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日蓮聖人の本尊観

1管理者:2002/07/30(火) 19:07

「オフ会 開催案内」スレッドにおいて、議論が沸騰しています。内容的に、仮に、「日蓮聖人の本尊観」と名前を付けて、別スレッドとして立ち上げます。提案趣旨は以下の通りです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08

すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

2管理者:2002/07/30(火) 19:36

63 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/17(水) 23:50

かなり日にちが経ってしまいましたし、それに、本来こちらのスレッドにそぐわないお話なのかもしれませんけれど、少しばかり・・・
61で犀角独歩さんが掲載されました、『宗教の自殺』における梅原猛氏の記述。宗派・教団を問わず、多くの宗教指導者たち一人一人が重要な訓戒として、自らに言い聞かせなければならない事であると思います。また、梅原氏は『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』(紀野一義・梅原猛 角川文庫 1997年)の中で、次のような事も述べられています。


 ・・・・・・
 日蓮はしばしば、誇大な言辞を弄した人に考えられる。彼は、はずかし気もなく、「わ
れは日本の柱なり」とか、「われは日本国の大船なり」とか壮語する。しかし、その半面、
彼は「日蓮は日本一のえせ者なり」とかいうのである。私は日蓮のいささか誇大に見える
自己主張の背後にある自己にたいするきびしい問いを忘れてはならないと思うのである。
(P294)
 私は、一度もその信仰がゆるがない信仰者を信ずる気にはなれない。私には真の信仰者
には、いつもおのれに向かっての内的な問いがあるように思われる。おのれの信仰がまち
がいであり、その信仰をおのれにも他人にも命じている自分は一人の詐欺師ではないかと
いう問いがある。「日本一のえせ者」とみずからいう日蓮の中にも、そのような問いがあ
ろう。しかし真の信仰者は同時にそのような疑いを克服する。そして彼はそのような問い
の中に、自己の思想をいっそう深くするのである。
(P295〜296)


いちりんさんが59でおっしゃっています事って、私が所属している某教団(こちらの掲示板は、特定の宗派・教団に対する批判が目的でないので、敢えて名前は挙げませんが)の人たちに、多いようですね。
少なくとも、私の知っているその手の人たちの日蓮聖人の御書や法華経・仏教の解釈の仕方には、どこか浅いところがあるとでも申しましょうか・・・ それのみならず、信仰以外の様々な事柄に対する彼らの考え方に接していても、とにかく表面的な事ばかりを捉えていて、そのもっと奥深いところに存在しているのではないのかと思われる、真実というものを追求しようとなどしない、あまりにも軽い印象を受けてしまうのですけれども・・・
無論、自省とか謙遜とかいった言葉とは無縁なのであり、独善や慢心の類がやたらと目立ちますね。
いったい、どこに目をつけているのか? 日蓮聖人の御書のどこを読んでいるのか? そのように首を傾げざるを得ないのです。もしかすると彼らは、御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか?と、思ってもみるのですが・・・

3管理者:2002/07/30(火) 19:37

64 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 02:16


ドプチェクさん:

> 御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか

まったく、そのとおりでしょう。
御書根本というかけ声は自分たち根本の謂でしかないのでしょう。

結局、信仰者が説明する超越者というのは、その人自身の心象なのではないでしょうか。ここのところ、よく引いている『超能力と霊能者』のなかで高橋紳吾師は

大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである)P215

と記しています。

シャキャムニの教説は徹底して修道的なものであって、飽くことのない自己否定の積み重ねの末、ニッパーナ(自分自身の一切の考えを吹き消し、消え去ったところを到達点)とするものであるように思えます。それは執着の終着点であり、いわば、自己存在から決別と死の受容が重なり合うところの境地を目指すものであったのだと思うのです。

けれど、いまここで取り沙汰されている仏教といわれるものは、変革の末、(革命といってもよいですが)自分が他よりもこんなに優れて立派なのだというところが終着点になっていますね。人一人の命は地球よりも重いとか、宇宙生命と自分は一体であるとか(梵我一如を仏教と勘違い)、信仰の対象と、その信仰グループ・リーダーがともかく、だれよりもどこよりも、優れて最高、どこにも勝っているとか、そんなことばかりを言い続けているわけです。これは要するに、いかに自分が立派であるか、こんなにすごいのだということを証明するために強迫観念に基づく思いこみと行動である映じます。「超越的な形態をとっていても、もう一人の自分」なのでしょう。

私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。

高橋師が言う「超越者…補助自我…自分を調べる義務は、その個人にある」という点は、たぶん、絶対信仰を反省考証した人は誰しも、同じような思索の道程を辿るのであろうと思います。ドブチェクさんの言説のなかにも、私はそれを感じるのです。

4管理者:2002/07/30(火) 19:38

65 名前: モモ 投稿日: 2002/07/18(木) 03:18

>私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。

非常に重く、かつ明確、簡潔に独歩さんの主張がまとめられていると思います。

私は平成6年の六万総登山ごろから毎月御登山するようにしております。都合で
出来ないときは次の月に2回とか。以来8年なのでもうすぐ100回ぐらいにな
ると思います。子どものときから数えれば100回を超えているかもしれません。
やはり御登山の実感とご利益はありがたいと思うのです。独歩さんも御登山した
回数は何百回もあると思います。きっとそれぐらいになれば独歩さんの境地にた
どり着けるかもしれません。しかし今はやはり大石寺を離れたいとは思いません。

他のページも見てみて、大石寺も宗教社会学の批判によく当てはまっているのに
気がつきました。

5管理者:2002/07/30(火) 19:39

66 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 11:31


モモさん:

> 大石寺を離れたいとは思いません

私は皆さんに石山から離れることを勧めているのではありません。
石山僧俗が聖人の祖意に戻るための努力をすることを勧めているだけです。
石山は目師が丹精された700年来の寺院です。その尊さを思われるのであれば、「世間の物笑いにある今の状況」からの脱却にこそ、精進すべきであると思うのです。

戒壇の本尊はたしかに他に類例を見ない荘厳さで、拝するものをして圧倒して止みません。板に刻まれた曼荼羅の最高傑作と言っても過言ではないでしょう。
御開扉が心を洗われることも、事実でしょう。その他法要の古式豊かな様もまた、心を洗ってくれる演出になっています。そこに感動を覚え、意義を感じ、信仰を見ることは否定のしようもないことであろうと思います。

ただ、そのような儀式、洗心だけで、満足するのではなくて、そこに感動を覚えたならば、その感動をもって社会に帰り、菩薩の道に歩んでください。

石山では供養といい、布施といいませんね。石山には布施がないのです。
布施のその原意を考えると、それは布(し)き施すということです。つまり、金品を仏菩薩・僧に供養することを意味するのではなく、菩薩が、自ら積んだ功徳を自分のためにではなく、他のために使い施すことを意味するものでした。

布施行の恢復こそ、石山の急用の課題であると存じます。それはしかし、石山一宗が、というより、たった独りの僧俗の実践から始まるのではありませんか。その実践をする人が石山の正当性を、身をもって社会に問う尊い独りなのであろうと思います。ここには僧俗の違いなどありません。その布施の実践をなす人が菩薩なのであろうと思うのです。

まことにこの人こそ、神力品に説かれる地涌菩薩の流類なのでしょう。

  日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
  斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
  無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
  是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
  我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし
  是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん


