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鬼和尚に聞いてみるスレ part4

1sage:2014/08/05(火) 19:29:50 ID:QMklRI/Y0
鬼和尚と修行者の為の交流スレです。

前スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part3
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8276/1394101534/

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3鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/06(水) 21:29:21 ID:So.nkkeg0
>>1 ご苦労さんじゃ。

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5避難民のマジレスさん:2014/08/07(木) 20:31:27 ID:S7GXV4tc0
鬼和尚様は
自由意志はあると見ていますか?ないと見ていますか?

6鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/07(木) 21:53:21 ID:jnAYB4oE0
>>5 普通の者でも自由意志は少しはあるじゃろう。
 習慣や不安や恐怖から少しだけ解放されて、真実を求めようとする心境もあるからのう。
 昆虫には殆ど無いのじゃ。
 動物にも僅かにあるのじゃ。
 己と言う謬見が無ければ全てが自由な意志になるのじゃ。

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8そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/08(金) 00:29:07 ID:QMklRI/Y0
偽和尚

文字化けして失敗したスレの削除よろしくお願いします。
お手数をおかけして申し訳ありません。

そのスレは、専ブラからスレ立したのですが、しばらく表示に反映されず、
出来なかったと思って、次にウエブブラウザからスレ立てしたら、このスレができました。
その後、文字化けしたスレができていたのがわかりました。

9偽和尚★:2014/08/08(金) 09:26:59 ID:???0
>>8
削除しました。

10避難民のマジレスさん:2014/08/08(金) 17:13:51 ID:wH0JIS760
鬼和尚、
思考、感情、意志は観察できるようになってきているのですが、自我の観察がなかなかうまくできません。

日常では自分が自分だと感じる感覚に気をつけるようにしています。
瞑想中は、阿頼耶識に同調して縁起によって起こる心の働きを観察するようにしているのですが、なかなか自分だと感じる感覚が生ずる瞬間を捉えることができません。

もし、以上の方法が間違っていたら、ご指摘ください。
方法が正しく、精進が足りないのでしたら、さらに励みます。
また、注意点などがありましたら、お教えください。

11そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/08(金) 19:44:26 ID:QMklRI/Y0
>>9
偽和尚、ありがとうございました。

12避難民のマジレスさん:2014/08/08(金) 20:40:11 ID:nLaH1F/E0
このような専用スレがあったとは……初めからこのスレに来ていればよかった……

早速質問です

理屈は正しく聞こえるけども、理屈にどれほどの信心(信仰心とも言うけど)が置けるというのか
人間、命の危機に迫ったら理屈なんぞ消し飛んで神様仏様と縋りつくのが関の山じゃないか
理屈なくては語れないこともあるので、理屈も必要ではあるだろうけど、第一位に置けるような理屈はないだろう
という内容を経まして質問です

理屈から離れなければ真理には近づけないのでしょうかね?

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14鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/08(金) 21:52:02 ID:jnAYB4oE0
>>10 その観察しようとしている者を観るのじゃ。
 観察の主体と認識され、観察する瞬間に起こるものが自我なのじゃ。
 自分の名前やイメージを思い浮かべると起こる心の働きも観るのじゃ。
 心に恐れや不安が無ければ観るのは容易なのじゃ。

>>12 理屈はものごとを解釈し、言葉にして伝えるためにあるものじゃ。
 それで真理を知ろうとするのは、石の重さを測るのに定規を使うようなものじゃ。
 苦を滅する真理とは無関係なのじゃ。
 それを伝える道具でしかないからのう。
 使いたければ使っても良いが、真理を知るとかそのような目的には使えないという事なのじゃ。

15避難民のマジレスさん:2014/08/08(金) 22:20:53 ID:nLaH1F/E0
>>14
やはり理屈は説明用ですよね。言葉にした時点でどうしても真実がそのまま伝わるとも限りませんが……
理屈を離れた方がいいというよりは、単純に理屈から真理を求めることはあまりに難しいと思っておくくらいがいいわけですね
あまり執着してしまうとかえって苦になるかもしれませんし……。どうもありがとうございます

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17避難民のマジレスさん:2014/08/09(土) 12:17:47 ID:cUE805gA0
和尚こんにちは。

和尚に限らず、観察者を観るとか、観察しようとしているそれに気づくとかいう言葉をよく聞くのですが、
これはあえて意識しなければ気づけないものなのでしょうか。

それとも瞑想で無ぅー無ぅーとやっていれば、意識しなくてもどこからともなくポンっと気づけるものなのでしょうか。

18避難民のマジレスさん:2014/08/09(土) 14:08:23 ID:78v6sTOE0
>>14 ありがとうございます。
観察しようとしている者を観ようとする場合、観察者として主体が認識される前から観るのですよね。
観察しようと言う意志が生じるためか、観察の主体が既に認識されていてしまい、主体が認識される瞬間と自我が投射される瞬間を観ることができませんでした。
もし何かコツのようなものがありましたら、お教えください。

