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死について
1
:
管理者
:2009/03/16(月) 14:47:00
新しいスレッドの提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。
hage 投稿日: 2009/03/16(月) 13:07:35
2ちゃんねるのあるスレッドで、少し議論したのですが、「人間の死」についてのスレッドはありますでしょうか?
犀角独歩さんのおっしゃる、「死への過敏症」についても聞きたいですし、皆さんの「死」についての思いを聞いてみたいです。
2
:
問答迷人
:2009/03/16(月) 15:00:58
凄いスレッドが立ちましたね。人間として生を受けた以上、どうしても避けて通る事の出来ないテーマ。
宗教がこのテーマに対して、もし適切な答えを出せなければ、その宗教はその存在意味が疑われますね。当掲示板に於いて、このテーマに関して活発な議論があらゆる観点からなされることを期待してます。
アカデミー賞受賞の「おくりびと」もまさしく、死を真正面から捉えた大作で有ったと思います。当掲示板でも、納棺師の方が以前書込みをしてくださっています。人としての尊厳を維持して死を受け入れたい、誰もがそう願うのだと思います。「おくりびと」受賞によって、その願いに真正面から取り組む納棺師の方々に対する評価が国内でも一気に跳ね上がり、そういう文化を持つ日本に対する評価も一気に上がった思いました。
3
:
hage
:2009/03/16(月) 16:01:15
スレを立てて頂きまして、ありがとうございます。
「先ず臨終の事を習うて、後に他事を習うべし」
皆様は「自分の死」「家族の死」「他人の死」について直視することありますでしょうか?
4
:
問答迷人
:2009/03/16(月) 16:06:57
【死を素直に受け入れる事】について
僕は「おくりびと」を見て、納棺師の執り行う納棺の儀式が、亡くなった方の尊厳の維持に対する他者の介添えなんだと思いました。
そして、もう一方、死を迎える者自身が、自分自身の尊厳性を維持するにはどうすれば良いのだろうか、とも思いました。
宗教が人にとって必要であるとすれば、この事こそがその最重要課題であることは間違いないことだろうと思います。
その答えは、自分自身が死を素直に受け入れる事が出来れば、それこそが究極の尊厳性の維持なんだろうと思っています。
犀角独歩さんが、「死への過敏症」について、ブログに書いておられました。僕自身、過敏症なのかそうでないか、判りませんが、死を迎えた肉親を目の当たりにする時(先日、妻の父が87才で亡くなりました)、自分にも何時かその時がやってくることを強く意識させられます。そして、死を迎える自分自身を想像すると、やはりそれは大きな恐怖であることは疑う余地が有りません。今現在では、死を素直に受け入れる準備が何も出来ていない事を悟らざるを得ません。
必ず死が訪れる以上、素直に死を受け入れることが出来る事が、やはりどうしても必要なのだと思います。僕にとって残された時間はそう長くない。最長でも50年後には、この世に居なくなっていることは間違いないことです。それどころか、それが明日かも知れないからです。
5
:
孤独な迷子
:2009/03/16(月) 19:08:54
一昨年心筋梗塞で緊急入院しました。
二週間ほどICUに入れられ、一ヶ月ほどで退院できましたが、かなり危なかったようです。
治療中に麻酔のせいかもしれませんが、大きな河があり、向こう岸がとてもきれいな光景を見ました。
「今度再狭窄したら危ないですよ。」と医師に宣告され、「死」と隣り合わせに生きています。
「死後」はどうなんだろうと、よく考えてしまいます。誰にもわからないことでしょうけど・・・。
6
:
問答迷人
:2009/03/16(月) 19:23:00
孤独な迷子さん
今晩は。
>「死」と隣り合わせに生きています。
それは大変な事でしたね。お大事になされて下さい。僕も持病の高血圧があり、この冬は、薬を飲んでいるのに160-120などという恐ろしい数字が出ていました。今は小康状態で普通に暮らしていますが、降圧剤は毎日手放せません。
>大きな河があり、向こう岸がとてもきれいな光景を見ました。
記憶を辿って、出来るだけ詳しくその光景を教えていただけませんでしょうか。よろしくお願い致します。
7
:
再挑戦者
:2009/03/16(月) 19:41:26
、、、。
ご免です、、。
イヨイヨ、、真打のご登場の実感 です、、。 ご期待 致します、!
8
:
犀角独歩
:2009/03/16(月) 20:46:38
hageさん、追って語り合いたいと思います。
問答名人さん、新スレ、有り難うございます。
孤独な迷子さん、お久しぶりですね。
再挑戦者さん、わかりやすい文章でお願いしますよ。
9
:
空即是進化
:2009/03/16(月) 21:05:52
「永遠の生命」???。学会流の生命論が全く相手にされてないってことかな。学会OBが多いのに。
釈尊は《無記》ということのようで。
これまで、「死」についての考察が少なかったこと自体が、ある意味不思議ですね。
10
:
再挑戦者
:2009/03/16(月) 21:09:12
イヤー、、大先輩 殿から 「 クギを ? 刺されましたのは ウレシー!! です ヨ、、」、、 今後とも
小生の 方 こそ よろしく、、、「お頼み、」、です 。 失礼をば 致しました、です。
11
:
ひきこもり
:2009/03/17(火) 00:43:48
死は最終的な終焉ではないと思います。原因がなければ結果はないのですから。
宇宙生成にしても、現代宇宙観は聖書、キリスト教、イスラム教、神道に毒されて
います。特に神道が酷いです。
12
:
幻論乙坊
:2009/03/17(火) 11:20:15
死は不可避なんですが、ここでの死と言うのは生命その物、固体の滅亡を指しているのではないのでしょうね。
死の恐怖は人間だけに存在するのではないかと考えています。
(他の動物と知的コミュニケーションを図る事の出来ない現時点における人間の手前勝手な論理ですが)
死の対極にある生より死を少し語らせてもらいます。
私達、人間は何らかの意味付けをしなければ立ち往生し、一歩も前に進む事が出来ません。
この様な言動に至ったのは、これこれこう言う理由であるとか。
こちらよりあちらを選択したのは、かくかくしかじかを考慮した為である。
等といった具合に意味付けを要す。
「ただなんとなく」と言う場合もあるじゃないか!