この人は、たとえ石山に籍を置くものであろうと、社会心理学その他の分析する権威主義的パーソナリティを脱却していくはずですし、科学の厳しい考証にも耐える仏教感を確立していくことでしょう。

6管理者:2002/07/30(火) 19:39

67 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/20(土) 17:48

私もたい石時をやめるやめないは個人の自由だと思う

しかし私は板曼荼羅を聖人の本懐でないと思うようになったし、おにくげなどはおとぎばなしだし

たい石寺の教義のまちがいにこの掲示板で勉強して気づいた以上、お山に登山する意義はみいだせない

7管理者:2002/07/30(火) 19:40

68 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/21(日) 03:47

犀角独歩さん

少し遅くなってしまいましたが、レス、ありがとうございました。
私のような者には、正直、大変難しいお話でございますので、あまり深く理解していないのですけれども・・・(^^;)

まぁ、私自身について申しますなら、知識不足でありながらも、5年位前から自分なりに色々と考えるようになったのです。
私は、創価学会に所属している者なのですが、先ず最初に漠然と疑問を持つようになったのは、宗門と学会の決裂以降、それまで知らなかった(実は知らされていなかった)様々な真実というものに接するようになった事がきっかけとなりました。それまで信じて来た(信じ込まされて来た)多くの事が、実は単なる神話の類でしかなかったりとか。
そして、何よりも私の中で徐々に疑念を生じさせて行った事は、学会が現実に行っている、その甚だしく矛盾した言動の数々なのでした。ご承知のように、宗創対立以降の学会による宗門への批判・攻撃の類は、あまりにも常軌を逸していて、もはや異常としか言いようがなく、彼らのやっている事を見ていると、これが本当に仏教徒・信仰者としての姿なのであろうか?と・・・

そういった微かな疑念を抱き続けていた折、7年前のオウム真理教事件が発端で、世間一般においてマインドコントロールに関する事が頻繁に論じられるようになってから、それまで自身の心の奥底に長年沈殿していたものに、考えを巡らせるようになったのです。そして、その気持ちはますます高まって行き、何かが間違っていると思わざるを得なくなってしまったのでした。その事をかなり深刻に考えていたのが、5年前の春頃でしたね。あの頃の私は、学会の現状にすっかり愛想を尽かしていましたし(正直、馬鹿馬鹿しいという気持ちでした)、かと言って、宗門に関しての悪評をずいぶんと聞かされていましたし(学会の情報が全て正しいなどとは思っていませんが、ただ、一般のマスコミも同様の報道をしていた事がありましたので)、自分はこれから先、いったいどうすればいいのか?と・・・

その頃からでしたね。それまで日蓮仏法に関する書籍と言えば、学会系のものしか読むことなどなかった私が、一般の日蓮関係の書籍に接するようになったのは。
そして、その時期、私が書店でたまたま目にして、かなりの衝撃を受けたのは、多分、ご存知であろうかと思われますけれども、「凡夫本仏論」を主張した松戸行雄氏(元東洋哲学研究所欧州研究部長)の著書なのでした。それまで長年に渡り信じて来た正宗教義である、「日蓮久遠本仏論」を真っ向から否定する松戸氏の主張。あれには、正直、ずいぶんと驚かされましたね。私ごときの者には難し過ぎる内容でございますから、氏の考えがはたして的を射ているのかどうかにつきましては、よくわかりませんが、しかし、あの書に接した事によって、自分の中で、一種のコペルニクス的転換のようなものをもたらしたとでも申しましょうか・・・
最初は、すごくショックな事でありましたけれども、時間が経つにつれ、それまで私自身が頑なに信じていた(実際には、ただの盲信に過ぎませんでしたが)ものが、心の中で徐々に崩れて行きながら、それに代って新しい何かが生じ始めていたのでした。
それ以降、日蓮正宗の教義的な事であるとか、歴史、伝承というような様々な事柄を、自分なりに考えるようになって行ったわけなのです。また、最近は、他の日蓮系宗派・教団等に関しての事にも、関心を抱くようになっています。

お話をして行けば、まだまだ長くなりそうですし、取り敢えず、今日のところは、一応、このあたりにさせていただく事に致します。
大変拙い内容の独り言で、すいませんでした(^^;)。
ただでさえ書き込みが遅い私でありますのに持って来て、ここ最近、何やかんやで書き込みが出来ない事もございますので、その点につきましては、何卒ご了承下さいませ。
それでは、これにて失礼させていただきます。

8管理者:2002/07/30(火) 19:41

69 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/22(月) 17:47


ドプチェクさん:

精神史を拝見し、ご苦労なされたのだと思いました。
私も同じような身とを歩みましたので、大いに感じるいることがありました。

> 松戸行雄氏

凡夫本仏論はしかし、さして真新しいことでもなく、また日蓮系の教義でもありませんね。それでも石山はそれなりの打撃を与えたようでした。また、かつての池田本仏論を遅ればせながら説明するような違和感が私にはあり、読んだころは、本覚の歴史的な整理もついていない頃でしたから、「?」という感じのままで通り過ぎた本でした。

聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は

本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)

と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

なお、凡夫本仏論については執行海秀師は『中古天台教學より日蓮聖人の教學、ヘの思想的展開(1)』のなかで

 一切衆生の本覚無作を顯はすを以て壽量品の所詮であるとし、實修實證の釋尊を離れて無始本覚の本佛を求め、更に本覚無始の衆生を本佛の實體を見るのである。こゝに於て塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。

 従ってその佛身論に於ても、無作三身を強調し、衆生の當體を以て本佛の實體とするのである。そこでかゝる思想を継承した『等海口伝』には、

 圓教三身トハ無作三身也。無作三身トハ始テ修顯シタル三身に非ズ我等身口意ノ三業本來無作トシテ、三身圓満ノ體ナルヲ無作三身ト云也。

といひ、また『文句略大綱私見聞』には

 無作ノ仏ト云ハ何物ゾ、只實迷ノ凡夫也、始テ發心シ初テ修行ヲ立ツ迷を翻テ得悟スル非ズ。只我等衆生無始輪廻ノ間本來常従本佛也。是覚ヲ前ノ實佛と云也。
 
と論じてゐる。かやうに衆生の無作本覚を説くのであるが、その思想の根底をなすものは、汎神論であって、自然界の一切の事物を以て本佛の顯れとも、或は本佛そのものとも見るのである、故に「迷悟分タズ、機法起ラズ、三千有ノ任ナル本地無作ノ實體」といひ、また「五百塵點の迹佛の寿命、森羅萬象の本佛の寿命」とも傳へてゐる。

 要するに中古天台の佛身論は、その無作顯本論よリ導き出された汎神論であって、信仰の圭體性を缺ぎ、無作といふもそれは現象的自然の意であって、そこには人格的価値が含まれてゐない。まえ教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。
 
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。

もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。

それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。

9管理者:2002/07/30(火) 19:42

70 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/25(木) 22:40

独歩さん

69について教えて下さい。

聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は
本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)
と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

なるほど。
そうしますといままでの日蓮の教えでもある本迹論というのは間違いであると、そう理解してよいでしようか。



「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」
について、私にはちょっとむずかしいので、もう少し解説していただけないでしょうか。


「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。」
とあります。すみません。ここのところも用語が難しくて解説していただければありがたいです。

