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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
705
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/29(日) 09:58:06 ID:ttu.J7n20
くまめも3
質問者 真我を実現したと言われる人たちも笑ったり泣いたりするのは、彼らが欲望や恐れから自由になっていないのか?
M 真我を実現した人たちは、内面で覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守っている。
マインドでは理解できない。
なぜならマインドは理解し、把握するために訓練されてきたからだ。
ジニャーニは理解も把握もしていない。
あなたは記憶の創造物だ。
私はまったく想像されないもの、私は私だ。
いかなる身体的、あるいは精神的状態とも同一化不可能なのだ。
私は起こることすべてに気づいている純粋な気づきのままとどまる。
たとえ身体が死ぬこも、同様。
私に世界は必要ない。私はそのなかにいない。
あなたが考えている世界はあなたのマインドのなかにある。
私はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。
それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられる。
私は私自身を知っているとさえ言えない。
私が知っているのは、私は描写不可能、定義不可能なものだということ。
マインドが達することのできるもっとも遠い果てを越えると、そこには広大な広がりがある。
その広大な広がりが私の家なのだ。
広大さが私自身だ。
そしてその広大さはまた愛でもある。
706
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/29(日) 10:48:44 ID:oX49riF20
くまとめ
マインド(個人の心)による理解は記憶に照らし合わせた理解。
真我を実現した人たちは、身体的、精神的状態とも同一化不可能。
起こることすべてに気づいている純粋な気づきのままとどまる。
私(真我)は描写不可能、定義不可能。
内面で覚めていて明晰であり、自分自身の反応を冷静に見守っている。
ジニャーニは(記憶との照合による)理解も把握もしていない。
世界はあなたのマインドのなかにある。
私(真我)はそれが記憶の投影であることに完全に気づいている。
それはただ、今という気づきの点においてのみ実在によって触れられる。
707
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/29(日) 21:52:00 ID:1d4drIFg0
悟った者はもはや笑ったり泣いたりしないというのも観念なのじゃ。
悟っても笑ったり泣いたりできるのじゃ。
ただそれに囚われないのじゃ。
衆生のために観念遊戯に付き合っているだけであるからのう。
心は常に自由なのじゃ。
708
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/29(日) 22:42:53 ID:j5h71ERU0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 4
質問者 あなたは愛をいたるところに見ます。一方、私は憎しみや苦しみを
見るのです。人類の歴史は、個人的そして集団的殺戮(さつりく)
の歴史です。ほかのいかなる生き物も殺すことにこれほど喜びを感
じはしません。
マハラジ
もしあなたが動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだすだろう。
自分自身、そして自己への愛を。
人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦うのだ。
質問者 そのために死をも厭(いと)わないならば、彼らの愛はまさに本物
に違いありません。
マハラジ
愛はかぎりないものだ。
数人の人にかぎられたものを愛と呼ぶことはできない。
質問者 あなたはそのような無限の愛を知っているのでしょうか?
マハラジ
知っている。
質問者 それはどう感じられるのでしょうか?
マハラジ
すべては愛され、愛すべきものなのだ。
何ひとつ例外はない。
質問者 たとえ醜く罪を犯した人も愛されるべきなのでしょうか?
マハラジ
すべては私の意識のなかに在る。
すべては私のものなのだ。
自分自身を好きや嫌いで分割することは狂気だ。
私はその両方を超えている。
私は疎外されないのだ。
質問者 好き嫌いから自由になることは無関心の状態です。
マハラジ
はじめのうちはそう見え、そう感じられるかもしれない。
そのような無関心に屈せずにいなさい。
そうすればそれはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開くことだろう。
『私は在る』(p550-551)
709
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/29(日) 23:16:06 ID:j5h71ERU0
くまめも4
質問者 私は憎しみや苦しみを見る。人類の歴史は、個人的、集団的殺戮の歴史。
M 動機のなかに入っていけば、そこに愛を見いだす、
人びとは彼らが愛していると想像しているもののために戦う。
愛はかぎりないもの。
数人の人にかぎられたものは愛と呼べない。
すべては愛され、愛すべきもの。
何ひとつ例外はない。
醜く罪を犯した人も愛されるべきか?
すべては私の意識のなかに在る。
すべては私のもの。
自分自身を好き嫌いで分割することは狂気。
私はその両方を超えている。
私は疎外されない。
はじめのうちは、好き嫌いから自由になることは無関心の状態の様に見え、そう感じられるかもしれない。
そのような無関心に屈せずにいれば、それはすべてに浸透し、すべてを抱擁する愛へと花開く。
(´・(ェ)・`)
710
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/30(月) 22:45:08 ID:1d4drIFg0
世界とは心の反映であるから心に憎しみや苦があるものは世界にもそれを観るのじゃ。
愛があれば愛しか見えないのじゃ。
それは自他の区別も無い愛なのじゃ。
全てがそれなのじゃ。
711
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/30(月) 23:02:37 ID:awwvAPLk0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 5
質問者 マインドが花や炎になったと感じられるような瞬間があります。し
かし、それらは継続せず、人生は灰色の日々に戻ってしまうのです。
マハラジ
あなたが具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則なのだ。
継続的なものを体験することはできない。
それには境界がないからだ。
意識とは交替を必ずともなうものだ。
変化につぐ変化、ひとつのこと、あるいはひとつの状態が終わると別がはじ
まる。
通常の意味において、境界線のないものを体験することはできないのだ。
人はただ、知ることなしにそれで在ることができるだけだ。
だが、それではないものを知ることはできる。
そして間違いなく、それはつねに動いている意識の内容すべてではない。
質問者 もし不動なるものが知られないとすれば、それを実現することの意
味と目的は何なのでしょうか?
マハラジ
不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということだ。
そして、その目的は生きるものすべてにとっての善なのだ。
質問者 生命は運動であって、不動は死です。生命にとって死が何の役に立
つというのでしょう?
マハラジ
私は不動性について話しているのであって、静止の状態についてではない。
公正さのなかであなたは不動となるのだ。
あなたはすべてのものごとを正す力となるのだ。
それは強烈な外的活動を意味するかもしれない、しないかもしれない。
だが、マインドは深く静かになるのだ。
質問者 私がマインドを見守ると、それはつねに変わり続けています。無限
の多様性のなかでひとつの気分が別の気分にとって代わります。一
方、あなたは絶えず明るい慈愛に満ちた気分の中にいるように見え
ます。
マハラジ
気分はマインドのなかにあり、重要なことではない。
内側に入っていきなさい。
超えていきなさい。
意識の内容に気をとられてはならない。
あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯(たわむ)れ
は、もはやあなたに影響を与えないことを見いだすことだろう。
質問者 それでもやはり同じ戯れはあるのでしょうか?
マハラジ
静かなマインドとは死んだマインドではないのだ。
『私は在る』(p550-551)
(´・(ェ)・`)つ
712
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/30(月) 23:52:23 ID:awwvAPLk0
くまめも5
質問者 マインドが花や炎になったと感じられるような瞬間はあっても、継続しない。
M 具象的なものと関わるときは、非継続性がその法則。
継続的で境界線がないものは体験できない。
意識とは交替を必ずともなう。
人は知ることなしにそれで在ることができるだけ。
だが、それではないものを知ることはできる。
不動なるものを実現するとは、不動なるものに成るということ。
その目的は生きるものすべてにとっての善。
不動性の話しは、静止の状態(死)の話ではない。
公正さのなかであなたは不動となる。
あなたはすべてのものごとを正す力となる。
マインドは深く静かになる。
気分の変化はマインドのなかにあり、重要ではない。
内側に入っていきなさい。超えていきなさい。
意識の内容に気をとられてはならない。
あなたが真の存在の深層に達したとき、マインドの表層での戯れは、もはやあなたに影響を与えないことを見いだす。
(´・(ェ)・`)
713
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/03/31(火) 22:58:09 ID:1d4drIFg0
不動の心とは死んだ心ではないのじゃ。
刺激があれば反応するのじゃ。
しかし、それによって動揺はしないのじゃ。
囚われることも無いのじゃ。
囚われず、動揺しないから不動心なのじゃ。
714
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/31(火) 23:12:48 ID:aKdLskp20
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 6
質問者 意識はつねに運動のなかにあり、それは観察可能な事実です。不変
の意識というものは相矛盾しています。あなたが静かなマインドに
ついて語るとき、それはいったい何なのでしょうか? マインドと
は意識と同じものではないのでしょうか?
マハラジ
言葉はその文脈にしたがって、たくさんの異なった使い方をされるというこ
とを覚えておかねばならない。
実際、意識と無意識の間にはわずかな違いしかない。
それらは本質的に同じものだ。
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なっている。
気づきの一光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目
覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れるのだ。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気
づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。
質問者 もし気づきが普遍ならば、盲目の人が真我を実現すれば見えるよう
になるのでしょうか?
マハラジ
あなたは感覚と気づきを混同しているのだ。
ジニャーニはあるがままの彼を知っている。
彼は身体が不自由であり、マインドがある感覚的認識の範囲を奪われている
ことにも気づいている。
だが、彼は視野の有効性、あるいはその不在に影響されはしないのだ。
質問者 私の質問はもっと特定のものです。盲目の人がジニャーニになった
とき、彼の視野は回復するのでしょうか、どうでしょうか?
マハラジ
彼の目、あるいは脳が修復されないかぎり、どうして彼に見ることができる
だろう?
質問者 しかし、彼は手術を受けるでしょうか?
(´・(ェ)・`)つ
715
:
避難民のマジレスさん
:2020/03/31(火) 23:20:11 ID:aKdLskp20
くまめも6
質問者 意識はつねに運動のなかにあり、不変の意識というものは相矛盾している。
静かなマインドとは、何なのか?
マインドとは意識と同じものではないのか?
M 言葉はその文脈にしたがって、異なった使い方をされる。
意識と無意識は本質的に同じもの。
目覚めの状態は観照者の存在ゆえに眠りの状態とは異なる。
気づきの光線がマインドの一部分を照らし、その一部分が私たちの夢や目覚めの意識となり、同時に気づきは観照者として現れる。
観照者は普通、意識だけを知っている。
サーダナとは、観照者をまず彼の意識へと向きを変え、それから彼自身の気づきのなかの自己に向けることで成り立っているのだ。
ヨーガとは自己覚醒なのだ。
質問者 もし気づきが普遍ならば、盲目の人が真我を実現すれば見えるようになるのか?
M あなたは感覚と気づきを混同している。
ジニャーニはあるがままの彼を知っている。
彼は身体が不自由であり、マインドがある感覚的認識の範囲を奪われていることにも気づいている。
だが、彼は視野の有効性、あるいはその不在に影響されはしないのだ。
(´・(ェ)・`)
716
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/01(水) 23:47:14 ID:1d4drIFg0
意識と言葉にして言うのも実は意識ではないのじゃ。
語ることが出来ないものにあえて名前をつけているだけなのじゃ。
それを感じるものは居らず、あるということさえ本来言えないものじゃ。
言葉にして伝えなければわからない者のために無理に言葉にして現しているだけなのじゃ。
717
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/02(木) 00:13:01 ID:9LpStdNw0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 7
マハラジ
受けるかもしれない、受けないかもしれない。
それはすべて運命と恩寵(おんちょう)にかかっているのだ。
だが、ジニャーニは非感覚的知覚の自発的な方法を制している。
それが彼にじかに感覚的器官を通さずとも、ものごとを直接知らしめるのだ。
彼は知覚や観念を超え、時間と空間、名前と形の領域を超えている。
彼は知覚されるものでも知覚する者でもない。
だが彼は知覚を可能にするシンプルかつ普遍の要因なのだ。
実在は意識のなかにある。
しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。
質問者 世界と世界に関する私の知識、どちらが偽りなのでしょうか?
マハラジ
あなたの知識の外側に世界は存在するだろうか?
あなたはあなたが知っていることの彼方へ行くことができるだろうか?
あなたはマインドを超えた世界を仮定するかもしれない。
だがそれは証明されない、証明されることのできない概念としてとどまるの
だ。
あなたの体験があなたの証拠だ。
そしてそれはあなたにとってのみ有効なのだ。
ほかの人びとがあなたの体験のなかに現れるほどしか実在ではないとき、あ
なたの体験をほかの誰が体験することができるだろう?
質問者 私はそれほどまで絶望的に孤独なのでしょうか?
マハラジ
個人としてのあなたは孤独だ。
真の存在においては、あなたは全体なのだ。
質問者 あなたは私の意識内に現れる世界の一部分なのでしょうか、それと
も独立しているのでしょうか?
マハラジ
あなたが見ているものはあなたのものだ。
私が見ているものは私のものだ。
その二つにとって共通のものはほとんどない。
質問者 私たちを結びつける何か共通の要因がかならずあるはずです。
マハラジ
共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければなら
ない。
ただ普遍なるものだけが共通なのだ。
『私は在る』(p551-552)
(´・(ェ)・`)つ
718
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/02(木) 00:27:06 ID:9LpStdNw0
くまめも101-7
ジニャーニは非感覚的知覚の自発的な方法を制している。それが彼にじかに感覚的器官を通さずとも、ものごとを直接知らしめる。
彼は知覚や観念を超え、時間と空間、名前と形の領域を超えている。
彼は知覚されるものでも知覚する者でもない。
実在は意識のなかにある。
しかし、それは意識ではなく、その内容でもない。
あなたの知識の外側に世界は存在するか?
あなたはあなたが知っていることの彼方へ行くことができるか?
あなたはマインドを超えた世界を仮定しても、証明されることのできない概念としてとどまる。
あなたの体験があなたの証拠だ。
それはあなたにとってのみ有効なのだ。
ほかの人びとがあなたの体験のなかに現れるほどしか実在ではないとき、あなたの体験をほかの誰が体験することができるか?
質問者 私はそれほど絶望的に孤独なのか?
M 個人としてのあなたは孤独だ。
真の存在においては、あなたは全体なのだ。
質問者 あなたは私の意識内に現れる世界の一部分なのか、それとも独立しているのか?
M あなたが見ているものはあなたのものだ。
私が見ているものは私のものだ。
その二つにとって共通のものはほとんどない。
共通の要因を見いだすためにあなたは分別心を完全に捨て去らなければならない。
ただ普遍なるものだけが共通なのだ。
(´・(ェ)・`)
719
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/02(木) 22:00:31 ID:1d4drIFg0
孤独というのも自己があり、自己の他に何かがあると認識することから起こるのじゃ。
全てが一つであれば、孤立も孤独も無いのじゃ。
自他も無いからなのじゃ。
孤独や孤立は謬見なのじゃ。
全体であることが真実なのじゃ。
720
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/03(金) 00:19:32 ID:tWzJzOOk0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 8
質問者 非常に奇妙なこととして私を驚愕(きょうがく)させるのは、あな
たは、私が単なる記憶の産物であり、はなはだ限定されていると言
うにもかかわらず、私は広大で豊かな世界を創造し、そのなかには
あなたやあなたの教えも含んだすべてを包含しているということで
す。この広大さがいかにしてつくられ、小さな私のなかにそれが含
まれるのかということが理解しがたいことなのです。あなたは真理
のすべてを私に与えてくれているのかもしれません。しかし、私は
そのわずかな部分しか把握していないのです。
マハラジ
それでも、それが事実なのだ。
小さきものが全体を投影する。
だが、それは全体を包含できないのだ。
いかにあなたの世界が偉大で完全であっても、それは自己矛盾し、無常で、
つまりは夢まぼろしなのだ。
質問者 それは幻想かもしれません。しかしそれでも驚嘆すべきことです。
私が見、聞き、触れ、匂い、味わい、考え、感じ、記憶し、想像す
るとき、私はただ自分の奇跡的な創造力に驚くばかりです。顕微鏡
や望遠鏡を通して不思議を覗(のぞ)き、原子の軌道を追い、星の
ささやきに耳を傾けます。もし私がこれらすべての唯一の創造者で
あるなら、確かに私は神にちがいありません! しかし私が神なら
ば、なぜこんなに小さく現れ、自分自身に対して絶望的なのでしょ
うか?
マハラジ
あなたは神だ。
だが、あなたはそれを知らないのだ。
質問者 もし私が神ならば、私が創造した世界は真実であるに違いありませ
ん。
マハラジ
本質的にそれは真実だ。
だが、現れにおいてはそうではない。
欲望と恐れから自由になりなさい。
そうすれば一度にあなたの視野は開け、すべてのものごとをあるがままに見
ることだろう。
あるいはサトグナ(サットヴァの質)が世界を創造し、タモグナ(タマスの
質)がそれを覆い隠し、ラジョグナ(ラジャスの質)がそれを歪ませると言
ってもいい。
(´・(ェ)・`)つ
721
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/03(金) 01:06:34 ID:tWzJzOOk0
くまめも101-8
質問者 私が単なる記憶の産物であり、限定されており、且つ、私は広大で豊かな世界を創造し、すべてを包含している。
広大さがいかにしてつくられ、小さな私のなかにそれが含まれるというのか。
M 小さきものが全体を投影する。
だが、それは全体を包含できない、
いかにあなたの世界が偉大で完全であっても、それは自己矛盾し、無常で、夢まぼろし。
質問者 私が神ならば、なぜこんなに小さく現れ、自分自身に対して絶望的なのか?
