流はそれから一年も後である。
 また為兼はしばしば伏見院に奏事する役目を勤めていることから、「後年の南都伝奏・山門伝奏を兼ねた地位にあった」とまで断定されるのであるが、伝奏が当時そのような責務を帯びた証はなく、後述するように為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない。
-------

このように小川氏は細かいジャブを刻んだ後、聖親が東大寺八幡宮の僧ではない、というアッパーカットをくらわせ、今谷新説をノックアウトしてしまいます。

7508鈴木小太郎:2022/05/29(日) 18:38:08
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
今谷説と、その核心的な部分に対する小川氏の批判は既に紹介済みです。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)〜(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52057127f53e26a9eb1704085e098c55
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ed4b667f07c50b08a053c15fdc1b58d

(その4)で紹介済みの、

-------
 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

に続けて、小川氏は、

-------
 後深草院や伏見院は石清水八幡宮にしばしば御幸しており、聖親は自然両院と接する機会が多かった。とすれば聖親はその治世に為兼とともに容喙するところがあって(あるいはみなされて)捕縛されたとするのが、現時点では最も適当かと思われる。少なくとも聖親がもし南都抗争の中心人物であるならば、為兼よりずっと早く赦免される筈がない。佐渡配流事件は為兼一人が標的であったと断じてよいのである。
-------

と書かれていますが(p41)、この部分、私は小川氏に全面的には賛成できません。
というのは、今谷著に、

-------
為兼に連座した僧二人

 籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。

 正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a

とあるように、「為兼に連座した僧二人」のうち、小川氏は聖親については解明されましたが、「白毫寺妙智房」については言及すらされていません。
今谷氏が言われるように、「白毫寺妙智房」が大和(奈良)の人であれば、為兼流罪と「南都擾乱」の関連の可能性が、ごく僅かであれ残されることになります。
今谷氏は永仁頃に「妙智房」が「白毫寺」に属していた根拠を示さないばかりか、

-------
やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ec8b159a880202a90dc21956a0bfe3e

などと言われますが、「白毫寺妙智房」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後の記録は「やや後年の史料」とは言い難いところがあります。
ところで、私自身も(その5)では、

-------
小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

などと書いてしまったのですが、再考の結果、私は「白毫寺」は京都の東山太子堂白毫寺(速成就院・大谷堂)の可能性が高いのではないかと考えます。
即ち、『三宝院伝法血脈』の「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」の一人に、

 静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>

とあって(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』、p356)、「東山白豪院」ではあるものの「妙智房」という僧侶は実在します。
そして、実勝(1241-91)は、

-------
仁治(にんじ)2年生まれ。西園寺公経(きんつね)の子。真言宗。醍醐(だいご)寺にはいり,覚洞院の親快から灌頂(かんじょう)をうける。弘安(こうあん)10年(1287)醍醐寺座主(ざす)となる。正応(しょうおう)4年3月13日死去。51歳。通称は西南院法印,太政大臣法印。著作に「求聞持法」「灌頂私記」など。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%8B%9D-1080211

という人物ですから、その「附法弟子」の「妙智房」は永仁六年(1298)に登場してもおかしくありません。
「東山白豪院」は「東山白毫寺」の別表記ないし誤記でしょうね。
ということで、小川説に私見を加味すると、「為兼に連座した僧二人」はいずれも南都ではなく京の僧侶ということで、結論的には今谷説は「南都騒擾」との関係では全然駄目、ということになります。

7509鈴木小太郎:2022/05/30(月) 12:23:10
「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
『三宝院伝法血脈』(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』)には、「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」が、

 聖雲親王<遍智殷>  聖尊親王<同>
 頼瑜<甲斐法印重受。根来寺中性院。>
 実紹<法印。根来寺蓮花院>
 延證<アサリ。定聴甲衆末座。讃頭散花兼勤之。>
 禅意<心一上人。鎌倉極楽寺真言院>
 静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>

と列挙されていますが、「禅意」に何か見覚えがあるような気がしました。
そこで、微かな記憶を辿って福島金治氏の『金沢北条氏と称名寺』(吉川弘文館、1997)を見たところ、「第三章 金沢北条氏・称名寺と鎌倉極楽寺」の「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」に禅意と並んで「静基上人」の説明もありました。

-------
『金沢北条氏と称名寺』

金沢文庫を創設した金沢北条氏が、本拠地の武蔵国六浦に開いた称名寺。鎌倉中期成立以降の寺の推移、金沢文庫文書の管理形態を解明し、金沢氏による支配関係や寺院の組織と運営、本寺の極楽寺との関係などを考察する。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32704.html

「第三節 鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」は、

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はじめに
一 禅意とその法脈
二 『宝寿抄』の伝授と内容
三 『宝寿抄』の法説とその教学
おわりに
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と構成されていますが、「一 禅意とその法脈」から少し引用します。(p252以下)

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 禅意は、『宝寿抄』に「禅弁大徳<改名禅意>」とみえ前名は禅弁であった。禅意の経歴は、額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器に次のようにみえる。

  奥州磐城郡東海道□□相州極楽律寺真言院住持比丘禅意正一房遺骨也、
  嘉元三年<巳乙>八月三十日□ □於真言院入滅<十年>六十五歳、先師和尚之遺□
  納遺骨於額安寺之墳墓□是□□□遺命也、

 正一房禅意は、嘉元三年(一三〇五)、鎌倉極楽寺真言院で没、六十五歳。生年は仁治二年(一二四一)。忍性墓塔への合葬は「遺命」であり禅意の命によるものであった。嘉元元年の極楽寺の忍性骨蔵器には、住持の栄真とともに石塔の願主として禅意が連署している。忍性没後の極楽寺で、栄真とならぶ高僧であった。法流をみると、西園寺公経の息で醍醐寺覚洞院の実勝の伝法灌頂の記録「実勝授与記」に、弘安三年(一二八〇)に鎌倉甘縄無量寿院で実勝から伝授されており鎌倉極楽寺長老と見える(賜芦文庫文書、金文五八五九)。『密宗血脈抄』の勧修寺血脈次第には、禅恵として「心一上人、鎌倉極楽寺、第二祖」、『野沢大血脈』の勧修寺流血脈次第や『野沢血脈集』は「禅意 心一上人」とある。上記の禅恵は禅意のことをさしている。「心一上人」「禅恵」と誤記されたのは、「正」「意」の草書が「心」「恵」と類似することで生じた錯誤であろう。微妙なのは次のものである。

 (1)実勝─┬──禅意   鎌倉極楽寺真言院
       └──静基上人 重受 東山白毫院長老(『血脈私抄』)

 (2)実證─┬──静基上人 重受 妙智房
       └──心一上人 白毫院長老 極楽寺真言院坊主(『野沢大血脈』)

 禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか。白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で、禅意と静基は兄弟弟子であった(金文五八五九)。また、禅意は『宝寿抄』巻十の金剛界の房中作法に「先師円光上人」と記し、静基は『密宗血脈抄』を編纂するとともに口伝集『秘鈔聞書表題<円光上人良含口説妙智房静基類聚>』を残し(『東寺観智院金剛蔵聖教目録』一九)、円光房良含を共通の師匠としており同様の立場の律僧の阿闍梨と判断できるので検討しておこう。(2)は『密宗血脈鈔』にもみえるが、「心一上人血脈、道教・親快ツレリ、此親快悉道教雖無受法、大概計受法歟、血脈為成近、如此連之、但不審相残レリ」と疑念を抱いている。静基は、房号が妙忍房【ママ】、正応二年(一二八九)に蓮乗院で良含から伝法され、正安四年(一三〇二)に極楽寺で華厳僧智照に伝法し極楽寺止住の経歴がある(金文六五四六・六四一五)。正和元年(一三一二)に正法蔵寺(鎌倉松谷寺)で剱阿に伝授した印信には「小僧、幸、蒙先師白毫院上人灌頂印可矣」と記し(金文六五四九)、静基の白毫院長老からの伝法は確かである。一方、禅意の住した極楽寺真言院は、永仁五年(一二九七)に忍性が草創したとされ(『性公大徳譜』)、室町前期まで灌頂堂として使用されていた(金文六六八四)。永仁五〜嘉元三年(一二九七〜一三〇五)の間、静基【ママ】は極楽寺におり、貞顕は乾元元年(一三〇二)に六波羅探題として上洛している。禅意は、この間、先述の禅意の骨蔵器の銘に「十年」と記されている点からみても、極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう。
-------

二箇所に【ママ】としましたが、「静基は、房号が妙忍房」の「妙忍房」は「妙智房」の単なる誤記だと思います。
また、(1)では静基が「東山白毫院長老」、(2)では「心一上人」禅意が「白毫院長老」となっていて、二人の経歴が混同されている可能性があるため、福島氏は「禅意は、京都白毫院長老を経歴したのであろうか」否かを考証された訳ですが、「額安寺忍性塔出土の禅意正一房骨蔵器」の銘文から、禅意は十年(ほど)極楽寺真言院にいたことが明らかなので、「永仁五〜嘉元三年(一二九七〜一三〇五)の間、静基は極楽寺におり」では意味が通らず、ここは「静基」ではなく「禅意」の誤りだろうと思います。
ま、結論として、京都の「東山白毫院長老」は静基で間違いない訳ですね。
さて、『興福寺略年代記』に永仁六年(1298)の「正月七日、為兼中納言并に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ畢んぬ。また白毫寺妙智房同前」と記された「白毫寺妙智房」が静基上人だとすると、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」なので、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
ちなみに「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院で」に付された注(14)には、

-------
(14)林幹弥氏「律僧と太子堂」(『太子信仰の研究』、一九八〇年)。櫛田良洪氏は静基を南都白毫院の僧とされる(「関東に於ける東密の展開」『真言密教成立過程の研究』第六章五四四頁)。『密宗血脈鈔』の基礎となった静基の『血脈鈔』は、徳治二年(一三〇九)に東山白毫院で完成とされており、南都作成とは考えられないので記しておく(小田慈舟氏解説、『仏書解説大辞典』)。良含が、東山白毫院の僧であることは、田中久夫氏「持戒清浄印明について(二)」(『金沢文庫研究』一二〇、一九六六年)紹介資料にもみえる。
-------

とあります。

7510鈴木小太郎:2022/06/01(水) 11:25:05
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)
林幹弥氏の『太子信仰の研究』(吉川弘文館、1980)は入手できていませんが、林氏には「金沢貞顕と東山太子堂」(『金沢文庫研究』156号、1969)という論文があり、『太子信仰の研究』所収の「律宗と太子堂」と内容が重なるのではないかと思います。
そこで、「金沢貞顕と東山太子堂」を少し引用します。
この論文は、

-------
 一、東山太子堂
 二、太子堂と叡尊・忍性
 三、金沢貞顕と太子堂
 四、葬所と太子堂
-------

と構成されていますが、まずは第一節を見て行きます。(p1以下)

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 一、東山太子堂

 京都には古くから多くの太子堂が見られた。それらの太子堂のうちで、「東山ノ太子堂」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月四日の条)と呼ばれたものがある。この太子堂は現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─がその後身である。「京都で太子堂といえば広隆寺と白毫寺をいう」(白毫寺前住職金田元成氏談)とさえいわれるほどである。
 この白毫寺に「応永頃ノ古図写」なるものが所蔵されている。この古図のなかに白毫寺の旧地が描かれている。西と南を祇園林にかこまれ、北と北東に白川およびその支流(現在の白川)が見える地域がそれである。この地域に、東山の斜面とこれに平行した道路の西側に、それぞれおよそ正方形の敷地をもつ寺院が描かれている。その東側の部分すなわち東山の斜面に敷地が描かれている部分には、「白毫寺、一名速成就院、又一名大谷堂、上東門院御墓所」と記されている。これと道路をへだてた西側の方形の部分には、その東南隅に東西に長い長方形の「親鸞上人影堂、本願寺」と記された一劃が含まれている。この西側の部分には、「太子水、太子杉、太子堂、白毫寺境内」と記されている。この道路をへだてて東西にわかれている二つの寺とも見えるものが、じつは一ヶ寺で、白毫寺と称し、また速成就院ともいい、大谷堂とも呼ばれ、太子堂とも俗称された寺である。これが天文年間あるいはそれをさかのぼることそう遠くないころの東山太子堂のすがたである。『蔭涼軒日録』に「太子堂曰速成就院」(寛正五年十月十日の条)・「東山速成就院」(長禄三年五月六日の条)などと記されているものがこれである。
【中略】
 この太子堂の位置は『山城名勝志』五に、「太子堂 <号速成就院、元在知恩院中門ノ西北、浩玄院ノ後、今此地在古井、号太子水>」とあって、知恩院中門の西北浩玄院の後にあったもの、といふことになる。この浩玄院(のちに光玄院)は華頂女学校(いまの華頂学園)の一部にあたる(『知恩院史』五一二〜五一五頁)。現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある。古図に示された「太子水」の名残りであろう。当初の太子堂は、この華頂学園から北へ元本願寺の西側をさらに北に花園天皇御陵の西側あたりまでがその敷地であったものと思われる。
-------

「現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─」の公式サイトはリンク先です。

太子堂白毫寺
https://www.taishidoubyakugouji.jp/

なお、「現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある」に付された注(6)には、「この「太子水」の確認をお願いした滋賀大学坂本覚三助教授に深謝します」とありますが、「覚三」は「賞三」の誤植でしょうね。
広島大学名誉教授の坂本賞三氏は、若い頃に滋賀大学におられたのですね。

坂本賞三(1926-2021)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E8%B3%9E%E4%B8%89

それはともかく、第二節に入ります。(p2以下)

-------
 二、太子堂と叡尊・忍性

 太子堂の開山については、『山城名勝志』五に「開山忍性律師」と記している。しかし、『忍性菩薩略行記』など彼の伝記類には、太子堂あるいは白毫寺または速成就院に関する記事は見当らない。太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。
 じじつ、この太子堂(速成就院)は、叡尊の死後も「一門諸寺」の一つに挙げられている。嘉暦三年の『興福寺某寺主記(毎日抄)』には叡尊が興した寺を挙げ、そのうち山城では速成就院は浄住寺を措いてその第一位に挙げられている(永島福太郎「中世律僧の活動」、『日本歴史』二四八所収)。これからすれば、『山城名勝志』の太子堂開山を忍性とする説よりも、むしろ、この『興福寺某寺主記』によって、太子堂の開山を叡尊と考えるほうが妥当であるかにみえる。しかし、この記のなかには、極楽寺の如くに明らかに忍性を開山とする寺や、直接叡尊と関係をもたないと思われる寺(称名寺など)まで含まれている。それ故に、名勝志よりその成立が古いからといって、この記によって、太子堂の開山を叡尊と決定することはできまい。
-------

いったん、ここで切ります。

7511鈴木小太郎:2022/06/02(木) 14:05:14
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その2)
続きです。(p3)