本当にすみません。




 
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html

と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。

もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。

それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。

名前: E-mail(省略可):

10管理者:2002/07/30(火) 19:42

71 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/26(金) 09:58


現時点さん:

> 本迹論というのは間違いである…

「本迹相対は釈尊の教えである」と言えば、間違いとなるのでしょう。
ただ、いわゆる教相判釈というのは、経典を如何様に見ていくかということですから、解釈法としては、一概に間違いであると断ずる必要はないと思います。
しかし、伝言ゲームではありませんが、教義解釈というものは人を経、時間を経、次々と変化してしまうわけです。ことに原典に当たらず、言葉と受けた説明だけでわかった気になる人の伝言がこれに拍車をかけるのでしょう。
この変化してしまったものの瑕疵は、精査に一括に論ずべきではないと思います。


> 「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」

簡潔に論じる能力は持ち合わせませんが、まずここでは「教相・観心」が、どのように使われているのか、次に述べようとしていることは何かを知れば足りると思います。

まず、教相・観心ですが、この二つの勝劣を見る思いが奈辺にひそんでいます。元来、この二つに勝劣などあろうはずはないのですが、中古天台本覚思想では、この二つに優劣をつけようとする思いがあると私には見えます。いわゆる観心主義ということになるでしょうか。いわば教観相対で教相を簡ぶということです。

この優劣相対に従って、ここで論じようとしているのは三千塵点、五百塵点の仏の顕本(教相)より、衆生本覚顕本(観心)のほうが優れているという次の質問に現れる凡本佛迹思想であるということではないでしょうか。凡本佛迹とは今風の言葉で言えば凡夫本仏論ということでしょう。

ここでややこしく感じるのが本迹と教観が錯綜されて使われているためでしょう。

無作事仏>教相・衆生(凡夫)無作本覚>観心と言いながら、今度は凡夫>本門・仏>迹門ともいう点です。


「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。」

これは上記の結論部分で総括した形で、まあ、このようなものが中古天台本覚思想であると執行師はいうわけです。

ただ、ここで理解の困難を来す理由は石山教学では下種本仏・脱益迹仏の相対をいい、脱仏を簡ぶわけですが、しかし、この執行師の説明では、その本仏を教観二門から、さらに二つに分け教相本仏を簡ぶからでしょう。

言葉を整理すれば、「観心主義の自我絶対論に立脚した本仏が絶対=凡夫本仏」であるということでしょう。つまり、仏ではなく衆生なのだと言いたいわけです。
もちろん、こんな考えを天台も、法華経制作者もいだいていたわけはありません。また純天台を標榜した聖人の考えであるはずはありません。

いったいこのような逸脱が、どうして起きてきたのかと言えば、要するに摩訶止観は法華経より優れている、止観が優れていると言うことは釈尊より天台が優れている、天台が優れていると言うことは仏より凡夫が優れているのだという連想ゲームが働いていったからではないでしょうか。そして、つまり、この連想ゲームの結論は遠い釈尊より、いま目の前で止観を説く凡夫のほうが優れていると言いたかったからでしょう。つまり中古天台本覚論を振り回す僧侶は、その“作られた”天台の真の継承者であり、師弟不二であるから天台と等しく尊い、仏より尊いというのが本覚思想が言いたかったことであり、理屈(教相)はそれにあとから作られていくなか、経論より観心(直感)が優れるという説明原理がなされていったのではないでしょうか。また、これは真言密教、即身成仏などと大いに関連すると思われます。

もっとも端的には、恵心流口伝法門において、天台勝釈尊劣、止観勝法華劣などと言われるまでにエスカレートしていくわけです。
このような思想は、殊の外、仙波談林で盛んであって、これを積極的に学び、自宗の教義に取り入れたのが石山教学であるというのが早坂鳳城師、あるいは由比一乗師の指摘でした。

抜書『日蓮本佛論の構造と問題点(1)』−恵心流口伝法門との関係を視点として−
早坂鳳城師
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

的はずれな部分がありましたら、再度、問うてください。

11管理者:2002/07/30(火) 20:14

72 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/26(金) 11:15

【補】
【71の補足】

無作事仏>教相・衆生(凡夫)無作本覚>観心/凡夫>本門・仏>迹門

で > という記号を使いましたが、これは優>劣と言った具合に左側が優れているような意味でも使われる記号で誤解を真似聞くかもしれません。むしろ、

無作事仏→教相・衆生(凡夫)無作本覚→観心/凡夫→本門・仏→迹門

と矢印で示したほうがよかったと思いました。
ただ、マックで閲覧されている方は「→」は表示されないかもしれません。→は左から右を指す矢印です。語判読ください。

12管理者:2002/07/30(火) 20:14

73 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/27(土) 04:16

犀角独歩さん

ご丁重なレス、ありがとうございました。
毎度の事ながら、超亀レスの私でありまして、すいません。

まぁ、私なんて、そんなに苦労をして来たわけではなく、まだまだ修行が足りないと申しましょうか、あまりにも勉強不足・思慮不足の人間なのでございますから(^^;)、難しい事になるとサッパリなんですけれど、自分なりに少しずつでも何かを掴めて行けたらと思っています。

松戸説についての事は、最近、別の掲示板の方でご紹介された下記のURLを見たのですが、本覚思想と絡め、かなり批判的なご意見が出ていました(ご存知かもしれませんが)。

http://www.genshu.gr.jp/DPJ/booklet/001/001_07.htm

私には難し過ぎる内容ですので、よくわからないのですけれど、それに致しましても、仏教の本来の考え方・あり方とは、いったいどのようなものなのであろうか?と、考えさせられてしまいます。
私個人は無知でありながらも、仏教というのはキリスト教やイスラム教で説く神のような存在を立てるのではなくして(釈迦本仏・日蓮本仏を問わず、いわゆる久遠本仏思想のような)、飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきものではないのか?と、漠然と思っているのですが・・・
「諸法実相抄」において、

『釈迦・多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時・事相に二仏と顕れて宝塔の中にして・うなづき合い給ふ』
『されば釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ』
『釈迦仏は我ら衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり』

等といった記述がございますけれど、しかし、最近、「素朴な疑問」のスレッドでも色々とご意見が交されましたように、あの御書は真偽不明という事なのですから、いったい、どこまで信じたらよいのか?と、思ってみるのです。また、本覚思想の色合いの濃い他の御書にしろ、偽書の疑いがあると、よく言われているようですし(本覚思想について、私はあまり詳しく知らないのですが)、それに、同じ日蓮聖人の記された真書でも、与えた弟子・信徒や、その時々の状況により、結構矛盾していると言えるような内容のものがあるといったお話ですので。たとえ偽書であったとしても、それをあながち否定するべきではないという事ですが、しかし、何だかわからなくなって来ます。

いつもの事ながら、取り止めのないお話で、すいません。
小生、所用の為、書き込みが出来ない事もあるのですけれど、書き込みが遅い癖に、結構他のいくつかの掲示板に関ったりといった具合で、いつも遅れてしまってばかりなのでございます。
どうぞ、その点は、何卒大目に見てやって下さいませ(^.^;)。
それでは、これにて失礼させていただきます。

