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Japanese Medieval History and Literature

7491鈴木小太郎:2022/05/15(日) 10:43:27
今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)
今谷説の出発点であり核心部分でもある「聖親法印=東大寺八幡宮執行」説は、今谷著の刊行直後、小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)によってあっさり否定されてしまいました。
この論文で小川氏は、

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 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。
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と指摘され(p40以下)、「この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる」に付された注(24)には、

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(24) たとえば「執行法印聖親」が石清水八幡宮の怪異を朝廷に注進し(『兼仲卿記』弘安十年六月四日条)、「御山執行正真法印」が後深草上皇の御幸を迎え(『公衡公記』正応元年二月一日条)、事件後の永仁六年五月四日には出雲国安田荘を田中権別当御房に譲った(『石清水文書』一、執行法印聖親譲状。なお大日本古文書・鎌倉遺文では「聖観」と誤る)。
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とあります。
念のため『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安十年六月四日条を見ると、「於蔵人所被行御占」云々の後に「執行法印聖親」が提出した文書が載せられていて、

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八幡宮
 注進、
二日、<天晴、丑時、>自当御宝殿之上、指艮天[ ]一流在之、
頭者如師子頭、其色赤色也、尾者五色而長一丈許
也、其後宝殿三所内中御前鳴動如雷、而響稍久、通
夜之輩失肝仰天、中御前御鳴動者、依為挑御灯明
之最中、承仕慶願聞之、同時自護国寺礼堂之東階経
礼堂、人数廿人許奔西手水船之許、其足音甚高、即
護国寺西妻戸鳴響之間、仮夏衆五師善証、勾当長
順、僧良儀三人依聞之、即雖相見其形、更無之云々、
右注進如件、
 弘安十年六月二日 執行法印聖親
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とあります。(『増補史料大成第三十五巻(勘仲記二)』、p192)
まあ、学者間の論争でここまでコテンパンにやられることも珍しいと思いますが、この殆ど清々しいほどの敗北の後、今谷氏は全く反論することができないまま、二十年近い歳月が流れました。
結局、2003年9月、「ミネルヴァ日本評伝選」第一号の栄誉とともに和歌の海に就役した「アドミラル・イマタニ」は、最新鋭の歴史学の成果で武装したと称して国文学界の「お歴々」を挑発したものの、出港直後に国文学界の若きエースパイロット、小川剛生氏から「京極為兼と公家政権」という対艦ミサイルをくらって大破・炎上してしまった訳ですね。
さて、以上のような経緯で、今谷著は研究者によるきちんとした書評も出ないまま、和歌の海の藻屑として消え去ってしまった訳ですが、今回、初めて今谷著をきちんと読み、小川論文と細かく比較してみた結果、小川氏も今谷著を完全論破した訳でもないなあ、というのが私の印象です。
何より『興福寺略年代記』の「正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前」という記述に基づく今谷氏の「為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならない」という視点は今でも有効のように感じられます。
小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。
また、小川氏の「責任」に関する発想があまりに近代的なのではなかろうか、という疑問もあります。
小川氏は今谷氏の見解を要約した上で「為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱」であり、「為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない」と言われており(p40)、それはまことにもっともで理路整然とした、現代人には極めて分かりやすい主張ではあるのですが、しかし、中世の武家社会では現代人には不可解な「責任」を追及する例がけっこうあります。
例えば、文永九年(1272)の二月騒動では、名越時章を襲った御内人五人は、単に上の指示に忠実に従って行動していただけなのに斬首されてしまっています。
また、嘉元三年(1305)の嘉元の乱でも、北条時村を襲撃した十二人は独自の判断の余地など全くない状況で命令に従って行動しただけなのに斬首されてしまいます。

二月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
嘉元の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

こうした事例を見ると、「責任」という観念が中世の武家社会の人と現代人ではずれることがけっこうあるようです。
とすると、為兼も、現代人の感覚では南都騒動の「責任」を問われることはあり得ないのに、鎌倉後期の武家社会の感覚では「責任」があるとされた可能性も考慮すべきではないかと思われます。
この点、今谷説を更に丁寧に紹介した上で、改めて検討します。




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