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Japanese Medieval History and Literature

7497鈴木小太郎:2022/05/20(金) 11:26:28
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その4)
第二節には若干の続きがありますが、そこでは「廷臣の為兼がどうして武家によって処罰されたのであろうか」という問題提起がなされています。
続いて第三節に入ります。(p33以下)

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三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)

 林鵞峰編『続本朝通鑑』巻第一一六・正和五年三月の条に「東使入洛議事。上皇驚懼」という項文に繋けて、為兼の土佐配流について、他の資料には見えない記述がある。

  或記謂、東宮尊治春秋漸近三十、其侍臣等労待禅継、故謳歌多端、而時務有不愜
  武家之意者。旧臘東使入洛、抑損之。今年三月東使又来、與六波羅両職相議奏請
  曰、京極大納言入道<藤為兼。>往年貶謫、赦帰之後、猶不悔改、而為朝廷之巨害
  云々。上皇懼而不得已、勅責為兼収其領地。東使猶不慊之、告西園寺前相国実兼、
  実兼奏曰、宜任武家之請而流土佐国。然諸臣胥議謂、朝務不可隔親疎、若実有罪
  者、不可不罰、然亦讒愬之行、不可不察焉。東使又議改家平執柄復任冬平。上皇
  使侍臣解之曰、関白再任、先例惟多、冬平在当時、則有識之人、而熟政道、故還
  補之、左大臣道平雖可為一上、然暫猶豫云々。然東使猶嗷々、上皇使侍臣復解之
  謂、故最勝園寺入道<貞時。>推戴此皇統、而慇懃相約、則朝廷武家雖隔都鄙、何
  可齟齬哉、然今武家有所疑、則宜染宸筆告賜之、叡情不曲、万機無私者、任宗廟
  冥鑑云々。又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌
  倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。<按、此旧記残簡、出自二条殿、
  而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉。(下略)>

 この長文の記事は、最後に注されるように二条殿から出た旧記に基づいて書かれたものであり、その内容はかなり具体的である。
 すなわち、伏見院の政務には幕府の意に叶わぬところがあったため、前年冬に東使が入洛して勧告を行った。三月に東使は為兼は再び朝廷の巨害となっている、と申し入れた。伏見院は為兼の領地を没収したが、使者は満足せず実兼に諮った。このため為兼は配流された。廷臣たちは朝廷の沙汰に偏頗があってはならず、君は讒訴に気づかなくてはならないと囁いたが、東使は今度は関白に左大臣二条道平をさしおき前関白鷹司冬平を再任させたことを詰問した。院は冬平は有職の人で適任だと弁解したが、東使は納得しなかった。院は故北条貞時が持明院統を推戴してから君臣水魚の思をなしている、どうして異図を抱こうか、と弁解しなければならなかった。これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである。
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この『続本朝通鑑』の記事は、もちろん従来の研究者も気づいていたものの、「ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず」、「江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴」い、かつ、「肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明」であったので、「この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かった」のだそうです。

林鵞峰(1618-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0

ところが、小川氏はこの「二条殿の旧記」を発見された訳ですね。(p34以下)

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 しかし、この「二条殿の旧記」とは、東京大学史料編纂所に蔵される林家本『二条殿秘説 附卜部秘説』のことであり、そこに収載される「条々」と題する資料が『続本朝通鑑』の記事のソースとなっていることが判明する。
 『二条殿秘説』は、鵞峰が二条摂関家より採訪した文書・典籍を一冊にまとめた「二条殿秘説」と奉幣以下の次第を載せる「卜部秘説」よりなる。前者は以下の中世の記録の抜書で構成されている。その標題を順に示すと以下の通りである。

 (1)二条殿由来。
 (2)条々(正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>。
 (3)明徳二年三月十三日崇光院御幸長講殿宸記。
 (4)称名院ヨリ二条殿ヘ遣ス状。
 (5)三種神器伝来事。
 (6)中陪事。
 (7)二条殿甚秘御記<二條後普光院摂政良基記也>・当御流御即位御伝授之事。

 もとより写しであるから、その資料的価値は慎重に判断する必要がある。事実(7)は二条良基が永徳三年(一三八三)に即位勧請の由来につき記したものとされるものであるが、後世の偽作である。ただし(2)の場合は、敢えて偽書をなすような背景が見当たらず、また内容も当時のものとみてよく、文章も古態をとどめており、まずは信用できると思われる。以下、(2)を「正和五年三月四日伏見法皇事書案」ないし「事書案」と仮称したい。
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とのことで(p34)、これは本当に素晴らしい発見です。




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