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ソメルゼさんの教学部屋
63
:
首都高バトル01
:2012/01/05(木) 05:16:00 ID:zLvwUaR.0
仏道修行、つまり実践の中で会得していくしかないように思います。
絶待とは、どういうものなのか(実践で)。
これをつかむことが、一念三千を識ることになると思います。
人生の荒波を乗り越えて行く所に、その強い心に、
一念三千は、あると思います。
絶対的幸福をつかみましょう。手にいれましょう。
頑張りましょう。
64
:
エバ
:2012/01/05(木) 16:20:47 ID:NrBJCICI0
絶対的幸福ってなんですか?
65
:
首都高バトル01
:2012/01/06(金) 13:36:43 ID:zLvwUaR.0
それは、仏界(仏の境涯)。
>>57
参照。
検索、、、絶対的幸福wikipedia
>天界にも十界があるし人界にも十界があるのです。
これは、十界互具を言われています。
十界互具
http://www.sokanet.jp/kaiin/kisokyogaku/hori/05.html
絶対について、
[ 一切の比較相対を絶して妙なることを言います。
天台大師が妙法蓮華経の経題を解釈するなかで、
妙の一字について立てたもので法蓮玄義巻二上に説かれています。
法華経の法理から一切の教法を判釈するならば、大小(大乗、小乗)、
権実(方便、真実)の区別がなくなり、ことごとくが大乗であり、
真実の教えであると明かすことを言います。
麤(粗い、不完全、劣った)に対して妙というのではなく、
麤妙の相対を絶したところ、
相対的な思考や表現を超えたところを絶待妙と言います。
法華玄義巻二上には
「 法界の外を出でて、復法あって相形(あいなぞら)え比すべきもの無し。
誰を待して麤と為し、誰を形(なぞら)えて妙なることを得ん。
待すべき所無し。亦所絶無し。知らず、何に名づけて、
強いて言って絶と為さん、、、妙は不可思議に名づく。
麤に因ってしかも名づけて妙と為さず 」とあります。
また、玄義巻二下に「権を開し実を顕さば、諸麤皆妙なり。絶待妙なり。
若し上の如くんば法華は衆経を総括してしかも事は此に極まる。
仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり 」 ]
南無妙法蓮華経については、
創価教学研究室(赤鬼のブログ)の十八円満抄
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1565036.html
結構難しいのですが、私も勉強させてもらってます。
これでよろしいでしょうか?
あ〜忙し、忙し。 それでは また。
66
:
エバ
:2012/01/06(金) 15:48:23 ID:NrBJCICI0
>>66
仏法にハピネス思想ってありましたっけ?
67
:
首都高バトル01
:2012/01/06(金) 17:45:21 ID:zLvwUaR.0
ごめんなさいね。 I don't know. です。
68
:
首都高バトル01
:2012/01/08(日) 14:56:31 ID:zLvwUaR.0
なるほど、なるほど。
>>
http://www.sokanet.jp/shinkaiin/keyword.html
69
:
首都高バトル01
:2012/01/09(月) 15:56:53 ID:zLvwUaR.0
基礎。
・三種の法華経
「 釈尊(釈迦)の法華経 」「 天台大師の法華経 」「 日蓮大聖人の法華経 」
・三時の弘経
釈尊の滅後を三時に分け、その時代に応じた法が弘められたことを
「 三時の弘経 」と言います。
まず三時とは、釈尊の教えがどのように受け継がれ実践されるかによって
分けたもので、正法・像法・末法を言います。
、、、続く。
70
:
首都高バトル01
:2012/01/09(月) 16:08:02 ID:zLvwUaR.0
速い話、
末法(日蓮大聖人の時代〜現代〜未来永劫)には、日蓮大聖人の法華経
(南無妙法蓮華経)以外の教えを修行しても功徳がないどころか、
かえって不幸になることを知らなければなりません。
71
:
首都高バトル01
:2012/01/09(月) 16:24:54 ID:zLvwUaR.0
選時抄講義(以下、一部と勉強できる所のアドレス、第1章のはじめから観た方がいいよ。)や上行菩薩結要付嘱抄に、なぜなのか詳しく書かれています。
正法時代一千年を過ぎた後には、インドに仏法が充満していたけれども、あるいは小乗をって大乗を破り、あるいは権経をもって実経を隠没し、仏法がさまざまに乱れたので、得道する者は漸く少なくなり、仏法によって悪道に堕ちる者が数知れず多くなった。正法一千年すぎて、像法時代に入って一十五年目に、仏法が東に流伝して漢土へわたってきた。像法の前五百年の内、初めの百年の間は、中国の道士とインドの仏法との諍論が激しく戦われていて、いまだいずれが真実か決定しかねており、たとえ仏法が真実であると決定しても、これを信ずる人の心がいまだ深くなかった。こういう状態であったから、仏法の中にも大乗小乗の別、権経実経の別、顕教密教の区別があるなどと立て分けるならば、同じ仏教の中にも相違があるので疑いを起してかえって仏教を捨てて外道につく者が出てくる。このような恐れがあったから、最初に仏教を流伝した摩騰・竺蘭は自分では知っていたけれども、大小とか権実の立て分けは何もいわないでいた。 その後.魏・晋・斉・宋・梁の五代の間、仏法の中で大小・権実.顕密をがたがいに争ったところ、おのおのの流派を生ずるばかりで、いずれが正当だと決定することができないので、上一人より下万民にいたるまで仏法に対して不審の念が多くなった。この間に南三・北七といって仏法が十派に分裂していた。すなわち南には三時・四時・五時とそれぞれの教判を立てる三派が生まれ、北には五時.半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等それぞれの判教のもとに流義をたて、たがいに辺執して、その主張も水火のごとく相容れないものであった。しかれどもこれらの十派の主張する大綱は同じであった。すなわち一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立て法華経は阿含や般若や浄名や思益等の経々に相対すれば真実であり了義経であり、正見であるけれども、涅槃経に対すれば
、、、続きは、以下のアドレス先へお願いします。
>>
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1425842.html
72
:
首都高バトル01
:2012/01/09(月) 17:42:16 ID:zLvwUaR.0
そう言えば、口が腐る?頭がわれる?
そういうの、あったような〜?
73
:
9071
:2012/01/09(月) 20:42:58 ID:S6oIYY/Y0
う〜ん
なるほどなるほど
74
:
首都高バトル01
:2012/03/25(日) 17:21:28 ID:zLvwUaR.0
独り言コーナー3 の、704からの続き。
名字は、全体法に通じる。
観行は、部分法に通じる。
名字は、一念へ。
観行は、智慧へ。
名字観行は、1セット。
しかし(本迹)一致とみるなとは、本因妙抄(不思議一)。
1セットですが、別物。 どんだけ〜 失礼。
名字は、凡夫(名字凡夫と言うが観行凡夫とは言わない)。 どんだけ〜
これまた失礼。
観行は、釈迦多宝仏。
名字は、宝塔と言っちゃうと脱線していくので言わない。
複雑なのよね。
全ては、現れる瞬間、湧現の瞬間、その一瞬にあり。
御本尊の字体が末広がり。
勿体無い事ですみませんが。
例えば、スターウォーズのファルコン号や宇宙戦艦がワープする瞬間、
星々が線上に見えたり。
2001年宇宙の旅の最後、石板が発する光の中に入って行くような感覚の映像、
その光の線のように。
現れた瞬間、出現の瞬間、湧現の瞬間、
つまり開悟の瞬間を末広がりで表現されていると言うより、
そう見える。万象の実体、実相、諸法実相の真実。
諸法実相の真実が現れる瞬間ゆえに本そのもの。
続く。
次から一挙に行きます。
75
:
首都高バトル01
:2012/03/25(日) 18:34:51 ID:zLvwUaR.0
百六箇抄の最終結論...下種境智倶実の本迹。
種・脱の本迹は、複雑。
凡夫こそ本仏とは、目覚めた凡夫こそ本仏(また目覚め瞬間が最終にして最初の中の最初の本)。
御本尊と人(凡夫、つまり題目を唱える目覚めた凡夫)
名字即の境(御本尊)と智(人の仏界の一念)は、倶(とも)に本(本行の南無妙法蓮華経と信じ唱える一念)(九界即仏界)(名字即の自受用身は、本の迹は、迹にあらず)。→ 本因妙抄より、「此れは久遠元初[御本尊]の自受用報身無作本有の妙法を直に唱う[下種名字の凡夫]」
観行即の境(現実問題と隠れた答え)(多宝如来→部分法及びその集合体)と
智(隠れた答えをあらわにする智慧)(釈迦如来)は、
倶に迹(仏界即九界)。
観行即の自受用身は、迹(観行即による)の本(部分法)は、
本(全体法)にあらず。→本因妙抄より、「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観」
多宝如来を境として釈迦如来(脱益観行の仏)は、部分法の現実問題の答えを悟る智慧)
仏界の一念が観行、演繹で真実を追究する。
また迹の本(多宝如来)は、本(南無妙法蓮華経の御本尊)にあらず。南無妙法蓮華経による一念が、現実問題、その答え、実相、多宝を明らかにする。
智慧となって現れる。
続く。
76
:
首都高バトル01
:2012/03/27(火) 18:12:21 ID:zLvwUaR.0
「九界を権と為し、仏界を実と為す。
また能とは如来なり所とは衆生なり」、、、総勘文抄より。
三道が三徳に転じる、、、当体義抄。
部分観は、爾前権教。全体観は、法華経。
爾前権教は、受動(随他意)、法華経は、能動(随自意)。
爾前権教は、縁起により他から影響を受ける。
法華経は、絶待、(二妙はちょと置いといて)縁起により他に影響を与える。
法華経は、なにものにも影響されず、他に良い影響を与えていく。
一念三千は、たとえ広がりの途中に障魔や難があっても打ち破り、
本願を達成するもの。
九界を御書では、いろいろな表現をされている。
無明であったり、衆生であったり、夢。
三道が三徳に転じるように、
妙法の働きにより、無明が法性に、その九界は、
具体的な智慧(部分法)と転じる。法則がある。
例えば、自分のマイナス面が、信心によってプラスに輝くように。
心と衆生と仏に差別なし。(倶しているものは同じ、法、妙によっても)
顕現する時点から一念及び境界により、差が別れる。
続く。
77
:
首都高バトル01
:2012/03/31(土) 14:02:02 ID:zLvwUaR.0
真の一念とは、九界即仏界(名字即)、仏界即九界(観行即)の
十界互倶。
生死即涅槃(感覚→身).煩悩即菩提(認識→心)、、、
まことの時の勝利、生死一大事の勝利、絶体絶命の勝利。
一念三千は、十界互倶より起こる。
無始の古仏を納める、久遠の元初(そのかみ)の目覚めた凡夫の一念と智慧。
78
:
首都高バトル01
:2012/03/31(土) 16:26:29 ID:zLvwUaR.0
