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Japanese Medieval History and Literature

7517鈴木小太郎:2022/06/13(月) 09:22:38
「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休みます。
三日投稿を休んでしまいましたが、この間、律宗関係で「妙智房」が出て来ないかを探っていました。
暫定的な成果として、和島芳男氏の「西大寺と東山太子堂および祇園社の関係」(『日本歴史』278号、1971)に、それらしき人物がチラッと登場していたのですが、律宗関係だけでも手一杯なのに祇園社まで広げると収拾がつかなくなりそうなので、後日の課題としたいと思います。
私の目論見は、永仁六年(1298)正月、京極為兼と「八幡宮執行聖親法印」「白毫寺妙智房」(『興福寺略年代記』)の三人が同時に六波羅に逮捕された理由については、律宗関係を調べて行くと何か手がかりが得られるのではないか、というものでした。
こう考えた理由として、

(1)今谷明氏は「白毫寺妙智房」を南都の僧とされたが、この人物は「東山白豪院長老妙智房」(『三宝院伝法血脈』)であり、律宗の中でも相当な有力者の可能性が高いこと。
(2)石清水八幡宮寺は正元元年(1259)八月、石清水検校の招請により叡尊が一切経を転読して以降、特に元寇を契機として律宗との関係が強まり、大乗院という律宗の拠点も存在していたこと。
(3)京極為兼の母は西園寺家の家司・三善一族の三善雅衡の娘であり、叡尊が伊勢内宮・外宮に一切経を奉納するに際して尽力した「右馬権頭為衡入道観證」と親族関係にあって、為兼自身も律宗との相当な人脈を持っていた可能性が考えられること。
(4)京都の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」(福島金治氏)だったこと。
(5)金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは同年正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後であり、仮に白毫寺と金沢北条氏の関係が顕時の代に遡るのであれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が考えられること。

といった事情があったのですが、白毫寺(白毫院)と金沢顕時との関係を裏付ける史料はなさそうなので、(5)は考えすぎだったかなと思っています。
それと、従来は東山太子堂・速成就院・白毫寺(白毫院)は同一寺院の異なる名前と考えられていたのですが、どうも速成就院と白毫寺は別の寺院の可能性が高そうです。
この点、法政大学准教授・大塚紀弘氏は山形大学名誉教授・松尾剛次氏の『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法蔵館、2019)の書評(『史学雑誌』129巻6号、2020)において、

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 第三章「近江国における展開」では、近江国の末寺を取り上げ、石津寺と矢橋津、阿弥陀寺と木津の関わりなどを指摘する。その中で著者は先稿と同様、京都の白毫寺を「東山太子堂のこと」とするが、『結界法則』では速成就院と白毫院が別個に扱われている。太子堂は速成就院を指し、ともに東山にあった叡尊教団の律院ではあるが、白毫寺(白毫院)とは別寺ではなかろうか。

http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/3100_1.pdf

とされており(p79)、私も大塚氏の見解が正しいように思います。
この見解が正しければ、仮に金沢顕時と速成就院(東山太子堂)との関係を史料的に裏付けることができたとしても、それと白毫寺(白毫院)は別の話、ということになります。
ということで、第一次為兼流罪の背景として律宗に関わる何らかの問題が存在した可能性は残ると思いますが、「白毫寺妙智房」の追跡はいったん休むこととします。
なお、祇園社の関係で「白毫寺妙智房」らしき人物がチラリと出てくるのは、和島芳男氏の上記論文で紹介されている『祇園社記録』の「持明院殿(伏見天皇)御代の条」です。(p2)

  越前国敦賀津着岸升米、為当社修造料所、限六箇年被寄附之、
  但津料内野坂・経政所以両所、被寄附当社之為本地垂迹御祈、
  本地方妙智上人於当社可勤行之云々、垂迹顕尊法印可勤行之云々、
  共以限永代被寄之、

ま、これだけだと何が何だか分からないと思いますが、理解してもらうためには和島論文を大量に引用した上での長大な説明が必要なので、今は止めておきます。
「妙智上人」が演じているのは、幕府の庇護を受けた律宗が祇園社≒叡山の利権に食い込むための先兵のような役割かもしれません。




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