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Japanese Medieval History and Literature

7512鈴木小太郎:2022/06/03(金) 10:31:11
林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その3)
四つの文書について全く説明しないのも不親切なので、林論文から少しだけ引用しておきます。
まず(1)の「金沢貞顕書状」には年次を探る手がかりがありませんが、「太子堂から贈られた二合の櫃を剱阿の返事を得て送る(恐らく金沢の称名寺へ)という意味のことを、貞顕が剱阿に申し送った書状であろうかと思われる」(p5)そうです。
次に(2)の「金沢貞顕書状」は「恐らく、称名寺剱阿にあてたもの」で、「新日吉社の小五月会はおおよそ五月九日を定日とするようであるが、貞顕の六波羅在任中にこれが五月二十九日に行われたのは嘉元二年のこと」なので、嘉元二年(1304)の文書であり、「貞顕はこの書状で、京都および南都に関する情勢の報告やそれに関する指示を与え、ついで、称名寺の請求によって、貞顕が太子堂に送付を求めたと思われる法花経や茶などについては、太子堂から貞顕のもとに送付があり次第そちらへ転送する」というものです。
そして(3)の「長井貞秀書状」と(4)の「了証書状」は内容的に関連しており、放生会に関する記述から、ともに延慶元年(1308)のものと推定され、「太子堂から称名寺へ贈られた仏具を、称名寺の寺僧ではなく常陸の僧侶が貞秀の許にとりに行く」(p6)という関係になっています。
長井貞秀は貞顕とほぼ同年齢で貞顕と極めて親しく、貞顕の六波羅探題在任中は鎌倉で剱阿の相談役のような存在であり、時にはこうした「仲介の労」を取ったりしていた訳ですね。
さて、急に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)の細かい話になってしまったので、現時点での私の問題意識を整理しておきます。
『続史愚抄』には、永仁六年(1298)正月の為兼逮捕について、

-------
○七日乙未。節会。内弁右大臣。<師教。>此日。依有座事。自武家執京極前中納言。<為兼。>及石清水執行聖信等幽六波羅。<○武家年代記、公卿補任、興福寺略年代記>
-------

とあって、編者である柳原紀光(1746-1800)は『武家年代記』『公卿補任』『興福寺略年代記』を参照しています。
この三つの史料の内、「石清水執行聖信等」の名前が出ているのは『興福寺略年代記』だけであり、そして『興福寺略年代記』には、

-------
正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a

とあって、「八幡宮執行聖親法印」を石清水八幡宮寺の執行である「聖信」としたのは柳原紀光説です。
そして、今谷氏は「『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる」と痛烈に批判し、「結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である」との斬新な新説を提示され、そのついでに「白毫寺」も奈良の寺だと主張されました。
しかし、小川剛生氏が石清水八幡宮寺に執行の聖親法印が実在することを証明され、今谷新説は根幹部分があっさり撃破されてしまいました。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

ただ、小川氏は「白毫寺妙智房」には言及すらされなかったのですが、私はこちらも京都の白毫寺ではなかろうかと考えてみました。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58fe1a0e555b518966af5e016849f79b

そして福島金治氏の「鎌倉極楽寺真言院長老禅意とその教学」という論文を見たところ、『興福寺略年代記』の「白毫寺妙智房」は「東山白毫院長老」の「静基上人」で間違いなさそうです。

「禅意は……極楽寺真言院の住持としてあり、白毫院長老は静基と確認されよう」(by 福島金治氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2e9406623579e59fbe16253b99325f9e

ところで、福島氏が言われるように「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」だとすれば、「白毫寺妙智房」が京極為兼と一緒に六波羅に逮捕されたことは政治的に随分微妙な話となります。
というのは、金沢貞顕の父・顕時(1248-1301)は永仁六年(1298)四月一日に四番引付頭人を辞していて(『鎌倉年代記』)、これは正月に逮捕された京極為兼が三月に佐渡に流された直後です。
とすると、仮に白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)が貞顕の父である「金沢顕時を檀那とする律院」だとすれば、顕時も京極為兼に連座して実質的に責任を問われた可能性が出てきます。
そこで、顕時の時代の白毫寺と金沢北条氏の関係が分かるのではないかと期待して、福島氏の「白毫院は金沢貞顕を檀那とする律院」という認識の根拠となっている林幹弥氏の「金沢貞顕と東山太子堂」を読んでみたのですが、はっきりした結論は出せないですね。
金沢北条氏とゆかりの深い寺というと、関東では称名寺、京都では常在光院ですが、この両寺の場合は建造物の新改築などを含め、ほぼ全面的に金沢北条氏の財政的負担で運営されており、金沢北条氏はまさに「檀那」と呼ぶにふさわしい存在です。
他方、林氏が挙げた四つの文書を見る限り、白毫寺は貞顕や称名寺などに依頼された物品を手配し、送付しているだけで、いわば称名寺の京都出張所程度の存在のようにも見えます。
果たして永仁六年(1298)当時、白毫寺と金沢北条氏の関係はどのようなものだったのか。




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