また、自分の名前とイメージを思い浮かべるのも実践してみました。
他のものの名前を思い浮かべると、それに付随したイメージが想起されるのと同様に、自分の名前でも、自分のイメージが想起されるのが興味深かったです。
このように想起される自分のイメージが主体に投射されると、投射された対象が自分だと感じるという認識が生じるのでしょうか?
主体はあっても、自分のイメージがが投射されていない状態というのもありますか?ho

19鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/09(土) 21:25:31 ID:n9XTIs/20
>>15 そうじゃ、実践が全てなのじゃ。
 またおいでなさい。

>>17 それは方法が違うだけなのじゃ。
 観察によって気付くならば意識しなければいかんのじゃ。

 集中によって気付くならば集中していて気付く事を目指すのじゃ。
 これは偶然に頼る者であるから才能と運が無ければいつまでも悟れないのじゃ。

 集中し、観察を行う止観が近道といえるのじゃ。

>>18 それにはこつというより基本的な集中力と観察力が必要なのじゃ。
 日々の修行の積み重ねで集中力と観察力を磨くのじゃ。
 更に常日頃から自分とか、自我を意識して観ようとすれば、観易くなるじゃろう。 
 何かをしようとすると自分がしようとしていると認識が起こるのを意識しながら生活するのじゃ。

 そうじゃ、名前とイメージを互いに想起させるのが認識なのじゃ。
 言葉とイメージによる観念である自我が、主体として投射されるのじゃ。
 本来主体は無いが、言葉とイメージによる観念である自我が、身心に投射されて主体として認識されるのじゃ。
 主体もただ認識され、記憶されていただけのものなのじゃ。

20避難民のマジレスさん:2014/08/09(土) 22:27:12 ID:cUE805gA0
返答ありがとうございます。もう少しよろしいでしょうか。

>集中→観察が近道
 この集中というレベルがどの程度必要なのかがよくわかりません。
 アナパナ瞑想とかだと1段階目でジャーナに入ってから、次に観察に入るようですが、
 やはりジャーナを得るほどの集中力が必要になるということでしょうか。
 
 また「思考では決してそれに気づけない」という話も聞きます。であるなら、
 「集中して観る」+「気づこうとする意識を働かせる行為」と、
 「集中して観る」+「気づこうとする思考に飲まれる状態」との違いがよくわかりません。
 この場合でいう意識とは、感覚的なもの、という感じなのでしょうか?

>これは偶然に頼る者 
 よく「思考をとめてここに留まりなさい」とか「感覚して居続けるように、そしたら向こうから訪れてくれます」とか聞きますが、
 これらの方法は和尚の言う偶然に頼るものとなるのでしょうか?

21避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 08:23:33 ID:WL2yRwjAO
昨日から酷い歯痛に苦しんでいるのですが
眠りに入ると全く痛みが消えてしまいます。
覚醒した直後二分くらいも痛みがなく
暫くすると痛みがやってきます。
何度も繰り返し観察しましたが、やはり痛みは意識が眠りの世界に行っている時は全く痛くないです。
マハリシが土倉のようなところで座禅をしていて腿を蠍(さそり)に食われても気がつかなくて重傷を負ってたと言う話しも、瞑想中で痛みが飛んでいたのだろうし、
脚が腐っても座禅していた達磨大師の逸話もそうなのでしょう
脳科学は瞑想中は快楽ホルモンが出るから痛みが消えるのだと説明しますが、
実際はどうなのでしょう

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23避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 14:05:25 ID:F3Uh0Ekk0
>>19
さらに集中と観察、そして自己の追求につとめ励みます。
ありがとうございました。

24そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/10(日) 17:08:33 ID:qZkkA0bk0
鬼和尚
何かが起こって、それに対して自分が何かを思考したり感情(激しい怒り)がわき上がり、
それが止まらずどうしようもなくなったとき、
その思考や感情を「まぁ、いいか」と、スルーしてきたのですが、
実はそれはスルーではなくて、真実を見えなくさせるための逃避であったように思います。
囚われがなくてスルーできていたのではなくて、隠蔽していただけです。
隠蔽されたけれども、無くなったわけではないので、何か適当なきっかけでまた出てくるのだと思います。
観察によってそれがそれがわかった気がします。
己自身がまことに巧みに目をそらしていました。

ところで、観察と空の技法を組み合わせて用いてもいいのでしょうか。
観察したものを、それが空である、と見なすように。

25避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 19:25:30 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚
歯痛の苦痛を修行に変えることは出来ないでしょうか?
死の間際も何らかの病を抱え、苦痛と闘う事があると思います。
観察によって痛みと自分を切り離すようにはしていますが、痛み自体を消す事は出来ないようです。

