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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

507いちりん:2002/09/12(木) 09:27
「業」(ごう、カルマ)というのは、いわば「おこない」なんでしょうね。
その「おこない」は、身体的な行為、喋ったこと、さらには心で考えたことも、入るようです。

その「おこない」は、次の「おこない」に連鎖しますよね。そしてまた、次の「おこない」にと、無限につながっていく。
死んでも、その人の「おこない」が、次の生命に更新されるときでも、つながるというわけです。

よく「自業自得」といいますけれど、「自分がつくったおこないは、自分で受ける」わけですよね。
「与えたものがかえってくる」ともわたしは解釈してますけど。
ですから「かえってきたものは、自分が与えたものだ」ともいえましょうか。

「いまのわたし、いまの境遇、いまの環境、いまのもろもろの現実」は、「自分自身が与えたもの出有る」「自分が作り上げたもの」であると。

で、薫習とか習気というのは、そういう「おこない」(業)をしてしまう傾向性ですよね。「クセ」みたいなものでしょうか。
これ、人間ですと、かならずありますよね。双子の兄弟でも、それは違うから、環境によってつくられたと言うよりも、持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

で、この「クセ」がほんとうに「くせ者」で、クセのために、いろいろと苦労してしまう。
ああ、やっぱりおんなじことをやってしまったよ、いつもこんなふうになるよ、というのがありますね。それって、クセが作用していますね。

だから、自分のクセに気づいていくのが、とても大切だなあと思うんです。
「気づく」というのは、まさに、気づくわけですね。
しつけとか訓練というのは、あともどりしますけど、気づきというのは、後戻りしないんですね。
ここがおもしろいですね。

努力して頑張って修行するという流れと違うところがあるんだと思います。
むしろ、「気づく」というのは、頑張りとか努力とは、無縁かも知れませんです。

気づくことがなくて、頑張って努力して、すごい修行をすると、かえって難しくなるようです。とくに宗教は、正しいことをしているという思いこみがきついですから、かえってへんなものがくっついて、肝心の自分自身の気づきがない人間になったりするような。。

508五月雨:2002/09/12(木) 10:05
いちりんさん

>持って生まれたものというか。さらには、やはり過去世からのえんえんとつづいたもの、かもしれないですね。

三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。
えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

509いちりん:2002/09/12(木) 10:56
五月雨さん

>三世の生命って本当にあるのですか、お釈迦さんはそう説かれているのでしょうか。

わたしは、このいのちが、過去世にもあって、死んでも来世にも続くかどうかというのは、確信が持てないですね。まあ、なんとなく、生命は過去からも続いてきたし、来世も続くとは考えています。で、これは誰人もわからないことなんでしょうね。

で、お釈迦さんが、三世の生命を説いているかどうか、ですが。
これは、もう原始仏教の大前提なんですね。

生命は、一回限りじゃなくて、無限の過去から無限の未来に続いていく。
そして、いいことをすれば、いいところに生まれる。悪いことをしたら、悪いところに生まれると。

しかし、どんなにいいことをして、天界に生まれて神々の仲間になったとしても、所詮は「苦」である。「三界は、みな苦だ」というのが、お釈迦さまの洞察です。

それで、この生命の輪廻から、脱却しなければ、苦から逃れられないと悟ったんでしょうね。「三界」という世間から、出なくちゃいけない。
生命の輪廻からの脱却が、「解脱」であり「涅槃」ということです。
これが「四諦」という教えの基本ですね。

で、お釈迦さんは、「輪廻する根本原因」を洞察しました。
それが「十二因縁」ですね。まあ、かんたんにいうと「執着」があるから、輪廻するということになります。

で、その「執着」を離れれば、輪廻することはない、解脱できるということです。
しからば、その実践法はあるのかというと、それが「八正道」ということになるわけです。

ではその、「八正道」はいかにして実践するかということになるわけですが、そのなかに「正念」というのがあります。これは、「いつもちゃんと、自分自身に気づいている」ということです。

でまあ、この「気づき」が、輪廻を超える大きなポイントであると。わたしは、そのように思っているんですね。

>えんえんと「クセ」が続くと考えると嫌になってしまいます。

そうですね。えんえんと、考えると、なかなかしんどい。
けどまあ、クセ=わたし、ということですから。そういうクセのある自分を、ひとつひとつ解きほぐしていくというのも、これまた楽しいんじゃないかと思うわけです。たぶん。

まあ、自分の思いこみが、ひとつひとつ外れていく。しがらみが、ひとつひとつ取れていく。すると、ひとつひとつ、自由になっていく。ラクになっていく。いっぺんには、ならんのでしょうけど。だから、それが楽しい、面白いということでもあるかも。。

510孤独な迷子:2002/09/13(金) 23:30
アネモネさん

 アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。これまでのレスのやりとりで、すごい人なのではないかと勝手に想像を膨らませていました。
 感情の起伏が激しいと言うことですが、私もそのような人間です。でもそれって言葉を換えれば、感情(感性?)が豊かと言うことですよね。そしてそのこと自体を自己観察できるというのは、冷静なもう一人の自己が、或いは、自己の一部である客観的な心の部分が存在していると言うことでしょう。だから自分を内省したり出来るのではないでしょうか。もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。
 実際、私の所属組織の中にも気だけは強くて思ったことをダイレクトに言ってしまう人がいました、古い人は聞き流していましたが、新しく組織に入って来た人はとても傷つけられたと言うこともありました。しかし、当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。当に「鬼に金棒」という感じです。周りの人たちも何も言えませんでした。

 > 孤独な迷子さんの言われる、本当の強さと優しさというのは、やはり大聖人様のなかに見てしまいますね。

 最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。その方がより近くに聖人を感じられるように思えます。「御本仏」と「人間(凡夫)」との間には、「神」と「人間」ほどのそれではないですが、やはり隔たりというものを感じます。これは私の主観的な感じ方かも知れませんが。
 聖人在世の時代、世相は大変なものだったと聞いていますし、また御書の中にもそのような記述があったと思います。それで「この世の苦しみをどうしたら救えるのか」というのが聖人の胸に去来したのでしょう。それが大きな動機となって、真の仏法を求められ、法華経に至り、寿量品の文底に秘沈された大法に行き着いたと言うことなのでしょう。
 その聖人の中に大きな慈悲を感じられますし、その道程において様々な障害を乗り越えられて来たという中に心の強さを感じています。
 でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

 > そこへもってきて「仏法の為」という固定化された価値観のもとで、単純に意思と行動が既定されてしまうような組織での人間関係は、歪なものにならざるを得ないと思いました。

 ここはとても大事な点だと私も思います。抑も人間関係など成り立たないのではないでしょうか。例えば、一見その関係がうまくいっているように見えても、それは組織信心という土俵の上での話です。もし組織に対しての疑問など投げかけたら、とたんにその関係は崩壊してしまうでしょうし、私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

 > きっと孤独な迷子さんは、私なんかより信心はずっと先輩なのではないでしょうか。そんな若輩の私の言葉を心に留めて頂いて、本当に嬉しいです。

 信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、信心という点ではアネモネさんの方がよく勉強なさっているなと感心させられています。

 この掲示板に来てレスを読ませて頂いて感じたことは、皆さん、独歩さんにしても、いちりんさん(初めまして、よろしくお願いします。)にしても、五月雨さん、アネモネさんにしても、ある部分を超えた上で、自分で道を探してみようと言う志を持っているんだなと言うことです。
 私の場合は、その越えるべき部分で消化不良を起こしてしまい、その処方箋を探している最中でしたので、ここで知ったことは少々ショックなこともありました。

 > 宗教の力を真に信じる宗教家であるならば、この巷の姿をなんとかしようと慈悲の気持ちを奮い起こして人々に心を砕いてほしいものです。

 組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

 この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

511アネモネ:2002/09/16(月) 09:41
孤独な迷子さん

>アネモネさんが普通の人だと思って安心しました。

ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。私自身も勘違いし始める前に、孤独な迷子さんにご理解頂けて、ホッとしてます(笑)

> もっと言えば、その客観的な心が主になって、感情の部分を従えられれば人格的な向上も望めるのではないかと思っていますが・・・。

本当にそんなふうに向上していきたいとですよね。私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、いちりんさが書いてらした、「業=行いの傾向性」っていうのをほとほと感じてきたんですよ。

>当の本人は自分の発言を忘れているのか、人の心を傷つけたということには気づいていないようです。

それこそこのような傾向性って講の中で多く見受けられますよね。もう、住職や猊下や宗門に対しては、頭を地べたにこすりつけるほどへへーって感じで平伏すほど低姿勢でありながら、かたや信心していない人や信徒同士でさえも蹴落としても平気という態度の違い。私は、自分のお寺だけが特別、修羅の状態なのかと思っていたんですね。よく私のお寺の人はこう口にしてました。「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。だけど、それは何もたまたま私のお寺だけの特別な状況ではないということが、この掲示板でわかったんですね。どうも、どこのお寺も同じような問題を多かれ少なかれ抱えているんだ。それを知っただけでも、大変大きな意識変革につながりました。

>こういう人格と「私は正しい信心をしている」という信念が合体すると本当に怖いもの知らずになるようですね。

こうなってしまうと、誰からも忠告されることはないですから、勘違いのままどこまでも暴走していくんですよね。本当に怖いです。私のお寺では、今、そのような状態の人が、講頭になっています。話しに聞くと、かなり講の中はしんどいようです。

>最近、私は「御本仏日蓮大聖人」というより「人間日蓮聖人」という見方になりつつあります。

あー、孤独な迷子さんも、すでにそうなのですか。大聖人様と記しましたが、実は私も、もう「人間日蓮聖人」で捉えてます。聖人の生き生きとした人間性を、同じ人間として追い求めてみると、本仏と拝していたときとは違ういろんな発見がありますね。かえって糧となるものも多い気がします。それが、信仰を求める心の旅になるのかなって思います。

512アネモネ:2002/09/16(月) 09:42
(つづき)
>でもこのような人たちは他にもいますね。釈尊もそうかも知れないし、イエスもそうであったのだろうと。また最近では、マザーテレサなどはそういう類の方ではなかったのかと思っています。