-------
 太子堂の歴代のすべてを知ることはできない。しかし、元亨四年ごろの長老静観房信昭は、「太子堂阿仁上人弟子」(『尊卑分脈』藤原氏、二条流)で、二条教良の息であり、かつ西大寺門徒である(『花園院宸記』元亨四年十一月十九日の条)。彼は貞和三年ごろは西大寺長老であったらしく、そのころ彼に具足戒・大乗戒を受けた湛睿の弟子高湛は、康応年間には速成就院に住し、のち極楽寺に住し、さらに西大寺長老となった(『不二和尚遺稿』)。降って、明応五年十月十三日に三条西実隆を訪ずれた「太子堂(恐らくは長老)」は、「故入道左府息」で「西大寺門徒」である(『実隆公記』同日の条)。また、長禄元年十一月に西大寺長老と決定したのは太子堂の明円房である(『大乗院寺社雑事記』同年十二月四日の条)。このように、太子堂と叡尊さらには西大寺とは非常に深い関係にあった。じじつ西大寺と太子堂とは本寺と末寺という関係にあった(「明徳二年九月西大寺末寺帳」、『鎌倉市史史料編』三所収)。
 このような関係は、叡尊の寂後に西大寺一流すなわち真言律の指導者となった忍性にもみられる。『極楽寺文書』の永仁六年四月の「関東祈禱寺注文案」(『鎌倉市史史料編』三所収)には、西大寺以下三十四ヶ寺の関東祈禱寺が記されている。このなかに速成就院(太子堂)も含まれている。この関東祈禱寺は、忍性が「戒律之陵廃、仏法之衰微、夙夜歎存候之間、抂申行」った(永仁六年五月十一日忍性書状案」、同上所収)ものであり、ここに忍性と太子堂との関係を認めることができよう。すなわち、速成就院(太子堂)は忍性が「抂申行」った結果、鎌倉幕府によって承認された関東祈禱寺の一つであった。
-------

以上、長々と引用してきましたが、私の当面の関心は、「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏『金沢北条氏と称名寺』、p253)であるか否かの確認と、仮にそうであれば、白毫院(寺)と金沢北条氏の関係がもう少し前、顕時の時代に遡れないか、についての確認です。
前者については、第三節において、四つの文書の分析を通じて、以下のように論じられています。(p4以下)

-------
 三、金沢貞顕と太子堂

 この太子堂の創立以後数十年を経たと思われるもので、かつ太子堂に関する文書が、金沢文庫の所蔵文書のなかに数点見えている。これを挙げると次の如くである。

(1)「金沢貞時書状」
     下給候便は、兵部大輔自鎮西下向便宜候也
   自太子堂寂忍御房、櫃二合自代官信重許下給候之間進之候、四五
   日之程に便宜候、可有御返事候者、給候之可進之候、恐惶謹言、
     四月十日        貞顕
    方丈進之候

(2)「金沢貞顕書状」
   去月四日・同十五日両通御返報、今月四五両日到来、委承候了、
   御下向之後、無御音信候之間、不審思給候之処、無為殊悦入候、
   京都当時無別子細候也、南都事先度如申候、急度御使下向候しか
   は、御沙汰不可有程候歟、早々可帰参候、抑法花経・茶等事、自
   太子堂送給候はゝ、可取進候也、兼又、新日吉小五月会、去月廿
   九日被行候き、於南方御桟敷見物仕候了、あはれ見せまいらせ候
   はやとのみ(以下欠ク)

(3)「長井貞秀書状」
     以御引、法花曼陀羅誂候之処、凡以不法無極候、如何なとか
     かゝ物をは引被給候けると、返々遺恨覚□〔候〕
   自太子堂御返事不候之由、令申候之処、只今給候之間、取進之
   候、仍仏具箱二合・両界一合・茶一合給置候、内両界箱一合・茶
   一合は令進之候、仏具二合者人夫不足候之間止置候、以後日可進
   之候、恐々謹言
     六月七日         貞秀(花押)
   明忍御房

(4)「了証書状」
   しんせう房のくたりの御文、たしかに見まいらせて候、なにより
   も御ひさうのものにて候けるに、わん給はりて候御事、御かたし
   けなくよろこひおほえさせをはしまして候、このひんにうけ給は
   りて候し、たいしたうよりくたさせ給て候なる仏くとりにまいら
   せて候、はうしやうゑにのほり候人に申あつらへて候、よく/\
   御したゝめわたらせをはしましし候て給はり候へく候、これはそう
   しにわたらせ給候せうみちの御房と申候そうのかたへまいらせ
   候、いかさまにも二くにて候けに候か、へちにしたゝめられて候
   やらん、一はこに入り候やらん、もし一つにはしいれて候はゝ、
   せいみちの御房と申候はなか事にて候、たとひ二候とも、二なか
   らくたり候はんすらんとおほえ候、いつれもをなし人に申つけて
   候時にとおほえ候、このよしを申させ給へく候、
         九月四日
   (切封ウハ書)
  「         封
   かねさわの        御方
       御寺へ  明忍御房申させ給へ
                 三村尼寺より
                     了証」
-------

この後、長大な解説がありますが、省略します。

7512鈴木小太郎:2022/06/03(金) 10:31:11
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その3)
四つの文書について全く説明しないのも不親切なので、林論文から少しだけ引用しておきます。
まず(1)の「金沢貞顕書状」には年次を探る手がかりがありませんが、「太子堂から贈られた二合の櫃を剱阿の返事を得て送る(恐らく金沢の称名寺へ)という意味のことを、貞顕が剱阿に申し送った書状であろうかと思われる」(p5)そうです。
次に(2)の「金沢貞顕書状」は「恐らく、称名寺剱阿にあてたもの」で、「新日吉社の小五月会はおおよそ五月九日を定日とするようであるが、貞顕の六波羅在任中にこれが五月二十九日に行われたのは嘉元二年のこと」なので、嘉元二年(1304)の文書であり、「貞顕はこの書状で、京都および南都に関する情勢の報告やそれに関する指示を与え、ついで、称名寺の請求によって、貞顕が太子堂に送付を求めたと思われる法花経や茶などについては、太子堂から貞顕のもとに送付があり次第そちらへ転送する」というものです。
そして(3)の「長井貞秀書状」と(4)の「了証書状」は内容的に関連しており、放生会に関する記述から、ともに延慶元年(1308)のものと推定され、「太子堂から称名寺へ贈られた仏具を、称名寺の寺僧ではなく常陸の僧侶が貞秀の許にとりに行く」(p6)という関係になっています。
長井貞秀は貞顕とほぼ同年齢で貞顕と極めて親しく、貞顕の六波羅探題在任中は鎌倉で剱阿の相談役のような存在であり、時にはこうした「仲介の労」を取ったりしていた訳ですね。
さて、急に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)の細かい話になってしまったので、現時点での私の問題意識を整理しておきます。
『続史愚抄』には、永仁六年(1298)正月の為兼逮捕について、

-------
○七日乙未。節会。内弁右大臣。<師教。>此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅。<○武家年代記、公卿補任、興福寺略年代記>
-------

とあって、編者である柳原紀光(1746-1800)は『武家年代記』『公卿補任』『興福寺略年代記』を参照しています。
この三つの史料の内、「石清水執行聖信等」の名前が出ているのは『興福寺略年代記』だけであり、そして『興福寺略年代記』には、

-------
正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a

とあって、「八幡宮執行聖親法印」を石清水八幡宮寺の執行である「聖信」としたのは柳原紀光説です。
そして、今谷氏は「『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる」と痛烈に批判し、「結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である」との斬新な新説を提示され、そのついでに「白毫寺」も奈良の寺だと主張されました。
しかし、小川剛生氏が石清水八幡宮寺に執行の聖親法印が実在することを証明され、今谷新説は根幹部分があっさり撃破されてしまいました。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

