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Japanese Medieval History and Literature

7475鈴木小太郎:2022/05/11(水) 01:48:15
「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その2)
京極為兼の第一次流罪に関する今谷説を批判するに際し、小川剛生氏は「二条殿秘説」という史料に注目されましたが、その中の「正和五年三月四日伏見法皇事書案」(小川氏による仮称)に第一次流罪に関係する記述があります。
井上宗雄氏『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)の簡潔な要約を引用させてもらうと、

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 この「事書案」については後章で再び取り上げるので、ここでは第一次失脚と関係ある記述のみ触れておく。
 正和五年十二月二十八日為兼第二次失脚ののち東使重綱法師が入洛。翌日西園寺実兼を通じて、

  (前略)入道大納言(為兼)、永仁罪科に依り流刑に処せられ了んぬ。今猶先非を悔い
  ず、政道の巨害を成すの由、方々その聞え有るの間、土佐の国に配流すべしと云々。

と申し入れた。後文には「彼の度、陰謀の企て有る由、一旦その沙汰に及ぶ」とあり、永仁の失脚は「政道の巨害」と「陰謀の企て」があったとされ、上記『花園院記』の記事と一致する。なお「陰謀の企て」とは、小川氏が本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』を引いて推定するように、武家への反逆計画が疑われたのである。すなわち為兼の失脚は、和歌をもって候する身で政事に介入し、陰謀の計画を疑われたのが原因であった。
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ということで(p89)、改めて『花園院記』正慶元年(元弘二、1332)三月二十四日条の記述の正確性が裏付けられた訳ですね。
即ち、「為兼の権中納言辞任は、和歌によって仕える立場なのに、政道に口入を行うようになり、傍輩の讒言があって幕府が現任の官を解任するように執進し、籠居せしめ、のち重ねて讒言があったが、それは陰謀にわたることであったので、幕府は佐渡に配流した、すなわち為兼の辞任は政道への口入による傍輩の讒、そのあと籠居、重ねて陰謀に関わる讒言によっての配流であった」(p86以下)ことは信頼できます。
ここで、「傍輩」という表現だけからすると権中納言であった為兼と同レベルの存在であったようにも見えますが、しかし、「傍輩」の条件としては幕府首脳を動かせるだけの政治力を持つことが必須です。
為兼自身も伏見天皇の使者として関東へ派遣された経験があり、また、祖母が宇都宮頼綱の娘という出自もあって宇都宮氏・長井氏等の有力御家人との間に相当強力なコネを有していますから、「傍輩」の関東への影響力は為兼を凌ぐものでなければなりません。
となると、当然に関東申次の西園寺家の名前が出てくる訳で、古くから西園寺実兼が「傍輩」候補となっていたのは十分な理由がある訳です。
しかし、井上氏が半世紀以上前に指摘されたように、実兼が帰洛後の為兼と余りに親しく交わっている点も否定しがたく、実兼ではどうにも不自然な感じが否めません。
そこで私は、為兼の流罪の前後を通じて、西園寺公衡と亀山院の関係も大きく変化していることを考慮し、同じ西園寺家であっても公衡の方に注目してみた訳です。
さて、実兼が京極派の重要歌人であるのに対し、公衡には歌壇での活動は殆どありません。
ただ、皆無ではなくて、伏見天皇践祚の翌正応二年(1289)三月に開催された和歌御会には参加しており、その時の歌が『玉葉集』に採用されているので、一応は勅撰歌人でもあります。
即ち、『玉葉集』の「巻第七 賀歌」に、

   正応二年三月、鳥羽殿に行幸ありて、花添色といふことを講ぜられし時
                        入道前左大臣
 桜花おのが匂もかひありて今日にしあへる春やうれしき

とあって(1060番)、権大納言・中宮大夫の公衡(二十六歳)は、朝廷の公式行事の場にふさわしい優美な和歌をそつなく詠む程度の教養は有していた訳ですね。
しかし、公衡の歌人としての活動はこれが最初で最後です。
いったい、何故に公衡は歌から遠ざかってしまったのか。
ひとつの可能性としては、西園寺家に仕える「家礼」に過ぎない京極為兼に指導者面をされるのが嫌だったから、という理由が考えられます。
人生で二度も流罪を経験した京極為兼は相当に強烈な性格であり、他方、公衡も浅原事件で亀山法皇を黒幕として糾弾し、後深草院にたしなめられるような強い性格の持ち主ですから、頑固者同士、衝突する可能性は相当にあった思われます。
そこで、次の投稿で、西園寺実兼・公衡父子と京極為兼の動向を年表風にまとめてみたいと思います。

なお、西園寺家については龍粛氏と網野善彦氏の次の論文が参考となります。

龍粛「西園寺家の興隆とその財力」(『鎌倉時代・下』、春秋社、1957)
http://web.archive.org/web/20100911054013/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/ryo-susumu-saionjikeno-koryu.htm
網野善彦「西園寺家とその所領」(『國史學』第146号、1992)
http://web.archive.org/web/20081226023047/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/amino-yoshihiko-saionjiketo-sonoshoryo.htm

西園寺実兼・公衡父子の個性の違いについては、橋本義彦氏の次の論考が参考になります。

橋本義彦「西園寺実兼・西園寺公衡」(『書の日本史 第三巻 鎌倉/南北朝期』、平凡社、1975)
http://web.archive.org/web/20150909222852/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/hashimoto-yoshihiko-sanekane-kinhira.htm

西園寺公衡については、皇太子時代の今上天皇が木村真美子氏と連名で次の論文を書かれています。

「<史料紹介>西園寺家所蔵『公衡公記』」(『学習院大学史料館紀要』第10号、1999)
http://web.archive.org/web/20150512043618/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/naruhitoshinno-saionji.htm

橋本義彦氏が「その記述の詳細なことは他に類例をみないほどのもので、かれの周到にして几帳面な性格がにじみ出ている」と評されている『公衡公記』の例はこちらです。

西園寺公衡「石清水御幸記」(史料纂集『公衡公記』第一、続群書類従完成会、1968)
http://web.archive.org/web/20151128051057/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-saionji-kinhira-iwashimizu.htm
西園寺公衡「亀山院御落飾記」(史料纂集『公衡公記』第二、続群書類従完成会、1969)
http://web.archive.org/web/20061006212816/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-saionji-kinhira-kameyamain.htm

また、森茂暁氏の次の論文には『公衡公記』から「後深草院崩御記」が引用されていますが、公衡の政治的立場を考える上で非常に興味深い史料です。

森茂暁「西園寺公衡」(『鎌倉時代の朝幕関係』、思文閣出版、1991)
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm




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