私も全く同感です。その時代その時代、また風土が違うその土地その土地で、慈悲に満ちた人や、愛に生きた人がいるんですよね。名前を後世に残していない人にもいらしたかもしれませんね。もしかしたらそんな人は今もどこかにちゃんといらして、人々に心を尽くしていらっしゃるのかもしれませんよね。

>私の場合は、無視されました。この掲示板で勉強させて頂いたことや、それまで自分の中でくすぶっていた疑問などを突き合わせてみれば、この組織は普通ではないかも知れないとまで思っています。

なにもかも、よーくご覧になってきていらっしゃるんですね。
実は私は、ある所化さんの目に余る素行について忠告をしたことがあったんですね。当然のことをしたつもりでしたが、いろいと行き違いもあって私はそのことでお寺の中で一部の人から無視されるようになりました。幹部の中心的な方々とその取り巻きの方々でした。その方々に私が何かをしたわけではないのです。なのに、非常に露骨な態度で無視されました。なにか気にいらなかったのでしょう。
そうした経緯とは関係なく、掲示板で大石寺のまやかしがわかってきたことで、ちょうど30万登山が始った頃からすっかりこの組織がいやになりお寺に行かなくなったんです。すると、かつて私に露骨な無視を決めていた方がお電話をかけていらっしゃるんですね。そして決まって言うことは、「いつも心配してるのよ。何かあったら相談に乗るからね」とこうです。別にこの方々に心配して頂くようなことも、相談するようなこともないのですが。こういうのなんて言えばいいんでしょう。悪いですが、なんだか節操がないと思ってしまいました。人を傷つけたことは都合よくすっかりお忘れになっておられるんでしょうね。また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
結局は、頭数を揃えるため、そして自分が活動しているという既成事実のための、マニュアル文句をただ口にしているだけの、心のない虚しい言葉に響きました。

>信心歴だけはアネモネさんよりあるかも知れませんが、‥

やはりそうでしたか。今ごろになって、恥ずかしくなってきました(笑)
でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。ありがとうございます。
そうそう、別のスレッドで拝見しましたが、孤独の迷子さんは埼玉なんですね。実は、私も埼玉なんですよ。いつかオフ会などで、お目にかかれるといいなぁなんて思いました。

>組織のトップの人たちは本当に宗教の力を信じているのかどうかはなはだ疑問です。信じているのだったら、教えから外れるようなことは出来ないだろう思いますが。

本当にそうですね。信じている振りをしているようにさえ思えます。しかも、それを見ている他の信徒も、実はいろんなことをよーく見ていて、従っている振りをしているような‥。もしかすると仮面信心の組織なのかもしれませんね。だけど、こうでなきゃいけないという信心と組織の形というものがあって、やはり固定観念ですね。それが強くて身動きがとれず、その形のために、大事な人間性を捨ててその振りに徹している。その振りの形が信心だということになってしまっている。まどろっこしい説明になってしまいましたが、なにかそんな感じもしたりもします。

513アネモネ:2002/09/16(月) 09:43
(つづき)
>この30万総登山も個人的には、何かしっくりきませんね。

本当に同感です。私はとうとう参加拒否になりました。ですので、五月雨さんの生々しいレポート、とても貴重に読ませてもらいました。
入信して7〜8年ですが、30万登山のことは信徒の大きな目標として掲げられた所へ、その意味をよくわからないまま入信したんですね。徐々に信心が深まっていくものの、年々、その数字に講をあげて信徒が煽られ踊らされていく様子がとてもチグハグに感じてきました。私のことを仲間に入れてくれた講の人々が、徐々に徐々に人間性を失っていく姿を見てきた7〜8年だった気がするんです。
その数字のために、多くの人が入れ替わり幹部になりましたが、生活や仕事を犠牲にし、そして最後は人間性とともに自分を見失っていく。そして同時に心の奥底には、疑心暗鬼とともに怨執みたいなものも芽生えてしまう。その頃には顔つきまで変わっていかれます。これが、幹部のたどる道のように思えました。
結局は、心に余裕がなくなってしまうんですね。私は組織とは別に、そんな心の常態になってしまったことを経験したことがあるのですが、そこから脱却して健全な心を取り戻すには、そのグルグルの渦から物理的に逃げ出すしかないんですね。逃げることは決して卑怯でもなんでもなくて、自分を大切にすることなんだと、そう思うんです。離れて健全な心を取り戻すと、かつて苦しんでいた自分の状態が冷静に見えてくるんですね。

先日、たまたま道で地区長と二度もバッタリお会いしました。一度目は道を隔てていたこともあってご挨拶を避けられてましたが、二度目は至近距離で避けるわけにもいかなかったのでしょう、いきなり「30万行かないの?」これがご挨拶でした。もう、普通のご挨拶も出来なくなってしまわれているんですね。この方、壮年部の方のお葬式の式場でお目にかかったときも、いきなりこのご挨拶だったんですよ。ご自分ではそれが正しいご挨拶になっているんでしょうね。悪い人ではないんです。真面目な方なんですね。なのに組織信心に真っ直ぐに生きているために、とうとう奥さまと子どもさんは出て行かれたそうです。本人は自分の信念で信じているからまぁそれはいいとしても、家を出て行くしかなかったご家族はさぞかし情けなかったことと思います。何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。こういう状況に陥ってしまっている人、またその潜在的な予備軍の人がどれほどいるだろうかと思うと、お寺を離れたからといって決して無関心でいてはいけないなと思い、こうして掲示板に参加していこうと思っています。

514犀角独歩:2002/09/16(月) 18:45

ここの掲示板でも、ずっと長いこと30万登山が話題になっているわけなんですが、なんでこんなことが大騒ぎになるのか、一般からすれば不思議なことですね。

30万登山に行く=信心があるという図式がここにあるようで、インスタントな信心の証が目先のニンジンになっているわけですね、これは。

法華講員に限らず、学会員もそうですが、「いかに自分が信心があるのか」を証明するために、組織が提示した信心の証明法を疑うこともなく夢中になって実行している構造があるわけですね。

法華講であれば、30万登山、供養、学会であれば、それに投票依頼、新聞啓蒙、書籍販売、民音の勧誘まで含まれ、顕正会も共通するのが、朝晩の勤行、折伏。これらは、みな信心の証明として用意されているわけです。各人が信心ある証明となる実践項目はしかし、組織に縛り付け、労働力と金銭を差し出す形で具体化される、信者は一所懸命、自分が信心があることを、周囲の人間にアピールするために熱心になっていく。そして、誰により自分自身に対して、信心がある証明をしようと躍起になっているわけですね。

しかし、こういうトリックに引っかかること自体、要するに信心なんてないからでしょう。そして、構造的には信心が労働力と金銭拠出にすり替えられていく仕組みがひそんでいます。信心は本来、個人の功利性を約束するものであるのに、あにはからんや個人ではなく組織が労働力と金銭を得る結果となっているわけです。

このように個人の目的が、いつの間にか他の目的にすり替えられる仕組みをマインド・コントロールというわけです。強盛な信仰心が強烈なマインド・コントロールである仕組みがここに隠されているわけです。これは信仰の問題ではない社会心理学的な問題であると私が感じる所以です。

515犀角独歩:2002/09/17(火) 07:40

↑ 信心の証明ばかりではなく、功徳(御利益)があるというおもらい信仰も含まれますかね。

516孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:32
アネモネさん

 > ついつい自分を良く見せようという意識が働いて、レスを書いてしまうとこがあるのかもしれないなぁと思います。

 これまでのアネモネさんのレスから、そういう意識は私には感じられませんからどうぞご安心を。
 ただ毎回感心させられていることは、いつも文章がよくまとめられて書かれているなーと、質問を投げかけても具体的な事例をもって答えて貰えるので、とても参考になるということです。

 > 私の場合、冷静な自己がある前に、失敗を経て、痛い目にあってようやく気がついたという場合が多くて、・・・

 行動的な方なのですね。羨ましい。私は行動する前に考える方が先に立ってしまって、その間に機会を逃してしまうということが多いです。

 > 「このお寺は本当に宿業が深いし、そこに所属している私たちも同じで、それも因縁なのよね」と、諦めにも似た言葉を吐いていたものです。

 この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、これに似た言葉は私も嘗て組織の中で聞いたことがあります。この一点を見ても日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

 > また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。

 このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。宗門ではある時期「祖道の恢復」といっていたことがありましたが、どうも恢復はされなかったようですね。それとも別の意味合いがあったのでしょうか。

 > でも、そんな私にレスを続けてくださって、本当に嬉しいです。

 こちらこそ助けられていると思っています。ここでやりとりしていることは組織の人には聞けない雰囲気がありますし、また、聞いたとしても真面目には答えてくれないでしょう。例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。
 以前、常々疑問に思っていたことを聞いてみたら、いきなり「あんたは提婆達多だ。」と言われたことがありましたが、その時は何だか分からず、頭の中で「?」が舞っていました。今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

 私もいつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

 > 何のための仏法なんだろうなぁと思いますね。大石寺よりも自分の家族を下に置いてしまう信心って、本当に成仏の道なのかなって思います。

 「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。
 信心という名の下に、何かしらのすり替えが行われて、そのことで豊かになる人たちがいる。そして、その一方では苦しまされる人たちがいる。でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

517孤独な迷子:2002/09/20(金) 06:58
独歩さん

 <514>のレス、その通りですね。
  組織信心のただ中にいる人は、もう自分の置かれている状況が見えなくなっているのかも知れませんね。
私はニンジンに釣られなくて良かったのかも知れない。

518アネモネ:2002/09/23(月) 23:06
孤独な迷子さん

>この考え方というのは、念仏の思想に近いような気もしますが、‥日蓮聖人の教えというものが正しく組織の中に流れていないと思ってしまうのですが。

私などは、日蓮聖人のイメージとして、「前向き」「プラス思考」「ポジティブ」「問題解決型」などの言葉が浮かぶのですが、全然そういうものが感じられないですね。

>>また、言葉のとりようによっては、お寺に行かない私が不幸であるに違いない、不幸であってもらわないと困るといった感じにも受けとれます。
>このような発想をしているとしたら、最早仏教の信仰者とは言えないかも知れませんね。慈悲のかけらもないと思います。‥

