したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

616避難民のマジレスさん:2020/03/06(金) 22:24:47 ID:AT3b5vXQ0
変化の緊要

  気づき 4

質問者 私はあなたが昨日言われたことを、非言語的に本当に理解したと思います。樹の気づきがあります。樹への条件づけられる応答があります。そして、この条件づけられる応答は葛藤です。それは記憶と過去の諸経験の作用です。それは好き嫌いです。それは先入観です。私は、この先入観の応答が、「私」と呼ばれるもの(の誕生)、または監視者の誕生であることを、もまた理解します。 [受ける]「私 the 'me' 」と [なす]「私 the 'I' 」が、関係すべてに存在することが、明らかに分かります。ここで、諸関係の外側に「私」はあるのでしょうか。

K 私たちは、私たちの諸応答がどんなに重く条件づけられるかを、見たのです。あなたが関係の外側に「私」があるのかどうかを訊ねるとき、これら条件づけられる応答から自由がないかぎり、それは思弁的な疑問になるのです。それは分かるでしょうか。それで、私たちの第一の疑問は、条件づけられる諸応答の外側に「私」があるのかないのかではないのです。むしろ、心には私たちの感受すべてが含まれるし、この条件づけは過去なのですが、それはこの条件づけから自由でありうるのでしょうか。過去は「私」です。現在には「私」はありません。心が過去に作動しているかぎり、「私」はあるのです。そして、心はこの過去であるのです。心はこの「私」であるのです。
  あなたは、心があるし、過去があるとは言えません - それが二三日前の(過去)であっても一万年前の過去であっても、です。それで、私たちは訊ねています - 心は昨日から自由でありうるでしょうか。ここで、いくつものものごとが関与しているでしょう。まず最初に、表面的な気づきがあるのです。そのとき、条件づけられる応答の気づきがあるのです。そのとき、心は過去であるし、心がこの条件づけられる応答なのであるとの悟りがあるのです。そのとき、この心が過去から自由でありうるのかどうかという疑問があるのです。そして、このすべてが気づきの統一的な作用です。なぜなら、ここには結論がないからです。私たちが心は過去であると言うとき、この悟りは言語的な結論ではなく、所作の現行の知覚です。フランス人はそういう所作の知覚を表す言葉を持っています。彼らはそれを「 constatation 確証」と呼ぶのです。私たちが心は過去から自由でありうるのかを訊ねるとき、この疑問は、監視者、「私」 - すなわちまさにあの過去 - により、問われているのでしょうか。

質問者 心は過去から自由になれるのでしょうか。

K 誰がその疑問を立てているのでしょうか。それは、たいへん多くの葛藤、抗争、記憶と経験の結果である事物でしょうか - 訊ねているのは彼でしょうか。それとも、この疑問は、それ自体から、所作の知覚のなかから、生ずるのでしょうか。疑問を立てているのが観察者であるのなら、そのとき彼は、自分自身の所作から逃避しようとしているのです。なぜなら彼は、私はこんなに長く苦しみのなか、困難のなか、悲しみのなか生きてきた。私はこの常なる格闘かを乗り越えたいように思う、と言うからです。もし彼がその動機から疑問を訊ねるなら、彼の答えは、何か逃避に庇護を得ることであるでしょう。所作にそっぽを向くのか、または向き合うのかのどちらかです。そして、言葉と象徴は、それからそっぽを向くことです。実は、だいたいこの疑問を訊ねることだけでも、すでに逃避の作用であるでしょう。この疑問は逃避の作用であるのかないのかに、気づきましょう。逃避の作用であるなら、それは音なのです。観察者がないのなら、そのとき静寂が、過去全体の完全な否定があるのです。
(´・(ェ)・`)つ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板