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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

608避難民のマジレスさん:2020/03/04(水) 22:27:37 ID:3Bw07Ll60
テスト
変化の緊要

  気づき 1


質問者 私は、あなたの言われる気づきはどういう意味なのかを知りたいように思うのです。なぜなら、気づきがあなたの本当に教えていることであると、あなたはしばしば言われてきたからです。私は、あなたの講話を聞き、あなたの書物を読むことによりそれを理解しようとしてきましたが、しかし、私はあまり遠くに至らないように思われます。私は、それが実践ではないことを知っていますし、なぜあなたがあれほど強調して、どのような実践、訓練、体系、修練、課業をも否認されるのかを理解します。私はそれの重要性が分かります。というのは、そうでなければ、それは機械的になるし、そのはてに心は鈍く愚かになっているからです。できるなら、私はあなたとともに、気づくとはどういう意味なのかというこの疑問をその最後まで探検したいように思うのです。あなたは、この言葉に何か特別な深い意味を与えておられるように思われますが、それでも、私たちはすべてのときに起きていることに気づいているように、私には思われます。私は怒っているとき、それを知っています。私は悲しいとき、それを知っています。私は幸せなとき、それを知っています。

K 私たちは本当に怒り、悲しみ、幸せに気づいているのかどうかと思うのです。それとも、私たちはこれらのものごとが全く過ぎたときにだけ、それらに気づくのでしょうか。まるで私たちはそれについて何も知らないように出発し、取っかかりから始めましょう。教義的なのも微細なのもどんな主張をもしないようにしましょう。この疑問を深く探検しましょう - もしも本当に深々と入ったなら、心がたぶんけっして触れたことのないとてつもない状態、表面的な気づきには触れられない次元を、開示するであろうこの疑問を。表面から始めて、働き、通じましょう。
  私たちは目で見ます。私たちは、身のまわりのものごとを感覚で知覚します - 花の色。花の上のハチドリ。カリフォルニアの日の光。さまざまな性質と微細さの千もの音、響き。その樹の深さと高さ、陰と樹自体。私たちは同じように、自らの体を感じます - それは、これらさまざまな表面的、感覚的知覚の器です。もしもこれら知覚が表面的水準にとどまったなら、全く混乱はないでしょう。あの花、あのパンジー、あのバラはあるし、それはあれにとってあるすべてです。好みはなく、比較はなく、好き嫌いはなく、どんな心理的関与もなく私たちの前のものだけです。このすべての表面的な感覚的な知覚または気づきは、全く明らかでしょうか。それは、現代技術の道具すべてを用いて、星へ、海の深みへ、科学的観察の最前線へ拡大されるかもしれません。

(´・(ェ)・`)つ


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