私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、かつてお寺に参詣していた頃、座談会などでは、家庭訪問に行ってきた方が、そのご家庭の様子について報告されることがよくありました。もしもその内容を、家庭訪問を受けた方が聞いたら、どれだけ気を悪くされることかと思うようなことを平然と話されているんですね。たいてい、生活に困っているとか、落ちぶれているとか、病気がちだとか、そういったことを本人不在の講中に向かって話し時には拍手も出るほど盛り上がっている光景を、私はとても異様だと思いました。そして横で住職は、薄笑いを浮かべて話に頷いて喜んでいるのです。

また、講頭がある信徒の家のお引越しを手伝いに行かれまして、そのときに押入れの奥から何やら、いわゆる謗法の像のようなものが出てきたらしいのです。長年住んだ家の押入れの奥深くに何をしまってあったかなど、わからなくなっているのは当然です。出てくることもあるでしょう。黙っていてあげればいいものを、講頭はそれをお寺の座談会の場で、その方の名前まで挙げて得意気に話しているんですね。そして「お寺に来ない人の家ではこういうことになっている。怖いことです」などと言い、住職はそれを受けて補足に嫌味なことを話して締めくくられました。

また、ある学会員から住職宛に届いた私信を、差し出した方個人の住所が記載された封筒とお手紙の全てを、ホワイトボードに貼り出したりということもありました。

信仰の目的で、家庭訪問に行って聞いたことは、これは決して安易に人に口外してはならない問題を孕んでいることが多いと思うんですね。聖職者の立場は秘匿義務として、そのことを厳しく戒められているものだと思います。そしてそれは信徒が家庭訪問する場合だって同じだと思うのです。そこで見てきたこと、知り得たこと、感じたことは、その人の責任において自分の胸に留め、そのうえで訪問先の方との信頼関係を築いて信仰について語り合っていくのが家庭訪問の目的だと思うのです。ところが、大前提にある秘匿義務につていの指導がまるで野放しでやみくもに家庭訪問が行われ、その報告と称して講の中で半ば面白おかしく語られてる実態に対して、住職は注意はおろか一緒になって盛り上がっているというわけです。

こうなると、いわば「見せしめ」という言葉しか私には思い浮かびません。もしも、自分がお寺から離れてしまうと、こういうことを言われてしまうんだという脅迫ですね。こういうこにより、心理的に怖くて、とりあえずお寺の組織から離れられないという方がけっこういると思います。こういうひとつひとつの振る舞いが、信徒をマインドコントロールしていると思うんですね。
私もそうした恐れを抱いていた時期もありましたが、でも私はこれこそ、与同罪になるのではないかと思うようにもなりました。たとえ自分がその話の盛り上がりに対して、冷めた態度を決め同調しなくても、そのような見せしめの場に居合わせていることそのものが、同罪になっていくのではないかと思ったんですね。自分が、中傷されることよりそっちのほうが怖いって思うようになりました。そう思うえるようになったら、何を言われたっていいじゃないって、気が楽になりましたね。

519アネモネ:2002/09/23(月) 23:08
(つづき)

>例えば「体験発表」の裏話みたいなものは表には出てこないでしょうね。

そうでした。孤独な迷子さんの最初のご質問は、「体験発表」によく語られる奇跡についてでしたね。
最近また、私の折伏の親と話をすることがあったのですが、私と同様、お寺にも行かなくなり、登山も参加拒否をして当たり前の日常を送っているようなのですが、だけど、どうしても長年染み付いた、いわば学会当時から身につけてしまった因果を、一日の生活の細々した出来事の大半に結び付けてしまう習慣はなかなか抜け切れないようです。たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。だから、こうなる。だから、息子の持病が悪くなった‥とこうくるわけです。それが朝目が覚めて、夜眠りにつくまでのひとつひとつの出来事を全て結びつけているんですね。良いことは、仏法を持っているから、悪いことは信心をさぼっているから。この単純方程式だけのようです。
確かに日蓮聖人の説かれた書の中には、このようなことも書かれていることと思いますが、だけど、これが一日の大半の行動を支配する考え方になってしまっては、結局、目の前にある問題は何も解決されないだろうなと思うんですね。もしかしたら、これが先にも述べたお寺の諦めムードにもつながるものかもしれません。息子さんの持病の悪化は、生活態度や習慣の変化に因るところが大きいでしょうし、治すためには、病院に行くなり、生活改善を試みるなりすることが大事です。だけど、過去世の宿業と因果で納得していては、何も問題は解決されないんですね。さりげなーくそのことを伝えるのですが、刷り込まれてきたものへの確信が強く、その場は納得されても時間の経過とともにまたもとに戻っていますね。気長に対話を重ねていくことが大事ですね。

>今思うと、組織に対して批判的なことというのは(当時は批判するつもりはなく、疑問を投げかけただけでしたが)、受け容れられないようですね。

顕正会が発刊書籍の新聞の一面広告の掲載したとき、入信間もない私は、このことをどう捉えればいいのかわからず法華講連合会にお問合せのお電話を入れたんです。その前に所属寺院にお電話を入れたのですが、長い間、話中でしたので連合会にかけたのでした。そうしましたら、電話応対のマナーを知らないような女性が出られて、「大石寺とは関係ない組織です」と一言。「それではどうして大石寺を名乗っているのですか?」と続けて聞きましたら、「法華講の方なんでしょ。そんなことに興味を持たないほうがいいですよ」で切られてしまいました。まずこの度の五月雨さんの三十万登山の報告にもありましたように、宗門にしろ連合会にしろ、その組織の実態は、電話応対のマナーすら行き届いていないほどの、いわば体裁だけ繕った非常に脆弱な組織だということがわかりました。
そして何よりもその基本的姿勢ともいうべき組織の体質は、「依らしむべし、知らしむべからず」の封建意識で、信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。
このことは、今回、金正日が拉致事件を認め謝罪したことについて、北朝鮮の国民に向けては全く報道されていないそうですが、それと似たようなものだと思います。

>いつかオフ会に参加させていただきたいと思っています。皆さんきっとすばらしい人たちなんでしょうね。

私も心臓が飛び出るかと思うほど、ドキドキして参加しました。でも、参加して本当に良かったですよ。いつかお目にかかれる日を楽しみにしてます。

520アネモネ:2002/09/23(月) 23:09
(つづき)

>「一家和楽の信心」という言葉がありますが、この方はどのように捉えているのでしょうか。

きっと、本当は寂しい思いを噛みしめていらっしゃるのだと思うんですね。だけど、その気持ちを認めてしまったら、何もかも今の自分を支えているものが崩れ落ちてしまい、自己の存在否定にもなりかねないわけですね。この方へかける言葉は、私には見当たらないです。きっとそんな寂しい心の奥底にある本心も、誰にも語ることはないでしょうね。

>でも、その苦しみの中にいる人たちは、それを自分の宿業と捉えたり、また成仏への道と捉えたりしているのでしょうね。

人生においては、誰にでも大なり小なり浮き沈みがあり、どん底を経験するものではないかと思います。そして、絶望してしまうことってあります。私もそういうことがありました。
だけど、「あーもう私はだめだ」と思ったその次の瞬間に、どこからともなしに、元気が出てくることがあるんですね。それはもしかしたらただの空元気かもしれません。だけど、逆境の絶望の中にあって希望を生み出すというか、そんな気力が出てきたときがあったんですね。
人生の扉をこじ開けるというか、そういう力がどこからともなしに出てきて、切り拓いていく。振り返ってみると、その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。
自ら希望を生み出す力ですね。もう、どうにもならないはずの自分が、生きていこうと力強く思う。そんな気力なんてあるはずないのに、なんとか自分で立ち上がろうとする。
これはもしかすると、いつか寿命が尽きて死んでいくときでさえ、その死の先に希望を見ようとすることが出来るかもしれないもので、それこそが信仰心が為せることなのかもしれないなと想像します。

だけど、人生の絶望に希望を生み出す信仰を教えるはずの既存の宗教が、組織の論理で更なる苦しみを与えているとしたら、これは本来背負う必要のない苦しみですね。その苦しみに耐えたところで、肝心の人生の苦しみは解決されず扉は何も開かれていかないのではないかと思います。開かれていかないことを過去世の宿業としたところで、何も希望は見出されませんね。
そんな人たちが集まって、お寺に来ない人の悪口を言い合って盛り上がり自分の状況を納得しているわけです。
私は仏教の教義はよくわかってませんが、だけどそんな講の様子を咎めることなくその場に居合わせることは、きっと与同罪になるのではないかと思うようになったんですね。
本当にいろいろ考えさせられますね。

521みかん:2002/09/26(木) 12:32
すいません、既出の質問かもしれませんが、
大石寺の奉安堂は、現在ではいつ完成の予定になっていますか?
2002年の10月と聞いていたのですが。

522五月雨:2002/09/26(木) 12:53
みかんさん はじめまして。

奉安堂は外側は既に完成しております。あと内装と回廊の工事をしているみたいですが、ほとんど出来上がっているでしょう、憶測ですみません。落慶法要は10月12日から10日間あって一日5000人、合計50000人の落慶法要登山があるそうです。私が聞いた法華講の人の記憶に間違いがなければいいのですが。

523みかん:2002/09/28(土) 21:39
五月雨さんこんにちは。
予定通りに進行しているのですね。
どうもありがとうございました。

524五月雨:2002/09/28(土) 21:52
みかんさん こんばんは

みかんさんはこの法要登山についてどう思われますか、あなたは申し込んでいないの?それとも行くことの出来ない組織に所属しているとか・・・奉安堂が気になるとは学会の人かしら。法華講の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