13管理者:2002/07/30(火) 20:15

74 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:00

→「本迹相対は釈尊の教えである」と言えば、間違いとなるのでしょう。

そういうことですね。

教相判釈のひとつの分け方として、天台が、「迹する所以」を「本」と改めて、本迹判として用いたということですね。

→ただ、いわゆる教相判釈というのは、経典を如何様に見ていくかということですから、解釈法としては、一概に間違いであると断ずる必要はないと思います。
しかし、伝言ゲームではありませんが、教義解釈というものは人を経、時間を経、次々と変化してしまうわけです。ことに原典に当たらず、言葉と受けた説明だけでわかった気になる人の伝言がこれに拍車をかけるのでしょう。
この変化してしまったものの瑕疵は、精査に一括に論ずべきではないと思います。

そうですね。あくまでも原典をペースとして教義解釈があると。二次的情報(解釈書)よりも一次情報(経典)が大事だと。


なお、「「教相判釈」あるいは「教判」なる用語は、和製漢語であり、中国では、かつて「判教」「釈教相」などとさまざまに呼ばれた」とp140に書いてありました。

「教判は、インドにおいては、本来、歴史という縦の時間軸に沿って成立した異なる思想を、

釈尊という個人の一生涯の内部において、整理しようと試みたものであった」とありました。

示唆にとむ考えだと思いました。


75 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/27(土) 12:07

→つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。

そのとおりだと思います。本迹判により、迹門の仏、インドにお生まれになられたシャキャムニを迹仏。

本門は、久遠の昔に成仏したという真実を明かした教え、その仏のことを本門の仏→本仏ということになりますね。

14管理者:2002/07/30(火) 20:15

76 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:25


ドプチェクさん:

松戸さんと本覚批判の「意見」と言うから、何かと思えば渋沢光紀師の秀逸な考察ではないですか。『宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−』は卓越した総括であると私は感嘆したものでした。

> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきものではないのか?と、漠然と思っている

なるほど。

最近、法華思想、もちろん、それを敷衍する日蓮思想にはある一つの過程的な結論に私は落ち着きつつあります。

法華経を一瞥していつも思うことは、記別ばかりがあって、衆生成仏は未来のことと置かれている…、私がもっとも着目する点です。では、法華経の骨子はと言えば救済の実践を誓願する菩薩道を進める教えであるということです。ここでは、その実践を教えることが「法」そのものであるという点です。

しかし、これは「言うは易く行うは難し」でとても誓願実践できることではない、故に仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり、しかし、それをあえて開き示し悟らせ入らしめ、ついに艱難辛苦を偲んで、飽くなき菩薩道を勧めるのが法華経ではないのかと思えます。

このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。

その意味において、一念三千(性格には不可思議境というべきでしょうが)は法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。

しかしながら、菩薩道を誓願実践する行者は、常に久遠釈尊と見え、それを超えません。故に菩薩本仏論は仏恩を忘却した不知恩の結論であると思うのです。

引用される『諸法実相抄』の一節、名文ながら、私には、こんなことは聖人が仰るわけはないと思うのは、そのような理由からです。

15管理者:2002/07/30(火) 20:16

77 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/28(日) 16:36

独歩さん

71 72について

→「塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、
 衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。」

→「教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、
 観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を
 強調するのである。」

おおよそ理解できました。

→「恵心流口伝法門において、天台勝釈尊劣、止観勝法華劣などと言われるまでに
  エスカレートしていくわけです。

  このような思想は、殊の外、仙波談林で盛んであって、これを積極的に学び、
  自宗の教義に取り入れたのが石山教学であるというのが早坂鳳城師、あるいは
  由比一乗師の指摘でした。」

  仙波檀林に学んだ石山僧→ 日時師、日有師 ということでしょうか。

  執行師の「然るに聖人の觀心は本佛の困行果徳の價値體に認め、これを

  信受し渇仰せんとするのである。而して信ずれば信ずるほどその價値は

  無限に擴大せられ、本佛はより明瞭に顯現の相を垂れ、自己はその佛界縁起

  の果海中に浴して感激と、新らしき生命の力が與へられたのである」

  含蓄のある言葉ですね。

  執行師というのは、なかなかのものですね。よくよく理解できたとまで現時点

  で言えませんが、中古天台思想が石山教義に入り込んでいることは重要な点で

  すね。

16管理者:2002/07/30(火) 20:17

78 名前: 現時点 投稿日: 2002/07/28(日) 21:15

独歩さん

76について

→仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり

 この意味はどういうことでしょうか。
 また、五何法とは辞典を見たのですが載っていなくてわかりませんので
 教えてください。

→このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神
 として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。

 この意味もよく理解できませんでしたので再説願えますでしょうか。


→その意味において、一念三千(正確には不可思議境というべきでしょうが)は
 法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。

 法ではなく、説明原理とは、どのような意味ととればよいでしょうか。


→しかしながら、菩薩道を誓願実践する行者は、常に久遠釈尊と見え、それを超え
 ません。故に菩薩本仏論は仏恩を忘却した不知恩の結論であると思うのです。

 これは、そのとおりだと私も思います。

17管理者:2002/07/30(火) 20:17

79 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 09:38


現時点さん:

> 仙波檀林に学んだ石山僧→ 日時師、日有師

詳しく調べたわけではありませんが、以下の歴代は武蔵仙波と関係しているようです。

時師(6)、阿師(7)、影師(8)、有師(9)、院師(13)

このあと、要山との通用ができ、要山出の歴代が続き、要山教学の影響も受けることになります。その時点でも仙波の影響がなくなったわけではないように見えます。もちろん、寛師教学は仙波口伝法門を批判して自山の優勢を論じるものであったのは周知の事実です。ただ、ここでいう批判とは「天台勝釈尊劣」というとき、それは違う「日蓮勝釈尊劣」である、「止観勝法華劣」というとき「題目勝法華劣」、「天台即自受用」ではなく「日蓮即自受用」という言い換えの意味での批判に過ぎません。

この対比については記述であると思いますが、私のサイトにアップしてある早坂師の整理は参考になります。

抜書『日蓮本佛論の構造と問題点(1)』
−恵心流口伝法門との関係を視点として−
早坂鳳城師
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/hayasaka_001.html

18管理者:2002/07/30(火) 20:18

80 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 10:51


現時点さん:

→仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり

まず「五何法」ですが、これは妙法華の異本である正法華経における十如該当部分の訳に付せられた名前です。
正法華では該当部分は以下のように訳されています。

何等法・云何法・何似法・何相法・何体法

となっています。これは難読でどのように読むか学者によって意見が分かれるようです。岩本裕師の梵本直訳によると

それらの現象が何であるのか、それらの現象がどのようなものであるのか、それらの現象がいかなるものであるのか、それらの現象がいかなる特徴を持っているのか、それらの現象がいかなる本質を持つのか、ということである(『正しい教えの白蓮』P69)

となっています。つまり、正法華のほうがより正確に訳出しているように見えます。
これらの点については坂本幸男師の優れた考察があるのですが、いま見つかりません。追ってアップすることにします。もしかしたら既に以前、アップしてあるかもしれません。

>> このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神
 として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。
> この意味もよく理解できませんでしたので再説願えますでしょうか。

この意味は、たぶん渋沢師の解説をお読みになれば、おわかりになると思います。その文を受けたものです。

やや付言すれば、私は常に仏・法ということを考えてきました。ここで仏だけを取り出すのは素朴な信仰心で、路傍の石仏に手を合わせるのも、ここに含まれるでしょう。しかし、反面、法だけ取り出し、それを説いた仏を考えざれば、それは法偏重であり、仏恩を亡失した不知恩の徒との戒めを遁れられません。

