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素朴な疑問
551
:
菊水護国
:2002/11/01(金) 09:42
江戸時代まで、浅間神社は大石寺が管理してました。
神社には出家がおりません。ほとんどが、在家の掛け持ちでした。
職としての宗教儀礼執行者がいないのです。故に職としての執行者(僧侶)が神社の面倒も見てました。
神仏分離令が出るまでは神社には、僧官と神官が並列してました。
神官は神様のお食事を運び、僧官は各種祈念を申し上げました。
神天上の法門とは「邪宗の僧侶(なかんずく真言僧)がその神社に在籍しているから諸天が去る」と言う意味であり「邪宗の僧侶在籍しない神社には、法華守護の神は戻る。もっと進めると、正法の執行者入ることが好ましい」という意味があるように思われます(堀上人の神社論にも類文があります)。
そして、僧官を派遣していた寺が、その神社を管領してました。
寺院に本地堂(本堂)があれば、垂迹堂があるのも当然です。
浅間神社が大石寺の下に入った時、大石寺内の垂迹堂が無くなったと思われ、その後は浅間神社自体が、大石寺の垂迹堂になったのでしょう。
当宗でも他宗でも同じ事が全国末寺にあります。旧寺院の傍に結構神社があるんです。
間違いなく、垂迹としての神社勧請はどんな宗派にも維新期前まであったのです。
神仏分離令はその伝統を壊しました。
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