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Japanese Medieval History and Literature
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その3)
それでは今谷説の核心部分を見て行くことにします。
永仁四年(1296)五月十五日、為兼が権中納言を辞し、籠居しますが、同六年(1298)正月に六波羅に逮捕され、三月に流罪となります。
『京極為兼』の「第四章 佐渡配流」は、
1 為兼籠居
2 永仁の南都闘乱
3 佐渡流人行
の三節から構成されていますが、籠居に関する諸学説を紹介した第一節は省略し、第二節の冒頭から引用します。(p123以下)
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2 永仁の南都闘乱
為兼に連座した僧二人
籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。
正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。
これによれば、為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならないのである。ところが従来の研究は、それが極めて不充分で、私に言わせれば、殆んどその視点からの研究は等閑視されていたのである。
さて三人の"下手人"の性格であるが、問題は聖親法印である。前にも引いた江戸時代の歴史家柳原紀光の編にかかる『続史愚抄』は、
この日〔正月七日〕、座する事あるに依て、武家より京極前中納言<為兼>および
石清水執行聖信〔親〕等、六波羅に幽す。
と、聖親を石清水八幡の社僧であるとしている。『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる。ただ慎重な石田吉貞博士ひとり、「八幡宮執行聖親法印」として、石清水社との判定を避けておられる。
聖親は石清水と無関係
結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である。何故ならば、そもそも中世の石清水八幡宮には、「執行」という役職は設置されていない。中世の石清水八幡宮の組織と人員を詳細に記録した『石清水八幡宮寺略補任』によると、中世の同八幡宮は、
三綱(上座・権上座・寺主・権寺主・都維那・権都維那)
検校
別当・権別当・修理別当・俗別当
神主
が主な職階であって、執行は見当らない。三浦周行ほどの歴史家(東大史料編纂官、京大教授)がこのことを見逃したのは、ちょっと不可解であるが、うっかり『続史愚抄』を信用したのであろう。
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うーむ。
今谷明氏ほどの歴史家(横浜市立大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授)が「聖親は石清水と無関係」と堂々言い切っておられるので、この記述を信用しない読者は稀だったと思われますが、結論からいうと、この聖親という僧は、従来の定説通り、やっぱり石清水八幡宮の関係者でした。
ま、それはともかく、今谷説をもう少し見ておきます。(p125以下)
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聖親は東大寺の僧
それでは、執行職が置かれていた八幡宮とは、何処の八幡宮なのであろうか。『略年代記』自体が南都(興福寺・春日社)の記録であることから、奈良で唯一の八幡宮である東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)ではないかと推測されるのであるが、これを当時の史料から確認しておこう。『東南院文書』は中世の東大寺の院家で、東大寺関係の古文書を収めているが、その中に宝治三年(一二四九)三月、伊賀名張新庄を東大寺に寄進した法眼聖玄の寄進状に、
兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時、夢見の様は、(中略)何様の事哉の由申さしむ。
執行答へて云く、
とあり、さらに『東大寺図書館架蔵文書』の内に、元徳元年(一三二九)十二月の手掻会米請取状に、
執行所(花押)
とあり、別に「執行朝舜(花押)」ともあり(この二つの花押は同じ)、鎌倉時代を通じて東大寺八幡宮に執行が置かれていたことがわかる。以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる。
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うーむ。
この部分、今谷明氏ほどの歴史家が「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」と断言されているので、普通の読者はうっかり信用してしまうと思いますが、しかし、上記史料には「兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時」とあるだけです。
これでは東大寺に「執行」という役職があり、同じく東大寺に「執行所」という組織ないし部局があったことは言えても、東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)に「執行」「執行所」があったとまでは言えないですね。
それと、「聖親法印」の名前や花押がバッチリ登場するならともかく、「兼乗<播磨法橋>」や「執行朝舜(花押)」だけですから、やはり「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」は強引に過ぎます。
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