525みかん:2002/09/28(土) 22:46
私は無所属・無信仰です。

526みかん:2002/09/28(土) 22:54
五月雨さん こんばんは

五月雨さんは大石寺門流の信者・僧侶が、相手の所属をいちいち聞くことについてどう思われますか、あなたはどうして聞いたの?それとも聞いて相手の素性がわからないと不安な組織に所属しているとか・・・相手の所属が気になるとは日蓮正宗の人かしら。創価学会の人間よりも数倍気にしているのが、何だか面白いですよね。

527五月雨:2002/09/29(日) 07:19
みかんさん

ご気分を損じたみたいでごめんなさい。私はとりあえず法華講の者です。だってみかんさんはいきなりこの掲示板に登場されて
一番目のレスだったでしょ(二番目だったかな)。私は答えたものの、法華講の人なら知らない筈はないのにな、と思ったのです。そして学会の人には結構執拗に奉安堂について聞かれるものですから、みかんさんもそうなのだろうかと思った次第です。素性の判らない人に教えた不安はたしかにありましたよ。そう思っては駄目ですか。


>私は無所属・無信仰です。

の方が、奉安堂について興味を持たれているみたいですが、どんな点に興味があるのですか、なーんて聞くと叱られますね。

528みかん:2002/09/29(日) 11:56
五月雨さん、感情的に反応しまして、すいませんでした。
あらためましてよろしくお願いします。
わたしは前からこの掲示板を知っていたので初登場だったという自覚が足りなかったのと、
正宗寺院に用事でいくたびに、「学会の人?」などといやそうに根掘り葉掘り素性を
探られた経験を何度もしておりますので、カチンときた次第です。大変、失礼しました。
(相手の素性を知りたがるのは学会も同じのようですね。)

とある文章を書き終えたものですから、奉安堂についても言及しているので、
もし完成時期が違っていたら、その部分を書き直さないといけないという理
由からの質問です。

ご参考までに当該部分を引用します。
>1955年までは御宝蔵に秘蔵されており、それ以降は創価学会が寄進した奉安殿
>に安置された。1972年からは正本堂に安置されたが、1998年に正本堂解体
>にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。2002年の10月に、
>現在建築中の奉安堂に遷座される予定である。

登山に関しては、部外者なので、良いとも悪いともとくに感想はありません。
五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

529五月雨:2002/09/29(日) 13:13
みかんさん

ご事情よく分かりました、私も言葉に過ぎたところがあったと思います。お詫びいたします、私も改めましてよろしくお願いいたします。

>1998年に正本堂解体にともない、新たに建築された奉安殿に遷座されている。

ここのところは、新たに建築された奉安殿ではなく、多分増改築されただけだったと思います。私は昔の奉安殿でご開扉を受けたことがないので、今と昔の奉安殿が同じかどうかは分かりません。でも奉安殿に戒壇本尊が戻されたと聞いたような記憶があります、ここのところはハッキリご存知の方にお答え頂くのが良いかもしれません。

>五月雨さんは今回の登山に批判的なご様子ですが、なぜですか?
ノルマ主義、数が多ければいいみたいなところがあるからでしょうか。

奉安堂は『立教開宗七百五十年を祝して、毎日一万人が参加して、一ヶ月間、三十日に亘って法要を執り行う』為に作る予定だったのが、設計に手間取って、三十万登山に間に合わないという陳腐なことになってしまいました。結局法華講は、三十万登山に参加して(それも何度も)その上に落慶法要登山への参加もしなくてはなりません、自分達のミスでこうなってしまったのに、反省もなく参加者を募るのは、二重の強要だと思ってます。
法華講は年寄りが多く、どこかしら具合が悪いのに、身体に無理をしながら登山するという人達を見て、複雑な思いを抱きました。
行くと言う本人達はそれで幸せなのだから良いのかもしれませんが、その信徒の気持ちを利用する石山が許せません、そんな気持ちです。

530孤独な迷子:2002/09/30(月) 06:55
五月雨さん、皆さん、お久しぶりです。

みかんさん、はじめまして。

 レスを一つ入れさせていただきます。

 
アネモネさん

 ご無沙汰しています。

 > 私はとうとう家庭訪問を受ける側となりましたが、・・・。

 それは羨ましいような・・・。私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。
 確かに組織から離れた人のことは悪く言っても、良く言うことはまず無いですね。だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、挙げ句の果てには「そのうちに現証が出る」などとの賜れる始末です。これではいくら信心、信心と言ったところで、その信心は深化しないでしょうね。
 「釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候・・・(趣意)」と言うような御文があったような気がしますが、そういうことは皆さんあまり意識はしないのでしょうか。

 > たとえば、唱題してないから、お寺に行ってないから、折伏してないから、勤行さぼってるから、だから命が弱くなってる。

 この考え方というのは私の中にも根強く生きています。先日車を運転していてヒヤッとしたことがありました。その時何を思ったかと言えば、「最近組織に出ていないからか」とか、要するに「今までの信心の形から外れているから」と言う感情が先に出てきてしまうのですね。そういう思考回路が出来てしまっているという事実を改めて確認してしまいました。これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

 > 過去世の宿業と因果で納得していては、・・・

 「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

 > 信徒に対しては何か疑問を持つことすら謗法だと刷り込んでいるんですね。

 30万登山の2,3年ぐらい前から「絶対信」という言葉が連発されていたことを思い出します。「無疑曰信」という言葉より強力なニュアンスを含ませていたのでしょうかね。

 > その逆境のときにどこからともなしに出てくる精神力というのは、信仰によるところが大きいのかもしれないなと思います。

 アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

531妙薬:2002/09/30(月) 09:43
今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
私は昔の奉安殿と今の奉安殿も入りました。実質2倍近く広いですね。
30万総登山に関しては、それぞれの立場によって様々な見解があると思いますが、
多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りす
ることで感激するものです。
私自身には若干の不満がありますが。

532犀角独歩:2002/09/30(月) 11:35

妙薬さん:

ここの掲示板の文章を読み違えているでしょう。

> 多くの法華講員は、決して「不満」とは考えていませんよ。大御本尊にお目通りすることで感激するものです。

不満と考えていない、また戒壇之漫荼羅を言われるままに信じ、言われるままに登山する、その点を問題視しているのですよ。

533みかん:2002/10/01(火) 00:21
五月雨さん。
大石寺は過大な登山負担を信者に強いているということですか。なるほど。

妙薬さん。はじめまして。
>今度用無しになる奉安殿は、正本堂解体に伴って増改築したものです。
これは、正本堂以前に以前使われていた奉安殿を増改築して、
再利用していたということでしょうか。

孤独な迷子さん、
はじめまして。よろしくお願いします。

534アネモネ:2002/10/03(木) 10:36
孤独な迷子さんお久しぶりです。

>私など家庭訪問はおろか、電話の一本も掛かって来なくなりました。有り難いような、寂しいような。

こういってはなんですが、お寺の近くに住んでいる私の家には、活動してますという既成事実のために立ち寄っていらっしゃる方が多いような‥そんなところかと思います。それも、30万登山が一応締め切りとなってからはほとんどないですよ。静かになりました。
孤独な迷子さんは、心無い振る舞いをされた方たちであっても、そのように懐かしくも思っていらっしゃるのですね。そういう優しい心持ちこそ、大事だと思います。

>だいたい組織に出られなくなるのはそれなりの理由(原因)があってのことだと思いますが、その原因に対してはほとんど議論されずに、とにかく「出ない」ことへの批判、

そうなんですよ。問題の根本を解決しようとしない。問題の根本は、因縁ということになっているんですものね。でも、かつて私が気にとめていた問題とは、コミニティとしての法華講組織のあり方だったんですね。でも、それ以前に、そのコミュニティ形成の目的を裏付ける理論そのものが、崩れてしまい、もはやその問題を考えること自体が無意味になってしまいました。信心歴の浅い私も、多少の虚脱感はありましたが、気をとりなおして自分の信仰観を求めていこうと思ってます。

>これはしばらく続く後遺症のようなものかも知れません。

そうですよねぇ。かく言う、私も実はそうです(笑)

>「それは自分の宿業だ」とか「罪障だ」とか、よく耳にした言葉です。だいたい最後はこの言葉に帰着されてしまうのですね。それで納得する人はそれこそ信心強盛にやっていけるのかなーと思いますが。私は納得できませんでした。

罪証だとか宿業だとかは、要するに「過去世」のことを言っているわけですが、誰も見てきたこともないことを、確信をもって方ってそして納得するんですよね。自分のことについてはそんな納得も自由ですが、でも人のことまで、確証のないことを確信をもって言って惑わしてほしくないものです。

>アネモネさんはこの時期には既に信心をなさっていたのですか。

あっ、いえいえ、私が特記したこの時期は、まだ日蓮正宗の信心ではないですね。その前の宗教ですが‥。でも私はこのことについては、いずれの宗教にも、きっとそのようなはたらきがあるのではないかと、それこそ信じてるんですよ。

>とこのような質問をすること自体、これまでの信心に拘っているのですね。

全然、そんなことないです。これまでの信心の全てを否定することはないですよね。
私は、宗教の恐ろしさにはしっかり目を向けるようにしてますが、それでもやっぱり人生において信仰を持つということは、生きる喜びを感じる素晴らしいものであるに違いないと思ってるんです。いちりんさんも書かれてましたが、学びはあるということですよね。孤独な迷子さんも、これまでの信心の中できっと何か掴んでいらっしゃることがあり、それがこの掲示板への書き込みにも繋がっていることと思います。

535TGS:2002/10/29(火) 02:05
 始めまして、TGSと申します。
 幾つか教えて頂きたいことがありまして書きこみさせて頂きます。
 実は私の身近に富士門流信徒だと思う方(Aさん)がおりまして、Aさんの話が理解できず困って、というより悩んでいます。
なにか解決のヒントが頂ければ幸いです。

 第一に、Aさんが富士門流信徒だと思うのは、実家が富士宮でその近くに自分が信仰する宗教の総本山があると聞いたからです。
この推測は間違っていないのか。本人に聞いても曖昧な答えをするだけなのです。「確かそうだったはず」ぐらいで。

 Aさんはかなりの頻度で実家に帰るのですが、その理由が「行事」なんだそうです。自分が参加することもあれば、海外からくる
信者さんたちの世話をするのだそうです。大きくみてボランティアと見なしても、だいたい一月に一度、多いときで3回は「行事」
に参加しています。普通そんなに行事があるものなんでしょうか?
 
