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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

586鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/05(水) 21:49:22 ID:.sHXjcvY0
>>583 そうじゃ、精進あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>584 それは何度か書いたことがあるのじゃ。
 過去レスを色々探してみると良いのじゃ。

>>585 それは執着によって子供や財や国を欲してはいかんということなのじゃ。
 自分や人の執着や欲によってそれらを望めば、争いとか競争が耐えぬものじゃ。

 それらに熱中すればする程、お互いに汚い策略なども使うようになり、人も死んだりするじゃろう。
 そして他人の怨みも多くかう事になり、長くは保てないのじゃ。

 執着によってそれらのものを欲すれば、そのように多くの悪も成し、身を滅ぼすも事になるのじゃ。
 正しい行いによって真理に従い、自ら得られるのならば良いのじゃ。
 
 そうすれば他人の怨みをかうことも無く、長く保てるのじゃ。
 それが正しい道なのじゃ。

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589避難民のマジレスさん:2014/11/07(金) 14:10:29 ID:W9x6FqRY0
>>586 
執着によって欲してはいかんということだったのですね。
第2句と第3句のつながりが分からなかったのですが、ようやく理解できました。
お釈迦様の正しい教えを今、分かり易く伝えてくださり、ありがとうございます。

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591避難民のマジレスさん:2014/11/07(金) 19:28:32 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
最近、瞑想中に何かしたいという思い、例えば、電話を留守電にしたか確認したいとか、首にすれるシャツの襟を直したいとか、ほんの些細な思いが突然わいた際に、そのことを我慢するとか、雑念として受け流すというのではなく、そのように感じてる自我を意識が客観的にとらえるだけで、その思い自体がさぁーっと消えて行きます。
この自我の思いを客観的に意識する意識は、アラヤシキなのでしょうか?
何かそんな高度なものではなく、日常の意識で単に自分の意識を分析しなおしてるだけのような気もしますが、そのことにより、欲求がさぁーっと消える感じは、不思議でもあります。
考え過ぎでありましょうか?
金剛般若経は5ページで停滞中であります。4ページまでは適当な節回し()?で抑揚をつけ、調子よく暗記が進んだのですが、5ページの読みにうまく抑揚がのらず停滞しております。
お寺さんとかにお願いすれば唱えかたとか教えてくれるものなのでしょうか?で

592鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/07(金) 21:35:14 ID:.sHXjcvY0
>>589 どういたしまして、またおいでなさい。

>>591 観察が出来ているのじゃ。
 それはまだ、まな識辺りなのじゃ。
 分別があるからのう。

 無理に唱えなくとも良いのじゃ。
 意味が判らなくては何の効果も無いからのう。
 現代文で読めば良いのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2014/11/07(金) 23:12:34 ID:LC3de7YgO
>>592
鬼和尚、ありがとうございますヽ(*・(∀)・*)ノ ちょびっと興奮気味の龍明であります。
まな識でありますか!!
早速調べてみるであります。

日常の意識からチョピッと前へ進めたのでありますね!
嬉しいであります♪

金剛般若経は、解説も全部読んでおりますが、より一層しっかり読むであります!

ただ、ボケ防止と集中力強化のため、暗記も続けたいと思います。

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595避難民のマジレスさん:2014/11/08(土) 06:57:39 ID:EO4mNeKg0
鬼和尚、
ダンマパダの210と211の解説をお願いします。ダンマパダの84と同様に、人に執着するなということでしょうか?

210 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

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597避難民のマジレスさん:2014/11/08(土) 19:09:23 ID:OSlXvtzA0
善慧です。鬼和尚さま、昔のことですが心の整理のために質問させてください。
子供の頃、手の感覚が大きなグローブのように、巨大化して感じられたり、
怒っているの顔だけが大きく目の前に迫ってきたりすることがよくありました。
誰にも相談できず、気が狂っているのではないかと、とても怖かった記憶があります。
気のせいではなくリアルな感覚でしたので、ずっと不思議だったのですが、
昨夜瞑想中、手が広がる懐かしい感覚を体験し、当時のことが蘇ってきました。
何かアドバイスをいただければ、当時の自分も救われると思います。
どうかよろしくお願いします。

598鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/08(土) 22:57:07 ID:.sHXjcvY0
>>590 そうじゃ、進んでいるのじゃ。
 もはや心を観察する事が出来ているのじゃ。
 さらに学び精進するのじゃ。

>>595 そうじゃ、愛着なのじゃ。
 愛し執着する事を諌めているのじゃ。

 愛するものと離れるのは愛別離苦なのじゃ。
 愛さない人と会うのは怨憎会苦なのじゃ。

 愛する者に会いたいという執着が愛別離苦を起こし、
 愛さない者と会いたくないという執着が怨憎会苦を起こすのじゃ。

 愛し執着する事がないならばそれらの苦もなくなるのじゃ。
 全ての人に平等な慈悲を持つ平等心こそ苦を滅した境地なのじゃ。

 なかなか難しい事ではあるがのう。
 アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。
 悟りを得るまで去りがたい執着を離れたならば、苦も無いのじゃ。
 
>>598 ご苦労さんじゃ。正に菩薩の行いじゃ。
 
>>597 それは意識が広がっているからなのじゃ。
 瞑想だけでなく催眠状態でもよく感じられたりするものじゃ。
 意識は本来肉体に限定されるものではないのじゃ。
 肉体よりも広く意識は広がっているのじゃ。
 悟りを得れば全てが意識であるとさえ感じられるのじゃ。

 やがて肉体の外に意識が広がり、肉体を抜けたとか感じられるのじゃ。
 意志による体、意生身とか幽体離脱とか脱身とか言ったりするのじゃ。

 空間にも広がったとか感じられるのじゃ。
 その境地を空無辺定とか識無辺定と呼ぶのじゃ。

 知覚も鋭敏になったりするのじゃ。
 それは集中力が増した事による能力と知覚の拡大したものであるから囚われずに進むのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 09:35:08 ID:LC3de7YgO
>>598
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。
>観察が出来ている・・・が、しかし、
>それはまだ、まな識辺り・・・なぜなら、
>分別があるから

ということは、分別のない状態=日常の意識での「思い」が自動的、無意識にわかない状態を目指すのですね。 これはまた高いハードルではありますが、がんばりますo(`(^)´*)

例えば、かつてあんなにも瞑想の邪魔をした足のしびれが、いまや全く苦にならなくなったような感じで、思いがわいても気にならない、程度ではダメなのでしょうか?
潜在意識の自動的な表出自体を完全に封じ込め(?)るというか、そもそもわいてこない状態になるのでしょうか?

600避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 09:56:25 ID:KYsRskK20
はじめに自己紹介をしてる人達は、名前欄にコテハンを入れておけば
自己紹介の手間が省けると思うんだけど、何故そうしないんだろう?

自分から名前を付けて欲しいと頼んだのに、コテハンにしない
理由がよく分からない。

601避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 10:23:09 ID:QMm34KcU0
鬼和尚さんは 「完全な悟り」 を開かれているので、たとえ
「眼病で失明しても問題ではない」 と言えるのでしょうね。

しかし、今されている配達の仕事は出来なくなりますよね。
お母上様のお世話も出来なくなりますよね。 それでも
「困る事は無い」 「問題ではない」 と言えるでしょうか?

やはり、この世で生きている以上、「完全な悟り」 というもの
はないように思うのですが、鬼和尚さんはどう思われますか?

602善慧:2014/11/09(日) 19:39:00 ID:pjVQwsrk0
鬼和尚さま、ありがとうございます。
小学生の頃、暴力を受ける度に体と意識の乖離を願って、
「自分は身体では無い」と呪文のように心の中で必死に唱えていたことを思い出しました。
まさに物事は心に基づき、心を主とし、心によって作り出される…ですね。
自分が自分の囚われる原因を作り出していたことに、やっと気付くことができました。
本当に愚かでした。
正直かなりショックですが、貴重な体験だったと思います。

>>600 ご指摘ありがとうございます。
名前を頂いたのは、飽きっぽい自分が修行を続けるためのモチベーションを向上させる目的でした。
実は掲示板への書き込みは初めてで、書き込み時は心拍数が極度に上がる小心者なのです。
コテハンとして利用することに全く気がつかす、申し訳ありませんでした。
これからはちゃんと名前を入力しますので、よろしくお願いします。

603避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 21:43:36 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
自分はいかに善人のつもりでも、いかに不義理を繰り返してきたことか、いかに恥多き人生であるか…と言う思いが、最近少し薄らいできました。
反省しつつも、今に生きるしかないのでありますね。

>>600
ここはシタラバなのでコテ無しでも、端末変えなきゃ一緒でありましょう。
人のしたことしなかったことを気にするよりも、自分のそれを気にしたいであります。
by 龍明ヽ(・(∀)・)ノ

604鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/09(日) 21:47:03 ID:uLBoB1cw0
>>599 完全に集中した状態ならば肉体も思考も感情も感じなくなり、意識だけがあるようになるのじゃ。
 それには集中しただけでは長くかかる故に、自我を観察して滅する法なども必要になるのじゃ。
 無我になれば必然的に我を感じる事もないから深く集中できるのじゃ。
 それが近道なのじゃ。

>>601 眼が見えなければ年金などももらえたりするのじゃ。
 良い事じゃ。
 死ぬべき時には抗わず素直に死ぬが良いのじゃ。
 その覚悟があれば常に完全なのじゃ。

>>602 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

605避難民のマジレスさん:2014/11/09(日) 22:01:33 ID:NpBkhqbI0
>アナンダでさえお釈迦様への執着から修行が進まなかったと言うからのう。

私は鬼和尚への執着から修業が進みません。
この愛着も断ち切らねばなりませんか?

606鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/09(日) 22:32:22 ID:j1756nk.0
2ちゃんねるがなにやら規制のようじゃ。

607避難民のマジレスさん:2014/11/10(月) 04:18:44 ID:LoicJ7Tc0
>>598 ありがとうございます。
アナンダは苦滅の法を知りながら、お釈迦様への執着を厭離しなかったのでしょうか?

私自身、悟りの障害となっているのは、家族と自我への愛着だと感じています。
これらは完全に厭離しなくとも悟りは得られるものなのでしょうか?

鬼和尚が悟りを得た時には、家族への愛着は残っていましたか?

608避難民のマジレスさん:2014/11/10(月) 09:28:04 ID:KYsRskK20
>>603
そういうことじゃ無くて一回コテハンに名前を書き込めば
「ヽ(・(∀)・)ノ龍明であります。」とか書き込む手間が省けると言ってるだけでしょ。

君が言うようにここはIDが変わらないから誰だと認識出来ると言うなら
その自己紹介も要らないって事になるよね。

609鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/10(月) 21:30:14 ID:HogqPWDY0
>>603 そうじゃ、ただひたすら進むしかないのじゃ。
 またおいでなさい。

>>605 そうじゃ、執着があれば苦も起こるじゃろう。
 悟りへの執着以外の全ての執着を捨てて進むのじゃ。
 最後には悟りへの執着も消えた時に悟りが訪れるのじゃ。

>>607 そうじゃ、一番多く教えを聞いていたから当然知っていたのじゃ。
 しかしわざと厭離しなかったのじゃ。

 深い瞑想の中で観照の瞬間が訪れたならば厭離しなくとも悟れるじゃろう。
 
 わしは自らの死を超える事で必死であったから家族の事も考えなかったのじゃ。
 自分が死ねば家族ともあえないと想っていたからのう。

610避難民のマジレスさん:2014/11/11(火) 17:57:56 ID:EIvcNESg0
お釈迦様に出会ったばかりのキサーゴータミーは、本当に愛別離苦を観察出来たのでしょうか?
観察は自分があると出来なくないですか?かなり難易度高くないですか?

611避難民のマジレスさん:2014/11/11(火) 20:14:57 ID:7rD9T5220
>>609
家族にしても自我にしても、結局は記憶によって起こる言葉とイメージに執着していると、知識では分かっています。
確かに自分が死ねば、愛着しているすべての物事も失われますね。

自分の本心を再度確かめたところ、死ぬより前に悟りを得て本当のことを知りたいという思いが最も強く、次いで自我への愛着、家族への愛着となっています。
止観にさらに励み、もし進めないようなら、愛着の厭離をする意志を起こそうと思います。
お答えくださり、ありがとうございました。

612鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/11(火) 21:14:15 ID:tHugDETI0
>>610 出来たのじゃ。
 それ故にもはや我が子を生き返らせようとは想わなくなったのじゃ。
 それは自分の執着であり、真に子を想っての事ではなかったと気づいたからのう。

 自分が在っても観察はできるのじゃ。
 学者が研究対象を観察して新しい発見をするのも同じ観察なのじゃ。
 自分の心を観察して今まで知らなかったことに気付くのが修行者の観察なのじゃ。
 対象が違うだけで行いは同じなのじゃ。

 日々練習すれば容易になるのじゃ。

>>611 良かったのじゃ。
 本心に気付いたのじゃな。
 さらに実践あるのみじゃ。

613610:2014/11/11(火) 22:27:56 ID:EIvcNESg0
鬼さまお答えありがとうございます。ぼけーっとしてる時に一つの執着が流れていくのを観たと思うんですけどね。

614避難民のマジレスさん:2014/11/12(水) 09:57:14 ID:z17ZvuWQ0
和尚様公案です スズちゃんにおっぱいはありますか?

615避難民のマジレスさん:2014/11/12(水) 14:52:51 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
最近、集中して意識のエアポケットみたいな無思考な状態を形成できる時間が少しずつ長くなってきました。

感情を伴う思考が雑念としてわいた際に、そのポケット内で、鬼和尚に仰っていただいたマナシキが察知すると、たちどころに消え去るようなことがよくあります。
しかし、日常においてはそこまで簡単に行きません。
観照とか悟りといったものは、ある日ある時突然壁が破れ視界が広がるような体験なのかと想像しているのですが、筋トレのように徐々に段階を踏み到達するという側面も大きいものなのでしょうか?
瞑想中の雑念処理と同じような状態に、日常においてもなって行くのでしょうか?
何か、そんな気配をチョピッと感じる今日この頃でたります。

616避難民のマジレスさん:2014/11/12(水) 20:49:15 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。本日二度目であります。
今日座っていて、自分が他人に冷淡であった時の思いが突然わき上がりました。
瞑想時に限らずよみがえる負の感情を伴う記憶の多くは、他人からされたことや理不尽だと思うこと等自分が被害者的立場のものがほとんどですが、自分が加害者的立場の感情を伴う記憶が連鎖的に激しくわき上がったのは初めてかもしれません。
以前何度か、心の深奥を観察してみようと試み、色々試してみましたが、単発的にあらわれることはあっても、ほとんどは表面的なものでした。
今日突然それができちゃったのですが、自分が加害者であり、簡単にできる他人に対する優しさを示すことができなかったこと、ずるさ、卑怯さ、愚劣さ等々の自己のマイナス評価・・・劣等感の根拠みたいなものが、堰を切ったように吹き出しました。
もしかしたら、瞑想時にそれが起きたのではなく、一つの記憶を契機に連鎖的に類似の記憶がよみがえったのかもしれません。
以前、やろうとしてうまく行かなかった心の深奥の探求とは、まさにそういった側面をも含めて自分のありのままの姿を見つめ直してみようとしたのですが、その一部が突然できちゃった感じです。
自分が加害者的立場の感情は、いつもの雑念処理と勝手が異なり、頑として居座り消えませんでした。変な話ですが、それが光輝くような感じで存在を主張しているようにも感じられました。
相当に苦しく、短時間、多分10分くらいで今日は打ち切ってしまいました。
今後は、覚悟を決めて、苦しくてもそれらを観察して行こうと思います。
受け身的な記憶と主体的な記憶の質や強さの違いがよくわかりましたが、結局それらの記憶も観念にすぎず、乗り越えられるものなのでしょうが、まずは洗いざらい深奥をほじくり返してみようかと思います。
このようなことは、もしかしたら、無意味でしょうか?
これは、以前読んだbrownさんという人のコメントを参考にした自分なりの内観法みたいな感じなのですが、観照や悟りに近づくために役立つことであるなら頑張って続けてみようと思います。(´・(ェ)・`)

617鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/12(水) 22:26:17 ID:tHugDETI0
>>613 それで良いのじゃ。
 そこに気付きもあるのじゃ。
 執着が自分ではないと気付いているのじゃ。
 そのように進んで行くのじゃ。

>>614 無じゃ。

>>615 そうじゃ、気付きは一瞬にして訪れるが、それには少しずつ進歩していく事も必要なのじゃ。
 自分の本心に気づくには時間も掛かるものじゃ。
 世間で頑張って暮らしていくうちに、自分に嘘をついたり誤魔化したりして本心が判らなくなるのじゃ。
 本心が見えてこそ観察が出来て気付きも起こり、悟りは訪れるのじゃ。

>>616 本心が見えてきたのじゃ。
 それも観念によるものなのじゃ。
 消そうとか操作しようとせずに静かに観察するだけにするのじゃ。
 そうすればそれに囚われているものに気づくのじゃ。
 それも己なのじゃ。

618避難民のマジレスさん:2014/11/13(木) 00:23:59 ID:QMm34KcU0
イエス・キリストの悟りの深さは、仏教で言えばどのぐらいですか?

619避難民のマジレスさん:2014/11/13(木) 06:03:37 ID:LC3de7YgO
>>617
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>気付きは一瞬にして訪れる
 自分の本心に気づくには時間も掛かる
>自分に嘘をついたり誤魔化したりして本心が判らなくなる
 本心が見えてこそ観察が出来て気付きも起こり、悟りは訪れるの
→その訪れる一瞬に向けがんばります。
わからなくなった本心が潜在意識の底からあらわれると、それはかなり苦しいものであろうことは、端から想定内でありますが、自分の本心を探ることがこんなに困難だということは、想定外でありました。
ある程度修行が進み、精神がそれに耐えられるようになるまで、自我さんが蓋をしてくれてたのでしょうか?
今朝は、集中し、エアポケットを作ってから昨晩と同じ契機となる記憶を想起しても、何等の感情もわきませんでした。
なぜかはわかりませんが、まさか昨夜一瞬にして、燃え上がり厭離されてしまったわけでもあるまいし…自我の観察は一筋縄ではゆきませんですね。

620避難民のマジレスさん:2014/11/13(木) 11:15:56 ID:PafroR2U0
>>617
悟れそうな気がします!ありがとうございました!

621鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/13(木) 20:40:32 ID:1DYWkec60
>>918 神と合一したサマーディにまでは達していたような記述があるのじゃ。
 神から離れられなければそこまでなのじゃ。 
 神もまた乗り越えて進まなければ真の悟りは訪れないのじゃ。

>>619 そうじゃ、苦しいから見ないようにしていたのじゃ。
 しかしそれを超えれば楽になるものじゃ。

 すでに少し滅したようじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>620 どういたしまして、またおいでなさい。

622避難民のマジレスさん:2014/11/14(金) 02:33:37 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は神社仏閣に参詣されることはありますか?
合掌したり、拍手を打ったりされますか?

623避難民のマジレスさん:2014/11/14(金) 14:00:59 ID:LC3de7YgO
>>621
鬼和尚、ありがとうございます。
ちょびっといつもとちがうアプローチをしてみたら、壁にぶつかってしまいました。

まず、自分は今あると言う実感を感じてみる。(なんかこんな書名の本がありましたですね。)
この実感は当たり前に簡単に感じる。
今あるという実感、一瞬前も、昨日も、10年前も、生まれてから今この瞬間までずっとあったという実感は確かなものとして揺るがない。
しかし、その実感は一瞬前の記憶に支えられている。
観念にすぎない記憶に支えられている。
いつもの雑念なら、その観念から離れ集中に戻れば、雑念は消える。(消そうとするのではなく、結果的に消える。)
その雑念が何らかの強い感情を伴うものである場合でも、原因である雑念が消えれば、感情もきえる。
観念に過ぎないものに実体はないという感じがわかりかけてきていたのに、「私はある」という記憶の確からしさは、同じ観念に過ぎない記憶でも、実体があるように感じられる。
うぅぅ…へんなことを思い付きでやってしまった。
アプローチ方法を間違えてしまったのでしょうか?
「私はある」という観念を観察してると、ますますその確からしさが強まるような気がしました。
これも、観察し続ければ、記憶は観念に過ぎない、実体はない・・・と言う実感に繋がって行くものなのでしょうが、けっこうしぶとい感じです。
(・(ェ)・)ゞ

624避難民のマジレスさん:2014/11/14(金) 16:41:53 ID:pcrSfcf60
和尚、こんにちは。

>>615で龍明さんが意識のエアポケットと言っていますが、
最近は私もそのような状態に入ることが多くなりました。

ですが、そこから先がどのようにすればよいかわからないため、
このあたりでいつも中断してしまいます。

おそらくは、ただそこに居続ければいいと推測はしているのですが、
推測である以上は「疑」が生じ、思考が暴れはじめてしまうのです。

エアポケット(プチ無思考?)に入った状態になったあと、
どのような心持ちを保っていればよいか教えて頂けないでしょうか。

625避難民のマジレスさん:2014/11/14(金) 21:52:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
さっきの書き込みをしてから検索してみたら、『私は在る』(マハラジ)というのがありました。彼は真我を前提とするヒンデゥー教の立場(?)で悟りを解説してるのかなと思いました。
折角無我に接近しつつあるので、私なりの「私はある」も観察により是非見切ってやりたいと思いました。

626鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/14(金) 22:11:05 ID:ATEs0xlc0
>>622 無いのじゃ。
 
>>623 その実感が原因から起こることを観察するのじゃ。
 今既に観察するほどますます確かになると感じると言うのじゃ。
 その観察する行為が無ければ、実感も減るかも知れん。
 それを観察するのじゃ。

>>624 そこからさらに力を抜くのじゃ。
 思考が無くとも未だ自我があり、己を守ろうとする慣習の力は残っているものじゃ。
 さらに力を抜いて何もかも棄てて、身を任せれば更に深い境地には入れるのじゃ。
 そのようにして瞑想は甚だ深く微妙な段階に入っていくのじゃ。

 深くなるほど難しいが快も大きく確かになるものじゃ。
 実践してみるのじゃ。

627鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/14(金) 22:11:50 ID:ATEs0xlc0
>>625 何でも試してみると良いのじゃ。
 実践あるのみじゃ。

628避難民のマジレスさん:2014/11/14(金) 22:25:31 ID:LC3de7YgO
>>626
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>その実感が原因から起こることを観察する
>観察する行為が無ければ、実感も減るかも知れん。
>それを観察する

おー!!まさに目から鱗・・・であります!

今夜、やってみます!

629避難民のマジレスさん:2014/11/15(土) 02:30:02 ID:QMm34KcU0
鬼和尚さんの家には仏壇はありますか?
ご先祖の位牌はありますか?
鬼和尚さんはご先祖の位牌や形見に
手を合わせたりすることはありますか?

630避難民のマジレスさん:2014/11/15(土) 15:36:35 ID:sdxsOZmw0
>>626
和尚、アドバイスありがとうございます。

>思考が無くとも未だ自我があり、己を守ろうとする慣習の力は残っているものじゃ。

なるほど。生じている「疑」も自我が作り出しているトラップかもしれませんね。
また深くなるほど難しいとのことですが、それを聞いて逆に安心感ができました。

より力を抜き、さらに深く入れるよう精進します。
ありがとうございました。

631素人A:2014/11/15(土) 17:39:45 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さん私は公案力はあるが考案力はまるで才能無い皆が出きる
ああやっらこうなるの常識的計算の思考しいうか左脳の力不足を
感じる。まあ人それぞれ良いところも苦手な所もあるかで力を付けるには
努力といか訓練すれば半人前が一人前にはなると思います。何時も思考が
すっ飛び過ぎて分裂するでも統合失調症ではない。相手にもされない友達も少ない
でもまあ良いかで.なるようになるで

632避難民のマジレスさん:2014/11/15(土) 18:12:25 ID:1i3yO3Jw0
鬼和尚さま、私は無を愛し信仰しています。
どうぞ私を無に引き込んでください!
よろしくお願いいたします。

633鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/15(土) 21:46:29 ID:BS2Fn79w0
>>628 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 観がたい心の働きを観るために、お釈迦様は原因から起こる連鎖を観察することを教えたのじゃ。
 それが法なのじゃ。

>>629 無いのじゃ。
 位牌も無いのじゃ。
 手を合わせることも無いのじゃ。
 本当に故人を想う心だけが大事なのじゃ。
 
>>630 そうじゃ、力を抜くほどに瞑想は深くなってくるものじゃ。
 体のバランスを保ちつつ、力を限界まで抜けばサマーデイも近いのじゃ。
 人の感じられる限界を超えた喜びを味わうのじゃ。

>>631 考案力も使う事で発達していくものじゃ。
 日々考案し、言葉の使い方も学べば考案力も身につくじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>632 既に一切が無なのじゃ。
 おぬしの名前もイメージも無なのじゃ。
 名前もイメージもあると想っているだけで本当は無なのじゃ。
 肉体も無なのじゃ。
 感覚も無なのじゃ。
 感情も無なのじゃ。
 思考も無なのじゃ。
 分別も無なのじゃ。
 記憶も無なのじゃ。
 あると想う心も無なのじゃ。
 無であると想う事も無なのじゃ。
 もはや何も言うべき言葉も無いと想うのも無なのじゃ。

634避難民のマジレスさん:2014/11/16(日) 18:26:36 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
あの「自分はある」の確からしさはなんだったんだろう?
鬼和尚に言われた通り、観察するのをやめ、ただ意識が静まったところで「自分はある」という思考を想起し、放置してみた。先日の確からしさの強い思いも混乱も起こらず、記憶に基づく観念の一つとして意識されるのみだった。
先日の強い実在感とのコントラストを感じてると、スゥーッと身体の実体感も薄らぎ、丹田の陽気のみがつよく感じらるた。
まだ、サマディとまでは行きませんが、それに近づいてるのかも知れないのかな…と思いました。

635避難民のマジレスさん:2014/11/16(日) 18:58:19 ID:23AF/Pqg0
>>633
和尚さま
>本当に故人を想う心だけが大事なのじゃ。
とのことですが、
大事に想う心というのは万物に対する慈悲心のことですか?

それとも特に自分に縁のある故人に対して想うことも大事なのでしょうか?

仏教的には分別せず、特定の相手に対する感情やこだわりは捨てたほうがよいような気もするのですが、
そういう想いは想いとして持っていてもいい(むしろ大事?)のでしょうかね。
そういう想いを捨てようというほうがへんなこだわりなのでしょうか。

そのときそのときが在るだけで、故人を想うときは故人を想え、
現われる感情をいちいちどうこうしようとするなってことなんでしょうかねえ。

そういう自分に現われる心も、よくない心はもちろん生じないほうがよいのでしょうが、
どれもまた捨てていくのがいいのか、持っていてもいいのか、
修行がすすむと、心(想い、感情)は生じないというような話も聞きますし、
あるいは、心が生じるのは当然でそれに執着しなければいいという意見も聞きますが、
そのあたりどうなのでしょうか?

636鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/16(日) 21:32:15 ID:NIt2rEm60
>>634 良かったのじゃ。
 我を想起しなければサマーディも近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>635 個人へのものでも自然に沸き起こる思いを滅しようとか想わなくて良いのじゃ。
 強く執着して修行への妨げにならないならば、放って置いてよいのじゃ。
 無理に滅しようとすれば本心を隠す事にもなるからのう。
 修行とは心を変えようとすることではなく、あるがままの心の姿を観察して変容を自ずから起こるようにする事なのじゃ。
 想いを無理に起こす事も滅する事も無く、自ら観られたならば変化するままにしておくのじゃ。
 そうすれば深い境地にも至れるのじゃ。

637635:2014/11/17(月) 04:17:17 ID:23AF/Pqg0
>>636
なるほど
何事もあるがままにして観察して変わっていくにまかせることですね。

そう思うと、ちゃんと悟りきった方は少なそうで、すごく修行してる方も多いのになあとよく思っていましたが、
そういう方は無理に修行しようとしていたのがよくなかったのかもしれませんね。

修行でなかなか目に見えた結果があらわれなくても、自分でもわからないような深みで内面の整理のようなものが進み、
やがて機が熟し、ささいなきっかけからそれらが結果として現われることも多いような気もします。

お言葉を参考に実践していきたいと思います。
ありがとうござざいました。

638鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/17(月) 22:21:35 ID:NIt2rEm60
>>635 そうじゃ、なかなか難しい事ではあるが試してみるのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

639避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 01:03:04 ID:0bsJOsOA0
和尚様、ダンマパダを読んでいてわからないことがあったのでお教え下さいますか?

195、196 すでに虚妄な論議をのりこえ、憂いと苦しみをわたり、何ものをも恐れず、安らぎに帰した、
拝むにふさわしいそのような人々、もろもろのブッダまたその弟子たちを供養するならば、この功徳はいかなる人でも
それを計ることができない。

ここにある供養とは具体的にどのようなことなのでしょうか?
拝むこと?とは又違う気がするのですが。

640避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 11:08:26 ID:LC3de7YgO
>>636
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>我を想起しなければサマーディも近い

これだけ聞いたのなら、どうしたらいいか戸惑ってしまうところですが、私は最近意識が静まってきたところで、わざと思考や感情を想起しそれを観察するみたいなことをやっていたので、その実験をやめればいいだけでしたので、簡単でした。
まだ、サマディには到達できませんが、思考、感情=自我の想起をやめるだけで、あっと言う間に安楽な瞑想状態になり、夜寝る前にやると、ぐっすりと良質な睡眠がとれる気がしました。
精進します。

641避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 15:54:08 ID:Ixi5VWxw0
鬼和尚、
止観を続けているのですが、たまに止観に疲れて行を休みたい日があります。
このような日には、止観を自分で決めた最低限にして、ダンマパダなどの経を少し読み、あとは欲に流される日を送ってしまったりします。

大抵次の日には、やる気が復活するのですが、心の汚れも増えているように思います。
このような行をしたくない日の、より良い過ごし方がありましたら、お教えください。

642避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 15:55:05 ID:Q7u.yQUU0
2chで勝つための戦法はありますか?

