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Japanese Medieval History and Literature

7513鈴木小太郎:2022/06/04(土) 13:06:07
『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その1)
前回投稿で白毫寺(白毫院、東山太子堂、速成就院)は「称名寺の京都出張所程度の存在」など書きましたが、福島金治氏によれば「京都東山太子堂・伊勢大日寺は称名寺の西大寺への伝達及び用途支出の窓口」(『金沢北条氏と称名寺』、p156)とのことなので、まんざら冗談でもなかったですね。
そして、こうした特別な役割を担っていた以上、金沢北条氏が白毫寺に対して相当な資金援助をしていたと考えるのが自然で、福島氏の「貞顕が檀越であった京都東山太子堂」(同、p109)という評価も適切なのだろうと思います。
ただ、そうはいっても、白毫寺の「長老」が京極為兼の一味として六波羅に逮捕・拘禁されたような場合、金沢顕時も責任を負わなければならないような関係にあったかというと、そこははっきりしないですね。
ま、私の疑問もちょっと考えすぎだったかもしれませんが、為兼流罪の翌四月一日に顕時が幕府要職を辞したことは気になります。
さて、林幹弥氏は「金沢貞顕と東山太子堂」において、

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太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/29518a7286cd072086e35b712e1ef4d9

と書かれていますが、当該記事を確認するために細川涼一氏訳注の『感身学正記2』(平凡社東洋文庫、2020)を見たところ、細川氏は些か奇妙な解説をされていました。
まず関連する部分の細川氏による読み下しを引用すると、弘安二年(1279)叡尊七十九歳のときの記事に、

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【九月】十八日、右馬権頭為衡入道観證来臨す。談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り申して曰く、「異国の用害を消さんがため、本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る。去んぬる文永十年(癸酉)の春、大般若二部を持ち、内外両宮に参詣し、おのおの一部奉納せしむるの間、十二年の春、また一部を菩提山に持参し、供養転読し、二宮の法楽に資す。その時、もし一切経を感得せば、奉納のため今一度参詣すべきの由、心中に発願し畢んぬ。然りといえども輙〔たやす〕く感得すべきにあらざるの間、空しく年□〔月〕を送るの処、近年殊に黙止し難きの子細重畳の間、素懐を果たさんと欲すといえども、渡宋本を欲するは蒙古の難によって摺写〔しっしゃ〕すること叶はず。書写致さんと欲するは、部帙〔ぶちつ〕巨多〔あまた〕にして筆功及び難し。もしくは秘計候や」と。方便を試むべしと答えて退出し了んぬ。廿一日、かの状到来するに偁〔い〕わく、「西園寺殿〔実兼〕に古書写の本一蔵有り。使者をもって拝見すべし」と云々。よって廿六日、浄住寺に著す。卅日、浄阿弥陀仏〔亀谷禅尼〕、所持の仏舎利を奉持して来たる。すなわち、開き拝見し奉る。その後、奉納し感得し奉り畢んぬ(十月十五日の相伝状、十六日に到来し了んぬ)。十月三日、西園寺において一切経を拝見し奉る。これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ。その後、白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け畢んぬ。六日、一切経これを迎え奉る。同日、衆僧和合して去んぬる月晦日に感得せし仏舎利を供養し奉る。七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず。
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とあります。(p89以下)
そして、この「右馬権頭為衡入道観證」について、細川氏は、

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為衡を諱とする人物は『尊卑分脈』に藤原氏に三名、源氏に一名、菅原氏に一名いるが、鎌倉時代に該当する人物がいない。叡尊が弘長二年(一二六二)に鎌倉に下向した際に叡尊に帰依した、金沢実時の後見観證と法名が一致するが、実時の後見観證は別の機会に述べたように、菅原(高辻)宗長に比定できるので(細川涼一訳注『関東往還記』、九〇頁)、それとは別人である。同一人物に比定する見解があるので(長谷川誠編著『金剛仏子叡尊感身学正記別冊』、二六〇頁。氏がさらに叡尊弟子の比丘尼、真教房観證と同一人物に比定するのも、もとより誤りである)、失礼なことながら一言しておく。叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている。『西大寺田園目録』(『西大寺叡尊伝記集成』、所収)には、
  十市郡東郷廿二三条一二三里内庄一所<号橘本庄、坪付在別>
    弘安元年<戊寅>十二月廿日右馬権頭入道「為衡」〔裏書〕親證寄入之、
とあって、前年の弘安元年十二月二十日に十市郡橘本荘内の土地一所を西大寺に寄入している(西大寺側に煩いが生じたので、施主の為衡に弘安五年<一二八二>に売り戻したが、弘安九年<一二八六>五月に再び直銭百八十貫文で西大寺僧の朝粥料として買い取っている)。『西大寺田園目録』では法名を親證としている。
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と書かれていますが(p96以下)、全然駄目ですね。
西園寺家が関係する記事の中で「衡」を含む名前の人が登場しているのだから、これは西園寺家の家司として著名な三善一族の人に決まっています。
龍粛氏は「西園寺家の興隆とその財力」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957)において、「西園寺家財力の建設者」である「三善長衡の業績」と「長衡の経理の鬼才」を説明した後、「西園寺・三善両家の結合」の一内容として、

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公経の五世の孫公衡は、弘安から正和にわたっての経歴を、その日記管見記に残しているが、その自筆の原本は西園寺家に伝襲され、昭和十三年に立命館で影印に付せられた。これによれば、弘安六年に幕府から派遣された使者美濃守長景等の入洛したことを、公衡が関東申次である父の実兼に報告するために為衡法師を使としたことが管見記の七月一日の条に見え、また実兼は為衡法師の家に赴いたこと(弘安十一年正月十七日)があり、康衡の任官の執り成しをしたことがあった(弘安十一年二月二十二日)。

http://web.archive.org/web/20100911054013/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-saionjikeno-koryu.htm

という具合いに「為衡」の名前を挙げています。
「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」人物が「為衡」なのに、細川氏が三善氏を連想しないというのは私には驚きであり、「失礼なことながら一言しておく」ことにします。




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