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Japanese Medieval History and Literature
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その11)
「事書案」については、伏見院が幕府に送った文書が何故に二条摂関家に伝わったのか、という問題もありますが、その理由は第三項から推定することができます。
この点、小川氏は前回投稿で引用した部分に続けて、次のように書かれています。(p38)
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さて幕府から伏見院の「非拠」の最たるものとして突き付けられていたのが、第三項の「執柄還補事」であった。
これは正和四年夏、関白近衛家平が辞意を洩らし、左大臣二条道平と前関白鷹司冬平が後任を競望したことに始まる。関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例であった。五月二十日には伏見院が「可被仰合関東云々」と関東申次に諮り、ついで六月十九日には院宣と冬平の款状二通、および道平の祖父・師忠・父兼基の款状が伝達されている(『公衡公記』)。
やがて幕府は「事書案」にある如く、「任道理可為聖断」というこのような場合の決まり文句を返答して来た。それは、八月十日に幕府評定が開かれ、二条摂関家に対して「御先途御理運之条、雖勿論候、勅書之趣、暫可令期便宜給之由、被戴候上者、可令相待 公家御計給歟」という回答がなされたことからも裏付けられる。こうして九月二十一日鷹司冬平の還補となった。翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任であるとの主張が通ったが、もともと冬平は伏見院の覚えめでたい人物であった(『井蛙抄』巻六)。
ところが、この関白交代が幕府の心証をひどく害した。「事書案」には「執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有其聞、被痛思食」とある。驚いた伏見院は、幕府が「可為聖断」というから冬平を還補させたのである、意が道平に在ったのならば最初からそう申せばよいではないか、と述べている。幕府が態度を硬化させた原因には二条摂関家が何らかの働きかけをしたことも推測されよう。そして関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる。為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した。そして冬平は結局在任一年にも満たず正和五年八月二十三日に退けられ、道平が関白となった。なお、二条摂関家にこの「事書案」が伝来したのは、以上のような経緯と関係があるのかもしれない。
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登場人物を整理すると、正和四年(1315)現在、関係者の年齢は、
二条師忠(1254-1341)六十二歳
二条兼基(1267-1334)四十九歳
鷹司冬平(1275-1327)四十一歳
近衛家平(1282-1324)三十四歳
二条道平(1287-1335)二十九歳
となっていて、二条道平は辞意を洩らした近衛家平よりも五歳若く、他方、鷹司冬平は近衛家平より七歳年長、二条道平よりは十二歳年長です。
「関白の任免も幕府の意向を確認するのが当時の慣例」であったので、伏見院はきちんと事前に幕府の意向を問い合わせ、「任道理可為聖断」という回答を得たので、「翌年に予定されていた新内裏への遷幸を控え、「有識之仁」が適任」と考えて経験豊富な鷹司冬平を還補した訳ですね。
伏見院としてはきちんと手続きを踏んだ上で適切な人事を行ったはずなのに、結果的に「この関白交代が幕府の心証をひどく害」することになってしまいます。
一体全体、これは如何なる事態なのか。
まあ、おそらく幕府側としては、「任道理可為聖断」という建前通りの回答はしたけれども、実際には幕府の意向が二条道平にあることは諸事情から当然に推知すべきであったのに、わざわざ鷹司冬平を選ぶなんて、伏見院は政治家としてあまりに無能なんじゃないの、莫迦なんじゃないの、という感じだったのではないかと思います。
なお、「為兼が以前から伏見院の行う任官に大きな影響力を有することは、当時の廷臣間では常識に属した」に付された注(20)を見ると、
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(20)『実躬卿記』永仁二年三月二十七日条・同年四月二日条・三年三月二十五日条に、伏見院在位の蔵人頭の任官に為兼が決定的な影響力を行使する様子が記される。このことは井上氏「一条法印定為について」(國學院雑誌101-1 平成12・1)に既に言及されている。
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とありますが、これは永仁二・三年(1294・95)の出来事ですから二十年前の話です。
井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』によれば、具体的には、
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その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3acbe0aa724a9c51020020d2f56c87e6
という話ですが、蔵人頭と関白では重要性が異なるので、正和四年(1315)の「関白の決定には為兼が容喙したとみなされたこともまた容易に想像できる」訳でもなさそうです。
いずれにせよ、これが「非拠」の最たるものとなると、「讒言」とかは実はどうでも良くて、要は幕府は伏見院を見限った、ということではないかと思います。
伏見院政はもう終わらせるしかない、だったらその理由が必要だ、理由が特になければ作り出せばよい、寵臣の為兼に幕府への叛意があったことにしよう、という話なのではないかと私は考えます。
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