理即や、理即の凡夫の意味は、別途調べてください。
首都高バトル01は、つぎのように展開します。
続く。
79
:
首都高バトル01
:2012/03/31(土) 16:28:02 ID:zLvwUaR.0
仏法は、道理。
つまり法則性があるということ。 それが正しさの基準。
江戸川コナンもいれば、毛利小五郎もいる。
世の中を正しく見る人もいれば、正しく見れない人もいる。
理即の凡夫、、、理即(十界互具)は、動物も含め人間にそなわり、
有情界のものは、それを引き出す力を持っている。
理即(十界互具=認識[「迹」→南無妙法蓮華経と御本尊を除くにおいて]即
解決できる、解決できないを含む対処[「本」→仏界を除くにおいて]=
十如是[依報の]を持って十界[この場合、九界]を顕現する[依報は、御本尊を含まない]即十界[十界に所具する能具の十界→仏界は南無妙法蓮華経と御本尊以外に引き出す、湧現するのは無理→歴劫修行は意味がない。→
つまりこの場合九界を持ってになる。]を持って十如是を顕現する[本]。)
の凡夫。 仏界は、御本尊に題目を唱える人間しか現れないと言うこと。→
歴劫修行は意味がない。
認識と受け止める感覚→身で受ける感覚(自受用身)の迹は、
全ての根本(南無妙法蓮華経と御本尊=諸法実相の名字と
諸法実相の現れた瞬間)による迹(自受用身)において、
名字即によって御本尊を認識、受け止める感覚(自受用報身)は、
本の迹は迹にあらず(また根本[依報に存在する御本尊]の迹は迹にあらず。)
仏性が、境界として現れるので、これを根本の本とするところに対処の本が、
迹に逆転する。→倶体倶用の、さにあらずです。
根本を認識するところを主軸におくのは報中論三の考え方。
ややこしくて複雑ぅ〜。 どんだけ〜 ! やね。
御本尊に題目を唱えるのは、全てに対処する、全てに対処できる十界の中の
仏界を引き出す作業をしている。
九界の認識は、迹。仏界の認識は本(広宣流布に戦う信心の実践の中に、
また数々の具体的な物事が解決していくところに仏界が現れていると思います。)
名字即の根本の諸法実相と認識は本。観行即の九界の諸法実相と認識は迹。
九界の認識は迹。迹の本は本にあらず。
本(仏界)を認識するのは迹でなく、九界を認識するのは本でない。
迹本不定の人は、南無妙法蓮華経と御本尊を根本(本)として、
理即の凡夫は、迹。名字即の凡夫は、本。
そして
南無妙法蓮華経、御本尊と名字即の凡夫は、本。(境智冥合の)而二不二。
加えて、形而上、形而下が重要になります。
形而上で物事を見るか、形而下で物事を見るかで、
本迹が違ってきます。
続く。
80
:
首都高バトル01
:2012/03/31(土) 17:03:49 ID:zLvwUaR.0
急いでたらミスしました。(別スレに)
訂正
×理即(十界互具)
○理即(を十界互具で見ると、展開すると)
理即も十界互具の働きによる。
81
:
首都高バトル01
:2012/03/31(土) 17:50:49 ID:zLvwUaR.0
メチャクチャ、メチャメチャ、面白かったので、
また、ためになると思いますので、紹介しときます。
(そこの掲示板は、気にせず内容だけ見てネ。)
信心指導
>>
http://supersaba.exblog.jp/9938615/
82
:
首都高バトル01
:2012/04/13(金) 15:20:15 ID:zLvwUaR.0
参考
>>
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/ongiku1.html
83
:
首都高バトル01
:2012/04/13(金) 15:50:17 ID:zLvwUaR.0
参考(下記アドレスの中の 諸法実相抄 )
>>
http://www.geocities.co.jp/inae_sokagakkai/30b.html
84
:
首都高バトル01
:2012/04/13(金) 16:56:05 ID:zLvwUaR.0
一念の置きどころ 〜 臨終正念 。
まことの時の勝利、生死一大事の(時の)勝利、絶体絶命の(時の)勝利。
参考(生死一大事血脈抄の講義より)
講義
生死一大事血脈といっても、強盛な大信力を起こして、南無妙法蓮華経と唱えること以外にないことを重ねて強調して、本抄を結ばれている。
南無妙法蓮華経・臨終正念
臨終とは、死に臨むこと、死に際、正念とは、正しい念慮のことである。臨終正念とは、臨終に臨んでも、心を乱さず、正法を信じて疑わないことをいう。
すなわち、臨終に際して、信心の一念揺るぎなく、妙法を信受できたことを無上の喜びとし、我が人生に悔いなしという満足しきった心境で、一生を終わる姿である。
臨終は、この一生の総決算であり、未来世の第一歩ともなる。だれびとも避けることができない最も重要で厳粛な瞬間であるといえよう。この生死という人生の最大課題を直視し、生死を貫く生命の因果の法則を解明したのが、真実の仏法である。
ゆえに、仏道修行は、とりわけ“死”という問題を解決するためのものであるともいえる。したがって「臨終正念」こそ、個人における仏道修行の究極の願いであるともいえる。
人々は過去・現在・未来という時間の流れのなかで、瞬間瞬間を生き続けている。過去といい、未来といっても、確かな現実は、現在の“生”の姿にしかない。
その意味では「臨終正念」といっても、それは、やがて訪れる臨終の瞬間のみをさすのではなく、現在の瞬間瞬間の生命の連続のなかにこそ「臨終」はあるともいえよう。
したがって「臨終正念」とは、現在の瞬間における“生”を最も充実した完全燃焼の“生”として、未来に向けていく精神の姿を意味する。
末法今時において「臨終正念」を得る道は、三大秘法総在の御本尊を信じて唱題の行に励む以外にない。
ゆえに「南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ」と、透徹した信心を確立して真剣に祈念しておくよう、最蓮房を励まされているのである。
そして「生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」と戒められている。この人生のなかで透徹した信心に立ったとき、凡夫の我が身がそのままで妙法蓮華経の当体とあらわれるところから「煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり」と御教示されているのである。
・続く〜
85
:
首都高バトル01
:2012/04/13(金) 17:01:45 ID:zLvwUaR.0
・続き〜
「煩悩即菩提」とは、人生におけるさまざまな煩悩が、妙法の力で菩提へと開いていくことを言う。
煩悩とは貧・瞋・癡などから起こる迷いをいい、菩提とは悟りの智慧をいう。
「生死即涅槃」とは、生死=苦しみが、そのまま涅槃=悟りとなることをいう。生死は迷いの境界であり、涅槃は悟りの境地である。
この苦しみに満ちた生死の流転が、永遠の生命観に立った不動の境地に転ずることをいうのである。
信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり
日女御前御返事には「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(1244−09)と仰せである。御本尊も信心の二字におさまり、無二に信ずるなかにこそ、御本尊の仏力・法力は顕現されるという御指南である。
「信心の血脈」とは、日蓮大聖人の正法への正しい信仰でなくては、いかに法華経を持っているといっても無益であり、成仏の道に入ることはできないということである。
法体の血脈と信心の血脈
ここで心すべきことは「血脈」には別しての「法体の血脈」と、総じての「信心の血脈」とがあり、明確に立て分けなければならないことである。
すなわち「法体の血脈」についていえば、久遠元初自受用身如来の再誕たる日蓮大聖人の御生命こそが、生死一大事血脈の究極であられ、その大聖人の御生命をそのまま移された法体が南無妙法蓮華経の大御本尊である。
したがて、第四章における「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は別しての「法体の血脈」を大前提として、総じての「信心の血脈」について述べられたものである。
86
:
首都高バトル01
:2012/04/17(火) 20:33:34 ID:zLvwUaR.0
戸田先生は、この信心を行うと、死んでもすぐに生まれてくると
言われていますが、宇宙のどこに生まれてくるのか、とにかく次の生までの死の間隔が短いということ。
日蓮大聖人は、この信心をすると来世、次に生まれて来るときは成仏、仏として生まれて来ると言われています。
もし信心をして次に生まれて来るのが地球なら、鎌倉時代から南無妙法蓮華経を信仰した人がいっぱいいるのに、釈尊のような三世を究め尽くした仏が、釈尊以降この地球に生まれて来ないのは、どうしてか? 気になります
法華経の中に「 来世得作仏 」が、前後の言葉が変われど出てきます。
また「 来世得作仏 」は、
一念三千法門の日蓮大聖人の御書にも出てきます。
すべてのものに釈尊の久遠実成、つまり成道(本果の仏になる)は訪れると思う。
本因妙が根本ですが、最終的には、本果の仏になるのではないでしょうか。
釈尊は、久遠実成以来、仏(三世を究め尽くした仏)として、
何度も何度も、 生まれ変わっていますよね?
地球に本果の仏が生まれて来ないのは、、、不思議です。
地球は、地湧の菩薩に託されている!、、、納得。
87
:
首都高バトル01
:2012/04/17(火) 20:38:10 ID:zLvwUaR.0
・一念三千法門p415 → 「 来世得作仏 」
・小乗大乗分別抄p524 → 「 例せば日本国の人・唐土(もろこし)の内裏に入らん事は必ず日本の国王の勅定によるべきが如し・ 穢土(えど)を離れて浄土に入る事は必ず法華経の力なるべし〜(中略)〜十方の浄土に生まるる者は三乗・人天・畜生等までも皆王の種姓と成って生るべし皆仏となるべきが故なり 」
・釈迦一代五時継図p642 → 「 未来世に於いて作仏することを得ん 」
・日妙聖人御書p1216 → 「 経に云く【如我等無異】等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり〜(中略)〜今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず 」
・松野殿御消息p1379 → 「 来生に必ず仏に成らせ給うべき期の来たりて
もよをす(催す)こころなるべし 」
・松野明殿御返事p1390 → 「 未来に仏に成り侯はん事疑いなく覚え侯 」
釈尊は、歴劫修行なのに、、、そうですよね、竜女はすごいですよね。
・一代五時継図p675 → 「 秀句の下に云く能化の竜女・歴劫の行無し所化の衆生もまた歴劫無し文。 」
その理由が知りたい、とても興味深いです。所化の衆生も歴劫無しですよ!
さらに同p675より
「 一、法華経成仏の人数の事〜(中略)〜提婆品に云く当時の衆会皆竜女を見る忽然(こつねん)の間に変じて男子と成て菩薩の行を具して即ち南方無垢世界に往き宝蓮華に坐して等正覚を成じ三十二相・八十種好普く十方一切衆生の為に妙法を演説する文。 」
この時、竜女は、、、八歳ですよね。 歴劫修行を打ち破るところがすごい!