ところで法華経で展開される久遠仏思想は、しかし、その仏は経典中の文言句々、そして、その文字が伝える精神にしか現れません。この点を記したのがご質問のところです。さらに付言すれば、この久遠仏は、しかし、単に文字に現れされる“創作”と見ることは科学的論証としては正しいのだと思います。しかし、法華経を拠り所として生きる行者にとって、この法華経の記述を通して、行者は久遠仏に仏恩を感じ、恭敬の念を抱くことによって歴史上の釈尊をも含めて仏・法の仏と見えているということです。
この行者にとって、釈尊は永遠の存在として実感されることによって行が完結していくということです。法だけであってはならないということです。

>> その意味において、一念三千(正確には不可思議境というべきでしょうが)は法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。
> 法ではなく、説明原理とは、どのような意味ととればよいでしょうか

これは法華経を読む私の実感です。私は聖人の祖意を見いだすために純天台の釈を採ります。しかし、法華経を読むのに、その天台の釈を“地図”とはしません。ただ自分の心で法華経に向かいます。

その結論から言って、法華経は一念三千を法理として説こうとするものではなく、飽くことのない菩薩道を教える経典であると考えるようになりました。しかも、実はこの考えは天台の法華経釈と矛盾しないとも考えるのです。聖人も同様であらせられると拝します。

まず一念三千ということについては何度か記してきたのですが、天台自身、「一念三千」という成句は使わないのであって、このような言葉による固定化を嫌ったのが天台でした。一念三千を成句、法理化したのはむしろ妙楽であると私には思えます。

一念三千と云われるところは止観禅定において己心の中に三千の諸相を明らかに観ていくための手がかりを示すものであって、いわば瞑想の手順を示すものであったのではないでしょうか。止観の中で仏を己心の中に観られることは、つまり、作仏は一切衆生に係る問題であることを意味するのであり、そこから菩薩道の価値が見出せることを意味します。二十四文字の法華経に説かれる「当得作仏」は自身の菩薩道によって成就されることになります。

ところが、天台の時代、判釈の基礎は華厳にあったようで、法を分析記述することが正統な仏教のような背景があったように思えます。そのために肝心の菩薩道より、むしろ、一念三千という止観の観念観法ばかりが取り沙汰されて今に至ってしまったのではないのかと私には思えるのです。すなわち一念三千(と云われるもの)は菩薩道のための説明原理なのであって、真の教法は菩薩道そのものであると私は思っているということです。

19管理者:2002/07/30(火) 20:19

81 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 10:56


―80からつづく―

ただし、では一念三千は法理ではないのかといえば、広義においては、もちろん法に違いないでしょう。それは天台が法華経に法界というとき、十法界をいう如きです。

ただ、私は一念三千に留まるのではなくて、そこから菩薩道に向かうために、一念三千を説明原理、菩薩道を実践論と位置づけるということです。


82 名前: いちりん 投稿日: 2002/07/29(月) 11:08


すばらしいやりとりが続いているので、学ばせてもらっています。
ただ、こちらのスレッドが「オフ会の開催」についてのものなので、あとから過去ログを読むときに、勿体ないなあと思いました。

63のドプチェクさんの発言あたりから、こういう流れになっているようですが、
63以降、別スレッドにしたほうが、やりとりがしやすいかなあと思います。

たとえば、『法華経』にみられる久遠仏と菩薩道みたいなテーマとか。


83 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 13:31


【79の補足】

石山歴代と仙波の関係を記しましたが、4代道師も、たしか仙波に学んでいたことを思い出しました。ちょっと、いまは資料を思い出せませんが。

20管理者:2002/07/30(火) 20:19

84 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:18

73 ドプチェク さんへ。:
横から失礼します。

ドプチェクさんは
> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきもの>ではないのか?と、漠然と思っている
との事で、「諸法実相抄」の文も、そのように思わしめる、とコメントされたようですね。

凡夫の能力では、真如を直接に、証悟出来るものでないです。そこで、我々が真如を証悟出来るようにと、釈尊が教法を説いてくれたのですから、教法を拠り所にしなければなりませんね。
ドプチェクさんの云われるように、あくまで(教)法が根本ですね。
しかし、教法が根本だからといって、釈尊の教導、加護は必要ないとか、無いだとか云うのであれば、それは極端論ですね。
仏・菩薩の導き、加護があって、はじめて仏道を歩めるものでしょう。昔から仏力・法力・信力の三が合わさって仏道を成就できるものであると云われています。

唱題は釈尊の功徳智慧(因行果徳の二法)を譲り受ける行ですね。唱える南無妙法蓮華経は、喩えると、母親の乳首と吸う行為と考えたら如何でしょうか。吸う行為と乳の出口である乳首が有っても母親自体が居なければ、いくら吸っても乳は出てきませんね。
法としての南無妙法蓮華経が根本だと云って、もし釈尊を必要無しとかといって、軽んじる者は、乳首と吸う行為だけを大事にして、母親自体などはいらないと思う者と同じですね。
唱題を通して釈尊が智慧と功徳が、こちらに心に流れ込んでくると云う事を忘れてはならないと思うのです。

さて「諸法実相抄」ですが
とくに中古天台的表現が見える前部分は偽書を付加したものであろうと学者たちが評しています。後半は宗祖以外には書けない文章だと評しています。
かりに全体が親書としても、前部分は傍系御書と考えるべきであるとされている御書です。

日蓮宗的立場から略釈して見ます。
「答へて云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」
これは、地獄界から仏界までの十界は妙法蓮華経のすがたで、天地法界そのものが妙法蓮華経だと云う意味ですね。
仏界まで妙法蓮華経とあるのだから、釈尊も仏界だから妙法蓮華経ですね。

地獄の因を積んで地獄の依正(身体と環境)を得るのも、ないし、成仏の因を積んで仏の依正(身体と環境)を得るのも妙法蓮華経と云う実相の動き(十如因果の動き)そのものです。そこのところを「十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなり」と云うのですね。

妙法蓮華経の実相とは十界互具・互具平等(一念三千)と云うことです。だれでも十界互具の体です。その十界互具の仏界を表に現したのが(発揮したのが)釈尊です。
だから十界互具の実相、妙法蓮華経から現れたところの衆生救済の働き(用)を行うのが釈尊と云う事になります。
そのことを「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」と表現しているのです。
ですから、釈尊が根本教主でないと理解してはいけないのです。
(続く)

21管理者:2002/07/30(火) 20:20

85 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 15:19

続き。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり」
とは、先学が
「凡夫は迷っていて未だ三身の妙用は起こしていないけれど、理性の本体の三身は衆生に具わっていて滅せず、仏果に到っても増せず。すなわち衆生と仏は一体(生仏一体)であって、仏はこの本体の三身(十界互具の中の仏界)より、迹用を起こして仏となったのであると、凡夫が仏と成れる根拠を強く示す為に体門に約して凡夫を本仏、諸仏を用の迹仏と云われているのである。

本有の妙体(仏界)の隠れると顕れる事について云うと、衆生は隠れているまま、仏はすでに顕出したと云える。
ゆえに衆生は体の三身のみで、用の三身が欠け、仏は用(働き)を完全に現している倶体倶用の仏である。