もし私が神ならば、私が創造した世界は真実であるに違いない。
M 本質的にそれは真実だ。
だが、現れにおいてはそうではない。
欲望と恐れから自由になれば、一度に視野は開け、すべてのものごとをあるがままに見ることができる。
サトグナ(サットヴァの質)が世界を創造し、タモグナ(タマスの質)がそれを覆い隠し、ラジョグナ(ラジスの質)がそれを歪ませる。
※サットバ照明.ラジャス活動.タマス惰性
(´・(ェ)・`)
722
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/04(土) 00:57:31 ID:1d4drIFg0
世界を創造した者が神ならば人は正しく神なのじゃ。
しかし、それは無知の神なのじゃ。
自分が世界を創っていることも知らない神なのじゃ。
あるがままの世界も知らず、欲と恐れの世界を創っているだけなのじゃ。
723
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/04(土) 01:25:16 ID:5Ac76umw0
『I AM THAT 私は在る』101 ジニャーニは理解も把握もしない 9
質問者 それではたいして説明になっていません。もし私がその質とは何か
と尋ねれば、その答えは創造するもの―覆い隠すもの―歪ませるも
のとなるでしょう。何か信じがたいことが私に起こったのです。そ
して私には何が、どのように、どうして起こったのか理解できない
でいるのです。
マハラジ
驚きとは智慧(ちえ)の兆しだ。
着実に一貫して驚きつづけることがサーダナなのだ。
質問者 私は理解できない世界に住んでいて、それゆえ恐れているのです。
これがすべての人の体験です。
マハラジ
あなたがあなた自身を世界から切り離したために、それがあなたを苦しめ脅
かすのだ。
あなたの過ちを発見しなさい。
そして恐れから自由になりなさい。
質問者 あなたは私に世界を放棄しろと求めていますが、私は世界のなかで
幸福になりたいのです。
マハラジ
もしあなたが不可能を求めるなら、誰があなたを助けるというのだろう?
限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するように
できているのだ。
もし不変不滅の真の幸福を探すならば、あなたは世界とその苦痛と快楽を後
にして立ち去らなければならないのだ。
質問者 どうすればいいのでしょうか?
マハラジ
単なる物理的な放棄は誠実さのしるしでしかない。
だが、誠実さだけで解放をもたらすことはできない。
そこには明敏な洞察、熱心な探求、深い調査とともに起こる理解がなければ
ならないのだ。
罪と悲しみからあなたを救済するためには、あなたはたゆまず努めなければ
ならないのだ。
質問者 罪とは何でしょう?
マハラジ
あなたを拘束するすべてだ。
『私は在る』(p552-554)
(´・(ェ)・`)
(おわり)
724
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/04(土) 01:28:08 ID:5Ac76umw0
くまめも101-9
M 自身を世界から切り離したために、それが苦しめ脅かす。過ちを発見し、恐れから自由になりなさい。
質問者 世界を放棄しろと求めるが、世界のなかで幸福になりたい。
M 不可能を求めるなら、助からない。
限定されたものはかならず苦痛を味わい、その後に快楽へと交替するようにできている。
不変不滅の真の幸福を探すならば、世界とその苦痛と快楽を後にして立ち去らなければならない。
質問者 どうすればいいのか?
M 明敏な洞察、熱心な探求、深い調査とともに起こる理解が必要。
罪と悲しみからあなたを救済するためには、あなたはたゆまず努めなければならない。
質問者 罪とは何か?
M あなたを拘束するすべてだ。
(´・(ェ)・`)
725
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/04(土) 01:32:28 ID:5Ac76umw0
マハラジの『私は在る』完結であります。
最後まで読めてよかったであります。
明日から、Kの講読会さいかいであります。
(´・(ェ)・`)つ
726
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/04(土) 23:39:48 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。
マハラジもクリシュナムルティも全く同じことを言っているのじゃ。
727
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/04(土) 23:43:33 ID:1d4drIFg0
世界は自らの心の反映である故に、理解できない世界は自らの心が理解できないから創造されるのじゃ。
自分を知ることが無ければいつまでも世界は理解できないままなのじゃ。
知識を得るためではなく、世界を理解するために自分の心を観察するのじゃ。
探求によって自分の心が理解できたときに、世界も理解されるのじゃ。
728
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/05(日) 00:10:35 ID:fBHCYJXA0
>>726
うむ。本当でありますね。
全くいっしょであります。
(´・(ェ)・`)b
729
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/05(日) 00:17:06 ID:fBHCYJXA0
変化の緊要
全体が見えること 1
質問者 あなたのお話を聞くとき、私はあなたが何について話しておられるのかを、言語的にだけではなく、はるかに深い水準で理解するように思われます。私はその一部です。私は私のすべてでもって、あなたの言われることの真理を十分につかみます。私は聞くことが鋭くなるし、花、樹々、あの雪山を見ることこそが、私はそれらの一部であることを、感じさせてくれるのです。この気づきのなか私は葛藤、矛盾を持ちません。それはまるで私が何でもできるかのようですし、私が何をしようとも真実であろうし、葛藤や苦しみをもたらさないのでしょう。しかし、不幸にもその状態は長続きしないのです。おそらくそれは、お話を聞いている間の一、二時間続くのです。私が講話を去るとき、すべて蒸発するし、私はかつていたところに戻るように思われます。私は私自身に気づこうとします。私は、あなたの話を聞くとき私のあった状態を思い出しつづけ、それに至ろうとしつづけ、それに取りすがるし、これは格闘になるのです。あなたは言われました - 「あなたの葛藤に気づきなさい。あなたの葛藤を聞きなさい。あなたの葛藤の原因を見なさい。あなたの葛藤はあなた自身です」と。私は私の葛藤、私の苦しみ、私の悲しみ、私の混乱に気づきます。しかし、この気づきはどちみちこれらのものごとを解消しないのです。反対に、それらに気づくことは、それらに活力と持続を与えるように思われるのです。あなたは、選択なき気づきについて話されますが、それも再び私にもう一つの戦いを生み育てるのです。私は選択と判断と見解に満ちているからです。私はこの気づきを、私の持つ特定の習慣に適用してきましたが、それは去っていないのです。何か葛藤、抗争、緊迫に気づくとき、この同じ気づきは、それがすでに去ってしまったのかどうかを見届けようとしつづけます。そしてこれは、それを思い起こさせるように思われるし、それをけっして振り落とせないのです。
K 気づきは、何かへの参与ではありません。気づきは、内と外のどちらでも観察であり、そこでは方向が止まっているのです。あなたは気づきます。しかし、あなたが気づくもの・ことは、助長されたり養われていないのです。気づきは何かへの集中ではありません。それは、自らが何に気づこうかと選択し、一定の成果をもたらすためそれを分析する意志という行為ではありません。気づきは、葛藤、抗争のような特定の対象に、意図的に焦点を合わせられるとき、それは、集中たる意志の行為です。あなたが集中するとき、すなわち - あなたの精力と思考すべてを、読書をするのでもテレビを見るのでも、あなたの選択した辺境の内に置くときには、その排除のなか、あなたの集中しているもの・ことは、強められるし、養われるのです。それで、ここで私たちは、気づきの本性を理解しなくてはなりません。私たちは、気づきという言葉を用いるとき、何について話しているのかを理解しなくてはなりません。さて、あなたは特定のもの・ことに気づけるのか、その特定のもの・ことを全体の部分として気づけるのかのどちらかです。特定のもの・こと自体はほとんど意味を持ちませんが、しかし、あなたは総体が見えるとき、その特定のもの・ことは、全体と関係があるのです。その関係のなかにのみ、特定のもの・ことは、その正しい意味を持つのです。そればかりが重要にならないし、それは誇張されません。それで、本当の疑問はこうなのです - 生の全的過程が見えるでしょうか。それとも、特定のもの・ことに集中していて、かくして生の広野全体を逃すのでしょうか。広野全体に気づくことはまた、特定のもの・ことを見ることでもあるが、同時にそれの全体への関係を理解することなのです。あなたが怒っていて、その怒りを終わらせることに関心があるのなら、そのときあなたは注意の焦点を怒りに合わせるし、全体はあなたを回避するし、怒りは強められるのです。しかし、怒りは全体に相互に関係しあってあるのです。それで、私たちが全体から特定のもの・ことを分離するとき、特定のもの・ことは、それ自体の問題を生み育てるのです。
(´・(ェ)・`)つ
730
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/05(日) 00:25:04 ID:fBHCYJXA0
くまめも 1
気づきは、何かへの参与ではない。
気づきは、内と外のどちらでも観察であり、そこでは方向が止まっている。
あなたは気づく。しかし、あなたが気づくもの・ことは、助長されたり養われていない。
気づきは何かへの集中ではない。
それは、自らが何に気づこうかと選択し、一定の成果をもたらすためそれを分析する意志という行為ではない。
あなたが集中するとき、すなわち - あなたの精力と思考すべてを、あなたの選択した辺境の内に置くときには、集中しているもの・ことは、強められるし、養われる。
あなたは、特定のもの・ことに気づけるのか、その特定のもの・ことを全体の部分として気づけるのかのどちらか。
総体が見えるとき、その特定のもの・ことは、全体と関係がある。
その関係のなかにのみ、特定のもの・ことは、その正しい意味を持つ。
生の全的過程が見えるか、特定のもの・ことに集中していて、生の広野全体を逃すのか。
広野全体に気づくことはまた、特定のもの・ことを見ることでもあるが、同時にそれの全体への関係を理解すること。
全体から特定のもの・ことを分離するとき、特定のもの・ことは、それ自体の問題を生み育てる。
731
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/05(日) 22:38:22 ID:1d4drIFg0
>>723
そうじゃ、大悟したものは全て同じ真実が見えているからなのじゃ。
732
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/05(日) 22:40:12 ID:1d4drIFg0
気付きとは自らの意志で行うことではないのじゃ。
観察の結果として起こるものじゃ。
そこに自我の介入は無いのじゃ。
自らを含む全体性への一瞬の理解が気付きなのじゃ。
733
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/06(月) 00:34:03 ID:WmYR.fM.0
変化の緊要
全体が見えること 2
質問者 全体が見えるとはどういう意味なのでしょうか。あなたが話しておられるこの全体とは、特定のもの・ことが詳細であるところのこの広汎な気づきとは、何なのでしょうか。それは、何か神秘的で不可思議な敬虔なのでしょうか。そうなら、私たちは完全に迷ってしまいます。それともおそらくこれが - 存在の広野全体があって、怒りはその一部分であるし、部分に関心を持つことは広汎な知覚を閉め出すことであるというのが、あなたの言っておられることなのでしょうか。しかし、この広汎な知覚は何なのでしょうか。私はその特定のもの・ことすべてをとおしてのみ全体が見えるのです。そして、全体とはどういう意味なのでしょうか。あなたは心の全体について話しているのでしょうか。存在の全体についてでしょうか。私自身の全体についてでしょうか。生の全体についてでしょうか。全体とはどういう意味で言われるのでしょうか。私はどうすればそれが見えるのでしょうか。
K 生の広野全体です。心。愛。生にあるものごとすべてです。
質問者 私はいったいどうすればそのすべてが見えるのでしょうか!私は、私に見えるものごとすべてが部分的であるし、私の気づきすべては特定のもの・ことの気づきであるし、これが特定のもの・ことを強めることが、理解できるのです。
K このように表しましょう - あなたは、あなたの心と頭で分離的に知覚するのでしょうか。それとも、断片的にではなくすべていっしょに見え、聞こえ、感じ、考えるのでしょうか。
質問者 言われることがどういう意味なのかを、わたしは知りません。
K あなたは言葉を聞きます、あなたの頭はあなたに、それは侮辱であると語るし、あなたの感情はあなたはそれが好きではないと語るし、あなたの頭は制御するため、正当化するため再び干渉するなどします。頭が結論したところをもう一度、感情が引き受けるのです。このとおり、出来事は、あなたの存在のさまざまな諸部分の連鎖反応を解き放つのです。あなたに聞こえることは、砕かれて、断片化したのです。そしてあなたがそれら諸断片の一つに集中するなら、あなたはその聞こえるという全的過程を逃すのです。聞こえることは、断片的でもありうるし、あなたのすべてで全的にもできるのです。それで、私たちのいう全体の知覚とは、あなたの眼、あなたの耳、あなたの心、あなたの頭での知覚、という意味です。分離的にそれぞれでの知覚ではありません。それは、あなたの完全な注意を与えることなのです。その注意のなか、怒りといった特定のもの・ことは、他の多くの主題に相互に関係しあってあるうえは、違った意味を持つのです。
質問者 それで、あなたが全体が見えると言われるとき、あなたの存在全体で見えるという意味です。それは量ではなく質の問題です。それで正確でしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
734
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/06(月) 00:49:49 ID:WmYR.fM.0
くまめも2
質問者 全体とはどういう意味か。
K 生の広野全体。心。愛。生にあるものごとすべて。
質問者 どうすればそのすべてが見えるのか。
K あなたは、心と頭で分離的に知覚するのか。それとも、断片的にではなくすべていっしょに見え、聞こえ、感じ、考えるのか。
言葉を聞きく→頭はそれは侮辱であると語る→感情はそれが好きではないと語り、頭は制御するため、正当化するため再び干渉する。
出来事は、存在の諸部分の連鎖反応を解き放つ。
聞こえることは、砕かれて、断片化した。
それら諸断片の一つに集中するなら、その聞こえるという全的過程を逃す。
聞こえることは、断片的でもありうるし、あなたのすべてで全的にもできる。
全体の知覚とは、眼、耳、心、頭での知覚、という意味。
それは、完全な注意を与えること。
その注意のなか、怒りといった特定のもの・ことは、他の多くの主題に相互に関係しあってあるうえは、違った意味を持つ。
全体が見えるとは、あなたの存在全体で見えるという意味。それは量ではなく質の問題。
(´・(ェ)・`)
735
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/06(月) 22:55:21 ID:1d4drIFg0
気付きは全体を一瞬にして理解するものじゃ。
それは分裂した思考や感情の認識とは違うのじゃ。
例えば怒りが起こればそれを人は自らの怒りと認識する。
しかし、気付きがあれば怒りは原因から自動的に起こるものと理解するじゃろう。
そこに自分は無いのじゃ。
怒りが原因から起こる全体が見えたから自分は無いと気付くのじゃ。
736
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/06(月) 23:09:52 ID:U4L1IKMM0
変化の緊要
全体が見えること 3
K はい、まさしくそのとおりです。しかし、あなたはこのとおり全的に見えるのでしょうか。それとも単に、それを言語化しているだけでしょうか。あなたは、あなたの心、頭、耳、眼で怒りが見えるでしょうか。それとも怒りが、何かあなたのその他に無関係な(もの)、ゆえに大きな重要性あるものとして、見えるでしょうか。あなたは全体に重要性を与えるとき、特定を忘れません。
質問者 しかし、特定のもの、怒りには何が起きるのでしょうか。
K あなたはあなたの存在全体で怒りに気づきます。そうであるなら、怒りはあるのでしょうか。注意ではなく、不注意が怒りです。それで、あなたの全存在での注意は全体が見えることですし、不注意は特定のもの・ことが見えることなのです。全体に、そして特定のもの・ことに、そして二つの間の関係に気づくことが、問題全体です。私たちはその他から特定のもの・ことを分割するし、それを解決しようとするのです。それで葛藤、抗争は増大するし、抜け出す道はないのです。
質問者 それでは、あなたが怒りという特定のもの・ことのみが見えることについて語られるとき、あなたの存在の一部分のみでそれを見つめるという意味で言われるのでしょうか。
K あなたがあなたの存在の断片で特定のもの・ことを見つめるとき、その特定のもの・ことと、それを見つめている断片との間の分割は、成長するし、それで葛藤、抗争は増大するのです。分割がないときには、葛藤、抗争はないのです。
質問者 私が私の存在すべてでこの怒りを見つめるとき、それと私との間には分割がないと言われているのでしょうか。
K そのとおりです。これは、あなたが現行としてなしていることなのでしょうか。それとも、あなたは単に言葉に従っているだけでしょうか。現行として何が起きているのでしょうか。このほうが、あなたの疑問よりもはるかに重要です。
質問者 あなたは私に、何が起きているのかと訊ねられます。私はただ単にお話を理解しようとしているだけです。