26避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 19:53:58 ID:WL2yRwjAO
眠りに入っているときは、歯が痛くないと言うことは、痛みも意識が生み出している事になりますよね。
意識が痛みを認識すると痛いが、睡眠や瞑想とかで意識が物理次元を離れると、痛みも消える。
余りに痛くて半ば気絶することもあるのですが
この時も痛みは無い。
痛みどころか身体が認識されてない。
瞑想すると歯の痛み自体も消えると言うことになりますか?
ただ半眠状態だと日常生活が送れないのがネックと言えばネックですが

27避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 20:01:16 ID:WL2yRwjAO
ラマナマハリシは晩年腕に腫瘍が出来てそれが元で亡くなったらしいですが、彼が瞑想の達人だとすると、心理的苦痛だけでなく、物理的な痛み自体も自在に克服出来ていたと見て良いのでしょうか?
バイク乗りとかは運転に集中する余り、道路に足を擦って、膝から下がぶっ飛んで無くなっていても気が付かない事があると言う話があります
意識がそこに無いから痛みもないと言うことになる。
ガソリンスタンドに入ろうとしてコケて気が付いたら足が無かったとか

28避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 20:13:28 ID:mwxzzXgc0
鬼和尚!盤珪禅師の不生禅について何か一言二言三言オナシャス!

29鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/10(日) 21:48:26 ID:jXWtBgtA0
>>20 雑念が流せるようになり、思考が消えるぐらいであれば良いじゃろう。
 同時に思考が己ではないと気付くからのう。
 止観を両方行う利得なのじゃ。

 思考とは意識の上で働くものなのじゃ。
 気付きは観察をひたすら行っていれば自然に訪れるものなのじゃ。
 気付こうとする必要は無いのじゃ。

 ひたすら観察しつづければ悟りは必然的に訪れるのじゃ。
 人に自我を失う恐れが無ければ、確実に観察によって悟る事ができるじゃろう。
 それが偶然に因らなければならない法と違うのじゃ。

>>21>>25>>26>>27 意識が無ければ痛みも無いのじゃ。
 集中する事で痛みが消える事も判るじゃろう。
 それを修行にすることも出来るじゃろう。
 実践あるのみじゃ。

>>23 どういたしまして、またおいでなさい。
 
>>24 二つの法を混ぜてはいかんのじゃ。
 観察を行う時は観察だけをするのじゃ。
 空の法を行う時はそれだけをするのじゃ。
 そうしなければ何をしているか判らなくなるのじゃ。
 
>>28 「無」の一言じゃ。

30避難民のマジレスさん:2014/08/10(日) 21:57:53 ID:.J4fJk/A0
日本でマハリシばりの覚者が生まれたことに感謝。

しかも、修行について、覚者に直接質疑応答できるのも凄い幸運だわ。

31そらいろ ◆EHlCk/f57s:2014/08/11(月) 00:45:27 ID:qZkkA0bk0
>>29
わかりました。
ありがとうございました。

32避難民のマジレスさん:2014/08/11(月) 09:35:50 ID:cUE805gA0
>>29
和尚、ご返答ありがとうございました。
知識的には理解できるものの、体験的にだと半分も理解できていません。
ですが説明されたことを頭に置きつつ、実践に励みたいと思います。

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35鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/11(月) 20:51:52 ID:SPPnKi760
>>30 2500年ぶりのチャンスなのじゃ。
 修行に励むのじゃ。

>>31 どういたしまして、またおいでなさい。

>>32 そうじゃ、実践が気付きを起こし、理解を生むじゃろう。
 またおいでなさい。

36避難民のマジレスさん:2014/08/11(月) 23:22:21 ID:J6Qbzdrs0
マハルシが死んでから、まだ64年しか経ってないぞw

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38避難民のマジレスさん:2014/08/12(火) 16:55:44 ID:iSu4QcTM0
和尚様、他人が自分以外の人間と話す時は楽しそうにしてるのに
自分と話す時はそうではない態度の差が気になってしまいます
相手にされてない感じがして何とも言えない嫌な気分になります
この執着を無くすにはどうしたらいいですか?

39鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/12(火) 21:16:29 ID:J3Vv9BQo0
>>38 その執着がどのような原因から起こるのか探してみるのじゃ。
 それは自分が常に楽しい人と想われたいからかも知れん。
 さらに楽しい人と想われなければ他人が去ってしまうという恐れがあるからかも知れん。
 そうではないかもしれん。
 自ら原因を探し、気付く事があればそのような執着も消えるじゃろう。

40避難民のマジレスさん:2014/08/12(火) 23:15:50 ID:iSu4QcTM0
>>39
ありがとうございます
原因を探してみます

41偽和尚★:2014/08/13(水) 01:49:23 ID:???0
この頃このスレ無関係な書き込みが増えて来て邪魔だからまたお願い書いておくか。

■ お願い

このスレは鬼和尚への質問とその回答のためのスレなので、そうなっていない書き込みは
このスレではなるべくしないでください。それだけを読みたくてここを見に来た人にとっては
内容がなんであろうが邪魔でしかないからです。このスレで無関係な議論や自説の展開が
長引きそうなら避難所スレやその他2chのスレ等に早めに移動してください。

42避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 09:47:51 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん
ただ一つの意識とは、無限大を超える透明で空っぽな入れ物のようなものでしょうか。
空っぽだから全てが在る…?