 世界各国から来る信者さんたちは何をしに大枚はたいて日本に来るのでしょうか?ガンジスを目指すヒンズー教徒と同じものなのか。
Aさんの話ではみんだここ(本山)に来て何かを成し遂げるために苦労して来ている。それに集中してもらうためにAさんは手助けし
ているのだそうです。
 仏教には『聖地』というイメージが無いのでなんだかAさんの話は違和感を感じました。

 Aさんの信仰する宗教の目的はなんなんでしょうか?
 Aさんの話を聞くと、信徒の皆さんは己を省みない方が結構いるようです。たまたま、悪い人の話しか聞いてないからかもしれませんが、
中には明らかな犯罪者もいたりします。その他「人としてどうだろう?その人たちはなんのために信仰しているんだろう?」という話をよく聞くのです。

 Aさん自身は幼いころからその宗教にふれており、本人も言う通り「当たり前のもの」として信仰しているそうです。

 私が突っ込んだ話をすると
「私は説明できないけど、ちゃんと話せる人がいるからその人に質問したら答えてくれるよ」
「自分で説明できないことをしてるの?なにも考えずにしているの?」
「・・・・・・・・・」
 といった感じです。

 Aさんの宗教は自分の信仰するその宗教以外は全て認めないんだそうです。
 その宗教以外を崇めたり、なにも信じないのは悪縁なんだそうです。
 教会での結婚式にも出席できないんだそうです。
 異なる宗教の葬儀には、例えお世話になった人でも出席できないんでしょうか?

 ちょっと取り留めがなくなりました。すみません。

 もしかしたらAさんの(Aさんの親の)解釈が間違っているのか
 これが教義なのか
 分からないのです。

536やーこ。:2002/10/29(火) 05:09
TGSさんはじめまして。
話から推測しますと、やはりAさんは大石寺のようですね。ただ、少し話が違う点があります。
他宗の結婚式や葬儀には参加していけないことはありません。一緒に御経とかあげたり同調しなければOKです。
行事が多いとの事ですが、イベントとしては二つに大きく分けます。なので多く感じるかと思います。
ひとつは、古来からある宗教独自の法事、お会式法難会等。もうひとつは折伏や布教、信仰を深める為の行事、法華講主催の登山夏期講習会仏法セミナー等。
信仰の目的については全くばらばらで自覚の無い人もいます。

537やーこ。:2002/10/29(火) 05:21
ご指摘の通り、確かに自己中心が多いですね。けれども、信仰するのに自己中心とか犯罪者は駄目ということはないはずです。宗教では全ての人が平等です。ただ、僧侶役員とかの位がありますが。
世界各地の信徒は何が目的か、といいますと、ズバリ、大石寺の戒壇の大御本尊の参詣です。この宗教ではひとつしかないので。
対処としては、ほっとくのが一番です。信仰は自由ですので、やりたいようにすればよろしいかと。
分からないものは無理に解決する必要は無いと思います、混乱するだけですから。

538犀角独歩:2002/10/29(火) 08:10

やーこさん:

戒壇の本尊は少なくとも四つは取り沙汰されていますよ。
ただ、一つではないでしょう。

詳しくは『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』を。

539やーこ。:2002/10/29(火) 16:25
この宗教ではひとつしかないので
この回答に表現上の誤りがありました。独歩さんのご指摘通りです。
宗教上では複数あるものの、組織内では「日本の大石寺の奉安殿にのみ存在」と教えられているので
と訂正させて頂きます。失礼致しました。
尚、海外信徒の方は信仰については国内信徒より純粋で厚いようです。
ただ、この表現は裏を返せば「凄い狂信」ととらえることが出来ます。国内信徒に対しては、海外信徒に負けてる!と組織内で各方面から言われています。

540TGS:2002/10/30(水) 23:17
やーこ。さんありがとうございます。

大御本尊の参詣にはなにか特別な意味があるんでしょうね。私には理解しにくいのですが。
信じていない私としては参詣する時間と金があるならほかに大事なことができるんじゃないかと考えてしまいます。
遠藤周作の「深い河」のラストで、マザーテレサの修道女が言う「それしか・・・この世界で信じられるものがありませんもの。わたしたちは」という言葉が全てなのか。

しかし、同じものを信じる人たちがお互いを正しあえないのはおかしいと思いました。
「教え」自体に「こうしなきゃだめですよ」っていうのはないのかな?

Aさんのお母さんがちょっと変わってるのかな?Aさんの姉は教会で式を挙げたんですけど両親は参加せず。Aさんも披露宴のみの参加。
ほかにも鳥居はくぐれないとか。

541TGS:2002/10/30(水) 23:38
鳥居がくぐれないといのはほかの宗教でも見かけることですし、あまり批判か

HP創価学会独立独歩の「1時間でわかる日蓮仏法入門」なら結構共感しやすいんですけどね。

Aさんは親しい方なので完全に理解を放棄するのはできないので、みなさんの話も参考に少しずつ話し合っていきたいと思います。

542菊水護国:2002/10/31(木) 09:35
鳥居は、神社のものではありません。
清浄と不浄の間に立てる、門です。
ですから、大石寺では、鳥居を管理してた時期があります。
学会以降の誤解がたくさんあります。

543菊水護国:2002/10/31(木) 09:40
それに、本来の大石寺信仰は、キャパシティが広いですから、あまり何がいけないという制約は少ないです。
ただし、現在の法華講信仰は、お堅い所が少なくありません。
その方も、何で娘の婚式に出ないのかな。こんな教義じゃないんだけどね。

544菊水護国:2002/10/31(木) 09:41
訂正。「婚式」は「結婚式」の誤りです。

545犀角独歩:2002/10/31(木) 11:52

そうですね。石山も以前は四手(垂)はしなかったけれど、注連縄はしていたんでしたね。
浅間神社は石山がみていたわけですから、当然、鳥居なんかに否定するはずもないでしょう。

垂迹堂というのも考えようによっては寺院敷地内の祠みたいなものと言っていいかもしれません。

546やーこ。:2002/10/31(木) 13:38
菊水護国さん
私のレスは、化儀抄のやさしい解説からですが、寛容でない部分もありまして、中には、子供が信仰を捨てたときには勘当しなければならない、出来なければ親が師匠に処分される事があったような。

547TGS:2002/10/31(木) 23:16
やっぱり結婚式に出ないのはちょっと変わっているようですね。

Aさんの話では浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建てていて、非常に迷惑だと言っていました。
犀角独歩さんの話からするとAさんの発言は何を意味するんでしょう。
大石寺信仰の中でも派閥があって、その中での発言が広まっているしょうか。

勘当とか処分とか穏やかでないですね・・・
確かこの掲示板だったと思いますが「人が伝え、人が理解する教義が完璧なはずがない」という言葉を思い出します。

信仰のもち方が千差万別っていうのが日本人ぽいって言えば日本人ぽい気がする。偏見かな?

548犀角独歩:2002/11/01(金) 00:52

TGSさん:

はじめまして。
私の名前が出ましたので、レスします。

> 浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建て

鳥居が建っているのは富士宮の駅前でした。
これは現在、取り壊されてしまいました。
どこぞの圧力によるものだと言います。

富士山の頂上に鳥居があるかどうかは私は知りません。

結婚式に出ないのはもちろんおかしいでしょう。
ところが反対にまだ自前の墓園を持たなかったときには、強烈な布教から警戒され、墓地埋葬を拒絶されたことが会内の深刻な問題になった時期がありました。昭和30年代頃からのことでした。これを不服として、墓埋法を根拠に他宗派と争っていたものでした。こんな歴史は今の人たちは知らないでしょう。このような自身の信仰上の矛盾に気が付いていくことは大切なことであろうかと思います。


なお、一点、私の考えを記しておきます。
私は、本人の考えに直接、意見を述べることは是であると思いますが、公開の掲示板で、匿名であれ、第三者を題材にして、議論をすることは好ましいと思いません。

「○○会の○○という人がこういった。この人はこうあるべきだ、あああるべきだ」という議論には私は参加しません。何故ならば、万が一、その方がこのような公開の場で自分が題材にされ、批判されていると知ることになれば、絶対に良い気はしないと予想が付くからです。フェアではないし、第一、人権侵害に抵触すると考えるからです。

これは、もちろんTGSさんを批判するために申し上げるのではなくて、私の立場を闡明にするばかりに記すことです。ですから、その他のTGSさんご自身が、ご自身のことと、所属される団体について、あるいは個人の責任を踏まえたうえで考えられることであれば、そのような議論には参加させていただこうと思います。これは他の参加者の方々に対しても同様に私は考えます。

以上、僭越ながら、一言、申させていただきました。

549ガンコ:2002/11/01(金) 05:55
ちょっと失礼します。
わたくしの文章は(厳密に見て)独歩さんの考えに抵触するのでしょうか?
わたくしは独歩さんから教えていただくことが多いものですから、つい関係ないところで名前を出したり、文章を(意訳的に)引用してしまっています。
好ましくないのであれば、以後気をつけたいと思います。

550菱村正敏:2002/11/01(金) 06:27
>Aさんの話では浅間神社が富士山の頂上に鳥居を建てていて、非常に迷惑だと言っていました。

 富士山山頂はたぶん浅間神社の所有地です。神社の境内地ということで
考えれば鳥居があるのは自然かもしれませんね。
 
 ご参考までに、江戸時代は大日堂と薬師堂というお堂があったそうです。
それぞれ大日如来と薬師如来が祀られていたとのこと。明治期の廃仏毀釈で
壊されました。富士山頂の外輪は8つあると言われてます。いちばん高い
ところが剣が峰ですね。そのほか「大日岳」と「久須志岳」というのが
あります。それぞれ大日堂と薬師堂の名残です。日蓮さんが生きていたころの
富士山はお堂があったかどうか分かりませんが、密教あるいは神道関係の
行者が修行する場だったと思います。