K あなたは私の話を理解しようとしているのでしょうか。それとも、私たちが話していることの真理が見えているのでしょうか - それは私に依存しないのです。もしあなたは、私たちが話していることの真理が現行として見えるなら、そのときあなたはあなた自身の導師で、あなた自身の学徒です。これはあなた自身を理解することなのです。この理解は他の人から学べないのです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
737
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/06(月) 23:13:23 ID:U4L1IKMM0
くまめも3
あなたの存在全体で怒りに気づく。
そうであるなら、怒りはあるのか。
注意ではなく、不注意が怒り。
あなたの全存在での注意は全体が見えることだし、不注意は特定のもの・ことが見えること。
全体に、そして特定のもの・ことに、そして二つの間の関係に気づくことが、問題全体。
私たちはその他から特定のもの・ことを分割するし、それを解決しようとする。
それで葛藤、抗争は増大するし、抜け出す道はない。
分割がないときには、葛藤、抗争はない、
私が私の存在すべてでこの怒りを見つめるとき、それと私との間には分割がない。
もしあなたは、私たちが話していることの真理が現行として見えるなら、そのときあなたはあなた自身の導師で、あなた自身の学徒。
これはあなた自身を理解すること。
この理解は他の人から学べない。
(´・(ェ)・`)
738
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/07(火) 23:16:28 ID:1d4drIFg0
怒りが自らの自尊心を傷つけられたからと起こるならば、それを社会的な立場から抑制しようとする思いも起こるじゃろう。
そのような葛藤や抗争が心の中で常にあるじゃろう。
それが分裂している心の状態なのじゃ。
怒る感情や抑制しようとする思考に全て気付いたならばそこに分裂は無いのじゃ。
そのように全体として気付くのじゃ。
739
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/07(火) 23:23:06 ID:GCcX4vsE0
変化の緊要
道徳 1
質問者 美徳あるとはどういうことなのでしょうか。何が人をして正しく行為させるのでしょうか。道徳の基礎は何なのでしょうか。私はどのように、美徳のために格闘せずに美徳を知るのでしょうか。それはそれ自体で終わりの目的なのでしょうか。
K 私たちは、本当は全く非道徳的である社会の道徳を捨てされるでしょうか。その道徳は体裁よくなり、宗教的裁可により是認されたのです。そして、反体制的革命の道徳もまたすぐ、確立された既成社会のそれと同じく、非道徳的で体裁よくなるのです。この道徳は、戦争に行くこと、殺すこと、攻撃的であること、権力、勢力を探し求めること、憎しみに場所を与えることです。それはすべて確立した既成の権威の残酷と不正義です。これは道徳的ではありません。しかし、それは道徳的ではないと現行として言えるのでしょうか。なぜなら、私たちはそれを意識していてもいなくても、この社会の部分であるからです。社会的道徳は私たちの道徳であるし、私たちは容易にそれを片づけられるでしょうか。私たちがそれを片づける容易さが、私たちの道徳性のしるしです - 私たちがそれを片づけるために費やされる努力ではなく、この努力の報賞でもなく、処罰でもなく、私たちがそれを捨て去るところの完璧な容易さです。私たちの行動が、私たちの生きる環境により方向づけられ、それにより制御され形作られるなら、そのときそれは機械的で、重く条件づけられているのです。そして、私たちの行動が私たち自身の条件づけられた応答から出てきたものであるなら、それは道徳的なのでしょうか。あなたの行為が恐怖と報賞に基づくなら、それは美徳があるのでしょうか。あなたが何か思想的概念や原理に応じて正しく行動するなら、その行為は美徳あると見なされるのでしょうか。それで、私たちは、どれほど深く私たちが権威、模倣、順応、服従の道徳を捨て去ったのかを、見出しはじめなければなりません。恐怖は、私たちの道徳の基礎ではないのでしょうか。これらの疑問が自分自身で基本的に解答されるのでないのなら、真に美徳あるとはどういうことなのかは知られません。私たちが言いましたように。あなたがどのような容易さをもってこの偽善から出てくるのかが、最も重要であるのです。もしあなたが単にそれを放置するだけなら、それは、あなたが道徳的であることを表示しないのです。あなたは単に精神病であるのかもしれません。もしあなたが課業と安堵の生を生きるなら、それもまた道徳ではないのです。順応し、聖人たることの確立された既成の伝統に従う聖人の道徳は、明白に道徳ではありません。それで、伝統が裁可してもしなくても、様式へのどんな順応も、正しい行動ではないことが、分かるのです。ただ自由のなかから、美徳は出てこれるのです。
道徳的であると考えられるもの・ことのこの網から、たいへんな巧みな技術でもって、自由になれるでしょうか。行為の技術は自由とともに来るし、美徳もそうなのです。
(´・(ェ)・`)つ
740
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/07(火) 23:32:43 ID:GCcX4vsE0
くまめも1
本当は全く非道徳的である社会の道徳を捨てされるか。この道徳は、戦争に行くこと、殺すこと、攻撃的であること、権力、勢力を探し求めること、憎しみに場所を与えること。それはすべて確立した既成の権威の残酷と不正義。これは道徳的ではない。しかし、それは道徳的ではないと現行として言えるのか。なぜなら、私たちはそれを意識していてもいなくても、この社会の部分であるから。
私たちがそれを片づける容易さが、私たちの道徳性のしるし。私たちの行動が、私たちの生きる環境により方向づけられ、それにより制御され形作られるなら、そのときそれは機械的で、重く条件づけられている。私たちは、どれほど深く私たちが権威、模倣、順応、服従の道徳を捨て去ったのかを、見出しはじめなければならない。あなたがどのような容易さをもってこの偽善から出てくるのかが、最も重要。ただ自由のなかから、美徳は出てこれる。道徳的であると考えられるもの・ことの網から、たいへんな巧みな技術でもって、自由になれるか。行為の技術は自由とともに来るし、美徳もそう。
(´・(ェ)・`)
741
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/08(水) 22:28:03 ID:1d4drIFg0
社会の道徳とは為政者に都合の良いように作られた命令に過ぎないのじゃ。
民に殺人を禁止しながら死刑や戦争で人を殺させるのじゃ。
そこには欺瞞と強欲があるばかりなのじゃ。
宗教がそれに承認を与えて来たのじゃ。
正しく観ることによってそれから抜け出すことも出来るのじゃ。
742
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/08(水) 23:35:03 ID:H6uNSVRw0
変化の緊要
道徳 2
質問者 私は、恐怖をもたず、技術たる智恵をもって社会的道徳から自由になれるでしょうか。私は、社会に不道徳的と考えられるというまさにその観念に、怯えています。若者はそれができるでしょうが、私は中年ですし、家族を持っています。私のまさに血には、体裁、(すなわち)ブルジョワの本質があるのです。
K あなたは社会的道徳を受け入れるのか、拒絶するのかのどちらかです。両方にはできません。あなたは片足を地獄に、片足を天国には入れられないのです。
質問者 では、私は何をすべきでしょうか。私はいま、道徳が何であるかが分かりますが、それでも私はすべてのときに非道徳的であるのです。私は年を取るほど、それだけ偽善的になるのです。私は社会的道徳を侮蔑しますが、それでも私はその利益、その安楽、快適さ、その心理的安心、物質的安全、うまい応対はほしいのです。それが私の現行の遺憾な状態です。私は何をすべきでしょうか。
K あなたは、あるままを続けていくほか、何もできません。道徳的であろうとするのを止め、美徳に関心を持とうとするのを止めるほうが、はるかによいのです。
質問者 しかし、それはできません。私はもう一つのがほしいのです!私はそれの美しさと活気、それの清潔さが分かるのです。私が取りすがっているものは、汚く醜いのです。しかし、私はそれを手放せないのです。
K そのとき、主題はないのです。あなたは美徳と体裁とを持てません。美徳は自由です。自由は観念、概念ではありません。自由があるとき注意があるし、ただこの注意のなか、善は花を開けるのです。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
743
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/08(水) 23:39:49 ID:H6uNSVRw0
くまめも2
質問者 私は非道徳的、偽善的。私は社会的道徳を侮蔑するが、それでもその利益、その安楽、快適さ、その心理的安心、物質的安全、うまい応対はほしい。それが私の現行の遺憾な状態。私は何をすべきか。
K あるままを続けていくほか、何もできない。道徳的であろうとするのを止め、美徳に関心を持とうとするのを止めるほうが、はるかによい。
質問者 それはできない。私はもう一つのがほしい!私はそれの美しさと活気、清潔さが分かる。私が取りすがっているものは、汚く醜い。しかし、私はそれを手放せない。
K そのとき、主題はない。あなたは美徳と体裁とを持てない。美徳は自由。自由は観念、概念ではない。自由があるとき注意があるし、ただこの注意のなか、善は花を開ける。
(´・(ェ)・`)
744
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/09(木) 22:24:42 ID:1d4drIFg0
誰も嘘をつきながら真実を言う事はできないのじゃ。
欺瞞である社会の道徳を信奉しながら、真実を見出すことも出来ないのじゃ。
どちらかを選ばなくてはならないのじゃ。
真実を選べば自らの真実を理解して悟りの道も開けるのじゃ。
745
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/09(木) 23:43:52 ID:.hDPa2pw0
-1変化の緊要
自殺 1
質問者 私は自殺について話したいように思います - 私自身の何かいのちの危機からではなく、また私が何か自殺の理由を持つからでもありません。老齢の悲劇 - 身体的崩壊、体がだめになること、これが起きるときの人々の本当の生の喪失 - が見えるとき、その主題は必ず迫ってくるからです。その状態に至るとき、いのちを長らえ、その余命を続けることに、何か理由があるのでしょうか。おそらく、生、いのちの有効性が済んだときを認識することは、智恵の行為ではないのでしょうか。
K もしも、あなたに生を終えるよう督促するのが智恵であったなら、まさにその智恵が、あなたの体が未熟なまま衰退するのを禁じていたでしょう。
質問者 しかし、心の智恵さえもこの衰退を防止できない瞬間がないのでしょうか。結局、体は擦り切れるのですが、それの来るときをどのよう認識するのでしょうか。
K 私たちはこれにかなり深く入るべきです。それに関与したものごとはいくつもあるでしょう。体、有機体の衰退、心の老衰、抵抗を生み育てる全くの無能力。私たちは慣習、嗜好、怠惰をとおして体を終わりなく濫用するのです。嗜好が命令します - そして、その楽しみが有機体の活動を制御し、形作るのです。これが起きるとき、体の自然な知恵は破壊されるのです。雑誌には、とてつもなく多様な食べ物が見られ、美しい色合いです。体にとって何が有益であるかに(訴えるの)ではなく、あなたの嗜好の楽しみに訴えるのです。それで、若い頃から先あなたは、大いに敏感で活動的で、完璧な機械のように作用しているべき器を、徐々に殺し、破壊するのです。それが一部分です。それから、二十年、三十年、八十年の間、常なる戦いと抵抗に生きてきた心が、あるのです。それはただ、情動的、知的な矛盾と葛藤、抗争のみを知っています。あらゆる形態の葛藤は、歪曲であるだけではなく、破壊をともなうのです。それでは、これらは、衰退の内と外の基本的要因のいくつかです - 孤立させる諸過程をもつ永続的な自己中心的活動、です。
自然に、体は不自然に擦り切れるのとともに、物理的に擦り切れることもあるのです。体は能力と記憶を失うし、老衰が徐々にまさるのです。あなたは訊ねます - そういう人物は自殺を行い、おしまいにしてくれる錠剤を摂るべきではないのでしょうか。誰がその疑問を訊ねているのでしょうか - 老衰した人たちでしょうか。老衰した人たちを、悲しみをもち、自分自らの衰退の絶望と恐怖をもって見守っている人たちでしょうか。
質問者 まあ、明白に私の視点からの疑問は、他の人々の老衰を見ることの悲嘆に、動機づけづけられています。というのは、おそらくそれはまだ私自身には始まっていないと思われるからです。しかし、体の予想される衰えをあらかじめ見越して、ひとたび有機体がもはや智恵ある生の能力がないとき続けていくことはただ単にむだではないかと疑問を問う知恵の行為もまた、何かあるのではないでしょうか。
K 医者は安楽死を許すでしょうか。医者や政府は、患者が自殺を犯すのを許可するでしょうか。
質問者 確かにそれは法律的、社会学的な疑問で、ある人々の心には道徳的な疑問です。しかし、それは、私たちがここで議論していることではないでしょう。私たちは、社会がそれを許可するのかどうかではなく、個人は自らの生を終わりにする権利を持つのかどうかを、訊ねていないのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
746
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/09(木) 23:49:17 ID:.hDPa2pw0
くまめも1
質問者 老齢の悲劇の状態に至るとき、いのちを長らえ、余命を続けることに、理由があるのか。生、いのちの有効性が済んだときを認識することは、智恵の行為ではないのか。
K 誰がその疑問を訊ねているのか - 老衰した人たちか。老衰した人たちを、悲しみをもち、自分自らの衰退の絶望と恐怖をもって見守っている人たちか。
質問者 体の予想される衰えをあらかじめ見越して、ひとたび有機体がもはや智恵ある生の能力がないとき続けていくことはただ単にむだではないかと疑問を問う知恵の行為もまた、何かあるのではないか。
K 医者や政府はは安楽死を許すか、患者が自殺を犯すのを許可するか。
質問者 社会が許可するかではなく、個人は自殺する権利を持つかを、訊ねている。
747
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/10(金) 23:37:24 ID:1d4drIFg0
老衰して自殺を考える者に、クリシュナムルティは既に若い頃から自分の体を殺していると言うのじゃ。
健康よりも嗜好を優先した食物などを摂る事で肉体を殺しているのじゃ。
それも自己中心的な活動によるものというのじゃ。
観念でしかない自我の喜びのために肉体を破壊して来た者が、老衰してから自殺を考えるのはそれもまた自己中心的な活動に他ならないのじゃ。
それをしているのは何かと、探求することだけが救いになるのじゃ。
748
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/11(土) 00:33:17 ID:L9KjyRNc0
変化の緊要
自殺
K あなたは、自らのいのちを取る権利があるのかどうかと訊ねています - 老衰していたり、老衰の接近に気づいたときだけではなく、いつでも自殺を犯すことは道徳的に正しいのかどうかと。
質問者 道徳は条件づけられたものであるから、私はそれに道徳を持ち込むのには躊躇します。私は、純粋に智恵という疑問について訊ねようと試みていました。幸運にも現時点で私は個人的にその主題に直面していないので、そうとう冷静にそれを見つめることができると思うのです。しかし、人間の智恵の行使として、答えはどうなのでしょうか。
K あなたは言っているのです - 智恵ある人は自殺を犯せるでしょうか。そういうことでしょうか。
質問者 または、一定の境遇を与えられると、自殺は智恵ある人の行為でありうるでしょうか。
K 同じことです。自殺はつまるところ、深い挫折をとおしてもたらされる完全な絶望から(来る)のか、または解決不可能な恐怖から(来るのか)、または一定の生き方の無意味さへの気づきから来るのかのどれかです。
質問者 言葉を差し挟ませていただけるなら、一般的にはそのとおりなのですが、私は、どんな動機づけをも外れて、その疑問を訊ねようとしているのです。絶望の点に至るときには、ものすごい動機が関与しているし、智恵から情動を分離することはむずかしいのです。私は、情動なく純粋な智恵の領域の内に留まろうとしているのです。
K 貴方は言っているのです - 智恵は、何らかの形態の自殺を許すでしょうか。明白に許しません。
質問者 なぜでしょう。
K 本当はこの智恵という言葉を理解しなくてはなりません。慣習をとおし、耽溺をとおし、嗜好、楽しみの養成などをとおして体が衰退するのを許すことは、智恵なのでしょうか。それは智恵なのでしょうか。智恵の行為なのでしょうか。
質問者 いいえ。しかし、体に効果は出ていないが、智恵に反する体の使用が一定量あったような生の点に至ったなら、戻って自らの生を再び生きることはできません。
K ゆえに、私たちの生き方の破壊的本性に気づき、それをいつか未来の日にではなく即時に終わりにしてください。危険の前での即時の無媒介の行為は、健全さ(の行為)、智恵の行為です。そして、楽しみの追求とともに後回しは、智恵の欠如を表示するのです。
質問者 それは分かります。
K しかし、あなたは、何か全く現実の所作 - 自己中心的活動をもつこの孤立的な思考の過程は、自殺の一形態であること - もまた見えないでしょうか。国家や民族の(孤立)や宗教組織の(孤立)や家族の(孤立)や共同体の(孤立)であっても、孤立は自殺です。あなたは、究極的に自殺につながるであろう罠に、すでに捕らわれているのです。
質問者 個人という意味で言われるのでしょうか。それとも、集団でしょうか。
K 集団とともに個人もです。あなたはすでに様式に捕らわれているのです。
質問者 それは究極的に自殺につながるのでしょうか。しかし、誰もがみんな自殺を犯すのではないのです!