643避難民のマジレスさん:2014/11/18(火) 18:58:41 ID:QMm34KcU0
鬼和尚は病気になっても西洋医学の治療は受けないのですか?
例えば、癌らしい病状になっても抗癌剤などは服用せずに、念力
などによって自力で治そうとするのですか?

644鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/18(火) 22:35:36 ID:NIt2rEm60
>>639 それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
 この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
 修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。

>>640 そうじゃ、何でも試してみるのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 
>>641 近所の公園などに行って自然を観察してみると良いのじゃ。
 木や草の葉一枚でも観察力がついた目で見れば、記憶とは違っている事がわかるのじゃ。
 自然に親しめば健康にもなるのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>642 何も書かない事じゃ。
 いずれ消え去るのじゃ。
 2ちゃんも消えるじゃろう。
 心を鎮めていた者が勝ちなのじゃ。

>>648 受けないのじゃ。
 念力ではないのじゃ。
 西式健康法とかヨーガとか気功とか呼吸法とか天真療法とかいろいろともつとよい治療があるのじゃ。
 手術などをするとむしろ寿命が縮まるというのじゃ。自然な療法が良いのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 12:14:49 ID:dREx977M0
>>644

>>639 それは食べ物や服などを布施する事なのじゃ。
 この国では死人に供物を上げる事になっているが、本来は目覚めた者や修行者に布施をする事なのじゃ。
 修行者は布施が頼りであるから供えれば養う事にもなるのじゃ。

理解出来ました。ありがとうございます。

646避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 12:56:35 ID:Ixi5VWxw0
>>644
最近内側の観察ばかりしていて、気づきませんでした。
自然を観察してみました。美しくて驚きました。
また、欲に流されようとするのは、結局は逃避の表れであることにも気づけました。
ほぼいつでもあり、どこまでも広がっている自我に圧倒されかかっていたのですが、肩の力が抜けました。
今後も苦滅の意志を奮い起こせない時などに、さらに試してみます。
ありがとうございました。

647避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 18:56:34 ID:ZYMyGpV20
長くて気が引けますが、お時間のあるときにでも
信心銘の鬼和尚訳をお願いできませんか?

648鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/19(水) 21:42:56 ID:NIt2rEm60
>>645 どういたしまして、またおいでなさい。

>>646 善い事じゃ。
 一休み一休みしながら続ければよいのじゃ。
 またおいでなさい。

>>647 それも善い事じゃ。
 しかし本が無いのじゃ。
 信心銘が無料で公開されているサイトなどを探してみるのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 22:24:44 ID:/Tir5mUE0
瞑想を初めて4ヶ月ぐらいたつんだけど
最近なんだか視界がおかしいんだよね
透明なノイズみたいなのがサーサーしてる
点滅しているように見えたり、流れているように見えたりする
おかしなだけで不便とかではない。はっきり見えないし気のせいかね

650避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 22:50:00 ID:jfWCoXjM0
>>648
了解です。まずwikiからのコピペです。

至道無難 唯嫌揀擇 但莫憎愛 洞然明白 毫釐有差 天地懸隔

欲得現前 莫存順逆 違順相爭 是為心病 不識玄旨 徒勞念靜

圓同太虛 無欠無餘 良由取捨 所以不如 莫逐有緣 勿住空忍

一種平懷 泯然自盡 止動歸止 止更彌動 唯滯兩邊 寧知一種

一種不通 兩處失功 遣有沒有 從空背空 多言多慮 轉不相應

絕言絕慮 無處不通 歸根得旨 隨照失宗 須臾返照 勝卻前空

前空轉變 皆由妄見 不用求真 唯須息見 二見不住 慎勿追尋

纔有是非 紛然失心 二由一有 一亦莫守 一心不生 萬法無咎

無咎無法 不生不心 能隨境滅 境逐能沉 境由能境 能由境能

欲知兩段 元是一空 一空同兩 齊含萬象 不見精麤 寧有偏黨

大道體𥶡 無易無難 小見狐疑 轉急轉遲 執之失度 必入邪路

放之自然 體無去住 任性合道 逍遙絕惱 繫念乖真 昏沉不好

不好勞神 何用疏親 欲取一乘 勿惡六塵 六塵不惡 還同正覺

智者無為 愚人自縛 法無異法 妄自愛著 將心用心 豈非大錯

迷生寂亂 悟無好惡 一切二邊 良由斟酌 夢幻空華 何勞把捉

得失是非 一時放卻 眼若不眠 諸夢自除 心若不異 萬法一如

一如體玄 兀爾忘緣 萬法齊觀 歸復自然 泯其所以 不可方比

止動無動 動止無止 兩既不成 一何有爾 究竟窮極 不存軌則

契心平等 所作俱息 狐疑淨盡 正信調直 一切不留 無可記憶

虛明自照 不勞心力 非思量處 識情難測 真如法界 無他無自

要急相應 唯言不二 不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

宗非促延 一念萬年 無在不在 十方目前 極小同大 忘絕境界

極大同小 不見邊表 有即是無 無即是有 若不如是 必不須守

一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢 信心不二 不二信心

言語道斷 非去來今

651善聖 ◆rgBot67fe.:2014/11/19(水) 22:57:10 ID:4hgKdDEo0
想起される言葉によって感情が誘導されるのを観察しました。

人は悪い言葉によって悪く、良い言葉によって良くなるのかも知れませんね。
日頃から言葉は慎まなければならないと思いました。

652避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 23:17:25 ID:jfWCoXjM0
>>648 読み下し文です。

01至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

至道(しどう)無難(ぶなん)、唯揀(ゆいけん)択嫌(けんじゃく)。但(た)だ憎愛(ぞうあい)莫(な)ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり 。


02毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

毫釐(ごうり)も差(しゃ)有(あ)れば、天地(てんち)懸(はる)かに隔(へだ)たる。現前(げんぜん)を得(え)んと欲(ほっ)せば、順逆(じゅんぎゃく)を存(ぞん)すること莫(なか)れ。


03違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

違順(いじゅん)相争(あいあらそ)う、是(これを)心病(しんびょう)と為(な)す。玄旨(げんし)を識(し)らぞれば、徒(いたず)らに念静(ねんじょう)に労(ろう)す。


04円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如
 
円(まど)かなること大虚(たいきょ)に同(おな)じ、欠(か)くること無く余(あま)るこし無し。良(まこと)に取捨(しゅしゃ)に由(よ)る、所以(ゆえ)に不如(ふにょ)なり。


05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

有縁(うえん)を逐(お)うこと莫(なか)れ、空忍(くうにん)に住(じゅう)すること勿(なか)れ。一種平懐(いっしゅへいかい)なれば、泯然(みんねん)として自(おの)ずから尽(つ)く。


06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

動(どう)を止(や)めて止(し)に帰(き)すれば、止(し)更(さら)に弥(いよい)よ動す。唯(ただ)両辺(両辺)に滞(とどこお)らば、寧(なん)ぞ一種(いっしゅ)を知らんや。


07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

一種(いっしゅ)通ざれば、両処(りょうしょ)功(こう)を失(しっ)す。有(う)を遣(や)れば有を没(ぼっ)し、空(くう)に従えば空に背(そむ)く。


08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

多言多慮 (たごんたりょ)、転(うた)相応(そうおう)せず。絶言絶慮(ぜつごんぜつじょ)、処(ところとして)通ぜずということ無し。


09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空

根(こん)に帰(き)すれば旨(し)を得(え)、照(しょう)に随えば宗(しゅう)を失す。須臾(しゅゆ)も返照(へんしょう)すれば、前空(ぜんくう)に勝却(しょうきゃく)す。


10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見

前空(ぜんくう)の転変(てんぺん)は、皆(みな)妄見(もうけん)に由(よ)る。真(しん)を求むること用(もち)いざれ、唯須(ただすべか)らく見(けん)を息(や)むべし。


11二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

二見(にけん)に住(じゅう)せず、慎(つつし)んで追尋(ついじん)すること勿(なか)れ。纔(わず)かに是非(ぜひ)あれば、紛然(ふんねん)として心(しん)を失(しっ)す。


12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

二は一に由(よ)って有(あ)り、一も亦(また)守ること莫(なか)れ。一心(いっしん)生(しょう)ぜざれば、万法咎(とが)無し。


13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈

咎(とが)無ければ法(ほう)無し、生(しょう)ぜざれば心(しん)ならず。能(のう)は境(きょう)に随(したが)って滅し、境は能を逐(お)うて沈む。


14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

境は能に由って境たり、能は境に由って能たり。両段を知らんと欲せば、元(もと)是(これ)一空(いっくう)。


15一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

一空(いっくう)両(りょう)に同じ、斉(ひと)しく万象(ばんぞう)を含む。精粗(せいそ)を見ざれば、寧(いずくん)ぞ偏党(へんとう)有らんや。


16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

大道大寛(だいどうたいかん)なり、難無(なんな)く易(い)無し。小見(しょうけん)は狐疑(こぎ)す、転(うた)た急(きゅう)なれば転た遅(おそ)し。


17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

之を執(しゅう)すれば度(ど)を失(しっ)し、必ず邪路(じゃろ)に入る。之を放てば自然(じねん)にり、体(たい)、去住(きょじゅう)無し。


18任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

性(しょう)に任(にん)ずれは道(どう)に合(がっ)す、逍遥(しょうよう)として悩(のう)を絶(ぜっ)す。繋念(けねん)は真に乖(そむ)く、昏沈(こんちん)は不好(ふこう)なり。

653避難民のマジレスさん:2014/11/19(水) 23:19:33 ID:jfWCoXjM0
19好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

不好(ふこう)なれば神を労す、何ぞ疎親することを用ひん。一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。


20六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

六塵を悪(にく)まざれば、還って正覚に同じ。智者は無為なり、愚人は自縛す。


21法無異法 忘自愛著 将心用心 豈非大錯

法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈(あ)に大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。


22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、浪(みだ)りに自から斟酌す。


23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。


24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

眼(まなこ)若し睡らざれば、諸夢自から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。


25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。万法斉(ひと)しく観ずれば、帰復自然(じねん)なり。


26泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず。動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。


27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

両(ふた)つながら既に成らざれば、一 何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くぎょうくごく)、軌則(きそく)を存せず。


28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

心の平等に契(かな)えば、所作倶(とも)に息(や)む。狐疑(こぎ)尽(ことごと)く浄(つ)きて、正信(しょうしん)調直(ちょうじき)なり。


29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

一切留めず、記憶すべきなし。虚明(こみょう)自ら照らして、心力を労せず。非思量の処、識情測(はか)り難し。


30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要(ほつ)せば、唯だ不二(ふに)と言うのみ。


31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

不二なれば皆な同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆な此(こ)の宗に入る。


32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんまんねん)。在と不在と無く、十方も目前。


33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

極小は大に同じく、境界を忘絶(ぼうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。


34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

有は即ち是れ無、無は即ち是れ有。若し此(か)くの如くならずんば、必ず守ることを須いず。


35一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

一は即ち一切、一切は即ち一。但(た)だ能(よ)く是(か)くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。


36信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

信心不二、不二信心。言語(ごんご)の道断え、去来(こらい)今(こん)に非ず。

654避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 02:01:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
いつもは半身浴をしながら金剛般若経を読むのですが、今夜はなぜかふと宇宙が無限だとしたら…ってなことを考えてしまいました。
鬼和尚に、世界も時間も生も死もないと、悟ったら実感できると聞いても、悟るまではそれはあり、又、修行道半ばで人生の時間切れになる公算が高い。
だからこそ、輪廻があると信じないと、救いがない。
悟り得ず、世界も時間も生も死もある者にとって、永遠に今の「苦」が繰り返されるのではなく、いつかはそこから脱したいと願い続け、次の機会にこそはと希望をつなぐ。
宇宙が無限だとしたら、今の自分と同じような遺伝子で、同じような環境で、同じような経験をすることも無限に繰り返されてしまうだろう。
それは、今の宇宙が終わり、次の宇宙が始まっても、無限に繰り返されるのだろう。無限とはそういうことで、輪廻とはその事を言ってるのかな…と思いました。
本当はそれはない! と実感したいなと思いました。

655避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 10:09:54 ID:4ooIiclo0
その前に輪廻は有るっていう実感は有るの?

656避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 12:59:00 ID:e1IGwoi20
おにゃにゃちは おにゃにゃちは  おにゃにゃちは

信心銘 僧燦
http://procrustes18.blog.fc2.com/blog-entry-437.html

これ。
この通りだろ。すさまじい経文だ。

657避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 22:01:23 ID:xqCs/SS.0
確認や注目をする事が、出来事を作ると感じています。
今、今にあるとき、そのように何かを掴む事は無いように思いますが
和尚様は注意、注目、関心。これらの取り扱いはどうされていますか?

658鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:27:07 ID:vZYr84lw0
>>649 気が降ってくるのが見えるのかも知れん。
 わしは見えないのじゃ。
 朝にはよい気が多く降るというのじゃ。
 観察してみると良いのじゃ。

>>650 ご苦労さんなのじゃ。

  01 至道無難 唯嫌揀択 但莫憎愛 洞然明白

 至上の道と言うのは難しいものではなく、ただ分別を嫌う。
 ただ憎愛の想いが無ければはっきりと明白なのじゃ。

 これは修行の道というものが分別によらず、憎しみや愛好の思いをを棄てるところから始まる事を示しているのじゃ。
 修行が難しいというのは日常で使う分別を、修行の道でも使おうとするからなのじゃ。
 修行の道は日常と違い、分別をなくし、憎愛を消す所から始まるのじゃ。

 02 毫釐有差 天地懸隔 欲得現前 莫存順逆

 ほんの僅かな分別による差別の心が有れば、天地の如くはるかに隔たる世界が生まれる。
 ありのままの世界を捉えようとするならば、順逆の分別をもあってはならん。
 
 少しの分別の心があれば、そこから我と他人、人と獣、社会と個人などの全ての世界が起こるのじゃ。
 在りのままの世界を見よううとするならば、これが正しいとかあれが間違いであるとかの分別をも捨てなければならんのじゃ。

 03 違順相争 是為心病 不識玄旨 徒労念静

 あれは違う、それは正しいとかの争いが心に在れば、それこそが心の病なのじゃ。
 その道理を知らなければ、静かな心も徒に消えてしまうじゃろう。

 人々の中でも、己の心の中にも何が正しいとか間違っているとかの争いがあれば、それこそ心の病とするべべきなのじゃ。
 それらの心掛けを知らなければ、修行しようとしても徒に疲れてしまうだけなのじゃ。

 04 円同大虚 無欠無余 良由取捨 所以不如

 分別を棄てて天空のように心が円かになれば、欠ける所も余る所もない。
 まことに取捨分別に依るが故に、意の如くならないとう事があるのである。

 そのようにして順逆とか憎愛の分別を棄てて心が天空のように丸くなれば、何かが欠けているとか、余り過ぎるというような思いも無い。
 本当に取捨分別の働きによって、一切が思い通りにならないという不満が起こるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

659鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/20(木) 22:32:20 ID:vZYr84lw0
>>654 そうじゃ、無限に続く苦を抜け出すのじゃ。
 おぬしには出来るじゃろう。
 またおいでなさい。

>>656 おぬしもご苦労さんなのじゃ。

>>657 わしはもはや無為なのじゃ。
 そのような働きもあるじゃろう。
 しかしそうであっても何もせず、知らぬが如く流れるままにするのじゃ。
 囚われれば雑念になるのじゃ。
 囚われなければ行く雲の如く消えていく景色でしかないのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2014/11/20(木) 22:32:54 ID:/Tir5mUE0
さんきゅーべりまっちょなのぢゃ
ありがとうございます

661避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 00:25:40 ID:LC3de7YgO
>>659
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
心強く思います。
がんばります。
もう既に、鬼和尚に教えていただいている方法の実践で今得ているものだけでも十分と思ったてしまいます。
サマディも無我も観照も、まだまだ遠い先でありましょうが、ご指導のお陰で着実に近づきつつあり、1ミリ近づくたびに、「苦」がボロボロと剥がれ落ちて行くような気がしています。 ありがとうございます。

662避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 09:16:50 ID:EunOHSdE0
>>658
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、信心銘の和尚訳とてもためになります。
ありがとうございます。

663そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 12:59:37 ID:M3BN5Lq60
鬼和尚
見性と観照は違うのでしょうか?

664避難民のマジレスさん:2014/11/21(金) 21:29:45 ID:jfWCoXjM0
>>658
解説ありがとうございます。感涙しました(T-T)
次回も楽しみにしてます。

665鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:27:46 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

05莫逐有縁 勿住空忍 一種平懐 泯然自尽

 俗世間の縁を駆逐せんとしてはならん、空に住もうと忍耐してもいかん。
 己の根本の態度を平らかに抱けば、雑念は滅び、自ら尽きる。

 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり、空であるとの観念を持ち続けていてはいかんのじゃ。
 それらは心を観る修行のための方法でしかないのであるから、本心を隠して続けても無意味なのじゃ。

 むしろ分別の無い自らの根本に常に立ち返り離れなければ、雑念は自ら滅び、消えてなくなるのじゃ。


 06止動帰止 止更弥動 唯滞両辺 寧知一種 

 動く心を止めて、静かにしようとすればその止める働きが更に動きを起こす。
 止めるとか動かすなとかの分別を働かすよりは、ただ一つの根本の態度を知るが良い。

 瞑想のときに心を止めようとすればますます心が動き回るじゃろう。
 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。
 
 それはマハリシが私は誰かを追及せよと言うのと同じなのじゃ。
 父母による観念の植付けすらも無い、不生の己こそ追求し、常に離れずに居るべきなのじゃ。
 

 07一種不通 両処失功 遣有没有 従空背空

 自らの根本に通じなければ、何もかもいかんようになる。
 有効な事をしようとすればなくなり、空の法にしたかって心を止めようとしても無理なのじゃ。

 自らの本心、本性に還る事が無ければ、一切の法は意味が無いのじゃ。
 自らに善い事をしようとしても上手く行かず、空の法をしようとしても駄目になったりするのじゃ。

 08多言多慮 転不相応 絶言絶慮 無処不通

 言葉や考えが多くては法も心に作用しないのじゃ。
 言葉を絶ち、考えも絶てば自らの本心にも通じるのじゃ。

 言葉や考えが多くては本心に還る事は出来ず、いかなる法も効果を無くすのじゃ。
 心の中での言葉や考えも絶てば、自分の本心に通じないという事は無いのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

666鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/21(金) 22:34:37 ID:zYsaQfjM0
>>660 どういたしまして、またおいでなさい。

>>661 そうじゃ、どんどん実践して楽になると良いのじゃ。
 喜びを食む者となるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>662 良かったのじゃ。
 なかなかよいものじゃ。
 そうさんも喜んでいるじゃろう。

>>663 見性は自らの本性を見る事なのじゃ。
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言えるのじゃ。
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言えるのじゃ。

 観照は自我を観察して気付く事であり、それによって自我の厭離が起こるのじゃ。
 厭離が起これば自我は無くなり、無我になるのじゃ。
 そうなれば悟りの八合目であり、小悟といえるのじゃ。

>>664 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

667そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/21(金) 23:39:34 ID:XD5os4.60
>>666
ありがとうございました。

668避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 01:49:16 ID:LC3de7YgO
>>666
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>見性は自らの本性を見る事
 理想的な観念による自己象を捨て去り、自らの醜さやこずるさや臆病な所などに気付けば見性と言える
 それは自らの本心、本性に還る事であり、修行の一歩と言える

>>616 で経験したことが、これだったと言えるのでしょうか?
以前より少しずつ、他人を批判したり非難したりする気持ちは減ってきていましたか、おりにつけそのような気持ちが起こると、縁起の法で解消していましたが、>>616以来、そもそもそのような気持ち(批判したり非難したり怒ったり等)が起こらなくなっている気がします。
自分の本性を知ったことにより、批判したり非難したり怒ったりの気持ちが起こるとことは、他人の言動に、自分の本性を見いだし、いわば自分を非難・批判、怒ってるようなものだと見切れてしまったような感じです。

669避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 16:49:59 ID:2NhnKUvU0
鬼和尚、
自分の中にある執着を厭離して行きたいのですが、どうやら逃避があるようで、なかなか、執着がこれである、と見つかりません。
本心を追及するために、自分で「逃げない」と誓ってから瞑想に入るのですが、それでも何やら逃げているようです。
それらをしっかりと観るために、他に何かできることがありましたら、お教えください。

670避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 17:39:02 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
瞑想に修行感が全くありません。最初の頃は、毎日続けなければとか、少なくても30分以上は座らなければとか、集中を持続して雑念を少なくしなくてはとか、観察を緻密にしなければとか、修行感と言うほどではないまでも、何か頑張ってる感はあったのですが、今は座りたいから座ってるだけです。
最初は多少の努力を要した瞑想が座ると楽になるになり、それが更に、意識の変容と言うことではありませんが、物事の感じかたが自分なりに望ましい方向に変容しているようには実感してますが、サマディを経験できてる訳でもないのに瞑想中毒というか瞑想依存症のようになっています。
鬼和尚は1日20分ほどの瞑想を続けていたとのことでしたが、それは瞑想の安楽さに浸りすぎないように、わざとそのように規制されてたのでしょうか?

671そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/22(土) 19:03:36 ID:35GIq.IU0
鬼和尚
我々が何かを見たり聞いたりして、何かを思ったり考えたりするのは、機械的な反応でしかないのですね。
あらかじめプログラムされたものが、一定の入力に対しては常に一定の結果を出すように。
つまり、我々が自由だと思って為していることは、実はそうでもないのですね。

苦というものも、そのように機械的に起こっているに過ぎないのですね。
機械的な反応が起こらなければ苦も生じない。
苦という実体があるわけではない。
だから、どれだけお金がたくさんあっても苦がなくなるわけではないのですね。

672鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:36:20 ID:zYsaQfjM0
続きなのじゃ。

 09帰根得旨 随照失宗 須臾返照 勝却前空  
 
 自らの根本に還れば一切法の意も得られが、分別に従えばその根本をも失うのじゃ。
 その分別を一瞬でも観察できたならば、一切の観念妄想に打ち勝ち、脱却する。
 
 父母の観念にさえも触れない自らの根源に帰れば、一切の法も明らかとなり、悟りも得られるのじゃ。
 記憶の照会による認識を行っていれば、その根本の姿も失なってしまうじゃろう。

 しかし、その認識の作用も一瞬でもかえりみられたならば、自我を滅し悟り萌えられ、観念妄想も無くなるのじゃ。
 返照とはそのような認識の作用を見る気付きを言っているのじや。

 10前空転変 皆由妄見 不用求真 唯須息見
 
 観念妄想が止まないのは皆妄見による。
 それを放って置いて真実を求めようと努力するのは無意味なのじゃ。
 ただ分別の見解を止めるべきなのじゃ。

 人の観念妄想は己があると言うような妄見によって起こるのじゃ。
 仏教では我見といい、それが無明そのものなのじゃ。

 その妄見による妄想を放って置いて、真実は何かとか追い求めるのは無意味なのじゃ。
 分別によって生じる妄見をやすめることこそ大事なのじゃ。

 11 二見不住 慎忽追尋 纔有是非 紛然失心

 有るとか無いとかの二元論を立たず、いつまでも囚われていてはいかんのじゃ。
 これが正しいとかあれは悪いとかの見解に縛られていては、心も乱れ見失うのじゃ。

 哲学者のようにさまざまな見解を追求していけば、論議は更に別れ自らの心も判らなくなってしまうじゃろう。
 そのような自縄自縛の論理や見解があれば心も乱れ見失う故に、いかなる見解や依って立つ論理的な立場なども棄てるべきなのじゃ。。
 
 12二由一有 一亦莫守 一心不生 万法無咎

 二元論の見解も一元論に帰するものであるが、その一元の論理さえ守ってはいかん。
 一つの論理も無くなれば、一切の法が滞りなく作用するのじゃ。

 論理が収束して一つの見解に落ち着いたといえども、その見解さえも守ったり囚われたりしてはいかんのじゃ。
 何らの論理も見解も心に無い時、心もまた根本に回帰し、一切の法が明らかとなり、欠けることなく働くのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

673鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/22(土) 21:49:12 ID:zYsaQfjM0
>>667 どういたしまして、またおいでなさい。

>>668 そうじゃ、自分の性を見たといえるじゃろう。
 さらに多くの性を見つづけていれば、たまねぎの皮のように何もかもが放着していくじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>669 逃避があれば観ようとして力めば力むほど、逃避の力も強くなるものじゃ。
 逃避も執着も分別しようとするのを止め、囚われる事から心を離すのじゃ。
 思考や言葉も離れた心に自然に答えは浮かんで来るのじゃ。
 それを待つのみなのじゃ。

>>670 そうじゃ、瞑想はこの世で最も安楽なのじゃ。
 お釈迦様でさえ楽しんでいたのじゃ。
 わしも言葉が忘れられるから短くしているのじゃ。
 修行者はむしろその楽しみを味わうが良いのじゃ。

>>671 そうじゃ、良い気付きなのじゃ。
 父母から始まり友人や社会からの条件付けによって人は動いているのじゃ。
 金が幾らあってもそこから起こる苦は逃れ様も無いのじゃ。
 それを知る事が出来ただけでも幸運なのじゃ。

674避難民のマジレスさん:2014/11/22(土) 23:33:05 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。
信心銘の意味について確認させてください。

>05 修行のためと本心を隠して無理に俗世間を避けたり〜

この「本心を隠して」の解釈ですが、
例えば道を歩いている時、女の人が通り過ぎたとします(毎度同じ例えになりますが。
その時に心では「うほっいい女」と思ったとします。

本心を隠すというのは、この時「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのでしょうか。
また「いい女」と思ったということをしっかりと認識しつつ、
かつ、「そんな考えはやめないと」と自制する場合は本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

例えば車を運転していて前に割り込まれたとします。
その時に心では「あぶねえな、何だこいつは」と思ったとします。

この時、「別に怒ってねーし」と心を上書きするのが本心を隠していることで、
怒ったということを認識しつつ、「怒らないようにしないとな」と自制するのは本心を隠していないと解釈してもよろしいでしょうか。

>06 そのような時には止めるとか動くとかの分別を止め、むしろ自らの根本を追及するのじゃ。

この「自らの根本を追及する」の解釈は、
前の質問で教えて頂いたように、
プチ無思考状態になったらさらに力を抜き、すべてを棄てて身を任せることと考えても問題ないでしょうか。


答え合わせして頂ければ幸いに思います。

675避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 00:54:29 ID:LC3de7YgO
>>673
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘の鬼和尚解説や>>656さんが添付してくれたサイトの訳などを指針にして精進します。

ん?楽しみつつも、何かがんばるぞ感はあるみたいです。
あれもこれも、すべて鬼和尚に出会えたればこそであります。
ありがとうございます。

676そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/23(日) 15:07:32 ID:3kxJAScI0
>>673
ありがとうございました。

677避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 18:52:41 ID:CCZQU40.0
鬼和尚さま、お忙しい中申し訳ありませんが
>>651の善聖さんへの返信もよろしくお願いします。

678避難民のマジレスさん:2014/11/23(日) 21:01:36 ID:7rD9T5220
>>673
確かに、力みがあったように思います。
悟りを得たいという欲があって、しかもそれには囚われないというのがなかなか難しいです。
囚われる事から心を離し、心に浮かぶものをそのまま観つづけたいと思います。
貴重な助言をくださり、ありがとうございました。
肩の力を抜いて精進します。

679鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 22:45:59 ID:72FX90sI0
 今日も続くのじゃ。

  13無咎無法 不生不心 能随境滅 境逐能沈 
 

 咎なければ法は無く、観念が生じなければ心も無い。
 認識能力は世界が滅するに従って滅し、世界は認識能力が沈む事で駆逐される。

 法が明らかに作用して心が観られれば、心の働きは止むじゃろう。
 その時観念は生ぜず、観念が生じないからそれを対象とする心も起こらないのじゃ。

 認識能力は境界を区別する力を失って止まり、境界を区別する事が無ければ認識能力も働かないのじゃ。

 14境由能境 能由境能 欲知両段 元是一空

 境界は認識能力によって境界としてあり、認識能力も境界を認識する事でなりたっているからじゃ。
 それら二つのありようを知ろうとすれば、一つの空として観ぜよ。

 何故ならば認識は自他の境界を区別し、さまざまな万物を分別する事で成り立っている故に。
 その区別された境界が更に認識を確固たるものに思わせ、疑い様が無いから認識と境界は互いにますます強め合っているのじゃ。

 それら二つの仕組みを観察しようと欲するならば、一つの空なるものとして観察すべきなのじゃ。
  

 15 一空同両 斉含万象 不見精粗 寧有偏党

 一つの空として二つを等しく観察すれば、一切の認識するものが斉しく包含されているのがわかるじゃろう。
 その特徴を探ろうとして観れば、偏りが生じ、見ることができないのじゃ。

