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鬼和尚に聞いてみるスレ part4
690
:
避難民のマジレスさん
:2014/11/26(水) 05:40:17 ID:LC3de7YgO
>>688
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
>その意識を前面に立たせないでも良い
>瞑想中に使用するだけで良い
「その意識」で、客観的に自我を観察できてる時、あと一歩で無我に到達できるのではないかと感じてしまいます。
無我を知るためには、自我が「生じる」瞬間を捉え、観察し、観照を起こすことが必要であり、観察されるもの=自我は、観察者=自分ではないと自覚できる…と鬼和尚の教えを理解しておりますが、これでよいでしょうか?
良かったとして、マナシキで、分別し客観的に自我を見つめることは、自我の生じる瞬間の観察ではなく、既に生じてる自我を単に客観視しているだけですが、この客観視できる状況を追求することによる、無我の体得は不可能でしょうか?
と言うのは、マナシキで自我を客観視できるのは、瞑想が深まりつつある時等に突然わき起こる雑念の観察の時に限られてる気がするのです。
思考実験的に、雑念=自我を爼上にのせ観察しても、通常の意識での観察と区別がつきません。
自我のマナシキによる客観視の常態化=無我の体得ということにはならないのでしょうか?
また、>そのような観察で良い
>それを更に原因から観察するようにすれば、いらつくような感情が根本から絶たれる
>その原因からの観察を、自我に行えば自我も厭離される
これは、縁起の法であると思いますが、教えていただいたこの方法でいつも、原因から観察、順逆の観察、で解消してるのですが、なかなか根本から断たれるところまで到達しません。
確かにそのような克服すべき状態が起こると頻度は低くなって来ておりますが・・・そんな風に、徐々に進むものなのでしょうか?
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