したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

691避難民のマジレスさん:2020/03/24(火) 23:15:30 ID:5fsey69o0
変化の緊要

宗教的な生 2

(K)それで、生を世間と非世間とに分割しないことが重要です。世間的なもの・ことといわゆる宗教的なもの・こととの間に区別を付けないことが重要です。質料の世界、物質的世間なしでは、私たちはここにいないでしょう。空と丘の唯一の樹の美しさなしで、通り過ぎるあの女と馬に乗るあの男なしでは、生はありえないでしょう。私たちは、他と対立して宗教的と考えられるその特定の一部分に(関心を持つの)ではなく、生の全体に関心を持っているのです。それで、宗教的生は、特定ではなく、全体に関係することが見えはじめるのです。

質問者 あなたの言われることは理解できます。私たちは生きることの全体を扱わなくてはなりません。私たちはいわゆる「霊」から世間を分離できません。それで疑問はこうです - どの道において私たちは、生のものごとすべてに関して、宗教的に行為できるのでしょうか。

K 私たちのいう宗教的に行為するとはどういう意味なのでしょうか。あなたのいうのは、分割 - 世間的なもの・こととと宗教的なもの・ことの間、有るべきものと有るべきでないものの間、私とあなたの間、好き嫌いの間の分割がない生の道、という意味ではないでしょうか。この分割は葛藤、抗争です。葛藤、抗争の生は、宗教的な生ではないのです。宗教的な生は、私たちが深く葛藤、抗争を理解するときにのみ、可能です。この理解は智恵なのです。正しく行為するのはこの智恵です。ほとんどの人々が智恵と呼ぶものは単に、何か技術的活動の器用さや実業や政治の口先のうまさだけなのです。

質問者 それで、私の疑問は本当は、どのように葛藤、抗争なく生き(るのか)、その檻がどれほど古く崇敬されていようとも、ただ単に何か宗教的檻に条件づけられた情動的慎ましさだけではない真の神聖さの感情をもたらすのか、という意味なのです。

K 村であまり多くの葛藤、抗争なく生きる人や、「聖なる」丘の洞窟で夢見る人は確かに、私たちが話しあっている宗教的な生を生きていないのです。葛藤、抗争を終わらせることは、最も複雑なことの一つです。それには、自己観察と、外ともに内の気づきの敏感さが、要るのです。葛藤、抗争は、自分自身の矛盾の理解があるところでのみ、終わりうるのです。知られたもの・こと、すなわち過去を免れた自由がないのなら、この矛盾はいつも存在するでしょう。過去を免れた自由は、時間のではない(いまに生きる)、過去や知られたもの・ことに触れられずこの自由の動きのみがあるいまに生きる、という意味です。
(´・(ェ)・`)つ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板