88
:
首都高バトル01
:2012/04/21(土) 00:00:08 ID:zLvwUaR.0
参考。
大聖人は、法華経に説かれているような訪問が大日経には説かれているか、また五百塵点劫や三千塵点劫の昔の結縁を明かした法門と、浄土の三部経のなかの無量寿経に「阿難また問いたてまつる。『其の仏成道より已来、いくばく時を経とやせん』。仏の言く、『成仏してより已来、凡そ十劫を歴たり』と説かれていることが比べものになるかどうかと責めよ、と仰せである。
無量寿経では法蔵比丘が四十八願を立てて歴劫修行の後に正覚を成じて阿弥陀如来となってから今まで、およそ十劫を過ぎていると説いているが、題目弥陀名号勝劣事に「三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時・十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ」(0115−15)と述べられている。御文の「三の卷」とは法華経化城喩品である。法華経化城喩品第七の意によれば、阿弥陀如来も大通智勝仏の十六王子の一人であり、法華経によって成道したのである。
89
:
首都高バトル01
:2012/04/21(土) 00:03:02 ID:zLvwUaR.0
教行証御書
また手紙に、諸経の利益を挙げた場合、どう対応するかとのお訪ねであるが、これにはまず「それらでは不足である」と答えるがよい。その後に「汝らの宗の依経に、釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏の証明があるのか」と聞くがよい。「ある」とはいまだ聞いたことがない。よもや、多宝仏・十方分身の諸仏が証明に来ることもあるまい。これらの仏は法華経の会座に来られた時、「法華経は皆是れ真実なり」と証明されたのであるから、同じ仏に二言あるわけがないというがよい。
次に法華経に六難九易が説かれているが、他の経にこのようなことが説かれているであろうか。仏の滅後の人々が造った偽経であるかもしれないが、釈尊の五十年の説法のうちには一字もないというがよい。
また、法華経には釈尊が五百塵点劫に成仏したことが説かれているが、諸経に説かれているであろうか。また、三千塵点劫に法華経を説法して成仏の因縁を結んだことが説かれているであろうか。また、一念信解・五十展転の功徳が説かれているであろうか。他経には一・二・三・及び十功徳も説かれていないのだから、五十展転まで説かれているなどということはまさかあるまい。また、諸経には一・二塵数の過去さえ挙げていない。いかにいわんや、五百塵点劫・三千塵点劫の過去が説かれるわけがない。
90
:
首都高バトル01
:2012/04/21(土) 00:05:26 ID:zLvwUaR.0
>>89
の続きは、こちらで。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1575038.html
91
:
首都高バトル01
:2012/04/21(土) 04:26:54 ID:zLvwUaR.0
仏説、仏の教説は、方便であり不要として、「 教化別伝・不立文字 」の
経典に依らない教義を立てているのは、禅宗。
涅槃経の「 仏の所説に順わざる者は魔の眷属である 」を引かれて、
日蓮大聖人は、天魔の所為と破折されている。
また禅宗は、釈尊が真実を説いた法華経を誹謗している。
守護国家論p75 →
→「 禅宗等の人云く〜(中略)〜法華経は未だ真実を宣べず 」
また曹洞宗の道元は、末法方便説を主張。(2ch.日蓮ってver.21で
引用しているが、全く意味なし。邪見、邪義のなにものでもない故に。)
仏法を破壊する天魔の所為ゆえに、禅宗を禅天魔と、
日蓮大聖人は、仰せられている。
竜女、迦葉は法華経によって成仏することができたのである。
くわしくは、「 早勝問答 」の禅宗問答( p163.2行〜p164.7行 )を参照。
92
:
9071
:2012/04/21(土) 10:10:11 ID:GYahmowg0
バトルさんの教学には感心します
浅学の私にはとてもよく分かりやすく
納得できる説明の仕方に嬉しくも
また楽しくも読ませてもらっております
これからも時間の許す限り書き込み
頑張って下さい
ま、あまり無理しない程度でね
93
:
首都高バトル01
:2012/04/21(土) 21:47:24 ID:zLvwUaR.0
9071さんへ どうもありがとうございます。
このスレの、はじめの自分の文章を読み返してみると、
表現の仕方、内容がかなりズレていたり、
意味不明(こ〜れは、困ったで、困ったでの、小松の親分←脱線しすぎ。)な
ところもあり(それは、あかんだろう!)で、たぶんかなり深いところで考え、
表現しようとしたと思うのですが、理解するのに時間のかかる文章です。
9071さんにとって読みづらいところがあったと思いますが、
(自分が読んでもそうなので)お許しください。
日々さんをはじめ、いろんな人に言われておりまぁ〜す。
しかしこうやって書き込みさせてもらっているおかげで、
少しずつではありますが成長しているように思います。
(最近の文章は、自分で読み返しても理解できる。)
みなさんに感謝しています。
ありがとぅ〜(谷岡ヤスジでなく、谷村新司 風に)
94
:
首都高バトル01
:2012/04/22(日) 03:13:58 ID:zLvwUaR.0
以下は、教学と言うよりエッセーですね。
人の発する言葉( 名字即 )は、いかなる言葉でも発すれば関係なく、
広がりを持つ。
言葉を発するリピートの数が増えれば増えるほど、
その言葉が命に反応するところに、言葉の方向に成就していく。
「 もう終わっている 」を繰り返し発すれば、もう終わっていく。
「 きゃーるい、きゃーるいのぅ〜( うざい、しゃくにさわる )の繰り返しは、
自分だけに留まらず、聞いた、聞こえたまわりの人達まで広がり、
そのとおりに、なっていく。感応していく。
(くい止める人がいれば別、、、そうじゃないと。)
いかなる言葉も繰り返し発し命に反応すれば、
そのとおりになって行くと言うことである。
命の活動が、身口意の三業があるところに境界の世界が形成される。
南無妙法蓮華経を繰り返し唱え、幸せになっていくのは道理である。
意味がある。 法則性がある。
祈りとカラ題目。
心からそうなるように望み、願うことが祈ることである。
必ずそうなる、必ずそうなるように、そうしていく、ぞう取り組んでいく誓い、
強い祈りが、また一念を形成していく。
また一念( 一念の置き所は、前述 )、意識、身体が、
願いにひとつになっていく状態も祈ると言うこと。
カラ題目は、それぞれがバラバラと言うこと。
95
:
首都高バトル01
:2012/04/22(日) 05:29:12 ID:zLvwUaR.0
こうでないといや!っと、我を張り後退して、止まったり、
破壊に自分の生活、人生が向かう方向に持っていくことを、
わがまま(すねる)と言います。
しかし、こうでないといや!っと、前進する時、正しさを基準に
一本、筋を通していけば、わがままではなくなる。
建設していくことは、大変ですが、勝利のあかつきには、皆が認めてくれる。
NHK朝のテレビ小説「 梅ちゃん先生 」を見てそう感じました。
十如是は、行動のプロセス。
自らが、こうでないといや!っと、貫き通す時、
正しさに昇華させることが大事。
正しいことでないといや!と前進、建設しながら貫き通す。
それも一念。
やることはキチンとやる。
その行動、実践に集まってくる情報のパズルは、
何が正しいか見えてくるし、また正しい情報のパズルが集まってくる。
情報の正しいパズルが揃う時( ひらめき )、命の中、心の中から
一番正しい自発能動の行動のプロセス( 未来に自らが行動する一連の流れ)が
現れ、見えてくる。自発能動の行動のプロセスは,十如是である。
このこれから動こうとする行動のプロセスは、正しいことでないといや!
の強い思い一念( 南無妙法蓮華経を根本にした強い思い一念 → 仏界 )。
外、まわりの世界が、うざかっても、それを鏡にせず、正しいことでないといや!の心、命で立ち向かい前進し、自らの行動、
実践でうざさを打ち破り正しさを形のあるもので証明する。
( なにかに挑戦し、勝利する姿を見せる。)
たとえ外の、まわりの行動のプロセス、十如是を見て一瞬うざく見えても
自らの正しいと思う強い一念で打ち破っていく。
十如是を持って十界が顕現しても、自らの十界( の中の仏界の強い一念 )を
持って十如是( 現状を変革する自発能動の行動のプロセス )を顕現する。
・一念三千は十界互具よりことはじまれり・
最高の十如是 → これから動こう、行おうとする最高の自発能動の
行動のプロセスが意識に、
実相を正しく把握認識し、正しく対処実践しようとするところに現れてくる。
( 智慧のしくみ )
自受用報身を基準とした無作三身、一念に億劫の辛労。→
→ 祈りと実践で正しい情報のパズルを集め揃えましょう。
人間革命第10巻.一念の章〜 大阪の戦いにおいて、
山本伸一青年が勝利から逆算して、正しい信心で勝利するには何が必要か、
悩み苦しみ出された答えが、、、御本尊と御書。
96
:
首都高バトル01
:2012/04/22(日) 06:38:53 ID:zLvwUaR.0
人格者は、また深みのある人は、いごこちがいい人。
身近な所では、例えば太陽にほえろのボス、石原裕次郎。
こころの大きい人は、いごこちのいい人。
川藤幸一(ルーキーズ)もいごこちのいい人。
仏は、最高にいごこちのいい人。
真実を追求する時は誰よりも厳しく、それ以外は、とてつもなく大きい包容力。
それは最高にいごこちのいい命、こころを持っている人。
覚悟の人は、いごこちのいい命、こころを持っている。
真のいごこちのいい命、こころは、勝利のこころ、勝者のこころ、
常勝の者の知る境地、それは荒波に臨む者、かいくぐり勝ち越える者、
勝ち越える者が知るところ。
つまり、まことの時の勝利、生死一大事の勝利、絶体絶命の勝利の一念の者。
臨終正念と一体である。
発想の転換。 一眼の亀。
まわりを変えるのではなく、自分を変える。
いごこちに焦点をあてる。
いごこちのいい命、こころが、いごこちのいい勝利の場所、
勝利の世界を作り広げていく。
どこかに、いごこちいい場所、世界を求めるのではなく、
今いる場所、今いる世界をいごこちのいい場所、世界にできるなら、、、。
信心は、いごこちのいい場所、世界を作ることと、広宣流布は、いごこちのいい場所、世界を広げていくことと、折伏もその場所、その世界の一員に加えてあげることと、捉えればどうでしょう。
なんか自己啓発みたいになってきましたが、、、。
こころの中にいごこちのいい世界を作ることはできますか?
いごこちのいい命、こころを自分の中に見つけてください。
まずは命、こころをいごこちのいい命、こころにしてしまい、そして
自分の体も自分のまわりも、いごこちのいい場所、世界にしてしまう。
できたならばいごこちのいい場所、世界を広げていけばいい。
そのいごこちのいい場所、世界は、自分だけの場所、世界でなく
皆が共有できる場所、世界なら。
(本来、論語や儒教の礼に始まる人との関係についての教えも、
いごこちのいい関係を作るためにあると思う。)
続く。
97
:
9071
:2012/04/23(月) 08:20:17 ID:D.MIif1M0
96
私の思うところと非常によくにた考え方だとおも思って
いつもいつもふし不思議nにかんじるのですが
だからばバトルさんの書き込みが非常によく頭にしみこんでくるのですがーーー
あなたはわたしですかっと言いたくなるくらいですもっと突っ込んで
いう言うと私が書き込みをすると多分同じようなニュアンスで
同じような説明の仕方すると思うからです
不思議です一人で納得しておりますっと
98
:
首都高バトル01
:2012/04/24(火) 06:36:14 ID:zLvwUaR.0
9071さんへ 目を通していただいてありがとうございます。
いごこちや十界互具について途中なのですが、すいません、
「 来世得作仏 」から心の中に情報のパズルが揃いだし、この世の全体像が、
ひらめきとなって見えて来ましたので優先します。
パズルの一部
・阿弥陀如来は仏になる前は釈迦牟尼佛と兄弟で16人兄弟の王子でした。
みな法華経により成仏しました。
・
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1424816.html
講義中頃からの、三千大千世界と現代天文学のところから、、、。
・
http://www.kempon.net/kejyo7.htm
・御書、一代五時鶏図p630.p631
「 文句の六に云く〜 」から大通智勝仏の十六王子の構成
・瑠璃の東園より〜
●十方浄土といわれるように、十方(東・東南・南・西南・西・西北・北・東北・上・下)に
仏の浄土が考えられたが、東方の阿しゅく仏の妙喜世界、同じく東方の薬師仏の浄瑠璃世界、
西方の阿弥陀仏の極楽世界、上方の兜率天の弥勒菩薩の浄土等が挙げられます。
阿弥陀如来の西方「極楽浄土」
薬師如来の東方「浄瑠璃世界」
阿シュク如来の東方「妙喜世界」
多宝如来は、東方「宝浄世界」
文殊菩薩は、はるか遠くに「浄土」
観音菩薩は、南方海中に「補陀落山」
弥勒菩薩の浄土は、上方「兜率天」・[龍華浄土]
釈迦如来は、私たちのここ「娑婆」
時間がな〜い!