43避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 09:49:43 ID:rjrCqQY20
言葉にした瞬間に別のものになってしまいますが…。

44避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 09:50:49 ID:lOje8bmY0
鬼和尚、
どのような時に自我の投射が起こるのかについて、お教えください。
縁起によって心の機能が新たに起こった後に、自我の投射は毎回起こるのでしょうか?

また、例えば思考があり、記憶から他の対象が想起され、思考の対象が変わった時にも、改めて自我の投射は起こりますか? それとも思考する自我イメージはそのままあるのでしょうか?

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47sage:2014/08/13(水) 17:54:12 ID:.N4fk.Po0
鬼和尚さま、仕事を失って、体調も崩してしまって、貯金も残りわずか。
もう絶望しか残っていません。
修行も続けてきましたが、生き方をどこかで間違ってしまったのでしょうか。
生きることにも心を観察することにも、疲れてしまいました。
色々頑張ってきましたが、自分の中には薄汚れた欲望と偽善しかありませんでした。

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49避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 20:27:39 ID:rjrCqQY20
>>47
私も過去にあなたと似たような経験をして、鬼和尚にこう言われました。
たとえ偽善でも人は何かしてもらえば喜ぶじゃろう。
わしはそれを真心とよぶじゃろう、と、私はそれからここの住人になりました…。

50避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 20:28:52 ID:rjrCqQY20
自分を大切にしてください。

51鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/13(水) 22:27:31 ID:HYti8BiM0
>>40 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>41 ご苦労さんじゃ。
 正に菩薩の偉業じゃ。

>>42>>43 そのようなものじゃ。
 思考の対象にしてはいかんがのう。
 己が無ければ全てが在るのじゃ。

>>44 当社は常に起こり、刹那に変化していくのじゃ。
 例えば思考している時の自分のイメージと悲しんだりしている時の自分のイメージは違うじゃろう。
 思考の対象が変わる時も変化するじゃろう。
 喜ばしい事を考えれば自我は肥大し、恐ろしい事を考えれば自我は小さくなったりするのが判るじゃろう。
 
>>47 それで良いのじゃ。
 欲と偽善があるとわかれば無欲と善に達する事も出来るのじゃ。
 自らを偽って無欲で善人と思う方が進歩の道は閉ざされているのじゃ。

 無欲になれなければ小欲で良いのじゃ。
 善人になれなくとも小善の者でもよいのじゃ。
 それが進歩であり、成功した人生といえるのじゃ。

 先ずは病を治すと良かろう。
 いざとなれば生活保護とかもあるのじゃ。
 焦らず肉体を治して善を積むと良かろう。
 西式健康法とか気功とかヨーガとかもやってみるとよいのじゃ。
 進歩する者には絶望は無いのじゃ。

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53避難民のマジレスさん:2014/08/13(水) 23:53:57 ID:iSu4QcTM0
和尚様、よろしくお願いします
慈悲は自我を遠ざけ心の知覚領域を増しますが智慧を増やしても同じような果が得られるのですか?
無常の智慧は自我を消すと書いてありましたが、消えた自我の分心が広がるということですか?

54避難民のマジレスさん:2014/08/14(木) 05:25:54 ID:rjrCqQY20
鬼和尚さん

>己が無ければ全てが在るのじゃ

まだまだ言葉やイメージ等に囚われて、中々前へは進めません。
それでも、ここでの回答などを参考にしながら頑張りたいと思います。
ありがとうございました。

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57避難民のマジレスさん:2014/08/14(木) 10:07:08 ID:k7IS4AHUO
>>49
偽善も真心だと思うのは君の勝手だけど
本物の真心というものは、まず自分が喜ぶことをして何より自分を大切に出来た後でなければ
他者に対しても真の善は施せないということを頭に入れておいたがいい。

58避難民のマジレスさん:2014/08/14(木) 10:35:23 ID:rjrCqQY20
その通りでしたね。
あなたも自分が喜ぶことをされているのですね…。

59避難民のマジレスさん:2014/08/14(木) 15:08:05 ID:0Sk4wvvs0
>>51 ありがとうございます。
自我の投射は常に起こり、刹那に変化して行くとのことですね。
では、常に起こる自我のどれかを全体として観られれば、それが観照となるということでしょうか?