ただ、小川氏は「白毫寺妙智房」には言及すらされなかったのですが、私はこちらも京都の白毫寺ではなかろうかと考えてみました。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b

そして福島金治氏の「鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」という論文を見たところ、『興福寺略年代記』の「白毫寺妙智房」は「東山白毫院長老」の「静基上人」で間違いなさそうです。

「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e

ところで、福島氏が言われるように「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」だとすれば、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
というのは、金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後です。
とすると、仮に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)が貞顕の父である「金沢顕時を檀那とする律院」だとすれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が出てきます。
そこで、顕時の時代の白毫寺と金沢北条氏の関係が分かるのではないかと期待して、福島氏の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」という認識の根拠となっている林幹弥氏の「金沢貞顕と東山太子堂」を読んでみたのですが、はっきりした結論は出せないですね。
金沢北条氏とゆかりの深い寺というと、関東では称名寺、京都では常在光院ですが、この両寺の場合は建造物の新改築などを含め、ほぼ全面的に金沢北条氏の財政的負担で運営されており、金沢北条氏はまさに「檀那」と呼ぶにふさわしい存在です。
他方、林氏が挙げた四つの文書を見る限り、白毫寺は貞顕や称名寺などに依頼された物品を手配し、送付しているだけで、いわば称名寺の京都出張所程度の存在のようにも見えます。
果たして永仁六年(1298)当時、白毫寺と金沢北条氏の関係はどのようなものだったのか。

7513鈴木小太郎:2022/06/04(土) 13:06:07
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)
前回投稿で白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)は「称名寺の京都出張所程度の存在」など書きましたが、福島金治氏によれば「京都東山太子堂・伊勢大日寺は称名寺の西大寺への伝達及び用途支出の窓口」(『金沢北条氏と称名寺』、p156)とのことなので、まんざら冗談でもなかったですね。
そして、こうした特別な役割を担っていた以上、金沢北条氏が白毫寺に対して相当な資金援助をしていたと考えるのが自然で、福島氏の「貞顕が檀越であった京都東山太子堂」(同、p109)という評価も適切なのだろうと思います。
ただ、そうはいっても、白毫寺の「長老」が京極為兼の一味として六波羅に逮捕・拘禁されたような場合、金沢顕時も責任を負わなければならないような関係にあったかというと、そこははっきりしないですね。
ま、私の疑問もちょっと考えすぎだったかもしれませんが、為兼流罪の翌四月一日に顕時が幕府要職を辞したことは気になります。
さて、林幹弥氏は「金沢貞顕と東山太子堂」において、

-------
太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9

と書かれていますが、当該記事を確認するために細川涼一氏訳注の『感身学正記2』(平凡社東洋文庫、2020)を見たところ、細川氏は些か奇妙な解説をされていました。
まず関連する部分の細川氏による読み下しを引用すると、弘安二年(1279)叡尊七十九歳のときの記事に、

-------
【九月】十八日、右馬権頭為衡入道観證来臨す。談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り申して曰く、「異国の用害を消さんがため、本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る。去んぬる文永十年(癸酉)の春、大般若二部を持ち、内外両宮に参詣し、おのおの一部奉納せしむるの間、十二年の春、また一部を菩提山に持参し、供養転読し、二宮の法楽に資す。その時、もし一切経を感得せば、奉納のため今一度参詣すべきの由、心中に発願し畢んぬ。然りといえども輙〔たやす〕く感得すべきにあらざるの間、空しく年□〔月〕を送るの処、近年殊に黙止し難きの子細重畳の間、素懐を果たさんと欲すといえども、渡宋本を欲するは蒙古の難によって摺写〔しっしゃ〕すること叶はず。書写致さんと欲するは、部帙〔ぶちつ〕巨多〔あまた〕にして筆功及び難し。もしくは秘計候や」と。方便を試むべしと答えて退出し了んぬ。廿一日、かの状到来するに偁〔い〕わく、「西園寺殿〔実兼〕に古書写の本一蔵有り。使者をもって拝見すべし」と云々。よって廿六日、浄住寺に著す。卅日、浄阿弥陀仏〔亀谷禅尼〕、所持の仏舎利を奉持して来たる。すなわち、開き拝見し奉る。その後、奉納し感得し奉り畢んぬ(十月十五日の相伝状、十六日に到来し了んぬ)。十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。同日、衆僧和合して去んぬる月晦日に感得せし仏舎利を供養し奉る。七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず。
-------

とあります。(p89以下)
そして、この「右馬権頭為衡入道観證」について、細川氏は、

-------
為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない。叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致するが、実時の後見観證は別の機会に述べたように、菅原(高辻)宗長に比定できるので(細川涼一訳注『関東往還記』、九〇頁)、それとは別人である。同一人物に比定する見解があるので(長谷川誠編著『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』、二六〇頁。氏がさらに叡尊弟子の比丘尼、真教房観證と同一人物に比定するのも、もとより誤りである)、失礼なことながら一言しておく。叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている。『西大寺田園目録』(『西大寺叡尊伝記集成』、所収)には、
  十市郡東郷廿二三条一二三里内庄一所<号橘本庄、坪付在別>
    弘安元年<戊寅>十二月廿日右馬権頭入道「為衡」〔裏書〕親證寄入之、
とあって、前年の弘安元年十二月二十日に十市郡橘本荘内の土地一所を西大寺に寄入している(西大寺側に煩いが生じたので、施主の為衡に弘安五年<一二八二>に売り戻したが、弘安九年<一二八六>五月に再び直銭百八十貫文で西大寺僧の朝粥料として買い取っている)。『西大寺田園目録』では法名を親證としている。
-------

と書かれていますが(p96以下)、全然駄目ですね。
西園寺家が関係する記事の中で「衡」を含む名前の人が登場しているのだから、これは西園寺家の家司として著名な三善一族の人に決まっています。
龍粛氏は「西園寺家の興隆とその財力」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957)において、「西園寺家財力の建設者」である「三善長衡の業績」と「長衡の経理の鬼才」を説明した後、「西園寺・三善両家の結合」の一内容として、

-------
公経の五世の孫公衡は、弘安から正和にわたっての経歴を、その日記管見記に残しているが、その自筆の原本は西園寺家に伝襲され、昭和十三年に立命館で影印に付せられた。これによれば、弘安六年に幕府から派遣された使者美濃守長景等の入洛したことを、公衡が関東申次である父の実兼に報告するために為衡法師を使としたことが管見記の七月一日の条に見え、また実兼は為衡法師の家に赴いたこと(弘安十一年正月十七日)があり、康衡の任官の執り成しをしたことがあった(弘安十一年二月二十二日)。

http://web.archive.org/web/20100911054013/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-saionjikeno-koryu.htm

という具合いに「為衡」の名前を挙げています。
「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」人物が「為衡」なのに、細川氏が三善氏を連想しないというのは私には驚きであり、「失礼なことながら一言しておく」ことにします。

7514鈴木小太郎:2022/06/06(月) 19:58:15
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その2)
前回引用した『感身学正記』の弘安二年(1279)の記事、伊勢神宮に一切経を奉納する件に関して「右馬権頭為衡入道観證」が「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」話の中に別の話題も入っていたので、少し分かりにくいところがあったと思います。
同年の記事は九月から始まっていて、最初に亀谷禅尼が西大寺に一切経を納入する話が出てきます。(p88以下)