やることがいっぱいありすぎて大変!
すみません、また時間を作って書き込みます。
本迹の種明かしについては、出来ているのですが、機が熟したら公表します。
続く! 30分だけでも横になります。
99
:
首都高バトル01
:2012/04/24(火) 07:34:53 ID:zLvwUaR.0
追記
薬師如来の話より〜
一つの世界には一人の仏さまという原則があり、釈迦牟尼仏のつぎの仏さまは弥勒仏(みろくぶつ)と決まっている。ところが弥勒仏は、まだ弥勒菩薩として兜率天(とそつてん)で修行中なのである。
弥勒菩薩が修行を終え、弥勒仏となってこの世界に生まれてくるのは五十六億七千万年も先のことであり、それまで娑婆世界の面倒を見ているのが地蔵菩薩(信仰の対象ではなく、地湧の菩薩と勘違いしていると首都高バトル01は、思う)である。
しかし、大乗仏教は空間的にも時間的にも無限の世界観を説いており、娑婆世界のほかにも宇宙には無数の仏国土があって、現在も無数の仏さまが説法しているという。つまり無数の仏さま達が、娑婆世界の私たちを見守っておられるのである。
100
:
首都高バトル01
:2012/04/24(火) 12:15:03 ID:zLvwUaR.0
今のうちに、、、。
この世の全体像の続き〜
*情報のパズル
・大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。
・ 釈には「隨縁不変・一念寂照」とある。隨縁真如の智も、不変真如の理も、ともに実在しているのが、生命(帰にあたる中心部分[南無妙法蓮華経]と宇宙<多元宇宙>を生命体と捉えるときも実体と首都高バトル01は思う)の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。
・「帰」というのは、迹門不変真如の理に帰するのである。「命」とは本門隨縁真如の智に命く(命にもとずくと言っているでしょう!命の中から出て来るものと首都高バトル01は思う)ことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに妙法と唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力がわが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ隨縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経のことになるのである。
・ また「帰」とは、われわれの色法を意味する。「命」とは、われわれの心法を意味するのである。この色法すなわち肉体(命は肉体、物質に属し、その中にあると首都高バトル01は思う)・物質と、心法(命の中から心は出て来るものと首都高バトル01は思う)すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。
・
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1429788.html
・眠っている時(の宇宙)は、迹。起きている時(ビツグバンよりの宇宙)が本。どちらも共に実在しているのが、(宇宙もまた)生命。
・眠っていても起きていても心臓は活動している、生きていれば。
生命が永遠と言うことは、我々の心臓が止まって死のうが、
宇宙がなくなろうが、この世の中心の心臓及び全体は、生死を繰り返すが、見えようと見えまいと実在し、(生命活動の有る無し関係なく)この世の中心でその心臓は永遠に動いている。
・三身は全て無死無終。
この時点で、うっすらこの世の全体像が見えてきませんか?
101
:
9071
:2012/04/24(火) 13:59:22 ID:t1Th6frA0
頭飛んでしもた
102
:
首都高バトル01
:2012/04/25(水) 01:18:52 ID:zLvwUaR.0
参考
http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/paper15-3.html
103
:
首都高バトル01
:2012/04/25(水) 19:48:48 ID:zLvwUaR.0
>>101
えっ? そう言うこと。
9071さん、気づかないでごめんなさい。
それでは、お返しに、一発コキます。
人生は爆発だァ〜!は、岡村隆志? いや岡本太郎。
頭ふっとんだァ〜!は、9071さん。
9071さんは、ワイルドだぜ! (スギちゃん風に)
首から上、頭どこ行った? OBじゃあないぜぇ〜!?
グリーンの上にあるぜぇ〜!
あとワンプレーでカップイン間違いないぜぇ〜!
えっ? サッカーの方がよかったぜぇ〜!か?!
9071さんは、ワイルドだぜぇ〜!
いつもミラクルシュート連発で、コケないぜぇ〜、ドテッはないぜぇ〜!
皆を幸せにする大勝利の男だぜぇ〜!
首都高バトル01は、膝枕が最高にスキだぜぇ〜!
ゴールデンウイークに、太陽の下、行楽地でするぜぇ〜!
書いてて恥ずかしいぜぇ〜!
9071さんへ
ふざけてすみません。ゴールデンウィークは、有意義にお過ごし下さいませ。
いつも勝利を、また御家族の幸せを陰ながら祈っております。
104
:
首都高バトル01
:2012/04/25(水) 20:03:21 ID:zLvwUaR.0
訂正
芸術は、爆発だぁ〜!、、、でした。
105
:
首都高バトル01
:2012/04/25(水) 20:45:38 ID:zLvwUaR.0
>>100
これも間違ってますね。すみません。→ × 無死無終
正しくは、→ ○ 無始無終
106
:
首都高バトル01
:2012/05/02(水) 11:01:46 ID:zLvwUaR.0
転載.〜2012/05/02(水) 10:35:12.53
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1322293821/l50
>密教のマンダラは、この世の全体を表していない。
>*この世の全体(国土に配すれば)。
>常寂光土を鏡(対境)として三土が誕生、存在する。
>だから中心(対境)は、寂光土(南無妙法蓮華経)。
>中心を釈迦牟尼仏にすげ替えか?
>寂光土を鏡として、三世の諸仏宇宙、また釈迦牟尼仏娑婆世界宇宙は、ある。
日蓮大聖人の御本尊こそ、国土に配すれば、この世の全体である。
( 法華経の宝塔 )
107
:
首都高バトル01
:2012/05/02(水) 11:22:20 ID:zLvwUaR.0
>>106
について。
「 上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり 」
「 問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや 」
については、御書の本尊問答抄参照。
108
:
首都高バトル01
:2012/05/02(水) 11:35:49 ID:zLvwUaR.0
追記。
>>106
>中心を釈迦牟尼仏にすげ替えか?
中心を釈迦牟尼仏、また大日如来にすげ替えか?
109
:
首都高バトル01
:2012/05/03(木) 14:50:15 ID:zLvwUaR.0
参考。
生死一大事血脈抄.先生の講義 第1回(1〜12有り)
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1504161.html
その中の生死一大事血脈抄.先生の講義 第5回より
・戸田先生は言われました。
「成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわすことのできない福運をもってくる、このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにない」
仏の本源の生き方に直結しているから、学会員は根源の生命力に満ちあふれているのです。
久遠の慈悲の行業を実践しているから、学会員は、何があっても根本は明るいし、また楽しいのです。
「仏界の生死」に連なっているから、創価の師弟の生命は強靭であり負けない。
真の生死観に生きゆく私たちは、真の哲学を持つ賢者であり、真の信念に生きる勇者です。学会員の慈悲の実践に、人類の生死観の模範があり、境涯革命の先駆があるのです。
110
:
首都高バトル01
:2012/05/04(金) 14:10:10 ID:zLvwUaR.0
時間。
http://www.youtube.com/watch?v=2yMlqLn2BQ8
量子力学とマルチバース理論 → 大通智勝仏と十六王子?!
(親宇宙から子宇宙の多元宇宙)
戸田先生。
「 即ち地球は、
『 親生命 』であり人類、獣類、植物類等々は『 この生命 』である。
さらに太陽系という大きな組織がまた一つの生命であり、
この親生命の中に『 子生命 』たる、地球、金星、木星、火星、太陽等が、
混然として、生命活動を続け、
『 親生命 』も『 子生命 』も、各々独自の心法をもって居るのである。
この関係は更に太陽系を子供とし銀河系が親として居り、
銀河系を子とし、大宇宙を親としてきわめて高度な何万次元とも知れぬ、
高次元の生命を構成し、これが宇宙生命の真実の相、即ち実相である。
そしてこの高次元世界が、其の実たゞ一つももので高次元即単一、
単一即高次元である処に生命宇宙の面白さ不可思議性がある 。」
宇宙( 娑婆世界 )を見てみましょう。
(めまい、酔われる方は、映像に注意してネ。)
http://www.youtube.com/watch?v=dgWqPr3fFaw
111
:
首都高バトル01
:2012/05/04(金) 14:48:10 ID:zLvwUaR.0
南無妙法蓮華経、御本尊は、
国土に配する時、この世の全体及び、
この世を統一( 総の三諦 )する、誕生させ存在させる本源の実在。
物理学は、統一理論を目指す。
超ひも理論。
http://www.youtube.com/watch?v=y-mB5zFG1vU
http://www.youtube.com/watch?v=a1ue57iR68k
http://www.youtube.com/watch?v=3QhFvkB3DoQ
112
:
首都高バトル01
:2012/05/09(水) 23:05:43 ID:zLvwUaR.0
南無妙法蓮華経、御本尊を国土に配すれば(この世の全体)、
自ずと日蓮大聖人が、御本仏であることが解ります。
本尊問答抄
「 上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と
天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く
法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり
釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり
故に今能生を以て本尊とするなり 」
全てのものは、この世の中心、
寂光土(南無妙法蓮華経、また本源。)より生まれる。
久遠釈尊成道後、娑婆世界(釈迦牟尼仏)は、
寂光土を対境にして生まれる。
その誕生の時に、地湧の菩薩が一旦成道してから娑婆世界に
現れるのではなく、本化、本源そのままの生命
(しかし仏の修行はしてないので凡夫のまま)で、
釈尊のもとで、繰り返し繰り返し教化される。
一往は、娑婆世界に生まれる地湧の菩薩は、釈尊が親。
しかし(再往)、もともとの本源そのものが生身したので、
本源そのもの故に源を辿れば本源そのものの生命で生身する
本法所持の本法を携えた地湧の菩薩が本仏となる。
上首故にその代表、本法を明かし本源の生命そのままに行動され、
本源の姿を示された御本仏は日蓮大聖人となります。
113
:
首都高バトル01
:2012/05/10(木) 12:08:47 ID:zLvwUaR.0
参考
・講義
当時、鎌倉の上下から生き仏のように敬われていた極楽寺良観を徹底的に揶揄しながら破折されている。
良観は世智にたけた僧で、鎌倉幕府の要人たちにとりいり、一方では慈善事業などを行って民衆の尊敬をあつめていたのであった。
しかし、その法は律と念仏を混合したような邪法で、内心には邪悪な念が強く、正法をもって立たれた日蓮大聖人をことごとく迫害した陰の張本人であった。
つねに権力者と結託してこれをけしかけ、自身は、その陰にかくれて、大聖人から公場での対論を申し込まれても、出てくることはなかった。あくまでも卑劣で、陰険なやり方で、わが身の安泰を図ったのである。
「 又一火は現世の国をやきぬる上に日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて阿鼻の炎にもえ候べき先表なり 」
仏法の誤りは、現実の生活の乱れとして現われるだけでなく、未来のその人の生命活動をも根本的に狂わせていくことを示された御文である。外にあらわれた現象は、内なる生命の状態の表象である。
「日本国の師弟ともに無間地獄に堕ちて」とは、一応来世の苦しみを述べたところである。しかし来世の姿は、そのまま、現世のなかに、さまざまな姿を現じている。生命の奥深くにあるものがそのまま、来世に続いていくからである。
何を信ずるかによって、その信仰は、自身の生命の本質を形成し、方向づける。その生命の本質は、そのまま生命活動の上に表出していくのである。ゆえに大聖人は現実の姿の中から、鋭く生命の本質を洞察され、未来を警告されているのである。また厳しく謗法を訶責されたのも、その故であることを知らなければならない。
・地湧の菩薩〜
訶責謗法滅罪抄 第三章 本化の付嘱を説く
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1584837.html
114
:
首都高バトル01
:2012/05/10(木) 22:29:42 ID:zLvwUaR.0
・地湧の菩薩〜
曾谷入道許御書(五網抄) 第1章 〜 第21章
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1614116.html
115
:
首都高バトル01
:2012/05/13(日) 11:23:58 ID:zLvwUaR.0
余談、2chより。
>大体、ある人間の生命の基底部が、
現在十界のどれに該当するかの基準は何なんだ?