 心の内に深く秘められた認識と境界の仕組みを観察すれば、その中に一切のものごとが包含されているのがわかるのじゃ。
 認識によって自他の境界があり、世界があり、万物の起こる縁となるのじゃ。
 その世界が認識をますます強固とさせる故に、終わることがないのじゃ。

 その働きをあまりにも集中して観察しようとすれば、自己同一化が起こり、観る事が出来ないのじゃ。
 あくまでも両者を斉しく空なるものとして放念し、自ら起こるままに観察する事が肝心なのじゃ。
 
 16大道体寛 無難無易 小見狐疑 転急転遅

 大いなる道の本体は広く、難しくも無ければ易しくも無い。
 小さな見方や疑いがあれば、焦りや遅滞を招く。

 本来の修行の道のあり方は大きな道が広く、行くのに難しいという事も無ければ、歩みが易しすぎるという事も無いのじゃ。
 ただ囚われた見解や疑いがあれば、焦りや遅滞を招き、自ら迷妄に陥るのじゃ。

 17執之失度 必入邪路 放之自然 体無去住

 そのように執着すれば度を失い、邪道に入る。
 自然に放念すれば、本来去る事も住する事も無い。

 修行の道や心にさえも執着すれば心は鎮まることなく、邪道に陥るのじゃ。
 心に囚われる事が無く、自然に心を解き放てば、心は居着く事も去る事も無く、鎮まるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

680鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/23(日) 23:01:04 ID:72FX90sI0
>>674 そうじゃ、本心を隠すとは
 「おれはそんなこと考える人間じゃねーし」と心を上書きするようなことを言うのじゃ。
 一度認めて自制すれば本心を隠した事にならないのじゃ。

 それと同じようなものと考えて良いのじゃ。
 上手くしようとすれば力んだりするのじゃ。
 むしろますます力を抜いてこそ上手く行くのじゃ。
 
>>675 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

>>676 どういたしまして、またおいでなさい。

>>677 すまんのう、見落としていたのじゃ。
 >>651 良い観察なのじゃ。
 正しい言葉によって正しい修行も気付きもあるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>678 そうじゃ、 力を抜く事がむしろ難しいのじゃ。
 進歩しようとすれば焦りが起こるからのう。
 そのような心さえも観察して進んでいくのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2014/11/24(月) 11:12:04 ID:EunOHSdE0
>>680
和尚、お返事ありがとうございました。
答えが明確になりすっきりしました。

よくよく考えると、修行をはじめてからの方が本心を隠していたように思いました。
おそらく「修行しているおれはそんなこと考える人間じゃない」とプレッシャーをかけていたのだと思います。
これからは素直に認めて、それでいて自制を働かせていきたいと思います。

信心銘は読めば読むほど気づかされるものがありますね。
知識では何とか理解できるものの実行が難しい。
しかし難しもなく易しくもないというのであれば、私の今の思考は偏っているのだろうと思ったりもします。

より精進いたします。

682鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:56:41 ID:72FX90sI0
更に続くのじゃ。

 18 任性合道 逍遥絶悩 繋念乖真 昏沈不好

 自らの本性に任せれば、却って道に合致し、逍遥として苦悩を絶てる。
 何事にでも念を繋ぐ事あれば、真の法と乖離し、昏沈して好くないのじゃ。

 己の本心、本性を知り、それに任せて力を抜けば、心は却って安らぎ、苦悩も無くなるのじゃ。
 なにごとも念を囚われていれば、法でさえ上手く働かず、智慧も働かない状態になって良くないのじゃ。

 19 好不労神 何用疎親 欲趣一乗 勿悪六塵

 好くないままに続ければ精神は疲労するから、何ものも遠ざけたり、親しんだりしてはいかんのじゃ。
 修行の道をまっとうしようと想うならば、修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

 そのような良くないままに修行を続ければ、瞑想をしても精神は疲労するばかりであるから、何かを遠ざけたり、親しんだりしようとしてはいかんのじゃ。
 そうであるから真の修行をしようとする者は、身心の刺激となる色や音や香りや味や触感や法などの六つを憎んでもいかんのじゃ。
 本来のお釈迦様の教えではそれら六つを遠ざけるべきであるとされているが、それにさえも囚われれば却って良くないのじゃ。

 20 六塵不悪 還同正覚 智者無為 愚人自縛

 その六塵を憎んで遠ざけたりしなければ、却って修行の道に還ることにもなるのじゃ。
 賢い者はそのように無理に六塵を避けようとせず為すがままにするが、愚かな者はそれらを遠ざけようとして帰って自ら縛られるのじゃ。

 六塵を憎んで遠ざけたりしないならば、それが却って修行の道としては正しい事にもなるのじゃ。
 自らの本性に合わない法を棄てるのであるからのう。
 賢い者はそのように法にも囚われず、縛られず、あるがままにして修行の道を進むが、愚かな者は自ら法に縛られて苦悩するのじゃ。 


 21 法無異法 妄自愛著 将心用心 豈非大錯

 それは法が間違いなのではなく、妄りに自ら愛着するのがいかんのじゃ。
 それは心を以って心をあやつるのであるから、大いなる錯覚というものに違いないのじゃ。

 六塵を遠ざけよという法が間違いなのではなく、それらにも妄りに自分から愛着するから、法によっての苦も起こるのじゃ。
 執着する心を、心によって操作しようとするから、法が苦悩を起こすことにさえもなるのじゃ。
 それは正に大きな錯覚としかいいようがないのじゃ。

今日はここまでなのじゃ。

683鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/24(月) 21:58:41 ID:72FX90sI0
>>681 そうじゃ、おぬしの相談も今の信心銘と被っているようじゃのう。
 シンクロニシティじゃな。
 吉兆として実践に励むのじゃ。

684避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 07:39:29 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、おはようございます。

もう一息で何かつかめそうな気がする…
けど、それは思い過ごしで、克服できていたはずの、迷路の中に戻ってしまう。
できてたことが、できなくなってしまう。
そうなると意識だけでなく、気にならなくなっていた足の痺れまでも瞑想の邪魔をしだす。
超、ガッカリして、イラダツ。イライラの克服くらいは前より少し簡単にできる。

今朝やってみたこと。
イラダツ自分という意識が、頑なにあり続ける。そのイラダツ自我を意識のエアポケットに浮かべ、放置する。イラダツ自我を眺める意識はイラダツていないらしい。
苛立ちとか焦燥とが、快不快とかから自由になるには、この自我を眺める意識(マナシキ)がいつも前面にでるように訓練すればよいのでしょうか?
マナシキというのは、感情とか観念とかの有無のみを認識する意識みたいなものなのでしょうか?
(´・(ェ)・`)ゞ

685避難民のマジレスさん:2014/11/25(火) 19:52:06 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
何か物事に執着しているかどうか、自分で確認したいと思います。
物事に執着しているかどうかを確認するためのヒントがいくつかあるのではないかと思うのですが、それらをお教えください。

例えばもし何かに執着していたら、それを失うと観想すると苦が起きるとか、そのようなことです。

686そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:03:05 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
自分の腕や脚が、例えば箸や茶碗のような、ただの道具のように見えます。
自分の肉体ではあるけれども、そうではないようにも感じます。

687鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:15:03 ID:vRfRK0P20
 今日も続くのじゃ。

  22迷生寂乱 悟無好悪 一切二辺 浪自斟酌

 そのように迷いは心の乱れを生むが、悟れば好悪も無いのじゃ。
 一切の二元の論は、自ら斟酌する故に在るのじゃ。

 迷いや囚われがあれば法でさえも心を乱すが、悟れば好悪の区別も無くなるのじゃ。
 それは全ての好悪や得失や是非などの二元論が、自ら分別し、斟酌するからある故なのじゃ。


 23夢幻虚華 何労把捉 得失是非 一時放却

 夢幻や虚ろな花は、どのように労力を費やしても捉えられないのじゃ。
 得失も是非も、まとめて一辺に放り棄てるのじゃ。

 夢幻や幻覚の花は、どのように苦労しても捉える事が出来ないじゃろう。
 そのような夢幻は、得る事も無ければ失う事も無く、好いものとすることも無ければ悪いものとする事も在りえない。
 そのように一切の得失や是非などの分別も、夢幻として両方とも一度に放ち、脱却するのじゃ。

 何故ならば得るという事があれば、同時に失う事もあり、是認する事があれば、否認する事も生じるからなのじゃ。
 正に夢幻の花が得る事も失う事も無く、是認する事も否認される事も無いように、一辺に捨て去るのじゃ。

 24眼若不睡 諸夢自除 心若不異 万法一如

 もし眼が寝ていないのならば、全ての夢が自ら除かれるように、
 心にもし不異がなければ、一切の法は一つの如くなるのじゃ。

 どれほど沢山の夢を見ていても、目を開けば夢は自分から消えるじゃろう。
 そのようにもし心に、あれとこれが違う、異なっているというような分別が無ければ、全てのものごとが一つであると認識されるのじゃ。
 

 25一如体玄 兀爾忘縁 万法斉観 帰復自然

 一如として本体をも無為となれば、俗世間も忘れ去られる。
 全ての法は斉しく観じられ、自然に復帰するのじゃ。

 そのようにして一切が一つと認識し、自らも無為に帰したならば、俗世間も忘れられるじゃろう。
 一切が皆斉しく平等に観られ、在るがままに回帰するじゃろう。 

 今日はここまでなのじゃ。

688鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/25(火) 22:23:45 ID:72FX90sI0
>>684 そのような観察で良いのじゃ。
 それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれるのじゃ。
 さらにその原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離されるのじゃ。

 その意識を前面に立たせないでも良いのじゃ。
 瞑想中に使用するだけで良いのじゃ。
 
 そのようなものなのじゃ。
 分別を行う意識であるからのう。

>>685 それで良いのじゃ。
 何かに執着していれば、それを失う事を想うだけでも苦が起こるじゃろう。
 更には強く執着しているものや人は、もしも失ったらと考えることすらも拒否する心の働きがあるじゃろう。
 そのような心の働きを観察してみるのじゃ。

>>686 肉体の厭離が出来たようじゃ。
 肉体への執着から起こる不安や苦や恐れがなくなるじゃろう。
 その感覚が大事なのじゃ。
 さらに感覚や思考なども厭離していくのじゃ

689そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/25(火) 22:59:17 ID:rzoJTJNQ0
>>688
ありがとうございました。

690避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 05:40:17 ID:LC3de7YgO
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
 
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
良かったとして、マナシキで、分別し客観的に自我を見つめることは、自我の生じる瞬間の観察ではなく、既に生じてる自我を単に客観視しているだけですが、この客観視できる状況を追求することによる、無我の体得は不可能でしょうか?

と言うのは、マナシキで自我を客観視できるのは、瞑想が深まりつつある時等に突然わき起こる雑念の観察の時に限られてる気がするのです。
思考実験的に、雑念=自我を爼上にのせ観察しても、通常の意識での観察と区別がつきません。

自我のマナシキによる客観視の常態化=無我の体得ということにはならないのでしょうか?

また、>そのような観察で良い
>それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれる
>その原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離される

これは、縁起の法であると思いますが、教えていただいたこの方法でいつも、原因から観察、順逆の観察、で解消してるのですが、なかなか根本から断たれるところまで到達しません。
確かにそのような克服すべき状態が起こると頻度は低くなって来ておりますが・・・そんな風に、徐々に進むものなのでしょうか?

691避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 13:07:22 ID:/1ub1Cio0
>>688
執着の確認について、ありがとうございます。
拒否や逃避も含め、心の働きを注意深く観察するのが大切なのですね。
修行の妨げになっていない執着は、さしあたり放っておいても良いのでしょうか?

ここまで書いて気づいたのですが、やはり分別に囚われていますね。
掴まずに、ただ観察することに励みます。
ありがとうございました。

692避難民のマジレスさん:2014/11/26(水) 21:02:34 ID:jfWCoXjM0
+   +
  ∧_∧  + キョウノセッポウ
 (0゚・∀・)   マダカナマナカナ
 (0゚∪ ∪ +
 と__)__) +

693鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:40:46 ID:/HbFv/.o0
終わりも近いのじゃ。

 26 泯其所以 不可方比 止動無動 動止無止

 その理由などを考えて、ああだこうだと比べてはいかん。
 動きを止めれば動きは無い、止まる事をやめて動けば止まる事は無い。

 法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
 例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。
 ものが動けば止まっていると言う現象は無いじゃろう。

 27両既不成 一何有爾 究境窮極 不存軌則

 止まる事と動く事の両方が成立する事は無く一つである事は無い。
 究極の境地においては、もはや俗世間の論理などは存在しないのじゃ。
 
 そのように止まる事と動く事が、二つとも一緒に成立すると言うことが無いように。
 一切が平等の究極の境地は、俗世の規範を離れた所で成立するのじゃ。


 28契心平等 所作倶息 狐疑尽淨 正信調直

 平等の境地に心を一つに止めて在るならば、所作は共に止む。
 疑いを浄め尽し、正にまことの心をもって直く調うのじゃ。 

 そのような平等の境地に一心に心を止めるならば、何事かを為すという事も無い。
 それが無為なのじゃ。

 疑いはきよめ尽し、正にまことの心が真っ直ぐに整えらるのじゃ。
 本心と離れた不浄の心はもはや一つも無いのじゃ。

 29一切不留 無可記憶 虚明自照 不労心力 非思量処 識情難測

 一切の観念を留めず、記憶すべきものも無い。
 無心にして自ら心を明らめ、心配事によって心を疲れさせない。
 思量も及ばぬ境地であり、認識や感情も届かぬ深い境地に入るのじゃ。

 一切の観念が無くなり、記憶すべきものも無いとは、記憶による認識を離れた真の悟りの境地なのじゃ。
 記憶による認識の生み出す自我の観念や、そこから生じる一切の苦をも永遠に離れているのじゃ。

 観念の無い心は虚ろであるが、自らの光で照らされている。
 他の観念の対象によって満たされぬ心が、観念の無い無心の境地によって自ら満たされ、一切は光り輝くのじゃ。
 そこにはもはや一切の苦も無く、心を疲れさせる事も無い安心の境地なのじゃ。

 思う事も無く、認識や感情もそこには無いのじゃ。
 そのような無認識の境地こそ真の悟りなのじゃ。
 

今日はここまでなのじゃ。

694鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/26(水) 21:51:07 ID:/HbFv/.o0
>>689 どういたしまして、またおいでなさい。

>>690 そのような理解で良いのじゃ。

 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難なのじゃ。
 例えば自分の目玉を見るのが困難なようなものじゃ。
 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
 それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する方が実際に悟った例が多いのじゃ。
 
 本当に自我の起こる原因を追求して行けば、それも可能なのじゃ。
 原因を探すのが難しいのでは在るがのう。
 それこそ自我の抵抗が激しいのじゃ。
 自分自身の存在を否定する事と捉えるからのう。
 その謬見と恐れを徐々に消していくしかないのじゃ。
 集中も観察もそのようにして続けるのじゃ。

>>691 そうじゃ、今修行の妨げにならないものならば放っておくが良いのじゃ。
 執着は次々に現れてきりが無いからのう。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>692 今来たのじゃ。
 明日もWKTKして待つのじゃ。

695避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 04:59:16 ID:LC3de7YgO
>>694
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

> 分別する意識が働いている時は、自我はその意識に投射されつづけているのであるから、それを観察する事は困難
> 見ると言う意識そのものがその主体を見難くするのじゃ。
> それ故に自我が起こる瞬間を捉えて観察する
→マナシキ自体が謂わば冷静な自我みたいなものであり、冷静な自我で混乱した自我を観察しても、無我にはたどり着けないのですね。
 
> 原因を探すのが難しい
→目覚める時や、まずサマディを体験できるようになり、そこから日常の意識に戻る瞬間をとらえるとかがそれをとらえるチャンスなのですね。
>抵抗が激しい
>その謬見と恐れを徐々に消していくしかない
→はい、漫画のように、これ見よがしに、邪魔しに来ます。邪魔しているのは他ならぬわたし自身であり、わたしの弱点を誰よりも一番知ってるはずですから、邪魔するのがうまいはずであります。
一人で独学でやっていたら、迷い込みそうな迷路かたくさんあるのですね。
精進します。

696避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 15:10:27 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

>法とはこのような理由でこうなるとか、ああなるとか理由などを考えてもいかんのじゃ。
>例えば動いているものが止まれば動きという現象は無い。

一度だけですが、プチ無思考状態で力を抜いて深く入ろうとしたときに、
深く入ろうと思っていることや、ここがそうかとか、この場所に居続けたらいいのかという思考があることに気づいたので、
それらもろとも頭から消し去ると禅定のようなものに入りかけたことがありました。

その時に何となく感覚というかコツのようなものがわかったのですが、
そのわかったことが新しい思考となってしまい、また「こうなる」とか「ああなる」と考えてしまうようになりました。
コツがかえって惑わせるのはスポーツにも似ているなと思った次第であります。

それで話は少しさかのぼるのですが、
>信心銘19 修行の妨げとなる六つの塵とよばれるものも無理に遠ざけたり、親しんでもいかんのじゃ。

これは煩悩に対して過度に禁欲しなくても、節度ある状態でいれば問題ないということなのでしょうか。
というのもいま性欲に対して禁欲中なのですが、一ヵ月ともなれば活力というか興味というか、
全体的に「なんとなくどうでもいいわー」な感じになっておりまして。
欲が薄くなっていくのはありがたいのですが、瞑想などの自己向上に対する気持ちまでもが薄くなってしまい、
もしかして自ら縛りつけてるのではなかろうかと思っているところであります。
このことについて、ご意見をお聞かせ願えないでしょうか。

697そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 19:32:28 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
今朝目が覚めた時、私は思考が始まる前に身体を動かし始めていました。
その後しばらく経ってから思考が起こり始めました。
この時私は思考が起こる様子を見ていました。
その直後に「今、私はこういう考えを起こしている」と観察を言葉に表しました。
すると、思考は自分が起こしていて、思考そのものは自分ではないように見えました。

このように対象として認識できるものがあるならば、実はそれは、私や私のものではなく、また、他者や他者のものでもないように感じます。

思考は幻のようであり、私が幻を創り出していて、幻とは気付かぬまま過ごしているようです。
まるで映画「マトリックス」の、マトリックスの世界が全てデータで出来ているにもかかわらず、そうとは気付かぬまま暮らしている人々のようです。

698避難民のマジレスさん:2014/11/27(木) 20:39:13 ID:7rD9T5220
>>694
確かに観れば観るほど、執着だらけです。
幸い修行には差し支えていないので、さしあたり放っておいて、
淡々と止観に励もうと思います。
ありがとうございました。

699鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:06:34 ID:/HbFv/.o0
今日で終わりなのじゃ。

 30真如法界 無他無自 要急相応 唯言不二

 そのような真理の世界には、自他の区別も無い。
 要求に応じて言うとすれば、ただ不二と言うしかないのじゃ。

 悟りを得て見る世界には、もはや自分とか他人と言う区別は無く、認識も無いのじゃ。
 それ故に目覚めた者は自分同じ事が他人もできると思ってしまうのじゃ。

 その世界はもはや言葉には到底できないものであるが、要請に応じて無理に言葉にするとすれば、不二というのじゃ。
 不二とは自他好悪得失等の区別無く、一切がただ一つの意識である事を表しているのじゃ。


 31不二皆同 無不包容 十方智者 皆入此宗

 不二にして皆同じならば、包含しないものとて無い。
 全ての世界の智者は皆この本源に入ったのじゃ。

 そのようにただ一つの意識が在り、皆同じと感じるならば、その中にこの世の一切が含まれているのじゃ。
 一粒の砂から広大な台地まで、一つの雲から境界の無い天空まで、何もかも一つなのじゃ。
 
 一切の世界の智者、目覚めた者達は、皆この本源の世界に入ったのじゃ。
 それは本来の在り方であり、そこに回帰する事でもあるのじゃ。

 32宗非促延 一念万年 無在不在 十方目前

 その本源の在り方には時の急迫も延伸も無く、ただ一瞬の念が万年の時間と同じなのじゃ。
 在るという事も無く在らない事も無い、一切が目の前にある。

 そこにはもはや時間の観念も無く、急がなければならないとか、まだ時間が在るとか想う事も無いのじゃ。
 一瞬の念が万年の時間と等しく、三千の大世界とも同じと感じるのじゃ。

 そしてもはや在ることも、在らない事も無く、一切が目の前に現れているのじゃ。
 
 
 33極小同大 忘絶境界 極大同小 不見辺表

 極小と大は同じ、その境界も忘絶するのじゃ。
 極大も小と同じ、その辺も見られないのじゃ。

 不二であれば極小の砂粒さえ、大地と同じであり境界も無いのじゃ。
 極大の天空も掌中の空間と同じなのは、その辺縁が表われないからなのじゃ。
 何もかもが不二であれば、そこに境界は無く、縁も無いのであるから極大極小はいずれも同じなのじゃ。

 34有即是無 無即是有 若不如此 必不須守

 不二であればものごとが有るということは即ち無いと同じであり、無いという事も有るのと同じと感じられる。
 もしこのようにならないのであれば、未だ真の悟りには至っていないのであるから、その境地を守り続けてはいかんのじゃ。

 そのように不二の境地に在れば、もはや有ると言うことと無いという事も全く同じに感じるのじゃ。
 もしこのようにならないのならば、それは未だ小悟の境地であり、真の悟りには至っていないのじゃ。

 そのような境地は守るべきではないのじゃ。
 速やかに棄てて、真の悟りの境地を目指すのじゃ。
 

 35 一即一切 一切即一 但能如是 何慮不畢

 分別が無ければ一つの全てがあり、全てが一つであるのじゃ。
 もしこのような境地にまで到達したのならば、もはや涅槃を究極していないのではないかという想いも要らんのじゃ。

 分別を厭離して悟りに達したならば、一切が途切れる事の無い一つのものとして感じられるじゃろう。
 肉体も一つのものでありながら一切と感じられ、一切は一つと感じられる。 

 それこそ究極涅槃の境地なのじゃ。
 その境地にまで達したならば、もはや大悟徹底の境地であり、小悟に陥っているのではないかという思いも不要なのじゃ。


 36 信心不二 不二信心 言語道断 非去来今

 信とはまことであり、究極の真実、真理、悟りと同じなのじゃ。
 まことと心は一つである。
 まことと心が一つ在るのみなのじゃ。

 その境地はもはや言葉では現せぬ、ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 人が求めるべき究極の真実、真理、悟りとは、人の心そのものなのじゃ。
 それこそが人の求めるべきもの、知り尽くすべきもの、観察し尽くすべきものなのじゃ。

 人が自らの心を求め、知り尽くし、観察し尽くしたならば、その時こそ究極の真実を知り、真理を得て、悟りに達したと言われるのじゃ。
 心が真実そのものであり、真理そのものであり、悟りそのものなのじゃ。
 それ故に心と別の所に真実や真理や悟りを求めてはいかんのじゃ。
 

 それ以上にはもはや記すべき言葉は無いのじゃ。
 ただ今ここに在るのみなのじゃ。

 以上で信と心について記銘すべき事は終るのじゃ。

700鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/27(木) 22:12:27 ID:/HbFv/.o0
>>695 そうじゃ、少しずつ進んでいくのじゃ。
 それが結局は近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>696 そうじゃ、禁欲にも囚われすぎては煩悩になり、修行の妨げになるのじゃ。
 節度を保つてコントロールするのが大事なのじゃ。
 抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。
 抑圧ばかりしてはそのようにやる気が無くなったり、別のところで爆発したりするのじゃ。
 自らの性を知ってそれに身を任せよと言うのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>697 それでよいのじゃ。
 思考とも厭離が始まったようじゃ。
 さらに進んでいくと良いのじゃ。

>>698 そうじゃ、囚われずに進んでいくのじゃ。
 またおいでなさい。

701そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/11/27(木) 23:24:59 ID:rzoJTJNQ0
>>700
ありがとうございました。

702避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 09:00:49 ID:EunOHSdE0
>>700
和尚、お返事ありがとうございます。

>抑圧する事とコントロールすることは違うのじゃ。

確かにそうだと思いました。
抑圧は言うなれば、自分のものではない体を自分の思う通りにしようという無知のあらわれかもしれませんね。
自分の物ではない以上、うまく機能するようにコントロールしてやるのが最善であることに気が付きました。
これからは節度を保ちながら操縦術を磨いていきたいと思います。

また信心銘の翻訳おつかれさまでした。
すべて保存させて頂きました。
この経は都度読み直し、また写経などにも活用していこうかと考えております。

ありがとうございました。

703避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 14:52:39 ID:LC3de7YgO
>>700
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

ちょぴっとづつ進むであります。

夏頃に集中的に取り組んだ「気」の行は、今は、意念や呼吸法で動かそうとするのはやめ、集中の対象として「温養」するにとどめています。
「気」の行は自我を強めるような気がしていたのですが、もう一度積極的に取り組んでみます。

目覚めの際の観察は、なかなかうまく行かず、たいてい観察を忘れてしまうか、目覚め直前に見ている夢の中での思考が、そのまま続いて目覚めるみたいな感じです。

今のところ、それでわかるのは、普段の雑念と夢の中の思考の性格は全く同一のものであるという、当たり前なことくらいです。

704避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 17:57:03 ID:IX7Ppgdw0
鬼和尚
現実だと信じている世界は、想像(空想)と同じものですか?

705避難民のマジレスさん:2014/11/28(金) 21:31:34 ID:jfWCoXjM0
>>.699
信心銘の訳と解説ありがとうございました!
最後に信心銘の講評をお願いできませんか?

706鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/28(金) 23:21:54 ID:/HbFv/.o0
>>701 どういたしまして、またおいでなさい。

>>702 そうじゃ、抑圧は正に心をもって心を操るようなものじゃ。
 本心本性を知り、囚われぬ事が肝心なのじゃ。
 囚われずに進んでいくのじゃ。

>>703 そうじゃ、観察しつづければ気付く事も増えてくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>704 実際はその通りなのじゃ。
 しかし人は信じることで空想も事実として捉えてしまうのじゃ。
 神とか社会とか国家とかありもしないものを守ろうと命まで棄てるのは、哀れの極みなのじゃ。

>>705 信心銘は迷いに入ってしまった修行者のための道標と言うようなものじゃな。
 初学者のためではないのじゃ。
 法に囚われてしまい、本心、本性を明らかにするのを怠ってしまった者に、正しい道を示すのじゃ。

 そうさんは真に悟っていたのじゃ。
 本来言葉にならない悟りを、ぎりぎりまで踏み込んで現したのじゃ。
 言葉の限りを尽くして現しながら、外道には陥らなかったのは、大きな手柄なのじゃ。
 善悪も無しと説くのは六師外道の説になるからのう。
 真に生き仏なのじゃ。

707避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 13:24:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

そうさんは、鬼和尚の先輩みたいな人なのですね。

自他も生死も社会も善悪も時間さえも本当はなく、一切は幻想であるとすれば、自我が見ている幻想の世界を造り出しているものは、他ならぬ自我と言うことになり、これは、我は創造主なりと宣言しているようでありますが、これは世界の真相を表現したものではなく、修行者が既成観念を破壊し、思い込みを排して自らの心の深奥にせまり、言葉で表現できない、悟りへと導くための方便なのですね!


クリスマスでにぎわう街中で「神は死んだ!」と言うプラカードをもって行進する人たちの横を、「おればまだ、生きてるぞ!」と白髭の男が通りすぎる、というアメリカの漫画を思い出しました。

708避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:45:32 ID:jfWCoXjM0
>>706
講評ありがとうございます!

僧さんの返照は鬼和尚が説く観照と同じですか?

709避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 21:47:13 ID:jfWCoXjM0
それからまたお願いで恐縮ですが、
鬼和尚が好きなマハームドラーの歌の解説もしていただけたら嬉しいです_| ̄|○

710鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/29(土) 21:55:19 ID:/HbFv/.o0
>>707 そうじゃ、全て方便なのじゃ。
 よく現したのじゃ。

>>708 同じなのじゃ。
 禅も昔は観察する事をも説いていたのじゃ。
 後に文字通りに禅になったのじゃ。

>>709 それもどこかに無料で公開している原文が必要なのじゃ。
 大体そうさんと同じ事を説いているのであるがのう。

711避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:45:40 ID:jfWCoXjM0
>>710
古仏の残した言葉を鬼和尚の言葉で聞きたい!という欲が凄いですw
了解しました。また楽しみにしてます。
まず英語訳です。

Mahamudra is beyond all words and symbols,
But for you, Naropa, earnest and loyal, must this be said.

The Void needs no reliance; Mahamudra rests on naught.

Without making an effort, but remaining natural,
One can break the yoke thus gaining liberation.

If one looks for naught when staring into space;
If with the mind one then observes the mind;
One destroys distinctions and reaches Buddhahood.

The clouds that wander through the sky have no roots, no home,
Nor do the distinctive thoughts floating through the mind.
Once the Self-mind is seen, Discrimination stops.

In space, shapes and colors form
But neither by black nor white is space tinged.
From the Self-mind all things emerge;
The Mind by virtues and by vices is not stained.

The darkness of ages cannot shroud the glowing sun;
The long eons of Samsara ne'er can hide the Mind's brilliant light.