自我の観照の機会というものがどれだけあるのかを知りたいです。

60避難民のマジレスさん:2014/08/14(木) 20:08:48 ID:ZqUzQM5w0
>>49 他の方から温かいメッセージをいただけるとは思ってもみませんでした。
とてもうれしいです。自分の不幸しか見えていないことに気付くことができました。
本当にありがとうございます。

>>51 鬼和尚さま、丁寧なアドバイスをありがとうございます。
教えて頂いた健康法も色々勉強して、また元気に働けるようになりたいです。
理想と現実の狭間で自己嫌悪に陥ってますが、これ以上のどん底はないと、
少しでも前を向いて歩もうと思います。
覚者の皆さまがどれほどの意思力で修行に打ち込んでいたか、畏敬の念しかありません。
すぐに逃げ出すことを考えてしまう自分ですが、もう少し強くありたいです。

61鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/14(木) 21:50:10 ID:QyWZckdI0
>>53 純粋な智慧を求めれば必然的に無我を目指さなければならなくなる事もあるじゃろう。
 自分本位の思考を減らさなければ、智慧は曇るからのう。
 自我があればそのような障害があり、無我になって障害がなくなれば智慧は増大するのじゃ。
 どのような道にもそのような関連があるものじゃ。

>>54 そうじゃ、頑張るのじゃ。
 またおいでなさい。

>>59 そうじゃ、一度でも観られれば全ての自我は消えるのじゃ。
 例えば鏡の中に人を見ていた者が、一度でもそれを鏡と気付けば中の人はいないとわかるようにのう。
 観念でしかない自我も一度観られれば、もはや己と見紛う事もなくなるのじゃ。
 その機会は何時でも何処にでもあるじゃろう。
 集中力観察力を増して刹那の機会を捉えるのじゃ。
 
>>60 そうじゃ、焦らずに休めば良いのじゃ。
 肉体を治せばそれが叉良い経験になるじゃろう。
 またおいでなさい。

6253:2014/08/14(木) 23:21:12 ID:wEhblEZA0
>>61
ありがとうございます

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64避難民のマジレスさん:2014/08/15(金) 17:26:18 ID:lOje8bmY0
>>61
何時でも何処にでもある、刹那に起こる自我観照の機会を捉えるため、さらに止観に励みます。
ありがとうございました。

65避難民のマジレスさん:2014/08/15(金) 20:07:23 ID:RwIoastI0
鬼和尚。感覚、思考、身体、そしてそれらを見るものを見るようにしているが、悟れない。
悟ろうともせず、悟ろうとしている自分を含めて、淡々と観察していればいいのだろうか?

66鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/15(金) 22:02:16 ID:HYc4RqWk0
>>62 どういたしまして、またおいでなさい。

>>64 そうじゃ、励むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>65 それらを観察するのはつまる所、自分と言うものを観察するためなのじゃ。
 自分とは何か?
 何が自分なのか?
 何を感じる時に自分と言うものを感じるのか?
 何を考える時、自分というものを考えているのか?
 それらを深く追求するのじゃ。
 今まで観察してきた事もその追求の助けになるじゃろう。
 恐れを乗り越えて追求し続けるならば悟りはやってくるじゃろう。

67避難民のマジレスさん:2014/08/16(土) 02:56:01 ID:LC3de7YgO
鬼和尚 こんばんは(*^(ェ)^*)/
瞑想中にわく雑念、そのぼーっと考えている主体は自我に相違ないと思いますが、雑念に気付き集中対象に戻る瞬間を観察してみると、一瞬前まで明瞭に浮かんでいたことがらが、すーっと跡形もなく消える。夢から覚める時に似て、とどめようと意識しないとどんな雑念かも思い出せなくなる。
ということは、自我とは夢のようなものなのかな…と思いました。
ところで、ケッカフザにもすっかりなれ、足の痺れが瞑想の邪魔をすることはほとんどなくなりました。股関節や足首の柔軟性が増し身体が慣れたというのは間違いないのですが、多少痺れがある時でも、それが=邪魔=苦に繋がらなくなっているように感じます。
以前、ケッカフザができるようになって、まだ痺れと悪戦苦闘しているときでしたが、2週間ほどの期間、痺れが抜歯時の麻酔をしているときのように全く感じなくなったことがありました。このての瞑想中に経験する自分にはまだ早すぎるだろうと思われる経験は、案の定しばらくの間で消えますが、あの麻酔をしているときのような感じが、厭離なのでしょうか?
今感じてる、痺れがあってもそれが邪魔にならない感じも厭離と言えるのでしょうか?