-------
九月二日、一切経開題供養す。鎌倉亀谷禅尼法名浄阿弥陀仏、もと将軍家〔九条頼経〕の女房、摂津前司師員〔中原〕入道法名行厳の後家、予、関東下向〔弘長二年〕の時の新清凉寺宿所の亭主、越後守実時〔金沢〕朝臣の沙汰として借用し、去らしむ。それより以来、三宝に帰向し、所領〔下野国横岡郷〕の殺生を禁断し、菩薩の禁戒を受持す。時々の音信今に絶えざるの仁なり。にわかに六十人の人夫をもって一切経を当寺〔西大寺〕に渡し奉りて、開題し奉るべきの旨、慇懃の所望有り。黙止しがたき故、百僧を勧請して首題を礼さしむるなり。法会の事終わりて後、かの禅尼来たりて曰く、「摂津前司入道〔中原師員〕仏舎利を所持す。人に付嘱せず頸に懸けながら命終わりぬ。後家たるが故、年来奉持す。当寺に安置し奉らんと欲す。後日奉持してよく参詣すべし」と云々。すなわち領状し畢んぬ。
-------

幕府の評定衆であった中原師員(1185-1251)の後家・亀谷禅尼は、弘長二年(1262)、叡尊(1201-90)が金沢実時(1224-76)に招かれて鎌倉を訪問した際、新清凉寺を宿所として提供して以降、熱烈な律宗の信者となり、巨額の財政的援助もするようになったパトロン的女性です。
その亀谷禅尼が西大寺に一切経を奉納した後、夫の中原師員の遺品である仏舎利を西大寺に奉納したい、後で持参する、と言うので叡尊はこれを了承します。

中原師員(1185-1251)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1

この後、前回投稿で引用した部分となり、九月十八日に「右馬権頭為衡入道観證」が来たので、叡尊は「談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り」ます。
即ち、蒙古襲来という国難に際し、「本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る」ため、文永十年(1273)の春、大般若経二部を持って伊勢内宮・外宮に参宮し、文永十二年(1275)の春、また大般若経一部を内宮近くの菩提山神宮寺に持参し、供養転読して内宮・外宮の法楽の資とした。
その時、もし一切経を得たならば、奉納のため今一度参詣したいと「心中に発願」したが、容易く得ることもできず空しく年月を送っていたところ、近年、蒙古襲来の危機が重なるにあたって「素懐を果たさんと欲するといえども」、宋から輸入する摺本は「蒙古の難」によって入手が困難で、書写しようとしても一切経は数が多いのでなかなか困難である。
ということで、叡尊が、何か良いお知恵はないだろうか、と相談したところ、「右馬権頭為衡入道観證」は、何か手立てを工夫しましょう、と答えます。
そして二十一日、「右馬権頭為衡入道観證」から書状が来て、「西園寺殿」に一切経の古写本が「一蔵」あるので、使者を派遣して、奉納に適するものか確認して頂けませんか、と言ってきます。
そこで叡尊は自らその古写本を確認することとし、二十六日に西大寺から京都の律宗の拠点・浄住寺(旧・葉室定嗣邸)に行きます。
すると三十日、亀谷禅尼が浄住寺に来て、中原師員の遺品である仏舎利を奉納します。
さて、十月三日、叡尊は「西園寺において一切経を拝見し」、「これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ」となります。
そして、「白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け」た後、「六日、一切経これを迎え奉」りますが、古写本なので「七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず」となります。
この後、亀山院と鷹司兼平も、それぞれ一切経を浄住寺に送ってくることとなり、浄住寺には都合「三蔵」の一切経が集まることになります。
即ち、

-------
十一月十七日、院宣によって靡殿〔なびきどの〕に参る。十八日朝より上皇〔亀山〕御前において梵網経古迹〔こしゃく〕下巻本を開講し奉る。廿四日、講じ奉り畢んぬ。深更に及び、円満院〔円助法親王〕御弟子宮、密々に入御す。すなわち宿所(本靡殿御所)において十重戒を授け奉り畢んぬ。廿五日、古迹御談義の御持仏堂において、太上天皇〔亀山上皇〕、中御門大納言経任以下公卿殿上人五十九人に(重受二人)菩薩戒を授け奉る。夜陰に臨み、仙洞〔亀山上皇〕に三衣〔さんね〕を授け奉る(自身の長衣これを進む)。廿六日、早旦、召しによって桟敷殿に参る。大神宮奉納宋本一切経の事、興隆仏法等、種々勅問す。所存の旨を奏し、罷り出で畢んぬ。中食以後、浄住寺に還る。次に殿下〔鷹司兼平〕の御請によって猪熊殿に参る。御堂において見参に入り、五戒を授け奉る(別受)。卅日、仙洞〔亀山上皇〕宋本一切経を浄住寺んじ送り奉らる。殿下〔鷹司兼平〕日本本一切経を同じく同寺に送り奉らる。十二月二日、仁和寺御室(性助法印)御出。浄住寺真言堂において、十一人(重受五人)に菩薩戒を授け奉る。四日、西大寺に還著す。十日、衆僧和合して、浄住寺において感得せし所の三千余粒の仏舎利を供養す。廿ニ日、豊浦寺(建興寺と名づく)住比丘尼證全、先祖相伝の仏舎利を当時〔西大寺〕に安置し奉る。
-------

という展開となります。(p90以下)
そして翌弘安三年(1280)三月、叡尊は伊勢に向かいます。

7515鈴木小太郎:2022/06/08(水) 14:11:57
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その1)
叡尊は建仁元年(1201)生まれなので、その事蹟を年表にすると、西暦の下二桁がそのまま年齢になって便利な人ですね。

叡尊(1201-90)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E5%B0%8A

『感身学正記』の弘安二年(1279)、叡尊七十九歳のときの記事を見ると、奈良西大寺にいた叡尊のもとに九月十八日に「来臨」した「右馬権頭為衡入道観證」に対し、叡尊が一切経を入手する「秘計」はありませんか、と相談したところ、為衡入道が「方便を試むべしと答えて退出」した僅か三日後、二十一日に為衡入道から、西園寺家に「古書写の本一蔵」がありますよ、と書状が来ます。
為衡入道の京都への移動と京都から派遣した使者の移動の時間を考えると、殆ど即答ですね。
為衡入道は西園寺家の一切経を叡尊に寄進できる実際上の権限を持っていて、ただ、西園寺家当主の実兼の確認を得るために京都に戻り、直ちに了解を得て叡尊に連絡している訳で、この経緯を見るだけでも為衡が西園寺家の実力者であることは明らかです。
関東申次である西園寺家が大変な政治的権力を握っていた、という龍粛以来の「西園寺家中心史観」は誤りですが、西園寺家が経済的に極めて豊かであったことは確かで、「朝廷に不動の地位を築いた同家を支える驚くべき財力がいかにして形成されたか」については網野善彦氏の詳しい研究もあります。

網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

「右馬権頭為衡入道観證」は、いわば西園寺財閥の大番頭のような存在で、だからこそ叡尊も「よいお知恵はありませんか」と相談を持ち掛けた訳ですね。
細川涼一氏は「為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない」などとのんびりした調査をしていますが、西園寺家に関する論文を調べればよいだけの話で、そうすれば為衡が西園寺家家司の三善一族の人であることは即座に分かります。
細川氏だけでなく、『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』の編者である長谷川誠氏も「叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致する」ことから「同一人物に比定」されているそうですが、律宗の研究者は揃いも揃って何をやっておるのか、という感じがしないでもありません。
ちなみに長谷川誠氏は筑波大学名誉教授だそうですね。

長谷川誠
https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=200901000149313263