経験とその時の対処が命に刻まれている。
これが基底部になる。
自分の経験と対処と、先祖代々から受け継いでいる親からのもの。
十如是と十界の関係を考察するのもいいかも。
例えば
十如是を持って十界が顕現する。
十如是(の働き)は、行動のプロセス。
依報(まわり、環境の存在)、つまり対境の十如是によりそれを認識する。
十界が現れる。
それに対処しようと基底部より十界を持って我が十如是で対応する。
十界互具には必ず、十如是が密接な関係性を持っている。
116
:
首都高バトル01
:2012/05/14(月) 13:11:45 ID:zLvwUaR.0
>仏界の中の地獄界って、地獄の衆生の苦しみを共有できる境涯のことです。
・天台大師の「性悪の法門」を理解すればわかると思います。
>なるほど。では改めて、地獄界から仏界まで、生命の基底部についての
具体的な定義は?あんたの言葉で言うなら、
「経験とその時の対処の積み重ね」の具体的な内容は?
地獄界の場合は〜、餓鬼界の場合〜、 …以下略。
あとそれは、御書のどこに書いてあるのか?
あんたが勝手に そう解釈しているだけじゃないのか?
・生命の基底部の定義は、十界を具している。
更に十界互具している。→ 所(具、依、生、証)、能(具、....)を一考。
・「経験とその時の対処の積み重ね」.......わかりやすい表現です。
ありがとうございます。
経験とその時の対処の結果の報いについては、次の御書を参考にして下さい。
「顕謗法抄」「十法界明因果抄」
・根本の基底部、先祖代々の親より更に源を辿れば寂光土。
法界の寂光土は、法性之淵底玄宗之極地。
我が生命の寂光土は、九識心王真如の都、また法性之淵底玄宗之極地。
寂光とも、仏界とも言われ南無妙法蓮華経のことである。
・全てのものは寂光土より生まれる。
本尊問答抄
「 上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と
天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く
法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり
釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり
故に今能生を以て本尊とするなり 」
117
:
首都高バトル01
:2012/05/15(火) 12:38:05 ID:zLvwUaR.0
2chの内容より
観心本尊抄p243
「其れより已来十方世界に分身し
一代聖教を演説して塵数の衆生を教化し給う」。
の” 十方世界に分身し ”を考察してください。
この内容を吟味すれば、
釈迦牟尼仏が娑婆世界であることがわかります。
” 十方世界に分身し ”の内容については、後ほど。
20行ぐらいの文章になるかと思います。
エラーにならなければいいのですが。
ここのスレには、時間が出来次第、次に書きます。
118
:
首都高バトル01
:2012/05/16(水) 07:39:00 ID:zLvwUaR.0
” 十方世界に分身し ” について。
「 他に仏土を設け、仏が我が身を分ってそこで衆生を化導する。
宝塔品の儀式において、釈尊の分身が雲集したというのは、
この分身の意義は、ある仏が成仏した時この結縁した衆生が非常に多くて、
わが仏土に摂し切れぬ時は他に仏国土を建設して、
わが身を分って、その仏土の衆生を救済するのである。
分身の仏も本の仏と同じく、同じ仏法をもって衆生を済度するのである。
決して異なった仏法を用いる事がない。
釈迦の分身が善徳仏の仏法をもって、衆生を済度するというのではなく、
必ず釈尊の教をもって済度するのである。」
・仏とその土(国土)はどういう関係にあるかと言うことです。
「仏土を設け」や「仏国土を建設して」をどう捉えるか?
それが、釈迦牟尼仏が娑婆世界宇宙ならそれが可能ではないかと、
考える訳なんです。
わかりにくければ、申し訳ないです。
119
:
首都高バトル01
:2012/05/16(水) 07:48:34 ID:zLvwUaR.0
更に、
・釈尊入滅後も衆生のそばにいつもいるとか。
・衆生の親は教主釈尊とか。
・全てのものに仏性があること自体、そう考えられる。
120
:
首都高バトル01
:2012/05/16(水) 13:48:57 ID:zLvwUaR.0
「 極仏境界とは十如是の法門なり十界に互に具足して
十界・十如の因果・権実の二智・二境は我が身の中に有って
一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり 」
( 日蓮大聖人御書.総勘文抄より )
十如是とは、
十界の衆生に共通して具わる、生命の10種類の側面を示したものです。
(sokaホームページより)
例えば、碁や将棋も相手のまずは、石や駒の動きをシュミレーションし、
動きのプロセスを探るやり取りをする。
更に進んで相手の命、心からその人の行動パターンを割り出し、
戦いの流れを読み取る。
十界互具と十如是は、密接な関係にあるから命や心がわかれば、
人の行動パターンがわかってくる。
熟練した人は、ある意味十如是を極める人と言っていい。
推理もそう、行動、世の中の動き、プロセスを探る。
天気予報も気候の変動を、つまり天候のプロセスを予想する。
こう考えて来ると十如是は、行動や現象のプロセスを正確に
捉える事が出来れば、ある意味、未来を見ていることになる。
より正確に物事やプロセスを見る段階を眼に例え、
仏法では五眼とランクをつける。
五眼の中の仏眼を持つ仏は、法華経において、どう見るか?
「衆生見劫尽。大火所焼時。我此土安穏。天人常充満。」
(衆生が世界が滅んで大火に焼かれると見る時も、私の住む国土は
安穏であり、つねに喜びの天界・人界の衆生で満ちている。)
また「我智力如是。慧光照無量。寿命無数劫。」
(私の智慧の力はこのようなものである。
智慧の光が照らすことは無量であり、その寿命は無数劫である。)
・地獄即仏界
これを聞くと祈りが単なる気休めでないことがわかる。
十界・十如の因果・権実の二智、つまり人が無限に智慧を発揮すれば、
人類滅亡の危機を回避する術を得ると言うことである。
仏法、法華経、一念三千、南無妙法蓮華経は、
単なる気休めの宗教ではないのである。
121
:
首都高バトル01
:2012/05/18(金) 06:12:16 ID:zLvwUaR.0
如来と孫悟空。
如来はすぐさま天界へ行き、自分の術に自信を持つ悟空に。
わたしの右の手のひらから出られたら、天宮を譲ろうと言います。
悟空は、さっそく?斗雲にのり、ずんずん進みます。
やがて柱が5本、蒼天を支えているのが目に入りました。
ここが行き止まりだと思い、ここまで来た証拠にまんなかの柱に一筆書き。
1本目の柱の根元におしっこをひっかけて、もとの場所へと戻ってきます。
天の尽きるところまで行ってきたという悟空に。
如来は自分の右の手を見せると、その中指には悟空が書いた文字。
そして親指のつけ根には、サルのおしっこのにおいが残っています。
驚き、もう一度行ってくると飛び出そうとしましたが 。
如来は手を返し、5本の指を金、木、水、火、土の五連山に変え。
「五行山」と名づけたうえで、悟空を押さえつけました。
http://www.geocities.jp/lune_monogatari/syk/story01.html
122
:
首都高バトル01
:2012/05/18(金) 06:48:06 ID:zLvwUaR.0
・無相の極理。
「一仏の身体なるを以って寂光土と云う」。
「心の一法より国土世間出来する事なり」。
「[如是相(一切衆生相好本覚の応身如来)如是性(一切衆生の。
心性本覚の報身如来)如是体(一切衆生の身体本覚の法身如来)。]
此の三如是より後の七如是・出生して合して十如是と成れるなり。 」
日蓮大聖人御書p.563と564より抜粋。
・観心本尊抄より。
開結の二経 〜 御文は、省略、考察あれ。
御書p.245
123
:
首都高バトル01
:2012/05/18(金) 07:03:56 ID:zLvwUaR.0
〜さんへ(2chより)
感想は、もういいです。
完全否定があれば対応します、御意見賜ります。
その他は受け付けませんのでご了承下さい。
よろしくお願いします。
124
:
首都高バトル01
:2012/05/18(金) 17:58:50 ID:zLvwUaR.0
人及び森羅万象全てに仏性がある。
しかし何故、どういう理由で仏性があるのか、誰も知らない。
その謎を探っています。
そして地湧の菩薩は、この世で最強であること。
またこの世の代表である。こと。
それも探っていきます。
125
:
首都高バトル01
:2012/05/19(土) 10:28:25 ID:zLvwUaR.0
草木成仏口伝
「 法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし 」
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1504127.html
126
:
首都高バトル01
:2012/05/19(土) 11:40:48 ID:zLvwUaR.0
ここのスレッドをお借りして。
創価教学研究室(赤鬼のブログ)の 赤鬼さんへ
いつも引用させてもらっております。
また私の教学の研鑽に大いに役立っております。 助けられております。
この場をお借りして、御礼申し上げます。
本当にありがとうございます。
首都高バトル01より。
127
:
首都高バトル01
:2012/05/21(月) 05:05:01 ID:zLvwUaR.0
観心本尊抄の御文より。
「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」
「蛇は自ら蛇を識る」とは、
蛇は自らの足を知ると言うこと。
十如是に約すと動物や生き物は、自らの十如是の力用を知り、
自らの能力を使いこなしていると言うこと。
動物のドキュメンタリーや
またネットで話題になる世界の人々のパフオーマンスを見ると、
生命の持つ十如是の力用に圧倒される。
動物のドキュメンタリーは親子の愛情のほか、
動物がそれぞれ持つ驚異の十如是の力用を見ることができる。
「智人は起を知り」とは、
智人は将来起こるべきことを知ると言うこと。
あらゆるものには十如是が具わっており、
その力用(現象、働きが起こる予兆)を見て、
法界(の因果、十如・十界の因果)の、
起こり(これからどのような現象、働きが起こるか)を、
知ると言うこと。
参考
瑞相御書には依正不二の原理について説かれています。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1584699.html
128
:
首都高バトル01
:2012/05/21(月) 05:24:37 ID:zLvwUaR.0
「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可べきか。」
ここが大事。
広宣流布の実現、
また娑婆世界を寂光土にするのは、我々に懸かっています。
129
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 20:41:48 ID:zLvwUaR.0
参考
「宝塔の中にして・うなずき合い給う」とは、
虚空会の儀式において釈迦・多宝の二仏が説きあらわした法とは、
妙法蓮華経であるということで、
釈迦が説法し、多宝が合意して証明をしたことをいわれている。
虚空会とは、見宝塔品第十一から嘱累品第二十二までの説法の座をいい、
仏と大衆が虚空中に在住して展開されたところから虚空会という。
見宝塔品に入ると、大地から高さ五百由旬に及ぶ七宝の塔が湧出し、
その中に坐した多宝如来が、
釈尊の説く法華経の教えは「皆是れ真実なり」と証明する。
その後、多宝の塔を開くため、釈尊は娑婆境を中心に、
八方の無数の国土を三度にわたって清浄にする。
そして、十方の世界から分身の諸仏が来集し、条件が整ったところで、
釈尊は宝塔の扉を開き、宝塔の中の多宝如来に招かれ、
釈尊と多宝如来が並んで坐る、このことを「二仏並座の儀式」という。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1566463.html
130
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 20:46:56 ID:zLvwUaR.0
なぜ仏の無見頂相を見ることができないのか?