Though words are spoken to explain the Void, the Void as such can never be
expressed. Though we say "the Mind is a bright light," it is beyond all words and
symbols. Although the Mind is void in essence, all things it embraces and contains.

Do naught with the body but relax;
Shut firm the mouth and silent remain;
Empty your mind and think of naught.
Like a hollow bamboo rest at ease your body.
Giving not nor taking, put your mind at rest.
Mahamudra is like a mind that clings to naught.
Thus practicing, in time you will reach Buddhahood.

The practice of Mantra and Perfections, instructions in the Sutras and
Precepts, and teaching from the Schools and Scriptures will not bring
realization of the Innate Truth.
For if the mind when filled with some desire should seek a goal,
it only hides the Light.

One who keeps the Tantric Precepts yet discriminates, betrays the vows of
Awakening,

Cease all activity; abandon all desire; let thoughts rise and fall as they
will like the ocean waves.
One who never harms the Non-abiding nor the Principles of non-distinction,
upholds the Tantric Precepts.

712避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:47:40 ID:jfWCoXjM0
He who abandons craving and clings not to this or that,
Perceives the real meaning given in the Scriptures.

In Mahamudra all one's sins are burned; in Mahamudra one is released from
the prison of this world. This is the Dharma's supreme torch. Those who
disbelieve it are fools who ever wallow in misery and sorrow.

To strive for liberation one should rely on a Guru. When your mind receives
the Guru's blessing emancipation is at hand.
Alas, all things in this world are meaningless; they are but sorrow's seeds.
Small teachings lead to acts. One should only follow teachings that are great.

To transcend duality is the Kingly View; to conquer distractions is the
Royal Practice; the Path of No-practice is the Way of the Buddhas. 0ne who
treads that Path reaches Buddhahood.

Transient is this world; like phantoms and dreams,
Substance it has none. Grasp not the world nor your kin;
Cut the strings of lust and hatred; meditate in woods and mountains.
If without effort you remain loosely in the "natural state," soon Mahamudra
you will win and attain the Non-attainment.

Cut the root of the tree and the leaves will wither;
cut the root of your mind and Samsara falls.

The light of any lamp dispels in a moment the darkness of long eons;
The strong light of the mind in but a flash will burn the veil of ignorance.

Whoever clings to mind sees not the truth of what's beyond the mind.
Whoever strives to practice Dharma finds not the truth of Beyond-practice.
One should cut cleanly through the root of the mind and stare naked.
One should thus break away from all distinctions and remain at ease.

One should not give and take but remain natural, for Mahamudra is beyond all
acceptance and rejection.
Since the consciousness is not born, no one can obstruct it or soil it;
Staying in the "Unborn" realm all appearances will dissolve into the
ultimate Dharma.
All self-will and pride will vanish into naught.
The supreme Understanding transcends all this and that.
The supreme Action embraces great resourcefulness without attachment.
The supreme Accomplishment is to realize immanence without hope.

At first a yogi feels his mind is tumbling like a waterfall;
In mid-course, like the Ganges, it flows on slow and gentle;
In the end, it is a great vast ocean,
Where the lights of Child and Mother merge in one.

Jack Kornfieldさんの訳です。

713避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:50:29 ID:jfWCoXjM0
星川淳さんの日本語訳です

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

714避難民のマジレスさん:2014/11/29(土) 22:51:09 ID:jfWCoXjM0
切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

715避難民のマジレスさん:2014/11/30(日) 08:39:19 ID:SO86/s7A0
鬼和尚は誰に教えているのですか?
教えを受けているのは自我ですか?無我ですか?無ですか?

716鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/11/30(日) 22:30:09 ID:VLcESpo.0
>>711 ご苦労さんなのじゃ。


 マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
 されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
 いまこの詩を与うべし

 まずはマハームドラーというのが何か知らなければならんのじゃ。
 マハームドラーとは、ヴェーダに語られるアートマン、大乗の仏性や空、原始経典のニルヴァーナなどと同じく、
 悟りを求める者のために設けられた、観念を破壊するための観念なのじゃ。
 それは無によってのみ表され、一切の言葉やイメージでの表われを超えたものとして教えられるのじゃ。

 それ故に先ずマハームドラーは全ての言葉と象徴を超えると教えに先立って言われるのじゃ。

 ナロパはティローパの弟子であり、この詩は修行の途中であるナロパにティローパから贈られたものであったのじゃ。
 後にチベットに伝えられた故に、この詩もチベットから広まったのじゃ。

 チベット仏教は密教が主になってしまったが、この詩には未だディヤーナと観察を主とする止観の教えが残っているのじゃ。
 この詩はインドに残っていた最後の真の教えであったのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

>>715 おぬしに教えているのじゃ。
 おぬしは自我じゃろうか?
 それとも無我じゃろうか?
 それとも無じゃろうか?
 速やかに答えてみるのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 11:21:13 ID:EunOHSdE0
和尚、こんにちは。

依頼者ではありませんが、
マハームドラーの和尚訳ありがとうございます。

今回の詩も非常に興味深いものがあります。
wktkしながら続きを待ちたいと思います。

718鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:32:39 ID:zljf.XjA0
 今日も続くのじゃ。

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

 ここでは空とマハームドラーが、一つの系統に納まる事が示されるのじゃ。
 空とは何ものにも頼らず、無によってのみ表わされる。
 マハームドラーもまた何ものにも依らずと言う。

 それは他の縁に依って起こる心を観察する、縁起の法とは完全に異なっている事を示しているのじゃ。
 縁起と空は別の修行法であり、互いに相容れる事は無いというのがティローパの教えなのじゃ。
 他の修行者には縁起と空の融合を目指し、縁起空などという観念を編み出した者も居るが、ティローパの教えは完全に違うのじゃ。
 
 空とマハームドラーの観想によって、ものごとは一切が無によって表されるものと投射され、執着は無くなり、自然に厭離が起こる。
 それを長く修練が要らず、苦労する事も無い優れた法であると詠うのじゃ。
 
 執着を取り去り、囚われを無くし、自我をも厭離して解脱をも手にする事ができるものというのじゃ。 
 

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

 空において無を見て、心に何ものも思い浮かぶ事の無い状態になったのならば、心を観よという。
 これは正に止観の法なのじゃ。

 集中ではなく、空を観想する方法でも心は鎮まり、観察に適した状態になる。
 そして心を観察する。
 それは正に観照を起こす方法なのじゃ。

 そして分別は厭離され、ブッダフッド、仏陀の境地に到達するという。
 ここには認識が厭離される事で仏陀の境地に到達する事が、明確に示されておる。

 それは唯識論でも示された事であり、一部の目覚めた禅僧も教えた事であり、そしてわしも語ってきた真の目覚めた者の在り方を示すものなのじゃ。
 正に認識が打ち破られる時、人は真に目覚めた者となるのじゃ。


 今日はここまでなのじゃ。

719鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/01(月) 22:33:23 ID:zljf.XjA0
>>717 そうじゃ、今日も続くのじゃ。

720避難民のマジレスさん:2014/12/01(月) 23:03:02 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚の説明を読むと、バカな龍明でもわかる気がして、できる気がするであります


721避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 15:09:01 ID:LC3de7YgO
>>718
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
昨夜と今朝、早速やってみたであります。
 
今まで、「集中」「観察」「縁起の法」等の訓練をし、その有効性を実感してきたので、「空とマハームドラーの観想」も自分なりに理解できました。
自分にとって、集中の行において難しいのは、集中しょうとする「意思」の存在で、その意思がなければ雑念にまみれ座って考えことをしてるだけになることです。
ある程度慣れて、無思考の状態、意識のエアポケットみたいなものを作れるようになり、そこに浮かび上がる雑念を客観視する意識のようなものを実感できても、それもまた、意識であり、自分の意思にもとづくものにかわりありません。
空の観想も、最初にそれを教えられたなら、何をどうやったら良いか解らなかったでしょうが、
いきなり「空」「無」「無思考」をイメージすることにより、集中の行に要する「意思」の存在がぐぅっっ後退するように感じられました。
しかし、その状態を長時間維持するのは集中同様難しく、じきに、空を観想している自分と言うイメージがわいてくる。
これは、自我が生じる瞬間をとらえて厭離する技として、私にもできるのではないかと思ってしまいました。

722避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 17:17:22 ID:jfWCoXjM0
>>718
解説ありがとうございます。いつも楽しみにしてます(・ω・`)

723そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/02(火) 18:58:23 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
教えてください。
覚醒したという方のブログがあり、そこに自我と真我とカルマについて次の記述があるのですが、これは正しいのでしょうか。

「自我について、私に起こってくる考えそのものであると書きました。
では真我はと言いますと、それは私に考えである自我を起こさせる種(カルマ)なのです。
もう少し分かりやす言えば、真我とは自我が抱え込んでいる考え(執着)を溜め込むタンクであるとともに、そのタンクに溜め込まれた考えに基づいて私に考えである自我を生じさせる装置なのです。

真我に溜められたカルマは、起こってくる考えを自我が抱え込まないで流せば減っていき、いずれ空っぽになります。
しかし、多くの人は、起こってきた考えを掴み取り、抱え込んでしまうため、真我に溜められたカルマがなかなか減りません。
悟りを得るなどして、起こってきた考えのうち、それを抱え込む量の割合が減ると、真我に溜められたカルマも減り、それによって起こってくる考えも減っていきます。」


私の成り立ち(2) - 私を知る
http://blog.goo.ne.jp/suiku2013/e/d4c3c46981add517661cdcffc6ee0657/?st=1

724避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 20:09:35 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚さんも何か、悟りを表現した詩を書いてみてください。

725避難民のマジレスさん:2014/12/02(火) 21:26:40 ID:VDi3L7Co0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
空の法をしていたからでしょうか?
体の外の音が、自分にダイレクトに響いて
猫のくしゃみが自分の中に響いてビックリしたり、遠くのカラスの音も自分の中で鳴っている。
という感じになりました。
こういう話を聞いたことがありませんので、こういうものなのか確認したい思いが出ました。
何か間違っていますか?このまま続けていいですか?
アドバイスをお願いいたします。

726鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:19:34 ID:BPNow3.w0
今日も続くのじゃ。

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

 空を行く雲の如く、分別も根も家も無いとは、それが本来自我を根本としていない事を示しているのじゃ。
 人は分別や認識、思考感情などを自我から起こると認識しておる。

 自分が認識する、自分が思考する、自分が悲しむなどと自我から身心の働きが起こると思っているのじゃ。
 しかしそれらは謬見であり、分別なども本来は何の主体も無く自動的に起こるものと言っているのじゃ。

 自性心とはそのような分別を行う心、唯識論で言えば末那識と阿頼耶識の働きをする心なのじゃ。
 分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いものじゃ。

 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われるのじゃ。
 
 空間に幻術などで、形や色が浮かぶが、空間そのものは形にも色にも染められる事は無い。
 そのように一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
 
 どれほど長い間に暗闇となっていた所があっても、日の光が差せば一瞬で闇は消える。
 そのようにどれほど長く続いた輪廻でも、観察による気付きの一瞬があれば消え去るのじゃ。

 それは常に一切衆生に悟りのチャンスが在る事を示しているのじゃ。
 多くの者は自分には悟りなど得られないと思っている。
 長い間の修行が必要とか思っているじゃろう。

 華厳経などにも何回も生まれ変わって修行しなければいかんと書いてあったりする。
 しかしそれは間違いなのじゃ。

 認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れるのじゃ。
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすからなのじゃ。
 
 今日はここまでなのじゃ。

727鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/02(火) 22:32:11 ID:BPNow3.w0
>>720>>721 そうじゃ、何でも試して見たら良いのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>722 良かったのじゃ。
 今日も続くのじゃ。

>>724 趙州頭上無靴跡なのじゃ。

>>725 それでよいのじゃ。
 空間の意識と繋がったのじゃ。
 空間がおぬしの意識となったから体の中で聞こえたように思ったのじゃ。
 空無辺の始まりなのじゃ。
 瞑想の邪魔になるならば制感の行をすると良いのじゃ。

728そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/03(水) 07:42:34 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
>>723をお願いします。

729避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 11:30:48 ID:LC3de7YgO
>>727
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

信心銘とマハームドラの鬼和尚解説を通して今まで教えていただいたことの集大成を読めているようであります。

>>726
>分別(や認識、思考感情)なども本来は何の主体も無く自動的に起こるもの
→感覚や感情の自動性は理解できるし、思考も記憶の組合せと言う意味での自動性があるのかなと思いますが、記憶だけは個別のものという感じが拭えません。
しかし、その先の認識の自動性ということについては、なんとなくそんなものかもという気もするので、だとすれば、記憶も自動なのかな・・・と

記憶も認識も主体なく自動であるとすると、起こる事=認識や記憶の対象は自動ではないとしても、起こった事実に対する認識は主体がない以上一つの認識になるはず・・・うぅぅ

>分別と記憶による認識は一つとなって働き、分ち難いもの
 それが観られる時、認識は止まり真の悟りが表われ
>一切の世界は認識から出るが、認識そのものは対象に染まる事は無い。
>認識を観察する一瞬の気付きがあれば、誰にでも悟りは訪れる
 なぜならばそれが長年の習慣をも滅する事の出来る、自己同一化の厭離をもたらすから
  
→重要なのはこの辺を実践により体得することなのですね。道は遠いですががんばります!

730避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 12:50:31 ID:nm8il/2Q0
鬼和尚さん、こんにちは。

最近、やっと数息観で集中力がついてきました。
息を数えながら意識を集中して、10分の間、気がそれても、すぐに元に戻れるようになりました。
それで、さらに進むには、どうしたら良いのかを教えてください。
気が逸れることもないほどに、10分間集中できるように、練習したほうがいいのか、
自分の心を観察する練習をはじめたほうがいいのか、どちらが良いでしょうか?

731素人A:2014/12/03(水) 14:35:46 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんひまで落ち着いた性格のひとは数息感で歩いたりパソコン見たり
テレビ見たり出来ると思うけど今の私はあれも是もしたいで少しも落ち着きが
ない困ったものだ色々な物を求めるの網止められない別に色々手足を出しても
大したものないと解っているけど人間だもので楽しい事を求める数数える暇は
無い事もないのだけど次々であせるばかり此処で書いている時は落ち着いているか
ぽ師匠も無事帰還したし少し数数えようコンビニざ前だ

732避難民のマジレスさん:2014/12/03(水) 17:09:50 ID:LC3de7YgO
一つの意識に全ては包含されるということが実感できることが悟り一側面なのでありましょうが、その世界は、自他も明暗も美醜も快不快も時間も世界という境界もない世界であり、安らぎのみあり、他に何もないとしたら、そこへ行きたいと思えるほどに強く「苦」を観想できるか、実感できる経験がまず必要なののかもしれないと思いました。
心の深奥を観察すれば、「苦」はいくらでも掘り起こせそうに思えますので、修行に取り組む強い動機を失わないためには、縁起の法等で簡単に楽にならず、「苦」を温存した方が良いのでしょうか?
(´・(エ)・`)ゞ

733725:2014/12/03(水) 20:55:39 ID:Pbg1oRkU0
>>727
鬼和尚、ありがとうございます。
鬼和尚は私だったのですね!ウフフ
実を申しますとずっと遊んでおりましたところ、鬼和尚のおかげで尻に火が付いたのです。
本当に感謝いたします。ますます精進いたします。

734鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:51:29 ID:gKd/0M7o0
今日もつづくのじゃ。

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

 空の法は教えるには、言葉に依らないければならない。
 しかし空そのものは言葉によっても、何ものによっても表されない。
 なぜならば無によってのみ示されるのが空であるからなのじゃ。

 誰かが空とはこのようなものであると言うならば、それは間違いになるのじゃ。
 何を語ろうとただそのようなものでは無い、無であると語る事ができるのみなのじや。

 心も又輝くとかなんとか言われるが、やはり言葉では語りえないものじゃ。
 一切の言葉と象徴を超えた、空によってのみ表されるものと観想するのじゃ。

 空でありながら、一切が心から起こり、心に収まっていく。
 それを観想するのじゃ。

 心も空ならば、一切も空であるのみなのじゃ。
 空が空から起こり、空が空に収まって行く。
 そこに何の差別も分別も無い。

 その時、心は働きを停止するじゃろう。 


からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

 仏教では肉体と言葉と心の働きを身口意と総称する。
 人の行いの一切はこの肉体と言葉と心に依るものじゃ。

 その肉体を何もしない状態にしてくつろがせる。
 言葉も話さず沈黙する。
 心も又空によって思いを滅する。

 そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。

 竹のように背骨を真っ直ぐにして力を抜いてくつろぎ、取得や附与の思いをなくし、心も休ませる。
 何ものにも執着しない心に止まれば、それはマハームドラーに例えられる境地なのじゃ。

 そのように修行するならば、仏陀の境地に至るというのじゃ。

 身口意の働きを止める事。
 心に得失などの二元論を滅する。
 一切の思いを空と観じて滅する。
 
 そのような心得を守れば大いなる印と呼ばれる法も完成し、悟りへと導かれるのじゃ。

 今日はこれまでなのじゃ。

735鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/03(水) 22:59:52 ID:gKd/0M7o0
>>728 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>723 悟っていないのじゃ。
 言葉の意味もわかっていないようじゃ。
 真我などないのじゃ。

>>729 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>730 そのまま続けるのじゃ。
 やがて雑念がありながら集中できる状態になるじゃろう。

 そしてさらに続ければ雑念が自然に止まるまで流していけるようにもなるじゃろう。
 雑念や思考が止まり、それにもかかわらず意識はある状態に気付くじゃろう。
 それが無念無想の状態なのじゃ。

 思考や雑念に邪魔されず、観察する事が可能になるのじゃ。
 そこまで行ったら観察をするのが良いのじゃ。

>>731 パソコンのやりすぎだとクリック一つでいろいろできるから散漫になるの字や。
 一日1時間とか時間を決めてやると良かろう。

>>732 特に苦が無くとも、他の衆生を観察すればいかにひとは苦によって苛まれるかわかるじゃろう。
 それを観るが良いのじゃ。
 自分の苦は少ないほうが良いのじゃ。
 できることが多くなるからのう。
 自分の可能性を広げるのじゃ。

>>733 どういたしまして、またおいでなさい。

736そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/04(木) 07:37:05 ID:rzoJTJNQ0
>>735
ありがとうございました。

737避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 10:21:52 ID:jfWCoXjM0
>>734
昨日も解説ありがとうございます。
>そのようにすればすでに夢想のサマーディと同じなのじゃ。
これは無想の変換ミスでしょうか?

738避難民のマジレスさん:2014/12/04(木) 12:45:30 ID:xqk39LY60
>>735
鬼和尚さん、ありがとうございます。
では、次は、雑念があっても集中しているという感覚が掴めるまで
やってみようと思います。
鬼和尚さんのように教えてくださる人がいて、本当に良かったです。
ありがとうございます。

739鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:09:06 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

 マントラや六つの完成の行 経文、戒、などの法もはなはだ深い真理の実現をもたらさないと言う。
 なぜならば、欲望に満たされた心が、欲望の目標を追う事を止めなければ、それらはただ心の光を隠す役に立つだけであるから。

 心に欲があれば人は真言や修行や経文さえも、欲を満たすために使うじゃろう。
 欲を離れる事が無ければ、それらの法や経文でさえも、却って人を深い闇に導くばかりなのじゃ。

 それらの法が間違いなのではないのじゃ。
 欲を離れようと言う意志が無ければ、全ての教えも無意味であり、逆効果なのじゃ。

 
いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり


 タントラとは悟りに導く教えの体系なのじゃ。
 そしてサマヤとは大乗の密教による菩薩の誓いなのじゃ。
 タントラの道に入り、菩薩の誓いをしたのならば、識別を離れて修行に入らなけれならないのじゃ。

 それをしようとしないのは、ニセモノであるのじゃ。
 認識作用を離れずに我はタントラを行ずる者とか、タントラ修行者と言う物が居れば、それはニセモノなのじゃ。

 全ての行いを止め、全ての欲を避け、思考をも起こっては消えるままにする。
 そして安住するものはなく、差別するものもないという教えを守る者こそ、タントラの教えを正しく理解し、修行する者と言えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

740鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/04(木) 22:10:51 ID:N4ZFFlx20
>>736 どういたしまして、またおいでなさい。

>>737 そうじゃ、無想なのじゃ。
 間違えたのじゃ。
 すまんのう。

>>738 そうじゃ、日々続けて行けばやがて出来るようになるものじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

741避難民のマジレスさん:2014/12/05(金) 18:47:48 ID:jfWCoXjM0
>>739
法は理解するだけでなく、本心に向けて実践すべきものと再認識できました。

鬼和尚の案内で道を間違えないですみそうです。いつもありがとうございます_| ̄|○

742そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/05(金) 20:26:25 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
感興のことば 第32章 修行僧のところで
『「わがもの」という観念がなく』の辺りを読んでいて、
私が思考する時はたいてい、何物かを我が物としようとしているのだと気付きました。
対象をとり挙げて、あれこれと考え、考えの中にオリジナリティを見出し、
他人はこうは考えないだろう、こう考えるのは自分ならではだと思い、
そうやって「我」という感覚を得ようとしていたようです。

743鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:39:51 ID:N4ZFFlx20
今日も学ぶのじゃ。

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて、人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

 欲を避け、なにものにも執着しない者は聖典の真意を知る者と言う。
 聖典に書かれていることは、正に欲を棄て、執着を離れる事であるからなのじゃ。

 マハームドラーにおいて、人の持つ一切の罪はなくなり、この世を離脱する。
 これが法の至高の光となる。
 疑う者は永久に不幸と悲しみに苦しむ愚者なのじゃ。

 識別を離れてこの世を離脱する事こそマハームドラーの法なのじゃ。
 識別が無ければこの世も、この世の慣わしも無くなるのじゃ。
 その時、世を離脱し、苦からも離脱する事が出来るのじゃ。

 疑いによってそれを実現できなければ、苦が続くばかりなのじゃ。

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

 グルとは導師、師匠の事なのじゃ。
 解脱を目指す者は、グルに依らなければならない。
 密教ではグルに対する帰依が重視されるのじゃ。

 しかしどのような者でも良い訳ではない。
 グルも又選ばなければいかんのじゃ。
 カルト宗教のニセモノグルに騙されるかも知れんからのう。
 自ら経典を読み、学んで知識も多くなければいかんのじゃ。
 
 真の悟りを得て更に学業に励むグルであれば、真剣に悟りを求める弟子に速やかに悟りを得さしめる事が出来るじゃろう。
 人が真の悟りを熱望する時、そのような真正なグルも顕れるのじゃ。

 ここまでなのじゃ。

744鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/05(金) 22:41:41 ID:N4ZFFlx20
>>741 そうじゃ、自らの本心を明らかにするのが真の実践なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>742 良い気付きなのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば悟りも近いじゃろう。
 見る者に気付くのじゃ。

745そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/06(土) 13:47:12 ID:rzoJTJNQ0
>>744
ありがとうございました。

746避難民のマジレスさん:2014/12/06(土) 14:46:04 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ
ぷよぷよとかブロック崩しとか、誰でも勝ったり負けたりできるゲームは、普通の人がはまるので、定番の入門ゲームとして不動地位を占める。
チョピッと頭の良い人や反射神経のよい人はすぐに攻略法を見出だすのですぐに飽きちゃう。
ゲーム人口が増え、普通の人もみんな少しずつ上達し、ゲーム作家は飽きられないようにゲームは少しずつ複雑化してきた。
文明文化芸術等はきっと、こんな風だったのかなと・・・・「欲」についてボーッと考えてたら思い付きました。
どんなゲームにも、きっと、攻略法はあるのでしょう!

鬼和尚は悟る前、ゲームとかやったことありましたか?

747鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:22:10 ID:N4ZFFlx20
更に続くのじゃ。

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

 この世の全ては無意味であり、悲しみをもたらすものでしかない。
 小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
 大乗により無差別の境地に至れば悟りも近い故に、人はそれに従うべきじゃ。

 この世に意味を与えるのは、人の心であり、記憶による識別作用によるのじゃ。
 それは記憶によるものであるから執着を生じ、無常の故に苦を起こすのじゃ。

 それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。
 そのような悪循環を止めるには、識別そのものを空として離れる大乗の法が良いと言うのじゃ。

 実際には小乗と大乗の区別も方便であり、真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。

 二元性とは人が持つ対になる観念なのじゃ。
 自分と他人とか、家族と他人とか、敵と味方とか、観念の多くはそのように対になっているものじゃ。
 そのような単純な観念に因って人は争い、戦争まで起こすのじゃ。

 その二元性の観念を超える事こそ、識別を超える王者の立場であるというのじゃ。
 そして散乱を征服する王者の行とは、やはり識別を超えて一つの全体となる事なのじゃ。

 そうすればもはや行いは無い。
 そのような行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
 それ故に、識別を超える仏陀の道を歩む者も、仏陀の境地に至るのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

748鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/06(土) 22:23:35 ID:N4ZFFlx20
>>745 どういたしまして、またおいでなさい。

>>746 昔は将棋などもやったのじゃ。
 インベーダーとかもやったのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 01:00:56 ID:LC3de7YgO
>>747
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>小乗は行いをしなければならず、それが観念を生み悟りから遠ざかる。
> それらを離れる教えは行いを生じ、それが又自我や執着の元となる。

→小乗の観念を生み出す行い、執着の元となる「修行法(?)」具体的にはどのようなことをいうのでしょうか?

>真の縁起の法もそれが向いている者には速やかに悟りをもたらすものであるのじゃ。
→大乗では「止」を重視し、小乗では「観」を重視してきた。ここではマハームドラの法(「空」の法)をイチオシとしているけど、
 方法論としては相互補完的に、いいとこ取りで、目的に向かおうというような理解で良いのでしょうか?

>行いすらも無い道こそ、全ての仏陀たちの辿ってきた道なのじゃ。
→とは、単にマハームドラの法の言い換えという理解で良いのでしょうか?

750避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 20:06:33 ID:jfWCoXjM0
     (~)
    γ´⌒`ヽ
     {i:i:i:i:i:i:i:i:}   ブッコクドハ
    (  ´・ω)   ココデスカ?
      (:::O┬O
 = ◎-ヽJ┴◎ キコキコ

751鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:18:44 ID:N4ZFFlx20
又続くのじゃ。

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

 儚いこの世は実体が無いものである故に、それを捨てて血縁の者とも別れるのじゃ。
 欲と憎しみをも捨てて、山林などで瞑想するのじゃ。

 行いを捨てて心の自然な状態を続ければマハームドラーにたどり着き、達成できない事を達成するというのじゃ。

 達成できないものとは、それを達成する自己が無いからなのじゃ。
 自己が無く、達成するという観念も無いときに、人はマハームドラーにたどり着き、悟りをも達成したといわれるのじゃ。

 木の根を絶てば木の葉は枯れるように、心の根を絶てば輪廻は消える。
 心の根とは無明であり、自己があるという観念なのじゃ。

 どのような灯りの光も、長く続いた暗闇を払う事が出来るように、気付きの一瞬があれば無明を払う事が出来るのじゃ。
 自己という観念が本当は実在せず、観念のみであると一瞬気付きがあれば十分なのじゃ。

 そうすれば自己を中心に今まで持ちつづけていた観念、自分と他人、敵と味方等の観念も一切が瞬時に消える。
 今まで無意味な事に囚われ、行い彷徨っていた全てを変えるのに、ただ一瞬の気付きがあれば良いのじゃ。
 
今日はここまでなのじゃ。

752鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/07(日) 22:22:48 ID:N4ZFFlx20
>>749 それらは自分が行うという観念があれば、全てがそうなるのじゃ。
 止観や四諦や縁起を観るのも自己という観念に囚われれば執着の元になるのじゃ。

 相互補完と見て良いのじゃ。
 自分がやり易い方法で進むのが良いのじゃ。

 それがマハームドラーで良いのじゃ。
 それも無というのがマハームドラーであるがのう。

>>750 おぬしの心がすでに仏国土なのじゃ。
 心の中心に仏が居るのであるからのう。

753避難民のマジレスさん:2014/12/07(日) 22:51:17 ID:LC3de7YgO
>>751
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
死すべきものとしての人が究極の「苦」であるその死を乗り越えるには、、まず、永遠普遍のもの以外は全て「実体」のないものと位置付け、実体のないものは観念に過ぎないものであり、その観念に過ぎないものをの根幹である「自我」をまず消し去る。
その上で更に意識をも消し去り、「空」「マハームドラ」と合一化する。

という理解で良いのでしょうか?

時間や実体等々に関する観念を乗り越えるために、ありとあらゆる修行方があると言うことでありますね。

754避難民のマジレスさん:2014/12/08(月) 18:59:52 ID:jfWCoXjM0
>>751
解説ありがとうございます_| ̄|○

気づきが起こって無明を払っても、これまでの習慣から無意識のうちに
以前の無明の状態に戻ってしまうことってありませんか?

755鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 22:56:21 ID:0erK2p060
終わりも近いのじゃ。

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハームドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

 今の心に執着すれば、今の心を超えた境地に達する事は出来ない。
 法を行えば、行いに対する観念が生じ、行いを超越した境地に行く事は出来ない。

 このような迷いはあらゆる法につきものなのじゃ。
 修行をすれば修行をする自分が強まる。
 安楽になれば安楽な今の心に執着する。

 そのようにして法さえもが囚われの元になるのじゃ。

 今の心と行いを超えた境地に行くには、人は識別による無明を離れなければならない。
 一切の識別を離れた観察によって、身心をくつろがせるのじゃ。

 そのような囚われから自由になるには、心の根と呼ぶ無明、自分が在るという観念を離れる事が肝心なのじゃ。
 そして識別をも捨ててありのままの心で、一切の心の働きを捨ててくつろいで座りつづけるのじゃ。


 何かを与えるとか、取るとかの観念も捨て、識別も離れた本来の心のままに座るのじゃ。
 なぜならばマハームドラーとはそのような、一切の是非を無くしたものであるからなのじゃ。

 ここでマハームドラーとは容認する事も、拒絶する事も無く、一切をあるがままに生じ、消え去るままにする事と明らかになったのじゃ。

 阿頼耶識とは本来あるものではないから、誰もそれを妨げたり汚したりは出来ないのじゃ。
 生じるものも無いという境地に在って、一切は意識に溶け去り、意志とか傲慢などの観念は無くなるのじゃ。

 阿頼耶識とは記憶に依存した認識であり、それは習慣によってそのような働きをもたらしているのであるから、本来在るものではないのじゃ。
 あるものではないからそれを妨げたり、汚したりも出来ないのじゃ。
 それはただあるがままにする他は無いのじゃ。

 それが止まり、観念を脱して不生の境地に立てば、全ての観念も同時に消え去り、意識だけが在るのじゃ。
 その時、自己が無いから意志とか、傲慢すらも消えるのじゃ。

 今日はここまでなのじゃ。

756鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/08(月) 23:00:07 ID:0erK2p060
>>753 それでよいのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>754 そのような事は無いのじゃ。
 例えばくちた縄を蛇と間違えていた者が、それを縄だと気付いたら二度と蛇とは思わないようにのう。
 気付くとは、文字通り今までの間違いに気づき、正しい認識を取戻す事であるから、戻る事は無いのじゃ。
 人と話をするために、自我があるふりをすることはあるがのう。

757避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 01:43:07 ID:LC3de7YgO
>>756
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

金剛般若経の暗記は中断して、般若心経から岩波文庫の解説の精読を始めました。
四回ほど熟読してみて気になるところが一ヶ所だけありました。
第21刷の21ページ、13行目に「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」と説明されているのですが、空=相関的という説明に違和感を感じます。
違和感の理由は説明できないのですが・・・。

758素人A:2014/12/09(火) 10:38:20 ID:lrr2AdnA0
真でも死んでも芯でも新でも解らないカラー空?
我々我求めても身得ない仕組みの言葉にもならない世界の仕組みが有る世うな
我々が生きている間は見える部分と見えない部分カラー成り立っている
枝の感覚は見えているけど見えないところもある。
見えない不文は肉体が新でも枝より身樹の部分で枝か落ちてもまた新しい枝が出る
それより元は限りなく枝分かれの逆で元の元を求めたら無限に続くのか
哲学的に最後は 嘘から出た真に たどり着いて居直るしかない。
このことわざの真の意味は凄い事いつている野鴨 嘘カラー出た誠もありの鴨
後は鬼和尚さんに聞くカラー 嘘空飛び出した独りの人は一人だけでは寂しいので
虹の世界を夢見るのでしょうか色々あるカラーでにぎやか過ぎるとうるさくて困るし

759避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 12:06:37 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

Aさんの文章を読んでて「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」、空=相関的という説明に対する違和感の理由を思い付きました。
「空」とは生でも死でもなく、あるでもないでもない、ただ「無」のみによってあらわされる。
背景として、まず「無」があり、そこから「有」が生まれ、また「無」に帰る。
「空」を相関的と説明すると、生あっての死、有あっての無みたいな感じで、空あっての何なのか? みたいな発想を私がしてしまうので、違和感に繋がったのかなと思いました。
「実体がない(空)と言うことは、相関的(縁起・相依性)ということである。」とは、「無」を背景としつつ、全てを包含するその構造のことを説明しているのかなと思いました。

で、「空」とは、極めて希な確率でこの世に生まれ、死んで行く人の「死」のイメージそのものかなとも思いました。
「空」を観想することは、「死」を観想することと一緒で、自分を観察しつくすことは、自分の死を観察しつくすことなのかなと思いました。
こんな理解でも良いのでしょうか?

760避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 18:54:32 ID:QMm34KcU0
鬼和尚のような徹底した悟りを得てしまうと、普通の社会では、かえって生き辛くなるということはありませんか?

761避難民のマジレスさん:2014/12/09(火) 22:32:35 ID:jfWCoXjM0
>>755
解説ありがとうございます_| ̄|○

一切の識別を離れた観察と、無意志による観察と、観照は同じものですか?

762鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:10:21 ID:q5vkUh4s0
今日で終わりなのじゃ。

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 そのような境地において起こる気付きは一切を超越できる。
 執着の無い行いは智慧となる。
 己が行うという意志すらも無く、心の深奥にある意識を観ればそれが至高の成就、悟りとなるのじゃ。

 そこでは始めは己が無くなるという動揺や恐れがあるじゃろう。
 しかし実際に無くなればむしろ大河の如き安らぎがある。
 そしてついに全てに溶け合えば、永遠の意識に回帰するじゃろう。

 気付きが起こればこの世の全てが観念の遊戯であり、無意味であるとわかるのじゃ。
 そして一切の囚われから超越し、全ての苦を厭離する。

 そのような境地で行いは無為となり、智慧が生じる。
 肉体の能力として素縄っていた本来の智慧が、蘇るのじゃ。

 意志も無い観察である観照が起こり、心の働きの一切を明らかにする。
 そのようにして自我は消え、認識をも厭離するのじゃ。

 その時、未だ少しは残っていた恐れや不安が、生じるかも知れん。
 しかし直ぐに心は安らぎに満たされる。

 観念である自我を守ろうとする緊張が無くなり、自然に安らぎが起こるのじゃ。
 それは大河の如く、今まで味わった事の無い安らぎであるじゃろう。

 そしてついに心は本来の状態に戻り、識別されたものが無いただ一つであり、言葉のない無に溶け合うのじゃ。
 分かれていたものが一つになるのではない。
 始めから一つであったものが、識別により分たれていたと思っていただけなのじゃ。

 もはや自分も他人も無い。
 聖なる母子のように自他の区別も失い、全てが一つの意識と気付くのじゃ。
 そこでは時も空間も物も無く、ただ永遠の喜びだけがあるのじゃ。
 
  
 
 これでマハームドラーの解説は終るのじゃ。

763鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/09(火) 23:23:46 ID:q5vkUh4s0
>>757 そうじゃ、本当は無なのじゃ。
 学者なども本当は知らないのじゃ。
 縁起も無であるのが空なのじゃ。

>>758 仕組みも無なのじゃ。
 寂しさも無いのじゃ。
 それが在るのは何か執着が在るからなのじゃ。
 それを観察するのじゃ。

>>759 そうじゃ、一切を無であり空であると観るのじゃ。
 死もまた空なのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>760 突き抜けてしまえば辛くも無いのじゃ。
 全ては試であるからのう。
 むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

>>761 同じではないのじゃ。
 自我が観察できたら観照なのじゃ。
 それ以外は同じと言ってよいのじゃ。

764避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 01:31:05 ID:LC3de7YgO
>>763
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ

今日は金剛般若経の訳文を読みました。
求道者は無我であるべしという教えでありますね。

暗記するのは、信心銘やマハームドラにしょうかと思います。
この二つは日々の瞑想に直結する詳細を説いていることが、鬼和尚の解説でよくわかりました。

765避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 02:35:46 ID:QMm34KcU0
>>763
>むしろ無知な人々を哀れむのじゃ。

哀れむということは、哀れむ自分とその対象である他人の区別がある
ということですね。
「悟っている自分」 と 「悟っていない他人」 を区別するということは、上の
マハームドラーの解説で言われている 「もはや自分も他人も無い」 という
ことと矛盾しませんか?

766素人A:2014/12/10(水) 08:14:45 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さんありがとう最近時間が無く年末に追われている。起きるのも遅く
太陽のせいで時間が短いと言う.昔の人は太陽を大事にしたが今は正確な
時計に支配されて.年末は今年の暮れで金稼げないで焦るけどもう遅い
あきらめて一休さんのなんとかなる使用しかないのだけど焦る

767避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 14:58:37 ID:jfWCoXjM0
>>762
マハームドラーの解説ありがとうございました!ヽ( ´ー`)丿

鬼和尚はどんな感じで解説を書いているんですか?
悟った人同士、僧さんやティローパの言葉を読めば
言わんとすることを即座に感じ取れるんでしょうか?

768避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 22:17:56 ID:cbrvr2Ew0
鬼和尚、いつ死ぬか分からないという無常観をといつめた方が菩提心も強くなるのでしょうか?
また和尚自身は無常観はありましたか?

769鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/10(水) 22:37:20 ID:uy5NHaGM0
>>764 そうじゃ、覚えたらよいのじゃ。
 日々読んで実践すれば何かつかめるじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>765 対象と同一であるから哀れむのじゃ。
 全く無関係ならば哀れみも起こらないのじゃ。
 
>>766 なんだか知らんが稼げないとか考えるのは無駄な上にお金を遠ざけるのじゃ。
 どのような方法を行えばお金を稼げるかという事に思考を集中するのじゃ。
 その心構えがお金を生む道を作り出すのじゃ。
 
 実践あるのみなのじゃ。

>>767 そうじゃ、それを解説する時、わしは既にそうさんやティローパになりきるのじゃ。
 本人ならば良く判るのじゃ。
 おおかわりゅうほうではないがのう。

>>768 そうじゃ、それを常に意識すれば強くなるのじゃ。

 わしは常に死を恐れ、死を超える道を探していたのじゃ。
 そして死を超えて目覚めたのじゃ。
 無常観は菩提に行くための杖のようなものじゃ。
 常に思えば本当に死を超えた境地以外で満足する事はなくなるのじゃ。

770避難民のマジレスさん:2014/12/10(水) 23:33:33 ID:/Tir5mUE0
∵顔に見える

771避難民のマジレスさん:2014/12/11(木) 16:28:59 ID:cbrvr2Ew0
>>769
ありがとうございます

772鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/11(木) 21:59:45 ID:ZB7yU0ZY0
>>770 それが記憶によるパターン認識なのじゃ。
 似た形があれば記憶から顔であるとか感じるのじゃ。
 夜空の星も適当に並んでいるのに人とか白鳥などに見えるのじゃ。

>>771 どういたしまして、またおいでなさい。

773避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 01:18:25 ID:r1oLRRk20
自我と本心の違いはなんですか?
例えば宝くじを買ったとして、当たっていて欲しいと思うのは自我なのですか?本心なのでしょうか?

774避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 13:53:19 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんにちはヽ(・(∀)・)ノ

鬼和尚にいろいろ質問しながら今までやって来たことをまとめてみます。
1)姿勢をただし、呼吸に集中して、雑念がわいたことにできるだけ早く気付き、集中にもどる。
ここでまず、日常の雑念の多さを知り、それらは制御されていない記憶が、不規則に溢れだしていることであることを知るとともに、それらは、集中対象に意識を戻すことにより、あっさり消え去るものであることも知る。
2)(1)だけでは消えない強い感情を伴う雑念については、「止」から「観」に切り替え、縁起の法で分析し、記憶=観念に基づき生じた感情には実体はなく、消えるものであることを実感する。
3)少しずつ無思考の状態をもてるようになると、(1)(2)により記憶や観念の実体のなさを実感していなければとても向き合いたくないような、心の深奥に隠されていた自分の、本心、本性、負の側面が、見えてくることを経験する。
4)(1)(2)によりそれらとも、向き合えるようになっており、完全に自らを暴き尽くせているわけではないが、様々な負の感情から解放が進んでいるのを感じる。
5)本心、本性、負の側面に蓋をしなおしたり、消し去るのではなく、それに苦しまなくなれば、経験、記憶により形成されたそれらの本心以前の、「無分別」の本心=「無我」を見いだせるかもしれないと座っている。←今ここ(´・(ェ)・`)

*)(1)で姿勢や呼吸を追求してる時に
生じるようになった臍下丹田の強い陽気による禅病・クンダリニ症候群対策から始めた「気」の行については、鬼和尚からも私には、「気」の行が私には向いているかもしれないと以前言っていただきましたので、陽気が充実していると感じたり、勝手に動き出した時には、積極的に取り組むようにしています。
このような身体技法で、途中(サマディ)まででも何等かの変容が起こるのであれば、解りやすくていいなと思います。

以上龍明のおすわりの途中経過であります。

775鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/12(金) 21:51:25 ID:nVVDF5XM0
>>773 自我とは観念なのじゃ。
 観念であるから存在せず、あると思うのが謬見なのじゃ。

 本心は自分が本当に思っている事なのじゃ。

 観念である自我はそれ自身の繁栄を願うから当って欲しいとするかも知れんが、本心は破滅したいと思っているのかもしれん。
 ギャンブラーなどは大体そうなのじゃ。
 そのようであるから自分の本心を知るように努めなければ、破滅するかも知れんのじゃ。

>>774 良かったのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。
 更に精進するのじゃ。

776避難民のマジレスさん:2014/12/12(金) 23:39:33 ID:r1oLRRk20
鬼和尚さん、ありがとうございました。

777そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/13(土) 13:06:40 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
死に対する意識が変わってきました。
以前は、単なる恐怖、終わり、生きてるうちに知ることのできないもの、などでした。
今は次のようなものです。

光とそれを視るものの別がなくなる。
音とそれを聞くものの別がなくなる。
匂いとそれを嗅ぐものの別がなくなる。
味と舌の別がなくなる。(どこまでが味でどこまでが舌なのか。)
触れるものと触れられるものの別がなくなる。
これらの統合としての個がなくなる。

778避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 16:04:54 ID:LC3de7YgO
>>775
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ

信心銘は、分別をなくすことが悟りへの道であると繰り返し説いてるのですね。
分別された自己が自我であり、経験と記憶により植え付けられた観念を全て捨て去り、生まれたばかりの最初の意識の種に立ち返り、物事を観れるようになることを求めるのが修行なのですね。
きっと、悟れば、裸眼で全てが見えるようになるのでしょう。
裸眼で見える世界は、鬼和尚が見る世界も私が見る世界も変わらないのでしょうから、私は記憶と観念という眼鏡を外すべく修行を続ければいいのですね。
要は、個は個だけど、裸眼で観るありのままの世界は一つで、倒錯した世界を見てしまう記憶に基づく観念の眼鏡を外すことに気付けは、あの個もこの個も一として、その中に永遠に生きつづけることができ、いつか、人類学滅び去っても、見ている個が一なら、見られる世界がどう変わろうと、滅びようと、見られる世界と一体であることには変わりがない。
「空」「マハームドラ」あるいは「死」とはそんなイメージでしょうか?

779鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/13(土) 22:00:37 ID:nVVDF5XM0
>>776 どういたしまして、またおいでなさい。

>>777 良い気づきなのじゃ。
 更に観察を続ければ他の気付きも起こるじゃろう。
 それにも囚われずに進むのじゃ。

>>778 マハームドラーと空にはいかなるイメージも無いのじゃ。
 何かイメージを持ちたくなるのが記憶による認識の習慣なのじゃ。
 何のイメージも無い、無によってのみ表されるのがマハームドラーであり、空と知るのじゃ。
 それは記憶によるイメージ照合の習慣を持つ人間には、困難であるがそれを超えて実践するのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2014/12/13(土) 23:19:57 ID:LC3de7YgO
>>779
(´・(ェ)・`)ゞあっ! そうでありました。 鬼和尚、いつもありがとうございます。
信心銘 毎日3段(ふられてる数字の3つ)づつ暗記してるであります。

781そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/14(日) 11:16:02 ID:rzoJTJNQ0
>>779
ありがとうございました。

782避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:16:45 ID:ESomIESI0
鬼和尚
鬼和尚が死を超えたのは厭離の行の最後の一歩なのですか?
死を超えた後はどんな修行をされているのですか?

輪廻から解脱し来世に生まれる事はないのですか?

783避難民のマジレスさん:2014/12/14(日) 22:30:31 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

改めて和尚のブログを最初から読ませて頂いているのですが、
数年前の記事に質問などのコメントを書いてもお返事を頂けますでしょうか。

システム上、コメントが見つけにくいようであるなら
こちらで質問させて頂こうかと考えております。

784鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/14(日) 22:36:52 ID:uVYxezU60
>>780 そうじゃ、何のイメージも無い事には分別の習慣が常に邪魔をするのじゃ。
 イメージがないとそこに何かのイメージを設けたくなるのじゃ。
 それこそが観念の罠なのじゃ。

 同時にそのような抵抗があるからこそ、観念を滅するために使えるのじゃ。
 
 精進する心に花が咲くじゃろう。

>>781 どういたしまして、またおいでなさい。

785避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 21:22:20 ID:LC3de7YgO
>>784
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>観念の罠
>抵抗があるからこそ、観念を滅するために使える
→鬼和尚によって、全てを悟りを得るために合目的的に配置し直して説明していただけるので、バガな龍明でも悟れそうな気がしてしまうであります! 
>精進する心に花が咲くじゃろう。
花を咲かせたいであります!


信心銘 4分の1くらい覚えたであります。

786鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/15(月) 22:12:59 ID:OTCU79po0
>>782 死を超えたのは悟ってからなのじゃ。
 認識をも厭離しなければ死は超えられないのじゃ。
 個我という観念を生起する認識が残っていれば、自我は又起こり、死もまた起こるのであるからのう。

 衆生を導くために衆生の心について学び、瞑想をしているのじゃ。

 もはや生まれる事は無いのじゃ。
 個我がないからのう。

>>783 一応、昔の記事のコメントも見られるがのう。
 直ぐに返事を望むならばこちらで聞くほうが良いじゃろう。

>>785 良い事じゃ。
 一事に通じれば万事に通じるのじゃ。
 信心銘に専念してわかればみんなわかるということなのじゃ。
 一事に精進するのじゃ。

787避難民のマジレスさん:2014/12/15(月) 23:23:50 ID:NwrrXpyY0
寒い中外にジョギングに行くのは嫌だ、とか腹筋運動は疲れるからやりたくない、とか注射は痛いからしたくないとかはなんなのですか?
これも自我なのでしょうか?

788避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 10:24:30 ID:JagcJSxo0
>>786
了解しました。
では質問があった場合はこちらでさせて頂きます。

と返事しておきながらいきなり質問なんですけど、
「姿勢が大事じゃ」で書かれている丹田の統一ですが、

①これは仙道や気功のような特別な訓練をしている者でなくても、
 ピッタリと揃えば気がのぼり快が生じるのでしょうか。

②瞑想状態ではなく、「こうかな、いやこれかな」などと思考をしながらでも、
 揃えば快は生じてくるのでしょうか。

よろしくお願いします。

789そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/16(火) 19:45:31 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
日常的にはこれといった苦が起こることがほとんどなくなってきました。
それに伴って気付きも増えてきています。

例えば、頭の中で他人のことを考えて、そして頭の中で自分のことを考えている時、
その他人は目の前には居なくて、頭の中だけにいるわけですが、
それと同じように自分というものも実は頭の中だけに居るのだろう、ということです。

また、瞑想中に呼吸の間隔が長くなってほとんど止まった時、
「これは死んでいるようなものじゃないか」と思ったのですが、
してみると、我々が一般に「生きている」と言うのは実はとても観念的なものではないかと。
生が観念なら、死も同様に観念なのだろう。
いわゆる生とか死というものは虚構のようなものだと。

それから、様々なことがどうでもよくなってきています。
以前と同じような出来事があっても、それに対する心の動きがとても少ないです。
そのような自分に対して「ほんとにそれでいいのか?」
と問い質す自分の声もありますが、それは旧い自分の声なのでしょう。

790避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 21:36:39 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
厳密なやり方ではないまでも縁起の法をやることや、常に「記憶にもとづく観念に過ぎない自我の抱く感情」という見方をすることにより、ずいぶん前から感情の起伏が急低下しており、最近は、他者の発言や態度に感情を動かされることも、自らの行く末について不安を感じることも、どんどん少なくなってきました。
また、感情の起伏や不安を感じにくくなっていることが、そらいろさんが書いてるように、>様々なことがどうでもよくなってきているとも感じられたりします。
これは、かなり楽チンでいいやって感じになっています。それ以上の変容は今のところ特別ありませんが、どうせなら、最後の花が咲くところまで行きたいと思うであります
(´・(ェ)・`)

791鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:27:18 ID:sPEHpKsg0
>>787 そうじゃ、自我や観念の働きなのじゃ。
 今までの経験からそれらは後には肉体に良いかも知れんが、今は苦しいと判っているから、避けようとするのじゃ。
 何も考えずにやってしまうと意外に簡単なのじゃ。

>>788 ① そうじゃ、本当に姿勢が正しければ下丹田に圧力がかかり、気が上るのじゃ。
       白隠は気功などはしていなかったが、座っているだけで気が昇りのぼせたのじゃ。
       気を下ろす行をして健康になったのじゃ。

     ② それも出来るのじゃ。
        気が昇れば思考は自然に停止するか弱くなるのじゃ。
        姿勢を正す事で初心者でも素早く深い境地には入れるのじゃ。

792鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/16(火) 22:37:06 ID:sPEHpKsg0
>>789 良い気付きなのじゃ。
 境地が深まっているのじゃ。
 そのまま恐れなく進めば永遠の意識に至るじゃろう。
 精進あるのみなのじゃ。

>>790 良い事なのじゃ。
 自然な厭離が起こってきているのじゃ。
 悟りも近付いてきているのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

793787:2014/12/16(火) 23:41:46 ID:NwrrXpyY0
>>791
ありがとうございます。原因がわかりすっきりしました。

794避難民のマジレスさん:2014/12/16(火) 23:48:26 ID:LC3de7YgO
>>792
鬼和尚、ありがとうございます。

鬼和尚に教えてもらった通りにやれば、こんなに楽になれるんだから、みんなやったらいいのに・・・と強く思うであります。

難しいのかもしれないことを、簡単なことのように思わせていただけ、その気になって実践したら、全部自分で実感できることばかりであります。
けど、未だ、三昧も観照も遠くに感じるであります。
けど、がんばりますo(`(へ)´*)o

795そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/17(水) 07:42:45 ID:rzoJTJNQ0
>>792
まだまだ執着も多いですが精進します。
ありがとうございました。

796避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 11:38:01 ID:JagcJSxo0
>>791
和尚、こんにちは。お返事ありがとうございます。

姿勢はかなり重要のようですね。
武道やスポーツなど、体を動かすことなら姿勢の影響は直に感じることはできますが、
精神世界においてもそこまで影響してくるとは思ってもみませんでした。

今までは座ったらとにかく意識を置こうとしていましたが、
これからはまず姿勢をチェックしてみたいと思います。

797避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:10:46 ID:NpBkhqbI0
http://www.kaynotes.com/archives/7976419.html
悟りを開いた人があまり楽しそうでない理由

↑この記事の理解は正しいですか?
修行者は、必ず、この手のジレンマに陥ると思いますが。
悟りを開いた人の立場からコメントをお願いします。

798避難民のマジレスさん:2014/12/17(水) 20:21:58 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、白隠禅師坐禅和讃も止観の教えを説いたものでしょうか?
再々で恐縮ですが、もしよろしければ解説をお願いできませんか?_| ̄|○

wikiからコピペです。
※原文書き下し

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず
かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

799鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:38:02 ID:3LQWQGf.0
>>793 どういたしまして、またおいでなさい。

>>794 そうじゃ、苦しむものに教えたらよいのじゃ。
 すでにサマーディは近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

>>795 どういたしまして、またおいでなさい。

>>796 そうじゃ、姿勢によって瞑想も成功したり失敗したりするものじゃ。
 姿勢はいくら研究してもし足りないぐらいなのじゃ。
 正しい姿勢が判ればサマーディにも速やかにたどり着けるのじゃ。

>>797 正しくないのじゃ。
 我見によって観念妄想に陥っているだけなのじゃ。

 我見が消えれば全てが一つとなり、全ての喜びがあるのじゃ。
 それは一個人の味わえる喜びを超えた無限の喜びなのじゃ。
 我見による個我の喜びではないから、全てが喜び、全てが安楽なのじゃ。

 その境地は我見に陥っていればわからないのじゃ。
 サマーディにでも達すれば、その片鱗を僅かに垣間見ることが出来るのじゃ。

800鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/17(水) 21:57:53 ID:3LQWQGf.0
>>798 それは止観の止、座禅を勧めたものなのじゃ。
 座禅からサマーディに至り、悟りが本来のあり方と気付いたという教えなのじゃ。
  
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

 一切の生物は本来、目覚めたものなのじゃ。
 それは水と氷の関係のようなものじゃ。
 水を離れて氷は無く、衆生の他に目覚めた者は居ないのじゃ。

 悟りとは人が進化したり、変化したものではなく、本来の在り方に戻ることなのじゃ。
 記憶に依存した習慣を厭離し、本来のあり方に戻るから、本来の智慧が起こり、死も無い自然の状態に戻るのじゃ。

 それは氷と水の関係のようなものじゃ。
 水からできたものが氷であり、衆生が目覚めれば仏陀なのじゃ。

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず

 そのように衆生は自ら悟りに近い存在であると知らず、法を求めて遠くまで求めようとするのは無知の迷いなのじゃ。
 それは例えば水の中にいて、喉が渇いたと叫んだり、金持ちの家の子が貧乏な家に入って迷っているようなものじゃ。 

 悟りへの門、悟りへの道、悟りへの法は全て衆生自らの中にあるものじゃ。
 なかなか見ようとしない本心にそれらは全部あるのじゃ。
 近すぎて見えず、又執着や不安恐れの所為で観ようとしないだけなのじゃ。

 それは例えば水中で喉が乾いたと叫び、金持ちが貧乏の家に悩むが如くなのじゃ。
 ただ口を開いて水を飲み、財布を開いて金を見れば解決するような悩みを、延々と持っているようなものじゃ。

 悟りとはそれほど自らに近い、己の本心を見る事なのじゃ。
 しかしそれは自ら本心を観た仏陀の感じることであり、未だ迷いの中にある衆生には感知しにくい事じゃろう。

801避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 16:17:19 ID:LC3de7YgO
>>799
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
信心銘、半分暗記しました。

信心銘を何度か読んで思ったことを書いてみます。

物事を認識し、認識対象が確かにあると実感されるとしても、現象としてある物全てが永遠に存在し得ない以上、今あることは確かだったとしても、いずれ無に帰するものとしてあるに過ぎない。

同様に、認識している自分自身の存在も、限られた経験と記憶に基づく観念的存在であり、観念にすぎないものは、夢幻のようなものであり、実体はない。
個としての観念の根底にある、「本心」に気付けば、そこに、個的経験、記憶以前の意識そのものを想定できる。
そこまで、実感としてたどりつければそれが「無我」である。
しかし、認識がある以上認識する主体が前提となり、いかに変容しようとも、残った「自我」の再生の契機となる。
そこで、認識も認識対象もない、有も無もない、善も悪もない、時間もない、「空」を想定することにより、認識を消し去り悟りに至る。

快を求め不快を嫌い、生を求め死を嫌い、善を求め悪を嫌らうのが本質であってもなくても、全てを包含する「空」であるということは、個の根底にある本心の求めるもののみに満たされることになる。

こんな信心銘の理解でも良いでしょうか?