と言う声が挙がりそうですが
「ただなんとなく」と言う意味を貼り付けているのでしょう。
人間は生きるにも意味付けが必要で、自分はこの世で生きるに値する物であると言うものを見出さなければ生きていく事が出来ないと考えます。
良く言われる「生き甲斐」ですね。
生きるに値する何らかの理由を見出さなければ心の安定感が得られない。
肉体の消滅も恐れはしますが、人は植物人間や脳死状態に自らが陥る事も恐れます、これはその状態に生き甲斐を見出せないからでしょう。
他人から見れば下らない、なんてなんてみみっちい取るに足らない内容であってもその人にとってこの世に自己を保つだけの意味付けであればよいのです。
一方、死(固体の滅亡ではない)はそこに意味付けが見出せない、見出せないと心がいつまでも不安定であるから恐怖を覚えるのだと考えます。
ですから、死に意味付けを有す自殺は経験をしていませんが他の死よりも恐怖感が少ないものと考えています。
多くの自殺は人生に絶望したと言ったケースなのでしょうがこれも絶望した。
と言う意味が付されています。
自己の自尊心や名誉や美の為に自ら生を絶つ人も存在しますね。
死に対する捉え方も時間空間的に異なるのでしょうが、死の恐怖とは生存中に満足いく生活を送れなかった、後悔が残った。
未来においてその悔いを何とか埋め合わせたい、その為に人間は未来を創りあげたんだろうけれども、その未来が絶たれたので恐怖を覚えるんじゃないでしょうか。
是全幻想
13
:
顕正居士
:2009/03/17(火) 19:11:58
死のソリューションとしての永生
これには社会的と個人的の二方面があります。何らかの著作物を残しそれが古典となった場合、
社会的永生が得られます。我々は身近な人以外はその人または他人の著作物を通して人格に
触れます。著作物とは直接に対話はできませんが、今後はそのような工夫も可能になるでしょう。
個人的の永生は脳または身体全部の情報をスキャンして磁気記録とし、現実あるいは仮想の
身体を付与すれば人格を再生できるでしょう。定期的にスキャンし、不幸に交通事故で死亡した
場合に再生したとします。その人の社会活動は継続し、他人にとっては本人と変わらないだけで
なく、再生者は記憶に一部断絶があるけれども本人だと自覚するでしょう。
そう自覚しても再生者はやはり本人ではない。ここに真の個人的永生の問題が残りますが、
シミュレーテッドリアリティの中のコピーを生前に起動しておき、本人と記憶の共有を行っておけば
解決できそうです。
14
:
問答迷人
:2009/03/17(火) 19:26:57
幻論乙坊さん
>人間は未来を創りあげたんだろうけれども、その未来が絶たれたので恐怖を覚える
なるほど。人間には【未来と言う観念】が有るから、死を認識する事が出来る、そして、死の時点で未来が絶たれるから、そこに恐怖を感じる、そういうことですね。
ただ、人間は死を知ってしまった以上、果たして、死の恐怖から逃れる事が出来るのでしょうか。それこそ、未来の観念を失ってしまえば、死を恐れる事は亡くなるでしょうが、それでは人間としての尊厳を保つ事も出来なくなるのではないのでしょうか。
限りある人生を、限りあるものと自覚し、そこに、如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、人としての生きるあり方なんだろうと思います。そして、死をもその意味付けの中に取り込んでしまう事に成功すれば、精神的な意味での死の恐怖は克服されるのでは無いかと思います。
取り留めのない書込みで申し訳有りません。御叱正下さい。
15
:
顕正居士
:2009/03/17(火) 20:47:22
復活、天国、転生と永生
ユダヤ人はギリシャ人、ローマ人、日本人などと同じく一世説*でしたが、ユダヤ教から派生した
キリスト教は世界の終末*にすべての人がいったん復活すると云います。
現代的に表現すれば、全知の造物主はすべての人の脳と身体の記録を保存しておくことができる。
しかし復活者は死者のコピーではないのか?死者本人というには死の記憶がなければならない。
本人問題の自覚はあったかのか否かはわかりませんが、中世の神学では世界の終末まで死者の
霊魂は天国や煉獄にとどまるとする。これは現実の身体を付与するまでシミュレーテッドリアリティの
中で記憶の連続を保持することといえます。
インド人、スリランカ人、チベット人は転生(三世説)を信じ、仏教国にはこの影響が及んでいます。
インド教徒と仏教徒は行為とその結果について客観と主観の二重の解釈をするので転生説には
さまざまな矛盾があります。けれども記憶を維持しながら意識が別の身体に転生することは将来は
可能でしょう。
復活、天国、転生は古代以来の永生についての基本的なアイデアであったといえるでしょう。
*明治の仏教学者島地大等は諸民族の死生観を一世説、二世説、三世説に分類した。
*最後の審判。ペルシャのゾロアスター教に由来する。
16
:
孤独な迷子
:2009/03/17(火) 22:07:39
問答迷人さん
ご無沙汰しています。また参加させて頂きます。
>お大事になされて下さい。
お気遣い有り難うございます。問答迷人さんもお身体をお大事にして下さい。
>記憶を辿って、出来るだけ詳しくその光景を教えていただけませんでしょうか。
当時はとにかく心臓のあたりがとても痛くて、記憶も断片的ですが、救急車で病院に運ばれすぐに検査されました。
そして急性心筋梗塞と告げられました。その次に覚えているのは、処療台の上で治療されている時でした。その時も痛くてうなっていましたが、痛み止めか何かを投与されたのでしょう、急に痛みがなくなり、身体も軽くなったように感じました。その後に「川」が見え、向こう岸はとてもきれいでした。暫くして、また痛みを感じるようになり、同時に医師や看護士さんたちの声が聞こえてきました。痛くて身体を動かしていたら、「動かないで。もう一本入れよう。」と聞こえ、その後再び痛みがなくなり、フワッとした感じになり、もう一度同じ光景を見ました。その時直感的に「向こう岸に渡ったら危ない」と思ったのを覚えています。その後気づいたらベッドの上でした。母親や妹に後で聞いたことには「最悪のこともあり得ます。」と言われていたようです。
これで参考になりますでしょうか。
犀角独歩さん
>孤独な迷子さん、お久しぶりですね。
こちらこそご無沙汰しております。
またいろいろとお聞きすることがあると思いますが、今後とも宜しくお願い致します。
17
:
hage
:2009/03/17(火) 22:08:47
私は、実際にできるかどうかは別にして、
地獄に墜ちようと、寂光浄土に参拝できようと、死後の世界が無かろうと、輪廻転生しようと、何がどうあろうと、
全て御法様におまかせしきれば、恐怖も何も無いのだろうなと想像しています。
18
:
顕正居士
:2009/03/18(水) 00:35:08
死のソリューションはいつ頃か?