K 全くそのとおりですが、逃避したいという願望の要素はすでにあるのです - 所作に向き合うことから、「有るもの」からの逃避、です。そしてこの逃避は、自殺の一つの形態です。
(´・(ェ)・`)つ
749
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/11(土) 00:40:49 ID:L9KjyRNc0
くまめも2
K 自殺する権利があるか−自殺は道徳的に正しいのかを訊ねているのか。
質問者 道徳は条件づけられたものであるから、道徳を持ち込むのには躊躇する。純粋に人間の智恵の行使として、答えはどうか。
K 自殺は、深い挫折をとおしてもたらされる完全な絶望からか、解決不可能な恐怖からか、生き方の無意味さへの気づきから来る。
質問者 どんな動機づけも外れて、情動なく純粋な智恵の領域に留まろうとしている。
K 智恵は、自殺を明白に許さない。
体が衰退するのを許すことは、智恵の行為ではない。生き方の破壊的本性に気づき、それを即時に終わりにすべき。危険の前での即時の無媒介の行為は、健全さ、智恵の行為。
何か全く現実の所作、自己中心的活動をもつ孤立的な思考の過程は、自殺の一形態であることもまた見えないか。孤立は自殺。あなたは、究極的に自殺につながるであろう罠に、すでに捕らわれている。
質問者 それは究極的に自殺につながるのか。誰もがみんな自殺を犯すのではない。
K 逃避したいという願望の要素はすでにある。所作に向き合うことから、「有るもの」からの逃避。この逃避は自殺の一つの形態。
(´・(ェ)・`)
750
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/11(土) 22:57:48 ID:1d4drIFg0
嗜好による選択や逃避をしている者は自殺をしているのと同じだとクリシュナムルティはいうのじゃ。
老衰してからの自殺も全く同じ逃避の一つでしかないのじゃ。
そこには何の智慧もなく、ただ苦から逃れようとする反応だけしかないのじゃ。
苦から逃避する反応だけならば単細胞生物と同じなのじゃ。
苦から逃避せずに、対峙して観ることから真の智慧の行いが始まるのじゃ。
751
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/11(土) 23:28:53 ID:kC3Eq5aA0
変化の緊要
自殺 3
質問者 これは、私がお訊ねようとしていることの核心であると思います。なぜなら、あなたが言われたばかりのことからは、自殺は逃避であるように思われるからです。明白に百度のうち九十九度はそうなのです。しかし、逃避ではなく、「有るもの」と言われるものの回避ではなく、反対に「有るもの」への智恵の応答である自殺も、またありえないでしょうか - これが私の疑問です - それもまたありえないでしょうか。多くの種類の神経症は自殺の形態であると言えます。私がお訊ねしようとしていることは、自殺は神経症的な応答より他でありうるのかどうかです。それもまた、所作に向き合うこと(の応答)、維持不可能な人間の状況に即して行為する人間の智恵の応答でありえないでしょうか。
K あなたが「智恵」と「維持不可能な状況」という言葉を用いるとき、それは矛盾です。二つは矛盾しているのです。
質問者 あなたは、断崖絶壁や咬みつこうとする毒蛇に向き合っているのなら、智恵は一定の行為を命令するし、それは回避の行為である、と言われました。
K それは回避の行為でしょうか。それとも智恵の行為でしょうか。
質問者 それらはときには同じではありえないでしょうか。もし車が高速道路で私に迫ってきて、私がそれを回避するのなら・・・
K それは智恵の行為です。
質問者 しかし、それはまた車を回避する行為でもあるのです。
K しかし、それは智恵の行為です。
質問者 まったくです。ゆえに。あなたの直面するものが解決不可能で命取りであるとき、生きることに必然的帰結はないのでしょうか。
K それなら、それを離れるのです - あなたが断崖絶壁を離れるように。それから歩み去ってください。
質問者 その場合、歩み去ることは自殺という含意です。
K いいえ。自殺は反智恵の行為です。
質問者 なぜでしょう。
K 私はあなたにそれを示しています。
質問者 あなたは、自殺の行為は断定的に必然的に生への神経症的応答である、と言われているのでしょうか。
K 明白です。それは反智恵の行為です。それは、明白に、あなたが完全に孤立したため抜け出す道が見えないほどの点に来てしまったと意味する行為です。
質問者 しかし、私はこの議論の目的のために、苦境を抜け出す道はないこと、苦痛の回避という動機からは行為していないこと、それは真実から歩み去ることではないことを、仮定しようとしているのです。
K 生には、あなたが歩みされない出来事、事件、関係があるのでしょうか。
質問者 もちろん多くあります。
K 多くですか。しかし、なぜあなたは、自殺がただ一つの抜け出す道であると主張するのでしょうか。
質問者 命取りの病気を持っているなら、それからの逃避はありえません。
K ここで気をつけてください。私たちが言っていることに気をつけてください。もし私が癌を持っていて、それでいのちが終了しそうになっていて、医者は「そうですね、あなたはそれとともに生きなくてはなりませんよ」と言うのなら、私は何をすべきでしょうか - 自殺するのでしょうか。
質問者 おそらくは。
(´・(ェ)・`)つ
752
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/11(土) 23:30:25 ID:kC3Eq5aA0
くまめも3
質問者 「有るもの」への智恵の応答である自殺も、ありえないか。所作に向き合うことの応答、維持不可能な人間の状況に即して行為する人間の智恵の応答でありえないか。
K 「智恵」と「維持不可能な状況」という言葉を用いるとき、それは矛盾。
質問者 ときには回避の行為と智恵の行為は同じではありえないか。直面するものが解決不可能で命取りであるとき、生きることに必然的帰結はないのか。
K それなら、それを離れるのです - あなたが断崖絶壁を離れるように。それから歩み去れ。
質問者 その場合、歩み去ることは自殺という含意。
K いいえ。自殺は反智恵の行為。
質問者 なぜか。
K 私はあなたにそれを示している。
質問者 自殺の行為は断定的に必然的に生への神経症的応答か。
K 明白です。それは反智恵の行為。それは、完全に孤立したため抜け出す道が見えないほどの点に来てしまったと意味する行為。
質問者 この議論の目的のために、苦境を抜け出す道はない、苦痛の回避という動機からは行為していない、真実から歩み去ることではないことを、仮定しようとしている。
K なぜあなたは、自殺がただ一つの抜け出す道であると主張するのか。
質問者 命取りの病気を持っているなら、それからの逃避はありえない。
K もし私が癌を持っていて、いのちが終了しそうになっていたら、私は自殺するのか。
質問者 おそらくは。
(´・(ェ)・`)
753
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/12(日) 23:20:37 ID:1d4drIFg0
どのように言い繕うと自殺は智慧のない行為なのじゃ。
そこには無知があるばかりなのじゃ。
快楽が無く、苦があるだけであるから逃避するということであるからのう。
どのような状況であろうと自らを知る努力は続けることが出来るじゃろう。
むしろそのように苦が多く、命も終わろうとする時こそ自分を知る大きなチャンスがあるものじゃ。
754
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 00:08:54 ID:Cz3UsmlA0
変化の緊要
自殺 4
K 私たちはこれを理論的に議論しています。もしも私が個人的に末期癌を持っていたなら、そのとき私は決断するでしょうし、何をすべきなのかを考慮するでしょう。それは理論的な疑問ではないでしょう。そのとき私は、何が最も智恵あるなすべきことなのかを、見出すでしょう。
質問者 あなたは、私がただ実際にその立場にあるのでないと、この疑問を理論的には訊ねられないと言われているのでしょうか。
K まさにそうです。そのときあなたは、あなたの条件づけに応じ、あなたの智恵に応じ、あなたの生きる道に応じて行為するでしょう。あなたの生きる道が回避と逃避、神経症的な事態であったのなら、そのとき明白に神経症的な態度と行為を取るでしょう。しかし、あなたが真実の智恵の生を - その言葉の全的な意味において - 送ってきたのなら、末期癌があるとき、その智恵が作動するでしょう。そのとき、私はそれに耐えるかもしれません。私は、私に残されたもう数ヶ月か数年を生きようと言うかもしれません。
質問者 そう言わないかもしれません。
K 私はそう言わないかもしれません。しかし、自殺は回避不可能であるとは言わないようにしましょう。
質問者 私は一度もそうは言っていません。私は、末期癌といった一定の逼迫した境遇のもとでは、自殺はおそらく状況への智恵ある応答でありうるのかどうかを、訊ねたのです。
K おわかりでしょうが、これには何かとてつもないことがあるのです。生はあなたに大いなる幸せをもたらしてくれました。生はあなたにとてつもない美しさをもたらしてくれました。生はあなたに大いなる利益をもたらしてくれました。あなたはそのすべてとともに進みました。同等に、あなたは不幸せであるとき、それとともに進みました - これも智恵の一部です。いまあなたは、末期癌に至ります。そして、「私はもはやこれに耐えられない。私は生を終わりにしなければならない」と言うのです。なぜあなたは、それとともに動き、それとともに生き、進んでいきながらそれについて見出そうとしないのでしょうか。
質問者 言い換えるなら、その状況にあるまで、この疑問には返答がないのです。
K 明白です。しかし、そういうわけで、私たちが瞬間に瞬間に所作に向き合い、「有るもの」に向き合う、それについて理論化しないことがとても重要であると私が感じるのは、分かるでしょう。もし誰かが病んで、絶望的な癌を病んでいたり、完全に老衰してしまったなら - 私のような単なる観察者にとってではなく、医者、妻、娘にとって、何が最も智恵あるなすべきことなのでしょうか。
質問者 本当はそれに答えられません。なぜなら、それは他の一人の人間にとっての問題であるからです。
K まさにそうなのです。それこそが、私の言っていることなのです。
質問者 そして、他の一人の人間の生や死について決断する権利はないように、私には思われます。
K しかし、私たちはそうするのです。暴政すべてはそうなのです。そして、伝統はそうなのです。伝統は、あなたはこのように生きなければならない、あなたはあのように生きてはならないと言うのです。
質問者 そしてまた、自然が譲ったであろう点を越えて人々を生かしつづけることが、伝統になろうとしています。医療技術をとおして、人々は、生かされつづけます - まあ、何が自然の状況なのかを定義することはむずかしいのですが、しかし、今日の多くの人々ほど長く生存しつづけることは、たいへん不自然に思われるのです。しかし、それは異なった疑問です。
(´・(ェ)・`)つ
755
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 00:17:56 ID:Cz3UsmlA0
くまめも7-4
K もしも私が末期癌なら、そのとき私は決断する。それは理論的な疑問ではない。そのとき何が最も智恵ある行為かを、見出す。
質問者 実際にその立場にあるのでないと、この疑問を理論的には訊ねられないか。
K まさにそう。そのとき、条件づけ、智恵、生きる道に応じて行為する。生きる道が回避と逃避、神経症的な事態であったなら、神経症的な態度と行為を取る。真実の智恵の生を送ってきたなら、その智恵が作動する。
そのとき、私は耐えるか、余生を生きようと言うか、そう言わないかもしれない。しかし、自殺は回避不可能であるとは言わないようにしよう!
質問者 末期癌といった逼迫した境遇のもとでは、自殺は状況への智恵ある応答でありうるのかを、訊ねた。
K 末期癌に至り「もはやこれに耐えられない。生を終わりにしなければならない」と言う。なぜ、それとともに生き、進んでいきながらそれについて見出そうとしないのか。
質問者 その状況にあるまで、この疑問には返答がないのか。
K 明白だ。私たちが瞬間瞬間に所作に、「有るもの」に向き合う、それについて理論化しないことが重要。もし誰かが絶望的な癌を病んでいたり、完全に老衰してしまったなら - 医者、妻、娘にとって、何が最も智恵あるなすべきことなのか。
質問者 人は、他の一人の人間の生や死について決断する権利はないと思われる。
K しかし、私たちはそうする。暴政すべてはそう。伝統はそう。伝統は、このように生きなければならない、あのように生きてはならないと言う。
(´・(ェ)・`)
756
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 00:32:57 ID:Cz3UsmlA0
くまめも7-5
不治の病気を持っていたとしても、何をなすべきなのかを、他人は語れない。彼の智恵に応じて行為すべき。愛、気づかい、敏感さ、優しさのある生を生きてきた、智恵がある人は、智恵に応じて行為する。
智恵をもって生きることが最も重要。それは心と体の鋭敏さを要求する。不自然な生き方により体の鋭敏さを破壊し、葛藤、抗争、をとおして心、頭脳をも破壊しつつある。このすべての否定である生の道を生きるなら、その智恵は、不治の病気に直面するとき、正しく行為する。それがただ一つの道。安全な家に坐り、人は自殺を犯すべきではないのかを訊ねるのは、無意味。
自殺を犯すべきかという疑問の裏には何が疑問を促進しているのか、何が自殺を犯したくさせているのかを、見出せ。何一つしたくないし、みんなに自分を支えてほしいという人や、頑固で疑い深く権力と地位に貪欲である人もまた、内的に自殺を犯している。彼はイメージ、像の壁の裏で生きる。自分自身、自分の境遇、生態環境、政治的権力、宗教のイメージ、像とともに生きるどの人も、すでに終了している。
質問者 そのように生きるのでないのなら、人生は一種の低調な存在。
K もちろんそう。ほとんどの人々は、自らの知識、願望、野心的な衝動、欲求の壁の裏で生きている。彼らはすでに神経症の状態にあるし、その神経症は彼らに一定の安全を与える。これは自殺の安全。
(´・(ェ)・`)
757
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 00:35:19 ID:Cz3UsmlA0
変化の緊要
自殺 5
K はい。全く異なった疑問です。本当の疑問はこうです - たとえ、不治の病気を持っていると医者に言われたとしても、智恵は自殺を許すでしょうか。この事情で何をなすべきなのかを、とうてい他の人へは語れません。不治の病気を持つ人間が、彼の智恵の応じて行為すべきなのです。彼はそもそも智恵があるのなら - それは、彼が、愛、気づかい、敏感さ、優しさのある生を生きてきたという意味であり、そのとき、こういう人物は、それが生ずる瞬間に、過去に作動してきた智恵に応じて、行為するでしょう。
質問者 それでは、この会話全体は、ある面では無意味です。なぜなら、それは、どちみち起きたであろうことですから - 人々は必然的に、過去に起きたことに応じて、行為するでしょうから。彼らは自分の頭を吹き飛ばすか、または座り込んで、死ぬまで苦痛を受けるか、またはその中間かのどれかでしょう。
K いいえ。無意味ではなかったのです。聞いてください。私たちはいくつものことを発見しました - 第一には、智恵をもって生きることが最も重要なことである、と。最高に智恵ある生の道を生きることは、心と体のとてつもない鋭敏さを要求するのです。そして、私たちは、不自然な生き方により体の鋭敏さを破壊してきました。私たちはまた、葛藤、抗争をとおし、常の抑圧、常の爆発と暴力をとおして心、頭脳をも破壊しつつあるのです。それで、このすべての否定である生の道を生きるなら、そのときその生、その智恵は、不治の病気に直面するとき、その瞬間に正しく行為するでしょう。
質問者 私はあなたに自殺についての疑問を訊ねましたが、正しい生き方についての解答を与えられたことが、分かります。
K それがただ一つの道なのです。橋から飛び降りる人は「私は自殺を犯すのだろうか」とは訊ねません。彼はそうしているのです。それで終了です。ところが、私たちが安全な家や研究室に坐り、人は自殺を犯すべきなのか犯すべきではないのかを訊ねるのは、意味はないのです。
質問者 それで、これは訊ねられない疑問です。
K いいえ。それは訊ねなければなりません - 自殺を犯すべきなのか、犯すべきでないのか、です。それは訊ねなければなりません。しかし、疑問の裏には何があるのか、何が疑問を促進しているのか、何が彼をして自殺を犯したくさせているのかを、見出してください。私たちは、いつも自殺すると脅しているけれども完全に怠けているから一度も自殺を冒したことはない人を、知っています。彼は何一つしたくないし、彼は誰でもみんなに自分を支えてほしいのです。こういう人はすでに自殺を犯してしまったのです。頑固で疑い深く権力と地位に貪欲である人もまた、内的に自殺を犯してしまったのです。彼はイメージ、像の壁の裏で生きるのです。それで、自分自身、自分の境遇、生態環境、政治的権力、宗教のイメージ、像とともに生きるどの人も、すでに終了しているのです。
質問者 私には思われるのですが、あなたが言われていることは、直接的に生きられないどんな生も・・・
K 直接的に智恵をもって。
質問者 イメージ、像、条件づけ、思考の影の外側で・・・そのように生きるのでないのなら、人生は一種の低調な存在です。
K もちろんそうなのです。ほとんどの人々を見てください。彼らは壁(の裏) - 自らの知識、自らの願望、自らの野心的な衝動、欲求の壁 - の裏で生きています。彼らはすでに神経症の状態にあるし、その神経症は彼らに一定の安全を与えるのです。これは自殺の安全です。
質問者 自殺の安全!
