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Japanese Medieval History and Literature
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その6)
小川論文はサブタイトルが「土佐配流事件を中心に」となっていて、為兼の第一次流罪についての新知見はあくまでも副産物という扱いです。
ただ、「事書案」から窺われる幕府側の姿勢は、結局のところ第一次流罪(佐渡)と第二次流罪(土佐)は同一原因、即ち為兼の「政道巨害」によるものだ、ということなので、第二次流罪に関する記述も丁寧に見ておきたいと思います。
ということで、続きです。(p36)
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以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう。すなわち「事書案」は伏見法皇の意を体したものであり、為兼の配流をはじめとする一連の事件を受けて、その責任を詰問してきた鎌倉幕府に対して朝廷側の対応を説明し陳弁に努めたものである。その筆者は明らかではないが、院の近臣であり、このような文書の起草に当たることのあった平経親がその候補に挙げられよう。それから先に原本では端裏書かと推測した「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」という注記は、「事書案」を公武交渉の際の窓口となった鎌倉幕府の奉行人に附した年時を指す。当時奉行人で「信濃前司」といえば太田時連(道大)である。一方「刑部権少輔」には該当者がいないが、例の「文保の和談」で活躍した摂津親鑒が当時刑部権大輔であり、正和四年には奉行人として活動している。
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正和四年(1315)十二月二十八日に東使安東重綱が上洛し、六波羅の軍勢三百余りを率いて為兼を逮捕、翌五年(1316)正月十二日に土佐に向けて出発したとされるので、「事書案」が記された正和五年三月四日の時点ではまだまだ事態は収束せず、関係者は疑心暗鬼になっていたでしょうね。
なお、「平経親がその候補に挙げられよう」に付された注(12)を見ると、
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(12)森茂暁氏『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版 平成3・6)第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」は、経親の執筆した伏見院の「恒明親王立坊事書案 徳治二年」を紹介している。
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とあります。
徳治二年(1307)の事書案の端書には「不出之事書案 経親卿書之 徳治二年」とあり、書いたのは平経親で間違いないのですが、森氏は「平経親自身が立案・清書した可能性が全くないわけではないが、そう断定することはできない。むしろその背後に立役者がいるようにも思われる」とし、立案者=西園寺公衡説を唱えておられます。
三浦周行は立案者を京極為兼と考えていました。
http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm
さて、続きです。(p36以下)
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さて『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない。ただ「事書案」の興味深い内容に対して、錯簡のため十分に活用できなかったものの、これを生かして記事を構成しようとした努力はやはり注意されよう。これによって『続本朝通鑑』の史料解釈、あるいは歴史叙述の態度の一班を伺うことができるであろう。
それはともかく、為兼の土佐配流について考える時に、もはや『続本朝通鑑』の記事の替わりに、この「事書案」という一次史料を生かさない手は無かろう。また「事書案」は鎌倉後期の公武交渉史の空隙を埋めるものとしても、様々に活用される筈である。右の復元案に従って、次説では「事書案」の要旨をまとめてみたい。
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