仏の仏果としての力、救済力は、もともと理性としての本有の体の三身の徳が顕れたものであるので、体に約し理に約し性に約すれば凡夫は本なり体なり性なり、仏は迹なり用なり事なり修なりと云う事がいわれる。故に凡夫が仏に恩を蒙らしむ等とも書かれているのである」
と、的確に説明しています。
「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」
とは、さらに砕いていえば、救われるべき教えを受くべき衆生がいるから仏が救済主・教主と成ることが出来るので、凡夫が居て初めて仏は三徳者の資格があるのだから、「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」と書かれていると受け取っても良いでしょう。
「諸法実相抄」の後半には、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり」(1360頁6行)

「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。」(1361頁3行)

「信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。」(1361頁11行)

等と有りますし、「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います。

22管理者:2002/07/30(火) 20:20

86 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:44


川蝉さんが紹介する『諸法実相抄』一部偽書混入説、なかなか説得力がありますね。
まあ、名文の御書です。捨てがたいですね、確かに。

けれど、私がこの御書がもっともおかしいと思うのは「倶体倶用の三身」という考えです。これは初期天台資料はもちろんのこと、聖人の真跡にも見られないからです。

もう一点、この御書の題名にもなっている「実相」とうい点、これは聖人からも離れ、漢訳仏典の問題点として指摘されているところですが、坂本幸男師は以下のように解説しています。

実相 ―― 梵文には直接、実相の原語に相当するものは見出し得ない。羅什は中論に、tattvasya-laksa-na(真実の特相)、dhrmata(法性)、法華経序品にdyarma-svadhava(法の本質)を実相と訳する外、直接の原典がなくとも、前後の内容から実相の訳語を加えて訳することが屡々ある(「実相」訳語考。白土わか「大谷学報」第37巻第3号参照)。羅什においては、実相は如・法性・実際・空・中道・法身・般若波羅蜜・涅槃と同義語に用いられることがあるが、ここでは、すべての存在のありのままの姿、換言すれば演技を指しているもののようである(『法華経』岩波文庫(上)P336)

と方便品の諸法実相に注意を促しています。

その意味を含めると、該当の『諸法実相抄』の該当文が、むしろ聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります。

もちろんのこと、諸法実相抄の「倶体倶用の三身」を、真跡であるとして解説されるところは、参考から除外せざるを得ない気持ちになります。


87 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:49


【86の訂正】

誤)羅什においては、実相は…演技を指している
正)羅什においては、実相は…縁起を指している


88 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/29(月) 15:58


しつこいですが、86の補足です

「倶体倶用の三身」…初期天台資料…にも見られない

と記したのは倶体倶用の用法がないというのではなく、「凡夫=体三身=本仏、釈迦=用三身=迹仏」という用法はないという意味です。

23管理者:2002/07/30(火) 20:21

89 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/29(月) 18:45

86 : 犀角独歩 さんへ。

>けれど、私がこの御書がもっともおかしいと思うのは「倶体倶用
>の三身」という考えです。これは初期天台資料はもちろんのこ
>と、聖人の真跡にも見られないからです。

「諸法実相抄」の前半が偽書と指摘される根拠の一つですね。

しかし、『法華経』岩波文庫(上)P336)の注記を提示し
>と方便品の諸法実相に注意を促しています。
>その意味を含めると、該当の『諸法実相抄』の該当文が、むしろ
>聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります。

と云われていまが、どうして「聖人の聖筆でないことを祈りたい気分になります」と云う事になるのか、ちょと意味がつかめません。
問題のある訳語であっても、妙法華経に「諸法実相」とあるのですから、かりに宗祖が「諸法実相」と云う言葉を使ったとしても、仕方のないことではないですか。

>もちろんのこと、諸法実相抄の「倶体倶用の三身」を、真跡であ
>るとして解説されるところは、参考から除外せざるを得ない気持
>ちになります。

それはご自由です。「諸法実相抄」の偽書の疑い濃厚な部分は、強いて資料として使う必要が無いからです。
私は「真跡であるとして解説」したのではなく、日蓮宗的に解釈したわけです。
と云うのは、「諸法実相抄」を親書とし、該当の文を凡夫本仏論や法を偏重する傾向の人に対して、重要御書の義に背かないように解釈して見せるのも、役に立つと思ったからです。

妙楽大師の「金ぺい論」の「衆生は但理、諸仏は事を得」。
玄義釈籖の「三千理に在れば同じく無明と名づけ、三千果成ずれば咸く常楽と称す」(釈籖第七上・全集四巻348頁)。
玄義釈籖の「三千改まること無ければ無明即ち明。三身並びに常なれば倶に体、倶に用なり」(釈籖第七上・全集四巻349頁)。
等の意趣をもって、解釈しているわけです。

>「凡夫=体三身=本仏、釈迦=用三身=迹仏」という用法はない
>という意味です。

もちろんそんな用法はありませんね。

24管理者:2002/07/30(火) 20:22

90 名前: 一字三礼 投稿日: 2002/07/30(火) 10:09

横レス、失礼します。

川蝉さん
>85
>「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います。

たしかに「諸法実相抄」はそのようによめますが。

では、同じく真筆の無い「本尊問答抄」ではどうでしょうか。

「末代悪世の凡夫は何物を以って本尊と定むべきや。答えて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。」
「私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。」
「此等の経文、仏は所生、法華経は能生、仏は身なり、法華経は神なり。」

この御書では、釈尊本尊を否定するばかりではなく、「法華勝釈尊劣」を明言しております。
この御書についての、川蝉さんの仰る“重要御書の義に背かないような、日蓮宗的な解釈をぜひお願いします。
この質問は決して揚げ足取りと目的としたようなものではありません。
私がこの「本尊問答抄」と他の重要御書との整合性を掴みかねている為、御教示いただければ、と考えた次第です。

25管理者:2002/07/30(火) 20:22

91 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 11:53


川蝉さん:

> 「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、法性真如としての妙法蓮華経のほうが本仏だ。凡夫の方が本仏だ」などと云う主張する根拠にはならない御書と思います

ということは、日蓮宗的に読んだ“先哲”の解釈に基づき、「重要御書の義に背かないように解釈して見せるのも、役に立つ」ということですが、それによって実際の意味するところと違う解釈になってしまうのではないでしょうか。

もちろん、仰るように日蓮宗的に読めば、そうなるのはわからなくもありませんが、それなら、いっそ凡夫本仏論で解釈したほうが原意に添っているのではないでしょうか。

同抄の

凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり

は、「凡夫は体の三身で本仏、仏は用の三身で迹仏」と記されているのですから、字句どおりということでしょう。それを「いや、これはそうじゃなくて、こういう風に考えれば日蓮宗の教義に合う」などとする解釈は、意味はなさない以上に、私には無意味に思えます。

結局のところ、諸法実相抄は本仏=体=凡夫=妙法蓮華経、迹仏=用=釈迦・他宝という真跡に見られない教義を展開していることを素直に認めれば、事足りることです。

また、後半部を挙げて、「釈尊久遠の弟子」という言葉があるから仏用迹仏を言うものではないというのは前半偽書挿入・後半真筆という先の指摘がぜんぜん生かされていないのではないでしょうか。

だいたい、川蝉さんが言う先哲というのは何宗のどなたのことを指しているのですか。
試みに原文を読んでみたいので発言者とその記述が載っている書をご紹介いただけませんか。