さて、福島金治氏の論文に出て来た「東山白豪院長老妙智房」についての手がかりがないかと思って、苅米一志氏の「東山太子堂の開山は忍性か」(『鎌倉』67号、1991)を読んでみたところ、非常に緻密な論文ですが、「東山白豪院長老妙智房」への言及はありませんでした。
ただ、興味深い指摘が多々あったので、少し紹介してみます。
この論文の構成は、

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一、叡尊と太子堂速成就院
二、速成就院と極楽寺・称名寺
三、阿忍房頼禅の宗教活動
小結
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となっていますが、まずは「序」で苅米氏の問題意識を確認しておきます。(p11以下)

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 『山城名勝志』巻五には「太子堂<号速成就院、元在知恩院中門西北浩玄院後、今此地有古井号太子水、此堂慶長年中被遷六条北万里小路東、開山忍性律師>」とあり、速成就院が当時太子堂と呼ばれ、また慶長以前には知恩院や浩玄院の存在する東山に座していたことが分かる。この寺は聖徳太子二歳像を安置して今に伝えるが、例えば、「西大寺文書」明徳二年(一三九一)西大寺末寺帳に、「速成就院」とあるように中世においては、この寺院は律院であり、かつ西大寺の末寺であった。その開山について『山城名勝志』は、忍性である、と言い切っているが、周知の通り忍性の伝記「性公大徳譜」あるいは『律苑僧宝伝』『本朝高僧伝』などにはそれに相当する事績は見当らない。既に林幹弥は「律僧らと太子堂」において、金沢氏との関連の中で太子堂を考察し、その開山を『山城名勝志』の言う通り、忍性であると推断したが、その考察には疑問ありとしなければならない。本稿は、直接的には、この寺院の開山ないし中興開山を考察するものであるが、また一方、叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧の事績の発掘をも心がけるものである。このような方法論の提言は、既に細川涼一によってなされているものの、いまだ十分にそれが吸収・受容されているとは言いがたい状況にある。我々の前には「西大寺文書」「極楽寺文書」のみならず叡尊による授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)や光明真言結縁過去帳(『西大寺関係史料』一)、そして「金沢文庫文書」という史料の宝庫が遺されており、そのことによって、中世では例外的と言ってもよいほど、一律僧の事績に即した十分な研究が可能となっている。筆者の課題は、それらの史料を活用しつつ、律宗とくに西大寺律宗が当該社会にいかなる影響を与えていったのかをトータルにとらえていくことである。
-------

現在は就実大学教授の苅米一志氏が、三十一年前、筑波大学大学院在籍中に書かれた若々しい論文ですが、私が関心を持っている「東山白豪院長老妙智房」も、「叡尊・忍性という律宗の二代巨頭の蔭にかくれ、歴史のひだに埋没していった無名の律僧」の一人といえそうです。

7516鈴木小太郎:2022/06/09(木) 10:38:27
苅米一志氏「東山太子堂の開山は忍性か」(その2)
就実大学教授・苅米一志(かりこめ・ひとし)氏は1968年生まれとのことなので、「東山太子堂の開山は忍性か」を書かれたのは二十三歳くらいの時であり、ちょっと吃驚ですね。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a86010.html
【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問
https://www.shujitsu.ac.jp/news/detail/1791
【WEB体験授業】古文漢文から日本史へ 総合歴史学科
https://www.youtube.com/watch?v=2iHIfqbzgE8

この論文を実際に読むまで、私は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)が出て来るのではないかと期待していたのですが、その名前はありませんでした。
ただ、「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕された永仁六年(1298)正月は東山太子堂にとってもなかなか微妙な時期だったようで、その構成メンバーが叡尊系から忍性系に移行する端境期だったように思えます。
そこで、その推移を細かく見て行きたいと思います。(p12)

-------
  一、叡尊と太子堂速成就院

 「応永頃ノ古図写」(『京都の歴史』三、一四九頁)において太子堂が「白毫院」と呼ばれたことから、林幹弥は「金剛仏子叡尊感身学生記」弘安二年(一二七九)の項に見える「白毫寺」を太子堂速成就院の初見としているが、大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる。また、林は「速成就院」なる語の史料上の初見を同記・弘安七年(一二八四)正月としているが、筆者としては、次の史料をもって、その初見としたい。
-------

いったん、ここで切ります。
「大和にも西大寺末寺たる白毫寺(前掲西大寺末寺帳)が存在するので、これがいずれであるか判断しかねる」とありますが、同年九月十八日に奈良西大寺で「右馬権頭為衡入道観證」に一切経の入手について相談した叡尊は、二十一日に「西園寺に古い写本があるので、確認に来てください」との返事をもらって二十六日に京都・浄住寺に移動し、

-------
十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6780a0676390d1a68cee8c96740984f8

とのことなので、この白毫寺が京都の方の白毫寺(東山太子堂、速成就院)であることは明らかですね。
なお、「応永頃ノ古図写」はリンク先で見ることができますが、文字が小さくて読めないですね。

福原成雄氏「京都市指定名勝 知恩院方丈庭園の成立について」
https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/617

さて、続きです。(p12以下)

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 すなわち、金沢文庫の「結界唱相」(『金沢文庫資料全書』第五巻)には、「山城国愛宕郡速成就院結界唱相」が記載されており、その初度の年月日が文永三年(一二六六)十一月三十日となっているのである。その結界参加者は、次の通りである。

 成円戒律房 善厳尊戒房
 證円戒学房 禅恵本性房
 賢栄円寂房 実禅尊願房
 行忍禅行房 定円忍蓮房
 頼禅阿忍房<比丘布薩役者>
 正恵信戒房<比丘布薩并結界師>
 円定房<答法> 了敏尊覚房<比丘布薩役者>

 順乗理賢房<比丘布薩維那唱相>
 禅信春円房<比丘布薩役者梵網維那>
 信海円證房<比丘布薩役者> 已上比丘
 行空円観房 隆慶寂印房<梵網役者>
   已上法同沙弥
 覚秀空證房<五徳梵網役者> 顕禅房<梵網役者>
   已上形同
 文永三年<丙寅>十一月卅日巳時初結同
  十二月一日巳時解結畢
                  当院住持善厳

 このうち、叡尊の授菩薩戒弟子交名(『西大寺叡尊伝記集成』)に名の見えるのは、成円戒律房・実禅尊願房・順乗理賢房であり、彼らは全て「大和国人」と言われている。つまり、彼らは叡尊の弟子であった。またこの他、善厳尊戒房は、宝治二年(一二四八)将来律三大部配分状(同前)によると、宋より将来した律部経典のうち「羯磨経疏記称一部廿一巻」を配分されており、光明真言結縁過去帳(前掲)にも「尊戒房 大谷寺」とある。大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう。彼も叡尊の弟子であって、史料に「当院住持善厳」とあることから、のちにこの寺院に住するようになった人間であると思われる。
-------

「大谷寺とは、速成就院・白毫院そしてあるいは乗台院をも含む東山の寺院を指しているだろう」に付された注(6)を見ると、

-------
(6)前掲結界唱相には、速成就院に続いて山城国愛宕郡白毫院、山城国愛宕郡乗台院の結界が記されている。
-------

とあり、東山太子堂にやたらと別名が多い理由の説明となっていますね。

7517鈴木小太郎:2022/06/13(月) 09:22:38
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
三日投稿を休んでしまいましたが、この間、律宗関係で「妙智房」が出て来ないかを探っていました。
暫定的な成果として、和島芳男氏の「西大寺と東山太子堂および祇園社の関係」(『日本歴史』278号、1971)に、それらしき人物がチラッと登場していたのですが、律宗関係だけでも手一杯なのに祇園社まで広げると収拾がつかなくなりそうなので、後日の課題としたいと思います。
私の目論見は、永仁六年(1298)正月、京極為兼と「八幡宮執行聖親法印」「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)の三人が同時に六波羅に逮捕された理由については、律宗関係を調べて行くと何か手がかりが得られるのではないか、というものでした。
こう考えた理由として、