802避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 20:50:40 ID:jfWCoXjM0
>>800
解説ありがとうございます!
今日も続くのでしょうか?楽しみに待ってます☆

803鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:42:59 ID:3LQWQGf.0
今日も続くのじゃ。

六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

 六趣輪廻の原因は、自分の無明、己在りと言う我見の愚かさから来るものじゃ。
 自分の無明から迷いの闇路をさまよい、いつ生死を離れた悟りに至れるのか知れら無いほどなのじゃ。

 六趣輪廻とは、地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天人の六つの生存環境なのじゃ。
 衆生が延々とその輪廻をさまようのも、己が在るという無明からなのじゃ。

 その原因からさまざまな生きる世界が形作られるのじゃ。


 偉大にして広大なる禅定は、いくら称えても称え尽くすことができないものじゃ。
 お布施とか、戒を保つ事とかの完成の行、念仏や懺悔などの修行などの数々の善行も皆この中にあるのじゃ。

 その無明から抜け出す法として、偉大にして広大なる禅定があるのじゃ。
 人を悟りに導く法であるから、いくらたたえてもたたえ切れないほどなのじゃ。

 波羅蜜とは完成を意味する梵語なのじゃ。
 菩薩の行として大乗では六の波羅蜜、完成の行を行うのじゃ。

 布施、戒を守る事、耐え忍ぶ事、精進する事、禅定、智慧などの六なのじゃ。
 それらは全て禅定一つによって完成されると言うのじゃ。

 さらに念仏とか懺悔などの修行も、禅定一つで完成されると言うのじゃ。
 禅定を行い、悟りを得れば全ての修行は完成されることになるから、全ての修行は禅定の中に含まれるといって良いのじゃ。

 
今日はここまでなのじゃ。

804鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/18(木) 21:44:15 ID:3LQWQGf.0
>>801 そのようなものじゃ。
 後は実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>802 そうじゃ、続くのじゃ。
 WKTKして待つのじゃ。

805避難民のマジレスさん:2014/12/18(木) 23:31:22 ID:LC3de7YgO
>>804
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)
目の前のあんパンやPCや、それを五感で認識するおのれの存在の確からしさを実感として否定できるとこまで行き着くのは、記憶の断片=観念の寄せ集めとしての自我という理屈の単なる延長戦上では無理でありますね。
それを、 見抜くためには、無分別=空を追求するか、自我が生じる瞬間を観察し切る実践しかないのでありますね。

けど、鬼和尚の説明で理屈も少しづつ、整理できてきた気がするので、励みになります。

806鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:10:17 ID:rs5p.yDE0
今日も続くのじゃ。

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

況や自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し

 一度座った程度の行いでも、積み上げた無量の罪が消えるのじゃ。
 地獄とかの悪い環境に居る者も、その苦しみが何処に行ったのかと思うほどであり、極楽浄土も近くなるのじゃ。
 
 この禅定の法を聴くことが出来たものが、そのありがたさに喜び、称えるとき、限りない福が得られるのじゃ。

 まして自ら実践して、自性をあかせば、自性が無性であると気付き、空しい論を離れるじゃろう。
 原因も結果も一つであると知る、唯一の道が真っ直ぐに開けるのじゃ。

 自性とは本質的な性質とでも言うべきものじゃ。
 人が己と言うものを認識する時、己の本質的な性質によって自らを認識するのじゃ。
 
 己を強きものと思えば、強い性質を持つ者として認識するのじゃ。
 己を弱きものと思えば、弱い性質を持つ者として認識するのじゃ。

 そのような自性が、座禅によって実は無であったと気付けば、もはや一切の思考分別をも離れるのじゃ。
 原因も結果も一つであり、悟りへの道も、もはや容易なのじゃ。


  今日はここまでなのじゃ。

807鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/19(金) 23:14:10 ID:rs5p.yDE0
>>805 そうじゃ、観念や戯論をいくら重ねても進歩は無いのじゃ。
 実践する事だけが進歩の道なのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

808避難民のマジレスさん:2014/12/19(金) 23:24:43 ID:/Tir5mUE0
wktkするのお
白隠はヒップホッパーじゃのお

809避難民のマジレスさん:2014/12/20(土) 20:59:11 ID:jfWCoXjM0
>>806
昨日も解説ありがとうございました_| ̄|○
禅定で思い出したんですが、以前偶然に下記のような体験がありました。
禅定とは1の状態でしょうか?
それと、なんで2の意識は生まれるんでしょうか?

1何も無かった
2何も無いことを意識した
3言葉が流れているのに気づいた
4言葉から景色が生まれた
5肉体を見つけた
6肉体に入った(?)
7感覚が生じていつもの自分目線に戻った

810鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:17:56 ID:rs5p.yDE0
今日で終わりなのじゃ。

無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として うたうも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん
この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり

 無のありようを真のありようとして、行く所も帰る所も今ここにあるのじゃ。
 無の心を真の心として、歌う声も舞う姿も法に合致する。

 サマーディは開けきった空の如くに広大になり、四つの智慧が月の如く輝くのじゃ。
 もはや何かを求める欲望は無い、涅槃寂滅の境地が既に現れている故に。
 今ここが極楽浄土であり、自らが目覚めた者であったのじゃ。
   
 相とは相好というように、一切のものの姿形なのじゃ。
 人は他の物事を全てこの相を元に認識しているのじゃ。
 相とは特徴でもあるのじゃ。

 他と違う特徴を探し、それを以ってそれがいかなるものか分別するのじゃ。
 例えば人ならば鼻がでかい特徴から手塚君とか、腹がでかい特徴から山田君とか認識するのじゃ。

 そのような特徴を抽出する分別が無くなり、一切の相が無となれば、もはや分別は無く、一切が一つであり平等無分別の境地になるのじゃ。
 そこではもはや全てが一つであるから、生死によって行く所も帰る所も無く、一切が今ここにあるのじゃ。

 念とは思うことであり心の働きなのじゃ。
 それが無となれば心も無となり、法と一体となるのじゃ。

 そうであればもはや本来非法である、歌も踊りも法そのものとなるのじゃ。
 
 そしてサマーディによって心に障壁が無くなり、どこまでも突き通って心が明らかになれば、平等性智などの智慧が生じ、悟りも徹底されるのじゃ。
 そうなればもはや一切の欲は消え、涅槃寂静の境地に入るのじゃ。
 
 その境地によって極楽浄土の仏国土は今ここにあり、自ら目覚めた者であったと気づくのじゃ。、
  

 これで終わりなのじゃ。

811鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/20(土) 22:24:35 ID:rs5p.yDE0
>>808 そうかもしれん。
 なかなかの詩人じゃな。

>>809 1は無思考の状態なのじゃ。
 禅の原語であるディヤーナによる状態なのじゃ。
 
 2の意識は常に在るのじゃ。
 何も無くとも、それを認識する意識が無ければ、何も無いとはわからないのじゃ。

 意識が拡大したのじゃ。
 識無辺定とか空無辺の状態なのじゃ。
 集中力が身につけば容易に出来るようになるのじゃ。
 体験に囚われることなく進むのじゃ。

812避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 12:02:08 ID:/1ub1Cio0
鬼和尚、
生じた怒りを原因から滅した時に気づいたのですが、怒りも喜びも、100%自分の問題ゆえに、苦滅によってコントロールすることができるのですね。

ところで、深い瞑想などの時に感じられる安らぎは、物事が心に無い時にあるように感じられます。
これは怒りや喜びと異なり、作られざるものなのでしょうか?

813避難民のマジレスさん:2014/12/22(月) 20:40:19 ID:jfWCoXjM0
>>810
坐禅和讃の解説ありがとうございました!

まだまだ未熟者ですが、これまでの鬼和尚の解説をよく読んで、修行に励みたいと思います。

814鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/22(月) 22:27:58 ID:twUYCSy60
>>812 そうじゃ、自ら苦も滅する事が出来るのじゃ。
 自ら修行して悟りも得られるのじゃ。

 そのような安らぎは本来のものであり、心で創られた観念ではないと言えるじゃろう。
 日常で緊張している心が解放されたともいえるがのう。 

>>813 そうじゃ、修行に励むのじゃ。
 全ての教えは実践のためのものであるからのう。
 実践が全てなのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 15:43:23 ID:t0rzP/K20
大拙の鑑定を根拠つきでお願いします

816避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 17:30:33 ID:YWqLYYqo0
>>814
最近、自我を無くすことの恐れが減ってきているように感じられます。
さらに精進して、まずは自我を滅したいと思います。
ありがとうございました。

817避難民のマジレスさん:2014/12/23(火) 19:28:27 ID:QMm34KcU0
>>816
>まずは自我を滅したいと思います。

自我を滅するということは、場合によっては飢え死にするようなことも
覚悟の上なのですか?

818鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/23(火) 22:30:50 ID:o/6xvB9Y0
>>815 youtubeに動画が在るのじゃ。
 時々動かないのじゃ。見てみると良いのじゃ。
 
>>816 そうじゃ、恐れを超えて進むのじゃ。
 恐れが無ければ悟りも近いのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2014/12/24(水) 12:25:22 ID:zymYeoR20
>>817
自我を滅したあとで、認識を滅し、それから戻ってきて教えを説くと決めていますので、飢え死にはしないと思います。
たとえ飢え死にするとしても、正しい認識もできずに死ぬよりは、悟りを得るほうを選びます。

820そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 20:16:02 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
最近は希薄というか空疎という感覚があります。
何が希薄で空疎なのかと言っても、それが何であるのか言いようのない感じです。
仕事中も瞑想中も同じように希薄な感じです。
修行していないニートの人と比べると、おそらくニートの人の方が濃密だと思います。
「我」という感覚が薄れてきているのかもしれません。
こんなんで良いのでしょうか。

821そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 21:21:14 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
もう一つお願いします。
今日、昼食にうどんを食べたのですが、食べながら麺を目にして、
「これは食べ物のうどんで、これから昼食をとるのだ」という認識をする自分と、
食べ物の認識を除外して、言葉にすれば「白、ツヤ、折り重なり」程度に捉える自分の、
それぞれ異なる二種類が重層的に居るような感覚があったのですが、
これはどういう状態なのでしょうか。

822鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/24(水) 22:24:59 ID:o/6xvB9Y0
>>820 条件付けがなくなってきたのじゃろう。
 確固とした世界や社会と言う観念が無くなり、自我から起こる感情も消えてきたからのう。
 そのほうが苦も起こらないか小さいじゃろう。
 むしろ瞑想の喜びを楽しむのじゃ。

>>821 分別が止まってきたのじゃ。
 一つの観念ではなく多層的に観察出来るようになったのじゃ。
 完全に止まった機に自分が観られれば悟道も訪れるのじゃ。

823そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/24(水) 23:39:32 ID:rzoJTJNQ0
>>822
ありがとうございました。

824避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 10:35:52 ID:JagcJSxo0
和尚、こんにちは。

物事に対して思考が自動反応するのはわかってきたのですが、
反応する思考の違いには何か決め手のようなものはあるのでしょうか。

例えば、朝起きて犬の散歩にでも行こうとしたとき、
ある時は何ら気兼ねすることのない思考の時もあれば、、
ある時は何となく面倒だなーという思考になったりもします。

同じ事象に対することなのに、なぜ反応が違うのだろうかと疑問に思ったわけですが、
これらはやっぱり、体調などその他もろもろのことが影響しあった結果なのでしょうか。

825そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 18:12:12 ID:mw0Ye.zc0
鬼和尚
私の思考に顕著な思考パターンがあることがわかるようになりました。
その思考は怒りや憤りや悲嘆などの感情を生みます。
それが起こるプロセスを観ると、
個別の具体的な内容はそれぞれ異なりますが、
どれも似通っていて、
自我を守ろうとする防御反応であったり、
それが高じた他者への攻撃であることが、
とてもよくわかります。

826避難民のマジレスさん:2014/12/25(木) 21:11:06 ID:r1bO5aHo0
鬼和尚様
数息観の実践している者ですが、お聞きしたい事があります。
安般守意経にある、数息・相随・止・観・還・浄それぞれの意味
と実践法を教えていただけますでしょうか。
よろしくお願いします。

827鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/25(木) 22:51:01 ID:3O4ezeHw0
>>823 どういたしまして、またおいでなさい。

>>824 そうじゃ、体調や環境などの違いにより、反応も異なるのじゃ。
 体調がよければスポーツは楽しいが、疲れていれば楽しくないようにのう。
 それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

>>825 良い観察なのじゃ。
 そのように気付く事が多くなれば世間の欲を離れ、悟りも近付くじゃろう。
 更に精進あるのみなのじゃ。

>>826 それらは実践する法というより、進歩する段階なのじゃ。
 最初は数息観をして外の世界の五感を遮断して集中力を高めるのじゃ。
 次には心を集中して法に心が随うようになるのじゃ。
 そして心は止まり、無念無想となるのじゃ。
 心が止まれば観察が出来るようになり、様々な執着から心が離れるようになるのじゃ。
 そして心が一つに還るサマーディに到達し、喜びが湧くのじゃ。
 さらに精進を重ねて対象の無いサマーディにまで達すれば心は清浄となり、悟りも訪れるのじゃ。

 そこまで到達するには中々大変であるが、日々精進すれば全ての境地は向こうから訪れるのじゃ。

828そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/25(木) 23:10:44 ID:rzoJTJNQ0
>>827
ありがとうございました。

829826:2014/12/26(金) 06:22:23 ID:GPo.LjOQ0
>>827
ありがとうございました。
これからも実践を続けていきます。

830避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 06:45:46 ID:6ZZgOq8Y0
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/BOOK-satori.html
鬼和尚様、この人は悟っていますか?
なんとなく、認識は破壊できていないような気がいたします。

831避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 11:17:11 ID:JagcJSxo0
>>827
和尚、お返事ありがとうございます。

>それらも自我によって選択することなく縁によって自動的に起こるのじゃ。

ということは反応そのものに自我はなく、
ただ記憶を参照して関連データにアクセスしているだけということでしょうか。

その機能は脳という臓器の働きにすぎず、
自我は、そのアクセスされたデータに囚われた時に生じてくるようなものと考えておいて問題ないでしょうか。

832避難民のマジレスさん:2014/12/26(金) 19:08:24 ID:wdE6cjYY0
鬼和尚の「今」についての説明が聞きたいです。

833そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/26(金) 21:35:15 ID:rzoJTJNQ0
鬼和尚
観察について語ったり論じたり考えたりする時、
「主体と客体」とか「主観と客観」などの二元的なものの存在を無条件の前提として掲げてしまい、
主観なのか客観なのかなどと考えてしまいがちですが、
主観も客観も、生まれたり無くなったりするもでもなく、
分離されたり統合されるものでもないのではないでしょうか。
そもそも主観も客観も観念であって、
本来はそのようなものは無いと言えるのではないでしょうか。

834鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/26(金) 21:54:54 ID:1tAPJlTw0
>>828 どういたしまして、またおいでなさい。

>>829 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>830 悟っていないのじゃ。
 サマーディを体験したようでは在るがのう。

>>831 そのような考えでも良いのじゃ。
 後は実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

>>832 今とは過去を思わず、未来のことを考えずにいることなのじゃ。
 過去に起きた苦をえんえんと思うことから苦はくりかえされるのじゃ。
 そしてその苦をこれからも起こるかもしれないと考えるから不安が起こるのじゃ。

 そのように過去の苦から離れ、又起こるかもしはれないという思考が無ければ今ここに居る事になるのじゃ。

835そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 13:39:29 ID:4QKujcG20
>>833に追記です。
私が昔読んだ本で「『甘え』の構造」(土居健郎著)というものがあるのですが、その中に

「われわれはむしろこれから甘えを超克することにこそその目標をおかねばならぬのではなかろうか。それも禅的に主客未分の世界に回帰することによってではなく、むしろ主客の発見、いいかえれば他者の発見によって甘えを超克せねばならないと考えられるのである。」

という文があって「禅的な主客未分の世界」という言葉が長い間強く記憶に残っていました。
しかし、主客というものも実体のあるものではなく、観念の産物なのではないでしょうか。

836避難民のマジレスさん:2014/12/27(土) 17:32:15 ID:epk3cmT20
>>834
和尚、お返事ありがとうございます。
引き続き実践に精進いたします。

837鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/27(土) 22:06:51 ID:QsT8JVWM0
>>833>>835 そうじゃ、本来は無いものじゃ。
 無理に在るとすれば主観だけが在るとも言えるが、それも客観との反対観念として在る言葉であり観念に過ぎないのじゃ。
 観念が無ければ常に主客一体なのじゃ。

>>836 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

838そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/12/27(土) 23:12:11 ID:4QKujcG20
>>837
ありがとうございました。

839避難民のマジレスさん:2014/12/28(日) 19:56:13 ID:3Acup.qo0
鬼和尚
飛んでいる物体は個体が飛んでいる。
動かない家具はそこに在りつづけると見ていましたが。
そうではなく
静止した絵が全体として変化しているように見える事があります。
全体がカラスの鳴き声と一緒になっています。
瞬間瞬間、何も残るものがありません。
これをもっと味わっても良いですか?

840鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/28(日) 22:47:15 ID:wjwUyevI0
>>838 どういたしまして、またおいでなさい。

>>839 そうじゃ、もっと味わってよいのじゃ。
 認識の習慣性がなくなり始めたようじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2014/12/30(火) 20:38:55 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんはヽ(・(∀)・)ノ
信心銘024まで暗記しました。
信心銘の鬼和尚解説を契機に、他の禅書籍にも関心をもち、今↓のHPを読んでます。
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html

842鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/30(火) 22:39:31 ID:Ji3gX.zY0
>>841 善いことじゃ。
 禅とはディヤーナの音訳の略なのじゃ。
 ディヤーナとはサマーディに至る前の集中状態なのじゃ。
 実践し集中しなければ禅ではないのじゃ。
 おぬしは本当の禅を実践するとよいのじゃ。

843避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 16:36:48 ID:9dZmJJkw0
鬼和尚、いつもありがとうございます。
受動的な瞑想を始めています。
無抵抗のまま、どこまでも明け渡せそうな切りがない感覚で、
開放感で全身が快になります。
この感覚でよろしいですか?

844避難民のマジレスさん:2014/12/31(水) 20:45:39 ID:/gu5sIKA0
今晩は鐘が鳴るのじや
禅定に入り観照を起こすのじや
あの鐘を鳴らすのはわしなのじや

845鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/12/31(水) 22:12:15 ID:Tt6ns1q60
>>843 そうじゃ、それでよいのじゃ。
 時々、自分が戻ってきそうになるがなるが、そのまま開放すると良いのじゃ。
 恐れを超えれば限界などなくなるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

846避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 00:24:14 ID:LC3de7YgO
ヽ(・(∀)・)ノ明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

847避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:03:09 ID:sbMeLyns0
鬼和尚さん、あけましておめでとうございます。
昨年もたくさんの質問に応えてくださって、ありがとうございました。
ありきたりな言葉になってしまいましたが、とても感謝しています。
今年もよろしくおねがいします。

848避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 01:35:22 ID:kpH2I4A.0
鬼和尚、あけおめヾ(゚∀゚)ノ

849龍昇:2015/01/01(木) 03:44:14 ID:w3wQ.Dc60
あけましておめでとうございます
今年も皆様にとって良い一年になりますように

850避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 04:30:13 ID:jfWCoXjM0
明けましておめでとうございます!
昨年は色々教えてくださって本当にありがとうございました_| ̄|○
だんだんと鬼和尚の言ってることがわかってきたので、今後は実践あるのみでいきたいと思います。
今年もよろしくお願いします\(^▽^)/

851避難民のマジレスさん:2015/01/01(木) 08:05:27 ID:kO15HDFw0
鬼和尚、皆様、あけましておめでとうございます。
お正月休みは鬼和尚のブログを隅々まで読んで理解を深め精進します。

852鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/01(木) 21:42:38 ID:uWUQQdpM0
>>846 あけおめことよろなのじゃ。今年もさらに進むじゃろう。
 
>>847 あけおめことよろなのじゃ。良かったのじゃ。
 精進すれば楽になるのじゃ。

>>848 あけおめことよろなのじゃ。今年も精進なのじゃ。

>>849 あけおめことよろなのじゃ。おぬしも良い一年になるように。

>>850 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ」実践すれば楽になっていくのじゃ。

>>851 あけおめことよろなのじゃ。そうじゃ、実践して喜びを食むものとなるのじゃ。

853龍華:2015/01/01(木) 21:47:58 ID:kl1CR23s0
新年あけましておめでとうございます

正しい月は旧暦だと思うのですがお正月!
まじめに坐るよ2015年!
本年もよろしくお願いいたしますありがとうございます

854避難民のマジレスさん:2015/01/02(金) 13:44:35 ID:W/a.g3nY0
和尚、あけましておめでとうございます。
本年もご指導のほど、よろしくお願いします。

年末年始は人との交流が増えるため、
瞑想時になかなか思考の波が静まりません。
しかし今年こそは禅定を得るため、
こういったことも含めて精進していきたいと思います。

今年も一切衆生が幸せでありますように。

855鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/02(金) 22:02:10 ID:YZmi17.60
>>853 あけおめことよろなのじゃ。
 そうじゃ、精進する者に道は開かれるじゃろう。

>>854 あけおめことよろなのじゃ。 
 良い事じゃ。求める者に道は示されるじゃろう。

856避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 12:59:10 ID:fcexXDZw0
鬼和尚、
善行について教えて下さい。
善行の対象は、必ずしも個我を持つ衆生には限らないのでしょうか?
もし怒りで石を蹴飛ばしたとしても、平等性智により、その報いは本人に返りますか?

857避難民のマジレスさん:2015/01/05(月) 20:48:11 ID:b/5GXrxU0
鬼和尚様
随息観についてお尋ねします。
呼吸の出入りに集中する際、頭の中で呼吸音を擬音化する癖が
自分にはあります。それだけでなく、日常で音楽や鳥の鳴き声な
どの音を聞く時も、聞くのとほぼ同時進行で音を擬音化して認識
しているようです。
このような認識の癖も、行が深まれば消えるものなのでしょうか。
また、随息観をする時のアドバイスがあればお願いします。

858鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/05(月) 22:14:02 ID:/zZoA6og0
>>856 帰るじゃろう。
 善行の元は心にあるのじゃ。
 怒りの心によって行った事は、被害者が居なくとも本人に何らかの報いが起こるじゃろう。
 自分の心が常に見ているから誤魔化すことはできないのじゃ。
 粗末にしたものがなくなるとか、そのような事が報いとなるのじゃ。

>>857 それで良いのじゃ。
 それは追唱といって、誰の頭の中にも起こっていることなのじゃ。
 字を読んだり、話をしていても起こっているのじゃ。

 それが観察できたことでよいのじゃ。
 それを消そうとか、消えないかとか思う必要も無いのじゃ。
 今ここにある心に起こっている事を、ありのままに観察するだけでよいのじゃ。
 さらに集中と観察が深まって、認識が消える時にそれも自然に消えるのじゃ。

 どこまでも呼吸に随うがよいのじゃ。
 肉体の生理も無視して集中すればさらに深い境地にいけるじゃろう。

859857:2015/01/05(月) 23:11:54 ID:0DFILKEk0
>>858
ありがとうございました。
さらに実践を続けていきます。

860避難民のマジレスさん:2015/01/06(火) 17:09:41 ID:wH0JIS760
>>858 ありがとうございます。
自分の心が常に見ているのですね。肝に銘じておきます。
ここでの自分の心とは、阿頼耶識のことでしょうか?

あと、知らないで悪を為したことも報いを受けるとのことですが、その悪を知らないのは表層の心だけで、奥深い心は善悪を判っているということなのでしょうか?
それとも、他に為したのと同じことを平等性智が自分に対して為すということでしょうか?

861鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/06(火) 21:50:53 ID:F4Z0hQac0
>>859 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>860 それは平等性智なのじゃ。
 本来の智恵が誰の心にもあり、見ているのじゃ。

 衆生は本来ひとつであり、他人も自分のひとつなのじゃ。
 例えば手が足を攻撃したら血が出て手も動かなくなるじゃろう。
 そのように本来ひとつなのであるから善悪の観念が無くとも、他人にしたことは自分に帰るのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2015/01/07(水) 12:51:47 ID:qYQvs9ck0
>>861
ダンマパダでお釈迦様が何度も繰り返し、善を行うことを勧め悪を行うことを諌める理由がわかりました。
また、私がダンマパダ1を十分に理解していないこともわかりました。

さらに、考えと言葉と行動に気をつけつつ行に励み、本来ひとつであることを確かめたいと思います。
ありがとうございました。

863鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/07(水) 21:57:25 ID:6FmcCiu20
>>862 良かったのじゃ。
 善を行い続ければ心も清くなり、幸福と安楽が常に付き従うじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

864そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 18:03:28 ID:AV7N7e4w0
鬼和尚
日々様々な気付きがあります。
これは誰が気付いているかというと、私が気付いているわけです。
しかし実は私がと言うよりは、誰であるとは呼べない者が気付いているのではないでしょうか。
つまり私は、その誰であるとは呼べない者と繋がっているのではないでしょうか。
同様に、他の人も皆繋がっているのではないでしょうか。

865避難民のマジレスさん:2015/01/08(木) 20:37:36 ID:W/a.g3nY0
和尚、こんにちは。

昔だと不安や怒りに飲まれていた事柄に対して、
最近ふと気がつくとなんとも思わなくなっていることがよくあります。

煩悩が落ちるというのは、あからさまに
「はい落ちた、いま落ちた、ほらほら落ちた」という具合ではなく、
気がつくといつの間にか落ちていた、というような感じなのでしょうか。

866鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/08(木) 20:47:46 ID:6FmcCiu20
>>864 そうじゃ、良い気づきなのじゃ。
 意識は本来、自分とか肉体に縛られているものではないのじゃ。
 自他の区別の無いところに気づきはくるのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

>>865 そうじゃ、気づきは自覚できるが、その結果は後からわかるものじゃ。
 かつては苦を起こす原因となっていた観念も、気づいた後に苦の原因であることから離れるのじゃ。
 記憶がなくなった訳ではないが、苦はもはや起こらないのじゃ。
 それが厭離なのじゃ。

867そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/08(木) 23:16:21 ID:hw5NmCB20
>>866
ありがとうございました。

868避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 10:34:56 ID:W/a.g3nY0
>>866
和尚、お返事ありがとうございました。

なるほど、煩悩がその場で無くなるのではなく、
煩悩の原因となっていたものから離れるのですね。
だから同じ記憶を参照しても反応は起こらないわけですか。
とても腑に落ちました。

引き続き実践に励みます。

869避難民のマジレスさん:2015/01/09(金) 19:12:46 ID:JUIzF8vA0
鬼和尚
ご飯を食べる時に「そういえば受容的なってこんな時もできるのかな」と
思ったら妙な感覚になって笑ってしまいました。
食べていることに自分が一致してるというか一緒になっていて、
食べる人でなくて、食べる事が対象でない感じですよ。
自分が噛み砕きそのものになってます。

870鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:08:08 ID:MOldaCw.0
>>867 どういたしまして、またおいでなさい。

>>868 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>869 かなり進歩しているのう。
 対象と一体になるサマーディに達したようじゃ。
 もはや出世間の定と知識が芽生えているのじゃ。
 さらに精進するのじゃ。

871鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/09(金) 22:21:56 ID:MOldaCw.0
また2ちゃんねるが書き込めないのじゃ。
おかしなことじゃ。

872素人A:2015/01/10(土) 15:11:54 ID:gOqWUDAs0
2ちやんに連絡できないから思いついた事鬼さんに聞こう。般若心経では感覚器官は実態では無い
と言っているけど感覚器官でも視覚や聴覚はテレビや映画で実態の無い世界をドラマで実現している
是から触覚も体験できるバーチャルなドラマ?ができ誰かの身に触覚で身体に入れたら
痛い体験ができ痛いのはいやで体験に引き使われてしまうのか?観るだけですよ
お客さんでは観光気分で温泉に行く気分だが触角まで実現されたら幻どころでは無い
もしかしたら今観ている現実はバーチャルで痛い感覚はどこから来たのか
玄沙和尚は旅に出ようとして足の指を思い切り痛い思いしてこの痛さは何処から来た
のかと考えたそうだし。私等痛い思いがないと真剣にならないし何聞きたいのか
感覚でも色々な違った作用があると言う事かちょっと暇なので相手してもらいたい野鴨
2ちやんはつながらないしでも私は独りでいつも会話しているしでもたまには

873鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/10(土) 21:17:20 ID:mQhlK7fM0
>>872 そうじゃ、痛みは本来は肉体の異常を知らせる警報に過ぎないのじゃ。
 しかしそれが一度経験されて記憶になると、痛みそのものが怖くなり、いつまた痛くなるかと不安をも引き起こすようになるのじゃ。
 本当の痛みより、痛みへの恐れと不安が苦になるのじゃ。

 そして痛みがあればこの痛みがこれからも続くかと、さらに苦を増やしたりもするのじゃ。
 そのように痛みよりも、痛みへの恐れと不安が苦になることをよく観察して気づくのじゃ。

874避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 22:46:25 ID:o2sAVcZE0
鬼和尚さま
うたたねをしていると急に昔住んでいた家が映像で詳細に頭に浮かびました。
実際にその場所にいるような感じでした。

今までも瞑想中に忘れてたことや場所が詳細に思い出されることはありましたが、
今回は実際その場所にいるように歩いて見て回ってたのですが、
あまり詳細に見ていると向こう側へ引きずり込まれるような感じで、怖くなって起きてしまいました。
ちなみにその家はもう取り壊されてありません。

昔同じようになったとき、幽体離脱したような感覚だったこともあります。
自分が自分からスポっと抜けてその場所に出たような。
抜けるときは幽体離脱、頭の中で見てるときは透視でもしてるような感じです。

同じような感じで自分と関係した過去の誰かなどを思い返すと悲しいような気持ちになります。
その人ともう会えなかったり失われた過去に対しての執着からだと思うのですが、
自分の記憶、過去への執着をなくしていく過程で起こることなのでしょうか。

悟った方はなんでも思い出せるようなことを聞きますが、
記憶や過去への執着が本当になくなると、逆になんでも思い出せるようになるんですかね。

875避難民のマジレスさん:2015/01/10(土) 23:42:29 ID:43oZw7ok0
>>870
鬼和尚、ありがとうございます。
精進いたします。

876避難民のマジレスさん:2015/01/11(日) 07:30:27 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
自我の観察について教えてください。
観察をしていて気付いたのですが、思考をしている時に生じている自我イメージと、観察をしている時に生じている自我イメージは異なるようです。

順観と逆観により自我を観察する時には、○○がある時に自我があり、○○が無いときに自我が無いと観察するのですよね。
この場合、思考によって生じる(特有の)自我イメージが、思考が無いときには生じないと観察すれば良いのでしょうか?
もう少し詳しくお教えください。

877素人A:2015/01/11(日) 09:24:25 ID:gOqWUDAs0
鬼さんありがとう 個人の自我も問題だか 社会が人間の本能や感覚を利用して
コントロールするのもある野鴨で.まうそうやつてこの世は動いていくけど
ほつとけ内仏もあるという事は信じて行きますか?大乗ぶだあ

878そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/11(日) 13:40:31 ID:hw5NmCB20
鬼和尚
背中の上の方から首の後ろの辺りにかけて、心地よさの塊のようなものがあります。
瞑想中のみならず、日常的にその存在を感じます。
様々な気付きは、この辺りからもたらされているようにも感じます。
これは、下記の引用のように、鬼和尚が言われている意識と同じものなのでしょうか。

>68 2 名前: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM Mail: sage 投稿日: 2014/03/14(金) 20:20:07 ID: kaXJvxhM0
>肉体の首や脊髄のあたりに在る意識なのじゃ。

879鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:36:03 ID:mQhlK7fM0
>>874 そのような事もあることじゃ。
 まだ少し執着が残っていることを思い出しているのじゃ。
 完全に執着が無くなればそれもなくなるじゃろう。
 記憶は残っているのじゃ。
 執着による孤独感などはなくなるのじゃ。

 苦があれば思い出したくないことは心によって制限されるのじゃ。
 苦が無くなれば思い出したくないことも無くなるのじゃ。

>>875 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>876 思考によって起こるイメージが、思考が無いときは起こらないことをそのまま観るのじゃ。
 起こらないことを自分で観想してはいかんのじゃ。
 起こらない事をそのまま、ありのままに観るのじゃ。
 もし自我のイメージが起こったならば、起こったことをそのままに観察するのじゃ。
 思考が無い事を観察するのも難しいことではあるがのう。
 実践あるのみなのじゃ。

880鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/11(日) 21:49:31 ID:mQhlK7fM0
>>877 そのような事もあるじゃろう。
 しかし人が自らを深く内省し、老病死を免れないと知れば悟りへと向かうものじゃ。
 その最高の境地を目指すことができる環境ならば、不自由ということも無いのじゃ。

>>878 そうじゃろう。
 意識は肉体の位置によって違ったりするのじゃ。
 さらに観察すればもっと気づくこともあるじゃろう。

881避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 00:48:45 ID:o2sAVcZE0
>>879
そうですね。
記憶は根深いなと思います。
執着がなくなるにつれまた奥の記憶や執着が出てきますね。
地道に実践しようと思います。ありがとうございました。

882そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/12(月) 09:16:33 ID:hw5NmCB20
>>880
ありがとうございました。

883避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 14:22:13 ID:xQpSahzw0
>>879 ありがとうございます。
自我の観察の場合、自分で何かをするのではなく、起こったことをそのまま観察するのですね。観察しようとする意志をも放棄する必要があるということでしょうか。

また、思考が無いことを観察するのが難しいというのは、どういうことでしょうか?
意志により思考を止めるのではなく、思考が無いときに思考によって起こるイメージが無いことを(偶然)観察しなければならないのが難しいということですか?
それとも他に理由があるでしょうか?