(´・(ェ)・`)つ
758
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/13(月) 22:22:51 ID:1d4drIFg0
記憶による知識や観念の中で生きるのは自殺と同じなのじゃ。
いつまでも同じことを繰り返しているうちに死んでしまうのじゃ。
それは執着と苦しか生まないからなのじゃ。
無知の中で死んでいくのみなのじゃ。
759
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 22:34:35 ID:tfvKwHPE0
変化の緊要
自殺 6
K たとえば歌手のように。彼にとり、声は最大の安全です。それが損なわれるとき、彼はいまにも自殺しようとしています。本当におもしろく真実であることは、大いに敏感で最高に智恵ある生の道を、自分自身で見出すことなのです。恐怖、心配、貪欲、妬み、羨み、イメージや像の構築、宗教的孤立の生活があるのなら、これは可能ではありません。その孤立は、諸宗教すべてが提供してきたところです。信じる人は決定的に、自殺のきわにいるのです。なぜなら、彼はある信念に自らの信仰すべてを置いてきたから、その信念が疑問となるとき、彼は恐れていて、いまにももう一つの信念、もう一つのイメージ、像をつけ、もう一つの宗教的自殺を犯そうとしているのです。それで、人はどんなイメージ、像もなく、どんな様式もなく、どんな時間感覚もなく、生きられるでしょうか。私がいうのは、明日何が起きるのか、昨日何が起きたのかを気にしないような生活、という意味ではありません。それは、生きることではないのです。「現在を受けて、それをできるだけ良くしよう」と言う人たちがいます。それもまた絶望の行為です。本当は、自殺を犯すのは正しいのか正しくないのかを訊ねるべきではないのです。何が、希望を持たない心の状態をもたらすのかを、訊ねるべきなのです - 希望は未来を含意するから、間違った言葉ではあるけれども。むしろ訊ねるべきなのです - 時間なくある生はどのように訪れるのでしょうか。時間なく生きることは本当は、この大いなる愛の感覚を持つことなのです。なぜなら、愛は時間のではないし、愛はかつてあったものや先にあるであろうものではないからです。これを探検しそれとともに生きることが、本当の疑問です。自殺を犯すべきか犯すべきでないかは、すでに部分的に死んでいる人の疑問です。希望は最も恐るべきものなのです。「地獄に入るとき、希望は後に置いて行け」と言ったのは、ダンテではなかったでしょうか。彼にとって天国は希望でした。これは恐ろしいのです。
質問者 ええ。希望は独自の地獄です。
(´・(ェ)・`)つ
760
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/13(月) 22:35:56 ID:tfvKwHPE0
くまめも6
K 本当におもしろく真実であることは、大いに敏感で最高に智恵ある生の道を、自分自身で見出すこと。恐怖、心配、貪欲、妬み、羨み、イメージや像の構築、宗教的孤立の生活があるのなら、これは不可能。
人はどんなイメージも、像も、様式も、時間感覚もなく、生きられるか。「現在を受けて、それをできるだけ良くしよう」と言う人たちも、また絶望の行為。
時間なくある生はどのように訪れるのか。時間なく生きることは、この大いなる愛の感覚を持つこと。なぜなら、愛は時間のではないし、愛はかつてあったものや先にあるであろうものではないから。これを探検しそれとともに生きることが、本当の疑問。
希望は最も恐るべきもの。「地獄に入るとき、希望は後に置いて行け」彼にとって天国は希望。
質問者 ええ。希望は独自の地獄です。
(´・(ェ)・`)
761
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/14(火) 22:24:18 ID:1d4drIFg0
希望とは今は無い状況とかものごとを未来に望むことであるから妄想なのじゃ。
しかし、恐れや不安のある者はそれに執着するのじゃ。
それがまた苦になるのじゃ。
そのような未来も過去も願わない、今ここにこそ幸福は在るのじゃ。
762
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/14(火) 23:15:12 ID:w4gM/.aE0
変化の緊要
修練 1
質問者 私はごく制約された境遇のなか、厳格な修練のなか育てられました。外的行動についてだけではなく、私は自分自身を修練し、私の思考と欲望を制御し、一定のものごとを規則的にやるように、教えられました。結果として、私はこんなにまわりに垣根を巡らし、そのため何も気楽に自由に幸せにできないほどなのです。私はこの放任の社会で身のまわりに起きていること - だらしなさ、汚いこと、くだけた行動、礼儀作法への無関心 - を見るとき、私は衝撃を受けるのです。同時に、私はこれらのものごとのいくつかを私自身やりたいと密かに願望するのですが。修練は一定の諸価値を課しましたけれども、それは、挫折と歪曲をともないました。しかし、確かに何らかの修練は必要です - たとえば、上品に坐ること、品良く食べること、気づかいをもって語ることです。修練なしには、音楽や文学や絵画の美しさは知覚できません。礼儀作法としつけは、日々の社会的交流におけるたいへん多くのあやを開示します。私が現代の世代を観察するとき、彼らは青年の美しさを持っていますが、修練なしには、それもすぐに薄れてしまうでしょうし、彼らもかなり退屈な老いた男、女になるでしょう。これらには悲劇があるのです。澄んだ眼と愛らしい微笑みのしなやかで熱心で美しい若者に会います。数年後に再び会うと、彼はほとんど認識不可能なほどなのです - だらしなく、冷淡で、無関心で、陳腐なことだらけで、体裁ばかりで、頑なで、醜く、閉じて、感傷的なのです。確かに修練は彼を救ったことでしょう。私はほとんで存在からして修練されてきましたが、この放任の社会と私が育てられた文化と間に、どこに中道があるのかとしばしば思うのです。修練の歪曲と抑圧なく生きながらも、自分自身のなかでは修練される道は、ないのでしょうか。
K 修練は、修学する、学ぶ、という意味です - 順応するのではなく、抑圧するのではなく、受け入れられた権威が高貴だと考えるものの様式を模倣するのではないのです。これはとても複雑な疑問です。それには、学ぶこと、きびしいこと、自由であること、敏感であること、愛の美しさを見ることと、いくつものこと関与しているからです。
学ぶなかに蓄積はありません。知識は学びとは違っています。知識は蓄積、結論、定式ですが、学びは常の動き、中心なき、始まりや終わりなき動きです。自分自身について学ぶには、学びに蓄積があってはなりません。もしあるのなら、それは自分自身について学ぶことではなく、単に蓄積された自分自身の知識に付け加えることなのです。学びは、知覚、見ることの自由です。そしてあなたは、自由でないなら、学べません。それで、まさにこの学びは独自に修練です - あなたはあなた自身を修練しそれから学ばなくてもいいのです。ゆえに、修練は自由です。これは、順応と制御のすべてを拒否します。制御は様式の模倣であるからです。様式は抑圧で、「有るもの」の抑圧です。そして、良いものと悪いものとの定式があるとき、「有るもの」について学ぶことは拒否されるのです。「有るもの」について学ぶことが、「有るもの」からの自由です。それで、学びは、最高の形態の修練です。学びは智恵と敏感さを要求するのです。
司祭と僧侶のきびしさは、荒いのです。彼らは自らの一定の欲望を拒否しますが、慣習が容赦た他の(欲望)は(拒否)しません。聖者は荒い暴力の勝利です。きびしさは一般的に、修練、しつけ、順応の残忍をとおした自己拒否と同定されるのです。聖者は、競技者のように、記録を破ろうとしています。この虚偽を見ることが、独自のきびしさをもたらします。聖者は愚かで偽物です。これを見ることが智恵なのです。こういう智恵は、果ての深みに飛び込び対極へ行くことがないでしょう。智恵は、両極端を理解し、ゆえにそれを回避する敏感さです。しかし、それは、二つの間の中間に留まる慎重な凡庸ではありません。このすべてを明らかに知覚することは、それについて学ぶことなのです。それについて学ぶには、結論と偏見のすべてからの自由があるのでなければなりません。こういう結論と偏見は、中心、自己からの観察です。それら(中心、自己)が志し、方向づけるのです。
(´・(ェ)・`)つ
763
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/14(火) 23:26:42 ID:w4gM/.aE0
くまめも1
修練は、修学する、学ぶ、という意味。順応、抑圧するのではなく、受け入れられた権威が高貴だと考えるものの様式を模倣するのではない。
学ぶなかに蓄積はない。知識は蓄積、結論、定式だが、学びは中心なき、始まりや終わりなき動き。自分自身について学ぶには、学びに蓄積があってはだめ。もしあるなら、単に蓄積された知識に付け加えること。学びは、知覚、見ることの自由。自由でないなら、学べない。学びは独自に修練。
順応と制御のすべてを拒否する。制御は様式の模倣であるから。様式は抑圧で、「有るもの」の抑圧。良いものと悪いものとの定式があるとき、「有るもの」について学ぶことは拒否される。「有るもの」について学ぶことが、「有るもの」からの自由。学びは、最高の形態の修練。学びは智恵と敏感さを要求する。
司祭と僧侶のきびしさは、荒い。きびしさは一般的に、修練、しつけ、順応の残忍をとおした自己拒否と同定される。聖者は愚かで偽物。これを見ることが智恵。こういう智恵は、果ての深みに飛び込み対極へ行くことがない。智恵は、両極端を理解し、ゆえにそれを回避する敏感さ。しかし、それは、二つの間の中間に留まる慎重な凡庸ではない。このすべてを明らかに知覚することは、それについて学ぶこと。それについて学ぶには、結論と偏見のすべてからの自由が必要。こういう結論と偏見は、中心、自己からの観察。それら(中心、自己)が志し、方向づける。
(´・(ェ)・`)
764
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/15(水) 22:52:54 ID:1d4drIFg0
知識を積み上げることは悟りには役に立たないのじゃ。
それはただ記憶による観念を積んでいるだけであるからのう。
心の学びは理解であり、気付くことなのじゃ。
そのようにして理解したり気付いたことさえも囚われずに進むべきなのじゃ。
常に初心に還って新たな理解を求めて自らを観るのじゃ。
765
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/15(水) 22:59:18 ID:J37r6Elk0
変化の緊要
修練 2
質問者 あなたは単に、適切に見るには客観的でなければならない、と言われているだけではないでしょうか。
K はい。しかし、客観的という言葉は十分ではありません。私たちが話していることは、顕微鏡の荒い客観性ではありません。慈悲、敏感さ、深さのある状態です。私たちが言ったとおり、修練は学ぶことです。そして、きびしさについて学ぶことは、自分自身や他の人へ暴力をもたらしません。一般的に理解されている修練は意志の行為です。これ(意志の行為)は暴力です。
世界中の人々は、自由は長期の修練の果報であると考えるように思われます。明らかに見ることは独自の修練です。明らかに見るには、制御された視覚ではなく自由があるのでなければなりません。それで、自由は、修練の終わりにあるのではなりません。自由の理解は独自の修練です。二つは分離不可能にともないます。あなたがそれらを分離するとき、葛藤、抗争があるのです。その葛藤、抗争を乗り越えるため、意志の行為が存在するに至り、もっと多くの葛藤、抗争を生み育てるのです。これは終わりなき連鎖です。それで、自由は終わりにではなく、始まりにあるのです。始まりは終わりです。このすべてについて学ぶことは、独自の修練です。学び自体が敏感さを要求します。もしあなたがあなた自身に - あなたの境遇、あなたの諸関係に - 敏感でないなら、身のまわりで、台所や世界で起きていることに敏感でないなら、そのときあなたは、どれほどあなた自身を修練しても、ますます鈍感に、ますます自己中心的になるだけです - そしてこれが、無数の問題を生み育てるのです。学ぶとは、あなた自身とあなたの外側の世界に敏感であることです。外側の世界はあなたであるからです。あなたがあなた自身に敏感であるのなら、必ず世界に敏感であるのです。この敏感さは、最高の形態の智恵なのです。それは専門家 - 医者、科学者、芸術家 - の敏感さではありません。そういう断片化は敏感さをもたらさないのです。
敏感さがないのなら、どうして愛せるでしょうか。感傷性と情動主義は敏感さを拒否します。なぜなら、それらは恐ろしく残酷であるからです。それらは戦争に責任があるのです。それで、修練は、軍曹の訓練、しつけではありません - 練兵場においてもあなた自身においても。それ(訓練、しつけ)は意志なのです。一日中、眠りの間にも学ぶことは、春の新しい若葉のように優しく、光のように速い、独自のとてつもない修練を持つのです。これには愛があるのです。愛は独自の修練を持つのです。それの美しさは、訓練され、しつけられ、形作られ、制御され、拷問される心を、避けるのです。こういう修練なしに、心はあまり遠くに行けません。
(´・(ェ)・`)つ
766
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/15(水) 23:05:07 ID:J37r6Elk0
くまめも2
私たちが話してることは、顕微鏡の荒い客観性ではない。慈悲、敏感さ、深さのある状態。修練は学ぶこと。きびしさについて学ぶことは、自身や他人へ暴力をもたらさない。
明らかに見ることは独自の修練。そのためには、制御された視覚ではなく自由が必要。自由の理解は独自の修練。二つは分離不可能。分離するとき、葛藤、抗争がある。その葛藤、抗争を乗り越えるため、意志の行為が存在するに至り、もっと多くの葛藤、抗争を生み育てる。これは終わりなき連鎖。自由は終わりにではなく、始まりにある。
学び自体が敏感さを要求する。もし自身に、境遇、諸関係、身のまわりで、台所や世界で起きていることに敏感でないなら、そのときどれほど自身を修練しても、ますます鈍感に、自己中心的になるだけ。これが、無数の問題を生み育てる。学ぶとは、自身と外側の世界に敏感であること。外側の世界はあなただから。自身に敏感であるのなら、必ず世界に敏感である。この敏感さは、最高の形態の智恵。断片化は敏感さをもたらさない。
敏感さがないのなら、どうして愛せるか。感傷性と情動主義は敏感さを拒否する。なぜなら、それらは恐ろしく残酷であるから。それらは戦争に責任がある。
一日中、眠りの間にも学ぶことは、優しく、速い、独自のとてつもない修練を持つ。これには愛がある。愛は独自の修練を持つ。それの美しさは、訓練され、しつけられ、形作られ、制御され、拷問される心を、避ける。こういう修練なしに、心はあまり遠くに行けない。
(´・(ェ)・`)
767
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/16(木) 23:31:33 ID:1d4drIFg0
意志による観察は自我を起こすために自我そのものを観ることはできないのじゃ。
意志によって観察しようとすればするほど自我も強固になってしまうのじゃ。
意志を放棄した観察によってこそ自我も観られるのじゃ。
自分と世界を自他に分裂させることのない真の智慧によってされは為されるのじゃ。
768
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/16(木) 23:49:06 ID:DfoKz9.60
変化の緊要
有るもの 1
質問者 私は哲学、心理学、宗教、政治についてたいへん多くを読んできました。それらのすべては大程度、小程度、人間的関係に関心を寄せるのです。私はまた、すべて思考と観念を扱うあなたの書物をも読みましたが、なぜだかそのすべてに飽き飽きしています。私は言葉の大海を泳いできたし、私の行く先々にはもっと多くの言葉があるのです。そして、それら言葉に由来する諸行為が、私に提示されるのです - 助言、訓戒、約束、理論、分析、療法です。もちろんこれらすべてをわきに置くのです。あなたは自分自身本当にそうされました。しかし、あなたの本を読んだり、話を聞いたりしてきた人たちのほとんどにとって、あなたの言われることはただの言葉です。このすべてが言葉以上であり、自らにとってそれが全く真実である人々がいるのかもしれませんが、私はその他の私たちについて話をしているのです。私は言葉を乗り越え、観念を乗り越えて、ものごとすべてとの全的関係に生きたいように思うのです。というのも、つまるところ、それが生であるからです。あなたは、自らが自分自身にとって教師と学徒でなければなくてはならないと言われました。私は原理、原則、信念、理想なく、最大の単純素朴さに生きられるでしょうか。私は、世界の奴隷になっているのを知りながら、自由に生きられるでしょうか。危機は現れる前に、扉を叩きません。日々の生活の(諸)挑戦は、それらに気づく前に、あるのです。このすべてを知り、さまざまな幻影を追いかけ、これらのものごとに関与してきましたが、私はどうすれば正しく、愛と明晰さと努力なき喜びをもって生きられるのかを、自分自身に問うのです。私はどのように生きるかを(訊ねているの)ではなく、生きることを訊ねているのです。「どうすれば」は、現行の生それ自体を拒否します。生の高貴さは、高貴さを実践することではないのです。
K このすべてを述べた後、あなたはどこにいるのでしょうか。あなたは本当に祝福と、愛とともに生きたいのでしょうか。そうしたいのなら、そのときどこに問題があるのでしょうか。
質問者 私はそうしたいのですが、それでは私はどうにも行かないのです。私はそのように生きたいと何年も思ってきましたが、できないのです。
K それで、あなたは理想、信念、指令を拒否するけれども、あなたはごく微細に婉曲に、誰もがみな訊ねる同じことを訊ねているのです。これは、「有るもの」と「有るべきもの」との間の葛藤です。
質問者 たとえ「有るべきもの」なしでも、私は「有るもの」がおぞましいことが分かります。それが分からぬように私自身を欺瞞することは、さらにもっと悪いでしょう。
K 「有るもの」が分かるなら、そのときあなたは宇宙、万物全体が分かるのです。そして、「有るもの」を拒否することが葛藤の起源です。宇宙、万物の美しさは、「有るもの」にあるのです。そして、努力なく「有るもの」と生きることが、美徳です。
(´・(ェ)・`)つ
769
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/16(木) 23:50:41 ID:DfoKz9.60
くまめも1
誰もがみな訊ねること、「有るもの」と「有るべきもの」との間の葛藤。
「有るもの」が分かるなら、そのときあなたは宇宙、万物全体が分かる。そして、「有るもの」を拒否することが葛藤の起源。宇宙、万物の美しさは、「有るもの」にある。そして、努力なく「有るもの」と生きることが、美徳。
(´・(ェ)・`)
770
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/17(金) 23:04:53 ID:1d4drIFg0
観念による理想を追求したならば今ここにあるものごとを取り逃がすことになるのじゃ。
観念の理想は過去の記憶によるものであるからのう。
過去の記憶を未来に持ち運ぼうとする虚しい努力と葛藤が苦になるだけなのじゃ。
それを捨てて今ここに在ることが全ての理想を実現する道なのじゃ。
771
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/17(金) 23:49:02 ID:3RsNK16Y0
変化の緊要
有るもの 2
質問者 「有るもの」はまた、混乱、暴力、あらゆる形態の人間の異常をも含みます。それと生きることが、あなたの美徳と呼ばれるものです。しかし、それは冷淡と狂気ではないでしょうか。完成は、ただ単に理想すべてを捨てることだけに存するのではないのです1生自体は、私が空の鷲のようにそれを美しく生きることを要求するのです。全的美しさより劣るものと(ともに)生の奇跡を生きることは、(論理的に矛盾し)受け入れられません。
K それなら、それを生きなさい!