GNR革命と人間の寿命延長の可能性
http://tyeestyle.blogspot.com/2008/06/gnr.html
『2001年宇宙の旅』(1968年)の未来予測と今日の現実を比較するとコンピュータの普及は予想を
越えるが、宇宙開発と人工知能の発達はいささか停滞しているように思えます。カーツワイル氏の
21世紀半ばの技術予測に不安があるとすれば基礎となる人工知能でしょう。また今後の科学技術
の発達を制限するのはもう一つ人類の寿命です。
惑星グリース581C
http://beiryu.exblog.jp/5228766/
は地球から20光年の近くにありますが、
現在のロケットの速度では到達に数十万年かかります。これでは探査船計画すら立てられません。
宇宙探査には飛行速度を上げるとともに人類の寿命を宇宙サイズに近づける必要があるでしょう。
Genetics、Nanotechnology、Roboticsの最初のGが数十年でどのくらい発達できるでしょうか。
しかし寿命を倍ていどに出来ればその間に技術が進歩し、次には10倍にできるかも知れません。
10倍にできればそのまた次には半不老不死ができないとはいえませんから、前世紀終わり生まれ
の人には永生の可能性はかなりあるかも知れません。
19
:
幻論乙坊
:2009/03/18(水) 01:55:01
問答名人さんからお言葉を投げかけられるなんて光栄です。
今晩は
問答名人さん、からお言葉を投げかけられるなんて光栄で心拍数が上がった状態で書き込んでいます。
ここのところ年が年なので、心臓が弱っていて伝えたい事が最後まで記すことが出来るかとても不安ですが
なんとか頑張ってみます。
>死の恐怖から逃れる事が出来るのでしょうか。
逃れられないのだろうと考えています。
>それこそ、未来の観念を失ってしまえば、死を恐れる事は亡くなるでしょうが、
未来を失する事はパックとして、漏れなく過去も現在も失する訳ですね。
詰まり過去・現在・未来と言う時間の概念が無くなる訳ですから、その時点で人間という動物も
この世から無くなるんじゃないかと考えます。
>それでは人間としての尊厳を保つ事も出来なくなるのではないのでしょうか。
そうですね。
私達、人間は心の安定だけでは生きていく事が出来ず、生き甲斐や人間としての自尊心や尊厳が必要なのでしょうね。
ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう?
と考えたりしている訳なんです。
>限りある人生を、限りあるものと自覚し、そこに、如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、人としての生きるあり方なんだろうと思います。
ええ、良く言われる事で理解できます。
「限りある人生を、限りあるものと自覚し、」とは、どうして限りがり、自覚に至ったのか?
と言う疑問は在りますね。
ここは宗教の掲示板で余り深く(唯幻論を語るのは)入り込むのは場違いか?
とも思いますので止めておきます(何を言っているのだ知識[言葉]を有していないのだろう!
とお思いの方も多いのでは?図星です、生兵法はなんとやらです)
>如何に生きるべきかと言う意味づけをする事が、
意味付けをしなければ生きていけないのが人間だと考えている訳です。
この有限のにおいて私という個の何らかの成果と言うか?足跡というか?
先に挙げた後悔をしたくない訳ですね。
他の動物のように意味付けが必要なければ越した事とはないのだと考えています。
>人としての生きるあり方なんだろうと思います。
ではなくて、人間だからそうならざるを得ないんだろうと、私は捉える訳です。
しかし、この部分が非常に重要なんだと愚考致しているしです。
>死をもその意味付けの中に取り込んでしまう事に成功すれば、
精神的な意味での死の恐怖は克服されるのでは無いかと思います。
そうでしょうね。
死への意味付けは既に私が挙げたもので自殺が在りますね。
ただ多くの文化で自殺はタブー視されていますから人間は容易く自殺は出来ない。
「死に甲斐」と言う語がかつての日本においては(大東亜戦争以前まで)存在したようですが
現在の日本においてはいかほどの言語としての力を有しているでしょうか?