法蓮抄(父子成仏抄)第五章 仏の功徳の広大なるを明かす
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1602054.html
131
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 21:04:55 ID:zLvwUaR.0
竜女、自ら法華経を説く。
〜法華経 提婆達多品より抜粋。〜
(はじめは、本文の一部、長いのであとは語訳だけでいきます。)
「 智積菩薩、文殊師利に問うて言わく、
此の経は甚深微妙にして諸経の中の宝、世に希有なる所なり。
頗し衆生の勤加精進し此の経を修行して、速かに仏を得るありや不や。
文殊師利の言わく、有り。娑竭羅龍王の女年始めて八歳なり。
智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、
諸仏の所説・甚深の秘蔵、悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、
刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり。
辯才無碍にして、衆生を慈念すること猶お赤子の如し。
功徳具足して、心に念い口に演ぶること微妙広大なり。
慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり。智積菩薩の言わく、
我釈迦如来を見たてまつれば、無量劫に於て難行苦行し功を積み徳を累ねて、
菩薩の道を求むること未だ曾て止息したまわず。三千大千世界を観るに、
乃至芥子の如き許りも、
是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし。
衆生の為の故なり。然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまえり。
信ぜじ、此の女の須臾の頃に於て便ち正覚を成ずることを。 」
智積菩薩は、文殊師利菩薩に問いかけました。
「この妙法蓮華経は、非常に奥深くて高遠な内容の教えであり、
すべての教えの中の宝であり、世の人にとって滅多に聞けないものです。
であるならば、この教えを一所懸命に修行して、
速やかに仏の悟りを得られそうな人など、誰もいないのではありませんか」
文殊師利菩薩は答えました。
、、、続く。
132
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 21:11:50 ID:zLvwUaR.0
文殊師利菩薩は答えました。
「それがいるのですよ。娑竭羅(しゃから)竜王の娘がそれです。
まだ八歳にしかなりませんが、智慧があり、機根がすぐれており、
人間の行いの成り行きを見透せるのです。また、教えは決して忘れず、
もろもろの仏さまの教えを、その深い奥義までもことごとく理解して、
しっかりと心に保持しています。
また、深い精神統一によってあらゆる法を悟ることができ、
その瞬間に最高の悟りを求める心を起こして、
決して後戻りすることはありませんでした。
法を説くのも自由自在であり、すべての人々にたいして、
まるで自分の生んだ赤子をいたわる母親のような気持ちいだいているのです。
すぐれた功徳を積んできており、
心に思うことも口で述べることも非常に奥深くて幅広いのです。
また、慈悲が深く、謙虚であり、穏やかな気品もたたえています。
このように、無上の悟りに達する資質をそなえています」
それを聞いた智積菩薩は、疑問を投げかけました。
「私が、お釈迦様のお姿を拝見しますに、はかり知れない程の長い年月の間、難行苦行をなさり、功徳を積みかさねられて、
菩薩の道を求め行じることを少しもお休みになったことはありませんでした。
広い三千大千世界を見渡してみても、芥子粒ほどの小さな場所でさえも、
お釈迦様が菩薩として衆生を救うために身命をかけられなかった場所は
ありません。
お釈迦様でさえ、そうした長い苦行の後になって、
ようやく仏の悟りを成就なさったのではありませんか。
それなのに、その女の子が、
ほんのわずかな間で仏の悟りを成就するなどとは、とても信じられません」
、、、続く。
133
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 21:19:17 ID:zLvwUaR.0
二人の対話がまだ終わっていない時、
当の竜王の娘が忽然とお釈迦様の前に姿を現わしました。
そして、み足に額をつけて礼拝し、お釈迦様の正面に退きますと、
偈をうたってお釈迦様をほめたたえました。
「お釈迦様は、何が罪をつくり、何が福を生みだすかを深く見極めておられ、
その智慧の光であまねく世界中を照らしてくださっています。
その何ともいえず清らかなご本体は、目に見えるお姿として現われれば、
三十二の吉相や八十の福相をおそなえになり、
ご本体の清らかさを象徴しておられます。
天上界や人間界のすべての人がその有り難さを仰ぎ見、
竜神さえもことごとく心からお敬いいたしております。
あらゆる生あるもので、そのみ教えに帰依しないものはありますまい。
また、いま文殊師利菩薩さまがおっしゃられたように、
私が無上の悟りを成就できるということは、
ただお釈迦様だけが明らかにご存知のことでございましょう。
私は、大乗の教えを分かりやすく説き示して、
苦しんでいる衆生を救いたいと存じます」 その時、
舎利弗が竜女に向かって言いました。
「お前さんは、すぐにでも無上の悟りを得られると思っているようだが、
私には信じられない。なぜかといえば、女の身は煩悩が多く、
お釈迦様の教えを受け入れるのに相応しくないとされているからだ。
どうして無上の悟りなどが得られるものだろうか。
仏に成る道は遥かなる道程であり、はかりしれないほど長い年月、
苦労して修行を積み、
六波羅蜜を完全に実践して、その後になってようやく成就できるものである。
また、女人の身には五障といって、
どうしても成れないものがあるとされている。
第一には梵天王になることができない。第二には帝釈天。第三には魔王。
第四には徳によって天下を統一する大王。
そして第五には仏と成ることができないのだ。それなのに、
女人の身であるお前さんが、
どうして速やかに仏と成ることができるのであろうか」
、、、続く。
134
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 21:29:08 ID:zLvwUaR.0
その時、竜女は手に三千大千世界にも値するほどの尊い宝珠を一つ持っており、それをお釈迦様に差し上げました。
お釈迦様は、ただちにそれをお受けとりになりました。
竜女は、智積菩薩と尊者舎利弗に申しました。
「ごらんの通り、私は宝珠を差し上げました。
お釈迦様はお受けくださいましたが、
それは早かったでしょうか、どうだったでしょうか」
二人は答えました。 「じつに早かった」
竜女は言いました。
「あなたがたの神通力によって、
私が仏に成る様子をごらんになってください。これよりもっと早いですよ」
その時、集まっていた一同の目には、竜女が忽然として男子に変わり、
菩薩行を完成した尊い姿となって、
南方の無垢世界に行って美しい蓮華に坐して仏の悟りを成就し、
三十二の吉相や八十の福相をあらわし、
あまねく方向にいるすべての衆生のために法華経の教えを説いている様子が
見えたのでした。
その時、娑婆世界の菩薩や声聞をはじめ、天人も、竜や、さまざまな鬼神も、
人間および人間以外のあらゆる生あるものも皆、
遥かな世界で竜女が仏の悟りを得て、
あまねくその世界の人間や天人のために法を説いている様子を見て、
心に大いなる喜びをおぼえ、皆が遥かな世界へ向けて
うやうやしく礼拝するのでありました。
無数の衆生が竜女の説く法華経の教えを聞いて、よく理解し、
後戻りせずに仏の教えを修行する意志を得、そして無数の人々が、
いつかかならず仏に成れるという保証を得ました。
その尊い事実に対して、無垢世界では大地も感動にうち震えました。
その様子を見ていた娑婆世界の人々も、
三千人が後戻りせずに仏の教えを修行する意志を得、
三千人が仏の悟りを求める心を起こして、いつかかならず
仏に成れるという保証を得ました。
智積菩薩も舎利弗も、そこに集まっていた一同も、じっと黙り込んだまま、
その尊い事実を心の奥深く受け止めたのでありました。
135
:
首都高バトル01
:2012/05/22(火) 23:07:16 ID:zLvwUaR.0
迦旃延(かせんねん)は、釈迦の十大弟子の一人。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
迦旃延
迦旃延は、
子供の頃より聡明で、一度聞いた内容は忘れず良く理解したと言われる。
それでも難解で理解できないことがあり、
釈迦に教えを請うことになり、これがきっかけで弟子となったとされる。
迦旃延(かせんねん)が釈迦の弟子になるきっかけのはなし。〜
迦旃延が、
住んでいた国の国王のいる城に、古くから伝わる古文書があった。
しかし内容が迦旃延(かせんねん)をはじめ国中の人々は
誰も読めずわからないでいた。
ある時、
国王がその古文書を見ると、ぜんぜん読めなかったのがいきなり読めたが、
しかし、内容がさらにいまだにわからなかった。
迦旃延は、どうしても理解できず、でも知りたくて
あらゆる識者に聞きまくったが答えを得られなかった。
そんな折り、噂で舎衛国にブッダ(覚者)がいると、、、
ブッダこと釈迦に会いに行った。
釈迦より教え(その内容の答え)を聞いて、古文書の答えがわかり、
感動し、納得し迦旃延は、釈迦の弟子になった。
その古文書の内容は、
、、、続く。
136
:
首都高バトル01
:2012/05/24(木) 21:15:58 ID:zLvwUaR.0
話の途中ですが、2chより。 → 「日蓮ってver.21」
衆生が修羅界なら、衆生=修羅界。
衆生(や人を十法界の体とすると)、
その修羅界は、衆生の心の現れ(心から出たもの)。
また仏も体より出る。この体は、ヒ・ミ・ツ。
仏の身体はなにか?、、、と言うことです。
体から出た仏なので、 体 = 仏。
総じて言えば、体 = 現れ出た十法界の姿 = 内在(体に)している十法界の姿
こういう理論です。
意味わからなければ、ごめんなさいネ。
母親から生まれた子供は、母と子はイコールではない。
これは言わないで。
そのもっと先を見てね。一緒だとわかります。
137
:
タンポポ
◆zAuUlJxdM6
:2012/05/25(金) 08:48:43 ID:WwDrUF2wO
>>136
←おはようございます。天台系の顕れた大衆向けに広がったモノと、密教系の隠された秘密の縦を重視にした口伝的例えば、カレーの代々秘伝の味を伝えたような伝わり方と二種類に仏教は、雑密教や色々、当時、伝わって来たね〜!