68避難民のマジレスさん:2014/08/16(土) 10:15:10 ID:YXJjgr6A0
鬼和尚、
パパジも悟りを得ているのでしょうか?
https://www.youtube.com/watch?v=-ZKOcT9rRo8
では、時々眼が動いているように見えますが。

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71鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/16(土) 21:53:38 ID:3LAmjuRw0
>>67 それも厭離と言えるじゃろう。
 感覚と感覚の認識をも厭離したのじゃ。
 感覚を認識すれば肉体はどうかしようと動くからのう。
 それをも厭離すれば動きはなくなるのじゃ。
 
>>68 悟りを得ているのじゃ。
 話す時は人に合わせて動くのじゃ。
 死人のように止まる時があるのを観察するのじゃ。
 その時、心の働きも止まっているのじゃ。
 よく観察すればわかるじゃろう。

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74避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 10:05:48 ID:LC3de7YgO
>>71
鬼和尚、ありがとうございますヽ(・(∀)・)ノ
痺れがチョピッと厭離できて、集中力がチョピッとついてきたら、今まで覚悟を決めて心の奥底まで観察し尽くしてやろうと挑んでも、表層しか見えなかったものが、瞑想している時以外の時に、突然顔をのぞかせるようになって来た気がします。
心の奥底に沈殿した不安、悲しみ、恐怖、怒り、劣等感その他もろもろを洗い出して総決算したいのですが、なかなか難しいです。

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76避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 17:05:13 ID:soTtGdp20
鬼和尚

世界は我々の本質である唯一の意識から生じている

この書き込みも、書き込んでいる主体があるから存在する。

この主体は、書き込み、質問し、眠り、走り、歩き、笑うとき、常に、先行して存在する。

それがあるから、書き込みがあるし、質問があるし、生活もある。

しかし何故、我々は、その意識と共にあることに満足できないのでしょうか?

何故、質問し、生活し、働き、考えたり、感じたりする方に意識が向い、根本意識が忘れ去られるのでしょうか?

77避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 17:18:47 ID:cOc9qv.Q0
根本意識にとどまることが、それほどまでに、素晴らしいことであれば

どうして人々は、それを忘れたかのように振舞うのでしょうか?

それに、根本意識が実体で、あらゆる現象が影であるとしたら、どうして影を実体として見る倒錯が

そもそも起こり得るのでしょうか?

全現象は本質(である唯一の意識)の影である。と賢者は口をそろえて言います。

全現象が虚構だということを受け入れます。しかし本質が現れることもありません。

「全現象は虚構だ」という思考があるだけです。

この思考を消すには、思考しない、思考しないこともしない、あるがまま、あらわれるまま、と言う態度しかないでしょう

しかし、それは、感覚や思考がとりとめも無く生じては消える世界であり、月はいまだ姿を現さないです

78避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 21:21:16 ID:1/XG4j0Q0
>>71
確かに時々、時間が止まったかのように動きが止まる時があります。
他にも覚者のいろいろな動画を観察してみます。
ありがとうございました。

79避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 21:49:44 ID:MFVM1ArA0
確かにプンジャジは、話の途中で、ふっと一時停止するよね。
一休さんの「一休み一休み」みたいに、一瞬無になって、おのずから智慧や言葉がわいてくるのを待つみたいな。

80避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 21:56:31 ID:F0lYHkKQ0
行為を真我に任せると言うことを、普通中々出来ませんが、出来る限り
プンジャジや一休さんのように、静けさを保ち、なるべく自我の活動を弱めるように
勤めるべきでしょうか?

81避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 22:00:40 ID:fb9.7IYY0
静けさを保ち、自然に行為が生じるのを待つ。

プンジャジの動画を見ると、万事においてそんな感じがします。

鬼和尚はどうでしょうか? 例えば、配達で迷ったときや、2chで書き込みをするときなど

瞑想などを通して自我の働きを無くすようにした方がよいのでしょうか?

「よい」が何を意味するかは不明でありますが、真我は選択において何を志向するのでしょうか?

82鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/17(日) 22:15:44 ID:FGqBj7Ig0
>>74 良い事じゃ。
 何度も実践すれば可能になるじゃろう。
 実践あるのみなのじゃ。

>>76>>77 認識能力が記憶に依存しているからなのじゃ。
 そうであると過去の記憶を延々と繰り返すだけで意識には気づけないのじゃ。
 過去の記憶が今の人生に成ってしまうのじゃ。
 実際に忘れているといっても良いのじゃ。
 記憶を見れば倒錯も起こるのじゃ。

>>78 そうじゃ、グルジェフも止まっているじゃろう。
 心が止まれば体も止まるのじゃ。
 いろいろ観察してみると良いのじゃ。

83鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/17(日) 22:27:50 ID:FGqBj7Ig0
>>80 日常も静かにしたほうが良いのじゃ。
 寺や修行場はそのためにあるのじゃ。
 社会では難しい事では在るがのう。

>>81 わしも時々止まるのじゃ。

 瞑想によるのが良かろう。

 真我は無の修行のための観念であるから何も志向しないのじゃ。
 ただ無によってのみ表されるだけなのじゃ。

84避難民のマジレスさん:2014/08/17(日) 23:07:23 ID:F9rXfBIY0
記憶を焼き尽くすには?