ほぼ死語の様相を呈していそうでが、中東辺りでは「死に甲斐」が結構存在していそうですね。
こんな言葉があります。
人間が「生きがい」を求めるということが、人類にもっとも大きな被害を
及ぼす行動なんです。
生きがいを求めずに生きられる人間がいるとすれば、最も平和的な、
人に迷惑をかけない人間なんですよ。(幻想を語る 岸田秀 青土社)
是全幻想
20
:
問答迷人
:2009/03/18(水) 12:42:11
孤独な迷子さん
誠に有難う御座います。経過が良くわかりました。もう少し質問してもよろしいでしょうか。
>「川」が見え、向こう岸はとてもきれい
〇 大きな川と言うのは、向こう岸が良く見えるのですから、50メートルくらいの川幅だったのでしょうか。或いは、もっと幅が広かったのでしょうか。
〇 その川を見ていらっしゃった角度はどのようでしたか、川岸辺りから見た光景だったのでしょうか、高台から見渡したような光景だったのでしょうか。
〇 向こう岸がとてもきれい、というのは、花が咲き乱れているような、お花畑が向こう岸にあるような感じでしたか、それとも、岩や木々の有様がとても綺麗だったのでしょうか。
よろしくお願い致します。
21
:
問答迷人
:2009/03/18(水) 13:07:31
幻論乙坊さん
>ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう
それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います。又、客観視できるからこそ他者の死を見て自分も死ぬ存在なのだと理解するのだと。
>中東辺りでは「死に甲斐」が結構存在していそうですね。
『葉隠れ』の武士道では有りませんが、僕は「『人生』とは死ぬ事と見つけたり」と言うのが、精神的な死への恐怖を克服する道ではないかと思っています。そして、その先に仏教の南無、釈尊と法華経に命を奉ってしまうということがあるのではないかと。
23
:
幻論乙坊
:2009/03/18(水) 18:31:38
問答迷人さん
こんにちは。
先ず、HNの打ち間違い大変申し訳御座いませんでした(謝)
>それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います。
と言う解釈を宜しければもう少し詳しく解説していただけますでしょうか。
>客観視できるからこそ他者の死を見て自分も死ぬ存在なのだと理解するのだと。
同感です、近しい人の死を見て自分も何時は死ぬのだと覚えるんでしょうね。
又、これはどうでしょう。
死の対極に生が有る訳ですね。
死が有ってこその生ですから、死が無くなれば生も無くなる、そうなると生きていても生の実感が得られなくなる事でしょう。
自分は何時かは死ぬんだと認識していなければ活力のない生に成ってしまうんじゃないかな、死を意識する事に拠って充実した生を送る事が出来る。
>僕は「『人生』とは死ぬ事と見つけたり」と言うのが、精神的な死への恐怖を克服する道ではないかと思っています。
同じような事を岸田秀氏が述べています。
「死を否認すればするほど、死から逃げようとすればするほど死は怖くなるものである。
いつか死ぬ自分というものをきちんと知って、思い描く。
そのうち死ぬんだと自覚しておく、明日死ぬかもしれなといつも考えておくことしか死
の恐怖を克服する術はないかもしれない。」(「哀しみ」という感情 岸田秀 新書館)
24
:
再挑戦者
:2009/03/18(水) 22:11:52
、、、。
諸賢さまの、、言々は 誠に、、スッゲー、、です。
ウマシカのクラスの ドアホの 小生の感じを 言わせて 下さい、、。
、、、「ワシなどは、 アッ、、と 気が着いたら、、ヒト として 生きておりました、、」、、です。
その、生きていく 根本には ?? かが、? 必要、? と 期待した方も 御在りでしょう ネ !?
しかし、、「生命が、 断絶 するのか、? 連続 ? するのかは !!?」、でしょうか ?
また、「、、仏の境涯を知らしめたい、と、願った、教主の釈尊様の、、カネアイも、?・」、、でしょうか、??
これから、、も 「、、アッ、、と、、、気が着いたならば、、ソコイラノ、、ノライヌ〜〜ノラネコ〜〜に ”生”、、」を受けることも、、否定は不可能、、でしょうか、!?
25
:
hage
:2009/03/19(木) 07:17:05
Wikiで「死」を検索すると、このようにありました。
死をどのように受け止めるか
第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、怒りを感じ表明する。
第三段階:「取り引き」
しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。
第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い憂鬱と抑鬱状態に落ち込む。
第五段階:「受容」
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「無」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは、もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖し、拒否し、回避しようと必死であったが、しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。
なるほどなぁと思いましたので、貼り付けさせてもらいます。
26
:
彰往考来
:2009/03/19(木) 08:04:48
>25 hageさん
これは、ガンを宣告された患者がどのように死を許容するかのステップですね。
確かにこのとおりですが、個人差があります。私の経験でいえば第二段階:「怒り」はありましたがかなり短かったです。そして第三段階:「取り引き」を通らず第四段階:「抑鬱」へと入ったと思います。これはやはり日蓮聖人を信仰していたからでしょうか。その後は第五段階:「受容」と第四段階:「抑鬱」をくり返し徐々に第五段階:「受容」の時間が長くなりました。色々な人の体験をお聞きしてもこの繰り返しはあるようです。パターンとしてこの死を許容するステップはあっているのですが、そう単純なものではないです。
私は幸いにも娑婆世界に戻れました。この貴重な経験を踏まえ残された時間を悔いなく使いたいと考えています。
彰往考来
27
:
hage
:2009/03/19(木) 22:29:19
彰往考来さん
貴重な経験談を聞けて有難いです。
私も、悔いの残らないように、時間を生かしたいものです。
「生」と「時間」は人にとっては同じなのかもしれないですね。
28
:
幻論乙坊
:2009/03/20(金) 17:57:19
彰往考来さん
こんにちは。
お元気そうでなによりです。
No25 hageさんの投稿
>ガンを宣告された患者がどのように死を許容するかのステップですね。
なんですか。
確かに死を容認するに至るまでの過程は個々さまざまでしょうね。
一神教では創造主の作り物である自分は死ねば神の元に戻る。
とする教えを堅く信じるならば、日本文化の死生観とは随分楽なものかも知れませんね。
29
:
犀角独歩
:2009/03/20(金) 18:00:48
具体的には、キューブラ・ロス著『死の瞬間』のことでしょうね。
http://epi-w.at.webry.info/200710/article_4.html
30
:
問答迷人
:2009/03/20(金) 20:15:46
幻論乙坊さん
レスが遅くなって済みません。ご質問の件について、補足してみます。
>ではどうして、人間は自尊心や尊厳が必要になったんだろう
自尊心とは、自分自身が一定の評価を与えられているとの思いです。その思いは、自分を客観視して他者と比較するところから生まれる訳で、自分が劣っていて惨めだと感じるとき、それを克服しようとする、これが生きると言う事なんだと思います。つまりは、人は、プライドなしには生きられない、と。
31
:
幻論乙坊
:2009/03/20(金) 22:38:46
問答迷人さん
返レス有難う御座います。
ええ良く解ります。
自分に存在価値を見出さなければ生きて行く事が出来ないのが私達人間だと
考えております。
>それは自分自身を客観視する能力を身に付けたからだと思います
この部分のニュアンスを確認しておきたいのですが、
人間はもともと劣っていて惨めな生き物である。
このままでは生きていく事が出来ないから自尊心や尊厳や自身の価値、
プライドを見出さなければならなかった。
自尊心等は自己と他者が有って生まれるものであるからそこから
客観視する能力を身に付けたのだ。
とする訳でしょうか?