法華経の大事なモノは顕れた教えで。。大衆に向けて広がった教えだね。
首都高バトル01さんの示してくれているのも、色々、勉強参考にしています。 感謝。
138
:
首都高バトル01
:2012/05/25(金) 19:12:31 ID:zLvwUaR.0
タンポポさんどうもです。 お役に立てれば幸いです。
参考にして引用している文章については、間違いはありませんが
私もまだまだ未熟者でありますから
自己の考察において
不適切であったり間違いに値するところがあるかも知れません。
もしおかしいところあればご提示、御指南のほどよろしくお願いします。
自分勝手な考えにならないように努力しますので、
皆さんもおかしいと思われましたら、よろしくです。
、、、皆さん、暖かく見守ってくださっていると思い感謝しています。
139
:
首都高バトル01
:2012/05/25(金) 21:10:19 ID:zLvwUaR.0
>>135
の続き。 遅くなってすみません。
古文書の内容。
「 王中の上は誰ぞ 染者は染と等しきや
いかにして無垢を得るや 愚者とは何者ぞ
流される者は誰ぞ 智とは何ぞ
流不流より解脱とは いかに 」
それに対して釈迦(この時、釈迦は30歳前後)は答えます。
釈迦の解答は、次で、、、。
140
:
首都高バトル01
:2012/05/25(金) 21:31:15 ID:zLvwUaR.0
釈迦の解答。
「 王中の上尊とは第六天王である
染者と染は等しいとは (悪に)染まらなければ(心)に垢はない
(悪に)染まっている(者が)愚者なのである
一切の(世俗の)流れに溺(おぼ)れず 死に惑わされず
(邪念を離れ)正しい観念を主とすれば
迷いの世界から解脱することができる 」
・第三文明社刊
” シャカの十大弟子 ” 全5巻の(5)より〜
漫画です。 わかりやすいです。
141
:
首都高バトル01
:2012/05/25(金) 22:52:56 ID:zLvwUaR.0
論語。
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den100.htm
142
:
首都高バトル01
:2012/05/25(金) 23:39:35 ID:zLvwUaR.0
参考
・当体全是
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/archives/1565035.html
143
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 11:07:55 ID:zLvwUaR.0
参考。
・常不軽菩薩
法華経・常不軽菩薩品に説かれる菩薩で、釈尊の前世の姿であったとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
常不軽菩薩
144
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 11:13:53 ID:zLvwUaR.0
>>143
のアドレス〜
つながりにくければ、こちらから検索してください。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/常不軽菩薩
145
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 12:26:23 ID:zLvwUaR.0
【序品第一】では、
仏が私たちが住む娑婆世界の東方にある
一万八千の国々を照らし出したことが語られています。
これは私たちが住む地球が、太陽系の星集団であり、
太陽系星集団が属する銀河系は、
二千億個もの星集団によって形成されているという宇宙の構造と重なります。
http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/2contents121.html
上記アドレスとアドレス内の内容は、創価系ではありませんので、
そこのところを考慮してご覧ください。
146
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 14:08:52 ID:zLvwUaR.0
>>121
西遊記。
唐の時代にインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の
長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、
道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、
虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、
物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に
無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し
取経を果たすまでを描いている。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/西遊記
三蔵法師については、時代は異なり四人。
鳩摩羅什(羅什三蔵)、真諦三蔵、不空金剛(不空三蔵)、玄奘三蔵。
三蔵法師。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/三蔵法師
岩波文庫、西遊記.全10巻では、仏教用語がたくさん出てきます。
あれっ? 阿難(あなん)、迦葉(かしょう)まで出てきます。
>>121
のアドレス内の内容で如来を南無阿弥陀仏とありますが、
西遊記.岩波版の第1巻でも、
「 西方極楽浄土の釈迦牟尼世尊は、南無阿弥陀仏 」と言っています。
正しくは、阿弥陀如来の西方「極楽浄土」 です。
こういう間違いが起こると言うのは、
それは教典、論書を間違えて訳した人によると、日蓮大聖人は言われています。
例に、不空三蔵の評価を語り、
鳩摩羅什(羅什三蔵)の訳した法華経はなぜ評価が高いのか、について、
大白蓮華2012.6月号p108「 撰時抄 現代語訳 」より
次のように述べられています。
次で、、、紹介します。
147
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 15:34:42 ID:zLvwUaR.0
>>146
の続き。
途中より〜
「 不空三蔵は間違うことが多かった。
すなわち、彼が訳した[法華経観智儀軌]で寿量品の仏を
阿弥陀仏と書いているのは、誰でも気が付く大間違いの解釈である。
更に、法華経の諸品の順序に関して陀羅尼品を神力品の次に置いたり、
嘱累品を経の最後に置いたりしているのは口にするだけの値打ちもない。
そうかと思えば、天台の大乗戒を盗み、
唐の代宗皇帝に宣旨を申請して、大乗戒壇を五台山の五つの寺に立てている。
しかも一方では、真言の教相判釈には天台宗の教相を用いるのが
よいと言っている。いずれにしても人を欺くものである。
他の人の訳であれば用いることもあろうが、この人の訳した
経典や論書は信じられない。
インドから中国に経典や論書を訳して伝えた人は、旧訳と新訳を
合計して百八十六人いる。羅什三蔵 (鳩摩羅什)一人を除いては、
どの人も間違いのないことはなかった。
その中でも不空三蔵は、特に誤りが多いうえに、人を欺く心が歴然としている。
〜中略〜
羅什三蔵は[ 私は中国で翻訳されたあらゆる経典を見てみたが、
みな、梵語(サンスクリット)で読む時とは意味の食い違いがある。
どうしたら、このことをはっきりさせることができるだろうか。
しかし、私には一つの大願がある。身を不浄にして妻帯をすることがあっても、
ただ舌だけは清浄にして仏法について偽りを語ることはしない。
もし私が死んだら、必ず遺体を焼きなさい。
焼いた時に舌が焼けたなら、私の訳した経を捨てなさい ]と、
常に高座でお述べになっていた。
皇帝から庶民に至るまでのすべての人々は、
だれもが[ どうにかして羅什三蔵より後に死にたいものだ ]と願っていた。
続く、、、。
148
:
首都高バトル01
:2012/06/02(土) 15:59:39 ID:zLvwUaR.0
” 前記の下文の省略が 続く. だけで、クリックされた皆さん、
無駄なことをさせてしまい申し訳ありません。
今からの方は、省略部分は、 続く. だけなのでよろしくです。”
続き。
「 ついに羅什が亡くなった後、遺体を火葬に付したところ、
不浄の身はみな、灰となったが、舌だけは火の中に生じた青蓮華の上にあった。
それは五色の光を放って、
夜は昼のように明るく、昼は太陽の光もかすむほどであった。
このようなことがあったからこそ、羅什以外のあらゆる翻訳者が訳した
諸経典は価値が下がり、羅什三蔵が訳された諸経典、
特に法華経は中国で容易に広まったのである。 」
149
:
首都高バトル01
:2012/06/03(日) 22:03:07 ID:zLvwUaR.0
*考察。
地湧千界の大菩薩〜
「此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり」開目抄より。
六即に約せば、分身即は、
境智冥合するところに現れる一往は個々の個性を持ちながら
釈迦牟尼仏の分身である。再往は、御本仏日蓮大聖人の分身である。
故に末法において、日蓮大聖人の仏法を信じ行ずる者は、皆地湧の菩薩である。
また地湧の菩薩は、総別の地湧がある。
御義口伝p751「又云く千草万木・地湧の菩薩に非ずと云う事なし」
→これは、かなりの境地にならないと理解するのは難しい。
このことから、開目抄の諸仏分身から御本尊分身散体の理がわかってくる。
池田先生ありがとうございます。
・本部幹部会で紹介された名誉会長の指針より〜
「 学会員は、仏の使いであります。如来につかわされた身であります。
大聖人の分身であります。凡夫のすがたこそしておれ、
われら学会員の身分こそ、最尊、最高ではありませんか。
皆様の、その存在自体が尊いのである。」
150
:
首都高バトル01
:2012/06/03(日) 22:32:06 ID:zLvwUaR.0
*考察。
この世の中心に寂光世界、寂光土があり、そのまわりに
数々の世界宇宙(マルチバース、ユニバース、多元宇宙)がある。
釈迦牟尼仏の体(身体)は、娑婆世界宇宙(虚空会の儀式で三変土田、
二処三会で娑婆世界にある衆生の住む国土は、寂光浄土であることを
仏は証明する。)、分身の諸仏の体は、宇宙に無数にある各銀河、
その中に日天(太陽)、月天(月)があり衆生の住む国土
(惑星、地球)がある。
参考。
「 天文学と仏法を語る 」 第三文明社 2009.5.3刊 ¥1500(税込)
対談者 ロナウド・モウラン
項目 4 宇宙へのまなざし、人間へのまなざし
・宇宙の未来はどうなるか ・古代世界の宇宙観の英知
・仏教の説く「須弥山宇宙説」
・「多宇宙」仮説と「三千大千世界説」
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-148.html
151
:
首都高バトル01
:2012/06/04(月) 00:25:27 ID:zLvwUaR.0
*考察。
法華経を実践する者には、虚空会の儀式であらゆる諸天が
末法の法華経の行者を守る誓願を立てている。「 一切の諸天・不退に守護すべき経文文明なり〜臨兵闘者皆陣列在前 」である。御書p1070
釈迦如来、多宝如来がうなずき合うように、依報にある非情界は、正報の有情界が十法界の衆生の現れた生命を受け止めると言うことである。つまり国土が十界のそれぞれの相になるのは、人々、衆生の心の現れである。衆生の心清ければ寂光土となるのである。しかし寂光土は、衆生の心清ければ寂光土となるが単なる人々の心が写っているだけなのかと言うとそうではない。人がいようがいまいが、元々は寂光土なのである。源は絶待である。考察あれ。
仏の国土、仏国土は仏が住すから仏国土。それだけではない。
国土そのものも仏の身体なのである。源、本源が絶待ならば国土、世界は仏そのものである。ここに依正不二の原理から国土、世界は寂光土も仏と寂光の仏が、
穢土、娑婆世界の姿を現しているにすぎない。娑婆世界の非情界のものすべては、釈迦牟尼仏(と分身)なのである。問う、仏が娑婆世界なら非情有情すべて釈迦牟尼仏ではないのか!答える、これより先は難信難解に入っていく。
非情界は空の領域に入っている(中有)非情界はどこまでが釈迦牟尼仏でどこからが万象の生命なのか、区切る地点は、凡人の身であるので答えることはご容赦願いたい。ただ言えることは、仏界を中心に九界があるごとく、また人の体から十界の生命が現れるごとく、大地という体から数々の生命が誕生する。
草木にもなる仏なら、仏だけでなくあらゆるものを生命と捉えるとあらゆる生命も草木になったりすると言うことである。十界の衆生の生命に従い衆生の相と同じ相を現すが娑婆世界を釈迦牟尼仏と確定して、そこに誕生する非情界の生命は、釈迦牟尼仏と万象の生命が混合一体となって存在すると言うことである。
