したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

Japanese Medieval History and Literature

7492鈴木小太郎:2022/05/16(月) 15:38:47
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その5)
(その3)で引用した部分の続きです。(p126以下)

-------
百毫寺はどんな寺か

 次にもう一人の下手人、妙智房の在籍した白毫寺は鎌倉時代に創立された、当時としては比較的新しい寺院である。寛元二年(一二四四)僧良遍が白毫寺の草庵に於て『菩薩戒通別二受鈔奥書』を記したのが記録上の初見といわれ、その後有名な西大寺の叡尊がこの寺を再興し(『南都白毫寺一切経縁起』)、弘安二年(一二七九)には叡尊自身が当寺に於て教化を行ったことが、彼の自伝である『感身学生記』にみえている。従って鎌倉後期には一応の伽藍は備わっていたとみられる。やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。
 以上によって、為兼は南都の僧両人と"一味"として捕縛されたのであり、その嫌疑は南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)に関する紛議であることが推測される。ここに於て、傍輩の嫉視や政敵の排斥による失脚説はその根拠を失うことになる。何故なら、単なる為兼個人への中傷によるならば、東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性はないからである。さてその南都の紛議とは一体何か。為兼の籠居が永仁四年(一二九六)五月、六波羅への拘引が同六年(一二九八)正月、佐渡配流が同年三月である。この間に、南都でどのような紛争・事件が起こっていたのであろうか。
-------

今谷氏は白毫寺が「一乗院系列の寺院であった」とされますが、ただ、その根拠となる史料は「白毫寺妙智坊」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後のものです。
叡尊再興後の白毫寺は真言律宗の拠点寺院であり、当時、真言律宗は鎌倉幕府との良好な関係を背景に全盛を誇っていましたから、幕府と敵対していた興福寺の「一乗院系列の寺院であった」かは相当に疑問です。
また、今谷氏は「南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)」とされますが、「南都」は興福寺の異称であるとともに「大和一国」(奈良)の異称でもあります。
東大寺・白毫寺は後者の「南都」には含まれますが、前者の「南都」とは独立性を持った存在ですね。
そして安田次郎氏が解明された「永仁の南都闘乱」は興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争ですから、ここでの「南都」は前者、即ち興福寺(春日社を含む)の意味です。
従って、仮に「八幡宮執行聖親法印」が東大寺の僧侶であったとしても、聖親法印と白毫寺妙智坊の組み合わせは「永仁の南都闘乱」とは直接結びつく訳でもないですね。
ま、それはともかく、続きです。(p127以下)

-------
籠居の理由は南都の沙汰

 ところで前述のように為兼の籠居は永仁四年五月だが、その前月の『略年代記』永仁四年四月条(為兼籠居の直前)をみると、

 四月日、宗綱・行貞〔二階堂〕両人、関東より入洛す。南都の沙汰たりと云々。

とあって、幕府から二名の使者が入洛したことが知られる。四月のいつ上洛したか、『略年代記』では判らないが、春日若宮神主の中臣祐春の日記が内閣文庫に架蔵されており、その五月三日条に次のようにある。

 去月廿六日并びに廿八日、関東より使者入洛すと云々。五箇条の事、沙汰致すべしと云々。
 その内、南都の事、その沙汰を致さしむべしと云々。 (『春日若宮神主祐春記』)

すなわち、幕府の両使は、四月二十六日と二十八日に相次いで上洛したのである。為兼の籠居はそのわずか十数日後のことである。このように、南都の紛議による幕府使節の上洛と、為兼の処分は一連の出来事として理解するのが自然である。つまり、「南都の沙汰」によって幕府使が上洛した十数日後に為兼の辞官閉居となり、その約一年半後、為兼は南都の僧侶二名と共に捕縛されたというのが、判明した事実である。すなわち、為兼の籠居も、六波羅拘引も、佐渡配流も、原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるものであることが知られる。両統迭立で為兼が暗躍したとか、伏見天皇の討幕陰謀とか、傍輩の嫉視による讒口とか、すべて後世の牽強付会か、学者の誤解にもとづくものであったことがわかる。そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい。
-------

小川剛生氏により「八幡宮執行聖親法印」は石清水の僧侶であって、奈良という意味での「南都」の人ではないことが確定した訳ですが、東使二人と為兼の籠居が時期的に近いことも「南都」と結びつけるのは些か強引ですね。
『興福寺略年代記』だけを見れば東使の目的は「南都の沙汰」となりますが、『春日若宮神主祐春記』では「南都の事」は「五箇条の事」の一つに過ぎません。
聖親法印の帰属以外にも今谷説には弱点が多く、「原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるもの」はいかにも無理の多い推論でした。
ただ、永仁六年(1298)正月、為兼が聖親法印・妙智房とともに六波羅に逮捕された理由は謎のまま残ります。
「東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」ならぬ「石清水八幡宮寺や真言律宗関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」は何だったのか。




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板