ご意見宜しくお願い致します。
自己を客体化しなくとも、他者から認められても自尊心やプライドは確保出来る訳ですよね。
(他者から認められる事によって心が必ず安定されるとは思いません、問答迷人さんの
説と二本立てかな?と愚考致すところです)
32
:
問答迷人
:2009/03/20(金) 23:16:21
幻論乙坊さん
少し僕の考えとは違います。
人間が自分を客観視する能力を身に付けたことにより、自分がもともと劣っていて惨めな生き物であることを自覚した。このままでは生きていく事が出来ないから自尊心や尊厳や自身の価値、プライドを見出さなければならなかった。
こういう順序だと考えています。
なお、人間が自分を客観視する能力を身に付けたのは、やはり、通説の通り、二足歩行によって手が自由に使えるようになり、脳が発達した結果であったろうと思います。
33
:
幻論乙坊
:2009/03/21(土) 00:22:51
問答迷人さん
有難う御座います。
自己を客観視するのは必要にかられて人間が見に付けたものだと考えるんですが。
脳が発達した事により自己を客観視する能力が身に付いた。
(この時点に於いては、自己を客観視しなければならない要因は見出していなかった)
そして自己を客観視して見ると、自己はもともと劣っていて惨めな生き物
であると自覚するに至った。
そうではなく、自己を客観視しなければならない何らかの要因が発生した所、
たまたま脳が発達していたので試行錯誤のうえ自己を客観視する能力が備わっていった。
34
:
再挑戦者
:2009/03/21(土) 23:39:35
失礼します。
「死」は、、生あるものには一番に恐ろしい 最後の、関門 でしょうか、。
しかし、業病?などでは イサギヨク 潔く「死」を受け入れることも、?!! 有っても、エエンじゃないでしょうか、?
また、逆に、「、、死んではタマラン、、何とか 生き延びたい、? と、、苦しみの中で、畳をかきむしり、? ”生つめが剥がれてしまうほどの地獄の?苦悩”、、」、をしてまでも、生きたいのも、自然でしょうか、? 一筋縄では、、? でしょうか ?
まさしく、、「 死に様 == 生き様、、??」、、でしょうか 、、?
35
:
犀角独歩
:2009/03/23(月) 10:07:39
問答名人さん
やや議論が止まったようなので、記させていただきます。
わたしたちが、大石寺の信仰に入って、もっとも意識させられたのは『妙法尼御前御返事』に「先臨終の事を習て後に他事を習べし」ということではないでしょうか。わたしは、そうでした。しかし、いま振り返ってみるとき、この一節の解釈、受けてきた「指導」につき、やや、間違いがあったように思います。
どうも、この文を、「死ぬことをまず考えろ」という意味に教えられてきたきらいがあります。
しかし、「いきて候し時よりもなをいろしろく、かたちもそむせずと云云。天台云 白白譬天。大論云 赤白端正者得天上云云。天台大師御臨終記云 色白。玄奘三蔵御臨終を記云 色白。一代聖教の定る名目云黒業は六道にとどまり、白業は四聖となる。」と続くわけで、つまり、文意は「先臨終の“相”の事を習」うという文章ではないですか。
つまり、過去の人々がどんな臨終の相であったから仏教の正邪を押し図れという文章ですね。
さきに問答名人さんも取り上げていらっしゃった『おくりびと』の原作『納棺夫日記』に
「ある家で納棺した時のことだった。
始めようとしたら、そこに集まっていた全員でお題目を唱え始めた。
その死体はひどく硬直していた。特に腕の硬直がひどく、私はかけ蒲団の下で、腕の硬直を和らげるのに悪戦苦闘していた。指を曲げたり、腕の関節を曲げたり伸ばしたりしながら、やっとの思いで動くようにして、仏衣の袖に手を通そうとした時だった。
「あれ、見てみなされ、あんなに硬直していたのに、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と一人が叫んだ。するとお題目が一斉に止んで、
「ほんとだ、ほんとだ、お題目をあげたらあんなに柔らかくなって」と言いながら全員が、私の手元を覗き込むように見ていた。
私はあきれてしまった。
あの時ほど、宗教というものに不信感を抱いたことはなかった。あれは決してお題目を唱えたから柔らかくなったのではない。
宗教の熱心な信者は、往々にしてこうした事象を己の信じる宗教の功徳にしてしまう。」(177頁)
という記述があることを以前紹介しました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1033276317/786
日蓮がいう臨終のことをまず習えというのは、自分が死んでしまうことや、死後のついてをいっているのではないと思います。
日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だったと思えます。
何か、こんな点で、わたしは「死の過敏症にさせられていた」と思ったわけです。この点は GREE、mixi で書いたのですが、たぶん、hage さんは、これをご高覧くださり、こちらでわたしに問いかけてくださったのだと拝察しています。
36
:
問答迷人
:2009/03/24(火) 18:13:15