551菊水護国:2002/11/01(金) 09:42
江戸時代まで、浅間神社は大石寺が管理してました。
神社には出家がおりません。ほとんどが、在家の掛け持ちでした。
職としての宗教儀礼執行者がいないのです。故に職としての執行者(僧侶)が神社の面倒も見てました。
神仏分離令が出るまでは神社には、僧官と神官が並列してました。
神官は神様のお食事を運び、僧官は各種祈念を申し上げました。
神天上の法門とは「邪宗の僧侶(なかんずく真言僧)がその神社に在籍しているから諸天が去る」と言う意味であり「邪宗の僧侶在籍しない神社には、法華守護の神は戻る。もっと進めると、正法の執行者入ることが好ましい」という意味があるように思われます(堀上人の神社論にも類文があります)。

そして、僧官を派遣していた寺が、その神社を管領してました。
寺院に本地堂(本堂)があれば、垂迹堂があるのも当然です。
浅間神社が大石寺の下に入った時、大石寺内の垂迹堂が無くなったと思われ、その後は浅間神社自体が、大石寺の垂迹堂になったのでしょう。
当宗でも他宗でも同じ事が全国末寺にあります。旧寺院の傍に結構神社があるんです。
間違いなく、垂迹としての神社勧請はどんな宗派にも維新期前まであったのです。
神仏分離令はその伝統を壊しました。

552犀角独歩:2002/11/01(金) 11:29

549 ガンコさん:

私のサイト、書いたこと、考えを、他で披露し、また引用し、題材されることを痛痒はありません。

むしろ、その目的をもって、公開の掲示板に書いているわけです。私は私の意志でそのようにしております。ですから、どうぞ、ご遠慮なくなさってください。

もっと、赤の他人と間違われて論われるのは御免ですが(笑)

553いちりん:2002/11/01(金) 11:37
>550
おお、菱村さん、登場。
元気で、生きておられましたか。

554犀角独歩:2002/11/01(金) 11:53

> 550〜551

富士山頂が浅間神社の所有地というのは、そのとおりなのですが、実際はニュアンスが違うように感じます。元々は富士山そのものが御神体なのでしょう、山岳信仰であれば。

そこに神仏が習合し、時代時代で敬われ方が変わり、さらに政との関わりで扱われ方も変化したということで、その流れのなかで大石寺との関わりも生じたと言うことなのでしょうね。

> 浅間神社が大石寺の下…垂迹堂が無くなった…その後は浅間神社…垂迹堂

これは卓見ですね。説得力があります。
そして、神仏分離令で、石山と浅間神社は別の宗教団体と見做されるようになったけれど、石山には垂迹堂は再建されず、さらに、いま見られるような極端な神社忌避に陥ったという推移と言うことになるのでしょうか。

555菊水護国:2002/11/01(金) 17:21
でも今ほどの神社忌避って戦前までは無いんですよね。
これも学会イデオロギーの影響だと思います。
だって、旧信徒って、そんな忌避観持ってませんもん。

556犀角独歩:2002/11/01(金) 17:46

> 555

これはそうでしょうね。
私も、そんなつもりで賛同もし、554も記しました。

557犀角独歩:2002/11/01(金) 17:49

あっと、一つ。
菊水護国さんは、もちろん、そんなつもりで使っているはずはありませんが、「旧信徒」は学会が法華講に使っていた蔑称なんですね。

558菊水護国:2002/11/01(金) 18:59
>「旧信徒」は学会が法華講に使っていた蔑称なんですね。
知ってますよ。
若き日に、この言葉にもっとも、過敏に反応した方が、現在法華講の最高位におります。
もっとも、現在は名誉職だがね。

559マシンX:2002/11/01(金) 19:51
みなさま、はじめまして。いつも楽しく(笑)拝見させていただいております。私は、現在学会に所属しておりますが、かれこれ10年以上も非活動を貫いております。今の学会の信仰方針には納得できない点がたくさん出てきたからであります。ところで今回書き込みをさせていただいたのは、私自身の今後の事も含めて、95年に日蓮正宗から離脱した保田妙本寺のことでお伺いしたいのであります。妙本寺では現在、いつの時代の、どなたが書写された御本尊を下付されているのでしょうか?どなたかご存知ありませんでしょうか。

560知りたがり屋:2002/11/01(金) 22:45
はじめまして、
学会にも真剣に信仰ついて悩んでいる人がいて、実は驚いて書いてしまいました。当寺にまいりましたが、不在でしたので参ってはいません。
文永11年12月に書き表わされた万年救護の本尊とされています。
参道に積まれた石垣に、古い墓石が無頓着に使用されているのを見て、何故か歴史を感ずるとともに、ほっとしたものです。
広い駐車場もゆったりして、人気がなくのんびりしていました。

561TGS:2002/11/02(土) 01:02
独歩さんへ

私は何処にも所属しておりません(このような表現が間違っていたらごめんなさい)。しかし自分なりに宗教に対して「こうあったほうがいいんじゃないかな?その考えは矛盾してるんじゃないかな?」という思いがあります。

Aさんというのは実は私の付き合っている人です。Aさんが自分の宗教を語ったとき、とても違和感を感じました。慣習的で、自分の経験に基づかず、盲目的で一種洗脳的なものだと思えました。

私のその気持ちが偏見からくるものかどうか分からなかったのです。

もしも良識で見て、Aさんの考えや行動に問題があるなら教えて上げたい。
こんな考え方もあるんだと知って欲しい。

残念ながら私の言葉は聞き入れてもらえないようです。
Aさんにとって私は「なにも知らない人」なのです。

そして、皆さんの言葉ならと考えたのです。

悩みました。
こんな個人的なこと誰に相談すればいいのか。

私の発言で不快を感じる方がいらっしゃったならば、真に申し訳ありません。


独歩さんのご意見は真摯に受け止め、以後気を付けたいと思います。
ありがとうございました。

562犀角独歩:2002/11/02(土) 09:12

> 561 TGSさん:

お悩みのところはよくわかります。少しだけ、補足しましょうか。

このような公開の掲示板は、誰でも見ることができます。
特に大石寺系グループに所属している人であれば、閲覧する可能性は高いと思います。
たぶん、この点はTGSさんご自身、理解されているでしょう。もしかしたら、匿名で自分たちのことを記すことによって、パートナーが自分のこととはわからず、「自分と同じような事例」としてとらえ、考えてくれるのではないのかという思惑をお持ちなのかも知れません。(これは私の憶測です)

しかし、以上のような楽観的希望とは裏腹にまったく逆の結果となることも予想されます。私が心配するのはこの点です。もし万が一、パートナーが記述されたことが自分のことであったと知れたとき、どんなふうに感じるか、私はけっして良い感情は抱かないであろうと思います。

実は、こう記すには過去の反省があります。他のスレッドで奥様が大石寺信仰についた方の悩みを語るスレッドが立ったことがありました。その時に、私はそれなりの管見も記したのです。ところが何通か現役のパートナーである信仰をしていないことを悩む信者さんからメールが寄せられました。TGSさんとは逆のお立場の方と言うことになります。その内容については個人的に寄せられたものですから、他に示すことはルール違反なので記しませんが、ともかく内容は批判でした。私はその抗議を通じて、「問題にされる人の感情」というものを考え直してみました。

たしかにもし、私がパートナーであったら、こうした形で自分のことを公開で記し、意見を求めるようなことをされたと知ったとき、たぶん、ひどく傷つくと思います。けっしていい気持ちはしないと思います。相手に対する不信感につながるかもしれません。この自分に当て嵌めて想像してみるところから、私は548の自分の立場を示しました。

また、パートナー間における、これは友人間、親子間、その他の人間関係でも共通ですが、ここにおける不和、あるいは確執は、実は宗教の問題ではないというのが私の経験則です。しかし、その原因を宗教に求め、殊に正邪を言い争うことになだれ込むとき、原因は宗教にばかり求められるようになっていきます。けれど、簡単に言い表すことはできませんが、しかし、この本質は実は宗教問題ではありません。

宗教をしていない人からすると、相手が宗教の話になると別人のようになり、話が合わなくなる。そこで常に使われてしまうのがマインド・コントロールということです。(これはTGSさんのことを記しているのではなくて、一般論です)

極端な場合、その信仰に熱中している相手に対して、感情的に「あなたはマインド・コントロールされている」とまで言い放ってしまう人がいます。しかし、これは逆効果になることはあってもけっして、よい結果は生みません。言われた本人は不快感を感じ、そして、傷つくだけでしょう。極端な場合、その一言が深い傷となって、場合によってPTSDの原因となり得ることも多くあります。(実際、このような事例からマインド・コントロール論批判が展開する人々は存在します)

けれど、勧誘を仕掛ける相手は、常に“強者”と見做されていますから、大概、マインド・コントロールと言い放ったほうは、その信仰者が傷ついたことには気付かないものです。結果、信者ははさらに自らの信仰に答えを求めようとしてさらに深みにはまっていきます。批判言い合いすることがさらに信念を深める原因になるということです。いわば、マインド・コントロールを溶こうとする人が、さらに相手のマインド・コントロールを強める役割を演じているのです。深刻なことに、通常、そのような人は自分の過ちに気付いていません。

以上のように記してしまうと、実際にいま悩んでおられるTGSさんとしては、どうしてよいか困ってしまわれるでしょう。

私が重要であると思うのは、「どうしてよいかわからない」のは何故か、を考えてみることです。どうすることもできない自分の分析です。そこでは「相手の宗教のせいにしない」という前提で、まずこの分析作業を行ってみることです。たぶん、この作業を終える頃、TGSさんは、いまご自分が悩まれていたことが宗教問題ではなかったことに気付かれるはずです。

ここで私が記してきた富士門流に係る記述は、はっきりと申し上げて信仰をしていない人にとってはまったく無意味の、役に立たないことに属するでしょう。ただし、仏法の本質論である慈悲・菩薩道という一面のみが社会とのただ一つの接点となっています。こればかりはTGSさんの問題と解くキーワードとなり得るかも知れません。

563犀角独歩:2002/11/02(土) 09:15

【562の訂正】

誤)奥様
正)パートナー

(ジェンダーが取り沙汰される現在において、不適切な語彙を使用した点を反省します)