(1)今谷明氏は「白毫寺妙智房」を南都の僧とされたが、この人物は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)であり、律宗の中でも相当な有力者の可能性が高いこと。
(2)石清水八幡宮寺は正元元年(1259)八月、石清水検校の招請により叡尊が一切経を転読して以降、特に元寇を契機として律宗との関係が強まり、大乗院という律宗の拠点も存在していたこと。
(3)京極為兼の母は西園寺家の家司・三善一族の三善雅衡の娘であり、叡尊が伊勢内宮・外宮に一切経を奉納するに際して尽力した「右馬権頭為衡入道観證」と親族関係にあって、為兼自身も律宗との相当な人脈を持っていた可能性が考えられること。
(4)京都の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏)だったこと。
(5)金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは同年正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後であり、仮に白毫寺と金沢北条氏の関係が顕時の代に遡るのであれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が考えられること。

といった事情があったのですが、白毫寺(白毫院)と金沢顕時との関係を裏付ける史料はなさそうなので、(5)は考えすぎだったかなと思っています。
それと、従来は東山太子堂・速成就院・白毫寺(白毫院)は同一寺院の異なる名前と考えられていたのですが、どうも速成就院と白毫寺は別の寺院の可能性が高そうです。
この点、法政大学准教授・大塚紀弘氏は山形大学名誉教授・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法蔵館、2019)の書評(『史学雑誌』129巻6号、2020)において、

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 第三章「近江国における展開」では、近江国の末寺を取り上げ、石津寺と矢橋津、阿弥陀寺と木津の関わりなどを指摘する。その中で著者は先稿と同様、京都の白毫寺を「東山太子堂のこと」とするが、『結界法則』では速成就院と白毫院が別個に扱われている。太子堂は速成就院を指し、ともに東山にあった叡尊教団の律院ではあるが、白毫寺(白毫院)とは別寺ではなかろうか。

http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/3100_1.pdf

とされており(p79)、私も大塚氏の見解が正しいように思います。
この見解が正しければ、仮に金沢顕時と速成就院(東山太子堂)との関係を史料的に裏付けることができたとしても、それと白毫寺(白毫院)は別の話、ということになります。
ということで、第一次為兼流罪の背景として律宗に関わる何らかの問題が存在した可能性は残ると思いますが、「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休むこととします。
なお、祇園社の関係で「白毫寺妙智房」らしき人物がチラリと出てくるのは、和島芳男氏の上記論文で紹介されている『祇園社記録』の「持明院殿(伏見天皇)御代の条」です。(p2)

  越前国敦賀津着岸升米、為当社修造料所、限六箇年被寄附之、
  但津料内野坂・経政所以両所、被寄附当社之為本地垂迹御祈、
  本地方妙智上人於当社可勤行之云々、垂迹顕尊法印可勤行之云々、
  共以限永代被寄之、

ま、これだけだと何が何だか分からないと思いますが、理解してもらうためには和島論文を大量に引用した上での長大な説明が必要なので、今は止めておきます。
「妙智上人」が演じているのは、幕府の庇護を受けた律宗が祇園社≒叡山の利権に食い込むための先兵のような役割かもしれません。

7518鈴木小太郎:2022/06/15(水) 12:19:47
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その15)
5月29日に、

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b

を投稿して以降、「白毫寺妙智房」を検討してきましたが、小川論文に戻ります。
「五 佐渡配流事件の再検討」は(その14)で紹介した箇所の後に若干の記述がありますが、省略して第六節に入ります。(p41以下)

-------
 六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除

 「事書案」には、「政道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東使沙汰之次第超過先規、已及流刑」とあり、伏見院自らが、朝廷の失政が取沙汰される時は前々から幕府の「御意見」があるもの、と認めている。つまり幕府による廷臣の処罰は、流罪は過酷であるにしても、起こり得る事態であったのである。幕府がこのような権利を有するに至ったのは承久の乱以後のことであるが、皇位継承の度に幕府が治天の君を推戴する実績が重ねられる中で生じてきた思考であろう。
【中略】
 それにしても幕府は持明院統の治世に対して、厳しい注文を付けることが多かったように思う。後嵯峨院に仕えた評定衆・伝奏は亀山院政・後宇多院政でも重用され、大覚寺統はその多士済々の遺産をそっくり受け継いだのに対して、雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった。また持明院統の治世においては公卿の官位昇進が総じて速やかで、また公卿そのものの員数も急増することが指摘されている。これは政権基盤の脆弱な持明院統の露骨な人気取り政策であり、任官政策の放漫さと受け取られた。
 幕府は後深草院を推戴した当初から、その統治能力に疑問を抱いていたらしい。院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあった。『公衡公記』によれば、その事書は基本的に聖断を尊重するとしながらも、
  一、任官加爵事。理運昇進、不乱次第可被行之歟、
  一、僧侶・女房政事口入事。一向可被停止歟、
という項目があり、後深草院政は強く牽制されている。後条の僧侶や女房が政治に容喙してはならぬというのが、公武政権の常に掲げる題目であった。治天の君に奏事できるのは人物・識見を厳選された、主に名家出身の伝奏であり、後嵯峨院以後はとりわけその傾向を強め、制度的に僧侶・女房の口入を排除しようとしたのである。
-------

いったん、ここで切ります。
この時期の朝廷の実態について一番詳しいのは本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)ですが、小川氏の説明は本郷氏の見解とはかなり異なりますね。
小川氏は「雌伏の期間が長かった後深草院・伏見院の下には政務の実務に堪える人材が少なかった」と言われますが、後深草院政期には、例えば「後嵯峨・亀山上皇の第一の近臣ともいうべき人物」(本郷著、p159)である中御門経任(1233-97)が伝奏として存在しています。
経任と不仲だった弟の吉田経長(1239-1309)は経任の出処進退を厳しく非難していますが、その経長自身も「後深草・伏見上皇のもとでさかんに実務官として活動して」(同、p264)います。
本郷氏によれば、後深草院政期(弘安十年〔1287〕十月二十一日〜正応三年〔1290〕二月十一日)は次のような状況です。(p159以下)

-------
 ところが、二君に仕えたからといって、経任一人を責めるのは酷であるようにも思われる。というのは、亀山上皇の他の近臣も、後深草上皇に近侍しているからである。試みに正応二(一二八九)年の評定衆をあげよう。

  近衛家基・堀川基具・源雅言・中御門経任・久我具房・平時継・日野資宣・葉室頼親

翌年の後深草上皇の院司は次の人々である。

  西園寺実兼・源雅言・中御門経任・日野資宣・葉室頼親・吉田経長・中御門為方(経任ノ子)・冷泉経頼・
  坊城俊定・平仲兼・葉室頼藤(頼親ノ子)・日野俊光(資宣ノ子)・平仲親・四条顕家・藤原時経