犀角独歩さん
>先臨終の事を習て後に他事を習べし
>文意は「先臨終の“相”の事を習」うという文章ではないですか。
僕は入信する時に、学会幹部にそのように教えられました。『死んだときの相にその人の一生が顕われる』と。
母親が死んでまもなくのころだったので、この言葉は鮮明に脳裏に焼きつきました。母親は日本脳炎で亡くなりましたが、正直言って、お世辞にも良い死相では無かったです。眼球が定まらず、片方は白目でした。子供心に、何であんなに優しい母親がこんな死に方をしなければならないのか、と思いました。死相の話を聞かされたのは、そのあと数年後でしたから、ショックでした。
>日蓮がいう臨終のことをまず習えというのは、自分が死んでしまうことや、死後のついてをいっているのではないと思います。日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だったと思えます。
仰る通りであると思います。独歩さんの仰る意味での『死の過敏症』であれば、僕もまともに過敏症に感染したと思います。
ただ、その後、色々な方々の死相を拝見する機会が何度か有りましたが、日蓮正宗の人でも、死後硬直の酷い人、死斑が酷く出ている人。念仏宗の葬儀なのに、美しい相で亡くなっている人、何故なのかと、訝しく思ったりしましたが、独歩さんが以前ご紹介くださった「納棺夫日記」を見て、「これが真相か」と納得しました。
日蓮聖人は、自身で多数の人々の死相を検分した訳ではなく、経典等によってそのように述べたに過ぎないのではないかと思います。日蓮聖人がそのように述べた理由は、独歩さんが仰るとおり、『日本文化の底流にある「死に様」、それもよい死に様を示すことに主旨があり、そのためには正しい教えによらなければならないといった話だった』というのが真相であると考えます。日本文化に合わせたに過ぎないと。
37
:
犀角独歩
:2009/03/25(水) 19:54:08
問答名人さん
有り難うございます。
ご高覧いただいたかと存じますが、hageさんも触れてくださった「死への過敏症」、ちょっと、長いのですが、議論の参考に転載させていただきます。
知り合いの坊さんが見たら気分を害されるかも知れませんが…。
***
死への過敏症に陥らせて操る技法
宗教というのは、いい面もたくさんある。しかし、歴史が長いだけに問題点もたくさんある。その問題は祖師に係ることもあれば、その後の伝聞に原因があるもある。特に人類は、ここ100年で科学的に、立花隆氏の言葉を借りれば「爆発」的な進歩を遂げた。数千年、いや数万年、数十万年分の進歩をわずか100年で遂げてしまった。科学技術はさらに進歩を遂げていくだろう。われわれの時代はいつしか、科学時代の始めという意味の「原始時代」と呼ばれるようになるかも知れない。となれば、われわれは科学文明の原始人である。
そうした爆発的進歩の前に、しかし、仏教があり、日蓮がいた。
日蓮は全知全能の神でもないし…そんなものはいないと思うが…だから、700年前に言われていた、それでも当時最高水準の学問では考えてはいたろう。その後、700年間の人々も同様だった。だから、そこで紡がれた教えが伝承・伝聞が、科学的叡智で解明されたとき、「成り立たない」という事態が生じたのだ。しかし、これは日蓮を筆頭とする伝承者に責任を負わせるのは酷である。しかし、それを科学で否定されても「事実である」と人に語れば“嘘”ということなってしまう。
信者が、それでも“嘘”を公言してはばからない理由は、それぞれが感得する体験、彼らの言葉で言えば「実証」「功徳(利益 [りやく]」社会心理学の用語で言えば“個人的リアリティ”によるのだろう。
しかし、これは信仰のプラシーボ効果だ。きゃからばあさんも、そんなことをお書きになっていた。同感だ。
彼らにとって、如何に自分が信仰があるのか、そのスケールに体験がある。彼らはしかし、体験=いい結果を通じて、欲得をふくらませているのだろうか。
もう会うこともなくなったある人が、かつて、こんなことを質問を投げかけた。
「成仏したい」という want/need/wish だって煩悩じゃないの?」
違うある人は、こう言った。
「功徳、功徳といっている人って、結局、単に欲望が大きく、貪欲なだけじゃないの?」
こうした信仰圏を抜け出てみると、たしかに彼らは、欲深く映じる。
藤田東湖さんは最近の日記で「煩悩即菩提」ということをお書きになっている。その日記の意からは離れるが、この言葉は生まれるべくして生まれた言葉と思う。
煩悩即菩提は、日蓮の真跡では『大田殿女房御返事』に1カ所載るぐらいだが、『注法華経』にはある。玄義「體生死即涅槃名為定 達煩惱即菩提名為慧」に由来するのだろう。慧に掛けるところにまさに天台の禅定の慧が光る。
しかし、「功徳がある」を連発する創価学会・顕正会を含む大石寺圏の用法はおかしい。殊に創価学会はひどく、顕正会はそれに準じ、大石寺は少しましだ。これで役僧たちの金満ぶりがなければ、少しはまともと思えるのだが生活態度が伴わない。結局、欲望重視で菩提への“即”がそこに見られない。
38
:
犀角独歩
:2009/03/25(水) 19:54:42
-37からつづく-
この周辺の僧俗は欲深いのか?