564菊水護国:2002/11/02(土) 14:47
万年救護の本尊といわれる本尊も、複数あるんですよね。
大日本国護衛曼荼羅、蒙古調伏曼荼羅、これらも複数あります。
どれが本物かは、決定しにくいんだよね。

565犀角独歩:2002/11/02(土) 15:30

日禅授与の漫荼羅も万年救護本尊の名で呼ばれていましたね。

566マシンX:2002/11/02(土) 15:48
>しりたがり屋さん ありがとうございます。実は私は先月妙本寺の鎌倉日櫻上人にお手紙を書いて「現在の教義について」と「万年救護本尊の御形木の下付について」お伺いしたところ、早速ご本人による直筆のお葉書にてご返事いただきました。教義に関しては、石山と大差なく、大本尊の御形木は現在出していないとのことでした。そして文末には、「毎年10月15日のお虫払いの時に大本尊を拝する事が出来るからいらっしゃい。」と締めくくられていました。私はこのご返事に大変感激しました。しかしながら、私は肝心な事を聞き忘れてしまい(現在のどなたが書写された御本尊を下付されているかについて)後悔しているところです。もし妙本寺で御本尊の下付が行われていれば、近い将来同寺に改宗しようか?等、考えております。日蓮正宗創価学会入信から現在に至るまで、「正義」と思って信仰してきましたが、最近の当局機関紙の必要以上の宗門批判、携帯本尊乱発、強引な会則変更など全く尋常ではないと思います。学会は日顕氏ら現宗門のことを「極楽寺良寛だ」等と騒ぎたてていますが自分たちも同罪、否それ以上であるとわたしは思います。

567マシンX:2002/11/02(土) 16:06
>しりたがり屋さん、菊水護国さん、犀角独歩さん、昨年の大河ドラマ「北条時宗」の最終回で身延山でのシーンで日蓮大聖人(奥田瑛二氏)の後ろに、妙本寺の万年救護本尊(もちろんこの場合レプリカというべきか?)が掲げられていましたネ。最初はきずかなかったのですが、ビデオに撮っておりましたので、後日見て大変驚きました。

568犀角独歩:2002/11/02(土) 16:15

> 567 マシンXさん:

私はテレビは見ないので、ご指摘の番組は存じ上げません。
この場面の年月は何時のことの設定でしょうか。

石山の伝説では弘安2年に興師に授与したことになっておりますので、身延に懸からないことになります。もちろん、これは石山側の伝説です。郷門の伝説となるとどのようなものか、むしろお教えいただければと思います。

なお、櫻師自ら筆を執ってくださったとのこと、ご立派な姿勢であると感心しました。

569マシンX:2002/11/02(土) 16:41
>犀角独歩さん 私は浅学で教学もないない者ですので詳しいことは存じませんが、ドラマのこのシーンは池上に行かれる直前(出発される時)でしたので、時代参考的にはオカシイと思います。ただ万年救護本尊がテレビに映ったことはスゴイことだと思います。

570菊水護国:2002/11/02(土) 23:14
あのドラマには問題がありましたので、時代考証は滅茶苦茶です。
だって、やたらと元気な大聖人が身延を離れるんだもん。
「病気で湯治に向かうため身延を下山する」のでは無く「身延から布教に向かうため離山する」に変わってました。
だから、本当の時代考証は不明です。

571犀角独歩:2002/11/03(日) 08:31

マシンXさん:

菊水護国さんのご指摘も併せると、番組上の時代設定は弘安5年となりますね。
まあ、万年救護本尊が懸かっていた可能性は低いでしょうね(笑)

> 万年救護本尊がテレビに映ったことはスゴイこと

この点で感激されているということですか、なるほど。
保田については、もっと研究されるべきであると思います。

572犀角独歩:2002/11/03(日) 12:29

571の記述、読み直すと誤解を生じかねない表現になっていました。

私が「この点で感激されているということですか、なるほど」と記したのは、肯定。それで、その前提で、富士門信徒においては、もっと「保田については、もっと研究されるべきである」という意味で記しました。

たぶん、日蓮本仏論に関しては石山より先行していたでしょうし、万年救護のみならず、不動愛染感見記など、興味は尽きません。

私も大量の保田に関する資料を入手しましたので、これからゆっくり読もうと思っているところです。

573TGS:2002/11/05(火) 01:11
>独歩さん
インターネットは嫌いらしく見ることはないはずです。

盲目的に思いこんでしまったのは私でした。

考えてみます。

574犀角独歩:2002/11/05(火) 01:56

> 573 TGSさん:

ええ、ぜひ考えてみてください。
「出口」は必ずあります。

575マシンX:2002/11/05(火) 16:00
>菊水護国さん 犀角独歩さん
ですよね〜なんと言ってもフィクションですもんね。ちなみに佐渡以前のお話では、草庵には題目七文字の紙が貼ってあって、その下に小さな釈迦像のような物が置いてありました。(所用によりレスが遅くなりました。申し訳ありません。)

576マシンX:2002/11/05(火) 16:11
犀角独歩さん、菊水護国さん、いちりんさん、そして問答迷人さん他の博学の皆様の書き込みには正直勇気ずけられております。10数年余りたった一人(家族もですが)で今の信心を貫いてきてよかったと思っています。今後も私の不勉強によりわからない点などどうか御教示ください。挨拶が随分と遅れてしまいましたが、今後もどうぞよろしくお願いします。

577マシンX:2002/11/05(火) 16:29
576誤・・・勇気ずけ 正・・・勇気づけ

578マシンX:2002/11/05(火) 16:55
>犀角独歩さん、
>私も大量の保田に関する資料を入手しましたので
是非とも、この掲示板でご紹介ください。私は日興門流のなかで日蓮正宗だけが正義だとは思えなくなりました。(もちろんこの掲示板を読みはじめてから一段と(笑))そう考えますとやはり北山、西山、日郷門流、要山、に興味が、湧いてくる訳であります。特に日郷上人は目師のお骨を持って帰られた重要なお方ですし。

579三学無縁:2002/11/05(火) 18:55
保田の資料については、千葉県史最新刊に妙本寺文書の大半が収録されました。
正信会の坂井法ヨウ師の一連の論文も同書に収録された文書を資料として使ったものですね。
千葉県史はT堂では高いですが、千葉県に問い合わせればT堂よりも2、3千円は安く買えるはずです。

580マシンX:2002/11/05(火) 19:38
>三学無縁さん
 有難うございます。

581ケン:2003/03/04(火) 19:43
いきなりで申し訳ありません。
このサイトのことは、つい最近知りました。
30〜40年以上前に創価学会の活動をしていた者です。
少なくとも最近25年間は、創価学会系の出版物を1点も
読んでいませんが、このサイトをざっと拝見し、若干、
質問をさせていただきます。
「過去の記録」に飛ぶことができなかったので、すでに
話題になっているかもしれませんが、その場合は、
お許しください。

1.創価学会の正当性の「教学的」な理論構成
創価学会が大石寺と離れた場合に、創価学会の宗教的な正当性を
説明可能な理論構成が、ボクには想像することができません。
創価学会の正当性を教学的に説明している書籍(簡単なもの)を
ご紹介ください。

2.池田さんの宗教的立場の「教学的」な理論構成
大石寺と離れた後の池田大作さんの宗教的立場は、
変化しているのでしょうか。変化している場合、「教学的」な
説明はどうなっているのでしょうか。
例えば、池田本仏論的な議論が、組織内で浸透しているのでしょうか。
書籍があれば、ご紹介ください。

なお、創価学会では、外部に公表している出版物の内容とは
ニュアンスの異なる内容を座談会などで説明する傾向が
あったように思います。
池田さんの宗教的立場について、書籍類などの内容とは
異なることが組織内部で、口頭で語られている場合には、
池田さんの宗教的立場を「教学的」にどのように
説明しているのか大変興味があります。
その内容をお教えください。

3.ポスト池田の「教学的」な理論構成
池田さんには、ご子息がいらっしゃったと思います。
宗教的指導者の立場の世襲が、予想されているのでしょうか。
あるいは、宗教的指導者の立場を引き継ぐ方が、
別に予想されているのでしょうか。
ポスト池田に関する「教学的」な理論構成を紹介している
書籍があれば、お教えください。

582みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/03/07(金) 20:59
>>581 ケンさん
1ですが、『教学の基礎』(創価学会教学部編 聖教新聞社 2002年)952円が参考になるかと思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4412011771/
また、カトリックと対話した、『カトリックと創価学会』(南山宗教文化研究所編 第三文明社1996年)2136円も参考になると思います。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4476032001/

2ですが、三代会長論(牧口、戸田、池田の三代会長を絶対視する)という論理構成になっているようです。『教学の基礎』をご覧下さい。

口コミレベルのことについては、私にはわかりませんので、現役創価学会員が多い掲示板で聞いて頂くのが良いと思いますが。

3については、創価学会側にはそういうことについての書籍や資料はないと思います。

583ケン:2003/03/09(日) 22:31
みかんさん
とりあえず、『日蓮の真実』(小林正博 第三文明社 2003年)と、『教学の基礎』(創価学会教学部編 聖教新聞社 2002年)を入手しました。
有難うございました。

584ケン:2003/03/11(火) 22:22
創価学会にとって(及び他の富士門流にとっても)、偽書あるいは疑書問題(二箇相承、日蓮本仏論など)は、重要な問題であるとボクは思っていました。少なくともボクにとっては、創価学会を信じられるか否かの重要なポイントでした。

みかんさんの解説から想像するに、少なくとも創価学会は、現在でも、この問題に組織的には取り組んでいないようですね。創価学会は、大石寺との差別化が必要なハズですので、いずれは、この問題に踏み込んでくるかもしれないと想像しているのですが、どうでしょうか。この問題を、一般信徒に対して、或る程度は正面から取り上げているグループが、富士門流に存在するのでしょうか。もし、取り上げているグループがあれば、どのように乗り越えようとしているのか、その内容に興味があります。