質問者 私にはできないし、しないのです。
K できないのなら、そのときは混乱のなか生きなさい。それと戦ってはいけません。それの悲惨全部を知って、それと生きなさい。それが「有るもの」です。そして、葛藤なくそれと生きることで、私たちはそれを免れ、自由なのです。
質問者 あなたは、私たちのただ一つの過失は自己批判的であることである、と言われているのでしょうか。
K 全くそうではありません。あなたは充分に批判的ではないのです。あなたは、あなたの自己批判においてそこまで行くだけです。批判する当体こそが、批判されなければならないし、検討されなければならないのです。もし検討が比較により、物差しでの検討であるなら、そのときその物差しが理想です。全く物差しがないのなら - 言い換えると、いつも比較し測量している心がないのなら、あなたは「有るもの」を観察できるし、そのとき、「有るもの」はもはや同じではないのです。
質問者 私は物差しなしに私自身を観察します。それでもやはり私は醜いのです。
K 検討すべては、物差しがあるという意味です。しかし、ただ観察、見ることのみがあり、他には何もないように - 知覚者なくただ知覚のみがあるように、観察することは可能でしょうか。
質問者 それはどういう意味でしょうか。
K 見ることがあるのです。見ることの査定は、干渉(で)、見ることの歪曲です。それは見ることではありません。かわりにそれは、見ることの評価づけなのです - 二つは実は全く違っています。歪曲なしであなた自身の知覚があるのでしょうか、ただあるままのあなた自身の絶対的知覚が。
質問者 はい。
K その知覚に、醜さがあるのでしょうか。
質問者 知覚には醜さがありません。ただ知覚されるものだけにあるのです。
K あなたの知覚の仕方が、あなたのあることです。正しさは清浄に見ることにあるのです - それ(清浄に見ること)は、度量と観念の歪曲なしの注意です。あなたは、美しい、愛ある生き方を、探究しに来られました。歪曲なく見ることが愛なのです。その知覚の行為が美徳の行為です。その知覚の明晰さは、生きるなかすべてのときに行為するでしょう。それが、空の鷲のように生きることなのです。それが、美しさを生きること、愛を生きることなのです。
(´・(ェ)・`)つ
772
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/17(金) 23:53:06 ID:3RsNK16Y0
くまめも2
「有るもの」は、混乱、暴力、あらゆる形態の人間の異常をも含む。それと生きることは冷淡と狂気。それの悲惨全部を知って、それと生きなさい。それが「有るもの」。そして、葛藤なくそれと生きることで、私たちはそれを免れ、自由。
批判する当体こそが、批判されなければならないし、検討されなければならない。検討の物差しが理想。全く物差しがないのなら、いつも比較し測量している心がないのなら、あなたは「有るもの」を観察できる。
ただ観察のみがあり、他には何もないように、知覚者なくただ知覚のみがあるように、観察することは可能。見ることの査定は、干渉、見ることの歪曲。それは見ることではない。それは、見ることの評価づけ。二つは実は全く違う。歪曲なしで、ただあるままのあなた自身の絶対的知覚がある。その知覚に、醜さはない。
あなたの知覚の仕方が、あなたのあること。正しさは清浄に見ることにある。それは、度量と観念の歪曲なしの注意。歪曲なく見ることが愛。その知覚の行為が美徳の行為。その知覚の明晰さは、生きるなかすべてのときに行為する。それが、美しさを生きること、愛を生きること。
(´・(ェ)・`)
773
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/19(日) 10:29:18 ID:f9UzTcZg0
変化の緊要
探し求める者 1
質問者 私が探し求めているのは、何なのでしょうか。私は本当は知らないのですが、私のなかには、慰安や楽しみ、充足の満足をはるかに越える何かへのものすごいあこがれが、あるのです。私はたまたまこれらのものごとすべてを得てきましたが、これははるかに越える何かです - 解放されたいと泣き叫び、私に何かを語ろうとしている、底知れぬ深さでの何かです。私は長年の間、この感情を持ちつづけてきましたが、それを検討するとき、私はそれに触れることができるように思われません。それでもなお、それはあるのです - 何かを見つけるために山や空を越えて彼方に行きたいというこのあこがれは。しかし、おそらくこのものは私の真ん前にあるのであり、ただ私がそれを見ないだけなのです。どのように見るのかを私に語らないでください。私はあなたの書物の多くを読んできたので、あなたのいわれる意味は知っています。風を握りしめられないことはよく知りながら、私は手を伸ばし、このものを単純素朴に取りたいのです。腫瘍もきちんと手術するなら、一塊りを丸ごと取り出せると言われます。同じように私は、この大地全体、天、空、海を一つの動きで取り、瞬時にあの幸いに出会いたいように思うのです。これはいったい可能でしょうか。私はどうすれば、舟に乗り漕いで河を渡ることなしに、向こう岸に行くことになるのでしょうか。私は、それがただ一つの道であると感じます。
K そうです。それがただ一つの道なのです。気がつくと、ふしぎに説明不可能に自分自身を向こう岸に見出すこと、そしてそこから生き、行為し、日々の生でなすことすべてをなすことです。
質問者 それはわずかな人だけのためなのでしょうか。私のためでもあるのでしょうか。私は何をすべきなのか本当は知りません。私は静かに静座しました。私はかなり智恵をもって研究し、検討し、自己を修練してきたと思います。もちろん私は、はるか昔に寺院、神殿、社、宗教家を遠い昔に捨てました。私は一つの体系からもう一つへ行くのを拒絶します。それはすべてあまりに無益です。ですから、私は完全な単純素朴さをもってここに来たのが、おわかりでしょう。
K あなたが思われるほど、あなたは本当に単純なのかと思います!あなたはどのような深みからこの疑問を訊ねているのでしょうか。どのような愛と美しさをもって、でしょうか。あなたの心と頭はこれを受容できるでしょうか。予期せずに来るものの最もかすかなささやきに、それらは敏感なのでしょうか。
質問者 それほど微細であるのなら、それはどれほど真実であり、どれほど実在するのでしょうか。そういう微細さの暗示はふつう、うつろうのであって、重要ではありません。
K そうでしょうか。あらゆるものごとが黒板に書き出されなければならないのでしょうか。どうか、私たちの心と頭が本当に、ただ(「無量性」という)言葉だけ(を受容するの)ではなく、無量性を受容する能力があるのかを、見出しましょう。
質問者 私は本当は知らないのですが、それが私の問題です。私はほとんどあらゆるものごとを相当智恵をもってやってきたし、国民性や組織的宗教や信念という明白な愚かしさすべて - この終わりなき何でもないものごとの経過を - 片づけました。私には慈悲があると思うし、私の心は生の微妙なことをつかめると思うのですが、確かにそれでは十分ではないのでしょう。では、何が要るのでしょうか。私は何をしなくてはならないのでしょうか。または、何をしてはいけないのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
774
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/19(日) 10:38:59 ID:f9UzTcZg0
くまめも1
質問者 私が探し求めているのは何か。
K 気がつくと、ふしぎに説明不可能に自分自身を向こう岸に見出す。そしてそこから生き、行為する。
心と頭が本当に、ただ言葉だけではなく、無量性を受容する能力があるかを、見出せ。
質問者 それが私の問題。智恵だけでは不十分。何が要るか。私は何をしなくてはならないのか。または、何をしてはいけないのか。
(´・(ェ)・`)
775
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/19(日) 20:34:57 ID:1d4drIFg0
観念による理想を観ようとすれば幻想を見る事になるのじゃ。
どれほど醜く混乱して見えたとしても、今ここにあるものごとを観るのじゃ。
それがありのままに観ることなのじゃ。
幻想を追えば絶望があり、現実を観れば清浄があるのじゃ。
776
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/19(日) 22:38:58 ID:oWiMwDlA0
変化の緊要
探し求める者 2
K 何かをするよりも、何もしないことがはるかに重要です。心は、完全に非活動的であり、よって最高に活動的であることができるでしょうか。愛は思考の活動ではありません。それは、よい行動や社会的正義の行為ではありません。愛は育成できないので、あなたはそれについて何もできません。
質問者 あなたが無行為が最高の形態の行為であると言われるとき、私はそれがどういう意味なのかを理解します - それは、何もしないという意味ではありません。しかし、なぜだか私はそれを心につかめないのです。無行為が魅力あるように思われるのは、おそらく私の心が空っぽで、行為すべてに飽きているからこそなのでしょうか。いいえ。私は、この愛というものがあるという元来の感情に戻ります。そして私は、それがただ一つのものであることも、また知っています。しかし、そう言った後も私の手はやはり空なのです。
K これは、あなたがもはや何も探し求めていない - もはや「私は到達し達成しなければならない。一番はるかな丘を越えた彼方に何かがある」と密かにあなた自身に言っていない、という意味なのでしょうか。
質問者 私がこんなに長い間、抱いてきた(この感情)、すべての丘を越えた彼方に何かがあるというこの感情を諦めなければならない、という意味ですか。
K それは何を諦めるという問題でもないのですが、私たちがたったいま言ったとおり、ただこれら二つのものだけがあるのです - 愛と、思考が空っぽである心、です。もしあなたが本当に終了させたのなら、何かへの探求のなか人間が組み立ててきた愚かしさすべてに対して、本当に扉を閉ざしたのなら、本当にこれらすべてを終了させたのなら - そのとき、これらのもの - 愛と空っぽの心もまた、二つの言葉だけであり、他の観念と何ら違っていないのでしょうか。
質問者 そうではないという深い感情はありますが、私はそれが確かではありません。それで再び、私は何をすべきかをお訊ねするのです。
K 愛と心とについて私たちが言ったばかりことと交感するとはどういう意味なのかを、あなたは知っているでしょうか。
質問者 はい。そうだと思います。
K そうなのかどうかと思われます。この二つのものとの交感があるのなら、そのとき、もはやこの上に言うことは何もないのです。この二つのものとの交感があるのなら、そのとき行為すべてはそこからあるでしょう。
質問者 困難は、私がいまだに、発見されるべき(何か)、他のあらゆるものごとを正しい場所、正しい秩序に置いてくれるであろう何かがある、と考えることなのです。
K この二つのものなしでは、これ以上行く可能性はないのです。そして、どこにも行くことはまったくないのかもしれません!
質問者 私はそれとすべてのときに交感していられるでしょうか。私たちがいっしょであるとき、私はいくらかそれと交感していられることが分かります。しかし、私はそれを維持できるでしょうか。
K それを維持したいと願望することが、雑音であり、ゆえにそれを失うことなのです。
(´・(ェ)・`)つ
777
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/19(日) 23:13:05 ID:oWiMwDlA0
くまめも2
何かをするよりも、何もしないことがはるかに重要。心は、完全に非活動的であり、よって最高に活動的であることができる。
愛は思考の活動ではない。愛は育成できないので、それについて何もできない。
もし何かへの探求のなか人間が組み立ててきた愚かしさすべてに対して、本当に扉を閉ざしたのなら、愛と空っぽの心もまた、二つの言葉だけであり、他の観念と違っていない。
愛と心との交感があるのなら、そのとき、もはやこの上に言うことは何もない。そのとき行為すべてはそこからある。
この二つのものなしでは、これ以上行く可能性はない。そして、どこにも行くことはまったくないのかもしれない!