しかし、この欲は金銭欲とか、名誉欲と顕在するのは、一部の特権階級を上り詰める異常者で、一般の信徒は、慎ましい面もある。
それでも、彼らは欲深いと、わたしには映じる。しかしこれは悪口ではない。彼らの欲とは、生きる欲、生き続けたい欲、創価学会の常套句を使えば「永遠の生命」でありたいという自己存在に係る欲望なのだ。
こうしたバラモン以来の自己存続欲望が“我”の想念として生じたのではないか。これに対してゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。解脱である。
わたしが信仰圏を抜け出すとき、ときたま、テレビで見た海外番組の心理ドラマが、決定的な鍵になった。そのドラマがなんであるのか、まるで覚えていない。そのセリフも曖昧な記憶なのだが、ヒロインに対して、医者(だと記憶する)が、こういう。
「あなたは、死の過敏症にされている」
目から鱗が落ちるという言葉を、しばしば使うが、創価学会から大石寺の信者であった時代、そう40年に及ぶ長い時間、わたしにかけられていた暗示の正体はこれだったのだ。
信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。
いまのわたしは、特に再生(輪廻、生まれ変わり)を望まない。永遠の生命への執着は絶てた。死は恐れることではなく、受け入れることである。
死への恐怖を克服されると、こうした煩悩によって人を操る宗教はあさましく映じる。
そう思って、眺める信者達の姿は、実はあさましく映る。得たいもの・得たもの・得られないものの総称としての欲望煩悩と、執着から来る喪失の恐怖にどよめいているように映じる。
わたしは、ここ数年、創価学会・顕正会を含む大石寺の、教学の誤りと、何より、その本尊が後世の作品に過ぎないことを記してきた。
では、仮にその教学が日蓮が説いたままであったとしよう。その本尊が日蓮が作ったものであったとしよう。
しかし、だから一体なんだというのだ。
所謂「本門戒壇の大御本尊」が本物であったとして、ただの彫刻ではないか。
そうしたものが本物であって欲しい願望は、つまりは、欲望から、そうあって欲しいという思いに過ぎない。仮に本物であっても、欲望で人を操るツールなど、死への過敏症を卒業すれば、もはや、不要なのだ。
プラシーボ(偽薬)は、薬が必要な人には、効くだろうが、薬を必要としないものにとっては、無用なのだ。
39
:
問答迷人
:2009/03/26(木) 09:31:33
犀角独歩さん
>信仰への拘りも、生への拘りにその基があり、
単純化して考えますと、草木は根を張り幹を太くし花を咲かせ実を付けて子孫を残し、最後は枯れて土に戻ります。草木は其々が持つDNAに従って活動し、寿命を終える。ここには生の営みがあるのみで、「拘り」などというものは見ることが出来ません。草木に心が無い以上、当たり前の事かも知れませんが。
ところが、人は、生に拘ります。そして、生に拘り続けた結果、今日の科学技術文明を築き上げたのも事実だと思います。
そう考えると、生に対する良い拘りと悪い拘りが有るのではないかと思えてきます。
この交通整理を期待されているのが、思想・哲学・宗教なんだと思います。
しかし、独歩さんご指摘の「死の過敏症」を初めとして、思想・哲学・宗教には、人を生への悪い拘りに導くものが少なく無いのではないかと思います。
>そして、よりよく生きたい、人よりよくありたい(それは信仰を含めて)という“欲望”、つまり煩悩を形成していたのだ。
これでは信仰を持つことが、却ってその人を苦しめる結果をもたらすことになりますね。
思想・哲学・宗教に期待されている事は、その人が持つDNAに従って生が営まれるように、そのみちしるべの役割を果たしてくれる事であると思います。
纏まりませんが、独歩さんの文章を読ませていただいて、こんな感想を懐きました。
40
:
犀角独歩
:2009/03/26(木) 09:39:43
問答さん
ご感想、有り難うございます。
37、38にまとめたこと、実はゴータマブッダの元々の考えは、こんなことではなかったのかと考えています。
それ以外の仏教だと言われることは、すべて後付で、実はバラモンからヒンドゥー化された、もしくはミトラ教やら何やらの外来思想の摂取。そうした欲望でふくらんだ宗教が教団として存続できる理由は、実は経済、その“購買”動機こそ欲望=煩悩。
しかし、ゴータマブッダは、一切の所有を越え、ついには自己の心身の所有すら越えていった。道義で考え尽くせる人類史で最も初期に遡れる合理主義的発送の持ち主であったのではないか、そんな人物像をわたしは懐いています。
けれど、こうしたゴータマブッダの原形は、なんら利益を生まない。人々の欲望を煽らない。欲望を煽り、経済が成り立ったほうが、むしろ発展した。つまり、ゴータマブッダの悟りとは関係のない異端ばかりが発展し、日本にも至ったのだと、わたしは考えています。
41
:
犀角独歩
:2009/03/27(金) 09:52:53
【40の訂正】
誤)合理主義的発送の持ち主
正)合理主義的発想の持ち主
42
:
問答迷人
:2009/03/27(金) 13:49:38
青木新門著『納棺夫日記』を読んで
昨日、納棺夫日記が宅急便で届いた。映画「おくりびと」が、その場面場面が、納棺夫日記に基づいている事が確認できた。
「死を忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死ぬと言う事実の前で、絶望的な矛盾に直面することである。」
実に鋭く僕自身の抱える自己矛盾を抉り出して下さった、素晴らしい一節である。日本文化の「穢れ」の観念、そして「生」を礼賛するこの文明のあり方、それらが綯い混ぜになって、僕の「死への恐怖」を形成している事が良くわかった。青木新門さんの説く「親鸞の光の教え」は僕には今のところ体験出来そうにも無いが、「死」を巡る問題の所在が極めて明瞭になったと思った。
43
:
問答迷人
:2009/03/27(金) 14:14:58
犀角独歩さん
>つまり、ゴータマブッダの悟りとは関係のない異端ばかりが発展し、日本にも至ったのだと、わたしは考えています。
大筋でお考えに賛同します。釈尊は、悟りを得た後、この悟りを人々に語るべきか否か、迷ったとされています。そして梵天の請いにより初転法輪がなされたと。釈尊は恐らく、悟りを説いても誰も理解できず、却って人々を混乱させるだけにならないかと迷ったのだと思います。釈尊が危惧した通り、その教えは捻じ曲げられ、勝手に追加され、今日では、恐らくは、ほとんどその原型を留めないまでに変化してしまっているのだと思います。
変わり果てた今日の仏教の中に、釈尊の教えは一体どうなってしまっているのでしょうか。釈尊が危惧したとおり、説いた事自体が、徒労に終わってしまったのでしょうか。お考えをお聞かせ戴ければ幸いです。
44
:
hage
:2009/03/27(金) 22:53:17
人間には「生老病死」の苦しみがあるとされたのは、たしか釈尊だったと記憶しています。
人間の苦しみから開放し救いたいと思われたのも釈尊だったと記憶しています。
人間の苦しみは欲望、煩悩によって生まれるとされたのも釈尊だったと記憶しています。
「死の苦しみを逃れたい」「死への恐怖不安から開放されたい」「成仏したい」という欲望、煩悩を無くすことは、凡夫にはなかなか難しいですよね。
「死の過敏症」も含めて、よりよく生きたい、人よりよくありたい、やすらかに死んでいきたい、という欲望があり、煩悩があるのが人間だと思います。
逆に人間らしくてよいのではないでしょうかね?
45
:
hage
:2009/03/27(金) 23:03:41
犀角独歩さん
>ゴータマブッダは非我を説いた。自分があり続けるという欲望からすら脱却したのだ。
私はあまり詳しくはないのですが、ゴータマブッダは非我を求め修行したが、自分はあるという事を説かれたのでは??