884避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 20:56:23 ID:/T06nax.0
日頃の日常でも訓練するためにグルジェフのいう

885鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/12(月) 20:59:24 ID:mQhlK7fM0
>>881 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>882 どういたしまして、またおいでなさい。

>>883 いずれは観察する意志もなしに観察できるようになるじゃろう。
 それをしようと意識する必要も無いのじゃ。
 修練の結果できるようになるものであるからのう。

 そのようなことじゃ。
 通常の人間は思考が無い状態を意識することも難しいものじゃ。
 思考が無い状態に容易に到達できるならば、観察もできるじゃろう。

886避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 21:11:56 ID:/T06nax.0
数息観が合わないので額に意識を集中する瞑想をやっているのですが、熱が生じている感覚をより強めるほど集中できていると考えてよろしいのでしょうか?
またこの瞑想でチャクラが開いたら魔鏡が見えるようになるから危険と聞いたのですが本当ですか?
よろしくお願いします。

887避難民のマジレスさん:2015/01/12(月) 21:14:51 ID:/T06nax.0
884
すいません間違えて投稿しました。
スルーして下さい。

888避難民のマジレスさん:2015/01/13(火) 17:09:13 ID:AiqHe7aY0
>>885
この段階ですと、鬼和尚が以前山の喩えで書かれたように、やはり集中してひたすら心を観察し続けるしか無いようですね。
ありがとうございました。
覚悟を決めて修練に励み続けます。

889栄進:2015/01/13(火) 20:39:47 ID:3jRGFHJE0
2ちゃんが鯖落ちなので此処で聞きます。
鬼和尚、質問です。

①ワシには自我が無いと言う鬼和尚がどうしてワシこそが真の悟りを開いてると言えてしまうのでしょうか。
智慧があるから言えてしまうのでしょうか。

②智慧とは何ですか。

890鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/13(火) 22:16:08 ID:mQhlK7fM0
>>886 集中した時とそうでない時で違いが無いか試してみるのじゃ。
 集中が本当に強くなれば眉間と自分が一体化した感覚が起こるのじゃ。
 それがサマーデイなのじゃ。

 どこに集中していても執着から離れられないものには魔が出るのじゃ。
 執着が無ければどこに集中しても大丈夫なのじゃ。
 魔が出た時にも原因となる執着から離れれば消えるのじゃ。

>>888 そうじゃ、ただひたすら実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>889 ① 自我とは観念に過ぎないのじゃ。
 それに気づけばむしろ自我の観念が無いことが本来の状態とわかるのじゃ。
 自我が無ければ智恵があり、真の知識があり、真の自由意志があるのじゃ。
 そしてその本来の状態に至る事こそが悟りであると智恵によって示されるのじゃ。

 ② 智恵とは本来誰もが持っている、己を含む環境をありのままに観る事のできる能力なのじゃ。
 自我があれば自我の観念にゆがめられて独りよがりになる思考が、自我が無いことによって全てを平等に考察できる平等性智となるのじゃ。
 その他、記憶や観念によつてゆがめられていた観察力や把握力も妙観察智や大円鏡智などとして発揮されるのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2015/01/14(水) 14:51:39 ID:I30uh0DE0
鬼和尚が真に悟りを開いているなら、悟りを開いてから既に30年近く経っていると思われるので
実社会で鬼和尚と接してる人の中にも何か感じる人が居て、質問をされたりする事も有りそうな
ものですが、そういう事は有りますか?
またそういう人達が何人か集まって実際の仏教勉強会を開いてくれと要請してきたら
勉強会を開いても良いと思いますか?

892そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/14(水) 21:46:28 ID:hw5NmCB20
鬼和尚
悟った後も娑婆世界と接するためには自我が必要でしょうか。

893鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/14(水) 22:00:24 ID:Uetd9HGw0
>>891 無いのじゃ。
 無いからしないのじゃ。
 わしに会えるのは真に悟りを求める者たちだけなのじゃ。
 いずれおぬしには会うかもしれないのじゃ。

>>892 不要なのじゃ。
 あるふりをするだけでよいのじゃ。
 あるふりだけで人と話せるのじゃ。

894そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/14(水) 22:25:00 ID:hw5NmCB20
>>893
ありがとうございます。
心置きなく自我の滅に励みます。

895素人A:2015/01/15(木) 07:45:33 ID:gOqWUDAs0
私には観られて居るカラー 無いと思える事は
みる処空(から)観れば我々は内で絵多さきに身得る絵画化
でも今は鉄今日いまは浜で今此処で無理しなく有る苦だけです
さあとりあえずはまあよいかで

896避難民のマジレスさん:2015/01/15(木) 12:43:59 ID:I30uh0DE0
>>893
このスレには実際に会って直に指導して貰いたいと思ってる人は結構居ますよね。
いずれと言わずそろそろ直接指導して貰える場を設けても良いのでは無いでしょうか。

897886:2015/01/15(木) 21:42:16 ID:CMFHiRxQ0
>>890
レスありがとうございます。
集中できた時のことを意識しつつ、魔境は気にせず頑張りたいと思います。

898鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/15(木) 22:24:58 ID:mQhlK7fM0
>>894 そうじゃ、精進あるのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>896 真摯に求めればいずれ会うじゃろう。
 それまで自らの心に己を求めるのじゃ。
 そうすれば指導しても速やかに悟りに至れるのじゃ。

>>897 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

899避難民のマジレスさん:2015/01/17(土) 18:51:47 ID:Hn2OuLzE0
静止したものについて考えていたら「五大に響きあり」と空海の言葉が浮かびました。
静止したそれそのものが振動しているのが五蘊、世界という理解でよろしいでしょうか?

ラーマクリシュナも同じ事を言っているようです。
「ブラフマンとシャクティ、真実在とこの世界は、火と燃える力のようなもの、蛇とうねる動きのようなもの、
どちらかだけであることはできない」

900鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/17(土) 22:30:21 ID:HElrJPz60
>>899 そのような事もただ観念であるのみなのじゃ。
  思考や観念を追い続ければいつまでもきりがなく迷い続けるのみなのじゃ。

 今ここにあり、観察できることだけを観察するのじゃ。
 今ここに心身の働きはあり、確実に観察できるじゃろう。
 それを観察し続けるのじゃ。

901避難民のマジレスさん:2015/01/17(土) 23:32:08 ID:LC3de7YgO
鬼和尚、こんばんは。
今、↓こんな感じです。
サマディや観照などの何等かの認識の変容(?)らしきものは未だ未体験ですが、
1)無思考状態の深まりが実感される。
2)その無思考状態を観察している意識も希薄である
3)入眠状態による意識の希薄化ではないという自覚はある。(入眠に近い感じではある)
4)無思考そのものには、なんの感情も伴わない。

特に(2)は、集中を介さずにいきなり無思考をイメージすることにより、最近得た実感である。

こんな感じですヽ(・(∀)・)ノ

902鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/18(日) 22:24:11 ID:HElrJPz60
>>901 かなり進歩したのじゃ。
 それだけ心をコントロールできれば観察によって変容を起こすことも容易じゃろう。
 ただ単に肉体をくわしく観察するだけでも肉体からの厭離が経験できるじゃろう。
 肉体のもたらす刺激に囚われず、執着することも無いからそれを原因とする苦もなくなるのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

903避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 20:32:53 ID:LC3de7YgO
>>902
鬼和尚、ありがとうございます。ヽ(・(∀)・)ノ

>観察によって変容を起こすことも容易・・・という域にはまだ到っておりません。
しかし、呼吸に集中するという意思を離れ、いきなり無思考をイメージするようにしたことにより、結果的に、「集中」することに向けられていた「意思」が希薄化し、同時に、五感とりわけこの時期体感温度などの皮膚感覚が鋭敏になり、自然と肉体の観察に向かう傾向があります。そのことによるのかもしれませんが、通常、意識の存在は明瞭に肉体を起点として感じられていますが、何かフワッと胸の辺りを中心に「意識」が肉体から浮かび上がり、少しだけ肉体の外に拡大するような感覚を感じます。
これが、鬼和尚の仰る、
>ただ単に体をくわしく観察するだけでも肉体からの厭離が経験できる
 肉体のもたらす刺激に囚われず、執着することも無いからそれを原因とする苦もなくなる

ということのあらわれでしょうか?

904鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/19(月) 21:31:00 ID:kNmK6HOM0
>>903 そのように心身の働きを観察していけばよいのじゃ。
 さらに変化していく認識に気づくじゃろう。
 肉体も心の働きも自分ではないとわかっていくのじゃ。
 さらに精進あるのみなのじゃ。

905避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 21:35:06 ID:ozF4yASU0
空の場合でも集中力の養成が必要なんでしょうか?
また空は一度体得してしまえば、後はそれを当てはめるだけにみえるので、観察より楽そうに感じます。
なぜ空よりも観察の方を主に鬼和尚は語るのでしょうか?
よろしくお願いします。

906避難民のマジレスさん:2015/01/19(月) 22:44:26 ID:LC3de7YgO
>>904
鬼和尚ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
昨年末の、マハムドラの解説を参考に、いきなり無思考をイメージして瞑想してみたところ、予想以上に容易く無思考状態に入ることができただけでなく、邪魔に感じはじめていた集中する「意思」からも解放され、一歩前進できたように思えます。
しかし、これも、集中による雑念の炙り出しと受け流しによる消去が身に付いて、無思考の具体的状態を実感できていたからこそ、マハムドラ=「空」の行が実感できたのではないかと思います。
以前、鬼和尚ブログの「空の行」の解説を読んだ時は、ちんぷんかんぷんでした。

>さらに変化していく認識に気づく
 ことができるように
 精進するであります。

907鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/20(火) 22:04:10 ID:fy0MPBXU0
>>905 空と観想するにもやはり集中力が必要なのじゃ。
 雑念に囚われていては修行も進まないのじゃ。

 空と観想するにしてもやはり自分とは何か、知らなくてはならんのじゃ。
 それを知るにはやはり観察によるしかないのじゃ。
 結局は何をしても観察によることになるのじゃ。
 それ故に観察が一番の近道なのじゃ。

>>906 良かったのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

908避難民のマジレスさん:2015/01/20(火) 23:42:14 ID:T2T86c5w0
>>907
ありがとうございます。
引き続き、瞑想がんばりたいと思います。
ですが、結局観察が必要なら、なぜ空などというものがあるのでしょうか?

909そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/21(水) 18:50:23 ID:L0pOmFww0
鬼和尚
最近は仕事がどうでもよくなってきました。
どうでもいいと言っても、手を抜くとかやりたくないとか辞めたいとか、そういうことではありません。
仕事とそれらとの結びつきが薄れてきました。
薄れてきたことによって、今まではそれらと結びついていたことがわかりました。

また、以前は仕事のアイデアを出す時、考えに考えを重ねて捻り出す感じでした。
家に帰っても、あの仕事はどうしようかとよく考えていました。
しかし今は、課題と条件を頭に入れると、考えなくても必要な時に降ったように湧いてくるようになりました。

910避難民のマジレスさん:2015/01/21(水) 20:50:42 ID:VyqQ..rM0
仕事の手があいたり、座ってちょっと静かになるとすぐに沈黙に引き込まれ没入するようになりました。
その間は体中が心地よさでいっぱいです。
何かをしだすと薄まっていきます。
一日中そんな感じ。
こういうものですか?

911鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/21(水) 21:51:30 ID:UEdcjEGI0
>>908 それは観察も拒むような苦や煩悩が人にはあったりするからなのじゃ。
 あまりにも苦しい記憶は観察する事も恐れてしまい、観れないのじゃ。
 そのようなものには空と観想して恐れも消すことが近道となるのじゃ。
 修行の妨げとなる煩悩を消すために体質や性質によっては空を使うほうが良いことも有るのじゃ。
 そのために創られたのじゃ。

>>909 良かったのじゃ。
 執着が無くなり、智恵の働かせ方が判ってきたのじゃ。
 智恵は必死に考えるより、心を無にしたときのほうが良く働くものじゃ。
 定による智恵がわかってきたのじゃ。

>>910 そのようなものじゃ。
 快が生じているのじゃ。
 瞑想を楽しむことが出来れば進歩も早いのじゃ。

912そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/21(水) 23:43:08 ID:hw5NmCB20
>>911
ありがとうございました。

913避難民のマジレスさん:2015/01/22(木) 18:49:06 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚、自分と他人に対する執着が強過ぎるので四念処をやってみたいと思いました
四念処は非常に重要な修行法なのに現代ではあまり行われていないのは何故でしょうか?

914鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/22(木) 21:28:28 ID:VnYNsnjs0
>>912 どういたしまして、またおいでなさい。

>>913 本当の観察がよくわかっておらず、効果も無いからじゃろう。
 本当は身受心法についてありのままに観察する方法なのじゃ。
 そのように観察すれば悟りにも至れるのじゃ。

 あらかじめ不浄とか無常とかの結論があってそれをあてはめるのではないのじゃ。
 それならば観察ではなく、観想になってしまうのじゃ。
 何が見えてもありのままに受け入れるのが本当の観察なのじゃ。
 おぬしは真の四念処の観察すると良いのじゃ。
 そうすれば大きな効果があるじゃろう。

915避難民のマジレスさん:2015/01/22(木) 21:33:20 ID:6p4ETLTs0
鬼和尚、
テーリーガーターとテーラガーターを読んでみたのですが、三つの明知(宿命通・天眼通・漏尽通)を体得してから悟りを得られる方が多かったようです。
宿命通は前世を知る能力、漏尽通は苦を滅する能力であるというようなことを以前書かれており、それらを体得する具体的な方法についても教えて下さっていますが、天眼通についてもお教えくださいますでしょうか?

また、なぜ上記の三つの明知を経て悟りを得る人が多かったのでしょうか?

916避難民のマジレスさん:2015/01/23(金) 11:42:21 ID:SlB5RJYc0
>>914
ありがとうごさいます

917避難民のマジレスさん:2015/01/23(金) 16:40:51 ID:T2l6Rsvo0
>>911
ありがとうございます
空は観察を助けるための一種の道具みたいなもので、直接観察できるものには必要ないという解釈でよろしいでしょうか?
これからは止観の行に励みたいと思います。

918鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/23(金) 22:37:15 ID:L2e50PvU0
>>915 それは眉間などに集中していれば頭の中に映像として見えてくるものなのじゃ。
 人によっては後頭部の方から見るとか、頭の中心に集中すると見えるのじゃ。

 集中力が身に付けば、智恵も通力も身に付くからなのじゃ。
 ヨーガスートラに詳しく書いて有るのじゃ。
 集中とその結果として生じた智恵も力も自分を観察するためなのじゃ。
 そればかりに囚われれば執着になり、逆に修行の妨げになるものじゃ。
 気をつけるのじゃ。

>>916 どういたしまして、またおいでなさい。

>>917 そうじゃ、人の性質によって法も違うのじゃ。
 観察が出来るものは観察をするのが近道なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

919避難民のマジレスさん:2015/01/24(土) 08:38:37 ID:7rD9T5220
>>918
自分の観察ができるのでしたら、通力は脇道ですね。
真っ直ぐに自分の観察に励みます。
ありがとうございました。

920鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/24(土) 20:59:11 ID:K1tObT/o0
>>919 そうじゃ、囚われずに進むのじゃ。
 またおいでなさい。

921避難民のマジレスさん:2015/01/25(日) 19:19:49 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)/鬼和尚、今晩は。

悟りに急速に達する強力な修行方は何かないですかねぇ?

冬場の水ごりとか、断食に近い食事制限とかなら、チョピッと試したことあります。
多少ハードでもよいのでおすすめがありましたら、いうまでもなく自己責任で試してみたいたいので、ご教示ください。
長時間の座禅とかは有効でしょうか?

922鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/25(日) 22:32:09 ID:K1tObT/o0
>>921 長く座るのも有効じゃろう。
 一番良いのは自分の心を観ることじゃ。
 自分とは何か?
 どのような心身の働きが起こる時、最も自分を感じるのか?
 深く追求し、観察してみるのじゃ。

923避難民のマジレスさん:2015/01/26(月) 09:55:02 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)/鬼和尚、ありがとうございます。

雑念少なく、座って呼吸や皮膚感覚等を五感で観察していると、観察している意識そのものが、まさに自我だと感じ、いったんそう感じてしまうと、「観察する意識がなければ自我はないと感じるか」 と縁起の法に持ち込むのはチョピッとむずかしくなりますが、その感覚を振り払い、いきなり無思考をイメージするようにすると、観察する意識が薄らぐ気がする。

ただ、観察する意識を自我だと感じる実感を潜り抜けて(?)、五感が直接感受する感覚そのものを観察していると、無意識に放置すれば、直に具体的記憶に基づく感情や雑念に転化して行くけど、五感そのものの観察に意識的にとどまろうとしているときに感じる、「観察する意識」=記憶による照合を受ける前の感覚を観察しようとする意識は、もしかすると「自我」の意識と多少異なるものなのかなと感じたりもしますが、果たしてこの先に道は開けるのか、錯覚なのか?
こんな感じであります。

以上要するに、観察する意識=自我 と感じることを縁起の法により乗り越えることに取り組むべきか、
記憶に基づく観念(=自我)による照合を受ける前の五感を観察する意識の存在を自我の意識にあらざる「意識」として、無我の実感に連なる可能性のあるものとして追求してみるべきかという感じであります。

924鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/26(月) 22:07:09 ID:bz1AwbfM0
>>923 あくまでも自我を追求するのじゃ。
 自分と感じるものをよりくわしく確かに感じるのじゃ。
 そしてそれが何なのか見極めるのじゃ。
 それが思考だと感じるのならばそれを観察するのじゃ。
 それが記憶と感じるならばそれを観察するのじゃ。
 より詳しく確かに観ることができるほど、悟りは近づいてくるじゃろう。

925避難民のマジレスさん:2015/01/27(火) 19:57:56 ID:IJ1xbrcA0
鬼和尚、
昨晩、何を自分と認識しているのかをしつこく追及してみたところ、世界が揺れるような奇妙な感覚があり、続けていると軽い吐き気が起きました。
集中力が続かなかったためか、元に戻ってしまいましたが、これは自我の観照が近づいている吉兆と捉えて良いのでしょうか?

926避難民のマジレスさん:2015/01/27(火) 21:24:03 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚、眉間に集中する瞑想はただ集中するだけでいいのでしょうか?
それとも何か光りをイメージするなどしたほうがいいのでしょうか?

927そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/27(火) 21:31:58 ID:lk1MMNPI0
鬼和尚
日々観察を続けていますが、感情と思考と記憶について、少しばかり見えるものがありました。

初めは過去の記憶(何かの出来事。遠い昔のことでも、最近のことでも。)を思い出し、それを手のひらの上でもてあそぶようにしています。
そのうち、徐々に思考が始まっていきます。
記憶を何度かくりかえして再生しているうちに、それを元にした思考が整っていきます。
この時思考は既に、私の気付かないところで、後のことまで見通していて準備万端です。
そして、思考は他者の存在を作り上げ、私に認識させます。
他者は、人であったり、世の中全体であったりします。
その他者は私を攻撃し始めます。
攻撃といっても、悪口を言ったり、暴力を振るうわけではありません。
私が不安になることをしてくるのです。
してくるといっても、私の思考が既にそのように計画していたことです。
私は攻撃に対して怒ったり、憤りを感じたり、反撃(反論、言い訳)したり、悲観したりします。
思考が他者の存在を作ったとき、同時に私は「我」の存在を生みます。
このように、記憶を元に、無いはずの他者を作り、同時に守るべき我を作り、感情を起こし、苦につながっていきます。

上記のようなことは、期限の決められた仕事で、期限までに完成できるかどうかわからないときに、顕著に起こっていました。
いわゆるストレスです。
しかし、それが仕事を完成させるためには何の役にもたたないことも分かります。

928鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/27(火) 22:43:04 ID:bz1AwbfM0
>>925 そうかもしれん。
 自分が消える恐れによるストレスが強くて吐き気がしたのじゃろう。
 それにこりずに追求していけば自分も見えるじゃろう。
 精進在るのみなのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 03:03:58 ID:yBsj9SuA0
私達は単なる現象、反応なのですか?
例えればろうそくに付けた火のように様々な縁が組み合わさって
出来ているだけのように思えます。
火自体には決まった形もなく縁が無くなれば消えて終わります。
我々は火が自分だと思い込んでるけど本当はろうそくや空気のほうが
本来の自分、いわゆる不変な意識に近いのでしょうか?

930避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 12:17:43 ID:xQpSahzw0
>>928
世界が心によってつくり出されているということの片鱗を見た感じです。
自分が消える恐れの原因を観てみます。
また、結果はお任せして、自我の追求に励み続けます。
ありがとうございました。

931鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/28(水) 22:35:59 ID:bz1AwbfM0
>>926 それは自分のやり易い方法でよいのじゃ。
 何もせずに集中するだけが良いならそれでよいのじゃ。
 光とか神仏などをイメージしたほうが良いならばそうするとよいのじゃ。
 神仏を信じるものならばそれをイメージすることで集中力も高まるからなのじゃ。
 いろいろ試して自分にとって一番良い方法でやるのじゃ。

>>927 それもおぬしの心の中に在る条件付けの一つなのじゃろう。
 原因を観察すればそれも消えるじゃろう。
 大抵は親などから教えられたり、習慣として為されたものであるがのう。
 さらに深く観察してみるのじゃ。

>>929 自分と思っているものはそうなのじゃ。
 本当は実体がなく、記憶からの反応なのじゃ。
 それを観察して気付けば自分という観念から自由になるのじゃ。

>>930 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

932避難民のマジレスさん:2015/01/28(水) 23:23:26 ID:SlB5RJYc0
>>931
ありがとうございます

933そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/29(木) 12:31:28 ID:gTqwEa360
>>931
ありがとうございます。
おそらく、これまでに読んできた本のうち、特に熱心に読んだものの内容が反映されていたのだと思います。

ところで、仕事中でも食事中でも何をしていても一日中気持ちいいときがあるのですが、もしもそのまま死んでしまったら気持ちいいままなのでしょうか。

934素人A:2015/01/29(木) 22:23:48 ID:R04/xEPU0
鬼おしょうさん時間が無ければ永遠不滅という変らない此処路なのか
時間の中では全て永遠が無いとおもいました。諸行無常の風が吹く
時間とは何ですか?過去はすぐ死んでいくし未来はまだ生まれていない
今はいつまでもいまで過ぎる事はないし?永遠の今?

935鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/29(木) 22:28:58 ID:BOCnrZnE0
>>932 どういたしまして、またおいでなさい。

>>933 そのままではないのじゃ。
 生きている時の行いによってふさわしいところへ行くのじゃ。
 誰も自らのお粉による報いから逃れられないのじゃ。

>>934 時間とは観念に過ぎないのじゃ。
 変化していく物事を説明するために作られた観念なのじゃ。
 本来はないものじゃ。
 全ては永遠の意識なのじゃ。

936そらいろ ◆EHlCk/f57s:2015/01/29(木) 22:57:47 ID:lk1MMNPI0
>>935
ありがとうございました。

937避難民のマジレスさん:2015/01/30(金) 12:42:51 ID:W9x6FqRY0
鬼和尚、
自我の追求について、もう少し詳しくお教えください。
この追求は言葉無しで、ただただ自分と感じるものを観つづけるので良いのでしょうか?

自分と感じるものは観察の最中にも、座面の接触を感じる主体であったり、思考している主体であったり、観察している主体であったりと同時に複数存在し、それぞれが強くなったり弱くなったり、いつの間にか無くなったり存在したりしています。
私の感覚では思考が最も自分自身だと感じるのですが、思考を特に気をつけて観察するのでしょうか?
それとも、自分と感じられるものを複数同時にただ観察しつづけるのでしょうか?

938鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/01/30(金) 22:13:58 ID:Er6CYI2Y0
>>936 どういたしまして、またおいでなさい。

>>937 お釈迦様はそれらについて縁によって起こるものとして観察する事を教えているのじゃ。

 思考が起こる時に自分を感じるならば、思考が起これば自分が起こると観察するのじゃ。
 そして思考が無ければ、自分が起こらないとも観察するのじゃ。

 さらに自分という認識から感触が在ると観察し、その主体として又自分が起こると観察するのじゃ。
 自分という観念が無ければ自分の感触は無く、主体という観念も無いと観察するのじゃ。
 常に縁によって自動的に起こるものとして観察してみるのじゃ。

939龍華:2015/02/01(日) 01:40:07 ID:kl1CR23s0
倩女離魂について教えてください。
倩女は[肉体]と[魂]が別々となり其々が違う人生を過ごしたとありますが、この物語は設定がおかしい気がします。
分身の術で[倩女Aの肉体及び魂]と[倩女A´の肉体及び魂]とに分かれて其々が違う人生を過ごたと書かなければ
[本物はどちらか?]という質問が成立しないと思うのですが、どうなのでしょうか?
    
あと分身の術どうやるのか教えてください!
片方が修業して片方は遊んで暮らします

940鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/01(日) 20:53:09 ID:MwO44iSQ0
>>939 肉体と魂という区分が在ればそう思えるのじゃ。
 魂が実体と思うからのう。
 昔の人は肉体も実体と思っていたのじゃ。

 もう一人の自分の姿をイメージしていれば見えるようになるのじゃ。
 他人にも見えるようになるのじゃ。
 強い集中力があれば可能なのじゃ。

941避難民のマジレスさん:2015/02/01(日) 21:36:21 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
もし神通力によって実際に仏様の居る世界に行ってきたとして、それで仏への信が生まれて
死後は必ず善い処に生まれられるということはあるのでしょうか?

942避難民のマジレスさん:2015/02/01(日) 21:47:03 ID:SlB5RJYc0
>死後は必ず善い処に生まれられる
二度と三悪道には堕ちないに訂正させて下さい

943避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 00:02:11 ID:kjsnS1Rk0
>>931

>>929 自分と思っているものはそうなのじゃ。
 本当は実体がなく、記憶からの反応なのじゃ。
 それを観察して気付けば自分という観念から自由になるのじゃ。

お答え有り難うございます。

名称と形態→肉体 が自分ではないとわかるにはやはり悟りしかないのですか?
名称と形態にとらわれなければ二度と肉体に生まれることもないと
最近読んでいるスッタニパータに書いてありました。
スッタニパータもお釈迦様の言葉そのものと考えていいのでしょうか?

また実は我々は死への執着があるからこそ肉体に生まれるのでしょうか?

944素人A:2015/02/02(月) 10:19:36 ID:gOqWUDAs0
鬼おしょさん 日本語凄い 例えば海。生み出すつまり環境も生み出す海だす
まあ外に色々あるけど駄洒落でも馬鹿にできない我 画 環境 観今日?
でも感つまり観が悪いと目の前に身得でも見えないあさってで。掴むはッ感だ
頭に無駄な考えが残っていると感が悪くなるし

945避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 12:20:19 ID:IJ1xbrcA0
>>938 ありがとうございます。
縁によって起こるものとして観察するというのは、漫然と心の動きを観察しつづけるのではなく、観察対象の因果関係に気をつけて観察するということでしょうか?
それとも、認識の変わり目に気をつけて観察するということでしょうか?

