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Japanese Medieval History and Literature

7494鈴木小太郎:2022/05/18(水) 11:25:46
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その1)
それでは小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)を検討して行きます。
予め私が気になっている点を述べておくと、小川氏は公家政権の内実を極めて詳細に、持明院統に対しては批判的に描く反面、幕府側についてはずいぶん甘い、というか単調で平面的な見方をされているように思われます。
即ち、小川論文は政権担当能力に乏しい持明院統を幕府が随時指導し、時に鉄槌を下す、というような描き方で一貫しているように見えるのですが、幕府側も一枚岩ではないのはもちろんで、公家政権に対する基本的姿勢を異にする派閥があるように思われます。
そして、その派閥の力関係に時期的な変動があるので、公家政権への対応も特に一貫している訳ではなく、時期を区分して、幕府と公家政権の相互関係を細かく追って行く必要があるのではないか、というのが私見です。
また、小川氏はこの論文に先行して「六条有房について」(『国語と国文学』872号、1996)という論文を書かれていますが、両者を合わせ読むと、六条有房の役割について、小川氏がずいぶんあっさりした書き方をしている点が気になります。
後宇多院の寵臣・六条有房(1251-1319)は久我通光の孫で、後深草院二条の七歳上の従兄なのですが、『増鏡』には宗尊親王の娘・掄子女王と有房の情事が膨大な分量で描かれていて、何故にそのような歴史的重要性に乏しい記事が詳細に描かれるのか、非常に奇妙な印象を受けます。
そのため、私は以前から六条有房に興味を持っていたのですが、二つの論文を合わせ読むと、有房こそが為兼の二度の流罪を背後で操っていたキーパーソンではないか、という感じがします。
私には小川氏が既に有房の政治的重要性を解明されているように見えるのですが、小川氏は何故かあまり踏み込んで書かれていないので、この点を私の立場から補足してみたいと思います。

『増鏡』第十一「さしぐし」「掄子女王と源有房」
http://web.archive.org/web/20150516000203/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-arifusa.htm

さて、この論文の構成は、

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一 はじめに
二 『花園院宸記』における為兼像
三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)
四 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(2)
五 佐渡配流事件の再検討
六 鎌倉後期の公家徳政における「口入」の排除
七 おわりに
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となっていますが、冒頭から丁寧に見て行くことにします。(p30)

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一 はじめに

 鎌倉幕府の使者安東重綱父子が京極為兼を捕え、毘沙門堂の邸から六波羅探題に連行したのは、正和四年(一三一五)十二月二十八日申刻のことであった。西園寺家に近いある公家は「今夕戌剋大納言入道為兼自関東被召取、用車、頭中将忠兼朝臣同車、不審、於一条室町見物、如夢、見物後参今出川殿」と記している。また『徒然草』一五三段によれば、この一条大路で為兼と養子忠兼の乗った車を見物する群衆の中には日野資朝がいて、「あなうらやまし、世にあらむ思ひ出、かくこそあらまほしけれ」との、例の不敵な感想をつぶやいたことになる。翌年正月十二日土佐国に配流、為兼の政治生命はここに断たれた。
 影響は為兼周辺にとどまらず、主君の伏見法皇にも波及し、ひいては花園天皇退位の伏線となるなど、鎌倉後期の公家政権を揺るがす大事件となった。なぜ為兼が失脚しなければならなかったのかについて、これまでにも考察が重ねられている。ただ、これに加えて、廷臣としての為兼、二度の配流については、近年急速に進展した中世の公家政権や公武関係に関する研究成果を参照しつつ、持明院統の治世における為兼の位置を明らかにしておく必要があると思われる。本稿ではそうした問題意識に立って新たな史料を紹介し、為兼の生涯を再考することにしたい。
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『徒然草』第一五三段は、

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 為兼大納言入道召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て行きければ、資朝卿、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出で、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

http://web.archive.org/web/20150502075500/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-153-tamekane.htm

という短いものですが、第一五二段と第一五四段も日野資朝のエピソードで、『徒然草』が描く人物の中でも特に強烈な印象を残す人ですね。
なお、『徒然草』には為兼の養子・忠兼は登場していませんが、為兼とともに六波羅に逮捕された忠兼(正親町公蔭)は後に足利尊氏の正室・赤橋登子の姉妹・種子と結婚します。
従って、尊氏は為兼周辺の人間関係や為兼配流の事情についても熟知していたはずですね。

赤橋種子と正親町公蔭(その1)〜(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/756ec6003953e04915b7d6c2daa6df1a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/546ccaccce6039b2783c37af31ff74c5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/17cd878a675a47c28624985d51301d63
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/588e84f3ea3f9104df0529410ddf29c0
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4518f31a8cefeab913a45cf8cd28d541
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/39d230584728bf45b6a86b87eed73878




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