(十界内在、十界互具の生命があるごとく)さらに非情界の万象の生命は釈迦牟尼仏と不二の関係にある。釈迦牟尼仏と非情界の万象の生命は共存共栄で一体である。いやさらに別体でありながら溶け込んでいる。問う!木が森に溶け込んでいるのはわかるがそれでも大地と木は別々で溶け込んでいるようには見えないではないか!答える。溶け込んでいると言う表現が理解を妨げるならば大地と木、木から大地に手を差し伸べるように大地と木は固い絆で結ばれている。
続く、、、。
152
:
首都高バトル01
:2012/06/04(月) 02:15:20 ID:zLvwUaR.0
非情界のものは、見えないところで釈迦牟尼仏と、とと言うより、釈迦牟尼仏に一体になっているのである。故に釈迦牟尼仏と同じ思いで有情界に接している非情界を(総じて)釈迦牟尼仏と捉えるのである。これは一往の考えである。
「千草万木・地湧の菩薩に非ずと云う事なし」さらに源を辿ればそう言うことである。また非情界が信仰の対象にされるが、非情界の源が対象でなければいけない。それが法であり、法体である。法体は、生身の仏である。
文の上から見ると、仏(迹仏)、釈尊、娑婆世界。
文の底、秘し沈めてあるところから見ると、本仏、日蓮大聖人、寂光土。
*考察。
理想と現実は対と捉えるが、理想が現実ではないと言うことではない。
もともと現実は理想なのである。ただ現れた世界が現実と言うことである。
つまり末法は、九界の衆生の生命がそのまま映し出された世界である。
今は九界の現実は現実(に現れた世界)と受け止めるとして、文底独一本門.事の一念三千と言うのは仏の眼から見れば、この世の中、理想で成り立っていると言うことである。
理想と現実、法華経は「現実は、究極(文底から見ると)、この世の中は理想、希望で出来ている。」と主張する。
総勘文抄より、
本来、寤(うつつ)(実、仏の世界が本来)が現実で、夢(この場合の夢は、九界がそのままの形で現れる世界)は幻(権、まぼろし)と言われている。
この「現実は究極、この世の中は理想と希望で出来ている。」の言葉に、
実際、強い一念を観じるし、そこに喜び、感動、歓喜がこの言葉により、
心の底から出てくる。
理想、希望を形にできるのは、この信心である。御本尊に題目を唱えると元気になる、御本尊は理想と希望そのものであるから冥合すれば元気になる。
「妙法はあらゆる生命を貫く宇宙の根本の法です。」大白蓮華6月号より。
人は現実と言えば、情け、慈悲もなにもない、孤独でむなしい苦しい、厳しく
辛い冷たくさめた人を嫌う世界と思っている。
映画で言うと、韓国映画「悪魔を見た」「ドリームホーム」、
日本映画、園子温監督作「冷たい熱帯魚」、
アメリカ映画、デンゼルワシントンがアカデミー主演男優賞を獲った
「トレーニングデー」、古くは「食人族」等、また「北斗の拳」で描かれる世界観、虚無感を感じる世界、厳しく辛いのが現実と今の世の中の人は捉えている。
続く、、、。
153
:
首都高バトル01
:2012/06/04(月) 03:29:28 ID:zLvwUaR.0
これは外道(人を罵る、罵倒する言葉としてではなく仏教の使用するところの)
が捉える「常楽我浄」である。
厳しい映画であるがマイケルチミノ監督作「ディアハンター」は、人を思いやる
心が描かれている。仏の説く「常楽我浄」は、まさにこの世は真実、理想、
希望で出来ていると言っているのである。それが文底独一本門・事の一念三千の南無妙法蓮華経である。九界の衆生が創った現実が、彼等が主張する現実が
本当の現実と思い込まされている。九界の衆生にとって居心地がいい、
都合がいい、自分の欲望が満足できる、権力は摂ったもの勝ち、仏が説く法がわからず、理解できず数々の過去に仏を避けた人々が末法に生まれてくる。
仏の言葉がまわりにないから居心地がいいのである。
しかし娑婆世界は、九界の衆生を教化するために、彼等が生まれやすいように
用意された世界である。さらに末法は一番法華経が理解できない衆生が
生まれてくる。その衆生の教化、人々に説く役割を地湧の菩薩に委(まか、任)せられたのである。この用意されたという、誕生し、住することができる所が、
国土であることを人々(九界の衆生)は知らないのである。
地湧の菩薩が凡夫として末法に生まれ法華経の行者としてその姿(示同凡夫)で
九界の衆生は法華経(真実の法)を理解する。日蓮大聖人は寂光土そのままの
生命。あらゆるものは寂光土(その法、南無妙法蓮華経)から生まれる(生命は
永遠で無始無終である。生まれるとは、活動し始める、活動が生まれると言うことである。)をすべての衆生が知るように、地湧の菩薩の役割は重要である。
源をしっかり押さえておけば、すべてはいい方向に繋がっていく。しっかりした
信心は、源をしっかり押さえていると言うことである。
信心がしっかりしていれば必ずいい方向に繋がっていくのである。源があるから繋がるのである。源を知らなければ、しりきれトンボになると言うことである。
せっかくいい行いをしてもあとに繋がらない、バラバラのまま、もったいない。
円融、総の三諦と言っても源をしっかり押さえておかなければひとつにならないと言うことである。根本原因がわからず応急処置ばかりやっていると、いつかは
患部が肥大して大変なことになる。途中でミスをして根本原因がわからず
隠蔽すれば、放っておくとこれも病巣が拡大し、さらに最悪になると言うこと
である。 続く、、、。
154
:
首都高バトル01
:2012/06/04(月) 04:54:25 ID:zLvwUaR.0
人生の羅針盤、因果倶時、最も速いナビーゲーター。
「本行は南無妙法蓮華経、助行は天真独朗」十八円満抄より。
やることはキチンとやってしっかり信心し、あらゆる分野、それぞれの分野で
自分を個性を輝かせながら自己の課題に挑戦しながら自由自在に地湧の菩薩の実践するその闘いの中に生命の持つ無限の可能性を切り開いていく、その真っ只中に自分及び我々がいることを自覚しようと言うことである。
*考察。
日蓮大聖人は寂光土そのままの生命。釈迦とて根本法界を対境にして成道する。
釈迦牟尼仏の身体が娑婆世界(国土は、もともと寂光土。そこに住む衆生の汚れた心が穢土、娑婆世界となっている)。はじめに仏が法を広める国土がない。
国土がなければ法を教化する生命が生まれ育たない。故に釈尊は成道を優先。
成道後、如来秘密神通力により、釈尊の身体、娑婆世界と言う釈迦牟尼仏となる
(牟尼仏は、のどかな牛の鳴き声と修行するものと言う意味であるが、首都高バトル01は、尼はすべてを産む意と捉える、仏性を内在する理由である。)
これは、一往の考え方。
神というものはなにかについては、諫暁八幡抄参照。
すべてのものは無始無終。この世に実在する中心(南無妙法蓮華経)、上上品の寂光土、無始無終の本有を対境に起こる。(皆、すべてはそこが対境。
地湧の菩薩だけ本源そのままが生まれかわり)。
地湧の菩薩は、死に住する時が、短い。...本源そのものは、すぐ本源に帰り
本源を対境にする国土にすぐさま立ち返り生まれる。地湧の菩薩は釈迦牟尼仏の娑婆世界に生まれる。仏、久遠成道より地湧の菩薩を教化する。
地湧の菩薩は一往の立場。本化(本源そのままの)、本法(南無妙法蓮華経)
所持に注目。本源、中心の寂光土より直接、凡夫として娑婆世界に生まれる。
釈尊のように、成道してから仏に分身、生身するのではなく、凡夫として本源の生命のままに生身する。久遠成道後の仏は、一旦、仏、生化(世界、国土として常住、化身、現身、分身、生身)して世界、国土に生まれる衆生に法を説くゆえ
に垂迹仏である。
続く、、、。
155
:
首都高バトル01
:2012/07/12(木) 21:19:12 ID:zLvwUaR.0
続きは、また後程(まだまだ長く貯まっています。
今は、寂光世界との関係において釈迦牟尼仏が娑婆世界を体にして虚空と国土が
どのようにして現れるか?に迫っています。例えば日蓮大聖人が竜の口で
諸天、万象を味方にして揺り動かされたように、釈迦牟尼仏が諸天、万象(要素、素粒子の段階?)を味方にして(共同作業であること)娑婆世界を体として現れるか?
その如来秘密神通之力に迫ります。、、、陽の目をみないかも、、、?
それより話は変わりますが、
要は、振り幅だと思う。
帰納法ですすめると、ズバッと一本なのです。振れはありません。(信心)
しかし世法は、振り幅があります。答えが無数にあって、
またその答えは未知なもの。帰納法でむやみに突き進むとケガのもと。
慎重にと言う考え方です。
ベストなものを探すのには、演繹法が適していると思う。
例えば、例えば、まことにじれったいと見ている方にはそう見えてしまう。
地道に地道に、その振り幅を縮めて一本の平和にしていく。時間がかかる。
池田先生は、かの有名な学生部総会で、平和についてはお互いの対話を通して
演繹法で取り組み答えを見出していこうと、言われました。
地道に地道に一本の平和に縮めていく。
真実を知らない人達には言わせておけばいい。二枚舌とか、言行不一致とか、
勝利するまでの耐えながらの戦いです。、、、政治や世間との戦い。
156
:
沖浦克治
:2012/07/13(金) 06:44:02 ID:8e4TDRhU0
首都高バトル01さん、おはようございます。
帰納法は原理主義。
演繹法は現実主義。
そう言う観点もありますね。
157
:
首都高バトル01
:2012/07/18(水) 21:12:47 ID:zLvwUaR.0
沖浦さん、どうもです。
演繹と帰納は自分としては、もっと単純に考えています。
演繹は捜索、探す。 帰納は検証。 そういう観点もあるかと。
(例)アメリカ映画「眼下の敵」
出演:ロバートミッチャム、クルトユルゲンス。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
眼下の敵
http://micchii.blog4.fc2.com/blog-entry-623.html
http://www.youtube.com/watch?v=RWeUySTTaW8
・主義主張の違う対立国の二人の艦長、、、
優れた思考と法は、主義主張の垣根を超える。
こういう見方もあるかと。
少し違いますが、最近作では、
韓国映画「マイウェイ」出演:オダギリジョー、チャンドンゴン
これも主義主張の違う二人の話。
最後はどうなるか? 感動作です。
・キーワード
ハッピーエンディング。
電光石火。
池で泳ぐアヒルの姿。
とにかく主義で言うなら、
平和主義で行きましょう〜。
沖浦さん、賛同していただけますよね..。
158
:
沖浦克治
:2012/07/18(水) 21:48:15 ID:8e4TDRhU0
私は誰とでも喧嘩するように言われますが、平和主義者です。
自分から喧嘩売ったことないですよ。
首都高バトル01 さん、本当なんです。
159
:
首都高バトル01
:2012/07/19(木) 00:09:00 ID:zLvwUaR.0
参考。
・蓮祖は、使命の戦いに臨む門下に仰せになられた。
「釈迦・多宝・十方の仏・来集して我が身に入りかはり
我を助け給へと観念せさせ給うべし」(御書P.1451)
http://newfnet.blog62.fc2.com/blog-entry-221.html
160
:
首都高バトル01
:2012/07/20(金) 16:56:23 ID:zLvwUaR.0
参考。
http://d.hatena.ne.jp/kasiini/20120709/p3
161
:
首都高バトル01
:2012/07/20(金) 17:32:20 ID:zLvwUaR.0
あたりまえのこと。
ついでに、
数年前、母親がガンになり、指導を受け、学会活動、法戦も戦い抜き、
題目もあげきり、ガンが治る。あたりまえ(ほんとの話)。
もちろん地域の学会の皆さんの励ましと皆さんの題目のおかげ。
母親は、地域でいつも新聞啓蒙は、トップもしくは上位。
闘病中、抗がん剤治療を受けるが頭髪は、抜けることなく
いつも通りフサフサ。
その母親でも辛かったのは、幹部指導どおりに入院中の病院の一階から全館、
見ず知らずの人に選挙のお願いしたこと。その翌日、、、治った。うそみたい。
でもこれは、あたりまえのこと。(その時は必死です。)
162
:
首都高バトル01
:2012/08/07(火) 12:36:08 ID:zLvwUaR.0
参考
大蔵経(一切経)
大蔵経(一切経) リサーチ・ナビ(国立国会図書館)
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101024.php
http://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.manual?id=2000000696
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