犀角独歩さんの意味するところと、私の意味するところが違うのかもしれませんが・・・
46
:
犀角独歩
:2009/03/28(土) 06:32:42
問答名人さん
わたしは、ゴータマブッダが、一切衆生を救うことを考えていたという、まずはじめの一歩を疑ってかかっています。
そうした救い主を必要としない自分自身を確立する修行法=道(どう)を提示しただけではないでしょうか。
最後の遺言は、「自らを灯明とすること」「法を灯明とすること」だといいます。ここでいう法とは教法であり、修行法という意味ではないですか。その修行を自らが行い悟り(菩提)に至れ、それがゴータマブッダの遺言のすべてであるとわたしは思います。
なにか、神秘的な力、神仏が救いあげてくれるといったことをいったのではないと思うのです。
ですから、この点に気付き、修行によって自らが精進していくわけですから、ゴータマブッダの言ったことはその意味では徒労にはなっていないだろうと思います。
ただ、わたしたちが仏教だと思ってきたものは、バラモン教であったということではないですか。わたしはいまの坊さんを見ると、まるでバラモンのようにしか見えません。このバラモンからの脱却にゴータマブッダの道があったと考えています。
47
:
犀角独歩
:2009/03/28(土) 06:35:39
hageさん
> ゴータマブッダは非我を求め修行したが、自分はあるという事を説かれた
ゴータマブッダは非我を悟ったのであって、「自分はある」といったデカルトのようなことは言っていないと思いますが。
48
:
hage
:2009/03/28(土) 08:19:15
私の中途半端な知識で申し訳ないのですが、
釈尊を題材にした作品にヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』 があります。
私はこの小説が好きで、何回も読みました。
Wikiで釈迦をみると
「減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。」
とありますが、ヘッセの作品にもこのあたりの表現があります。
ヘッセの釈尊の解釈が正しいか間違っているかは判りませんが、人の解釈としては間違っていないのではないかと思います。
非我ではなく一切をあるがままに、苦労を楽しんでよいのでは?
49
:
犀角独歩
:2009/03/28(土) 09:32:43
hageさん
Wikiの該当の記述は苦楽中道を悟ったとする場面で非我云々とは関係ないと思いますよ。
また非我、むしろ無我と言われてきました。
いずれにしても、ここで問題にされているのは「我」でしょうが、この考えは、ゴータマブッダ以前のバラモンの考えでしょう。
わたし自身はバラモン教説に関する新たな視点を投じたのではないかと想像しています。
しかし、ゴータマブッダの教説は修道であって、その基本は戒律です。
> 一切をあるがままに、苦労を楽しんでよいのでは
この言い回しはどうもよくわからないのですが、「一切をあるがまま」には「諸法中無我」といったことで、苦労を楽しむと言うより苦楽中道、つまり、苦にも楽にも依らないと言うことですから、苦労を楽しむといったこととは違うように思えます。
50
:
空即是進化
:2009/03/28(土) 10:37:56
釈尊の時代に限らず、現在の多くの国々でも、死は極めて身近なものでありますが、
生物にとって、生きて子孫を残すことがすべてに優先します。
ほとんどの人間(動物)は常に飢えていた。そこに善悪はありません。しかし、
大型肉食獣や他の人間集団からの攻撃から身を守るため、協力しあうという本能も
得したようです。
現生人類の声帯が進化し、言葉を獲得したのが10数万年前。5万年前ごろまで
並存していたネアンデルタール人には、言語をあやつれるような声帯は無かったよ
うです。
人類が体毛を失い衣服に相当するものを身につけるようになったのは、衣服に
とりつくシラミの研究から11万4千年前と推定されるとか。
アダムとイブが知恵の果の実を食べたのはこの頃ということ。
人間の脳の基本構造も、そのころからほとんど変わっていないようで、「死」や
生き甲斐についても考えるようになった。
人類の歴史はかくも長いようで短い。自分の前世が何であったかを訪ねると、
あっという間に原始人。1万年前に人類と別に神々の世界があったと考えることに
も無理がある。
現代の日本人は、過去の人類の目から見れば、すでに天界の住人で、神々以上の
存在と言えるかも。今以上の天国(極楽には女性がいないから嫌だ)を想像したら
どんなものがあるのでしょうか。全く障害のない無刺激な世界では、すぐ飽きるに
違いない。
平均寿命が延びすぎて、死を怖れる人も減っている気がします。既成宗教が想定
していなかった時代がきてしまいました。
欲を捨て去ることはできません。今ここにいる幸運を素直に受け入れていいのでは。
宇宙そのものを「神」とよぶならば、人類すべてが神に選ばれた至高(究極の進化
を遂げた)の存在であり、神は我々を使って、宇宙の更なる進化を目指している。
スレ違いならば、お許しください。
51
:
犀角独歩
:2009/03/28(土) 10:41:13
空即是進化さん
詳しいレスは問答さんがなさることと存じますが、50にお書きになったこと大いに賛同します。
54
:
hage
:2009/03/28(土) 21:01:29
犀角独歩さん
「諸法無我」をWikiでみると、
我々人間は、しらずしらずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた私そのものをつかまえて、私は私であると考える。
しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ私なのだと説くのである。
この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。
とあります。
「死の受容」、「死への過敏症」からの脱却、はこのあたりと関係あるのでしょうね。
空即是進化さん
現代の日本は物質的に見れば本当に天界なんだと思えますよね。
でも、世界の中には苦しんでいる人も多いし、日本の中にも心を病んでいる人が多いのも事実です。
それを考えるともっと新化しなければいけないのだろうし、真の意味での宗教の力、慈悲の心も必要なのでは?
55
:
空即是進化
:2009/03/28(土) 22:26:59
hageさん 悩み苦しむ人たちも、また天界の住人です。相互扶助の観点から、出来る限りの支援は必要でしょうが、
実際何ができるのでしょうか。特に宗教の役割が意味するところは?
どんな境遇であれ、人間として生を受けたことがどれほど幸運であるかを知らしめることが、特効薬の気がします。
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