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Japanese Medieval History and Literature
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林幹弥氏「金沢貞顕と東山太子堂」(その1)
林幹弥氏の『太子信仰の研究』(吉川弘文館、1980)は入手できていませんが、林氏には「金沢貞顕と東山太子堂」(『金沢文庫研究』156号、1969)という論文があり、『太子信仰の研究』所収の「律宗と太子堂」と内容が重なるのではないかと思います。
そこで、「金沢貞顕と東山太子堂」を少し引用します。
この論文は、
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一、東山太子堂
二、太子堂と叡尊・忍性
三、金沢貞顕と太子堂
四、葬所と太子堂
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と構成されていますが、まずは第一節を見て行きます。(p1以下)
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一、東山太子堂
京都には古くから多くの太子堂が見られた。それらの太子堂のうちで、「東山ノ太子堂」(『大乗院寺社雑事記』長禄元年十二月四日の条)と呼ばれたものがある。この太子堂は現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─がその後身である。「京都で太子堂といえば広隆寺と白毫寺をいう」(白毫寺前住職金田元成氏談)とさえいわれるほどである。
この白毫寺に「応永頃ノ古図写」なるものが所蔵されている。この古図のなかに白毫寺の旧地が描かれている。西と南を祇園林にかこまれ、北と北東に白川およびその支流(現在の白川)が見える地域がそれである。この地域に、東山の斜面とこれに平行した道路の西側に、それぞれおよそ正方形の敷地をもつ寺院が描かれている。その東側の部分すなわち東山の斜面に敷地が描かれている部分には、「白毫寺、一名速成就院、又一名大谷堂、上東門院御墓所」と記されている。これと道路をへだてた西側の方形の部分には、その東南隅に東西に長い長方形の「親鸞上人影堂、本願寺」と記された一劃が含まれている。この西側の部分には、「太子水、太子杉、太子堂、白毫寺境内」と記されている。この道路をへだてて東西にわかれている二つの寺とも見えるものが、じつは一ヶ寺で、白毫寺と称し、また速成就院ともいい、大谷堂とも呼ばれ、太子堂とも俗称された寺である。これが天文年間あるいはそれをさかのぼることそう遠くないころの東山太子堂のすがたである。『蔭涼軒日録』に「太子堂曰速成就院」(寛正五年十月十日の条)・「東山速成就院」(長禄三年五月六日の条)などと記されているものがこれである。
【中略】
この太子堂の位置は『山城名勝志』五に、「太子堂 <号速成就院、元在知恩院中門ノ西北、浩玄院ノ後、今此地在古井、号太子水>」とあって、知恩院中門の西北浩玄院の後にあったもの、といふことになる。この浩玄院(のちに光玄院)は華頂女学校(いまの華頂学園)の一部にあたる(『知恩院史』五一二〜五一五頁)。現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある。古図に示された「太子水」の名残りであろう。当初の太子堂は、この華頂学園から北へ元本願寺の西側をさらに北に花園天皇御陵の西側あたりまでがその敷地であったものと思われる。
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「現在はその寺地も移って富小路五条下ルの地にある白毫寺─俗称太子堂─」の公式サイトはリンク先です。
太子堂白毫寺
https://www.taishidoubyakugouji.jp/
なお、「現在でも華頂学園の校庭に「太子水」と称する古井戸がある」に付された注(6)には、「この「太子水」の確認をお願いした滋賀大学坂本覚三助教授に深謝します」とありますが、「覚三」は「賞三」の誤植でしょうね。
広島大学名誉教授の坂本賞三氏は、若い頃に滋賀大学におられたのですね。
坂本賞三(1926-2021)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E8%B3%9E%E4%B8%89
それはともかく、第二節に入ります。(p2以下)
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二、太子堂と叡尊・忍性
太子堂の開山については、『山城名勝志』五に「開山忍性律師」と記している。しかし、『忍性菩薩略行記』など彼の伝記類には、太子堂あるいは白毫寺または速成就院に関する記事は見当らない。太子堂に関するもっとも古い記載は、その開山とされている忍性の師叡尊の『感身学正記』に見えている。それによると、叡尊は弘安二年十月三日に白毫寺で一一九人に菩薩戒を授けた。また彼は弘安七年二月二十五日に速成就院に着き、翌々日ここの金銅塔供養を行なっている。この二つの記事からすると、太子堂は葉室定然の浄住寺とともに、叡尊の京都に於ける活動の拠点となっていたものと考えることができよう。
じじつ、この太子堂(速成就院)は、叡尊の死後も「一門諸寺」の一つに挙げられている。嘉暦三年の『興福寺某寺主記(毎日抄)』には叡尊が興した寺を挙げ、そのうち山城では速成就院は浄住寺を措いてその第一位に挙げられている(永島福太郎「中世律僧の活動」、『日本歴史』二四八所収)。これからすれば、『山城名勝志』の太子堂開山を忍性とする説よりも、むしろ、この『興福寺某寺主記』によって、太子堂の開山を叡尊と考えるほうが妥当であるかにみえる。しかし、この記のなかには、極楽寺の如くに明らかに忍性を開山とする寺や、直接叡尊と関係をもたないと思われる寺(称名寺など)まで含まれている。それ故に、名勝志よりその成立が古いからといって、この記によって、太子堂の開山を叡尊と決定することはできまい。
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いったん、ここで切ります。
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