それを維持したいと願望することが、雑音であり、ゆえにそれを失うことなのです。
(´・(ェ)・`)
778
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/19(日) 23:31:34 ID:oWiMwDlA0
>>775
うむ。観念ではない愛そのものでありますね。
あるがままのそのものが愛でありますね。
(´・(ェ)・`)つ
779
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/20(月) 23:21:49 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、自他の無い全てが一つである自然な愛がそこにあるのじゃ。
心が空であるならばそれは感じられるのじゃ。
認識による観念があれば感じられないのじゃ。
認識は分裂し、分類することを行うものであるからのう。
しないことをすることはできないのじゃ。
780
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/20(月) 23:28:50 ID:NWYNc3.c0
変化の緊要
組織 1
質問者 私は、宗教的、実業的、政治的な、多くの組織に属してきました。明白に私たちはある種の組織を持たなければなりません。それなしでは、生は継続できないでしょう。それで、私はお話を聞いた後で、自由と組織との間にはどのような関係があるのかと思ってきたのです。どこで自由は始まり、組織は終わるのでしょうか。宗教的組織と解脱または解放との間の関係は何なのでしょうか。
K とても複雑な社会に生きる人間として、組織は、伝達し、旅行し、衣食住の庇護をもたらすため、都市でもいなかでもともに生きる実務すべてのために、要るのです。さて、これは、国家、民族、階級の区別なく、わずかな人の利益のためだけではなく誰でもみんなのために、効果的に人道的に組織されなければなりません。この地球は、あなたのや私のではなく、私たちのものなのです。幸せに物理的に生きるには、健全で合理的で効果的な組織があるのでなければなりません。ここで、区別があるから、無秩序があるのです。たいへんな繁栄がありながらも、何百万何千万(の人たち)が腹を空かせるのです。戦争、抗争、葛藤、あらゆる形態の残忍さがあるのです。それから、信念の組織 - 諸宗教の組織 - があるのです。これもまた不統一と戦争を生み育てるのです。人間が追求してきた道徳は、この無秩序と混沌につながってきたのです。これが世界の現状です。そして、あなたが、組織と自由との間の関係は何なのかと訊ねるとき、あなたは自由を日々の存在から分離していないでしょうか。あなたがこのようにそれを何か生から全然違ったものとして分離するとき、これ自体が、葛藤、抗争と無秩序ではないでしょうか。それで本当は疑問はこうなのです - 自由のなか生きること、そしてこの自由からこの自由のなか生を組織することは、可能でしょうか。
質問者 そのときには、問題はないでしょう。しかし、生の組織は、あなた自身によっては作られません。他の人たちがあなたのために作るのです。政府と他の人たちが、あなたを戦争に送ったり、あなたの仕事を決定したりするのです。それで、あなたは自由のなかからあなた自身で単純に組織できません。私の疑問の要点は、政府、社会、道徳によって私たちに課される組織は自由ではないということです。そして、私たちは、それを拒絶するのなら、私たち自身を革命や何か社会改革のさなかに(あるのを)見るのです - それは、同じ古い循環を再び一から始める道なのです。内的、外的に私たちは組織のなかに生まれるのですが、それは自由を制限します。私たちは屈従するのか反逆するのかどちらかです。私たちはこの罠に捕らわれます。それで、自由のなかから何かを組織するということは、論外であるように思われるのです。
K 私たちは、自分たちが社会を、この無秩序を、これら壁を造り出してきたことを、悟りません。私たちの一人一人が、そのすべてに応ずる責任能力があるのです。社会は、私たちなるものなのです。社会は私たちとは違いません。私たちが葛藤、抗争にあり、貪欲で、妬み、羨ましがり、恐れに満ちているのなら、私たちはそういう社会をもたらすのです。
(´・(ェ)・`)つ
781
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/20(月) 23:48:23 ID:NWYNc3.c0
くまめも1
複雑な社会に生きる人間として、幸せに物理的に生きるには、健全で合理的で効果的な組織が要る。
区別があるから、無秩序がある。繁栄がありながらも、戦争、抗争、葛藤、残忍さがある。信念の組織もまた不統一と戦争を生み育てる。
組織と自由との間の関係は何か。組織を生から違ったものとして分離するとき、これ自体が、葛藤、抗争と無秩序。自由のなか生きること、この自由から、この自由のなか生を組織することは、可能か。
質問者 生の組織は、他の人たちがあなたのために作る。あなたは自由のなかからあなた自身で単純に組織できない。私たちは組織のなかに生まれるが、それは自由を制限する。私たちは屈従するか反逆するかどちらか。私たちはこの罠に捕らわれる。
私たちは、自分たちが社会を、この無秩序を、壁を造り出してきたことを、悟らない。私たちの一人一人が、そのすべてに応ずる責任がある。社会は、私たちなるもの。社会は私たちとは違わない。私たちが葛藤、抗争にあり、貪欲で、妬み、羨ましがり、恐れに満ちているのなら、そういう社会をもたらす。
(´・(ェ)・`)
782
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/21(火) 22:40:51 ID:1d4drIFg0
社会も人の心の反映であるから、貪欲や抗争を心に持つ者が社会を作れば貪欲や抗争ばかりの社会になるのじゃ。
それらの観念から逃れられない者には新しい社会などないのじゃ。
貪欲と抗争の行いを続けるばかりなのじゃ。
真の自由は一人一人の心の中にあるのじゃ。
それを心の中に探し出すのじゃ。
783
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:22:31 ID:01Pv3Jqk0
>>782
なんとかしようとするから、葛藤が生じる。
他があると思うから、軋轢が生じる。
無我、ないしは、真我以外は「無」が真理であれば、解決でありますね。
(´・(ェ)・`)b
784
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:26:11 ID:01Pv3Jqk0
変化の緊要
組織 2
質問者 個人と社会との間には違いがあります。私は菜食主義者です。社会は動物を屠殺します。私は戦争に行きたくありません。社会は力づくで私を行かせるでしょう。あなたは私に、この戦争は私のしわざであると語っているでしょうか。
K はい。それはあなたの責任能力です。あなたは、あなたの国、あなたの貪り、妬み、羨み、憎しみにより、それをもたらしたのです。あなたは、心にそれらのものを持つかぎり、どんな国、信条、民族にでも属するかぎり、戦争に応ずる責任能力があるのです。自分たちはこの社会を造り出してこなかったと言えるのは、これらものごとを免れ自由である人たちだけなのです。ゆえに、私たちの責任能力は、暴力と流血なしに、私たちが変化するべく見ること、他の人たちが変化するよう助けることなのです。
質問者 それは、組織的宗教という意味です。
K 明らかにそうではありません。組織的宗教は、信念と権威に基づいてあるのです。
質問者 自由と組織の間の関係に関する私たちの元来の疑問において、これで私たちはどこに至るのでしょうか。組織はいつも環境によって課されたり、相続されるのです。そして、自由はいつも内側からあるし、これら二つはぶつかり合うのです。
K あなたはどこから出発するのでしょうか。あなたは自由から出発しなければなりません。自由があるところに、愛があるのです。この自由と愛は、いつ協力すべきなのか、いつ協力すべきなのかを、あなたに示してくれるでしょう。これは選択の行為ではありません。なぜなら、選択は混乱の成果であるからです。愛と自由は智恵なのです。それで、私たちが関心を持つものは、組織と自由の間の区別ではありません。私たちがいったいこの世界に区別なく生きられるのかどうかです。自由と愛を拒否するのは区別です。組織ではありません。組織が区別するとき、それは戦争につながります。どんな形態でも信念は、どれほど高貴で効果的でも理想は、区別を生み育てるのです。組織的宗教は、国と権力集団と同じく、区別の原因です。それで、個人的でも集団的でも、区別するものごとに、人と人との間に区別をもたらすものごとに、関心を持ちなさい。家族、教会、国家は、こういう区別をもたらします。重要なものは、区別する思考の動きです。思考自体がいつも区別的であるので、観念や思想に基づく行為すべては区別です。思考は先入観、見解、判断を養成します。人間自身は、区別されるので、この区別のなかから自由を探し求めます。それを見つけることができないので、さまざまな諸区別を統合したいと願うのですが、もちろんこれは可能ではないのです。あなたは二つの先入観を統合できません。自由のなかこの世界に生きるとは、あらゆる形態の区別を慎み、愛をもって生きるという意味です。自由と愛があるときには、この智恵が、協力のなか行為するでしょうし、いつ協力すべきでをもまた知るでしょう。
(´・(ェ)・`)つ
785
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/21(火) 23:44:58 ID:01Pv3Jqk0
くまめも2
戦争はあなたの責任。あなたの国、貪り、妬み、羨み、憎しみにより、戦争をもたらした。心にそれらのものを持つかぎり、どんな国、信条、民族にでも属するかぎり、戦争に応ずる責任がある。ゆえに、私たちの責任は、暴力と流血なしに、私たちが変化するべく見ること、他の人たちが変化するよう助けること。
私たちが関心を持つのは、この世界に区別なく生きられるか。自由と愛を拒否するのは区別。組織ではない。組織が区別するとき、それは戦争につながる。
信念は、どれほど高貴で効果的でも理想は、区別を生み育てる。個人的でも集団的でも、区別するものごとに、関心を持て。重要なものは、区別する思考の動き→思考自体がいつも区別的→観念や思想に基づく行為すべては区別。思考は先入観、見解、判断を養成する。人間自身は、区別される→区別のなかから自由を探し求める→それを見つけることができない→諸区別を統合したいと願うが、これは不可能。自由のなかこの世界に生きるとは、あらゆる形態の区別を慎み、愛をもって生きるという意味。自由と愛があるときには、この智恵が、協力のなか行為するし、いつ協力すべきかをもまた知る。
(´・(ェ)・`)
786
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/22(水) 22:56:05 ID:1d4drIFg0
>>783
そうじゃ、全て一つならば無問題なのじゃ。
無為で生きれば何も葛藤は無いのじゃ。
787
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/22(水) 22:59:33 ID:1d4drIFg0
どれほど思考によって観念を弄り回しても自由は無いのじゃ。
思考はものごとを分類したり、統合したりするがそれもまた観念の内に留まるのみであるからなのじゃ。
観念は記憶に拠ってあるものであるから、何も新しいことは見出せないのじゃ。
自らの心を観ることによって自由も見出せるのじゃ。
788
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/22(水) 23:06:39 ID:8W/pu.9.0
変化の緊要
愛と性 1
質問者 私は既婚者であり、幾人もの子どもを持っています。私は楽しみの探求のなかかなり放埒な生を、しかしそうとうに文明的生をまた生きてきましたし、私は経済的にはそれを成功させました。しかしいま、私は中年であり、私の家族についてだけではなく、世界の進みゆく道についてもまた関心を感じているのです。私は残忍や暴力的感情にふけりませんし、私はいつも、許しと慈悲が生のなかで最も重要なことであると考慮してきました。これらなしでは、人間は人間以下になるのです。それで、私はよろしければ、あなたに、愛とは何なのかをお訊ねしたいように思うのです。そういうものが本当にあるのでしょうか。慈悲はそれの部分であるにちがいありませんが、しかし、私はいつも、愛は何かはるかに広大なものであると感じるのです。そして、もしも私たちがともにそれを探検できたなら、そのときおそらく私は私の生を、手遅れになるまえに、何かかいあるものにするでしょう。私は本当に、この一つのことを訊ねに来たのです - 愛とは何でしょうか。
K 私たちはこれに入りはじめるまえに、言葉はそのものではないし、叙述は叙述されるものではないことが、明確でなければなりません。なぜなら、どれほど微細で巧妙でも、どんな量でも説明は、心を愛の無量性へ開かないでしょうから。私たちは、単に言葉に張り付くだけではなく、これを理解しなければなりません。言葉は伝達に役立ちます。しかし、何か本当に非言語的であることについて話すなかで、私たちは互いに間に交感を確立し、そのため私のどちらもが心と頭の充足をもって同じことを同じときに感じ悟るように、しなければなりません。そうでなければ、私たちは言葉を弄んでいるでしょう。頭には触れられないこの本当にごく微妙なことに、接近できるのでしょうか。私たちはむしろためらって行かなければなりません。私たちはまず初めに、それが何でないのかは分かるでしょうか。そのときおそらく私たちは、それが何であるかが分かることができるかもしれません。否定をとおして私たちは、肯定的なものに出会うかもしれません。しかし、単に肯定的なものを追求することは、区別をもたらす想定と結論につながるのです。あなたは、愛とは何なのかを訊ねています。私たちは、それが何でないかを知るときにそれに出会うかもしれないと言っているのです。区別、分離をもたらすものは何でも、愛ではないのです。そこには葛藤、抗争、闘争、残忍があるからです。
質問者 あなたの言われる、闘争をもたらす区別、分離とは、どういう意味なのでしょうか。それはどういうことなのでしょうか。
K 思考はその本性において区別的なのです。楽しみを探し求め、それを保つのは、思考です。願望を養成するのは思考です。
質問者 願望にもう少し入ってもらえるでしょうか。
K 家を見ること、それはすてきだという感受があります。そのとき、それを持ちたい、それから楽しみを得たいという願望があります。そのとき、それを得ようとする努力があります。このすべてが中心を構成します。この中心が、区別の原因です。この中心は「私 'me' 」という感情ですが、これ(=「私 'me' 」という感情)が区別の原因です。なぜなら、この「私 'me' 」という感情が、分離の感情であるからです。人々はこれを自我、その他あらゆる種類の名で呼んできました - 「高い自己」という何かの観念とに対立する「低い自己」です。しかし、それを錯綜させることは要らないのです。それはとても単純です。中心は「私 'me' 」という感情であり、その諸活動においてそれ自体を孤立させるのですが、その中心があるところには、区別と抵抗があるのです。そして、このすべてが思考の過程です。それで、あなたが愛とは何なのかを訊ねるとき、それはこの中心からではないのです。愛は楽しみや苦しみではなく、憎しみやどんな形態の暴力でもないのです。
質問者 ゆえに、あなたの語られるこの愛には、願望はありえないのだから、セックスはありえないのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
789
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/22(水) 23:25:15 ID:8W/pu.9.0
くまめも1
言葉はそのものではない、叙述は叙述されるものではない。どれほど微細で巧妙でも、心を愛の無量性へ開かない。
それが何でないのかが分かれば、それが何であるかが分かるかもしれない。否定をとおして私たちは、肯定的なものに出会うかもしれない。しかし、単に肯定的なものを追求することは、区別をもたらす想定と結論につながる。区別、分離をもたらすものは愛ではない。そこには葛藤、抗争、闘争、残忍があるから。思考はその本性において区別的。楽しみを探し求め、それを保つのは、思考。願望を養成するのは思考。
家を見る→すてきだという感受→それを持ちたい、それから楽しみを得たいという願望→それを得ようとする努力
このすべてが中心を構成する。この中心が、区別の原因。中心は「私 'me' 」という感情(自我)であり、その諸活動においてそれ自体を孤立させるが、その中心があるところには、区別と抵抗がある。このすべてが思考の過程。
愛とは、この中心からではない。愛は楽しみや苦しみではなく、憎しみやどんな形態の暴力でもない。
質問者 この愛には、願望はありえないのだから、セックスはありえないのか。
(´・(ェ)・`)
790
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 00:22:38 ID:UNAlvYr.0
変化の緊要
愛と性 2
K どんな結論にも至らないでください。私たちは究明し、探検しているのです。どんな結論や想定も、それ以上の探究を妨げるのです。この疑問に答えるには。私たちはまた思考のエネルギーをも見つめなくてはなりません。私たちが言ったとおり、思考は、何か楽しめたことについて考え、イメージ、映像を養成することにより、楽しみを維持するのです。思考は楽しみを発生させるのす。性行為について考えることが、欲情になるのですが、これは性行為とは全然違っているのです。ほとんどの人々が関心を持っているものは、欲情の情熱です。セックスの前と後の渇望は、欲情です。
この渇望は思考です。思考は愛ではありません。
質問者 この思考の願望なしのセックスはありうるのでしょうか。
K あなたはあなた自身で見出さなくてはなりません。セックスは私たちの生にとてつもなく重要な役割を果たします。なぜなら、それはおそらく、私たちが手にするただ一つの深く直の経験であるからです。知的、情動的に私たちは順応し、模倣し、従い、服従します。性行為以外には、私たちの諸関係すべてに、苦しみと闘争があるのです。この行為は、こんなに違って美しく、私たちはそれの中毒になるので、今度はそれが束縛になるのです。束縛はその継続への要求です - 再び、区別的である中心の行為です。こんなに垣根に囲まれて - 知的に、家族のなか、共同体のなか、社会道徳をとおし、宗教的裁可をとおし - こんなに垣根に囲まれているので、そのため、自由と強烈さの残されているただ一つのこの関係だけがあるのです。ゆえに、私たちはそれにものすごい重要性を与えるのです。しかし、もしもずっとあたりに自由があったなら、そのときこれは、こういう渇望とこういう問題ではないでしょう。私たちは、それを十分に得られないから、または、それを得ることに罪悪を感じるから、または、それを得るなかで社会が定めた規則を破るから、それを問題にするのです。新しい社会にとってセックスは生の一部であるから新しい社会を放縦と呼ぶのは、古い社会です。心を模倣、権威、順応、宗教的規定の束縛から解き放ち自由にするなかで、セックスはふさわしいところを得るのです。しかし、それはすべてを併呑しないでしょう。ここから、自由は愛にとって本質的であることが分かるのです - 反逆の自由ではなく、好きなことをしたり、渇望におおやけまたは密やかに耽溺する自由ではないのです。むしろ、中心のこの構造と本性の全体を理解するなか、来る自由です。
質問者 では、自由は放縦ではないですね。
K はい。放縦は束縛です。愛は憎しみではなく、嫉妬でもなく、野心でもなく、失敗の恐怖をともなう競争の精神でもないのです。それは神の愛でもなく、人の愛でもないのです - これもまた区別です。愛は一人のでもなく大勢のでもないのです。愛があるとき、それは、対象をもってもたず、人格的でも非人格的でもあるのです。それは花の香りに似ています。一人も大勢もそれを嗅げるのです。大事なものは、香りです。それが誰に属しているかではないのです。
質問者 これらのどこに、許しは入ってくるのでしょうか。
K 愛があるとき、許しはありえません。許しは、あなたが怨恨を蓄積させた後にのみ、来るのです。許しは憤慨です。傷がないところに、癒しは要らないのです、憤慨と憎しみを生み育てるのは、不注意です。そしてあなたは、それらに気づき、そのとき許すのです。許しは区別を助長します。あなたは、自らが許していると意識するとき、罪を犯しているのです。あなたは、自らが寛容であると意識するとき、不寛容なのです。あなたは、自らが静寂であると意識するとき、静寂はないのです。あなたは、意図的に愛そうとしてみるとき、暴力的なのです。「私はある」「私はない」と言う観察者があるかぎり、愛はありえないのです。
質問者 愛のなか、恐れはどういうところを占めるのでしょうか。
K どうしてそういう質問ができるのでしょうか。一つがあるところに、もう一つはないのです。愛があるとき、あなたは、何であろうとできるのです。
(´・(ェ)・`)つ
791
