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Japanese Medieval History and Literature

7508鈴木小太郎:2022/05/29(日) 18:38:08
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その14)
今谷説と、その核心的な部分に対する小川氏の批判は既に紹介済みです。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)〜(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/52057127f53e26a9eb1704085e098c55
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ed4b667f07c50b08a053c15fdc1b58d

(その4)で紹介済みの、

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 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

に続けて、小川氏は、

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 後深草院や伏見院は石清水八幡宮にしばしば御幸しており、聖親は自然両院と接する機会が多かった。とすれば聖親はその治世に為兼とともに容喙するところがあって(あるいはみなされて)捕縛されたとするのが、現時点では最も適当かと思われる。少なくとも聖親がもし南都抗争の中心人物であるならば、為兼よりずっと早く赦免される筈がない。佐渡配流事件は為兼一人が標的であったと断じてよいのである。
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と書かれていますが(p41)、この部分、私は小川氏に全面的には賛成できません。
というのは、今谷著に、

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為兼に連座した僧二人

 籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。

 正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3b85486c1244833471cf4e06e87fb13a

とあるように、「為兼に連座した僧二人」のうち、小川氏は聖親については解明されましたが、「白毫寺妙智房」については言及すらされていません。
今谷氏が言われるように、「白毫寺妙智房」が大和(奈良)の人であれば、為兼流罪と「南都擾乱」の関連の可能性が、ごく僅かであれ残されることになります。
今谷氏は永仁頃に「妙智房」が「白毫寺」に属していた根拠を示さないばかりか、

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やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9ec8b159a880202a90dc21956a0bfe3e

などと言われますが、「白毫寺妙智房」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後の記録は「やや後年の史料」とは言い難いところがあります。
ところで、私自身も(その5)では、

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小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0e625ff5d39064baada290724b84eebe

などと書いてしまったのですが、再考の結果、私は「白毫寺」は京都の東山太子堂白毫寺(速成就院・大谷堂)の可能性が高いのではないかと考えます。
即ち、『三宝院伝法血脈』の「第廿六代祖実勝法印」の「附法弟子」の一人に、

 静基上人<重受。東山白豪院長老妙智房。>

とあって(『続群書類従 第二十八輯下 釈家部』、p356)、「東山白豪院」ではあるものの「妙智房」という僧侶は実在します。
そして、実勝(1241-91)は、

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仁治(にんじ)2年生まれ。西園寺公経(きんつね)の子。真言宗。醍醐(だいご)寺にはいり,覚洞院の親快から灌頂(かんじょう)をうける。弘安(こうあん)10年(1287)醍醐寺座主(ざす)となる。正応(しょうおう)4年3月13日死去。51歳。通称は西南院法印,太政大臣法印。著作に「求聞持法」「灌頂私記」など。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%8B%9D-1080211

という人物ですから、その「附法弟子」の「妙智房」は永仁六年(1298)に登場してもおかしくありません。
「東山白豪院」は「東山白毫寺」の別表記ないし誤記でしょうね。
ということで、小川説に私見を加味すると、「為兼に連座した僧二人」はいずれも南都ではなく京の僧侶ということで、結論的には今谷説は「南都騒擾」との関係では全然駄目、ということになります。




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