85避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 14:21:39 ID:ZneemYIM0
しかし、マハリシ、マハラジ、プンジャジ、釈迦(釈迦は諸説あるが)、鬼和尚は、恐ろしいほど、目指すところが同じですよね。
(釈迦は別として)皆、マハリシの弟子や孫弟子だから?
それとも単純に、それが「真理」だからと言うべきでしょうか?
アンチの人は、「鬼和尚は真似をしてるだけだ」みたいなことを言うでしょうが、真似にしては、修行体系に独自なものがあります。
明らかに自力で目的地まで切り開いていった人特有の自信や確信が彼らの発言からは感じられます。
マハラジ・マハリシ・プンジャジ・鬼和尚はまったく同じ地点から、修行者にアドバイスをしています。
同一人物が別の切り口から話しているようにすら見えます。
この四人のうち誰の本や発言から学んでも、同じように悟りに到達するように思われます。

86避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 16:49:17 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚は焼身自殺もやらないだけで全然苦にならないし楽しいくらいだみたいなお話でしたが、
痛みをコントロール出来るのでしょうか?
以前、苦は厭離出来るが、痛み自体はあるのじゃみたいな話しもありましたが、火に包まれたら相当痛いと思うので、ある程度、痛みも消す事が出来ないとやってられないと思うのですが
どうなのでしょうか?

87鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/18(月) 21:15:37 ID:1mQKjCa60
>>84 観察すると良かろう。
 さらに希望する記憶が焼けたとイメージすると良かろう。
 焼けたと思うじゃろう。

>>85 お釈迦様の教えなのじゃ。
 経を読めば全て書いて居るのじゃ。
 
>>86 痛みをコントロールするのは簡単なのじゃ。
 おぬしも例えば右手が傷ついたならば、反対の左手に集中したりしてみるのじゃ。
 痛みが遠ざかるじゃろう。
 更に強く集中するならば痛みもなくなるのじゃ。
 ヨーガでもやっているのじゃ。

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90避難民のマジレスさん:2014/08/18(月) 23:34:41 ID:Q4ca3lsg0
鬼和尚さん、こんにちは。
久しぶりにまた質問させてください。

最近、国際ニュースなどで戦争や内戦などの話を聞くと、とてもうんざりして重い気持ちになってしまいます。
この重い気持ちというのも、苦なのでしょうか?
もし苦であるのならば、お釈迦様の教えで、それがあった場合と、なかった場合の心の変化を観察するという方法で、この苦を滅することができるようになるのでしょうか?
でも、何度もやってみましたが、なかなか苦は消えません。

自分がその苦を観察しても、戦争の原因は消えないし、戦争がなくならないという気持ちがあるからだと思います。
それでも、この方法をさらに繰り返すことで重い気持ちを消すことができるようになると考えていいのでしょうか?
それとも、もっと別の方法や考え方がありますか?

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92避難民のマジレスさん:2014/08/19(火) 10:24:10 ID:LC3de7YgO
>>82
鬼和尚、ありがとうございます。さて、(´・(エ)・`)?
無我を知るとは、自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・と言う理解でよいのでしょうか?
悟るとそれらの簡単にはに了解できないことが実感できるのでしょうか?ん?実感ではなく、そうであるということに気づくとでもいうのでしょうか?
あるいは修行が成就したさいに全く違う悟り方をすることもあり得るのでしょうか?
善悪をとりあえず分別するのは、修行を支障なく進めるための便宜に過ぎないのでしょうか?
悪よりも善を求めるのでべきであるということは、便宜以外に導かれないのでしょうか?
ひたすら個人が苦から免れ救われるための技法を説いたのがブッタであり、そもそも幻想である外界のことには関わらないのをよしとするのでしょうか?

93鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/19(火) 21:32:36 ID:T.czC.tY0
>>90 おぬしが苦であると思えば苦なのじゃ。

 そのような外の現象などが原因ではないのじゃ。
 原因は常におぬしの心の中にあるのじゃ。
 そのように感じる原因をおぬしの心の中に探すのじゃ。
 昔戦争で悲惨な話を聞かされたからかも知れん。
 そのような原因を心の中に探すのじゃ。

>>92 無我は知るものではなく体感するものなのじゃ。
 悟りに入る以前でも無我は感じられるのじゃ。
 おぬしも寝ている時や起きて直ぐの時には無我なのじゃ。
 それを良く観察してみるのじゃ。
 
 善悪は人々を教化するためでもあるのじゃ。
 実際に悪事をしていれば身は滅び、善事をしていれば栄えるのじゃ。
 この世の全ては心によって作られているのであるからのう。
 他人を害すれば己が滅び、他人を喜ばせれば自分がさかえるのじゃ。
 外界も自らの心の表れなのじゃ。
 己の心を整えれば世界も整うのじゃ。