585福田里敏:2003/03/28(金) 22:55
本門法華堂が、本仏論の否定をし、正しい信心をしていますよ。また、偽書に関しても、関慈謙師が教えて下さいます。
僕は、学会員ですが、先日、法華堂の法座に行きました。とても、御書講義が判りやすく、質問にも、丁寧に答えてく
れました。

586ケン:2003/04/02(水) 21:35
福田里敏さま
情報を有難うございます。「本門法華堂」のことは、名称もまったく知りません。どのような経歴の団体でしょうか。ホームページはないようですが、関連のサイトがあれば教えてください。
なお、ボクは、今は無神論者なので、正しいか否かには関心がありません。日蓮教学を多少かじった者として、偽書・疑書問題をプロ(創価学会などの各教団の幹部や富士門僧侶)がどのように克服していくのかに興味を持っているだけです。

587地獄しか知らぬ者:2003/04/02(水) 21:40
この世は本当に「無情そのものです」。 何をやっても「失敗ばかりの落ちこぼれの連続の地獄野郎」です、。
 自分の人生には絶望的ですが「人間の世界には、まだ少々未練が残存している」者です。
 人間界所具の「仏」というものは「いかなる心理と体現」が可能なる「状態」なのでしょうか、、??
 「悪に屈しない精神なのか、苦悩には埋没しないで前向きになれるのか、?
 弱者への応援精神豊富なのか、、?、、」 どの対境ならば「仏」を体現可能でしょうか、、?? 何とか知りえたいものですが、、。

588みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/02(水) 21:45
>>586 ケンさん
http://web.archive.org/web/20020204094633/http://www.hokkedo.org/index.html

法華堂のHPの跡地。法華堂は正信会の分派です。

589福田里敏:2003/04/02(水) 22:34
みかんさん。HPの紹介、ありがとうございます。僕も、近々、HPを開設しようと、考えています。

590ケン:2003/04/04(金) 23:03
みかんさん
いつも有難うございます。
色々な分派ができているようですね。
大石寺系の分派の系統図を掲載しているHP又は書籍はありませんか。
もしなければ、みかんさんに作成をお願いするというのは虫がよすぎますか。

591みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/05(土) 21:58
ちょっとわかりません。
また私は、そういったテーマには詳しくないので、他の方の方が適任かと思います。
一応作ってみましたが、間違っていたり足らなかったりすると思います。一応ご参考まで。


日蓮正宗
創価学会
顕正会
正信会

日蓮正宗に併呑されたが独立した古刹
富士山本門寺(西山)
保田妙本寺

日蓮実宗(大阪・蓮華寺)

正信会から別れた派閥
本門法華堂
大阪・蓮華寺(久保川法章)

第二次宗門問題で日蓮正宗を離れた僧侶グループ
憂宗護法同盟
日蓮正宗改革同盟
青年僧侶改革同盟

その他
本門正宗・富士山本門寺(小野寺日了(小野寺直))
妙法蓮華宗・光寺(玉井日禮(玉井禮一郎))
正理研究会、平和神軍(中杉弘)

592ケン:2003/04/06(日) 21:34
みかんさん
いつも有難うございます。半分近くは初めて見る名称です。
ところで、「第二次宗門問題」は、何時ごろ起きたどのような騒動でしょうか。
「憂宗護法同盟」の方々は、自分達の方から出て行ったのでしょうか。

593みかん</b><font color=#FF0000>(z8VoUpnM)</font><b>:2003/04/07(月) 01:21
追加。中杉弘氏の本名は、黒須英治氏です。

第二次宗門問題は、日蓮正宗宗門・阿部日顕氏が、池田大作氏および創価学会を破門にした一連の騒動です。(第一次は細井日達氏晩年の、正信覚醒運動のころ)
http://www.uranus.dti.ne.jp/~yuugeki/nitiren-kiso.html#f 参照。

憂宗護法同盟の人たちは、自分から宗門離脱したのだと思います。
よくわからないのは、改革同盟とのちがいです。日蓮正宗改革同盟および
青年僧侶改革同盟は、100%親創価学会のようですが、憂宗護法同盟は
かならずしもそうではないようです。

594妙薬:2003/04/07(月) 12:28
 みかんさんご無沙汰しています。また、折を見てオフ会を開いてください。
 さて、第二次宗門問題(宗創抗争)ですが、平成3年頃でしたね。私は法華講信徒の立場でしたが、創価破門に驚かされた覚えがあります。あれから10年余、早いものです。
 個人的にはその時こそ、弘安2年の大御本尊を信奉する顕正会、正信会は宗門に復帰すべきだったと今も思います。「小異を捨てて大同につく」、言葉は簡単ですが現実には難しいことなのですね。
 ケンさんはじめまして。HPや書籍は知りませんが、その辺の事情に詳しい人はたくさん知ってます。もう少し関連書籍などで勉強されてから、知識豊富な方をたずねられたらよいと思いますが。

595ケン:2003/04/12(土) 20:28
みかんさん
教えていただいた「創宗戦争の基礎知識 北のりゆき」を読みました。説得力のある文章で大変参考になりました。

妙楽さん

勉強不足ですみません。少しは自分でも調べようと思って「憂宗護法同盟」で検索したら、以下の論文「顕正会とは何か」がピックアップされ、その論文の末尾に「日蓮正宗系教団系統図」が掲載されていました。とりあえずご報告まで。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho34/s34_140.htm

596仲村 英彰:2003/04/24(木) 21:37
宜しく、、::。実は実母・実妹が学会のガリガリで「実母は友人葬でまかせてくれ、、」といわれ「葬式はアマではなくプロにまかせるべき、、」と「家庭内宗教戦争」の状態です、、。
 学会の「ダマシのテクニックですっかりだまされてワシの言い分も聞きません、、」、、。 「友人葬」は「宗教的には、どのように判定されるものでしょうか、、??」。 宜しく、、。

599無明者:2003/04/29(火) 18:22
略:: これは120%で「洗脳結果状態」でしょう、、。 「ある方を990%褒め称え、自民党とガッチリの”公明党”の支配者は、、、??」。そうです「大?先生サマに”身も心”も捧げるように”誘導”された方々ほど」「コワイ方々外にはおりません、、」「今や権力の中に入り”国税をクイモノに出来る地位”を確保したようです」。 これからは「キビシイ弾圧が強行」されましょう、、、か、、??。 「家庭内宗教戦争」では「済まない」でしょうか、、?? 恐ろしい「団体」が「すでに99%制圧」したようです、、??

600聞いてくれます?:2003/05/12(月) 00:27
ちょっと聞いてくれますか。(愚痴を)
宗教とは関係ないのですが。
私は都内に神奈川から通勤しているサラリーマンです。
10年前に社会に出て依頼、不況を実感してます。
宗教から見て今の日本をどのようにすれば良くなるのでしょうか。
日蓮さんの時代は難といって、時の権力と戦っていたようですが。
90年の年末、宗門問題が起こり、時同じ頃バブルがはじけてしまって。
就職した頃からいいことはありません。
日本の景気回復と日顕宗の問題は同じくらい先が見えません。
絶対的な幸福とよくいいますが、絶対的ではなく絶対な景気回復と宗門の解決を教えて下さい。
どうすれば・・・。

601孤独な迷子:2003/05/12(月) 06:49
おはようございます。

「妙とは蘇生の義なり」という御文がありますが、かつて死んだ人間でも息を吹き返すのだと聞いたことがありますが、本当にそのようなことがあるのでしょうか。

602問答迷人:2003/05/12(月) 08:14

孤独な迷子さん こんにちは

日蓮聖人が、母親の重病を祈って、命を延べたという事は、有名ですが、僕は、30数年信仰してきましたが、残念ながら、実際にはそのような事例に一度も出合ったことはありませんし、そのような具体的な話を聞いたこともありません。

603福田里敏:2003/05/17(土) 13:16
現在、Yahooオークションに、大聖人の真筆の御書のレプリカの巻物が、数点出品されていますが、出品者に聞いても、出所不明との事ですが、これらは、どこで出されたものか、ご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて下さい。お願い致します。

604孤独な迷子:2003/06/09(月) 17:28
問答迷人さん、こんにちは。

超遅レスになってしまいまして申し訳ございません。

>601,602

やはりそのようなことはないのですね。

この話は、所属する寺院のご住職が、5,6年前の御講の席で話されたものです。あまりにも突飛なことだったので記憶に残っていたのですが、私の聞き間違いだったかも知れませんね。

お騒がせしてすみません。

605いちりん:2003/06/14(土) 13:21
日蓮さんも、自分が死んだ後、ここまで信徒が増えるとは思いもよらなかったでしょうか。
そうして、これだけの信徒らしき人たちのありさまをみて、喜ばれたでしょうか。
あーだこーだと自分をめぐって日夜、各地で論議されていることを、どう感じられるでしょうか。

606いちりん:2003/06/14(土) 13:28
たぶん、ですけど。
おもしろいなあと思うのは、いろんな日蓮さんを信奉する教団がありますが、それぞれホンモノの日蓮さんがあらわれたら、きっと困ることになるんじゃないかと思いますね。

だから、もしもあらわれたら、どこかに閉じこめてしまうんじゃないかと。
自分たちの教団にとって、ホンモノの日蓮さんがいたら具合が悪いので。

これはもう、すべての宗教に通ずることかも知れませんですね。
キリスト教の教団にとって、ホンモノのイエスがあらわれたら都合が悪い。
真言宗に、空海があらわれたとら、とても困る。

宗祖でなくても、まあ創価学会にもとも戸田さんがあわれたら、やはり具合が悪いので、どこかに閉じこめて衆目にさらさせないようにすることでしょう。

宗教って、祖師をものすごく敬うわけですけど、それはすでに死んでしまっているので、自分たちに都合のいいふうにとらえた祖師を大切にしているわけでしょうね。
だから、生きたホンモノの祖師があらわれると、ものすごく都合が悪い。とても危険です。

祖師を敬い、拝みながら、その祖師の心を殺してしまうということも、ありえるんでしょうね。
それがけしからんということじゃなくて、宗教ってそういうものかなあとも思うのです。


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