26管理者:2002/07/30(火) 20:23

92 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:16

91 :犀角独歩さんへ。

私が先に、「諸法実相抄」についての、先学の説明と紹介したのは、ピタカ刊「日蓮聖人遺文全集講義」の第十二巻8頁以降です。清水龍山・中谷良英の両師が担当しています。
あと、平凡社刊・小林一郎著「日蓮上人遺文大講座」の第九巻の369頁に「諸法実相抄」の講義があります。
新版は日新出版より出されています。

あと私は見ていないので、確かなことは云えませんが、日本仏書刊行会刊の「日蓮聖人御遺文講義全十九巻」の中でも、恐らく講義されていると思います。
身延大・立正大系統の宗学を学んだ人は、私の解説と、ほぼ似たように解説すると思います。

犀角独歩さんは、お知り合いの日蓮宗の僧侶の方が居られるようなので、その方にも聞いて見られたらいかがですか。

>それを「いや、これはそうじゃなくて、こういう風に考えれば日
>蓮宗の教義に合う」などとする解釈は、意味はなさない以上に、
>私には無意味に思えます。

これは考え方の違いですね。
偽書の疑いがあっても、重要御書に基づいて読むことは大事だと思います。大石寺流に読む人が居る以上、その解釈が重要御書の義と違うという事を指摘する意味でも、無意味とは思えません。

>また、後半部を挙げて、「釈尊久遠の弟子」という言葉があるか
>ら仏用迹仏を言うものではないというのは前半偽書挿入・後半真
>筆という先の指摘がぜんぜん生かされていないのではないでしょ
>うか。

云わんとされていることがちょっと分かりません。

27管理者:2002/07/30(火) 20:24

93 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:50

90 : 一字三礼 さんへ。

「諸仏の師とする所は、いわゆる法なり」と涅槃経(巻第四・四相品第七の上)にあります。
天台大師は
「十如、(十二)因縁・・等なり、是れ諸仏の師とする所」(玄義第二)
と、諸仏が師とする法とは、境妙としての真如実相のことであると云っています。

諸仏は実相の理に基づいて修行して智妙(仏智)を得て仏になったと云うことです。
実相がなければ仏は生じないのと云う事ですね。この関係を「法は能生、仏は所生」と云うのでしょう。

菩薩が先仏の教えによって仏に成った場合は、直接に境妙としての真如実相に基づいて妙智を得たのとは、すこし違いがありますが、この関係も「法は能生、仏は所生」と云えます。

また「至理玄微にして、智に非らずんば顕わるることなし」(玄義巻第三)とありまして、仏は実相を悟り、教法を説くのですから「仏は能覚、法は所覚」とも「仏は能説、法は所説」という関係もあります。

このように、法と仏の勝劣(能所)は視点の置き方で変わるので、確定的には勝劣(能所)は断定できないものです。

仏の妙智は実相を内容とします。「境妙なるを以ての故に、智もまた随って妙なり」(玄義巻第二)と云う所です。
ゆえに仏の妙智(証悟)と実相(法)とは同じなので「法仏不二」と云うのです。
また、妙法蓮華経と云う証悟・教法は、仏の実質的な内容なので、「法仏不二」と云えます。

「三身即一」の仏の妙智(仏智)も境智冥合の証悟です。妙法蓮華の境妙を証悟した妙法蓮華と云う妙智です。
その妙智を説くのが教法としての妙法蓮華経です。
ゆえに、「三身即一」の仏の妙智(仏)と教法(法)とは「法仏不二」という関係と云うことになります。

「法の裏は仏、仏の裏は法」と考えて、法を面としていても内実は仏であり、仏を面にしている場合でも内実は法であるとします。

「法華経の題目を以て本尊とすべし。」
の題目は、単なる理法でも無く、久遠本仏の覚法・本門の肝心・神力別付の要法であって、「法の裏は仏」と云う面が裏に有ると見るわけです。

本尊抄で「その本尊の為体・・」と大曼荼羅の様式を述べる文段の結びに
「此等の仏をば正像に造り画けども、未だ寿量の仏ましまさず。末法に来入して、始めて此の仏像出現せしむ可きか。」
とあり、同抄の終わり部分にも
「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊を此の国に立つべし。」
とあり、仏本尊の形を示しています。

大曼荼羅本尊も、その内容・実質は本門の釈尊であるから、このように示しているのでしょう。
(続く)

28管理者:2002/07/30(火) 20:24

94 名前: 川蝉 投稿日: 2002/07/30(火) 15:50

一字三礼 さんへ。
(続きです)

「本尊問答抄」はやはり大曼荼羅本尊を本尊としていますね。本尊抄に準じて、大曼荼羅本尊も、その内容・実質は本門の釈尊であると云うお考えのもとに論述されていると理解すべきですね。

「本尊問答抄」は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。

宗祖にとっては、法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありまから、法華経の題目=釈尊でありましょう。

ですから、「本尊問答抄」は、
>この御書では、釈尊本尊を否定するばかりではなく、「法華勝釈
>尊劣」を明言しております。

と云って「法本尊正当説」であると単純には断定できないのです。こんなところで如何でしょうか。

29管理者:2002/07/30(火) 20:25

95 名前: ドプチェク 投稿日: 2002/07/30(火) 16:10

犀角独歩さん 川蝉さん

貴重な、と申しましょうか、正直、私にとりましては大変難しい内容なのですけれども、ご意見・ご教示、ありがとうございました。

何だか私のような者には、ずいぶんと難しいお話になって来ましたねぇ・・・
「法偏重」ですか・・・ そうなってしまったなら、それは慢心を生み出す、単なる自己満足に過ぎないものであって、もはや仏教でないという事になるのでしょうか・・・
確かに、日蓮聖人は御書のあちらこちらで、教主釈尊・釈迦仏といった表現を用いられて、尊崇される事を述べられていますよね。「釈尊御領観」というのがありますし。
もしかすると、「法偏重」というのは、日蓮聖人が批判されました禅宗のそれに共通した面がございますのでしょうか?
う〜ん・・・ 私自身の仏教に対する捉え方そのものが間違っていると申しましょうか、肝心な事がわかっていない、考え直さなければいけないのではないのか?と、思っています。
すいません。こんな何もわかっていない無知な人間による幼稚な戯言でありまして。
皆様方のご意見を拝見させていただきながら、色々と勉強させてもらいたく思います。

それと、82でいちりんさんがおっしゃっていますように、いつのまにかこちらのスレッドの主旨から外れてしまいましたので、別のスレッドに移るとか、新たに立てるとかした方がよいのではないのでしょうか。
何だか私の発言から、徐々にこうなってしまったみたいですね(〜.〜;)。
大変勝手な事を申しまして、すいません。

30管理者:2002/07/30(火) 20:26

96 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 18:45


川蝉さん:

ご紹介有り難うございました。

> これは考え方の違いですね。

考えの違いは全くその通りです。
ここは当初より「聖人の祖意を考える」ことを大きなテーマとしてやってきたわけです。ですから、七百年来、糊塗された化粧の面を読みたいという意図ではありません。ただし、日蓮宗では、どう読んでいるのか、一瞥するのは無意味ではないのは事実でしょう。

けれど、なにより諸法実相抄が偽書か否かということを明らかに見るほうが先決です。
ですから、真偽未決のものを恰も真筆のように語られる解釈には抵抗があるということです。