94避難民のマジレスさん:2014/08/19(火) 23:25:51 ID:nLaH1F/E0
仏道のみで大成しない場合、他の宗教とセットでやる方がいいのでしょうか?
また、その時はどの宗教とセットでやるのがオススメでしょうか。その場合にはその理由も知りたいです

この質問の回答を鵜呑みにするつもりはありませんが、一理あることを仰ることの多い鬼和尚ですので、一応と思いまして

95避難民のマジレスさん:2014/08/20(水) 13:01:18 ID:bPo10ZV60
>>93
鬼和尚さん、ありがとうございます。
鬼和尚さんに質問して、答えていただいたおかげで、少しずつ自分の心がわかってきました。

自分の心を観察してみた結果、なぜ戦争などの報道で不快になってしまうかというと、そうなることが、自分を防衛するために必要だと無意識に思っているからのようです。
戦争の話を聞いても心が平気になってしまったら、戦争から自分を防衛したり、戦争を防いだりできなくなってしまう気がしているのです。
それがわかって、ニュースを聞いても心が動揺しないでいられるような気がしてきました。
ありがとうございます。

ただ、戦争など遠くの話なら、冷静になることが逆に自分の身を守ることになると何となくわかるのですが、それがさらに身近なことになると、そう考えられない場合があります。

たとえば、自分が本屋の店員だとして、不審な客を見ても平気な顔をしていたら、本を万引きされてしまうのではないか、と考えてしまうような場合です。
不審な客を見たら不快になることが、自分の身を守ることになるように思ってしまいます。
こういう場合はどう考えたら良いでしょうか?

同じように駅のホームで人にぶつかられた時など、すぐにイライラしてしまいます。
そういうのも結局は自分の身を守りたいからだと思います。
自分の身を守りつつ、苦をなくしたり、不動心を身につけるには、どうしたら良いのでしょうか?
鬼和尚さんはどう考えたら良いと思われますか?

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97避難民のマジレスさん:2014/08/20(水) 15:53:24 ID:LC3de7YgO
>>93
鬼和尚、ありがとうございます。
私はいろいろ混同しておりまして、無我とは、意識と無意識のはざま、意識の空白地帯みたいなものでありますか?
>自他の別なく、快不快、善悪、生死の別もない。全ては幻想であり、時間すらない・・
とは、悟りの境地の説明でありましょうか?
全ては、心が作り出したものと言う思想は潔く、清々しく感じます。全責任は自分にあり、得たいもの全ては既にここにありということでありましょうか?これが悟りの境地でありましょうか?
チョピッとづつしか進みませんが、目標達成に向け邁進しますヽ(・(∀)・)ノ

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99鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2014/08/20(水) 22:28:15 ID:SWqJzPrs0
>>94 オショーとか、クリシュナムルティなどを参考にすると良かろう。
 マハリシも良いのじゃ。
 人類に普遍的な悟りという現象を知る事が出来るじゃろう。

>>95 考えるのではなく観察してみるのじゃ。
 身辺を警戒するのも不快にならずにできることがわかるじゃろう。
 不快に成るのは自分のイメージを守るためである事も多いのじゃ。
 自分のイメージが盗みや人にぶつかられた事で損なわれたりするのが原因かも知れん。
 それを自分の心の中に観察してみるのじゃ。
 
 何のイメージも無ければ身を守りながら、苦を滅し、不動心もみにつけられるじゃろう。

>>97 悟りの境地は言葉によって現されるものではないのじゃ。
 言葉にすれば全ては嘘になるじゃろう。
 忘我によるサマーディも悟りと勘違いする事もあるじゃろう。
 いかなる言葉もイメージも表現できない境地が悟りの境地なのじゃ。
 自ら実践して知る以外に無いのじゃ。

100避難民のマジレスさん:2014/08/21(木) 00:39:57 ID:zBaYOPCo0
>>99
鬼和尚さん、ありがとうございます。
不快にならずに身を守ることができるというのは、何となくわかってきた気がします。

でも、鬼和尚さんの言われた、自己イメージについて、よくわからなくなってしまいました。
不快になるときは自己イメージを守ろうとしているのではないか、ということなのですが、これは観察せずとも、まさにその通りなのです。
自分を守りたいという場合の自分には、自己イメージも含まれているのです。
というのも、私は、その人の自己イメージは大切にしてあげるべきだという価値観を持っているからです。

たとえば、小さな女の子が、自分は可愛くて誰からも大切にされる存在なんだ、と思っていたら、そのイメージを大切にするように教えたいし、そのイメージを壊そうとする人がいたら、その人から身を守りなさいと教えると思うのです。
同じように、自分の自己イメージを守ることは大切だと思っているのです。

でも、こういう考え方は間違っているのでしょうか?
自己イメージがない人生というのは、具体的にはどういうものなのでしょうか?
どんなときに、どう振る舞っているのでしょうか?


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