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Japanese Medieval History and Literature
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その13)
先日、ツイッターの投票機能を利用して、
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明らかに脱落・錯簡のある「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」に関し、私は小川剛生氏の復元案に若干の疑問を呈してみましたが、どのように思われますか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e7c34e5955f4966a808387e1a62f652f
という質問をしてみたところ、
□ 小川剛生氏の復元案が正しい。 14.3%
□ 鈴木小太郎の見解が正しい。 0%
□ 鈴木説は疑問だが、小川説にも問題がありそう。 28.6%
□ 分らない。 57.1%
https://twitter.com/IichiroJingu/status/1528981773455343617
という結果でした。
細かい数字になっていますが、全投票数が7票なので、順に1・0・2・4票ということですね。
私見は、小川氏自身が認めておられる第二項のバランスの悪さについて、思い付き程度の解決策を示したものですが、古文書・古記録の専門家が「事書案」に関心を持たれて、もう少し議論が深められることを期待したいと思います。
さて、為兼の第二次流罪に金沢貞顕が関与しているのではないか、という問題を検討する前に小川論文の続きをもう少し見て行きます。
小川論文は、そのサブタイトルに「土佐配流事件を中心に」とあるように第二次流罪をメインとしていますが、世間的には第一次流罪に関する今谷明氏の新説を粉砕してしまったことの方が話題になりました。
その概要は既に紹介済みですが、改めて小川氏の見解を正確に引用しておきます。(p39以下)
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五 佐渡配流事件の再検討
ところで「事書案」は遡って為兼の永仁六年の佐渡配流事件についても触れているところがあるので、これについても検討したい。
まず「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」というのによれば、佐渡配流も土佐配流と同じ原因、すなわち「政道巨害」をなした点にあることが明瞭となる。
なお、「彼度有陰謀之企由一旦及其沙汰」とあるのは、『花園院宸記』の「頗渉陰謀事」と符合し、為兼の「陰謀」が取沙汰されたことが分かる。当時の用法から「陰謀」とは幕府の首長に対する反逆計画を指すのは明らかで、伏見院の周辺にそういう雰囲気が醸成されていたと推測することもできようが、「政道之口入」が誇張されて言い立てられた結果とみなせばよいであろう。なおこの事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる。
また、「納言二品、彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之」とあることから、朝廷の側でも一旦為子を罪科に処することを検討したのであろう。為兼・為子の姉弟が処罰されるということは、先に縷説したように、両人が伏見院の治世に容喙したことを弾劾したものとみなされる。
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いったん、ここで切ります。
「この事件の後でも伏見院は親書を遣わし、北条貞時から「慇懃」な返事があり、都鄙の「合体」を確認したことも初めて知られる」に対応するのは、「事書案」の、
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永仁御合躰事、最勝園寺禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e
という箇所ですが、これは「永仁御合躰事」「最勝園寺禅門慇懃御返事」「正和御発願子細」の三つを「きっとご存じのことでしょうが」と言っているように見えます。
小川氏は第一次流罪の後、「最勝園寺禅門」(北条貞時)から「慇懃御返事」があり、それで「御合躰」が確認されたと解されていて、それは正しいと思いますが、「正和御発願」とは何なのか。
「御発願」なので正和二年(1313)十月十四日、伏見院が出家して政務を後伏見院に譲ったことだと思いますが、その「子細」とは、幕府側が伏見院と後伏見院の不仲の噂を知っていることを前提に、別に問題はなかったのですよ、と言っているのか。
深読みのし過ぎかもしれませんが、ちょっと気になります。
ま、それはともかく、続きです。(p40)
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ところで最近、今谷明氏は、為兼の佐渡配流を永仁の南都擾乱、すなわち永仁元年から三年にかけて最も激化した、興福寺院家の大乗院と一乗院との抗争事件の責任を負わされたとする新見解を提示された。
その根拠は南都関係者の処罰を申し入れる東使の入洛と、為兼が権中納言を辞したことが時期的に近接していることと、佐渡配流を伝える唯一の史料というべき『興福寺略年代記』に為兼の連繋者として見える「八幡宮執行聖親法印」を、騒動の中心となった東大寺八幡宮の執行と推定されてのことであった。今谷氏の説は従来曖昧であった配流の実情を明解に言い切っており、もしこの説が認められるならば、今後の為兼研究には種々修正すべき点が生じてくる。たとえば南都の問題に因があるならば、為兼が在島中に『鹿百首』を詠んで春日大明神に自らの無罪を訴え帰京を祈願した動機もよく説明されるからである。
しかし、残念ながらこの説は成立し難い。まず右の程度では、為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱と言わざるをえず、「事書案」が説く以上の事情を想定するには及ばない。氏が幕府への敵対行動として配流の直接の因をなしたと強調される、一乗院門徒による蔵人平信忠の宿所破壊事件は、為兼の籠居中のことであり、かつ佐渡配流はそれから一年も後である。
また為兼はしばしば伏見院に奏事する役目を勤めていることから、「後年の南都伝奏・山門伝奏を兼ねた地位にあった」とまで断定されるのであるが、伝奏が当時そのような責務を帯びた証はなく、後述するように為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない。
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このように小川氏は細かいジャブを刻んだ後、聖親が東大寺八幡宮の僧ではない、というアッパーカットをくらわせ、今谷新説をノックアウトしてしまいます。
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