それは川蝉さんの考えとは全く違います。ご指摘のとおりです。

> 云わんとされていることがちょっと分かりません

ご理解いただく必要は全くありませんが、仮に諸法実相抄が前半が偽書、後半が真書であるということになれば、、それは要するに別の書、別の人によって書かれたものであるということを意味します。ですから、「前半で凡夫体本仏(偽)と書いてあるけれど、後半では凡夫を釈尊久遠弟子(真)と書いてあるから、諸法実相抄が凡夫本仏論の書とは言い難い」などという説明は成り立たないと記したのです。

つまり偽書部分では凡夫本仏で、後半真書部分では久遠釈尊という、全く別の書が一つのものと“誤解”されていることまず指摘されるべきであるという思いがあります。

ですから、一書全体を、聖人の真筆として解釈する上述の日蓮宗解釈では、この点が不明であるから初学を惑わす危険があると思いました。そして、偽書部分を日蓮宗的に解釈すると、途端に凡夫本仏という骨子が消え去ることになるのかという疑問もあるわけです。
まず解釈してしまう前に真偽を考えることが先決ではないのか、それが「聖人の祖意」を知る一歩であるという考えです。しかし、これは私の思いであって、もちろん川蝉さんとは、まったく関係のないことです。

けれど、石山義を「日蓮代聖人已来の伝統法義」と騙されてきた私たちにとっては、真跡に現れる思想で、偽書を真偽考証を告げないで解釈されてしまう危険度が意識しておきたいわけです。

また、日蓮宗の近代の解釈が直ちに日蓮の祖意をよく表すものであると短絡しないように努めたいと、私は思っています。知りたいのは、日蓮宗の時代時代で為されてきた先哲と言われる人の解釈ではなく、聖人の祖意、真実の御立法門であるということです。

31管理者:2002/07/30(火) 20:26

97 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/30(火) 18:53


ドブチェクさん:

私は当初、示された松戸さんが、なぜ凡夫本仏論を今更言い出したのかという点に絞って論が進めば、宗創の作為は闡明になると思って応じました。しかし、たしかに全然違う、方向に進んでしまいました。

なんだか難しい議論は、わかりづらくなるということなのでざっくばらんに記せば、松戸さんの凡夫本仏論でいう凡夫とは池田さんのことを代表して言っているのではないのかという危惧を感じるわけです。

そして、もう一つ、法が大切だという言い方は宗門やら、戒壇の本尊ではない、日蓮でもない法なのだと言いたいのではないのかと危惧しているわけです。

つまり、「池田さんと法があればよい」、松戸さんがこねくり回して論じるけれど、これがぶっちゃけたところ、本音ではないのかという危惧です。

要するに「冗談じゃない」ということです。この危惧を渋沢師も同様に懐かれているとも拝察しています。

以上の私の危惧をドブチェクさんは、どう思われますか。

32犀角独歩:2002/07/30(火) 21:37

○日蓮宗教学、日蓮宗的ということについて


少し自省も含めて整理します。

私は「日蓮宗の」という表現を使用しましたが、これは実に不適切でした。
そもそも日蓮宗とは明治9年(1876)に始めて公称されたものであり、それ以前に、この名前はありませんでした。
また、現在で言えば、北山本門寺、西山本門寺、小泉久遠寺など、興門派のなかでも日蓮宗を呼称する寺院はあるわけです。

大石寺の場合、その教学とは寛師の整理大成をもって大石寺教学ということができます。では、今で言う日蓮宗に全体を統一する日蓮宗教学というものがあるかと言えば、そうは言い難いわけです、上述の寺院を見てもわかるとおり、日蓮本仏論の要所であった寺院すら日蓮宗というわけですから。

たしかに明治の始めの輝師、戦前の田中智学師は大きな存在ではありますが、では、この2人の教学をして日蓮宗教学と言うかと言えば、そうとも言えません。私は日蓮宗教学などと評するべき、確定した教学は存在しないと思っています。また、これは日蓮宗各派の方々にとっても、なんら批判ではなく、実情をそのまま示したものであると理解されるところであろうかと思います。

その延長から言えば、「日蓮宗的」という表現も、曖昧模糊とした感を否めないと思うのです。

以上のことから、日蓮宗教学、あるいは日蓮宗的という表現を私は使わないことにします。

いちおう、このスレッドにいちばん関係していると思えますので、こちらに投稿させていただきました。

33一字三礼:2002/07/30(火) 22:20

川蝉さん

諸説を引いての丁寧な御教示、ありがとうございます。

>諸仏が師とする法とは、境妙としての真如実相のことであると云っています。
>仏は実相を悟り、教法を説くのですから「仏は能覚、法は所覚」とも「仏は能説、法は所説」という関係もあります。

ということは仏の説いた教法とは、そのまま境妙としての真如実相のことであると考えてよろしいのでしょうか。

下世話な表現を借りれば、“鶏が先か、卵が先か”のようですね。「法仏不二」あまり聞きなれない用語でした。

しかし、法華経寿量品の教主釈尊とは、その以前、我本行菩薩道の時に先仏は想定されないのではないでしょうか。私は、言わば本初仏的な特質を寿命無量と著わされているのだと考えます。
先仏がいないのであれば、釈迦菩薩修行時の師は、やはり諸法実相・法となるのではないでしょうか。

ゆえに、御文の通り、
「其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に全く能生を以て本尊とするなり。」というのは解かり易いのです。拘ってはいないのですが、すごく富士派っぽいですね。

また、本尊抄の「その本尊の為体・・八年の間但八品に限る。」までは大曼荼羅の相貌解説。
「正像二千年の間は・・此の仏像出現せしむべきか」は仏像史的視点を借りての寿量仏像の末法出現の必然。
前半、大曼荼羅の説明と、後半の寿量の仏像とは、直接繋げて考えるべきではないのでは。

>「本尊問答抄」は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。

非常に理解し易く、納得できます。

色々書いてしまいましたが、本尊となると必要以上に複雑で、頭がストライキを起こしそうになります。
私は所詮「仏法とは生き方」と理解しておりますので、仏道修行上で“仏を観る”と言う事は即ち“道を知る”と言う事と同じである、と考えております。
「法仏不二」、そうなのかもしれませんね。

34顕正居士:2002/07/31(水) 10:19
本尊問答抄

この抄の「法華経の題目を本尊とすべし」は容易に会通できない断定であると
考えます。名のある著者が矛盾した主張を行うことはないはずで、そう見える
場合は、1-全体が別人の著書、2-その部分が誰かの改竄、3-本人の思想の変化
と推理される。本人の思想の変化もあるから、原版や写本が幾年のものか明確
にしなければならない。文献批判(テキスト・クリティーク)といい、西欧の
聖書研究において発明され、以後、人文科学の基礎の方法になった。漢訳仏教
の会通(えつう)は根本思想を異にする経や論さえ整合させようとし、結果は
甲というも是、甲にあらずというも是、自分の主張内容の滅却に到っている。

1-本尊問答抄には真蹟はないが、日興写本等があり、真蹟に順じられる。諸本
の文の異同はわからない。
2-法本尊説、すなわち久遠実成の釈尊を本尊としないひと達の論拠になった。
たとえば、「富士一跡門徒存知の事」
『日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊
と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと』


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