その場で気をつけようとすると、その心の動きが生じるのですが、かまわずに観察しつづければ良いでしょうか?

946鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/02(月) 22:12:32 ID:MwO44iSQ0
>>941>>942 あるかもしれん。
 しかし人には自由意志があるから何でも自分の意志によって決められるゆえに、
 そうならないこともあるじゃろう。
 本人次第なのじゃ。

>>943 そうじゃ、悟りを得た者には、もはや肉体も己ではなく己のものでもないとわかるのじゃ。

 そう考えてよいのじゃ。

 個我があると思えば死への執着もあるじゃろう。
 自ら死ぬものも多いからのう。
 
>>944 そうかもしれん。
 しかし日本語にも囚われずに進むのじゃ。

>>945 そのように因果関係に気をつけて観察するというようなことじゃ。
 心を観察してみれば実際に縁によって起こることがわかるじゃろう。

 気をつけようとすると、心の動きが生じるというのも縁によって起こった心の働きなのじゃ。
 それも観察すると良いのじゃ。
 今ここで起こる全てを観察し続けるのじゃ。

947避難民のマジレスさん:2015/02/02(月) 22:30:58 ID:SlB5RJYc0
>>946
ありがとうございます

948避難民のマジレスさん:2015/02/03(火) 20:54:43 ID:zymYeoR20
>>946 ありがとうございます。
因果関係に気をつけて観察をしてみました。
確かに縁によって次々と心の働きが起こるのは観えるのですが、どうしても思考が起こるとそれに巻き込まれがちです。
また、2つ3つの因果関係はなんとか観察しながら把握できるのですが、それ以上になると言葉で追認しないと何がどうなっているのか分からなくなってしまいます。
もしかして、縁によって次々に自動的に起こるのを観れば良く、起こったことは覚えていなくとも良いのでしょうか?
以上のことも含めまして、何かアドバイスをいただけますとありがたいです。

949龍華:2015/02/03(火) 21:02:57 ID:kl1CR23s0
>>940
見えるようになる、 とは見えるだけの虚像なのでしょうか
お互いにどつき合ったり囲碁将棋を打ったりできないのですか

950鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/03(火) 23:06:23 ID:FOt16PP20
>>947 どういたしまして、またおいでなさい。

>>948 数息観などの集中力を養う瞑想をして、雑念を流せるようになれば思考にも巻き込まれないようになるじゃろう。
 それまで精進なのじゃ。

 それを記憶しておく必要は無いのじゃ。
 知識を集めるためではないからのう。
 次々に起こっては消えるその縁起を観察していけばよいのじゃ。
 その観察が、観察対象を厭離させる気づきをもたらすのじゃ。

>>949 おぬしには見えるようになり、上達すれば他人にも見えるようになるのじゃ。
 おぬしが考えることは何でも出来るようになるのじゃ。
 それも含めて現世は全て観念に過ぎないのであるからのう。
 それらに余り囚われないほうが良いのじゃ。

951避難民のマジレスさん:2015/02/04(水) 21:59:33 ID:TkQxuahg0
和尚、こんにちは。

和尚は氣の存在についてたまに触れていますが、
相手の氣によってこちら側が影響を受けることはあるとお考えでしょうか。

相手の性格をあらかじめ知っている場合ではなく、
例えば、内心が嫉妬や妬みで渦巻いている人に触れられたり、一緒にいたりしていた場合などにです。

仙道とかだと邪気をもらうなどと言ったりしますが、
実際に目に見えないエネルギーの移動のようなものはあるのでしょうか。

952避難民のマジレスさん:2015/02/04(水) 22:13:24 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
毎日仏壇で手を合わせていますが仏への信が足りません
どうすればより仏を信じれるようになりますか?
仏の持つ偉大な徳を信じるとかすればいいでしょうか?

953素人A:2015/02/05(木) 08:42:40 ID:gOqWUDAs0
この世うもあの世うも観念だと明らめて現実も幻実も拘らずに
仲善き道を歩けば色即是空は空即是色になる。みんな真っ直ぐ
歩いている?なのに真っ直ぐが解らないと.でも真っ直ぐは真っ直ぐ
歩いている野鴨

954避難民のマジレスさん:2015/02/05(木) 19:21:10 ID:zymYeoR20
>>950 ありがとうございます。
数息観で雑念を流すことはできるのですが、雑念を見守ろうとすると、3回に1回くらいは巻き込まれてしまうようです。
さらに集中の瞑想にも精進します。

縁起の観察で、複数の心の動きを同時に観察している場合には、それぞれの縁起を観るようにすれば良いのでしょうか?
例えば、耳から聞こえた音に対して生じる思考と、喉に生じた違和感から生じる思考がそれぞれあったとします。
その場合、片方に集中したりせずに2通りの縁起、すなわち耳識→思考と、喉の感覚→思考とを観察していけば良いのですか?

955龍華:2015/02/05(木) 20:09:06 ID:kl1CR23s0
>>950
ありがとうございました。
あまり囚われてはいないのですが、少しは囚われたい
お手頃な釣り餌とか手近な目標みたいなのが何かない物かと。
分身の術はちょっと遠すぎた梯ですが。

956避難民のマジレスさん:2015/02/05(木) 20:57:47 ID:SlB5RJYc0
鬼和尚
私は死後善い処に生まれたいので仏への疑いを完全に無くしたいのですが
疑いなく信じることは可能なのでしょうか?

957鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/05(木) 22:56:44 ID:Dnw.DIk60
>>951 気に対して非常に敏感ならば影響を受けることも在るじゃろう。
 大抵の者はそこまで敏感ではないから影響は受けないのじゃ。
 敏感なものはラジオの電波が受信できるようなものじゃ。
 感じなければ影響はないのじゃ。

>>952 今の信で十分なのじゃ。
 大事なのは善事や修行を実践することなのじゃ。
 それが信仰も生むのじゃ。
 信じるとは未だ真実かどうかわからないことを真実とみなすことなのじゃ。
 実践して真実を体現すればもはや信じる事よりも確実な効果が有るのじゃ。

>>953 自らの実践によって確かめたことを事実として進んでいくが良いのじゃ。
 それがまっすぐな道なのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

958鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/05(木) 23:02:12 ID:Dnw.DIk60
>>954 そうじゃ、心の働きが二つに分かれれば、それをありのままに観察すればよいのじゃ。
 それも集中力があれば出来ることなのじゃ。
 心に現れたことは何であろうとありのままに観るのが観察なのじゃ。
 そけが出来れば観察対象の心は厭離され、それが己ではなく、己のものでもないと気付くことも出来るのじゃ。

>>955 いろいろ試してみると良いのじゃ。
 失敗しても何かがわかるじゃろう。
 実践が全てなのじゃ。

>>956 疑ってよいのじゃ。
 信じていても人を苦しませる悪いことをしていれば悪いところにいくじゃろう。
 信じなくとも人を喜ばせる善い事をすれば善い所にいくじゃろう。
 人は行いによってふさわしい所に行くのじゃ。

959避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 01:06:18 ID:SlB5RJYc0
>>958
2つの回答ありがとうございます

960避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 07:51:06 ID:7iY4VAKQ0
鬼和尚は何か楽しいことありますか。悟るとみんな楽しめますか。

961避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 09:42:48 ID:TkQxuahg0
>>957
和尚、お返事ありがとうございます。

>感じなければ影響はないのじゃ。

なるほど。
ということは、知識があるために生じる思いこみ要素が強そうですね。
あまり気にしないようにします。
ありがとうございました。

引き続き実践に励みます。

962避難民のマジレスさん:2015/02/06(金) 12:10:19 ID:.h3KCDlo0
>>958 ありがとうございます。
縁起の観察をしているのですが、確かに心の動きは自動的に起こっているようです。
自我の生起の瞬間はまだ捉えられていないのですが、常に思考、感情、感覚の後に現れます。自我自体は何もしていないようです。
また、悟りを得るのを阻んでいることとして、実際に観察したことに対してさえ、それが本当かどうかを疑っているというのもあるのではないかと気づきました。

この疑いの心は苦滅によって厭離して良いと思うのですが、できれば手放したくないという気持ちです。今すぐに手放しても良いのでしょうか?

また、もし全てが縁により自動的に起こるのでしたら、何かを選択する時にも、選択をすることとしないことは、(自分の感覚に反して)自動的に行なわれるのでしょうか?
例えば目の前にサイコロがあったとして、それを振るか振らないかは主体なく決まるのではないかと思うのですが、それは、どうやって決まるのでしょうか?
やはり縁なのですか?

963鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/06(金) 22:51:27 ID:Dnw.DIk60
>>959 どういたしまして、またおいでなさい。

>>960 そうじゃ、苦が無ければ全て楽しいのじゃ。
 瞑想も楽しいのじゃ。
 世間の欲に心をすり減らすよりも、むしろ瞑想を楽しんだらよいのじゃ。
 健康にも成れるというのじゃ。

>>961 そうじゃ、まさに気のせいなのじゃ。
 気にしなければ悪影響もないのじゃ。
 
>>962 それに気付いた事で、もうその疑いの効力は無くなりつつあるじゃろう。
 それが気付くことの力なのじゃ。
 手放そうと思うことも無く、ただ観察し続けるのじゃ。
 そうすればより深く自分を知ることが出来るのじゃ。
 観察に身を委ねる事で、観察そのものになるのじゃ。

 条件づけられた習慣によって決まるのじゃ。
 それを縁起として観察する事も出来るのじゃ。
 例えばその行為が賭け事ならば、賭け事を悪いものとして教えられた者は振らないようにするじゃろう。
 そのような条件付けられた習慣によって、大抵の者の意志は決まるのじゃ。

964避難民のマジレスさん:2015/02/07(土) 10:36:51 ID:OdMybscU0
>>963
観察そのものになるのですね。
また、習慣と選択に関してお教えくださりありがとうございます。
これ以上のことは自分で確かめてみます。
ありがとうございました。

965善慧:2015/02/07(土) 20:18:59 ID:G4JyaHHU0
鬼和尚さま、この世界には本当は誰もいないのでしょうか?
かなり混乱しています。怖くなったというのが本心のような気がします。
アドバイスいただけるとうれしいです。

966鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/07(土) 21:08:58 ID:Dnw.DIk60
>>964 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>965 いないのじゃ。
 しかしそれほど気にしなくてよいのじゃ。他人も自分としてあるともいえるのじゃ。
 生活には何の支障もないからのう。
 あくまでも真実を求める修行者以外には意味はないのじゃ。
 
 ただ自分の観察したことを事実として受け止めればよいのじゃ。
 自分が何をしたいのか、自分の心を観察して決めればよいのじゃ。

967避難民のマジレスさん:2015/02/08(日) 09:09:49 ID:ToM741HY0
鬼和尚は悟った時の無とこの有の世界を自由に行き来できるのですか?
無の体験(悟り)は一度で良い。とある悟った人が言っていました。
一度すればもうしなくてよいのですか?

968避難民のマジレスさん:2015/02/08(日) 14:52:29 ID:7y8eTFSM0
動物を食べるという行為はどう思われますか?
私は以前生き物を殺してまで食べるのがどうも嫌で一時期
菜食になっていた時期も長かったです。
ここ何年かはあまり気にせず食べたいものを食べていたのですが
和尚様のブログやここやダンマパダを読んでいるうちに又
自分の食のために殺生するのはどうかなって考えが起こりました。
「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」とダンマパダに書いてありますが
生き物を食べることについてのご意見をお聞かせくださいませ。
和尚様は以前生きるために食べるのは仕方がないが利益や欲のための殺生は
よろしくはないと書いてあったのは覚えていますが。

969善慧:2015/02/08(日) 20:09:10 ID:aP2RwSrA0
真実は峻厳ですが、かぎりないやさしさも感じます。
心の中が涙でいっぱいでまだ前がよく見えませんが、
改めて修行の大切さを知ることができました。
鬼和尚さま、本当にありがとうございます。

970鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/08(日) 23:24:34 ID:M2rBv3mo0
>>967 有も無も無いのじゃ。
 その世界も無いのじゃ。
 ただ自分が在ると思っていたからさまざまな謬見があったと気付くだけなのじゃ。
 一度気付けばもはや二度と妄想には陥らないのじゃ。

>>968 それに囚われないのが一番よいのじゃ。
 食べないですむならば食べなければよいのじゃ。
 人に薦められたら食べてもよいのじゃ。
 食べ物に囚われるより、自らの心を観ることが大事なのじゃ。

>>969 そうじゃ、精進在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

971避難民のマジレスさん:2015/02/09(月) 14:32:53 ID:KUaEudG20
>>946のお答えと
>>970

お答え有り難うございました
スッタニパータは最近時間あるごとに読んでいます。

食にかぎらず何事にもとらわれずに心を観察していこうと思います。
人に進められたら頂きます。与えられたものはありがたくいただく ですね。

972鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/09(月) 21:46:33 ID:Dnw.DIk60
>>971 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

973避難民のマジレスさん:2015/02/09(月) 23:56:10 ID:aNxujPnI0
瞑想をしよう、集中しよう、とした時はあまりうまくいかないです。
何かやっていて眠くなってきたら、すかさず寝ないように瞑想すると、
うまくいくことが多いです。
これは集中ではないのでだめですか?
また、数息観が退屈で続かないので、音楽(バッハ)をかけてやっているのですが
だめですか?

974避難民のマジレスさん:2015/02/10(火) 09:14:33 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

悟った人は冬の寒い朝とかに布団から出るのが億劫になったりしないのでしょうか。
それとも、そういう思考は生じるものの、ただ生じているだけという感じなのでしょうか。

最近また寒くなったせいか、布団の温もりに対する執着がすごいです。

975鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/10(火) 21:01:45 ID:YQCrrY8.0
>>973 それでよいのじゃ。
 何でもあまり力を入れすぎるより、肩の力を抜いたほうがうまくいくのじゃ。
 力を抜いていても呼吸などに集中しているならばよいのじゃ。

 音楽をかけてもよいのじゃ。
 いずれ静かなほうがよくなったら消してもよいのじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

>>974 ならないのじゃ。
 熱いとか寒いとかも気にならないのじゃ。

 呼吸法とかをやるとよかろう。
 体が温まるのじゃ。

976避難民のマジレスさん:2015/02/12(木) 00:12:45 ID:FqjD2ybs0
>>975

>熱いとか寒いとかも気にならないのじゃ。

すごい境地ですね。
お返事ありがとうございました。

引き続き実践に励みます。

977避難民のマジレスさん:2015/02/12(木) 15:04:14 ID:BwDSqr2o0
鬼和尚、
ダンマパダ 295の解説をお願いします。

295 (「妄愛」という)母と(「われありという慢心」である)父とをほろぼし、(永久に存在するという見解と滅びて無くなるという見解という)二人の、学問を誇るバラモン王をほろぼし、第五には(「疑い」という)虎をほろぼして、バラモンは汚れなしにおもむく。

978鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/12(木) 21:31:22 ID:x2oWNnO20
>>976 どういたしまして、またおいでなさい。

>>977 それらは世間的な常識による価値観を滅ぼすために言われたのじゃ。
 愛着と我が在るという観念は世間の常識の根本になっているものじゃ。
 それはあたかも人の根本である父と母の存在のようなものじゃ。

 愛する事はあらゆる世間の法で奨励され、個我が在るという観念から一切の社会が生まれるのじゃ。
 それらは真実を求める修行者には生涯であるから滅ぼして進まなければならんのじゃ。
 
 そしてこの世が永遠に続くとか永遠ではないとかの観念による無用な論議をなくすのじゃ。
 いかなる観念も妄想でしかない故に、そのような観念を持つことは生涯でしかないのじゃ。
 
 さらに修行の道への疑いを無くせば、日々修行に励むことが出来るのじゃ。
 そのように世間の常識や観念の論議や疑いなどの五つの障碍を越えて修行に励むのじゃ。

979避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 10:29:51 ID:oPkJVoYw0
↑×生涯
  ○障害

980避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 11:05:38 ID:L0gmLFpo0
スーパーのうずらの卵からコンスタントにうずらが孵るという話を聞き、うずらを飼ってみたくなったのですが
糞のしつけができないために衛生を保つため頻繁に床に敷いた砂を洗う(具体的にどういった作業かも分かりません)必要があると知りました
どうしたらいいのでしょうか

981避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 17:52:28 ID:.h3KCDlo0
>>978
険しい道ですが、進むにつれてこれら五つの障害が弱まっていることも自覚できます。
さらに励みます。
ありがとうございました。

982sage:2015/02/13(金) 18:26:59 ID:Raj5VtbI0
鬼和尚
私はニートで毎日することも、したいこともありません。
瞑想も計一時間くらいしかできません。
誰にも合わず何もしないでただ居ると妄想をしだして気が狂ってきてしまいます。
私は何をすればよいでしょうか。何をすることが健全でしょうか。

983避難民のマジレスさん:2015/02/13(金) 20:47:14 ID:aNxujPnI0
>>975
ありがとうございます。
いまの感じで問題ないみたいなのでこのまま精進します。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/13(金) 21:10:23 ID:x2oWNnO20
>>979 そうじゃ、間違えたのじゃ。
 障害なのじゃ。
 ご苦労さんなのじゃ。

>>980 猫とか犬用の砂で交換したらよいかも知れん。
 新聞紙とかを細かく切ったのでもよいかも知れん。
 外で飼うとよいかもしれん。
 いろいろ調べて試してみるのじゃ。

>>981 そうじゃ、精進在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

>>982 一時間も瞑想をするとはたいしたものじゃ。
 旅に出るとよかろう。

 あるいは体を良くするとよかろう。
 健康になれば意欲も出るものじゃ。
 西式健康法でもやるとよかろう。
 さらに肉体を鍛えるのもよいのじゃ。
 心身を鍛えて意欲を引き出すのじゃ。
 いろいろ試してみるのじゃ。

985鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/13(金) 21:11:05 ID:x2oWNnO20
>>983 そうじゃ、実践在るのみじゃ。
 またおいでなさい。

986避難民のマジレスさん:2015/02/14(土) 11:39:30 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。

上記の漢字間違いについてですが、
和尚のような人でも間違うことがあるということは、
サマディを得られるような集中力を持っている人でも間違うことはあるということですよね。

私は仕事上、数値的なミスがあまり許されない環境にいるせいか、
間違えてはいけないという観念から強迫神経症のようになり、何度も同じことを確認してしまいます。
仕事だけならいいのですが、家のカギや水道の蛇口などもやはり確認してしまいます。

無意識でやっているならまだよいのですが、
自分でバカなことやってるなーと気づいていながらも確認してしまう時があります。
これもまた習慣によるものだということはわかるのですが、
なにか抜け出す方法のようなものはないでしょうか。
よろしければご教授ください。

987鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/14(土) 21:15:59 ID:x2oWNnO20
>>986 そうじゃ、お釈迦様でも間違えたりするのじゃ。
 
 それは特に気にしなくてよいのじゃ。
 確認するのはよいことじゃ。
 気にすることを気にしてはいかんのじゃ。

 何度も確認しなければ気がすまないならば、一度目に指差し確認とかをするとよかろう。
 自分の動作で確認すると、記憶が確かになって二度も三度もしなくてよいとわかるのじゃ。
 声に出して確認するのもよいのじゃ。
 なれれば小さな動作や声でよくなるのじゃ。
 いろいろためしてみるのじゃ。

988避難民のマジレスさん:2015/02/14(土) 23:00:30 ID:FqjD2ybs0
>>987

お返事ありがとうございます。

>確認するのはよいことじゃ。
>気にすることを気にしてはいかんのじゃ。

確かに、確認している時でも本当に確認している訳ではなく、
確認しているという行為そのものを気にしているだけでした。

確認するのは良いことと聞き、
ちょっと試しに「これは良いことなんだから何回も確認してやろう」と思って
水道の蛇口を閉めてみたのですが、不思議なことに一回で終わってしまいました。

たぶんですが、嫌気を覚えつつ行為に及んだ場合、
行為そのものよりも嫌だという瞋りの心の方にメモリが割かれてしまうのかと思いました。
これからは良いことだと思いながら確認するようにしてみます。

しかし意識のかけ方ひとつでここまで楽になるとは驚きました。
もちろんまだ完治は遠いでしょうが、
他にもアドバイスしてくださった五感を使った方法など、いろいろ試してみたいと思います。

ありがとうございました。
引き続き実践に励みます。

989sage:2015/02/15(日) 18:06:38 ID:Raj5VtbI0
鬼和尚
ラジニーシが言っている「古典的音楽」とはバッハとかモーツァルトの音楽じゃなくて、
風や水の音や動物の鳴き声とかの事ですか。

瞑想するとき、しばしば人為の音楽が脳内再生されて邪魔をするんですが、
音楽を聴くのはやめたほうがいいでしょうか。

音楽家と瞑想家を両立することは無理なんでしょうか。

990鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/15(日) 21:09:30 ID:x2oWNnO20
>>988 良かったのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。

>>989 それぞれの民族に古くから伝わる音楽なのじゃ。
 それらはもともと神にささげる音楽であった故に、人を神聖な心境に導くのじゃ。

 それでよいのじゃ。
 その音に身を任せるのじゃ。
 音と一つになるのじゃ。

 音楽によって深い瞑想に入ることは容易になるのじゃ。
 オショーも薦めているのじゃ。
 音楽と一つになる道を探すのじゃ。

991避難民のマジレスさん:2015/02/16(月) 17:53:42 ID:.F64Ot560
炭水化物をしばらく絶ってケトン体とやらを脳の直接の養分にできる状態になると
いわゆるパラグラフ的でない古めかしい文章が良く理解できるようになったりと思考に(良い?)変化があるようです
現代人は飽食なのでなかなかなりませんが潜在的にそちら方面の能力が衰えたりしてしまわないのでしょうか
和尚様が普通に出されたものを食べよとおっしゃる心には何がありますか?

992鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/16(月) 21:38:29 ID:x2oWNnO20
>>991 そのように衰える機能も在るじゃろう。
 しかし環境も次々に変わる故に、囚われる必要も無いのじゃ。

 この肉体が在るうちに自分を観る修行に専念することこそ重要なのじゃ。
 食べ物が何であろうと日々の修行で悟りに必要な集中力と観察力は身に付くものじゃ。
 囚われずに進むのじゃ。

993避難民のマジレスさん:2015/02/16(月) 21:52:43 ID:.F64Ot560
炭水化物はやはり新しく発達した大脳に必要らしいので摂りたいのですがケトン体を使う頭脳も活性化したいのですがどうしたらいいでしょうか
そういえば1日程度の断食を細かく繰り返す人もいますが体に悪影響はないでしょうか
ココナッツオイルを摂ると勝手にケトン体とやらになって目的を達成できそうですが体に悪いと昔言われていた成分なので怖いです

994鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/17(火) 20:59:02 ID:UpGXeInk0
>>993 脳には糖分を与えたらよいのじゃ。
 炭水化物だけでよいのじゃ。

 わしも一日断食をたびたびしてみるが悪くは無いのじゃ。
 健康になるのじゃ。

 一度試してみたらよいのじゃ。
 悪かったらやめたらよいのじゃ。

995避難民のマジレスさん:2015/02/18(水) 08:32:39 ID:FqjD2ybs0
和尚、こんにちは。
気分の浮き沈みについて教えてください。

何かの物事に対して喜んだり落ちこんだりすることがあります。
というよりも、日々これの変動の中で生きているようなものです。

いま喜んでるなーとか、いま落ちこんでるなーとかいうのは
その都度その都度で気がついたりするのですが、
喜びや落ちこみという感情(反応?)がなくなるわけではありません。

これら反応は瞑想やサティなどをやっていると、やがてはなくなっていくものなのでしょうか。
また、普段どのような心持ちでいればよいか教えていただけませんか。

996避難民のマジレスさん:2015/02/18(水) 14:31:17 ID:ZJWwXXrc0
鬼和尚さま
肉体を持たない意識体、高次元の存在というものはいるのでしょうか?
そういったものはどこまで自分の脳内妄想かわからないので気にしないできましたが、
覚者の本でもそういうことに関しての記述をたまに見かけます。

意外なところでテーラワーダ仏教の本でもそういうことが書かれてますが、
どうなのでしょう。

そういったものは自分の心の生み出した妄想で気にするなという話と、
実際にそういう存在、領域があるのだという話がありますが、
鬼和尚さまはどういう立場でしょうか?

鬼和尚さまはそういった存在が見えたり交流したことはありますか?

997鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/18(水) 21:43:59 ID:UpGXeInk0
>>995 それらは心の中を深く観察して原因まで気付けばなくなっていくものじゃ。
 慣れれば日常でも滅することが出来るようになるじゃろう。

 そして瞑想が深くなればそのような起伏も少なくなっていくものじゃ。
 それが平常心なのじゃ。
 驚くようなことがあっても直ぐに平静になるのじゃ。
 何があっても過ぎ行くものとして観察して過ごすのじゃ。
 やがて囚われなくなるじゃろう。
 なにものにも囚われなければ心も乱れず、修行も進むのじゃ。

>>996 そのようなものはあるが、この娑婆世界とは無関係なのじゃ。
 おぬしが蟻や細菌の世界に無関係であるようにのう。
 それを知識で知っても生涯かかわりあうことは無いのじゃ。
 そのようなものは見えず、交流することも無いのじゃ。

 この世に居るものは自らの苦を滅するために修行すべきなのじゃ。

998996:2015/02/19(木) 00:56:49 ID:i.XQKOMM0
>>997
そうなのですか。
この世界に生まれてきたものはこの世界での修行をすべきとのお言葉に受け取りました。
ありがとうございました。

999素人A:2015/02/19(木) 07:57:18 ID:Ft/Zr72A0
>>966 鬼さんそうかも知れないね たとえば将棋で強い人し将棋で負かされてばかり楽しくないし
弱すぎる人の相手はいやだし、自分と同じ位の人と勝負して勝ったりまけたり
が一番修行になつて歩苦のかも?自分に会った問題を少しずつ歩くのが世界いや
正解鴨

1000避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 09:16:56 ID:FqjD2ybs0
>>997

>それらは心の中を深く観察して原因まで気付けばなくなっていくものじゃ。

なるほど。激しい起伏は気づきやすいので、すぐに原因を突き止めたりはしているのですが、
普段の何となく落ちこんだりしている気分に対してまではしていませんでした。
よくよく観察していきたいと思います。

お返事ありがとうございました。
引き続き実践に励みます。

1001避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 12:24:37 ID:wH0JIS760
鬼和尚、
瞑想をしていて、以下のことに気づきました。
思考や感情や感覚は起こったり消えたりするのですが、それらが静まるといつも、それら全てを観ている認識があります。
その認識は寝起きにも感じられるのですが、これが阿頼耶識なのですよね。

それで質問なのですが、阿頼耶識もまた縁起により起こったり消えたりするのでしょうか?

また、もし阿頼耶識に同調し続けられるのならば、他の何にも巻き込まれずに観察できるので、自我の起こりを観るのに有利なのではないかと思います。
サマーディの状態から自我の起こりを観た人は多いそうですが、阿頼耶識から自我を観るのとどちらが易しい道でしょうか?
それとも自我が忘れられているかどうかの違いだけで、結局起こることは同じですか?

1002避難民のマジレスさん:2015/02/19(木) 19:01:49 ID:.F64Ot560
http://world-fusigi.net/archives/7807516.html
極限まで集中力が高まると〜 と書いてありますが、仏教で鍛える集中力と同じですか?

1003鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/19(木) 20:34:13 ID:vSU0SxZE0
>>998 そうじゃ、この世で精進在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>999 そうじゃ、自分の道を行くしかないのじゃ。
 実践在るのみなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>1000 そうじゃ、観察力が上がればそれも可能なのじゃ。
 日々の精進で出来ないことも出来るようになるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>1001 そうじゃ、観ているのが阿頼耶識なのじゃ。
 それもまた記憶への依存から起きている、縁起によるものなのじゃ。
 
 それは人によるのじゃ。
 サマーディが向いてるものも居れば阿頼耶識から見るのがよいものも居るじゃろう。
 自分にあった道を行くのがよいのじゃ。

>>1002 そうじゃ、同じなのじゃ。
 集中力が強くなれば瞬時に起こることもゆっくりに観えるのじゃ。
 それによって素早い認識の働きも観察できるようになるのじゃ。

1004避難民のマジレスさん:2015/02/20(金) 15:45:04 ID:.F64Ot560
http://martin310.exblog.jp/20010391
これらの記述(水を飲まずに汗をかく)は真実でしょうか?

1005避難民のマジレスさん:2015/02/20(金) 16:07:54 ID:wH0JIS760
>>1003
今のところ自由にはサマーディに入れないので、同調するのが比較的容易な、阿頼耶識から見るほうを進んでみようと思います。
ありがとうございました。

1006鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2015/02/20(金) 21:00:50 ID:vSU0SxZE0
>>1004 本当ならもっと話題になっているじゃろう。
 学者も調べるじゃろう。
 食べない人も水は飲むというのじゃ。
 飲まない水が体から出てくるとはおかしなことじゃ。

>>1005 そうじゃ、自分の道を行くとよいのじゃ。
 またおいでなさい。

1007偽和尚★:2015/02/20(金) 23:13:28 ID:???0
こちらはストップします。

次スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part5
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1424441537/


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