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 00:23:56 ID:UNAlvYr.0
くまめも 2
セックスは生にとてつもなく重要な役割を果たす。なぜなら、それは、手にするただ一つの深く直の経験であるから。それの中毒になるので、今度はそれが束縛になる。
自由は放縦ではない。放縦は束縛。愛があるとき、それは、対象をもたず、人格的でも非人格的でもある。
それは花の香りに似ている。一人も大勢もそれを嗅げる。大事なものは、香り。それが誰に属しているかではない。
愛があるとき、許しはありえない。許しは、怨恨を蓄積させた後にのみ、来る。傷がないところに、癒しは要らないし、憤慨と憎しみを生み育てるのは、不注意。そして、それらに気づき、許す。許しは区別を助長する。自らが許していると意識するとき、罪を犯している。意図的に愛そうとする とき、暴力的。「私はある」「私はない」と言う観察者があるかぎり、愛はありえない。
一つがあるところに、もう一つはない。愛があるとき、あなたは、何であろうとできる。
(恐れはない)
(´・(ェ)・`)
792
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/24(金) 00:33:33 ID:1d4drIFg0
区別や分離をもたらす思考とは違う愛があるとクリシュナムルティは言うのじゃ。
区別や分離のあるところには葛藤、抗争、闘争、残忍があるからというのじゃ。
それは世間の愛とは根本的に違うものじゃ。
世間の愛とはそもそも分離や区別したもの同士が持つものであるからのう。
793
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 21:50:17 ID:oyERMyaM0
変化の緊要
知覚 1
質問者 あなたは、知覚に対してさまざまな言葉を使われます。あなたはときには「知覚」と(言われるし)、また「観察する」「見る」「理解する」「気づく」とも言われます。あなたはこれら言葉すべてを同じこと - 明らかに完全に全的に見ること - を意味するために使われるのだと、思うのです。何かを全的に見られるのでしょうか。私たちは物理的、技術的なことを話しているのではありません。心理的にあなたは何かを全的に知覚または理解できるのでしょうか。いつも何か隠蔽されるものがあり、そのため部分的にのみ見えるようにならないでしょうか。あなたがこの事態にかなり広汎に入ってくださったなら、たいへんありがたいのですが。これは、おそらく生のたいへん多くのものごとの手がかりであるかもしれないから、重要な疑問である、と私は感じるのです。もしも私は私自身を全的に理解できたなら、そのときおそらく私は、私の問題すべてを解決してしまい、幸せな超人であるでしょう。私はそれについて話すとき、小さな諸問題と苦悩をともなう私の小さな世界を乗り越える可能性に、かなり興奮を感じます。それで、あなたのいわれる知覚する、見るとはどういう意味なのでしょうか。自分自身を完全に見られるのでしょうか。
K 私たちはいつも部分的にものごとを見つめます。第一に私たちは不注意であるから、第二に私たちは見えるものについての先入観から、言語的心理的イメージから、ものごとを見つめるからなのです。それで、私たちは、けっして何も完全には見ないのです。自然を客観的に見ることさえも、まったく難儀です。私たちの心はさまよっていて興味がないから、どんなイメージもなく、どんな植物学的知識もなく花を見つめること - ただ観察すること - は、全く困難になるのです。そして、たとえ興味があるとしても、自分は本当にそれを見つめてきたという感じを観察者に与えるように思われる一定の評価、鑑賞と言語的叙述をもって、花を見つめるのです。意図的に見ることは、見ることではありません。それで、私たちはけっして本当に花を見つめないのです。私たちはイメージをとおしてそれを見つめるのです。おそらく、私たちが映画に行き、当分かき立てるがすぐに忘れるものを見るときのように、私たちに深く触れないものを見つめることは、そうとうに容易です。しかし、イメージは過去で、私たちの蓄積された経験と知識ですが、イメージなく私たちを観察することは、めったに起こらないのです。私たちは私たち自身についてイメージを持つのです。私たちは自らがああではなくこうあるべきだと思うのです。私たちは、私たち自身について以前の観念を築いてきたし、それをとおして私たち自身を見つめるのです。私たちは自らが高貴であるとか低俗であるとか思うし、現行に私たちなるものが見えると、私たちは憂鬱になるか、怯えるのかどちらかです。それで、私たちは私たち自身を見つめられません。そして、見るときには、部分的な観察です。そして、何でも部分的または不完全であるものは、理解をもたらさないのです。私たちが観察するもの・ことを免れ自由である可能性があるのは、私たちが全的に私たち自身を見つめられるときだけです。私たちの知覚は、ただ眼、感覚によってだけではなく、心によってもあるのです。そして明白に、心は重く条件づけられてあるのです。それで、知的な知覚は部分的な知覚だけなのです。それでも、知能で知覚することが私たちのほとんどを満足させるように思われるし、私たちは自らが理解すると思うのです。断片的な理解は、最も危険で破壊的なものなのです。そして、それがまさしく世界中で起きていることなのです。政治家、宗教家、実業家、技術者、そして芸術家さえも - 彼らのすべてが部分的にのみ見るのです。ゆえに、彼らは本当にとても破壊的な人々です。彼らは世界で大きな役割を果たすから、彼らの部分的な知覚が、受け入れられる規範になるし、人間はこれに捕らわれるのです。私たち一人一人が同時に、宗教家、政治家、実業家、芸術家、他の多くの断片的事物であるのです。私たち一人一人がまた、これら抗争しあう諸見解、諸判断すべての戦場でもあるのです。
(´・(ェ)・`)つ
794
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/24(金) 21:55:32 ID:oyERMyaM0
くまめも 1
何かを全的に「見る」「知覚」「観察する」「理解する」「気づく」ことは可能か。
いつも部分的にものごとを見つめる。第一に不注意であるから、第二に先入観から、言語的心理的イメージから見つめるから。それで、けっして何も完全には見ない。意図的に見ることは、見ることではない。イメージは過去で、私たちの蓄積された経験と知識。自らがああではなくこうあるべきだと思う。私たちは、自身について以前の観念を築いてきたし、それをとおして自身を見つめる。見るときには、部分的な観察。部分的であるものは、理解をもたらさない。知覚は、ただ眼、感覚によってだけではなく、心によってもある。そして、心は重く条件づけられてある。それで、知的な知覚は部分的な知覚だけ。断片的な理解は、最も危険で破壊的。政治家、宗教家、実業家、技術者、そして芸術家さえも、部分的にのみ見る。ゆえに、彼らは本当にとても破壊的な人々。彼らは世界で大きな役割を果たすから、彼らの部分的な知覚が、受け入れられる規範になるし、人間はこれに捕らわれる。私たち一人一人が同時に、宗教家、政治家、実業家、芸術家、他の多くの断片的事物である。私たち一人一人がまた、これら抗争しあう諸見解、諸判断すべての戦場でもある。
(´・(ェ)・`)
795
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/24(金) 23:24:56 ID:1d4drIFg0
全体的に観ることが可能なのかと、よく言われるのじゃ。
仏教でも十二因縁が完全に観られるのは仏陀だけであるとかの迷信が伝わっているのじゃ。
それは悟りを得るための方法であり、悟っていない者でも可能であるからお釈迦様が説いたのじゃ。
それは衆生にも本来備わっている能力によるものであるから誰にでもできるのじゃ。
796
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 00:02:31 ID:oyERMyaM0
変化の緊要
知覚 2
質問者 これは明らかに見えます。もちろん、私は「見える」という言葉を知的に使っています。
K これが知的、言語的、情動的にではなく全的に見えるのなら、そのときあなたは、行為し、全く違った種類の生を生きるでしょう。あなたは危険な断崖絶壁が見えたり、危険な動物に向き合うとき、部分的な理解や部分的行為はないのです。完全な行為があるのです。
質問者 しかし、私たちは自分たちの生の瞬間ごとにはそういう危険、危機に向き合っていません。
K 私たちはすべてのときにそういう危険、危機に向き合っているのです。あなたはそれらが慣習になったのか、それらに無頓着のです。または、諸問題を解決するのを他の人たちに任せるのです。これら他の人たちも、同等に盲目的で偏っているのです。
質問者 しかし、私はどのようにすべてのときにこれらの危機に気づくことになるのでしょうか。そしてなぜ、あなたはすべてのときに危機があると言われるのでしょうか。
K 生の全体は各瞬間にあるのです。各瞬間が挑戦です。この挑戦に不適当に会うことが、生きることの危機なのです。私たちは、これらが危機であることを見たくないし、それらから逃避するため眼を閉じるのです。それで、私たちはもっと盲目になり、危機が増大するのです。
質問者 しかし、私はどのように全的に知覚することになるのでしょうか。私は、私が部分的にのみ見ることは理解しはじめ、また私自身と世界を完全な知覚で見つめることの重要性をも理解しはじめています。しかし、私には起きていることがこんなに多いので、そのため何を見つめるべきなのかを判断するのは困難であるほどです。私の心は、落ち着きのない猿たちでいっぱいの大きな檻に似ています。
K あなたは一つの動きを全的に見るなら、その全体性に他のあらゆる動きが収まるのです。もしあなたが一つの問題を完全に理解するなら、そのとき、あなたは人間の諸問題すべてを理解するのです。それらはすべて相互に関係しあってあるからです。それで疑問はこうです - 一つの問題を完全に理解し、または知覚し、または見て、そのためそれのまさに理解のなかで残りを理解してしまったようにできるでしょうか。この問題は、後や前に記憶や例としてではなく、起きている間に見られなければなりません。たとえば、いま私たちが怒りや恐怖に入ることは、何のためにもなりません。なすべきことは、それらが起きるとき観察することなのです。知覚は即時的なのです。あなたは何かを即時に理解するのか、全く(理解)しないのです。見える、聞こえる、理解するは即時的なのです。聞き入る、見つめるは持続を持つのです。
質問者 私の問題は続きます。それはつかのまの時間に存在します。あなたは、見えることは即時的で、ゆえに時間の外にある、と言われています。何が、嫉妬や他のどんな習慣、他のどんなに問題にも、持続を与えるのでしょうか。
K あなたが敏感さ、選択ない気づき、智恵をもってそれらを見つめたことがないから、それらは続くのではないでしょうか。あなたはそれらを部分的に見つめ、ゆえに継続するに任せてきたのです。そして付け加えて、それらを免れたいと思うことは、持続のもう一つの問題です。何かを取り扱えない無能力はそれを、持続ある問題にするし、それにいのちを与えるのです。
(´・(ェ)・`)つ
797
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 00:07:32 ID:oyERMyaM0
くまめも 2
私たちは自分たちの生の瞬間ごとに、危険に向き合っている。それらが慣習になり、それらに無頓着。諸問題を解決するのを他人に任せ、他の人たちも、盲目的で偏っている。
生の全体は各瞬間にある。各瞬間が挑戦。この挑戦に不適当に会うことが、生きることの危機。私たちは、これらが危機であることを見たくないし、それらから逃避するため眼を閉じる。それで、危機が増大する。
一つの動きを全的に見るなら、その全体性に他のあらゆる動きが収まる。もし一つの問題を完全に理解するなら、そのとき、人間の諸問題すべてを理解する。それらはすべて相互に関係しあってあるから。
怒りや恐怖に入ることは、何のためにもならない。なすべきことは、それらが起きるとき観察すること。知覚は即時的。何かを即時に理解するのか、全く理解しない。見える、聞こえる、理解するは即時的。聞き入る、見つめるは持続を持つ。何が、嫉妬や他の習慣に、持続を与えるのか。敏感さ、選択ない気づき、智恵をもってそれらを見つめたことがないから、それらは続く。あなたはそれらを部分的に見つめ、ゆえに継続するに任せてきた。それらを免れたいと思うことは、持続のもう一つの問題。何かを取り扱えない無能力はそれを、持続ある問題にするし、それにいのちを与える。
(´・(ェ)・`)
798
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/25(土) 22:59:56 ID:1d4drIFg0
クリシュナムルティの説くことは正にお釈迦様が十二因縁で説いたことと同じなのじゃ。
自分があるという観念から認識や分別や好悪が起こり、最後には苦につながるという全体を観ることが十二因縁の真髄なのじゃ。
ただ一つの苦でさえ、どこまでも観察していけば自分があるという無明に繋がるのじゃ。
心の働きの全体が観られた時に観照は起こるのじゃ。
799
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:16:27 ID:23aIiAeA0
>>798
うむ。
釈迦もマハルシもマハラジもKもOSHOも鬼和尚も、皆同じことを言ってるように思うのであります。
(´・(ェ)・`)つ
800
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:18:03 ID:23aIiAeA0
変化の緊要
知覚 3
質問者 しかし、私はどのようにその全体を瞬時に見ることになるのでしょうか。私はどのように理解し、そのためそれがけっして戻ってこないようにするのでしょうか。
K あなたは「けっしてない」に、強調を置いているのでしょうか。それとも理解に置いているのでしょうか。もしあなたが「けっしてない」に強調を置くなら、これはあなたがそれから恒常的に逃避したいという意味です。これは、第二の問題の創造という意味です。それで、私たちにはただ一つの問題があるのです。それは、問題が完全に見え、そのためそれを免れ自由であるようになるすべです。知覚は、おしゃべりな心からではなく、静寂のなかからだけありうるのです。おしゃべりな心は、それを免れたい、減退させたい、それから逃避したい、それを抑圧したい、それの代用物を見つけたいと思うことなのかもしれません。しかし、見るのは静かな心だけなのです。
質問者 私はどのように静かな心を持つことになるのでしょうか。
K あなたは、静かな心だけに見えるという真理が見えないのです。静かな心の得方は、生じないのです。心は静かであるのでなければならないことは真理です。そして、これの真理を見ることで心はおしゃべりを免れ、自由になるのです。知覚は、智恵ですが、そのとき作動しているのです。あなたが見るために静寂でなければならないという想定(が作動しているの)ではありません。想定もまた作動しうるのですが、しかし、それは部分的、断片的な作動です。部分と全体との間には何も関係がないのです。部分は成長して全体にはなれません。ゆえに、見ることが最大の重要なのです。見ることは注意です。問題を生じさせるのは、不注意だけなのです。
質問者 私はどのようにすべてのときに注意できるのでしょうか。それは不可能です!
K 全くそのとおりです。それは不可能であるのです。しかし、あなたの不注意に気づくことは、最大の重要なのです。すべてのときに注意するすべではないのです。「私はどのようにすべてのときに注意できるのでしょうか」と質問をするのは、欲なのです。注意する実践に迷ってしまうのです。注意する実践は、不注意です。あなたは美しくなる実践、愛する実践はできません。憎しみが停止するとき、他の一つがあるのです。憎しみは、あなたが全注意をそれに与えるとき、それについて学び、(それについての)知識を蓄積しないときにだけ、停止しうるのです。単純素朴に始めなさい。
質問者 お話を聞いた後で実践できることが何もないのなら、あなたのお話は何になるのでしょうか。
K 聞くことが最大の重要なのです。あなたが後で実践することではないのです。聞こえるとは、瞬時的な行為です。実践は諸問題に持続を与えます。実践は全的な不注意です。けっして実践してはならないのです。あなたは誤りだけを実践できるのです。学びはいつも新たです。
(´・(ェ)・`)つ
801
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:35:50 ID:23aIiAeA0
くまめも13-3 知覚 3
問題が完全に見え、そのためそれを免れ自由になる。知覚は、おしゃべりな心からではなく、静寂のなかからだけありうる。おしゃべりな心は、それを免れたい、減退させたい、逃避したい、抑圧したい、代用物を見つけたいと思う。しかし、見るのは静かな心だけ。
静かな心の得方は、生じない。心は静かであることは真理。この真理を見ることで心はおしゃべりを免れ、自由になる。知覚は、智恵だが、そのとき作動している。見ることは注意、問題を生じさせるのは、不注意だけ。
すべてのときに注意するのは不可能。しかし、不注意に気づくことは、最大の重要。すべてのときに注意するすべではない。すべてのときに注意したいと言うのは、欲。注意する実践に迷ってしまう。注意する実践は、不注意。あなたは愛する実践はできない。憎しみが停止するとき、他の一つがある。憎しみは、あなたが全注意をそれに与えるとき、それについて学び、知識を蓄積しないときにだけ、停止しうる。単純素朴に始めろ。
質問者 実践できることが何もないのなら、話を聞いて何になるのか。
K 聞くことが最大の重要。後で実践することではない。聞こえるとは、瞬時的な行為。実践は諸問題に持続を与える。実践は全的な不注意。けっして実践してはならない.誤りだけを実践できる。学びはいつも新た。
(´・(ェ)・`)
802
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/25(土) 23:37:14 ID:23aIiAeA0
Kは、「実践」という言葉を、後から何かをやることという意味で使ってるのであります
(´・(ェ)・`)つ
803
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2020/04/27(月) 00:00:42 ID:1d4drIFg0
>>799
そうじゃ、皆同じことを説いているのじゃ。
ただひたすらに己の心を観るのじゃ。
804
:
避難民のマジレスさん
:2020/04/27(月) 00:00:54 ID:NkGXn8e20
変化の緊要
苦痛 1
質問者 私は一生涯たいへん多くの苦痛を受けてきたと思われます。物理的にではなく、死とさびしさと私の存在の全くの無益さをとおして、です。私には、大いに愛している息子がいました。彼は事故で死にました。私の妻は去っていきました。それはたいへん多くの苦しみの因となりました。私は、充分なお金と安定した仕事をもつ何千何万の他の中流階級の人たちに似ています。私は私の境遇に不平を言っているのではありません。悲しみはどういう意味なのか、それはいったいなぜ訪れるのかを理解したいのです。英知は悲しみをとおして訪れると言われてきましたが、私は全く正反対を見てきたのです。
K あなたは苦痛から何を学ばれたのかと思うのです。あなたはいったい何かを学んだのでしょうか。悲しみはあなたに何を教えてくれたのでしょうか。
質問者 それは確かに私に、けっして人々に執着しないこと、一定の苦々しさ、一定のよそよそしさ、私の感情にうつつを抜かさないをことを、教えてくれました。
K それで、あなたが言われるとおり、それはあなたに英知を教えなかったのです。反対に、それはあなたをもっとずるがしこくもっと鈍感にしたのです。悲しみは、明白な自己保存的反応以外に、いったい何かを教えてくれるのでしょうか。
質問者 私はいつも苦痛を私の生の一部として受け入れてきました。しかし、私はいまなぜか、それから自由であり、二度と執着の苦しみすべてを経ずに安っぽい苦々しさと無頓着のすべてから自由でありたいように感じるのです。私の生はこんなにむだで空っぽで、全く自閉的で無意味です。それは凡庸の生ですし、おそらくその凡庸さがすべてのなかで最大の悲しみです。
K 個人的悲しみと世界的悲しみがあるのです。無知の悲しみと時間の悲しみがあるのです。この無知は、自分自身を知ることの欠如です。時間の悲しみは、時間が癒し治し変化させられるという欺瞞です。ほとんどの人々はその欺瞞に捕らわれています。悲しみを崇拝するのか、説明してしまうのかのどちらかです。しかし、どちらの場合にも、それは継続するし、それが終わりになるのかを自分自身に訊ねることはけっしてないのです。
質問者 しかし、私はいま、それが終わりになるのか、そしてどのようになのかを訊ねているのです。私はどのようにしてそれを終わらせるのでしょうか。私は、それから逃げ去ること(が)、苦々しさと冷笑でもってそれに抵抗することが何にもならないことは、理解します。私はこんなに長く持ちはこんできた嘆きを終わらせるには、何をすべきなのでしょうか。
(´・(ェ)・`)つ
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