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Japanese Medieval History and Literature
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その2)
今谷明氏は「王権の日本史」第14回「後醍醐の討幕運動」(『創造の世界』第106号)において、
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従来から『増鏡』は、『太平記』などより遥かに高い史料的価値を有するとの評価を得ていた。例えば、前々稿で言及した亀山院「殉国」祈願問題の如きも、基本史料は『増鏡』が唯一の典拠たるにかかわらず、どの論者も『増鏡』の信憑性を疑わず、安心してこれに依拠されている。これは、『増鏡』が公卿日記等とほとんど齟齬する所なく、また『太平記』等の戦記物と異なって後世の潤色、改変の跡がほとんどみられないからであった。
ではその作者は誰なのか。その作者が確定せぬうちは『増鏡』の史料的性格も判明せず、その信憑性も全面的には依存できないということになる。
【中略】
さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢二七・二九輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
さらに元亨四年(一三二四)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(一三四四)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。
http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm
と書かれています。
しかし、田中隆裕氏の「『増鏡』と洞院公賢−作者問題の再検討−」(『二松学舎大学人文論叢』第27輯、1984)を実際に読んでみると、問題の設定の仕方に既に洞院公賢という結論を導く枠組みが出来ていて、徳大寺公清に関する記事の評価なども公平とは言い難く、今谷氏以外に支持者が生まれなかった理由も自ずと明らかだと思います。
http://web.archive.org/web/20150918011536/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tanaka-takahiro-kinkata.htm
ただ、今谷氏が、
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ところで、王政復古成った元弘三年(一三三三)に二条良基はわずか十四歳、対して公賢は四十三歳の壮年であり、良基をかりに作者とすれば、『増鏡』の記事はすべて幼時以前の出来事にすぎないのに対し、公賢著者の場合は、鎌倉末期の諸事件は彼の生々しい見聞を経ていることになり、信憑性は比較にならぬ程高くなる。
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と言われている点はその通りで、『増鏡』に描かれた鎌倉末期の政治情勢の機微は、当時の宮廷社会を実際に知っている人間でなければ描けないだろう、という今谷氏の歴史研究者としての直観には私も賛成したいと思います。
さて、「はしがき」の続きです。
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そういう次第で、為兼に関する政治の諸研究に目を通すうちに、土岐善麿の『京極為兼』も閲読し、さらに国文学の諸大家、お歴々による為兼研究をも通覧する機を得た。その過程で痛感させられたのは、為兼が鎌倉後期の、すでに宮廷政治史にとどまらず、時代史全般に亘っての重要人物であったということである。加うるに、為兼の生涯の一転機となった佐渡配流の背景について、諸家の解釈にはない新しい見解の成立する余地があることに気付かされた。それは、既存の諸研究について一部史料の読み誤りと見られるものがあるほか、為兼と同時代の公卿である三条実躬の日記『実躬卿記』が公刊され、また為兼佐渡配流に至る緊迫した政治情勢を物語る『春日若宮神主祐春記』(『興福寺略年代記』と並ぶ重要史料)が、従来は使われていなかったこと等の事情による。またそれに関連して、安田次郎氏の研究があらわれ、為兼失脚の事情が明らかになった。
以上の理由によって、為兼の生涯の重大な部分について、従来は誤って解釈されていたと考えられるので、鎌倉時代史に門外漢の学者ではあるけれども、新しい為兼伝が書かれる必要がある、と思考するに至ったのである。
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そして今谷氏は、「三年程前に、草思社のPR誌(月刊『草思』)に一年間の連載を求められ、題材に窮して中世の人物列伝を執筆したが、その六人の一人に為兼も取り上げ」たものの、「しかしそれは、たかだか四十枚程度の短編であって、為兼の評伝と称すべきほどのものでは」なかったそうです。
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ところが今回、上横手雅敬先生から、ミネルヴァ書房の日本評伝選の編集委員になるよう慫慂があり、余儀なくお引き請けしたものの、委員の手前、何か一冊引き受けざるを得ず、結局、「京極為兼」で執筆しようということになった。但し、昔から和歌が好きであるといったところで、所詮は下手の横好き、素人の物真似であり、私は歌論や和歌の評釈は出来ない。ただ、歴史学畑の人間として、従来とは異った視点で、為兼像を描く、といったことが可能であるに過ぎない。また、私のオリジナルな研究の結果を若干示すことで、「為兼卿」の名誉を何がしかでも回復できることがあったとすれば、著者にとってこの上ない喜びである。従って、為兼の歌と歌論については、従来の国文学の大家、お歴々の業績を殆どそのまま使わせて頂くことになるかと思う。この点もあらかじめお断わりしておきたい。
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ということで、これで「はしがき」は終わりです。
ちなみに月刊『草思』の連載は『中世奇人列伝』(草思社、2001)として纏められ、2019年には文庫化もされていますね。
http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2411.html
また、今谷氏は岩波書店の『文学』にも「京極為兼の佐渡配流について」(隔月刊一巻六号、2000)という論文を寄せられていて、『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』の刊行直後、小川剛生氏が驚くべき早さで反撃できたのも、こうした今谷氏の一連の著作があったからですね。
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