これをみると、亀山上皇の伝奏はほとんど後深草上皇の院司となっており、何人かは評定衆にも任じられている。経任のごとくに伝奏にはならずとも、上皇の側近くにあったことはまちがいない。父子ともに院司になっている例もあり、兄経任を厳しく非難した経長も、弟経頼ともども上皇に仕えている。
 まもなく起こる両統の迭立という事象を知る我々は、ともするとそれを前提として考察を進めてしまう。しかしこの時にそうしたことを想起するのは誤りである。伏見天皇が即位した時点では皇統はあげて後深草上皇の系統に移ったのであり、廷臣にしてみれば、忠臣は二君に仕えずというなら、出家して前途の望みを絶つしかない。さもなければ、後深草上皇に忠勤を励むだけである。吉田家の三兄弟、経任・経長・経頼が揃って後深草上皇に接近していったことでもよくわかるように、たとえば一家の内で兄弟が互いに反目し合っている、所領争いの危機を内包しているといっても、一方が持明院統に、他方が大覚寺統に、という選択の余地はなかった。それが後深草院政期である。
 後深草上皇の側からこうした事態をみると、どのようなことがいえるか。それはやはり、上皇の周囲の人材の欠如であろう。以前から上皇に仕えていた近臣には、せいぜい平時継・忠世父子くらいしか、訴訟制の担い手となるべき人がいなかった。だから亀山上皇の近臣を用いざるをえない。
-------

次いで伏見親政期(永仁六年〔1298〕七月二十二日まで)に入ると、正応六年(1293)には有名な訴訟制度改革が行なわれます。
そして、本郷氏によれば、

-------
 この改革の意義であるが、一つはいうまでもなく、庭中訴訟を重視し、雑訴と別に扱うようになったことがあげられる。雑訴の方では、評定衆・文殿衆の二つの階層の人を同じ番数に結い、同一日に出仕させ、対応させている点が注目される。いまだ両者は、身分の違いを越えて同一の場で審議を行うに至っていないが、これはその先行形態である。
 組織された上・中流官人をみると、およそ亀山院政期から評定衆・伝奏・奉行として訴訟に携わっていた人が多く、伏見天皇が抜擢した人物が見あたらない。亀山上皇の伝奏は、死没した日野資宣・冷泉経頼のほかは皆選ばれていて、後深草院政に続いて重用されている。天皇はこの前年に平仲兼を参議に任じたが、周囲の強い批判にあい、任官の正当性を日記に縷々書き留めている。名家の人々を高く評価するその文言はよく知られるところだが、一人の廷臣を公卿の列に加えることが批判の対象になるのであるから、更にすすんで独自の近臣層を形成し、要職に就かせることは、一朝一夕には成し得ない非常に困難な行為だったと推測される。
-------

とのことです。(p165以下)
このように後深草院政・伏見親政期のいずれも、単純に人材が不足していたというようなことはなく、また、朝廷の制度史を専門としている研究者からは、伏見親政の評判はそれほど悪くない、というか結構良いのですね。

7519鈴木小太郎:2022/06/16(木) 11:20:01
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その16)
小川論文で非常に気になるのは、まるで幕府が客観的・中立的立場から朝廷に正しい「政道」を期待したにもかかわらず、持明院統は人材不足・能力不足から幕府の期待に応えられなかった、という書き方になっている点です。
しかし、もちろん幕府も一枚岩でなく、その首脳部を構成する人々の考え方も様々であり、かつ時期によって首脳部の構成自体が変動しています。
弘安八年(1285)の霜月騒動で安達泰盛派を潰滅させた平頼綱が、その八年後の正応六年(永仁元、1293)、成長した北条貞時に亡ぼされるなど、幕府側も朝廷以上の激動の時期ですね。
そして本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』によれば、

-------
 亀山院政は弘安八(一二八五)年十一月十三日に、二十条の制符を発する。文書審理の徹底、謀書棄捐、越訴の文殿への出訴の規定、訴陳の日数制限など手続法に属する項目と、別相伝の禁止、後嵯峨上皇の裁定の不易化、年紀法の制定など実体法に属する項目とからなるこの制符は、朝廷におけるはじめての本格的な訴訟立法ということができるだろう。整備された機構を備え、訴訟の法を内外に示した亀山院政のもとで、朝廷の訴訟制は一応の完成期を迎えることになる。
【中略】
 朝廷で右の訴訟立法が行なわれるおよそ一年前の弘安七(一二八四)年八月、幕府は「手続法の集大成」と高く評価される追加法を発布した。この時期、安達泰盛の主導のもとで、幕府の訴訟制はその最盛期を迎えようとしていた。
 京都と鎌倉の動向が関連をもっていることにはこれまでも何度か言及しているが、近年の網野善彦氏、笠松宏至氏の業績によるならば、この時もまた幕府と朝廷とは「東西呼応して」徳政を推し進めていた。幕府と朝廷とで相前後して重要な制法が発せられたことは、それを象徴している。
-------

とのことですが(p141以下)、しかし、「弘安八(一二八五)年制符が発せられたわずか四日の後、霜月騒動によって泰盛派は滅亡」(p142)してしまいます。
すると安達泰盛の期待に応えて徳政を推進した亀山院の立場も微妙となり、二年後の「弘安十(一二八七)年十月十二日、東使佐々木宗綱によって理由もなく東宮の践祚が要求され、亀山院政は突如として終わりを告げる」(同)ことになります。
何とも皮肉なことに、亀山院が幕府の期待に応えて「徳政」を推進したが故に亀山院政は終わってしまった訳ですが、幕府は別に朝廷の「徳政」の度合いを審査する客観的・中立的な存在ではないのですから、当たり前と言えば当たり前の話です。
なお、小川氏が言われるように、後深草院の「院政が開始されてまもない正応元年(一二八八)正月二十日、幕府は政務につき後深草院に申し入れることがあ」り、そこでは「僧侶・女房政事口入」を禁止するよう要請があった訳ですが、この申入れの後、間もなく善空(禅空)という律僧が朝廷の人事・所領政策に干渉するようになり、しかも善空の背後には平頼綱の一族がいたようです。
僧侶の口入を禁止するように要請した幕府側が、幕府の威光をひけらかす僧侶を通じて朝廷に口入を繰り返した、少なくとも後深草院側からはそのように見えた訳で、幕府の申入れなるものも文字通り素直に受け止めることはできません。
この善空の一件は小川氏も触れているので、後で改めて少し論じます。
さて、小川論文に戻って、続きです。(p42以下)

-------
 その意味でいえば、為兼は伝奏でさえなく、「政道」について公的なルートでは何も奏上する立場にはなかった。為子も養子たちも同様である。為兼がしばしば伝奏の如き役割を果たしたのは事実であるが、それは「藤氏公卿不出仕之間、無人伝奏、或直問答、或以為兼卿問答、王威軽忽可恥可悲」と伏見院自ら認めるように、全くイレギュラーな事態であり、為兼が当時の「政道」の中心たる寺社の抗争・雑訴・叙位任官の問題について言上することは、すべて非分の「口入」とみなされた。ここで為兼が院政の実務を担当する廷臣に不可欠とされた文道(儒学)の才に乏しく、「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった。「後ノ三房」を始めとする、大覚寺統の治天の君に重要された廷臣が、こぞって文道の才学を謳われたことを想起すればよい。「世の人、漢家の才のみ政道にはよろしとおもへり。就中、近比この趣を度々奏聞に及べるよし聞こゆ」(『古今集浄弁注』)という二条為世の歎声はそれを受けている。いかに為世が「歌は神代のことわざとして漢土の書いまだ渡らざりし時より出で来て、風刺風化の心分明に侍るものを」と虚勢を張ったところで、歌道は所詮「政道」の実際の用には立たないのである。
-------

「「無才学」とか「為兼卿文盲」と言われたのは致命的であった」に付された注(31)を見ると、「無才学」は『花園院宸記』正和二年(1313)六月四日条、「為兼卿文盲」は『園太暦』貞和二年(1346)十一月九日条ですね。




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